Sleaford Mods ジェイソン・ウィリアムソン 暗闇からの脱出

そもそも、ミュージシャンの創造力の発揮に適齢期というものは存在するのだろうか。一般的には多くのアーティストのクリエイティヴィティの最盛期は30代中盤に訪れると言われている。

これまでの既存のロックシーン、ポップス、ラップシーンにおいてはやはり若いというのは一つの強みであった。大半のプロミュージシャンは、十代、二十代頃にはデビューし、代表的な作品をひとつかふたつ世に送り出し、そのクロニクルを活かし、後々の活動へ繋げてゆく。昔、カート・コバーンがロックスターの教科書のようなものがあればよかったのにという主旨の言葉を残しているが、今日のミュージックシーンでは、この教科書の役割を持つスターダムへの約束事のようなものがアーティストの目の前に用意されているように思える。何歳までに、これこれのことをやり、何歳までにあれをやり、そして、何歳までにそれをやるべき、などといった、ミュージシャンとして、理にかなった言い方をするなら、スターダムへ繋がるルートが用意されていて、多くのアーティストたちは、このスターダムへのチケットを人生のどこかで手に入れ、見失わぬよう躍起になる。多分、きっと注意を欠かさなければ、その人の手の中にチケットはありつづけるはずだ。

 

しかし、これらのミュージシャンとしての約束事は、一般的な話であって、全ての人に当てはまらないのかも知れない。そのことを証明付けるのが、英国、ノッティンガムのポスト・パンクアーティスト、スリーフォード・モッズのジェイソン・ウィリアムソンである。


ウィリアムソンは、40を過ぎてアーティストとしての地位を確立し、ようやく、50を過ぎて、代表作「Spare Ribs」を世に送り出し、一躍、ポストパンクの新星としてイギリスのミュージックシーンのスターダムに躍り出た人物だ。ジェイソン・ウィリアムソンは何かを成し遂げることに年齢は関係がないことを私達に教唆してくれている。

 


 

2005年、ウィリアムソンは、後にデュオとして活動を行うことになるポストパンクとラップの中間点をなすプロジェクト「スリフォード・モッズ」としての活動を始めたが、現在のスリーフォード・モッズの楽曲制作の中心的な役割を持つようになる人物、その後の相方ともいえるアンドリュー・ファーンとはまだ運命的な出会いを果たしていなかった。現時点から振り返ると、ジェイソン・ウィリアムソンの先ゆく道には、明るい光が差し込んでいる。だが、当時のウィリアムソン氏にはそのようには思えなかった。全ての物事は上手く運ばなかったのだ。

 

「当時は、スリフォード・モッズのために、なんとか然るべき音楽を見出そうと苦心していたため、いくらか自暴自棄になっていました。ドラックをたくさんやり、酒を飲んだり、私は、本当に無責任な人間でした」


ウィリアムソンは、後になって当時のことをこんなふうに振り返っている。「正直、私はあまり良い人間とはいえなかった。当時、人に誇れるようなことは何一つしませんでした。なぜなら、私はあまり明るいタイプの人間でないからです。それにつけても、当時、私に対する人々の態度というのも、あんまり良いものではありませんでした」

 

2000年代のジェイソン・ウィリアムソンの人生には、音楽家としての道のりだけでなく、日々の労働という壁が立ちはだかった。 シェフ、工場、低賃金の仕事の時代が到来。その間、ジェイソン・ウィリアムソンは、労働に従事しながら、スリーフォード・モッズの活動に一縷の望みを見出そうとしていた。(2009年までに、三枚のフルアルバムとEP、そして、シングルをリリースした)しかし、当初それは歪んだ形で表面上に表れ出て、彼は自分の人生に対して苛立ちをおぼえていたようである。


「まあ、つまり、そこで、Facebookが役立ったというわけなんです」とウィリアムソンは語る。

 

「私は、久しぶりに、当時のタイムラインをたどってみたところ、2004年から2009年の間に、多くの自分の行った投稿を見つけることが出来ました。すべてのステータスの更新は、あらためて見ると、非常に恥ずかしいものでした。すぐ見るのを辞めたくなるような類の投稿で、今見ると凄く間違ったことのように思えました___」

 

ジェーソン・ウィリアムソンは、このように日々の苛立ちのような感情をFacebookを介して抑えようと努めていたものの、それは五年間、上手く行くことはなかった。ところが、ジェイソン・ウィリアムソンに逆転ともいえる人生の転機が訪れる。重要な人生のパートナーとの出会い、つまり、2009年、彼は、現在の妻のクレアと出会った。

 

「ええ、7月、妻と出会ったことにより、悪い状況は、良い方向に転じ始めました。運が良かったのですよ」と、ジェイソン・ウィリアムソンは、当時のことを振り返っている。


「あの当時は、仕事も私生活も非常に大変でした。しかし、彼女は、本当にそれらの労苦を脇において、私のことをすべてサポートしてくれましたよ。ーーまず間違いなく、彼女は私の命を救ったのです。もし、彼女に出会わなかったらどうなっていたでしょうか、私は自分の人生を台無しにしていたことでしょう。もちろん、言うまでもなく、スリーフォード・モッズ自体にもチャンスはやってこなかったかもしれません」

 

その後、ジェイソン・ウィリアムソンの運命は、後、スリーフォード・モッズのメンバーとなる、もうひとりの重要な音楽上のパートナーに出会ったことによって前進し始めた。

 

「あれは2010年10月14日のことでした。相方のアンドリュー・ファーンに会い、ジョン・ウィースと呼ばれるロサンゼルスのノイズアーティストのサポート・アクトを務めたんです。当時、アンドリュー・ファーンは、UKのアンダーグランドシーンでDJをやってました。これは、私の周りでは、誰でも知っているような話ですよ。そのあと、クリスマス直前に、彼と再会して、「All That Glue」という曲を一緒に作りました。でも、2011年の初めまで、連絡を取ることはありませんでした。それから「Austerity Dogs」の曲を一緒に書きはじめました。後に、それらのトラックを「Wank」というアルバムに収録することに決めました。 ええ、2012年の夏頃のことです」

 

その後、スリフォード・モッズとしての作品制作、および、ライブアクトを続けていく中、ジェイソン・ウィリアムソンは、プロのミュージシャンとなるべく、それまでの仕事をすっぱり止める日がやってきたのだった。

 

「ええ、あれは、ザ・スペシャルズのツアーに行く直前の2014年9月でした。最終日に仕事を辞めたのを今でもはっきり覚えていますよ。私は仕事を辞めて、グラスゴーに直行、ホテルに予約を入れて、ホテルの部屋の床のバッグにバッグおいたところ、突然、「ああ、これはきっと新しい仕事だ!!」そんなふうに気がついたんです。多くの点で、私はそれまでの仕事からまったく別の仕事に移行しましたが、明らかに、私はバンドで歌い、当時、英国内で、一、二を争う最も有望なバンドに在籍していました。しかしながら、私はその後もなんらかの形で働きつづけなければならなかったんです。おわかりの通り、もちろんこれはオアシスの初期のようなサクセスストーリーを話しているわけではありません。なぜなら、当時、スリーフォード・モッズのレコードは、ほんの数千、数千のレコードの売上しかありませんでしたから」

 

「月曜日から金曜まで・・・」とウィリアムソンは当時のことについて以下のような振り返っている。


「仕事の制服を着ていない状態で九時から五時まで働かないようにするのに、少し時間がかかった覚えがあります。おそらくですが、6、7ヶ月はかかったのではないでしょうかねえ。で、それから、私はその新たな人生の最中になんとかするすると滑り込んでいきました。それでも、私は、なんとなくなんですが、少しだけ前に進んでいるように思えました。「あっ、これは新しいことだ!!」そう思ったのは、以前の習慣のひとつであったお酒をすっぱり辞めたときでした」

 

2016年はジェイソン・ウィリアムソンの人生にとって一種の再生の時間を意味した。そして、のちのスリーフォード・モッズのデュオとしての分岐点となった年でもある。

 

「爾来、私は完全に酒を飲むのをやめました。それから、ドラッグの服用もやめました。その後、喫煙をするのもすっぱりやめました。今、振り返れば、あれはなんらかの絶対的な天からの啓示のようなものではなかったかと思いますねえ。その時、私には何をしていたのか定かではないですが・・・つまり、あの瞬間がプロのミュージシャンとなった始まりだったんだと思います。

 

ええ、それはある程度、私の人生と音楽すべてに良い影響を与えましたが、2017年のイングリッシュタバスのレコーディングの途中でふと立ちどまってしまいましてね。それは、アルバム自体に何よりも顕著に示されてますよ。多くの人々は、この作品を少しだけ印象が弱いものと考えているようですが、でも、私としては、この作品をクリエイティブ面での再生というようにみなしていました。そこには、音を少し変え、引き伸ばした曲が収録されてます」

 

その後、彼らは、スリーフォードモッズの代表作「Spare Ribs」をイギリスのインディペンデント・レーベル、ラフトレードからリリースを行なった。それまでの経緯について、事実上、二年間の休暇があったと、ジェイソン・ウィリアムソンは語っている。


「その間、いくつかの音楽フェスティバルに参加しましたが、正直、あまり実感というべきものは湧いてきませんでした。もうバンドをやっているという気もしなかったですし。それでも、単純にライブツアー自体が私達がお金を稼ぐ事ができる唯一の方法でしたので、あの当時、常にツアーに出ていましたよね。それなしでやっていくことは難しい相談だった。中には、中止しなければならない計画もたくさんあったんですから」

 

その間、彼の癒やしとなったのが「ベーキング・パパ」と呼ばれるパフォーマンスだった。ジェイソン・ウィリアムソンがエプロンだけを着て、様々なケーキやパン、ブラウニーを手探りしながら作る、というオンラインビデオだ。このユニークなビデオについて、ウィリアムソンは以下のように語る。


「ええ、あのオンラインビデオは、家で退屈していたところから始めたんです。私達は、毎日の配信を一時間以上は許可されていませんでした。でも、正直、あれはかなり強烈でしたよねえ。誰もが自分の携帯電話を持っていて、文字通り、スクリーンの中に住んでいるような気持ちだったの覚えています。そんなものですから、無駄に感じることは何もありませんでした。自分自身を楽しませる方法を見つけようとしたのですから」


昨年、傑作「スペアリブ」をリリースしてから、彼は、年末に故郷のノッティンガム、リバプールをはじめとするイギリス国内の大規模なツアーを行い、大好評を博した。彼がリバプール公演後にパワフルな動画をファンに届けてくれたことを私は決して忘れない。今後、スリーフォード・モッズのアーティストとしての知名度は、ワールドワイドになっていくと思われるが、この最新作のスペアリブについて、ジェーソン・ウィリアムソンは以下のように述べている。


「最新作のスペアリブは自分でもかなり成功したという気がしますが、ライブでバックアップを行ってないため、多少冗長な気もしているんですよ。アンドリューは多少この作品についてかなり気分を良くしてると思いますがね。


まあ、しかし、それでも、あらためて当時のことについて考えてみますと、私にとっては、今起きていることのすべてが無茶苦茶のように思えるんです。ええ、何しろ、私は、既に51歳になっているんですからね・・・、例えば、中年の機能不全とか・・・、いえ、やめておきましょうよ。今、私が真摯に取り組んでいる仕事については以前からしてみれば全然想像できないことのように思えますね。それでも、最近、ようやく、以前のようなネガティヴな境遇から抜け出し始めたことだけは確かです」


ジェーソン・ウィリアムソンの全盛期は50歳を過ぎて到来した。いや、今まさに暗闇から抜け出ようとしているところなのかも知れない。スリーフォード・モッズの音楽が何より素晴らしいのはジェイソン・ウィリアムソンの人生の深みや渋さがその音楽性にありありと滲み出ているからでもある。ジェイソン・ウィリアムソンは、常にライブパフォーマンスにおいて全力で真摯に取り組み、活発なパワフルさで多くのファンの心を魅了しつづけている。きっとおそらくそれは、彼の痛快なスポークンワードのタフさに聴衆が大きな憧れを抱くからなのだ。

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