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yo la tengo


ヨ・ラ・テンゴは、アメリカのニュージャージー州のオルタナティヴ・インディーロック・バンド。さらに細かなジャンル分けでは、ローファイ、ドリームポップというように称されることもあります。

1984年から現在まで、幾度かメンバーチェンジを繰り返しながらかなり長い活動を続けているアーティスト。その活動の長さ、しぶとさから、アメリカンローファイのドンといってもいいかもしれません。

一般的に、ロックバンドというのは、ある影響力の強いひとりふたりの人物を主体として展開されていく表現活動の形態と思われ、バンド内の重要な人物が脱退したりすると、以後の活動を維持するのが困難になることがある。

そこで、フロントマンではない人物が抜けたとたんに、全然別のバンドになってしまったりすることもあります。また、売れた途端に、いきなりそれまでの勢いを失い、一旦、花開いた才覚が急にしぼんでいってしまうような悲しき運命にあるロックバンドも多い。

その点、ヨ・ラ・テンゴだけは、上記の言葉、派手に売れないことにより、今日まで音楽性においてたゆまず成長を続けてきた非常に安定感のあるインディーロックバンドといえるでしょう。

もともとが外向きな音を奏でるバンドではないからか、人が入れ替わっても、音楽性についてはなんら変わりません。

三十七年という長年月に渡り、売れて第一線に出ようと思わず、良い音楽をアンダーグランドでひっそりと作り続けているのが、ヨ・ラ・テンゴというバンドの良さです。

そして、その三十七年という年月で培われた強固なローファイ精神が、噛めば噛むほど味が出てくる深遠な音楽性を強固なものとしているのでしょう。

 

ヨ・ラ・テンゴの音の特徴というのは、いわゆるサーフロックで使われるようなリヴァーブディレイ感満載のギターの音色。そして、マイ・ブラッディ・ヴァレンタインを思わせるオールドタイプのアナログシンセの使い方、そして、そこに浮遊感のある力の良い具合に抜けたボーカルが器楽風に漂っている。

どことなく彼等の音楽というのはぼんやりしていますが、温かみのある心にじんわりしみる音楽で、聴いていると、穏やかな気分になることができるはず。

やはり長年の功ともいうべきか、音楽性の品の良さと、間口の広さを感じさせます。ごく普通のシンプルなポップ/ロックソングをその音楽性の主体としていますが、サンプラーを使ったエレクトロニカ風の楽曲であったり、また、スムースジャズ風の曲もありと、きわめて多彩な音楽性を感じさせます。

たとえば、ギャラクシー500,シー・アンド・ケイクあたりのいかにも、アメリカンローファイの風味を持ち合わせているのがこのバンドの正体といえ、とくに、このヨ・ラ・テンゴは、非常にメロディーの才覚が他のインディーロック、ローファイ界隈のバンドに比べて抜きん出ているのが強みでしょう。 

 

「And Then  Nothing  Turned Itself Inside-Out」

 

スタジオアルバム「And Then Nothing Turned Itself Inside-Out」は、彼等ヨ・ラ・テンゴの分岐点ともなった作品であり、それから持ち味の甘美なメロディーというのを押し出していくようになります。


それはのちのアルバム「Today Is The Day」によって完全型となりますが、いわゆるあらっぽいローファイの風味から、ポップ色を打ち出したバンドへ移行するさいの橋渡し的な役割を果たしたのがこのアルバムです。

一曲目の「Everyday」では、スロウコア的な少し陰鬱な感じのある楽曲が展開されますが、それは全然暗い気持ちにさせずに、雰囲気たっぷりに、その音の深い世界に聞き手をやさしくいざなうことに成功しています。

また、「Let's Save Today Orlando's House」は、英国のベル・アンド・セバスチャンを彷彿とさせるような清涼感のある名曲です。

このまったりした雰囲気、長調から短調に移調が行われるときの、甘く切ないボーカルのニュアンス、そして、スタジオアルバムでは、マイブラのラブレスで使用されているようなエレクトーンのモジュレーションがとてもいい雰囲気を出している。

まるで、あたたかな水の上にぷかぷかと浮かんでいるかのような感じともいえばいいでしょうか、このなんだかわけもなく心地よい雰囲気というのは、ヨ・ラ・テンゴにしか醸し出し得ない独特な音の質感でしょう。

そして、このアルバムをユニークな風味たらしめているのが、「You Can Have It All」の一曲。

これは少しドゥワップのようなバックコーラスと、その合間に漂う甘く切ないボーカル。そこに引き締まったドラミングが加わり、非常にリズム的に面白いニュアンスを生み出しています。

ブレイクを挟んでから、またこのリズムが再開されたりと遊び心も満載、そこにはホーンが加わったりとゴージャスな雰囲気もあります。スタジオでの長時間のジャムセッションの延長線上に生みだされたかのような曲ですが、神経質にならず、この余白のあるまったりした音楽性がとても良い。

その他にも、「Tears Are in Your Eye」は、オールドスタイルのフォークを踏襲したかのような楽曲、これもサイモン&ガーファンクルのような古き良き時代のアメリカの音楽を思わせていいです。

「Cherry Chapsticks」では、シューゲイザー的な音楽への接近を試みていたり。「Tippo Hippo」では、シカゴ界隈のロックバンドが奏でるようなエレクトーンを使用した渋い音楽にも果敢に挑戦している。

このアルバムのラストを切なく彩っている「Night Falls on Hoboken」も往年のアメリカのフォークを思わせるような名曲。

終盤にかけては壮大な世界観に通じていきます。このアウトロのベースの渋さと、ドラムのサウンドエフェクトの巧緻性が印象的であり、実に壮大なエンドロール的な雰囲気を醸し出しています。

Gang of Four


 

ギャング・オブ・フォーは、一般的にニューウェイブ・ポスト・パンクの代表格としてよく挙げられる英国の四人組のロックバンドです。

 

ギャング・オブ・フォーの中心メンバー、ギタリストのアンディー・ギルは、前年、多くのファンに惜しまれつつ亡くなりました。

 

今、思えば、彼というギタープレイヤーは、ジェフ・ベックやヴァン・ヘイレン、もしくはアンガス・ヤングのようなテクニカルタイプのギタリストではないです。しかし、ギターの独特な新しいストローク法を生み出し、”カミソリのようなギター”と一般に称されるソリッドで硬質な斬新な技法を追求し、性急なジャキジャキというカッティングを特徴とする歴史的な名プレイヤーでした。

 

また、このバンドでアンディーギルの硬質なギターと共に、主要なバンドイメージを形作っているのが、ベーシスト、デイブ・アレンでしょう。彼の、ファンクを下地にしたフレージングは、パンク・ロック界隈にとどまらず、音楽史としても革新的な意味をもたらしたのは事実でしょう。

 

アレンのベース演奏というのは、レッド・ホット・チリ・ペッパーズのフリーに引き継がれていき、彼のベースのスラップ奏法(指弾で弦をビンとはじくように奏でる演奏法)に影響を与えたことでも有名です。 

 

 

 「entertainment!」1979

 

 

 

 

このアルバム、一曲目の「Ether」から炸裂する跳ねるようなベースのクールさには打ちのめされること間違いありません。

 

アンディ・ギルのおよそ他のレスポールとかでは醸し出し得ないジャズマスターのような硬質なカッティングギターもスタイリッシュな響きがある。そして、ドラムの巧みなタム回しによって曲がスリリングに展開されていきます。 

 


「Natural's Not It」

 

アンディーのカッティングが非常に癖になる曲で、どことなくスカやダブ的な味わいのあるトラック。 ここに掛け合いのうに乗ってくるディーヴォのようなコーラスというのもどことなく爽やかさが感じられて、からりとした質感があります。シンプルなのにかっこよいというのがこの楽曲の良さでしょう。

 

「Not Great man」

 

バス・ドラムのリズムからはじまり、そして、アンディ・ギルの尖ったギターが非常に印象的な曲。ロックファンクという新しいジャンルを開拓した曲であり、この曲というのはレッチリあたりのバンドに与えた影響というのは計り知れないでしょう。

すべてが完璧! としかいいようがなく、実に音楽をよく知る演奏者にしか紡ぎ得ない玄人好みの音、そしてそれが先鋭的なニュアンスを持って表現されてます。

そして、このアルバムで独特な雰囲気を醸し出しているのが、最後の収録曲「Love Like Anthrax。

ここではロックバンドとして、ノイズのクールな響きというのを追求している。しかし、ここにありありと聴こえるのは、騒音としてのノイズではなく、それと正反対の正確のあるノイズの静寂性という何か。

 

そこには、異常な緊迫感に富んでおり、この格好良さというのは比類なく、Public Image Limitedであったり、もしくは、NO NEW YORK界隈のノイズバンドのような実験性があり、他のニューウェイブあたりのバンドも見渡してもかっこよさは頭一つ抜きん出ています。 

 

このGang Of Fourの名盤「entertainment!」は、未だ他のバンドとはどれとも似ていないオリジナリティの高い音楽性を有している。

 

また、故、アンディ・ギルの往年の鋭いクールで洗練されたギタープレイのクールさというのが心ゆくまで堪能できる作品となっています。


Deerhoof 「The Runners Four」


アメリカ、オレゴン州ポートランドには「Kill Rock Stars」という、まあ、いってみれば身も蓋もない名前のレコード会社がありまして、インディーズレーベルとしては著名なレーベルで、個性味あふれるリリースを三十年間続けています。

まあ、そのあたりの事情はあまりくわしくないのでよくわからないですけれど、こういうネーミングライセンスを申請するときに、何かしら問題というのはおきないんでしょうか。日本では、この過激きわまりない会社名は法人として罷り通らなそうなものですが、そのあたり、どうなんでしょう? 

さて、この「キル・ロックスターズ」に所属する代表的なアーティストは、インディー界の大御所のひとり、エリオット・スミス。この人は、どことなくR.E.Mのようなカレッジロック風の味わいのあるフォーク音楽をやっていて、日本ではあまりその名を知られていないアーティストなんです。

アメリカ国内では、結構、人気のあるインディーロックミュージシャンのひとりです。ただ、エリオット・スミスは良い音楽を奏でているのはわかるんだけれども、ちょっと個人的にはいまいちその良さがまだ掴みきれていない。アメリカ人にしかわからないニュアンスというのがあるんでしょうかねえ。

 

そして、このDeerhoofというノイズロックバンドも、初期から中期にかけてはこのレーベルからリリースを行っていた代表的なアーティスト。

 このディアフーフというロックバンドの目をひくところは、紅一点の形で日本人女性ボーカル、マツザキ・サトミが参加していることでしょう。彼女は、このバンドの個性的な音楽性にかわいらしい風味を加えています。サトミさんの声はどことなく少年ナイフ(飲茶楼でめちゃうまかろうの曲で有名)に近い雰囲気があるかもしれません。

この活動中期のアルバム、2005年リリース「The Runners Four」は、ディアフーフらしく可愛らしい雰囲気が感じられる作品で、約一時間、めくるめくディアフーフワールドが展開されており、まるでベスト盤のような聴き応えです。

一曲目から、スピーディに、くるくると展開されていくのは、ジャンクロックというべきか、多種多様な音楽の要素をごたまぜにしたロックミュージック。そこには、ビートルズ、ストーンズのような古典的なロックミュージックの影響もありながら、また、初期ピンク・フロイド、シド・バレットの系譜にあたるサイケデリック・フォーク色を持ち合わせているのが特徴。またジム・オルークの奏でるようなノイズ感のある前衛的なフォークの雰囲気も持ち合わせています。

先程、デノンのオーディオで聴いてみましたが、やはり、言葉ではなかなか説明できないところがあり、ためしにいっぺん聴いてくれとしかいいようが無し。たしか、活動後期は、ポップ性の高い音楽だったと完全にディアフーフをなめてかかり、いきなり、イントロのベースの低音の「ブワン」という出力具合にビビり、飲んでいたコーヒを少し喉のあたりにつっからせてしまいました。

ポップの括りで紹介されていることが多いですが、これは、絶対、ポップ音楽ではない。とすると、やはりどちらかといえば、ロックバンド寄りといえるのでしょう。たしかに、ディアフーフの楽曲というのは、スタンダードなロックを思わせる曲が多く、クリーントーン風のギターというのがはつらつとした輝きを発しており、そして、そこに、マツザキ・サトミの英語の歌というのはアクセントをわざとずらし、独特な日本語とも英語とも言えない異質な雰囲気の歌がのせられているんです。

よく歌というのは、音程を一定にして、ぶれたり、よれたりしないようにするというのがボイストレーニングの基本ですが、彼女は、歌唱のPitch(音程)というのをわざとずらし、異質な雰囲気を形作っているかのような感じがあります。こういう歌い方というのは、相当、語学に熟達していないと難しいんじゃないでしょうか。英語で歌いながらも、日本語的なアクセントをあえて交えているというべきなのか。この要素はさらに、ディアフーフの後年の活動になると顕著となり、2017年リリースの「Mountain Moves」アルバムの表題曲を聴くと、よく理解していただけるでしょう。Mountain movesという語句を「まう↑んて↑ん ムー↑」というエキセントリックとも言える発音をするわけです。最後の複数形のSを発音すらしないのが可笑しい。

これは初めて聴いた時、ギョッと驚かされ、少し、笑ってしまいました。つまり、マツザキ・サトミというヴォーカリストは、はなから英語を巧みに発音しようなどという気はさらさらないらしく(実は真面目にやると、外国人が歌っているのかと思うほど、ネイティヴの歌手並に英語が上手なんです)、英語の語感の面白さというのを、日本人として深く熟知しているからこそ、そういった言葉の「ずらし、はずし」という特殊な技法に思い切って踏み込んでいけたのだろうと思います。特に、彼女の発音の奇妙なアクセントの面白さというのは、非常に前衛的であり、かつてジョニーロットンのやったような英語の言語的実験のごとくにも感じられます。

しかし、そのあたりのユニークな特性が、他のバンドには見られない、おもしろい表情を生み出し、なんとなく良い感じをぷんぷんに醸しています。この語感というのはおそらく、西洋人から見ると、少年ナイフの英詞のように、新鮮な言語感をもって聴こえるのかもしれません。そして、日本人としても何かしら、その双方の言語のアルビノのようなニュアンスを感じずにはいられません。

このアルバム「The Runners Four」の中では全体的に、どこかで聴いたことのあるような60,70年代の古典的なロックミュージックを下地にしながら、その中にも、この日本人ボーカル、サトミのユニークな発音の英語の歌(おそらく、わざとトーンをずらしている)が加わることにより、キュートな興趣のある楽曲が怒涛のような早さで展開されています。また追記として、P−VINEからリリースの日本盤には英詩とともに、マツザキさん自身の対訳までついているのがお得感満載です。

 

このアルバムで展開されるのは、たしかにポップ風味もあるつかみやすい作風ですが、ときには、ストーンズのキース・リチャーズの「サティスファクション」のフレーズをそのままオマージュした曲もあったりと、曲のイメージとしては、ああ、なるほどこういう感じかというキャッチーさがありますから、基本的には、コンテンポラリーなポップソングとして聴くこともできるでしょう。

しかし、その中にも、ディアフーフの音楽性には、棘のある、近寄りがたい、実に危なっかしい前衛性を宿しているというべきなのか、キャッチーな音楽性のなかに、ポストロック的なニュアンスも存分に込められており、イントロからのリズムに固執することなく、変拍子によって曲を矢継ぎ早にくるくると展開していくあたりは、まるで、イエスのようでもあり、プログレッシブ・ロック的な要素も少なからず感じられます。その辺りのアグレッシブさを落ち着きがないと捉えるか、もしくは、クリエイティヴ性が高い音楽ととらえるか、それは聞き手の相性いかんによるでしょう。

また、アメリカの往年の伝説的電子音楽家、スイサイド、シルヴァー・アップルズの奏でるような、古めかしい配線のアナログシンセのフレーズが、楽曲の中に象徴的に添えられたり、また、ギターの直アンプのフルテンかと思わせるような、ベルベット・アンダーグラウンドの「ホワイト・ライト、ホワイト・ヒート」あたりからのプリミティブな影響もまた感じせ、原始的なガレージロックの雰囲気もあったりと、このアルバムの中に込められている音の情報量の多さに驚きます。

つまり、ディアフーフというロックバンドは、表面的にマツザキ・サトミのハイトーンのボーカルがかなり可愛らしい雰囲気を醸し出しつつも、何かしら、目の前いちめんに広がっているのは、非常に抜けさがない、玄人好みのする音の洪水、もしくは底なし沼のようなもの、あらためて、このアルバムはポピュラー性を感じ冴えながらも、奏でられている音自体は骨太な印象をうけます。

Tom Waits 「Closing Time」

 

アメリカで最も偉大なシンガーのひとりとして数えられる音楽界の巨星、トム・ウェイツ。おそらく世界中を見渡しても、最も迫力があり、渋い声質を持つシンガーといってもいいでしょう。

デビューから五十年、およそ、赤ん坊が老年に入ろうかという長い年月を経ても彼の華々しい活躍というのはいまだ目覚ましく、大衆音楽にとどまらず、イギリスの現代作曲家、ギャヴィン・ブライヤーズの名作「Jesus Never Failed Me Yet」でのゲスト参加にも及んでいるため、およそ大衆音楽という括りだけでトム・ウェイツという存在を語るのは、無礼千万になりつつある。

1960-70年代のカルフォルニアの夜の街のリアルな空気感というのを、孤独な哀愁とダンディズムによって色濃く音の楽しみとして描き出したのが、このファーストアルバム「Closing Time」。 

 

「Closing Time」Asylum Records 1973

 

この古い時代のアメリカの夜に満ちている気配が一体、どんな感じであったのか。その手がかりを求めるなら、当時の写真よりも、映画よりも、また、誰かの証言よりもはるかに、このトム・ウェイツのファースト、セカンド・アルバムを聴くほうが、当時の空気感がよりわかりやすく理解できるはず。

 このアルバムを改めて聴いてほとんど信じがたいのは、このデビュー当時、まだ、トム・ウェイツが全然無名の音楽家であり、そして、二十歳そこそこの大人か子供かという年頃の青年であったこと。

しかし、一曲目の「Ol'55」から聴こえてくるのは、二十歳そこらの青年の奏でる音楽ではないと、誰もが感じることでしょう。しっかりとした音楽の素地の上に、魂の宿った歌声を込めるのが彼の音楽の特徴のひとつです。

こういった音楽はさまざまな人種の渦巻くアメリカという土地でしか出てこない渋い音楽で、この曲を聴いて新手目て思うのは、トム・ウェイツという人物は、まるでもう何十年も音楽をやってきて、一度死んでもう一度蘇った青年が新たにこんな素晴らしい音楽を、ピアノを前に、酔いどれて、タバコを吹かしながら奏ではじめた。そんなふうにいっても全然大げさではないはず。

トム・ウェイツ自身の奏でるピアノの安定感のある伴奏に彼の度の強い酒でガラガラに枯れた ハスキーな声質が乗ってくる。

そこには、ポップス、ジャズ、ソウル、R&B,ブルーズ、もしくはモータウンあたりの古いサウンドが一緒くたに込められ、渋い味わいがありながらも、若々しさも感じられる彼の名曲のひとつ。

 

「Martha」は、カルフォルニアの真夜中のぼんやりとした雰囲気が美麗な感覚によって彩られている名曲。印象的なピアノのテーマから始まるこの曲で、彼はすでに世界をその手に収めたといっていいでしょう。

確かにボブ・ディラン的なフォーク・ロックの影響を感じさせながら、ここではゴスペル的な黒人音楽への憧憬、そして、敬意が込められており、それが彼一流の少し拠れたような歌い方によって個性づけられている。

この懐深いバラードソングは、なぜか反復的に繰り返されるピアノのリズムが真夜中の時計の針の刻む音を表現しているように思え、その中にまた彼の体感したであろう夜の街の追憶、それに対する大いなる愛によって楽曲の雰囲気が包み込まれ、あたたかな雰囲気を醸し出している。

 

「Rosie」ではカントリーウエスタンの風味のある曲で、どことなくアメリカ南部の雰囲気が醸し出されているように思えます。全曲と比べると夜の雰囲気はなりをひそめ、代わりにカルフォルニアの大地の豊穣さを寿ぐかのような美しい感情に富んでいます。ここでも安定感のあるピアノ伴奏と、とおどけるようにして歌いを込めるトム・ウェイツのキャラクターの良さが際立っている。

「Lonely」は、トム・ウェイツの夜の孤独感がそのままに表現された曲といえるかもしれません。少しチューニングのずれたピアノのアンビエンスが陶酔感に満ちていて、また、そこにウェイツがまるでピアノの音の広がりの中に歌によって、接近を図っていくような雰囲気が感じられていい味を出しています。どことなく、都会的な雰囲気を感じさせる曲で、このアルバムの中では異彩をはなっている。

「Icecream man」も、真夜中の町中に自転車でさっそうと向こうから走ってくるアイス売りを想起させるような映像的な風味のある楽曲で、このアルバムのなかでは珍しくアップテンポな楽曲。それはしかしながら、ディスコ的な雰囲気でなく、真夜中の渋い空気に充ちている。アップテンボなリズムが途絶えていき、アウトロにかけての寂しげなオルゴールの挿入は鳥肌モノといえます。

「Little Trip To Heaven」も真夜中の酔いどれて、うっとりしたときのような、あのなんともいえない雰囲気が味わい尽くせる名曲。イントロのトランペットの枯れた響きというのが、他の楽曲には感じられないジャジーな雰囲気を醸し出しています。ここでも、トム・ウェイツの歌声はあたたかみにあふれている。題名の通り、酔いどれの恍惚とした世界が美麗に描かれている。

「Grapefruits Moon」も、ジョン・レノンのようなクラシックなポップソングを通過した素晴らしい楽曲。楽節の合間に入ってくる「タンタタラララン」というピアノの装飾的な駆け下りが、ちょっとだけレノンのイマジンを彷彿させる。

ここでも彼は、一貫して囁くような、もしくは嘯くかのような感じで、オーディオの向こうにいる聴衆にボソッと語りかけるような歌い方をしています。トム・ウェイツという存在がよくわからなかった人も、ここに来て、おそらく、彼が良質で安定したバラードソングを提供する素晴らしい音楽家であると、どのようなへそ曲がり音楽愛好家も認めずにはいられなくなるはず。

アルバムの最後を飾る「Closing Time」も、彼の人生の渋みのようなものがにじみ出た名曲。終曲としては最も美しい曲のひとつ。渋いトランペットともに引き継がれていく最後のアウトロというのは、クラシック音楽のクライマックスを聴いたあとのような深い余韻に浸りきれる。

小瀬村晶 In the Dark Woods

 


ここ日本で、海外勢にもひけをとらない素晴らしいポスト・クラシカルの音楽家が良質な音を追求しつづけてくれています。

 
このシーンの一角を担うのが”Scole”というインディーレーベルであり、エレクトロニカをはじめ多くの名盤をリリースしつづけています。
 
そして、日本のポスト・クラシカル界隈を語る上では、Scoleレーベルオーナー、小瀬村晶氏を紹介せずに済ましておくことは無粋になるでしょう。

彼は、芸術家としての表情と実業家としての表情を併せ持ち、”Akira Kosemura”名義の数々の素晴らしいリリース作品とともに、”Haruka Nakamura”(Nujabesとのコラボでよく知られる)という先鋭的なアーティストをはじめとして、当時、無名であったフランスのアーティスト、クエンティン・サージャックを自身の主宰するScoleにスカウト、サージャックの知名度をワールドワイドにしました。
 
アーティストとしての自身の作品の発信する傍ら、レーベルでのさまざまな優秀なアーティストを発掘し、国内外にむけてグローバルに紹介している、こういった2つの大きな功績が認められます。

実は、私自身、十数年前、小瀬村晶さんの主催するイベントに足を運んだことがありました。
 
その日は、日本人アコースティックギタリストの”Paniyolo”と、このフランスからのアーティスト、クエンティン・サージャックが出演していました。一階席には、木の椅子がおそらく十数席くらい置かれ、ロフトとでもいうべきか、オルガンがある木製の手すり付きの中二階席にも、いくつかアンティーク風の木椅子が設えられていて、そこに腰をおろし、演奏に静かに耳を傾ける形式で行われたコンサートでした。
 
ライブでは、途中、Paniyoloの演奏中、彼の使用しているエレアコの電池が切れ、それを交換したり、結構大きめの地震が起きて、演奏が中断するハプニング続出しましたが、彼は大きく取り乱すこともなく無事演奏を終えた。彼が紡ぎ出す耳にやさしい、麗しい音色、それはさほど多くはない観衆を陶然とさせ、また、我々の余震による動揺を落ち着かせてくれました。Paniyoloは、あたたかなエレアコの安らいだ音色により、目の前の不安を上手く払拭してくれました。
 
クエンティン・サージャックは、コンサート前に、ベーゼンドルファーの後ろの弦に特殊な演奏技術をほどこすため、いくつかの音階をジョン・ケージのようにプリペイドピアノとして使うため、彼自身がグランドピアノの後ろにかがみ込んで、たしか、ゴムのようなものを弦の間に挟みこんでいた記憶があります。
 
彼の音楽は、現代音楽的な要素を持っていて、あえてチューニングをずらした音階をアルペジオで奏でたりするので、きわめて難解な印象がありますが、きわめて綺羅びやかで色彩に富んだ音楽性を有しています。
 
サージャックはピアニストとしての技術的も非凡であり、アルペジオの滑らかさにとどまらず何気なく腕を交差させながら軽やかに流麗に旋律を引きこなすところでは、体系的な音楽教育をしっかり受けてきたように思われます。
 
そして、その経験からくるたしかな技法を土台とし、その上に現代音楽的、もしくはエレクトロニカ的ななエッセンスも感じられました。クエンティン・サージャックのコンサートは、正直に言って、他の出演者を圧倒するほどの存在感と、才覚の光輝を感じさせるコンサートでした。
 
そのところで、曲の間の語りの、MC(サージャックは、フランス語ではなく、流暢な英語を話していました)では、ちょっとした冗談を挟んだりして、地震の後の観客の緊張感を和らげさせるような素晴らしいサービス精神も十二分に持ち合わせていました。
 
この日のScole主催のイベントは、ロックコンサートとも、クラシックのコンサートとも異なり、五十人にも満たない観客が、すぐ目の前で奏でられる美しい音色に、シンプルな音響の中で、じっと耳を澄ましていました。
 
そこには実際にピアノや弦楽器によって紡ぎ出される音にとどまらず、私たちの目の前にいる演奏者の息遣い、ちょっとした動作の音、ピアノのハンマーの軋み、観衆の緊張した呼吸といった、空間の中に自然に流れていくすべての音が一体に合わさることにより、すべての音が音楽そのものになっていました。

 
小瀬村さんの演奏というのは、心地良い音のツボをしっかりこころえていて、調和のとれたアルペジオが左手の伴奏に乗り、それが全体の音に大きな厚みを作っていました。ベーゼンドルファーは、低音が非常によく伸びる性質があり、オーケストラのような重厚なアンサンブルを奏でているようでもありました。
 
スタインウェイの計算され尽くした綺羅びやかで整然たる音の響きとは一味異なる、ベーゼンドルファーのグランドピアノの温かみある木の音を愛でるかのように、小瀬村さんは上半身をかがめながら、鍵盤の上に指を軽やかに運びつづけていました。
 
そこには、彼の音楽に対するただならぬ愛情が表現されているという気がし、深い感銘を受けました。彼はベーゼンドルファーの低音域がスタインウェイよりはっきり出るという性質を活かし、およそピアノひとつで表現したと思えないような奥行きのある音楽を聞かせてくださいました。

 
 
このアルバム、「In The Dark Woods」に関して言えば、この頃よりも楽曲に深みが感じられ、Goldmundのように、ピアノの弦を叩くハンマーの音をエフェクトで強調していることにより、どことなくアンティークな風味の感じられる作品となっています。
 
これまでの路線を引き継いだ形で、シンセサイザーを交えたエレクトロニカ的な曲もありながら、アルバムの中核をなしているのは、やはりシンプルなピアノ曲となっています。この作品の特性ともいうべきものは、その表題どおり、何かしら深い神秘性を有していて、実に雰囲気たっぷりの佳曲が揃っている点でしょう。
 
その音楽の中にある世界は、ジャケットに描かれているような深い森の思わせるような神秘性に包まれていて、その中に足を踏み入れると、出口のない迷宮をさまようがごとき情感にみちています。
 
個人的には、このような安らぎのある音楽を求めるのは、決まって、心がざわめいたりするようなときで、漠然とした不安を感じているときでもあります。
 
心の中にある喧騒を取り払ってくれる効果があり、いうなれば癒やしが小瀬村晶の音楽には込められています。
 
何より、彼の音楽が素晴らしいと純粋に思わざるをえないのは、紡ぎ出す音楽が和やかさといういわくいいがたい情感を体現しているところでしょう。それは、専門家のむつかしい学術的言語よりも、多くの人に伝わり、また、それらの言語よりもはるかに大きな説得力を持っている。

小瀬村晶の音楽は、常に、平らかで、穏やかで、美しい。
 
 
都会の気ぜわしい生活に感覚が疲労感を覚えたときや、そして、そのコンクリートジャングルのような喧騒から少し距離をおいた場所に、小さな旅を企ててみたい、そんなふうに我々が願う時、かれの音楽がこの世にあるということに何かしら安堵、そして、頼もしさすら覚えてしまいます。
 




Trygve Seim 「Different Rivers」


ノルウェー出身のサクソニスト、トリグヴェ・セイムは、同郷のヤン・ガルバレクとともにすでにサックス界の大御所といっても差し支えないのかもしれません。

個人的にはジャズというジャンルについては、自分よりも遥かに詳しい方が沢山おられますし、まだまだ不勉強の若輩者なんですが、よくいわれるように、トリグヴェ・セイムのサックスフォンの響きは他の奏者と比べると、ハートウォーミングなあたたかみある音が彼の特質なのかなと思います。あらためて管楽器というのは、人の感情を音として表すのに適しているのだなあとつくづく思ってしまいます。

トリグヴェ・セイムの演奏は常に感情のコントロールが効いていて、テナーサックスなんですがガルバレクのかっこよい高音の強調されるのとは対照的に、セイムの演奏というのは、それほどガルバレクほどは高音を強調せず、ゆったり落ち着いた奥行きある中音域の音色を聴かせてくれるのが特徴です。つまり、華々しい印象があるのがガルバレクであり、一方、渋い印象があるのがセイムといえるでしょう。それでいて、なにかしらかれの演奏には非常に深遠な思想性、もしくは哲学性が感じられ、妙な説得力が宿っているように思えるのは、彼の音楽に対する真摯なアティティード、いわばサクスフォンという器楽を介しての求道者的姿勢によるものが大きいのかもしれません。

そこには、憂いあり、悲しみあり、もしくは、爽やかさもありと、人生の酸いも甘いもすべて内包して、端的に表現できるのが管楽器の醍醐味なのかもしれません。おのれのうちにある感情、どうあっても引き出さずにはいられない感情を、多彩なニュアンスで表現しえるのが管楽器なんだというのが、セイム氏の演奏に教えられたことです。それはジャズを一度も演奏したこともない素人にもなんとなく理解でき、つまり、管楽器というのは、その人の人生の味がブレスとなって空間にじわじわと滲み出てくる楽器であり、技巧だけでごまかしのきかない楽器といえます。この辺りはピアノフォルテをはじめとする鍵盤楽器と異なる特徴かもしれません。その人の人生観、生き様みたいのが、如実ににじみ出てきてしまうのが管楽器の特徴なのでしょう。


 

現代気鋭のトランペット奏者、アルヴェ・ヘンリクセンと組んだ今作「Different Rivers」はECMのリリースの中でも、ジャズファンは聞き逃すことのできない屈指の名盤の一つとなっています。

このアルバムのもうひとりの主役、アルヴェ・ヘンリクセンのトランペット奏法というのもかなり前衛的であり、ミュートをつけたトランペットから掠れたブレスの音色のニュアンスの中に積極的に取り入れているのが独特であり、どちらかといえば、日本の伝統楽器、尺八のような音色が顕著に感じられるのが非常に面白い点です。マイルス・デイヴィスが名作「フラメンコ・スケッチ」で切り開いてみせたトランペットのブレスの枯れた渋みのある味というのを、いやあ、思い出しただけでため息が出てきそうなあのマイルスの伝説的な演奏というのを、ここでさらに現代的に一歩前進させてみせたのが、アルヴェ・ヘンリクセンというトランペッターの主たる功績といえそうです。


このアルバムで白眉の出来と言っても差し支えないのが「Breath」という楽曲。といいますかこれは音楽史に残るべき名曲であるとはっきり断言しておきたい。

なぜなら、聴いて鳥肌の立つほど美しい曲に出会うというのは人生でもそうそう味わえない稀有な体験で、それこそ人生にとっての大きな財産のひとつだからです。大見得切って言うと、この曲を聴くためだけにこのアルバムを買っても後悔はしないでしょう。

この「Breath」では、サックス、トランペット、そして、フレンチホルンが和音を順々に重ねていき、そこにもうひとつのノートが加わって、最終的には不協和音が形づくられるわけですけれど、この縦の和音が横に長いパッセージとして引き伸ばされることにより、これまでにないような心休まる甘美なアンビエンスが表現されています。この協和音と不協和音の揺らぎのようなものが非常に心地よいです。

同じ反復的な縦の和音が延々と繰り返され、また、そこに、シゼル・アンデレセンの静かで落ち着いた語りが挿入され、独特な音響世界が奥行きをましながら、どんどんと音の響きが押しひろげられていく。

そして、シゼルの語りこそ、その都度異なれど、楽曲の構成自体はおよそ九分以上もこのモチーフが延々と繰り返されるだけなのに、まったく飽きがこないどころか、このうるわしい音響世界に永遠浸っていたくなってしまう。曲自体の和音、そして、構成自体はとてもシンプルなのに、管楽器のブレスのこまかなニュアンスだけで、これほど壮大かつ甘美な音響世界がかたちづくられるというのはおよそ信じがたいという気もします。曲の最後で一度だけ和音が崩されるところも何とも甘く美しい。これは、ジャズ側からのアンビエントに対する真摯な回答のような趣きがありますね。

 

「For Edward」も、ゼイムとヘンリクセンの絶妙な掛け合いが印象的な名曲といえ、トランペットの表現力というのもここまで来たかと驚愕せずにはいられません。ここでは、ヘンリクセンが主役として舞台の前にいざり出て、彼独自の枯れた渋い音色を聞かせ、その上にセイムの枯れたサックスのフレーズが合わさることにより、なんともいえない落ち着いたアダルティな雰囲気を醸し出しています。この独特な大人の色気というのはなんなんでしょうか、私のような若輩者にはまだわからない世界というものがあるのやもしれませんよ。トランペットとサクスフォンの絶妙な掛け合いだけで、ここまでうっとり聞かせてくれる曲が生み出されるというのも非常に稀なように思えます。

他にも、表題曲の「Different Rivers」のホーヴァル・ルンドのクラリネットの音色も、非常に優雅な趣きを演出していて、いかにも多様な響きのある、それでいて、大人の渋みのあるノルウェージャズらしいアルバムだといえるかもしれません。アメリカのニューヨーク、もしくはニューオリンズのジャズとは異なる味わいがこのアルバムで心ゆくまで堪能できるだろうと思います。また、「Search Silence」では、フリージャズのような現代音楽への接近も見られて、参加構成は吹奏楽器中心ながら非常にヴァリエーショーンに富んだトラックが多く見られますのも面白い。

この「Different Rivers」は、エグゼクティブプロデューサーにマンフレッド・アイヒャーの名も見えることから、サウンドプロダクションの面でもちょっとした細かな音も聴き逃すことは出来ません。

まさに細部に神が宿るというのはこのアルバムにふさわしい表現でしょう。空間処理の面で音のアンビエンスの奥行きが重視されており、サックス、トランペット、もしくはフレンチホルン、クラリネット、そして、ボーカルの細かな息遣いに耳を済ましていると、いつしかセイムとヘンリクセンの生み出すめくるめく音響世界の中に入り込んでおり、まるで、すぐ目の前で管楽器が演奏されているようなリアル感があります。また、そこに鳥肌が立つほどの美を感じます。まさに、真善美がよく現れているのが、「Breath」をはじめとするこのジャズ史に燦然と輝く名盤です。

このECM屈指の名盤「Different Rivers」は、イヤホンで聴くより、ヘッドフォンでじっくり聴いたほうがはるかにその良さが理解してもらえる作品だろうと思います。なんとも芳醇なノルウェージャズ、その最高峰の渋みというのがこのアルバムでたっぷりじっくり味わいつくせるはずです。

 

[References]

discogs.com  trygve seim different rivers https://www.discogs.com/ja/Trygve-Seim-Different-Rivers/release/1557892


 


American Grafitty soundtrack


巨匠映画監督、ジョージ・ルーカスといえば、まずはじめに多くの人は大作「スター・ウォーズ」を思い浮かべるはず。

しかし、彼の意外な一面、青春映画としての才覚が遺憾なく発揮されたのがこの映画、アメリカン・グラフィティです。

この映画は、とにかく、往時のアメリカの若者の甘酸っぱい青春を上手く切り取って、その淡い若いアメリカの白人社会の人間関係をものの見事に活写した作品。ストーリ的にも映像的にもなんら夾雑物のない美しいシンプルな映画というように称してもいいかもしれません。 主要な舞台となるカルフォルニアのメルズというきらびやかなネオンサインが印象的なドライブイン、そこに、女性ウェイトレスがいて、ローラースケートで店の中をくるくるせわしなく走り回って注文を運んでいる!あの様子というのはなんとも素敵でした。

アメリカン・グラフィティは、ストーリ性の魅力もさることながら、きわめて絵的に美しい映画です。 1962年のカルフォルニアが舞台であり、主要なストーリーとは別に、なんというべきか、クラシックカーのかっこよさ。そして、それが町中を走るシーン、これだけでうっとりしてしまう美麗さに富んでいるのがこの映画です。

ジョージ・ルーカスをはじめ、こういった大監督というのは、ストーリの運び方に無駄がなく、そして絵的にも、光と影の使い方、光の当て方、映画の専門用語でいうと、明度と暗度のバランスがきわめて素晴らしく、画面的に見ても、めちゃくちゃカッコいいんです。映像監督だから当たり前といったら当たり前なんでしょう。

仮に、音楽という表現方法が、音でひとつの独自世界を構築すると措定するなら、一方、映画というのは、映像でひとつの独自世界を築き上げられるか、その辺りが、作品の出来不出来というのを左右するのかなと勝手に思っています。正直なところ、私は、映画はそんなに詳しくないんですけれども、眺めているだけでうっとりなってしまう、なんともいいがたいような絵的な魅力のあふれる映画というのは、「アメリカン・グラフィティ」、もうひとつ、西ドイツ映画の「バグダッド・カフェ」くらいでした。まあ、もちろん、他にも探せば沢山あるんでしょう。 

 

 

 

そして、このアメリカン・グラフィティは、ストーリ性、画面的な美しさ、この映画の3つ目の柱、土台を形作る礎ともなっているのが、この映画全編で一貫して流れているオールディーズというジャンルのロックミュージックです。

オールディーズという音楽のジャンルは、50〜60年代に流行ったロック・ミュージックの形で、ギター、ドラム、ベースという器楽編成に加え、いわゆるアカペラ、ドゥワップタイプの複数の混声のロックミュージックのジャンル。 チャック・ベリー風のスタンダードなロックナンバーから、ビーチボーイズの奏でるような甘ずっぱさのあるメロウなサーフロックまで多種多様です。

ビートルズや、ストーンズも、最初期のアルバムで、一度はこのあたりのドゥワップ的な風味のある楽曲を通過した後に、めいめいオリジナリティあふれるポップソングを生み出していきました。そのバンドもそういった意味では、始めは真似事から始まって、それから自分なりのスタイルを追求、のちになにかを発見していくわけです。

どうやらこのオールディーズという総体の呼称は、後になってからつけられたらしいですが、この辺りの音楽というのは、ロック、ブルース、R&B,ジャズ、コーラス、そういったニュアンスがごちゃまぜになっていて、白人も黒人もこぞって同じ音楽を目指していた数奇なジャンルのひとつ。この五、六十年時代という世界がこれから発展していく様相を映し出していて、明日の希望に夢を抱くような音楽家の感情がよく反映されています。

つまり、ある時代の雰囲気をあらわす鏡ともなりうるのが音楽のジャンルの流行であり、やはり、良い時代には明るい音楽が多く、悪い時代にはどことなく暗鬱な印象の曲が多くなるのかもしれません。それは作曲者の心の反映が音楽だからでしょう。全般的に、希望の満ち溢れる時代には、明るい音楽が流行し、絶望の多い時代は、暗い音楽が流行する。そんなふうにいっても暴論とはいえないかもしれません。

とにかく、今ではこういったスタイルの楽曲はなかなか見られず探すのが難しいタイプの楽曲が多いです。オールディーズというのは、それほど音楽的に高尚でもなければ、崇高でもないのに、なにか時折、無性に聞きたくなってしまう。反面、その楽曲の雰囲気から味わえる心の共鳴は、その音楽の質にかかわらず、非常に高尚であり、崇高となりえるでしょうし、上質で贅沢な時間を聞き手に与えてくれます。音楽自体の価値云々というのは、古典音楽とさほど変わらないはずです。

このアメリカン・グラフィティのサウンドトラックに収録されている楽曲は、そのほとんどが珠玉の宝石、つまり、ロックミュージックの歴史資料館というふうにっても過言ではなく、Bill haleyのロック音楽の金字塔、ロックアラウンドクロックからもガツンとやられること必至、クリケッツVer,のI'll be the dayのまったり感もいいですし、ビーチボーイズのサーフィン・サファリ、チャック・ベリーのオールモストグロウンもピアノのフレージングが渋く、良い味を出しています。

そして、ストーリの移行とともにサウンドトラックの楽曲の雰囲気も変わっていくのが興味深い所。なんといっても、ファイヴセインツの「To The Aisle」、スカイライナーズの「Since I Don't Have You」辺りのバラードソングの美しさは、甘く切ない若者たちの青春の雰囲気を上手く醸し出しています。

そして、物語の最後の方に進んでいくにつれ、このサウンドトラックも様変わりし、クリケッツのHeart and Soulをはじめ、収録曲の最初のトラックに比べるとメロウな印象のある楽曲が多くなってきます。

 

このあたりの選曲のセンスの良さというのは他の映画と比べても抜群です。最終盤のトラックはもうほとんどロックの王道をいかんとばかりで圧巻。

ブッカーTのグリーン・オニオンの激渋のロックも今聞くとむしろ新鮮みすら感じられ、また映画のクライマックスを彩るプラターズのオンリー・ユーのベタ感もむしろ愛くるしい。

そして、エンディングを華々しく飾っているのが、スパニエルズの「Goodnight, Sweetheart Goodnight」そして、ビーチボーイズの屈指の名曲のひとつ「All Summer Long」。このあたりはもう甘酸っぱすぎて切なくなり、胸がキュンキュンしっぱなしになることはまず間違いありません。

エンドロールに選ばれたビーチボーイズの楽曲は、アメリカの最も華々しい時代を象徴しているようで、他の年代のロックミュージックにはない青春時代のみずみずしさがあざやかに刻印されているような気がします。

 


Sunny Day Real Estate


Sunny Day Real Estateは、90年代のエモコアシーンを牽引したバンドとして有名。アメリカ、シアトル出身なので、ニルヴァーナのドラマー、デイブ・グロールとも人脈的に繋がりの深いバンド。もちろん、その後、ベーシストのネイト・メンデルがフー・ファイターズに合流したことで、彼はアメリカでも有数のロックバンドのメンバーとして活躍し、一躍有名になります。


このサニー・デイ・リアル・エステイトの良さというのは、繊細な叙情性あふれる楽曲の雰囲気にあります。それは、どことなくアンビエントのように淡くかすかな表現性の上に、非常に絶妙な具合に構築されており、強度のある印象と脆いような印象を併せ持つ異様なロックバンドです。たとえば、ニルヴァーナやパール・ジャムほど強くはないけれども、かといって、他のアメリカンフットボールやミネラルほどには繊細という印象もない。どちらかというと、強く儚いというような表現がこのバンドにはぴったり当てはまるのかもしれません。ほかのグランジ、もしくはエモ勢とも少し異なる性質で、きわめて静かな抒情的なフレーズと激情的なスクリームが、かのニルヴァーナのように、絶妙な具合で対比的に配置されているあたりが独特です。


Sunny Day Real Estateの醍醐味を知る上では、落ち着いたスタンダードなフォーク・ロック色を打ち出した2000年リリースの「The Rising Tide」と「Diary」を聴き比べてみてから、そのあと、今回、紹介するSub Pop Records(注・アメリカ、シアトルに展開するインディーズレーベルで、ニルヴァーナのデビューアルバムBleachをリリースしたことで有名。90年代のアメリカのグランジムーブメントを牽引した存在からリリースされた、激情系エモの先駆けともいえる「LP2」を聴いてみれば、ああこういうバンドなのかというのが理解してもらえるかもしれない。只、言っておきますと、ちょっとばかり、このLP2の方はちょっとだけマニア向けの雰囲気が漂っているのかもしれませんので悪しからず。


 

「LP2」Sub Pop 1995


アメリカ、シアトルのレーベル、「Sub Pop」からリリースされた「LP2」は、2009年リマスター再発盤。ここでは、他のサニー・デイ・リアル・エステートの作品より個性味あふれる音楽が奏でられていて、エモともグランジともつかない、その両方のニュアンスが合わさった独特な名盤。


 


アルバム全編には、静と動が絶妙に楽曲の中に配置されているのが伺え、また、フロントマンのジェレミー・エニグクの作曲センスが遺憾なく発揮されている。彼は、エモというジャンルについて、「美しい声があるならそれを生かさなければならない」というような発言をしており、その言葉通り、デビュー時にくらべると、今作では、エニグクの繊細で美しい声質を聴くことができるはず。


このアルバムには、サニーデイ・リアル・エステイト節とも言える独特な音階進行がはっきり見受けられるのが特徴となっています。


たとえば、一曲目の「Friday」からして、エジプト音楽のようなエスニック風味のあるエキゾチックで独特なコード進行が見られ、一曲目の数秒で、彼らの独特で甘美な世界観の中に、巧みに引き摺り込まれてしまうでしょう。


ジェレミー・エニグクのヴォーカルというのも、少し舌っ足らずで好き嫌いあるかもしれませんが、ここではファーストアルバムから引き継がれた以上の激しい抒情性が展開されていて、そこに圧倒されるものがある。なにか他のグランジ、もしくはエモ界隈に見られない怪しげな光を放っています。


三曲目の「Red Elephant」は、彼等の名曲のひとつと言っても差し支えないでしょう。きわめて繊細なギターフレーズが淡々と奏でられる中で、エニグクの清らかで繊細な泣きの入ったヴォーカルスタイル、というのは非常に切なげに聞こえます。その途中で激情的な曲展開に移行します。ここでは、エモの要ともいえる、切なさと泣き、そのなかに激しいディストーションギターの音色を最大限に活かしたフレーズが満載。この曲というのは、ポストハードコアの色合いもあり、後のエモ界隈のバンド、もしくはその後のスクリーモバンドの音楽性の見本となったと思われる。


十曲目の「Spade and Parade」も、渋みのある名曲で、ゴールドスミスのタメの効いたドラミングというのも、癖になる雰囲気があり、なにかここでは、詩的な感情が抽象派の絵画のように表現されていて、およそロックバンドとはいえないほどの抒情性が呼び覚まされている。エニグクのしっとりさとは対照的な歌唱法というのがどことなくコバーンを意識しているようなのが伺えます。また、楽曲の最後の静寂から轟音に移行するあたりは、いかにもシアトルらしいロックバンドの音楽性で、往年のサブ・ポップレコード愛好者をニヤリとさせること間違いなし。

 

この作品「LP2」は、シアトルのバンドということで、サブ・ポップからリリースされた事実についてはそれほど驚きもないですが、他のグランジロック界隈のバンド、グリーンリバー、マッド・ハニー、L7であるとか、この辺りの年代のサブ・ポップのカタログから見ると、かなり独特で、異色の音楽性でしょう。


このアルバムは、1stアルバムとともにサニー・デイ・リアル・エステートの音楽性を明瞭に決定づけたといえ、また、後代のエモ、もしくはスクリーモというジャンルの主要なイメージを形作った重要なアルバムと言える。どちらかというと、エモコアとグランジの間の子のような感じがあり、両方のジャンルのファンにとって聴き逃すことのできない、通好みの作品となっています。 

Goldmund 「sometimes」


キース・ケニフは非常に多彩なミュージシャンで、Heliosというエレクトロニカのソロプロジェクトとして活動しているアーティストとして有名。一般的にはこちらのほうが知っている人が多いかなと思います。現在は、妻のHollieとともにシューゲイザーユニット、Mint Julepとしても活動しており、このユニットのリリースにも注目したい。

 

ケニフは元々、電子音楽を主体としたプロジェクトHeliosにおいて、「Eingya 」というアルバムで成功を収め、世界的にも有名なエレクトロニカアーティストの仲間入りを果たしました。メインでエレクトリックギターを使用し、民族音楽のエキゾチックなエッセンス、それとどことなく自然のおおらかさを感じさせるようなナチュラルな感じの美しいエレクトロニカを奏でています。

このGoldmundはキース・ケニフのサイドプロジェクトとして始動。Heliosのからりとした質感とはまったく対照的と言っていい、ケニフのヘリオスとは異なる仄暗い叙情性が垣間見れるプロジェクトです。

音楽性の方は、いわゆる、ピアノ・アンビエント、あるいは、ポスト・クラシカルの王道ド直球を放り込んでくるジャンルに属し、ニルス・フラームや、オラブルアーノルズが好きな人ならどストライクでしょう。

彼等二人と同じような音のニュアンスで、ピアノのハンマーをディレイやリバーヴで強調したサウンド面が彼の特色でしょう。

上記の二アーティストのようにケニフのピアノの演奏は静かな落ち着きと、そして叙情性を内面にはっきりとはらんでいます。

只、ニルス・フラームやオラブルアーノルズと異なるのは、このGoldmundのピアノ曲には危ういほどの陰鬱というか、甘美な雰囲気があたりに霧のように立ち込めていることでしょう。それは上記に引用したジャケットのミステリアスな雰囲気がそのままピアノ音楽として絶妙に表現されています。

「Sometimes」でひときわ目を引く点は、坂本龍一さんがゲスト参加している「A Word I Give」でしょう。

ここでは、坂本龍一らしい哀感のあるフレーズがリバーブによって音の奥行きが引き出されている。例えば、ギタリストのフェネスなどとのコラボレーションを見てもわかりますが、坂本さんは若手アーティストと共に演奏する時は、相手側の音楽性を尊重しつつ自分の個性を出していて、それが興味深い。

 

このアルバムには、まさしくGoldmund節ともいえる陰鬱でありながら甘美なピアノ曲が多く見られます、そっれはアルバムのジャケットを見ても分かる通り、ゴシック風の趣味を引き出したかったのかもしれません。

とくに、「Cascade」はゴシック風のピアノ曲といえ、独特な光輝を放っているように思えます。なんとなく暗い森のなかにピアノの旋律によって導かれていくような気分になることでしょう。

また、「The hidden Observer」もエキゾチックな音階を使った興味深い楽曲。ピアノの演奏の裏側に広がる妖しげなシンセサイザーのパッドが良い味を出しており、ピアノ・アンビエント、アンビエント・ドローンの代名詞的な楽曲と言えそうです。

只、もちろん、アルバム全体を見渡すと、暗い曲ばかりではなくて、一曲目の「As Old Roads」、「Sometimes 」、このあたりは少し明るめの曲目となっています。

そして、最終トラックの「Windmills」は、嬰児に聽かせるオルゴールのようなやさしさがあり、またどことなくノスタルジックな雰囲気がある秀作で、聴くとホッと一息落ち着けるように思えます。

「Sometimes」は、アルバム全体を通して非常に落ち着いていて、 ジャケットに提示されているイメージをそのままピアノ曲として表現したかのようなミステリアスな雰囲気が充溢している絵画的な作品といえ、また少しくストーリ性の感じられる楽曲群となっています。

もう一作のアルバム「The malady of Elegance」とともに Goldmundの入門編としてもおすすめしておきます。


Squarepusher 「ultravisitor」


今回は、ここで、あらためてくだくだしく説明するまでもなく、Aphex Twinと双璧をなすワープ・レコードの代名詞的な人物にして、現代エレクトロニカ界の大物アーティスト、スクエアプッシャー!! 


まず、この人のすごすぎるところは、電子楽器、たとえば、シンセやシーケンサーにとどまらず、生楽器の演奏というのも自分でやってのけ、しかも、ほとんど専門プレイヤー顔負けの超絶技巧を有している点です。

音楽性自体も非常に幅広く、電子音楽家という範囲で語るのが惜しくなるような逸材です。

おそらく彼にとっての音楽というのは人生そのものなのでしょう。特に、ベーシストとしても才能はずば抜けており、後の彼のジャズ・フュージョンのエレクトリックベースソロ・ライブは、音楽史において革命の一つであり、ジャズベースの名プレイヤー、ジャコ・パストリアスにも全く引けを取らない名演でした。

そして、このアルバムもまたスクエアプッシャー節、いわゆるドラムンベースの怒濤のラッシュとともに、さまざまな音楽のエッセンスが盛り込まれている辺りで、彼の代表作のひとつとして挙げても良いでしょう。

一曲目の「Ultravisitor」のライブのような音作りを聞いた時は、かなりヒッと悲鳴をあげ、少なからずの衝撃を受けました。はじめはこれはライブアルバムなのかと面食らったほどの生音感、また、そこには観客の歓声もサンプリングされており、スクエアプッシャーのライブをプレ体験できます。いや、それ以上の興奮感でしょう。後のスクエアプッシャーの数あるうちの方向性のひとつを定めたともいえる楽曲であり、彼自身も相当な手応えを持って、リリース時にこの曲「ultravisitor」を一曲目にすることを決断したのではないでしょうか。

これはクラブミュージック屈指の名曲。疾走感、ドライブ感があり、よくいわれるグルーブ感という概念、つまり音圧のうねりというのがはっきりと目の前に風を切って迫って来るような感じがあって、この曲を聞けば、その意味が理解できるだろうと思います。そして、ボノボのようなチルアウト感をもったアーティストとは異なり、彼は非常に熱いエレクトロニカを展開しています。これはほとんライブ会場内で、生々しい音を体感しているかのようなサウンドプロダクションといえ、他にこういった熱狂的なダンスミュージックは空前絶後。この曲で、彼は現代クラブミュージックシーンを、ひとりで、いや、リチャードDと二人で塗り替えてしまったといっていいでしょう。

 

このアルバム「ultravisitor」の興味深いのは、全体的にはライブの生音的なサウンド面でのアプローチが見られる所でしょう。もうひとつ挙げるべき特徴は、ドラムンベース・スタイルのダンスミュージック的な性格もありながら、それでいて多彩なジャンルへの探究心を見せている。例えば、ジャズ・フュージョンや古典音楽的な楽曲の才覚を惜しみなく発揮しているところに、ひとつのジャンルとして収めこもうと造り手が意識すること自体がきわめてナンセンスだというメッセージがここにほの見えるかのようです。

つまり、ジャンルというのは、売る側が決める都合であり、作り手は絶対にそんなことを考えてはいけないということなんでしょう。

まさに彼はそういった意味で、一種のラベリングに対する無意味さを熟知しているといえますね。

 

とりわけ、アルバムのなかで異彩を放っている「Andrei」という楽曲、これは甘美な響きがある現代音楽家の古典音楽へのつかの間の回帰ともいえるでしょう。イタリアの古楽のような響きがあり、中世リュートの伝統的な和音進行が、実に巧みに使いこなされ、バッハのコラール的な対旋律ふうに、ベースが奏でられています。これは本当に、彼の美しい名曲のひとつに挙げられます。もうひとつ、最後のトラックでも同じようなアプローチが見られ、「Every day I love」では、ジャズ・フュージョンというより、ベーシストとしての古典音楽にたいする接近が見られます。おわかりの通り、スクエアープッシャーのベーシストとしての天才性というのは、この最後の曲において遺憾なく発揮されているといえるでしょう。これまた、「Andrei」と同じように、彼の伸びやかな才能が感じられる曲であり、イタリアルネッサンス期の中世音楽への接近が見られ、優雅な雰囲気でアルバムをあたたく包み込み、アルバムの最後の印象を華やかに彩っています。

 また、「Tommib Help Bass」は、Aphex Twinのような、どことなく孤独感をおもわせる雰囲気の楽曲。ミニマルな構成のシンプルな曲ですけど、これがとても良いんです。落ち着きと心地よい鎮静を与えてくれる名曲。エイフェックスツイン好きならピンとくる楽曲でしょう。 只、少しエイフェックスと異なるのは、彼の楽曲というのは、和音構成がしっかり重視されている点でしょう。

そして、忘れてはならない、彼の代表曲のひとつの呼び声高い「Lambic 9 Poetry」については、もはや余計な説明不要だといえましょう。非常に落ち着いたイントロのベースのミュートから、生演奏のドラムのブレイクビーツの心地よさ。これは言葉にもなりません。そして、スクエアープッシャーの真骨頂は、途中からの破壊的な展開にある。徐々に、徐々に、崩されていって、拍子感を薄れさせていくリズムの発明というのはノンリズムの極致、作曲においての音楽の一大革命のひとつといえ、そのニュアンスは一種の陶酔感すら与えてくれるはず。

ダンスミュージックシーンに彗星のごとくあらわれたスクエアプッシャー!!。彼こそ、新たなダンスミュージックを初めて誕生させ、前進させた歴史的な音楽家だと明言しておきましょう。

空気公団 


今回、紹介する「空気公団」というJ-POPバンドは、結構昔というか、二千年辺りのJ-POP全盛期から活動しているアーティスト。少なくとも、大きなアリーナなどで何万人の観客の前で活躍するようなビッグミュージシャンでありません。

しかし、絵画の個展を開くというような感じで、ミニシアターの舞台とか、こじんまりとした会場で、少ない聴衆に良い音を聽かせるという点を大切にし、細々とではありながら、小さな規模のライブ活動を長年にわたり行ってきているところが非常に信頼がおけます。

そして、何度かメンバーチェンジを経ながらも、根本的な音楽性については何ら変えることなく、活動を長くしぶとく続けているという点で、ポップアーティストとしては珍しく気骨のあるバンドとして挙げられるでしょう。

どうも、お金というのが絡んでくると、メンバー間の不和であるとか、また表向きには、方向性の違いというようなお茶濁しの理由で、解散したり、また、気の入らない作品を惰性でリリースしてしまうという場合がありますが、その点、空気公団はまったくそういった市場から離れたDIYの活動を続けていることにより、今日まで心温まるような秀逸な楽曲をファンのもとに届け続けています。

 「office fuwari」という自前のレーベルから主に作品リリースを行っているという点で、どちらかというと、インディー寄りの芸術音楽グループという言い方がふさわしいかもしれません。

このバンドの音楽性の特徴というのは、ほんわかとした空気感のバラードが多く、そして、春のうららかな日の河川敷沿いを口笛を口ずさみながら、ゆったりのんびりと爽やかな景色を見つつ何の宛もなく散歩している感じです。なかなか時間が取れない方もおおいかも知れませんが、実際、そういった日本のどこにでもありそうな散歩道をのんびりあるきながら聴くと、心揺さぶられるものがあるかもしれません。

ボーカルの山崎さんの声質というのも、手のひらに包み込まれるかのような、じんわりとしたあたたかみがあります。彼女の歌声でというのはそれほど音程域が広いわけではないけれども、その落ち着いた感じが良くて、どっしりとした中音域を中心として、さらりと歌ってのけるところが魅力のひとつでしょう。

また、どことなく楽曲の歌詞の中には、文学性がにじみ出ていて、歌詞、つまり「日本語の詩学」を歌により表現している。彼女の詩には、良い意味で、古風さが込められています。しかし、空気公団の楽曲は、それがアナクロニズムとはならず、青春的なノスタルジーとなって、胸にグッと迫ってくるかのよう。

空気公団の楽曲というのは、ゆったりしたテンポの楽曲が多く、シンプルな印象をおぼえますが、結構、バックバンドの音としては、かなりプロフェッショナル性が高いというか、玄人的で高度に洗練された演奏がなされている。

 ギターの音色、ドラムの抑制された叩き方、キーボードというのも表向きには、センスの良いこれしかないというメロディーがしっとり奏でられています。

 

ぼくらの空気公団 2010 fuwari studio

この2010年リリースのアルバム、「ぼくらの空気公団」は、空気公団の出世作そしてバンド名がタイトルに込められていることからも、代名詞的な作品といってもよいだろうと思います。

フジテレビ系アニメ、「青い花」のエンディング曲として使用された「青い花」のミドルテンポの美しいバラード的な性質の強い楽曲は、非常に切ない哀感が込められ、劇伴曲にとどまらず、独立した楽曲としても素晴らしい出来栄えです。

また、「とおりは夜だらけ」のゆったりとしたテンボで奏でられる切ない楽曲というのもどことなくノスタルジックな味わいがある。

なんといってもボーカルの山崎さんの歌というのは、冷静でいながらしっとりと歌い上げられていて、またコーラスとして乗ってくるハミングというのも、なんだかホロリと泣けてきてしまいそうになります。

昔の日本の歌謡曲の雰囲気を現代的なアレンジを交えて生み出されたといえそうな楽曲。それは古くもあり、また新しくもある。

そして、空気公団の独特なバラッドの真価というのは、この辺りの楽曲に顕著に垣間見えるのではないかと思われます。

2021年にも新作「僕と君の希求」をリリースした空気公団。個人的には、こういったバンドは日本のポップスの良心ともいえ、ぜひとも、これからも息の長い活動を続けていってもらいたいところです。

J.S.Bach Das Woltentenperirte Klavier Till Fellner

 

バッハの平均律クラヴィーアといえば、やはり、音楽史的にはグレン・グールドが最も有名で、彼の落ち着きのある演奏も捨てがたいといえます。それに次いで、現代で言えば、ハンガリー三羽烏の一人、アンドラーシュ・シフがバッハの平均律の傑出した弾き手として世に知られているかと思われます。

今回、御紹介する名盤は、バッハの平均律クラヴィーアⅠのみを収めた二枚組。

ライナーノーツによれば、2002年、オーストリアのウイーン「Jugendstilltheater」の9月のティル・フェルナーの公演において録音された音源をCD化した作品です。 

 

 

 

 この名盤は、聴きやすさという面ではかなり抜きん出ており、平均律を飽きるほど聴いてきて飽きてしまった、という愛好家にも、新たな発見を生み出す作品となっています。

当該作品は、プロデューサーとして、ドイツの名門ECMレーベルオーナーのマンフレッド・アイヒャーが自らサウンドプロダクションを手掛けている事実からも、リリース側としても一方ならぬ期待が込められているのが伺えます。

そして、このアルバムでは、録音マイクの指向性というのを誰よりも熟知しているマンフレッド・アイヒャーらしい音作りがなされており、”音の透明感、クリアで精妙な質感を極限まで引き出す”という、彼のサウンドプロダクション面での顕著な特徴がバッハの傑作とティル・フェルナーの演奏に素晴らしい相乗効果をもたらしています。

 特にこの作品を通して聴くと、目から鱗というべきなのは、実は、一見、崇高すぎて近寄りがたく、難解な印象のあるバッハの平均律クラヴィーアというのが、実は、情感に富んでいて、ときに涙を誘うようなエモーションが、対旋律とフーガ形式という大バッハの作曲技法の集大成の中に込められている。その特徴がこの現代演奏家、ティル・フェルナーの流麗な演奏によって、見事に引き出されている所でしょう。

ドイツ・ロマン派を得意とするオーストリアの気鋭ピアニスト、ティル・フェルナーの特徴というのは、師のアルフレッド・ブレンデルと同じように、原典版の楽譜に忠実に演奏され、現代の人々にも聞きやすいように洗練されたテクニックによって、あざやかに演奏がなされている点。

そして、このECM NEW SERIESの盤を聴いてよく分かるのは、実は平均律クラヴィーアというのは、只の作曲のために作られた作曲集、もしくは、練習練度を挙げるための練習曲のような曲集ではなくて、聴かせるための楽曲集なのだということでしょう。

前奏曲とフーガ形式の中で展開されていく主旋律だけでなく、対旋律にも美しくたおやかな響きがあり、また、それらの複数の旋律が絶妙としかいいようのない形でピタっと合わさることにより、ピアノという楽器のオーケストラレーションといっても過言でない壮大なハーモニクスを形作っています。

あらためて、ピアノ・フォルテという楽器が、オーケストラで使用される楽器の音階を網羅している意味というのが、この平均律の盤を聴くと理解できる。

 

もちろん、中には、実際に弾いてみないと理解しがたい曲もありながら、その中にも非常に初心者にも優しく手ほどきをしていくれるような掴みやすい楽曲もあり、聴く曲としても聴きごたえがあり、また、時には、泣けるというような美しい情感もその曲中に持ち合わせているのがよく分かります。

実は、後のロマン派のいわゆる「泣ける」という楽曲を多く世に残したフレドリック・ショパン、フランツ・リストにも全く引けをとらない、いや、どころか、彼らを超えるような上質な叙情性が平均律クラヴィーアには宿っているのを、彼の演奏によってはっきり気がつくはず。

つまり、そのあたりに感じられる、現代的なピアニストとしての演奏上の解釈を交え、これまであまり重視されてこなかった側面、”バッハの叙情性”、そして、掴みやすさという面にあらためて光を投げかけたのが、この演奏家ティル・フェルナーの画期的なところ、素晴らしいところだったでしょうか。

音を一つ一つ入念に確認し、バッハの意図を汲み取って、それを丹念に再現しようとつとめるグレン・グールドとはきわめて対照的に、ティル・フェルナーという演奏家は、現代の人々の耳に、どういうふうに聴こえるのかを重視し、それをたおやかな運指、きわめて繊細なタッチにより、平均律クラヴィーアをこれまでにはないほど、華麗に、優雅に弾きこなしているように思えます。

その辺りは、ディスク1の十四曲目「Fugue in E flat major BMV 852」。ディスク2の十曲目「Prelude in A Flat majar BMV 862」。十一曲目「Fugue in A Flat Major BMV862」を聴いて見ればお分かりいただけるはず。

いわゆる、バッハの平均律が、高級で上質な情感にとんだ深い情感に満ち溢れ、ときにその音の余韻というものが、涙腺を刺激するほどの美しさに富んでいることがこのアルバムによって理解できるかと思います。



Bonobo 「The North Borders」


例えば、七、八月などの夏の盛りに無性に聴きたくなる音楽というのがありまして、その一つがエレクトロニカというジャンルです。家の軒先にぶら下げる風鈴のような、高い、しかし耳障りではない心地よい涼やかな音の響きが、プラセボ効果を発揮し、暑苦しい気分を少しだけ和らげてくれます。

 

今回ご紹介するのは、蒸し暑くて、じめじめして寝苦しい夜などに聴くと、安らかに眠れること必至の、Bonoboのスタジオアルバム「The North Borders」。

 

Bonoboこと、サイモン・グリーンは英国のテクノ/エレクトロニカミュージシャン。何度か日本にも来日しており、その名を聴いたことのある人も少なくないはず。彼は、1999年から活動を今日まで続けており、最早、テクノ・エレクトロニカ界の大御所というように形容しても過言ではないアーティストです。

彼は、作品ごとに異なるアプローチを見せており、ダンス的な味わいだけではなく、民族音楽をはじめとする、実に多彩な音楽性を作品の中に取り入れていため、そもそもジャンル分けという概念は彼の頭の中にはないと思われ、ボノボの音楽を何らかの括りに入れること自体が礼に失しているのかもしれません。

このあたりの音楽というのは、穏やかでリラクゼーション効果のある楽曲の風味があります。それほどかしこまらず、たとえば、カフェの中でかかっている店内BGMのように、さらりと聞き流すというのも、乙な聴き方の一つかもしれませんね。

二千年代から、音楽の素人も気楽にPC上で、気軽に楽曲制作をできるような時代に入りましたが、彼は、そういったラップトップ上のソフトウェアが導入される以前から、ハードウェアで楽曲制作を続けていた気骨あふれる人物であり、レコーディング機器の変遷のようなものを間近で見届けてきた電子音楽の体現者ともいえる音楽家のひとりです。

昨今では、ディジタル機械に使われてしまう製作者が多い中、彼だけは、いまだに機械というものを上手く使いこなす側のポジションを取っています。楽曲制作においても、今では数多くのサンプリングのデータが無償提供されたりしていますが、サイモン・グリーンはこれまで電子音楽をゼロから手作りで行ってきた経験と、現代の多くのアーティストにはない強みがあるため、広範な知識を駆使して、サンプリングを施すというプロフェッナルな気質も感じられます。

彼は、便利な時代にデジタルな音楽を作っているからといって、それらの便利さに甘えを見いださないところが、音楽家として比するところのない孤高性すら感じられます。おそらく、そのあたりのインテリジェンスが、他のクラブ界隈のアーティストと異なる「ボノボ節」といえる独特な魅力を形成しているのでしょう。また、その辺りが、ダンスフロアだけではなくて、家の中で、オーディオシステムを通して聴く”冷静なBGM”としても十分に楽しめるはず。


ボノボの音楽性は、他のダンスミュージックとは異なり、徹底して落ち着いた響きのダウンテンポが展開されることにあります。

ヒップホップではお馴染みのターンテーブルのスクラッチ的手法というのは、彼のDJとしての経験から滲み出てくる概念なのでしょう。

しかし、彼の楽曲においては、非常に、それが入念に、緻密に、処理されているのがよく分かります。このあたりにも、サイモン・グリーンのインテリジェンスが感じられ、彼の性質、音楽に対する真摯な見方、価値観というのが、楽曲に表現されているように思え、常に冷静に楽曲制作を試みているのが伺えます。

ボノボの代表作としてよく挙げられるであろう「Linked」。この「The North Borders」。果たしてどちらをレコメンドとして選ぶべきなのか迷いましたが、聴きやすさという面では、今回紹介する「The North Borders」のほうが良いだろうと思います。彼の他の作品に比べてとっつきやすく、いくら聴いても飽きの来ない粒ぞろいの楽曲で埋め尽くされていて、グッときます。

「Cirrus」の冷ややかな質感というのは、真夏に聴くと、三ツ矢サイダーを一息に飲み干すような、なんともいえないスカッ!とした清涼感、爽快感があってオススメです。「Sapphire」で繰り広げられる、シックなダブ・ステップ的なリズムもクール。また、「Jet」においてのチルアウト的な涼やかな雰囲気というのも、気持ちをやわらげ、落ち着かせてくれるはず。さらに、「Ten Tigers」では、いわゆる”グリッチ”(カチカチと引っ掻くような独特なビートが短く刻まれるジャンル)の手法に挑戦しており、低音のバシンというバスドラムの鳴りも心地よい響きとなっています。

 そして、このアルバムの収録曲の中で、ひときわ異質な雰囲気が感じられる曲が「Pieces」。

中盤での、ぶつ切りのようなブレイクビーツ的手法というのも職人芸といえ、もはや圧巻としかいいようがありません。ゲスト参加している”Cornelia”の、キュートでアンニュイな声質も、この曲調にとてもよくマッチしており、歌物の楽曲としても十分すぎるほど楽しめるはず。

このあたりの手法は、九十年代のJ-popのダンス系でも良く使われていたので、なんだか懐かしくて切なくなるような感じもありますね。

他の作品よりも、ダウンテンポ、チルアルトというジャンル性を前面に押し出した今作「The North Borders」は、ボノボらしいリラックスしたおだやかな雰囲気を心ゆくまで存分に味わいつくせる傑作といえるでしょう!



 

Goo Goo Dolls 「Dizzy Up Girls」


ニューヨーク、ブルックリン発のロックバンド、グー・グー・ドールズ。元は三人体制、いわゆるスリーピースでしたが、今は、ドラマーのジョージ・トゥトゥスカが脱退。現在、正式なバイオグラフィーとしては、二人組のロックユニットということになっているようです。

ギター・ボーカルのジョン・レズニックは、どことなくジョン・ボン・ジョヴィに近いハスキーで渋い低い声質をしていながら、ハイトーンもなんなくこなしてしまうというボーカリストとして最良の性質を擁しています。

このバンドの音楽性というのは、どことなくボン・ジョヴィに近いものがあります。けれど、かのバンドがニュージャージーの緑豊かな住宅街にあるような美しい自然のニュアンスを思わせる壮大なバラッド曲が多いのに対し、このグー・グーは1990年代辺りの、およそブロードウェイを思わせるような、都会的に洗練された紳士的ニュアンスあふれる音楽を奏でている印象をうけます。

 


彼等はまた、1980年代から現在まで、ボン・ジョヴィとともに、これぞまさしくアメリカン・ロックだというべき、良質な音楽をリスナーの元に届け続けてくれています。

なぜかしれませんが、同じくらいの良質な音楽性を有していながら、アメリカン・ロック界でのエアロスミスと、ボンジョヴィの知名度にくらべて、このグーグーは、それほど上記の二つのバンドに比べると、ここ日本ではあまり知られていないバンドといえるのではないでしょうか。

しかし、ロック・バラッドというジャンルにおいては、他のアメリカのバンドと比べても随一の完成度を誇るバンドで、先月の十六日、ワーナーから四曲入りのEP「EP21」がリリースされ、そこでも相変わらず美しいバラッドを聞かせてくれています。これまでにはあまりなかった要素、例えば、シンセサイザーのシークエンスも加わり、そこでは壮大な世界観が展開されいていて、以前よりグーグーという存在は早い速度でグングン進化してきているように感じられます。

グーグードールズは、彼等の代名詞的な作品ともいえる「A Boy Named Goo」においてセールス的にも大成功を収めましたが、次の作品「DIzzy Up Girl」では前作のスタンダードなハードロック色はなりをひそめ、代わりに、良質な大人向けのAOR色の強いバラードを展開しています。

このアルバムに収録されている「Black Balloon」や「Iris」において、彼等はロック・バラードという形の新たな境地を開拓したといえ、これまでにはなかった渋みのある都会的に洗練されたメロディーセンスを押し出していきました。

この二曲には、今までの路線とは異なり 、しっとりとしたバラードソングがレズニックのハスキーなヴォーカルによって情感たっぷりに歌われています。彼等の楽曲というのは非常にエモーショナルで、何か彼の人生から引き出される詩的な音楽性が、その中に込められているという気もします。

前の作品よりもはるかに大人な渋い雰囲気が醸し出され、飽きの来ない噛みごたえのある楽曲群で、スタイリッシュでクールな雰囲気に満ち溢れているところが彼等の魅力にひとつといえるでしょう。

1993年「Superstar Car Wash」、そして、1995年「A Boy Named Goo」時代のスタイルから大切に引き継がれてきたアメリカン・ハードロック路線を、このアルバムにおいてもしっかりと踏襲し、その新たな進化をはっきりと示したのが、「Bullet Proof」「Hate The Place」の二曲。

特に、個人的には「Bullet Proof」が彼等の最高傑作の楽曲のひとつではないかと思っています。

レズニックのハスキーでいながらも透明感、ヌケ感のあるハイトーンの歌唱の伸び方というのは、他のバンドにはない魅力で、彼の喉を引き絞るようにして歌われているところも切ないような響きが込められています。そして、上記の二曲においては、NYのブルックリン辺りに充ちている冷たい都会的なクールなアンビエンスがロックとして表現されているのが興味深いところ。

そして、スタイリッシュな雰囲気がありながら、古くからの日本の歌謡曲のようないわゆる「泣き」とよばれる要素があるため、それほど洋楽には馴染みがないという方にもオススメの作品のひとつ。


グー・グー・ドールズの楽曲というのは、よく商業的なアメリカン・ロックというように見做されているところはちょっとだけ彼等が可愛そうな気がします。

実は、彼等の楽曲というのは、使い捨ての安っぽい商業的な楽曲ではなくて、聴き込めばよく分かる通り、詩的な風味に富んだ美しい情緒的なバラードソングばかりです。

 2021年、新作「EP21」もリリースされたことから、アルバムリリースへの動きがあるように思えて、突発的にこの名盤を取り上げましたが、個人的には、グー・グー・ドールズという存在が、今一度、良質なアメリカンロックバンドとして多くのロックファンに再認識されることを切に願っています。


Beach Fossils 「Clash The Truth」


NYというと、The Velvet Undergroundからはじまり、クールでファッショナブルなアーティストたちを数多く輩出してきた土壌ですから、音楽ファンとしては、NYから良質なバンドが出てくるとワクワクしてしまいます。

2010年代から、ニューヨークのシーン周辺から面白いバンドがぽつぽつ出てくるようになりました。これは「インディーロック・リバイバル」と名付けても言い過ぎでない目の離せない流れでしょう。

そこには、Mac De Marco、Wild Nothingといった「Captured Tracks」というレーベルからリリースしているバンドがこのインディーシーンを中心となって牽引してきました。

こういった類にあるバンドもしくはアーティストは、それほど目新しさというのはないけれど、実際、なんらかのツボを心得ていて、おいしいとこ取りの音楽を生み出し続けています。それは、昔の音楽に対するリスペクトを持っているからなのかもしれません。そしてそこに新たなクラブミュージック的エッセンスも含まれているので、古臭いような新しいような説明しがたい印象を覚えます。

彼らの三作目となる「Clash The Truth」もまたCaptured Tracksからリリースで、尖った勢いのあるパンクロックの方向性で、往年のオールドスクールパンク時代の音を彷彿とさせる味もあります。

彼らのバンド名から想起されるとおり、サーフミュージック要素もなくはない、リバーブでグワングワンに歪んだギター。そして、バンド全体を引っ張っていく力強くタイトなドラミング。そして、ボーカルの、暗くアンニュイな雰囲気たっぷりの歌いぶり、ベースの曲を損ねないシンプルな引き締まったフレーズ。これらが渾然一体となって独特の空気感を生み出し、古臭くもあり新しくもあるという妙味が感じられるのが魅力といえましょう。これまでありそうだったのに、実は今までに存在しなかった音楽。こういうバンドがいたら良かったのに、いなかったその一抹の寂しさのようなものを、つまり、ロック史の空白への音楽愛好家たちの欲求に答え、その隙間をものの巧みに埋めてみせたという印象をこのバンドには受けます。現代の音の厚みをどんどん飽き足らずに追求していくような昨今のサウンドの流行りに、「俺達だけは流されない」と、あえて背をむけるかのように、「痩せた音で淡々とクールにステージで奏でる」というのがいかにも都会人らしい、ビーチフォッシルズ独自の持ち味となってます。

しかし、このアルバムでは一転、それまでの淡々さという感がなくなり、これまで彼らが意図的に避けてきたような、情熱的な雰囲気が押し出されています。

シンガロング必須のタイトル曲、「Clash The Truth」の勢いもさることながら、彼らの新たな代表曲といっても差し支えない「Shallow」。そして、同じニューヨークを拠点として長期間活動してきた”Blonde Redhead”のカズ・マキノがゲスト参加をした「In Vertigo」の陶酔とした雰囲気のある楽曲に至るまで、これまで彼らがあえて封じ込められてきた内的な衝動性、つまり、パンクロックスピリットをこのアルバムで余すところなく解き放っています。

「Shallow」については、シングル盤もリリースされていますが、アルバムに収録されているのは別バージョン。どちらかといえば、シューゲイザー風味のあるシングル盤に比べ、アルバムヴァージョンは、曲の狙いがはっきりとしていて、テンポが早く、前のめりな勢い込んだドラミングと、ギターの粗いリフの刻みが合わさることにより、心地よい疾走感を生み出しています。

個人的には、アルバムバージョンが好みですが、どちらも良い要素があって、聞く人によって好みが分かれそうではあります。

「Clash The Truth」というアルバム全体を通して聴くと、彼らがこれまで追求してきたロックの要素、つまり、どことなく荒削りでありながらも曲自体は洗練されている、いわば都会人としての彼らにしか出せない妙味をもって、ひとつの完成形を作り上げたのが今作の特質だといえるかもしれません。

 
NYというと、もともとヴェルヴェッツからはじまり、クールでファッショナブルなアーティストたちを数多く輩出してきた土壌ですから、音楽ファンとしては、NYから良い音のバンドが出てくると何だかワクワクしてしまいます。

2010年代から、NYのシーン周辺から面白いバンドが出てくるようになりました。これは「ガレージロック・リバイバル」ならぬ「インディーロック/ポップ・リバイバル」というように名付けても言い過ぎでないミュージックシーンの興味深い流れでしょう。現在も活発な動きがあるように思え、この辺りから目が離せません。
 
SoundCloud、BandCamp辺りの配信サイトで、NYのインディーロックをチェックしておけば、今のシーンの流れがつかめるだろうし、面白いバンドも見つかるかもしれません。
 
そういった界隈から、マック・デ・マルコ、ワイルド・ナッシング、といった「Captured Tracks」に籍を置くバンドが次から次へと出て、素晴らしいリリースを続けていることによって、この辺りのインディーシーンを中心となって今日までたのもしく引っ張ってきたという印象があります。
 
こういった界隈にあるアーティストは、それほど目新しさというのはないけれど、実際、なんらかのツボを心得ていて、おいしいとこ取りの音楽を生み出しつづけています。
それは、昔の音楽に対するリスペクトを欠かさないからなのかもしれません。そして、そこに新たなクラブミュージック的エッセンスも含まれているので、古臭いような新しいような説明しがたい音を奏でています。

 
さて、ビーチ・フォッシルズの三作目となる「Clash The Truth」もCaptured Tracksからリリース。尖った勢いのあるパンクロックの方向性で、往年のオールドスクールパンク時代の音を彷彿とさせる雰囲気もあります。
 
 彼らのバンド名から想起されるとおり、古びた往年のサーフ音楽の要素もなくはなく、リバーブでグワングワンに歪んだギターの音色。そして、このバンド全体のサウンドを引っ張っていく、力強く、タイトで引き締まったドラミング。ボーカルのアンニュイな雰囲気たっぷりの歌唱法、ベースの曲を損ねないシンプルな引き締まったフレーズ。
 
これらが渾然一体となって独特の空気感を生み出し、古臭くもあり新しくもある、という妙味が感じられるのが魅力といえましょう。これまでありそうだったのに、実は今までに存在しなかった音楽。愛好家としてはこんな音楽があったらいいのになぜか今までなかった。誰かこんな音楽をやってくれないものだろうか。
 
その辺りの一抹の寂しさのようなものを、つまり、ロック史の空白への音楽愛好家たちの欲求に答え、その隙間をものの巧みに埋めてみせたという印象をこのバンドには受けます。現代の音の厚みをどんどん飽き足らずに追求していくような昨今のサウンドの流行りに、あえて背をむけるかのように、淡々とクールにステージで奏でるというのが、ビーチ・フォッシルズの持ち味となってます。
 
 しかし、このアルバムでは一転、それまでの淡々さという感がなくなり、これまで彼らが意図的に避けてきたような、情熱的な雰囲気が押し出されています。
 
シンガロング必須のタイトル曲、「Clash The Truth」の勢いもさることながら、彼らの新たな代表曲といっても差し支えない「Shallow」。
 
そして、同じニューヨークを拠点として長期間活動してきたブロンド・レッドヘッドのカズ・マキノがゲスト参加した「In Vertigo」の陶酔とした雰囲気ある楽曲に至るまで、彼らが今まであえて封じ込められてきた内的な衝動性。つまり、パンクロック精神をこのアルバムにおいて遺憾なく解き放ってくれています。
 
「Shallow」については、シングル盤もリリースされていますが、アルバムに収録されているのは別バージョン。シューゲイザー風味のあるシングル盤に比べ、テンポが早く、勢い込んだドラミングと、ギターの粗いリフの刻みが合わさることにより、心地よい疾走感を生み出しています。

「Clash The Truth」は、ビーチ・フォッシルズがこれまで追求してきた音楽性の要素の延長線上にあり、つまり、荒削りでありながらも曲自体は洗練されている、いかにも都会人らしい彼らにしか出せない通好みの妙味をもって、ひとつの完成形を作り上げたのが今作の特徴といえそうです。
 
ベルベット・アンダーグラウンド、ストゥージズは言うに及ばず、かつて、パティ・スミス、テレビジョン、といったクールなアーティストを数多く輩出してきたNY。また、CBGBをはじめとする音楽カルチャーの重要な発信地でもあったNY。
 
その後も、ストロークスといったバンドを輩出しつづけていて、今も、インディーロックシーン界隈で多くの魅力的なバンドがいまだにひしめき合っているのという事実は、七十年代から現代のこの土地にめんめんと引き継がれている文化的な特色でしょう。
 
そして、個人的には、やはり、このNYという土地のシーンが盛り上がってこそ、音楽というのは世界的にも俄然面白くなって来る気がします。そういった面では、今も、NYという土地は、音楽史を俯瞰してみる面でも欠かさざる最重要地のひとつであることには変わりないのでしょう。

MONO 「You Are There」


あらためていうと、ロック・ミュージックを語る上で、ポストロック、また音響系と呼ばれるジャンルがあり、そこには、シガー・ロス、MOGWAI、GYBE、といったバンドが各国にとっての代表的存在としてミュージック・シーンに鎮座しています。

これらのバンドの音楽性というのは、切れ目のないギター奏法を特徴とし、ドラマティック性を生み出し、長い尺の楽曲中、静寂と轟音の対比によって、空間的に奥行きのある音楽効果を演出するというコンセプトにおいて共通項があります。

そして、日本から米国に、はるばるサムライのごとく渡った四人衆MONOも、二〇〇〇年代から現在にいたるまで、ポスト・ロック、音響系の花形として世界的に活躍してくれているというのは、同じ日本人として頼もしいかぎりであり、もっと彼等の名が一般にも知られてほしいと思っています。

彼等は活動初期から、アメリカに拠点を移し、現在まで息の長い活動を続けています。まだそれほど、ポスト・ロックというジャンルが日本において全然認知されていなかった時代、このバンドの中心人物、Takkakira "Taka" Gotoは、最初のアメリカのライブで多くのファンが自分達の演奏を歓迎してくれた。その出来事をしっかりと受け入れ、のちの活動にとどまらず、異国アメリカで生きていく上での重要な動機に変えていったろうことは想像に難くないでしょう。

彼等のライブスタイルというのも独特で、God Speed You Black Emperror!と同様に、ギタリストが椅子に座り、オーケストラの弦楽器の奏者のように奏でるという独自の特徴があります。それがロックという音のグルーブを体感するというよりかは、ロックという囁き、はたまた、叙情的な唸りに、全く強制的でないにしても、静かに傾聴させるというスタイルを推奨している趣きがあります。

つまり、ロックを体で味わうのではなく、音がもたらす印象に対して、徐々に聞き手が接近をはかっていくという独特なスタイルといえます。

これは演者と聞き手の間で、はじめは分離していた2つの異なる世界の融合をはかるという要素もあるでしょう。

それはこのバンドの中心的な存在であるGotoが、椅子の上に座し、黒髪の長髪を振り乱しながら、淡々と、繊細でいながら激情的なギターフレーズの叙情性を紡ぐ、このスタイルは、視覚的にもクールとしかいいようがない。

サウンド面でも、目の前にある音響世界を拡張していき、曲の終わりにおいて、ミニマルな単位で構成された別世界を聞き手に提示する。聞き手は、曲の最初とまったく異なる世界に入り込むことができるでしょう。

また、それらの演奏中、彼は、椅子の上からほとんど動くことのない、音は動くのに、演奏者が微動にだにしない、このスタイリッシュとしか形容しようのないGotoの様子に、モノの素晴らしさが凝縮されています。

換言すれば、音という表現形態により、抒情詩を、静かに、そのさかしまに、情熱的に詠じているかのような印象も見受けられます。

 

さて、モノというバンドは、他のポストロック界隈のアーティストと異なり、哀愁のある音楽性を特徴とし、そして、モグワイのような、音楽的なストーリー性、もしくは静寂からドラマティックな轟音への移行という要素を持ち、その中にも、日本人的な独特ともいえる要素を持ちあわせているのが特徴。それは、彼等のその後の方向性をはっきり決定することとなった代名詞的アルバム、「You Are There」において、もっとも端的に表されているといえるでしょう。  

 

 

 

一曲目の「The Flames Byond the Cold Mountain」からして、いわゆる「モノ節」は炸裂しまくっており、繊細で叙情性の強い物悲しいギターのフレーズが最初はかぼそく感じられたものが、だんだん一大音響の世界を形作っていきます。それらは曲のクライマックスで轟音という形で胸にグッと迫ってきます。

「The remains of the Day」では、シンセサイザーの奥行きのあるパッドのフレーズに、ピアノの旋律がフューチャーされた美しい情景が思い浮かぶような楽曲。その間に、歪んだリバーブの効いたギターが陶酔した雰囲気を形作っています。

 そして、最後に収録されているトラック、「Moolight」は、モノのライブにおける重要なレパートリーであり、彼等の代名詞的な楽曲。

エレクトリック・ピアノのイントロとギターの繊細なトレモロ奏法が掛け合うような形で哀感ある大きな音響世界を作り上げていきます。その雰囲気は全く弱くはなく、日本の轟音ハードコアバンドEnvyにも比する力強いパワーを持っています。そして、この甘美な深みのある旋律は、ヴァイオリンにより、さらにドラマティック性がつけくわえられます。

しかし、これはドラムのタムの迫力のある連打によって、まだ序章、つまりイントロ似すぎない事がわかります。

その後、丹念に、ギターの哀感のあるフレーズがつむがれていきます。ここでの旋律というのは本当に鳥肌もの、モノ節そのものといえ、他のポストロックバンドにはない、淡く切ない独特な雰囲気が醸し出されています。

中盤にかけては、ドラムのクールなリズムの刻みによって、曲の抑揚が徐々に、徐々に高められていき、およそモグワイとも、GY!BEともつかない、独特なモノだけがつむぐことのできる音響世界が堅固に構築されて反復されていく。

そして、楽曲のクライマックスにかけては、ギターにディストーションのうねりがくわえられて、グルーブ感を伴って進んでいき、その最後には、ほとんどシューゲイザーともいえる甘美な陶酔した世界が完成を迎える。

この轟音のうねりのような世界には、賞賛、感嘆を通り越して、ほとんど惚れ惚れとモノの美しい音響空間の中に惹きつけられていき、アウトロにかけての美しいギターのフレーズの余韻とあいまって、音楽がすっかり鳴り止んでも、その独特な魅力にしばらく浸りきるよりほかなくなることでしょう。

日本からはるばる異国に渡った四人の侍、MONOは、アメリカという土地において、日本人にしかつむぎえない甘美な世界観を、「ポストロック」という形で見事に完成させたパイオニア的な存在と言えるでしょう。

その音楽性、他のアメリカのバンドの持ちえない独特な純和風の「MONO節」という、どことなくものがなしい哀感によって、異国の地の多くのファンの心をしっかりと掴んだ。そして、彼等の魅力というのは、アメリカ国内にどどまらず、世界中のロック愛好家の多くの人々まで評判はひろがりを見せ、いまだ多くの心を惹きつけてやまないようです。




amiina  「The Lightning Project」


アイスランド、レイキャビク発の四人組アーティスト、アミナの良さを端的に表現するならば、その音楽性が可愛らしいおとぎ話のような幻想性を有しており、そして、幅広く雑多な楽器の音響性、どういうふうに音が伝わるのかという特質、オーケストラレーションにおいての管弦楽の基本をしっかり踏まえた上で、それらの楽器を実に巧みに使いこなしているところでしょう。

アミナは同郷の「Mum」にも通じる部分のあるエレクトロニカ・アーティストです。しかし、雰囲気自体は似ているところもあるかもしれませんが、実際聴くと、全然異なる音楽性であることがよくわかります。ムームに感じられるようなロック色は全くなく、このEPをはじめ、彼等の演奏の中で展開されていくのは、絵本にある童話をおもわせるような、とても自然なサウンドスケープです。

アミナの奏でる音楽性は、ポストロックというより、そこから枝分かれしたフォークトロニカ、トイトロニカの分類がなされるでしょう。

特徴的なアクのある声質をバンドの表情とし、電子音楽の印象が強いムームと比べると、ハンドメイドのクラフトを眺めているような素敵な趣きがあります。彼等は、メロトロン、アイリッシュハープ、バイオリン、アコースティックギターと、さまざまな楽器を面白く演奏している点で、ケルト音楽、セルティック的な古典性を感じさせながらも、現代においても全く古びることのない実験的な音楽性を擁しているのが侮れないところでしょう。

 

今回、ご紹介するのは、アミナのEP「The Lighthhouse Project」。他のアルバムも良いのがありますが、楽曲を通して気楽に聴けるという面では、このEPが彼等の作品では随一といえるでしょう。

 

とりわけ、アミナが使用している楽器の中で興味深いのは、テレミンという楽器。

これは、機械の両側に細長い銀色の振動針のようなものが取り付けられており、演奏者がその中央に手をかざし、指揮者のように手を慎重に上下に揺らしながら、音階と音調をコントロールする必要があり、その様子というのは何かしら小型の通信機器を操作しているような面白みがあります。

そして、このテレミンという楽器の「ホワーん」という響きが非常に哀愁が漂っていて、このアミーナの唯一無二の特色となっており、他のアイスランドのバンドよりもはるかに幻想的な個性を色濃く引き出しています。

そして、このテレミンという楽器の独特な揺らぎのある「ホワーん」という独特なトーンの印象が、たとえば、レイキャビクの港近くを吹き荒れる潮風の冷たい流れの音、海辺の岩を打ち付ける波の爽やかな音。

そういった音風景を脳裏に思い浮かび上がらせ、そこにまた、旋律に、哀切な叙情性のあるニュアンスがそっとやさしく添えられているというのが、このアミナというアーティストの奏でる音楽の特色といえそうです。

 

今回はアルバムではなく、EPなので、非常に簡単ではありますが、曲紹介をしておこうと思います。

 

・「Perth」

落ち着いたギターの音色、メロトロンの上に流れてくるテレミンの響きというのは非常に美しい清流の流れに目をつぶって、その音にじっと耳を澄ましているかのようにも聞こえてきます。

このテレミンの独特の揺らぎが曲の全体の雰囲気を支配し、さらにそのテレミンの弦楽的な演奏の上に奏でられるアイリッシュハープの爪弾きを聴くと、アミナの持つ独特な可愛らしい神秘的な世界にいざなわれていくかのよう。

 

・「Hilli LightHouse versoin」 

アイリッシュハープの音色がとても心に染み渡ってくる優しい曲です。

その上に自然な形、それほど歌うというような感じではなく、ハミングするように乗ってくるコーラスというのも穏やかな気分にさせてくれます。

この楽曲も又、一曲目と同じようにテレミンがとても印象的です。 

その上に無駄な付加物を削ぎ落としたシンプルな装飾的な和音が添えられることによって、どことなく哀感がこもっていながらもキラキラした輝きのあるインストゥルメンタル曲。 

 

「Leathe and Lace」

一転して、少し涼味のあるギターフレーズからはじまり、途中ではテレミンの低いトーン、そしてバイオリン、ビオラの美麗な旋律、そしてトレモロの技法がこの曲をドラマティックにしていて、映画の印象的なワンシーンに使われて違和感のない楽曲。

 

・「Kola」

グロッケンシュピールのイントロからして、幻想的な森の中を歩いているかのような気分になります。

ここでも、雰囲気作りとして、テレミンがグロッケンの背後にアンビエンスを形作っていて、音のマッチングがよくあっています。

コレ以上はないというくらい、楽器の特徴をよく知っているがゆえに、その楽器の魅力が生かされています。なんともオルゴールのようなグロッケンの響きをずっと耳をすませていたくなるようです。 

 

・「N65°16,21 W13°34,49」

この最後の楽曲だけ、汽笛の音風景を表したかのような音楽性で、他の曲とは異なる独立した雰囲気をにじませています。一貫しておとぎ話のような世界に浸っていたところへ、ついに、その外側へと踏み出していって、海辺の灯台のような景色が開けた場所が眼前にたちあらわれる。

それはジャケットににあらわされているイルランドのレイキャビクの海岸の風景が現実味を持って迫ってくるかのよう。この曲で、聞き手は長いおとぎ話から解き放たれて、現実世界に舞い戻ってくることがかなうでしょう。

 

 全体的には短い曲で、聴いていたらあっという間に終わってしまうのが惜しくなるようなEPです。もちろん、作業用のBGMとしても、その効果を最大限に発揮してくれるでしょう。

 そして、アミナの奏でる音というのは、生楽器の演奏がひとつずつ丹念に縫い合わされているような印象がありますから、それほど音楽にくわしくない人にも、穏やかな音の楽しみをあたえてくれます。

それは彼ら彼女らのつむぐ音というのが、やさしく頬を撫でる夏のそよ風のように澄んでいるからかもしれません。大人でも子供でも、なんとなくアミナの良さはわかるでしょうし、そして心の中にある塵をも取り払ってくれる、いわば癒やしの効果もあります。

たとえば、曇りがちで、あまり気分がはれないような日も、このEPの音に耳をすましてみれば、さわやかな涼味をおぼえさせてくれ、なおかつ塞いだような心をもパッと晴れわたらせてくれることは請け合いでしょう。

 

「参考」

last.fm amiina バイオグラフィーhttps://www.last.fm/ja/music/Amiina/+wiki

テルミンとは MaderinElectron.com https://www.mandarinelectron.com/theremin/


Tortoise 「TNT」



およそラーメンの好みのようなものでしょう。あんなに毎日のように家系ラーメンばかりを食べていたのに、それがいつしか胃がさっぱり受け付けなくなり、もう油っぽいのはごめんだと、昔ながらの中華そばばかりをむさぼり喰らうようになる日がいつか来る。

そう、ロック音楽というのもまったく同じで、若い頃には、刺激的なもの、こってりしたもの、ノイジーなものをむさぼるように求め、徐々に興味がマニアック、コアになっていきます。しかしながら、不思議なことに、その刺激性を求める嗜好性が極点に達したとたん、そういうものに全く興味がわかなくなり、いつしかそれとは真逆の音楽性、静かな、自然で、落ち着いた音楽を求めるようになります。

いわば音楽嗜好の分岐点。ある人は、そこで、ジャズに向かうかもしれませんし、クラシックに向かうかもしれませんし、また、ある人は、クラブミュージックに向かう人もいるかと思われます。こと私の場合は全方向にがむしゃらに進みつづけております。 

 

 

 

さて、このトータスという「ガスター・デル・ソル」のメンバー、ジョン・マッケンタイアの中心とするプロジェクトは、そういったノイジーな音楽に飽きてしまった人にとって、ぴったりな大人向けの音楽を奏でています。

彼等の特徴というのは、上記に挙げたジャンルをすべて通過した後に、それら全部の影響を咀嚼して生み出された独特な風味のある音楽といえます。シカゴという土地で、ロック、ブルーズ、ジャズ、ハウス、そしてとりわけ「I Set My Face to the Hillside」に代表されるようなスパニッシュ、もしくはジプシー性の感じられる異質な民族音楽、このアルバムに収録されている全ての楽曲というのは、多種多様な人種の音楽を通過したのちにしか絶対に生まれでない渋みある音といえます。

おそらくトータスのメンバーは、シカゴという土地で暮らす上で、生活の中に当たり前のように鳴っている音楽を最大限に楽曲に活かしています。おそらく、アメリカの街角では、他の土地よりもはるかにこういった多人種の奏でる音楽が手の届くところで聞けるのでしょう。日本人にとっては、驚くべき音のように聞こえますが、実は、トータスにとっては街にある当たり前の音楽、それが生かされているだけであり、彼等にとっては何ひとつも驚異でなかろうと思われます。しかし、世界的には、彼等の音楽というのは、驚異であるかのように聴こえるのも興味深いところです。

トータスは、その五人編成という音の厚みを出す上で恵まれた構成で、白人と黒人が一緒に混在しているバンドという面では、ビースティ・ボーイズのような印象がありますが、彼等ほどには尖ってはおらず、落ち着いた音楽を提供してくれています。ビースティ・ボーイズもですが、こういった白人と黒人が混在しているバンドは、面白いエッセンスが出てくる場合が多いです。

 

ラップトップの上にレコーディングシステムを構築し、複雑なサウンド・エフェクトを最大限に活用しているのが、このアルバム。追記として、大阪、枚方市出身のエレクトロニカ・アーティスト、竹村延和が最後の主題曲「TNT」でリミックスを手掛けているところが興味深いところです。

しかもこれは、最終盤のリバーブエフェクトの広がり方がほとんど鳥肌ものであり、またホーンを使った渋いミニマル性の強い楽曲。これはエレクトロニカ界の屈指の名曲と断言します。

 

このトータスというバンドは、シカゴ音響派、もしくは、ポストロックという文脈上で語られることが多く、自分たちの作りたい音をとことんまで追求していった結果、こういった多彩なジャンルを通過した音楽性に至ったといえます。

もちろん、多重録音の要素もあるでしょうが、このアルバムについては、相当な数のセッションを重ねた末にレコーディングされたものと思われます。しかし、それは苦虫を噛み潰したような顔をして生み出されたのでなく、メンバーがスタジオに籠もってたのしく音遊びをしているうちに自然と完成した感じがあって、それが彼等の音楽にそれほど気難しい印象をうけない理由でしょう。

同郷シカゴのバンド、Sea And Cakeのジャム・セッション感の強い音楽と同じく、彼等の音の出の風通しが良いため、全然、身構えず、くつろいだ気分で聴きとおすことができるはず。しかし、それは彼等の楽曲が弛緩した印象を放っているわけではなくて、時には、抜けさがないストイックさも随所に見られます。シー・アンド・ケイクに比べると、ジャズ・フュージョンふうの玄人好みの音であり、その中にも、ガスター・デル・ソルの放つようなアヴァンギャルドめいた緊張感や緊迫感がある。これが実は、トータスというバンドの魅力で、掴みやすいところがありながらマニア向けでもあるという、矛盾めいた両極端の要素を持った音を奏でています。

その理由は、彼等が楽曲の細部を御座なりにせず、楽曲の小節の切れ目に至るまで細かに配慮し、絶妙な間を図ったかのように音を出す、いうなれば、これしかないという完璧なアンサンブルを奏でているから。

 

このアルバムのすべての楽曲には、これまで浸透していたレコーディング技術を遥か上を行くような高度な洗練されたリミックスが施されている点から、アビッドテクノロジー社の提供する「Pro Tools」、もしくはアップル社の提供する「Logic Studio」のようなDAW(digital audio worksystem)が一般的に浸透しはじめた時代のテクノロジーの恩恵を大いにうけた音楽といえます。

十数年前、最初にこのアルバムを聴いて驚かされたのは、「The Suspension Bridge at Iguaz Falls」や「Four Day Interval」の二曲に代表される、マレットの独特なかわいらしい音色でした。

それがすでにノイジーなロック音楽ばかり聞くことに嫌気が差しはじめていて、何か静かな音楽はないかないかと探しまわっているところに、トータスの音楽、とりわけ、このマレット・シンセの独特のゆらめきある音が、耳にスッと飛び込んできて、言いしれない安らぎのようなものを感じました。ロックという音楽を、相当数聴いてきたつもりでいて、それで全部が全部の音楽を知ったように思っていたため、そのマレットの音に打ちのめされ、腰が抜けそうなくらい驚かされました。今ですら、マレットというのは、アメリカン・フットボールあたりのエモコアバンドが当たり前のように使用しているので、それほど斬新ではないように思えますが、やはり、そういったバンドを知らなかった時代において、木琴楽器のロック音楽の中での使用に対して、相当な驚きをおぼえざるをえなかったです。

 

およそ1990年代半ばくらいまでのロック音楽を通し聴いてきた印象といえば、ギター、ベース、ドラム、シンセサイザーが加わるくらいの編成が主流であったはずで、そういう音楽しかロックではないのだと偏った考えを持っていたため、こういった全くアナログ感のある木琴楽器、クラシック、ジャズ、ブラック・ミュージック界隈でしか使われないはずの楽器を、柔軟な発想で取り入れ、さらにそれを楽曲の中で、主体的に使用するというのは目からうろこでした。

同じ頃、シガー・ロス、ムームをはじめとする、アイスランドのレイキャビクでもポストロックのジャンルが生まれ出る動きがありましたが、こういった今まで使われなかった楽器を編成の中に積極的に取り入れていく手法というのは、次世代のロック音楽に、革新的なニュアンスの息吹をもたらしたことだけは間違いないでしょう。

そして、シカゴ音響派の二大巨頭、トータス、ガスター・デル・ソルの台頭がその後のミュージックシーンに与えた影響は計り知れないものがあったであろうし、二〇〇〇年代に向けてのアメリカのロック・ミュージックにとって重要な転換期に当たったのではないかと思われます。

このアルバムで、全ての楽曲の主体的な印象を形作っているのが、マレット、そしてもうひとつが、アナログシンセサイザーです。

今や、デジタル・シンセが主流となった時代の音楽に、旧時代の電子音楽、たとえば、古くはクラフトヴェルク辺りがアウトバーンなどにおいて鳴らしていたアナログシンセの「ギュゥイーン」というアナログ信号でしか出し得ないニュアンスの音が、むしろどことなく新らしく感じられるよう。

 また、ドラムのジョン・マッケンタイアのシーケンサーを巧みな使用、またあるいは、プロツールズのWAVE(およそ今日のマスタリング、録音した音楽を完成品としてパッケージする際に多くのプロミュージシャンによって使用されている)のようなソフトウェアを介しての複雑なサウンド・エフェクトのほどこされたドラム、またはドラムという楽器の生の響き、その音の魅力を重視した上で、クラブミュージック的なサウンド加工を施し、アナログではなくデジタルなニュアンスを与えています。

その意図というのは、これまでブレイクビーツ界隈のアーティストの独占権であったはずの打楽器的な音響効果をロックミュージックにいる人々にも、こういう手法があるのだというように告知し、ロックという手狭な表現方法に行き詰まりを感じていたアーティストたちを解放してみせた功績というのはあまりにも大きなものだったはず。

そして、その革新性がこのアルバムに独自なエキスを与えて、トータスの音楽性の印象を形作り、とても聞きやすくもある一方で、玄人と自負するリスナーの耳にも、これはなかなか手ごわい、侮れないと思わせた要因といえるでしょう。

そしてまた、「Almost Always Is Nearly Enough」での、ボーカルサンプリングのリズム的な使用法、その上に乗ってくるキレキレのブレイクビーツのクールさというのも、リリースしてから二十年も年月が経っているというのに、これは今でもアヴァンギャルドとしかいいようがなく、その後のロックミュージックに新たな息吹を吹き込んでみせたことは間違いなかろうと思います。

 

この「TNT」には、無数のジャンルの音楽性が良いとこ取りで詰め込まれていて、長く聞くに耐えるほどの、渋みを持ち合わせた良質なアルバムであることだけは疑いなしです。そして、ここには、のちのポスト・ロックだけにとどまらず、エレクトロニカ、インディーロックといったさまざまなジャンルの萌芽が見られ、それらの要素が洗練された形で、スタイリッシュに昇華されています。

つまり、トータスというロック・バンドは、このデジタル的な性質の強い音楽を、あくまでアナログの表情を前面に突き出して、それを独自のインストゥルメンタル楽曲にしたのが主だった特色。

そして、それこそが、彼等の音楽の独特な性質を形作り、空のCDケースの表に黒いマジックで手書きしたかのような可愛らしいジャケットデザイン。そのキュートな印象とも相まって、「これぞ!」もしくは、「あんた達、ほんと良くやった!!」と、トータスのメンバーの肩を叩いて労いたくなるような、通好みには実にたまらない嗜好性が満載のアルバムが完成するに至ったといえるでしょう。