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インディーレーベルについて

 

 

世界各地に点在するインディー・レーベルの成り立ちについて知ることほど面白いことはない。


なぜなら、メジャーレーベルと異なり、こういったレコードレーベルは、必ずしも巨大な資本を持つ企業があらたに経営に乗り出すことは稀であり、独特でユニークな経営方針を持って運営される場合が多いからだ。

 

こういったレコード会社は、メジャーレーベルとは異なり、ラジオ局で知見を深めた人間、独立したファンジンの発行者、レコードショップの店員、実際のミュージシャンが新たに事業に着手するケースが見受けられる。 それはここ日本でも変わらず、レコード・レーベルを始めるのは、それなりに業界で経験を積んだ多くのコネクションを持つ無類の音楽好きである場合が極めて多い。

 

レコードレーベルとしては、設立当初の規模の大小にかかわらず、後に一定規模の企業に成長していく実例もなくはない。もちろん、それは一部の例外といえ、多くは放漫経営により資金繰りの目処が立たず、新しい作品のリリースがままならなくなり、破産に至る事例も多く見られる。

 

さて、シアトルに本拠を置くサブ・ポップ・レコードは、二人の若者によって設立された企業である。

 

サブ・ポップは、設立当初こそ放漫経営を行っていたが、後に、一定の規模の企業に発展していく。1980年代から1990年代にかけて、グランジシーンを牽引したアメリカの名門インディーレーベルのひとつに数えられる。現在、シアトルの空港内にレコードショップを構えており、この土地を代表するレコード会社として知られている。


 

 


二十代の若者二人により設立されたサブ・ポップは、後に、イギリスでもグランジという言葉を浸透させたアメリカの歴代のポピュラーミュージック・シーンにおいて見過ごすことのできない重要なレーベルである。

 

何度となく、サブ・ポップは経営破綻しかけるものの、そのたび幾度となく蘇生してきた。一度、ワーナーミュージックに買収されるが、レーベル経営はその後、比較的安定化していき、2021年現在もアメリカのインディーシーンで一定の影響力を持ち、アメリカ国内のミュージックシーンの繁栄に寄与しつづけている企業だ。

 

現在も、多岐に渡るジャンルの作品をリリースし、個性的なアーティストを輩出しつづけるサブ・ポップは、レーベルの理念としてアメリカの先住民の人々に深い敬意を表している珍しいレーベルであるが、どのように創設期から現在までの道程をたどったのか、その概要について今回記していきたい。 

 

 

 

1.Sub Popの二人の設立者

 

 

 

サブ・ポップは、二人の若者によって設立された。後のグランジシーンの生みの親ともいえるのが、ブルース・パヴィット、カート・コバーンと親交が深かったジョナサン・ポネマンである。まず、この二人の人物のレーベルオーナーになる以前のバイオグラフィーについて、簡単に纏めていきたい。

 

 

 

・Bluce Pavitt

 

 

サブ・ポップの経営者となるブルース・パヴィットはアメリカ・シカゴ郊外で生まれ育つ。パヴィットは若い頃、AMラジオを聴いたり、シカゴのレコードショップ「Wax Trax」(インディー・ミュージックの公式学校として認可されている)を訪れたり、「Villlage Vice」という音楽雑誌を購読して、音楽に対しての知見を深めていった。  

 

 

サブ・ポップの設立者 ブルース・パヴィット https://brucepavitt.com/



その後、彼は、当時、米国内でインディーミュージックを唯一専門オンエアしていたワシントン州のラジオ局「KAOS」で学び、エバーグリーン州立大学に転校。ラジオ局と地元のミュージック・シーンにささやかな貢献を果たした。

 

ラジオ局「KAOS」において、ブルース・パヴィットは、「Rock」の時間帯を受け継ぎ、新たなバンドを「Subterranean Pop」という番組内で紹介した。

 

その後、ブルースは、アメリカのインディー・ミュージックに特化した音楽雑誌「Subterranean Pop」を立ち上げた。(後の「Sub Pop」という名は、この雑誌に因んでいる)1980年代当時、現在のように、インディーミュージック自体が流通する手段が整備されておらず、アメリカ国内ではインディーロックバンドのレコードを入手したり、ラジオ局でオンエアされる以外のバンドの音楽に触れるのはかなり困難だったという。

 

従って、ブルース・パヴィットはこの時代から、独自に発見した一般的に知られていないインディーミュージックを、米国全土に普及させていきたいと考えていた。雑誌の発行部数が増加するにつれて、パヴィットは、カセットコンピレーションのリリースを考案した。これは、後のサブ・ポップレーベルのリリースカタログの重要な概念となった。パヴィットは「Subterranean Pop」の購読者が、自分自身が執筆した音楽の記事だけでなく、実際の音に触れてくれることに深い喜びを感じていた。この時の出来事について、ブルース・パヴィットはこのように回想している。

 

 

音楽ファンが何らかのレコードを購入するとき、彼らの多くが、音楽そのものだけでなく、アーティストによって提示される価値観やライフスタイルにも触れてみたいと考えているのを私は知っていました。だから、私は、そういった情報や音源を率先して提供していこうと考えたのです。

 

また、この1980年代のアメリカにおいて、既に、ハリウッドの打ち立てた産業構造は完全に形骸化しており、(編注・資本家が宣伝したいものを巨大な商業ルートに乗せ、商品を需要者に押し付ける資本家の搾取のことについて、ここでパヴィット氏はきわめて暗示的に語っている。もちろん、言うまでもなく、現代のアメリカだけでなく、ヨーロッパの業界全体にもこういった悪弊は残されている)この時代、新しいサウンド、新しいヒーローの登場を、アメリカの社会全体、多くの人々は、切望していたのです。そのための何らかの手助けをしたいと、私は考えていたのです。

  

 

1983年、パヴィットは、エヴァーグリーン州立大学を卒業後、シアトルに転居する。それほど時を経ず、「Fall Out Records」というレコードショップを開店する。 「Fall Out Records」は、シアトルのキャピトル地区で最初のインディーレコードショップとなった。彼は、このレコード店を経営する傍ら、執筆活動にも精励するようになり、雑誌「The Rocket 」に「Sub Pop USA」というコラムを掲載しはじめる。これは、彼がエヴァーグリーン州立大学時代に発行したファンジン「Subterranean Pop」の雑誌の続編の意味を持ち、月間コラムの形式で掲載され、この雑誌の購読者の間では「インディーミュージックの聖書」という愛称で親しまれていた。

 

また、この時代から、ブルース・パヴィットは、KCMU(現在、ワシントン州シアトルに本拠を構えるラジオ局「KEXP」の前身、オルタナティヴやインディーロックを専門とするラジオ局で、ミュージックシーンから高い評価を受けている)で、インディーズレーベルのスペシャリティーショーを主催し、広い範囲にインディーミュージックを紹介する役目を担っていた。


1986年になると、ブルース・パヴィットは、初期のSUB POPのレーベル運営に乗り出していった。

 

その手始めに「SUB POP Compilation 100」、グランジムーブメントの黎明期を代表する作品、サブ・ポップのカタログ第一号として、Green Riverの「Dry As A Bone」をリリースした。 

 

 

 

Subpop-100.gif
レーベルの第一号となった記念すべきコンピレーション・アルバム「Sub Pop Compilation100」


http://www.petdance.com/nr/discography/, Fair use, Link


 

 

 ・Jonathan Poneman


 
サブ・ポップ・レコードのもうひとりの設立者、ジョナサン・ポネマンは、上記のブルース・ハヴィットとは異なり、バンドマンとして、このレーベルの経営を支えてきた存在である。
 
 
Nirvanaのカート・コバーン(左)とSub Popの設立者のジョナサン・ポネマン(右)
 
 
ジョナサン・ポネマンは、オハイオ州トレドで生まれ育った。彼は、十代の頃から、いくつかのガレージロックバンドで演奏してきたミュージシャン経験のある人物である。(本人は、自分は決して良いミュージシャンではなかったと謙遜して語っている)
 
 
ジョナサン・ポネマンは、ミシガン州の寄宿学校に短期間在籍した後、いくつかの高校に転校した。それから、シアトルに転居して、最終的には地元のラジオ局KCMUで、ボランティアとして、勤務するようになった。
 
 
しかし、このラジオ局に勤めることになった経緯については、ポネマンは無自覚であり、いつの間にかそうなっていたという。興味深いことに、このシアトルのオルタナティヴミュージックの重要人物ジョナサン・ポネマンは、いつの間にか、ラジオ局のステーションを駆け巡るようになっていたのだ。
 
 
1985年、 ジョナサン・ポネマンは、ブルース・パヴィットが主催するKCMUのスペシャルショーと称される番組に初めて出演を果たす。彼は、その時、1990年代のシアトルグランジシーンの代表格となるSoundgardenのライブパフォーマンスにいたく感動した。ボーカリストのクリス・コーネルの歌声に深い感銘を受け、ジョナサン・ポネマンは、サウンドガーデンのシングル作をリリースしたいと熱望するようになった。
 
 
この時、ジョナサン・ポネマンは、キム・テイル、ブルース・パヴィットの二人の知己を得て、サウンドガーデンのレコーディングセッションに2000ドルを捻出した。つまり、これがサブ・ポップ・レコードの始まりだったのだ。
 
 
 
 
 

2.サブ・ポップの黎明期

 
 

 

サブ・ポップの設立者ブルース・パヴィットとジョナサン・ポネマンは、1988年になって、レーベル運営の初期投資となる約1900ドルの資金を集めることに成功した。

 

この資金については、不履行になるおそれがある小切手、そうでないものが含まれていた。彼らは、シアトルの小さなオペレーションをフルサービスのレコードレーベルに変え、サブ・ポップのネーミングライセンスと事業に50%ずつ出資し、法人企業としての体裁を整えた。しかしながら、先行投資の設立当初のレーベルとしては多額の投資であったため、サブ・ポップは、発足当初最初の一ヶ月で破産の危機に陥り、その後も、レーベル運営が軌道に乗るまでは、財政的に苦戦を強いられることになった。

 

そもそも、このレーベルの目標は、サブカルチャーに根ざしたアイデンティティを確立することにあった。彼らは、レーベル設立当初から、人々にサブ・ポップと言う名に接した時、シアトルらしい音を思い浮かべてもらえるようにしたいという意図を持っていた。

 

彼らの目論見はピタリと当たり、これは後に「シアトルサウンド」としてアメリカ国内のみならず、国外のイギリスや日本でも知られるようになった。サブ・ポップの初期リリースの多くは、プロデューサー、ジャック・エンディノの協力によって制作された。

 

その後、サブ・ポップのレーベルの名、そして、シアトルサウンドを決定づける魅力的なバンドが数多くシーンに台頭しはじめた。

 

シアトルグランジの始まりとなったのが、Green RiverのEP作品「Dry As A Bone」。その後に、リリースされたSound Gardenのシングル盤「Screaming Life」、「Hunted Down/Nothing To Sat」。


Mudhoneyの「Touch Me I'm Sick/Sweet Young Thing」、「Superfuzz Bigmuff」。Nirvanaの初期作品「Love Buzz/Big Cheese」といった作品群だった。 

 

 

Green River「Dry As A Bone」

 

 

 

Mudhoney 「Superfuzz Bigmuff」
 

 

これらの作品に見受けられる、ギターエフェクター「Big Muff」に代表される、苛烈なほど歪んだディストーションサウンドの台頭は、当時のGuns 'N Rosesや、LA Guns,Skid RowをはじめとするLAの産業ロックが優勢だったアメリカのシーンに、衝撃的な印象を与えたのは事実である。

 

上記のサブ・ポップのリリース作品は、メタルとパンクロックの融合と一般的に称される「グランジサウンド」を象徴する最初期の名盤で、リリースは全てアンダーグラウンドの流通であったが、のちビルボードチャートを席巻するシアトルサウンドの素地を形成した。

 

特に、最初期において、サブ・ポップは、画期的なビジネススタイルを取り入れていた。驚くべきことに、時代に先んじて、1980年代に、毎月、レーベルからリリースされる新しいシングル作をメールで配信するサービス(サブスクリプション方式)を取り入れていた。この事例は、世界で最初のサブスクリプション方式ではなかっただろうか? このサブスクリプションサービスは「Sub Pop Club」と名付けられて、ピーク時には、約2000人の購読者を獲得していた。

 

   

画期的なメールマガジン方式のサブスクリプション「Sub Pop Singles Club」


 

1980年代後半、英国の音楽メディアは、アメリカのパンクロックミュージックとそのサブジャンルに興味を示していた。多くのアメリカのアンダーグラウンドのバンドは、その後、実際にはヨーロッパで成功を収め、アメリカ国内を凌ぐ人気を獲得した事例もある。特に、英国では、ザ・スミスの後の有望なバンドを探し、アメリカ、特にシアトルのシーンに次世代のスターを見出そうとしていた、といえるだろうか?

 

この年代、ブルースとジョナサンは、英国の音楽ジャーナリスト、エヴェレット・トゥルーをシアトルに招いて、サブ・ポップと相携えて成長を遂げる「シアトルシーン」について紹介記事を書くように依頼した。 

 

 

 

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By Greg Neate  CC BY 2.0, Link 英国人ジャーナリスト、エベレット・トゥルー

  

 

以来、エヴェレット・トゥルーは、シアトルのグランジシーンの苛烈な音楽性を痛く気に入り、深い関係を保ち続け、英国内にシアトルのインディーミュージックを紹介するプロモーターとしての重要な役割を担った。

 

彼は、グランジシーンについての取材を重ねるにつれ、シアトルで多くのバンドと親しくなり、その後、ミュージシャンとしても活動する。K Recordsのカルビン・ジョンソン、トビ・ベールのバンドとのシングル作において、ゲストボーカルとしても参加している。

 

また、エヴェレット・トゥルーは、Butthole SurfersとL7のギグで、カート・コバーンとコットニー・ラブを引き合わせた人物にほかならない。その後も、夫婦ぐるみの付き合いをし、家族のような関係を持ち続けた。

 

 

 

 3.グランジの最盛期

 

 

 

グランジの最盛期は、Nirvanaのメジャーデビュー作「Nevermind」が「スリラー」での成功以来、長年にわたり不動の地位を築いていたマイケル・ジャクソンをUSビルボードチャートのトップから引きずり下ろした瞬間に始まり、1994年のカート・コバーンの銃による自殺とともに終わったというのが一般的な通説である。少なくとも、ニルヴァーナがシアトルを代表するバンドであるとともに、サブ・ポップを象徴するバンドであったということは疑いがないはずだ。

 

カート・コバーンが地元シアトルの歯科助手として勤めながら、約2000ドルを貯めて、ほとんど自主制作としてレコーディングされた「Bleach」1989は、サブ・ポップからリリースされるや否や、カレッジラジオでオンエアされ、アメリカの若者の間で大きな人気を博した。 

 

 

Nirvana 「Bleach」1989 Sub Pop

 

 

ニルヴァーナは、この実質的なデビュー作「Bleach」により勢いを増し、アメリカのミュージックシーンに強い影響を与えるようになっていた。 


その後、ニルヴァーナとツアーを行っていたNYのインディーロックバンド、ソニック・ユースは、その時代にゲフィン・レコードの系列会社として1990年に新たに設立された「DGC Records」と契約を結び、レーベルの新しい可能性を探るため、マネージャのジョン・シルバとダニー・ゴールドバーグにニルヴァーナの間に入り、彼らをゲフィンレコードに紹介した。当時、ニルヴァーナのカート・コバーンは、サブ・ポップの財政状況に不満を示していて、このソニック・ユースの伝を頼ろうとしたのだ。 

 

 

 

Sonic Youth Still Life 1991, by David Markey"Sonic Youth Still Life 1991, by David Markey" by JoeInSouthernCA is licensed under CC BY-ND 2.0

 

 

その後、ゲフィン傘下のDGC Recordsは、サブ・ポップから、ニルヴァーナの契約を買収した。「Bleach」の楽曲の使用権については、以降もサブ・ポップに保持された。この権利譲渡を行う際の契約内容には、ニルヴァーナのバンドのプロモーションをする際、サブ・ポップのロゴとDGCのロゴを一緒に用いる規定、その規約をニルヴァーナの後のリリース作品にまで及ばせるという事細かな規定が両レーベル間で交わされた。この時代、ニルヴァーナの想像を遥かに上回る商業面での成功により、サブ・ポップは、その後何年にもわたり、会社の収益面での重要な基盤「シアトルサウンド」をリリースするレーベルとして、全米にとどまらず世界的な知名度を獲得する。



1992年からは、アメリカのロックシーンは、インディーロックに移り変わりつつあった。ニルヴァーナの意図せぬ大成功により(もちろん、「Nevermind」はアルバムジャケットからしてゲフェンレコードがすべて意図的に仕込んだセンセーショナルなリリースでもあった)、本来、オーバーグラウンドに全く縁のないマニアックなインディーロックバンドが次々にスターダムへと押し出されていった。これはまた、既に多くの人がご存知の通り、本来、「亜流」の意味を持つオルタネイティヴミュージックがメインストリームを席巻し、アメリカのミュージックシーンの「主流」に成り代わった歴史的な瞬間でもあった。さらに、アンダーグラウンドシーンから、次なるニルヴァーナを見出すべく、レコード会社の関係者、あるいは業界関係者は熱をあげていた。 


これには、多くのサブ・ポップに所属するバンドが全て対象となり、それまで、このサブ・ポップレーベルのシアトルサウンドの基盤を築き上げた、サウンドガーデン、グリーン・リバー、マッド・ハニーといったバンドも一躍脚光を浴びる。アバディーンを代表するメルヴィンズ(カート・コバーンがハイスクール時代にバンド加入オーディションを受け、不合格となっている)も、それなりの知名度を誇るバンドになった。

 

巨大産業、メジャーシーンに組み込まれることを危惧したサブ・ポップレコードは、この急激なミュージックシーンの変化に際して、何らかの先手を打つ必要があった。 1994年、サブ・ポップはワーナー・ミュージックとの合弁会社を設立する。2000万ドルの巨額の取引を通じ、サブ・ポップは、ワーナーミュージックにレコードリリースのライセンスの45%の譲渡を決定した。これは、前例のない取引だったという。しかし、このメジャーレーベルとの合併後、サブ・ポップは急激にインディーミュージックに対する求心力を失っていくことになる。 

 

 


4.サブ・ポップの一時的な凋落

 


 

ワーナーミュージックとの契約は、サブ・ポップのレーベル運営に、少なからずの変更を強いることになった。レーベルのオフィスが拡大し、ワーナーのレーベル担当者が招かれ、サブ・ポップの企業文化に大きな変化が生まれたのだ。

 

この時点で、創設者のブルース・パヴィットとジョナサン・ポネマンは企業の将来についての考えに明らかな違いが生じ始めていた。

 

ブルース・パヴィットは、レーベルのDIYの理念を保持していきたいと考えていたのに対して、ジョナサン・ポネマンは、企業の収益を増やし、レーベルの財務状態を安定させるため、会社の規模自体を拡大していきたいと考えていた。

 

これは、インディーレコード会社としての理念を守るか、はたまた、最初の理念を捨て、大手レーベルとしての歩みを選択するか、いわばレーベルの分岐点に当たった。ワーナーミュージックの買収、シアトルグランジがワールドワイドなブームとなる中、資本主義の企業文化に対してサブ・ポップも無関心でいられなかった。また、この時代、少数のサブ・ポップのスタッフがワーナーのスタッフに置き換えられてしまったことに、ブルース・パヴィットは深い動揺を覚えていたという。

 

まもなく、最初の創業者ブルース・パヴィットは、サブ・ポップを去っていった。以後、パヴィットは、執筆活動やDJといったレーベル経営とは異なる分野で活躍している。

 

その後、サブ・ポップは、ジョナサン・ポネマンの意向を重んじ、スケールアップを図り、世界中にオフィスを開き、メジャーレーベルのような存在感を示そうとした。しかし、この決断により、皮肉にも、サブ・ポップのレーベルカラーを失う結果となり、以前の特性を維持することが困難となった。正直、ニルヴァーナやサブ・ポップのリリースしたレコードのブームは一過性のものでしかなく、永久的な音楽市場の需要を築き上げるまでには至らなかった。1990年代後半、グランジブームが下火になるにつれ、サブ・ポップのレーベルの経営は息詰まり、1997年には破産寸前まで追いやられた。


この時代、コストを削減するため、余分なオフィスを手放す必要に駆られたのち、残留したスタッフの給料を捻出できないほどになっていた。サブ・ポップのレーベルとしての未来は、決して明るくないように思えた。

 

 

5.最初のレーベル理念の復活 

 

 

 

しかし、再び時を経て、ジョナサン・ポネマンが、シアトルに戻った時、重要なインスピレーションを得た。彼は、それまでの三年間、なんとしてでも巨大なレコード会社へ成長させようと試みていたが、そもそもその考え自体が誤りであったと気がついたのだ。


サブ・ポップと契約しようとするバンド、アーティストはそもそも、メジャーレーベルに属するミュージシャンと異なり、インディー体質、つまり、ある程度、DIYのスタイルを保持し、音楽活動を行っていきたいと考えるアーティストばかりだと、ジョナサン・ポネマンはようやく思い至ったのである。

 

それは、インディーレーベルらしい家族やコミュニティのような近い関係を、レコード・レーベルとアーティストが結ぶことにより、アメリカのインディーロックの重要な価値観であるDIYの精神を強固に構築するものでもあった。むしろ、これらのアーティストは、サブ・ポップというレーベルを通して、他のメジャーレーベルでは味わえない経験を得たいと考え、契約を結ぶことが多かったのだ。

 

この重要なレーベルコンセプトに気がついたポネマンは、以後、企業規模を縮小していく方針を取る。サブ・ポップは、以前と変わらず、財政面での苦戦を強いられ、その将来も見通せないままであったにせよ、ポネマンは、サブ・ポップの社屋をシアトルに戻し、巨大レーベルとしての道を諦め、その後、シアトルらしいレコード企業として小さな経営を続けていくことを決断した。

 

 

その後、幸運にも、サブ・ポップの財政面での困難を救ったのが、The Shinsの「Oh,Inverted World」2001のリリースだった。  

 

 

The Shins 「Oh Inverted World」2001 Sub Pop

 

 

「Oh Inverted World」は、商業的にも批評的にも概ね好評で、新たなサブ・ポップの代名詞とも呼ぶべき名盤となった。The Shinsのレコードは、Sub Popの歴史に新たな1ページを加え、レーベルの明るい未来に向けての新たな分岐点を形作ったと言える。

 

 

 

6.サブ・ポップの現在 シアトルの象徴

 

 

 

2000年代以降、サブ・ポップはジャンルにかかわらず、多岐にわたる新人アーティストの発掘に努めている。

 

2021年現在、ロックにとどまらず、フォーク、R&B、エレクトロニック、ヒップホップ、と魅力的なアーティストが数多く在籍し、刺激的なリリースを行っているレーベルであることに変わりはない。

 

同じように、サブ・ポップは、NYのMatadorと並んで、アメリカの重要なインディーズレーベルとして息の長い経営を続けている。それのみならず、スターバックス、アマゾンと並んで、シアトルを代表する企業であることにも何ら変わりない。サブ・ポップのレーベルの特色、そして、所属するアーティストの独特な音楽性は、現在もシアトルという土地の象徴的なブランドを形成しているのだ。

 

7年前から、シアトルのシータック空港(シアトル・タコマ国際空港)内には、サブ・ポップのレコードショップが開設されている。


ここには、サブ・ポップのPNW関連の商品を販売するパートレコードストア、それから、パートギフトショップであるサブ・ポップ・エアポートストアが開かれており、レコードマニアにとっては見過ごすことのできない観光名所となっている。2021年現在も開設されているのかについては、シアトル現地のファンの証言に頼るしかあるまい。

 



シアトル・タコマ国際空港内のサブ・ポップ公式ショップ

 

2018年にサブ・ポップは、遂に目出度く三十周年を迎えた。いや、迎えてしまったと言えなくもない。(これは、彼らが「創業三十周年」ではなく、「廃業三十周年」と自虐的に呼んでいることからも明らかである)

 

長年にわたるレコード会社として粘り強いDIYスタイルの経営を続けてきたことに加えて、財政面で浮き沈みの激しかったレーベル運営という面で、シアトルのサブ・ポップレコードは、英国のラフ・トレードにも近い魅力を持ったレコード会社といえる。


今後、果たして、どのような素晴らしい魅力を持つアーティストがこのアメリカの名門レコード会社から出てくるのだろう。音楽ファンとしてはワクワクしながら次なるビッグスターの登場を心待ちにしたい!!



・Reference 


「A History of Sub Pop Records」Lauren Armao 2021

アフリカでは、二十世紀を通して、特に、ガーナの首都アクラ地域を中心として、キネマ文化が大きく花開いた。

 

しかし、現在、一時代を築き上げたアフリカの映画産業は、今後発展していく可能性を秘めているものの、前の時代のガリウッド、ノリウッドのもたらした暗い影、負の遺産になっているのではないかとの否定的な見方もあるらしい。

現在、1980年代から1990年代にかけて、アメリカのハリウッド映画が盛んに上映されていたガーナの首都、アクラの映画館はほとんど閉館し、半ば廃墟化しているという。この事実から鑑みると、最終的には、この土地には映画産業は、一般的には浸透していったものの、完全にはカルチャーとして根付かなかったという意見もある。

 

ナイジェリアでは「ノリウッド」、ガーナでは、「ガリウッド」という呼称がつけられている独特な映画文化。近年、アメリカやイギリスでは、このガーナの映画の個人の芸術家が描いたポスターが収集家の間で話題を呼んでいることをご存知だろうか。

 

アメリカ、イギリスの美術館、博物館では、このガーナのモバイルシネマのポスターが独自の芸術として再評価を受けており、欧米人の間で一種のアート作品と見なされている。今回、一般の人々にとっては馴染みがないように思えるアフリカ大陸のキネマ文化について、あらためておさらいしておきたい。

 

 

 

 

 

 

1.アフリカの映画産業の原点

 

 

アフリカの映画文化の起こりは、政治と思想、特に、プロパガンダと深く結びついている。言うなれば、白人としての優位性をもたせるため、映画文化が活用されたのである。このような言い方が穏当かはわからないにせよ、アフリカを統治していたイギリス政府がアフリカの民族の牙を削ぎ落とそうとするための意図も見いだされるようだ。

 

さらに、極端に論を運ぶことをお許し願いたいが、イギリス人は、アフリカの先住民の思想性、文化性を植民地化するために、この映画産業をアフリカにもたらしたともいえるかもしれない。考えてもいただきたいのは、そもそも戦争や侵略の後に行われる地域の植民地化というのは、土地を収奪することが重要なのではなく、その土地の人間の思想性を奪うことに大きな意味が見いだされるのである。

 

19世紀後半から20世紀にかけて、ケニア、ウガンダ、北ローデシア、ニヤサランド、ゴールドコーストを統治するイギリスの植民地時代、イギリスはアフリカの先住民を教育という名目で統治し、啓蒙を行う様々な方法を模索していた。

 

そのため、1935年、英国植民地省は、「バンドゥー教育映画ユニット」をアフリカに設立することを決定する。このユニットは、1937年まで運営されていたが、これは取りも直さず、イギリス植民地の先住民族を文明化する方法として組み込まれた計画であった。


この「バンドゥー教育映画ユニット」の責任者は、ケニアの大規模農場(プランテーション)の所有者で、アフリカについて深い知識を持っているといわれていたイギリス人、レスリー・アレン・ノットカット少佐だった。

 

その後、レスリー・アレン・ノットカット少佐は、このバンドゥー教育映画ユニットの運営を任されるや否や、植民地文化への影響、費用を最小限に抑えるため、地元俳優の起用を取り決めた。1937年になると、ノットカット少佐は、英国植民地省に対し、北ローデシア、ケニア、ゴールドコースト、ウガンダのイギリス植民地で別々の映画ユニットを立ち上げ、ロンドンからの管理を一元化するよう説得を試みたのだった。

 

結果として、英国植民地省は「ゴールド・コースト・フィルム・ユニット」の設立を決定したことに伴い、”ゴールド・コースト”といわれる後のガーナに当たる地域で、アフリカの最初の映画産業が立ち上がった。

 

 

 

 

 

2.アクラに設立された映画ユニット、アフリカ映画文化の黎明の時代

 

 

アクラという土地は、ギニア湾に面した土地で、現在はガーナの首都に当たる。とすれば、この土地に最初の映画産業のゴールド・コースト・フィルム・ユニット、所謂、ハリウッドの撮影所のような施設が設立されたこと、それがそのまま、独立後にガーナの首都となったことは偶然ではないかもしれない。都市というのは、文化の栄華により、人間の文化の営みにより形成されていくからである。特に、このアクラという地域は映画産業を通じて二十世紀を通して産業発展に寄与した土地であったのだ。

 

ゴールド・コースト・フィルム・ユニットが設立された後、さらにこの映画産業はハリウッドのような形で推し進められようとしていた。

 

英国植民地省は、アメリカのハリウッドのような文化をこのアフリカ大陸にもたらそうとしていたように思える。次いで、英国植民地省は、現地アフリカの映画製作者及び俳優を育成するために、「コロニアルフィルムユニット」と呼ばれる映画学校をこの後にガーナの首都アクラという土地に開設することを決定した。

 

これは、LAのハリウッドのような夢のある話に思えるかもしれないが、そのような甘い話ではないようだ。その出発点としては、イギリス植民地省の統治の一貫としての産業発展のための政策のひとつであったといえる。

 

コロニアルフィルムユニットといわれるアクラの映画学校は、地元の映画産業を厳格に管理するように運営されていた。アフリカの最初の映画製作者に、自由性を与えず、厳しい管理下においた制作を行わせようと試みていたのである。英国植民地省は、アフリカの人々に既存の映画を鑑賞させ、以前の知識に基づいた映画文化を再発展させ、アフリカの市民、あるいは創作家たちに創造性を与えようという意図はなかった。

 

 

 

 

入植後、イギリスはアフリカの文化性について、あまりに原始的であると断定づけていたから、英国人はアフリカの先住民に対し、 基本的な映画制作の技術を教えたのみであった。これに加え、この映画産業の勃興に関して問題点を見出すなら、思想的な手法、プロパガンダの手法が、アフリカの最初の映画産業の設立には組み込まれていたことだろう。

 

この映画産業は、イギリスの支配と文明を正当化するために行われたともいえる。これは、さらに踏み込んで言及するなら、ヨーロッパの優位性をアフリカに対して示すために組み込まれた統治政策のひとつだったという見方もある。これらのコロニアル映画ユニットの撮影所で制作された最初期のアフリカ映画は、アフリカの伝統、あるいは古くから伝わる文化性を飽くまで迷信として描写していた。

 

もちろん、アクラに設立されたゴールド・コースト・フィルム・ユニットには、こういったアフリカ先住民の持っていた文化性を薄れさせるという負の側面もありながら、西欧の観点からいう文化産業を発展させる側面もあったことは事実ではないだろうか。


1957年には、ガーナが国家として独立した際、クワメ・ンクルマ大統領は、映画業界のインフラを構築し、制作、編集、配信の設備を充実させ、1980年代にかけてのガリウッド文化の基盤を形作った。

 



3.クワメ・ンクルマ政権下でのガーナの映画産業

 

 

1957年から1966年のンクルマ政権下、ガーナの映画産業はアフリカで最も洗練された文化、映画産業に成長した。クワメ・ンクルマ大統領は就任当初から、映画産業を国家の大きな推進力として事業を構築するという強い政治戦略を打ち出していた。 

 

J.F.ケネディ大統領とクワメ・ンクルマ大統領
 

 

クワメ・ンクルマ大統領は就任以後、ゴールド・コースト・フィルム・ユニットを国別化することを決定し、名称を「State Film Industry Corporation」に変更する。さらに、最終的には、「Ghana Film Industry Corporation」(通称GFIO)として国策の映画産業にまで発展させた。この時代、大統領は、映画産業を通して、ガーナの国家的発展を企図しようとしていたのである。

 

ンクルマ政権時代、ガーナの映画産業は国策の名目により推進がなされていき、国営企業であるガーナ映画産業公社により独占されていた。ガーナの映画産業は厳しいコントロール下において推進されていった。

 

また、1959年には検閲委員会が設置され、ガーナ政府から資金提供を行い、 上映する国際映画を決定し、強い影響を映画業界に与えていた。

 

映画産業の権力のシフトは、1957年から1966年の間に移行し、映画産業の健全な生産性が確立される。少なくとも、産業としてガーナ国内で確立されていく過程、映画館で上映される作品自体がなんらかの政治的思想性、プロパガンダの意味を持っていたことは事実のようである。

 

 

4.ガーナ映画産業の最盛期

 

 

1966年、映画産業を肝いり政策として打ち出していたンクルマ政権が終焉を迎えた後、ガーナのコロニアル映画産業は、一時的に、ゼロからの出発の時期を迎えざるをえなくなった。

 

政権が崩壊してまもなく、彼の政権時代に上映されていた映画作品は全て没収されてしまったのである。しかし、一方、映画産業を再構築させようという動きも起こった。ガーナ映画産業公社には新たなシステムが組み込まれ、ガーナ国外の映画関係者が共同制作、共同監督を手掛けることが可能になったのである。


このガーナの内向きな映画文化に新鮮な空気を与えようとする政府の決定については、ガーナの映画産業の救済策として打ち出されたものであるが、これはガーナの映画文化を発展させるどころか衰退させる負の要因となったという見方もあるようだ。

 

映画業界が国外からの資金調達を検討する必要有りと感じたため、反面、ガーナ政府は、国内の業界全体に対する資金調達を削減した。これにより、ンクルマ政権下では長編映画の制作が盛んであったが、この後代には長編映画制作が減少の一途をたどった。

 

さらに、シネマティックメインストリーム(映画館での上映)は国際映画、例えば、ハリウッドの映画で独占されていたため、国内の映画作品の上映機会が減り、唯一、ガーナのテレビネットワークだけがガーナ国民にとって国内の映画を鑑賞できる数少ない機会となった。

 

結果、ガーナの映画産業は一時的に創作面で衰退していかざるをえなくなり、1966年から1980年代にかけて、ガーナ映画はおよそ20本しか制作されることはなかった。国家の支援、資金不足、および、ガーナの全体的な経済の衰退によって、国内事業の一貫である映画産業は、株価の変動に喩えて言うなら、底を打ったというふうにもいえるだろう。

 

 

5.独自のキネマカルチャーの確立

 

 

ガーナ映画産業公社が国内の映画産業を独占していたこと、映画業界内での資金不足のために、その後、ガーナ人はより独立した映画産業の構築に活路を見出そうとした。それがガーナ内でのインディー・シネマともいうべきカルチャーへと変化してゆく。

 

この動きは、独学の映画製作者であるウィリアム・アクフォによって推進されていった。他の多くの人と同じく、アクフォは自分の映画のために州から資金を調達することが出来なかったので、自分のポケットマネーで自主映画を作成しようと試みたのである。

 

ウィリアム・アクフォは4つの壁方式(映画製作者が映画の全期間に渡ってスタジオ、ステージを借り入れ、劇場の所有者の対価を支払うのでなく、自分のためにチケットの収益を維持する)に従い、映画を低予算で撮影し、自作のスタジオで上映をすることにより、コストを軽減した。

 

ウィリアム・アクフォのこの4つの壁方式として制作された映画の中で最も代表的な作品が、1987年にリリースされた長編ビデオ映画の「Zinabu」だった。この映画は、ガーナのビデオ映画業界に大きなブームを引き起こした。

 

 


 

それから時を経ず、ガーナの首都アクラには、数多くの新しい映画館が建設され、映画ライブラリーが作成され、アクラの町の隅々まで新しい映画を宣伝するバナー、ポスターが沢山貼り出されるようになった。これに従い、ガーナの映画産業は新しい段階に入った。この頃から、ガーナの映画業界は「ガリウッド」と呼ばれ親しまれるようになった。



6.1980年代から1990年代のキネマブーム、モバイルシネマ



1980年代からイギリスの植民地支配以来、初めて、映画はガーナの人々の現代の信念や社会問題を活写する芸術表現へと昇華されるようになった。この時代から、ようやく一般の人々が映画で描かれる日常的な問題について、自分たちの生活と直結した身近なテーマを見いだせるようになった。

 

この時代から、ガーナには移動式の映画館が街なかにお見えするようになった。車の荷台に自動の発電機を取り付けて、その電力により映画を上映するというモバイルシネマという独特の文化が登場した。

 

Ghana Moblie Cinema

 

多くのガーナ人は、この移動式のモバイルシネマに夢中になったはずだが、この文化から副産物的なアート形態が登場した。

 

それが映画の宣伝の為の広告ポスターであった。これは、当初、ハリウッドから輸入された映画、アクション映画、ホラー映画、あるいはセクシー映画などの広告をガーナのデザイナーたちが手掛けるようになったのだ。

 

その始まりというのも、最初は、紙の原料が不足してたため、苦肉の作として小麦袋に絵を描くという原始的な手法であったが、独特のB級の味わいのあるポスター文化が花開いたと言える。

 

そこで描かれるポスターはどことなく不気味な印象でありながらコミカルなタッチが魅力の独特のドローイングアートが生み出されるに至った。 

 

 


 

にわかに信じがたいのは、ハリウッドの配給会社から事前に実際の映像が提供されることは稀であり、これらのポスターのデザイナーたちは映画の内容を自分たちでイマジネーションして描いていたというのだから驚きである。このモバイルシネマ時代のポスターを見るにつけ感じるのは、いかに人間の想像力は素晴らしいものであるのかということだろう。

 

 

7.GFIOの事業売却とガーナ国内の映画産業の終焉


 

1980年代にかけてガーナの映画産業は最初の植民地時代からの長い年月を経てようやく花開いたが、1990年半ばに入り、急速に衰退していくことになった。この要因というのは、最初は厳しい監視下で開始された映画産業が、ガーナ国内でコントロールしきれなくなっていったからだ。

 

結果として生じた問題が、映画自体が、巨大産業というより、自主的に楽しむ芸術としての要素がつよまっていったのではなかったかと思われる。

 

最終的には、植民地政策の一貫として国策事業として始まった「Ghana Film Industry Corporation」(GFID)の存在感する意味も、1990年代からミレニアムの節目にかけて徐々に薄れていかざるをえなかった。

 

その後、ガーナ国内では、映画の違法コピーと配布の割合が高くなり、「性別、暴力、強盗、人権的な偏見、女性差別」といった過激なテーマの映画が頻繁にマーケットに出回り、制作内容の検閲が全く行われなくなり、ガーナ国内の映画産業は無法状態に近くなっていた。おのずと、国家的な事業として始まったGFIDはガーナ政府の重荷になりかわっていた。


そのため、州政府は、このGFIDの株式の約70%をマレーシアのクアラルンプールの制作会社に譲渡することに決定した。

 

これはガーナの映画産業を救済する試みに思えたが、結果としてこの譲渡は産業を閉じていく要因ともなってしまった。

 

GFIDは、「Gama Media System LTD」に名称が変更されたが、新会社は既存の弱りかけた産業構造を回復することも新システムを構築することも出来なかった。2000年代には、1980年代から盛んだった映画館も軒並み閉館となり、コロニアルシネマとして栄えた栄華産業も衰退の一途をたどった。

 

アクラ地域の街には、現在も閉館となったまま土地の買手のつかない映画館の建物だけが多く残されている。



 

もし、仮に、このガーナで映画産業が再興するか、それに類する華やかなカルチャーが再び花開く時があるするなら、本当の意味で、このガーナの首都アクラの人々が国策として押し付けられた思想文化を無理矢理に推し進めるのではなく、自分自身の手に「真の権利」というものを誇り高く勝ち取り、その後アフリカ独自の芸術表現が生み出されるかどうかによる。 その時まさに、本来の意味のアフリカ、ガーナの独自の芸術、表現形態と呼べる素晴らしきものが新しく出来するはずだ。

 


1.ジョン・ピールの回想

 

 

通称、ジョン・ピール、本名ロバート・パーカー・レイブンスクロフトは、1968年からBBCのRadi1番組内の「John Peel Session」というコーナーを担当してきたDJだ。 

 

 

John Peel

  

ジョン・ピールはイギリスのラジオパーソナリティの先駆者でもある。彼が2004年にペルーのクスコで没した後も、イギリスの熱烈な音楽ファンは数年もの間、最も偉大な英国人の48位に選ばれ、英国勲章も与えられている偉大な人物、ジョン・ピールの代役を熱心に探しつづけた、「どこから次のジョン・ピールは出てくる?」またあるいは、「次のジョン・ピールは誰なのか?」と英国のコアな音楽ファンはピールの再来を待ち望み続けていた。英国の音楽ファンは素晴らしい音楽を提供してくれるマスターを探し続けていたのである。しかし、結果的に、音楽ファンは次なるジョン・ピールの出現を見送り、その再来を半ば諦めることになった。

 

ジョン・ピールと同じく、古い時代から「BBC Radio1」でパーソナリティを務めるイギリスの最初の女性DJ”アーニー・ナイチンゲール”がその後、彼の代役に抜擢され、この番組内のパーソナリティーを務めるようになった。けれども、このBBCラジオで最も古くからDJを務める人物であろうとも、ジョン・ピールの代わりを果たすことだけは非常に難しかった。その後、BBCは、ジョン・ピールの代わりはいない、ということを明言することになったわけである。


ジョン・ピールは、1968年から「BBC Radio 1」で放送されていた「John Peel Session」のパーソナリティを長年務めた人物である。英国で最も有名なラジオDJであり、日本のラジオ番組でDJを務める若き日のピーター・バラカンさんも、イギリスでジョン・ピールの番組を聴いていたそうである。

 

1970年代において、ジョン・ピールは、イギリスで最も偉大な音楽プロモーターだったともいえる。当時無名であったロンドンパンクバンドのレコードを次々に引っ張ってきて、実際、自身の番組「BBC Radio1」でオンエアし、無名のバンドを数多くオーバーグラウンドに押し上げていき、UKトップチャートに送り込んでみせた。とりわけ、The UndertonesやGang Of Fourといった今では世界的に名を知られるパンク・ロックバンドは、ジョン・ピールの番組「BBC Raiod1」内のオンエアなくしては、彼らの活躍もなかったと断言でき、つまり、1970年代のパンク、ポスト・パンクが一世を風靡することもなかった、といえるかもしれない。その後も、ザ・スミス、ブラー、といった大御所のロックバンドを公共ラジオ番組内で他のDJに先んじて紹介した。

 

勿論、晩年になっても、ジョン・ピールの影響力はとどまることを知らず、2000年代、その頃、サウスロンドンの海賊ラジオ局でしか流されていなかった「ダブステップ」をBBCで初めてオンエアし、このクラブミュージックムーブメントを後押しした。おそらく、ジョン・ピールという存在がなければ、英国の音楽が現代ほど世界的な影響力を持つことはありえなかったかもしれない、つまり、ピールは、名物DJとして膾炙されるにとどまらず、1960年代後半から現代にいたるまで長きに渡り、イギリスのポピュラー・ミュージックの歴史を支えてきた重要な人物である。

 

ジョン・ピールにまつわるエピソードは事欠かない。私生活での感染症といった私生活にまつわるものはこの際棚上げしておきたいが、おそらく、面白いエピソードを逐一紹介していけば、間違いなく浩瀚な書物が出来上がることだろう。(事実、グラスゴー、カレドニア大学の上級講師をつとめる、ケン・ガーナー氏がジョン・ピールの伝記「The Peel Sessions BBC Books、2007」を書き記している)

 

ジョン・ピールは、その私生活においても、常に、センセーショナルな話題を振りまく人物であったが、ラジオパーソナリティとしても最も過激な人物であった。音楽にまつわるセンセーショナルなエピソードの一例としては、ブライアン・イーノのレコードを勝手に逆回転して「BBC Radio1」で流し、車の中でその放送を聴いていたブライアン・イーノを驚愕させ、「これは私の作品だ。すぐさまジョン・ピールに電話をしなければならない!!」と言わしめたことがある。また、その他にも、BBCのプロデューサーからシングル盤は番組内で流さないように忠告されていたにもかかわらず、ジョン・ピールはセックス・ピストルズの「God Save The Queen」を番組内で流している。彼はこの楽曲が国内外にどのような影響を与えるのか熟知していたのだ。

 

しかし、そういったセンセーナルなDJとしての姿は、ラジオリスナーに強い印象を与えたであろうし、また彼の番組「peel sesshion」においてオンエアされる音楽を鮮明な記憶として残したろうことはさほど想像にかたくないのである。そして、他でもない、ジョン・ピールは1960年代のアメリカのサンフランシスコの最初期のサイケデリア、イギリス、リバプールのビートルズをはじめとするマージービート、その後は、キャプテン・ビーフハートやフランク・ザッパのようなコアな音楽通を唸らせるアーティスト、つまり、オーバーグラウンド、アンダーグラウンド双方のシーンを、リアルタイムで接してきた数少ない証人でもあり、そういった音楽的な見地から選び出されるディスクガイド、パーソナリティとしての語りというのは、どの音楽通もかなわないほどの的確さがあったと思われる。

 

 

2.DJとしてのキャリアの出発

 

 

最初、ジョン・ピールが、ディスクジョッキーとしてのキャリアをはじめたのは、1960年代の初頭であった。

 

まだその年代には、「DJという職業、つまり、ラジオの番組内で音楽を紹介する職業は一般的にはこの世に存在していなかった、少なくともイギリスには存在していなかった」と後になって、ジョン・ピールはこのように回想している。唯一、ヨーロッパのルクセンブルグのラジオ局では、ピート・マレー、アラン・フリーマン、デイヴィッド・ジェイコブといった人物がラジオパーソナリティを務めていたという。

 

ジョン・ピールは、父親と相談し、アメリカに渡り、最初、記者としての職を得、ジョン・F・ケネディーの暗殺事件を取材している。実際、ジョン・ピールは、ケネディ暗殺事件記事を書くため、何枚かの写真を撮影している。その後、テキサス、ダラスのラジオ局”KOMA”で、ラジオパーソナリティを務める。こうしてアメリカでビートルズを専門に宣伝するための専門家として最初のジョン・ピールの仕事は始まったのである。

 

リバプールの音楽に深い見識のあるイギリス人として彼の仕事は、テキサス州のダラスで開始された。ジョン・ピールは、フルタイムのラジオパーソナリティとして雇われ、1964年の終わり、カルフォルニアに移り、サンバーナディーノで、DJとしてラジオ局に18ヶ月間勤務した後、イギリスに帰国している。その頃、彼は、カルフォルニアのラジオにおいて、六時間、ラジオパーソナリティを務め、イギリスのポピュラー音楽を紹介していた。


当時のことを回想してピールは語る。

 

 

「私は六時間の与えられた番組内で、LPを含む、詐欺的な英国チャートを作成することで、どうにかやりくりしていた」

 

 

 

3.ロンドンの海賊ラジオ局からBBCのDJとして採用されるまで

 

 

ジョン・ピールは18ヶ月もの間、カルフォルニアのラジオ局で勤務した後、ロンドンに戻り、海賊局「ラジオ・ロンドン」のPerfumed Gardenのラジオパーソナリティを務めるようになる。 

 

当時、ジョン・ピールは、午前12時から午前2時まで、この番組を担当していた。この頃から、プロのDJとしての矜持を示そうと、後に伝説的なDJ名となる「ジョン・ピール」の称号を同僚のBIG Johnから与えられ、名乗るようになる。ピールは、ラジオ・ロンドンに在籍していた時代には、アメリカのサンフランシスコのサイケデリック音楽、プログレッシヴロックなどのバンドの音楽を中心に番組内で率先してオンエアしていた。

 

イギリスのラジオで、初めて、これらの音楽を公共の電波にのせてオンエアしたのが、他でもない、ジョン・ピールであった。このラジオ・ロンドン(UK RADIO)の番組内で、ジョン・ピールは他の同局につとめているラジオパーソナリティと異なる独自性を打ち出していた。とくに風変わりだったのは、番組内で広告も宣伝せず、ニュースや天気についてと一切報じることもなかったという。

 

ジョン・ピールは、当時、イギリスでそれなりにの人気を博していたこの海賊ラジオ局において、常に誰も知らないようなマニアックな音楽を担当する番組内で取り扱い、音楽についての番組を編成することに専心した。当時、イギリス国内でも全く知名度のなかった、サンフランシスコのサイケデリックロック、プログッシヴロックといったアヴァンギャルド音楽を紹介する合間に、アンダーグラウンドミュージックシーンにおける自分の考えやその関わり方について熱弁をふるっていた。このラジオ局Radio Londonは、数年後に閉鎖されるが、既に、この時代から彼はDJとしての地位をロンドンで確立しはじめており、多くのファンレターをもらう名物DJとしてイギリスの音楽ファンに親しまれるようになっていた。


ジョン・ピールは、ラジオ・ロンドンが閉鎖されてからというもの、新たな「ラジオDJ」としての仕事を探していた。彼は、自分をラジオパーソナリティとして採用してもらいたいという旨を記した手紙をBBC に送っていたことをすっかり忘れていたが、のちに同僚に実物の手紙を目の前に突きつれられたことにより、その事実を渋々ながら認めざるを得なくなった。ともあれ、ジョン・ピールが非常に幸運であったのは、BBC放送もこの頃、「BBC Radio 1」というポピュラー音楽を中心に紹介するラジオ番組を立ち上げており、その番組を担当する個性的なDJ、音楽について最も詳しい人物を探していた。そこで、BBC放送は、既にDJとしてロンドンでコアな人気を獲得し始めていたジョン・ピールといういかにもいかがわしげな人物に、白羽の矢を立てたということなのである。

 

当時、BBC放送が、この人物を自局の名物番組「BBC Radio 1」で放送されるトップギアというプログラムのゲストDJとして、正式に採用する際にも、局内で意見が真っ二つに分かれていた、いや、それどころか、ジョン・ピールという後のBBCのラジオDJとして最も有名な存在となる人物の採用に関しては、当初は多くの関係者が大きな疑義を示していたという。ラジオ局DJとしての実績は疑いを入れる余地は全くなかったものの、それ以前の海賊ラジオ局での勤務経験、あるいは、その毛深い風貌に対して多くの関係者が拒絶を示していた。

 

John Peel Sessionの伝記「The Peel Sessions BBC Books、2007」を記したグラスゴー大学のカレドニア大学の講師、ケンガーナー氏は、この当時のことについて、以下のように述べている。

 

 

1967年10月1日日曜日に放送される「Radio 1」による放送の二日目の午後にトップギアを共催する「ゲストDJ」として最初に登場した男をBBCの誰もが採用したいとは思わなかった。     

    

 

BBC.com  グラスゴー大学のカレドニア大学の講師、ケン・ガーナー氏

 

 

さらにケン・ ガーナー氏はBBCの記事内でこのように続けている。「ウィラル出身の毛深い、恥ずかしがり屋の公立学校で教育を受けた27歳の海賊局のDJ、ジョン・ピールがこのラジオ番組のパーソナリティーとして長く生き残るであろうとは当時誰もが信じていなかった」と。これは一見、かなり辛辣な書きぶりのように思える、イギリスで最も有名なDJとして名を馳せるジョン・ピールに捧げられたウィットにとんだ逆説的賛辞に過ぎないように思われる。

 

また、ジョン・ピールはラジオDJとしての地位を確立した後に数多くの放送賞を与えられている人物でもあるが、彼がラジオロンドンでおこなっていたラジオ番組の構成、ポピュラー音楽の紹介する手法は、当時としては信じがたいほど画期的なものであったらしく、その点がBBC放送関係者にとってきわめて難しい印象を与えていた様子である。しかし、BBC放送内には少なくとも、3人の支持者がいた。とくに、BBC Radio 1の番組「トップギア」のプロデューサーを務めるバーニー・アンドリュースはジョン・ピールのことを高く買っており、BBC局内の中間管理職の人物が「ジョン・ピールを採用しないように」という通告を行っていたにもかかわらず、その忠告を無視し、ジョン・ピールをゲストDJとして「トップギアの顔」に抜擢した。

 

当時としては、蛮行に思えなくもないラジオ番組プロデューサー、バーニー・アンドリュースの勇気ある選択は、ジョン・ピールの音楽の目利きとしての才覚を信じたがゆえに行われ、そして、のちの1970年代から2004年にかけての英国のポピュラー、ロック音楽の潮流を変えた瞬間といえる。また、ジョン・ピールの採用を後押ししたもうひとりの人物、アンドリュースの女性秘書シャーリー・ジョーンズも同じように、ジョン・ピールを気に入っており、BBC Radio 1,2のメインプロデューサーを務めるロビン・スコットとの関係を仲介したことにより、アンドリュースとピールが番組内で良いコンビネーションを築き上げられるように取り計らった。こうして、「BBC Radio 1」に初めてロック音楽を紹介するコーナー「トップギア」が立ち上がった。

 

 

4.DJとしての地位の確立



こうして、ジョン・ピールはイギリスの国営放送BBCの「Radio 1」の番組パーソナリティとしての仕事が始まる。

 

ジョン・ピールは海賊局ラジオ・ロンドン時代に培った経験を元に、誰もラジオで流したことのない前衛性の高い音楽を放送することになった。

 

しかし、のちのインタビューにおいて、BBCの番組ではやはり以前のラジオ・ロンドン時代のPerfumed Gardenという冠番組を担当していた時代より遥かに制約が多かったのも事実である。

 

ラジオ番組内で放送される楽曲の構成については、アンドリュースが半分、そしてピールが半分受け持っていたが、ラジオ・ロンドン時代のように五、六分以上の楽曲は時間の制約があるためにオンエアすることが出来なかった。

 

彼が番組内で流せるのはその大凡が3分の楽曲であった。しかし、その制約の中でも、ジョン・ピールは、比類なき音楽フリークとしての慧眼を発揮し、明らかに他のラジオ番組のパーソナリティとは一味違ったアーティストの楽曲をオンエアしていた。番組を受け持った当初は、サイケデリック・ロック、フォーク、ブルースといた比較的ポピュラーなジャンルが中心であったが、名うてのディスクジョッキー、ジョン・ピールがこれらの音楽のオンエアだけで満足するはずもなかった。

 

その後、ジョン・ピールは、一般的に知られていなかった個性的な新人ミュージシャンのLP盤を、BBCの番組で率先してオンエアしていった。ピールが担当したBBC Radio 1からデビューし、スターダムに押し上げられていったロックバンドは数しれない。

 

ジミ・ヘンドリックスの代表曲「パープル・ヘイズ」を初めて公共の電波に乗せてオンエア、のちにジョン・ピールと深い信頼関係を築いたマーク・ボラン擁するT-REXのデビュー、そして、キャプテン・ビーフハート、フランク・ザッパの名作群。かいているだけで目のくらむような魅力的かつ刺激的な音楽を彼は流し続けた。そして、何といっても、ジョン・ピールの最大の功績は、デビッド・ボウイを発掘したことにある。これらのサイケデリックロックやグラム・ロックの有名アーティストたちは、他でもないジョン・ピールがDJを務めるBBC Radio1の番組で楽曲がオンエアされたことにより、認知度を挙げていったバンドであった。もちろん、ジョン・ピールが紹介していたのは、何も英国内のロックバンドだけではない、番組内ではVelvet Undergroundやデビュー当時のラモーンズの楽曲をBBC Radio1の番組の中で紹介している。

 

またこの年代の後にはデビュー前のアーティストをBBCのスタジオに呼んで生演奏ライブをラジオ内でオンエアしていくようになる。例えば、1972年のロキシー・ミュージックのデビュー作が発表される前、ロキシー・ミュージックはデビュー作を演奏したことでもしられている。

 

次第にジョン・ピールの番組にはデビュー前の刺激的なアーティストが数多く登場し、徐々に音楽プロデューサーの役割を兼任するようになっていく。事実、ピールは、この時代に長期休暇から家に帰宅すると、数多くのアーティストから直々に送られてきたLPレコードが彼の自宅に届くようになっていった。

 

その後、1970年代の中盤に差し掛かると、ご存知の通り、ロンドンパンクムーブメントが到来する。上述したように、ジョン・ピールは、このオールドスクールパンク、そしてその後に続くポスト・パンク、ニュウェイヴのジャンルにのめり込んで、鼻息を荒くしていたように思われる。特に、革ジャンに破れたTシャツを安全ピンで止め、カラフルなかみを逆立てたとびきり風変わりな四人組、セックス・ピストルズがブティックセックスのオーナであったマルコム・マクラーレンの後押しを受けてロンドンに出現した際に、このバンドの音楽をきわめて高く買っている。

 

ロンドンの最も刺激的なブティック「セックス」に出入りしていた若者、ジョニー・ロットンを中心に結成されたセックス・ピストルズの四人組は、デビュー当時、EPやシングルを引っさげてロンドンのシーン登場し、その後、EMIと契約を結び、歴史的名作「Never Mind The Bollocks」をリリースし、パンクロックシーンを象徴する存在となるが、このロックバンドがシングルをリリースするやいなや、BBCの上層部にシングルをかけるのはやめろといわれているのにもかかわらず、ジョン・ピールはその禁を犯し、1970年代のイギリスのミュージックシーンで最も刺激的な一曲「God Save The Queen」をBBCのRadio 1で、4回もオンエアしてしまったのである。ここで妙な考察を差し挟むのは無粋である。言うまでもなく、このロンドン・パンクスたちをメジャーレーベルEMIとの契約へと導いたのは、間違いなくジョン・ピールであることに疑いを入れる余地はない。しかも、この1970年の時代、放送禁止寸前の楽曲群をあろうことか、公共のラジオ電波、しかもBBC Radioに乗せて放送するということが、どれだけ勇気のいることであったのかは、現代の我々の感覚から見るとまったく想像も出来ないほどのなのである。


その後、最初のオリジナルパンクムーブメントが終焉を告げて、ニューウェイブの時代に差し掛かっても、ジョン・ピールは、ギャング・オブ・フォーをはじめとする刺激的なパンク・ロックバンドを発掘していく。

 

特に、ジョン・ピールは、北アイルランドのThe Undertonesの「Teeneage Kicks」にのめり込んでおり、自身の番組内で猛烈にプッシュした。そのかいあって、この北アイルランドの十代のメンバーで形成されるパンクロック・バンドは異例の大出世を果たし、UKチャートで31位を獲得して健闘、世界的なパンクロックバンドの仲間入りを果たしている。その後も、ラフ・トレードから彗星の如く登場したブリットポップのロックバンドを率先して番組内で取り扱い、ザ・スミス、ジョイ・ディビジョン、といったイギリスきってのロックスターがジョン・ピールの番組から誕生していく。

 

この時代からすでにジョン・ピールは、英国全土に最も有名なディスクジョッキーとしての名をはせるようになる。

 

その後、彼はテレビ番組のスモール・フェイセズのライブでユニークにバンジョーを演奏しながら登場したり、「トップ・オブ・ザ・ポップ」という番組のプレゼンターとしても活躍するようになる他、BBCの番組の基本的なナレーションの解説を務めた他にも、「ホーム・トゥルース」ショーでBBC Radio4の番組も受け持つようになり、1980年代にかけて、押しも押されぬ名物タレントの座に上り詰めた。ユニークなキャラクターの名物DJあるいはテレビ司会者として英国の音楽ファン、一般市民にとどまらず、ヨーロッパの人々にも親しまれていくようになった。

 

 

 

5.Peel Sessionから晩年まで

 

 

この年代の後、正確には、1992年から、彼の最も代表的な番組「John Peel Session」の放送が始まった。彼が十二年間、番組のスタジオセッションに招待したバンドは2000以上にも及び、ピールセッションとしてリリースされた音源は、驚くべきことになんと4000以上にも及んでいる。

 

BBCの歴代において名物番組のひとつである「John Peel Session」には後の世界的なブレイクを果たすロックバンドが英国だけではなく、海外から招待され、スタジオ内での無償のセッションが行われた。

 

ライブセッションの録音テープが当日にミキシング、及びリマスタリングされて放送される番組で、ラフなリミックスがほどこされており、いかにも生ライブの魅力がにじみ出ていて、ロックファンからは伝説的なライブラリー音源として見なされている。

 

もちろん、言うまでもなく、ジョン・ピールは、1990年代のイギリスのブリット・ポップの台頭を1990年代の終わりまで間近で見届けつづけていた数少ない人物である。かのブラーも、オアシスも、そして、ニルヴァーナ、PJ Harveyといったスターたちは、みなこのジョン・ピールセッションを通じて世界的な知名度を獲得するにいたった。さらにジョン・ピールの慧眼が凄まじいのは、シアトルのグランジだけではなく、コデインをはじめとする、アングラのスロウコア勢にも注がれていたことだろう。

 

その後、ジョン・ピールは様々なDJとしての偉大な功績が讃えられ、数多くの放送賞、大英帝国勲章を与えられている。彼の手掛ける番組は、その後、BBCワールドサービスで放送されるようになった。2000年代には、かつて自分が海賊ラジオ局のパーソナリティーを務めていた1960年代の時代の境遇とオーバーラップするかのように、「ダブステップ」というサウスロンドン発祥のフロア向けのコアな音楽ジャンルを番組内で紹介し、このジャンルのムーブメントを後押しし、イギリス国内だけではなくアメリカにもダブステップブームを巻き起こした。晩年まで、ラジオ業界、そして音楽業界に大きな影響を与え続けてきた人物にこれ以上の称賛はいらないだろう。

 

絶えず音楽、そして、サッカークラブの名門リバプールFCを愛し、そして、多くの人々に愛されたBBC最高峰の名物DJジョン・ピールは、その最晩年において、自分の死期を悟ってのことか、かつて自分が最も愛した北アイルランドのパンクロックバンド、The Undertonesの「Teenage Kicks」の歌詞の一説をみずからの墓石に刻んでほしいという言葉を生前に残していたようである。正確には、2004年の10月28日、彼は、ワーキングホリデーの最中、ペルーに旅行に出かけていた。その旅先での心臓発作による死去であった。享年六十五歳。彼が、この世から多くの人々に惜しまれつつ去っていった日のイギリス国内の驚愕というのはどのようなものであったのだろう?

 

そこまではわからない、わからないことだけれども、少なくとも、その10月28日当日、BBCはRadio 1の放送予定スケジュールを変更し、一日をかけてジョン・ピールに対する深い賛辞を惜しまなかった。追悼番組内では、ジョン・ピールが最も愛した「Teenage Kicks」が最後にオンエアされ、彼の四十年以上ものラジオDJとしての生涯は幕を閉じた。ジョン・ピールの葬儀の参列には数多くの音楽関係者が参列した。ジョン・ピールの墓石には、「Teenage Kicks」の歌詞の一説が刻まれている。

 

 

*  John Peel Sessionの全カタログについては、有志のbloggerの方が一覧を掲載してくださっています。気になる方はぜひ参考にしてみて下さい。

 

https://davestrickson.blogspot.com/2020/05/john-peel-sessions.html


 

References


BBC.com


https://www.bbc.com/historyofthebbc/100-voices/radio-reinvented/the-dj/john-peel


Radio Fedelity


 https://radiofidelity.com/the-story-of-john-peel/


redbull music academy


interview:John Peel


https://daily.redbullmusicacademy.com/2016/12/john-peel-interview



 

 


 

Superstarは、STAN SMITHと並んで、アディダスブランドの看板モデルともいうべき代名詞的なシューズとして知られる。


シンプルなデザイン、三本のストライプというシンプルかつシンボリックなデザインで、今もスポーツシューズとして根強い人気を誇り、アディダスブランドの看板ともいうべき普遍的なモデルである。Superstarというモデルは、スポーツウェア、ストリート、カジュアル、如何なるスタイルにも馴染み、ファッションの中に気軽に取り入れられる利点がある。一切の無駄を削ぎ落としたシンプルなデザイン性、足の形を選ばず、フィットしやすいという点では、スニーカーの代表格と称することが出来るはずだ。

 

このスーパースターは、アディダスというブランドの知名度の普及に大きな貢献を果たしたモデルには違いない。1969年に、バスケットシューズ、いわゆるバッシュとして発売されたモデルである。ラバーのトゥーキャップをプロテクターとして採用することで、靴業界に旋風を巻き起こした。

 

1970年代には、アメリカのNBAの選手が挙って、スーパースターを着用して魅力的なプレーを行った。シンプルなデザイン性はもとより、軽量で動きやすく、何より、見栄えのするこのスーパースターは、コンバースと共に、大人気のバスケットボールシューズブランドとして認知されるようになる。特に、伝説的なNBAのセンタープレイヤーで史上最強の選手と称される、カリーム・アブドゥル・ジャバーがこのスーパースターを履いてプレーを行い、ブランドの知名度を高めた。

 

そして、同時期、このアディダスのスーパースターは、スポーツウェアからストリートファッションの中に組み込まれていくようになる。このスーパースターを若者のファッションとして最初に流行させたのは、NYブロンクス出身のオールドスクールヒップホップのカリスマであり、エアロスミスとの「Walk This Way」のコラボレーションで有名なRun-DMCをさしおいてほかは考えづらい。 

 

 

 

ニューヨークでディスコムーブメントが過ぎ去り、ダンスフロアのミラーボールが廃れかけた頃に、ヒップホップは彗星の如く現れた。特に、この1970年代のNYで、貧しい黒人の若者たちのクライムに向かう暗く淀んだパワーを、それとは真逆、音楽という、前向きで明るく、建設的な方向に転換させた。NYブロンクスを中心に発展した原初のヒップホップムーブメントの最中、Run-DMCは、最初期のオールドスクール・ヒップホップのシーンが形成される際のきわめて貴重な数少ない体験者でもある。彼らは、見事に、その文化性を、音楽、ファッションという形で世界に発信していくことに成功したアイコンと称するべきスター。 実のところ、Run-DMCの面々は、パンクロックのラモーンズと同じく、ニューヨーク、クイーンズ出身であり、どちらかといえば、中産階級の生活圏内にある若者たちだったはずだが、その最初のヒップホップの内核にあるハードコア精神を受け継ぐ重要なミュージシャンであり、ブロンクスのコアな音楽性または文化性をポピュラー音楽として普及させた偉大な貢献者である。

 

オールドスクール・ヒップホップもまた、パンク・ロックと同じような発生の仕方をしたムーブメントである。その音楽の源流には同じく、DIY、つまり、言葉はふさわしいかどうかわからないが、君たちのちからでやれという重要な精神が宿っているのである。1973年頃から、このブロンクス地区では、驚くべきことに、ストリートの電灯から電源や電気をことわりもなしに引いてきて、それをPA機器に接続し、バカでかい音量でサウンドをかき鳴らすところから始まった違法的なムーブメントである。

 

いくつかの疑問は残るものの、この寛容性によって文化が育まれた。抑制、禁止、束縛、もちろん、そこからは何も生まれでない。はたから見てみれば、どこからともなく集まってきて実に楽しそうに音を鳴らしている連中に口出しできなかったというのが実情といえるだろう。そして、このブロンクス地域の公園で開かれる「ブロックパーティー」という催しの際に、ジャマイカ出身、DJクール・ハークがPA機器を持ち込んで、最初にジャムセッションを行ったのがこのオールドスクール・ヒップホップの出発である。

 

 

その後、他の黒人の若者たちも、この公園に自前のテープレコーダーのような録音機器を持ち込んで、この公園で流れている音楽を録音し、それを自身のトラックメイクに繋げていった。ギターやドラムセットのような高価な楽器を買ったり、スタジオ設備のようなレコーディング機械を必要としない、テープレコーダーとマイクがあれば、貧しくても、音楽が生み出せる。つまり、最初期のDJたちは、ダブ的な多重録音の手法を行うことにより、ヒップホップは確固たる「音楽」としての形になっていくようになる。


この音楽を最初に商業面で成功させ、知名度の面で世界的に普及させたのがこのブロンクスの公園でのムーブメントを間近で見ていたRUN-DMCであった。この1970年代のニューヨークでは、ウォール街やブロードウェイのような表向きの文化性の背後に、バックストリートカルチャー、パンク・ロック、それから、ヒップホップという相反する側面を持つカウンターカルチャーが現れたのはあながち偶然であるとは言えない。表側のウォール街、ブロードウェイに代表されるメインストリートの資本主義のエネルギー、そして、その背後の世界にうごめくバックストリートの生々しい人々のうねるようなエネルギーが微妙なせめぎあいを続けながら、この当時、1970年代から80年代にかけてのニューヨークには、流動的な社会が形作られていたように思える。

 

表側から見えないバックストリートにも、人間は確かに息づいており、そして、そこに暮らす黒人の若者たちは、表側のメインストリートの概念、価値観を初っ端から信用しちゃいなかった。だからこそ、というべきか、ブロンクスの黒人の若者たちは、ヒップホップを始めとする、独自の若者文化を形作していく必要に駆られたといえるのである。自分たちの人間としての権利が決して消滅してしまわないようにするため、彼らは、独自の引用の音楽を、DIYスタイルで始める必要があった。そして、この最初のブロンクス地区のムーブメントの渦中にいたRUN-DMCも、メインストリートの概念には対し、強い反証を唱えるべく登場した3人の若者たちであったように思える。

 

ジョセフ・シモンズ、ダリル・マクダニエルズ、マスター・ジェイ。彼らは誰にでも理解しやすい音楽性を生み出しただけではなく、ファッションの側面においても多くの人を惹きつけるだけのカリスマ性を持っていた。特に、彼らは同クイーンズ出身のラモーンズのように、バンド名を自身のステージネームとし、3人揃って同系統のファッションで統一することにより、ヒップホップのキャラクター性をより一般的にも理解しやすくした。もちろん、これというのは前の時代のブロンクスの最初期のヒップホップアーティストたちから引き継がれた重要なファッションスタイルでもあるが、彼らはその頃、NBAで取り入れられていadidasファッションをクールに、スタイリッシュに、取り入れることに成功したところが他のアーティストとは異なる。

 

黒いポーラーハット、3本のストライプの入ったアディダスのジャージ、それにだぼだぼのワイドパンツを併せ、それに彼らはadidasのスーパースターを紐なしでクールに履きこなした。

 

これはRUN-DMCのロゴと共に彼らの代名詞的なスタイルとなった。後には、RUN-DMCのライブでは、メンバーのスーパースターを見せてくれという呼びかけに観客が答えてみせ、何千、何万という数のスーパースターが掲げられたことは、彼らのスターミュージシャンとしてのほんのサイドストーリー、いわば、飾り噺の一つでしかない。また、RUN-DMCは、adidas公認のアーティストでもあるのをご存知の方は多いはず。後には、RUN-DMCモデルも発売されていることも付け加えて置く必要がある。




 

同年代のNBA文化を時代のトレンドに則して、本来はスポーツウェアであったものを、実に巧みにヒップホップファッションに取り入れてみせたRUN-DMCのファッションスタイルはあまりにも画期的であったといえる。

 

今やオールドスクールと呼ばれるようになってはいるものの、それは本当にオールドといえるのだろうか?

 

いや、そうではない。この三人組の確立したクールなファッション性は普遍性が宿っているようにおもえる。 それは、ヒップホップのキャラクター性という形で今もなおカニエ・ウェストらをはじめとする現代のヒップホップアーティストに引き継がれている重要な概念でもあるのだろう。


 

References:


ヒップホップカルチャーに愛されるadidas


https://jasonrodman.tokyo/adidas-hiphop/


まさにスーパースター! RUN DMCを聴いてadidasを履こう!


https://shoeremake.site/archives/615 


RUN DMCは何が画期的だったのか?


 http://suniken.com/feature/run-dmc-and-old-school-hip-hop-and-my-adidas.html


 

 

今回、たまには、真の意味で味わい深い食の情報を伝えていきたいと思う。さて、クリスマスまで既にあと一ヶ月半という所まで来たが、このクリスマスを代表する洋菓子といえば、やはりショートケーキということになるだろう。

 

11月から、クリスマスケーキ商戦がはじまり、街なか、もしくは駅ナカは、ショートケーキの予約をはじめ、これからさらに騒がしくなっていくものとおもわれるが、もうひとつ、クリスマスを代表する伝統的な洋菓子があるのをご存知だろうか?

 

昨年にはイギリスのエリザベス女王にドイツのパン屋がこの洋菓子をとくべつにプレゼントしたことでも有名なパン。それが、ドイツのドレスデン地方で生産が盛んな「クリスマス・シュトーレン」というパンである。

 

この甘〜いパンは、ドイツでは、キリストの降誕祭がおこなわれる期間、すこしずつパンナイフで切りながら少しずつ食べていくのが往古からの風習のようである。ドイツドレスデン地方には、シュトーレンフェスティヴァルというお祭りもあるらしく、この洋菓子の生産がきわめて盛んだ。

 

語弊があるかもしれないが、このパンというのは、ドレスデン地方に古くから伝わる保存色の一種のように思え、常温保存では一週間かそこらしか保存がきかないけれども、冷凍すれば、一ヶ月近く長期間保存が効くので、ドイツのドレスデンの人たちは、古くは、これを氷室などで冷凍しながら、クリスマスから年明けの期間にかけて、ちょっとずつパンナイフで切り分けてゆっくり食べていったのだろうと思われる。栄養学の観点からみても、粉砂糖がたっぷりとまぶしてあるため、糖分は過剰であるものの、実際の食べごたえに比べると、カロリーは充分に摂取出来る。おそらく、日本でいうところの「お餅」のような保存色のような食べ物としてドイツのドレスデンでは、14世紀くらいから親しまれてきた。

 

このクリスマス・シュトーレンというパン。最近は、結構、ケーキ屋やパン屋で取り扱いがあるのを見かけるようになった。おそらく、大きめのお店なら、クリスマスシーズンになればお買い求めいただけるだろうと思う。まるまる一斤のシュトーレンの価格の相場は、おおよそ二千円弱だろうと思われる。もちろん、だいたいのところは半分に切って販売されている場合も多い。そして、私は、実は、昨年、近所のスーパーマーケットで、小麦粉、薄力粉、ラム酒、粉砂糖、アーモンド、レーズン、ナッツを買ってきて、クックパッドのレシピの手順を参照しながら簡単にこの洋菓子を自作してみたことがあった。正真正銘の「DIYクッキング」である。それも、これも、このシュトーレンという洋菓子を、心ゆくまで味わい尽くしたいという欲求に駆られたからこのような慣れないことをやったのである。所要時間はおよそ一時間くらい、本格派のクリスマスシュトーレンを作るためには、トーストでじっくりたっぷり時間を掛けて焼き上げる必要があるが、それほどの本気度もなかったので、フライパンにアルミホイルを被せて、蒸し焼きのようにして、二十分くらいかけてじっくり弱火で熱を入れていった。

 

結果、出来上がったのは、残念なクリスマスシュトーレン。やわらかいパンケーキに近い出来栄えとなり、この洋菓子の醍醐味であるカリカリッとした食感が完全に失われた。これは、小麦粉を捏ね上げる過程で、捏ね上げ方が少し足りなくて、充分な硬さがつかなかった。しかし、それでも、工程通りに作ったからか、味としてはまずまずだった。このシュトーレンの作り方は、大きめのボウルなどで小麦粉、薄力粉等を練り合わせたのち、その中に、レーズン、アーモンド、ナッツ等を入れてこの生地をさらに捏ねに捏ね上げ、半円状にちかい形状に捏ね、最後の仕上げに、ラム酒をさっとヘラなどで塗り、パンの上からたっぷり粉砂糖をまぶす。粉砂糖をまぶせばまぶすほど、パンの上に粉雪が降り積もったように見える芸術的な作品となる。実際の食感については、一般的なショートケーキほど口当たりが重くなく、ちょっとした洋菓子のような感覚で食べれる甘いフルーツパン。もちろん食べすぎはご法度、糖分の過剰摂取となるのでご注意。

 

このクリスマスシュトーレンの生産は、ドイツのドレスデンがメッカである。その歴史も相当古い伝統的なパンであり、乳製品のバターの使用が禁止されていた1329年に一般的な発祥は求められる。「Stollen」というのは、ドイツ語で「坑道」「トンネル」を意味し、パンの形状がトンネルに見えたからこの呼称が与えられたものと思われる。シュトーレンの起源はなんでも、ドイツの司教がスポンサーとなって開催したパンのコンテストで、このシュトーレンが製作されたのが史実としての始まりと言われる。

 

シュトーレンについての最初の記述は、1474年頃、聖バーソロミュー病院の請求書に、このシュトーレンの名が記載されている。 当時、ドイツ、カトリックの教区内では、キリストの降誕を待ち望むアドベント期間は断食が行われており、また、糧食の材料の緊縮が行われ、希少品、贅沢品であったバター製品の使用が厳格に禁じられていた。ケーキ等を作る際、バターの使用は甘みを加えるのに不可欠であるが、このため、当時のドイツのパン屋は油の使用しか許されず、味気ないケーキしか作ることが出来ずにいたのである。このため、便宜上、さらに甘味のあるパンを作るため、アイディアを絞って作られたのが、シュトーレンというクリスマスのパンだったようである。

 

この状況を打開するべく、サクソン人の選帝候エルンスト王子と兄弟であるアルブレヒト公爵は、教皇ニコラウス5世に書簡を送り、サクソン人のパン職人がバターを使用することが出来るように許可を下してもらいたいという旨を記した要望を伝える。しかし、ニコラウス5世はこの要請を拒否し、使用許可が降りるまでには、長い月日を要している。1490年になって教皇勅書が出され、バターの使用が公式に認められることとなった。

 

以来、シュトーレンは、クリスマスのお祭りのごちそうとして親しまれるようになる。1530年には「Christms Stollen」と正式に呼ばれるように至り、クリスマス、とりわけ、アドベント期間のお祝いと深い関係を持つようになる。1560年頃になると、ドレスデンのパン職人の間で、ザクセン州の皇帝に毎年クリスマスにシュトーレンを贈るという風習が確立される。また、同時期から大掛かりな巨大シュトーレンが作られるようになり、八人のマイスターが18キログラムものパンをパレードの後に宮殿に寄贈する伝統が確立されていく。さらに、これよりも大きなシュトーレンも作られるようになり、1730年、アウグスト2世、ザクセン選帝候、ポーランド国王、リトアニア大公から委託されたクリスマスシュトーレンは、100人のパン職人が集って製作され、3600個もの卵、326個の牛乳、それに、2千種もの小麦粉を掛けあわせた1.8トンもの重量の巨大シュトーレンが生み出されるに至った。

 

また、ドレスデンでは、今もクリスマスの季節、伝統的なお祭りとして、シュトーレン・フェスティヴァルが開催されている。

 


シュトーレン・フェスティヴァルはシュトーレン教会によって主催されるドレスデンの街を代表する年一度の心楽しいお祭り。

 

ドレスデンの街中を、クリスマスシュトーレンを運ぶパン職人たち、そして、中世の仮装をしたドレスデンの数多くの人々が行列を作って練り歩く様子は圧巻だ。このシュトーレンフェスティヴァルは、パンの品評会の趣きがあり、毎年、世界で販売されている200万種類のパンがお目にかかれる。

 

2010年、ドレスデンのクリスマスシュトーレンは、欧州連合により、保護原産地呼称、PGI、つまり保護するべき良質な糧食として認定されるに至ったという。



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 ROUGH TRADE

 

1.世界で最も有名なインディペンデントレーベルはどのように生まれたのか

 

ラフ・トレードは、1978年にインディペンデントレコード店としてイギリスのケンジントンパークロードに開業した。世界ではじめてのインディーレコード会社といっても差し支えない、英国で最も伝統のあるレコードショップ・レーベルである。これまでこのインディペンデントレーベルから、英国を代表するのみならず、世界的に活躍するミュージシャンを数多く輩出して来ている。 

 

  

Record Store Day @ Rough Trade East 09

 

かのスミスも、ストロークスも、リバティーンズもこのレーベルから出発し、世界の舞台へと華々しく羽ばたいていった。いわば、ラフ・トレードは生粋の「イギリスのロックミュージシャンの登竜門」と喩えるべき世界的なレーベルである。


もちろん、言うまでもなく、2020年現在になってもなお、最も英国の音楽シーンで影響力を持つレコード会社であることに変わりはなく、ラフ・トレードからデビューするミュージシャンは大型新人とみなされ、世界のミュージックシーンから異様なほどの注目を受ける。


当初、ラフ・トレードは、インディペンデント系のレコードショップとして発足したが、程なくインディーレーベルとしての作品リリースを行うようになり、1980年代のザ・スミスのブレイクを通じ、イギリスを代表するインディペンデントレーベルに成長した。


しかし、多くの歴代の実業家の生涯と同じように、名門「ラフ・トレード」の歴史は必ずしも順風満帆に進んだとはいえなかった。一度、1980年代後半には、このレーベルの財政状態をひとりきりで支えていた看板アーティストのザ・スミスが解散したことにより、長年の放漫な経営方針による影響をうけ、1990年代の初めにラフ・トレードは債務不履行による経営破綻に陥っている。


創業者ジェフ・トラビスは、この時代において、多額の債権の返済のことばかりが頭にちらついていたと語り、(インディペンデントレーベル-異端者)として社会で生き残ることに対する大きな苦悩を語っている。 


その後、ラフ・トレードは、一企業として多額の債権を抱え、キャッシュフローの返済に追われたが、同国のレコード会社ベガーズ・グループがラフ・トレードショップに救いの手を差し伸べた。ラフ・トレードは、買収され、ベガースグループの傘下に入った。

 

 

2.インディーズレーベルとしての文化的功績を打ち立てるまで

 

ラフ・トレードは、レコードショップオーナーのジョフ・トラビスによって個人事業として設立され、元々、西インド人コミュニティの盛んだったロンドン西部のケンジントンパークロードに文化貢献、「人と人とを繋ぐための役割」を果たすためにオープンされた個人経営のレコードショップとして出発した。


2000年代以降、SNS等を介して、音楽ファンは、旧来よりも容易に他の音楽好きと情報交換や交流が出来るようになったのは事実である。


けれど、少なくとも、この1980年代前後には、音楽文化の発展する過程において、何らかの形で、音楽愛好家、ミュージシャンがある特定の場所を通じ、なんらかの意見交換や交流をする場を提供する必要があった。 


ラフ・トレードは、顔なじみの音楽好きがいつもそこにいて、いつも、なんらかの音楽を介して朗らかな情報交換や交流が行える場所となった。


こういった場を生み出すことは、ジェフ・トラビスの考案したアイディア、音楽による地域の文化形成という側面において必要不可欠だった。そこで、音楽、レコードという媒体を通し、文化の発信の足がかりを提供するため、1970年代の終わり、ジェフ・トラビスは、カナダのニューウェイヴ・パンクバンド名にあやかり、レコードショップ「ラフ・トレード」をイーストロンドンのケンジントンパークロードに開業したのである。 

 

 

Rough Trade East


ラフ・トレードがレコードショップとして開業してからそれほど時を経ず、 この店の常連客であったスティーヴ・モンゴメリーにトラビスは声をかけ、以後、この店の仕事を提供され、マネージャーとしてラフ・トレードの仕事を一任される。翌年になると、ラフ・トレードの従業員として、リチャード・スコットが3人目の重要なショップのキーパーソンとして参加するに至った。


当初、このインディペンデント形態のレコードショップ、ラフトレードは、ガレージロック、レゲエの専門店として発足し、多くの熱狂的な音楽ファンの支持を獲得していった。いかなる営業形態であろうとも、リピーターを期待できない空間から大きな文化が発生したことは寡聞にして知らない。


つまり、エンターテインメント事業は、他では得られない体験を顧客に提供出来るかどうかに尽きるかもしれない。一度で体験しきれない何かがその空間に数多く存在するからこそ、顧客はその場所に通いたくなるものだ。その点、ラフ・トレードは、他のレコードショップでまず扱われないようなマニアックではあるものの通好みの音楽ジャンルを膨大にディストリビューターとして扱っていた。主に、インディーズのガレージ・ロック、レゲエを専門的に扱うことで、他のレコードショップと差別化を図り、大きな満足感をイギリス国内の音楽ファンに与えることに成功したのだった。


現在も、当時と変わらず、レコードショップとしてのラフ・トレードは、CDやアナログの正規盤だけではなくて、ブートレッグ、非正規の海賊版を販売することでもよく知られている。海外からの旅行客は、珍しいブートレッグを購入することがこのレコード店に立ち寄った際の楽しみとなっていて、これぞ音楽通の嗜みである。


いずれにしても、こういった比較的マニアックなガレージ・ロック、レゲエといった音楽を専門に扱うレコードショップは、当時、1970年代後半、それほど多く存在しなかったはず。いってみれば、音楽ファン、需要側の欲求に答えてみせたこと、また、音楽ファンが交流する場を提供したことにより、数年間を通じ、このレコードショップ、ラフ・トレードは、多くの音楽ファン、多くのミュージシャンに膾炙される名物レコード店として認められる。そして、1970年代後半から1980年代初頭にかけ、上記2つのジャンルの他にも当時新たなジャンルとして国内で隆盛していたジャンル、ポスト・パンク、オルタナティヴ・ロックの作品を中心にリリースするようになり、”No Cure”のようなファンジン、ミュージックカルチャーの発信地の名高い場所として、ラフ・トレードは国内だけではなく、海外の音楽ファンにも知られていくようになった。


創業から二年後の1978年、ラフ・トレードは、他の国内の複数のインディーズ・レーベルと提携し、「The Cartel」と呼ばれるインディペンデントレコード生産の流通組織を築き上げた。つまり、これこそ音楽業界における最初のDIYの確立の瞬間といえるかもしれない。このカルテルと呼ばれるネットワークは、”Factory、2 tone”といったレコード会社からリリースされたインディペンデント作品をこのラフトレードを中心に全国的に流通させる基盤を形作った。もちろん、ここからイギリスの音楽ムーブメントは多く沸き起こったことは多くの方が御承知のことと思われる。


ザ・フォール、スペシャルズをはじめとするパンク・ロックバンドがシーンに台頭しはじめた。この年代、ラフ・トレードは、イギリス国内の重要な熱狂的な音楽ムーブメントを支えた。ニューヨークのアーティストの影響から発生したパンク、ニューウェイヴ、それから、八十年代に入ると、スペインのイビサ島からクラブパーティー文化を国内に持ち帰ったマッドチェスターの音楽文化の素地を形成するのに、インディー・アーティストの作品の全国的流通という側面でラフトレードは一役買っていた。もちろん、ジョイ・デイヴィジョンのイアン・カーティスの自殺後に結成されたニューオーダーも、ラフ・トレードというレーベルなしには、その後の世界的大活躍、いや、いや、それどころかバンド自体存在することさえなかったといえるかもしれない。


ラフ・トレードは、1978年、レコードショップにとどまらずレコード会社としての機能も併せ持つようになる。


レーベルカタログのリリース第一号は、ジャマイカの著名なレゲエシンガー、ダブアーティストとしても知られるオーガスタス・パブロのシングル盤。そして、シェフィールドのキャバレー・ヴォルテールのデビューEP。


それから、なんといっても、ニューウェイブ・パンクのシーンの一角を担ったスティッフ・リトルフィンガーズのシングル「Alternative Ulster」だった。特に、この後にリリースされたスティッフ・リトル・フィンガーズのデビューアルバム「Inflammable Matterial」は、インディー作品でありながら、UKチャートで堂々14位にランクインしてみせたことにより、このラフトレードレーベルの最初のスマッシュヒット作品となった。「Inflammable Matterial」パンク・ロック名盤として必ずガイドブックに掲載されるマストアイテムである。とにかく、ガレージ・ロックの風味も持ち合わせたいかにもラフ・トレードのリリースとして相応しい作品といえるはずだ。

 

3.レーベルとしての転換期


それから1980年代にかけて、ラフ・トレードがイギリスでも、いや、世界的にも、名うての名門インディペンデントレーベルに引き上げた存在は、マッドチェスターの始まりを告げたモリッシー、ジョニー・マー率いるザ・スミスにほかならない。 ラフ・トレードはスミスを有望な新人アーティストとして発掘し、わずか5000ポンドという低価格でスミスのバンドメンバーと契約を結んだ。


以後、このバンドの、異常なほどの商業面での成功、世界的な活躍については、既に多くの音楽ファンによってしられているところである。


ザ・スミスは、1980年代後半にかけて、このラフ・トレードの最も有名な看板アーティスト、名物的なロックバンドとなる。「The Smith」「Meat Is Murder」「The Queen Is Dead」といったブリットポップ前夜を彩る神がかりのような大傑作のリリース、そして、スミスのウィリアム・シェイクスピアの文学性に影響を受けた独特なナルシシズムに彩られた甘美で暗鬱なポップサウンドは、マーガレット・サッチャー政権下での苦境にあえぐ多くの若者達の心を癒やしを与え、彼等の精神を支えつづけたのだった。


実は、かのブレア首相も、このスミスの大ファンであることは一般的によく知られている。つまり、このスミスというロックバンドは、最初は、労働者階級から中産階級の若者たちを中心に広がっていった音楽ではあるものの、そののちになると、イギリス国内では階級関係なく聴かれるようになったビートルズの次のビッグスターミュージシャンであった。


このレコード産業としてのザ・スミスの商業的な大成功により、莫大な利益を得たがため、逆にラフ・トレードはレーベルとしての放漫経営の罠に陥ることになった。利益の回収を度外視して、作品リリースを積極的に行いすぎたため、債務が徐々に膨らんでいった。しかし、一度、綿密に確立された経営方針を転換することほど勇気の必要なことはないかもしれない。この後、ザ・スミスは、1988年のリリースを最後に解散した。スミスの解散によりレーベルの経済面での屋台骨を失ったラフ・トレードは、徐々に1990年代にかけて衰退し、経営難に陥っていった。


その後、わずか三年という短い歳月で、このイギリス国内で最も有名なインディーレーベル、ラフ・トレードは、債務不履行により経営破綻に陥った。債務返済ができないとわかった時点の、レーベルオーナのジェフ・トラビスの失意の程は痛いほど理解できる。とりわけ、トラビスが嘆いてやまなかったのは、借金返済に補填するための資金の目途が立たないことについてはもちろんのこと、この際、最も彼を落胆させたのは、1991年までの約十三年に自ら手がけてきたラフ・トレード全作品のリリースカタログを権利をひとつのこらず失ってしまったこと。とりわけ、ザ・スミスのこれまでのカタログのライセンスを失ったことをトラビスは嘆いてやまなかったのである。


しかし、イギリスのレコード会社、同業者のベガーズグループが救いの手を差し伸べたことにより、ラフ・トレードの経営再建は始まった。これは、ベガースグループが1991年までにこのインディペンデントレーベルが国内にどれだけ多くの商業面での貢献をもたらしてきたのか、そして、文化的な貢献を果たして来たことを重々承知していたからこそラフ・トレードの救済を行ったものと推測される。その後、経営者として見事な経営手腕を発揮し、創業者、ジョン・トラビス氏は、1990年代、2000年代初頭にかけて、このインディペンデントレーベル、ラフ・トレードを再び英国きっての名門レーベルとして復活させ、世界的に成長させた。


その年代、特に、このレーベルの窮地を救ったのは、奇遇にも、このレーベルの最初の専門としたガレージロック音楽のリバイバルブームが世界的に2000年代に到来したことだろうか。最初にチャンスを呼び込んでみせたのは、ロンドン発の四人組ロックバンド、ザ・リバティーンズの「Up The Brancket」を引っさげての鮮烈なデビューだった。のちに、ジェフ・トラビスは、このバンドのドラック問題について辟易としていると発言しているが、少なくともガレージ・ロックといういくらかニッチなジャンルが再興したことについては、少なからず喜びを感じていたに違いない。この作品、そして、その後の、ラフ・トレードからのシングルリリースは、イギリス国内にとどまらずに、アメリカ、日本でも大ヒットし、商業的な面でも大成功を収めた。


それからも、ラフ・トレードの快進撃は続いた。その一年後、ニューヨークからリバティーンズと同じようなガレージロック色を打ち出したザ・ストロークスをラフ・トレードは発掘し、デビューアルバム「In This It」をリリースし、これまたたちまち世界的にロングセラーとなり、ストロークスはリバティーンズ以上の世界的なロックスターの座を短期間で手中におさめたのだった。 


その後、ガレージロックリバイバル旋風は、アメリカ、イギリスだけでなく、オーストラリア、スウェーデンへ広がり、再び、ラフ・トレードは、世界的な名門インディーレーベルとして見事に返り咲いた。


この後、ラフ・トレードは、比較的安定したリリース、レコード生産を行いながら今日まで息の長い経営を行っている。イギリス国外にも、レコードショップの系列店を持ち、ロックフェラーセンター内にあるラフ・トレードNYCを,そして、2016年には、”FIVEMAN ARMY”と提携し、日本にもラフ・トレードジャパンを発足させ、ストロークのギタリスト、アルバート・ハモンドJrの「Yours To Keep」をリリースし、堅調なセールスを記録する。もちろん、このレーベルは、その後にも魅力的なアーティストを見つけ出し、新人発掘という面で、レーベル発足当初と何ら変わらない慧眼ぶりを見せているのは、多くの熱烈な音楽ファンの知るところであるかと思う。

 

4.ラフ・トレードに貫流するDIY精神

 

インディーズレーベルの創始者、ジェフ・トラビスは、その初めに、人と人とをつなげるコミュニティーを形成するという明確な意図を持って、レコードショップ、レコード会社を何十年にもわたって成長させてきた人物である。のちに、ロックフェラーセンター内に自身の系列レコードショップを経営するようになる世界で最も成功したレコードショップオーナと称すことが出来る。

 

 

ROUGH TRADE NYC店舗内

 

 

あらためて、このことについて考えてみると、ザ・スミスの全カタログのライセンスの消滅という出来事は、ジェフ・トラビスにとって大きな痛手となったのは相違ないはず。それにつけても、もちろん、ベガースグループという資金面でのバックアップはあったことを充分に加味したとしても、トラビスという実業家はなぜこのレーベルを再建させることに成功し、以前よりもはるかに魅力的な世界的なインディーレーベルとして返り咲くことができたのか、ちょっと不思議に思えるようなところもなくはない。


その後、1990年代から2000年代にかけてのジェフ・トラビス氏の辛抱強い経営をささえていた概念、それは一体なんであったのだろうか。

 

文化的な貢献? それとも、もしくは、最初のコミュニティーを形成するという重要な動機? 

 

他にも、様々な要因が挙げられるはずである。もちろん、これらの概念は、トラビスという人物の辛抱強い経営を支えていたことは間違いないものと思われるけれども、推察するに、彼のこれまでの四十年近いレーベル経営を支えてきたのは、レコードショップのオーナとしてのプライド、そして、なにより、誰よりも深い、ロックをはじめとする音楽に対する慈しみ、愛情にも比する感情によるものだったのだ。


ここから引き出される結論があるとするなら、長く、何かを続けることに必要なものは、才能でも技術でもなく、情熱、人間としての深い慈愛がどれほど大きいのか、そして、どれだけ大きな夢を抱けるかに尽きるのかも知れない。


このことは、もちろん、言うまでもなく、現在もラフトレードの重要な精神として継承されている。

 

当初、独立系のレコードショップとして始まった独立精神、つまり、インディペンデント精神は、今日、このレーベルに所属するアーティストの音楽、そして、このレコードショップに引き継がれている理念、「The Cartel」と称されるインディーズ流通形式を確立させた際の伝統性「DIY」として、ラフトレードの長きにわたるレコード会社としての経営を今もなお強固に支えつづけている。

 

References

https://en.m.wikipedia.org/wiki/Rough_Trade_Records


 

1.Audiotreeの打ち立ててみせた2010年代の新たなビジネススタイル

 
Audiotreeは、2011年にイリノイ州シカゴにファウンドされた比較的新しいレコード会社である。なぜ、今回、このレコード会社を紹介しようと考えたのかと言えば、従来型のレコード会社とはそのビジネススタイルがまるきり異なるからである。

 

オーディオスタイルのビジネスの手法はこれまでになかったもので、刺激的で革新的だと言える。  

 

これまでは、英BBCのラジオ番組、名物DJジョン・ピールのセッションシリーズ、「Peel Sessions」などに代表されるように、公共放送が何らかのアーティストを、局内にある専用のスタジオ、レコーディングブースに招待し、レコーディングブースでライブ演奏させ、それを音源作品としてリリースするスタイルは存在していたが、シカゴのオーディオ・ツリーは、旧来のビジネススタイルとは異なる画期的な手法を確立している。

 

Quote:openhousechicago.org

 

つまり、ストリーミング再生時代の後押しを受けた形のオリジナリティあふれるビジネス旋風を音楽業界に巻き起こしたと言える。

 

概して、これまで従来の音楽産業の形態というのは、作品を録音するレコード会社、アーティストが演奏する場を提供するコンサート会場(イベント会社orプロモータ)、そして、何らかの媒体により販促をおこなうレコードショップ、この三つの会社がそれぞれ協力してアーティストのプロモーション、レコーディング、該当する作品の販売を行って来た。

 

しかし、オーディオツリーはこれまでの常識を破り、本来独立した3つの組織を一つに統合したビジネススタイルを展開する。

 

Audiotreeは、録音からライブ演奏、自社内の専用レコーディングブースで録音された作品のリリースを行ったり、また、あるいは、そこで撮影された動画を、自サイト、Youtube、VimeoといったWeb上のメディアで積極的に宣伝し、これまで分離した形態で行われてきた販売総てを自社で一括して行う画期的な経営手法を確立した。近年、Audiotree社が主催する音楽フェスティヴァル開催にまで漕ぎつけている。

 

一時は、コロナ・パンデミック禍のロックダウンにおいて経営スタイルに暗雲が立ち込めかけたが、同社は、新しいビジネススタイルを生み出し、苦境を乗り越えてみせた。

 

WEB上で自社のレコーディングブースで行われるライブパフォーマンス「staged」をデジタルチケットを購入した視聴者だけを招待するという投げ銭形式の仮想ライブイベントを導入し、この1、2年で、そのビジネスの裾野を大きく広げようとしている。 

 

 

2.Audiotreeの沿革、その革新的なビジネススタイルの強み

 
オーディオツリーは、元々、イリノイ州、シカゴでオーディオ・エンジニアとして勤務していたマイケル・ジョンストンがアダム・サーストンとともに始めた事業である。


Audiotreeの自社ビルの他にも、シカゴ地域内に、リンカーン・ホール、シューバス音楽会場を土地保有している。

 

当初、この事業計画は、インディーズレーベルに所属するアーティストの支援のために開始された。Audiotree設立当初は、自社内のレコーディングブースで録音された作品(主にEP形態)の売上とGoogleAdsenseの広告費によりオーディオツリーの利益は賄われていた。

 

Audiotreeは、これまでのレコード業界のマージンの常識とはかけ離れた分配方式を取っている。

 

EP作品の売上をオーディオツリー側とアーティスト側、50:50で分配する、フェアな利益率の分配法を採る。従来、レコードやデジタル盤の売上に際して、レコード会社がアーティスト側より大きなマージンを得るのが音楽業界内の常識であったように思われる。 

 

しかし、Audiotreeは、これまでの十年間を通して、一般的な知名度に恵まれない独立レーベルで活躍する世界中のアーティスト、バンドを自社のレコーディングブースに招待し、ライブスペースを無償で提供し、アーティストやバンドのライブ録音、動画撮影、WEBでの宣伝を率先して行う。

 

その後、ライブ録音をした作品を完パケし、EP「Audiotree live sessions」として対外的にリリースするにとどまらず、自社HP内、Youtube,Vimeoを介し、ライブパフォーマンス動画を、ストリーミング形式でオンライン、オフラインで宣伝している。

 

Quote:spotify.com

 

オーディオツリーが生み出したこの斬新な経営手法は、2018年、世界中では、約八十%の音楽リスナーがYoutubeをはじめとするストリーミングサイト、また、Apple Music,Spotifyなどのサブスクリプション媒体を介し音楽を聴く時代の後押しを受け、結果的に大成功を収めている。 

 

2011の設立からAudiotreeは、youtubeのチャンネル登録者数を着実に増やしつつあり、33万人以上の視聴者を獲得し、また、動画再生数については5億回以上にも及び、サブスクリプションとストリーミングの両形式での作品リリースの展開方法を行い、従来とは異なる新時代の音楽上のビジネススタイルを確立している。レコード会社のみならず、この後、アメリカの巨大産業に発展していく可能性を大いに秘めた私企業といえる。

 

 

3.Audiotreeのライブ録音作品の独特な魅力

 
無論、上記したような事実をうけて考えてみると、オーディオエンジニアのスペシャリストが設立したレコード会社であるという点、Audiotree社内にある専用のレコーディングブースの設備自体も豪華であり、実際、リリースされたEPを聴いてみると、音に精細な瑞々しさがある。

 

それもこれも、このAudiotree内のレコーディング設備がことのほか充実しているからに他ならない。  

 

 

Quote:openhousechicago.org


Audiotreeは、2015年から翌年にかけて、スタジオで録音機材として使用されている設備を動画で一般公開している。

 

ビデオと照明のセッティング方法、音響用マイク、ドラム専用マイク、レコーディングスタジオ内のウォークスルーに至るまで、「Audiotree Live」のライブ録音の舞台裏を全面的に公開している。

 

アコースティックギターの録音専用マイク、AKG460、Royal122。バスドラム録音用のTelefunken M-82といった機材が公式動画を介し紹介されている。 最終段階のリミックスの段階では、鮮明なデジタル音の再生面で抜群の威力を発揮する米国企業のマスタリングソフト、「Izotope」が使用されていることにも注目である。

 

いかにも、設立者、マイケル・ジョンストン氏のオーディオエンジニアとしての矜持を感じさせる豊富で盤石なレコーディング機器の数々、ミキサー、レコーディングソフトを最大限に駆使し、録音、完パケされる音源は、何れの作品も鮮明な音質によって彩られている。また、その際、リアルタイムで配信されるライブパフォーマンス映像も、実際のアーティストのライブパフォーマンスに参加したかのような迫力を体感出来るはずだ。

 

「Audio Tree Live Session」は、美麗なおかつダイナミックさがあり、音源を聴くだけであっても、高精細の映像を鑑賞しているような気分に浸れる。これは、他でもない、オーディオツリーが世界中の熱烈な音楽ファンに対して無償提供する映像自体がことのほか優れているからに他ならない。もちろん、「音」としての鮮明な魅力があるのは無論、EP音源としてリリースされる「Audiotree Live」の総カタログについても同様である。 

 

また、世界中から有望なインディーアーティストを招聘するオーディオツリーの新人発掘力については最早多くの事を語るまでもない。

 

オーディオツリーの興味は、常に、国内にとどまらず、世界中のインディー系アーティストに注がれており、それは、ヨーロッパ圏のみならずアジア圏にも広がりをみせている。これまで、Elephant Gym、少年ナイフ、tricotといった面々が、このシカゴのオーディオ・ツリー・ライブパフォーマンスに招待されており、「Audiotree Live」として素晴らしい演奏を行い、秀逸なEP作品をリリースしていることも付け加えたい。これからオーディオ・ツリーが、どのようなアーティストの音源をリリースしていくのか、そのビジネスの裾野をいかほど敷衍していくか、俄然目が離せないところだ。


4.「Audiotree Live Sessions」

 
先述したように、オーディオ・ツリーライブに招待されるアーティストは、国内外のインディーレーベルに属するアーティストに絞られる。一つのジャンルにこだわらず、多くの国々から、幅広い音楽性を擁するミュージシャンが招待され、刺激的なライブパフォーマンスが行われる。

 

これらの生演奏は、映像として配信されるのみならず、「Audiotree Live」というEP形式で作品リリースが行われるのが通例。EPのジャケットアートワークはシンプルなデザインで、アーティストの文字、ライブ時の写真と「Audiotree live」の文字とAを象ったマークが刻印されるのみではあるが、何となーくマニア心をくすぐられるものがある。

 

EPコレクションとして部屋に並べて見ればおそらく圧巻の見栄えとなるかもしれない、熱狂的な音楽ファンとして素通り出来ないカタログばかり。それでは、これらの作品「Audiotree Live」から注目するべきリリースを大雑把ではありますが挙げていきましょう。

 


1.Snail Mail 

 

on Audiotree Live

 


1.Dirt

2.Slug

3.Thining

4.Static Buzz

5.Stick

 

 

スネイル・メイルはリンジー・ジョーダンのソロ・プロジェクト。

 

デビュー当初からアメリカのインディーズシーンを賑わせているアーティスト。スネイル・メイルの音楽性は、ローファイ性を突き出したギターロックが醍醐味。抜群のセンスを持ち合わせた女性SSWで、今、最もアメリカのインディーシーンで注目しておきたいミュージシャン。

 

このオーディオ・ツリーライブヴァージョンでは、スネイルメイルのプリミティヴなロックンロールの魅力を味わうことが出来る。特に、オルタナティヴロック好きは要チェックの作品です。

 


2.Shonen Knife 

 

on Audiotree Live


 

 

1.Banana Chips

2.Twist Barbie

3.Jump In To The World

4.All You Can Eat

5.Ramen Rock

6.Riding on the Rocket

7.Buttercup


最早、説明不要のインディー界の世界的な大御所で、日本だけではなく世界のインディーシーンで大きな注目度を獲得している少年ナイフ。

 

大阪府出身のスリーピースのガールズポップバンド。カート・コバーンがこのバンドを大リスペクトしていたことは有名で、日本だけではなく、世界で愛されるインディーロックバンドです。

 

あらためて、2018年発表のこのオーディオツリー発表ヴァージョンを聴くと、このロックバンドの凄さがわかるはず。

 

以前に比べ、若々しさこそ失われたものの、逆に貫禄が備わってやいませんか。依然としてザ・ラモーンズに比する分かりやすいポップパンクの楽曲は珠玉の輝きを放ち続ける。

 

「Banana Chips」から「Buttercup」まで、四六時中やられっぱなしの甘酸っぱいキラーチューンのオンパレード!! 

 

 

3.Elephant Gym 

 

 on Audiotree Live

 

 

 

1.Underwater

2.Finger

3. Head&Body

4.  春雨

5. Galaxy


エレファントジムは、台湾の高雄出身のポストロック/マスロックバンド。日本のポストロックシーンと関わりの深いバンドで、都会的に洗練されたオシャレ感のある三人組グループ。

 

しかし、表向きのイメージとは裏腹に、奏でられる音楽は硬派。変拍子ばりばりの巧緻な楽曲、ベーシストのK.T.チャンのキュートなキャラクター性からは想像できない実力派としての演奏力が魅力のバンド。

 

もちろん、このオーディオツリーバージョンではこの三人組の楽曲の良さ、瑞々しさ、タイトさが存分に味わえる作品。

 

「Finger」を始め、K.Tチャンのタッピングを始めとする超絶技法が炸裂。誇張抜きにして、このリリースはオーディオツリーの名演の部類に入る。ToeやLiteといった日本のポストロック/マスロックのバンドのファンの方は是非チェックしていただきたい作品です。 

 


3.Petal 

 

on Audiotree Live

 

 

 

1.Better Than You

2.Tightrope

3.Magic Gone

4.Shine

5.Stardust


 

Petalというバンドは、このプロジェクトの中心人物、Kiley Lotzは、NYのブロードウェイ女優としても活躍している。元々エモシーンの期待の星としてデビューした経緯を持つアーティスト。

 

2015年「Shame」でデビューした当初、特にエモシーンで話題を呼んだ作品だったと思います。そのあたりの事情は、Tigers Jawのメンバーが絡んでいるという理由だからでしょう。


しかし、そういった前評判というのは当たらなかったアーティストで、現在はエモではなくインディーロック路線を突き進んでいる印象。Kiley Lotzは、爽やかで、やさしげで、包み込むような雰囲気を持つシンガー。

 

このオーディオ・ツリーのライブバージョンでも、飾り気がなく直情的なヴォーカルを味わえる。しかも、演奏をすごく楽しんでいる感じが伝わってきて、心がほんわかとなるライブ音源です。ブロードウェイの女優というフィルターを通さずとも、繊細な質感を持った隠れたインディー・ロックの名曲揃い。

 

 

4.Pinegrove 

 

on Audiotree Live


 

1.Need 2

2.Problems

3.Cadumium

4.Size of the Moon

5.Angelina

6.&

7.Recycling

8.Aphasia


 

パイングローヴは、エヴァン・ステファンズ・ホール、ザック・レヴァインの幼馴染を中心にニュージャージー州で結成されたインディー・ロックバンド。

 

2020年に、英国の名門ラフトレードから「Marigold」をリリースしています。

 

これまでのスタジオ・アルバムでは、エモコアよりのアプローチを図っている印象を受けますが、このオーディオツリーセッションではパイングローヴの良質なロックバンドとしての魅力が引き出され、堂々たるアメリカンロックサウンドが展開されています。

 

エモというのが惜しいくらい、奥ゆかしい音楽性の雰囲気を持ったロックバンド。アメリカーナ、アメリカのルーツミュージックの雰囲気もそこはかとなく漂わせ、このオーディオツリーのライブ音源では、少しだけ地味な印象のあるオリジナルアルバムよりも、パイングローヴの魅力が引き出されており、心を温かく包み込むかのような懐深いサウンド引き出されています。

 

大都会ニューヨーク、マンハッタンのバンドサウンドとはまた異なるいかにも緑豊かなニュージャージーらしいアメリカン・ロックを再現する良質なインディーロックバンド。 

 


5.tricot 

 

on  Audiotree Live 

 


 

1.On the boom

2.18,19

3.Ochansensu-su

4.Potage

5.Melon Soda


すでに、他のサイトでは紹介されていますが、少年ナイフとともに、日本のアーティストとして、オーディオツリーライブに招待されたのがポストロック四人組のトリコ。

 

学生時代からの友人、中嶋イッキュウ、キダ・モティフォを中心に結成された女性中心のメンバーのエクスペリメンタルロックバンド。

 

自主レーベル「爆裂レコード」からデビュー、近年ではAVEX Entertainmantからも2作のシングル盤「いない」「Dogs and Ducks」(ともに2021)をリリースしてJPOPシーンでも大きな話題を呼んでいる。

 

これまでに、チェコ、ハンガリー、スロバキアの東欧の音楽フェスにも出演経験あり。Toeやナンバーガールに影響を受けたとされる激烈なポストロックサウンドにJ-POP寄りのキャッチーなヴォーカルのフレーズが乗る。変拍子バリバリのマスロックサウンドであるものの、ナンバーガールのような親しみやすさもあるのがトリコの魅力。

 

このオーディオツリーライブでは、トリコの超絶演奏力はもちろん、「Potage」を始めとする楽曲で、スタジオ・アルバムとは異なる、しっとりとした大人でジャジーな雰囲気の音楽性を味わうことが出来ます。 

 


6.Sidewalk Chalk

 

on Audiotree Live

 

 

 

1.Water Song

2.One For Nation

3.Hats + Shoes

4.Lyrically Free

5. Closer

 

 

サイドウォーク・チョークは地元シカゴのバンド。これまで存在しなかったタイプの六人組ヒップホップグループです。

 

DJ無しで、タップダンサー、男性MC+女性ヴォーカルという特異な編成で、米インディーシーンで注目を受けています。

 

ヒップ・ホップ、ロック、ソウル、ジャズをクロスオーバーし、バンドサウンドとして展開。このバンドのクロスオーバーサウンドは爽やかで軽妙な雰囲気に満ちている。

 

楽曲中では、エレクトリック・ピアノ、ホーンを交え、ライムがソウルフルな女性ヴォーカルと軽やかに展開。これまでありそうでなかったロックバンド編成のクールでモダンなヒップホップサウンドを、サイドウォーク・チョークは見事に体現しています。

 

特に、このオーディオ・ツリーライブでは、二人の男女ボーカルの軽快なヴォーカル、バンドサウンドとしての未来系を体感出来る。

 

ヒップホップ、ソウル、ファンク、ジャズといった様々なジャンルを通過したいかにもシカゴらしいバンド。 このライブで繰り広げられるダイナミックな演奏は目の前でバンドサウンドを聴いているかのようなリアリティに満ちあふれている。ヒップホップサウンドをバンド形態で再現、ダンスの要素を交えた前衛的なサウンドを体現。

 

このバンドのサウンドは、Tortoiseのヒップホップバージョンといったら語弊があるかもしれないですが、2020年代に台頭する新たなポストロックシーンへの予見、そのような雰囲気も感じられる。

 

このオーディオ・ツリーライブ盤では、スタジオ・アルバム以上に、ホーンの艷やかかさが活かされ、サイドウォーク・チョークの生演奏特有のグルーヴ感が凝縮されている快作。



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