ラベル Culture の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル Culture の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

1.リミナルスペースに表れる概念

 

 

昨年から、特に海外のサブカルチャーとして、「リミナル・スペース」というのがひそかに流行しているという。これは、例えば、駅構内の地下道、駐車場のスペースの一角、もしくは、打ち捨てられた廃墟じみた建物の一角など、本来、無機質な建築の空間に奇妙な魅惑を見出すというものである。


 

いくらかニッチな趣味ではあるものの、こういった空間に、写真愛好家の人々がフォーカスを当て、それを被写体として収める文化的な活動がひそかに愛好家の間で流行っているのだという。このいうなれば、ニッチな趣味「リミナル・スペース」は、海外版2ちゃんねるの「4chan」で最初に取りざたされたもので、じわじわと海外の愛好家たちの間で親しまれている趣味なのだそうだ。

 

一時期、廃墟探索というのが、日本でもサブカルの領域ではあるけれども、ひそかに愛好家たちの間で取りざたされていたわけだし、「廃墟」というテーマを掲げた写真集も各出版社から刊行されていたのを思い出す。

 

これも、上記のリミナルスペースと同様、既に閉園した遊園地、長らく打ち捨てられ、所有権利者も解体費用を捻出するのを諦めた小大の工業施設、あるいは商業施設の景観にノスタルジアを見出すというものである。

 

確かにそういった現代の遺構のような建築物は、その虚ろな空間に接した際に郷愁にも似た感覚を覚えることがある。なんだか不気味のようにも思える空虚な空間に不思議な感覚を見出す、それはいわく言い難い、安らぎとか落ち着きにも近い奇妙な感覚である。我々が、なぜ、そういった本来、社会生産から切り離され、本来の役割を失った建築物に、そういった安らぎにも似た感覚を覚えるのかといえば、それはある種の無機物が目の前に明瞭に存在することを確認することにより、それと対比的に、自己という実在性を強めるからにほかならない。

 

廃墟、古い遺構、人気のない工業施設の一角は、その対象物そのものは生きているという感覚からは程遠い、だから、我々はその対象物と接した際に、謂わば、それと対比的に自分が生きているという感覚が鋭くなり、自己の実在性が強められ、その思いをじっくり噛みしめさえする。さながら、現実と異次元の狭間が目の前に不意に生じたかのような錯覚を、カメラのレンズを向ける人たち、また、その場にたたずんでいる人は見いださずにはいられないのである。

 

つまり、定義としていえば、リミナル・スペースとは、当たり前の日常の現実空間の中に生じた奇妙な異空間ともいえる。そして、これはどちらかといえば、たとえば、工業施設のような人工的な建築物中に、こういった概念が見出される場合が多い。つい昨日までごく当たり前に目の前に存在していたなんでもないような空間、それは昨日までは、面白みのない無機質な空間という印象だったかもしれない。しかし、今日それに接した際にまるでその対象物の印象が変わり、ミステリアスな異空間が眼の前に広がっている事実を我々は発見するのである。

 

 

 

2.パンデミックがもたらした異空間

 

 

 

2020年からの世界的なパンデミックは、世界各地にこういった「リミナルスベース」を生じさせた。それがむしろ商業生産の盛んな先進国であればあるほど、こういった奇妙な異空間が至る場所に生じることになった。

 

感染者数の増大により、多くの先進国の政府は、本来の社会生産活動を制限し、一般市民を家の中にとどまるように促した。そして、感染者数の増大に歯止めをかけようと試みた。それらのことがどのような社会的作用をもたらしたのかといえば、むしろ経済活動の停止に依る人類の進化の鈍化であった。人々は、停滞し、その場に留まることにより、20世紀からすすめてきた資本主義という手法を今一度見直さねばならなくなった。社会的な議論が世界各地で熱心になされた、生産活動に舵取りをするべきか、はたまた人間の生活安全を取るべきか。様々な活発な議論がインターネットでも交わされた。しかし、もっともらしい結論はいまだ出ていない。すべての国家、政府は、これらの2つの概念を天秤にかけ、バランスというか均衡を保ちながら、政策を打ち出し、そして市民の信頼を獲得しようとしている。それは現在の2022年においても変わらない。政府は国民の顔色を伺いながら、のらりくらりと政治を行っている。

 

そして、この2020年に起こったパンデミックという出来事は、一般市民に与えた影響にとどまらず、街の景観の変化にも顕著に顕れた。あらためて思い出してみていただきたいのは、我々が日頃当たり前に見ていた社会的な空間中に何の前触れもなく突如として空白が生じ、そこに、いわば「リミナル・スペース」と呼ばれる異空間が生じたのだ。営業の自粛を迫られ人気のとだえた所業施設、それまで、客がビールジョッキを片手に賑わっていた居酒屋ののれんじまい、また、それまで数多くの人々がすれ違っていた駅前通りの水を打ったかのような閑散、都道府県を跨ぐことを禁止された結果として生じた多くの車の通行を失った国道、それから、殷賑をきわめていた何らかの市場や商店街のような空間に、一種の不可思議な空隙が生じた。また、今、一度考えてみてほしい、これらの無数の空間に当たり前に存在していた多くの人たちの消失、そこには、突如として、これまでに存在した現実空間の中に、不可思議な異空間、リミナル・スペースが生じたように、多くの人々は感じたにちがいないのである。

 


 


2020年、東京でも緊急事態宣言が発令されたが、それは少なくとも大都市圏だけではなく、いくらか私の住んでいる郊外にも少なからずの影響を与え、「異空間」、言いかえればリミナルスペースが生じた。今では、そういった発令がなされたとしても、多くの人は日常活動くらいは普通に行うと思われるが、このパンデミックが始まった時はそうではなかったのだ。人々は目に見えないウイルスの影におびえ、日々接する情報をそれらにしぼっていったのである。

 

 

2020年の当初、多くの人々がこの出来事がなぜ起こったのかも理解できず、さらにどういったことが起こっているのかも見分けづらくなっていた。ここで、後世の人類のための情報として伝えておきたいのは、この時、我々は目の前におこっている現象よりも、あるていどインターネットやテレビを介して提供される、なんらかの情報、なんらかの報道を通じて出来事に対する理解を深め、目の前に起こっている現象に対処していく以外の方法はほとんどなかった。このことは、それまでの社会の様相を一変させた。つまり、2019年以前と2020年以後の世界はまるきり一変してしまったのだ。

 

たとえば、もし、この目に見えないウイルスの脅威に怯えを覚えていた人にとっては、外出を自発的に諦めるという行動の選択にもつながった。報道では率先してショッキングな映像が選ばれ、それはたとえば最初の武漢市場の奇妙な映像に象徴的にあらわれていた。あの時、今でも思い出すのだが、私が非日常の日常の中でつくづく感じ、恐怖すらおぼえ、一番おそれたのは、ウイルスの存在ではなかった。それは、これまで当たり前であった日常の平穏が脅かされるのではないかという感覚、どうあっても変化を余儀なくされることに対する異質な恐れ、それはまた現実空間でいうなら、日常の空間の中に不意に生じた奇妙な「リミナル・スペース」を意味したのだ。

 

 

日常的に生きている当たり前の空間がおびやかされ、そこには、「AKIRA」、または「新世紀エヴァンゲリオン」に登場するような不思議なSFチックな空間が生じ、バス停の電光掲示板に映っていた緊急自体宣言発令の文字、あるいは、外出をお控えくださいといった奇妙なデジタルの文字群が不意をついて眼の前に立ち上ってきた。


その時、何らかの不思議な感覚をおぼえ、これは現実に起こったことなのだろうかとも考えた。今、なんとなく思い返すのは、あのとき、私は、現実空間に居ながら、ある種の異空間にやってきたようないいしれない実感をおぼえていた。それは、見渡すかぎりいちめん、本来の生産活動、経済活動の気配が途絶え、2019年以前の世界の空気感を失い、巨大なリミナルスペースに身をおいたか、迷い込んだかのような錯覚に陥った。いや、そうあらざるをえなかったのだ。

 

 

 

 3.リミナル・スペースの探索

 

 

2021年あたりから、2ちゃんねるの海外版「4 chan」で、これらのリミナルスペースという概念が話題に上がるようになった。

 

2021年になると、その前年とはまるで世界の様相が変わり、表向きには生産活動や経済活動にシフトチェンジを図るようになった。内向きな方向性から外向きな方向性にいわばベクトルを転じたことは、社会構造として健全といえるかもしれないが、また、一方で社会内に生きている一般市民の心を置き去りにしたともいえる。人々は、2019年のロックダウンに生じた空白のようなものを脳裏から拭い去ることは出来なかった。その中で、直接的な因果関係を結びつけるのは少し暴論なのかもしれないが、この「リミナル・スペース」という新たな2020年代の概念が出てきた。人々は、あらためて、日常化した商業施設、工業施設内の異空間を探し求める。それは、一種の2019年に起きた出来事を再認識するようなものといえるかもしれない。

 

この「リミナルスペース」は、そもそも人類学者ターナーによって提言された言葉であるらしく、「日常生活の規範から逸脱し,境界状態にある人間の不確定な状況をさす言葉」である。さらに言えば、このリミナルスペースは「Threshold」を語源に持ち、感覚的なニュアンスを交えて、海外の人はこの言葉、概念を使用するようになっている。また、このスレッショルドという語は、「閾値」を意味し、音楽のリミックス、特にマスタリング作業の段階で使われる要素で、「スレッショルド」という値を増減させることによって音のコンプレッション、圧縮率を調整し、作品として再生されたときの音の圧縮率、音圧をコントロールするのである。

 

ある人は、「リミナル・スペース」、現実の空間に生じた異空間を五感、またはそれ以上の感覚で捉え、それにあきたらない人は、カメラを介し被写体としておさめ、認識下にある数値化できないそれぞれの閾値を用いて現実性をコントロールしようとする。

 

  

もちろん、言うまでもなく、それらの景物に建築学における配列、規則性、黄金比といった興味を、その中に見出す人も少なからず存在するものと思われるが、それよりも、昨年からこの概念が趣味として、海外のファンの間で広がりを見せるようになったのは、近年の世界の劇的な変化、世相のようなものを反映しているようにも思える。

 

リミナルスペースと呼ばれる異質な空間、人々はその中に、いくらかの恐れや不安とともに反面、奇妙なノスタルジア、安らぎを見出す。

 

それは先述したように、自分が現在、今という瞬間に生きていることを対比的に確認するための認識作業ともいえる。リミナルスペースは、一般的なカルチャーとは呼べないものの、特に、今日の社会、世界情勢を見渡した時、何らかの重要なテーマが反映されているように思えてならない。こういった概念に興味を抱くのは、多くの人々が、日々生きる現実の中に「異空間」を見出しているからにほかならない。今後の世界がどう進展していくかはわからない。いずれにせよ、いまだ2022年の人類は、リミナルスペースと呼ばれる現実空間と異空間の狭間をあてどなく彷徨いつづけているのだ。

 

 

New York City Pride March 2013: Harry Belafonte


1.カリプソの始まり

 

カリプソは、トリニダード・トバゴで始まり、西インド諸島全体に広がったアフロカリビアン音楽だ。西アフリカの「Kaiso」の親戚ともいえるカリプソ音楽は、コールアンドレスポンス形式が採られ、そして、カリプソリズムとして知られている2/4ビートに基づいた明るい曲調が特徴だ。

 

カリプソは、ソカ、メント、ベンナ、スパウジ、スカ、チャツネ、エクステンポなど多くのサブジャンルを生み出した。これらのスタイルの中心人物は、セージとストーリーテラーとして登場するグリオというリードシンガーにある。

 

これはアフリカの儀式音楽グリオに伝統形式を受け継いだものだ。今日のグリオは、英語でうたわれ、日常の苦難を記録し、正義性を主張する。

 

これらの音楽は、最初、農場にいる黒人たちがコミュニケーションを取るために生み出されたものである。雇い主である白人から、トリニダード・トバゴの労働者たちは仕事に従事する際、一般的な私語を禁じられていたため、彼らはこのグリオの形式から受け継いだ明るいカリプソを歌い始めた。

 

 

2.カリプソの歴史

 

カリプソ音楽は、18世紀のトリニダードでアフリカの奴隷のコミュニティ内に最初に登場した。

 

この音楽の形式は、西アフリカの伝統音楽の「Kaiso」が進化したものと一般には定義づけられ、歌詞の中に風刺的な意味が込められていた。つまり「Double Meaning」をそれとなく言語のニュアンスの中に滲ませていたのだった。

 

要は、俗にプランテーションを呼ばれるトリニダード国内の大規模農場で労働に従事する黒人たちは、雇い主の白人たちに解せないような言葉で、何らかのやりとりをする必要があり、一種の暗号のようなやりとりを仲間内で行ったのが「カリプソ音楽」の始まりであるといえる。

 

二十世紀のトリニダード・トバゴの黒人たちは、日頃、労働に従事している間、雇い主の白人たちをからかったり、揶揄したりするためのスラングを当初、カリプソの歌詞の中で頻繁に用いていたのである。気慰みのために、白人を嘲笑するようなスラングを、彼らに気取られぬように歌詞の中に込めていたのだった。

 

後の時代になると、 カリプソ音楽は、音楽としても、言語としても、徐々に洗練されていくようになり、フランス語(詳しく言えば、アンティル諸島の固有のクレオール言語)、英語、スペイン語、そして、アフリカの言語の影響を組み合わせた形式を発展させていった。アンティル諸島から移民してきたフランス人は、カーニバルの伝統性をトリニダードの島々に文化としてもたらし、トリニダード・ドバゴが国家として1834年に奴隷制を廃止してからというもの、元奴隷であった黒人たちは、カーニバルのためのミュージシャンとして注目されるようになった。その後、島内には、専用のカリプソテントがいくつも設営されていき、カリプソの単独公演が行われるようになっていく。つまり、このカリプソ音楽は、祝祭の雰囲気の強い形式であり、それは後世のボブ・マーリー、ジミー・クリフのレゲエの雰囲気に引き継がれている要素でもある。


カリプソ音楽が初めてレコードとして録音されたのは、1890年代からカリプソバンドとして活動していたLovey's String Bandがニューヨークで録音した音源である。このトリニダード・ドバゴのバンドは、1912年にジャズバンドとしてこの音源の録音を行った。後にこのバンドは五年後に、ジャズバンドとしてレコードをリリースしている。Lovey's String Bandの音源は、現在ワシントンDCのアメリカ議会図書館「Library of Congrass」に録音が保管されているようだ。

 

カリプソ音楽のミュージシャンとして最初のスターとしては、Julian Whitrose、Roaring Lion、Anttila The Hun、Load Invader(のちに「ラムとコカ・コーラ」がアンドリュー・シスターズによってカバーされている)が挙げられる。その後、1950年代に差し掛かると、Lord Kitchener,Mighty Sparrowといったミュージシャンが台頭してくるようになった。



3.カリプソの音楽的特徴

 

カリプソ音楽は、カリビアンミュージックの多くの形式と同様、西アフリカの儀式音楽のリズムの伝統性に加えて、スペイン、フランス、イギリス、その他ヨーロッパ諸国の言語を融合させている。カリプソの主要な要素は以下のようなものが挙げられる。
 


・フォーク音楽としての起源 
 

一般的に人気の高いカリプソ音楽はその多くがトリニダードのフォーク音楽を引き継いだものである。
 
 
 
 
・英語、フランス語(クレオール言語)を融合した独特な歌詞

 
 
元々は、カリプソの歌手がフランス語の一であるアンティル諸島のクレオール語で歌っていたが、英語がトリニダード・トバゴ国内の主要言語に成り代わるにつれ、ほとんどの歌詞が英語へと移行していった。
 
 

・グリオが歌うリードボーカル
 

グリオは、アフリカの儀式音楽の形式内で、ストーリーテリングを行う役割を持つリードシンガーである。
 
 
コールレスポンスを行う複数のシンガーと掛け合いながら、明るい曲調の楽曲が進行していく。これは、ベラフォンテの「バナナボート」を聴けば特徴がよくつかめる。初期のカリプソはグリオが語る民話を特徴としていた。

 

 

・スティール・パンの使用

 

スティール・パン(Steel Pan)は、トリニダード・トバゴ発祥のドラム缶から生み出された民族打楽器である。外側から内側にかけてなだらかに傾斜を描き、中心部は凹んでいる。ゴムを巻いた撥(Stick)でたたき、出音する。叩くポイントによって出される音色が様変わりする面白い楽器で、音響的にカラフルな効果を与える。 トリニダード・トバゴ国内のカリプソで使用されるスティールパンは、単一の楽器としてではなく、複数組み合わされて使用される事が多い。

 

 

カリプソ音楽の有名アーティスト

 

 

・Road Invadar

 

トリニダード・トバゴ国内で最初に名声を得たミュージシャン。初期のカリプソニアンであり、渋い声とフォーク色の強い音楽性が特徴である。 

 

 

 

・Lord Kitchener

 

ロード・ キッチナーは、1930年代に十代でキャリアをスタートさせ、2000年代になくなるまでレコーディングを続けた。有名な曲は1962年に録音された「London Is The Place For Me」が挙げられる。 

 

  


・Harry Belafonte

 

ハリー・ベラフォンテはトリニダード・トバゴ人ではなく、ジャマイカ出身のアメリカ人である。

 

彼の音楽は、多くの文化性を吸収している。ジャマイカのフォークをアレンジした1956年の「Day-O」(Banana Boat)はカリプソの最初の大ヒット曲となった。ベラフォンテの後期の作品では、歌詞の中で社会正義を強調している。これは後世のカリプソを奏でる音楽家にとって重要な主題となった。 

 


 


・Growling Tiger

  

ネビル・マルカノは、別名、グロウリング・タイガーとして知られている。カリプソのジャンルに最初に明確な政治性をもたらした。

 

彼は、トリニダード・トバゴの国家観について歌い続け、イギリスからの独立を後押しした。上記のベラフォンテ、及び、マルカノがもたらした思想性の強い要素は、後のボブ・マーレーのエチオピア皇帝を信奉する「ラスタファリ運動」に引き継がれていく。 

  

 

・Calypso Rose

 

元来、カリプソ音楽は男性のための音楽であったが、初めて、カリプソ音楽を女性にも普及させた重要なアーティスト、カリプソ・ローズは、1970年代にかけて活躍をした。「Gimme More Tempo」 、「Come Leh We Jam」といった名曲を残し、音楽ファンと批評家から高い評価を受けた。


ストリートアートの始まりは? 落書きと芸術について


近年、UKのバンクシーのアート形態を見ても分かる通り、一般的な人々の間では、ヴァンダリズムが芸術なのか、それとも、ただの不法行為の戯れに過ぎないのか、という点で意見が分かれるように思える。

 

しかし、芸術と戯れ、その両側面を意義を持つのがこの芸術形態の本質である。ヴァンダリズムという形式はその始まりを見ると、正真正銘のアウトサイダー・アートといえる。

 

元は、「ヴァンダリズムー落書き」と呼ばれるアート形式、グラフィティアートは、1970年代のニューヨークのヒップホップ文化とともに、地下鉄構内の列車の側面に、あるいは構内の壁に、「タグ付け」と呼ばれる自分の名を記すスタイルが流行した後に一般的な芸術として認められるようになった。

 

1970年代、NYのブロンクス区のヒップホップアーティストが「グラフィティ」というアート形態を確立させ、最初のNYのグラフィティシーンの中には、後に、現代アーティストとして有名になる27歳という若さで、オーバードーズによりこの世を去ったジャン・ミシェル・バスキアもいた。ミシェル・バスキアは、他のヒップホップシーンの最初のアーティストたちに混ざり、NYの地下鉄構内で「タグ付け」を行っていた。

 

その後、白人アーティストたちがこのヴァンダリズムカルチャーを広めていき、NYの壁という壁はカラフルなスプレーだらけとなり、混沌とした様相を呈するようになった。1970年代当時のニューヨーク市長は、これ以上、市の景観が損うわけにはいかないという理由で、このグラフィティアートを一掃するための法案を議会に提出したのだ。その後、長い間、グラフィティというアートスタイルは、若者の戯れとしか見なされなかったように思える。

 

ところが、英国のアウトサイダー・アート界に彗星のごとくあらわれたバンクシーにより、このグラフィティアートは美術界で再注目を受けるようになったように思える。町中の公共施設になんらかのメッセージやイラストを書き記すというバンクシーのアートスタイルは、実のところは、この1960年代から1970年代のバスキアをはじめとするヒップホップカルチャーと共に育まれたアートスタイルを巧妙に模倣し発展させたものでしかない。そのことはおそらく、多くの謎に包まれているバンクシー本人が最もよく理解しているはずである。それ以上の付加価値をつけて街の風営法すらをも度外視させているのは美術界、 オークションでバンクシー作品価値を極限まで釣り上げようとする美術収集家の欲望である。その欲望を逆手にとり、自分の芸術にたいする価値を実際より大きくみせようとするパブロ・ピカソに学んだスタイル、資本主義にたいする強烈なブラックユーモアがバンクシーの作風の核心には込められている。

 

そこで、現代になって漸く芸術形態として確立されるに至ったヒップホップカルチャーの一貫として若者の間に広まっていったグラフィティアートというのは、どのようなルーツを持つのか。本来、このグラフィティと呼ばれるアート形態はニューヨークで生じたものでなく、フィラデルフィアの青年矯正院で過ごしていた黒人青年が始めたものだ。


彼は、[コーンブレッド]の異名をとり、のちに死亡説が新聞紙面で報じられ、自分が死んだという一報を自ら目撃し、公共施設のタグ付けにより自分がまだ生きているということを示した、そんな奇妙なエピソードを持つ。

 

コーンブレッドは、黒人アーティストの第一人者であり、人種上のマイノリティとして生きる上での自分の不確かな存在性、アメリカという図りしれない規模を持つ社会において、みずからのアイデンティティを明確に示す方法、スプレー等で公共施設の壁等に自分のニックネームを記すグラフィティの「タグ付け」という技法を時代に先んじて取り入れた芸術家でもある。


「Tag」という概念は、後に、ウェブで用いられる表記法ともなるが、今回、このコーンブレッドなるアーティストから始まったグラフィティアートが60年代から70年代を通して、どのようにアメリカのカウンターカルチャーとして広まっていったのだろうか、その概要を簡単に記していきたい。

 

 

 

1.コネチカットの少年矯正施設ではじまったグラフィティアート  「コーンブレッド」

 

 

グラフィティアートは、これまで音楽、映画、テレビ、ファインアート、ホビー玩具やファッションに至るまで、現代の大衆文化に深い影響を及ぼしてきた。巨大な壁画、ファッションショー、実物大のアートショー、様々な形式で表現される現代のグラフィティのアート形式は、フィラデルフィアの少年矯正施設に1960年代にある黒人の少年が最初にそのスタイルを確立した。

 

1965年、現代グラフィティアーティストとして知られているドリー・”コーンブレッド”・マクレイは、当時、フィラデルフィアの青少年育成センター(YDC)に収容されていた12歳の問題児だった。

 

ドリー・マクレイは、コーンブレッドをひときわ愛し、YDCで提供される食事を作る料理人にコーンブレッドを食べたい、ことあるごとにせがんだという。マクレイ少年は幼い頃から愛しい祖母と一緒にコーンミールいりのパン、コーンブレッドを食べてきたため、その思い出があるからか、YDCの料理人に何度もそのコーンブレッドを食べたいとせがんだのだ。あまりに少年がせがむとき、料理人は彼のことを愛着を込めて「コーンブレッド!!」と言って叱りつけたという。

 

「Cornbread」は、たちまちマクレイ少年のユニークなニックネームに成り代わった。コーンブレッドは内向的な気質を持つ少年であったようで、当時、フィラデルフィアの矯正施設で蔓延していたドラッグの使用、暴力沙汰に他の子どもたちのように参加するのを避けていた。そこで代わりに、マクレイ少年は、それまで、ギャングの名や、シンボルマークで覆われていた施設の壁に独自のニックーネームをスプレー缶で記すことに没頭し、施設内での多くの呆れるような時間を要した。それはまさに、彼が自分自身の有りか、存在意義を確認するために行った行為である。

 


Cornbread

 

コーンブレッドはその後、YDCのほぼすべての表面に、新しく手に入れたスプレー缶で落書きを始め、昼夜問わずタグ付を行う場所を探し求めていた。それはまさに、マクレイ少年はこの施設内において、自分の存在の在り処を確認するための場所を探し求めていたということでもある。やがて、それから、コーンブレッドは、YDCの場所を問わず、ビジターホール、チャウホール、教会、バスルーム、およそ考えられる場所すべてにタグ付けを行い、「Cornbreaad」と記しはじめたため、施設職員のソーシャルワーカーは彼が精神障害に苦しんでいるのだと決めつけた。

 

マクレイ少年はYDCから釈放された後、少年院時代に始めた芸術形式をより洗練させていこうと試みた。彼はフィラデルフィアの街を訪れ、複数の友人と協力し、街じゅうにタグ付を行った。 


この後、コーンブレッドの謎めいたグラフィティの一貫であるタグ付は、フィラデルフィアの人々に少なからずの影響を与えるようになっていく。

 

町中の若者の間でこのタグ付が流行り始め、街の壁は様々な名前と番号が記され、銘々のアーティストはより注目を集めようと躍起になったという。


当時、フィラデルフィアでは、コーンブレッドの名は一般的に浸透し、地元紙がコーンブレッドはギャングに銃殺されたと誤って報じた際に、上記したように、彼は、街じゅうにタグ付けを行うことにより、自分が生きていることを証明した。「自分の名前を生き返られられるのは自分しかいないと分かっていた」と、フィラデルフィアウィークリーのインタビューにもあっけらかんと答えた。

 

 



コーンブレッドは1960年代を通して、グラフィティアートの第一人者としての地位を確立した後、ゲリラ的なパフォーマンスを行い、センセーショナルな話題をもたらした。コーンブレッドは、フィラデルフィア動物園の中に忍び込み、柵を飛び越え、象の檻の両側に「コーンブレッドドライヴ」を描き出した。このゲリラアートには、フィラデルフィアの船の乗組員も半ば遊びで参加していたという。

 

このゲリラスタイルのパフォーマンスは、後のバンクシーなどの現代アーティストに引き継がれている一種の現代アートのパフォーマンスの原初というようにもいえるかもしれない。その後、コーンブレッドは、刑務所で服役するが、しかし、このごく限られた空間でさえ、彼の評判をとどめるものはなかった。

 

その後、彼は、ロジャー・ガストマンのグラフィティアートを取材したドキュメンタリー作品に登場し、刑務所の警備員が自分のところにサインを求めてくる、自分の名はイエス・キリストのように響いていると証言している。

 

 

 

2.NYストリートアートの立役者 「Taki 183」

 


コーンブレッドがグラフィティの祖であることは疑いないが、この形式は一般的なアートとしては認められたというわけでなかった。北米の一地域で知られるニッチなアウトサイダーアートでしかなかったのだ。

 

そして、この芸術形態を、一般的にカルチャーとして広めていったのがTaki 183なる人物だった。彼は、コーンブレッドがフィラデルフィアの街の至る場所でストリートアートを広めていったのと同時期、ニューヨークでグラフィティという芸術形態を最初に普及させた重要人物である。

 

後に、バスキアといったアーティストも参加することになる公共施設の落書きに最初に取り組んだのはニューヨークの子どもたちだった。これは、上記のコーンブレッドと同じように、子供の戯れとしてこのグラフィティが始まったことを示唆している。それらのニューヨークの子どもたちの中に、ワシントンハイツ出身の自称「退屈なティーンネイジャー」を気取ったTaki183が出現した。彼は1969年にギリシャ名であるデトメリウスの変形「Taki」を組み合わせて、革新的なタグ付を確立した。「183」という番号は彼が住んでいた家の番地に因んでいる。

 



 

 

実のところ、Takiは名前と番号という後のヒップホップアートの符号の一つになるスタイルの最初の確立者ではなかった。それ以前にも、自分のニックネームと何らかの番号を組み合わせたタグ付けはニューヨークで存在していたというが、Takiは、「タグ付け」という行為を、最初のプロフェッショナルな仕事に変えた人物で、コーンブレッドが徹底して自分のニックネームにこだわったのとは異なり、Taki 183は、自分の住んでいる家の近所の番地の番号にこだわりを見せたアーティストである。後にComplexというカルチャーマガジンが「ニューヨークの偉大な50人の現代アーティスト」で彼を取り上げていることからも分かる通り、NYのストリートアート界で有名なアーティストとなった。

 

Taki 183はコーンブレッドが黒のスプレーを用いて、モノトーンのヴァンダリズム様式を生み出したのに対し、それとは異なるカラフルな色彩を用いた前衛的なスプレーペイントを世に広めた人物である。

 

しかし、上記のコーンブレッドと同じように、当時、スプレーペイントはアートとは認められておらず、当然ながら違法行為であった。警官に見つかれば、コーンブレドのように収監される可能性があった。

 

そこで、タキは自分の羽織っているジャケットに穴を開け、その中にスプレー缶やマジックマーカーを忍ばせ、ニューヨーク市の至る壁、街灯、消火栓、地下鉄の車両のタグ付を行い始めたが、現代のバンクシーと同様、人目につかない時間、場所を選び、相当、慎重にこのグラフィティ行為をおこなっていたようである。 

 

彼はコーンブレッドと同じように、すぐにこの奇妙な戯れに夢中になった。このグラフィティを行い始めた当時についてタキは、Street Art NYCのインタビューで以下のように回想している。

 

 

「私は自分の名を上げる感覚が好きだった。一度、落書きを始めたらなかなかやめられなかったんだ」

 


Taki 183は、自転車で移動をし、メッセンジャーとしての役割を担っていた。彼はニューヨークのアッパーサイドからダウンタウンに至るまで、自転車で移動し、グラフィティーアートを広め続けた。その後、彼の欲望はつのり、タグ付けにより街を征服しようとする野望を抱えるようになる。

 

この街の征服というTakiの欲求が一般的なメディアで取り上げられるようになった。最初にグラフィティをアートとして報じたのは、The New York Timesだった。ニューヨーク・タイムズは1971年に発行された紙面で、このグラフィティアートの特集を組み、1970年初頭のNYグラフィティシーンを世界に先んじて紹介し、その記事内で、とびきり風変わりなアーティスト、Taki183を取り上げた。ニューヨーク・タイムズで紹介されたことにより、彼の名は、一躍グラフィティーシーンの重要人物としてアメリカの全国区に知れ渡るようになっていった。

 

ヴァンダリズムで有名となった最初のニューヨーカーTaki 183は、コーンブレッドと同じように、実際のタグ付け行為を続けることにより、その後のニューヨークのストリートアートに対して強い影響を与えた。



3.1970年代、NYブロンクス区でのグラフィティの爆発的な流行

 


最初、Taki183が広めたグラフィティというアートスタイルが1970年代のNYをヒップホップと連れ立って席巻するのにはさほどの時を要さなかった。その一連の流れの中に、かのバスキアが登場したというのは既に述べておいた。そして、このアートスタイルが浸透していったのは1970年代初頭で、この年代にはブロンクスのドウィット・クリントン高校を中心にグラフィティコミュニティが形成されていく。都合の良いことに、クリントン高校は、都市交通局の操車場からさほど離れていない場所にあり、この操車場はその日の操業を終えた地下鉄車両が止められている場所、つまり、グラフィティをするのにうってつけの場所でもあったのだ。

 

クリントン高校に在学する若者たちは、この場所を介して、グラフィティを始めた。クラロイン社、ラストリューム社、レッド・デヴィル社のスプレー缶、フロウマスターインキ、さらに当時としては新しいテクノロジーであったフェルトペンを用いて、都市交通局の操車場に停車している地下鉄車両に、わいせつな言葉、へぼい文句を乱雑に書き連ねていった。


クリントン高校に在学する生徒、その仲間たちは、画家や美学生が用いるような専門の道具を使い、地下鉄車両を汚すという意図でなく、コーンブレッドやTakiと同じように、ゲリアアートを描き続けていたのである。これらの生徒は原初のNYのストリートアートの始祖、Taki183と同じようにタグ付けを行っていたことも同様である。

 

もちろん、これらは不法行為でもあったので、彼らはニックネームを用いることにより、巧妙に自分たちの身元をかくしおおせた。 クリントン高校のロニー・ウッドは「フェーズ2」という奇妙なタグを用い、グラフィックアーティストとして人気を博した。当時、「フェーズ2」は、ニューヨーク市内を走る地下鉄の車両の突然出現し、ニューヨーク市でも大きな噂を集めるようになった。

 

最初のNYの学生アーティスト、痩せて浅黒い肌をしたロニー・ウッドは、アフリカ系アメリカ人だった。しかし、事実としては、NYの初期のグラフィティシーンで活躍したのは、その多くがプエルトリコ系か白人である場合が多かった。平均的なニューヨーク市民にとって、人種的な背景というのはそれほど重要視されず、むしろ、そのアート性の強い個性の方が重視されていた。もちろん、グラフィティというのは、暇を持て余した人間、どことなく危なかっしい生活背景を持つ若者の仕業であると誰もが理解していた。実際、当時、グラフィティアートがカルチャーとして普及していくにつれて、多くのニューヨーク市民にとって、市の公共機関にグラフィティがあっという間に埋め尽くされていく様子のは奇異な感覚をもたらし、彼らが隣にあるニュージャージ州、或いは、フロリダ州に転居する原因を作ったこともたしかなことだった。


この後、1970年代にかけて、ニューヨークの地下鉄車両と駅は、交通手段であるほかに、グラフィティアーティストにとっての自由気ままに使用できるキャンバスのひとつに成り代わっていった。

 





学生アーティストたちの奇妙な欲求、創造性を最大限に発揮したいという思い、そして、ニューヨーク市民を震え上がらせたい、といういたずら心はいやまさっていき、ニューヨーク五区のグラフィティアーティストたちは、あらゆる公共機関にタグ付けをこぞって行い、壁を汚し、車両の端から端に至るまで、カラフルな文字を描き出した。

 

当時は、文字のフォントよりも、読みやすさそのものがアーティストの間では重視されていたようである、アーティストたちは、漫画的な文字で自分のスラングネームの「タグ」を書き連ねた。NYのグラフィティシーンが全盛期になると、ほとんどの地下鉄車両が、こういったヴァンダリズムによってカラフルな装飾にまみれていった。



4,ニューヨーク市のグラフィティアートに対する反発、それに対するグラフィティアーティストたちの反発

 


もちろん、ニューヨーク市としては、1970年代を通して、地下鉄をはじめとするあらゆる公共機関がヴァンダリズム行為によってサイケデリックになっていく様子を黙認していたわけではなかった。

 

アート形態としては多くの市民に支持されていたが、当時のニューヨーク市長、ジョン・リンゼイがついに、これらのグラフィティを一掃し、街の美化のために動き出した。 彼は側近であるエドワード・コッチに働きかけ、この若者たちのストリートアートをニューヨーク市の大きな都市問題としてみなし、目にするかぎりのヴァンダリズム行為を取り締まる主旨の法案を制定した。落書きを取り締まることは、無法状態に陥りつつあるニューヨーク市内の景観において、政治家が制御を取り戻した、という市民の信頼を得るためにも行われる必要があったのだ。

 

グラフィティの一掃運動が始まるや否や、アーティストたちも黙認するわけにはいかなくなった。彼らはすぐに抗議運動を開始し、地下鉄のシステムマップと共有する知識を活用し、落書きを増大させていった。

 

芸術というのは常になんらかの脅威に際して新たな発展を遂げる。それはどことなく人類の進歩にも似ているのだ。この市から突きつけられた脅威に際して、グラフィティアーティストたちは、既存の形式を捨て、新たな表現法を確立する。1970年代のグラフィティは新たな進化を遂げ、マジックマーカーという原始的な描写法から、エアゾールを用いた描写法に移行していく。グラフィティアートの作家たちは、新しく、レタリングスタイルを生み出し、星や王冠、花、眼球などのイラストをタグと一緒に用いて、さらにグラフィティアートの完成度を洗練させていく。この時代の作品には、アートとしてみた上で、歴史的な傑作もいくつか誕生する。もはや、最初の子供の落書きのスタイルでしかなかったグラフィティは、一つの芸術として認められるに至る。

 




この時代の象徴的な作家としては、Superkool223という人物が挙げられる。彼は、スプレーノズルが大きほど文字を素早く描き出せることを発見し、グラフィティアートの最初の傑作を生み出している。

 

そのほかにもTracy 168の作品は、ジョン・トラボルタの出演作のオープニングにも使用されるようになった。もちろん、それに加えて、上記の名前を名乗らない「フェーズ2」の作品も一般的に知られていくようになった。





 

フェーズ2を名乗るブロンクス出身のロニー・ウッドは、エアロゾルライティングが主流の、現在のグラフィティの礎「バブルスタイル」を最初に生み出した重要なアーティストである。

 

これは「ソフティ」とも呼ばれる太くてマシュマロのような文字のフォントを用い、1970年代当時の多くのグラフィティアートの中心的な形式となった。フェーズ2は、インターロッキングタイプと呼ばれる矢印の継いた文字、スパイク、目、星などのアイコンを最初に使用したことで知られている。

 




これらのアーティストの台頭した後、ニューヨークのブロンクスで隆盛をきわめてたオールドスクールヒップホップカルチャーと共に、グラフィティは進化していった。ヒップホップの流行とこれらのアート形式は深く関わりあいながら、ひとつの文化として長い時間をかけて確立されていったのは多くの方がすでにご存知のことだろうと思われる。


以後、グラフィティは、アメリカだけではなく、他の国々の若者のカルチャーとして浸透していく。彼らの始めたゲリラアートは子どもの戯れからはじまり、次第に洗練されていき、やがてモダンアートへ継承され、現代のバンクシーを始め、数多くの現代アーティストたちの重要なスタイルの一つとなっている。

 


こちらの記事も是非お読みください:


インディーレーベルについて

 

 

世界各地に点在するインディー・レーベルの成り立ちについて知ることほど面白いことはない。


なぜなら、メジャーレーベルと異なり、こういったレコードレーベルは、必ずしも巨大な資本を持つ企業があらたに経営に乗り出すことは稀であり、独特でユニークな経営方針を持って運営される場合が多いからだ。

 

こういったレコード会社は、メジャーレーベルとは異なり、ラジオ局で知見を深めた人間、独立したファンジンの発行者、レコードショップの店員、実際のミュージシャンが新たに事業に着手するケースが見受けられる。 それはここ日本でも変わらず、レコード・レーベルを始めるのは、それなりに業界で経験を積んだ多くのコネクションを持つ無類の音楽好きである場合が極めて多い。

 

レコードレーベルとしては、設立当初の規模の大小にかかわらず、後に一定規模の企業に成長していく実例もなくはない。もちろん、それは一部の例外といえ、多くは放漫経営により資金繰りの目処が立たず、新しい作品のリリースがままならなくなり、破産に至る事例も多く見られる。

 

さて、シアトルに本拠を置くサブ・ポップ・レコードは、二人の若者によって設立された企業である。

 

サブ・ポップは、設立当初こそ放漫経営を行っていたが、後に、一定の規模の企業に発展していく。1980年代から1990年代にかけて、グランジシーンを牽引したアメリカの名門インディーレーベルのひとつに数えられる。現在、シアトルの空港内にレコードショップを構えており、この土地を代表するレコード会社として知られている。


 

 


二十代の若者二人により設立されたサブ・ポップは、後に、イギリスでもグランジという言葉を浸透させたアメリカの歴代のポピュラーミュージック・シーンにおいて見過ごすことのできない重要なレーベルである。

 

何度となく、サブ・ポップは経営破綻しかけるものの、そのたび幾度となく蘇生してきた。一度、ワーナーミュージックに買収されるが、レーベル経営はその後、比較的安定化していき、2021年現在もアメリカのインディーシーンで一定の影響力を持ち、アメリカ国内のミュージックシーンの繁栄に寄与しつづけている企業だ。

 

現在も、多岐に渡るジャンルの作品をリリースし、個性的なアーティストを輩出しつづけるサブ・ポップは、レーベルの理念としてアメリカの先住民の人々に深い敬意を表している珍しいレーベルであるが、どのように創設期から現在までの道程をたどったのか、その概要について今回記していきたい。 

 

 

 

1.Sub Popの二人の設立者

 

 

 

サブ・ポップは、二人の若者によって設立された。後のグランジシーンの生みの親ともいえるのが、ブルース・パヴィット、カート・コバーンと親交が深かったジョナサン・ポネマンである。まず、この二人の人物のレーベルオーナーになる以前のバイオグラフィーについて、簡単に纏めていきたい。

 

 

 

・Bluce Pavitt

 

 

サブ・ポップの経営者となるブルース・パヴィットはアメリカ・シカゴ郊外で生まれ育つ。パヴィットは若い頃、AMラジオを聴いたり、シカゴのレコードショップ「Wax Trax」(インディー・ミュージックの公式学校として認可されている)を訪れたり、「Villlage Vice」という音楽雑誌を購読して、音楽に対しての知見を深めていった。  

 

 

サブ・ポップの設立者 ブルース・パヴィット https://brucepavitt.com/



その後、彼は、当時、米国内でインディーミュージックを唯一専門オンエアしていたワシントン州のラジオ局「KAOS」で学び、エバーグリーン州立大学に転校。ラジオ局と地元のミュージック・シーンにささやかな貢献を果たした。

 

ラジオ局「KAOS」において、ブルース・パヴィットは、「Rock」の時間帯を受け継ぎ、新たなバンドを「Subterranean Pop」という番組内で紹介した。

 

その後、ブルースは、アメリカのインディー・ミュージックに特化した音楽雑誌「Subterranean Pop」を立ち上げた。(後の「Sub Pop」という名は、この雑誌に因んでいる)1980年代当時、現在のように、インディーミュージック自体が流通する手段が整備されておらず、アメリカ国内ではインディーロックバンドのレコードを入手したり、ラジオ局でオンエアされる以外のバンドの音楽に触れるのはかなり困難だったという。

 

従って、ブルース・パヴィットはこの時代から、独自に発見した一般的に知られていないインディーミュージックを、米国全土に普及させていきたいと考えていた。雑誌の発行部数が増加するにつれて、パヴィットは、カセットコンピレーションのリリースを考案した。これは、後のサブ・ポップレーベルのリリースカタログの重要な概念となった。パヴィットは「Subterranean Pop」の購読者が、自分自身が執筆した音楽の記事だけでなく、実際の音に触れてくれることに深い喜びを感じていた。この時の出来事について、ブルース・パヴィットはこのように回想している。

 

 

音楽ファンが何らかのレコードを購入するとき、彼らの多くが、音楽そのものだけでなく、アーティストによって提示される価値観やライフスタイルにも触れてみたいと考えているのを私は知っていました。だから、私は、そういった情報や音源を率先して提供していこうと考えたのです。

 

また、この1980年代のアメリカにおいて、既に、ハリウッドの打ち立てた産業構造は完全に形骸化しており、(編注・資本家が宣伝したいものを巨大な商業ルートに乗せ、商品を需要者に押し付ける資本家の搾取のことについて、ここでパヴィット氏はきわめて暗示的に語っている。もちろん、言うまでもなく、現代のアメリカだけでなく、ヨーロッパの業界全体にもこういった悪弊は残されている)この時代、新しいサウンド、新しいヒーローの登場を、アメリカの社会全体、多くの人々は、切望していたのです。そのための何らかの手助けをしたいと、私は考えていたのです。

  

 

1983年、パヴィットは、エヴァーグリーン州立大学を卒業後、シアトルに転居する。それほど時を経ず、「Fall Out Records」というレコードショップを開店する。 「Fall Out Records」は、シアトルのキャピトル地区で最初のインディーレコードショップとなった。彼は、このレコード店を経営する傍ら、執筆活動にも精励するようになり、雑誌「The Rocket 」に「Sub Pop USA」というコラムを掲載しはじめる。これは、彼がエヴァーグリーン州立大学時代に発行したファンジン「Subterranean Pop」の雑誌の続編の意味を持ち、月間コラムの形式で掲載され、この雑誌の購読者の間では「インディーミュージックの聖書」という愛称で親しまれていた。

 

また、この時代から、ブルース・パヴィットは、KCMU(現在、ワシントン州シアトルに本拠を構えるラジオ局「KEXP」の前身、オルタナティヴやインディーロックを専門とするラジオ局で、ミュージックシーンから高い評価を受けている)で、インディーズレーベルのスペシャリティーショーを主催し、広い範囲にインディーミュージックを紹介する役目を担っていた。


1986年になると、ブルース・パヴィットは、初期のSUB POPのレーベル運営に乗り出していった。

 

その手始めに「SUB POP Compilation 100」、グランジムーブメントの黎明期を代表する作品、サブ・ポップのカタログ第一号として、Green Riverの「Dry As A Bone」をリリースした。 

 

 

 

Subpop-100.gif
レーベルの第一号となった記念すべきコンピレーション・アルバム「Sub Pop Compilation100」


http://www.petdance.com/nr/discography/, Fair use, Link


 

 

 ・Jonathan Poneman


 
サブ・ポップ・レコードのもうひとりの設立者、ジョナサン・ポネマンは、上記のブルース・ハヴィットとは異なり、バンドマンとして、このレーベルの経営を支えてきた存在である。
 
 
Nirvanaのカート・コバーン(左)とSub Popの設立者のジョナサン・ポネマン(右)
 
 
ジョナサン・ポネマンは、オハイオ州トレドで生まれ育った。彼は、十代の頃から、いくつかのガレージロックバンドで演奏してきたミュージシャン経験のある人物である。(本人は、自分は決して良いミュージシャンではなかったと謙遜して語っている)
 
 
ジョナサン・ポネマンは、ミシガン州の寄宿学校に短期間在籍した後、いくつかの高校に転校した。それから、シアトルに転居して、最終的には地元のラジオ局KCMUで、ボランティアとして、勤務するようになった。
 
 
しかし、このラジオ局に勤めることになった経緯については、ポネマンは無自覚であり、いつの間にかそうなっていたという。興味深いことに、このシアトルのオルタナティヴミュージックの重要人物ジョナサン・ポネマンは、いつの間にか、ラジオ局のステーションを駆け巡るようになっていたのだ。
 
 
1985年、 ジョナサン・ポネマンは、ブルース・パヴィットが主催するKCMUのスペシャルショーと称される番組に初めて出演を果たす。彼は、その時、1990年代のシアトルグランジシーンの代表格となるSoundgardenのライブパフォーマンスにいたく感動した。ボーカリストのクリス・コーネルの歌声に深い感銘を受け、ジョナサン・ポネマンは、サウンドガーデンのシングル作をリリースしたいと熱望するようになった。
 
 
この時、ジョナサン・ポネマンは、キム・テイル、ブルース・パヴィットの二人の知己を得て、サウンドガーデンのレコーディングセッションに2000ドルを捻出した。つまり、これがサブ・ポップ・レコードの始まりだったのだ。
 
 
 
 
 

2.サブ・ポップの黎明期

 
 

 

サブ・ポップの設立者ブルース・パヴィットとジョナサン・ポネマンは、1988年になって、レーベル運営の初期投資となる約1900ドルの資金を集めることに成功した。

 

この資金については、不履行になるおそれがある小切手、そうでないものが含まれていた。彼らは、シアトルの小さなオペレーションをフルサービスのレコードレーベルに変え、サブ・ポップのネーミングライセンスと事業に50%ずつ出資し、法人企業としての体裁を整えた。しかしながら、先行投資の設立当初のレーベルとしては多額の投資であったため、サブ・ポップは、発足当初最初の一ヶ月で破産の危機に陥り、その後も、レーベル運営が軌道に乗るまでは、財政的に苦戦を強いられることになった。

 

そもそも、このレーベルの目標は、サブカルチャーに根ざしたアイデンティティを確立することにあった。彼らは、レーベル設立当初から、人々にサブ・ポップと言う名に接した時、シアトルらしい音を思い浮かべてもらえるようにしたいという意図を持っていた。

 

彼らの目論見はピタリと当たり、これは後に「シアトルサウンド」としてアメリカ国内のみならず、国外のイギリスや日本でも知られるようになった。サブ・ポップの初期リリースの多くは、プロデューサー、ジャック・エンディノの協力によって制作された。

 

その後、サブ・ポップのレーベルの名、そして、シアトルサウンドを決定づける魅力的なバンドが数多くシーンに台頭しはじめた。

 

シアトルグランジの始まりとなったのが、Green RiverのEP作品「Dry As A Bone」。その後に、リリースされたSound Gardenのシングル盤「Screaming Life」、「Hunted Down/Nothing To Sat」。


Mudhoneyの「Touch Me I'm Sick/Sweet Young Thing」、「Superfuzz Bigmuff」。Nirvanaの初期作品「Love Buzz/Big Cheese」といった作品群だった。 

 

 

Green River「Dry As A Bone」

 

 

 

Mudhoney 「Superfuzz Bigmuff」
 

 

これらの作品に見受けられる、ギターエフェクター「Big Muff」に代表される、苛烈なほど歪んだディストーションサウンドの台頭は、当時のGuns 'N Rosesや、LA Guns,Skid RowをはじめとするLAの産業ロックが優勢だったアメリカのシーンに、衝撃的な印象を与えたのは事実である。

 

上記のサブ・ポップのリリース作品は、メタルとパンクロックの融合と一般的に称される「グランジサウンド」を象徴する最初期の名盤で、リリースは全てアンダーグラウンドの流通であったが、のちビルボードチャートを席巻するシアトルサウンドの素地を形成した。

 

特に、最初期において、サブ・ポップは、画期的なビジネススタイルを取り入れていた。驚くべきことに、時代に先んじて、1980年代に、毎月、レーベルからリリースされる新しいシングル作をメールで配信するサービス(サブスクリプション方式)を取り入れていた。この事例は、世界で最初のサブスクリプション方式ではなかっただろうか? このサブスクリプションサービスは「Sub Pop Club」と名付けられて、ピーク時には、約2000人の購読者を獲得していた。

 

   

画期的なメールマガジン方式のサブスクリプション「Sub Pop Singles Club」


 

1980年代後半、英国の音楽メディアは、アメリカのパンクロックミュージックとそのサブジャンルに興味を示していた。多くのアメリカのアンダーグラウンドのバンドは、その後、実際にはヨーロッパで成功を収め、アメリカ国内を凌ぐ人気を獲得した事例もある。特に、英国では、ザ・スミスの後の有望なバンドを探し、アメリカ、特にシアトルのシーンに次世代のスターを見出そうとしていた、といえるだろうか?

 

この年代、ブルースとジョナサンは、英国の音楽ジャーナリスト、エヴェレット・トゥルーをシアトルに招いて、サブ・ポップと相携えて成長を遂げる「シアトルシーン」について紹介記事を書くように依頼した。 

 

 

 

Everett True.jpg


By Greg Neate  CC BY 2.0, Link 英国人ジャーナリスト、エベレット・トゥルー

  

 

以来、エヴェレット・トゥルーは、シアトルのグランジシーンの苛烈な音楽性を痛く気に入り、深い関係を保ち続け、英国内にシアトルのインディーミュージックを紹介するプロモーターとしての重要な役割を担った。

 

彼は、グランジシーンについての取材を重ねるにつれ、シアトルで多くのバンドと親しくなり、その後、ミュージシャンとしても活動する。K Recordsのカルビン・ジョンソン、トビ・ベールのバンドとのシングル作において、ゲストボーカルとしても参加している。

 

また、エヴェレット・トゥルーは、Butthole SurfersとL7のギグで、カート・コバーンとコットニー・ラブを引き合わせた人物にほかならない。その後も、夫婦ぐるみの付き合いをし、家族のような関係を持ち続けた。

 

 

 

 3.グランジの最盛期

 

 

 

グランジの最盛期は、Nirvanaのメジャーデビュー作「Nevermind」が「スリラー」での成功以来、長年にわたり不動の地位を築いていたマイケル・ジャクソンをUSビルボードチャートのトップから引きずり下ろした瞬間に始まり、1994年のカート・コバーンの銃による自殺とともに終わったというのが一般的な通説である。少なくとも、ニルヴァーナがシアトルを代表するバンドであるとともに、サブ・ポップを象徴するバンドであったということは疑いがないはずだ。

 

カート・コバーンが地元シアトルの歯科助手として勤めながら、約2000ドルを貯めて、ほとんど自主制作としてレコーディングされた「Bleach」1989は、サブ・ポップからリリースされるや否や、カレッジラジオでオンエアされ、アメリカの若者の間で大きな人気を博した。 

 

 

Nirvana 「Bleach」1989 Sub Pop

 

 

ニルヴァーナは、この実質的なデビュー作「Bleach」により勢いを増し、アメリカのミュージックシーンに強い影響を与えるようになっていた。 


その後、ニルヴァーナとツアーを行っていたNYのインディーロックバンド、ソニック・ユースは、その時代にゲフィン・レコードの系列会社として1990年に新たに設立された「DGC Records」と契約を結び、レーベルの新しい可能性を探るため、マネージャのジョン・シルバとダニー・ゴールドバーグにニルヴァーナの間に入り、彼らをゲフィンレコードに紹介した。当時、ニルヴァーナのカート・コバーンは、サブ・ポップの財政状況に不満を示していて、このソニック・ユースの伝を頼ろうとしたのだ。 

 

 

 

Sonic Youth Still Life 1991, by David Markey"Sonic Youth Still Life 1991, by David Markey" by JoeInSouthernCA is licensed under CC BY-ND 2.0

 

 

その後、ゲフィン傘下のDGC Recordsは、サブ・ポップから、ニルヴァーナの契約を買収した。「Bleach」の楽曲の使用権については、以降もサブ・ポップに保持された。この権利譲渡を行う際の契約内容には、ニルヴァーナのバンドのプロモーションをする際、サブ・ポップのロゴとDGCのロゴを一緒に用いる規定、その規約をニルヴァーナの後のリリース作品にまで及ばせるという事細かな規定が両レーベル間で交わされた。この時代、ニルヴァーナの想像を遥かに上回る商業面での成功により、サブ・ポップは、その後何年にもわたり、会社の収益面での重要な基盤「シアトルサウンド」をリリースするレーベルとして、全米にとどまらず世界的な知名度を獲得する。



1992年からは、アメリカのロックシーンは、インディーロックに移り変わりつつあった。ニルヴァーナの意図せぬ大成功により(もちろん、「Nevermind」はアルバムジャケットからしてゲフェンレコードがすべて意図的に仕込んだセンセーショナルなリリースでもあった)、本来、オーバーグラウンドに全く縁のないマニアックなインディーロックバンドが次々にスターダムへと押し出されていった。これはまた、既に多くの人がご存知の通り、本来、「亜流」の意味を持つオルタネイティヴミュージックがメインストリームを席巻し、アメリカのミュージックシーンの「主流」に成り代わった歴史的な瞬間でもあった。さらに、アンダーグラウンドシーンから、次なるニルヴァーナを見出すべく、レコード会社の関係者、あるいは業界関係者は熱をあげていた。 


これには、多くのサブ・ポップに所属するバンドが全て対象となり、それまで、このサブ・ポップレーベルのシアトルサウンドの基盤を築き上げた、サウンドガーデン、グリーン・リバー、マッド・ハニーといったバンドも一躍脚光を浴びる。アバディーンを代表するメルヴィンズ(カート・コバーンがハイスクール時代にバンド加入オーディションを受け、不合格となっている)も、それなりの知名度を誇るバンドになった。

 

巨大産業、メジャーシーンに組み込まれることを危惧したサブ・ポップレコードは、この急激なミュージックシーンの変化に際して、何らかの先手を打つ必要があった。 1994年、サブ・ポップはワーナー・ミュージックとの合弁会社を設立する。2000万ドルの巨額の取引を通じ、サブ・ポップは、ワーナーミュージックにレコードリリースのライセンスの45%の譲渡を決定した。これは、前例のない取引だったという。しかし、このメジャーレーベルとの合併後、サブ・ポップは急激にインディーミュージックに対する求心力を失っていくことになる。 

 

 


4.サブ・ポップの一時的な凋落

 


 

ワーナーミュージックとの契約は、サブ・ポップのレーベル運営に、少なからずの変更を強いることになった。レーベルのオフィスが拡大し、ワーナーのレーベル担当者が招かれ、サブ・ポップの企業文化に大きな変化が生まれたのだ。

 

この時点で、創設者のブルース・パヴィットとジョナサン・ポネマンは企業の将来についての考えに明らかな違いが生じ始めていた。

 

ブルース・パヴィットは、レーベルのDIYの理念を保持していきたいと考えていたのに対して、ジョナサン・ポネマンは、企業の収益を増やし、レーベルの財務状態を安定させるため、会社の規模自体を拡大していきたいと考えていた。

 

これは、インディーレコード会社としての理念を守るか、はたまた、最初の理念を捨て、大手レーベルとしての歩みを選択するか、いわばレーベルの分岐点に当たった。ワーナーミュージックの買収、シアトルグランジがワールドワイドなブームとなる中、資本主義の企業文化に対してサブ・ポップも無関心でいられなかった。また、この時代、少数のサブ・ポップのスタッフがワーナーのスタッフに置き換えられてしまったことに、ブルース・パヴィットは深い動揺を覚えていたという。

 

まもなく、最初の創業者ブルース・パヴィットは、サブ・ポップを去っていった。以後、パヴィットは、執筆活動やDJといったレーベル経営とは異なる分野で活躍している。

 

その後、サブ・ポップは、ジョナサン・ポネマンの意向を重んじ、スケールアップを図り、世界中にオフィスを開き、メジャーレーベルのような存在感を示そうとした。しかし、この決断により、皮肉にも、サブ・ポップのレーベルカラーを失う結果となり、以前の特性を維持することが困難となった。正直、ニルヴァーナやサブ・ポップのリリースしたレコードのブームは一過性のものでしかなく、永久的な音楽市場の需要を築き上げるまでには至らなかった。1990年代後半、グランジブームが下火になるにつれ、サブ・ポップのレーベルの経営は息詰まり、1997年には破産寸前まで追いやられた。


この時代、コストを削減するため、余分なオフィスを手放す必要に駆られたのち、残留したスタッフの給料を捻出できないほどになっていた。サブ・ポップのレーベルとしての未来は、決して明るくないように思えた。

 

 

5.最初のレーベル理念の復活 

 

 

 

しかし、再び時を経て、ジョナサン・ポネマンが、シアトルに戻った時、重要なインスピレーションを得た。彼は、それまでの三年間、なんとしてでも巨大なレコード会社へ成長させようと試みていたが、そもそもその考え自体が誤りであったと気がついたのだ。


サブ・ポップと契約しようとするバンド、アーティストはそもそも、メジャーレーベルに属するミュージシャンと異なり、インディー体質、つまり、ある程度、DIYのスタイルを保持し、音楽活動を行っていきたいと考えるアーティストばかりだと、ジョナサン・ポネマンはようやく思い至ったのである。

 

それは、インディーレーベルらしい家族やコミュニティのような近い関係を、レコード・レーベルとアーティストが結ぶことにより、アメリカのインディーロックの重要な価値観であるDIYの精神を強固に構築するものでもあった。むしろ、これらのアーティストは、サブ・ポップというレーベルを通して、他のメジャーレーベルでは味わえない経験を得たいと考え、契約を結ぶことが多かったのだ。

 

この重要なレーベルコンセプトに気がついたポネマンは、以後、企業規模を縮小していく方針を取る。サブ・ポップは、以前と変わらず、財政面での苦戦を強いられ、その将来も見通せないままであったにせよ、ポネマンは、サブ・ポップの社屋をシアトルに戻し、巨大レーベルとしての道を諦め、その後、シアトルらしいレコード企業として小さな経営を続けていくことを決断した。

 

 

その後、幸運にも、サブ・ポップの財政面での困難を救ったのが、The Shinsの「Oh,Inverted World」2001のリリースだった。  

 

 

The Shins 「Oh Inverted World」2001 Sub Pop

 

 

「Oh Inverted World」は、商業的にも批評的にも概ね好評で、新たなサブ・ポップの代名詞とも呼ぶべき名盤となった。The Shinsのレコードは、Sub Popの歴史に新たな1ページを加え、レーベルの明るい未来に向けての新たな分岐点を形作ったと言える。

 

 

 

6.サブ・ポップの現在 シアトルの象徴

 

 

 

2000年代以降、サブ・ポップはジャンルにかかわらず、多岐にわたる新人アーティストの発掘に努めている。

 

2021年現在、ロックにとどまらず、フォーク、R&B、エレクトロニック、ヒップホップ、と魅力的なアーティストが数多く在籍し、刺激的なリリースを行っているレーベルであることに変わりはない。

 

同じように、サブ・ポップは、NYのMatadorと並んで、アメリカの重要なインディーズレーベルとして息の長い経営を続けている。それのみならず、スターバックス、アマゾンと並んで、シアトルを代表する企業であることにも何ら変わりない。サブ・ポップのレーベルの特色、そして、所属するアーティストの独特な音楽性は、現在もシアトルという土地の象徴的なブランドを形成しているのだ。

 

7年前から、シアトルのシータック空港(シアトル・タコマ国際空港)内には、サブ・ポップのレコードショップが開設されている。


ここには、サブ・ポップのPNW関連の商品を販売するパートレコードストア、それから、パートギフトショップであるサブ・ポップ・エアポートストアが開かれており、レコードマニアにとっては見過ごすことのできない観光名所となっている。2021年現在も開設されているのかについては、シアトル現地のファンの証言に頼るしかあるまい。

 



シアトル・タコマ国際空港内のサブ・ポップ公式ショップ

 

2018年にサブ・ポップは、遂に目出度く三十周年を迎えた。いや、迎えてしまったと言えなくもない。(これは、彼らが「創業三十周年」ではなく、「廃業三十周年」と自虐的に呼んでいることからも明らかである)

 

長年にわたるレコード会社として粘り強いDIYスタイルの経営を続けてきたことに加えて、財政面で浮き沈みの激しかったレーベル運営という面で、シアトルのサブ・ポップレコードは、英国のラフ・トレードにも近い魅力を持ったレコード会社といえる。


今後、果たして、どのような素晴らしい魅力を持つアーティストがこのアメリカの名門レコード会社から出てくるのだろう。音楽ファンとしてはワクワクしながら次なるビッグスターの登場を心待ちにしたい!!



・Reference 


「A History of Sub Pop Records」Lauren Armao 2021

アフリカでは、二十世紀を通して、特に、ガーナの首都アクラ地域を中心として、キネマ文化が大きく花開いた。

 

しかし、現在、一時代を築き上げたアフリカの映画産業は、今後発展していく可能性を秘めているものの、前の時代のガリウッド、ノリウッドのもたらした暗い影、負の遺産になっているのではないかとの否定的な見方もあるらしい。

現在、1980年代から1990年代にかけて、アメリカのハリウッド映画が盛んに上映されていたガーナの首都、アクラの映画館はほとんど閉館し、半ば廃墟化しているという。この事実から鑑みると、最終的には、この土地には映画産業は、一般的には浸透していったものの、完全にはカルチャーとして根付かなかったという意見もある。

 

ナイジェリアでは「ノリウッド」、ガーナでは、「ガリウッド」という呼称がつけられている独特な映画文化。近年、アメリカやイギリスでは、このガーナの映画の個人の芸術家が描いたポスターが収集家の間で話題を呼んでいることをご存知だろうか。

 

アメリカ、イギリスの美術館、博物館では、このガーナのモバイルシネマのポスターが独自の芸術として再評価を受けており、欧米人の間で一種のアート作品と見なされている。今回、一般の人々にとっては馴染みがないように思えるアフリカ大陸のキネマ文化について、あらためておさらいしておきたい。

 

 

 

 

 

 

1.アフリカの映画産業の原点

 

 

アフリカの映画文化の起こりは、政治と思想、特に、プロパガンダと深く結びついている。言うなれば、白人としての優位性をもたせるため、映画文化が活用されたのである。このような言い方が穏当かはわからないにせよ、アフリカを統治していたイギリス政府がアフリカの民族の牙を削ぎ落とそうとするための意図も見いだされるようだ。

 

さらに、極端に論を運ぶことをお許し願いたいが、イギリス人は、アフリカの先住民の思想性、文化性を植民地化するために、この映画産業をアフリカにもたらしたともいえるかもしれない。考えてもいただきたいのは、そもそも戦争や侵略の後に行われる地域の植民地化というのは、土地を収奪することが重要なのではなく、その土地の人間の思想性を奪うことに大きな意味が見いだされるのである。

 

19世紀後半から20世紀にかけて、ケニア、ウガンダ、北ローデシア、ニヤサランド、ゴールドコーストを統治するイギリスの植民地時代、イギリスはアフリカの先住民を教育という名目で統治し、啓蒙を行う様々な方法を模索していた。

 

そのため、1935年、英国植民地省は、「バンドゥー教育映画ユニット」をアフリカに設立することを決定する。このユニットは、1937年まで運営されていたが、これは取りも直さず、イギリス植民地の先住民族を文明化する方法として組み込まれた計画であった。


この「バンドゥー教育映画ユニット」の責任者は、ケニアの大規模農場(プランテーション)の所有者で、アフリカについて深い知識を持っているといわれていたイギリス人、レスリー・アレン・ノットカット少佐だった。

 

その後、レスリー・アレン・ノットカット少佐は、このバンドゥー教育映画ユニットの運営を任されるや否や、植民地文化への影響、費用を最小限に抑えるため、地元俳優の起用を取り決めた。1937年になると、ノットカット少佐は、英国植民地省に対し、北ローデシア、ケニア、ゴールドコースト、ウガンダのイギリス植民地で別々の映画ユニットを立ち上げ、ロンドンからの管理を一元化するよう説得を試みたのだった。

 

結果として、英国植民地省は「ゴールド・コースト・フィルム・ユニット」の設立を決定したことに伴い、”ゴールド・コースト”といわれる後のガーナに当たる地域で、アフリカの最初の映画産業が立ち上がった。

 

 

 

 

 

2.アクラに設立された映画ユニット、アフリカ映画文化の黎明の時代

 

 

アクラという土地は、ギニア湾に面した土地で、現在はガーナの首都に当たる。とすれば、この土地に最初の映画産業のゴールド・コースト・フィルム・ユニット、所謂、ハリウッドの撮影所のような施設が設立されたこと、それがそのまま、独立後にガーナの首都となったことは偶然ではないかもしれない。都市というのは、文化の栄華により、人間の文化の営みにより形成されていくからである。特に、このアクラという地域は映画産業を通じて二十世紀を通して産業発展に寄与した土地であったのだ。

 

ゴールド・コースト・フィルム・ユニットが設立された後、さらにこの映画産業はハリウッドのような形で推し進められようとしていた。

 

英国植民地省は、アメリカのハリウッドのような文化をこのアフリカ大陸にもたらそうとしていたように思える。次いで、英国植民地省は、現地アフリカの映画製作者及び俳優を育成するために、「コロニアルフィルムユニット」と呼ばれる映画学校をこの後にガーナの首都アクラという土地に開設することを決定した。

 

これは、LAのハリウッドのような夢のある話に思えるかもしれないが、そのような甘い話ではないようだ。その出発点としては、イギリス植民地省の統治の一貫としての産業発展のための政策のひとつであったといえる。

 

コロニアルフィルムユニットといわれるアクラの映画学校は、地元の映画産業を厳格に管理するように運営されていた。アフリカの最初の映画製作者に、自由性を与えず、厳しい管理下においた制作を行わせようと試みていたのである。英国植民地省は、アフリカの人々に既存の映画を鑑賞させ、以前の知識に基づいた映画文化を再発展させ、アフリカの市民、あるいは創作家たちに創造性を与えようという意図はなかった。

 

 

 

 

入植後、イギリスはアフリカの文化性について、あまりに原始的であると断定づけていたから、英国人はアフリカの先住民に対し、 基本的な映画制作の技術を教えたのみであった。これに加え、この映画産業の勃興に関して問題点を見出すなら、思想的な手法、プロパガンダの手法が、アフリカの最初の映画産業の設立には組み込まれていたことだろう。

 

この映画産業は、イギリスの支配と文明を正当化するために行われたともいえる。これは、さらに踏み込んで言及するなら、ヨーロッパの優位性をアフリカに対して示すために組み込まれた統治政策のひとつだったという見方もある。これらのコロニアル映画ユニットの撮影所で制作された最初期のアフリカ映画は、アフリカの伝統、あるいは古くから伝わる文化性を飽くまで迷信として描写していた。

 

もちろん、アクラに設立されたゴールド・コースト・フィルム・ユニットには、こういったアフリカ先住民の持っていた文化性を薄れさせるという負の側面もありながら、西欧の観点からいう文化産業を発展させる側面もあったことは事実ではないだろうか。


1957年には、ガーナが国家として独立した際、クワメ・ンクルマ大統領は、映画業界のインフラを構築し、制作、編集、配信の設備を充実させ、1980年代にかけてのガリウッド文化の基盤を形作った。

 



3.クワメ・ンクルマ政権下でのガーナの映画産業

 

 

1957年から1966年のンクルマ政権下、ガーナの映画産業はアフリカで最も洗練された文化、映画産業に成長した。クワメ・ンクルマ大統領は就任当初から、映画産業を国家の大きな推進力として事業を構築するという強い政治戦略を打ち出していた。 

 

J.F.ケネディ大統領とクワメ・ンクルマ大統領
 

 

クワメ・ンクルマ大統領は就任以後、ゴールド・コースト・フィルム・ユニットを国別化することを決定し、名称を「State Film Industry Corporation」に変更する。さらに、最終的には、「Ghana Film Industry Corporation」(通称GFIO)として国策の映画産業にまで発展させた。この時代、大統領は、映画産業を通して、ガーナの国家的発展を企図しようとしていたのである。

 

ンクルマ政権時代、ガーナの映画産業は国策の名目により推進がなされていき、国営企業であるガーナ映画産業公社により独占されていた。ガーナの映画産業は厳しいコントロール下において推進されていった。

 

また、1959年には検閲委員会が設置され、ガーナ政府から資金提供を行い、 上映する国際映画を決定し、強い影響を映画業界に与えていた。

 

映画産業の権力のシフトは、1957年から1966年の間に移行し、映画産業の健全な生産性が確立される。少なくとも、産業としてガーナ国内で確立されていく過程、映画館で上映される作品自体がなんらかの政治的思想性、プロパガンダの意味を持っていたことは事実のようである。

 

 

4.ガーナ映画産業の最盛期

 

 

1966年、映画産業を肝いり政策として打ち出していたンクルマ政権が終焉を迎えた後、ガーナのコロニアル映画産業は、一時的に、ゼロからの出発の時期を迎えざるをえなくなった。

 

政権が崩壊してまもなく、彼の政権時代に上映されていた映画作品は全て没収されてしまったのである。しかし、一方、映画産業を再構築させようという動きも起こった。ガーナ映画産業公社には新たなシステムが組み込まれ、ガーナ国外の映画関係者が共同制作、共同監督を手掛けることが可能になったのである。


このガーナの内向きな映画文化に新鮮な空気を与えようとする政府の決定については、ガーナの映画産業の救済策として打ち出されたものであるが、これはガーナの映画文化を発展させるどころか衰退させる負の要因となったという見方もあるようだ。

 

映画業界が国外からの資金調達を検討する必要有りと感じたため、反面、ガーナ政府は、国内の業界全体に対する資金調達を削減した。これにより、ンクルマ政権下では長編映画の制作が盛んであったが、この後代には長編映画制作が減少の一途をたどった。

 

さらに、シネマティックメインストリーム(映画館での上映)は国際映画、例えば、ハリウッドの映画で独占されていたため、国内の映画作品の上映機会が減り、唯一、ガーナのテレビネットワークだけがガーナ国民にとって国内の映画を鑑賞できる数少ない機会となった。

 

結果、ガーナの映画産業は一時的に創作面で衰退していかざるをえなくなり、1966年から1980年代にかけて、ガーナ映画はおよそ20本しか制作されることはなかった。国家の支援、資金不足、および、ガーナの全体的な経済の衰退によって、国内事業の一貫である映画産業は、株価の変動に喩えて言うなら、底を打ったというふうにもいえるだろう。

 

 

5.独自のキネマカルチャーの確立

 

 

ガーナ映画産業公社が国内の映画産業を独占していたこと、映画業界内での資金不足のために、その後、ガーナ人はより独立した映画産業の構築に活路を見出そうとした。それがガーナ内でのインディー・シネマともいうべきカルチャーへと変化してゆく。

 

この動きは、独学の映画製作者であるウィリアム・アクフォによって推進されていった。他の多くの人と同じく、アクフォは自分の映画のために州から資金を調達することが出来なかったので、自分のポケットマネーで自主映画を作成しようと試みたのである。

 

ウィリアム・アクフォは4つの壁方式(映画製作者が映画の全期間に渡ってスタジオ、ステージを借り入れ、劇場の所有者の対価を支払うのでなく、自分のためにチケットの収益を維持する)に従い、映画を低予算で撮影し、自作のスタジオで上映をすることにより、コストを軽減した。

 

ウィリアム・アクフォのこの4つの壁方式として制作された映画の中で最も代表的な作品が、1987年にリリースされた長編ビデオ映画の「Zinabu」だった。この映画は、ガーナのビデオ映画業界に大きなブームを引き起こした。

 

 


 

それから時を経ず、ガーナの首都アクラには、数多くの新しい映画館が建設され、映画ライブラリーが作成され、アクラの町の隅々まで新しい映画を宣伝するバナー、ポスターが沢山貼り出されるようになった。これに従い、ガーナの映画産業は新しい段階に入った。この頃から、ガーナの映画業界は「ガリウッド」と呼ばれ親しまれるようになった。



6.1980年代から1990年代のキネマブーム、モバイルシネマ



1980年代からイギリスの植民地支配以来、初めて、映画はガーナの人々の現代の信念や社会問題を活写する芸術表現へと昇華されるようになった。この時代から、ようやく一般の人々が映画で描かれる日常的な問題について、自分たちの生活と直結した身近なテーマを見いだせるようになった。

 

この時代から、ガーナには移動式の映画館が街なかにお見えするようになった。車の荷台に自動の発電機を取り付けて、その電力により映画を上映するというモバイルシネマという独特の文化が登場した。

 

Ghana Moblie Cinema

 

多くのガーナ人は、この移動式のモバイルシネマに夢中になったはずだが、この文化から副産物的なアート形態が登場した。

 

それが映画の宣伝の為の広告ポスターであった。これは、当初、ハリウッドから輸入された映画、アクション映画、ホラー映画、あるいはセクシー映画などの広告をガーナのデザイナーたちが手掛けるようになったのだ。

 

その始まりというのも、最初は、紙の原料が不足してたため、苦肉の作として小麦袋に絵を描くという原始的な手法であったが、独特のB級の味わいのあるポスター文化が花開いたと言える。

 

そこで描かれるポスターはどことなく不気味な印象でありながらコミカルなタッチが魅力の独特のドローイングアートが生み出されるに至った。 

 

 


 

にわかに信じがたいのは、ハリウッドの配給会社から事前に実際の映像が提供されることは稀であり、これらのポスターのデザイナーたちは映画の内容を自分たちでイマジネーションして描いていたというのだから驚きである。このモバイルシネマ時代のポスターを見るにつけ感じるのは、いかに人間の想像力は素晴らしいものであるのかということだろう。

 

 

7.GFIOの事業売却とガーナ国内の映画産業の終焉


 

1980年代にかけてガーナの映画産業は最初の植民地時代からの長い年月を経てようやく花開いたが、1990年半ばに入り、急速に衰退していくことになった。この要因というのは、最初は厳しい監視下で開始された映画産業が、ガーナ国内でコントロールしきれなくなっていったからだ。

 

結果として生じた問題が、映画自体が、巨大産業というより、自主的に楽しむ芸術としての要素がつよまっていったのではなかったかと思われる。

 

最終的には、植民地政策の一貫として国策事業として始まった「Ghana Film Industry Corporation」(GFID)の存在感する意味も、1990年代からミレニアムの節目にかけて徐々に薄れていかざるをえなかった。

 

その後、ガーナ国内では、映画の違法コピーと配布の割合が高くなり、「性別、暴力、強盗、人権的な偏見、女性差別」といった過激なテーマの映画が頻繁にマーケットに出回り、制作内容の検閲が全く行われなくなり、ガーナ国内の映画産業は無法状態に近くなっていた。おのずと、国家的な事業として始まったGFIDはガーナ政府の重荷になりかわっていた。


そのため、州政府は、このGFIDの株式の約70%をマレーシアのクアラルンプールの制作会社に譲渡することに決定した。

 

これはガーナの映画産業を救済する試みに思えたが、結果としてこの譲渡は産業を閉じていく要因ともなってしまった。

 

GFIDは、「Gama Media System LTD」に名称が変更されたが、新会社は既存の弱りかけた産業構造を回復することも新システムを構築することも出来なかった。2000年代には、1980年代から盛んだった映画館も軒並み閉館となり、コロニアルシネマとして栄えた栄華産業も衰退の一途をたどった。

 

アクラ地域の街には、現在も閉館となったまま土地の買手のつかない映画館の建物だけが多く残されている。



 

もし、仮に、このガーナで映画産業が再興するか、それに類する華やかなカルチャーが再び花開く時があるするなら、本当の意味で、このガーナの首都アクラの人々が国策として押し付けられた思想文化を無理矢理に推し進めるのではなく、自分自身の手に「真の権利」というものを誇り高く勝ち取り、その後アフリカ独自の芸術表現が生み出されるかどうかによる。 その時まさに、本来の意味のアフリカ、ガーナの独自の芸術、表現形態と呼べる素晴らしきものが新しく出来するはずだ。

 


1.ジョン・ピールの回想

 

 

通称、ジョン・ピール、本名ロバート・パーカー・レイブンスクロフトは、1968年からBBCのRadi1番組内の「John Peel Session」というコーナーを担当してきたDJだ。 

 

 

John Peel

  

ジョン・ピールはイギリスのラジオパーソナリティの先駆者でもある。彼が2004年にペルーのクスコで没した後も、イギリスの熱烈な音楽ファンは数年もの間、最も偉大な英国人の48位に選ばれ、英国勲章も与えられている偉大な人物、ジョン・ピールの代役を熱心に探しつづけた、「どこから次のジョン・ピールは出てくる?」またあるいは、「次のジョン・ピールは誰なのか?」と英国のコアな音楽ファンはピールの再来を待ち望み続けていた。英国の音楽ファンは素晴らしい音楽を提供してくれるマスターを探し続けていたのである。しかし、結果的に、音楽ファンは次なるジョン・ピールの出現を見送り、その再来を半ば諦めることになった。

 

ジョン・ピールと同じく、古い時代から「BBC Radio1」でパーソナリティを務めるイギリスの最初の女性DJ”アーニー・ナイチンゲール”がその後、彼の代役に抜擢され、この番組内のパーソナリティーを務めるようになった。けれども、このBBCラジオで最も古くからDJを務める人物であろうとも、ジョン・ピールの代わりを果たすことだけは非常に難しかった。その後、BBCは、ジョン・ピールの代わりはいない、ということを明言することになったわけである。


ジョン・ピールは、1968年から「BBC Radio 1」で放送されていた「John Peel Session」のパーソナリティを長年務めた人物である。英国で最も有名なラジオDJであり、日本のラジオ番組でDJを務める若き日のピーター・バラカンさんも、イギリスでジョン・ピールの番組を聴いていたそうである。

 

1970年代において、ジョン・ピールは、イギリスで最も偉大な音楽プロモーターだったともいえる。当時無名であったロンドンパンクバンドのレコードを次々に引っ張ってきて、実際、自身の番組「BBC Radio1」でオンエアし、無名のバンドを数多くオーバーグラウンドに押し上げていき、UKトップチャートに送り込んでみせた。とりわけ、The UndertonesやGang Of Fourといった今では世界的に名を知られるパンク・ロックバンドは、ジョン・ピールの番組「BBC Raiod1」内のオンエアなくしては、彼らの活躍もなかったと断言でき、つまり、1970年代のパンク、ポスト・パンクが一世を風靡することもなかった、といえるかもしれない。その後も、ザ・スミス、ブラー、といった大御所のロックバンドを公共ラジオ番組内で他のDJに先んじて紹介した。

 

勿論、晩年になっても、ジョン・ピールの影響力はとどまることを知らず、2000年代、その頃、サウスロンドンの海賊ラジオ局でしか流されていなかった「ダブステップ」をBBCで初めてオンエアし、このクラブミュージックムーブメントを後押しした。おそらく、ジョン・ピールという存在がなければ、英国の音楽が現代ほど世界的な影響力を持つことはありえなかったかもしれない、つまり、ピールは、名物DJとして膾炙されるにとどまらず、1960年代後半から現代にいたるまで長きに渡り、イギリスのポピュラー・ミュージックの歴史を支えてきた重要な人物である。

 

ジョン・ピールにまつわるエピソードは事欠かない。私生活での感染症といった私生活にまつわるものはこの際棚上げしておきたいが、おそらく、面白いエピソードを逐一紹介していけば、間違いなく浩瀚な書物が出来上がることだろう。(事実、グラスゴー、カレドニア大学の上級講師をつとめる、ケン・ガーナー氏がジョン・ピールの伝記「The Peel Sessions BBC Books、2007」を書き記している)

 

ジョン・ピールは、その私生活においても、常に、センセーショナルな話題を振りまく人物であったが、ラジオパーソナリティとしても最も過激な人物であった。音楽にまつわるセンセーショナルなエピソードの一例としては、ブライアン・イーノのレコードを勝手に逆回転して「BBC Radio1」で流し、車の中でその放送を聴いていたブライアン・イーノを驚愕させ、「これは私の作品だ。すぐさまジョン・ピールに電話をしなければならない!!」と言わしめたことがある。また、その他にも、BBCのプロデューサーからシングル盤は番組内で流さないように忠告されていたにもかかわらず、ジョン・ピールはセックス・ピストルズの「God Save The Queen」を番組内で流している。彼はこの楽曲が国内外にどのような影響を与えるのか熟知していたのだ。

 

しかし、そういったセンセーナルなDJとしての姿は、ラジオリスナーに強い印象を与えたであろうし、また彼の番組「peel sesshion」においてオンエアされる音楽を鮮明な記憶として残したろうことはさほど想像にかたくないのである。そして、他でもない、ジョン・ピールは1960年代のアメリカのサンフランシスコの最初期のサイケデリア、イギリス、リバプールのビートルズをはじめとするマージービート、その後は、キャプテン・ビーフハートやフランク・ザッパのようなコアな音楽通を唸らせるアーティスト、つまり、オーバーグラウンド、アンダーグラウンド双方のシーンを、リアルタイムで接してきた数少ない証人でもあり、そういった音楽的な見地から選び出されるディスクガイド、パーソナリティとしての語りというのは、どの音楽通もかなわないほどの的確さがあったと思われる。

 

 

2.DJとしてのキャリアの出発

 

 

最初、ジョン・ピールが、ディスクジョッキーとしてのキャリアをはじめたのは、1960年代の初頭であった。

 

まだその年代には、「DJという職業、つまり、ラジオの番組内で音楽を紹介する職業は一般的にはこの世に存在していなかった、少なくともイギリスには存在していなかった」と後になって、ジョン・ピールはこのように回想している。唯一、ヨーロッパのルクセンブルグのラジオ局では、ピート・マレー、アラン・フリーマン、デイヴィッド・ジェイコブといった人物がラジオパーソナリティを務めていたという。

 

ジョン・ピールは、父親と相談し、アメリカに渡り、最初、記者としての職を得、ジョン・F・ケネディーの暗殺事件を取材している。実際、ジョン・ピールは、ケネディ暗殺事件記事を書くため、何枚かの写真を撮影している。その後、テキサス、ダラスのラジオ局”KOMA”で、ラジオパーソナリティを務める。こうしてアメリカでビートルズを専門に宣伝するための専門家として最初のジョン・ピールの仕事は始まったのである。

 

リバプールの音楽に深い見識のあるイギリス人として彼の仕事は、テキサス州のダラスで開始された。ジョン・ピールは、フルタイムのラジオパーソナリティとして雇われ、1964年の終わり、カルフォルニアに移り、サンバーナディーノで、DJとしてラジオ局に18ヶ月間勤務した後、イギリスに帰国している。その頃、彼は、カルフォルニアのラジオにおいて、六時間、ラジオパーソナリティを務め、イギリスのポピュラー音楽を紹介していた。


当時のことを回想してピールは語る。

 

 

「私は六時間の与えられた番組内で、LPを含む、詐欺的な英国チャートを作成することで、どうにかやりくりしていた」

 

 

 

3.ロンドンの海賊ラジオ局からBBCのDJとして採用されるまで

 

 

ジョン・ピールは18ヶ月もの間、カルフォルニアのラジオ局で勤務した後、ロンドンに戻り、海賊局「ラジオ・ロンドン」のPerfumed Gardenのラジオパーソナリティを務めるようになる。 

 

当時、ジョン・ピールは、午前12時から午前2時まで、この番組を担当していた。この頃から、プロのDJとしての矜持を示そうと、後に伝説的なDJ名となる「ジョン・ピール」の称号を同僚のBIG Johnから与えられ、名乗るようになる。ピールは、ラジオ・ロンドンに在籍していた時代には、アメリカのサンフランシスコのサイケデリック音楽、プログレッシヴロックなどのバンドの音楽を中心に番組内で率先してオンエアしていた。

 

イギリスのラジオで、初めて、これらの音楽を公共の電波にのせてオンエアしたのが、他でもない、ジョン・ピールであった。このラジオ・ロンドン(UK RADIO)の番組内で、ジョン・ピールは他の同局につとめているラジオパーソナリティと異なる独自性を打ち出していた。とくに風変わりだったのは、番組内で広告も宣伝せず、ニュースや天気についてと一切報じることもなかったという。

 

ジョン・ピールは、当時、イギリスでそれなりにの人気を博していたこの海賊ラジオ局において、常に誰も知らないようなマニアックな音楽を担当する番組内で取り扱い、音楽についての番組を編成することに専心した。当時、イギリス国内でも全く知名度のなかった、サンフランシスコのサイケデリックロック、プログッシヴロックといったアヴァンギャルド音楽を紹介する合間に、アンダーグラウンドミュージックシーンにおける自分の考えやその関わり方について熱弁をふるっていた。このラジオ局Radio Londonは、数年後に閉鎖されるが、既に、この時代から彼はDJとしての地位をロンドンで確立しはじめており、多くのファンレターをもらう名物DJとしてイギリスの音楽ファンに親しまれるようになっていた。


ジョン・ピールは、ラジオ・ロンドンが閉鎖されてからというもの、新たな「ラジオDJ」としての仕事を探していた。彼は、自分をラジオパーソナリティとして採用してもらいたいという旨を記した手紙をBBC に送っていたことをすっかり忘れていたが、のちに同僚に実物の手紙を目の前に突きつれられたことにより、その事実を渋々ながら認めざるを得なくなった。ともあれ、ジョン・ピールが非常に幸運であったのは、BBC放送もこの頃、「BBC Radio 1」というポピュラー音楽を中心に紹介するラジオ番組を立ち上げており、その番組を担当する個性的なDJ、音楽について最も詳しい人物を探していた。そこで、BBC放送は、既にDJとしてロンドンでコアな人気を獲得し始めていたジョン・ピールといういかにもいかがわしげな人物に、白羽の矢を立てたということなのである。

 

当時、BBC放送が、この人物を自局の名物番組「BBC Radio 1」で放送されるトップギアというプログラムのゲストDJとして、正式に採用する際にも、局内で意見が真っ二つに分かれていた、いや、それどころか、ジョン・ピールという後のBBCのラジオDJとして最も有名な存在となる人物の採用に関しては、当初は多くの関係者が大きな疑義を示していたという。ラジオ局DJとしての実績は疑いを入れる余地は全くなかったものの、それ以前の海賊ラジオ局での勤務経験、あるいは、その毛深い風貌に対して多くの関係者が拒絶を示していた。

 

John Peel Sessionの伝記「The Peel Sessions BBC Books、2007」を記したグラスゴー大学のカレドニア大学の講師、ケンガーナー氏は、この当時のことについて、以下のように述べている。

 

 

1967年10月1日日曜日に放送される「Radio 1」による放送の二日目の午後にトップギアを共催する「ゲストDJ」として最初に登場した男をBBCの誰もが採用したいとは思わなかった。     

    

 

BBC.com  グラスゴー大学のカレドニア大学の講師、ケン・ガーナー氏

 

 

さらにケン・ ガーナー氏はBBCの記事内でこのように続けている。「ウィラル出身の毛深い、恥ずかしがり屋の公立学校で教育を受けた27歳の海賊局のDJ、ジョン・ピールがこのラジオ番組のパーソナリティーとして長く生き残るであろうとは当時誰もが信じていなかった」と。これは一見、かなり辛辣な書きぶりのように思える、イギリスで最も有名なDJとして名を馳せるジョン・ピールに捧げられたウィットにとんだ逆説的賛辞に過ぎないように思われる。

 

また、ジョン・ピールはラジオDJとしての地位を確立した後に数多くの放送賞を与えられている人物でもあるが、彼がラジオロンドンでおこなっていたラジオ番組の構成、ポピュラー音楽の紹介する手法は、当時としては信じがたいほど画期的なものであったらしく、その点がBBC放送関係者にとってきわめて難しい印象を与えていた様子である。しかし、BBC放送内には少なくとも、3人の支持者がいた。とくに、BBC Radio 1の番組「トップギア」のプロデューサーを務めるバーニー・アンドリュースはジョン・ピールのことを高く買っており、BBC局内の中間管理職の人物が「ジョン・ピールを採用しないように」という通告を行っていたにもかかわらず、その忠告を無視し、ジョン・ピールをゲストDJとして「トップギアの顔」に抜擢した。

 

当時としては、蛮行に思えなくもないラジオ番組プロデューサー、バーニー・アンドリュースの勇気ある選択は、ジョン・ピールの音楽の目利きとしての才覚を信じたがゆえに行われ、そして、のちの1970年代から2004年にかけての英国のポピュラー、ロック音楽の潮流を変えた瞬間といえる。また、ジョン・ピールの採用を後押ししたもうひとりの人物、アンドリュースの女性秘書シャーリー・ジョーンズも同じように、ジョン・ピールを気に入っており、BBC Radio 1,2のメインプロデューサーを務めるロビン・スコットとの関係を仲介したことにより、アンドリュースとピールが番組内で良いコンビネーションを築き上げられるように取り計らった。こうして、「BBC Radio 1」に初めてロック音楽を紹介するコーナー「トップギア」が立ち上がった。

 

 

4.DJとしての地位の確立



こうして、ジョン・ピールはイギリスの国営放送BBCの「Radio 1」の番組パーソナリティとしての仕事が始まる。

 

ジョン・ピールは海賊局ラジオ・ロンドン時代に培った経験を元に、誰もラジオで流したことのない前衛性の高い音楽を放送することになった。

 

しかし、のちのインタビューにおいて、BBCの番組ではやはり以前のラジオ・ロンドン時代のPerfumed Gardenという冠番組を担当していた時代より遥かに制約が多かったのも事実である。

 

ラジオ番組内で放送される楽曲の構成については、アンドリュースが半分、そしてピールが半分受け持っていたが、ラジオ・ロンドン時代のように五、六分以上の楽曲は時間の制約があるためにオンエアすることが出来なかった。

 

彼が番組内で流せるのはその大凡が3分の楽曲であった。しかし、その制約の中でも、ジョン・ピールは、比類なき音楽フリークとしての慧眼を発揮し、明らかに他のラジオ番組のパーソナリティとは一味違ったアーティストの楽曲をオンエアしていた。番組を受け持った当初は、サイケデリック・ロック、フォーク、ブルースといた比較的ポピュラーなジャンルが中心であったが、名うてのディスクジョッキー、ジョン・ピールがこれらの音楽のオンエアだけで満足するはずもなかった。

 

その後、ジョン・ピールは、一般的に知られていなかった個性的な新人ミュージシャンのLP盤を、BBCの番組で率先してオンエアしていった。ピールが担当したBBC Radio 1からデビューし、スターダムに押し上げられていったロックバンドは数しれない。

 

ジミ・ヘンドリックスの代表曲「パープル・ヘイズ」を初めて公共の電波に乗せてオンエア、のちにジョン・ピールと深い信頼関係を築いたマーク・ボラン擁するT-REXのデビュー、そして、キャプテン・ビーフハート、フランク・ザッパの名作群。かいているだけで目のくらむような魅力的かつ刺激的な音楽を彼は流し続けた。そして、何といっても、ジョン・ピールの最大の功績は、デビッド・ボウイを発掘したことにある。これらのサイケデリックロックやグラム・ロックの有名アーティストたちは、他でもないジョン・ピールがDJを務めるBBC Radio1の番組で楽曲がオンエアされたことにより、認知度を挙げていったバンドであった。もちろん、ジョン・ピールが紹介していたのは、何も英国内のロックバンドだけではない、番組内ではVelvet Undergroundやデビュー当時のラモーンズの楽曲をBBC Radio1の番組の中で紹介している。

 

またこの年代の後にはデビュー前のアーティストをBBCのスタジオに呼んで生演奏ライブをラジオ内でオンエアしていくようになる。例えば、1972年のロキシー・ミュージックのデビュー作が発表される前、ロキシー・ミュージックはデビュー作を演奏したことでもしられている。

 

次第にジョン・ピールの番組にはデビュー前の刺激的なアーティストが数多く登場し、徐々に音楽プロデューサーの役割を兼任するようになっていく。事実、ピールは、この時代に長期休暇から家に帰宅すると、数多くのアーティストから直々に送られてきたLPレコードが彼の自宅に届くようになっていった。

 

その後、1970年代の中盤に差し掛かると、ご存知の通り、ロンドンパンクムーブメントが到来する。上述したように、ジョン・ピールは、このオールドスクールパンク、そしてその後に続くポスト・パンク、ニュウェイヴのジャンルにのめり込んで、鼻息を荒くしていたように思われる。特に、革ジャンに破れたTシャツを安全ピンで止め、カラフルなかみを逆立てたとびきり風変わりな四人組、セックス・ピストルズがブティックセックスのオーナであったマルコム・マクラーレンの後押しを受けてロンドンに出現した際に、このバンドの音楽をきわめて高く買っている。

 

ロンドンの最も刺激的なブティック「セックス」に出入りしていた若者、ジョニー・ロットンを中心に結成されたセックス・ピストルズの四人組は、デビュー当時、EPやシングルを引っさげてロンドンのシーン登場し、その後、EMIと契約を結び、歴史的名作「Never Mind The Bollocks」をリリースし、パンクロックシーンを象徴する存在となるが、このロックバンドがシングルをリリースするやいなや、BBCの上層部にシングルをかけるのはやめろといわれているのにもかかわらず、ジョン・ピールはその禁を犯し、1970年代のイギリスのミュージックシーンで最も刺激的な一曲「God Save The Queen」をBBCのRadio 1で、4回もオンエアしてしまったのである。ここで妙な考察を差し挟むのは無粋である。言うまでもなく、このロンドン・パンクスたちをメジャーレーベルEMIとの契約へと導いたのは、間違いなくジョン・ピールであることに疑いを入れる余地はない。しかも、この1970年の時代、放送禁止寸前の楽曲群をあろうことか、公共のラジオ電波、しかもBBC Radioに乗せて放送するということが、どれだけ勇気のいることであったのかは、現代の我々の感覚から見るとまったく想像も出来ないほどのなのである。


その後、最初のオリジナルパンクムーブメントが終焉を告げて、ニューウェイブの時代に差し掛かっても、ジョン・ピールは、ギャング・オブ・フォーをはじめとする刺激的なパンク・ロックバンドを発掘していく。

 

特に、ジョン・ピールは、北アイルランドのThe Undertonesの「Teeneage Kicks」にのめり込んでおり、自身の番組内で猛烈にプッシュした。そのかいあって、この北アイルランドの十代のメンバーで形成されるパンクロック・バンドは異例の大出世を果たし、UKチャートで31位を獲得して健闘、世界的なパンクロックバンドの仲間入りを果たしている。その後も、ラフ・トレードから彗星の如く登場したブリットポップのロックバンドを率先して番組内で取り扱い、ザ・スミス、ジョイ・ディビジョン、といったイギリスきってのロックスターがジョン・ピールの番組から誕生していく。

 

この時代からすでにジョン・ピールは、英国全土に最も有名なディスクジョッキーとしての名をはせるようになる。

 

その後、彼はテレビ番組のスモール・フェイセズのライブでユニークにバンジョーを演奏しながら登場したり、「トップ・オブ・ザ・ポップ」という番組のプレゼンターとしても活躍するようになる他、BBCの番組の基本的なナレーションの解説を務めた他にも、「ホーム・トゥルース」ショーでBBC Radio4の番組も受け持つようになり、1980年代にかけて、押しも押されぬ名物タレントの座に上り詰めた。ユニークなキャラクターの名物DJあるいはテレビ司会者として英国の音楽ファン、一般市民にとどまらず、ヨーロッパの人々にも親しまれていくようになった。

 

 

 

5.Peel Sessionから晩年まで

 

 

この年代の後、正確には、1992年から、彼の最も代表的な番組「John Peel Session」の放送が始まった。彼が十二年間、番組のスタジオセッションに招待したバンドは2000以上にも及び、ピールセッションとしてリリースされた音源は、驚くべきことになんと4000以上にも及んでいる。

 

BBCの歴代において名物番組のひとつである「John Peel Session」には後の世界的なブレイクを果たすロックバンドが英国だけではなく、海外から招待され、スタジオ内での無償のセッションが行われた。

 

ライブセッションの録音テープが当日にミキシング、及びリマスタリングされて放送される番組で、ラフなリミックスがほどこされており、いかにも生ライブの魅力がにじみ出ていて、ロックファンからは伝説的なライブラリー音源として見なされている。

 

もちろん、言うまでもなく、ジョン・ピールは、1990年代のイギリスのブリット・ポップの台頭を1990年代の終わりまで間近で見届けつづけていた数少ない人物である。かのブラーも、オアシスも、そして、ニルヴァーナ、PJ Harveyといったスターたちは、みなこのジョン・ピールセッションを通じて世界的な知名度を獲得するにいたった。さらにジョン・ピールの慧眼が凄まじいのは、シアトルのグランジだけではなく、コデインをはじめとする、アングラのスロウコア勢にも注がれていたことだろう。

 

その後、ジョン・ピールは様々なDJとしての偉大な功績が讃えられ、数多くの放送賞、大英帝国勲章を与えられている。彼の手掛ける番組は、その後、BBCワールドサービスで放送されるようになった。2000年代には、かつて自分が海賊ラジオ局のパーソナリティーを務めていた1960年代の時代の境遇とオーバーラップするかのように、「ダブステップ」というサウスロンドン発祥のフロア向けのコアな音楽ジャンルを番組内で紹介し、このジャンルのムーブメントを後押しし、イギリス国内だけではなくアメリカにもダブステップブームを巻き起こした。晩年まで、ラジオ業界、そして音楽業界に大きな影響を与え続けてきた人物にこれ以上の称賛はいらないだろう。

 

絶えず音楽、そして、サッカークラブの名門リバプールFCを愛し、そして、多くの人々に愛されたBBC最高峰の名物DJジョン・ピールは、その最晩年において、自分の死期を悟ってのことか、かつて自分が最も愛した北アイルランドのパンクロックバンド、The Undertonesの「Teenage Kicks」の歌詞の一説をみずからの墓石に刻んでほしいという言葉を生前に残していたようである。正確には、2004年の10月28日、彼は、ワーキングホリデーの最中、ペルーに旅行に出かけていた。その旅先での心臓発作による死去であった。享年六十五歳。彼が、この世から多くの人々に惜しまれつつ去っていった日のイギリス国内の驚愕というのはどのようなものであったのだろう?

 

そこまではわからない、わからないことだけれども、少なくとも、その10月28日当日、BBCはRadio 1の放送予定スケジュールを変更し、一日をかけてジョン・ピールに対する深い賛辞を惜しまなかった。追悼番組内では、ジョン・ピールが最も愛した「Teenage Kicks」が最後にオンエアされ、彼の四十年以上ものラジオDJとしての生涯は幕を閉じた。ジョン・ピールの葬儀の参列には数多くの音楽関係者が参列した。ジョン・ピールの墓石には、「Teenage Kicks」の歌詞の一説が刻まれている。

 

 

*  John Peel Sessionの全カタログについては、有志のbloggerの方が一覧を掲載してくださっています。気になる方はぜひ参考にしてみて下さい。

 

https://davestrickson.blogspot.com/2020/05/john-peel-sessions.html


 

References


BBC.com


https://www.bbc.com/historyofthebbc/100-voices/radio-reinvented/the-dj/john-peel


Radio Fedelity


 https://radiofidelity.com/the-story-of-john-peel/


redbull music academy


interview:John Peel


https://daily.redbullmusicacademy.com/2016/12/john-peel-interview