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マルゴ・ガリヤンさんが2021年の11月8日に84歳で亡くなられたという訃報については、アメリカ、ロサンゼルスの「Buzz Band LA」が最も早く報じたようです。

 

このマルゴ・ガリヤンというアメリカのシンガーソングライターは、それほど日本では知名度に乏しいように思われますが、かつてはビル・エヴァンスといったジャズ界の大御所から音楽の手ほどきを受けた女性シンガーソングライター、作詞家です。懐メロのような雰囲気を持ったポップの楽曲を書いており、84年の生涯において「Take A Picture」という一作品、それからピアノ音楽の変奏をリリースしただけという寡作さにも関わらず、伝説的な音楽家としてアメリカ国内ではみなされています。大まかではありますけれど、彼女の半生と唯一のスタジオ作品について触れていきましょう。

 

マルゴ・ガリヤンさんは、ニューヨーク州のクイーンズのファー・ ロッカウェー近郊のニューヨーク市に、1937年9月20日に生まれ。


彼女の両親は、コーネル大学在学中に出会っており、母親もピアノを専攻、父親もまた同じように、リベラルアーツに熱心な家庭であったようです。マルゴ・ガリアンは、そういった知的な両親のもとで育ち、若い頃から詩の創作に励むかたわら、ピアノ演奏に生きがいを見出した。当初は、当世のポピュラー音楽、クラシック音楽に慣れしたしんでいたマルゴ・ガリヤンは、大学に入ってからジャズ音楽に興味をもつようになりました。

 

その後、ボストン大学では、クラシカルピアノとジャズ・ピアノを専攻し、マックス・ローチ、ビル・エヴァンスといったミュージシャンを信奉していましたが、ご自身のピアノの演奏力に難を見出し、後にピアニストとしての夢を諦め、作曲、ソングライターの分野に転向なさっています。 


高校生の時代から既に、マルゴ・ガリヤンはソングライティングを始めており、ハーヴ・アイズマンの仲介によって楽曲をアトランティックレコードに送り、パフォーマーとして契約を結んで、パフォーマーとしてジェリー・ウェクスラー、アーメット・アーティガンのステージングに参加しています。しかし、その後、アトランティックレコード側は、マルゴ・ガリヤンのヴォーカルのビブラートのピッチのよれ方、歌声の不安定さに難点があると見、つまり、ヴォーカリストとしての資質に乏しいと見、パフォーマーから作曲家へと転向させ、再契約を結んでいます。


この時代、マルゴ・ガリヤンさんは、ご自身の歌声にすっかり自信をなくされていて、「私はあの時、うまく歌うことが出来なかったんです」と、その当時の事を後になって回想しています。しかし、むしろ、当時のアトランティックレコードのプロデューサーが彼女のヴォーカリストとしての潜在能力を完全に見誤っていたということも、後のリイシュー盤でのアメリカでのシンガーとしての再評価を見るにつけ、思う部分もなくはないのです。つまり、シンガーなのか、ソングライターなのか宙ぶらりんのままで、現役時代を終えて、家庭に入ってしまったのがこのアーティストなのです。

 

話を元に戻しましょう。大学時代に入り、クラシカル・ピアノ、ジャズ・ピアノの双方を、ボストン大学で学びながら、マルゴ・ガリヤンは、作曲家としての道を歩み始めています。ミュージシャンとしてのキャリアの最初期に、クリス・コナーというジャズ歌手に楽曲を提供しており、クリス・コナーは、1958年、ガリヤンの作曲した「Moon Ride」をレコーディングしている。


このジャズの作品がマルゴ・ガリヤンのソングライター、作詞家としての事実上のデビュー作と言えそうです。その四年後の1962年にも、クリス・コナーはガリヤンが作詞を手掛けた「Lonly Woman」という楽曲をレコーディングしています。その後、マルゴ・ガリヤンは、ハリー・ベルフォンテに幾つかの楽曲を提供しており、このソングライティングにおける仕事が最初期のミュージシャンとしてのマルゴ・ガリヤンのキャリアを形成していると言えるでしょう。


ボストン大学を卒業した後も、マルゴ・ガリヤンは、みずからのピアノの演奏、ジャズ音楽への知見を深めるため、1959年から、レノックス・スクール・オブ・ジャズに通い、演奏家、作曲家としての技術を向上させています。この時代の技術向上が、後のピアノ作品「The Chopsticks Varieations」というシンプルな現代音楽風の変奏曲で結実を見たことは明らかで、レノックス・スクール・オブ・ジャズで、マルゴ・ギャリアンは、錚々たるジャズ界の大御所と邂逅し、オーネット・コールマン、ドン・チェリー、ビル・エヴァンス、マックス・ローチ、ミルト・ジャクスン、ジム・ホール、ジョン・ルイス、ガンサー・シュラーからジャズ音楽の薫陶を受けています。これが後のミュージシャンとしての作曲性に大きな躍如となっているようです。

 

この時代に、マルゴ・ガリアンは、MJQ Musicと契約を結び、アーティストとしてサインしています。 また、彼女はこの時期、幸福な人生を謳歌しており、ジャズ・ミュージシャンであり、トローンボーン奏者兼ピアニストのボブ・ブルックマイヤーと結婚し、また、音楽の仕事においても、ジョン・ルイス、オーネット・コールマン、アリフ・マーディンといった錚々たるジャズマンに楽曲を提供しています。これらの楽曲で、ガリヤンは作曲だけではなく、作詞も手掛けており、作曲にとどまらず、作詞の分野においても並々ならぬ才覚を発揮しています。


その後、マルゴ・ガリヤンは、ボブ・ブルックマイヤーと離婚した後、ポピュラー音楽アーティストとしての道を歩み始めます。それまでクラシック、ジャズという2つの音楽と深いかかわり方をしてきたガリヤンはおそらく、この離婚後の時代に置いて、かなり落胆をしていたものと思われますが、そこで彼女の精神をすくい上げたのがポップス音楽でした。彼女の友人、デイヴ・フリッシュバーグがガリヤンにBeach BoysのPet Soundsに収録されている一曲「God Only Nows」を聴くように薦め、この時代、マルゴ・ガリヤンは、クラシック、ジャズという近代の音楽の先にある未来のサウンド、ポピュラー音楽に大きな可能性を感じていたようで、このビーチボーイズの「神のみぞ知る」を最初に聴いたときの大きな感動について後にこのように話している。

 

”ビーチ・ボーイズの音楽を聴いていることは、とても贅沢な時間でした。レコードを買って何百万回も再生したんです。”

 

 

この新しいビートルズのアメリカ版ともいえる、ビーチ・ボーイズのサーフサウンドに大きな感銘を受けたマルゴ・ガリヤンは、すぐさま、自分の楽曲製作に取り掛かり、ポップス曲「Think Of Rain」を椅子の上で素早く書きあげています。なぜ、ポップス曲を書くことを決断したかについては、ジャズシーンで起こっていることよりもはるかに、ポップスシーンで起こっていることのほうが魅力的であるという直感によるものでした。


そして、この最初の楽曲「Think Of The Rain」は、後にデモ曲集「27 Demos」として再編集され、Dertmoor Musicから発売され、アメリカの音楽シーンでマルゴ・ガリヤンの再評価の気運を高める要因ともなりました。この楽曲は、1967年当時、ボビー・シャーマン、ジャッキー・デシャノン、クロンディーヌ・ロンジェによって録音され、リリースされています。また、かのニルソンもこの楽曲をレコーディングしていますが、このニルソンバージョンについてはリリースされず、お蔵入りとなりました。

 

また、もうひとつマルゴ・ガリヤンの代名詞といえる「Sunday Morning」もそれから時を経ずに録音されており、この1967年12月にリリースされた作品は彼女の最初のヒット作となり、 ビルボード・チャートの30位にランクインしています。また、この楽曲は多くのアーティストによって歌われ、フランスの女優、マリー・ラフォレがフランス語版「Et Sijet' Aime」として発表し、そのほかにも、この「Sunday Morning」はカーメン・マクレエ、ジュリー・ロンドンによって名画「Sound Of Silence」1968のサウンドトラックの一貫としてリリースしています。

 

 

マルゴ・ガリヤンのアーティストとしての知名度を高めることになったのは、ベルレコードと契約して1968年に発表された、ポップスシンガーとしての唯一の作品「Take a Picture」のリリースでした。このスタジオ・アルバムは、いってみれば、日本の懐メロにもたとえられる軽快なポップサウンドによって彩られた名品の一つ。彼女のバックグラウンドであるジャズ、クラシック、ポップスを自由自在にクロスオーバーした作品と称せるでしょうか。当初、レコーディングにおいては、ジョン・サイモンが担当し、その後、ジョン・ヒルが入れ替わりでプロデューサーを務めています。また、スタジオ・ミュージシャンとしては、カーク・ハミルトン、フリ・ボドナー、ポール・グリフィン、バディ・サルツマンをゲスト・ミュージシャンに迎えて製作された作品であり、アメリカのポップス史の隠れた名盤に挙げられる作品でもあります。

 

 

「Take A Picture」 再発盤 2020

 

 

 

 

この作品は、マルゴ・ガリヤンというシンガーとしての資質が最初に認められた傑作でもあり、発表当初から、米ビルボード誌は諸手を挙げて、「Take A Picture」に高評価を与えており、「Take A Pictreはきわめて上質なサウンドであり、好調なセールスが約束された作品である」と最大の賛辞を送っています。しかしながら、結果的に言えば、このビルボードの目算は当たらなかった。このアルバムを最大の商機とみたリリース元のベル・レコードはすぐさま、マルゴ・ガリヤンのアメリカの大規模ツアー計画を打ち出し、大々的な宣伝を行う準備に入りました。いよいよ、スターミュージシャンとしての成功は目前と思われた矢先、このアメリカをシンガーとして巡回するツアーのベル・レコードからのオファー、ミュージシャンとしてのまたとない成功の機会をマルゴ・ガリヤンは拒絶し、この宣伝を兼ねたツアー自体は立ち消えになり、彼女はスターミュージシャンとしての座に上り詰めるチャンスをみすみす逃すことになります。

 

なぜ、こんなことが生じたのかといいますと、当時、マルゴ・ガリヤンが他のミュージシャンと結婚し、家庭を持っていたことがひとつ、そしてもうひとつは、ベル・レコード側のツアーに際しての提案の数々、あなたは、こういったステージ衣装を着るべきであり、また、あなたは、こういったパフォーマンスをステージで行うべきである、というような、ショービジネスを行う上での要請を、彼女はまっとうなことだと受け入れられなかったこと。この女性はレコード会社の操り人形になることだけは避けた、権力に自分の魂を従属させることだけを避けた、独立した女性であり、素晴らしい偉大な人物です。こういったことは、音楽業界でままあることなのかもしれませんが、その後、ツアースケージュールが立ち消えになったことにより、ベルレコードとの関係は悪化して、「Take A Picture」自体はリリースに至るものの、商業的にはそれほどの話題作とはならず、また、マルゴ・ガリアンとしての後発の作品がリリースされることもありませんでした。これがつまり、フレンチ・ポップスのシルヴィ・バルタンのようなスター性を擁していながら、このアーティストが世界的なポップスシンガーにならなかった要因といえそうです。その後、マルゴ・ガリヤンは、スターミュージシャンの道を閉ざし、平和な暮らしを選択し、ピアノの個人教師としての道を選んでいます。その後、クラシックの変奏曲「Chopstickes Variation」という練習曲のような作品をリリースしていますが、長いあいだ表舞台に姿を見せることはありませんでした。



完全にミュージックシーンから忘れ去られてしまったマルゴ・ガリヤンというシンガーソングライター。しかし、良い作品、良いアーティストというのは、たとえ、大々的な宣伝が行われなくとも、どこかの時代において、正当な評価が与えられるようです。2000年代に入ってから、アメリカのミュージック・シーンで、マルゴ・ガリヤンの再評価の気運が高まり、2014年には初期のデモを再編集した「27 Demos」、2016年には「29 Demos」が相次いでリリースされたのを機に、このアーティストの音楽性が再度脚光を浴びることになります。 

 

 

 

「27 Demos」2014

 

 

 

また、この二つのデモトラック集のリリースに続いて、2020年にも、モノラル盤のリマスター盤として再編集されたマルゴ・ガリヤンの唯一のスタジオ作「Take A Picture」がリリースされ、時代を越えた良質な作品として注目が集まりました。どの時代からそうしていたのか定かではないのものの、既にこの頃、マルゴ・ガリヤンは、表舞台のミュージック・シーンとは完全に距離を取っていて、故郷のニューヨークからLAに移住しており、ほとんどその所在については知られていなかったようです。

 

そして、不思議なことに、一番最初に、マルゴ・ガリヤンの訃報を伝えたのは、アメリカの主要メディアではありませんでした。先日、約一週間前に、ロサンゼルスの雑誌「Buzz Band LA」が先だってこのアーティストの突然の死を報じ、それに引き続いて、アメリカのメジャーなメディアがこのミュージシャンの訃報を相次いで伝えたというのが実情だったようです。


アーティストとして現役時代に表舞台で、そこまで大きな活躍したわけでないにもかかわらず、各メディアが世界的なスターミュージシャンのような取り上げ方をしたのはかなり異例と言えるものでした。おそらく、このような大きな報道がなされたことについては、この数奇なミュージシャン、マルゴ・ガリヤンが多くの裏方の作曲での偉大なる仕事を行い、アメリカの音楽シーンに貢献してきたという紛れもない事実、また、なおかつ、この隠れたポピュラー音楽史に燦然と輝く「Take A Picture」をこの世に残したことに対する、アメリカのメディアの最大の賛辞に他ならなかったのかもしれません。


 

 




References

 

Howold.co


https://www.howold.co/person/margo-guryan/biography 

 

 

 

アノラックサウンド スコットランド、グラスゴーを中心に形成されたギターロック音楽

 

皆さんは、日本で「アノラックサウンド」と呼ばれ、海外では、ギターポップ/ネオアコースティック、もしくはジャングルポップと呼ばれるジャンルをご存知でしょうか。これは、1980年代にイギリスのチェリーレッド、ラフ・トレードレコードと契約するロックバンドの一群の独特なサウンドアプローチを示している。アズテック・カメラ、オレンジジュース、ヴァセリンズ、ティーネイジ・ファンクラブ、パステルズといったスコットランドのグラスゴー周辺にこれまでになかったネオアコサウンドが発生しました。

 

それまで、スコットランドには、リバプール、ロンドン、マンチェスター、ブリストルのような表立ったシーンというのが存在しなかった。この1980年代を中心に、グラスゴー、エディンバラ周辺で、ミュージック・シーンが形作されていくようになる。これらのバンドの台頭は、のちの1990年代から2000年代のベル・アンド・セバスチャン、モグワイといった世界的なロックバンドの登場を後押ししたことは、殆ど疑いがありません。


かのベル・アンド・セバスチャンも、上記のバンドサウンド、ヴァセリンズとパステルズのサウンドに勇気づけられ、「グラスゴーにはネオアコあり」ということを新時代において、世界の音楽シーンに提示するため、インディー・ロックバンドを組んで演奏をはじめたのだという。


もちろん、これらの最初のスコットランドのミュージックシーンに台頭したロックバンドは必ずしも洗練されたサウンドを持ち合わせておらず、いわゆる「下手ウマサウンド」とも称されるような、ギターにしろバンドサウンドにしろ、音楽的な瞬発性というか、センスの良さで正面切ってイギリスやアメリカのミュージックシーンに勝負を挑んでみせた。


アズテックカメラ、ヴァセリンズ、パステルズといったロックバンドは、イングランドの他に、スコットランドにも重要な音楽カルチャーが存在することを世界的に証明したのだった。これはかの地の文化の発展のため、音楽表現を介してこういったミュージックシーンが徐々に1980年代を通じて形成されていったという見方もできなくはない。

 

アノラック、またネオ・アコースティックと呼ばれるサウンドは、街なかに教会が多く、緑豊かな街、グラスゴーらしい牧歌的な雰囲気に彩られ、新しい時代のセルティック・フォークとも称すべき独特な音楽性を擁していた。元は、イングランドよりもはるかに深い音楽的な文化を持つセルティック民謡のルーツが、これらの1980年代のロックバンドのアーティストたちに、自身の文化性における誇りを取り戻させようと働きかけたともいう向きもある。


これらのネオアコ・サウンド、ビートルズのフィル・スペクター時代の音楽性、あるいは、ボブ・ディランの初期のアメリカンフォーク時代に回帰を果たしたかのようなノスタルジックなサウンドは、おだやかさ、まろやかさもあり、反面では、ロンドンパンクのような苛烈さも持ち合わせていた。


そして、温和性と先鋭性、両極端な要素を持つネオアコ、ギターロックに属するロックバンドを中心に発展したグラスゴーの音楽シーンは、やがてイングランドに拡大していき、やがて、遠く離れたアメリカのオルタナティヴロックの源流を形作り、同じような音の指向性を持つ、Garaxie 500、Guide By Voices、Superchunk、Pixiesの音楽シーンへの台頭を促し、世界的なインディー・ロック人気を世界的に後押しました。

 

もちろん、日本でもこのスコットランドのグラスゴーのシーンは無関係ではないわけではなく、これらのネオアコ、ギターポップサウンドに影響を受けた、フィリッパーズ・ギター、サニーデイ・サービスがさらにこの音楽を推し進めて「渋谷系」というサブジャンルを確立した。もちろん、スーパーカーも、これらのネオアコに関係性を見いだせないわけではない。

 

これらのスコットランド、グラスゴーの周辺を拠点に活動していたバンドは、エレクトリックとアコースティックの双方のギターを融合したサウンドが最大の魅力だ。それに加えて、かのオアシスやブラーをはじめとする1990年代のブリットポップにも重要な影響を与えている。特に、このブリット・ポップの生みの親であり、ネオアコサウンドの代表格ともいえるThe La'sの日本公演に、その年、サマーソニックで来日していたギャラガー兄弟がそろってお忍びで観に来ていたのは、非常に有名な話である。



これらの1980年代のスコットランド、グラスゴー、エディンバラ、ロンドンのラフ・トレード、ブリストルのサラレコードを中心として発展していったギターロック/ネオアコサウンドは、なんとも美しいノスタルジアによって彩られている。


懐古的なサウンドではあるが、その1980年の世界の空気感がこれらのバンドサウンドに感じられる。その音の雰囲気、熱気、時代性というのは、どの時代の音楽にも感じられる。それが音楽やその他の表現の文化性であり、それがなければ音楽というのは途端に魅力が失われてしまう。さらに、その時代にしか生み出し得ない音楽というのが存在する。1980年代、これから世界がどうなっていくか、というような若者の不安、そしてそれとは反対の、希望、期待、ワクワクした気持ち、音楽を生み出すフレッシュな創造者たちの思いがこれらグラスゴーを中心とするアノラックサウンドには宿っている。

 

この奇妙な熱狂性は、今なお、独特な魅力、エネルギーを放ちつづけているように思える。ネオ・アコースティックは、その多くが既に時代に古びているサウンドといえるかもしれません。でも、その音の芸術家たちの熱い思いがこれらのサウンドには宿っていることは明確です。オルタナティヴ・ロックの前夜、あるいは、そのムーブメントの後、1980年代から1990年代にかけてのスコットランド、グラスゴーでは何が起こっていたのでしょうか?? その時代の空気感を知るために、是非、以下に取り上げていくギターロック/ネオ・アコースティックの大名盤を手掛かりにしてみて下さい。

 

 

 

ギターロック/ネオ・アコースティックの名盤
 
 
1.Aztec Camera

 


 

アズテック・カメラは1980年、スコットランドのイースト・キルブライド出身で当時16歳であったロディ・フレイムを中心に結成され、1995年まで活躍した。

 

スコットランドのネオアコサウンドを世界的なジャンルに引き上げたシーンの立役者であり、UKポップスのグループとして紹介される場合もすくなくないように思える。日本でのギターロック、ネオアコ人気に一役買った貢献者といえる。後には坂本龍一が「Dreamland」のメインプロデューサをつとめたり、また、ヴァン・ヘイレンの名曲「Jump」を揶揄を交えてカバーし、日本のメタル専門誌「BURRN!」で酷評を受けたりと話題に事欠かなかったバンドである。

 

アズテックカメラは、1991年にグラスゴーのインディーレーベル「ポストカード」から1stシングル「just like gold」をリリースデビューし、その後、イングランドの名門レーベル、ラフ・トレードから主要な作品の発表を行った。このバンドの織りなす、ゆるい、まったりした甘口のポップス、フォーク音楽は、後のグラスゴーシーンの重要な基盤を築き上げた。牧歌的な雰囲気もありながら、どことなく、ビートルズのマージー・ビートの時代へと回帰をはたしかのような楽曲の数々は、ニューロマンティックのような陶酔的ノスタルジックさがふんわりと漂っている。

 

アズテック・カメラの名盤としてはこのバンドの全盛期にあたる「High Land,High Rain」を挙げておきたい。 

 

 ・「High Land,High Rain」1983  Warner Music

 




 

 
 

 

 

2.Orange Juice

 

オレンジジュースはスコットランド、グラスゴー近郊のベアズデンにて結成された。結成当初は、ニュー・ソニック名義で活動し、ポスト・パンクシーンの渦中に登場した。

 

アイルランド勢のスティッフ・リトル・フィンガーズを差し引くと、英国一辺倒であったロックシーンに、スコットランド勢として、アズテックカメラと共にスコットランドの音楽の存在を象徴付け、最初に勇猛果敢に切り込んでみせたバンドといえるだろう。1979年から活動し、1985年に解散。オレンジ・ジュースは、ネオアコ、ギターポップのゆるく、まったりした甘口なサウンドを最初に確立し、最も古いこのグラスゴーシーンの形成したロックバンドであり、グラスゴーの音楽シーンを語る上では不可欠な存在である。

 

1983年リリースの「Rip It Up」は、全英シングルチャート8位にランクインする等、商業的にも健闘した。

 

オレンジジュースの生み出すサウンドは、まさにエレクトリックとアコースティックの中間を行くもので、このネオアコのドリーミーなサウンドの最初の確立者といったとしても過言ではない。アズテック・カメラと同じように、ビートルズの初期の音楽性のようなノスタルジーに溢れ、甘酸っぱいサウンドを主要な音楽性にするという面ではパワー・ポップに近い雰囲気を併せ持っている。


オレンジ・ジュースの名盤は、イルカのイラストが描かれた「You Can't Hide Your Love Forever」が挙げられる。「Falling and Falling」をはじめポップスとして聞きやすく、粒ぞろいの楽曲が多い。アズテックカメラと同じく、日本のシティ・ポップにも比するノスタルジーな雰囲気に溢れる永遠不変の名作である。 

 

 

 

「You Can't Hide Your Love Forever」1982 Polydor Records

 


 

 

3.The Vaselines 


ネオ・アコースティック、ギターポップのサウンドの性格を1980年代後半において象徴付けたユニット、ユージーン・ケリー、フランシス・マッキーの二人によって結成されたザ・ヴァセリンズ。


UKの53rd&3rdレコードの知名度を高めたにとどまらず、後にアメリカの名門Sub Popと契約をし、特に、カートコバーンはこのバンドの音楽性に深い薫陶を受けており、Nirvanaの主要な音楽性を形作っている。コバーンは、後に、「Molly's Lips」をパンク風のアレンジとしてカバーし、ヴァセリンズはアメリカのオルタナシーンでミート・パペッツと共に象徴的な存在となった。

 

ピクシーズと共に「オルタナの元祖」とみなされるヴァセリンズであるが、意外にもオルタナとして聴くと、肩透かしを食らうはずだ、ヴァセリンズのサウンドは、スコットランドらしい牧歌的で温和なサウンドを特徴とし、そこにオルタナ性、いわばブルーノートではないひねくれた特異なメロディラインをオルタナティヴロックが全盛期を迎えつつある前夜に生み出していた。

 

上記の要素は、シアトルのインディーレーベル、Sub Popからリリースされた「The Way Of The Vaselines」、その後に発売されたヴァセリンズのベストアルバム「Enter The Vaselines」というオルタナの不朽の名作、ネオアコの不朽の名作の一つに感じられるはずで、また、「オルタナティヴー亜流性」というロック音楽の謎を紐解くための鍵になりえるかもしれない。

 

特に、このヴァセリンズのベスト盤としてリリースされたアルバムに収録されている「Son Of The Gun」のイントロでの狂気的に歪んだディストーションギターは当時としてはあまりにも衝撃的だった。そして、ディストーションサウンド、それから、ピクシーズの歪んだポップセンス、さらに、同郷シアトル、アバディーンのメルヴィンズの轟音性、この3つの要素に、1980年代終盤、カート・コバーンは、グランジの萌芽、新しい音楽の可能性を見出した。もちろん、スコットランドのヴァセリンズは、アメリカのピクシーズとならんで、オルタナティヴやグランジの元祖といえる。その他にも、「Rory Rides Me Slowly」「Jesus Wants Me A Sunbeam」といった、グラスゴーの風景を思わせる秀逸なフォーク曲もこの作品には収録されている。  

 

 

「Enter The Vaselines」Sub Pop



 

 

 

 

 

4.The Pastels 


パステルズは、1981年にスティーヴン・パステルを中心に結成されたグラスゴー、ギター・ポップ/ロックの代表格と称すべき偉大なインディーロックバンド。


1982年に1stシングル「songs for children」をWhaaam!からリリースしてデビューをかざった。その後、イギリスの名門ラフ・トレードとの契約にこぎつけ、アノラックサウンドのムーブメントを牽引、それほど大きな商業的な成功こそ手にしていないが、現在、編成がユニットになっても変わらず、穏やかで、親しみやすい、インディー・ロックバンドとして活躍している。

 

2009年には、日本の同じくアノラック・サウンドを掲げて活動するTenniscoatsとのコラボレーション作品「Two Sunsets」もリリースしていることにも注目しておきたいところだろう。

 

パステルズの魅力は、スティーヴン・パステルの生み出すギターロックのセンスの良さ、それに加え、カトリーナ・ミッチェルの親しみやすく肩肘をはらない等身大のヴォーカルに尽きる。インディーフォークとロックをセンスよく融合させたという点ではヴァセリンズと同じような音楽性が見いだせる。

 

スコットランドの美しい緑、そして牧場の風景を思わせるような音楽性、それに加えて、どことなく甘酸っぱいような叙情性に彩られたサウンドは、イギリスのエモの発祥ともいうべき個性派サウンド。

 

流行り廃りとは関係なく、ことさら刺激的なわけでもない。なのに、深い親しみ、愛おしさをおぼえてしまうのが、パステルズの二人の生み出す叙情性あふれる音楽の不思議さ。アノラックサウンドの名盤としては、2013年の「Slow Summits」も粒揃いの良作として捨てがたいものの、パステルズの活動の最盛期にあたる1993年リリースされた「Trucklload Of Trouble」を挙げておきたい。 

 

 

 「Truckload Of Trouble」1993  Paperhouse Records

 


 

 

 

5.BMX Bandits 

 

BMXバンディッツは1985年、スコットランドのベルズヒルにてダグラス・スチュアートを中心に結成されたギター・ポップ・バンド。現在も変わらず活躍中のアノラックサウンドのドンともいえるような存在。

 

後に、ティーンエイジ・ファンクラブのメンバーとなるノーマン・ブレイク、そして、後にヴァセリンズのメンバーとなるフランシス・マッキーも在籍していたという点では、スコットランドのシーンの中心的な存在といえる。このバンドからファミリーツリーを描いて、のちのスコットランドの代表格を複数登場させたという点では、シカゴのCap’NJazzに比するべき神々しい存在であり、ネオアコ、ギターロックシーンにおいての最重要バンドのひとつに挙げられる。

 

BMX・バンディッツのゆるく、穏やかな脱力系のサウンドは、後発のロックバンドに大きな影響を与えた。取り分け、ホーンセクション、ストリングスをスタイリッシュに取り入れた遊び心満載の音楽性は、後のスコットランドのベル・アンド・セバスチャンの音楽性、あるいは、日本のフリッパーズ・ギター、サニー・デイ・サービスをはじめとする渋谷系サウンドの源流を形作った。

 

BMX・バンディッツの名盤を挙げるとするなら、1993年リリースの「Life Goes On」が真っ先に思い浮かぶ。ここで、バンディッツは、まるで、涼やかな風に髪を吹き流されるかのような、切なく、淡く、爽やかなアノラックサウンド最高峰を極めた。良質なポップセンスに彩られたネオアコの傑作として名高い作品。 

 

 

「Life Goes On」2005

 


 

 

6.Teenage Fanclub 

 

ティーンエイジ・ファンクラブはスコットランド、グラスゴーの代表格ともいうべき偉大なインディーロックバンドである。BMXバンディッツのメンバー、ノーマン・ブレイク(Vo.Gt)を中心に、1985年に結成された。

 


 

このバンドは、ニルヴァーナの「Nevermind」の世界的なヒット、それに続く、インディーロックブームに後押しを受け、押し出されるような形で、アノラックサウンド、ギター・ポップ・アノラックサウンドの代名詞的存在となった。のちにニューヨークのマタドールレコードと契約し、ヴァセリンズ以上に、ベルセバと共にスコットランドで最も成功したロックバンドに挙げられる。

 

特に、このバンドはライブのステージ演出が豪華であり、まるで夢見心地にあるような瞬間をオーディエンスに提供してくれる。ティーンエイジファンクラブの音楽性は、ビートルズサウンドを現代的に再現し、それをパワー・ポップのような質感に彩ってみせた、いわばスコットランドの良心とも称するべきサウンド。ノスタルジックな雰囲気のあるチャンバーポップスの良いとこ取りの音楽性が最大の強みでもある。


ティーンエイジファンクラブの名盤としてはベタなチョイスではあるけれども、「バンドワゴネスク」をあげておきたい。このノスタルジックで、永遠不変のポピュラー音楽は、音楽にたいする無限の没入という、音楽ファンにとってこの上ない贅沢で芳醇な時間を与えてくれるはずである。  


 

 「Bandwagonesque」Geffen Records 1991

 

 

 

 

7.Belle And Sebastian 



スコットランドのアノラックサウンドのシーンで満を持して登場したのがベル・アンド・セバスチャン。

 

教会の牧師をつとめるスチュアート・マードックを中心に1996年にグラスゴーで結成され、現在も変わらず世界的なインディー・ロックバンドに挙げられる。最初のリリース、「タイガーズ・ミルク」は千枚のプレスしか生産されなかった作品ではあるが、マニアの間ではかなりの人気となり、850ポンドのプレミアがついたという。後に、ラフ・トレード、ジープスター、マタドールを渡り歩いたという面では、およそ世界的なインディーレーベルからのリリースを総なめにしたといえる。


もちろん、ベルセバの魅力は、表向きのブランド力にあるわけではない。もちろん、ザ・スミスのアルバムジャケットからの影響性にあるわけでもない。後の全英チャートでの健闘や、ブリット・アワードのベストニューカマー賞を獲得したりといった付加的な栄誉はこの大所帯ロックバンドのほんのサイドストーリーの域を出ないように思える。ベルアンドセバスチャンが後に成功を手にしたのは、最初期からスコットランド、アノラックサウンドの後継者としてBMXバンディッツの音楽性を引き継ぎ、良質なインディー・フォークを生み出し続けたから、つまり、ベル・アンド・セバスチャンの音楽の良さから見ると、至極当然の話だったといえる。

 

これまでの二十年以上もの長きに渡るキャリアで、大きなブランクもなく、継続的に良質な作品をリリースしつづけているというのは、殆ど驚異的なことといえる。何かを続けることほど難しいことはないからだ。もちろん、現在も変わらず、フロントマンのスチュアート・マードックは、ステージで、はつらつとした姿を見せ続けていることにも敬意の念を表するよりほかない。

 

ベルセバの名盤を一つに絞るのは至難のわざである。フロントマンのスチュアート・マードックの牧師という職業にかけていうなら、ベルセバの名盤をひとつだけ挙げることは、”針の穴に糸を通すより難しい”のかもしれない。最初期には、目のくらむほどの数多くのインディー・ロックの名盤がリリースされているが、比較的最近のリリースの中にも良い作品が見受けられる。しかし、アノラックサウンドの後継者という点に絞るならば、最初のリリースの「Tigersmilk」が最適である。後のベルセバの独特な内向的なサウンドの醍醐味は、一曲目「The State I Am In」に凝縮されている。  

 

 

 「Tigersmilk」Jeepstar Recordings 1996