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Kimonosというバンドを簡単に紹介しておくと、今井レオと向井秀徳という日本音楽界きっての鬼才、いわばの理論派と感覚派の2つの個性がしっかりと組み合わさることによってこれまではなかった異質な化学反応が起こり、きわめてハイクオリティーな音楽が生みだされました。
 
向井秀徳は、すでにナンバーガールやザゼン・ボーイズのフロントマンとして、数多くの先鋭的なロック音楽をうみだしてきた実績があり、そして、今井レオの方も、ソロ・プロジェクトやMeta Fiveなどにおいて、ダンスミュージック方面での活躍が目覚ましくなってきています。
 
 
下北沢の通称”Maturiスタジオ”で、綿密に何度もリハーサル、レコーディングがなされたと思われる、このKimonosのデビューアルバム「Soundtrack to Murder」は、彼らの音の煮詰め方がストイックであるためか、きわめて洗練された完成度抜群の音楽が誕生したといって良いでしょう。

とりわけ、アルバム表題曲「Soundtrack To Murder」の出来栄えは文句なしに素晴らしく、向井秀徳の清涼感のある日本語のボーカル。そして、今井レオにしか出しえないネイティブの英語の歌声の響きが掛け合いのように繰り広げられ、洋楽とも邦楽ともいえない独自の匂いを生み出しています。
 
また、どことなくキーボードの旋律とギターのフレーズのプロダクションが、ザ・ポリスを彷彿とさせ、他の海外のバンドが、こぞってポリス的な音楽を生み出そうと躍起になってもなしえなかったことを、彼らはこの楽曲において、ザ・ポリスの領域にまでやすやすと踏み込んでしまっている。しかし、彼らがただのザ・ポリスのフォロワー的な存在に堕しているわけでもありません。
いかにも、向井秀徳らしい時代劇風の世界観がいかんなく発揮されており、辻斬りを彷彿とさせる日本語の歌詞と英語の歌詞が対比的に並んでいます。向井秀徳の歌と今井レオの歌が交互に配置されて、それが独特な風味を生み出している。そこでは、対比という西洋の古典的な美学により、呼応するフレーズが楽曲の中に”男の美学”として生みだされているという気がします。
そして、サビのところで、和風のテイストから、いきなり西洋風のテイストに移行する時、なんともいえない妙味があり、そこには、今井レオの高い声質からくるものか、爽やかな印象すらうけます。
そして、ややもすると退屈になりそうな曲展開が、彼の持ち味のグルーブ感のある歌声が加わることで、非常に複雑な印象を与えもする。つまり、何度聴いても全然飽きのこない良質な楽曲が実に堅固な基盤により築き上げられている。そんなところが、この名曲の持つ独特な魅力だといえるでしょう。

 
アルバムの全体的な印象は、ポップ、ロック、ダンスミュージックを融合したような音楽性です。
さほど目新しさはないように思えるのに、この二人の鬼才の個性によって、いいしれない新しい雰囲気が醸し出されています。楽曲の雰囲気はキャッチーではあるけれども、いたるところに、彼ら二人の音楽フリークらしい仕掛けのようなものが施されていて、そこに聞き手はニヤリとしてしまうところがあります。
 
これは、二人がいかにさまざまな音楽を貪欲に聴いてきたのか、そのバックボーンの深さが、ここではっきりと示されているという気がします。
 
「Almost Human」でほの見える、AOR趣味とも、ジャズ・フュージョン趣味とも、またクラブ・ミュージック趣味とも言えなくもないような、多彩なジャンルの色合いを持った楽曲は、向井秀徳が若い頃から、プリンスなどの影響を受けていながら、これまでその機会に恵まれなかったからか、表立っては作ってこなかったタイプの楽曲といえるでしょう。
 
しかし、”今井レオ”というダンスミュージックを誰よりも理解し、それをさらっとネイティブの発音で歌いこなせる盟友を得たことにより、ここで、初めてそういった聴き応えのある楽曲を生み出すに至った。
これはいわば、これは大人のために用意されたゲキシブ音楽といえ、彼の長年のファンとしても、新鮮に聞こえること間違いなしでしょう。
 
そして、また面白いのは、細野晴臣のカバーの「Sports Man」であり、それほど原曲のスタイルと変わらないように思え、一定の忠実さを以って、また、敬意をはらって今井レオの流暢な英語の発音によってしっかり歌いこまれていて、そこには現代的なテクノの味が醸し出されているところが味わい深い。

Kimonosは、本プロジェクトではないにしても、耳の肥えた西洋人をアッと驚かすような高い洗練度を誇り、深い知見と技術に裏打ちされた勘の良い音を奏でる数少ない日本のアーティストであるとはっきり断言できます。
 
 

レイハラカミ


ハラカミレイの特徴は、他の音楽家とは、根本的に音の作り込みが違うような気がします。普通ならこうは作らないというのをハラカミレイは難なくやってのけてしまう。鍵盤の演奏は上手ではなかったらしいですが、その短所が長所に転じ、実際には演奏しえないユニークな音楽性を形作ったのかもしれません。
 
レイハラカミの音楽性というのは、実際には演奏しえないという点で、独特な魅力に満ち溢れています。彼の楽曲は、一見チープなようでいて、玄人も唸らせてしまうような説得力が込められており、それは空間的な奥行きがあり、いくら聞いても飽きない深みに富んでいる。楽曲の印象自体にも電子音楽なのにもかかわらず、生きた楽器でなされているようなエモーションに富んでいて、どことなく、淡く切ないような色彩が楽曲の雰囲気にちりばめられているように思えてなりません。そしてこのアルバムには、彼自身の温和で柔らかな人柄が滲み出ているように思え、そこが何よりの美点といえましょう。
 
生前にハラカミさんが仰っていましたが、彼が曲の打ち込みに使っていた機材というのも、ROLANDの「SC-88pro」でした。
   
 
俗に、「ハチプロ」といわれるレトロかつシンプルなシンセサイザーを駆使していたところを見ると、作曲というのに最も欠かせないものは、やはり、作り手の創造力なんだろうなという気がします。必ずしも、高い機材とか最新鋭の機材をつかわなければ、良質な音楽を生み出せないというのは思い違いなんだよというのを、ハラカミさんはあらためて作り手に教えてくれます。
 
自分がすでに持っているものを、いかに創意工夫を凝らし、何らかのかたちで表現していくべきなのか”。この問いに対する答えを見出すことが、すべてのアーティストにとって避けられない宿命のようなものかもしれません。
 
彼の活動自体は「Rei Harakami」というプロジェクトにとどまらず、アレンジやリミックスや劇伴音楽の仕事まで及び、多岐に渡ります。
 
有名なところでは、くるりの「バラの花」のリミックス、ナンバーガールの「Sappukei」に収録されている「U-Rei」のリミックスの仕事などが挙げられます。
 
向井さんは、結構、ヒップホップとかにも造形が深く、この曲でロックとは異なるスタイルに挑戦しています。レイハラカミの独特な跳ねるようなリズムの上に、向井秀徳のヒップホップ風のボーカルがいい塩梅にマッチしていて、遊び心に溢れた楽曲となっているので、ハラカミファンにとどまらず、ナンバーガールファンも十分魅力を楽しめるリミックスとなっています。
 
レイハラカミ名義のプロジェクトにおいては、1998年の「Unrest」から、テクノ寄りの音楽性を、デビュー当時から追求してきました。 また、京都という土地柄も、音楽性に少なからず影響を与えているかもしれません。お寺の作庭に満ちているような落ちついた雰囲気が、彼の音楽には感じられて、もしかりに、東京の喧騒の中で作られていたら、こういう音楽性にはならなかったでしょう。
 
彼の紡ぎ出す音楽には、はっきりした個性こそあれど、それほど強い自己主張がなく、常に周囲との穏やかな調和を図っているため、聞き手側のいる雰囲気を重んじ、それを台無しにするようなことはなく、不思議にも、聞き手のいる空間の中に、彼の電子音楽は馴染んでいくんです。
 
彼の四作目となる今作、「Lust」は、レイ・ハラカミが行き着いたひとつの音楽の終着点といえる作品。この”渇望”と銘打たれたアルバムには、彼自身の他の作品には見られなかった音楽家としての「覚悟」が宿っている。
 

rei harakami [Lust] 

  
 
 
 
それまでのキャリアで綿密に築き上げてきた音楽性を、ここでひとつ総決算をするような形で展開していったアルバムであり、世界的な他のダンスミュージック界隈のアーティストと比べても全く引けをとらない、どころか、日本的な独自の電子音楽を完成させたという点において、他の海外のアーティストより秀でていると断言しておきましょう。 
 
表題曲、「lust」の複雑で立体的なリズムは、少し難解な曲でもありますが、イントロのハイハットのディレイから始まる抽象画の如き世界は、それまでのダンスミュージックの可能性を押し広げ、新しいレイ・ハラカミというジャンルを形作ってみせた。
 
ドラムのバス、タムによって、複合的なリズムが立体的に展開されていく中、その上をゆるやかに流れていくシンセリードの麗しい旋律が、楽曲自体の難解さを和らげ、て聞き手のほうにやさしく手をさしのべながら、なんともいえない甘美な世界へといざなってくれるかのようです。
 
そして、このアルバムの象徴的な曲ともいえる細野晴臣のカバー「owari no kisetu」は、原曲に敬意を存分に払い、元の風味をしっかりと活かしつつ、まったく風味の異なる楽曲に変身させたという点で、比するところのない名カバーでしょう。 この曲では、レイハラカミ自身がボーカルをとっていて、彼の歌唱法というのも、どことなく手探であるように思えて、頼りなさげに歌っている感もありますが、そこがむしろ愛くるしいという印象を受けます。
 
アルバムの終わりにかけて、”切なさ侘しさ”という、レイ・ハラカミの独特の持ち味が十分発揮されていき、聞き手はおのずと彼の電子音楽に惹きつけられ、「Approach」から「First Period」にかけては、その印象が一段と強まっていきます。
 
音の印象が薄くなり、リズムの規則性すらも不明瞭となり、音の空間的な意味合いを強めていき、ただ、ひたすら、おだやかな静寂が奥行きをまして拡張されていきますら、いうなれば、そこに広がっているのはモネの抽象画のような世界。
 
その落ち着いた音の空間の中にゆったりと身を預さえすれば、なんとも言えない上質で贅沢な時間を味わいつくせるはず。
 
レイ・ハラカミというアーティストは、誰もが若い頃に体験した、もしくは、体験しえなかった、淡い青春のせつないひとこまのような情感、人生の中で瞬間的ともいえる淡い輝きを、テクノという独特の音で表現してみせてくれました。
 
そして、ハラカミさんの紡ぎ出す電子音楽のきらめきは、必ずといっていいほど、ノスタルジックで静かな風景を聞き手の脳裏に再現させます。
 
他の媒体、文学、絵画、グラフィック等では、上手いように表現しえないであろう淡く切ないセンチメンタリズムを、彼独自の素朴で素敵なやり方。つまり、電子音楽という手法で見事に表してみせたという点において、レイ・ハラカミのような素晴らしいアーティストは空前絶後、世界中のどこを見渡しても存在しなかった、いうなれば、唯一無二の電子音楽家だったのかもしれません。