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Eli Keszler



イーライ・ケスラーは、ニューヨークを拠点に活動するパーカッショニスト、作曲家、そして、その他にも、音響芸術の一環であるサウンドインスタレーションと幅広い分野で活躍するアーティストです。

 

イーライ・ケスラーは、若い時代からドラムの演奏に親しみ、十代の頃にはハードコアバンドを組み、活動しています。ボストンのニューイングランド音楽院を卒業したのち、ニューヨーク市に移り住み、ソロアーティストとしての活動を開始しています。ケスラーは他の現代音楽家が弦楽器やピアノを介して実験音楽のアプローチを図るのとは別に、ドラムーパーカッションを介しての実験音楽を独自に追究しています。

 

ときに、その前衛的な手法は、空間に張り巡らせた多数のピアノ線をモーターによって打ち付けることにより、「パルス奏法」と呼ばれる1960年代にドラムの前衛的な演奏法を取り入れているのが画期的といえるでしょう。

 

イーライ・ケスラーは、2006年に自身が主宰するRelレコードから、限定CD「Untiteled」を発表。その後、Rare Youthから「Livingston」をリリース。2007年からはR.E.L.Recordsと契約を結び、アシュリー・パールとの作品「Eli Keszler&Ashrel Parl」を発表しています。

 

その後も、コラボ作品をいくつか発表後、2011年には「Cold Pin」をPanからリリースしてデビュー。この作品「Cold Pin」において、イーライ・ケスラーは、空間に張り巡らせたピアノ線をモーターにより断続的に鳴らすことにより、トーン・クラスターを生み出し、所謂現代アートのひとつ「サウンドインスターレーション」を取り入れた音響の前衛芸術を確立しています。

 

その後も、アイスランド交響楽団との共演をはじめ、ワンオートリックス・ポイント・ネヴァー、ローレル・ヘイローといった、アンビエント、ダブステップの領域で活躍する実験音楽を生み出すアーティストの作品にゲスト参加を重ねながら、ソロ作品を発表。

 

2016年「Last Signs of Speed」、2018年にShelter Pressから「Stadium」を発表し、徐々にアメリカの音楽メディアにより実験音楽として高い評価を受けるようになる。2021年にはLuckerMeから「Icons」、次いでこの作品の再編集盤「Icons+」を11月17日に発表。

 

特に、最新作「Icons」は、ロックダウン中のニューヨークの中心街、中国深圳の電気街、また、日本の富ヶ谷公演で録音したサンプリングをはじめ、世界各地で録音した環境音、他にも1920年代のフィルム・ノワールのサンプリングを取り入れ、パーカッション演奏を介し、現実、仮想、異なる時間、空間を一つの作品の中で音でつなげてみせた画期的な実験音楽の一つに挙げられます。

 

 

 

 

「The Scary of Sixty-First(Original Motion Picture Soundtrack)」Deeper Into Movies 2021



 

 

イーライ・ケスラーの最新作「The Scary of Sixty-First(Original Motion Picture Soundtrack」は、アメリカの”ユートピア”によって配給されたダーシャ・ネクラソワ監督による映画作品のオリジナルスコアとして書き下ろされたサウンドトラックとしてリリースされています。

 

「The Scary of Sixty-First」は、第71回ベルリン国際映画祭で初上映されたホラー映画。ベッツィ・ブラウン、クイン、ダーシャ・ネクラソワ、マーク・ラパポートが出演を果たしている作品で、この映画は、ミステリアスなホラーともいうべき作品で、二人のルームメイトがアッパーイーストサイドの自分たちが住んでいる住居が、かつて億万長者のジェフリー・エプスタインのものであることを発見したのち、この二人のルームメイトたちは、その暗い歴史を明らかにし、彼らがその出来事を追体験する、というプロットによって大まかに構成されています。

 

いくつかの海外の映画レビューサイトでは、映画自体の評価については賛否両論のようです。有名な映画サイトでは高評価を受けていますが、個人サイトでは、軒並みそれほど評価が芳しくない作品です。

 

また、これらの有名サイトでは、このサウンドトラックについても言及し、そこでは、ジョン・カーペンターのシンセサイザーの影響性、ウィリアム・バシンスキーのアンビエントからの影響の2つが挙げられていますが、まさに、その「幽霊のようなアンビエント」という評言はこのホラー映画作品のオリジナルスコアを説明するに当たってふさわしい表現といえるでしょう。

 

実際に、イーライ・ケスラーは「The Scary of Sixty-First」のサウンドトラックを書き下ろすに当たって、ジョン・カーペンターのシンセサイザーのスコアを参考にし、その上に自身のもうひとつの現代的な音楽性、アンビエントの要素を加味しています。

 

これまでの「Stadium」や「Icon」といったイーライの代表作とは異質であるのは、旧来の頭脳明晰なインスターレーションアーティストらしいアプローチとは違い、オカルティズムに対する傾倒を色濃く見せている点。「Nightmare」では、五芒星、タロットの配列を作曲を構成する上で数学的に取り入れている、とイーライは話しています。

 

これまで、こういったオカルト的な手法を取り入れてはこなかっため、ケスラーのソロ作品の音楽性から見ると、根底の部分において通じる部分もありますが、表面的な雰囲気としては異色の作風といえます。

 

また、今回のイーライ・ケスラーのオリジナルスコアで最もすぐれていると思われるのは、映像を派手な音響効果によって際立たせるのではなく、一歩引いたような音響を生み出すことで、映像に対して、より強い効果を生み出し、映像を派手にみせるというよりも、主要な雰囲気を隠すことにより、神秘的なイメージを演出しています。また、ドローンアンビエントとしてみてもかなり興味深い作品であり、映画のサウンドトラックが好きな方は一聴する価値ありです。

 

 

 

 

References 

 

 

Allmusic.com

 

https://www.allmusic.com/artist/eli-keszler-mn0002239858/biography?1638469364092 


Wikipedia 


https://en.wikipedia.org/wiki/The_Scary_of_Sixty-First



Debbie Reynolds


 

「Tammy and the BARCHELER」邦題「タミーと独身者」の主演女優を演じるデビー・レイノルズは、オードリー・ヘップバーンやジュリー・アンドリュース以前に登場したアメリカの女優。1932年生まれ、2016年沒。米テキサス州エルパソ出身の女優、歌手、声優として活躍した。

 

16歳の時、カルフォルニア州にバーバンクで、「ミスバーバンク」として選出後、ワーナーブラザーズと契約を結び、映画二本で端役を演じた後、メトロ・ゴールドウィン・メイヤーと契約する。その後、「雨に唄えば」の主演に抜擢され、一躍、アメリカのムービースターの座に登りつめた。 また、この代表作の後にも、タイタニック号の実在する生存者、モリー・ブラウンを演じた「不沈のモリー・ブラウン」1964では、アカデミー賞にノミネート。そのほかにも、ジブリ映画「魔女の宅急便」のディズニー英語版で、老女役の吹き替えを担当していることでも知られている。

 

女優としては、デビー・レイノルズが登場して間もなく、上記の二人の大女優、ヘップバーン、アンドリュースが映画界を席巻したため、この二人に比べると、知名度という点ではいまいち恵まれなかった印象もなくはない。けれども、この二人を上回る魅力を持った、いかにもアメリカの女優というべき独特な雰囲気をもった名優である。





 

デビー・レイノルズは、女優としても演技力が随一といっても差し支えないはずだが、歌手としても他のミュージックスター達の歌唱力に引けを取らない甘美な歌声を持った名シンガーである。女優としての天賦の才だけでなく、歌手としての素晴らしい秀抜した才覚を示してみせたのが、ロマン・コメディ映画の「タミーと独身者」であった。

 

米ユニバーサルから配給された映画「タミーと独身者」1957は、シド・リケッツ・サムナーの小説を原作とし、ジョセフ・ペブニーがメガホンを取った。年頃の少女が自分の恋心の芽生えに気づいた淡い感情を描いてみせた名作のひとつで、コメディの風味も感じられるが、アメリカらしいロマンティックさに彩られた往年の名画といっても良いだろうか。

 

この映画がどのようなエピソードなのか、大まかではあるが、そのあらすじを以下に説明しておきたい。

 


「タンブレー・”タミー”・タイピーはミシシッピ川の屋形船に、おじいちゃんのジョンディンウィッティと住んでいる17歳の少女。彼女は裸足で駆け回り、沼の外での生活を夢見て、親友のヤギのナンと話して毎日を過ごしている。

 

そんなある日、小さな飛行機が沼に墜落した。タミーと祖父のジョンは、この不意の墜落機を救うために助けにいく。

 

そこで、見つけたのがパイロット、ピーター・ブレントであった。タミーと祖父のジョンは、この青年を助け、彼等の家に連れて行って、彼が回復するのを看病して手伝った。その時、タミーはピーター・ブレントという青年に恋に落ちる。この青年は意識を回復する間もなく、家に帰る必要があり、それをタミーは口惜しく思うが、ブレントは祖父に何かあったさい、ぜひ、自分のところを頼ってきてほしいという約束をタミーと交わす。

 

折しも、数週間後、タミーの祖父のジョンは密造酒を作った廉で逮捕されてしまう。縁を失ったタミー・タイピーは、すぐに件の青年、ピーター・ブレントの住むブレントウッドホールを目指して出発する。 彼女は、ダンスのリハーサル中に到着し、 ピーターが友人と一緒にいるところに遭遇する。ピーターの友人アーニーがパーティーの終わりに、タミーを見つけると、彼女は彼に祖父の投獄のことについて説明する。

 

しかし、ピーターはこれを曲解して、祖父のジョンが死亡したとミセスブレントに教えた。ミセスブレントは、タミーを中に導き入れると、ピーターがブレントホールの事業面での成功が期待される「ブレントウッド# 6」というトマトの自動作成機の開発に忙しいことを知る。

 

その後、タミーは、実は、自分の祖父は投獄されただけであり、死亡していないことを皆の前で打ち明けるが、このことで、ミセスブレントはタミーに対して大変立腹し、彼女を追い返そうとする。しかし、本人のピーターブレントと彼の叔母レニーは、タミーがこの地に留まるように説得した。

 

その後、ピーター・ブレントの婚約者バーバラビスルがブレントウッドホールに立ち寄る。彼女の叔父は、ピーターにトマトの自動作成機の開発をやめるようにと、そして、広告ビジネスで一緒に働こうではないか、と彼に申し出る。ところが、ピーター・ブレントはこの申し出をあっけなく断る。

 

ちょうどこの週は、(復活祭の)巡礼の期間に当たり、ブレントウッドホールもその巡礼の地に含まれていた。ピーターの叔母レニーは、タミーに曾祖母が着ていたドレスを渡す。ミセスブレントとレニーは、タミーが。その夜に、曾祖母クラチットの幽霊のフリをすることを提案する。その夜、タミーは、ゲストのためにある物語を語り、それまで反りの合わなかったミセスブレントをはじめ全ての人を魅了することになる」

  

 

タミーと独身者」という映画の最後の結末まであらすじを書くのは、ネタバレになってしまうので遠慮しておきたい。全体的には、コメディタッチのあらすじであるものの、その下地にアメリカらしい美麗なロマンチシズムが漂う名画という印象を受けなくもない。あまり、映画については詳しくないため、ちょっと自信に乏しい。どころか、プロットについても簡潔に説明できている実感もない。でも、ひとつたしかなのは、映画の歴代のサントラの屈指の名曲として挙げられる「Tammy」は、この巡礼週間の夜、窓辺でロマンチックに歌うタミー扮するデビー・レイノルズのロマンティックな瞬間を、ワンシーンのカットで、実に見事に描いてみせたということである。

 

特に、女優としてのしての力量もさることながら、さほど体格として大きないのにも関わらず、歌手として伸びやかで、素晴らしい声量にめぐまれているのがデビー・レイノルズなのである。 

 

この映画の劇中歌としてうたわれる「Tammy」という一曲は、ミュージカルの風味もあり、バラードとしても超一級品。映画の象徴的なワンシーンを、ドラマティックかつ麗しく彩っている名曲で、アメリカの古い映画らしいミュージカルの影響を受け継いだ名曲といえる。コメディ映画の性格を持ちながらも、劇中歌としてシーンに挿入される「Tammy」は、涙ぐむような一度しかない十代という青春の切ない叙情性が滲んでいる。

 

この後、ヘップバーンやアンドリュースといった新鋭の女優に先んじられた印象のあるデビー・レイノルズである。しかし、私は、この女優、そして、この歌がとても大好きでたまらない。

 

実際の映像を見ずとも、自然に、映画の中で描かれている美しい情景、甘美なワンシーンがまざまざと目に浮かんでくる正真正銘のサウンドトラック。名女優デビー・レイノルズが歌手としても抜群の才覚を持っていたのは、「Tammy」という歴史的な名曲が証明づけている。

 

映画「タミーと独身者」は、興行面においては、製作者側の期待ほどに振るわなかったようであるものの、劇中歌「Tammy」は、サウンドトラックとして、当時、全米で大ヒットとなった。今、聴いても、全く色褪せない、素晴らしい感動を与えてくれる永遠の名曲である。




 Alex Turner

 

アレックス・ターナーは説明不要、アークティック・モンキーズのリードシンガーにして、フロントマンを務めるイギリスのロックアーティスト。シェフィールドの高校で、ドラマー、マット・ヘルダースと出会い、アークティック・モンキーズを結成、現在までロックミュージックシーンの最前線を走り続けている。

 

 

アークティック・モンキーズのデビューアルバム「Whatever People Say I Am,That What I'm Not」2006で鮮烈的なデビューを飾る。荒削りではありながら、往年のガレージロックを彷彿とさせる若々しいロックンロールを体現し、イギリスのロック・ミュージック界に旋風を巻き起こし、2000年代のガレージロック・リバイバルムーブメントを、LibertinesやWhite Stripes、Strokesらと共に牽引。その後、2ndアルバム「Favorite Worst Nightmare」2007ではダンス・ロックというジャンルを確立、イギリスのロックシーンでの人気を不動のものとしていく。


 

このアークティック・モンキーズのアレックス・ターナーは、非常に女性に人気のあるミュージシャンで、常にガールフレンドの報道にさらされているミュージシャン。NMEでは「The Coolman Of The Planet」に選出されている。

 

 

しかし、どうも、このあたりから、プライベート性というものを要視し、公にはメディアを避けるようになった。ガールフレンドが誰なのかを常にパパラッチに追求されるのに辟易としたみたいです。しかし、それでも、このあたりに、アレックス・ターナーのミュージシャンとしてのプロフェッショナル性があり、見かけのクールさではなく、ロックバンドとしてのクールさを評価してもらいたいという気持ちが垣間見れるようです。


 

リードシンガーとしてのアレックス・ターナーは既に不動の評価を獲得している。それまでのロックミュージックに、早口でまくしたてるような、これまでにない英語詞の歌唱法を確立。このあたりは80年代のブリットポップの新たな解釈を2000年代に試みたと言え、クラブミュージックやヒップホップのライムのような影響を、正統派のロックとして体現してみせたのがアレックス・ターナーの凄さで、アークティック・モンキーズの主要な音楽性の重要な肝といえるでしょう。

 

 

確かに、アークティック・モンキーズのアレックス・ターナーの歌い方というのはなんとなく映画俳優のような無理をして頑張るような格好良さがあります。しかし、それは多分このアーティストの一面に過ぎないのかなという気もしている。

 

 

それはアレックス・ターナーが、ソロ作品において、肩の力の抜けた、穏やかなフォークシンガーとしての実力を発揮しているからです。今回、アルバム・レビューとして御紹介させていただくのは、ロックミュージシャンとしてではなく、フォークアーティストとしてのクールな一面が楽しめるEPで、これからの季節、秋の夜長に、ひとりでじっくり聴き耽りたいような秀逸な作品です。

 




 「Submarine」Alex Turner  2011


  

1.Stuck on the Puzzle-intro

2.Hiding Tonight

3.Glass in the park

4.It's hard to get around the wind

5.Stuck on the puzzle

6.Piledriver waltz

 

この「サブマリン」というのは映像作品で、これまでアークティックモンキーズのMVを手掛けてきた盟友といえるリチャード・アイオアディ監督のロマンス映画です。ジョー・ダンソンの小説を映画化した作品のサウンドトラックです。 

 

つまり、これまでプロモーションを手掛けてくれた友人に対するお礼と感謝のために制作されたアレックス・ターナーの返報代わりのEP作品といえなくもないかもしれません。サウンドトラック作品としてのリリースは、アークティック・モンキーズのアルバム「Stuck it and see」の数ヶ月前に発表されていることから、アークティック・モンキーズのスタジオアルバム制作の合間をぬって録音された作品です。 

 

そして、「Sumarine」では、アレックス・ターナーのロックミュージシャンとしてはまた別の魅力的なボーカルの雰囲気が味わえる作品となっています。音源作品としては、アークティック・モンキーズのオリジナルアルバムほどには話題にならず、イギリスでもチャートの最高位が33位と驚くほど話題性に欠ける作品ですが、ここでアレックス・ターナーはアークティック・モンキーズのギラギラしたボーカルとは又異なる新境地を開拓しようと試みているように思えます。

 

このサウンドトラックの表題曲とも言える「Stuck on the puzzle」は、フォークバージョンとクラブミュージック寄りのアレンジバージョンが今作には、二パターン収録されています。そして、ここではアークティック・モンキーズでは出来ない音楽性を試みたのではないかと思える。サブマリン全体の印象としては、#3「Glass in the park」に代表されるボブ・ディランのようなフォーク寄りの音楽性で、アコースティックの指引きのアルペジオの美しさ、嫋やかさ、そして、やさしく手を差し伸べるような心に染みる歌声を、ここでアレックス・ターナーは披露する。

 

もちろん、真夜中のアンニュイな雰囲気に満ちたアークティック・モンキーズのロックのムード、またあるいは、陶酔したような現代的なR&Bバラード色を引き継いだ上で、夜中にひとり、口笛を朗らかに吹くかのごときダンディズム性のある歌声が聞き所といえるでしょう。

 

 

それはちょっとした瞬間、心からふと、こぼれ落ちる哀しみであり、涙であり、寂しさ。それらがこのEP作品の多くの楽曲には人間味のある深い情感として素直に表現されている。その上で、そういった哀しみ、涙、寂しさを、朗らかに笑い飛ばすような雰囲気が醸し出されているように思える。

 

つまり、ロマンス映像作品としてのサントラと言う面ではコレ以上はないハマり具合といえる。

 

これまでアレックス・ターナーは、一度もサントラを手掛けたことがないのに、映像と音楽の情感の合致を完全に成功させているのは驚きですが、その辺の器用さは音楽家として生来の天才性に恵まれているからこそ。

 

そして、また、アークティック・モンキーズと決定的に異なるのは、アレックス・ターナーの歌声です。アークティック・モンキーズでは何かしら切迫したような歌い方をするシンガーなんですが、ここでは、囁くというか、ボソッと呟く、嘯くような歌い方で、これもまたメインプロジェクトと異なるダンディズム、ブルーズのクールな質感が醸し出されている。このダンディズム性が何か楽曲の良さと相まって、ホロリとさせるような、やさしげな情感があって非常に素敵です。

 

この作品「Submarine」では、コレまで自身の映像作品を手掛けてきた盟友、リチャード・アイアディへの友情ともいうべきものが功を奏したというべきでしょう。メインプロジェクト、アークティック・モンキーズの作品の重圧、スターミュージシャンでなければいけないという若い頃からの厳しい柵から解き放たれ、アレックス・ターナーの歌声の本来の魅力が存分に引き出されている。

 

少し、弱気なところもあるけれど、いや、でもそれこそ、このリードシンガーの自然な美しさが宿っているように思えます。それは肩肘を張ったスターロックミュージシャンとしてでなく、等身大のアレックス・ターナーの姿がここに表現されている。そしてまた、こシンガーの自然体の歌声が聴くことができるのは、多分これまでのキャリアの中、このEP作品だけかもしれません。

 

六曲収録の少アルバムの形式ですが、コンパクトなスタイルの作品ゆえ、殆ど助長なところがなく、捨て曲なし。全体的な構成としても引き締まった名作です。そして、ロックバンドとしてはこれまで表現しえなかった、アレックス・ターナーのフォーク音楽に対する深い造詣が味わえる作品となっています。


Valgeir Sigurdsson



 

アイスランド、レイキャビクという土地に、映画音楽畑を中心に活躍している極めて重要な現代作曲家が存在する。それが今回御紹介するヴァルゲイル・シグルソンという音楽家である。

 

このヴァルゲイル・シグルソンという作曲家は、元々、ビョーク主演の映画「ダンサー・イン・ザ・ダーク」のサウンドプログラミング担当として、ビョークから直に抜擢を受け、この名画の音楽面での重要な演出に多大な貢献をはたした人物として知られている。すでに、音楽家としてのキャリアは長く、特に、映画音楽方面での活躍が目覚ましい作曲家として挙げられる。 

 

 

 

Valgeir Sigurðsson performing at PopTech in Reykjavík, Iceland in 2012
By Emily Qualey - <a rel="nofollow" class="external free" href="https://www.flickr.com/photos/poptech/7455184140/">https://www.flickr.com/photos/poptech/7455184140/</a>, CC BY-SA 2.0, Link

 

 

シグルソンは、元々、クラシックギターを学んだ作曲者ではあるものの、音楽大学で専門的に管弦楽を学んだ音楽家に引けを取らない重厚なオーケストラレーションを生み出す。その技法の巧みさは、往年のリムスキー・コルサコフやラヴェルにも比するオーケストラの魔術師ともいえるかもしれない。

 

これまでヴァルゲイル・シグルソンとしての名義のリリースは、それほど数は多くないものの、「Little Moscow」2018、「The Country」2020という映画作品のサウンドトラックをコンスタントに手掛けて来ている。彼の同郷レイキャビクには、もうひとり、”ヨハン・ヨハンソン”という既に今は亡き世界的な映画音楽の盟友ともいえる作曲者と同じように、世界的に見て重要な映画音楽、もしくは、ポスト・クラシカルの音楽家の一人として認知されるべきアーティストである。

 

ヨハン・ヨハンソンが生涯にわたり、クラシック音楽をどのようにして映画音楽として取り入れるのか、また、それを単体としての音楽として説得力あふれるものとするために苦心惨憺していたように、このシグルソンという作曲家も、ヨハンソンの遺志を引き継いで、前衛的アプローチをこれまで選んでいる。そして、このシグルソンという映画音楽家が、他の国の映画音楽作曲家と異なる特長があるなら、レイキャビクの名物的な音楽、エレクトロニカ、とりわけ、電子音楽、実験音楽の要素を、自身の音楽性の中に果敢に取り入れていることだろうか?

 

つまり、それこそがヨハン・ヨハンソンと同じように、このシグルソンという作曲家の音楽を、映画音楽から離れた個体の音楽、もしくは、独立した音楽として聴いた際、非常に崇高な味わいをもたらし、古典、近代、現代音楽と同じく、カジュアルではなく、フォーマルな音楽の聴き方ができる要因といえるだろう。もっといえば、このシグルソンの音楽は、音楽の教科書に列挙される古典音楽家と同じく、芸術的な背骨を持つ音楽者というふうに言えるのかもしれない。

 

これまで、ヴァルゲイル・シグルソンは、映画音楽のオリジナル・サウンドトラックの他に、それほど目立たない形で自身の音楽のリリースを行ってきた。

 

それは、2007年のアルバム「Ekvilibrium」に始まり、この作品では、映画音楽からは少し離れた電子音楽家し、エレクトロニカサウンドの最新鋭をいくアーティストとしての意外な表情を見せている。このあたりの映画音楽家らしからぬクラブ・ミュージックテイストも少なからず持ち合わせ、近年まで電子音楽の要素を上手く駆使して、独特な音楽を作り上げてきているのが、このシグルソンという作曲家という人物像に親しみやすくさせているような気もする。

 

そして、近年になって、シグルソンは自身の作品リリースで、電子音楽と映画音楽の要素をかけ合わせた現代音楽寄りのアプローチを図っている。レイキャビク交響楽団との共同作業を収録した「Dissonance」2017という作品を契機として顕著になって来ている。

 

この年代から、重厚な管弦楽法を駆使し、そして、映像を目に浮かばせるようなピクチャレスクな現代音楽、映画音楽に取り組む様になってきている。これはとくに、彼は五十という年齢でありながら、血気盛んにこの作風に真摯に取り組んできている気配が伺える。作品自体のクオリティー自体は年を経るごとに、管弦楽の技法の高い洗練度により近年凄みを増してきているように思える。

 

特に、シグルソンという単体の作曲家として見るなら、ここ二、三年で、この音楽家の本領が発揮された感もある。同郷レイキャビクのヨハンソンという偉大な作曲家の死去の影響があってのことかまでは定かでないものの、自身を彼の正当な継承者と自負するかのような麗しい管弦楽法を作品に取り入れている。それはよく使われるような「壮大なオーケストラレーション」という陳腐な表現は、シグルソンの崇高な音楽には相応しいとはいえない。そのような簡易な言葉で彼の音楽を形容するのは無粋であると断言できる。それほど深い味わいのある現代音楽、ポスト・クラシカルの重要なアーティストで、これからより素晴らしい作品が生まれ出てくるような気配がある。

 

今回は、彼のオススメのアルバム作品について取り上げて、シグルソンの素晴らしい魅力を伝えられたら喜ばしいと思っています。

 

 

 

 

「Drumaladid」2010

 

 

 

このアルバムは、映画音楽の作曲者としての下地を受け継いだ上で、シグルソンが親しみやすいポップス/ロック、あるいはフォークも作曲できることを見事に証明してみせた作品といえる。

 

アルバム全体としては彼の主要な音楽性、弦楽器のハーモニクスの美しさを踏襲した上で、さまざまなバリエーションに富んだ楽曲が多く収録されている。ヴァルゲイル・シグルソンの作品としてはエレクトロニカ、ポスト・クラシカル寄りの手法が選ばれた作品。アイスランドの自然あふれる美しい情景、町並みを、ありありと思い浮かばせるような清涼感のある穏やかな雰囲気の楽曲が多く、彼の作品の中では、最も親しみやすいアルバムといえるかもしれない。

 

全体的には、ピアノ、もしくは弦楽器をフューチャーした美しいハーモニーが随所に展開されている。このシグルソンにしか紡ぎ得ない独特で穏やかなポスト・クラシカルの雰囲気が心ゆくまで味わうことができる。そして、音楽家としてのキャリアがサウンドプログラミングから始まったように、ここでは、アルバム全体のトラックにディレイエフェクトを施したり、といった音のデザイナーとしてのシグルソンのセンスの素晴らしさが存分に味わえることだろう。このエフェクトにより、この作品は全体的に涼やかな印象に彩られている。この独特な涼味というべき雰囲気は、アルバムの最初から最後まで一貫して通じているように感じられる。 

        

 

驚くべきことに、一曲目「Grylukvaedi」では、デビュー作で見せたようなソングトラックを展開している。

 

ここで聴くことのできるアイスランド語の美しい質感というのは、他言語では味わえないニュアンスと言えるだろう。不思議なくらい清涼感のあるアイスランド語の雰囲気、エレクトロニカとフォークを融合したフォークトロニカに挑戦している。グリッチノイズ、そして、弦楽器のエフェクティヴなサウンド処理というのがこの楽曲の肝といえる。もちろん、ボーカル曲として聴いても十分に楽しめるはず。この言語の特有の美しさというのは、シガー・ロスというアーティストが世界に向けて証明してみせているが、この楽曲もシガー・ロスの音楽性に近い。北欧言語の語感から醸し出されるニュアンスの中に、奇妙なほどの清廉さが感じられるはず。

 

四曲目「I Offer Prosperity and Eternal Life」七曲目の表題曲「Draumaland」においてはピアノを全面に押し出した美しい印象のある楽曲である。時に、それはグロッケンシュピールやアコーディオンの付属的なフレージングによって、より神秘的な雰囲気も醸し出されているあたり、映画音楽家としての自負を表現しているような印象を受ける。そして、このあたりの繊細さのある楽曲は聞く人を選ばないポスト・クラシカルの名曲として挙げても差し支えないかもしれない。


六曲目「Hot Ground,Cold」、そしてまた、この楽曲のCoda.のような役割を持つ九曲目「Cold Ground,Hot」では、電子音楽、弦楽器としてのアンビエントに対する傾倒が感じられる楽曲である。 

 

前者は、抒情性により、全体的なアンビエンスが形作られている。それとは対象的に、後者では、電子音楽のクールさという側面が強調されているが、両者の釣り合いを図るように金管楽器、フレンチホルンが楽曲の中間部に導入されている。分けても、「Cold Ground,Hot」では、北欧のニュージャズへの傾倒を見せているのも聴き逃がせない。

 

また、ヴァルゲイル・シグルソンという人物の映画音楽作曲者としての深い矜持が伺えるのが、十一曲目の「Nowhere Land」である。ここでは、弦楽器のトレモロ奏法の醍醐味が心ゆくまで味わえる。ヴァイオリン、ビオラのパッセージの背後で金管楽器が曲の骨格を支えており、これが重厚感をもたらす。もちろん、その上にハープの麗しい付属旋律の飾りがなされているあたりも素敵である。楽曲の途中から不意にあらわれる弦楽器の主旋律というのも意外性に富んでいる。

 

コントロールが効いていながらも、徐々に、感情が盛り上げられていくダイナミック性。つまり、この点に、このヴェルゲイル・シグルソンという作曲家の卓越した管弦楽法の技術が、顕著に表れ出ているように思える。前曲「Nowhere Land」の雰囲気を受け継いだ続曲の意味を持つ「Helter Smelter」も面白い。楽曲名も、ビートルズのナンバー「Helter Skelter」に因んだものだろうか、重厚な弦楽器の妙味がじっくり味わいつくせるはず。正しく、終曲を彩るにふさわしいダイナミック性といえる。

  


「Kvika」 2021



そして、2021年リリースのスタジオ・アルバム「Kvika」は、ヴァルゲイル・シグルソンの集大成ともいえる作品である。

 

ここで、シグルソンは、これまでの作曲家、サウンドエンジニア、あるいはプログラマーとしてのキャリアからくる経験の蓄積を惜しみなく込めている。全体のトラックは39分とそれほど長くはなく、かなり簡潔な印象を受ける。アルバム全体が交響曲、あるいは、組曲のような性格を持ち、個々のトラック自体が重なることにより、一つのサウンドスケープとしてのストーリを形作っている。

 

「Kvika」において、シグルソンは映画音楽としてこれまで挑戦してきた作風をついに一つの高みにまで引き上げたという表現がふさわしいかもしれない。ここで見うけられる重厚なハーモニクスは、およそ体系的に管弦楽を学んだ作曲家としてでなく、現場のサウンドエンジニア、プログラマーとして肌でじかに学び取った生きた技法がここで大きく花開いたというように思える。

 

 

もちろん、映画音楽、サウンドトラックとして傾聴しても上質な味わいがあるが、この作品が素晴らしい由縁は、管弦楽の重厚な音の立体構造を、シグルソンがこれまで初期の作風から受けついできた電子音楽と絶妙に融合してみせたことだろう。全体的なオーケストラレーションとして聴くと映画音楽にも聴こえるはずだが、トラックの中には、そのハーモニーの美しさを損なわない程度に、シンセサイザーのシークエンス、また、時には苛烈なドローン・アンビエントのようなノイズを慎重に取り入れている。

 

しかし、今作を聴くかぎりでは、アイスランドで今流行のものに迎合するために、電子音楽のニュアンスが取り入れられたわけではないように思える。

 

それは、この重厚なオーケストラレーションをまるで脅かすように苛烈な電子音楽のシークエンス、あるいは、グリッチノイズが挿入されることにより、本来相容れないとも思われるオーケストラレーション、そして電子音楽の完全な融合を図って見せている。これが、この作品をきわめて上質あふれるものとし、スタンダードな映画音楽とは異なる響きをもたらしている。それは、シグルソンの最初の仕事として始まった「ダンサー・イン・ザ・ダーク」の2000年からおよそ17年という長い歳月を経てようやく結実した、一つのライフワーク的な意味合いを持つ傑作ということもできるだろう。 

  


このスタジオ・アルバムは、全体が非常に繊細に、そして、綿密に組み合わされた一つの交響曲のように静かに落ち着いて耳を傾けるべきなのだろうと思う。幾つかの曲について論じさせていただく赦しを乞うなら、このアルバムの中「Trantiosn」「Eva's Lamant」という楽曲を、このアルバムの中の最も秀でた楽曲として挙げておきたい。

 

この弦楽器と金管楽器が中心の楽曲が湿られる中で、まるで草原の彼方に見える蜃気楼のような趣で、このピアノの美しい旋律によって組み立てられる楽曲はすっとごく自然に浮かび上がってくる。

 

他にも、十五曲目の「Back In The Woods」では、弦楽器のパッセージ、そして複雑なサウンドエフェクトにより、現代音楽に対するしたたかな歩み寄りも感じられる。アルバムの中で、クワイアとして異彩を放っている楽曲「Elegy」も美しく、おそらく初めてシグルソンは、清涼感に富んだ大自然を思い浮かべさせるような興趣のある歌曲に取り組んでいる。

 

ここからアルバムは、オーケストラレーションとしてのドローンアンビエントの領域に入り、それが最終曲のピアノの彩りにより最初のトラック「Foot Soldier」の重厚なモチーフに一つの循環を形って戻っていく。最後の楽曲「A Point,Ahead」を聴いた後に、最初のトラックを聴きかえすとその事が十全に理解できる。

 

今作「Kvika」は、全体を組曲として聴いても全く文句の付け所のない名作。今年度の映画音楽の最高傑作の一つに挙げられると思う。 

American Grafitty soundtrack


巨匠映画監督、ジョージ・ルーカスといえば、まずはじめに多くの人は大作「スター・ウォーズ」を思い浮かべるはず。

しかし、彼の意外な一面、青春映画としての才覚が遺憾なく発揮されたのがこの映画、アメリカン・グラフィティです。

この映画は、とにかく、往時のアメリカの若者の甘酸っぱい青春を上手く切り取って、その淡い若いアメリカの白人社会の人間関係をものの見事に活写した作品。ストーリ的にも映像的にもなんら夾雑物のない美しいシンプルな映画というように称してもいいかもしれません。 主要な舞台となるカルフォルニアのメルズというきらびやかなネオンサインが印象的なドライブイン、そこに、女性ウェイトレスがいて、ローラースケートで店の中をくるくるせわしなく走り回って注文を運んでいる!あの様子というのはなんとも素敵でした。

アメリカン・グラフィティは、ストーリ性の魅力もさることながら、きわめて絵的に美しい映画です。 1962年のカルフォルニアが舞台であり、主要なストーリーとは別に、なんというべきか、クラシックカーのかっこよさ。そして、それが町中を走るシーン、これだけでうっとりしてしまう美麗さに富んでいるのがこの映画です。

ジョージ・ルーカスをはじめ、こういった大監督というのは、ストーリの運び方に無駄がなく、そして絵的にも、光と影の使い方、光の当て方、映画の専門用語でいうと、明度と暗度のバランスがきわめて素晴らしく、画面的に見ても、めちゃくちゃカッコいいんです。映像監督だから当たり前といったら当たり前なんでしょう。

仮に、音楽という表現方法が、音でひとつの独自世界を構築すると措定するなら、一方、映画というのは、映像でひとつの独自世界を築き上げられるか、その辺りが、作品の出来不出来というのを左右するのかなと勝手に思っています。正直なところ、私は、映画はそんなに詳しくないんですけれども、眺めているだけでうっとりなってしまう、なんともいいがたいような絵的な魅力のあふれる映画というのは、「アメリカン・グラフィティ」、もうひとつ、西ドイツ映画の「バグダッド・カフェ」くらいでした。まあ、もちろん、他にも探せば沢山あるんでしょう。 

 

 

 

そして、このアメリカン・グラフィティは、ストーリ性、画面的な美しさ、この映画の3つ目の柱、土台を形作る礎ともなっているのが、この映画全編で一貫して流れているオールディーズというジャンルのロックミュージックです。

オールディーズという音楽のジャンルは、50〜60年代に流行ったロック・ミュージックの形で、ギター、ドラム、ベースという器楽編成に加え、いわゆるアカペラ、ドゥワップタイプの複数の混声のロックミュージックのジャンル。 チャック・ベリー風のスタンダードなロックナンバーから、ビーチボーイズの奏でるような甘ずっぱさのあるメロウなサーフロックまで多種多様です。

ビートルズや、ストーンズも、最初期のアルバムで、一度はこのあたりのドゥワップ的な風味のある楽曲を通過した後に、めいめいオリジナリティあふれるポップソングを生み出していきました。そのバンドもそういった意味では、始めは真似事から始まって、それから自分なりのスタイルを追求、のちになにかを発見していくわけです。

どうやらこのオールディーズという総体の呼称は、後になってからつけられたらしいですが、この辺りの音楽というのは、ロック、ブルース、R&B,ジャズ、コーラス、そういったニュアンスがごちゃまぜになっていて、白人も黒人もこぞって同じ音楽を目指していた数奇なジャンルのひとつ。この五、六十年時代という世界がこれから発展していく様相を映し出していて、明日の希望に夢を抱くような音楽家の感情がよく反映されています。

つまり、ある時代の雰囲気をあらわす鏡ともなりうるのが音楽のジャンルの流行であり、やはり、良い時代には明るい音楽が多く、悪い時代にはどことなく暗鬱な印象の曲が多くなるのかもしれません。それは作曲者の心の反映が音楽だからでしょう。全般的に、希望の満ち溢れる時代には、明るい音楽が流行し、絶望の多い時代は、暗い音楽が流行する。そんなふうにいっても暴論とはいえないかもしれません。

とにかく、今ではこういったスタイルの楽曲はなかなか見られず探すのが難しいタイプの楽曲が多いです。オールディーズというのは、それほど音楽的に高尚でもなければ、崇高でもないのに、なにか時折、無性に聞きたくなってしまう。反面、その楽曲の雰囲気から味わえる心の共鳴は、その音楽の質にかかわらず、非常に高尚であり、崇高となりえるでしょうし、上質で贅沢な時間を聞き手に与えてくれます。音楽自体の価値云々というのは、古典音楽とさほど変わらないはずです。

このアメリカン・グラフィティのサウンドトラックに収録されている楽曲は、そのほとんどが珠玉の宝石、つまり、ロックミュージックの歴史資料館というふうにっても過言ではなく、Bill haleyのロック音楽の金字塔、ロックアラウンドクロックからもガツンとやられること必至、クリケッツVer,のI'll be the dayのまったり感もいいですし、ビーチボーイズのサーフィン・サファリ、チャック・ベリーのオールモストグロウンもピアノのフレージングが渋く、良い味を出しています。

そして、ストーリの移行とともにサウンドトラックの楽曲の雰囲気も変わっていくのが興味深い所。なんといっても、ファイヴセインツの「To The Aisle」、スカイライナーズの「Since I Don't Have You」辺りのバラードソングの美しさは、甘く切ない若者たちの青春の雰囲気を上手く醸し出しています。

そして、物語の最後の方に進んでいくにつれ、このサウンドトラックも様変わりし、クリケッツのHeart and Soulをはじめ、収録曲の最初のトラックに比べるとメロウな印象のある楽曲が多くなってきます。

 

このあたりの選曲のセンスの良さというのは他の映画と比べても抜群です。最終盤のトラックはもうほとんどロックの王道をいかんとばかりで圧巻。

ブッカーTのグリーン・オニオンの激渋のロックも今聞くとむしろ新鮮みすら感じられ、また映画のクライマックスを彩るプラターズのオンリー・ユーのベタ感もむしろ愛くるしい。

そして、エンディングを華々しく飾っているのが、スパニエルズの「Goodnight, Sweetheart Goodnight」そして、ビーチボーイズの屈指の名曲のひとつ「All Summer Long」。このあたりはもう甘酸っぱすぎて切なくなり、胸がキュンキュンしっぱなしになることはまず間違いありません。

エンドロールに選ばれたビーチボーイズの楽曲は、アメリカの最も華々しい時代を象徴しているようで、他の年代のロックミュージックにはない青春時代のみずみずしさがあざやかに刻印されているような気がします。