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 Weekly Recommendation


Lana Del Rey 『Did You Know That There's a Tunnel Under Ocean Blvd』

 






 

Label: Polydor/Interscope

Relasee Date: 2023/3/24

 

 

Review

 

現在のミュージックシーンを見るかぎり、米国のシンガーソングライターには、古き良き時代のアプローチを取るグループがいる。今回、ラナ・デル・レイが「Let The Light In」で起用したFather John Misty、また昨年傑作を世に送り出したエンジェル・オルセンも同様といえるだろうか。


これまでの作風と比べ、ラナ・デル・レイも今作においてまたこれらの米国文化の古き良き時代にスポットライトを当てている。それはジュディー・ガーランドへの憧憬を込めたアルバムのアートワークにもよく表れている。ただ、今回のラナ・デル・レイの音楽性の変更は、懐古的な音楽に加えて、ヒップホップを始めとする新しい音楽性を取り入れた内容となっている。そして何より、歌手自身が自認するようにサッドコアの悲しみが音楽全体に感じられる。それはある意味では同じような悲哀を内面に抱える人々の心に一筋の光を投げかけるような内容になっている。

 

オープニングトラック「The Grant」では、ゴスペルを思わせるイントロからダイナミックなバラードソングへと移行する。ある意味で、こういった大掛かりなバラードを書き、それを臆することなくさらりと歌い上げるようになったのは、このシンガーソングライターの大きな進化を表しているともいえる。さらにこのアーティスト特有の天使的なコーラスがこれらの悲しみと哀愁を兼ね備えたトラックの中に救いをもたらす。シンガーとしての迫力は十分で、言葉を温かくつつみこむようにして歌い上げる表現力の豊かさも以前よりも素晴らしいものとなっている。

 

前曲と同様に先行曲として公開された『Did You Know That There's a Tunnel Under Ocean Blvd』は前作アルバムのケムトレイルの次にある隠された真実(!?)への言及がなされた一曲である。そして、楽曲自体は一曲目の雰囲気を受け継いだダイナミックなバラードソングとなっている。それに加え、ほんのりとではあるが、ラナ・デル・レイらしいインディーロック性もいくらか加味されている。何か悩ましく歌い上げるシンガーの姿に共感を見出すリスナーも少なくないはずだ。曲のクライマックスにかけては、ラナ・デル・レイらしいアンセミックなコーラスにゴスペルの雰囲気が加味されることによって、再び祝祭的な雰囲気が広がっていくのである。

 

同じく先行シングルとして公開された「A&W」も聴き逃がせないナンバーである。ここではアーティストの重要なルーツであるサッド・コアをオルタナティヴ・ロックと融合させたナンバーを聴くことが出来る。捉え方によっては、ニューヨークのMitskiがそうであるように、スターシンガーと称されることを疎んじ、あえてインディー・ロックの女王の座にとどまろうという声明にも思える。ここでもオープニングの二曲と同じように、何かなやましげな雰囲気を混じえつつ、呟くように歌うラナ・デル・レイの世界観が流麗に展開されていく。このアルバムの内側に満ちた現実的とも空想的ともつかない曖昧な世界観はより、聞き手を困惑させると同時に、ミステリアスな印象をもたらすことだろう。よくわからないという感じがこの歌手の最大の魅力なのであり、その点はむしろ既存のアルバムより強化されている部分もあるかもしれない。


世界のスターシンガー、ジョン・バティステを招いた「CandyNeckless」は、ラナ・デル・レイの幼少期の悲哀や憂鬱を物語のように織り交ぜた一曲である。たしかに、この曲は、子供のころのおとぎ話のように空想的であるが、その一方で、なにかゾッとするような暗示も込められている。それはまた少女時代の少し背伸びをしたような考えがその後の時代にかけてどのように変化していくのかを、あらためて現在のアーティストの視点から捉え直したような曲である。たしかに商業性を意識しているが、シンプルなバラードからジョン・バティステのコーラスが加わることにより、曲の後半では雰囲気ががらりと変化し、一挙に渋さのあるソウルミュージックへと変身を遂げる。


前半部では、シンプルさとミステリアスな感じが多くのリスナーに好印象を与えると思われるが、アバンギャルドな仕掛けがアルバムにはいくつか用意されている。「Interlude」では、ラナ・デル・レイの笑い声と対比するように、少女(ラナ・デル・レイ)を恐れさせるような神父の声がひとつの音の物語を綴る。単なる憶測にすぎないが、これは少女時代のアーティストのキリスト教の文化に対する恐怖、その目から見てあまりにも大きすぎる父性的な権力に対するラナ・デル・レイのささやかな女性的な告発となっているように思える。そこには、何らかの恐れがあり、なにか大きな存在に対する怯えが込められている。よく聴き込むと、アルバムの全体の中にあって重要なポイントを形成し、さらに大きな機能を果たしていることがわかる。

 

続く、「Kintsugi」は、前曲とは打って変わって、現代のアーティストの姿、いや、もしかするとそれよりも老獪な人物の姿でささやかなバラードソングが歌われる。一見、いくらか派手さにかけるように思えるこのナンバーで、再び、前曲の心の傷のようなものを包み込むかのように、デル・レイは温かく歌をうたう。以前に比べて、ソウルの影響を加味したボーカルは以前のアーティストの作風にはあまりなかった要素といえ、これは好き嫌いが分かれるかもしれないが、ある側面ではアーティストの内面的変遷を涼やかなバラードソングとして書き留めておいたとも取れる。それは作家における日記のような役割を果たし、これまでアーティストの作品をたどってきたリスナーに、それらの記憶と現在の出来事を呼び覚ますような機能を果たすのである。

 

一番このアルバムで心惹かれる曲が「Paris,Texas」である。ここでは、アイスランドのポスト・クラシカル/モダン・クラシカルのアーティストが書くようなピアノの伴奏に併せて、ラナ・デル・レイはお馴染みの少し囁くようなボーカルを歌う。このアルバムの中では、最もつかみやすい一曲で、ファンタジックな要素は、実際にこの曲全体をミュージカルの一幕のように見立て、深遠な森の中に迷い込むかのような静寂と孤独を表現している。しかし、他の曲に比べると、それほどシリアスにはならず、 神秘的なポピュラー・ソングとして楽しむことができる。

 

もし、アルバムがこの曲か次の曲で終われば、この作品は良作以上のものとなった可能性もあるが、正直なところ、終盤のトラックが少しだけ冗長な印象を与えかねない。「Grandfather~」はビートルズとディズニー音楽の融合のような雰囲気があり、夢があって素晴らしいが、その後のコラボレーションの経験がある盟友ジョン・ミスティとデュエットは残念ながら前半部の前衛的な雰囲気を損ねる結果となった。懐古的なフォーク・ミュージックの影響は、ジョン・ミスティの前作の主題を持ち込んだと言えるが、それが作品全体の印象を曇らせているように思える。「Margret」の後に続く展開は、同じような曲が続く印象があり、新たな局面が提示されたとは言いがたい。部分的に、ボーナストラックのような印象を与えかねないのが少しだけ惜しまれる点である。



86/100

Unknown Mortal Orchestra 『V』/  Weekly Recommendaiton


 

Label: jagujaguwar

Release Date: 2023/3/17




ルーバン・ニールソン率いるUMOことアンノウン・モータル・オーケストラは、既存作品において、ローファイ、サイケ、ファンク、ディスコ・ポップ、ソウル、多様な音楽性を探求して来た。ニュージーランドとハワイのオワフ島にルーツを持つニールソンは、『V』で自分自身のポリネシア人としてのルーツを辿るとともに、そして、これまでで最も刺激的な作風を確立している。

 

最初のシングル「This Life」から二年が経ち、ようやくUMOのアルバムが完成し、多くのリスナーの手元に届いた。この作品は満を持してリリースされたという気もするし、UMOのキャリアの最高峰に位置づけられる作品である。ボーカル/ギタリストであるルーバン・ニールソンの歌声の変化、そして、バンドそのものの音楽性の転換に気がついたリスナーもいるかもしれない。以前は、Ariel Pinkとならんで、コアなサイケ/ローファイの音楽性を『Ⅱ』で確立したUMOであったが、サイケ/ローファイの要素は、確かに今作『V』にも、目に見えるような形で引き継がれているものの、しかしながら、このアルバムの魅力はそれだけにとどまらない。今作はロックミュージックとして、例えば、ビートルズのような古典的なロック、ザ・ポリスのようなニューウェイブの影響を受けたポップスの後継的な作品としてもお楽しみいただけるはずである。

 

先日、米国の偉大なシンガーソングライター、ボビー・コールドウェルが亡くなったことをご存知の方も少なくないかもしれない。そしてなんの因果か、アンノウン・モータル・オーケストラの『V』の作品の核心にあるのは、(以前のようなサイケ/ローファイ、チルアウトの要素もあるにせよ)間違いなく、コールドウェルに象徴される70/80年代のAOR/ソフト・ロックというジャンでもあるのだ。私見に過ぎないが、このジャンルは、その時代のR&Bやダンスフロアのミラーボールに象徴されるディスコ・ファンクに触発された口当たりのよいポップス/ロックがテーマの内郭に置かれていた。無論、この時代に活躍したコールドウェルとともに、ボズ・スキャッグスの爽やかなロック/ポップスがルパーン・ニールソンの脳裏にはよぎったはずである。そして、それらが以前のファンクやサイケロックの要素と、かれのルーツであるポリネシアのトロピカルな要素が融合し、新鮮なロック・ミュージックが生み出されることになったのである。

 

本作『V』では、バンドのアンサンブル/ソングライティングにおいて磨きに磨きを掛けた珠玉のロックミュージックが徹頭徹尾貫かれている。


ファズを取り入れたエレクトリック・ピアノ、フィルターを掛けたドラム、そして、渋いビンテージ・ソウルに触発されたルバーン・ニールソンのボーカルの融合は、全体に強固な印象をもたらしている。バンドは、オープニングを飾る「The Garden」において、ファンクとソウルをローファイと融合させている。六分にも及ぶループフレーズに全然飽きが来ないのは、ファンクのシンコペーションによるハネが重厚なグルーブ感を与えるとともに、バンドの情熱がこのトラックに全面的に注がれているからである。

 

アルバム発売直前に公開された「Messugah」は、先にも述べたように、ボズ・スキャッグスやボビー・コールドウェルの時代のAORの核心にある音楽性を捉え、それらをワウを用いたサイケデリック・ロック風のトラックとして昇華している。ダンサンブルな要素とポリネシア的なトロピカル性が劇的に融合し、チルアルトとローファイの中間を行く軽快なトラックがここに生み出されている。しかし、この曲の核心にあるのは、70/80年代のディスコ・ファンクやソフト・ロックの爽やかさとグルーブ感であり、それらの要素が意外なコード進行と絡み合い異質なグルーブをもたらす。

 

#3「The Window」は、これまでのUMOにはあまり見られなかったような珍らかな作風となっている。この曲は、フュージョン・ジャズやボサノバを始めとする他地域の音楽の影響が大きく、シティ・ポップに近い作風である。加えて、ファンクと変則的なリズムを融合させることにより、 ジャズ・インストゥルメンタル調の作風に仕上げている。スタイリッシュではあるが、ダンサンブルな要素を失うことのない鮮かな印象は、アルバムに強いアクセントをもたらしている。


2021年の初公開からおよそ二年を経た「That Life」は、シンプルなローファイソングではあるものの、再度聞き直してもいまだなお当時の鮮烈さを失っていない。可愛らしいセサミストリート風の人形が踊るミュージック・ビデオは、UMOの音楽がそれほど難しいわけでもスノビズムに堕するわけでもなく、一般的なリスナーの心に温かく響くものであることを象徴づけている。


「That Life」



その後も、アンノウン・モータル・オーケストラは一貫してハイレベルの音楽をやってのける。#7「Layla」では、70/80年代のソフト・ロックの影響を受け継いだ、ネオ・ソフト・ロックを楽しむことができる。#8「Shin Ramyun」では、ビートルズのアート・ロック、『Hotel California」のイーグルスの音楽をローファイ/チルアウトとして昇華している。内省的な哀愁渦巻くアンノウン・モータル・オーケストラの世界を堪能出来るインストゥルメンタルとなっている。

 

#9「Weekend Run」では、前曲「Shin Ramyun」のギターリフのテーマを反転させたフレーズが象徴的だ。ディスコ時代のボーカルのフレーズとボズ・スキャッグス風の軽妙なロックを融合させ、ファンクの裏拍を強調するダンサンブルなビートを込め、終盤における展開を力強く引っ張っていく。

 

さらに、#10「The Beach」は、マイケル・ジャクソンのJackson 5の象徴的なファンクとR&Bを織り交ぜた痛快なトラックである。ここでUMOは、それ以前の曲と同様、音源ではありながらダンサンブルな空間を提供し、聞き手を往年のミラーボール全盛時代のダンスフロアの幻想的な空間へと誘う。特に、シンコペーションを多用した独特な変拍子のリズムに注目しておきたい。


その後の展開も劇的で、終わりまでスリリングさを片時も失うことはない。


「Nadja」は「The Garden」と呼応するトラックで、ソングライター、ルーバン・ニールソンの恋愛の切ない気持ちが内省的なローファイソングに込められている。それほどしんみりした曲調ではないにも関わらず、ボーカルの切ない雰囲気はメロウな気分を呼び覚ますことだろう。

 

アンビエントに近い抽象的な音楽に挑戦した「Keaukaha」も良い流れを作り、クック船長をテーマにする「I Killed Captain Cook」は、オワフ島のハワイアン・ミュージックの伝統を受け継ぎ、青い海と清々しい砂浜を印象づける曲として楽しめる。さらに「Drag」でも、ハワイミュージックの影響を反映させている。



88/100



Weekend Featured Track「The Beach」

 

 



 

カリフォルニア州パームスプリングスの乾いたフリーウェイとハワイ州ヒロの緑豊かな海岸線の間で作られたVは、Unknown Mortal Orchestraの決定的なレコードとなる。


ハワイとニュージーランドのアーティスト、ルバン・ニールソンが率いるVは、西海岸のAOR、クラシック・ヒット、風変わりなポップス、ハワイのハパ・ホーレ音楽の豊かな伝統からインスピレーションを得ている。


UMOにするために最も鋭い耳を持つルーバン・ニールソンは、手つかずの表面の下に潜む闇に決して目を背けることなく、青い空、ビーチサイドのカクテルバー、ホテルのプールをリスナーの脳裏に呼び起こす。


Vへの道は、そもそも、2019年4月、UMOがコーチェラ出演のため、カリフォルニア州インディオに向かったことから始まった。


その2週間のため、ルーバンは近くのパームスプリングスにAirbnbを予約し、家族も一緒に連れてきた。彼はパフォーマンスの合間に、砂漠のリゾート地のヤシの木が並ぶ通りを見ると、芸能人の両親が太平洋や東アジアのショーバンドに出演している間、兄弟と白いホテルのプールサイドで遊んでいた子供時代を思い出すことに気づいた。


1年後、COVID-19の大流行が目前に迫る中、ニールソンは再び、パームスプリングスのことを考えるようになった。ポートランドの自宅に閉じこもることも考えたが、パームスプリングスに家を購入する。10年間ツアーを続けてきたルーバンは、健康上の問題や燃え尽き症候群に対処しなければならないことを理解していた。


アメリカがロックダウンする中、彼は強制的なダウンタイムを過ごすことになった。さらにヤシの木の下で、彼は内省する空間を得た。そして、音楽が与えてくれたライフスタイルに感謝の念を抱いた。暖かく乾燥した気候は、長年患っていた喘息の問題を解決し、以前にも増して歌がうまくなり、自宅のスタジオで新しい歌が溢れ出すようになった。


3枚目のアルバム『Multi-Love』を録音したとき、ニールソンは最初の2枚のアルバムのローファイなファンクロックのドリームスケープに、ディスコの要素を取り入れた。


「ディスコはクソだ」というスローガンが気軽に飛び交うパンク出身の彼は、その台本をひっくり返すことに喜びを感じていた。Vでは、「Meshuggah」の乾いたディスコ・ファンクに、この衝動の一端を見出すことができる。「音楽の好みには、構築的なものと本能的なものの2種類がある」とルーバンは言う。


「影響力としての味覚は、芸術にとって危険だと私は思う。それから、背筋がゾクゾクするような音楽もある。その震えは、あなたが望んだわけではない。たまたまそうなっただけなんだよ」


パンデミックの初期、ルーバンの弟のコーディがニュージーランドからパームスプリングスに飛んできて、彼のレコーディングを手伝ってくれたことがあったという。背筋が凍るような感動を覚えたレコードの話をしたとき、ルーバンは、両親がエンターテイナーとして働いているとき、子供のころに聞いた、70年代のAMラジオのロックや80年代のポップスのことをふと思い浮かべはじめるようになる。ニールソンはそれらのレコードの自分バージョンを書きたいと思った。その着想は2021年にリリースした2枚の輝かしいアップテンポなシングル「Weekend Run」と「That Life」で結実した。


しかし、黄金のような楽しい時間は、決して永遠には続かなかった。


ハワイの叔父の一人が健康問題に悩まされるようになり、ルーバンは、より鋭く鋭い死が迫っている感覚に直面することに。そこで、ルバンは、レコードのことはさておき、母親ともう一人の兄弟をニュージーランドとポートランドからハワイに呼び寄せ、一緒に暮らすことにした。それが落ち着いた頃、ようやくルーバンはパームスプリングスとハワイ島北東部のヒロの間を行き来するようになった。


パームスプリングスとのつながりは、幼いころの思い出を呼び起こすことにあるのだという。ルーバンにとって、ハワイは同じような意味を持つが、それはまた両親のライフスタイルの暗黒面を思い出させる色あせた記憶でもある。ハワイの旅では、コディと話したAMラジオのロックの名盤をあちこちで聴いた。ヤシの木やプール、華やかな享楽主義など、彼が子供の頃から内面化していたものと、表裏一体となっていた。


ハワイには、ハパハオレ(半白)という音楽がある。Vの最後を飾る曲「I Killed Captain Cook」の湿度の高いギターを中心とした雰囲気から、UMOの特徴的なスタイルで表現されているのを聞くことができる。曲は、ハワイの伝統的な手法で表現され、多くは英語で歌われている。UMOのファーストアルバムからハワイアンミュージックに影響を受けてきたルーバンは、遂にその伝統に自分の居場所を見出した。自分の成功を振り返った時、自分にはハパハオレ音楽を世界的な舞台で表現する責任とプラットフォームがあることに気づいたのだ。


ハワイのいとこの結婚式でコディと再会した後、兄弟はパームスプリングスに向かった。そこで、父親のクリス・ニールソン(サックス/フルート)とUMOの長年のメンバーであるジェイク・ポートレイトの協力を得て、14曲のシンガロング・アンセム、シネマティック・インストルメンタル、お茶目なポップソングを通して、ルーバンが熟考していたすべてを結集し、Vを組み上げていった。「ハワイでは、私や私の音楽から、すべてがシフトしていきました」と彼は回想している。


「突然、私は他の人が何を必要としているのか、家族の中で自分の役割は何なのかを考えることに多くの時間を費やすようになりました。それにまた、自分では真実だと思っていたことが、思っていたよりも大きなものであることも知りました。


私のちょっとしたいたずらの仕方は、私だけのものではなくて、ポリネシア人としての側面がある。しばらく家族のことに集中するために音楽から離れると思ったけど、結局のところ、この二つはつながったんだ」


Miley Cyrus 『Endless Summer Vacation』 

 

 

Label: Columbia/Sony Music Entertainment

Release: 2023 3/10




マイリー・サイラスは歌手として大成功を収めたメガスターとも言え、さらに人気ドラマにも出演し、歌手、俳優として活躍するテネシー州出身のシンガー。ソロキャリアの売り上げは2000万枚超。シングルセールスは2億枚を誇る。また、俳優としても活躍目覚ましく、社会現象となったドラマ「ハンナ・モンタナ」にも出演したことで知られる。


2008年には『タイム』誌の最も影響力のある100人の内の一人、『ピープル』誌の最も美しい100人の内の一人に選ばれ、フォーブズ誌の有名人100では2,500万ドルを獲得し、35位だった。まさに、スターになるために生まれてきた人物といえますが、それでは、現地の主要メディアはこのシンガーについてどう見ているのでしょう? 


ローリング・ストーンのサイラスの賞賛記事「Miley’s Whole Career Has Been Building to This Moment」には次のように書かれています。


マイリー・サイラスのファンとして、なんという瞬間だろう。「Flowers」は、単なるサプライズ・カムバック・ヒットではなく、マイライズムの勝利である。タブロイド・スキャンダルやエレクトロ・スリーゼが渦巻く『Bangerz』時代の「Wrecking Ball」以来、10年ぶりのナンバーワン・ヒットとなった。


しかし、今、彼女はついに、ずっとなりたかったオールドスクールな大人の伝説へと変貌を遂げた。土曜日にリリースされる離婚後のアルバム『Endless Summer Vacation』のリード・シングル「Flowers」は、ハンナ・モンタナから世界的な大人への旅の集大成となる。この瞬間は現代のポップス界で最も長く、最も奇妙な物語の1つの頂点にあるチェリーである。


マイリーはまだ30歳ではあるが、すでに20年近くメガフェイマスアーティストとして活躍している。彼女は、普通のアメリカ人女性としての秘密の生活を持つ架空のポップスターを演じるディズニーのモペットとしてスタート。ハンナ・モンタナは、アイデンティティの面では楽しい鏡の家だ。彼女の父親は、実の父親である「Achy Breaky Heart」のビリー・レイ・サイラスが演じており、彼はすでにデヴィッド・リンチの映画の悪夢のシーンで自分を演じていた。


15年前の最初のトップ10ヒット「シー・ユー・アゲイン」でも、マイリーは自分の人格の危機を歌っている。サビのフックは「親友のレスリーは、『ああ、彼女はマイリーのままなんだ!』と歌っている。そして、以来、多くの変身を経て、常にマイリーであり続けている。最近、彼女は「あなたは私がトワークでマリファナを吸い、口の悪いヒルビリーだと言うことができますが、私は嘘つきではありませんから」とも打ち明けている。


「Flowers」がサイラスの最大のヒット曲となったのは、彼女にとって最もリアルであり、離婚後に再出発し、自分を愛することを学ぶための痛烈な頌歌だからである。彼女は「自分に花を買うことができる」という誓いで元彼に別れを告げた。元夫のリアム・ヘムズワースとの繋がりは誰にでもわかることで、10年連れ添った2人の結婚は1年足らずで終わり、2019年に燃え尽きた。

 

彼女は、"We were right till we weren't/Built a home and watched it burn "という言葉で、マリブ(カルフォルニア)の家が炎上するのを見た実体験を歌い上げている。また、2020年のカバーストーリーでローリング・ストーン誌のブリタニー・スパノスに語っている。「この火事は自分ではできなかったことをやってくれたのです。もはや目的を果たさないものから私を取り除いてくれたんです」



歌手、俳優として注目を受けた後、結婚生活のあっけない終焉、悲劇的なカルフォルニアのマリブの自宅の火事、こういった一連のゴシップに関連する出来事は、もちろんすべてがそうではないにしても、マイリー・サイラスに前進する勇気を与えたのではないでしょうか。そして世間的な幸福や成功というものが幻想のようにいかにいかに儚いものであるか気づかせたのかもしれない。

 

『Endless Summer Vacation』はマライア・キャリーの全盛期を彷彿とさせる米国らしさのあるポピュラー・ミュージックとなっている。それは近年の米国のポップスの文脈から見てもそれほどかけ離れた内容とはいいがたいものがある。アルバムには、ポップス、シンセポップ、R&B,南米的な情熱を交えた痛快なポピュラーアルバムとなっているが、そこには、マイリー・サイラスの表面的な華美さに加え、純粋で素朴な性質も感じられます。

 

『Endless Summer Vacation』の発売前には、オリジナルとデモの2つのバージョンを併録する「Flower」だけしか公開されなかった。これは興行の面で大きな効果を生むためのコロンビア・レコードの奇策の一つと言え、当日まで、アルバムの内容をミステリアスなベールで覆うことにより、発売時の音楽の印象を際立たせようとしたのです。

  

すでに、かなりの賛否両論を巻き起こしている作品ですが、年代を問わず楽しめるアルバムとなっています。少なくとも、哀愁と情熱を織り交ぜた「Flowers」や、それ続く、繊細さとダイナミックス性を兼ね備えた「Jaded」の2つの王道のポピュラー・ソングにおいて、サイラスは歌手としての抜群の安定力を見せ、華美さにとらわれない音楽を通じ、安らぎと晴れやかさを与えてくれる。これはサイラスなるシンガーの歌が類い稀な存在感を持ち、さらにオーディエンスを聴き入らせる情感の深さを持ち合わせていることを証左しているように思える。 

 

「Flowers」 

 

 

マイリー・サイラスの音楽性は、マライア・キャリーの時代のポピュラーソング、プリンスの時代の華やかなシンセポップ、スタックス・レコードの時代のR&B,少し前の時代のエイミー・ワインハウス、最近のリアーナを彷彿とさせるソウルフルなポピュラーソング、最新のトレンドのラップソング、その他にも、彼女の重要なルーツであるテネシーのカントリーミュージックが織り交ぜられています。


それらの要素が一つ前に出たかと思えば、別の曲では他の要素が前に出たりと、柔軟かつ流動的な役割を果たしている。どの音楽の影響が色濃く反映されているかまでは明言できませんが、アーティストが慣れ親しんできた音楽文化がナチュラルな形で曲に表れ出ている。これは、先にも述べたように、複数のプライベートの困難な出来事を通じ、現実的な出来事の中にある虚栄というものの寂しさや侘しさをアーティスト自身が感じとったからなのかもしれません。

 

これらの感覚は、派手なシンセを交えたダンサンブルなポピュラーミュージックの渦中にあって、哀愁と称するべき抒情性によって縁取られている。このブルージーな感覚が色濃く反映されたのが「You」となるでしょう。  


「You」

 


 往年の米国らしいバラードソングのスタイルを踏襲し、アーティストのルーツであるテネシーのカントリーとスタックス・レコードのR&Bのワイルドな雰囲気を交えたこのトラックは、新しいとも古いともつかない時代を超越したバラードとなっている。また、これは他のどの地域にも求められない特性で、アーティストの故郷テネシーへの淡い郷愁が表されている。サイラスのハスキーな渋いボーカルは開放感にあふれており、米国の広大で豊かな土地へのロマンを思わせる素晴らしい楽曲となっています。

 

さらに、天文学的なストリーミング回数記の記録を打ち立てた「Flowers」、美しさと圧巻の迫力を兼ね備えるバラードソング「You」の2曲に加えて、終盤に収録されている「Wonder Woman」も同じく、アーティストの代表的なレパートリーとなってもおかしくないようなトラックです。表面的なキャラクター性を越えた作品のクライマックスを飾る、繊細さと純粋さを兼ね備えたこのダイナミックな名曲には、表側には見えないスターシンガーの飾らない姿が垣間見える。特に、歌手の真の実力が試される簡素なバラードソング「Wonder Woman」において、マイリー・サイラスは、均一化されたデジタルレコーディングであるにも関わらず、自らの歌唱力と声量によって他を圧倒するような存在感を示しています。




 92/100 



Weekend Featured Track 「Wonder Woman」


Sleaford Mods 『UK Grim』



Label: Rough Trade

Release Date: 2023年3月10日



Review 

 

ノッティンガムのジェイソン・ウィリアムソンとアンドリュー・ファーンのポスト・パンクデュオ、スリーフォード・モッズは2005年に立ち上げられたが、当初はウィリアムソンのソロ・プロジェクトとして出発した。

 

スリーフォード・モッズは、2009年までに三作のフルアルバムとEPをリリースした。まだこの時代にはスポークンワードとグライムの融合という現在の持ち味が出ていなかった。この状況を変えたのが、相方であるアンドリュー・ファーンだった。彼はUKのアンダーグランドシーンでDJをしており、2010年10月に、2人は出会ったのである。このとき、両者は、「All That Glue」という曲を書いて、翌年に共にデュオとして活動するようになった。スリーフォード・モッズがプロミュージシャンとして独り立ちしたのは、2014年のことであり、グラスゴーでスカオリジナルバンド、ザ・スペシャルズのサポートを務めたとき。その後、英国に対する風刺を効かせたスポークンワード、UKのダンスフロア出身者らしいコアなグライムを制作するアンドリュー・ファーンのクールなトラックメイクが彼らの代名詞となった。彼らがザ・スペシャルズのサポートを務めた後、ミュージシャンとして独立したのは偶然ではあるまい。先日亡くなったテリー・ホールがそうであったように、デュオは労働者階級のヒーローともいうべき存在なのである。

 

現在、フロントマンのウィリアムソンさんは50歳を過ぎている。しかし、年齢からにじみ出る含蓄溢れるブレクジットや政権に対するシニカルな風刺という要素は、他のどのバンドにも求められないデュオの最高の魅力と言えるかもしれない。昨年、ラフ・トレードから発売された『Spare Ribs』もスポークンワードとポスト・パンクを融合させた快作だったが、昨日発売となった新作『UK Grim』もスリフォード・モッズの持ち味が十分引き出された快作となっている。いや、もしかすると、政治風刺の鋭さについては前作を上回るものがあるかもしれない。


先行曲として公開された「UK Grim」は、グリム童話のように、可愛らしくも不気味なイラストレーションのMVが特徴的だ。ジェイソン・ウィリアムソンは、ボリス・ジョンソン政権に対する暗示的な批判を加え、貴族たちに民衆が搾取されていることをほのめかしている。これらは英国政府の停滞を肌で感じる人々に痛快な印象を与えるはずだ。そして、デュオの代名詞である、ごつごつした鋭いポストパンクに根ざしたアンドリュー・ファーンのトラックメイク、お馴染みのジェイソン・ウィリアムソンのシニカルでウィットに富んだスポークンワードが刺激的な融合を果たしている。イントロダクションは戦闘機のエンジン音のように不気味な印象をもたらす。


その他、2ndシングルとして公開された「Force 10 from Navarone」では、2022年、4ADから『Stumpwork』を発売したイギリスのポスト・パンクバンド、Dry Cleaningのボーカリスト、フローレンス・ショーとコラボレーションを実現させている。これは表向きには、異色のコラボとも思えるかもしれないが、他方、両者とも知的なスポークンワードの要素を兼ね備えるという点では理にかなった共演と言える。情熱的なウィリアムソンのボーカルとショーのクールなボーカルという両極端の掛け合いは、スリーフォード・モッズの音楽に新鮮味をもたらしている。

 

さらに、3rdシングルとして公開された「So Trendy」には、Jane's Addiction(ジェーンズ・アディクション)のペリー・ファレルが参加した。ペリー・ファレルがデュオのファンで、彼の方から連絡をとったという。

 

このコラボレーションが面白いのは、USオルタナティヴの代名詞的な存在であるファレルは、痛快なコーラスワークによって、自身の音楽性の重要なアイコンであるヘヴィネスというより、オレンジ・カウンティのポップ・パンクのような明るい影響をこの曲に及ぼしていることだ。また、このトラックは今までのスリーフォード・モッズの楽曲の中で最も軽快さと明朗さを感じさせる内容となっている。他にも、前作『Spare Ribs』に収録されていた「Out There」の音楽性の延長線上にある「I Claudius」は、アシッド・ハウスとUKグライムを融合させたクラブミュージックで、アンドリュー・ファーンのセンス抜群のトラックメイクを堪能することが出来る。


前作に比べ、ウィリアムソンのスポークンワードは、アジテーションが少し薄まってしまったようにも思えるかもしれないが、依然として、昨年、トム・ヨークがサウンドトラックを担当したBBCのドラマ『ピーキー・ブラインダース』の終盤のエピソードに”ラザロ役”として出演したウィリムソンの醍醐味ーー怒りを内に秘めたスポークンワードーーの存在感は「Pit 2 Pit」に顕著に表れ出ている。さらに以前から自宅でのTikTok形式のダンスの動画をTwitterで公開しているミュージシャンらしいユニークさと遊び心も、本作の随所に見出すことが出来るはずだ。

 

 

86/100

 

 

Featured Track「So Trendy」

 Weekly Recommendation


Yazmin Lacey 『Voice Notes』 

 



Label: Own Your Own/Believe

Release Date: 2023年3月3日

 

  

 

 「決して遅くはないが、今やっているという観点では遅い」と語るように、ヤスミン・レイシーは遅咲きのミュージシャンで、さらに音楽活動を開始するのも人よりも遅かったという。


 彼女は音楽シーンに身を置いている間ーー自分の人生の部分のスナップショットのような瞬間ーーをとらえ、歌にするための練習として音楽を制作してきました。


 デビュー・アルバム『Voice Notes』もまた、ヤスミン・レイシーの人生の瞬間をとらえた重要な記録となる。Black Moon(2017年)、When The Sun Dips 90 Degrees(2018年)、Morning Matters(2020年)という3枚の素晴らしいEPに続く本作は3部作の一つに位置づけられますが、それらが書かれたテーマに沿ってタイトルが付けられたという。


 『Voice Notes』は、アルバムが誕生するきっかけとなったあるツールからインスピレーションを受けている。音楽制作の長年のツールであり、コラボレーターとメロディーを共有する方法であるボイスノートは、彼女にとって特別なコミュニケーションの方法なのです。  


「私にとってボイスノートは、何かに対する即座の反応を表しています」と彼女は語っています。「濾過されていない、生の音を聞くことができるのです」


 Craigie Dodds、JD.REID、Melo-Zed、エグゼクティブプロデューサーのDave Okumuといったコラボレーターとともに、スタジオでのジャムセッションから生まれたこの作品は、"不完全さの美しさ"を意図的に捉えた録音になっています。レイシーは、洗練されたサウンドを出来るだけ避け、生々しさ、つまり、アルバムタイトルにもなっているように「誰かの間や立ち止まり、声のひび割れを聞く」チャンスを与えることを選んだのです。


 サウンド面でも、彼女はカテゴリーにとらわれず、様々なスタイルや影響を受けており、「自分自身を表現するさまざまな方法という点で、そこにはたくさんの異なるフレーバーがある」とレイシーは話しています。「私が聴いているもの、大好きな音楽、それを特定するのは難しいかもしれない。それはある意味、ソウルと呼べるかもしれない。なぜなら、それは私自身の魂から生まれたものだからです」


 ヤスミン・レイシーは、Evening Standard、The Guardian、BBC Radio 6 Musicから支持を獲得したにとどまらず、Questloveのようなファンを持ち、特に2020年のCOLORSに”On Your Own”という曲で出演しています。しかし、幅広い賞賛の他に、『Voice Notes』の主要なストーリーとなるのは人生の細かな目に見えない部分であり、レイシーがリスナーと共有することを選択した個人的な観察となっているのです。

 

 「私にとっては、自分の経験に対する反応なのです」とヤスミン・レイシーは語っています。「三作のEPを作ることは、音楽的にも人生的にも学んだことの次の章を形作ることになりました。そして、ここ数年で起こった多くのことを手放したかったんです。別れ、引っ越し、再出発、失敗、自分を見失うこと、自分を見つけること、大切なものをより広い視野でとらえることができるようになる・・・。そういった瞬間をとらえた経験こそが、不完全であっても前面に出てくるのです」   


 ヤスミン・レイシーは、人気DJ/Gilles Peterson(ジャイルズ・ピーターソン)が称賛するというネオ・ソウルシンガーで、最も注目しておきたいシンガーソングライターの一人です。


 イギリス国内でも今後、大きな人気を獲得しても不思議ではない実力派のシンガーです。『Voices Notes」は文字通り、アーティストが自分の声をメモとしてレコーディングし、それを綿密なR&Bとして再構築したデビュー作となる。ロンドンで生まれ、現在はノッティンガムに拠点をおいて活動を行うシンガーソングライターは三作のミニアルバムをリリースしていますが、今作ではその密度が全然異なることに多くのリスナーはお気づきになられるかもしれません。

 

 一般的に、R&Bシンガーは、これまでのブラックミュージックの歴史を見ても、同じようなタイプのシンガーを集めたグループか、もしくはソロアーティストとして活躍する事例が多かった。それはモータウンレコードや、サザン・ソウル、その後の時代のクインシー・ジョーンズなどディスコに近い時代、それ以後のビヨンセの時代も同様でしょう。しかし、ヤスミン・レイシーはソロアーティスト名義ではありながら、コラボレーターと協力し、新鮮なソウルミュージックを生み出しています。


 また、今作はソウルミュージックとして渋さを持ち合わせているだけでなく、そしてレイシーの音楽的なバックグランドの広範性を伺わせる内容となっています。表向きには、近年のエレクトロとR&B、そして現代のヒップホップを融合させた流行りのネオ・ソウル、そして、ジャズとエレクトロを融合させたニュー・ジャズの中間にある音楽性を多くのリスナーは捉えるかもしれません。しかし、このデビュー作を聞き進めるうち、それより古いモータウンサウンドや、サザン・ソウル、そして何と言っても、イギリスのクラブ・ミュージックの文化に根ざしたノーザン・ソウルの影響が色濃いことに気づく。これらの要素に加え、評論筋から”Warm& Fuzzy”と称される、深みがあり、メロウで温かいレイシーのボーカルが、奥深い豊潤なソウル・ミュージックの果てなき世界を秀逸なコラボレーターとともに綿密に構築していくわけです。

 

 近年のネオソウルのムーブメントのせいか、私自身はソウルミュージックの定義について揺らぐようなこともありました。本来のソウルの要素が薄れ、エレクトロやジャズやヒップホップの要素を根底に置くミュージシャンが最近増えてきて、厳密にはソウルとは言い難いアーティストもソウルとして言われるようになってきているからです。しかし、ヤスミン・レイシーの音楽的な背景にあるのは古き良き時代のソウルであり、それらの音楽性を支えるバックバンドがローファイやニュージャズの要素を加えて作品の持つ迫力を引き上げているのです。


 アルバムの全14曲は、非常にボリューミーであり、近年のソウルミュージックにはなかった濃密なR&Bの香りが漂う。それは最初のヒップホップを基調にした楽曲「Flyo Tweet」で始まり、現代社会の感覚とアルバムのテーマであるボイスメモという2つの概念をかけ合わせたクールな雰囲気を擁している。そして、続く、二曲目の「Bad Company」では、自分の中にいる悪魔と対峙し、レイシーはローファイ・ヒップホップと古典的なR&B、普遍的なポピュラー・ミュージックの中間点を探ろうとしています。コーラスワークについては理解しやすいですが、曲全体に漂うエレクトリック・ピアノを用いたメロウさは、アンニュイなボーカル、まさに「Warm & Fuzzy」によって引き立てられていきます。さらに、「Late Night People」では、ノーザン・ソウルのクラブ・ミュージックの文化性を根底に置き、新境地を開拓する。この曲はテクノ性の根底にある内省的なビートを通じ、ヤスミン・レイシーの温かな雰囲気を持つコーラスワークが掛け合わさり、渋さと甘美さを兼ね備えたファジーな一曲が生み出されています。


「Bad Company」


 更に続く、「Fools Gold」はフュージョン・ジャズのシャッフル・ビートを駆使し、チルアウトの雰囲気を持つリラックスした楽曲でやすらぎを与えてくれます。アルバムの序盤から続き、レイシーのハスキーなボーカルはメロウさを持ち合わせており、ポンゴのリズムが軽妙なグルーブをもたらしています。時に、レイシーはラップのフロウのような手法を用いながらジャジーな雰囲気を盛り上げる。アウトロにかけてのフェードアウトは余韻たっぷりとなっている。


 それに続く「Where Did You Go?」では、古典的なレゲエでは、お馴染みの一拍目のドラムのスネアを通じて導かれていきますが、アーティストはダビングの手法を巧みに用い、ネオ・ソウルの豊潤な魅力を示してみせています。この曲でも、レイシーはファンク、ジャズ、ソウルを自由に往来しながら、傑出したボーカルを披露します。微細なトーンの変化のニュアンスは、楽曲に揺らぎをもたらし、そして、メロウさとアンニュイさを与えている。またファンクを下地にしたヒップホップ調の連続的なビートは、聞き手を高揚した気分に誘うことでしょう。

 

 中盤においても、ヤスミン・レイシーとバックバンドはテンションを緩めずに、濃密なソウルミュージックを提示しています。真夜中の雰囲気に充ちた「Sign And Signal」は、イギリスの都会の生活の様子が実際の音楽を通じて伝わって来る。続く、古典的なレゲエとダブの中間にある「From A Lover」は、ボブ・マーリーのTrojanの所属時代の懐かしいエレクトーンのフレーズ、ギターのカッティング、そして、レゲエの根源でもある裏拍を強調したドラムのビートの巧みさ、ヤスミン・レイシーの長所である温かなボーカルの魅力に触れることが出来るでしょう。アウトロにかけてのメロウなボーカルも哀愁に溢れていて、なぜか切ない気持ちになるはずです。

 

 レゲエ/ダブの音楽性を下地においたレイシーのファジーなソウル・ミュージックが「Eyes To Eyes」の後も引き継がれていきます。メロウさと微細なトーンの変化に重点を置いたレイシーのボーカルは、自由なエレクトリック・ピアノと、ディレイを交えたスネアの軽妙さとマッチし、渋く深い音楽性として昇華される。時に、そのアンサンブルの中に導入されるジャズギターも自由なフレーズを駆使し、絶えず甘美な空間を彷徨う。バンドの音の結晶に優しく語りかけるようなレイシーのボーカルは圧巻で、ほとんど筆舌に尽くしがたいものがある。

 

 さらに、アルバムのハイライトとなる「Pieces」は成熟した魂を持つアーティストとして、ポピュラー・ミュージックの持つ意義を次の時代に進めてみせています。 ここでは、自分や聞き手に一定の受容をもたらしつつ、ジャズの要素を交えて、ゴージャスなポピュラーミュージックの特異点へと落着していきます。前時代のブリストル発のトリップ・ホップの影響を交え、サックスのメロウな響きを強調し、アーティスト特有の独特なR&Bの世界へと聞き手をいざなっていく。甘く美麗なコーラスは優れた造形芸術のように強固であり、内実を伴う存在感を兼ね備えており、途中からはダンサンブルなビートを交え、聞き手を陶酔した境地へ導いていくのです。


 この曲以降の楽曲は、ある意味では、クラブ・ミュージックの熱狂後のクールダウンの効果、つまりチルアウトの性質が強く、聞き手を緩やかな気分にさせてくれますが、しかし、それは緊張感の乏しい楽曲というわけではありません。これまでの音楽的なバックグランドをフルに活用し、クラブミュージックを基調にするノーザン・ソウルの伝統性を受け継いだ「Pass Is Back」、レゲエをダンサンブルな楽曲として見事に昇華した「Tomorrow's Child」 、ドラムのフュージョン性にネオ・ソウルの渋さを添えた「Match in my Pocket」、そして、アフロ・ソウル/ヒップホップの本質を捉え、それらをアンサンブルとして緻密に再構築した「Legacy」、さらに映画のサウンドトラックのような深みを持つ「Sea Glass」まで、聴き応えたっぷりの楽曲がアルバムの最後まで途切れることはありません。


 アルバムとして聴き応え十分で、収録曲は倍以上のボリュームがあるようにも感じられる。そして、本作に現代の流行の作品より奥行きが感じられる理由は、レイシーが育ったロンドンとノッティンガムの文化性、そして、彼女の人生の中で出会った沢山の人々への変わらざる愛情が流動的に体現されているからなのです。ヤスミン・レイシーというシンガーソングライターにとって、33年という歳月は何を意味したのか? その答えがこの14曲にきわめて端的に示されています。


 

95/100


 


Weekend Featured Track #9「Pieces」



Weekly Recommendation  Shame 『Food for Worms』

 

 

Label: Dead Oceans

 

Release Date: 2023年2月24日



 Shameは、デビュー当時からずっと常に純粋な青春の旅行者であり続けて来たわけで、そこには青写真のようなものは何もなかった。


彼らの20代前半のキャリアにおける難局は、国内の"ポスト・パンクの最大の希望のひとつ"と大きなプレッシャーをかけられたことによって訪れたのです。2018年、彼らはデビュー・アルバム『Songs of Praise』を携えて、大陸を横断するツアーで約350泊という凄まじく多忙な一年を過ごしました。


その後、Shameのフロントマン、チャーリー・スティーンはパニック発作に襲われて、ツアーをキャンセルせざるを得なくなった。The Windmillのステージから引き抜かれ、一躍有名になって以来初めて、shameは世間の脚光や注目とはかけ離れた場所にいる自分たちを見出すことになった。しかしながら、他方、現実と社会で起こる恐怖への忍耐を強いられた苦難の数年間が、shameの2021年の『Drunk Tank Pink』以後のバンドの改革を促すこととなりました。


 仮に、デビューアルバム『Songs of Praise』が小指を立てるようなティーンエイジャー特有の戯れであったのだとすれば、2ndアルバム『Drunk Tank Pink』は別の種類の感情の激しさを掘り下げることになった。未知の音楽の領域に足を踏み入れて、ウィットとシニシズムで勇気づけられた彼らは、もはや失うものは何もないという思いで何かを作り上げた。そして、アイデンティティの危機を乗り越えて、ようやく成熟した境地に到達しました。『Food for Worms』は、チャーリー・スティーンが「恥ずべきレコードのランボルギーニ」とシニカルに断言する作品です。


 バンドは初めて、内面を掘り下げるのではなくて、自分たちを取り巻く世界をあるがままに捉えようとした。「自分の頭の中にずっといることはできないと思うんだ」とチャーリー・スティーンは語る。あるライブの後、友人と交わした会話がきっかけで、迷いを抱くようになった。「変な話だよ。ポピュラーな音楽は、いつも愛や失恋、自分自身について歌ってばかりいる」つまり、このアルバムは多くの点で、他者との共感性、友情への賛歌であり、また、共に成長し、あらゆる困難を乗り越えてここまで仲良くなった5人のメンバーのみが共有できるダイナミズムの実録なのです。


 また、『Food for Worms』は、結局はバンドメンバーがお互いを必要としているという、究極の生命における讃歌を表現しています。また、このアルバムは「恥」そのものの核心を突いている。彼らは結成当初から、現実の不条理の中にも何らかの光を見出すことをライフワークに位置付けてきたのです。


 パンデミックに見舞われ、一度挫折を経験したバンド。彼らは再び結成当初の原点に立ち返り、アルバムの制作に取り組んだ。プレッシャーや最終的なゴールがなければ何も始まりません。3週間以内にThe Windmillで2回の公演を行い、そこで新しい曲をステージで2セット披露することが期待されたのです。


 この機会は、バンドをこの高みへと押し上げた時と同じイデオロギー、つまり、ライブで演奏すること、自分たちの言葉でしっかりと演奏すること、そしてそれを聴くオーディエンスに支えられている感覚を、バンドの手に取り戻すことを意味していた。このようにし、『Food for Worms』は、彼らがこれまでに作ったどの作品よりも溌剌とした生命を吹き込むことになりました。


 このアルバムは、彼らにとって初めての完全なライブレコーディング作品となる。バンドは、ヨーロッパ中のフェスティバルで演奏しながら『Food for Worms』を録音し、彼らの新曲が受けたオーディエンスの反応の強さに勇気づけられもした。そして、そのライブのエネルギー、つまり、本領を発揮するShameを目の当たりにする感覚がレコードに完璧に収められています。


 彼らは、有名なプロデューサーFlood(Nick Cave、U2、Foals)に彼らのビジョンを実行するよう依頼しました。各トラックをライブでレコーディングすることは、レコーディング・アーティストであることの全面的な否定を意味します。ここでは、ラフなエッジがアルバムにザラザラとした質感を与え、ミスは完璧であるよりも興味深いことを示す。このアルバムはタイトル通り、バンドが自分たちの弱さを受け入れ、そうすることで新たな勇気の源泉に触れていることを示唆しているのです。


Shame

 サウスロンドンのShameは、Foalsとともに、イギリスのポストパンクバンドの代表格というキャッチフレーズで宣伝されることが多い。けれども、彼らはポスト・パンクバンドから脱却を図りつつあるのではないかという意見も見受けられます。そして、彼らの通算三作目のフルレングス『Food For Worms』は、そのことを実際の音楽によって如実に物語る作品となっています。

 

 シンプルにこの作品に突き当たると、以前からのファンは、その意外性ーー音楽性の変化ーーに驚く可能性もあるはずです。このバンドの持ち味であるオーバードライブをかけた存在感抜群のベースライン、切れ味の鋭いギターライン、タム、ハイハットとシンバルがしなるドラム、パワフルさと繊細さを兼ね備えたボーカル、これらが掛け合わさり、ライブレコーディングという方向性を通じラフに制作されたのがサード・アルバム『Food For Worms』の正体といえます。


 しかし、先にも述べたように、今作には、以前のバンドの音楽性は見られなかった要素、Pavementのような乾いたオルタナティヴロック性の影響とエモの雰囲気がわずかに漂っています。エモは、青臭い雰囲気、洗練されていない雰囲気、つまり、荒削りであること、これらの要素がなければ、エモとは言いがたい。そういった観点から、レビューにおいて、この言葉を使うことを避けて来ましたが、このフルアルバムには明らかにエモい感じが全編に漂っています。

 

 ただ、Shameのニューアルバムは、単なる荒削りな試作ではなく、それ以上の価値が込められていることは、ロックに長く親しんできたリスナーであれば、すぐにお気づきになられるはずです。ボーカルのチャーリー・スティーンは、ブライアン・イーノの言葉を引き合いに出して、「ライブで演奏されて初めて曲は曲として成立するようになる」という奥深い言葉をPaste Magazineの取材に対して語っています。


そして、これは健康上な理由でフロントマンが”恥”という概念を厭わず、全力を込めてパフォーマンスを行うバンドにとって、ライブというものがいかほど大きな意味を持つのかをあらわしています。ライブを行うこと、バンドとともに楽しみ、観客と一体になりきること・・・、それはおそらく彼らの最も理想とする生き方でもあるのです。そして、Shameの音楽性をはっきりと象徴付ける意味において、録音とライブがオーバーラップしながら、実際のツアーで上手く機能するような内容となっている。つまり、スティーンが語るように、三作目のアルバムの多くの楽曲は、実際のステージで披露された時、本来の真価を発揮するようになるかもしれません。


 『Food For Worms』の中で力強い印象を放つ曲はいくつもある。オープニングを飾る「Fingers of Steel」は、ピアノから始まり、勢いだけで押しまくるバンドではなく、説得力で語りかけるバンドであることを示しています。そして、そこから繰り広げられるサウンドはスリリングであり、テンションの上昇と下降を繰り返しながら、まるで近年のバンドの置かれた状況を顕著に象徴するかのように、淡い叙情性を交えながら振れ幅の大きなダイナミックなロックサウンドへと行き着く。確かにそこには、Foalsのように、わかりやすさ、痛快さやノリやすさという側面も幾分か重視されてはいますが、Shameは、ライブ・レコーディングの醍醐味を失わずに、立ち止まり、何かをふと考えこませるような深い感慨を多面的に提示しているのです。


 

 King CrimsonやRUSHのようなプログレッシヴ・ロックの構造性と変拍子の影響を交えた「Six Pack」は、シンプルなパンクの要素と合わさり、この上ないユニーク性と痛快味が引き出されている。さらに「制作前には内省的になることがあった」と実直に語るチャーリー・スティーンの言葉を色濃く反映させたのが、アルバム発売前の先行シングルとして発売された「Adderall」となるでしょう。この曲は、Pavementを始めとするUSオルタナティヴロックの轟音性と、それと対極にある静寂性が掛け合わさって、特異なエモーションが曲の終盤になって立ち現れてくる。叙情性に縁取られた淡い切なさは、きっと彼らの怒りや寂しさ、喜びといった相反する感慨が複雑に絡み合った末に出来上がった美しい結晶なのである。そして曲の終わりにかけての不思議な虚脱感は、なぜか聞き手を心地よい境地に巧みに誘い込んでいくのです。

 

 その他、フォークサウンドを基調にした親しみやすさのあるオルタナティヴ・ロック「Orchid」、ポストパンクバンドとしての鋭さを感じさせる「The Fall of Paul」、90年代のエモ/スロー・コアを彷彿とさせる「Burning By Design」、同じく内省的な雰囲気を擁する「Different Person」は、序盤のディストーションサウンドに対して鮮やかな対比を作り、強い印象を残している。そして、アルバムのラストを飾る「All The People」では、Shameというバンドが数年間探し求め続け、最終的に自力で辿り着いた答えらしきものが示されていることに気がつくはずです。


バンドはまた、アルバム制作で既存作品の中で、最も強い結束力が生み出されたと話しています。数年間、彼らはパンデミックや健康上の理由を始め、様々な困難な状況に直面してきたのでしたが、そういった難局を五人で協力し乗り越えてきたこと、それが”連帯感や一体感”という他では得難い武器を生み出した理由です。ライブやレコーディングを通じ、彼らが弱さを受け入れつつ、どんなふうに生きてきたのかが最後の曲には分かりやすい形で反映されています。



86/100

 


Weekend Featured Track 「All The People」


 

 

 

Shameの今後のツアー日程は下記の通りです。

 


FEBRUARY:


28 | IE | Dublin – Button Factory


MARCH:

 
01 | IE | Dublin – Button Factory
03 | UK | Glasgow – SWG3
04 | UK | Newcastle – Boiler Shop
05 | UK | Leeds – Stylus
07 | UK | Sheffield – Leadmill
08 | UK | Liverpool – Invisible Wind Factory
09 | UK | Bristol – SWX
11 | UK | Manchester – New Century
12 | UK | Cardiff – Tramshed
14 | FR | Nantes – Stereolux
15 | FR | Paris – Cabaret Sauvage
16 | FR | Bordeaux – Rock School Barbey
18 | PT | Lisbon – LAV
19 | ES | Madrid – Nazca
20 | ES | Barcelona – La 2 de Apolo
22 | FR | Nimes – Paloma
23 | IT | Milan – Magnolia
24 | CH | Zurich – Plaza
26 | DE | Munich, Technikum
27 | DE | Berlin – Festsaal Kreuzberg
28 | DE | Hamburg – Markthalle
31 | SE | Stockholm – Debaser


APRIL:

 
01 | DK | Copenhagen – VEGA
02 | NO | Oslo – John Dee
04 | DE | Cologne – Gloria
05 | BE | Brussels – AB
06 | NL | Amsterdam – Melkweg
28 | UK | London – Troxy
US TOUR


MAY:

 
10 | Durham, NC – Motorco Music Hall
12 | Baltimore, MD – Ottobar
13 | Philadelphia, PA -Union Transfer
15 | Brooklyn, NY – Irving Plaza
16 | Boston, MA – The Sinclair
18 | Montréal, QC – Foufounes Électriques
19 | Ottawa, ON – Club SAW
20 | Toronto, ON – Lee’s Palace
22 | Kalamazoo, MI – Bell’s Eccentric Cafe
24 | Chicago, IL – Thalia Hall
26 | St Louis, MO – Off Broadway
27 | Lawrence, KS – The Bottleneck
28 | Fayetteville, AR – George’s Majestic Lounge
30 | Dallas, TX – Granada Theater


JUNE:


02 | Austin, TX – The Scoot Inn
03 | Houston,T X – White Oak Music Hall
04 | New Orleans, LA – Toulouse Theatre
SEPTEMBER:
28 | Pioneertown, CA – Poppy and Harriet’s
29 | Los Angeles, CA – The Regent Theatre
OCTOBER:
02 | San Francisco, CA – August Hall
04 | Portland, OR – Revolution Hall
06 | Seattle, WA – The Crocodile
07 | Vancouver, BC – Hollywood Theatre

 Weekly Recommendation  


Hania Rani 『On Giacometti』

 



Label: Gondwana Records


Release: 2023年2月17日



ハニャ・ラニの言葉 

 

 "ジャコメッティについて" 


 ジャコメッティの家族についての映画のサウンドトラックを依頼されたとき、私は考えもしなかった。


 アルベルト・ジャコメッティはスイスの芸術家で、主に画家と彫刻家として活動し、長い間、私のお気に入りの芸術家の一人だった。彼のスタイル、美学、創作活動の特徴には、今でも様々な面で魅了されています。ですから、彼の世界にさらに深く入り込み、彼だけでなく彼の家族も知ることができるのは、私にとって見逃せない機会でした。


 この「イエス」という言葉が、私を精神的、創造的なレベルだけでなく、肉体的にもどこまで導いてくれるかは、まだ分かっていませんでした。ドキュメンタリーの監督であるスザンナ・ファンツーンのおかげで、そして幸運といくつかの追加質問のおかげで、私はジャコメッティが生まれ、彼が住んでいなかったにもかかわらず故郷と呼んでいた場所からそう遠くないスイスの山々に数ヶ月間移り住むことにした。スザンナは、彼女の故郷の近くに、スタジオを借りてサウンドトラックだけでなく、他のプロジェクトもできる場所を教えてくれた。その日は真冬で、辺りは氷と雪で覆われていて、山の中ならではの光景でした。レジデンスハウスは高い山に囲まれた谷間にあり、冬の季節の太陽は日中あまり長く昇ってきませんでした。彼女はそのことを私に話し、「そこでみんなが元気になっているわけではないけれど、元気になってほしい」と付け加えたのを覚えています。もちろん私はそうするつもりでした。


 現実からほとんど切り離されて、街や娯楽、急ぐ人々、普段私の注意を引くあらゆるものから、私は音楽やサウンドトラックに完全に集中し、一日の大半を自分の考えで過ごし、創造的なプロセスで実験し自由になるための十分なスペースを持つことができた。このサウンドトラックは、私が普段生活している場所で作曲したら、おそらく全く違うものになったでしょう。私はこれを、作曲家として、また人間としての自分について、何か新しいことを探求するチャンスと捉え、普段の自分とは逆の方向を選び取りました。


 アルバム「ジャコメッティについて」には、サウンドトラックからの抜粋、代表的な曲、声そのものが強くなった曲などが収録されています。即興的なメロディー、シンプルなハーモニー、構造、そして静寂をベースにしたこのアルバムは、私のデビューアルバム「Esja」を思い起こさせるものです。精神的にも肉体的にも、これらの要素が私を主要な楽器であるピアノへと導き、私は自分が作業している空間の言語を用いて再び定義しようとしました。空間は通常、プロジェクトの配置や性格について私に答えを与えてくれる重要な要素です。空間は最初に現れるようで、音楽はその天使を変化させる目に見えない力なのです。


 かつてアルベルト・ジャコメッティが手紙の中で書いた有名な言葉があるように、山に囲まれて生活していると、視点やスケール感の捉え方が変わってくる。


 山のように遠くにあるものが近くに感じられ、人間のようにそれほど遠くないものが、遠くから見ていると小さく感じられるようになるのだ。


 指で山の頂上を触るのが、鼻先に触れるくらい簡単なことのように感じられる。


 雪が積もっているためか、音は静かに地面に落ち、計り知れない空間の響きを伴っている。ひっかき傷やささやき声のひとつひとつが自律した存在となり、幽霊や迷子の世界への入り口を開いている。一見、何も動いていない、何も変わっていないように見えるが、そこには時間が止まっているように見える。


 しかし、氷と雪は時間の流れを明らかにし、凍りついた水路は、一日、一時間、一秒ごとに荒々しい水の流れに姿を変える。溶けては消え、白い粉やノイズに覆われた空間がクリアになる。一晩の旅行者には見えないが、長く滞在する人にとっては痛いほどリアルなプロセスなのだ。


 時間は、川を流れる音の新しい波とともに流れ、私たちが限りなく繰り返されるサイクルの一部であることを思い起こさせる。私は春の息吹とともにこの谷を後にした。


プレスリリースより。


Hania Rani

 

  大胆な細いフォルムを採用することで知られるスイスの造形作家、アルベルト・ジャコメッティの映画のサウンドトラックのために制作された全13曲に及ぶ、ピアノ、オーケストラレーション、エレクトロニカのコラージュ、アンビエントのようなディレイ効果、様々な観点から組み上げられたポーランドのハニャ・ラニの『On Giacometi』は、ポスト・クラシカルの快作のひとつで、作者自身が語っている通り、制作者が置かれる環境により実際に生み出される作風は著しく変化することを端的に表しています。アイスランドのピアニスト/作曲家Olafur Arnoldsのピアノ作品の再構築『some kind of piece-piano reworks』(2022)にも参加しているハニャ・ラニは、今作で視覚的な音響空間を生み出していて、アルバムの収録曲は細やかなピアノの演奏に加えて、空間にディレイを施したアンビエント効果、さらに作曲家の管弦楽法の巧みさが絶妙な合致を果たすことで、静謐に富み、そして内的な対話のような奥深い世界観がかなり綿密に組み上げられている。

 

 ハニャ・ラニは、具体的な場所こそは不明であるが、友人の所有するスイスの山間部にあるスタジオに滞在し、これらの映画のサウンドトラックとして最適なピアノとオーケストラにまつわる壮大なアルバムを製作することになった。そして実際に、この作品を聴くと分かる通り、 作曲家の紡ぎ出す音楽は、さながらこの山間部の冬の季節における変化、それと反対に山脈の向こう側から日が昇り、そして夕暮れをすぎて夜がふけていき、まさに風の音しか聴こえないようになる非常に孤独ではあるが潤沢な1日という短い時間を、ピアノ/オーケストラという観点から丹念にスケッチしているように思える。ジャコメッティと同じような内的に豊かな時間を過ごすことを選択し、芸術家が彫刻刀により造形のための材質をひとつひとつ繊細に削り取っていったのと同じように、ハニャ・ラニもまたピアノのノートを丹念に紡ぎ出していきます。制作者はその録音スタジオの外側の世界にある様々な自然現象、山岳に降り積もる雪や風の音や雨音、急に晴れ間がのぞく様子など、外側の天候の変化をくまなく鋭い感性により捉えることで、それらを内省的な音響空間として組み上げていくのである。

 

 サウンドトラックの大部分を占めるピアノ音楽は、抽象的なフレーズや、もしくはニルス・フラームのような深い哀感に富んだミニマル・ミュージック、それに加え、上記のアーノルズのような叙情的なフレーズが中心となっている。だが、そこには時にブラームスの音楽にあるロマン派に対する親和性のような感慨が滲んでいる。アルバムの序盤こそ、近年のポストクラシカル/モダンクラシカルの作曲家/演奏家の作風とそれほど大きな差異はないように思えるけれど、中盤のアンビエントに近い先鋭的な空間処理が実際のピアノ演奏の情感を際立たせているため、さらりと聴き通すことが出来ない部分もある。それはスイスの巨匠の創作の際の苦悩に寄り添うかのような深く悩ましい感慨が、さほど技巧を衒うことのないシンプルな演奏の中に見いだされる。これがサウンドトラックとして、どのような効果を発揮するのかまでは不透明ではあるが、単体の音楽作品として接した際、音響に奥行きと深みをもたらしている。映画音楽のサウンドトラックとして、その映像の効果を引き出すにとどまらず、その映像の中にあるテーマともいうべき内容を印象深くするための仕掛けが本作にはいくつか取り入れられているようにも思える。

 

 アルバムに収録された曲が進むたびに、まさに、作曲家が滞在した山間部の冬の間に景色が春に向けて少しずつ移ろい変わっていく様子を連想させる。山間部に滞在すると、見えるものが明らかに変化すると作者が語っているが、その言葉が音楽そのものに乗り移ったかのようでもある。実にシンプルなフレーズであろうとも、短い楽節のレンズを通して組み上げられていく音の連続性は、この作曲家が自らの目で見た景色、憂いある様子、喜ばしい様子、人智を越えた神秘的な様子、それら多彩な自然的な現象がアンビエンスとして緻密に処理され、それがピアノ演奏と合わせて刻々と移ろい変わっていくかのようである。言い換えれば、都会に住んでいると、誰も目にとめないような天候の細やかな変化、それがもたらす淡い抒情性について、印象派の音楽という形で緩やかに紡がれていきます。それはまた、美術家であるアルベルト・ジャコメッティが彼自身の目で物体に隠れた細いフォルムを発見したということに非常に近い意味合いが込められているように思える。そして、これとまったく同じように、隠された本質的な万物に潜んでいる美しさを、ハニャ・ラニはこのピアノとオーケストラ音楽を通じて発見していくのである。


 もしかすると、音楽も造形芸術とその本質は同じかもしれません。制作過程の始めこそ、自分の目に映る美しさの正体を見定めることは困難を極めるけれど、ひとつずつ作業を進めていくうち、そして作者自らの生み出すものをしっかりと見定めつつ、その核心にあるものを探し求めるうち、その作業に真摯なものが伴うのであれば、優れた芸術家はどうあろうとも美しさの本質に突きあたらずにはいられないのである。


 『On Giacometti』は、音楽作品として高水準に位置づけられており、美術家ジャコメッティのミニマルな生活とスタイリッシュさをモダン・クラシカルという形で見事に再現しています。特に音楽としては、アルバムのラストに注目しておきたいところでしょう。ベートーベンやブラームス、シューベルトのドイツ・ロマン派の作風の余韻を残した凛として高級感溢れるピアノ曲は、作品の終わりに近づけば近づくほど迫力を増していき、聞き手を圧倒するものがある。ハニア・ラニのピアノ曲は、映画音楽にありがちな大掛かりなまやかしにより驚かせるという手法ではなく、内的な静かな思索の深みと奥深さによって聞き手にじんわりとした感銘を与える。もちろん、映画から音楽を抜粋する形で発表されたアルバムであるため、必ずしも、トラックリストの順序通りに曲が制作されたわけではないと思われますが、「Anette」、「Alberto」において、アルベルト・ジャコメッティの彫刻における美学と同じように、それまで見出すことが叶わなかった本質的な美しさの真髄をハニャ・ラニもきっと見出したに違いない。

 

 

94/100

 

 

Weekend Featured Track #12「Anette」 

 

 

 

 

Hania Raniの新作アルバム『On Giacometti』は2月17日にGondawana Recordsより発売。

 

 

Hania Rani


 1990年、ポーランド音楽シーンの重要人物を多数輩出した北部のバルト海に面した湾都市グダンスク生まれ。

 

ピアニスト、作曲・編曲家。基本的にはクラシック畑の奏者だがそのキャパシティは広く、ポスト・クラシカルからチェンバー・ジャズ、アンビエント、フォーク他を幅広いヴィジョンで捉えている。


現在はワルシャワとベルリンをベースに活動。学生時代はショパン音楽アカデミーで学び、2015年に同世代のチェロ奏者ドブラヴァ・チョヘル(1991年生まれ)と共に、ポーランドのカリスマ的ロック・ミュージシャンであるグジェゴシュ・チェホフスキのメモリアル・フェスティヴァルに出演、チェホフスキのナンバーを斬新に解釈した演奏がもとで、2015年『ビャワ・フラガ(白い旗)』を発表し一躍注目を集める。


その後は2018年に女性ヴォーカリストのヨアンナ・ロンギチと組んだユニット、テンスクノによる『m』を発表、コンテンポラリーな要素を持つ室内楽サウンドでジャンルを越えたその才能がさらに開花する。2019年には、ゴーゴー・ペンギン他を輩出したUKマンチェスターの先鋭的レーベル"Gondwana Records"から初のソロ・アルバム『エーシャ(Esja)』を発表する。同年50ケ所以上のヨーロッパ・ツアーを重ねながらワールドワイドな知名度となりつつあり、2019年12月には東京で開催された「ザ・ピアノ・エラ2019」に出演し大反響を呼んだ。


スワヴェク・ヤスクウケのピアノソロにも通じる美しい音楽世界は官能的で繊細、リズミカルで独特の空気感を纏わせ、Z世代に近いミレニアル世代らしい新しさに満ちた活動を続けている。ピアニスト、コンポーザー、アレンジャーという枠も越えた「アーティスト」として認知されている。

Weekly Recommendation  

 

Caroline Polachek 『Desire,I Want To Turn Into You』

 



Label: Perpetual Novice

Release Date: 2023年2月14日

 




Review  

 

 2019年末に『Pang』をリリースした後、ポラチェックはこのレコードのツアーを行う予定だったが、2020年3月のCOVID-19のパンデミックによって中断されることになった。ポラチェクはロンドンに滞在し、親しいコラボレーターであるダニー・L・ハーレと『Desire, I Want to Turnto You』の制作を開始した。彼女はアルバムを、"他のコラボレーターがほとんど参加していない "ハーレとの主要なパートナーシップであると考えた。2021年半ばまでロンドンでアルバムの制作を続け、ハーレや新たなコラボレーターのセガ・ボデガと共にバルセロナに一時的に移住しました。


ポラチェックは2021年7月にリード・シングル「Bunny Is A Rider」をリリースしたが、これはロックダウン前に書かれました。 さらに彼女は2021年11月にクリスティーン・アンド・ザ・クイーンズと共にチャーリーXCXの「ニューシェイプス」でフィーチャリングしている。ポラチェクはその後、2021年の残りの期間、フランスのミュージシャンであるオクルーと北米ツアーに乗り出しています。デュア・リパは2022年2月から7月にかけてのフューチャー・ノスタルジア・ツアーの北米とカナダ公演のサポート・アクトとしてポラチェックを発表、多くのフェスティバルにも出演しました。


彼女は2月にトリップ・ホップにインスパイアされた「Billions」をシングルとしてリリースし、ポラチェックはこの曲を仕上げるのに19ヶ月かかったと述べています。このシングルにはB面として2020年のアルバム『マジック・オントリックス・ポイント・ネヴァー』のワンオントリックスとのコラボレーション曲「Long Road Home」のリワークをフィーチャーしています。 ポラチェクは3月にフルームの「Sirens」にフィーチャーし、7月にはPC Musicのアーティスト、ハイドのためにトラック「Afar」の作曲とプロデュースを行った。ポラチェックはエンニオ・モリコーネのスパゲッティ・ウエスタンの映画音楽から影響を受けたと述べています。

 

Caroline Polachek

 

 結局のところ、ビヨンセ、チャーリーXCX、Rosaiaなど、艶やかさを売りにするシンガーが近年、ミュージック・シーンを席巻しています。こういった場合、ある意味、リスナーはそれを期待している側面もあるのだし、それを売り手は上手く活用して、宣伝的に、あるいはセンセーショナルにアーティスト及びその作品をより多く売り込もうと試みるわけなのです。そして、客観視すると、こういったシンガーソングライターの作品には実際の音楽性にも、そういった艶やかさが色濃く反映される場合もある。その事自体は否定しませんが、キャロライン・ポラチェックはその表層的なイメージを上手く操り、実際の音源に触れた時、それとはまったく正反対のイメージを与えることに成功しています。つまり、最初に結論づけておくと、この2ndアルバムは市場側の要求に応えながらも、かなり秀逸なポピュラーミュージックを提示しているのは事実なのです。

 

2019年にデビュー・アルバムを発表したポラチェックは、米国出身のアーティストですが、この数年間にスペインのバルセロナに一時移住しています。私見では、デビュー・アルバムはポピュラー・ミュージックとしてそれ相応にクオリティーが高いものの、現代の他のSSWと比べてそこまで傑出した作品とは言い難かった。それがなんの心変わりなのか、この2ndアルバムはアートワークこそ、続編のようなニュアンスを持ち合わせているが、その内容は全然異なっています。これはパンデミック時代を乗り越えたからこその勇気のある転身ぶり。それは言い換えれば、苦難を乗り越えた際に身についた豪快さも作品の節々から伝わってくる。特に、シンガーとしての音程の幅広さ、そして歌唱法の変化、そしてハイトーンにおけるビブラートの精彩さについてはかなり目を瞠るものがあると思われます。

 

特に指摘しておきたいのは、このアーティストのバルセロナに移住したことによる音楽性の目覚ましい変化である。例えば、スペイン音楽の重要な継承者であるロザリアと同じように、アーバン・フラメンコからの影響がいくつかの楽曲には見られる。これらのスペイン音楽の妖艶なメロディーやリズムは「Sunset」で断片的に味わうことが出来る。しかし、それらの表向きのイメージはけして表向きのものをすくい取ったわけでなく、キャロライン・ポラチェックが実際の生活や文化を間近で触れてみたことにより、それが歌やソングライティングに自然な形で反映されたともいえる。つまり、上記の曲を始めとするいくつかの曲には、バルセロナの風土というか風合いが乗り移っているのです。そして、まったく嫌味がない。これは歌手が自然な形で異文化に接した際の驚きやその敬意を親しみやすいポップスに込めようと試みているように思われるのです。

 

作品のオープニングには「Welcome To My Island」、「Pretty In Possible」という清涼感のあるポップ・ミュージックが並ぶ。この2曲は青空のように澄みわたっており、以前とは歌い方にせよメロディーラインの運びにせよ、デビュー・アルバムとはまったく人が変わったかのようでもある。これは何に拠るものなのか断定づけることは難しいですが、吹っ切れたようなエネルギーに満ちわたっている。その感覚は聞き手に何か気が空くような爽快な気分を与えてくれるでしょう。他にも、先行曲として公開された悩ましげな雰囲気に包まれた「Bunny Is A Rider」はポラチェックの新たなバンガーとなりそうな一曲で、モダンなポップスを擬えつつ、その内奥には奇妙な憂愁が渦巻く。この感覚的な歌が特にアルバムの持つ世界を押し広げていくのです。

 

中盤への切り替わりは序盤のエネルギッシュな展開とは正反対に、このシンガーの持つ内向性によって始まる。スペイン文化のアーバン・フラメンコに触発を受けたと思しき「Sunset」もエキゾチックな雰囲気で聞き手を惹きつけ、続く「Crude Drawing of An Angel」も同じように南欧の音楽性を吸収したようなしっとりとしたバラードとなっていて気が抜くことが出来ません。聞き手を内省的な世界にいざなった後、再びアップテンポな「I Believe」でテンションを変えますが、ここでもまたポラチェックは序盤の爽やかなポップスとは変わって、明るさを擁しながらも内面奥深くを見つめるかのような奥行きのあるポピュラーソングを提示しています。その後、レゲトンの影響を擁するダンサンブルなビートで聞き手を終盤の世界へと巧みに誘導していく。

 

終盤に収録されている「Hopedrunk Everasking」は本作のハイライトともいえ、また、SSWの歌唱力の高さ、歌唱自体の才覚を自らの実力によって証明してみせています。秀逸なメロディーの運びは言わずもがな、序盤の歌唱とは相異なる哀感溢れるバラードにより、さらに、美しいハイトーンのビブラートの微細なニュアンスは陶然とした世界へと歩みを進め、また、クラシック音楽の歌曲のような様式的な旋律の運びは、そのクライマックスにかけて神々しい領域へ導かれていくのです。

 

その後も、ありきたりな盛り上がりを避け、複雑な感情を織り交ぜたポピュラー・ソングにより、ポラチェックはアルバムの終わりへとこの音楽の世界は導いていく。ロマンチックであることを恐れず歌をうたい、ポピュラー・ミュージックとして歴代の名曲にも遜色のない「Butterfly Net」が続き、序盤のエネルギッシュな活力を取り戻す「Smoke」へ引き継がれ、クローズド・トラック「Billions」ではグリッチ・ミュージックとポピュラー・ミュージックの融合というまったく予測不可能な意外なエンディングを迎えます。特に、曲の中には、インドの民族楽器のタブラが心地よいグルーヴを生み出し、ポラチェックの歌声を巧みに引き立てています。


アルバム全体としては、かなりエキゾチックな雰囲気に溢れています。そして、ポラチェックの歌は時に神々しい雰囲気に包まれることもある。このアーティストの写真やアートワークに接した時、表面的な艶やかなイメージはキャッチフレーズや宣伝に過ぎないと思えるかもしれませんが、実際のところはそうではなく、これはキャロライン・ポラチェックなるシンガーソングライターの音楽性の核心を何よりも忠実に捉え、ある種の”目眩まし”のような機能を果たしているのです。

 

86/100

 

 

 Weekly Recommendation

 

Yo La Tengo 『This Stupid World』 

 



Label: Matador Records

Release Date: 2023年2月10日



 

 ニュージャージ州ホーボーケンのオルタナティヴ・ロックバンド、Yo La Tengoは84年の結成時からおよそ40年にもわたる長いキャリアを持つトリオです。

 

うろおぼえではあるものの、多分同じくらいのキャリアを持つ日本のある有名なロックバンドが、以前、このようにインタビューか何かで話していた記憶があります。「長く良いバンドでありつつづけるために必要なのは、売れすぎないことである」と。これは当事者から見ると、身も蓋もない話であるけれど、売れてしまうとミュージシャンとしての強いモチベーションが失われてしまうことを彼らは身をもって言い表していたように思えます。傑出した才能に恵まれながらも熱意を失ってしまった実例を、そのバンドメンバーは実際の目で見てきたのです。そして、伝説的な存在、ヨ・ラ・テンゴが、約40年目にして最も刺激的なアルバムを制作していることを考えると、この良いバンドである続けるための箴言はかなり言い得て妙なのかもしれません。

 

この新作アルバム『愚かな世界』のアートワークが公開された時、熱心なヨ・ラ・テンゴのファンは、すぐ気がついたことでしょう。これは、1993年の『Painful』、そして2000年の『And Then Nothing Turned Itself Inside-Out』の続編のような意味を持つのかも知れない、と。もちろんこれは憶測に過ぎませんが、『This Stupid World』は少なくともヨ・ラ・テンゴのキャリア、そして、ニュージャージーやニューヨークのその時々の音楽ムーブメントとの関わり方を見ると、一つの節目にあたる作品であると共にキャリアを総括するような作品と言えるかも知れません。


プレス・リリースでは、近年、プロデューサーと協力して作品を生み出してきたヨ・ラ・テンゴが最初期のDIYのスタイルに回帰し、完全なインディペンデントな制作を行った作品ということになっています。ところが……、実は、Tortoiseのドラマー、John McEntire(ジョン・マッケンタイア)がロサンゼルスでミックス作業に部分的に関わっているらしい。しかし、それ以外は、プレスリリースに書かれている通りで、ヨ・ラ・テンゴのメンバーがDIYの精神に基づいて制作に取り組んでいます。

 

Yo La Tengo

 新作アルバムの発売以前に先行シングルが三曲公開されました。ポップなコーラスを交えたローファイなロックソング「Fall Out」、そして、ヨ・ラ・テンゴのドラマーであるジョージア・ハプレイの和やかな雰囲気を持つ「Aselentine」までは、いつものようなヨ・ラ・テンゴの作品が来るだろうと予想していました。  


ところが、今週始めの最終プレビュー「Sinatra Drive Breakdown」を聴いた時、正直にいうと、今までの作風とは少し何かが違うと考えた。この新作アルバムが従来のヨ・ラ・テンゴのイメージを強化するのではなく、例えば、Sea And Cakeを彷彿とさせるソフトなロック性の印象を引き継ぎつつも、別の側面でそれを覆すような冒険心に溢れる作品であるように感じたのです。


そして、金曜日に『This Stupid World』の全貌が明らかになった時、その疑いのような奇妙な感覚が確信へと変化した。つまり、明らかにヨ・ラ・テンゴの約40年の中で、VUやソニック・ユースを始めとするNYのオルタナティヴの核心に最も迫り、なおかつ最もヘヴィーでカオティックな作品になったのです。

 

このアルバムはいろいろな解釈が出来るかも知れません。「愚かな世界」と題されたオルタナティヴ・ロックは、客観的な世界を多角的に描き出したとも取れますし、また、それはヨーロッパやアメリカの現代社会に蔓延る分断や歪みをノイズ・ロックという側面から抽象性の高いリアリズムとして表現しているとも解釈出来るわけです。そして、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの『White Light / White Heat』の代表曲「Sister Ray」に近い、ローファイとカオスを交えたオープニング・トラック「Sinatra Drive Breakdown」で、バンドは、この混沌とした世界を内省的なノイズという観点から克明に描き出そうとしています。


「Sinatra Drive Breakdown」の中では、ある種、禍々しさのあるアイラ・カプランの警告の言葉も囁かれています。「死への準備をせよ/まだ時間が残されているうちに準備しなさい」と歌い、切迫し、いよいよ転変が近い私たちの世界を抽象的に表現する。そして、その人の手により規定された時間の中に居続けることの耐え難さと、その時間から逃れることの願望について歌われています。

 

待って、無視してほしい、無駄にしてほしい、生き続けてほしい、時計の針から目をそらして」とカプランは歌っているが、ヨ・ラ・テンゴの豊富なキャリアにあって、これほど苛烈で厳しい言葉、また、真実の世界をえぐり出した言葉が紡ぎ出されたことが一度でもあっただろうか? これはまさにヨ・ラ・テンゴはこの差し迫った世界を鋭い視点で捉えていると言えるのです。

 

最も衝撃的だったのは、オープニング曲「Sinatra Drive Breakdown」であるのは間違いありませんが、その他にも、これまでのヨ・ラ・テンゴの作風からは予想できない意外な曲もある。いつもフルレングスの中にあって、ふんわりとした癒やしを持つドラマーのジョージア・ハプレイの歌うフォーク・バラード「Aselestine」は、「Let's Save Tony Orlando's House」、「Today Is The Day」といった彼らの代表曲と並べても遜色のない曲で、聞き手を陶酔の中へと誘うことでしょう。その一方、ジョージア・ハプレイは、これまでにはなかった死の扉にさしかかる友人にさりげなく言及しており、既存の作品の題材とは少し異なるテーマを選び取っている。あまり偉そうなことは言えないものの、これは、多分、ヨ・ラ・テンゴの三者にとっての人生が以前とは変わり、そして、その真摯な眼差しから捉えられる世界が180度変化してしまったことを象徴しているのかもしれません。そう、1993年の世界とも、2000年の世界とも異なり、今日の世界はその起こる出来事の密度や、その出来事の持つ意味がすっかり変貌してしまったのです。

 

もはや、どうすることも出来ない。世界は今も時計の針を少しずつ進め続けており、世界中の人たちは、その現状を静観するよりほかなくなっています。それでも、ヨ・ラ・テンゴはこの世界に直面した際に、どのような態度で臨もうとしているのでしょうか。彼らは決してその愚かしさに絶望しているわけでも、そのことについて揶揄しようとしているわけでもないのです。それは、レコードの中で最も衝撃的で、カオティックなノイズに塗れたタイトル曲「This Stupid World」を聴くと分かるように、この世界に恐れ慄きながらも、その先にかすかに見える希望の光を見据えています。この曲は、ヨ・ラ・テンゴの既存の作風の中で、ニューヨークのアヴァンギャルド・ミュージックの源流に最接近していますが、それはThe Velvet Undergroundの往年の名作群にも引けを取らないばかりか、聞き手の魂を浮上させるエネルギーを持ち合わせているのです。


 

 97/100(Masterpiece)

 

 

Weekend Featured Track  「This Stupid World」

 

Satomimagae  『awa』 Expanded

 


 

Label: RVNG Intl.

Release: 2023年2月3日



Featured Review 

 
Satomimagae


 オリジナル・バージョンの『awa』は今から11年前に自主制作盤として発売された。2010年前後というと、日本国内でエレクトロニカのブームがさりげなく到来していた。よくいわれるように、海外で言うエレクトロニカと日本で言うエレクトロニカはその意味するニュアンスが全然異なるのだそうだ。
 
 
海外では、電子音楽の全般的な意味合いとして使用される場合が多いが、他方、日本では、電子音楽のFolktoronica/Toytoronica(フォークトロニカ/トイトロニカ)の意味合いで使用されることが多い。この時代、日本のエレクトロニカシーンからユニークなアーティストが多数登場した。最初期のトクマル・シューゴを筆頭に、高木正勝、現在、シングルを断続的にリリースする蓮沼執太、そして、最近10年ぶりの新作シングルをリリースしたausも、日本のエレクトロニカシーンの代表格。もちろん、一時期、小瀬村晶が主宰するインディペンデント・レーベル”schole”も、ハルカ・ナカムラを中心に魅力的なエレクトロニカのリリースを率先して行っていた。大袈裟に言えば、海外でも北欧を中心にして、このジャンルは一時代を築き上げ、アイスランドのmúm、ノルウェーのHanne Hukelberg、Kim Horthoy,イギリスのPsappと、黄金時代が到来していた。
 
 
このエレクトロニカは、さらに細かな分岐がなされ、その下にフォークトロニカ/トイトロニカというジャンルに分かれる。そしてこの二番目のToytronicaというジャンルを知る上では、トクマル・シューゴや、今回ご紹介するSatomimagaeが最適といえるだろう。このジャンルはその名の通り、ToyとElectoronicaを融合させたもので、フォーク・ミュージックを電子音楽的な観点から組み直している。本来楽器ではない玩具を活用し、それらを楽曲にリズムやメロディーとして導入する。アンビエント等で使用される技法”フィールド・レコーディング”が導入される場合もある。それは日本の童謡のようであり、おそらく真面目になりすぎたそれ以前の音楽にちょっとした遊び心を付け加えようというのが、このジャンルの目的だったのである。



 2012年に発売されたSatomimagaeのデビュー作『awa』は、Folktoronica/Toytoronicaのブームの最盛期にあって、そのジャンルを総括したような作風となっている。ただ、あらためて、この音楽を聴くと、単なるお遊びのための音楽と決めつけるのはかなり惜しいアルバムなのだ。つまり、このレコードには、音楽にあける感情表現の究極的なかたちが示されており、サトミマガエというアーティストしか生み出し得ない独特な情感が全編に漂っている。サトミマガエは、そもそも幼少期をアメリカで過ごしたミュージシャンで、その後、日本の大学で生物分子学を専攻していた頃に音楽活動を始めたのだという。その音楽活動を始める契機となった出来事も面白く、環境音楽における気付きのような一瞬をきっかけに始まったのだった。
 
 
2021年にリリースされた『hanazono』を聴いて分かる通り、 このアーティストの音楽性は10年を通じて、それほど大きな変化がなかったように思える。ところが、このデビュー・アルバムを聴くと、必ずしも変化がなかったわけではないことが分かる。サトミマガエは、アメリカに居た時の父親の影響で、アメリカの南部の音楽、デルタ・ブルースに強い触発を受けたとプロフィールでも説明されているが、特に、このブルースの個性が最も色濃く反映されたのがこのデビュー作『awa』と言える。米国の作家、ウィリアム・フォークナー(若い時代、米国南部のブルースの最初期のシーンを目撃し、かなり触発を受けている。)のヨクナパトーファ・サーガのモデルであるデルタ地域、そして、その地方の伝統性がこのブルースの核心にあるとすれば、不思議にもこの日本人アーティストがそのデルタの最も泥臭い部分を引き継いでいる。それは例えば、往年のブルース・マンのような抑揚のあるギターの演奏、そして、日本的な哀愁を交えたフォークトロニカのサーガを生み出すような試みに近いものがある。サトミマガエは、それらを日本語、あるいは、英語のような日本語の歌い方により、ひとつひとつ手探りでその感触を確かめていき、FolktoronicaともToytoronicaともつかない、奇妙な地点に落ち着こうとする。それは日本とアメリカという両国の中での奇妙な立ち位置にいる自分の姿を、楽曲を通じて来訪しようというのかもしれない。アイデンティティというと短絡的な表現になるが、自分とは何者かを作曲や歌を通じて探していく必要にかられたのではなかっただろうか。
 
 
このアルバムは、ニューヨークのレーベル”RVNG Intl.からのリイシュー作品ではあるが、今週発売された中で最も新味を感じる音楽である。Satomimagae(サトミマガエ)は、自分の日常的な生活の中に満ちている環境音楽を一つの重要なバックグランドと解釈し、それらを癒やし溢れるフォーク・ミュージックとゆったりとした歌に乗せて軽やかに展開する。それは周りに存在する環境と自分の存在をなじませる作業であるとも言える。すでに一曲目の「#1」、二曲目の「Green」から見られることではあるが、現代的なオルタナティヴ・フォークにまったく遜色ないハイレベルの音楽が繰り広げられる。言語の達人ともいえるサトミマガエは、ある意味、その言語につまずきながら、英語とも日本語ともつかない独特な言葉の音響性を探る。それは内省的なフォークミュージックという形で序盤の世界観を牽引するのである。そして、独特な電子音や緩やかなフォークと合わさって紡がれる詩の世界は抽象性が高く、言葉のニュアンスと相まってサイケデリックな領域に突入していく。これはギターのフレーズに常にオルタナティヴの要素が加味されているのである。そして、サトミマガエは嘘偽りのない言葉で詩を紡ぎ出していく。
 
 
ひとつ奇妙なのは、これらのフォーク・ミュージックには、例えば、Jim O' Rouke(ジム・オルーク)のGastr del Solのようなアヴァンギャルド・ミュージックの影響が色濃く感じられることだろう。しかし、サトミマガエの音楽は、若松孝二監督の映画『連合赤軍 あさま山荘への道程』のサウンド・トラックの提供で知られる日本愛好家のジム・オルーク(近年、日本に住んでいたという噂もある)とは、そのアプローチの方向性が全然異なっている。 表向きには米国のフォークやブルースを主体に置くが、それは日本の古い民謡/童謡や、町に満ちていた子供たちの遊び歌等、そういった日本と米国の間にある自分自身の過去の郷愁的な記憶を音楽を通じて徐々に接近していくかのようでもある。そして、そのことが最もよく理解できるのが、リイシュー盤の先行シングルとして最初に公開された「Inu」となる。これは日本的な意味合いでいう”イヌ”と米国的な意味合いの”Dog”の間で、その内的な、きわめて内的な感覚が微細な波形のように繊細に揺れ動く様子を克明に表現しようとしているように思える。「Inu」は、そういった自分の心にある抽象的な言葉という得難いものへの歩み寄りを試みているという印象も受ける。 

 

 その後の「Q」を見ると分かる通り、この内的な旅は、かなり深淵な地点にまで到達する。それはまた時に、表面的な感覚にとどまらず、かなり奥深い感覚にまで迫り、それは時に、やるせなさや哀しみや寂しさを表現した特異な音楽へと昇華されている。簡素なフォーク音楽の間に導入される実験的なノイズはつまり、内的な軋轢を表現したものであるようにも思える。また、続く「koki」は水の泡がブクブクと溢れる音を表現しているが、それを和風の旋律をもとに、ガラスのぶつかりあうサンプリングを融合し、モダンなオルタナティヴ・フォークとして組み直している。基本的には憂鬱な感覚の瞬間が捉えられているが、その中にはふんわりとした受容もある。
 
 
続く、アコーディオンと雑踏のサンプリング/コラージュをかけ合わせた「Mouf」は、このアルバムの中で最もエレクトロニカの性質が強い一曲である。前の2曲と比べると、上空を覆っていた雲が晴れ渡るかのように爽やかなフォーク・ミュージックへと転ずる。繊細なアコースティック・ギターの指弾きとささやくような声色を通じ、開放的な音楽が展開されるが、それは夕暮れの憂鬱とロマンチシズムを思わせ、瞬間的なせつなさが込められている。続く「Hematoxylin」では、生物学を題材に置き、科学実験の面白さをギタースケッチという形で表現したような一曲である。さらに、「Bukuso」は「Mouf」と同じく憂鬱とせつなさを織り交ぜたオルタナティヴ・フォークで、これらの流れは編糸のように繊細かつ複雑な展開力を見せる。
 
 
「Tou」は、序盤の「Inu」とともに、このデビュー・アルバムの中で強いアクセントとなっている。序盤の内省的なフォーク・ミュージックは、この曲で強調され、オルタナティヴロックに近い音楽性へと転ずる。ここにはこのアーティストの憂鬱性が込められており、序盤の楽曲に比べると、ベースの存在感が際立っている。それは、どちらかと言えば、スロウコア/サッドコアに近い雰囲気を擁する。サトミマガエの歌は、序盤では内向きのエネルギーに満ちているが、この曲では内的なエネルギーと外的なエネルギーが絶妙な均衡を保っている。内省的な歌のビブラートを長く伸ばした時、内的なものは反転し外向きのエネルギーに変換される。とりわけ、アウトロにかけてのアントニン・ドヴォルザークの『新世界』の第2楽章の「家路」のオマージュはノスタルジアに満ちている。ある意味で、効果的なオマージュのお手本がここに示されている。
 
 
その後、嘯くように歌う「Kusune」は、日本の民謡と米国のブルースをかけ合わせた個性的な一曲である。ここには日本的な憂いが表現され、自分の声を多重録音し、ユニゾンで強調している。サトミマガエは、「変わらない、どうせいなくてもひとり」、「かんじょうはもういない」といった個性的な表現性を交えつつ、民謡的なブルースの世界を展開させる。この曲は、海外のポップスやフォークに根ざしているが、実際にサトミマガエにより歌われている歌詞は、日本の現代詩のような鋭い文学性に彩られていることが分かる。さらに、一転して、「Riki」は、ダブ風のホーン・アレンジを交え、ユニークな雰囲気を生み出している。この曲もまた前曲と同様に歌詞が傑出している。「沼の底に 流れと温度を与えます」「上手く生きられるのさ 恬然と」と、倒置法を駆使し日本語の特異な表現を追究する。これらの曲は、一度その言葉を含んだだけでは理解しがたいものがあるけれども、これは内的な感情の断片を見事に捉えている。ここでも、サトミマガエらしさともいうべき特異な表現性が見いだされ、歌詞は日本的なのだが、スパニッシュ音楽やフラメンコのようなエキゾチムが妖しい光を放っている。
 
 
続く「Kaba」は、ジム・オルークのアバンギャルド・フォークに対する親和性を持っている。それは淀んだ沼の中の得難い生物を捉えるかのように、異質な視点と感覚が込められている。サトミマガエは、アンビエント風のノイズを交え、フォーク・ミュージックを展開させるが、同じ言葉(同音)のフレーズの反復性を効果的に活用している。「触れないはずの 触れないはずの 触れないはずの 触れないはずの隙まで」、「すり抜け」、「吹き抜け」ー「埋まらないはずの 埋まらないはずの 埋まらないはずの 埋まらないはずの底まで」、「擦りむけ」、「吹き抜け」ーというように、対句的な言葉遊びの手法を用い、感傷的な言葉を選び、その日本語の連続性が持つ意味合いを巧みに増幅させる。このレコードの中で最も前衛的な感覚の鋭さを擁する一曲で、その情感は、言葉の持つ力とともに見事な形で引き上げられているのである。

 
 
作品のクライマックスに至っても、これらの言葉の実験性/前衛性に重点を置いた楽曲の凄さは鳴りを潜めることはない。奇妙な清涼感に彩られた「Hono」は、海外の昨今のトレンドのフォーク・ミュージックと比べてもまったく遜色のない、いわばワールドクラスの一曲である。ギターの六弦をベースラインに置いた安定感のあるフォーク・ミュージックは、中盤までの曲に比べてだいぶ理解しやすさがある。そして、曲の途中では、(指弾きの)アルペジオのギターの演奏は力強さを増し、アルバム序盤の収録曲とは相異なる未曾有の領域へと差し掛かる。その演奏に釣り込まれるような形で繰り広げられるアーティストの歌声もまた同じように迫力を増していく。特に終盤における情熱的な展開力は目を瞠るものがある。それに続く、「beni.n」は「Riki」のようにトランペットのアレンジを交えたリラックス出来る一曲となっている。そして、十年前のデビュー・アルバムには収録されなかった「Hoshi」はタイトルの通り、夜空に浮かぶ星辰を、フォーク・ミュージックを介してエモーションを的確に表現した曲となっている。
 
 
このアルバムは、Satomimagae(サトミマガエ)なるアーティストのキャリアをおさらいするような作品となっているが、他方、新譜のような感覚で聴くことも出来る。そして、日本語という言語の面白さや潜在的な表現の可能性も再確認出来る。また、実際の楽曲は、オリジナル盤と比べ音質が格段に良くなったのみならず、冗長な部分が意図的にカットされたり、各トラック・パートの音像の遠近が微妙に入れ替えられたりと、パーフェクトな再編集が施されている。この度、長らく入手困難となっていたデビュー作がボーナス・トラックを追加収録して再発売となったことで、サトミマガエの再評価の機運は近年になく高まりつつあるように思える。

 

86/100




Satomimagaeさんのインタビュー記事を後日ご紹介しております。ぜひこちらからお読み下さい。

 

 


satomimagae


東京を拠点に、ギター、声、ノイズのための繊細な歌を紡ぎ、有機と機械、個人と環境、暖と冷の間で揺らめく変幻自在のフォーク系統を伝播するサトミマガエ。最新作は、RVNG Intl.から初のリリースとなる「HANAZONO」。石や川や風から受ける純粋で私的な驚きという日常の神秘主義へのオマージュとして、彼女は自由な遊びやアンサンブル音楽への関心と孤独な音作りの私的世界を融合させ、シンプルさと複雑さを兼ね備えた、まさに無垢な芸術の生物圏というべき作品を作り上げました。



Satomiの芸術的な旅は、中学生の時にギターに出会ったことから始まります。父親がアメリカから持ち帰ったテープやCDのカプセルに入った古いデルタブルースの影響もあり、すぐにこの楽器に夢中になり、10代で曲作りの実験に取り掛かりました。コンピュータを導入したことで、より多くの要素を取り入れることができるようになり、まもなくソロ活動もアンサンブルを愛するようになる。大学では分子生物学を学びながらバンドでベースを弾き、様々な音の中に身を置くことに憧れ、自然やそこに生息する生き物への情熱と交差する。



この頃、アンビエント・ミュージック、エレクトロニック・ミュージック、テクノなど、より実験的でヴォーカルを排除した音楽に傾倒し、リスナーの幅を広げていく。サンプラーを手に入れ、クラブやカフェでソロライブを行うようになり、自分の声やギターの演奏に、追加楽器として考えたノイズを重ね合わせるライブを行うようになる。Satomimagaeは、彼女の特異なフォークトロニックの反芻を通じた公式キャラクターとなった。

 Sara Noelle 『Do I Have To Feel Everything』



 

 Label: Sara Noelle 

 Release: 2023年1月27日



Featured Review


シンガーソングライター、Sarah Noelle(サラ・ノエル)は、パシフィック・ノースウエスト出身、カナダのトロントを拠点に活動するマルチ・インストゥルメンタリスト、学際的アーティスト。現在、サラ・ノエルは、音楽家として活動する傍ら、文芸誌の編集にも携わり、「Lyrics as Poetry」という名の雑誌を発行しています。昨年11月には、28人のアーティストと20人のライター/ジャーナリストによる第4刷が発行されました。

 

Sara Noelleの名を冠したポストロック/ドローン・フォークのソロ・プロジェクトを通じ、彼女は、シングル「Bridges」と「Shelf」、デビューEP「Spirit Photographs」をリリースしています。さらに、バンクーバー・アイランド大学でジャズ研究のBFAを、トロント大学で民族音楽学の修士号を取得している。このプロフィールに関しては、実際の音楽性、特に民族音楽の側面に強く反映されています。その多彩な趣味から、これまで、Michael Peter Olsen (Zoon, The Hidden Cameras), Timothy Condon and Brad Davis (Fresh Snow, Picastro), The Fern Tips (Beams) Völur (Blood Ceremony), NEXUS (Steve Reich), ビジュアル・アーティストのAlthea Thaubergerと仕事をしてきました。


既発の2つのアルバムにおいて、サラ・ノエルは、フォーク・カントリーとエレクトロニカ、そしてそれらをニューエイジやアンビエントの影響を交えたポピュラー・ソングを中心に書き上げてきました。しかし、全二作は、正直なところ、アーティストの志向する音楽性が作品としていまひとつ洗練されていない印象がありました。しかし、今回、自主レーベルから発売された3rdアルバム『Do I Have To Feel Everything』においてサラ・ノエルは大きな飛翔をみせています。それは、大きな路線変更を図ったというより、自然な形のステップ・アップでもあるのです。

 

新作アルバムに収録された全11曲は、以前からの音楽性を引き継ぐような形で、フォーク/カントリーとアンビエントを織り交ぜた清涼感溢れる楽曲が中心となっています。その中には、冬のニューメキシコの砂漠で書かれた曲もあり、アーティストの洗練されたトラック・メイク、伸びやかなビブラートを誇る歌唱力、ニューエイジ系の清涼感のある雰囲気と合わさり、伸び伸びとした開放感のある楽曲が目白押しとなっています。

 

サラ・ノエルの音楽性は、古い形式のフォーク/カントリーを捉えており、時にはアメリカン・フォークの源流に当たる古い時代のアパラチア・フォークに近づく場合もある。アパラチア地方は、昔からヨーロッパからの移民が多く、米国の国土の中にあって特異な文化性を擁する地方で、ブルースやフォーク/カントリーの音楽が盛んでした。本作では、このセルティック・フォークとは異なるアメリカ独自のフォーク・ミュージックが潤いあるポップソングとエレクトロニック、さらにニューエイジ・ミュージックと劇的な融合を果たしているのです。

 

前の二作のアルバムと比べると、サラ・ノエルの音楽的なアプローチは格段に広がりを増しており、時に楽曲そのものから醸し出される霊的な神秘性については、かなり顕著な形で見えるようになっています。例えば、先行シングルとして公開された「Color of Light on The Water」を始めとする代表的な楽曲の中にかなり色濃く反映されています。


米国の壮大な風景をしとやかに歌いこむ詩情性、なおかつ、その詩を歌という形で再現させる伸びやかで包み込むような歌声は、広大な自然を彷彿とさせますし、また、美麗な歌声によって導き出される連続したフレーズは、神秘的な効果を与えるリバーブを交えたパーカッションにより、地上を離れ、神々しい領域へと導かれる。メロディー自体は、素朴であるにもかかわらず、この曲はフィクションとして不可欠の要素である聞き手を別次元へと誘っていく力を持ち合わせているのです。

 


 

他にも、同じく、先行シングルとしてリリースされた「Slip Away」は、エレクトロニカとニューエイジ・ミュージックを下地に独特な神秘性、米国の民族音楽の音響性を持ち合わせた雰囲気たっぷりの楽曲となってます。そして、サラ・ノエルの潤いあるボーカルに合わせてクラフト・ワークのようなレトロなシンセサイザーが楽曲の持つナラティヴな感覚を引き上げていき、聞き手を静かで瞑想的な感覚へと誘う。前曲と同様、シンプルなビートと抽象的なシンセサイザーのフレーズが連動しながら、歌手の歌声をバックビートという形で強固に支えています。そして、なお素晴らしいことに、この曲は、自然な雰囲気を持ち合わせているだけでなくマクロコスモスの壮大さすら内包しているのです。

 

さらに続く、タイトル曲「Do I Have To Feel Everything」ではエンヤを彷彿とさせる開放感のある楽曲を提示しています。しかし、この曲は必ずしも、前時代のポピュラー音楽のノスタルジアを全面に押し出した曲というわけではなく、モダンなエレクトロとポップスをはじめとする最近の主流の音楽をセンスよく反映させ、ポップ・バンガーのような力強さも兼ね備えています。イントロは落ち着いたバラードソングのようにも聴こえますが、途中からバックビートを交えながらパンチ力のあるポップ・バンガーへと導かれる瞬間は圧巻です。時折、シンセサイザーのループ効果を交えながら、曲は渦のように盛り上がり、まったく品性を損なわずに曲のエネルギーを増幅させていく。それはクライマックスで、ある種の神々しさへと変化していく。

 

他にも、ニューエイジ/アンビエント調のインスト曲「Dust Clouds」を交え、壮大な自然の風景から連想されるワイルドさと美しさを持ちあせた音楽の物語は殆ど緊張感を緩めることなく終盤まで引き継がれていく。


 特に、アルバムの中で最もミステリアスな雰囲気を擁しているのが、7曲目の「Hum」で、その楽曲はプリズムのごとく清澄な輝きを放つとともに、聴き手を翻弄するような艶やかな雰囲気すら持ち合わせています。サラ・ノエルは最近のポピュラー・ミュージックのトレンドであるボーカル・ループを巧緻に取り入れながら、前2曲のポピュラー・ミュージックと同じく、開放感と清涼感を兼ね備えた聞き応えたっぷりのアンビエント・ポップへと昇華している。この曲では、ピアノとレトロなシンセサイザーやディスコ風のビートを劇的に融合させ、トーン自体に微細な揺さぶりを掛けつつ、メジャー/マイナーの微妙なスケールの間を揺れ動かせている。これらはきっと、明るいとも暗いともつかない、面白みのある印象を聞き手に与えることでしょう。

 

その後の四曲については、これらの音楽と散文詩を通じて紡がれる抒情的な物語の中で作者が言い残したことを伝える「coda」のような役割を果たしていますが、アルバムの中盤部の迫力のある展開の後に訪れる落ち着いた雰囲気の楽曲は、このレコード自体のメッセージを、はっきりとした形で定義づけないための、このアーティストらしい試み/企みのように感じられます。ある意味で、サラ・ノエルは自身のこれまでの見識を交えて、フォーク、アンビエント、ポップ、ジャズ、ニューエイジ、テクノ、これら多彩な音楽をアブストラクト・ミュージックという形で提示した上で、その歌詞や音楽を通じて核心をあえて語らないでおき、”事の本質を曖昧にしておく”という手法を示してみせています。

 

先行シングルの発売時、アーティスト本人は、「ラブ・ソングに聴こえるかもしれないし、そうではないかもしれない、聞き方次第ね・・・」と、クールなコメントを残していますが、最新作『Do I Have To Feel Everything』はその言葉通り、聞き手の感性によって捉え方が異なるような個性的な作品となるかもしれませんね。

 

 

90/100

 

 

Weekend Feature Track  #4『Do I Have To Feel Everything』

 

  The Murder Capital 『Gigi’s Recovery』

 

 

 

Label: Human Season Records

Release: 2023年1月20日




Review


アイルランド、ダブリンで結成された5人組のロックバンド、ザ・マーダー・キャピタルはこの2ndアルバムで特異なオルタナティヴ・ロック/ポスト・パンクサウンドを確立してみせています。本作は、グラミー・プロデューサー、ジョン・コングルトンと共にパリでレコーディングが行われました。


デビュー・アルバム『When I Have Fears』で一定の人気を獲得し、同郷のFontaines D.C.やアイドルズが引き合いに出されることもあったザ・マーダー・キャピタルですが、実際のところ、ファースト・アルバムもそうだったように、硬派なポスト・パンクサウンドの中に奇妙な静寂性が滲んでいました。同時に、それは、上記の2つの人気バンドには求められない要素でもあるのです。


ある意味では、ファースト・アルバムにおいて、表面的なポスト・パンクサウンドに隠れて見えづらかった轟音の中の静寂性、静と動の混沌、一種の内的に渦巻くようなケイオスがザ・マーダー・キャピタルの音楽の内郭を強固に形作っていた。そして、素直に解釈すれば、その混沌とした要素、言い換えれば、オルタナティヴの概念を形成するコードの不調和や主流とは異なるひねりのきいた亜流性が、この2ndアルバムでは、さらに顕著となったように感じられます。ただ、アルバムの音楽に据えられるテーマというのは、デビュー作では”恐れ”に焦点が絞られていましたが、今作では、内面の探究を経て、さらに多彩な感情が混在している。そして、その”恐れ”という低い地点から飛び出し、戸惑いながらも喜びの方へと着実に歩みを取りはじめたように感じられる。バンドは、特に、青春時代の憂鬱、抑うつ的な感情、悲しみなど様々な感情の記憶を見返し、それらをこのレコードの音楽と歌詞の世界に取り入れたと説明しています。その結果、生み出された楽曲群は、ジェイムス・マグガバンの文学性、実際にT.S. エリオット、ポール・エリチュアール、ジム・モリソンといった詩人の影響により、さらに説得力がある内容に変化しています。また、ここには内的な痛みを包み込むような癒やしが混在するのです。


実際の音楽性からみても、デビュー・アルバムよりも幅広いサウンドが展開されていることに気がつく。オープニング・トラックのポエトリー・リーディングに触発されたと思われる「Existense」、「Belonging」といった楽曲は、近年のポスト・パンクバンドの音楽性とは明らかに一線を画しており、それらは前時代のフォーク・シンガーが試みた前衛性にも似たアプローチです。そして、フランク・シナトラを聴いていたということもあってか、旧時代のバラード・ソングの影響もところどころ見受けられます。これらの楽曲は、アルバムのオルタナティヴ・ロック・サウンドの渦中にあり、実に鋭い感覚を感じさせ、異質な雰囲気に充ちています。いわば、作品全体を通して聴いたときに、コンセプト・アルバムに近い印象を聞き手に与えるのです。

 

そして、今作において、ボーカルのジェイムス・マクガバンの歌詞や現代詩の朗読のような前衛的な手法に加えて注目しておきたいのが、ギターを始めとするバンド・サウンドの大きな転身ぶりです。実際、ザ・マーダー・キャピタルは、デビュー・アルバムで、彼ら自身の音楽性に停滞と行き詰まりを感じ、サウンドの変更を余儀なくされたといいますが、2人のギタリスト、The Damien Tuit(ダミエン・トゥット)とCathal Roper(キャーサル・ローパー)は、FXペダルとシンセを大量購入し、ファースト・アルバムのディストーション・ギター・サウンドからの脱却を試みており、それらは、#2「Crying」で分かる通り、フレーズのループにより重厚なロック・サウンドが構築されています。その他、このシンセとギターを組み合わせた工夫に富んだループ・サウンドは、アルバムの中でバンド・サウンドとして最もスリリングな「The Lie Become The Shelf」にも再登場。そして、この曲の終盤では、明らかにデビュー・アルバムには存在する余地のなかったアンサンブルとしてのケミストリーの変化が立ち現れるのです。

 

他にも、バンドのフロントマン、ジェイムス・マクガバンが今作の制作過程で強い影響を受けたのが、レディオ・ヘッドの2007年のアルバム『In Rainbows』だったそう。この時代、今でも覚えていますが、トム・ヨークとジョニー・グリーンウッドは「OK Computer」から取り組んでいたエレクトロニックとロックを融合させた新奇な音楽を一つの完成形へと繋げたのですが、これらのサウンドをザ・マーダーキャピタルは2020年代のロックバンドとして新しく組み直そうとしています。

 

そして、その斬新な音楽性は、ロンドン流の華美なポスト・パンク・サウンドと、アイルランド流の叙情性と簡潔性の合体に帰着する。これらのエレクトロニックとロックの要素の融合が、どのような結末に至ったかについては、このレコードのハイライトを成す「A Thousand Lives」、「Only Good Thing」という2曲で、目に見えるようなかたちで示されています。全般的に、この作品は洗練されており、叙情性にも富んでいますが、一つだけ弱点を挙げるなら、ジェイムス・マグガバンのボーカルの音域が少し狭いことに尽きるでしょう。この点については、イアン・カーティスに近い雰囲気を感じさせ、個人的には好みではあるのですが、ややもすると、一本調子の印象を与えかねません。しかしながら、彼自身の多彩なボーカル・スタイルと前衛的なバンド・サウンドの融合により、この難点を上手く補完しているように思えます。そう、まさに、バンド・アンサンブルの真骨頂が『Gigi’s Recovery』において示されているというわけなのです。もちろん、彼らが、この2ndアルバムにおいて、近年、完全に飽和状態にあったオルタナティヴ・ロックに新たな風を吹き込んでみせたことについては、大いに称賛されるべきでしょう。

 

 

95/100

 

 

 Weekend Featured Track 「Only Good Things」

Weekly Recommendation  


Ekin Fil 『Rosewood Untitled』


 

Label: re:st

Release Date: 2023年1月13日   

 

Genre: Ambient/Drone

 

 

Review

 

2021年7月、記録的な熱波がギリシャとトルコが位置する地中海沿岸区域を襲ったことを覚えている方も少なくないはずである。


当時、地中海地域の最高気温は、何と、47.1度を記録していた。記録的な熱波、及び、乾燥した大気によって、最初に発生した山火事は、二つの国のリゾート地全体に広がり、数カ月間、火は燃え広がり、収束を見ることはなかった。2021年のロイター通信の8月4日付の記事には、こう書かれている。


「ミラス(トルコ)4日 トルコのエルドアン大統領は、4日、南部沿岸地域で一週間続いている山火事について、『同国史上最悪規模の規模』だと述べた。4日には、南西部にある発電所にも火が燃え移った。高温と乾燥した強風に煽られ、火災が広がる中、先週以降8人が死亡。エーゲ海や地中海沿岸では、地元住民や外国観光客らが自宅やホテルから避難を余儀なくされた」と。この大規模な山火事については同国の通信社”アナトリア通信”も大々的に取り上げた。数カ月間の火事は人間だけでなく、動物たちをも烟火の中に飲み込んでしまった。

 

このギリシャとトルコの両地域のリゾート地を中心に発生した長期間に及ぶ山火事に触発されたアンビエント/ドローンという形で制作されたのが、トルコ/イスタンブールの電子音楽家、エキン・フィルという女性プロデューサーの最新アルバム『 Rosewood Untitled』です。エキン・フィルは、非常に多作な音楽家であって、2011年のデビュー・アルバム『Language』から、昨年までに14作をコンスタントに発表しています。

 

電子音楽のプロデューサー、エキン・フィルは、基本的にはアンビエント/ドローンを音楽性の主な領域に置いています。昨年に発表した『Dora Agora』は、それ以前の作風とは少しだけ異なり、ドリーム・ポップ/シューゲイザーとアンビエントを融合させ画期的な手法を確立しています。


シンセの演奏をメインとするアーティストが珍しくギター演奏に挑んでいて、異質なドローン音楽として楽しむことが出来る。デモ・テープに近いラフなミックスが施されているので、以前の王道のアンビエントとは別の音楽性を模索しているかもしれないとも取れたのでしたが、今回、スイス/ベルンのレーベル”re:st”から発表された最新作『Rosewood Untitled』を聴くかぎりでは、その読みは半分は当たっており、また、もう半分では外れてしまったと言えるかも知れません。

 

エキン・フィルの最新作『Rosewood Untitled』は、英国や米国のアンビエント・ミュージシャンとは作風が明らかに異なる。それはこのアーティストを発見した前作『Dora Agora』から明瞭にわかっていたことではあるが、才覚の全貌ともいうべきものがこの作品で明らかとなっている。


エキン・フィルの制作するアンビエントは、ブライアン・イーノのようにアナログ風のシンセサイザーを貴重としたシンプルな抽象音楽が核心にあり、稀に癒やしという感慨が押し出されている点においては、他のプロデューサーとはそれほど大きくは相違ないように思える。しかし、エキン・フィルの描く表現性は、一般的な西洋的な概念に対するささやかな抵抗や反駁ともとれる何かを感じ取ることができる。


この作品全体には、トルコという土地の文化、特に、アラビア文化とヨーロッパ文化の折衝地としてのエキゾチズムが満ち渡っている。 東洋とも西洋とも異なる、いや、むしろ、東洋と西洋の双方の文化の発祥ともいえる太古から面々と続く文化性が、トルコで発生した山火事を音楽という領域から描出したこの最新アルバムでは掴み取ることが出来る。それはまた言葉を変えれば、他の地域のリスナーにとってはあまり馴染みがない、99%が回教徒で占められるというトルコ/イスタンブール、またアナトリアの土地の文化の本質へと一歩ずつ近づいていくという意味でもある。

 

実際の音楽は、アナログ・シンセの音色を生かしたシンプルなアンビエント・ミュージックとなっている。オープニング「Borealis」では、日本の伝説的なアンビエント音楽家、吉村弘の作風を彷彿とさせるレトロな雰囲気を体感することが出来る。


これはもちろん、日本の昔のレトロ・ゲームや最初期の任天堂のゲーム音楽にも近い雰囲気のオープニングとなっています。そして、エキン・フィルは、その最初の簡素なテーマからオーケストラ・ヒットなどを用いて神秘的な音楽性を引き出し、奥行きのあるストーリーを導き出していく。しかし、音楽の物語が転がりだしたとたん、いくらかの悲哀や感傷を擁する特異なアンビエンスが展開されていくことが分かる。そして、前作と同様、米国のアンビエント・プロデューサーのGrouper(リズ・ハリス)を彷彿とさせる浮遊感のあるドリーム・ポップ風のアンニュイなヴォーカル・トラックが空間性を増していき、そのまま淡々とフェード・アウトしていく。


聞き手は、手探りのまま二曲目へと移行せざるをえないが、いまだこの段階ではこの表現しようとすることが何であるのかは不明瞭のまま。もちろん、それは地上的な表現性と宇宙的な表現性を繋ぐ神秘性という形で、エキン・フィルのアンビエントは続いていくのである。ときに、絶妙なループを施しながら、奇妙なノイズを取り入れながら、「Seasick」は、あっという間に終わってしまう。


2曲目の「Disembered」では、前曲とはガラリと雰囲気が一変する。パイプ・オルガンの音色をシンセサイザーで使用し、前の2曲よりも神秘的であり、神々しいのような世界観を綿密に作り上げていく。しかし、リードシンセの音色は常に華美な演出を避け、素朴な音色であるように抑制を効かせている。ときに主旋律に対しての対旋律が奇妙な宇宙的な質感を伴って紡ぎ出される。この段階に差し掛かると、このトルコの山火事の変遷をシンセサイザーの重なりによって描出していく。


さらに、続く、四曲目のタイトル・トラックは、より神秘的な空間が立ち上がる。一見して、少し不気味な感じのあるイントロダクションから導きだされるコントロールの利いたシンセサイザーのパッドの音色は主張性を極力抑え、その場に充溢する得難い感覚を見事に表現している。時折、導入されるマレット・シンセの音色は、真夜中に燃え盛る炎が地上を舐め尽くす様子が描かれているように思える。それはまたその山火事を見る者にとっても信じがたいような瞬間でもある。

 

これらの描写的な抽象音楽は、常に、トラックが一つずつ進むごとに深化していき、例えるなら、それは内側にある奇妙な空洞のような場所へ、深く、深く降りていくかのようである。そして、5曲目の「Hidden Place」まで来ると、聞き手はオープニングで居た場所とは異なる空間性を見出す。


大げさに言えば、最初にいた空間とは異なる別領域に居るように思える。この曲は、アルバムの中で、次の曲と共に最もドローンの要素が強いトラックとなっていますが、まさに2021年当時の夏のトルコの空気の流れのようなものを、パン・フルートの音色を介して丹念に空間として表現していく過程を捉えることが出来るのです。


そして、そのシンセのフレーズは寂寥感にあふれているが、その半面、どっしりした安定感も感じ取ることができる。ドローンの広がりは宇宙的な神秘性に直結している。そして、この曲のクライマックスは、前振りというか、アルバムのハイライトとなる次曲への連結部の役割を果たす。

 

さらに、エキン・フィルの音楽性の真骨頂ともいえるのが、つづく「Who Else」となるでしょうか。ここでは、ドローンの最北の表現性が見いだされますが、そこにはオープニングに呼応する形で、エキン・フィルのボーカルが異質な浮遊感を伴い乗せられている。そして、このドローンの中には非常にか細い、西洋主義とは異なるアラビアの文化性を読みとくことが出来る。それはなにかしら回教徒のいる天蓋にモザイク模様を頂くモスクの下に反響するコーランの輪唱を遠巻きに聴くかのようなエキゾチズムが、これらのアンビエントには揺曳している。


そして、「Meyen」に差し掛かると、神秘的な雰囲気は、突如として山火事の情景へと変貌を遂げる。曲のクライマックスでは、地中海沿岸地方の山全体を炎が舐め尽くす様子が描出されているように思える。ここに来て、信じがたい驚異的なサウンド・スケープはさらに奥行きを増していくが、それと同時に、人智では計り知れない神秘性が作品の核心のテーマにあることに気づく。アルバムのクローズ「Meyen」に聞こえるアンビエンスは筆舌に尽くしがたいものがあり、まさに圧巻というよりほかなく、鳥肌が立つような異質な感覚が充溢しているが、このクライマックスにこそプロデューサーの天才性が表れ出ているように思える。この劇的なエンディングにおいて、エキン・フィルは、人智を越えた神秘の源泉にたどり着いた。今作は、ドローン・ミュージックの最高峰に位置付けられる衝撃的なアルバムといっても過言ではないでしょう。


100/100



Weekend Featured Track #7「Meyen」

 

 Weekly Recommendation

 

Cicada 『棲居在溪源之上 (Seeking the Sources of Stream)』 

 


  

Label: FLAU  

Genre: Post Classical/Modern Classical

Release Date: 2023年1月6日   


 



 

 

Featured Review

 


台湾/台北市の室内楽グループ、Cicada(シカーダ)は、2009年に結成され、翌年、デビューを果たしています。 当初、五人組の室内楽のバンドとして出発し、インスタントな活動を計画していたといいますが、結果的には10年以上活動を行っており、台湾国内ではメジャー・レーベルのアーティストに匹敵する人気を獲得しています。

 

現在のCicadaは、ピアノのJesy Chiang、アコースティック・ギターのHsieh Wei-Lun、チェロのYang Ting-Chen、バイオリンのHsu Kang-Kaiというラインアップとなっています。メンバーの多くは芸術大学で音楽を体系的に習得した本式の演奏者が多いそうです。

 

2013年にリリースされた『Costland』以来、Cicadaは、台湾という土地をテーマに取り上げ、本島を取り巻く海の想いや人々の温かな関係性を演奏に託した楽曲スタイルを確立し、実際の風景をもとにオーケストラレーションを制作している。シカーダのメインメンバー、メインメンバー、作曲者である、Jesy Chiangは、スキューバ・ダイビングと登山をライフワークとしており、『Coastland』では、台湾西岸部へ、さらに、その続編となる『Light Shining Through the Sea』で、台湾の東岸に足を運んで、海や山を始めとする風景の中から物語性を読み解き、その風景にまつわるイメージを音楽という形で捉え直しています。台湾の穏やかな自然、また、それとは対象的な荘厳な自然までが室内楽という形で表現される。さらに、2017年の『White Forest』では、町に住む猫たちや林に棲まう鳥など、Cicadaの表現する世界観は作品ごとに広がりを増しています。


その後、2019年のアルバム『Hiking in The Mist』では、Jesy Chiangみずから山に赴いて、小川のせせらぎや木々の間を風が通り抜ける様子などをインスピレーションとし、室内楽として組み上げていきました。とりわけ、”北大武山”での夕日の落ちる瞬間、”奇來山”と呼ばれる山岳地帯の落日に当てられて黄金色に輝く草地に心を突き動かされたという。言わば、そういった実際の台湾の神秘的な風景を想起させる起伏に富んだオーケストラレーションがCicadaの最大の魅力です。

 

さらに追記として、2022年、Cicadaは、日本の文学者、平野啓一郎の『ある男』の映画版のサウンド・トラックも手掛けています。

 

 

Cicada
 

 

東京のレーベル、FLAUから1月6日に発売されたばかりの新作アルバム『Seeking the Sources of Streams』においても、アンサンブルの主宰者、作曲者、ピアノを演奏するJesy Chaingは、台湾の自然の中に育まれる神々しさを再訪し、それを室内楽という形式で捉えようとしています。

 

このアルバムについて、Jesy Chaingは次のようにバンドの公式ホームページを通じて説明しています。

 

「2年ほど前、私達、Chicadaは、前のアルバム『Hiking In The Mist』を完成させた。そして次は何をしようかと考えはじめた。やはり、山について書きたい。だが、前作とはちょっと違う観点を探してみたい。

 

迷ううちに、ずいぶんと長い時間が過ぎた。2020年10月、私は中央山脈の何段三と呼ばれるトレイルを10日かけて歩いた。登ったり降りたりが延々と続く長い山道を、毎日ゆうに10時間は歩き続けた。ついに中央山脈の心臓部にたどり着き、果てしなく広がる丹大源流域と呼ばれる谷地(やち)を目にした時の感動は筆舌に尽くしがたい。そして、そのとき、ふと悟ったのだ。ここが私達の次の作品のインスピレーションを与えてくれる場所なのだということを・・・」

 

 

Cicadaの音楽は、ピアノを基調とした、チェロ、バイオリン、ギターによる室内楽であり、映画のサウンドトラックのような趣があります。彼らは、坂本龍一、高木正勝の音楽に影響されていると公言していますが、実際のバンド・アンサンブルは、さらに言えば、久石譲の気品溢れる誠実なモダン・クラシカルや映画音楽にもなぞらえられるかもしれない。「源流を訪ねもとめて」と題された新作アルバムのオープニングを飾る「Departing In The Morning In The Rain」は、一連の物語の序章のような形で始まる。これは、『Hiking~』の流れを受け継いだ音楽性であり、親しみやすく穏やかな世界観を提示している。さらにピアノの演奏とギターの音色は、聞き手の心を落ち着かせ、そして、作品の持つ奥深い世界へ引き入れる力も兼ね備えています。

 

二曲目の「Birds-」からは、上記の楽器の他、オーボエ/フルートといった木管楽器が合奏に加わり、まさにジブリ・ファンが期待するような幻想的なサウンドスケープが展開される。演奏が始まる瞬間には、どのような音楽が出来上がるのか、演奏者の間で共有されているため、四人が紡ぎ出す音楽は、清流の中にある水のように自然かつ円滑に流れ、作品の持つ現実的な風景と神秘的なファンタジーの合間にある平らかな世界観が組み上げられていく。そして、前二曲の前奏曲の流れを継いで、三曲目の「On The Way to the Glacial Cirque」では、それらのストーリーが目に見えるような形で繰り広げられる。ピアノとギターに、チェロとバイオリンが加わり、4つの楽器により幅広い音域をカバーすることで、楽曲そのものに深みが加えられています。

 

特に、注目したいのは、ジブリの劇伴音楽を彷彿とさせる神秘性や幻想性はもちろん、チェロとバイオリンの微細なパッセージの絶妙な変化、クレッシェンド/デクレッシェンドの抑揚により、楽曲は情感が加わり、琴線に触れるような感慨がもたらされること。弦楽器の和音のハーモニーと併行する形で、楽曲の持つ世界感を押し広げているのがJesy Chiangの情感豊かなピアノの演奏であり、 そしてまた、Hsieh Wei-Luの繊細なアコースティック・ギターの演奏なのです。

 

アルバムの中に内包されている世界観は、どのように形容されるべきなのか。少なくとも、これらのオーケストラは現実的であるとともに幻想的でもある。台湾の山間部の神々しく神秘的な風景と同じように、時間とともに、その対象物の観察者しかわからないような、きわめて微細な形で、序盤の音楽は変化していきます。音楽として、急激な展開を避けることにより、その瞬間の真実性に重点が置かれていますが、それは生きているという感を与え、また、聞き手に大きく呼吸する空間性を与える。続く、四曲目の「Foggy Rain」では、華やかな前曲の雰囲気とは打って変わって、それと別の側面を提示しており、ピアノと弦楽器を基調にした淑やかなポスト・クラシカルの領域に踏み入れる。上品な弦楽のトレモロを始めとする卓越した演奏力は言わずもがな、木琴(マリンバ)、鉄琴(グロッケンシュピール)の音色は、お伽話のような可愛らしい印象を楽曲に付加するにとどまらず、アイスランドのフォークトロニカの幻想的な空気感に溢れている。それはまた、山間の夕暮れの烟る靄の中に降り注ぐ小雨さながらに、繊細で甘美な興趣を持ち合わせている。これらの瑞々しい情緒は他の音楽では得難いものなのです。

 

続く、五曲目のタイトル・トラックは、このアルバムの中での大きなハイライトでもあり、山場ともいえ、11分以上にも及ぶ大作となっています。ここでは、坂本龍一、久石譲の系譜にある柔らかな表情を持った繊細なピアノ曲が展開されますが、室内楽のアンブルやギターのソロにより、中盤部に起伏のある展開が設けられています。その後、中盤での大きなダイナミクスの頂点を設けた後に訪れるピアノの静謐でありながら伸びやかな演奏は、彼らの創造性の高さを明確に象徴づけているように思えます。この曲は、Jesy Chaingが台湾の山間部を歩いた際の風景をありありと想起させ、聞き手は心地よい癒やしの空間に導かれていきますが、それは、果てしない神秘的な空間に直結しているかのよう。まさに、ここで、表題の『Seeking the Sources of Streams』に銘打たれている通り、Cicadaはアンサンブルの妙味を介して、台湾という土地の源流を訪ね求め、さらに、その核心にある「何か」を捉えようと試みているのかもしれません。

 

そして、今作の多くの山の中にあって、谷地のように窪んだ形で不意に訪れるのが、六曲目の「Encounter at the Puddle」となります。これは、前半部のテーマの提起を受け、その後に訪れる束の間の休息、または間奏曲のような位置づけとして楽しむことができるはずです。この曲もまた、前曲と同様、オリヴィエ・メシアン等の近代フランス和声を基調にした坂本龍一の繊細なピアノ曲を彷彿とさせ、とても細やかで、驚くほど切なげであり、なおかつ、儚いような響きに彩られている。とても短い曲ではありながら、このアルバムの中にあって強いアクセントをもたらす。なにかしら深い落ち着きと平らかさが、聞き手の心に共鳴するような佳曲となっています。

 

アルバムの後半部に差し掛かると、楽曲は、精細感を増し、物語性をよりいっそう強めていきます。聞き手は、神秘的な山間の最深部に足を踏み入れ、そして、きっと、その自然の中にある何がしかの神秘性を目の当たりにすることでしょう。「Raining On Tent」は、マリンバとチェロを主体に組み上げられた一曲であり、その後にバイオリンやピアノが最初のモチーフを変奏させていく。そして、それは確かに、山間部の天候の急な変化と同じように、上空を雲がたえず流れていく際の景色の表情が、時間とともに刻々と移ろう様子が音楽として克明に捉えられている。


さらに、それに続く、8曲目の「Remains of Ancient Tree」は、スペイン音楽、ジプシー音楽の影響をほのかに感じさせ、Hsieh Wei-Lunのアコースティック・ソロと称しても違和感がないような一曲となっている。ガット・ギターのミュート奏法を介して繰り広げられる華麗な演奏は、聴き応えがあるため、かなりの満足感を与えると思われますが、このギターの卓越した演奏を中心にし、ピアノやバイオリン、チェロのフレーズが、調和的に重なり合うことによって、曲そのものの物語性やドラマ性がより強化されていきます。もちろん、それはまた、表題曲とまったく同じように、台湾の自然の源流の神秘性に接近しながら、自然の奥底にある神々しさに人間が触れる瞬間の大いなる感動とも称せるかもしれない。特に、クライマックスにかけてのチェロの豊潤な響きは、この音楽が途切れずに延々と続いてほしいと思わせるものがあるはずです。

 

これらの8つの神秘的な旅を終えて、最後の曲「Forest Trail to the Home Away Home」によって、物語は、ゆっくり、静かに幕引きを迎えます。この最後の曲は、アルバムのオープニングと呼応する形のささやかなピアノを中心とする弦楽アンサンブルとなっていますが、この段階に来て、聞き手はようやく神秘的な旅から名残惜しく離れていき、それぞれの住み慣れた家に帰っていく。しかし、実のところ、不思議なことに、Cicadaの最新作で織りなされる幻想的な感覚に触れる以前と以後に見えるものは、その意味が明らかに異なっていることに気がつくはずなのです。


 

92/100