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Big Star |
メンフィスが生んだロックバンド、Big Starは、秀逸なソングライター、タレント、バンドのスター性をすべて持ちあわせても、ヒットソングやヒットアルバムを作り出すことの難しさを歴史的に証明している。
メンフィスは古くはサザン・ソウルのメッカで、ミシシッピ川周辺のソウルミュージック、そしてほど近いニューオリンズのジャズとの連携において発展してきた。その象徴的なレコード会社がStaxレコードであった。
しかし、オーティス・レディングのようなスターを輩出した経験を持つレコード会社ですら、ビック・スターの管理には手を焼いていた。というか、宣伝に力を入れなかったのではないかと推測される。結局のところ、Big Starは米国の最初のインディーロックスターである”アレックス・チルトンの在籍したバンド”という条件付きの共通認識で音楽ファンに知られるようになる。ビックスターを信奉するアーティストは殊の外多い。ティーネイジ・ファンクラブ、REM、ウィルコなどカレッジロックやインディーロックの著名なバンドはみな、Big Starを聴いて育ったと言える。ある意味ではオルタナティヴという源流はこのバンドにあると断言出来る。
そもそも、ビッグ・スターを生んだ時代のロックは、結局、ビートルズのフォロワー・サウンド、そしてフォーク・ミュージックやソウルという自家薬籠中の音楽をどのように結びつけるかという試作段階にあった。その代表格がバッド・フィンガーである。彼らは確かに、ヒット・ソングを作り出すことに成功した。しかし、ビートルズに匹敵する実力派のバンドであったにもかかわらず、アイドルのようなプロモーションが行われたことに不満を示し、さらにメンバー内のマージンの分配の問題を抱え、最終的にはバンドとして空中分解をする。代表曲「Without You」はレコード業界の光と影であるとよく言われ、売ることの代償、バンドというものの難しさを表している。そして、彼らと似たような運命を辿ったのがビッグスターだった。
・Big Star 第一期 デビューアルバム『#1 Record』の誕生まで
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アレックス・チルトンはビッグ・スターに参加する以前に公式なヒット・ソングを持っていた。彼は、元々、ソウル・ミュージック(ブルーアイド・ソウル)を主要なバックグラウンドとしていた。メンフィスのセントラル高校に在籍していた16歳の時点で、ソウルグループThe Box Topsのメンバーに参加していた。1960年代の後半には、「Cry Like A Body」「The Letter」「Soul Deep」、「Sweet Cream Ladies, Forward March」というヒット・ソングを持っていた。
1971年に、このグループは解散し、しばらくチルトンは音楽的な漂流を重ねた。チルトンは21歳の頃、ナショナル・ストリートにあるジョン・フライのアーデン・スタジオに出入りするようになった。そのスタジオで偶然、物静かで少し愛想の悪い青年と出会う。それがクリス・ベルだった。彼は、メンフィス大学を出たあと、テネシー大学に短期間通っていた。そしてアイスウォーターというバンドで活動していた。
二人は意気投合して、ビッグ・スターを結成する。そしてクリスの高校時代の友人であったアンディ・フンメル、そしてジョディ・スティーヴンスが参加し、ベース、ドラムが加わり、1971年にラインナップが完全に整った。当初、彼らはLed Zeppelin,Bad Finger,James Gangのカバーソングとオリジナル曲を演奏し始めた。「Big Star」という名称は、当時、メンフィスにあった食料品店に因んで名付けられた。
当初、彼らはビートルズのようなロックソングを書きたいと切望していた。チルトンとベルは集中的に作曲を行い、わずか数ヶ月で十数曲を書き上げた。そしてフンメルとスティーヴンスとのライブセッションでそれらを形にしていく。そのための環境は整っていた。当時、ビックスターのメンバーは、アーデント・スタジオに気楽にアクセスし、セッションを行うことが可能だった。
そしてすでに、彼らのデビュー・アルバム『#1 Record』の大まかな骨子は、この年に出来上がっていた。アーデントはスタックスの子会社で、傘下のインディーズレーベルから1972年にデビューを果たす。 『#1 Record』は、STAXの説明によると、二番目のアーデントのリリースだった。
しかし、このアルバムが、なぜ後にロックファンの間で伝説化したのか.......。 それは、当時、このアルバムが一般的には販売されていなかったという理由である。そのため、『#1 Record」は一部の評論筋やロック雑誌の間だけで知られるに過ぎなかった。特に、このバンドのデビュー・アルバムを高く評価していたのが、ローリング・ストーン誌だ。後にローリングストーンは『史上最高の500枚のアルバム』にランクインさせた。チルトン/ベルのソングライティングは、マッカートニー/レノンとよく比較された。しかし、スタックスは、アルバムをほとんど宣伝せず、レコードショップでの販売はもちろん、ラジオでもあまりオンエアされなかった。アルバムには「The Ballad Of El Goodo」、「Thirteen」、「The India Song」が収録されていたにもかかわらず、ヒットには恵まれなかった。リリース時は数千枚の売上にとどまった。
クリス・ベルは、デビューレコードのために、レコーディングとミキシングに関して相当な試行錯誤を重ねたため、これらの商業的な失敗は、かなり堪えるものがあった。1972年末までに、ベルはこのバンドを去っていた。それに加え、チルトンに焦点を当てたレビューが彼を悩ませた。スティーヴンスは、「クリスがデビュー・アルバムのレビューを読み始めたとき、物事が少しずつ悪化しはじめた」とドキュメンタリー映像『Nothing Can Hurt Me』で語る。「それは彼の創造的なビジョンの非常に大きなウェイトを占めていたので、プレスのレビューがアレックスに焦点を当てて帰ってきたとき、彼はミュージシャンとして今後その影響下で生きなければならないと考えたのだった」
・第二期 セカンドアルバム『Radio City』の制作の難航 バンドの空中分解
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主要メンバーのベルが去った後、ビッグ・スターの活動は行き詰まっていた。残された三人のメンバーは、ラフィエットのミュージック・ホールの閉会式の後のコンサートで演奏するために久しぶりに再会した。このショーは成功し、アーデントのジョン・キングがチルトン、フンメル、スティーヴンスを説得し、セカンドの制作をするように勧めた。
ジョン・フライは、「バンドが次のアルバムの制作を決めたことは嬉しかった。けれど、それはナイトクラブ、バーや酒のために生み出されたとも言える。つまり、(セカンド・アルバム)ラジオ・シティに映る地理がここに見えてくる」と回想する。
プロデュース的なロック/フォークサウンドであったファーストと比べると、その違いは一目瞭然である。ブルースやソウル、サザンロックといったチルトンの音楽的な背景を駆使し、ライブサウンドに近いロックがセカンドアルバムには見いだせる。セカンドの制作に取り掛かったビッグ・スターは、チルトンを中心に作曲を行い、フンメルやスティーヴンスも同じように、ソングライティングに貢献を果たした。その中には、バンドを去ったクリス・ベルが残した遺産も含まれていた。それが、「O My Soul」「Back of A Car」といったトラックだ。
スタジオのセッションでは、音楽的なプロデュースの役割を担っていたベルの不在のため、以前よりも緩くなり、散漫に陥ることもあったが、バンドはそれらの欠点を受け入れようとした。しかし、デビュー時のような熱量は失われつつあった。ライブセッションに価値を見いだせなかったフンメルは、ビッグ・スターを脱退し、ロッキードに勤務し始める。メンバーの多くは、この年代にありがちな進路の問題を抱え、ビッグスターの活動は暗礁に乗り上がりつつあった。
セカンド・アルバムは、バンドとしての見通しがたたない中、1974年2月にリリースされる。アルバムの中では、「September Gurls」がヒットの可能性があると目されていた。しかし、デビュー・アルバムと同じように、STAXの流通の問題が再燃した。『Radio City』は数千枚の売上にとどまり、商業的な成功には至らなかった。しかし、このアルバムの収録曲にはカバーアンセムが含まれている。The Replacements,The Banglesがカバーしていることは付記しておくべきだろう。
ビッグ・スターは、公式には二作のアルバムをリリースしたに過ぎなかった。次のアルバム『Third』を加えたとしても三作。しかし、3つ目のアルバムがリリースされたのは2000年代以降、正確に言えば2016年である。こうした中、最初のオリジナルメンバーは、チルトンとスティーヴンスだけになる。1974年の秋、彼らはプロデューサー、ジム・ディッキンソンとリボルビング・キャスト・スタジオに戻り、新しいレコードの制作に取り組もうとした。
ところが、プロデューサーのディッキンソンは、明らかにこのバンドがすでに空中分解しようとしているのを肌で感じ取っていた。「その頃すべてが悪化していたんだ。そして、それはレコードにはっきりと表れ出ていた。 しかし、まだ地理性のようなものが含まれていた。ミッドタウン……、つまり、メンフィスらしさがあった。しかし、バンドとしてはすべてが悪化しつつあった。それはレコードにはっきりと捉えられている。芸術的なビジョンの分解という....... 」
Big Starの三枚目のアルバムのレコード制作の噂は長いあいだ眉唾ものとされていたが、マッシュアップタイトル「Third/ Sister Lovers」の出現により、現実視されるに至った。しかし、全般的には、ジョン・フライがレコーディングを中止したほど、アルバムの制作は完成には程遠かった。
結局のところ、彼らのファンの間では、三枚目のアルバムは幻となり、「#1 Record」「Radio City」がビッグ・スターの公式のリリースという見解が根強い。STAXもバンドのおすすめ作品として、ファーストとセカンドを重要視しているようだ。
「I'm In Love With A Girl」(Radio Cityに収録)