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 Beach Fossils 『Bunny』

 

 

Label: Bayonet(日本国内ではP-Vine Inc.より発売)

Release: 2023/6/2


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Review

 

2010年代のニューヨークのインディーシーンの象徴的な存在、Beach Fossilsは、以前から何度も述べているが、Wild NothingやDIIV、Mac Demarcoと並んで、キャプチャード・トラックスの代名詞的なバンドとして活躍してきたことは疑いがない。モダン・オルタナティヴの文脈におけるスケーター・ロックとローファイ、ドリーム・ポップを融合させた独特な音楽性を引っさげて彼らは地元を中心に魅力的なシーンを形成していった経緯がある。


最初のドラマーが脱退した後、『Somersault』からCapured Tracksのスタッフとして勤務していたジャスティン・ペイザーのガールフレンド(現在は妻)と設立したレーベル、Bayonet Recordsから作品のリリースを行うようになった。2017年のアルバム『Somersault』では、ネオソウルやローファイホップなどの要素を織り交ぜ、インディーロックバンドとしての枠組みにとらわれない新鮮なポピュラーミュージックに取り組んだ。その後、アメリカから中国に転居したオリジナルメンバー、Tommy Gardner(トミー・ガードナー)とジャスティンが二人三脚で既存の楽曲のジャズ・アレンジしたアルバムを発表している。ジュリアード音楽院の出身であるジャズマンとしてのトミー・ガードナーのサックスの手腕を楽しむことが出来る一作となっている。

 

今回のアルバムは一転して、バンドの出発点に立ち返ったかのような懐かしい作風に回帰を果たした。ニュージャージのインディーロックバンド、Real Estateのコアでノスタルジックなサウンドを彷彿とさせ、つまり、サーフ・ロックを基調とした懐古的なサウンドの風味を織り交ぜ、ビーチ・フォッシルズらしい繊細なメロディーラインやコード感を搭載した作品となっている。リリースこそ二年と、それほど大きなスパンは開いてはいないが、近年のビーチ・フォッシルズの作品の中でも最も難産なアルバムとも称せるものとなったかもしれない。『Bunny』を制作するに際して、ジャスティン・ペイザーの人生がミュージシャンであることをより困難にした。彼はミュージシャンであるとともに立派な家庭人でもあった。子育てを続ける傍ら、夜から明け方にかけて詩を書き続けた。翌朝すぐに、子供の送り迎えをしに行った。加えて、彼自身の持病の克服の必要性もあった。投薬治療を重ねながら、自らの特性との折り合いをつける必要に駆られた。このアルバムの背後の時間には、フロントマンの様々な人生が流れており、従来より遥かにジャスティン・ペイザーという人物が身近に感じられる作品となっていることも、今作を聞く限り疑いを入れる余地はないのだ。

 

そういった忙しない日常の合間を縫って制作されたアルバムではあるものの、それほど音楽自体は気忙しいわけではない。むしろ、どっしりと腰を据えたような音楽性が貫かれている。アルバムのオープニングを飾る「Sleeping On My Own」は旧来のフォッシルズのファンで嫌いという人を見つけるのは難しいだろう。これまで彼らがニューヨークのミュージック・シーンに何をもたらしてきたのか、そのことが顕著にうかがえるようである。Real Estateを彷彿とさせるディレイ/リバーヴを掛けたギターラインに、以前と同じように浮遊感のある抽象的なジャスティン・ペイザーのヴォーカルが搭載される。ここに旧来のファンは2011年の頃からビーチ・フォッシルズはメンバーを入れ変えようとも、音楽性の核心については大きな変更を加えなかったこと、あるいは、以前から同じバンドでありつづけたという事実の一端を発見することになる。そこには以前と同じように、ローファイの影響を突き出し、完璧主義を廃した少し気の抜けたようなオルタナティヴロックサウンドの幻影を捉えることも出来る。

 

『Somersault』を含め、従来のビーチフォッシルズの最大の魅力としては、メロディーラインの淡い叙情性があった。そしてそれはとりも直さず、2010年からこのバンドの重要な骨格を形成していたのだったが、その点は今作にもしたたかに受け継がれており、オープニングトラックや「Don't Fade Away」にその魅力の一端を見出すことが出来るはずである。そして、そういった旧来のオルタナティヴ・ロックの方向性に加え、カントリー調のアプローチが見られ、二曲目の「Run To The Moon」では、ニール・ヤングの「Harvest Moon」の時代の古典的なフォークミュージックをバンドサウンドの中に取り入れようとしている。これは、旧来のファンとしては目から鱗ともいうべき新鮮な印象を受けるであろうし、ビーチ・フォッシルズの音楽が円熟味を増したことの証左ともなりえるのではないか。そしてそこにはジャスティン・ペイザーのロマンチストとしての視点がわずかながら伺える気がする。リスナーは1970年代のサウンドと2020年代のサウンドとも付かない時代を超えたアメリカン・ロックの真骨頂を、この曲の中に見出すことだろう。

 

そういった新旧の米国のロック・ミュージックの影響を織り交ぜながら、「(Just Like The)Setting Sun」では、盟友であるWild Nothingの稀代の傑作「Gemini」への親和性を示している。そして以前のように、適度に力の抜けたゆるいインディーロックソングを提示し、季節外れのビーチの海辺を当てもなく彷徨うような、このバンドの代名詞となるサウンドの真骨頂へと迫っていく。サウンドのアプローチとしては、現代の米国のオルタナティヴ・ロックと乖離しているというわけではないが、この曲に象徴されるように、ビーチフォッシルズの志向するサウンドはデビュー時から一貫しており、チェンバー・ポップ/バロック・ポップに象徴される60~70年代のノスタルジックなロックサウンドをいかなる形で現代に復刻させ、それを彼らの理想とする音楽として組み上げるのかということに尽きる。そして、そのサウンドの風味は、現代のミュージックファンのみならず、旧来のビートルズ・ファンをも懐かしい気持ちにさせ、時間性を亡失したかのような陶酔的な甘美さの中に聞き手を招き入れるとともに、しばし、その緩やかで穏やかな時間の最中に留まらせることを促すのである。

 

アップテンポのナンバーはそれほど多くないが、旧来のようなドライブ感のある楽曲「Tough Love」がアルバムの中で強い印象を放つ。これは「Clash The Truth」とともに彼らの代表的な作品として名高い「Somersault」において若干の音楽性の変更を試みたバンドの次なる挑戦となり、まったりとしたサウンドの妙味に加え、 繊細なエモーションを織り交ぜた彼ららしいサウンドがドライブ感のあるリズムに支えられ、ライブ感のあるサウンドへと昇華されている。これまでフォッシルズはレコーディングバンドであるとともに、ライブバンドとしても活躍してきたわけで、実際のライブセットに取り入れることを想定した一曲とも言えるのではないか。ファンとしては、ぜひこの曲を実際のステージで聞いてみたいという欲求に駆られることだろう。

 

アルバムの後半では、ビーチ・フォッシルズは新旧の要素を変幻自在にクロスオーバーさせている。「Seconds」や「Numb」は、デビューアルバム「Beach Fossils」に収録されていたとしても違和感がなく、小気味よいインディーロックソングとして楽しめる。一転してアルバムのクローズを飾る「Waterfall」では、「Somersault」におけるスローテンポのネオソウル、トリップホップ、オルト・ロックを融合させたモダンなアプローチへと歩みを進めている。また、最後のトラックでは、例えば、デビュー・アルバムのクローズ「Gathering」の人気のない夕暮れの浜辺のサウンドスケープを思わせる、青春の淡く儚い雰囲気を再び呼び覚まそうとしていることに注目したい。

 

76/100

 

 Foo Fighters 『But Here We Are』

 

 

Label: Roswell Records Inc.

Release:  2023/6/2

 

Review

 

デイヴ・グロールがRCAのインプリントとして95年に設立したRoswellから発売となった「But Here We Are--だが、私たちはここにいる」という名を冠したフー・ファイターズのアルバムは、 タイトルからも分かるように、2022年3月に惜しまれつつ亡くなったテイラー・ホーキンスへの追悼の意味を込めた作品である。いまだに彼の追悼コンサートでの彼の息子のシェーン・ホーキンスの素晴らしいドラムの演奏が目にありありと浮かぶ。あの時、バンドには選択肢がいくつかあった。テイラー・ホーキンスを代えの効かない唯一無二のドラマーとしてフー・ファイターズを封印するという可能性もなくはなかった。しかし、バンドは以前とは別のバンドになると思うが、活動を継続すると発表した。結局、それをしなかったのは、フー・ファイターズというバンド自体が、友人の死、そして、コバーンの弔いの意味から95年に出発したグループであるからなのだと思う。そして、おそらく、テイラー・ホーキンスの死後になって、フー・ファイターズの未知の音楽を聴きたいというファンの思いは、さらに強まったともおもわれる。結局は、デイヴ・グロールは旧来のファンの期待を裏切るわけにはいかなかったのだ。

 

しかし、「これからは全く別のバンドになるだろう」というバンドからのメッセージは、この最新作を聞く限りでは、むしろ良い意味で期待を裏切られることになる。実際、アルバムを聞くまでは、旧来の作風とは異なる内容かと思ったのだけれども、正直なところ、95年のデビュー・アルバムから受け継がれたフックの聴いたアメリカン・ロックの方向性にそれほど大きな変更はないように感じられる。95年から2000年代初頭にかけて、フー・ファイターズは、実質的に94年にジャンルの終焉を迎えたとされるグランジの後の世代、サウンド・ガーデンやアリス・イン・チェインズを始めとする、以前の時代から活躍してきたヘヴィ・ロックバンドの穴埋めをするような形で、親しみやすく、シンガロング性の強いアメリカン・ロックのカタログを残してきた。さらに、その表向きのポスト・グランジとしてのヘヴィ・ロックバンドの表情の裏に、エモーショナルなメロディーや淡い情感を、それらのパワフルな性質を持つ楽曲の中にそれとなく組み入れてきた。そして、驚くべきことに、従来はアルバムの収録曲の中盤に据え置かれてきた印象もあったそれらのエモーショナルな楽曲は、今やバンドにとっての最大の強みと成り代わり、隠しおおそうともせず、また、いくらか恥ずべきものとして唾棄するでもなく、アルバムのオープニング「Rescued」のイントロを飾ることになった。これは例えば旧来のフー・ファイターズのファンを驚かせるような結果となるのではないか。95年から20数年間において、これまでパワフルなロックバンドとしての勇姿をファンの前で示しつづけてきた印象もあったけれど、もはや、テイラー・ホーキンスの死後に至り、フー・ファイターズは内省的なロックソングを彼らの作品の矢面に立たせることを微塵も恐れなくなったのである。

 

アルバムのオープニングを理想的に飾ったのち、二曲目の「Under You」以降は、これまでの音楽性を踏まえたフー・ファイ・サウンドが全開となる。まるで数年間休ませておいたエンジンを巻き、アクセル全開で一気に突っ走っていくような軽快なエネルギーにあふれている。そして、彼らの新しいサウンドを待ち望む世界の無数のロックファンの期待に応えるべく、フー・ファイターズは万人に親しめるアメリカン・ロックの精髄を叩きつける。誤魔化しは存在しない。たとえ泥臭いと思われようと、不器用とおもわれようと、まったくお構いなく、自分たちの信ずる8ビートのシンプルで直情的なロックンロールを純粋にプレイし続けるのだ。

 

しかし、このアルバムがフー・ファイターズの代名詞であるアメリカン・ロックを主眼に置いているからといって、彼らが新しいサウンドを提示していないというわけではない。タイトル曲「But Here We Are」には新生フー・ファイターズとしての片鱗が伺え、変則的なリズムを配し、近年で最もヘヴィーな瞬間へと突入する。この曲にはオルタナティヴ/グランジの後の時代のタフな生存者として活躍してきたロックバンドとしてのプライドが織り込まれており、これはまた90年代以降のヘヴィロックの流れをその目で見届けてきたロック・バンドとしての意地でもある。そしてこのロックソングはホーキンス亡き後のバンドとしての力強い声明代わりになるとともに、バンドにとっての新しいライブ・アンセムとなってもおかしくないような一曲だ。


その後、アルバムの冒頭の「Rescued」で読み取ることが出来るエモーションは、90年代のグランジの暗鬱な情感と複雑に絡み合うようにして強化されていく。「Show Me How」ではサウンド・ガーデンのクリス・コーネルが書いたような瞑想的なグランジ・サウンドを現代に呼び覚まし、それを深みのある形に落とし込んでいる。しかし、グランジを下地に置くからといって、それほど暗澹とした雰囲気はほとんど感じられず、そこにはからりとした乾いた質感すら漂っている。これはデイヴ・グロールのソングライティングの才覚が最大限に発揮された瞬間と称せる。そのあと、アメリカのロックバンドとしての印象はアルバムの後半に至るほど強まっていき、それは80年代のナイト・レンジャーのようなメタリックな雰囲気すら帯びるようになる。

 

テイラー・ホーキンスの追悼の意味合いは、クライマックスに至るとより強まり、クローズド・トラック「Rest」でさらに鮮明となる。90年代や00年代のオルタナという彼らが三十年近く親しんで来たお馴染みのスタイルを通じて、神々しい雰囲気の曲調で盟友の死を弔わんとしている。しかし、「レスト」のあとに「イン・ピース」を付けなかったのは理由があり、フー・ファイターズとして、この世にやるべき何かが残されていること、彼らの旅がこれからも続くことを暗示している。不器用なまでに「アメリカのロックバンド」としての姿に拘りつづけること、古いスタイルと指摘されようとも恐れず勇敢に前進し続けること、それが今日もフー・ファイターズが幅広いファンに支持され、愛されつづける理由でもあるのだ。正直なところをいえば、ケラング誌が満点を出したのも納得で、近年のアルバムの中では白眉の出来栄えとなっている。


 

85/100

 

 

 Featured Track「Rescued」

 Noel Gallagher's High Flying Birds 『Council Skies』

 

 

Label: Sour Music

Release:2023/6/2



Review

 

今に始まったことではないが、例によって兄弟間の間接的な激しい舌戦が収まらぬうち、そしてオアシスの再結成の話が空転する中、今年の年末に来日公演を控えているノエル・ギャラガーズ・ハイ・フライング・バーズのアルバムがついに発売となった。いや、このアーティストに対してきわめて複雑な感情を抱くファンにとっては「発売されてしまった」というべきなのか。

 

アルバムのオープニングを飾る「I'm Not Giving Up Tonight」を通じてわかることがある。今作において、ノエル・ギャラガーはスタンダードなフォーク・ミュージックとカントリーの要素を交えつつも、ポピュラー・ミュージックの形にこだわっている。微細なギターのピッキングの手法やニュアンスの変化に到るまで、お手本のような演奏が展開されている。言い換えれば、音楽に対する深い理解を交えた作曲はもちろん、アコースティック/エレクトリックギターのこと細かな技法に至るまで徹底して研ぎ澄まされていることもわかる。どれほどの凄まじい練習量や試行錯誤がこのプロダクションの背後にあったのか、それは想像を絶するほどである。このアルバムは原型となるアイディアをその原型がなくなるまで徹底してストイックに磨き上げていった成果でもある。そのストイックぶりはプロのミュージシャンの最高峰に位置している。

 

#2「Pretty Boy」もこのアーティストらしい哀愁と悲哀を交えたお馴染みのトラックであるが、旧来のオアシス時代のファンに媚びようとしているわけでもなく、もちろん楽曲自体も時代に遅れをとってはいるわけでもない。最新鋭のエレクトロやダンスミュージックの影響を交えながら、やはりノエル・ギャラガーは自分なりのアーティストとしての美学を貫き通すのだ。そして必ずといっていいほど、メロに対比する楽曲のピークとなるサビを設けている。これはアーティスト自身が言うように、かつてジョン・ピールがホスト役を務めたBBCのTop Of The Popsの時代の「夢のある音楽」を再び現代の世界のミュージックシーンに復刻したいという切なる思いがあるからこそ、こういったスタンダードな作曲スタイルを取り入れているのかもしれない。


#3「Dead To World」はタイトルこそドキッとするが、繊細な情感を少しも失うことなく、良質なフォークミュージックの見本を示している。繊細なストロークから織りなされるアコースティック・ギターの巧みな演奏は、時代を忘れさせるとともに、音楽そのものに没入させる力を持っている。そしてそのギターの上に乗せられるギャラガーの歌声はやさしく、慈しみがあり、さらに情感たっぷり。もちろん、トラックの上に重ねられるオーケストラのストリングスの重厚なハーモニーは、彼のボーカルの抑揚が強まるとともに、そのドラマティック性を連動するように引き出している。高揚したテンションと落ち着いたテンションを絶えず行き来するノエル・ギャラガーの老練とも称するべき巧みなボーカルは、潤沢な音楽経験と深い知識に裏打ちされたもので、そしてそれは一つの方法論であるのとどまらず、ポピュラーミュージックとして多くの音楽ファンの心を魅了する力をそなえている。音楽のパワーをノエル・ギャラガーは誰よりも信じている。実際、それは本当の意味で人の心を変える偉大な力を持っているのだ。

 

 

 オアシスの名前は出さない予定であったが、続くアルバムの最終の先行シングルとして公開された#4「Open The Door,See What You Find」では明らかにオアシスに象徴される90年代のブリット・ポップの音楽の核心に迫ろうとしている。この時代、宣伝文句ばかりが先行し、ブリット・ポップという言葉が独り歩きしていた印象を後追いの世代としては覚えるのだが、しかし、その本質をあらためて考えなおしみると、ポスト・ビートルズということが言えると思う。そしてこの曲を聴いて分かる通り、90年代のリアルタイムに多くのリスナーがインスパイラル・カーペッツ(ノエル・ギャラガーはデビュー前にバンドのローディーをしていたと思う)やハッピー・マンデーズやザ・ストーン・ローゼズの後の時代の奇妙な熱に浮かされていたために、聴きこぼしていたもの、その本質を曲解していたものをあらためてノエル・ギャラガーは2020年代に抽出し、その本質を真摯に捉えようとしている。ノエル・ギャラガーは、オーケストラのベルやストリングスを効果的に用い、ビートルズの時代のチェンバーポップやバロックポップへの傾倒をみせながら、晴れやかなポピュラー・ミュージックをこのトラックで示そうとしている。アルバムタイトルには混乱した次の時代への道標ともなるべき伝言が込められているが、それは聞き手に対し一定の考えを押し付け、その考えに縛りつけつおこうとするのではなく、最後はその目で見届けなさい、というメッセージが込められているのである。

 

その後、このアルバムは比較的、ゆったりとした寛いだ感じのあるフォーク・ミュージックへと舵を取る。それは長い長い航海の中で行き先も知れず、広々とした大海を上をぼんやりと揺蕩うかのようでもある。この曲でも、旧来のOASISの最初期の音楽性を踏まえ、現代の英国のフォーク・ミュージックとの距離感を計りながら、普遍的なポピュラーミュージックの「終着点」を探している。しかし、それは90年代の「Wonderwall」のように孤独や孤立に裏打ちされた感覚ではなく、ワイルドなアメリカン・ロックのような雄大さが重視されている。これはミュージシャンの近年顕著になってきている傾向でもある。90年代を通じて英国を代表するロックミュージシャンでありつづけたノエル・ギャラガーではあるものの、この曲を見るかぎり、世界音楽の最大公約数を探し求めようとしている。そして、歌詞はやはり情感たっぷりに歌われ、ドラマティックなストリングスがその歌詞やボーカルの情感を徐々に引き上げるのである。


さらにノエル・ギャラガーは表向きの音楽の軽薄さにとどまることなく奥深い感情表現の領域へと足を踏み入れていく。つづく「Easy Now」は、このアルバムの収録曲の中で最もビートルズの影響下にあり、イントロダクションでは、マッカートニー/レノンの音楽性の最も見過ごし難い部分である瞑想性を再現させようとしている。苦悩や憂いといった感覚が先立つようにして、うねるような感覚が内面にうずまき、それが外交的とも内省的とつかない、すれすれの部分でせめぎ合いながら、後の展開へと引き継がれる。これまでアーティストが書いてきた曲の中で最も感情的なこのトラックは、近年それほど感情をあらわにしてこなかった印象のあるフライング・バーズのイメージを完全に払拭するものとなっているが、しかしながら、サビに至るや否や、アーティストらしさが出て来て、「Standing On The Shoulders Of Giants」の「Sunday Morning Call」のようなアンセミックなフレーズに繋がっていく。その後には哀愁に充ちたこれまでとは一風変わった展開へと続いている。これはアーティストが自身のソングライティングの癖を捉えつつ、旧来のイメージから脱却しようと試みた瞬間であるとも解釈出来るかもしれない。 

 

更に旧来のイメージを覆すのが続くタイトル曲である「Council Skies』で、ここでは飽くまでポピュラー・ミュージックを主体にしながら、トロピカルな要素やラテン系のリズムを取り入れた画期的な作風へと挑んでいる。やはりボーカルのフレーズには哀愁が立ち込めているが、ブラジルのボサノヴァ風の陽気なリズムと旋律を付け加え、特異なポップスとして仕上げている。旧来のファンとしては最も面白さを感じる一曲で、基本的にはメジャーコードの性質が強いけれど、移調の技法を巧みに取り入れ、短調と長調の間をせわしなく横断している。しかし中盤にかけて、ロックンロールの要素が強まり、ボサノヴァとロックの要素が絡み合うようにして、いくらか混沌とした瞬間を迎える。これを刺激的な瞬間と捉えるかどうかは聞き手次第ではあるけれど、少なくともこのトラックはこれまでノエル・ギャラガーが書いてこなかったタイプの珍しい内容で、アーティストが新たな境地を切り開いた瞬間とも称すことができるのではないだろうか。

 

続く、#8「There She Blows!」は90年代のUKポップのファンをニヤリとさせる曲で、明らかにThe La'sの傑作「There Shes Goes」に因んでいる。(以前、アーティストは、オアシスとして日本で公演を行った時、ちょうど偶然、同時期に来日していたThe La'sの公演を仲良く兄弟で見ていたと記憶している)無類のUKポップスファンとしての矜持と遊び心が感じられるナンバーである。また、旧来のオアシスファン心を安堵させるものがあるとおもう。ノエル・ギャラガーはリー・メイヴァースに対するリスペクトを示した上で、渋さのあるメイヴァーズのリバプール・サウンドをこの時代に復刻させようと試みている。ミュージシャンとしてではなく、音楽ファンとしての親しみやすいノエル・ギャラガーの姿をこのトラックに垣間見ることが出来るはずだ。

 

以上のように、ノエル・ギャラガーズ・ハイ・フライングバーズは、近年の作風の中で最も多彩味あふれるアプローチを展開させていくが、アーティストのロックンロールに対する一方ならぬ愛着もこの曲に感じとられる。「Love Is a Rich Man」ではスタンダードなロックの核心に迫り、Sladeの「Com On The Feel The Noise」(以前、オアシスとしてもカバーしている)グリッターロックの要素を交え、ポピュラー音楽の理想的な形を示そうとしている。ロックはテクニックを必要とせず、純粋に叫びさえすれば良いということは、スレイドの名曲を見ると分かるが、ノエル・ギャラガーはロックの本質をあらためて示そうとしているのかもしれない。


「Think Of A Number」では渋みのある硬派なアーティストとしての矜持を示した上で、アルバムのクライマックスを飾る「We're Gonna Get There In The End」は、ホーンセクションを交えた陽気で晴れやかでダイナミックな曲調で締めくくられる。そこには新しい音楽の形式を示しながら、アーティストが登場したブリット・ポップの時代に対する憧れも感じ取ることも出来る。


90年代の頃からノエル・ギャラガーが伝えようとすることは一貫している。最後のシングルの先行リリースでも語られていたことではあるが、「人生は良いものである」というシンプルなメッセージをフライング・バーズとして伝えようとしている。そして何より、このアルバムが混沌とした世界への光明となることを、アーティストは心から願っているに違いあるまい。

 

 

86/100

 

 

『Council Skies』- Live At BBC  (アルバムの収録バージョンとは別です)

 

 

 

Label: Warp Records

Release: 2023/5/26


Purchase


Review 


私たちは自分たちを人間と呼んでいますよね。でも、私たちは、お互いに動物的なことをする。人間らしさを奪うことで、不道徳を正当化する。彼らは動物だから、そのように扱うことができるんだ。この曲の中に出てくるさまざまな種類の小さな疑問は、すべて人間性に関する疑問を指しています。それとも、私はサーカスの動物なのだろうか? これらの問いは、私が人種について考える方法と交差しています。

 

ーーKassa Overall

 


カッサ・オーバーオールは、スコットランドのヤング・ファーザーズと同様、上記のようなレイシズム(人種差別)に対する問題を提起する。日本ではそれほど知名度が高くないアーティストの正体は依然として不明な点も多いが、ワープ・レコードの紹介を見る限り、基本的には、カッサ・オーバーオールはラップのリリシストとしての表情に合わせてジャズ・ドラム奏者としての性質を併せ持っているようだ。

 

それは例えば、同レーベルに所属するYves Tumorと同様、ブレイクビーツの要素を備えるソウル/ラップの音楽性に加えて、古典的なジャズの影響がこのアルバムに色濃く反映されていることがわかると思う。そして、それはモダンジャズに留まらず、タイトル曲「It's Animals」ではニューオリンズのオールドなラグタイムブルースという形で断片的に現れている。全般的には、ジャズの側面から解釈したヒップホップというのが今作の本質を語る上で欠かせない点となるかもしれない。そして、表向きには、前のめりなリリシストとしての姿が垣間見えるけれど、その背後にピアノのフレージングを交え、繊細な感覚を表そうとしているのもよく理解できる。ときおり導入される豚の鳴き声は、「動物」として見做される当事者としての悲しみが含まれており、それはとりもなおさず制作者のレイシズムに対する密かな反駁であるとも解釈できる。しかし、それは必ずしも攻撃的な内容ではなく、内省的なアンチテーゼの範疇に留められている。つまりオーバーオールは問題を提起した上で、それを疑問という形に留めているのだと思う。つまり、そのことに関して口悪く意見したり、強い反駁を唱えるわけではないのだ。

 

その他にも、暗喩的にそれらのレイシストに対するアンチテーゼが取り入れられている。アルバムのオープニングを飾る「Anxious Anthony」は、ゲーム音楽の「悪魔ドラキュラ城」のテーマ曲を彷彿とさせ、ユニークでチープさがあって親しみやすいが、これもまたアートワークと平行して、人間ではない存在としてみなされることへほのかな悲しみが込められているようにおもえる。

 

「Ready To Ball」以降のトラックは、カッサ・オーバーオールのジャズへの深い理解とパーカッションへの親近感を表すラップソングが続いてゆく。リリックは迫力味があるが、比較的落ち着いており、その中に導入される民族音楽のパーカッションも甘美的なムードに包まれており、これが聞き手の心を捉えるはずだ。しかし、オーバーオールはオートチューンを掛けたボーカルをコーラスとして配置することにより、生真面目なサウンドを極力避け、自身の作風を親しみやすいポピュラーミュージックの範疇に留めている。オーバーオールは、音楽を単なる政治的なプロバガンダとして捉えることなく、ジャズのように、ゆったりと多くの人々に楽しんでもらいたい、またあるいは、その上で様々な問題について、聞き手が自分の領域に持ち帰った後にじっくりと考えてもらいたいと考えているのかもしれない。その中に時々感じ取ることが出来る悲哀や哀愁のような感覚は、不思議な余韻となり、心の奥深くに刻みこまれる場合もある。

 

リリックの中には、世間に対する冷やかしや、ふてぶてしさもしたたかに込められており、「Clock Ticking」では、トラップの要素とブレイクの要素を交え、サブベースの強いラップソングを披露している。この曲は、旧来のワープレコードの系譜を受け継ぐトラックとして楽しむことが出来る。その後、カッサ・オーバーオールの真骨頂は、幽玄なサックスの演奏を取り入れ、フリージャズとダブとエレクトロニックを画期的に混合させた「Still Ain't Find Me」で到来する。トラックの終盤にかけて、アヴァン・ジャズに近い展開を織り交ぜつつ、ブレイクビーツの意義を一新し、その最後にはノスタルジックなラグタイム・ジャズのピアノを混淆させた前衛的な領域を開拓してみせている。まさに、Yves Tumorがデビュー・アルバムで試みたようなブレイクビーツの新しい形式をジャズの側面から捉えた画期的なトラックとして注目しておきたい。

 

このアルバムの魅力は前衛的な形式のみにとどまらない。その後、比較的親しみやすいポピュラー寄りのラップをNick Hakimがゲスト参加した「Make My Way Back Home」で披露している。Bad Bunnyのプエルトリコ・ラップにも近いリラックスした雰囲気があるが、オーバーオールのリリックは情感たっぷりで、ほのかな哀しみすら感じさせるが、聴いていて穏やかな気分に浸れる。


「The Lava Is Calm」も、カリブや地中海地域の音楽性を配し、古い時代のフィルム・ノワールのような通らしさを示している。ドラムンベースの要素を織り交ぜたベースラインの迫力が際立つトラックではあるが、カッサ・オーバーオールはラテン語のリリックを織り交ぜ、中南米のポピュラー音楽の雰囲気を表現しようとしている。これらの雑多な音楽に、オーバーオールは突然、古いモノクロ映画の音楽を恣意的に取り入れながら、時代性を撹乱させようと試みているように思える。そしてそれはたしかに、奇異な時間の中に聞き手を没入させるような魅惑にあふれている。もしかすると、20世紀のキューバの雰囲気を聡く感じ取るリスナーもいるかもしれない。

 

「No It Ain't」に続く三曲も基本的にはジャズの影響を織り交ぜたトラックとなっているが、やはり、旧来のニューオリンズのラグタイム・ジャズに近いノスタルジアが散りばめられている。そのうえで、クロスオーバーやハイブリッドとしての雑多性は強まり、「So Happy」ではアルゼンチン・タンゴのリズムと曲調を取り入れ、原初的な「踊りのための音楽」を提示している。このトラックに至ると、ややもすると単なる趣味趣向なのではなく、アーティストのルーツが南米にあるのではないかとも推察出来るようになる。それは音楽上の一つの形式に留まらず、人間としての原点がこれらの曲に反映されているように思えるからだ。 


最初にも説明したように、タイトル曲、及び「Maybe We Can Stay」は連曲となっており、ラグタイム・ジャズの影響を反映させて、それを現代的なラップソングとしてどのように構築していくのか模索しているような気配もある。アルバムの最後に収録される「Going Up」では、ダブステップやベースラインの影響を交え、チルアウトに近い作風として昇華している。ただ、このアルバムは全体的に見ると、着想自体が散漫で、構想が破綻しているため、理想的な音楽とは言いがたいものがある。同情的に見ると、スケジュールが忙しいため、こういった乱雑な作風となってしまったのではないだろうか。アーティストには、今後、落ち着いた制作環境が必要となるかも知れない。



 75/100

 

Featured Track 「Going Up」 
 

 Arlo Parks 『My Soft Machine』

 


Label:  Transgressive

Release: 2023/5/26

 

Review

 

2021年のデビューアルバム『Collapsed In Sunbeams』から2年が経ち、アーロ・パークスは様々な人生における変化を起こした。

 

ブリット・アワードの受賞もそうだし、ソールドアウトツアーもあった。そして、海外でのライブを開催する機会にも恵まれた。来日公演時の夏、アーロ・パークスが日本の少し古めかしさのある街角をラフな姿で歩き回る瞬間を目撃したファンもいるかもしれない。そういった人生の広がりがこの二作目のアルバムには反映されているという気がする。また、アーティストは故郷のロンドンを離れ、ロサンゼルスへと活動拠点を移している。そのせいもあってか、この二作目は一作目におけるベッドルームポップの方向性に加え、少なからず西海岸の音楽の気風を反映した作風となっている。それはアーロ・パークスが信奉するインディーロック/オルタナティヴロックや、ロサンゼルスのヒップホップ・カルチャーを彼女自身の音楽性の中に取り入れ、どのような音楽的な変化が起こるのかその目で見極めようとした作品とも解釈出来るのだ。

 

活動拠点を西海岸に移したことは、実際の音楽を巡るテーマにも変化をもたらさないはずがなかった。デビュー・アルバムでは、過去の人生を振り返り、それをどのような形で親しみやすい現代のポップスとして昇華するのかを模索していた。そして事実、最初の作品のテーマは予測以上の成功を収め、瑞々しさのあるサウンドとともに世界中の多くのリスナーの共感を得ることが出来たのだったが、続く2作目では、ロサンゼルスの自然のなかで多くの時を過ごし、ロンドンの生活の変化からもたらされる感覚の変化を、これらのオルトポップの中に織り込もうとしている。新たな変化を追い求めようとしたことは、とりも直さず制作のスローダウンを意味したが、アーロ・パークスにとっては早く作品を生み出すことより、海や山、砂漠を散歩し、その実際の経験からもたらされる感覚をどのように高い精度のポピュラー・ミュージックとして昇華するのかということを最優先したのだった。商業的な成功を上乗せするよりも、また過去の成功にすがることよりも、ミュージシャンであることをアーロ・パークスは選択した。

 

商業的でないというわけではない。しかし、ネオソウルの要素をヒップホップのチョップとして処理した少し甘い感じのあるインディーポップは、オープナーである「Bruiseless」を見ても深みと説得力をましたことが分かる。 そして制作者はロサンゼルスだけに流れている気風をその肌で直に感じ取り、それをなんらかの形でこのアルバムのなかに取り入れようと絶えず模索している気配がある。これがアーティストの背後に遠近法を駆使して青い空を撮したアルバムのアートワークと同じように、前作に比べ、より爽快な雰囲気が加味されたように思える理由なのである。そして全体的に感じ取られる風通しの良さは、実際の音楽と掛け合わさり、清々しい気風を呼び込み、意外なことに、再度到来したデビュー作のような印象を与えもするのである。

 

制作者はデビュー作よりもインディーロックの要素を意図して作品中に織り交ぜようと試みたと話している。かなり詳しいらしく、パークスは、エリオット・スミス、デフトーンズ、スマッシング・パンプキンズをはじめとするオルトロックを好んで聴くアーティストではあるが、これらの音楽的な経験は、オルタナに留まらず、ラップやディスコサウンドという広範な音楽的な経験が収録曲に反映されていることが分かる。「Impurities」では、ターンテーブルのスクラッチの音を散りばめ、それをブレイクビーツとして処理し、緩やかで優雅なサウンドを呼び込んでいる。それに加え、中国風の旋律をシンセ・ポップという観点から加え、ほのかな叙情性を帯びたインディーポップソングとして昇華している。デビューアルバムのベッドルームポップの要素を一歩だけ未来に進め、それよりも深みのある音楽性へとパークスは到達することなった。

 

アーロ・パークスのアーティストとしての新境地は4曲目の「Blades」でわかりやすい形で訪れる。ここでは、懐かしのシンセポップ/ディスコポップの要素を交えた軽快なナンバーを展開させている。内省的なイントロからサビにかけてのそれとは対比的な外向きのエネルギーに支えられた盛り上がりは、アンセミックな響きをもたらし、多くのリスナーの共感を誘うものとなっている。更に、前作にはないスタジオレコーディングでの理想的なサウンドの探究の成果は「Weightless」に見いだすことが出来る。アーロ・パークスはこのトラックで聞き手のすぐ近くで演奏しているかのようなリアル感を追求しようとしている。The 1975のマティ・ヒーリーが得意とするような、ソフト・ロックやAORに根ざした軽やかなモダンポップではあるが、スピーカーやヘッドホンで聴いた時、音がすぐ近くで鳴っていて、まるでアーティスト自身が近くで演奏しているようなダイナミックス性を味わうことが出来る。また、The Nationalの最新アルバムを始め、近年、最も頻繁に登場するコラボレーターで、アーロ・パークスが誰よりも大きな信頼を置くフィービー・ブリジャーズが参加した「Pegasus」も刮目すべきトラックとなるだろう。ここでは、パークスの淑やかなボーカルに続いて、二人のボーカルの掛け合いが訪れる瞬間は、なにか息を飲むような雰囲気に充ちている。ここでは、プロのボーカリスト二人の緊張感がレコーディングを通じて感じ取ることが出来る。軽快なバックビートに支えられて繰り広げられるパークスとブリジャーズの両者の相性バツグンのコーラスワークは、アーロ・パークス単独のボーカルトラックよりもさらにキャンディーのような甘酸っぱさが引き出されている。

 

アーロ・パークスの無類のオルタナティヴロックファンとしての姿は、「Dog Rose」の中に捉えることが出来る。シンセと相まって導入されるギターロックのアプローチはおぼつかなさと初々しさがあるが、欠点は必ずしもマイナスの印象を与えるとは限らず、洗練されたロックよりもはるかに鮮烈な印象をもたらす場合もある。サビでは、インディーロック調の盛り上がりへと変化するが、テンションのピークはすぐに抑制され、旧来のベッドルームポップの心地よい緩やかなフレーズへと直結する。この曲を聴くと分かるが、他のトラックと同様に広範なジャンルを取り入れてはいるが、アーロ・パークは和らいだポップスの理想形を探そうとしているのだ。

 

また同じく、ちょっとミステリアスな雰囲気を擁する「Puppy」では、アーロ・パークスというアーティストを形成する要素のひとつであるベッドルームポップに加え、もうひとつの要素であるドリーム・ポップの要素を見出すことが出来るはずだ。アーロ・パークスは、ここでマイ・ブラッディ・バレンタインのシューゲイズの影響を反映させ、それをやはりアルバムの序盤の収録曲と同じように、和らいで、まったりとした、親しみやすいポップスに昇華している。しかし、そのトラックの背後には、ポーティス・ヘッドに象徴されるブリストルのトリップ・ホップやUKラップの影響もわずかに漂っている。これは捉え方によっては、ロサンゼルスへ転居したパークスの故郷ロンドンへの密やかなノスタルジアが表されているとも解釈出来る。

 

その後にも、ポップスという観点からダブステップを再解釈した「I'm Sorry」では、アルバム全体に通底する「ブラインドからのぞく」というアーティスト独自の考えが表明されている。そのフレーズは実際の歌詞の中にも現れ、そこには表向きな文化的な概念ーー音楽や人々ーーに対するアーロ・パークスの困惑や躊躇に類する感覚が見て取れる。勿論、完璧な人間がこの世に存在しないように、(そもそも、完璧であるのなら、この世に生きる意味がない)アーロ・パークスも今より善良な人間になるべく、理想とする存在に近づくための道筋をつけようとしている。こういった前向きな考えは、彼女の音楽に触れる人々に対して良い影響を与える。「My Soft Machine」の終盤まで、自己の探究と外側の世界にどのように折り合いをつけるかというパークスの思索は続く。クローズド・トラック「Ghost」でもその内なる探究は終わることがない。 


 

82/100

 

 Water From Your Eyes 『Everyone’s Crushed』

 

Label: Matador

Release: Matador

 

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Review 

 

SFのようなコミカルな世界観、AKIRA風のアニメーションのアルバムジャケットとMV、エレクトロニックの周りを縦横無尽に駆け巡る次世代のシンセ・ポップ。今年、マタドールと契約を結んでニューアルバムを発表したネイト・エイモスとレイチェル・ブラウンによるWater From Your Eyesには様々な呼称が与えられて然るべきだろう。とにかく彼らが志すのは、次世代のシンセ・ポップで、近未来のエレクトロニックである。しかし、その中にはB級映画のようなニッチな二人の興味や好奇心が取り巻き、それらがなんとも良い味を出しまくっているのである。

 

デュオの音楽性には、YYY'sのローファイっぽさやカレッジロックの影響も少しだけ見受けられるが、シュットゥックハウゼンのセリアリズムのような実験的な電子音楽とも無縁ではないことはオープニングを飾る「Structure」を見ると分かることだろう。かつてのオルタナティヴのようにちょっとしたひねりを加えたシンセサイザーのシークエンスに浮遊感のあるネイト・エイモスとレイチェル・ブラウンのボーカルがたゆたう。それはいくらかチープではあるのだけれど、その一方で聞き手をその音の擁する世界に惹き込む力を持ち合わせているのだ。

 

X-Ray Specsを彷彿とさせる一昔前のレトロな感じのシンセにR.E.Mのカレッジ・ロックの渋さを加味した「Barley」は、新たな時代のSFポップの台頭を予感させる。フラッシュ映像のように切り替わるフレーズは、クラフト・ワークやデペッシュ・モードに対する親和性もあり、テクノの次世代にあるポスト・テクノを体現している。レイチェル・ブラウンの声はバックトラックにパンチを加え、ポスト・パンクのような風味をもたらす。それがスチームパンクのようなコミカルな雰囲気を生み出すことに成功している。

 

その後、アルバムはよりポストパンク性の強い展開へと結びつき、「Out There」では同じようにレトロな音色のリードシンセとディスコポップを融合させ、聴きやすく親しみやすい音楽で初見のリスナーを魅惑する。金属的なパーカッションはシンセで構成されるが、ここにデュオの『No New York』に近い旧来のニューヨークのナンセンスなポスト・パンクへのコアな偏愛も読み解くことが出来る。さらにこの曲で手の内をさり気なくみせておいた上で、ノイズパンクの要素は「Open」でより顕著になる。ここではUKのニューウェイブに対するNYのノーウェイブの残映を旧来のリスナーは捉えることに成功することだろう。しかし、それは実験的ではあるが、その音楽は飽くまでポピュラーミュージックの範疇に留められていることが肝といえるのだ。

 

同じく、ジャーマンテクノをギターロックという観点から捉えた「Everyone's Crushed」でこのアルバムの楽しさは最高潮に達する。ディオは自分たちのコアな趣味を交えながら、それらにコミカルな要素をまぶすことでSFポップの新境地を開拓している。グルーブ感のあるベースラインに続いて、レイチェル・ブラウンの程よく力の抜けたスポークンワードに近いボーカル、シンセ・ストリングスのピチカート、パンチの聴いたギターのリフは曲の中盤にかけて跡形もなく解体されていき、やがてギターとブレイクビーツが混沌としたノイズの中に曲そのものを飲み込んでいき、その最後はそれ以前の要素を一緒くたにしたドイツ・インダストリアルのごとく尖ったカオティックな実験音楽風の終盤の展開に直結してゆく。音楽性のニュアンスはかつてのNYのノーウェイヴのようにナンセンスではあるのだが、奇妙なほどその音楽には親しみやすさがある。それはデュオは現実性というよりも、現実の中にあるコミカルさを鋭く抉ってみせているからなのだろう。


再び、その後、最もノイジーなポストパンクの最深部へと達する「True Life」もまたデュオがNYのノーウェイヴの最後の生き残りであることを示すとともに、現代のポスト・パンクの刺激的な瞬間を刻印している。ノイズ・アヴァンギャルドとして最もパンチの聴いたトラックとして楽しめるはずだ。


アルバムの終盤になると、中盤までのポスト・パンクデュオとしての性質はいくらか薄れ、「14」には現代音楽に近いアプローチが取り入れられている。ストリングスとシンセサイザーのオシレータートーンが織りなす奇妙なエモーションは、レイチェル・ブラウンの同じような繊細かつふてぶてしさのあるボーカルにより、ダイナミクスは最大限に高められていく。このトラックはアルバムの中でもデュオがアヴァン・ポップに最接近した瞬間となろう。しかし、そのドラマティックな展開も束の間、最後の「Buy My Product」ではふてぶてしいポスト・パンクへと立ち返るのが素晴らしい。センスのみならず実力も兼ね備えたブルックリンのデュオの最新作に注目すべし。

 

 

80/100

 

 

Featured Track「True Life」

Clara Engel 『Sanguinaria』

 

 

Release: 2023/6/16

 

 

Review


春の儚い花の異名をとる”ブラッドルート”のラテン語である「Sangurinaria Canadensis」に因んで名付けられたアルバムは、カナダのシンガーソングライター、クララ・エンゲルの最新作となる。このアルバムは 2022年の夏から秋にかけてリボンマイクで録音された。ちょうど家の近くで花が咲き始めた頃に書かれたことから、アルバムタイトルが名付けられたとアーティストは説明している。

 

クララ・エンゲルは、これまでインストゥルメンタル曲も書いてきたが、この最新作の収録曲のほとんどはアーティストのボーカルと複数の民族楽器の弾き語りによるものとなっている。これまでにギター、ピアノの他、タルハルパ、クドック、ラップスチール、メロディカの演奏を楽曲に取り入れてきたエンゲルではあるが、パンデミックを機に民族楽器に対する理解を深める時間に恵まれた。以前よりも楽器に対する理解度が深まったことは、今回の歌を中心にした作品全体に良い効果を与え、制作者の内省的な歌声の雰囲気をより魅惑的なものとしている。

 

前作と同様、この最新作『Sangurinaria』は、オープナーを飾る「Sing In Our Chains」に代表されるように、ニューヨークのSteve Gunn(スティーヴ・ガン)のようなサイケデリアとエスニックの雰囲気に充ちている。エンゲルのフォーク・ミュージックは、ウズベキスタン周辺の民謡のようでもあり、コーカサス地方の民謡のようでもあり、バルトークが探し求めたハンガリーの民謡のようでもある。少なくともそれは、不可思議でエキゾチックな雰囲気に充ちているように映る。

 

珍かな民族音楽に使用される弦楽器を用いて、クララ・エンゲルは淡々と情感を込めて自らの詩を歌いこんでいる。しかし、エンゲルにとって詩を書くことは、単なる手遊びであるのではなく、生きることそのものである。幼い時代から、エンゲルにとって詩を書くことは絵を書くことと同様、自らの感情を表現するために欠かさざるものであった。それは実際、歌詞に触れて見た時に強固な印象をもたらす。表向きの柔らかな旋律とはまったく正反対に、音楽の内核には強い意志が貫流している。終始、マイナー調の曲として紡がれていく楽曲の旋律そのものはいささか単調ではあるのだが、一方で、その中に様々な概念が流れているような気がする。これが実際、抽象的な印象を持つ楽曲の中にあって、稀に鋭い感性がきらめくように思えるのである。

 

アルバムの収録曲は前半部では、以前の作品に比べると親しみやすさのあるアヴァン・フォーク/サイケデリックフォークが並んでいるが、ハイライトとも称するべき瞬間は「A Silver Thread」、「Personne」にて訪れる。ミステリアスな印象を擁するフォークミュージックは、上記の収録曲でその幻想的な雰囲気は最高潮に達し、ペダルスチール等の楽器を効果的に用いながら、不思議なアトモスフィアを生み出している。一見、それは得難いものではあるが、他方、やはりシド・バレットやスティーヴ・ガンにも近い、コアなサイケフォークのコアな領域に到達している。こういった深層の領域に到達したときには、表向きの暗鬱さというイメージが覆され、それはほのかな切なさがもたらされるのである。

 

クララ・エンゲルは一貫してマイナー調のコードを通じて、暗鬱な印象に満ちたアヴァン・フォークを探究しているが、クローズ曲「Larvae」だけは他の曲とその印象を異にする。ここでは、アイスランドのフォークトロニカのような曲に取り組んでいる。Isik Kuralの電子音楽のように可愛らしい雰囲気がこの曲には表されている。最後に、フォークトロニカ/アンビエント調の曲があることで、作品全体により和らいだような余韻をもたらす。このアルバムは、アヴァンフォーク/サイケフォークと民族音楽を掛け合わせた音楽をお探しの方にぜひおすすめしたい作品である。


また、クララ・エンゲルは、ビジュアル・アーティストとしても活動している。今後、トロントとシアトルで計三回のアートショーを開催する。『Sangurinaria』はbandcampで6月16日に発売される。以前公開したアーティストのインタビューもぜひ合わせてご一読下さい。


 

 78/100

 

 Cero 「eo」

 

 
Label: カクバリズム
 
Release: 2023/5/24 

 


Review  
 

 
「eo」についてのceroのフロントマン、高城昌平のコメントは以下の通りです。

 


これまでのceroのアルバム制作といえば、常にコンセプトや指標のようなものが付きものだった。それが自分たちのスタイルでもあったし、バラバラな個性を持った三人の音楽家が一つにまとまるには、その方法が最も適していたのだと思う。
ところが、今回に関しては、そういうものが一切持ち込まれぬまま制作がスタートした。コロナ禍によって世の中の見通しが立たなかったこととも関係があるだろうし、年齢的なことにもきっと原因はあるのだろう。一番は、三人それぞれが自分のソロ作品に向き合ったことで、そういった制作スタイルに区切りがついてしまった、ということなのかもしれない。
 
なにはともあれ、唯一の決め事らしきものとして「とにかく一から三人で集まって作る」という方法だけがかろうじて定められた。そのため、まず環境が整備された。はじめは吉祥寺のアパートで。後半はカクバリズムの事務所の一室で。
このやり方は、とにかく時間がかかった(五年…)。「三人で作る」とはいえ、常に全員が忙しく手を動かすわけではないので、誰かしらはヒマしていたりして、効率は悪かった。でも、その客観的な一人が与えるインスピレーションに助けられることも、やはり多かった。
 
また、この制作はこれまででダントツに議論が多かった。シングルのヴィジュアルから楽曲のパーツ一つ一つにいたるまで、一体いくつメールのスレッドを費やしたかわからない。でも、そうやって改めてメンバー+スタッフで議論しながらものづくりができたことは、かけがえのない財産になった。楽曲を成り立たせているパーツの一つ一つが、セオリーを超えた使用方法を持っており、当たり前ながら、それら全てに吟味する余地が残されている。そんな音、言葉一つ一つに対する懐疑と諧謔のバランスこそがceroらしさなのだと、しみじみ気付かされる日々だった。


 

日本国内の音楽を聴いていてなんとなく感じるのは、基本的にパンデミック以前の音楽と、それ以後の音楽は何か別のものに成り代わった可能性が高いということである。成り代わったというのが本当かどうかはわからない。ただ、それはふつふつと煮えたぎっていた内面の違和感のようなものが、2023年を境にどっと溢れ出て、本格的な音楽表現に変貌を遂げたとも解釈出来る。その変革はオーバーグラウンドで起きたというより、DIYのスタイルで音楽活動を行うバンドやアーティストを中心にもたらされた。もしかすると、今後、これらの新しい”ポスト・パンデミック”とも称するべき音楽の流れを賢しく察知しなければ、日本の音楽シーンから遅れを取るようになるかもしれない。現在、何かが変わりつつあるということは、実際のシーンの最前線にいるミュージシャンたち本人が一番そのことを肌で感じ取っているのではないだろうか?

 

ceroーー高城昌平、荒内佑、橋本翼によるトリオは、これまでの複数の作品を通じて、日本語の響きの面白さに加え、中央線沿線(高円寺から吉祥寺周辺)のミュージックシーンを牽引してきた。 元々、2010年代のデビュー当時からトリオの音楽的なセンスは傑出していた。それは街のバーに流れる流行音楽とも無関係の話ではあるまい。メンバーの音楽的な背景には、広範な音楽(ポップス、ラップ、R&B)があり、それを改めて日本のポップスとして咀嚼し、どのように組み上げていくのか模索するような気配もあった。今では「Mountain、Mountain」などで関西風のイントネーションの面白さを追求していたのはかなり昔のことのようにも感じられる。

 

既に多くのファンが指摘しているように、メンバーのソロ活動を経て発表された「eo」については、聞き手の数だけ解釈の仕方があると思う。「大停電の夜に」の時代からのコアなファンであれば、懐かしいシティ・ポップや、akutagawaのような2010年代の下北沢や吉祥寺周辺のオルタナティヴロックのアプローチを見出すことができるし、それ以後の年代のネオソウルやラップ調の影響を見出すファンも少なからずいるかもしれない。実際、このアルバムは旧来と同様、日本語の響きの面白さが徹底的に追求された上で、以前の音楽性に加えてクラシカルやテクノ、ネオソウルの興味がアルバム全体に共鳴しているのである。これを気取っていると読むのか、それとも真摯な音楽であると捉えるのか、それも聞き手の感性や理解度のよるものだと思う。


しかし、オープニング曲「Epigraph」を聴くと理解出来るように、これまでのceroのアルバムの中で最もドラマティックで、彼らのナラティヴな要素が元来の音楽の才覚と見事な合致を果たしている。そのことはバンドの音楽に詳しくないリスナーであっても理解していただけるはずである。

 

また、それは「三人」というそれ以上でも以下でもない最小限の人数によるバンドという形式のぎりぎりのところで、銘々の才覚がバチバチと静かに火花を散らし、せめぎ合っているようにも思える。それは何か大それた形でスパークをみることはないのだが、しかし、確実にセッションの適切な緊張感から旧来のceroとは異なる音楽のスタイルが生み出されたことも事実であろう。上記の高城さんのコメントを見るかぎりでは、アルバム制作には五年という歳月が割かれたというが、結局、長い制作期間を設けたがゆえの大きな収穫を彼らは受け取ったのではないだろうか。これまでのceroの作品の中で最も緊張感がある反面、適度にくつろげる音楽としても楽しめるし、何かしら奇異な感覚に充ちたアルバムである。またソーシャル・メディアで指摘している方もいるが、明らかにこれはJ-Popの流れを変えうる一作と言えるのではないだろうか。

 

今作でのceroのアプローチは最近の洋楽と没交渉というわけではないものの、基本的にはJ-Popの音楽の範疇にあるものと思われる。そして、シティ・ポップの懐かしさとモダンなJ−Popの要素を織り交ぜ、それをどのような形で新機軸の音楽へと導いていくのか、その試行錯誤の跡が留められている。「Nemesis」を始めとする楽曲では、高城昌平が日本語の言葉の重みを実感しながらも嘆くかのような雰囲気に満ちている。以前は、さらりとラップ風にもしくはソウル風に軽快なリリックを展開させていたはずなのに、このアルバムに関してはその限りではないのだ。

 

何かしらパンデミック期の日本のパンデミック時代の閉塞した雰囲気に飲み込まれまいとするかのように、以前とは全く異なるじんわりとした深みのある言葉が一つ一つ丹念に放たれていく。それは日本語の表面上の意味にとどまらず、より深い感情的な意味がシラブルから聞き取ることもできる。さらに、このレコードから感じるのは、「言葉を放つ」というシンプルで実存にも関わる事柄の重要性を、ボーカリストである高城昌平さんはあらためてじっくり噛み締めているのだ。だからこそ言葉に深みがあり、軽やかな音楽と合わさると、奇妙なアンビバレントな効果を生み出すのである。例えば、最も言語的な実験性を込めたのが、「Fuha」となるだろうか。ここではノルウェーのJaga Jazzistの影響の反映させて、高城昌平のリリックは途中でブレイクビーツのように切れ切れとなるが、再びドリルのラップのサビに至ると、その言葉の響きがより鮮明となる。J-Popとしてはこれまでで最もアヴァンギャルドな作風のひとつである。

 

このアルバムには、他にもラテン系のポップや民族音楽の影響を反映した前衛的な作風が確立されつつある。「Tableux」でのイントロからのキャッチーなサビへの展開はアヴァンポップへとJ-Popが最接近した瞬間である。続く「Hitode No Umi」でのブラジル音楽を始めとするラテンとトロピカルの展開を通し、パーカッシブな要素を加味することで、各々の楽曲の印象を迫力ある内容にしている。それに続いて、旧来のceroの音楽性と同様に、少しマニアックな要素を踏襲しつつ、一般的なポップスとして万人に親しめるような形で「eo」は展開されていく。これらのパーカッシヴな要素は、実験音楽とも少なからず関係があり、グリッチに近いエレクトロニカの要素も織り込められている。その他にも、このバンドらしいソウルへの愛着が「Fdf」で示されている。ここにはアース・ウインド・アンド・ファイア直系のディスコソウルの真骨頂を見いだせると共に、ロンドンのJungleに近いレトロなネオソウルとして楽しむことができるはずだ。

 

『eo』はバンドメンバーの非常に広範な音楽的な興味に支えられたクロスオーバーの最新鋭のアルバムと称せるが、この作品を解題する上でもう一つ欠かさざる作曲技法が、アカペラのアプローチである。「Sleepra」では、息の取れた歌声のハーモニーの魅力が最大限に引き出されている。そしてそれは最終的に、ブレイクビーツを活用することによって、ハイパーポップに近い先鋭的なポピュラー音楽へと昇華されていく。これはトリオの現在の音楽に対するアンテナの鋭さを象徴付ける一曲になっている。アルバムの最後になっても、バンドの未知の音楽に対する探究心は薄れることはない。「Solon」では、最初期に立ち返ったかのような甘いメロディーを活かしたキャッチーなポップス、それに続く、クローズ曲では、ピアノを織り交ぜた上品なポップスに挑戦している。これらの曲には、どことなくシティ・ポップにも似たノスタルジアがわずかに反映されているが、しかしもちろん、これは単なる懐古主義を衒ったというわけではあるまい。ceroは2023年の日本のミュージック・シーンの最前線を行くバンドなのだから。

 

 

84/100

 

 

Demian Dorelli  『My Window』

 


Label: Ponderosa Music Records

Release: 2023/5/19


Review

 

ロンドンで生まれ育ち、ケンブリッジ大学出身のDemian Dorelliは、音楽とともにその人生を歩んできたピアニストであり作曲家である。主にクラシックで音楽の素地を形成したデミアン・ドレッリは、その後もジャズ・ミュージックやエレクトロニック・ミュージックへのアプローチを止めることなく、その制作経験を豊富にしていきました。彼はパシフィコ(2019年のアルバム『Bastasse il Cielo』から引用された曲「Canzone Fragile」)で、アラン・クラーク(Dire Straits)、シモーネ・パチェ(Blonde Redhead)といった名だたるアーティストとコラボレーションしています。



デミアン・ドレッリはまた、ポンデローザ・ミュージック&アートから『Nick Drake's PINK MOON, a Journey on Piano』を発表している。このアルバムは、ピーター・ガブリエルのリアルワールド・スタジオでティム・オリバーと共にレコーディングされ、ドレリがピアノを弾きながら故ニック・ドレイクに敬意を表し、過去と現在の間で彼との対話を行う11曲で構成されている。


『My Window』は、ピアニスト・作曲家デミアン・ドレッリのサイン入り2枚目のアルバムで、ポンデローザ・ミュージック・レコードからリリースされ、彼の長年の友人アルベルト・ファブリス(ルドヴィコ・エイナウディの長年の音楽協力者・プロデューサー、ドレッリの「ニックス・ドレイク ピンクムーン」というデビュー作品の時にすでにコントロール・ルームにいた)がプロデュースした。イタリアのレーベルのパンデローサは、このアルバムについて、「イタリア人ファッション写真家とイギリス人バレエダンサーの間に生まれたもう一人のドレッリ(わが国のクルーナー、忘れられないジョニーの人気と肩を並べることを望んでいる)は、非常に高いオリジナリティを持つピアノソロアルバムを作るという難題に成功したことになる。作曲とメロディーの織り成しの両方において、オリジナリティがある」と説明している。


実際の音楽はどうだろうか。デミアン・ドレッリのピアノ音楽は、現在のポスト・クラシカルシーンの音楽とも共通点があるが、ピアノの演奏や作品から醸し出される気品については、ドイツの演奏家である今は亡きHans Gunter Otteの作品を彷彿とさせる。デミアン・ドレッリの紡ぎ出す旋律は軽やかであるとともに、奇妙な清々しさがある。まるでそれは、未知の扉を開いて、開放的な世界へとリスナーを導くかのようだ。ミニマリストとしての表情とその範疇に収まらないのびのびとした創造性は、軽やかなタッチのピアノの演奏と、みずみずしい旋律の凛とした連なり、そしてそれを支える低音部の迫力を通じて、聞き手にわかりやすい形で伝わってくるのである。

 

オープナーを飾る「Clouds in Bloom」は安らいだ感じのピアノ曲で、このアルバムを象徴するものである。

 

ジョン・アダムスやフィリップ・グラスのミニマリズムを下地にし、それをハンス・オットのような自然味のある爽やかな小品として仕立てている。楽曲は反復性を一つの特徴としているが、豊かな感性による演奏と曲の展開力があり、また音の配置はそこまで神経質ではない。どことなく、その演奏は緩やかであり、癒やしの感覚に富んでいる。そして、ノートの連なりは、演奏者のきめ細やかなタッチにより、みずみずしい音に変わり、聞き手の脳裏に様々な情景--サウンドスケープ--を浮かび上がらせるのだ。

 

アルバムのタイトル曲「My Window」にも象徴されるように、ダミアン・ドレッリの曲と演奏は徹底して気品に溢れ、聞き手の心に緩やかな感覚を授ける。またこの曲では、ドレッリの作風がストーリー性があり、映画的な音響性を持ち合わせることを明示している。しかし、この曲を聴くと分かるように、彼の作風は単なるヒーリングミュージックの範疇には留まらず、イタリアの作曲家、ルチアーノ・ベリオが20世紀に書いたような何か悩ましげな感覚に満ちている。そして、その演奏の真摯さは、実際にこのレコードに対して、聞き手の注意を引きつける何かが込められているのである。

 

他にも、多様な音楽性を楽しめる曲が収録されている。制作者の個人的な追憶と現在との状況を情感豊かに結びつけたと思われる「The Letter」では、休符による間を使い、ドイツ・ロマン派の作曲家が書いたようなピアノの小品を提示している。そして、簡素なエクリチュールにより、それはシューマンの子供向けのピアノ曲のように親しみやすく、穏やかな表情を兼ね備えている。そして音の強弱の表現力とともに、低音部の持続音を駆使し、潤いのある高音部の旋律を取り入れることにより、いわば瞑想的な感覚をもたらすことに成功している。


その他にもやさしげで、慈しみに充ちた楽曲がアルバムの後半部を占めている。「The Balcony」では、実際の生活とその中で得られるささやかな喜びを、親しみやすいピアノ曲に仕上げている。特に素晴らしいのは、過去のクラシックに埋没するわけではなく、現在の作曲家の暮らしとの関連性がこれらの曲に見受けられることだろうか。それは実際、このアルバム全体を古典音楽としてではなく、現代の音楽という形で聞き手に解釈することを促すのである。そして、制作者は、現実的な側面と内的な側面のバランスを取ることにより、夢想的なものと現実的なものが絶えず、曲の中、あるいは、アルバムの中で交互に混在している。これがアルバム全体により緩やかな流れのような効果を与え、聞き手に心地よさと安心感を与えている要因でもある。


その他にも、映画のサウンドトラックのように少しコミカルなイントロからダイナミックなピアノ曲へと移行する「Golden Hour」の展開力も目を瞠るものがあるが、「Inside Out」での癒やされる感覚、クローズを飾る「Sunbeams」も美麗な雰囲気を作り出している。特に、現代のピアニストを概観した時、デミアン・ドレッリの演奏は音の粒が精細であり、一つの打音自体がキラキラと光り輝くような美麗さを持つ。それは喩えれば、日の光に当てられた水の粒のようであり、また、窓の外の新緑の向こう側に微かに見える太陽の光の嵩のようなものでもある。制作者が個人的に美しいと感ずるもの(それは何も目に映る物体に留まらず、内的な感情も含まれている)を一つずつ丹念に捉え、それを精細なピアノ作品に仕上げた手腕は実に見事である。

 

デミアン・ドレッリの二作目は抽象的な概念が込められた思索的な意味を持つアルバムである。一方、現代のクラシカルやジャズとしても親しめるような作品となっている。基本はピアノ演奏だけで構成されているが、同時にアンビエントのような空間的な奥行きと安らぎが内包されていることについても言及しておいたほうが良いだろう。


85/100

 


Featured Track「My Window」 

 bar italia 『Tracy Denim』

 

 

Label: Matador

Release: 2023/5/19

 

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Review

 

 

bar italiaは、Nina Cristante、Jezmi Tarik Fehmi、Sam Fentonによるロンドンを拠点とするロックバンドである。

 

過去2年間、Dean BluntのレーベルWorld Musicから2枚のアルバム、1枚のEP、数枚のシングルを発表している。バンドは、今年、米国のMatadorと新たに契約を結び、そして、ビョーク、デペッシュ・モード、ブラック・ミディの作品のプロデューサーであるマルタ・サローニを迎えて制作を行なった。

 

まず、The QuieitusやCrack Magazineをはじめ、現地のイギリスの複数の音楽メディアは、bar italiaを”秘密主義”、”ミステリアスな”バンドであるとレビューを通して定義づけているようだ。イギリスの大きめのメディアでさえも、bar italiaのことについてよく知る人はそれほど多くない。現時点では、彼らのライブをその目で見届けた人々が、bar Italiaの正体について最もよく知っていると言えるだろう。バンドの正体を秘匿しておくこと、全ての背景を明かさぬことは、実際、ソーシャル全盛期で全貌が見えすぎる現代において、ロンドンのバンドの神秘性を保持しておくとともに、彼らの音源に触れた時の衝撃性を強める可能性がきわめて高い。

 

これまでのWorld Musicから発売された2作のフルアルバムを聴くかぎりでは、ローファイ、サイケ、オルタナティヴ、また少しだけエキゾチックなポップというように、異質なほどbar Italiaの音楽性には雑多な文化性が内包されている。荒削りでローファイなギターロックサウンドは少しザラザラとした質感があり、得体の知れないものにおそるおそる触れるような感覚も滲んでいる。

 

先行シングルとして公開された3曲「Nurse!」「punkt」「changer」を聴くかぎりでは、前2作のアルバムに比べると、エッジの効いたポスト・パンクサウンドとドリーム・ポップに近いサウンドが際立っていた。また、「punkt」だけに言及すれば、The Strokesを彷彿とさせるニューヨークのガレージロックの性格も反映されている。

 

このアルバムの魅力はそれだけにはとどまらない。Sonic Youthのサーストン・ムーアの前衛的なギターサウンド、メンバーが立ち代わりにメインボーカルを取るスタイル、The Smithsのような哀愁や孤独に充ちたサウンド、そういった感覚的なオルタナティヴ・ロックが掛け合わさり、時代のトレンドとは没交渉の唯一無二のロックサウンドが生み出されることになったのだ。

 

 

 

前2作に比べると、マルタ・サローニが手掛けるサウンドは艶やかさとダイナミクス性を増している。基本的なバンドサウンドは、エッジが効いているが、よく聴きこむと、優しげなメロディーがその背後に揺蕩っていることが分かる。三者のメインボーカルもその性質を異にしており、ポスト・パンクバンドのような尖ったボーカル、聞き手を酔わせるボーカル、”コントロールを失いたい”という欲求をもとにし、感覚的なボーカルが綿密に組み合わされている。ロンドンの現代社会に生きる無類の音楽好きが集い、人知れずセッションを重ねた結果、同じ思いをともにする三者の内的で力強いオルタナティヴサウンドが全体には貫流している。

 

bar Italiaの音楽は単なるプロダクトとして生み出されたわけではあるまい。ライブセッションにおける心地良さをどのような形で伝えようか模索しているという印象がある。そして、ここに彼らなりの流儀があって、音楽の本質が明るみに出る寸前のギリギリのところで、そのサウンドは留められている。別に言い方をすれば、音の核心に到達しようとすると、中心から離れ、抽象性の高いサウンドを維持し、再度その核心へと向かっていく。彼らの音楽はその運動の連続なのである。

 

三つの先行シングルの他にも傾聴に値する楽曲は複数存在する。その中には、ロンドンの新旧のポストロックサウンドに対する傾倒が垣間見える曲もある。例えば、「F.O.B.」、「NOCD」といった主要なトラックを通じて、エッジの効いたギターサウンドと陶酔感のあるドリーム・ポップサウンドの融合を見出せるだろうし、他にも「Horsy Girl Rider」では、イギリスの伝説的なポストロックバンド、Empireの『Expensive Sound』(1981)に比する実験的なサウンドの幻影が把捉できる。さらに叙情性を重んずるオルタナティヴ・ロックバンドとしての姿を「Clark」に見出せるはずだ。

 

グルーヴィーなベースラインに加わるメロディアスなフェイザーのギター、シンプルな8ビートのドラミングの兼ね合いは、このバンドのサウンドの代名詞ともいえ、そして、それは今作において以前の旧作よりタイトに引き締まったという印象を受ける。彼らは一貫して、一地点にとどまらず、流動的なドライブ感のあるサウンドを志向している。それらは聞き手に一定の音楽性を措定させることを敢えて避けるかのようでもあるる。そして、極めつけは、90年代のグランジサウンドに触発された「Friends」であり、Nirvanaの「In Utero」時代のポップセンスを継承した上で、一体感のあるサウンドを生み出している。多分、グランジの要素は以前のアルバムにはなかったものと思われる。


今後、これらのバンドサウンドがどのような形で集大成を迎えるか期待していきたい。また、bar Italiaはアルバムの発売を記念するヨーロッパツアーを予定している。ローファイでエッジの効いたサウンドは、さらに多くの音楽ファンの心を捉えるに違いない。



84/100

 

 

 

Label: Wedge

Release: 2023/5./19


 

Review

 


アジアや他のヨーロッパやアメリカといった文化国に住んでいる人には分かりづらいかもしれないが、音楽を演奏することや音楽を聴くということは、ある地域に住む人々にとっては当たり前でもなければ、自然なことでもない。そして、体制側の意向により、ロックを演奏することすらままならない地域もあるという事実を、西アフリカのトゥアレグ族の6人組のロックバンド、Tinariwenは示唆している。そもそもこの地域は、他にもMatadorと契約するMdou Moctorがいて、世界的なロック・バンドを同じ部族から輩出している。西アフリカのサハラ砂漠の地域で生活し、固有言語のタマシェク語を話すトゥアレグ族にとって、おそらくロックミュージックというのは、他の地域に住む人達とは別の意味を持ち、そして生活に欠かさざるものなのである。


かれらの故郷であるサハラ砂漠には、現在も過激派グループのアンサール・ダインが活動している。そこには、音楽そのものを違法化しようと画策する人達もいる。もし過激派により、その地域全体が掌握されれば、音楽は完全に違法になる。違反者には間違いなく死が訪れる。彼らにとって音楽を演奏することは当たり前ではない。そのことにより、サハラ砂漠でのレコーディングが難しくなり、バンドはアルジェリアのテントでアルバムの録音を行うことになった。


以上のことを念頭に置いた時、Tinawarinの通算9作目のアルバム『Amatssou』の持つ意味は全然異なるものに変わるのではないだろうか。それは単なる商品化されたプロダクト以上のカルチャーの伝承という意味を帯びるようになる。U2の作品でお馴染みのダニエル・ラノワがプロデューサーを務めたアルバムは、複数の異なる場所でリモートを通じて完成へと導かれている。アルジェリアのテントにいるTinariwen、ナッシュビルにいるファッツ・カプリン、パリにいるパーカッション奏者のアマル・シャウイ、そして、LAにいるプロデューサーのダニエル・ラノワ。彼らの協力によって、Tinariwenはアルジェリアと世界を結びつける音楽を生み出すことになった。

 

本作では、Tinariwenの主な音楽の一般的な呼称である”サハラ・ブルース”をもとにして、フォークミュージックや民族音楽を基調にしたアクの強いロックミュージックが展開される。 西洋音楽の価値観をもとにして聴くと、かなり異質なものであり、まったく別空間にある音楽のように聞こえる。

 

オープニング曲「Kek Alghalm」を始めとする音楽は、西アフリカの伝統的な儀式音楽のグリオの形式が取り入れられている。これはメインボーカルを取り巻くようにして、他の複数のボーカリストが合いの手を入れるようにコーラスに加わる音楽形式だ。ジャマイカのカリプソ/レゲエ、米国のゴスペル/ブルースの元祖である西アフリカの古典音楽をTinariwenは継承している。その音楽はイスラム圏や小アジアとの音楽の関連性も少なからず見出せる。例えば、チュニジアの作曲家Anouar Braham(アヌアル・ブラヒム)のウードの演奏にも近い特殊な旋律やリズムが取り入れられている。


3曲目の「Arajghiyine」に見られるように、スティーヴ・チベッツの最初期の熱狂性を彷彿とさせるギターの内省的なエネルギーに充ちた迫力ある演奏は、一つの地点にまとわりつくかのように連続し、ギターの演奏に合わせて取り入れられる儀式的な手拍子のリズムによって、強いエネルギーをまとい、エネルギーをぐんぐん上昇させていく。基本的にはエレクトリックの演奏だが、瞑想的で、深い思慮に富んでいる。2000年ごろから、マリの都市部ではデジタルデバイスが普及しているというが、しかし、Tinariwenの音楽はデジタルカルチャーに根ざしたものとは言いがたい。まるで音によって何かのメッセージを伝えるような霊的な雰囲気すらはらんでいるのである。


アルバムの殆どの収録曲には民族音楽の影響もかなりわかりやすい形で反映されている。「Tidjit」では、ウードのような弦楽器を用い、イスラム圏の音楽を彷彿とさせる特異な旋律やリズムが取り入れられている。およそ西洋音楽に慣らされた感性には特異なものとしか解釈するしかなくなるが、それでも、砂漠地帯の砂煙や蜃気楼といった幻想的な情景が実際の演奏から立ち上ってくるような気もする。そして彼らの手にかかると、すこぶる陽気で聞き手が入り込みやすい音楽に昇華される。その他「Jayche Atarak」を始め、独特なリズムを取り入れた楽曲を通じて、彼らは西アフリカの文化や幻想性を披露しようとする。それらはダニエル・ラノワのプロデュースの意向により、レコードというよりもライブ録音に近いリアルな感覚を擁しているのである。


「Imidiwan Mahitinam」は、彼らの住む西アフリカと他の世界を結びつけるような良曲である。ここでは民族楽器のパーカッションを通じて、アンセミックなコーラス、その合間に演奏される絡みつくようなギターが取り入れられている。ここでは、70年代のサイケデリックロック/ハードロックの要素を取り入れた上で、それらを彼らの音楽の主な特徴である、手拍子のようなリズムを織り交ぜることにより、アンセミックな響きがもたらされている。これは、バンドの音楽に少し近づきにくさを感じるリスナーに彼らの音楽の魅力をわかりやすい形で伝えようとしている。続く「Ezlan」は、サハラ・ブルースを体現しており、最初期の米国南部のブルースの演奏に近い哀愁に充ちた音楽観が示されている。更に、ニューヨークのギター/フィドルの演奏家、Fats Kaplinの参加によって、そのセッションは白熱した雰囲気を帯びるようになる。

 

同じく、Fats Kaplinが参加した「Anemouhagh」は、祭儀的な気配に充ちた一曲となっている。ここでは陽気な瞬間と心浮き立つような雰囲気がレコーディングからありありと伝わってくる。その終盤では、バンジョー、マンドリンのような古典的な弦楽器と民族音楽のパーカッションが加わることによって、Tinawriwenのセッションは次第に鋭さと熱狂性を帯びていく。セッションに合間に取り入れられるリード・ギターは、曲の持つエネルギーを徐々に上昇させていく。その後、アルバムの終盤には、フォーク・ミュージックを基調にした瞑想的な楽曲が複数収録されている。

 

もうひとつ、『Amatssou』を締めくくる「Tinde」では、女性ボーカルが参加していることに注目したい。グリオの影響下にあると思われる(二拍子に近い)儀式的なリズムも魅力的ではあるが、アフリカの地域性や固有性を示すにとどまらず、本当の意味で世界を一つに結びつけるメッセージが、この曲に込められているように思える。また、アルバムのタイトル「恐怖の向こう側」には、それと対極にある平穏で調和的な境地が見いだせるような気がする。世界の異なる場所を通じ、人類が一つに団結することでしか和平は訪れることはない、つまり、分離が何処に存在するかぎり平和など机上の空論に過ぎないということを、彼らは真摯に伝えようとしているのである。



78/100

 

 

 

 


Overmono  『Good Lies』 

 

 

Label : XL Recordings

Release: 2023/5/12


Review


ダンスミュージックとしては先週の最大の話題作。Overmonoの最新作でデビュー作でもある『Good Lies』は、これから暑い季節になってくると聞きたくアルバムなのではないか。このアルバムでデュオが生み出すビート、そして仄かなメロディーラインは今夏の清涼剤として活躍しそうだ。

 

トム、エド・ラッセル兄弟は現在はロンドンを拠点に活動しているが、元々はウェールズの出身。若い時代からダンス/エレクトロミュージックの制作に勤しんできただけあってか、このアルバムには彼らのクラブミュージックへの愛情、そして情熱が余すことなく注がれているように思える。またデュオは今作を通じて、車の中で楽しめるダンスミュージックを制作しようと試みた。

 

その結果がこのデビュー作に表れている。国内のダブステップやブレイクビーツシーンのDJとして鳴らしてきたデュオは、キャッチーなサウンド、わかりやすいサウンド、そして乗りやすいサウンドをこの1stアルバムを通じて提示している。


一曲目はどうやらあまり評判が良くないらしいが、それでも二曲目の「Arla Fearn」では、彼らが実際のフロアでどのようなサウンドを鳴らしてきたのかが目に浮かぶようである。ブレイクビーツを基調にして、ベースラインやダブステップの要素を交えたコアなダンスミュージックは、一定の熱狂性に溢れ、そして涼し気な効果を与えてくれる。


これらのコアなグルーブ感の他に、デュオはサイモン・グリーンと同じように、僅かなメロディー性をリズムのなかに散りばめている。それがわかりやすい形で体現されたのがアルバムのハイライトのタイトル曲「Good Lies」で、ボーカルのメロディーラインと合わさり、軽快なダンスミュージックが提示されている。そして彼らが述べているように、車のなかでBGMとして流すナンバーとしては最適のトラックといえるのではないだろうか。

 

全般的にはボーカルを交えたキャッチーなトラックが目立ち、それが彼等の名刺がわりともなっている。だが彼らの魅力はそれだけに留まらない。


その他にも二つ目のハイライト「Is U」では、ダブステップの要素を交えたグルーブ感満載のトラックを提示している。同レーベルから作品をリリースしているBurialが好きなリスナーはこの曲に惹かれるものがあると思われる。そして、それは彼らのもうひとつのルーツであるテクノという形へと発展する。この曲の展開力を通じ、ループの要素とは別にデュオの確かな創造性を感じ取ることができるはずである。

 

更にユーロビートやレイヴの多幸感を重視したクローズ曲「Calling Out」では、Overmonが一定のスタイルにとらわれていないことや、シンプルな構成を交えてどのようにフロアや観客に熱狂性を与えるのか、制作を通じて試行錯誤した跡が残されている。これらのリアルなダンスミュージックは、デュオのクラブフロアへの一方ならぬ愛着が感じられもし、それが今作の魅力になっているように思える。

 

 

74/100

 

 

  Eluvium 『(Whirring Marvels In)Consensus Reality』

 

 

Label: Temporary Residence Ltd.

Release: 2023/5/12


 

Review


米国オレゴン州ポートランドの電子音楽家/現代音楽家、Eluvium(マシュー・ロバート・クーパー)は、2020年と翌年のロックダウン中に、アメリカ・コンテンポラリー・ミュージック・アンサンブル、ゴールデン・レトリバー、ブダペスト・スコアリング・オーケストラのメンバーを集め、リモート会議を通じて、このアルバムのために各楽団のオーケストラを録音した。

 

『Consensus Reality』の制作中、マシュー・ロバート・クーパーは肩と腕の痛みに悩まされ、左腕の運動に支障をきたしていたという。そのため、何年もかけて書き留めておいた思考、詩、考察、陰謀、科学的な観念、自己存在の哲学的な思考といった事柄が記されたノートから、アルゴリズムにより、それらの内容を抽出し、電子的なオートメーションや旧来のソングライティングを駆使し、電子音楽とオーケストラレーションを合致させた作風にチャレンジしたというのである。

 

この数年、マシュー・クーパーは、アンビエントの連作『Virgla』の立て続けに二作発表しており、三作目が来るものと考えていたが、予想に反して本作は新規のオリジナル音源であり、連作のアンビエントとは明らかに作風が異なる。これまでシンセサイザーを基調としたエレクトロニカ、オーケストラ音楽に根ざしたピアノ音楽、果てはドローンまで多角的にエレクトロを追求してきた音楽家は、むしろ都市の閉鎖という現実性に抵抗を示すかのように、人や演奏家とのコミュニティに重点を置き、時代の要請する奇妙な虚偽に争ってみせる。オーケストラストリングスの芳醇な響きを持つ「Escapement」を筆頭にして、音楽家が当時、どのような状況に置かれていたのか、そしてその暗澹たる状況に対する反駁のような考えが示されている。神秘的な鐘の音を交えたイントロから続くストリングスのハーモニーは聞き手を現実性から遠ざけ、それと正反対に創造性豊かな領域へと導き入れる。終盤にかけてベルを取り入れているのを見ると、現実性を追求した作品というよりも、理想主義的な側面を取り入れたアルバムと推察することが出来る。実際に、そのベルの音色は、高らかな天上の啓示とも解釈できるわけである。


それからアルバムは、二曲目の「Swift Automations」を通じてオーケストラの音源を駆使した反復的な弦楽の格調高いパッセージを交え、爽やかな雰囲気へと導かれていく。マシュー・クーパーは弦楽器のサンプルをオートメーション化し、それを電子音楽の反復的な要素として導入している。そしてこのストリングスのパッセージに加え、ピアノのフレーズを組み込み、それらを構造的な音楽として解釈しようとしている。曲は、ヴァイオリンの繊細なトレモロにより、高揚感のある雰囲気へと引き継がれていくが、しかし、それは一貫して清涼感に富んでいる。


続く3曲目のタイトル曲では、いわゆるフルオケのような形で、電子音楽とオーケストラレーションを融合させている。マシュー・クーパーは、指揮台の上でタクトを振るうコンダクターのさながらに、それらのノートを一つずつ吟味し、慎重に配置している。曲の中盤では、グロッケンシュピールの音色を交えつつ、ダイナミックな起伏を作り、低音部を強調するチェロを始めとする弦楽器の厚みがその神秘性を支え、アルヴォ・ペルトの「Fratress」に代表される弦楽器の短いパッセージの反復の技法を駆使することで、中盤から終盤部にかけて、タイトル曲は宇宙的な壮大さ、及び、それにまつわるロマンチズムを表した曲調へと変化をたどるのである。

 

アルバムの中盤部では、木管楽器(オーボエ)のレガートのたおやかな演奏ではじまり、まさにその後の展開の呼び水のような役割を果たしている。その後、和音を重んじて挿入される弦楽器の複数の調和は聞き手を陶然とした境地に誘い、低/中音域を強調した重厚な和音が物語性を引き出し、音楽家の哲学的な思考を鮮明にする。微細なパッセージの強弱の変化、及び、繊細な抑揚の変化は、およそリモートを通じて録音されたとは思えず、実際のコンサートホールで聴くようなリアリティとエモーションを兼ね備えており、深い情感を聞き手に授けてくれるはずだ。


さらに続く、「Phantasia Telephonics」では電子音楽のミニマル・ミュージックに方向性を転じる。サウンドトラックとしても聴くことが可能であるこのトラックは、アルバム全体の連結部のような効果を及ぼしている。


中盤からは、ドローンやノイズの要素を強烈に押し出すが、対象的にクライマックスではアルバムの冒頭部のように、クラシカルへと転じていき、モーリス・ラヴェルの色彩的な管弦楽法のように精妙な弦楽器のフレーズを短くつなげている。曲の終盤部の木管楽器と弦楽器のダイナミックなオーケストラレーションは、イタリアの作曲家、オットリーノ・レスピーギの『ローマの松」に比するファンタジックな領域に踏み入れる。電子音楽とオーケストラによる交響詩のような緻密な構造性が、この音楽家の豊かな創造性を通じて繰り広げられていくのである。


それに続く「The Violet Light」は、ミニマルの構造性を持つ一曲であるが、ピアノと木管楽器の音響性をうまく踏まえて、それを作曲家の得意とする抽象的な音楽形式に落とし込んでいる。ピアノと木管楽器の合奏のような形式を取るが、少なくとも、持続音の後に訪れる減退音をディレイやリバーブの加工をほどこして、楽器の持つ音響の可能性を拡張するようなトラックである。特に音が響いている瞬間ではなく、音が消えた後の瞬間に重点が置かれるという点にも着目したい。


続く「Void Manifest」は、アルバムで唯一ボーカルのサンプリングを交え、オーケストラレーションと融合させている。しかし、そのボーカルのサンプリングは飽くまで器楽的な音響性を重視しているので、聞き入らせる力を持つ。中盤からは電子音楽のオペラの形に転ずるが、その後、アンビエントやドローン、ノイズというマシュー・クーパーの旧来のキャリアの中で蓄積してきた技量を遺憾なく発揮することによって、前衛的な音楽が終盤部において完成するのである。

 

ここまでのストリングスとエレクトロの融合性を重視した楽曲群が第二部であると解釈すると、以後の第三部の収録曲は、旧来よりマシュー・クーパーが得意としてきた静謐なピアノ曲の印象が際立っている。「Clockwork Fables」は、モダンクラシカル/ポスト・クラシカルの主流の曲であり、Goldmund(キース・ケニフ)が書いたとしても、それほど不思議ではない。ピアノのフレーズは一貫してシンプルであり、とても落ち着いているが、シューベルトをはじめとするオーストリアのロマン派の作曲家の書いたささやかな小品に近い淡い叙情性を漂わせている。


それ以前の収録曲と同様、オーケストラと電子音楽の融合を図った「Mass Lossless Interbeing」を挟み、「A Floating World of Dreams」では、ピアノとシンセを基調とするポスト・クラシカルに舞い戻り、このアルバムな安らかな境地へと導かれる。クローズトラック「Endless Flower」でも、シンプルなピアノの楽節の構成を通じ、平らかではあるが劇的な音楽性を完成させている。


今回のアルバムを通じて、アーティストは様々な概念や領域を経巡るが、最後にはストリングスのトレモロの効果により、晴れやかな地点へと落着し、クライマックスは、クラシックの交響詩に匹敵する晴れやかなワンシーンが用意されている。最後の曲を聞くかぎりでは、オーケストラ作品としてはかなり仰々しさがあるにしても、マシュー・クーパーが作り出そうと試みる音楽性には好感が持てるし、この音楽が以後どのように完成するのか大いに期待させるものがある。

 

 

78/100

 


 Oval 『Romantiq』

 


Label: Thrill Jockey

Release: 2023/5/12



Review


 

Ovalの名を冠して活動するマルクス・ポップは90年代にまだ新しかったグリッチの先駆的なプロデューサーとして、ドイツ/ベルリンのシーンに台頭した。


グリッチ/ノイズの傑作としては1996年の「94diskont.」が有名である。以後、Markus Popp(マルクス・ポップ)はジャンルの定義づけや固定化を避け、柔軟なスタイルで音源制作を行っている。2010年代には、ポストロック、それ以後の時代にはアブストラクトなテクノ/ハウスを制作し、作品ごとに作風を様変わりさせてきた。


最新アルバムはマルクス・ポップのアート全般における価値観を示した内容となっている。この作品は、フランクフルトにあるドイツ・ロマンティック博物館のグランドオープンのため、デジタルアーティストのRobert Seidelと行ったオーディオビジュアル・コラボレーションから発展した。

 

ザイデルとポップは、この美術館から、広範な「ロマンティック」の定義を求め、新たなプロジェクトをスタートさせた。ポップは、サイデルの緻密で複雑なデジタル画像やアニメーションと対話し、特定のムードや感情を呼び起こすような数十の短いヴィネットを制作。このスケッチをもとに、ポップは野心的で多様なビジョンを持つ作品へと発展させた。Romantiqは、音楽のみならず、文学、建築、芸術の伝統にも目を配り、膨大な量のソースを調査している。さらに、加工されたピリオド楽器は、過去、現在、未来を通して、暗い部屋からきらびやかな宮殿のような壮大な空間へと変化する贅沢な空間をトレースするものであるという。

 

実際の音楽性については、マルクス・ポップのミニマルへの傾倒が伺える作風となっている。エレクトリックピアノの音色やパーカッシヴな効果を駆使し、そこにエレクトロニカ風の奇異な音作りを交え、抽象的な音楽空間を演出している。同じくドイツのテクノプロデューサー、Apparatの2007年のアルバム『Walls』に近いシンセサイザーの音作りで、カラフルな音色を空間的に処理し、それを曲の構成の中に組み込むという手法である。2000年代にはこういった音作りはかなり多くのプロデューサーやユニットが制作していたが、近年ではトイトロニカ風の音色はいささか以前に比べると、倦厭されつつあるように思える。2000年代のテクノ/ハウスの音作りに加え、 ストリングスの要素や強固なミニマリズムとブレイクビーツの手法を駆使することにより、以前と同様に実験的かつ前衛的な作風となっているのは事実だろう。

 

オープニングを飾る「Zauberwort」をはじめ、懐かしさのあるテクノ/ブレイクビーツが展開される。どちらかといえばクラブのフロアでのサブベースの鳴り方を意識した音作りで、実際のフロアで聴くと、その音楽はリアルな感覚を持つものと思われる。これらの音作りの中には、電子音楽の中にある叙情性を欠いていないことも理解してもらえると思う。例えば、クリス・クラークが「Turning Dragon」の時代に語っていたように、もし、良質なクラブ・ミュージックの中に欠かすことができないものがあるとしたら、(サブベースの強さやグルーブ感もさることながら)機械的な音作りの中にある人間の持つ情感ーーエモーションやエネルギーーーに尽きる。なぜなら、人間味を欠いたクラブミュージックを優先するのなら、代わりにAIに作ってもらったほうがよほど理に適っている。(Kraftwerkのようにロボット的な音楽をあえて意図するという場合は例外として)そして、それは長所だけではなく、時には、短所や欠点、期せずして生じたエラー、バグという形で実際の音楽に現れる場合もあるが、これこそエレクトロニックの最大の醍醐味でもあるわけなのだ。

 

この点において、Ovalは、この最新アルバムを通じて、2曲目の「Rytmy」に見られるように、ミニマル・ミュージックとアンビエント/ダウンテンポの要素を交え、安らいだ雰囲気や清涼感のある情感豊かなクラブビートを制作している。これがブレイクビーツ系の曲の中でもアルバムに掴みやすさを与えている理由である。また、6曲目の「Glockenton」では、Glockenspielの元にしたマレットの音色を使い、実験的なIDMを制作しているが、この楽曲からはミステリアスな雰囲気が漂い、それがアンビエント風の抽象的な空間性を演出している。

 

他にも、実験音楽に近い手法をマルクス・ポップは試している。8曲目の「Okno」では、音色のレイアウトをわざと破壊し、それを抽象的なシークエンスと融合させることで、前衛的なスタイルを確立している。Ovalは近年、空間と音を融合させるインスタレーションを行う他の電子音楽家と同様に、テクノ/ハウスを音楽そのものと把捉するのではなく、他の多角的な芸術形式から広範に解釈し、それらをどのようなイデア(概念)により、独創的に組み上げるのか試行錯誤を行っている。

 

『Romantiq』は、マレット・シンセを元にした音色が目立ち、それが音楽の全体的なコンセプトとなっている。この点を見る限り、パーカッションに重点を置いた空間的なテクノ・ミュージックとも称せる作品である。また、どちらかといえば”音のデザイン”と解釈できるようなアルバムとして楽しむことができるはずだ。

 

 

75/100





グリッチ/ミニマルについてもっと知りたいという方は、ぜひこちらの名盤ガイドをご一読ください。

 Alva Noto  『Kinder De Sonne』

 

 

Label: Noton

Release: 2023/5/5


Purchase

 

 

Review

 

オーストリアのエレクトロニック・プロデューサー、アルヴァ・ノトの最新作『Kinder De Sonne」は、1905年のロシア革命を背景に書かれたマキシム・ゴーリキーの戯曲『太陽の子どもたち」に由来する。正確に言えば、この作品は、同名の演劇のために書かれた作品で、ドイツ語の題名である。サウンドトラック制作に携わるのは、坂本龍一との共作『Revenant』以来のことであり、スクリーンではなく、ステージの演劇のために効果を与えるような音作りを行っているという。

 

アルバムのジャケットに描かれた黒い環については、2019年の池田亮司のインスタレーションのアート作品に因むものと思われる。 今でもよく覚えているのだが、この年、池田亮司は、空間の中に突如、この宇宙的なモチーフを登場させ、既存のファンに少なからずの驚きを与えたのだった。特に、記憶に新しいところでは、アルヴァ・ノトは坂本龍一とのリイシューのリリースを行っていた。『V.I.R.U.S』というように、パンデミックに因んで、既発作品の頭文字を取って盟友である坂本との作品の再発を行い、彼が主催するレーベル共々、がんと闘病を続けていた氏の功績を讃えようとしたわけだったが、結局のところ、今年に入ってリリースされた『12』が彼の遺作となってしまったのである。そして、先週に入り、アルヴァ・ノトは21年以来の一年ぶりの最新作、また、戯曲のサウンドトラック『Kinnder De Sonne』をリリースする運びとなったわけなのだが、直感として思い、また、あらためてレビューの中で言及しておきたいのは、製作者が意図するかしないかに関わらず、この作品は本来ソロのオリジナルとして制作されたわけではないというのに、坂本龍一の遺作『12』とまったく無縁ではないということなのである。もちろん、この作品はオーストリアのプロデューサーの得意とするところの、グリッチ、ミクロというアナログ信号のエレクトロニック・ミュージックが作曲の中心に置かれており、また、その音作りの奥行きに関しては、既存の作品と同様にアンビエントに属するといっても大きな違和感はあるまい。


しかし、イントロとして導入される「Kinder De Sonne」を聴く限り、子供のための戯曲という解釈から見ると、特異な作品であることが分かる。イントロからアルヴァ・ノトの作り出すアンビエント、また一般に言われるミクロなサウンドは、確かに少し可愛らしい感じのグロッケンシュピールのシンセの音色を交え、舞台のストーリー性を引き立てるように始まる。そこにはアルヴァ・ノトらしい精細なノイズ、奇妙な清涼感すらもたらすノイズとシンプルなシンセの音色が絡みあうようにしてはじまる。静かではあるが、音の奥行きには、宇宙的な何かが感じられる。地上の出来事を表しておきながらも、そこには、より時代を超越するような概念が込められているというわけである。

 

二曲目の「Verlauf」を聴くと分かる通り、もはやこの段階で、単に子供のための音楽であると定義づけることは難しくなってくる。アルヴァ・ノトは純粋なノイズやミクロサウンドへの興味をこれまでの主要な音楽の核心に置いていたという印象もあるが、今作では必ずしもその通念は当てはまらない。これまでの作風の中で、(ノトらしくなく)神秘的な何か、人智では計り知れない何かへの接近を彼は試みている。まさにそれは盟友の病やその状況を知っていたか知っていないかに依らず、その魂の変遷を音楽を通じて捉えるか、はたまたなぞらえるかするようなものである。もっと言えば、この二曲目は坂本の遺作「12」に非常に近い何かを感じ取ることもできる。そういった意味では、たしかに第三者的な視点と並行するようにして、子供が見る世界という視点を通じて音は制作されているようだが、一方で、その小さな目が捉えようとするロシア革命の時代の核心を描き出すべく彼は試みている、そんな感覚を実際の音楽から汲み取ることができる。またそういった神秘的なサウンドの他に、対比的なシューマンの子供向けのピアノの小品のような音楽も3曲目の「Die Untergrundigen」に見出すことができる。それは、ピアノではなくアナログのシンセの柔らかな音色としてドイツロマン派の形式は受け継がれている。しかし、その小さな音に内包される巨大なミクロコスモスという点ではその前の二曲と同じなのである。

 

中盤の収録曲「Sehnsuchtsvoll」、「Ungewisheit」は、叙情的なアンビエントという形で続いていくが、しかし、それはロシア革命の本質がそうであるように、必ずしも明るい側面ばかりを反映しているわけではない。ただレーニンの時代の出来事は、ある意味では、現代のロシア国家を把捉する際、本質を見誤らせる要因ともなりえる。その点をアルヴァ・ノトは熟知しており、一方方向からの音を作ろうというのではなく、多岐にわたる視点から多次元的な電子音を組み上げる。既存のプロデューサーとしての技術を駆使し、それを直感的に捉えようとするアーティストの感覚の鋭さが、これまで以上によく体感できるトラックとなっている。そして、ドイツ語の連語と同じように、多重構造の音楽を作り出そうとするアーティストの意図もこの二曲には伺える。それに続く一曲目の再構成となる「Kinder De Sonne Reprise」は、音の減退を活かして、アンビエントとして一曲目を組み直しているが、アルヴァ・ノトの編曲における卓越性がキラリと光る。

 

その後、「Unwohl」は孤独の雰囲気を感じ取ることができる。それは革命時の時代的な反映か、それとも他の神智学的な何かが描かれているのかまでは厳密に言及出来ないけれど、ある意味では、人間としての孤独というより、魂の孤独とも称するべき概念がシンプルなシンセの音色に反映されている。そして、これもまた単なる推測にすぎないと断っておく必要があるのだが、アルヴァ・ノトがこの演劇音楽の中で捉えようとするのは、生身の人間の時代における生存ではなくて、より謎めいた宇宙的な存在に相対する生命の本質的な動き、蠢きであるようにも見受けられる。これが単なる叙事的な意味を擁する戯曲のサウンドトラックにとどまらず、音の配置や休符により深い神秘的な感覚を感じとることができる主な要因となっているのである。 


再構成の「Sehnsuchtsvoll reprise」では、原曲のピアノに近いトーンをよりパーカッシヴなシンセ、マレットシンセのような音色を駆使し、ドビュッシーの最晩年の作風「沈める寺」のような不可思議な世界を探究する。フランスの印象派の作曲家は全盛期は華美な音楽を主流として作っていたが、突如、晩年になると、フランツ・リストと同じように、静謐で神秘的な音楽性を追求するようになっていった。生前の坂本龍一もまたドビュッシーに触発を受けたと思われる言葉、--芸術は長く、人生は短い--を座右の銘としていたようではあるが、この曲の中で、まさにサウンドトラックの制作という点とは関連なしに、盟友の魂の根源へと最接近したとも称せるのである。つまり、アルヴァ・ノトは坂本と同じく華やかな雰囲気から離れ、それとは対極にある禅的な静けさへと沈潜していくかのようである。


そして、アルバムの終盤に差し掛かると、序盤や中盤において示された神秘的で宇宙的な雰囲気はその出発点から離れ、より荘厳なスケールへと歩みを進めていく。以前、『12』のレビューの中で、無限という概念への親和性と私は書いたのだったが、アルヴァ・ノトはまさに生命の根源的な何かへと脇目も振らず突き進んでいくようにも感じられる。そのことを端的に表しているのが、「Ungewiss」、「Aufstand」、さらに3曲目の再構成である「Die Untergrundigen Redux」となる。オーケストラ音楽の影響を交えて、クロテイルの音色を駆使し、アルヴァ・ノトはこれまでの電子音楽家としてではなく、現代音楽作曲家としての意外な才覚をこれらの曲で発揮している。「Virus」は、タイトルからも明らかなように、坂本へ捧げるべき弔いの曲であり、 彼は共作を行った時と同じように、これまでのグリッチ/ミクロの視点を通じ、前衛的な響きを生み出している。そして、アルバムのクライマックスに至ると、まるでその根源的な魂が一つであることを示すかのように、「12」の作風に近づいていく。宇宙的な音響性を持ちあわせ、そして無限に対する憧憬が示されたとも言える「Son」は、これまでにアルヴァ・ノトの作風とは相容れないような画期的なトラックである。

 

ノトのノイズ/アンビエントによる音作りはゴーリキーの戯曲の本質を捉えるとともに、彼のキャリアの集大成を形作る一作である。この隠れたタイトル曲を通じ、アルヴァ・ノトは、我々が日頃見ようとする生命のまやかしから距離を置き、宇宙の根源的な生命の本質の核心へと迫ろうとしているように思えるが、たとえそれがアートワークに描かれたようなものであるとしても何の驚きもないだろう。本作の最後に収録される「Nie anhaltender Storm」において、ノトは、Tim Heckerの最新作『No Highs』に近い暗鬱なドローンを制作していることに驚く。しかし・・・、アルヴァ・ノトは、アルバムの終盤の段階で、サウンドトラックの持つ音響効果の他に何を表現しようとしたのか、その点についてはすべて明らかになったわけではなく、余白の部分が残されている。今後のリリース作品を通して、その謎は徐々に解きほぐされていくかもしれない。


86/100

 

 

Label: Domino Recordings

Release: 2023/5/5



Review

 

LA Priestは、UKのノッティンガムのソロアーティスト、サム・イーストゲートのプロジェクト。ウェブリーポップとも称されるイーストゲートの主な音楽性は、サイケとローファイの融合にある。同国のOscar Lang、米国のAriel Pinkに近く、ギターのトーンをどぎつく揺らしまくっている。神話的なテーマを擁するという点では、Alex Gのソングライティングにも親和性がある。

 

メキシコとコスタリカの熱帯雨林でレコーディングされたという本作は、アステカ文明へのロマンに充ちている。オープニング「On」を始め、ポンゴのリズムに甘美的なポップスの要素を散りばめ、熱帯雨林の極彩色の雰囲気を漂わせている。


イーストゲートのソングライティングは、基本的にはポップスを意識しつつも、断片的に70年代のジミヘンらのハードロックの要素を部分的に交えている。ループ色の強いソングライティングは、UMOの最新作『V』にも近いニュアンスが見いだせるかも知れない。 確かに一曲目と二曲目「Silent」には7,80年代のディスコポップに対するアーティストの偏愛が散りばめられている。

 

三曲目の「It's You」では、ルバン・ニールソンと同様、ボーカルトラックに薄くクランキーなディストーションを加味しており、パンチの聴いたローファイソングとして楽しめるはずである。ただ聞きやすさを重視しつつも、イーストゲートはカスタネットのようなパーカッシブな要素をトラックに交え、サイケ/ローファイファンを唸らせるような渋い曲に仕上げている。ときおり、トラックの中に挿入されるイーグルスのようなギターサウンドはこの曲にねちっこく絡みつき、ジャングルの風景を想起させるような独特なサウンドが組み上がっている。トラックに搭載されるイーストゲートのボーカルは、マック・デマルコのように陽気である。これはまさにメキシコの密林の気風に直に触れたからこそこういったボーカルスタイルに変化したのだろうか。

 

国籍不明の不可思議なサウンドは、「Misty」でより抽象的なアンビエントに近いサウンドに変化している。 アッパーサウンドの対する落ち着いたサウンドは、LA Priestの進化を反映しているといえ、またそのサイケなサウンドには米国のロックバンド、Real Estateのデビュー当時のような懐古主義の趣も感じられる。ボワボワとした抽象的なサウンドは、トラックの最後ではジミ・ヘンドリックスのような熱狂的なエネルギーを帯びるように成る。しかし、イーストゲートのギターの熱は、ヘンドリックスとは対象的で、内向きに向かうエナジーとも言えるかもしれない。「Star」もまた70年代のポップス/ロックに根ざした楽曲で、近年のサイケ/ローファイシーンのアーティストと同様に、 イーストゲートはそれをアナログ風のサウンドに置換している。まさにレコードのアナログのサウンドの志向性を踏まえたセンスの良い音作りとなっている。

 

アルバムの中で最もアステカ文明の雰囲気を感じさせるのが、続く「Sail on」である。この曲では、一曲目の「On」及び二曲目の「Silent」と同じように民族音楽の打楽器のパーカッシヴな性質を力強く打ち出し、サイケの雰囲気を散りばめることで、面妖なサウンドが生み出されている。まさにジャングルの奥地を旅している時、あるいは、その密林の中に流れる川を筏で下っていると、その木陰から不可思議な生物が顔を出す。まさにアルバムのアートワークの半魚人のようなオカルティックな生物が音の向こうに出没するのではないかと思わせるような冒険心満載のトラックだ。それに加えて、儀式的なコーラスを散りばめることで、曲の次の展開を良い意味で裏切る。そして、その儀式的なリズムは、曲の中盤部ではリズミカルな要素を増していき、ほとんど民族音楽のディスコのような形で繰り広げられる。さらに続く「Neon」はUMOの『V』にちかいギターの音作りで、それをロンドンのクラブミュージックの要素をまぶすことにより、特異なサウンドを導き出している。一例では、King Kruleのようにグライム・サウンドを反映させた現代的なダンスミュージックの影響をここに見出すことができるはずである。

 

アルバムの終盤になると、LA Priestはダイナミックな展開を避け、 内向きのコアなサイケサウンドに落着する。「Ocean」はタイトルのように、はてない南米の海の上をゆらゆらと気分良く漂うような不可思議なサウンドである。心地よく、まったりとしているが、その核心には、コアなローファイアーティストとしての矜持も滲んでいる。そしてクローズでは意外な展開を迎える。

 

「No More」のイントロを通じて、LA Priestはアステカ文明の向こう側にある超自然的な存在と交信するかのように、シンセサイザーを駆使し奇妙なサウンドを制作している。これがアルバムのテーマの自然の先にあるスピリチュアルな要素と絡み合い、まったりとしたサイケロックと劇的な融合を果たしている。イントロは超自然的であるものの、その最後には不思議にも人間的な温みを持ち合わせるオルトロックへと直結する。レディオ・ヘッドに近い内省的な雰囲気も兼ね備えているこの最後の楽曲を通じて、LA Priestはこれまでになかった新たなスタイルを確立したと言える。今作で何かを掴んだ気配があるので、今後の作品の更なるブラッシュアップに期待したい。

 


76/100

 

 The Lemon Twigs  『Everything Harmony』

 



Label: Captured Tracks

Release: 2023/5/5


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ニューヨーク州ロングアイランド出身のマイケル・ダダリオ兄弟は、2020年代のバンドであるにも関わらず、70年代のポップス/ロックに強い触発を受けている。それは彼らがその当時のスタジオの録音、つまり、デジタルに均一化されていないアナログの録音技術を称賛しているからで、3年ぶりの新作アルバム『Everything Harmony』の作風にも貫かれているコンセプトの一つ。

 

Captured Tracksの説明によると、サイモン・アンド・ガーファンクル、アーサー・ラッセル、ムーンドックと個性的なミュージシャンに触発されたとのこと。 確かにオープニング曲「When Winter Come Around」には、サウンド・オブ・サイレンスの後に解散してしまった伝説的なポップデュオがその後も活動を続けていたら、こういった曲を書いたのではないかと想像させる。70年代のフォーク・ミュージックを愛する音楽ファンの顔を綻ばせるような一曲である。「When Winter Come Around」は、ダダリオ兄弟がソングライティングの際に良いメロディーとコードを重視していること、そして、彼らがトッド・ラングレンのような現地のレジェンドミュージシャンと関わりがあること、さらに、若い時代にブロードウェイのカルチャーの中で音楽観を形成していったこと。これらの3つの要素が絡み合って出来た美しい結晶でもある。ノスタルジックなフォークソングではあるが、ブロードウェイの雰囲気も感じられる面白いオープニングだ。

 

そして、ダダリオ兄弟の音楽性の根底には、サイモン&ガーファンクルを彷彿とさせる良質なフォークソングの影響の他に、 パワーポップやマージービート、チェンバーポップの影響があることも指摘しておかねばならないだろう。緩やかな雰囲気で始まったアルバムの二曲目「In My Head」では、The Beatlesの時代と前後して登場したRaspberries、Bad Finger、The Rubinoosといったパワー・ポップバンドの切ない音楽性を踏襲したトラックである。ダダリオ兄弟のコーラスのハーモニーは絶妙な合致を果たし、Beach Boysに匹敵する青春の雰囲気と甘い情緒性を堪能することが出来る。そしてギターのアルペジオはこの曲の持つ爽やかさを最大限に引き出している。

 

続く三曲目「Corner Of My Eyeys」は、チェレスタの音色が切ない雰囲気を醸し出すバラードソングである。この曲でのダダリオ兄弟のソングライティングはガーファンクルやビートルズの初期の楽曲に根ざしたものと思われるが、彼らのコーラスのハーモニーはやはり独特である。フォーク・ミュージックの要素とブロードウェイの音楽の影響を絡めた音楽は、古めかしくもある一方、新しさも感じさせる。まさにダダリオ兄弟の個性が最も良く反映された一曲と言える。


パワーポップソングとして秀逸なトラックが「What You Were Doing」で、この曲のなかでダダリオ兄弟は比較的パンキッシュなロックを展開させている。The Whoのハードロックバンドとしての表情とは別のモッズロックバンド/パワー・ポップバンドとしての本領を発揮した「The Legal Matter」や「Kids Are Alright」を想起させるパンチの聴いたロックンロールを書いている。そして、70年代のロンドンにパンクが登場する以前のおしゃれなロックの魅力を再現させている。

 

他にも、アメリカの最初のインディーロックスター、アレックス・チルトンを擁するBig Starの影響を感じさせる「Everything Days In The Worst Days Of My Life」も聞き逃すことが出来ない。セルフタイトルのデビュー・アルバムでアレックス・チルトンは、「Thirteen」という素晴らしいフォークバラードの金字塔を打ち立てたが、ダダリオ兄弟は、チルトンへ最大限のリスペクトを示し、そしてまた彼らはBig Starの音楽性に加えサイモン&ガーファンクルのような美麗なコーラスを交える。曲の最後には、フレーズのリフレインが独特な高揚感を生み出している。


他にも、アルバムの中で、フォークバラードの佳曲として目を惹くのが「Still It's Not Enough」で、前半部の曲に比べると、瞑想的な雰囲気が味わえる一曲となっている。繊細で艷やかなアコースティックギターのアルペジオと、ダダリオ兄弟の甘いコーラスワークは、バックトラックに響くシンセのストリングスと融合し、叙情的で切ない雰囲気に彩られ、その最後には、熱くドラマティックな展開へと繋がっていく。レモン・ツイッグスのキャリアの中でダダリオ兄弟の作曲の才能が見事に開花した一曲で、リードシンガーが二人いるような形で、別のフレーズを同時に紡ぐことにより、シド・バレットのような陶酔的な空気感を呼び覚ましている。


アルバムの後半部にも楽しめる曲が満載である。とりわけ「Ghost Run Free」は、往年のパワー・ポップファンを悶絶させること必須だ。青春の雰囲気、叙情性、さらにパンチの聴いたビートを絡み合わせることにより、ザ・レモン・ツイッグスのダダリオ兄弟はロックンロールの真骨頂を体現させている。この曲でも、RaspberriesやThe Rubinoosを思い起こさせる清涼感と甘いメロディーの融合を体感することが出来るはずだ。また、兄弟のボーカルの掛け合いはグラム・ロックに近く、チープ・トリックのデビュー作『In Color』の収録曲「Come On,Come On」にも近い熱狂性を帯びている。

 

ロックンロール、フォークバラード、チェンバーポップ等、70年代にタイムスリップしたかのようなノスタルジア満載の収録曲の中で強い異彩を放つのがタイトル曲「Everything Harmony」だ。伝説の作曲家Moondog(ルイス・トーマス・ハーディン)の前衛的なリズムを受け継いだアートポップソングによって、レモン・ツイッグスは、爽やかな風を今作に呼び込んでみせている。

 

82/100



Featured Track「Ghost Run F」

 

 

Label: Houndstooth

Release: 2023/4/28


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Review


レイキャビクのシンガーソンライター、ヨフリヅル・アウカドッティルはかのビョークもその実力を認め、これまでにソロ名義で四作のアルバムを発表しているほか、同国のオーラヴル・アーノルズの『some kind of peace』にもゲスト参加している。今作のアートワークについては、ヨフリヅル・アウカドッティル自身が衣装デザインを務め、ギリシア風の長衣を身にまとっている。

 

そもそも、アイスランドのシンガーソングライターの中では、この国の最初のモダンクラシカルシーンを切り開いたヨハン・ヨハンソンの音楽性、または世界的なポピュラーシンガーとして名を馳せたBjorkの音楽性に影響を受けていないミュージシャンを探すほうが難しい。それは、 アイスランド国内で五人に一人が知っているとも称される国民的な歌手であるAsgeir(アウスゲイル)、そして、この度、ご紹介するJFDRの名を冠するヨフリヅル・アウカドッティルもまた同様である。

 

このアルバムで、 JFDRことヨフリヅル・アウカドゥッティルは、ビョークの最初期のアートポップ、そして、ヨハン・ヨハンソンやオーラブル・アーノルズのモダンクラシカル/ポスト・クラシカル、さらに、2000年代に最も新しい音楽と称されたmumのフォークトロニカの影響を織り交ぜ、幻想的で聴き応えのあるポピュラーミュージックのワールドを開拓してみせている。


さらに、このアルバムは、Lana Del Ley(ラナ・デル・レイ)の最新作『Did you know the tunnel under the ocean blvd?』に近い方向性を持つとともに、更にレイキャビクの美麗な風景を想起させる。基本的にはポピュラー・ミュージックに属しているが、実際に織りなされる楽曲については、エレクトロニカ/フォークトロニカ、インディーフォーク、ポスト・クラシカル、インディーロックというように、ヨフリヅル・アウカドゥッティルの広範な音楽的背景が伺えるものとなっている。


      

 


オープニングトラック「The Orchid」は、2000年代のmumのフォークトロニカの影響を込めたファンタジックなバックトラックに穏やかなJFDRのボーカルが特徴的な一曲である。まるでアルバムのオープニングは、果てなき幻想の物語へとリスナーをいざなうかのようだ。


二曲目の「Life Man」は手拍子をバックビートとして処理した一曲目とは対象的な軽快なトラックとなっている。


しかし、それは単なるクラブミュージックにとどまらず、やはりアイスランドやノルウェーのエレクトロニカ/フォークトロニカ勢の内省的なIDMの範疇に留められている。そして曲の後半では、これらの絡み合う複雑なリズムが連続する手拍子のビートに後押しされるかのように、独特な高揚感へと様変わりし、その最後になると迫力味すら帯びてくるようになる。


聞き手はこれらの幻想的とも現実的とも判別がつかない不思議な音響空間の中に手探りで踏み入れていかなければならないが、その後に続く三曲目の「Spectator」ではオルトフォークやインディーフォークの影響を内包した内省的なバラードソングへと転ずる。


まるでこの曲は、アイスランドの冬の光景、雪深くなり、街全体が白銀の世界に閉ざされるような清涼かつ神秘的な音楽がアコースティックギターにより紡がれていく。JFDRによる淑やかなボーカルは、イントロではきわめて内省的ではあるが、中盤から終盤にかけてアンビエントのような壮大なシンセのフレーズや、それとは対比的なエレクトロニカのフレーズと分かちがたく絡み合い、単一のフォーク・ミュージックを離れ、壮大で視覚的な音響性が生み出されている。


例えば、ビョークのファンであれば、ここに、かのアーティストと同じくアートポップの洗練された雰囲気を見出すはずである。曲の最後になると、アンビエント風のシンセのフレーズは、ボーカルそのものを凌駕するかのように迫力を増していき、アイルランドの風景を想起させる圧巻の瞬間に変わる。

 

中盤においてもJFDRは、一定のジャンルにとどまらず、自身の幅広い音楽的な背景を曲のなかに込めようとしている。


四曲目の「An Unfolding」では、Olafur Arnorlds、Eydis Evensenのような瞑想的なピアノの演奏にヨフリヅル・アウカドゥッティルのふんわりしたボーカルが加わり、アコースティックの弾き語りのような形で展開されていく。アヴァン・ポップやアートポップの影響を受けたモダンな雰囲気のボーカルを、バイオリンの微細なレガートが、このトラックをよりドラマティックでロマンティックに仕立てている。JFDRの内向的とも外交的とも言いがたい複雑な感覚を擁するボーカルはリスナーを陶然とさせ、この楽曲が持つ幻想的な雰囲気の中に呼び込むことを促すのである。

 

三曲目の『Spectator」と同じようにアンビエント風のシークエンスが中盤から終盤にかけて存在感を増していくことで、このトラック自体にラナ・デル・レイの最新作に比する祝福されたような雰囲気を生み出している。楽曲自体のテンションは高くはないのにも関わらず聞き方によってはある種の高揚感すら呼び覚ます。これはJFDRのボーカルの持つ魔力とも呼ぶべきだ。そして、この曲で、アルバムのカバーアートのイメージと実際の音楽がぴたりと合致するのである。

 

その後もJFDRは、音楽の持つ可能性とそれに纏わる情感の豊かさ、さらに音楽の持つ多彩性を複雑に展開させる。アイスランドのフォークトロニカの源流を形成するmumへの細やかなオマージュを込めた電子音楽で始まる「Flower Bridge」は、JFDRの音楽が持つ現実的な一面とは対象的な幻想性を呼び覚ましている。そしてこのシンプルなIDM(エレクトロニカ)の要素は「An Unfolding」と同じように、モダンクラシカル/ポスト・クラシカル風の存在感のあるピアノのフレーズが綿密に折り重なることで、インスト曲ではありながら芳醇な音響空間を生み出している。

 

続いて、これらの音楽性は、よりミクロ的な範疇において広がりを増していく。「Valentine」は製作者の人生と自分を支えてくれた人々への感謝が捧げられるが、基本的なバラードソングの表向きの表情とは裏腹に、JFDRはギターロックやインディー・ロックの要素を薄く加味させている。これらのマニアック性は、音楽を安売りすることなく、楽曲の持つ芸術性を高めている。


そしてJFDRは、アルバムの収録曲の中で、最も情感たっぷりにこの曲を歌い、自らの人生を色濃く反映させる。複雑に織りなされるボーカルの綾とも称すべき感覚は、この歌手特有の繊細さと温かみを兼ね備えている。ボーカルの音程には、分かりやすい形の山場をあえて設けていないが、中音域を往来するJFDRのボーカルは迫力満点で、そしてアウトロにかけてさりげなく導入される淑やかなピアノは、楽曲の持つ情感を引き立て、ドラマ性をもたらしている。

 

アルバムの終盤に差し掛かっても、これらの電子音楽を交えたロマンチシズムやクラシカルへの興味は薄まることがない。


7曲目の「Sideway Moon」は、ビョークのアートポップとmumのエレクトロニカを融合させたトラックであり、ある意味では、アイスランドのポピュラーミュージックや、その後の時代のエレクトロニカが台頭した時代に対するヨフリヅル・アウカドゥッティルの憧憬の眼差しが注がれている。

 

それは優しく、慈しみに溢れており、いくらか謙遜した姿勢も感じられる。そして不思議なことに、自己という存在を前面に出そうとしているわけでもないにも関わらず、アルバムの中では、このシンガーソングライターの圧倒的な存在感がはっきりと感じとられる。とりわけ、JFDRの感極まったような微細なファルセットは、美しいというよりほかない。曲の終わりになると、これらの静的な要素を持つ曲の印象は、ダンサンブルなアヴァン・ポップに変化し、強いバックビートとストリングスの美麗さにその背を支えられながら、力強い印象を持つ楽曲へと成長するのである。まさに一曲の中で、アイディアが土から芽を出し、それが健やかに成長していくような驚くべき変容の様子が、この5分にも満たない曲の中に集約されていることに注目したい。

 

それ以前のバリエーション豊かな展開の後を次いで、JFDRは、アルバムのクライマックスを細やかな二曲で締めくくっている。


初春が到来する以前の叙情的な雰囲気をアイルランド民謡の影響を交え、その前の年のクリスマスへの回想を織り交ぜ、切ない楽曲として昇華した「Feburary」、さらにフォークミュージックの温和さを内包させた「Underneath The Sun」は、『Museum』に華を添え、ほのかな癒やしをもたらしている。このアルバムは音楽をしっかり聴いたという実感をもたらすことは請け合いであるが、特にレコードの全体を聴きおえた後に、まるで一つか二つの季節を通り越ぎたかのような不可思議な感覚に包まれることに対し、純粋な驚きをおぼえざるを得ない。


 

86/100



「Spector」

Jessie Ware 『That! Feels Good!』

 


Label: EMI

Release: 2023/4/28



Review


このアルバムは、2020年にリリースされたジェシー・ウェア(ワイヤーとも)の4枚目のスタジオアルバム『What's Your Pleasure?"』のリリースから3年後の2023年4月28日にリリースされることが予め決定していた。


前作は、その「ディスコ風」サウンドで広く批評家の賞賛を受けた。Pitchforkはニューアルバムを「2023年の最も期待される34のアルバム」のリストに入れ、Marc Hoganは、2022年7月19日にリリースされたシングル「Free Yourself」をアルバムへのテイスターとしてリリースした後、ウェアは、「その『セックスとダンス』のスイートスポットにうまくとどまった」と述べている。


ウェアは、この10年の初めに、ソウルフルで告白的なラブソングの制作から、きらびやかなパーティー・ミュージックへと焦点を変えて以来、ダンスミュージックの名手となった。


彼女の4枚目のアルバム『What's Your Pleasure? (2020)』は、デュア・リパや彼女のヒーローであるカイリー・ミノーグやロイシン・マーフィーと並んで、初期のパンデミック・ディスコ・リバイバルの作品であり、夜遊びの幸福感と官能性を伝える1枚となっている。その結果、全英チャートで最高位を記録し、BRIT賞で初めてアルバム・オブ・ザ・イヤーにノミネートされ、ハリー・スタイルズの前座としてツアーに参加するなど、彼女のキャリア史上、最大の成功を収めたのだった。


最新作となる『That!Feels Good!』のために、ウェアは同じ類のアルバムを2度作ることを要求されなかったという。しかし彼女は付け加えている。「私はバカじゃない。何がうまくいくかはわかっている」と。問題は、どうすればその道を踏み外すことなく正しいルートを辿れるか。ウェアは、プレジャーのエンディング曲 "Remember Where You Are "にその答えを見いだした。この曲は、夜明けの太陽の光のようなストリングスとクワイアの入った、揺れ動くミッドテンポのアンセムである。


ジェシー・ウェアはプリンス、トーキング・ヘッズ、フェラ・クティからインスピレーションを受け、『プレジャー』の洗練されたエレクトロニック・スタジオの輝きを捨て、ステージ用の新しいダンス・ソングを構想した。彼女はマドンナ、ミノーグ、ペット・ショップ・ボーイズと仕事をしてきたダンスミュージックの王者スチュアート・プライスを共同プロデュースに迎えている。


ジェシー・ウェアはこのアルバムの構想の中で、リスナーに難しく考えずに踊ることを促している。そのコンセプチュアルな概念はマイケル・ジャクソンやプリンスといったディスコサウンドの気風を受けたタイトル曲にわかりやすい形で反映されている。80年代以前のファンクサウンドのコアなグルーブを交えたディスコサウンドは楽しげで、リスナーの心に爽快な気持ちをもたらす。その他にも、ウェアのR&Bサウンドの影響はきわめて幅広い。同じく先行シングルとして公開された「Pearls」では、懐かしのアース・ウィンド・アンド・ファイアーのディスコサウンドを反映し、ユニークなループサウンドを確立している。そして跳ねるような強拍の上に乗せられるジェシー・ウェアの歌声は、近年になく迫力に充ちたものとなっていることに驚く。

 

もちろん、これらのディスコサウンドは必ずしもアナクロリズムに陥っているわけではない。ジェシー・ウェアの音楽性は、昨今のトレンドであるネオ・ソウルと結び付けられ、「Beautiful People」において華やかなサウンドとして昇華されている。アンセミックなフレーズと、それと対象的なそっと語りかけるようなウェアのボーカルは、外交的なサウンドを表向きのイメージの魅力にとどまらず、静かに聴き入らせる説得力を彼女が持ち合わせていることの証立てともなっているのではないか。

 

これらのディープなディスコファンクを中心とするサウンドは、ナイジェリアの伝説的な歌手フェラ・クティに代表されるアフロ・フューチャーリズムの神秘性と結びつき、多彩で新鮮味のあるR&Bサウンドとして提示されている。また、アルバムの終盤に収録されている「Freak Me Now」では、70年代のディスコファンク、MTVの80年代の華やかなサウンドを抽出している。


さらにネオ・ソウルの新境地を開拓した「Lightinig」、及び、アルバム全体にクールダウンの効果をもたらす「These Lips」は、歌手としての進歩を証しづけている。そしてやはり、このクローズ曲でも、ジェシー・ウェアは、アース・ウィンド・アンド・ファイアーやファンカデリックの往年のディスコサウンドやファンクに対するリスペクトを欠かすことはないのである。


80/100


 Jan Jenelik  『SEASCAPE -polyptych』

 


Label: Fatiche

Release: 2023/4/28


Listen/ Purchase(Official)



Review


ドイツ/ベルリンを拠点に活動するJan Jenelik(ヤン・イェネリック)は、20年以上にもわたり、グリッチ/ノイズの製作者として活動して来た。オリジナルアルバムとして有名な作品は、『Loop-Finding-Jazz-Records』(2001年)がある。2000年代から一貫して、イェネリックはドイツのレーベル”Fatiche”からリリースを行っており、今回のアルバムも同レーベルからのリリースとなる。

 

さて、グリッチ/ノイズシーンでは、ベテラン・プロデューサーの域に達しつつあるヤン・イェネリックの最新作は、映画のためのサウンドトラックで、より正確に言えば、映画をもとに制作された実験音楽でもある。この度、ヤン・イェネリックは、1956年のジョン・ヒューストン監督の映画『白鯨』(原作はハーマン・メルヴィルの同名小説)のエイハブ船長の独白をモチーフにして、それを電子音楽として組み直そうという試みを行った。つまり、純粋な音楽作品というよりかは、二つの媒体を融合させたメディア・アートに属する作品と称せる。映像や作中人物の声のデータをグリッチ/ノイズ、アンビエントとして再現させるという内容である。

 

ヤン・イェネリクは『SEASCAPE -polyptych』を制作するに際して、ノイズという観点を通じて彼自身の持ちうる知識を最大限に活用している。ヒスノイズ、シンセのシークエンス、逆再生のループ、サンプリング等、微細な音のデータを活用し、それらをミニマル・ミュージックとして構築している。注目しておきたいのは、アルバムのタイトルからも見える通り、このアルバムは海の音をグリッチという観点から再現し、それをポリフォニーの音楽として組み立てているということ。つまり、ミクロな音の構成そのものはカウンターポイントのような形で成立している。

 

ただ、普通のポリフォニーは例えば、バロック以前のパレストリーナ様式の教会音楽やセバスチャン・バッハの平均律、及びインベンションを見ても分かる通り、器楽の複数の旋律の併置という形で現れるが、イェネリックの場合、それは必ずしも器楽の旋律という形で出現するとはかぎらない。それはシンセサイザーの抽象的なシークエンスかもしれないし、映画に登場するエイハブ船長の独白のサンプリングかもしれないし、ヒスノイズ/ホワイトノイズかもしれない。どちらかと言えば、声や手拍子を器楽の一部として解釈するスティーヴ・ライヒの作品や、イギリスのコントラバス奏者のギャヴィン・ブライヤーズのタイタニック・シリーズのような性格を持ち合わせていることが、このメディア・アートを通じて理解してもらえるはずなのだ。

 

ヤン・イェネリックは、2000年代のリリース作品を通じて、コンピューターのエラー信号を音楽として再構成するグリッチの基本形を確立し、それを高水準の電子音楽に引き上げた人物であるが、今回のメディア・アートに関しては、どちらかと言えば、ノイズだけに拘泥した作品ではないように思われる。ノイズやグリッチも入力される音形を極限まで連続させていくと、水が蒸発して沸点を迎え、気体に変化するのとおなじように、ドローンやアンビエントという形に変化する。イェネリックはそのことを踏まえ、グリッチのノイズを連続させ、それを背後のレイアウトにあるシークエンスと融合させ、既存の作品とは一風異なるIDMを生み出そうとしている。

 

もちろん、深堀りすると、この作品はコンセプト・アルバムとも、ストーリー性を擁する作品とも解釈出来るが、どうやら、ヤン・イェネリックの今作の制作における主眼は、そういった映画のサウンドトラックの付属的な音響効果にあるわけではないように思える。彼はこの作品を通じ、電子音楽の未知の可能性を探り、音楽を、音楽という枠組みからどれだけ自由に解放させることが出来るのかを、彼の得意とするグリッチ/ノイズという観点から究めようとしているわけである。


このメディア・アートの作品の魅力的な点をもうひとつ挙げるなら、それは、映画のサウンドトラックと同じように映像から連想される音楽をどれだけ映像の印象と合致させるのかということに尽きる。

 

これはこのテクノ・プロデューサーの高い技術により、音そのものから何かを連想させるという創造性の一面として現れている。具体的に言えば、緊張した雰囲気、水の中にいるような不思議な雰囲気、木の階段を登っていく雰囲気、水の中に何かが沈んでいくような雰囲気、と多様な形で映画のワンシーンが、テクノ・ミュージックとして立ち現れる。これらの音は、まるで何もない空間に突如、映画的なワンシーンを出現させるかのようでもあり、SFに比する魅力を持っている。

 

私たちが崇めたてている物理的な重量を持つデバイスは、すでに古びようとしている。そのうち、物理的な箱型のデバイスは消え、何もない空中にデジタルのディスプレイを出現させるような革新的なテクノロジーが生み出されていくと思われるが、ベルリンのプロデューサー、ヤン・イエネリックが志向するメディア・アートとは、まさにそういった感じなのかもしれない。


 74/100