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 Clarissa Connelly 『World Of Work』

 

Label: Warp

Release: 2024/04/12




Review



クラリッサ・コネリーはスコットランド出身で、現在デンマーク/コペンハーゲンを拠点に活動するシンガーソングライター。近年、Aurora(オーロラ)を始め、北欧ポップスが脚光を浴びているが、コネリーもその一環にある北欧の涼やかなテイストを漂わせる注目のシンガーである。


それほど音楽そのものに真新しさがあるわけではないが、親しみやすい音楽性に加え、ABBAやエンヤのような北ヨーロッパのポピュラーの継承者でもある。おそらく、コネリーは、デンマークを中心とするポピュラーソングに日常的に触れているものと思われるが、シンガーが添えるのはスコットランドのフォーク・ミュージック、要するにケルト民謡のテイストなのである。

 

このリリースに関しては過度な期待をしていなかったが、素晴らしいアルバムなので、少し発売日から遅れたものの、レビューとしてご紹介したいと思います。Warpはこのリリースに際して特集を組み、クラリッサ・コネリーは、アメリカの音楽学者でアメリカン・パラミュージック学博物館の館長でもあるマット・マーブルさんとの対談を行い、以下のように述べています。

 

「私は新しいメロディーやコードを書きながら、こうした無意識の状態に陥るようにしている。長いメロディーを書き続けて、調性が変わるところに出てきて、また戻ってくることがよくある。そして、その輪が終わったとき、輪が短すぎたり、曲の中で新しいパートを導入したいと思ったりすると、夢うつつの状態に陥ることがよくある。そして、それが私に与えられる」


音楽学者のマット・マーブルはこの対談のなかで、コネリーの音楽について次のように話している。

 

ーークラリッサが初めて私に自分の「思考の下の聴取」について語ったとき、私はロシアの詩人、オシップ・マンデルスタムを思い出さずにはいられなかった。マンデルスタムは自分の実践を 『秘密の聴覚』と呼びならわし、それを彼は 『聞く行為と言葉を伝える行為の間にある中間的な活動』と表現したことがあるーー

 

ーー聴くことをある哲学的な雰囲気を通してフィルターにかける一般的なクレアウディエントの伝統と同様に、クラリッサは、『自分の作曲のプロセスを、特に願望的な静寂に導かれている』と述べた。これは、祈りと静寂に満ちた傾聴が効果的でインスピレーションを与えてくれることを証明し、セルフケアのための内なる必要性から発展したものである。いずれにせよ、クラリッサの音楽の多くは、この静謐な雰囲気の中で、まるで夢の中にいるかのように生まれるーー

 

この対談はさすがとも言え、音楽そのものが表面的に鳴り響くものにとどまらず、聞き手側の思考下になんらかの主張性をもたらし、そしてまた心の情感を始め、科学的には証明しがたい効果があることの証となる。つまり、ヒーリングミュージックに象徴されるように、人間の傷んだ魂を癒やすような力が音楽には存在することになる。もうひとつ気をつけたいのは、音楽はそれとは正反対に、把捉者の聴覚を通して、その魂を傷つける場合があるということである。これは、アンビエントが治癒の効果を持つように、クラリッサ・コネリーのデビュー・アルバムもまた、ポピュラー・ミュージックを介しての治癒の旅であることを示唆している。クラリッサ・コネリーのソングライティングは、ギター、ピアノを中心におこなわれるが、それに独特なテイストを添えているのが、北欧の言語にイントネーションを置いたシラブルである。

 

多分、英語で歌われるのにも関わらず、デンマーク語の独特なイントネーションを反映させた言葉は、アメリカン・パラミュージック博物館の館長のマット氏がロシアの詩人の警句を巧みに引用したように、『聞く行為と言葉を伝える行為の間にある中間的な活動』を意味している。ひとつ補足しておくと、それはもしかすると「伝達と受動を超越した別の表現形態」であるかもしれない。これはまた「伝達」と「受動」という2つの伝達行為の他にも別の手段があることを象徴づけている。例えば、米国のボーカル・アーティスト、メレディス・モンクは古くから、このことをパフォーミングアーツという形態で伝えようとしていた。また、オーストラリアの口笛奏者のモリー・ルイスは、「口笛がみずからにとって伝達の手段である」と語っていることを見ると更に分かりやすい。つまり人間は、近代から現代への機械文明に絡め取られたせいで、そういった高度な伝達手段を失ってきたとも言えるのだ。SNSやメディアの発展は人間の高い能力を退化させている。これは時代が進んでいくと、より退化は顕著になっていくことだろう。そしてクラリッサ・コネリーのボーカルは、単なる言葉の伝達手段なのではなくて、神秘的な意味を持つ「音や声のメッセンジャーである」ということが言えるかもしれない。

 

 

コネリーが説明しているように、デビューアルバムの冒頭の収録曲の音楽は、絶えず移調や転調を繰り返し、調性はあってないようなもので、ミュージック・セリエルの範疇にあるメチエが重視されている。しかし、完全な無調音楽とも言い難く、少なからず、その中にはドビュッシーやラヴェルのような転化による和声法が重視されている。色彩的なタペストリーのように織りなされる旋律の連続やアコースティックギターやピアノ、ストリング、ドラム、シンセサイザーのテクスチャーという複合的な要素は、最終的にデンマーク語のシラブルを踏まえたボーカルと掛け合わされ、美しいハーモニーを作り出す。クラリッサ・コネリーの作曲の手腕にかかると、床に散らばった破片が組み合わされていき、最終的に面白いようにピタリとはまっていく。

 

ここには、ビョークが最新アルバムで見落としたポピュラーの理想的なモダニズムが構築されている。アルバムの冒頭部「Into This, Called Lonelines」にはこのことが色濃く反映されている。音楽的には、北ヨーロッパのフォークミュージックを踏まえ、それらを柔らかい質感を持つポップスとして昇華させる。


いわば、アルバムのオープナーは、未知の扉を開くような雰囲気に縁取られている。アルバムの中には、サンプリングの導入によってストーリーが描かれるが、それらは多くの場合、他の曲と繋がることが非常に少なく、分離した状態のままにとどまってしまっている。しかし、このアルバムはその限りではなく、「The Bell Tower」は、木目を踏みしめる足音と教会の鐘の音のサンプリングを組み合わせ、次の曲の導入部の役割を担う。まるで、音楽の次のページをめくったり、次の物語の扉を開けるかのように、はっきりと次の音楽の雰囲気の予兆となっている。

 

また、良いことなのかはわからないにせよ、クラリッサ・コネリーのソングライティングは、時代性とは距離を置いていて、流行り物に飛びつくことはほとんどない。「An Emboridery」はタイトルの通りに、刺繍を組み合わせるようにギターの演奏がタペストリーのように縫い込まれ、長調と短調の間を絶えず行き来する。これらの感覚的なトラックに対し、コネリーのボーカルは、より情感的な効果を付け加える。たとえ現代的なノイズを交えたエクスペリメンタル・ポップの音響効果が組み込まれても、それらの感覚的な旋律や情感が失われることがない。そして、曲のアウトロでは、前の曲の鐘の音が予兆的なものであったことが明らかになる。

 

「Life of Forbidden」は、北欧ポップスの王道にあるナンバーで、この音楽の象徴的な特徴である清涼感を味える。構成にはコールアンドレスポンスの技法が取り入れられ、北欧の言語やフォーク・ミュージックにだけ見出される特性ーー喉を細かく震わせるようなファルセットとビブラートの中間にある特異な発声法ーーがわかりやすく披露されている。この曲は、単なるフォーク・ミュージックやポピュラー・ソングという意味で屹立するのではなく、上記の対談で語られた伝達や受動とは異なり、その中間域にある別の伝達手段としてボーカルが機能している。

 

これは例えば、メレディス・モンクが『ATLAS』で追い求めたボーカルアーツと同じような前衛的な形式が示されている。アートというと、ややこしくなるが、クラリッサ・コネリーの曲は、耳障りの良く、リーダビリティの高い音楽として表側に出てくる。山の高地の風を受けるかのような、軽やかで爽やかなフォーク・ミュージックとして楽しめる。それに続く「Wee Rosebud」も同様に、メレディス・モンクがコヨーテのような動物の声と人間のボーカルを同化させたように、声の表現として従来とは異なる表現形式を探求している。それはデビュー作であるがゆえ、完全なカタチになったとまでは言いがたいが、ボーカルだけで作り上げられるテクスチャーは、アコースティック・ギターの芳醇な響きと合わさり、特異な音響性を作り上げる。

 

アルバムの前半部では、北欧のポップスの醍醐味が堪能出来るが、それ以降、クラリッサ・コネリーの重要なルーツであるスコットランドのケルト民謡をもとにしたフォーク・ミュージックがうるわしく繰り広げられる。ソングライターは、ギターを何本も重ねて録音することで、アコースティックの重厚なテクスチャーを作り出して、曲の中に教会の鐘の音をパーカッシヴに取り入れながら、ケルト民謡の神秘的な音楽のルーツに迫ろうとする。この曲は、他の曲と同じように、聞き手にイメージを呼び覚ます力があり、想像力を働かせれば、奥深い森の風景やそれらの向こうの石造りの教会を思い浮かべることもそれほど難しくはないかもしれない。これはベス・ギボンズの最新作「Live Outgrown」と同じような面白い音響効果が含まれている。


優しげな響きを持つ「Turn To Stone」もソングライター/ボーカリストとしての力量が表れている。ピアノのシンプルな弾き語り、そしてやはり北欧の言語のイントネーションを活かした精妙なハーモニーをメインのボーカルと交互に出現させ、柔らかく開けたような感覚を体現させる。その後、「Tenderfoot」では、スティール弦の硬質なアコースティックギターのアルペジオを活かして、やはり緩やかで落ち着いたフォーク・ミュージックを堪能出来る。それほど難しい演奏ではないと思うが、ギターと対比的に歌われるコネリーのボーカルがエンヤのような癒やしを生み出す。この曲でも、ボーカルをテクスチャーのように解釈し、それらをカウンターポイント(対位法)のように組み合わせることで、制作者が上記のWarpの対談で述べたように、「願望的な静寂」に導かれる。これはまた深層の領域にある自己との出会いを意味し、聞き手にもそのような自らの原初的な自己を気づかせるようなきっかけをもたらすかもしれない。

 

制作者は複合的な音の層を作り上げることに秀でており、シンセの通奏低音や、ギターの断片的なサンプリング、 コラージュのような手法で音を色彩的に散りばめ、それらをフォークミュージックやポピュラーミュージックの形に落とし込んでいく。上記の過程において「Crucifer」が生み出されている。この曲は、アルバムでは珍しく、セッションのような意味合いが含まれていて、旋律の進行やどのようなプロセスを描くのかを楽しむという聞き方もあるかも知れない。


アルバムは意外にも大掛かりな脚色を避けて、シンプルな着地をしている。クローズ「S,O,S Song of The Sword」は、編集的なサウンドはイントロだけにとどめられていて、演出的なサウンドの向こうからシンプルな歌声が現れるのが素敵だと思う。これらの10曲は、表面的な華美なサウンドを避けていて、音楽の奥深くに踏み入れていくような楽しさに満ちあふれている。
 



82/100




 「Life of The Forbidden」

 Peggy Gou 『I Hear You』


Label: XL Recordings

Release: 2024/06/07



Review    A stunning debut album



ペギー・グーのキャリアは、南ドイツのハイデルベルクのベースメントのクラブシーンから出発した。以後、Ninja Tuneをこよなく愛するクラブビートの愛好者、そして、Salamandaなど気鋭の実験的なエレクトロニックデュオを発掘して育成するレーベルオーナー、そして、それ以後、イギリスのクラブシーンに関わりを持つようになったDJというように、かなり多彩な表情を持つ。どうやら、今年の夏、日本の音楽フェスティバルで準ヘッドライナーを務めるという噂もある。表向きには、新進気鋭のプロデューサー、DJというイメージを持つリスナーもいるかもしれないが、それは完全な誤りである。ペギー・グーは2010年代ごろからドイツのベースメントのクラブシーンに慣れ親しんでおり、満を持してXLとのライセンス契約を結んだと言える。こんな言い方が相応しいかはわからないけれど、意外に下積みの長い音楽家なのである。

 

ペギー・グーのクラブビートへの親しみは、南ドイツの哲学者の街、ネッカー川や古城で有名なハイデルベルクに出発点が求められる。


当初、ペギーは、ハイデルベルクの地元のレコードショップを務めていた名物DJ/プロデューサー、D Manと親しくしていたようで、それゆえ彼女のクラブビートは正確に言えば、イギリスのロンドン/マンチェスター由来のものではない。ヨーロッパのクラブビートの色合いが滲んでいる。


だからなのか、ベルリン等の大型のライブフェスで聴けるようなハリのあるサウンドがこのデビュー・アルバムで繰り広げられる。ある意味では、ペギー・グーはドイツのハイデルベルクのベースメントのクラブミュージックを背負い、デビューアルバムに詰め込んでいる。それは形骸化したクラブ・ミュージックとは異なるもの。アーティストのデビュー作への意気込みやプライドのようなものがオープニングから炸裂する。

 

アルバムから醸し出される奇妙なクールさは実際に聞かないとわからない。「Your Art」ではユーロビートの次世代のビートを込め、スポークンワードを散りばめ、ドイツ的なものからイギリス的な表現へと移り変わる過程が描かれている。その中にダブの録音だったり、Tone 2のGradiatorのような近未来的なアルペジエーターを多彩に散りばめ、魅惑的なトラックを作り上げている。


ミックスにより表面的なトラックの印象が押し出されているが、その内実はかなり細かいところまで作り込まれたサウンドであることが分かる。ただ、録音的には、イギリスのレコーディング技術が駆使されているとはいえ、ペギーがプロデューサーとして体現させるのは、ユーロ的な概念なのである。いわば、ここにコスモポリタンとして生き残ってきたグーの姿が浮かび上がる。


「Back To One」は、例えば、ロンドンのクラブで鳴り響いているようななんの変哲もないディープ・ハウスのように思えるかも知れないが、その中にユニークなサンプラーやシンセの音色を散りばめることで、 カラフルな印象を持つサウンドを構築していく。ただ、やはりIDMではなくEDMに軸足を置いているのは一曲目と同様で、やはりクラブでの鳴りの迫力を意識している。ここにはやはりヨーロッパで活躍する電気グルーヴのような親しみやすいテクノからの影響も含まれている。一貫して乗りやすく、親しみやすいビートを作り出している。 


インストゥルメンタルを中心とする曲が続いた後、クラブビートを反映させたボーカルトラックが収録されている。アルバムのハイライト「I Believe In Love Again」では、レニー・クラヴィッツが参加している。このことに由来するのか、クラブビートはややソウルやR&Bの性質が色濃くなる。キャッチーなボーカルやビートはお決まりの内容なのだが、よく聴くと分かるように、意外と深みが感じられる。ここには直接的なリリックとしては登場しないが、愛情という考えの裏側にある孤独や寂しさといったような考えが、ボーカルのニュアンスの背後からぼんやり浮かび上がってくる。


アルバムの中盤ではサンプラーの引用によってR&Bを抽出する''ジャングル''というダンスミュージックが色濃く反映されている。ここではロンドンのベースメントのクラブ・ミュージックを反映させ、それは数年前にペギーが実際にダンスフロアで体験した音楽が追憶のような形で繰り広げられている。ここにはやはり、アーティストの音楽的な背景が示唆されるにとどまらず、リアルな生活、日頃どのような暮らしを送っているのか、そういったバックグラウンドを感じ取ることが出来る。それは実際、かなりリアルな感覚をもって聞き手の感覚を捉えてやまないのだ。コラボレーターとして参加したVillano Antilannoは、ヒップホップという側面で貢献している。そして複雑さでははなくて、簡素さという側面で、この曲の雰囲気を上手く盛り上げている。


「It Goes Like) Nanana」では、DJ/プロデューサーのアーバンフラメンコやレゲトンといった最新のクラブビートへの親しみがさりげなく示される。しかし、ここではロザリアとは異なり、チープな音色を取り入れ、軽やかなクラブビートを作り出す。夏のリゾート地で活躍しそうなナンバーで、涼やかで爽やかな気風が反映されている。意外なことに、この曲にはTM Network(小室哲哉)のような日本のレトロなテクノサウンドへのオマージュが示されている。

 

こういった古いタイプのダンスチューンは今聞くと、意外と新鮮な感覚を覚える。ペギーは、チープさを徹底して押し出すことで、いわく言いがたい「新しさ」を添えている。また、それに続く「Lobster Telephone」でも、YMO/TM Networkからのサウンドの引用がある。どうやらアーティストによる日本の平成時代のカルチャーへの親しみがさりげなく示されているようだ。

 

アルバムの中盤で、日本のテクノシーンへさりげないリスペクトが示された後、ようやく韓国的なクラブビートが展開される。「Seoulsi Peggygou」は大胆にも京城とアーティスト名をタイトルに冠しているが、ここにはリナ・サワヤマのロンドンでの活躍に触発されてのことか、ディアスポラの概念とホームタウンへの熱い思いが織り交ぜられる。ドラムンベースの影響下にある変則的なリズムから三味線や胡弓のような音色でエキゾチズムを込め、アジアのテイストを添えている。ここにはアーバンフラメンコを始めとするスパニュッシュの文化に対抗する「アジアイズム」が分かりやすい形で反映されている。言うまでもなく、この曲にはDJとしての手腕が遺憾なく発揮され、ドラムンベースを主体とするビートはSquarepusherのようなドライブ感を帯びる。しかし、こういったベースメントのクラブサウンドを展開させても、それほどマニアックにならない理由は、シンプルな構成を心がけているからなのかもしれない。



ボーカルトラックとして強くおすすめしたいのが「I Go」である。やはりペギー・グーはデトロイト発祥の古典的なテクノサウンドをベースにし、涼やかな印象を持つトラックを制作している。アルバムの中では、K-POPのようなニュアンスを持ち合わせている曲だが、ただこれらの音楽のベースにあるのは、韓国由来のものだけにとどまらない。どちらかと言えば、MAX、安室奈美恵、BOA、それに類する日本の平成時代のダンスミュージックの影響を感じ取ることが出来る。これらの「Avex Sound」と呼ばれるものは、日本では長らく忘れ去られていたタイプの音楽だが、海外で活躍する女性シンガーが意外とセンスよく昇華させているに驚きを覚える。日本のポップシーンに言いたいのは、平成時代の音楽に原石が眠っているということなのだ。


ここまで聞きやすい曲を揃えておいて、アルバムの終盤ではペギー・グーの抑え込んでいた趣味や衝動が全開になり、バイクで夜道を爆走するような迫力満点のクラブビートが繰り広げられる。「Purple Horizon」では、イギリスのベースメントのクラブミュージックを反映させつつ、そしてアシッドハウスの色合いを添える。マニアックな曲だが、一番聴き応えがある。ここでは、Four Tetのようなカラフルなサウンド・デザインを描き、音楽家としてのデザインのセンスがうかがえる。ペギー・グーはサンプラーのビートを巧みに配し、サウンドパレットの中に大胆なシーケンスを取り入れている。大掛かりな仕掛けを持つテクノミュージックとして楽しめるはず。

 

アルバムの最後の「1+1=11」は、明らかにD Manのアシッド・ハウスのビートを意識していて笑ってしまった。やはり、ここには、イギリスのクラブミュージックへのリスペクトもあるが、その裏側で南ドイツからキャリアを出発させたDJとしての底意地のようなものが揺らめく。デビュー作であるものの、三作目のアルバムのような雰囲気があるのも面白いのでは。ダンス・ミュージックの楽しさ、軽快さ、爽やかさという基本を追求した素晴らしいアルバム。

 

 


85/100




 

「I Go」

 

 

 Actress 『Statik』

 

Label: Smalltown Supersound

Release: 2024/06/07

 

 

Review


ロンドンのエレクトロニック・プロデューサー、ダニエル・カニンガムによるプロジェクト、Actressは、摩訶不思議なサウンドテクスチャーを作り上げる。イギリス/ロンドンのベースメントのクラブミュージックを反映させ、ベースラインからダブステップ等、変則的なリズムを配し、ブレイクビーツに基軸を置いたアブストラクトなテイストを持つエレクトロニックを制作する。

 

カニンガムの作風は、ロサンゼルスのローレル・ヘイローの最初期の作風を想起させ、いわば電子音楽によるミステリアスな世界へとリスナーを誘う。音のモジュレーションの変化により、トーンが徐々に変化していき、その中にリサンプリングの手法を交え、グリッチノイズやダブステップのリズムを配置する。

 

アルバムの収録曲には、Autechre(オウテカ)のようにノンリズムによる構成も見受けられる。ヒップホップのチョップやブレイクビーツの手法が織り交ぜられ、ミニマルテクノの範疇にある前衛的なリズムが構築されている。ただ、2022年のアルバム『Karma & Desire』を聴くと分かるように、ダニエル・カニンガムの作風は、なかなか一筋縄ではいかないものがある。彼のテクノは、リチャード・ジェイムスの系譜にあるモダンクラシカルとエレクトロニックの中間にあるものから、Four TetやBibloの系譜にあるサウンドデザインのようなものまで実に広汎なのだ。

 

このアルバムのリリースに関して、カニンガムは現代詩のような謎めいたメッセージを添えていた。それはまるでダンテの『神曲』のような謎めいたリリック。ある意味では、Oneohtrix Point Neverの最新アルバム『Again』のような大作かと身構えさせるが、意外にもコンパクトな作品に纏まっている。『Statik』はヒップホップのミックステープのような感じで楽しめると思う。アルバムのオープナーを飾る「Hell」は、2000年代のローファイでサイケなヒップホップのトラックを思い起こさせる。アシッド・ハウス風のサンプラーによるリズムが織り交ぜられることによって、現代的なデジタルレコーディングとは対極にあるアナログ・サウンドが構築される。続くタイトル曲はドローン風のアンビエントをモジュレーションによって作り出している。

 

その後、どちらかといえば、IDMとEDMの中間にあるディープなクラブミュージックが展開される。「My Way」は、ダニエル・カニンガムの代名詞的なサウンドで、Boards Of Canada、Four Tetに代表されるカラフルな印象を持つミニマルテクノとして存分に楽しめる。今回、カニンガムはボーカルサンプリングを配して、Aphex Twinの系譜にあるサウンドに取り組んでいるようだ。「Rainlines」はバスドラムを強調したアシッドハウス/ミニマルテクノ風の作風だが、アクトレスの他の作風と同じように言い知れない落ち着きと深みがある。バスドラムの響きが続くと、その中に瞑想的な響きがもたらされ、最終的にはチルウェイブ風の安らぎがもたらされる。

 

ダニエル・カニンガムは、90年代や00年頃のテクノブームの時代の流行を踏まえ、それらの作風にややモダンな印象を添えている。「Ray」は、例えば、Sam Prekopのような懐古的なサウンドと現代的なサウンドを結びつけている。それほど革新的ではないものの、新鮮な息吹を持つミニマルテクノを制作している。ハイハットをグリッチサウンドのように見立てて、叙情的なモーフィングシンセのシーケンスを配し、水の上に揺られるような心地よいヴァイヴを作り出す。

 

アルバムのオープナー「Hell」を除けば、プレスリリースの現代詩のようなイメージとは異なるサウンドが展開されている。しかし、後半部に差し掛かると、制作者の志向する異質なエレクトロニックを垣間見ることが出来るはずだ。例えば、「Six」では、ダウンテンポの作風を選び、モーフィングやモジュレーションによってミステリアスな印象を持つシーケンスを作り出す。しかし、カニンガムのサウンドは一貫して落ち着いており、連続的なリズムに聞き手の注意を引き付ける。いわば、軽はずみな多幸感や即効性を避けることによって、曲に集中性をもたらす。


現代的なテクノの依拠した収録曲もある一方で、アクトレスはやはり90年代や00年代初頭や、それよりも古いレトロな電子音楽のサウンドに軸足を置いているらしい。「Cafe De Mars」は、サウンドのパレットをモーフィングのような形で捉え、巧みなトーンの変化を生み出している。「Dolphin Spray」では、モジュレーションによりシンプルなビートを作りだし、それにレトロな感じの旋律を付け加えている。解釈次第では、Silver Applesの時代のアナログテクノの原点にあるビートを踏まえ、ゲーム音楽の系譜にあるチップチューンのエッセンスをさり気なく添えている。ここにカニンガムの制作者としてのユニークな表情をうかがい知ることが出来よう。

 

その後も意外に聞きやすい曲が続いている。表向きにはディストピア的な考えはほとんど出てこない。ただアルバムの中盤のリスニングの際の面白い点を挙げるとするなら、「System Verse」は、最初期のローレル・ヘイローのような抽象的で摩訶不思議なサウンドに挑んでいる。これらは遊びや思いつきの延長線上にあると思われるが、聴いていて不思議な楽しさがある。


そしてようやくプレスリリースでのコンセプチュアルな試みが「Doves Over Atlantis」で表れる。この曲では、ダニエル・カニンガムのかなり意外な幻想主義が表れ、アトランティス大陸に関するファンタジックなイメージを、彼のアーティスティックな感性と上手い具合に結びつける。


さらにファンタジックな印象が最後の最後で浮かび上がってくる。「Mellow Checx」は、同じく抽象的なサウンドだが、従来のアクトレスとは異なるナラティヴな試みが含まれている。ダニエル・カニンガムは、楽園を描くでもなく、地獄を描くでもなく、中間にある煉獄やそれにまつわる幻想を結びつけ、独特な雰囲気のエレクトロニックを制作している。アルバムを聞くかぎり、現行のエレクトロニックは、他の総合芸術のような意味を持ち始め、その中に絵画的なニュアンス、あるいは文学や映像的なニュアンスを込めるのがトレンドになりつつあるらしい。

 

近年、モダン・クラシカルの作品であったり、トム・ヨークとのコラボレーションやボーカルトラックに取り組んでいるClarkはいわずもがな、WarpのSlouson Malone 1のような現代的なプロデューサーが示唆するように、エレクトロニックは音の集合体という枠組みを超越し、いよいよ別の総合芸術との融合を図る段階に来ているのだろうか。これは例えば、リチャード・ジェイムスがライブでサウンドインスタレーションのような試みを始めているのを見ると分かりやすい。

 

 

 

78/100

 

 

 Bat For Lashes- 『Dream Of Delphi』

 

Label: Mercusy KX

Release: 2024/05/31



Review       ブライトンのシンガーによる安らぎのポップソング集



ブライトンのシンガーソングライター、ナターシャ・カーンは幼少期の頃からピアノに親しみ、学生生活では人種差別に遭いながらも、音楽やソングライティングを通じて、みずからの音楽的な世界を探求してきた。


若い頃にはニルヴァーナに親しみ、そしてブライトン大学を卒業後、保育園で勤務するかたわら、総合的なマルチメディアを制作するように。その中には、映像と音楽を同期させるサウンドインスタレーション作品もある。バット・フォー・ラッシーズことナターシャ・カーンが音楽を総合的なメディアのように考えているのは、最新作『Dream Of Delphi』を聴くと明らかである。

 

このアルバムで、ナターシャ・カーンは、ピアノを中心とする現代的なバラード、エレクトロニックを貴重としたシンセ・ポップ、そして映像的な意味合いを持つポップソングまで多彩な音楽性を提示している。ミニマル・テクノの反復的なビートをもとに、みずからの歌によって展開をつける。それはトラックの最初ではシンセポップだったものが、曲の途中からまったく別の音楽へと変化し、そしてエクスペリメンタルポップ、アヴァンポップの領域へと踏み入れる。それは音楽による内的な探求を意味し、ひとつの音楽を契機として、みずからの内面深くに歌とともに潜っていくかのような趣旨が求められる。当初は簡素な印象を持つ音楽であるが、曲の過程の中で、曲がりくねったり、直線になったりと、シンガーの人生を反映するかのように変遷していく。カーンのスピリットは岩のように固くなったり、それとは逆にそよ風のように柔らかくなったりと、その都度、変化していく。いわばその歌声は形を持つことがない。


このアルバムで、ナターシャ・カーンは「デルフィ」という謎めいた人物を登場させる。それが実在するのか、それとも架空の人物であるのかは定かではない。しかし、まるでカーンは得体の知れない不思議な人物になりきったかのように歌をうたう。つまり、シンガーソングライターというのは、演技の達人なのであり、また、言い換えれば、映画のスクリーンに登場する俳優か女優のようなものでもある。その演じることへの純度が高ければ高いほど、それは独特な音楽性に成り代わる。もちろん、それは実際の人物像と近いかどうかはまったく関係のないことである。なぜなら歌をうたうということは、自分自身になりきりことだけを意味しない。ときには、別の自分や、今まで知らなかったもう一人の自分と遭遇することを意味するのだから。


実際のナターシャ・カーンの人物像がどうであれ、(そんなことは音楽を聴く際に重要ではない)タイトル曲「デルフィの夢」では夢想的で、未来に対する期待をふくらませるようなシンガーの姿がぼんやりと浮かび上がる。


シンセサイザーのリードを通じ、ビートやメロディーがうねりながら、別の音楽的な展開を呼び覚ます。そして、シンセパッドを背後に配置することで、より演出的な音楽をスクリーンを作り出す。最終的には、先鋭的なエレクトロニックのビートを配置することで、ダンサンブルな印象を作り出す。いわば今作の冒頭では、曲の結果ではなく、過程が重要視されていると言える。そして、過程が見えないものよりも、これははるかに聴く際の信用度を高めるのである。

 

アルバムの冒頭で、リスナーは、自らにとってミステリアスな印象を持つ音の世界に足を踏み入れることになるだろう。

 

そして、意外と知られていないが、わからない部分を残しておくこと、つまり、アルバムの冒頭となるオープニングでは手の内を明かさないこともフルレングスのアルバムを制作する上では不可欠な要素となるかもしれない。人間は、いつもわからない部分があると、次の何かを知りたいという欲求を持つものである。どうやら、手探りでアルバムを聞き進めていくと、このアルバムがひとつの音楽によるナラティヴな要素を擁するものであることがつかめるようになる。


続く「#2 Christmas Day」は、彼女が若い頃から親しんできたピアノの落ち着いた演奏をベースにして、柔らかい印象を持つバラードに取り組んでいる。しかし、つぶやくようなウィスパーボイスをもとに構築される音楽は、シンセサイザーの効果によってモダンな印象を持つバラードへと変化している。そして海の中の生物のように、それらのシンセはゆらめき、それに合わせて歌うカーンのボーカルはピアノの複合的なフレーズ、スポークンワードの混合によってダイナミックな印象を持つ楽曲へと変化していく。

 

3曲目の「Letters To Daughter」ではミニマル・テクノをベースにオーガニックな質感を持つボーカルをカーンは披露する。 アヴァン・ポップやエクスペリメンタルポップの範疇にある複雑な構成を持つ曲で、時々、ベースのリズムの強弱の抜き差しによって曲にめりはりをつけている。しかし、こういった複雑な構成の曲は一般的にはライトなリスナーに少し近寄りがたいイメージを与える恐れがあるが、この曲はその限りではない。港町であるブライトンの海岸のリゾート的な感覚を思わせる開放感、なおかつ爽やかな雰囲気が春のそよ風のように吹き抜けていくのだ。その後も、ダイナミックな曲とそれとは正反対にスタティックな曲を代わる代わる登場させる。


「#4 At Your Feet」は、「Christmas Day」と同じようなメディエーションの範疇にある静かで涼やかな印象のピアノバラードである。ピアノはシンセサイザーで演奏されているが、シンプルでミニマルな構成を持つ演奏はヒーリングミュージックのような安らぎを生み出す。これがアルバムの全体を聴く上で、リスナーの心を絆すような効果があることは言うまでもないことである。緊張した感覚も時には必要であるが、そればかり続いていると、精神は疲弊してしてしまう。ときに心の安める場所を作品のどこかのポイントに置くことはとても有益なことなのである。

 

 その後も、フルアルバム全体を一連のストーリーのように見立てて、ナターシャ・カーンは起伏のある音楽を展開させていく。「#5 The Midwives Have Left」のイントロでは、2曲目と4曲目のようなメディエーションの曲であると思わせておいて、実際は、賛美歌やクワイアのような印象を擁する清涼感のあるポップソングを制作している。ここでもダイナミックと対極にあるスタティックな印象を持つ曲を収録することで、アルバム全体の動きに静止を与えている。たえず流動的なアルバムというのも一つの魅力であるのだが、時々、それはリスナーを背後に置き去りにしてしまう可能性がある。この曲は、聞き手に対して、とどまるという重要な契機をもたらす。音楽に引っ張られるのではなく、音楽の中にとどまらせる力を持っている。音楽としては、アンデルセンの神話「冬の女王」のようなイメージを持った清涼感溢れる曲である。しかし、童話のような印象に現実味を与えるのは、カーンの伸びやかなビブラート、休符を徹底して押し出したシンプルなピアノの伴奏である。この曲を聴くと分かる通り、音を微細に配置しすぎず、適度な間や休符を設けることは、優れたポップソングを制作する際に不可欠な要素だ。なぜなら、音の要素が余りに多いということは、耳の肥えたリスナーにとっても疲労感をもたらし、気忙しいイメージを与えてしまう。これでは休まるところがなくなってしまう。

 

アーティスティックなイメージを前半部では押し出すナターシャ・カーンであるが、それほど音楽通ではないリスナーにも親しみやすい曲を用意している。これはアーティストの配慮や心使いとも呼ぶべきものだ。そしてリスナーはそういった配慮を見つけてしまうと、俄然、良い印象を持つ。つまり、辛口の音楽ファンにも少しだけ気を緩めさせるような効果があるものなのだ。「Home」は、すでに発表済みの曲と思われるが、UKの商業的なポップスを意識した上で、TOTOのようなAOR/ソフト・ロックの要素を付け加えている。この曲でも、他のアルバムの曲と同じように、やはり、炭酸ソーダのようなシュワシュワ感溢れるフレッシュな感覚が重視されていて、アルバムを聞く際、聞きやすさという美点をもたらしていることは事実であろう。続く「Breaking Up」ではAOR/ソフトロック風のアーバンな感覚をサクソフォンの演奏により呼び覚ます。この曲は日本のシティポップに近く、バブリーな感覚を味わうことが出来る。浮かれ騒いでいたバブル期の日本のようなノスタルジックな雰囲気を漂わせる良曲となっている。

 

アルバムの中盤では多彩な音楽性を披露するカーンであるが、サブタイトル曲「Delphi Dancing」ではより楽しげな感覚をもとにして、起伏のあるシンセポップソングを制作している。その中にはアルバムの冒頭のタイトル曲と同じように、エクスペリメンタルポップの影響が含まれているが、ナターシャ・カーンは一貫して、音楽のシンプルさや分かりやすさに重点を置いていることが分かる。例えば、どれほど曲の構成がテクニカルであっても、もしかりに、それが完成度の高いものでなければ水泡に帰してしまう場合がある。そこで、あえてこのアルバムでは、基準点を少し下げることで、良質な音楽に昇華させている。ハードルを高くするのではなく、時には、ハードルを低く設定し、今持つ実力を発揮することの重要性をナターシャ・カーンは教唆してくれる。そして、この曲では、夢想的な感覚を織り交ぜながら、シンセの可愛らしい音色や、ダンサンブルなリズムで中盤のハイライトを作り上げるが、その後、シンプルなピアノのフレーズが出現する。大掛かりなものが作られる手前で、すっと身をかわし、親しみやすいピアノのフレーズーーまた、それは言い換えれば''ミュージシャンとしての原点''ーーに舞い戻るのである。バイエルの演奏のように子供でも弾けるシンプルなピアノ、そして、初歩的なシンセサイザーが清涼感のあるアトモスフィアを作り上げる。もちろん、アートワークのような、夢想的で開放的なサウンドスケープを音楽によって巧みに演出するのである。


「Her First Morning」は、賛美歌やクワイアの影響を基にした、やや幻想的な雰囲気を持つポップソングとして聴き入ることが出来る。それをディズニーのイメージと結びつけるのか、それとも、ケルティック・フォークのような中世ヨーロッパの童話的なイメージと結びつけるのかは聞き手次第である。しかし、少なくとも、そういった別の空間に誘う力、そしてイメージの換気力を持つ音楽であることは明確で、これは優れたシンガーソングライターの特徴でもある。

 

その後、ナターシャ・カーンは、Steve Reich(スティーヴ・ライヒ)やフィリップ・グラスのようなミニマル・ミュージックへの親しみを示している。「Waking Up」ではシンセの演奏をもとにライヒの影響下にあるポピュラー音楽を書いている。この曲では「Music For 18 Musician」のマリンバの同音反復という作曲技法を踏襲し、ポピュラーミュージックの形に置き換えている。しかし、カーンは、ライヒのような優れたVariation(変奏)の技法を持たぬため、ミニマリズムをあっけなく放棄する。アルバムの最後には、神妙なピアノの演奏によって静寂の瞬間が訪れる。つまり、アルバムの制作を通じて、アーティストはみずからの人生の原点に立ち返るのだ。

 

 


80/100




Best Track - 「Christmas Day」




アルバムのストリーミングはこちらから。

 Loscil -  『Umbel』EP

 

Label:  Self Release

Release; 2024/05/31

 


Review   


Indirect Sound   -バンクーバーのアンビエントの重鎮による重厚なドローン-



2001年頃、実質的なデビュー・アルバム『Triple Point』をリリースした当初、ロスシルはミニマル・テクノ/アシッド・ハウス風の電子音楽を制作していた。翌年、『Sbumer』をリリースした頃には抽象的なサウンド・デザインを描くようになり、アンビエントの果てなき世界を探求していた。


ロスシルのサウンドはそれ以降、より抽象的になり、ドローンアンビエントと呼ばれるこのジャンルの最も先鋭的な性質を象徴付けるエレクトロニック・プロデューサーとなった。ロスシルは、アンビエントで自然風景を表現したり、サウンドデザインのような意義を擁するダウンテンポ、はては、音楽そのものを建築学や図面のように解釈したものまで、そのアウトプットのスタイルは多岐にわたる。そして一括りにアンビエントといっても様々な表現法があることが分かる。その中には2000年代にドイツで盛んになったグリッチ(ラップのドリル)の性質が強固な作品もある。 多作なプロデューサーであるけれど、ロスシルの作品は毎回のように密度が濃い。


ただ、ロスシルの作品を定義付けるのなら、これまで特定のカラーを持った作品というのは、それほど多くはなかったという印象もある。コンセプチュアルな試みがないというと偽りになってしまうけれど、エレクトロニックの全般的な制作に関しては、ある程度自由なイメージを持って作品をリリースしてきた印象がある。要するに、彼の作品の中にはエレクトロニックによる抽象的なメチエが含まれることはあっても、一貫してダークな印象を持つアルバムというのはそれほど多くはなかった。

 

しかしながら、今回の最新EP『Umbel』は、従来のアンビエント/ダウンテンポの作品とは明らかに意を異にしている。最新作では、全体的”にダーク・アンビエント”とも称するべきドゥーム・サウンドに焦点が絞られており、暗鬱さと重厚感を併せ持つ特異な作風が生み出されることになった。これは同じくカナダのプロデューサー、Krankyからリリースを行うTim Heckerが昨年リリースした『No High』に触発されたような意義深い作品である。作品単位における差異は、Lawrence Englishとのコラボレーション・アルバム『Colours of Air』と比べると一目瞭然ではないだろうか?

 

 

オープニングを飾る「Shadow Marple」では、ティム・ヘッカーが昨年のアルバムで披露した録音の波形を、シュトックハウゼンやルイジ・ノーノのようなトーンクラスターの範疇にあるミュージック・コンクレートとして処理した上で、エレクトロニックによるミニマルミュージックに落とし込むという形式が、イントロに見いだせる。


 しかし、ミニマリズムの範疇にあるフレーズが呆れるほど繰り返されると、これが通奏低音を活かしたドローン・ミュージックのような音響性へ変化する。つまり、ミニマルなフレーズを幾つも辛抱強く積み重ねながら、マキシマムな構成を持つ音響構造を形成するのである。つまり、モチーフは、ミクロの視点で構成されるが、その反面、リスナーはマクロの極大の音像を捉える。

 

これらの二面性を見るかぎり、『Umbel』は従来のロスシルのサウンドの中で最もコンセプチュアルな意味を持ち、同時に、”反骨精神に溢れる作風”として位置付けられるかもしれない。そして、もうひとつの主要な特徴が、これらの表面的なイメージを形作るアンビエントの中に、メタ構造とも呼ぶべき趣旨が見いだせることだろう。彼は、従来のアブストラクトなアンビエントやダウンテンポの手法を用いながら、ミルフィーユ構造のような構成をもたらし、その内側に教会のパイプオルガンのような音響性を作り出す。もちろん、聞けば分かる通り、録音にはアコースティックのチャーチオルガンは使用されていない。しかし、遠くの方でオルガンが響くような奇妙なイメージをもたらす。これらの二重性を込めたアンビエントサウンドは、かなり先鋭的な印象を形作る。それらの堅牢な楽曲構造を作り出した上で、ロスシルはベテランプロデューサーらしく、巧みなサウンド・デザインの手法を施し、音形や音波を自在に操り、極大の音像と極小の音像を代わる代わる登場させ、最終的に、イントロで立ち消えたと思われたパイプオルガンの荘厳な音響性を曲のクライマックスになって再登場させ、意外な印象をもたらす。


『Umbel』では、サブウーファーを持つ特別なスピーカーでしか捉えることの難しい重低音がミックス/マスタリングで強調されている。それはこのアーティストの潜在的な重厚な人物像や作曲性を浮かび上がらせる。これはまた、従来のロスシルの作風から考えると、かなり特異な点であるかと思う。

 

それらは暗鬱さ、及び、地の底から響くような重厚さ、それとは対極に位置する荘厳な音の印象という2つの対蹠地(Antipodes)に存在する音の間を往来し、現実と幻想の狭間を漂うような奇妙なサウンドスケープを巧みに描き出している。タイトル曲「Umbel」では、最近、ニューヨークのアンビエントプロデューサー、ラファエル・イリサーリがセルビアの現代音楽家と率先して取り組んでいるダークアンビエントのような作風を思わせるが、ロスシルの場合は、メタリックなノイズ性とは対極にあるジョン・ケージのような静謐さにポイントが絞られている。(ケージは生前、サイレンスの概念やイデアについてよくモーツアルトの楽曲を比較対象に出していた)

 

サイレンスとラウドを絶えず往来する微細なトーンシフターの変化、そして低音域を中心に構成されるドローンのシークエンスが混ざりあうと、アクションゲームのサウンドトラックのような印象を持つコンセプチュアルな音のイメージが浮かび上がる。その中で、セリエリズムを基にした不協和音が取り入れられ、不気味でワイアードなイメージを作り出す。これらのドローンのサウンドに、社会風刺のような意味があるのか、もしくはこれまで彼が取り組んでこなかったようなメッセージが込められているのか。そこまでは明言できないにしても、アウトプットされるサウンドには何らかのメッセージが含まれているように思える。もちろん、それをどのように解釈するのかは聞き手の感性による。そして、これらの多角的なサウンドスケープは、カウンターポイントのような複合的なモノフォニー構造を生み出す。しかし、それらの対旋律的な進行は、最終的に一つのシークエンスに焦点が絞られ、無数に散らばったものが合一へ近づき、それらが厳粛な雰囲気を携えつつ、アウトロへと向かう。最終的に通奏低音は、徐々にトーンダウンしていき、ラウドからサイレンスへと繋がっていく。ここには、カナダのプロデューサーとしては珍しく、音響学としての変容の過程が重視されているように見受けられる。


 

EPの冒頭の2曲は比較的、意外な作風として楽しむことができる。他方、それに続く、3曲目の「kamouraka」はロスシルの従来の作風の延長線上にある内容である。それは大気の粒子を電子音楽の形で捉えたかのようであり、それらのアンビエンスの中にノイズが散りばめられている。音の粒が精細な輝きを放ち、その中にサンプリングを散りばめ、デジタルな感覚とアナログな感覚を織り交ぜる。


サンプリングの中には木々の破片がぶつかりあうような音や大気の中に雨が降りしきるような音が捉えられ、先鋭的なデジタルサウンドと鋭いコントラストを描く。Four Tetのような色彩的なサウンドとまでは言い難いが、少なくともサウンド・デザインのような趣旨を持ったトラックである。ノイズの印象が強いけれど、その中に音楽が持つロマンティックな印象性を呼び覚まそうとする。ここにも、入れ子構造のような二重性のある楽曲の構想を発見出来るかも知れない。

 

さらに制作者は、パンフルートのようなシンプルな音色のシンセサイザーの音源を用いながら、巧みに音の印象を遠く響く教会の鐘の音、つまり、アルヴォ・ペルトの名曲「Fur Alina」のような現代音楽のディレクションにも見いだせる"INDIRECT SOUND"(間接的なサウンド)を緻密に作り上げている。さらに詳細に言及するなら、それらは近くではなくて、”遠くにぼんやりと鳴り響いている祝祭的な音楽”なのである。これは、例えば、ノルウェーのトランペット奏者であるArve Henriksen(アルヴェ・ヘンリクセン)が2008年に発表したアルバム『Cartography』の収録曲「Sorrow And Its Opposite」、「Recording Angel」等を聴くと、わかりやすいかも知れない。

 

 

「Indirect Sound(間接的なサウンド)」は、それ以降も今作の主要な位置づけにある。そして、近年のデジタルの音響機器は、技術者の研鑽によって精細な音の粒を捉えられるようになってきているが、一方で、映像がそうであるように、必ずしも鮮明な音質が良い印象を与えるとは限らないのが面白い。ときに、クリアなサウンドという概念を逆手に取り、それとは反対に解像度の低いローファイな音の質感をあえて押し出すと、鮮明なサウンドよりも強い印象を及ぼすことが可能になるケースもある。ロスシルはそんなことをEPを通じて教唆してくれているという気がする。

 

続く「Dusk Gale」も同じような音楽形式に位置づけられる。この曲では、ドイツ等のヨーロッパの地方のお祭りに見いだせるような祝祭的な響きが込められており、ロスシルは、モジュラーシンセを駆使しながら遠くで鳴り響く瞑想的なオルゴールのような音響効果を作り出す。しかし、静かなイントロとは裏腹に、その後、稲妻のようなノイズが走り、音のイメージを一変させる。

 

そして、EPの序盤と同じようにマクロな視点で宇宙的なサウンドをデザインする。それはラファエル・アントン・イリサリと同じように、少し不気味な印象をもたらすこともあるが、最終的に天文学的なアンビエントサウンド、ダークマターやブラックホールを電子音楽の観点から捉え、デザインするのである。そしてこの曲も、ラウドなドローンから徐々にサイレントなドローンにゆっくりと変化していく。さながら、宇宙の本質を表しているかのようであり、ブラックホールに宇宙の物質が飲み込まれていくようなサウンドスケープを描出する。


 

上記の4曲は、意外にもアンビエントの穏やかさとは対極にある緊迫感を擁するイメージを徹底的に押し出している。その中には、従来のロスシルのイメージを払拭するものもある。しかし、EPのクローズを飾る「Cyme」は、ロスシルらしい作風を選んでいる。いかにも山の高原にある精妙な空気感を電子音楽で表現したような感覚。しかし、ここまで通奏低音やサステインを強調したアンビエントは、彼の作品の中でもそれほど多くはなかったように感じられる。


少なくとも、ロスシルはこのミニアルバムを通じて、彼自身の音楽を形骸化させることなく先鋭的な作風へと転じている。今後どのような音楽が生み出されるのか、ワクワクしながら次の作品を楽しみに待ちたい。

 

 ロスシルのコメントはこちら

 

90/100

 

 

 

DIIV  『Frog In Boiled Water』

 

Label: Fantasy Records

Reelase: 20204/05/24

 

Review  暗鬱なエモーションが生み出す巧みなオルタナティヴ・ロック

 


『煮え湯のなかのカエル』は、オルタナティヴロックとしては平均的な作品かもしれないが、どこまでも痛烈な風刺が効いており、ある意味では、そういった資本主義構造に対して不信感を抱く音楽ファンに快哉を叫ばせる何かが含まれている。本作のロックソングには、現代の資本主義社会に生きなければならぬ市民のやるせなさと苦悩、そして煩悶がかなり見えやすい形で表れていることをリスナーは発見することだろう。

 

DIIVの音楽には、シューゲイズの要素が含まれていることは詳しいリスナーであればご存知のはずである。しかし、彼らの音楽的なアウトプットの中には、ニューロマンティックを始めとするニューウェイブの影響が込められている。これらはゴシック風のダークな音楽性と結びつき、『Oshin』というキャプチャード・トラックスのカタログの代表作となったのである。そして、彼らのニューロマンティックの要素は、Nation of Languageを始めとする一派に引き継がれていったわけで、彼らはどこまでもニューヨークらしいロックバンドといえるのかも知れない。

 

慣れ親しんだNYのレーベルを離れて、ファンタジー・レコードからリリースされた『煮え湯のなかのゆでガエル』は、彼らのニューウェイブからのダークなイメージがグランジに近いプリミティブな質感を持つオルタナティヴと結びついている。アルバムのオープナー「In Amber」から不穏な不協和音が満載で、ニック・ケイヴを輩出したオーストラリアのBirthday Party、Jesus Lizard、Ministryのように鈍重で、重苦しいギターリフを特徴としている。しかし、一方、バンドサウンドとしては、USオルタナティヴの王道の手法が選ばれており、ボーカルのニュアンスは憂鬱さと甘美さを兼ね備えたアイルランドのMy Bloody Valentineの系譜にある。いわば苛烈なディストーションという煙幕の向こうから、優しげで包み込むようなボーカルが現れる。暗さや憂鬱がバンドの音楽の中核を担うが、不思議とその向こうから癒やされる感覚がぼんやり立ち上ってくる。それは、DIIIVが2010年代頃からニューウェイブやニューロマンティックの音楽を吸収してきたからで、''暗鬱からもたらされる慰め''という奇妙なエモーションを「Brown Paper Mag」において捉えることが出来る。そして音の運びは、いくらか鈍重にも思えるが、明らかに以前とは異なるグランジのニュアンスが良い感じのヴァイヴを生み出している。


旧来のレーベルを離れたバンドではあるが、「Raining On Your Pillow」は聴くと分かるように、キャプチャード・トラックス・サウンドともいうべきナンバーである。表向きにはダークであるが、そこから醸し出されるストリートの雰囲気やスタイリッシュなサウンドはこのレーベルが最も得意とするところである。それらのレシピのようなものをこっそりバンドは持ち出し、それらをReal Estateの最初期に代表されるノスタルジックなオルタナティヴ・ロックに置き換えている。そして、あらためて思うのは、このあたりの清涼感のあるサウンドは今聴いても普遍的な響きがあってかっこいい。そして、2010年頃から演奏技術も格段に上がったので、淡さや渋さという表向きには見えづらい空気感をギターを中心に作り上げている。ベース/ドラムに関してもシンプルな演奏を心がけ、それらのギターサウンドやボーカルのニュアンスを補佐するような役割を果たしている。タイトル曲もアイルランドのギターロックを参考にし、オルタネイトなスケール進行を活かし、暗さと癒やしを兼ね備えたワイアードな音響を作り出している。これはどちらかと言えば、最初期のオアシスのようなUKロックとして楽しむこともできる。

 

その他、「Everyone Out」では、Explosions In The Skyを彷彿とさせる実験的なポスト・ロックを展開させ、アルバムの中に緩急を作り出している。その後、シューゲイズの王道を行く「Reflected」は一見したところ、ソフトカルトのEPに比べると、地味なサウンドのように思えるかも知れないが、実際はトレモロギターのうねるような迫力は、こちらの方がはるかに凄い。そして比較的、グランジ/ストーナーの系譜にある鈍重でミドルテンポで繰り広げられる音楽は、バンドの経験値の高さというか、これまで積み重ねてきた研鑽のようなものが感じられる。小規模なスペースから、それとは対象的に中規模のライブスペースまで出演を重ねてきたバンドしか作り得ない熱狂がある。これはギターサウンドの一瞬のきらめきのようなニュアンス、そしてボーカルにおいて何を重要視すべきなのかというのが他のバンドよりも明確である。

 

シューゲイズサウンドというのは、音の印象を薄めるためにあると考えるのは軽薄であり、濃厚にするために作らねばならないわけで、DIIVは長く挑戦を続けてきたこともあり、理想的なサウンドを感覚的に知っているという感じがする。その後、このアルバムはオルタナティヴ・ロックという一つの軛の中で、様々な変遷を繰りひろげる。やや繊細な感覚を吐露した「Somber The Drums」で90年代のグランジを内省的なドリームポップの側面から解釈している。

 

「Little Birds」では『Oshin』の時代から受け継がれるニューロマンティックの要素を抽象的なギターロックで表現している。そしてとくに注目すべきなのは、盟友ともいえるBeach Fossilsからの影響もあるのか、『Somersault』に象徴されるクラブビートとオルタナティヴ・ロックのクロスオーバーにも取り組んでいる。しかし、ノイズの部分とそれとは対比的なサイレンスの部分がバンドとして意思疎通が取れており、スリリングな展開を見せる瞬間もある。バンドがいう”ポスト・トゥルース”の要素は、どちらかと言えば、SFの前段階にあるサウンドを暗示しているという気もする。そして、それらが今後どのような形で繋がっていくのかと期待させる。今作のクローズ「Fender on The Freeway」は、意外にもインストゥルメンタルで終わっているが、この曲のスタジオセッションからオルタナティヴのニュータイプが出てきそうな感じがある。

 

『Frog In Boiled Water- 煮え湯の中のカエル』には資本主義への風刺も込められているが、他方、DIIVが従来のシューゲイズから抜け出し、別のロックバンドとして歩みだす瞬間が捉えられている。

 

 

 Best Track- 「Reflected」

 

 


 

78/100 

 

 

 

DIIVによる新作アルバム『Frog In Boiled Water』はFantasy Records/Concordから発売中です。

 

Softcult  『Heaven』 

 

 

Label: Easy Life Recordings

Release; 2024/05/24



Review

 

カナダの双子のシューゲイザーデュオ、ソフトカルトは、基本的にデビュー当時からシングルを中心に発表してきた。デュオの編成とは思えないほどの重厚なギターサウンドがプロジェクトの特徴となっている。


シューゲイザーというのは、My Bloody Valentineのケヴィン・シールズが述べているように、独立した音楽のジャンルを意味するのではなく、轟音のフィードバックノイズから発生するギターサウンドの抽象的な響きを示唆する。つまり、これは、ギターサウンドの特徴を音楽評論の側面から定義付けたものに過ぎない。


ソフトカルトのギターにはサウンドデザインのような要素が含まれており、また、苛烈なディストーション/ファズ・ギターからもたらされる音像に関しては、ドゥームメタルやアンビエントに近似するものがある。


ただ、デュオが''Riot Shoegaze''というジャンルを掲げて活動していることからも分かる通り、ソフトカルトの音楽性の中に、パンキッシュな性質が含まれていることは、ファンであればご承知のことと思われる。それらがアブストラクト、要するに抽象的なポップサウンドという形で最終的にアウトプットされる。パンクの影響下にあるシンプルなボーカルのフレーズは、近年、日本公演を行っていることからも分かる通り、実は大型のライブスポット向けの音楽でもある。


デュオの音楽には明確にフィードバックノイズを多用したシューゲイズのサウンドがある。それは90年代のMBV、RIDE、Slowdiveの次のポスト世代の音楽性の範疇にある。


例えば、Amusement Parks On Fire、Radio Dept.もしくはDIIVの最初期のようなポスト世代のシューゲイズサウンド。それに加えてソフトカルトのボーカルの最大の特徴は、Mewのような北欧のエレクトロポップの影響を受けた甘美的な雰囲気にある。ソフトカルトの音楽の魅力は厳密に言えば、スケールの進行やボーカルの旋律進行の巧みさにあるのではなく、ノイズアンビエントのような抽象性にあるというわけなのだ。


オープナーを飾る「Haunt You Still」は、Amusement Parks On Fireの「In Flight」のようなサウンドを彷彿とさせる。ドリーム・ポップの甘美的な雰囲気はコクトー・ツインズを彷彿とさせることもある。


「One Of The Pack」は姉妹が掲げるライオット・ガールという考えが上手く体現されており、ライブなどではかなりスリリングな熱狂を呼び起こしそう。 しかし、一方でそういった清冽なイメージは、ライトなポップネスやEvanescenesのようなニューメタルの後追いのようなサウンドに至ると、とたんに鮮烈なイメージが薄れて、旧態依然としたサウンドの中に絡め取られてしまう。プレスリリース等で、ラディカルな政治的な発言、政治信条、クイア・コミュニティに関するステートメントを率先して発信してきたソフトカルトだが、意外にも音楽的な側面では”保守的なバンド”に位置づけられる。

 

ただ、意外にも、実質的なデビューEPの最大の魅力は、シューゲイズとは異なる箇所に表れている。例えば、「Spiralling Out」のフェーザーをかけたグランジ風のギターは現在のオルタナティヴロックの中ではかなり良い線を行っていると思うし、それらがデュオの持つ独特な清涼感のあるボーカルのコーラスと溶け合った時、ようやくこのデュオが双子であったことを思い出させる。


そして、続く「9 Circle」では、Sigur Rosのようなポストロック/音響派の影響を感じさせるイントロに続いて、シャリッとしたギターが入ってくる瞬間はクールな雰囲気がある。その後のミステリアスな音楽的な効果、そして、サイレンスからラウドへとダイナミックに移り変わる瞬間も、ソフトカルトの抜群のセンスが滲み出ていると言える。しかし、これらのサウンドは、インクを水で薄めたような印象があり、オルタナティヴの核心にはいまだ至っていない。これはもしかすると、デュオという編成の弱点を埋めようとして重厚なサウンドを作り込んだ結果、落とし穴に入り込んだようにも感じられる。最近では、チープな音楽性を生かしたポストパンクバンドもそれなりに出てきているので、少し工夫すべき点が残されているかも知れない。


そんな中でも良質なメロディーを追求しようとする姿勢が、続く「Shortest Fuse」で花開いている。デュオの作り出すボーカルのハーモニーの美しさはメタルと結びついて、他のどのバンドにも求めがたいスペシャリティーに変容している。それらが少しゴシックの影響を受けたシューゲイズサウンドとして昇華される。特異なのは暗鬱なイメージから切ない情感が引き出されることである。


EPのタイトル曲「Heaven」は、デュオの描くユートピアのイメージが体現される。この曲にもデュオの抜群のメロディーセンスが繊細なハーモニーを生み出す。ダークアンビエント、ニューメタル、ポストロック/音響派、エモ、ドリームポップというように、複合的な要素を織り交ぜ、甘美的な音楽とは何かを示している。次作にも期待してます!!

 

 

 

74/100

 

 

 

Best Track- 「Shortest Fuse」 

 

 Vince Staples  『Dark Times』 


 

 

 

Label : Def Jam/ UMG

Release; 2024/05/24

 


Review    ダーク・タイムズ

 

ニューヨークとならんでヒップホップのもうひとつのメッカであるコンプトンのイメージは、(私のラップの定義が00年頃で止まっているせいもあってか)、NWAやアイスキューブという巨大な存在もあってか、ラディカルでアグレッシヴ、そしてときにはデンジャラスであるとばかり考えていた。それはこの西海岸の地域がニューヨークとならんで、もうひとつのヒップホップの発祥地であるがゆえ、同地のラッパーは東海岸のラップをライバル視してきたという点と、80年代ごろの音楽産業の発展や拡大、それに関連するドラッグやレーベルの問題、サンプリングのライセンス問題など様々な出来事が折り重なり、ギャングスタラップというスタイルが生み出された同地域の由縁にある。『Americas Most Wanted』というアイス・キューブの傑作があるが、それはまだヒップホップがストリートの中にあり、バッド・ボーイという観念に絡め取られていたことを意味していた。

 

それから、およそ四十年近くが経過し、 同じくコンプトンから登場したヴィンス・ステープルズの前作アルバム『Ramona Park Broken Heart』は、(個人的には)そういったコンプトン=バッド・ボーイというイメージを払拭するものがあった。前作においてラッパーが込めたテーマであるホームという考えはなんとなく慈愛的で、そして傷つきやすさや脆さを隠していたNWAやアイス・キューブの時代と比べると、ミュージシャン/リリシストとしての表現性も大分変化したものだと思わずにはいられなかった。ヴィンス・ステープルズのラップは、むしろみずからの脆弱性を隠そうともせず、それらをシンプルに吐露するような印象を個人的には抱いたのである。

 

近年のラップは、オーバーグラウンドの大きな存在もあってか、それほど地域差というのが少なくなってきているように感じられる。そこで、以前のような南部のまったりとした巻き舌のニュアンスは訛りに聞こえるからか、わざと都会的なリリック捌きやフロウ、あるいはニュアンスを展開する音楽家も少なくないのかもしれない。ただ、それは同時に現代のロサンゼルスのラップが西海岸らしさを失ったことの証明にはならない。ヴィンス・ステープルズのラップは、少し巻き舌のまったりとしたニュアンスがあり、これはおそらく同地でメロウなソウルやチルウェイブ、あるいはローファイといった音楽が盛んであるからなのかもしれない。つまりそのニュアンスの中には、ラディカルなイメージとは対象的な落ち着きがある。確かなことは言えないが、ステープルズは、昨年、キラー・マイクがラップの悪漢的なイメージを払拭するために奮闘したように、この音楽の知的な側面や内省的な側面といった旧来のオールドスクールや、その後のギャングスタ・ラップとは対極にある表現性を探求するのである。

 

前作はぼんやりとした音楽のイメージがあったが、最新アルバム「Dark Times」はタイトルも意味深だし、音楽的に言っても、レゲエやチルウェイブ、ソウル、ディープハウスを中心とする多角的なディレクションが織り交ぜられた聴き応え十分のアルバムである。もっといえば、今年最初のアメリカのヒップホップの良作の一つに挙げられるかもしれない。いわば、前作で音楽の暗礁に乗り上げかけていた印象もあるステープルズは、この最新作において、癒やしや安らぎを重視した音楽にシフトチェンジを図ることで、次なるステップへと歩みを進めた。ステップという表現よりも、新しい境地を切り開いたというべきなのだろうか。現代の音楽のトレンドは、刺激性や即効性ではなく、癒やしや空白といったものに変化しつつある。聞き手にとどまらず、たぶん多くの音楽家はラディカルでエクストリームな表現に疲れてしまったのだろうか。

 

そして、ニューヨークやボストン周辺のアブストラクト・ヒップホップとは異なる前衛的な試みも取り入れられている。それは、アルバムの冒頭に収録されている「Close Your Eyes and Swing」での鳥の声のフィールド・レコーディングやモダンクラシックの音楽性を反映させたアーティスティックな表現、つまり旧来のラップのイメージを一新するということにある。しかし、先鋭的な音楽を選んだからといえ、オールドスクールを捨てたというのは極論となるかもしれない。ターンテーブルのスクラッチのチョップやブレイクビーツの技法を巧みに取り入れつつ、旧来のギャングスタやバッドボーイの表現をレゲエのリズムから解釈することによって、音楽そのものにマイルドさをもたらしている。言葉やリリックで表現によって差別的な表現やカルチャーの内奥に踏み入れるのではなくて、音楽やビート、アシッド・ハウスのような濃厚なグルーヴの流れやビートの渦のなかで、彼はシンプルにラップし、ストレートな表現を和らげながら、オーバーグラウンドのラップミュージックとは少し異なるオルタネイトな感覚をもたらしている。これは、言葉やリリックというものが先鋭的になりすぎた現代社会において、音楽性によって過激な印象を和らげるという手法が用いられているのかもしれない。そして「Black & Blue」、「Children's Song」に見いだせるような音楽性は、むしろヴィンス・ステープルズの音楽がサザンソウルのような旧来のR&Bの系譜にあるものなのではないかと思わせるものがある。これらのトラックはカニエ・ウエストほどにはサイケではなく、絶妙な均衡が保たれている。

 

最近のオルタナティヴ・ヒップホップは、そのほとんどが単一のジャンルで成立することは少ないように思える。そのだいたいがジャズ、レゲエ、ハウスといったブラックミュージックの異なる系譜の音楽をラップに取り入れ、ターンテーブルのような手法でボーカルの背景となるトラックやリズムを制作する。言ってみれば、それぞれの歌手の個性を引き出したようなラップを披露するのが一般的なのである。その中には感情性をむき出しにしたものや、一貫して感情の抑制を重視したものまで、その表現方法はラッパーの数だけ異なる。いわば、一つの模範的なアーティストが出てきたからといえ、模倣に終始することはほとんどなく、若干のニュアンスの変化により各々の個性を表現しようと試みる。その例に違わず、ヴィンス・ステープルズのラップは背景となるトラックがラディカルなものになろうとも、それとは対象的に落ち着いたリリックさばきを披露する。これはどちらかと言えば、アトランタのJIDにも近いように思えるが、ステープルズの場合、JIDほどにはまったりしておらず、そのリリックには強い核心のようなものが込められている。ただ、それは刺々しい表現や苛烈な風刺という形で昇華されるわけではなく、深読みを促すような暗示的なフレーズやリリックが暗に仄めかされる。これは解釈しだいでは、ラップが直接的な表現であった時代から、いよいよ現代詩のような暗喩やメタファーに近い、より手の込んだ文学表現に近づいてきたことの証立てともなりえる。

 

ヴィンス・ステープルズの音楽にはチルウェイブに加え、ローファイやサイケからの反映もあり、「Shame on The Devil」や、「Justin」、「Radio」にそれらのフィードバックを捉えることが出来る。「Liars」では、語りのスポークンワードのサンプリングを織り交ぜる現行のヒップホップのトレンドを踏襲している。こういったややマニア向けの音楽性も含まれる中、ステープルズのラップはオーバーグラウンドに近づく場合もある。「Etoufee」は、ドリルをポピュラーなボーカルトラックとして解釈し、ドレイクを思わせるクールなフロウを披露している。特に個人的に最もクールだと思ったのが、「Nothing Matters」である。UKのベースラインのビートを取り入れ、それをエレクトロニックの側面に解釈し、アメリカのヒップホップにインターナショナルな要素をもたらしている。近年の売れ線のラップは、グリッチでハイエンドのリズムを刻むことが多いが、アコースティック風のドラムの演奏を取り入れ、ハイハット、バス、タム、スネアが作り出すドラムンベースやベースラインを吸収したダンスチューンとして昇華される複合的なトラックメイクが、最近の米国のラップのトレンドとは一線を画しているように感じられる。これはどちらかと言えば、英国のSquarepusher、Loraine Jamesがダンスミュージック/エレクトロニックという領域で志向する電子音楽と生楽器の融合を、ラップというフィールドでやってのけている。少なくとも、ラップミュージックに新しい風を呼び込むような素晴らしいトラックだ。

 

さらにアルバムの後半には、よりダンサンブルな印象を持ったラップが収録されているのに注目したい。「Little Homies」はシンプルに言えばディープハウスとラップを融合させ、ビヨンセの次の時代のブラックミュージックのトレンドを探求している。これらはステープルズがクラブミュージックに軸足を置いていることを伺わせる。こういった新しい試みも見受けられる中、「Freeman」では、古典的なブラックミュージックを現代的なラップと結びつける。バスドラムのキックの鳴りが重厚でかっこよく、さらにステープルズは、UKのネオソウルの影響を反映させ、ボーカルディレイを積極的に導入し、Trickyのようなトリップホップの系譜にある音楽を暗示している。彼は、上手くトレンドを踏まえて、現在のロンドンのラッパーと同様、スポークンワードを織り交ぜ、シンセで擬似的なオーケストレーションを導入して、モダンクラシックの要素を付け加えようとしている。



もし、このアルバムが、ロンドンのヒップホップと連動していると仮定するならば、いよいよラップは多数のクロスオーバーを経て、その表現性の裾野をコンテンポラリークラシック/モダンクラシックにまで広げはじめたということになる。もちろん、クロスオーバーのヒントとしては、その他にも、ニュージャズ、オペラ、讃美歌、民族音楽というように、まだまだ一般的に知られていない要素はたくさんあるのだが...。

 



85/100




Best Track- 「Nothing Matters」

 

 

 

*Vince Staples(ヴィンス・ステープルズ)によるアルバム『Dark Times』はDef Jam/ UMGから発売中です。 ストリーミングはこちらから。

 Andrew Bird-  『Sunday Morning Put-On」

 


 

Label: Loma Vista/ Concord

Release: 2024/05/24



Review  

 

--北部と中西部 モダンとクラシックの記憶--

 

アンドリュー・バードはヴォーカリスト、口笛奏者、ソングライター。4歳で初めてヴァイオリンを手にし、クラシックのレパートリーを聴覚から直に吸収し、音楽的な形成期を過ごした。10代の頃、バードは、初期のジャズ、カントリー・ブルース、フォーク・ミュージックなど様々なスタイルに興味を持つようになり、それらを独自のポップ・ミュージックに融合させた。

 

近年では、フィービー・ブリジャーズとのコラボ曲で、米国の詩人エミリー・ディッキンソンの作品を再構築したほか、『Outside Problem」では、人生の苦悩を題材に選び、渋いポピュラーミュージックを制作している。続く『Sunday Morning Put-On』は、ミュージシャンがスタンダードジャズに挑戦を挑む。近年、ドラマーからボーカリストに転向したFather John Mistyが古典的なミュージカルとポピュラーを融合させ、ノスタルジックなポピュラー音楽で成功した事例に倣い、アンドリュー・バードもまた20世紀始めのマンハッタンの摩天楼の世界にリスナーを導く。

 

このアルバムには「Fly Me To The Moon」などの定番曲を持つフランク・シナトラのスタンダードジャズ、ウェス・モンゴメリーのようなブルージャズ、カウント・ベイシーのようなビックバンド、ムーンドッグ(Moondog)のような大道芸人としてのオーケストラジャズが結びついて、個性的な作風に昇華されている。ポピュラー音楽による時間旅行を試みたFather John Misty(マイケル・ティルマン)と同様に、『Sunday Morning Put-On』では懐古的な音楽のディレクションが選ばれているが、録音自体は一貫してアコースティックな音の側面が重視されている。大型のミュージック・ホールではなく、小規模のジャズバーのライブを体験するかのような音の質感が重視されている。バイオリンやヴィオラのピチカートが重なり合う時、それらの背後をウッドベースのスタッカートがせわしなく動き回る時、独特な重厚感がもたらされるのだ。

 

 

アンドリュー・バードの歌声は、ジョン・ミスティよりも幅広い音域をもつため、バリトンの渋い声から、それとは対象的にソプラノの澄んだ音域までを網羅している。なぜか毎年のようにグラミー賞に受賞作を送り込むLoma Vista。個人的には、このアルバムが選出される可能性があるのではないかと推測したい。近年、レコーディング・アカデミーは、アーティストそのものの人気度も選考時の基準に入れていると思われるが、その一方、実力派のアルバムが控えめに選出されるケースがある。これはグラミーが音楽賞として形骸化するのを防ごうというアカデミー側の目論見かもしれない。少なくとも、チャールズ・ロイドの最新アルバムと同じく、アンドリュー・バードは、米国のスタンダード・ジャズへの愛着と敬意を示す。そして、それは、国際化が進んだアメリカの近代文明の原点を音楽によって再訪するという意義が求められる。

 

このアルバムを聞く上で、ニューヨークのフランク・シナトラやブロードウェイ・ミュージカルからの影響も考慮すべきと思われるが、他方、注目すべきは中西部の文化性も込められていることである。音楽家にとって、若い時代に聴いた音楽は宝物であり、その時代の思い出が、あるとき、ふいに蘇ってくることがあるものだ。そしてアンドリュー・バードは、北部と中西部をつなぐ不可思議な多文化性を最新アルバムに偏在させる。彼のイリノイ・シカゴの記憶は、たぶん、表通りや郊外の緑豊かな地域なのではなく、都市部と郊外の中間にあるバックストリートやダウンタウンの少しいかがわしく摩訶不可思議なイメージに浸されているのかもしれない。それは、急進的なリベラル主義が国家を席巻する以前のことで、善良なキリスト教主義や保守的な考えが、アメリカ市民の生活に曲がりなりにも定着していた時代の奇妙な記憶なのである。

 

「20代の頃、シカゴのエッジウォーター地区にある古いアパートメントホテルに住んでいた」とアンドリュー・バードは当時の経験を回想する。「そこは安くて、近くのロヨラ大学のイエズス会の司祭や修道女を引退した人々が住んでいた。ジムには古いシュウィンの10段変速の自転車が置いてあって、低料金のペロトン用だった。古いプールではオペラが演奏され、スチームルームは地元のロシアン・マフィアのクラブハウスだった。土曜日の夜はたいてい、午前12時から4時までWBEZの『Blues Before Sunrise』というラジオ番組を聴きながら起きていた。DJのスティーブ・クッシングは、ブルース、ジャズ、ゴスペルの古いレアな78回転レコードを流していた。それから数時間ほど眠り、目が覚めると、同じくWBEZのディック・バックリーの番組で、彼が30~40年代の「Golden Era」と呼ぶジャズを特集していた。20世紀半ばまでのある時代のジャズに対する私の愛着は、私自身の仕事(その大部分はジャズではない)において何度も変容を遂げながらも不変だった。ある時期、私はこの時代と自分との間に距離を取っていた」

 

 

アンドリュー・バードは、ウッドベース(コントラバス)や、それとは対象的なバイオリンやヴィオラのピチカート、それは現代音楽の範疇にある特殊奏法により生み出されるリズムによってエッジウォーター地区のアパートメントの若かりし時代の記憶を再現させる。中音域の落ち着いて、少し気取った斜に構えたようなボーカルは、ジャズ・スタンダードと、オルタナティヴの元祖であるルー・リードのようなクールさをかけあわせたスタイルによって構築されていく。録音のリアルな音響は、アルバムの序盤のイントロダクションで強固な印象を形作り、ハイハットのしなるような音の硬い質感を形成する。こういった音楽の中には、アンドリューさんが若い時代に聴いていた78回転のレコードとは、かくなるものであったかも知れないと思わせるものがある。 イントロダクションのあとに続くのは、ラテン音楽を反映させた「Caravan」である。マリンバの音が情熱的な弦楽器のパッセージと絡み合い、それに合わせてダンスを踊るかのように、バードはジャズ・スタンダードを踏襲したボーカルを歌う。ラテンの雰囲気を漂わせていた音楽は、スペインからアラビアへ続き、情熱的な雰囲気と、それとは対象的な神妙な雰囲気を混在させるのである。アラビアンナイトのような妖艶な雰囲気.....、そしてユニゾンや三度進行によるストリングスがきわめてミステリアスな印象を作り出す。


これらのアラビアともイスラムともつかないエキゾチックな雰囲気は続く「I Fall in Love Too Easily」で、かつてPaul Gigerがバイオリンでインドのシタールの演奏を模したように、弦楽器の演奏でバッハの無伴奏チェロ組曲を思わせるアルペジオが披露されている。しかし、それらはまるでわたしたちの知らない遠い時代に鳴り響くかのように、奥行きのあるアンビエンスによって表される。つまり、アンドリュー・バードの音楽は、現在に鳴り響くというよりも、記憶の中に消え入るかのような不可思議な感覚に縁取られているのである。これらのメタ構造のような印象性を持つ音楽に続いて、ヴィオラの掠れたようなスタッカートの演奏をベースにして、スタンダードなジャズーービックバンドの楽しげなジャズのメチエを彷彿とさせる形式へとこの曲は移行してゆく。ピアノとウッドベースの合奏を礎とし、ブルーノートのライブハウスで聴くことが出来るような、寛いだメロウなジャズセッションへと移行していく。それから、アンドリュー・バードは”シナトライズム”を継承するボーカルを披露する。ここに前作の苦悩を手放し、それとは対象的な音楽の軽快さを追い求めるミュージシャンの実像が捉えられる。

 

続く「You'd Be So Nice To Come Home To」は軽快な弦楽器の音階の掛け下がりで始まり、ウッドベースの同音反復のスタッカート奏法をもとに、ヘレン・メリルのアンニュイなジャズの作風を現代にリヴァイヴァルさせる。スタッカートの軽妙なリズムの構成力の見事さは、当然のことながら、前の曲と同じようにジャズバーで体験出来るささやかな楽しみを音楽によって表している。シナトラとともに、ディーン・マーティン、ナット・キング・コールといった往年のスタンダードの名歌手は、時代に古びない普遍的なメロディーを自身の人生や恋愛観に重ね合わせてシンプルに歌い、そして、その曲の親しみやすさを重要視していたのだったが、アンドリュー・バードもそれに倣い、古き良き時代の名シンガーの系譜にあるポピュラーソングを歌っている。リバーブを配した弦楽器の閃きのあるピチカートのイントロに続いて始まる「My Ideal」は、(大胆にも!)2024年のシンガーとして、古典的なジャズバラードの世界へと踏み入れる。バードの歌声には人を酔わせる何かがある。それは若い時代のゴスペルやブルース、ジャズの体験が定着しているからなのだろうか。バードはまるで若い時代の自分に向けての讃歌を捧げるかのようにブルージーな歌声を披露する。ヴィブラフォンの音色がそれらのメロウな雰囲気をさらに甘美的にする。それに続いて、弦楽器の掠れたようなレガートの音色も、20世紀のモノトーンの時代に私達を優しく誘うかのようである。その後、坂本九の「すき焼き」や、エンリオ・モリコーネサウンドを彷彿とさせる口笛(ウィストル)が弦楽器のピチカートとロマンティックに溶け合んでゆく。その後に続く、古典的なジャズの終止形(カデンツア)は、使い古された形式ではあるが、心を和ませる。そして間違いなく音楽の善良的な側面をシンプルに表現しようとしている。 

 

「My Ideal」

 

 

「Django」も凄い。バッハの平均律のフーガの対旋律法をジャズから解釈したような曲の構成になっている。しかし、アンドリュー・バードは一貫して音楽の閉鎖的なアカデミズムやスノビズムに焦点を絞らず、ジャズの持つ一般的な楽しさに重点を置いている。しかも、弦楽器の精妙なピチカートとヴィブラフォンの合奏は日本風なテイストが漂い、琴や木琴のような和楽の音楽性が東洋のエキゾチックな雰囲気を作り出す。

 

アルバムの中盤において、あらためてアンドリュー・バードはアメリカの音楽のスペシャリティや固有性とは何かを丹念に探す。 「I Cover The Waterfront」では、サッチモことルイ・アームストロングのブルージャズの魅力を再現しているが、これらの音楽が時代錯誤に陥らないのは、音質のクリアさ、スムースな感覚、そしてなめらかな音を重視するのと同時に現行のロンドンのダンスミュージックのレーベルのプロデュースのように、低音部を一貫して強調しているからである。アルバムの後半では、アンドリュー・バードのボーカリストとしての存在感が強まり、ウッドベースの重厚な響きに呼応するかのように、彼の歌手として円熟期に達したことを示す渋い感じのボーカルが色彩的なコントラストを生み出す。バードの音楽は一貫して、M Wardのように真摯でありながら、同時にユニークさや開放的な感覚を織り交ぜることも忘れておらず、ストリングスの遊び心のあるパッセージが音楽に親しみやすさと近づきやすさをもたらす。本作の最終盤に至っても、バードの音楽は、モダンとクラシック、それから中西部と北部の文化性の狭間を揺れ動く。ときにはシナトラのような古典性、アームストロングのような豪傑さ、ムーンドッグのようなジプシー的な音楽的な感性を以てである。「Softly, as in a Morning Sunrise」は、朝の日の出の清々しさをバイオリンとボーカルを中心として表現する。「前作までの苦悩はどこに消えたのか??」と思わせるものがこの曲には存在する。表向きにはクレジットされてはいないけれども、シカゴの名ジャズ・ギタリストで、トータス(Tortoise)のメンバーでもあるジェフ・パーカーのモンゴメリー調のギターが収録されているものと思われる。

 

 

このアルバムは、アグレッシヴな側面に加え、それとは対象的なメロウでまったりとした印象を持つ音楽を代わる代わる楽しむことが出来る。 それは、あまり一般的には知られていないことだが、アンドリュー・バードという人物の肖像画を、ジャズやクラシックという側面から切り取ったかのようだ。彼の音楽には苦悩を越えた後の晴れやかさが含まれ、また、その歌声の渋みは順風満帆な時ばかりではなかったからこそ生み出し得たのかもしれない。しかし、人生の中に誰もが一度くらいは経験するような紆余曲折の経験、つまり、彼が音楽家としてゆっくりと歩いていく曲がりくねった道は、最終的に、慈しみや優しげな印象を持つジャズバラード、そして、清涼感のあるコンテンポラリークラシックの音楽に続いている。前者の「I've Grown Accustomed To Her- 私は彼女に慣れてしまった」は、男性シンガーソングライターがいかなる感覚を人生において体現すべきか、その模範的なスタンスが示されているのではないだろうか。アルバムのクローズ「Ballon de peut-etre」は、Paul Gigerの演奏の系譜にあるバイオリンのピチカートと上質な音響とアコースティックギターの音色を活かした緻密なサウンドが丹念に作り上げられる。アルバムの序盤から中盤にかけては、制作者の思い出や旧い時代における体験がモチーフとなっていたように思えるが、最後の曲はその限りではない。忘れ去られた過去を透かすようにして、シンガーソングライターの現在の肖像がぼんやりとかすかに浮かび上がってくる。いわば、序盤とは対比的なモダンな雰囲気を持つ音楽として楽しむことができる。

 

 

92/100

 

 

 

 「I've Grown Accustomed To Her」

 

 

 

*Andrew Birdによる新作アルバム 『Sunday Morning Put-On』 はLoma Vista/Concordから発売中です。ストリーミングはこちら

 mui zyu - nothing or something to die for  

 

Label : Father/Daughter

Release: 2024/05/24


Review    


-An eye on an absurd and inexplicable world -不条理で不可解な世界に対する眼差し-



今年の夏以降、イギリスで複数のヘッドラインツアーを控えている香港系イギリス人シンガー、mui zyu(エヴァ・リュー)は、セカンドアルバムの発売を記念し、ファンに向けてリスニングパーティーを開催した。デビュー作『Rotten Bun For an Eggless Century- 卵のない世紀の腐ったパン』では持ち前のシュールな性質とエレクトロ・ポップを組みわせ特異な音楽観を確立している。


エヴァ・リューの音楽は、電子音楽のテイストに満ちており、なおかつまた''チップチューン''と呼ばれるゲームミュージックから派生したエレクトロニックの性質を兼ね備えている。それらの音楽性の中には、ドラゴン・クエストのようなRPGから、それよりも古いゲームセンター等に設置されているレトロゲームのフィードバックもわずかながら感じられる。エヴァ・リューの生み出す音楽は、要するに、ミステリアスに入り組んだ迷宮と言うべきなのかもしれない。ということでセカンド・アルバムの音楽は、摩訶不思議でファンタジックな世界が表向きには構築されている。そして、音楽の扉を恐る恐る開き、その内側に入ると、エポックメイキングな音楽が展開される。

 

デビューアルバムの音楽性は、内省的な感覚を持つシンセポップや、その後の時代を牽引するアヴァン・ポップ/エクスペリメンタルポップの範疇にあった。言うまでもなく、それだけがmui zyuの音楽のすべてとも決めつけがたく、要するにロンドンの多彩なカルチャーを吸収したバリエーションに富んだ音楽性が一つの魅力でもあった。その中に、シンガーがかつて慣れ親しんだ香港のポピュラーミュージック、中国の伝説的な幻想文学作家、蒲松齢(中国では「紅楼夢」が大人気だとか??)のファンタジー性を織り交ぜていた。そして、エヴァ・リューの音楽的なテーマの中には、他のアジア系のミュージシャンと同じように、移民としてのディアスポラも混在している。移民としてロンドンで人生を送る中、さまざまな考えやカルチャーの影響を受けつつも、自分なりのアイデンティティを探求していく、という意味が求められる。異郷の中で郷愁を探す、という考えは、長く海外で暮らしている方であれば、頷けるものではないかと思われる。それは街角で見つかるのだろうか?  それともコミュニティ? もしくは友人関係の中で? わからないけれど、移民とは異国でホームなる在り処を探し続ける定めにあるともいえる。

 

エヴァ・リューがロンドンで感じたさまざまな文化性や空気感は、ときには怪物のように恐ろしく、それとは対象的に温かな聖母のような優しさがあり、その両局面の文化性を咀嚼するたび不可解なものにならざるを得ない。それは、人間としてのアイデンティティを否定するものかもしれないし、もしくは肯定するものかもしれない。あるいは、そのどちらであるかもしれない。


不確実性や偶然性が混在する世界で生き残ることが、『nothing or something to die forー死にものぐるいで』には示されているのではないでしょうか? セカンドアルバムにはロンドンの流行りの音楽が凝縮されている。それらがエヴァ・リューが知りうる形で昇華され、Miss Grit、lei e、Pickle Darlingといった同じような境遇にあるミュージシャン/コラボレーターと一緒に何かを探し続ける。それは単にアイデンティティとも言いがたく、今生きていることのおもしろさの理由を探すのである。かつて生きることは何らかのテーゼに支えられていたが、2024年の現在はそのかぎりではない。


例えば、フランスの作家パトリック・モディアノは、『パリ環状通り』の序文において、ドイツの社会学者の言葉を引用し、現代社会を「父なき世界」と定義づけた。フランスの作家は、移民化が進む今日の世界において、旧社会が道標としていた道徳的観念や社会規範が薄れつつあり、もはやそれらの”父”という概念が通用しなくなり、旧時代の人々が見ていた”父”という概念が”幻想”に過ぎなかったことを予見していた。そして、エヴァ・リューのセカンドアルバムについても、父なき世界の中で生きることの楽しさを、どのように探求するのかに、ポイントが置かれているように思える。

 

 

セカンド・アルバムでは、2000年代以降、アイスランドのレイキャビクで主流だったフォークトロニカの次世代に位置づけられるエレクトロニックをもとに、エレクトロポップが展開される。音楽による世界は、mumのような童話的な世界観に縁取られているが、それらにロンドンのポップネスやネオソウル、ダンスミュージックを始めとする多角的な音楽が散りばめられている。そして、デビューアルバムには見受けられなかった新しい要素--モダンクラシック/コンテンポラリークラシックの音楽性も付加された。オーケストラのストリングスを交え、mui zyuの音楽は、二次元的な表現から三次元、それよりも高次の四次元へと接近していく。そして、「私たちが切望する道への入り口である壁の穴を、私たちはいかにして見出すのか?」という哲学的な探究心を基底に、その向こうにある何かへ手を伸ばそうとする。そして、不条理で不可解な世界に相対する眼差しがそれとは正反対に純粋なものであればあるほど、彼女の音楽が素晴らしく変貌する。それらは内省的な感覚が奥深い叙情性と合わさり、唯一無二のスペシャリティに変わるのだ。

 

mui zyuがボーカリストとして描くポピュラリティ、主要なメロディの中にはオルタナティヴな要素が含まれている。より具体的に言うなら、Pixiesの最初期の音楽に見いだせるようなオルタナティヴ・ロックのスケールでもある。長調のスケールを思わせたかと思えば、その次の瞬間には短調に変化して、それらが絶えず交差するかのように繰り広げられる。いわば、これらの調性の変化は、ボーカリストの感情性やその時々の考えの移ろいを反映するかのように、明るくなったかと思えば、暗くなり、ふたたび明るくなったりというように、曲のセクションごとに絶え間なく変遷してゆく。

 

他の複数の楽器(ストリングス、アコースティックギター、シンセ、リズム、ノイズ)にその背を支えられるようにして、絶えず変化を繰り返し、曲の中でも定着するケースはない。それらがオープニングを飾るモダンクラシックの音楽から始まり、ミステリアスな迷宮を探索するかのように続く。その中で、分かりやすく軽妙な印象を持つシンセポップの楽曲が収録されていて、多彩な音楽性の中にあって親しみやすさをもたらしている。比較的聞きやすいポップソングは「#4 donna like parasites」、「#5 the rules of what an earthing can be」「#6 please be ok」などで楽しむことが出来る。

 

 「please be ok」

 

 

こういった中で、音楽そのものがよりダイナミックな質感を持ち、劇伴音楽のようなドラマ性に結びつくこともある。「#10 hopefulness, hopefulness」はシンガーが日頃感じる不条理性や不可解さの中に見いだせる明るい希望を意味し、それらがストリングスのレガートの旋律の上昇によってボーカリストの歌の情感が奥行きを増す。背景となるトラックメイクには、アヴァンポップ/エクスペリメンタルポップの反映も込められているかもしれないが、歌や主旋律に関してはポピュラリティを重視しているようだ。 mui zyuの歌には、現代のイギリスの音楽の中枢にある、ネオソウルやヒップホップからのフィードバックが表向きには目立たないような形で含まれている。これらのアーティストの前衛性については、アルバムの終盤に収録されている「in the dot」にも見いだすことが出来、ジャズの要素が先鋭的なアヴァンポップと結びつき、異質な音楽性が作り上げられている。イギリスの親しみやすいモダンなポップネスの狭間を漂うトリップホップの系譜にある無調に近い不安定な音階、その音楽が持つアトモスフィアは、先々週のWu-Luの音楽性と近似したものがあり、アーティストの持つ多面性を巧みに反映させている。また、ここにはシンガーソングライターのアーティスティックな才覚が内包されている。

 

 

セカンド・アルバムらしい新しい音楽的なディレクションもいくつか発揮された上で、終盤には、デビュー作から引き継がれるシュールでレトロな感覚を持つシンセポップへと舞い戻る場合もある。ただ、「#14  cool as a cucamber」を聴くとわかるように、同じような音楽の手法を選んだとしても、同じ表現形式に留まることはない。これは、米国の現代音楽の作曲家ジョン・アダムス(John Adams)が言うように、「反復は変化の一つの形態である」という言葉がピッタリ当てはまる。さらに、mui zyuはレトロなシンセポップに豪華なオーケストラストリングスを追加して、夢想的で現実感のある表現形式に昇華させる。


セカンドアルバムの約40分に及ぶ15曲は、聴けば聴くほどに新しい何かが発見できるかもしれない。シンセ・ポップ、チェンバー・ポップ、アヴァン・ポップ、ハイパーポップ、ジャズ、ネオソウル、フォークトロニカ、エレクトロニカ......。驚くべき多彩な音楽的な蓄積を基底として、エヴァ・リューは純粋な眼差しを通して、この世の中の不条理や不可解さを解き明かそうとする。

 

しかし、答えはすべて示されたわけではないかもしれない。すべてが解き明かされないからこそ音楽は本来の魅力を放つ。本作の最後に収録されている「#15 扮豬食老」では、Lucy Liyouの音楽を想起させる電子音楽とモダンクラシックのダイナミックな融合により、セカンドアルバムの音の世界は締めくくられる。取り分け、不思議に思うのは、比較的ボリューム感のある作品にもかかわらず、また次のアルバムを聴いてみたい、という気持ちを沸き起こらせる。少なくとも、デビューアルバムよりミュージシャンの表現性の多彩さが示され、磨きが掛けられ、そして、クラシック音楽からの影響が直接的にフィードバックされたことにより、音楽そのものに洗練性が加わっています。つまりそのことが本作の魅力を倍加させている理由なのかもしれませんね?

 

 

 

88/100

 

 

 Best Track- 「Hopefulness,Hopefulness」






mui zyuによる『nothing or something to die for』はFather/Daughterから発売中です。アルバムのストリーミングはこちらから。


Beth Gibbons - Lives Outgrown  

 

 

Label: Domino

Release: 2024/05/17

 

 

Review      ベス・ギボンズの音楽家としての多彩な表情

 

ケンドリック・ラマーの最新作『Mr. Morale & The Big Steppers』の「Mother I Sober」へのボーカル提供や、ヘンリク・グレツキの交響曲第3番等をライブで演奏し、最近では、ほとんどジャンルにとらわれることのないボーカルアートの領域へと挑戦を試みてきたベス・ギボンズの最新作『Live Outgrown』は、ストリングスやオーケストラヒットを頻繁に使用した多角的なポピュラー・ミュージックだ。これらの収録曲にPJ Harveyのような現代詩のような試みがあるのかは寡聞にして知らない。

 

少なくとも、冒頭の楽曲「Tell Me What Who You Are Today」ではヴェルヴェットアンダーグラウンドのようなオーケストラヒットとストリングスが重なり合い、やや重苦しい感じの音楽で始まる。それはバロックポップの現代版ともいえ、もちろん、それは90年代以降のトリップ・ホップの形とはまったく異なる。メインプロジェクトを離れたミュージシャンにとっては、定冠詞のようなグループ名は重荷になることがあるかもしれない。そういった意味では、このアルバムはソロアーティストとしての従来とは異なる音楽性を捉えることが出来る。しかし、以前からの音楽的な蓄積を投げ打ったと見ることも賢明ではないだろう。そこには、”ブリストルサウンド”ともいうべきアンニュイなボーカルのニュアンスを捉えることも出来、ある意味では、アルバムの最初のイメージは、やはり旧来のギボンズの音楽的な感性の上に構築されていると見るべきか。

 

アルバムの冒頭のオープナーは、鈍重とも、暗鬱とも、重厚感があるとも、複数の見方や解釈が用意されている。続く「Floating A Moment」では、オルタナティヴフォークともエクスペリメンタルフォークともつかないアブストラクトな作風へと舵を取る。そのギターサウンドに載せられるギボンズのボーカルも明るいとも暗いともつかない、微妙な感覚が背景となるギターの繊細なアルペジオに重なる。それは''瞬間性''という得難い概念の中にあり、熟練のボーカリストが自らの声の表現性を介して、その時々の感覚を形がないものとして表するかのようである。


いわば曲そのものを聴く時、多くのリスナーは、明るいとか、暗いとか、それとも扇動的であるとか、正反対に瞑想的であるとか、一つの局面を捉えることが多いように思われるが、ギボンズのボーカルはそういった一面性を遠ざけて、人間の感情の持つ複雑で多彩な側面を声という表現において訪ね求める。しずかな印象で始まった曲は、その後、オーケストラヒットやストリングスの音響的な効果を用い、ダイナミックなサウンドに近づくが、これらの曲の流れを重視した音楽性に関しては、今後開かれるロイヤル・アルバートホールでの公演を見据え、ライブでどのような効果が求められるのかを重視した作風である。音源での音楽性とライブでの音楽性は、再現性に価値があるわけではなく、それぞれ異なる音楽の異なる側面を示すことが要請されるが、その点において、ギボンズの曲は音源に最大の魅力が宿るというよりも、むしろ、ライブステージの演出の助力を得ることにより、真価が発揮されるといえるかもしれない。



アルバムのプレスリリースでは、アーティストによる絶望や諦観の思いが赤裸々に語られていた。「#2 Burden Of Life」はいわば、理想主義に生きるアーティストやミュージシャンがどこかの時代の節目において何らかの絶望性を捉えることを反映している。それはオーケストラヒットとストリングスを併用したオーケストラポップという形で昇華されている。ギボンズの楽曲性は、内面に溢れる軋轢を反映するかのように、不協和音を描き、それに対して、嘆きや祈りのような意味を持つ奥深いボーカルのニュアンスへと変化することもある。そして、それらは、背後のストリングスとパーカッションの効果を受け、リアリティに充ちた音楽性へと続いている。これらの現実的な感覚は、弦楽器のクレッシェンドや巧みなレガート、ボーカルを器楽的に見立てたギボンズの声によって、柔らかくも強固な印象を持つサウンドが形作られていく。


「#3  Lost Change」もオーケストラのパーカッションをアンビエンスとしてトラックの背景に配置し、それらの音響効果の中でマイナー調の憂いに充ちたバラードへと昇華させている。多少、ギボンズの歌声には重苦しさもあるが、ボーカルの中には、何かしら不思議な癒やしの感覚がにじみ出て来る場合もある。


映画「オペラ座の怪人」のテーマ曲を思わせるアコースティックギター、ダブの録音を意識した前衛的な音響効果の中で、ベテラン・ボーカリストはまるで道しるべのない世界を歩くような寂しさを表現している。哀感もあるが、同時に憐憫もある。どのような存在に向けられるのか分からないが、それらの感情は、90年代のアーティストの楽曲のようにどこに向かうとも知れず、一連の音楽世界の中に構築された奇妙な空間を揺らめきつづける。答えのない世界……、さながらその果てなき荒野の中をボーカリストとして何かに向かい訪ね歩くような不思議さ。


ギボンズが、たとえポピュラリティという側面にポイントを置いているとしても、アーティストの音楽性の中には、不思議とオルタナティヴな要素が含まれている。それは私見としては、ルー・リードやその系譜にあるようなメインから一歩距離を置いたような表現性である。そして、それは続く「Rewind」に捉えることが出来、エキゾチックな民族音楽、かつてルー・リードがオルタナティヴロックの原点を東欧のフォーク・ミュージックに求めたように、それらの異国性を探求し、最終的にはロックともフォークとも付かないアンビバレントな音楽性に落とし込んでいる。これらはややノイジーなギターと相まって、Velvet Undergroundの名曲「White Light」のような原始的なニューヨークのプロトパンクの源流に接近する。しかし、旧来のルー・リードが示したようなロックのアマチュアリズムにとどまらず、自らの音楽的な経験を活かしながら、プロフェッショナリティの中にあるアマチュアリズムをギボンズは探求しているのである。なおかつオーケストラポップとも称すべき形式は「Reaching Out」にも見いだせるが、本曲ではアクション映画のようなユニークさを押し出し、「007」のテーマ曲のような演出効果的なポピュラーミュージックが繰り広げられる。スリリングかどうかは聴いてのお楽しみ。

 

そして、意外にも従来のポーティスヘッドでの活動経験が活かされることもある。もちろん、ヒップホップやブレイクビーツではなくエクスペリメンタルポップという形で。「Oceans」はボーカルのダブーーダビングの要素を効果的に用いて、新たなポピュラー・ミュージックの領域に差し掛かる。しかし、以前のような新奇性のみを訪ねるような先鋭的な表現ではなくて、より古典を意識したマイルドで聞きやすさのある音楽性を重視しながら、ストリングのレガートを背後にシネマティックなポップソングを形作る。オーケストラ風のポップスという側面ではアメリカのソロシンガーが最近よくフィーチャーすることがあるが、ギボンズの場合は、それらをR&B/ソウルの観点から昇華させるべく試みる。ここにアルバムのアートワークに見て取れるようなギボンズの''複数の表情''を捉えられる。背後のトラックはモダンオーケストラで、演出は映画音楽のようで、さらにギボンズの声は、R&Bに近い感覚に満ちている。それはアーバンなソウルではなく、サザン・ソウルのような渋さに満ちている。これらのクロスオーバーの要素は、現代の2020年代のミュージック・シーンの流れを見据えての音楽と言えるかも知れない。

 

 

シネマティックな音楽性の要素は続く「For Sale」でも引き継がれている。具体的な映画名は、よく分からないが、シネマのあるワンシーンに登場するような印象的なサウンドスケープをシンプルなフォーク・ソングという形で昇華させている。そして曲の途中では、バグパイプのような音響効果を持つ管楽器を導入することで、セルティック・フォークに近い牧歌的な感覚を引き出す。個人的には、牧歌的な風景、霧がかった空、古典的なイギリスの家屋、玄関の前にプラカードでぶら下げられる「売出し中」というシーンが想起された。これはたぶん、BBCの『Downton Abbey- ダウントン・アビー』のような人気ドラマにも見出されるワンシーン。言うなれば、誰かの記憶のワンカットを、ギボンズは音楽による物語で描写すべく試みるのだ。この曲には、タイトルから引き出される複数のイメージがサウンドスケープに変わり、それらが一連のストーリーのように繰り広げられる。もちろん、そういったイメージを引き起こすのは聞き手側の体験による。そう、聞き手がいかなる情景を思い浮かべるかは、もちろん聞き手次第なのだ。同時に、想像性をもたらさない音楽は、それ以上の意味を持つことは稀有なのである。

 

本作の終盤では、アヴァンギャルド・ジャズとワールド・ミュージックへの傾倒が見いだせる。「Beyond The Sun」では、オーネット・コールマンが探し求めたニュージャズの対極にある原始的なアヴァンジャズの魅力をとどめたサクスフォーンやクラリネットの演奏を基底にして、ギボンズは唯一無二のボーカルアートを探求している。分けてもドラムのリズムに関しては、クラシックなジャズドラマーが演奏したような民族音楽とジャズの合間にある表現性を重視している。これらは、本作の気品に充ちた音楽性の中でスリリングな印象をもたらす。以上の9曲を聴いていると、意外性に満ち溢あふれ、最後にどんな曲が来るのか容易に想像出来ない。意外にも最後は、マイルドな感覚を持つポップソングで『Lives Outgrown』は締めくくられる。この最終曲は、言い知れない安心感と信頼感に満ちている。鳥の声の平らかなサンプリングが脳裏から遠ざかる時、アルバムの音楽から何を読み取るべきなのかがあらわとなる。この段階に来てようやく、ベス・ギボンズが何を表現しようとしていたのかが明らかになるのである。

 

 

 

88/100

 

 

 

「Wispering Love」

Phobe Go 『Marmalade』

 

Label: Phoebe Go

Release; 2024/05/17

 

Listen / Stream

 

 

 

 Review     メルボルンのシンガーソングライターのデビュー作

 


メルボルンのシンガーソングライター、フィービー・コックバーンはベッドルームポップやソフトロックを親しみやすいインディーロックとして昇華する。ロンドンのJapanese Houseを彷彿とさせる音楽性だが、彼女のポップセンスやメロディーセンスにはかなり傑出したものがある。


今、南半球のオーストラリアは、秋から冬にかけて準備中だ。「マーマレード」は秋を思わせる切ないインディーロック集で、その中にはアーティストの失恋や嫉妬にまつわるナンバーも収録されているという。アルバムのサウンドプロダクションの方向性は、ギターの簡素なコードやスケールを通じて、コックバーンのボーカルのエモーションを最大限に引き出そうと言うもの。ギターロックという聞き方もできるし、純粋なポップスとしても楽しめるアルバムである。

 

オーストラリアのシンガーやバンドに共通するキャラクターは、それほど凝りすぎないサウンドというか、サウンドスタイルのシンプルさにある。Middle Kids、Julia Jacklin、Gena Rose Bruce等のグループやシンガーに共通するのは、イギリスやアメリカの現代的なポップスを意識しつつも、時代を問わない普遍的な音楽性を提示しようという点にある。これはフィービー・ゴーのソングライティングにも共通している。


フィービー・コックバーンのソングライティングは甘酸っぱさのあるベッドルームポップの系譜にありながら、スネイル・メールの最初期のソングライティングを思わせるラフなギターロックを展開させる。ギターのノイズ性は極力抑えておき、ドラムのプレイもそれを補佐するに過ぎず、余計な脚色はほとんどない。


Tears For Fearsやダリル・ホールのようなライトなロック性を意識しているが、ボーカルの抑揚やニュアンスの変化と共鳴するようにして、ギターのディストーションが最大限に引き上げられる時、切ないエモーションがもたらされる。日常生活や人間関係の中で感じられた憂いをもとに中間域の感情にあるサウンドが構築され、ギターサウンドに引き立てられるようにし、曲そのものがより明るいプロセスへと向かっていく。それらの低い場所から高い場所へと上昇する瞬間にコックバーンの音楽の真髄があり、また、それはリスナーに深いカタルシスを呼び覚ます。


いわば、ミクロからマクロへのギターサウンドへ移り変わる瞬間が、このアルバムのハイライトとなりえる。こういったメリハリのあるギターロックは、簡単につくれるように思えるが、実際は複雑なサウンドを作るよりも難しい。それは音感の良さとセンスの良さが要求され、数あるうちの選択から、自分にとって最重要ではないものを、切り捨てないといけないからである。


事実、デビューアルバム『Marmalade』は、シンガーソングライターにとどまらず、ギタリストとしてのセンスも傑出している。過度な装飾を排したマスタリングは、むしろその歌声の持つ温かな情感を引き立てる役割を果たしている。曲の拍動に関しても一定で、さながら人間の鼓動を表すように波打つが、それほど大掛かりな起伏は設けず、アルバム全体にわたって緩やかなリズムを構成している。つまり、一見すると、なんの変哲もないポップ・アルバムのようなのだ。

 

でも、それは表面的な話……。にもかかわらず、アルバムのほとんどの曲で聴くことが出来るアーティストの日常的な出来事や恋愛観をもとにしたポップソングは、じわりじわりと胸を打ち、深い共鳴を引き起こす。ボーカルに関しては、ほとんどが語りかけるような囁きに近いミドルトーンで構成され、ファルセットはおろか、ミックスボイスが出てくるのはきわめて限定的である。しかし、フィービー・コックバーンの優しく語りかけるようなボーカルは、確かにグラミー賞クラスのスターシンガーとは明らかに異なるが、不思議なほど親近感が湧いてくる。コックバーンは無理に高音域を出さないことで、音楽自体を説得力溢れるものとしている。

 

アルバムの序盤は、夕暮れの憂いを思わせるような切ないミドルテンポのインディーロックソングとして始まる。「#1 Love You Now」は現代的なアメリカーナと米国のオルタナティヴロックに触発されたようなナンバーだが、フィービー・ゴーの歌声は情感に溢れていて、それらのエモーショナルな感覚が重要視されている。シンプルなラブソングとしても聴くこともできるし、その中に、少しラフなイメージのあるインディーロッカーとしても性質を読み取る事もできる。例えば、スネイル・メイルが、2016年のEP「Habits」、及び、2018年の『LUSH』で打ち立てたような高校の放課後に書かれたデモソングの延長線上にあるロックソングの爽快感を彷彿とさせる。これらは、ニュージーランド/クライストチャーチのYumi Zouma(ユミ・ゾウマ)のような洗練されたインディーポップと結びついて、親しみやすい曲として昇華されている。


若いミュージシャンの方が意外と古い音楽を熱心に聴いている印象もある。フィービー・ゴーは「#2 Something You Were Trying」では、80年代のAOR/ソフトロックの音楽性を基にし、それらをモダンな印象を持つベッドルームポップというかたちにアップデートしている。この曲には、Japanese Houseのようなライトなポピュラリティもあるが、クランチなギターがポップソングに力強さをもたらす。その中にオープナーと同様、センチメンタルであることをいとわないナイーブなボーカルが背景となるトラックと色彩的なコントラストを描く。この曲では、ダイナミックな印象を持つ比較的高いトーンのボーカルが披露されているが、それはむしろ背後のリバーブの効果と相まって、ドリーム・ポップのようなアブストラクトな陶酔感を呼び覚ます。 


「Something You Were Trying」

 


しかし、その後のタイトル曲では、ややウィスパーボイスに近い落ち着いた歌声を駆使し、ミドルテンポのインディーポップソングに戻る。フィービー・ゴーのソングライティングには米国のフォーク・ミュージックからの影響もあるかもしれないが、それは不思議とアメリカーナとはその印象を異にする。Camp Cope(既に解散)のようなエアーズロックの雄大な光景を思わせる”オーストラリアーナ”とも称するべき、独特なフォーク・ミュージックでもある。これらの曲は、やや地味な印象を受けるかもしれないが、良質なメロディーと渋いボーカルの組み合わせは、深いリスニングを試みた時、何かしら強固な感覚を呼び覚ますことがある。続く「#4  7 Up」は、一転して、ダンサンブルな軽快なナンバーで、雰囲気がガラリと一変する。しかし、ビートを意識したとしても、ギターサウンドとボーカルのメロディーという点に重点が絞られていることに変わりはなく、ギターの録音の細かな組み合わせがほのかな心地よさをもたらす。

 

「#5 Stupid」ではアコースティクギターの繊細なアルペジオを基底にして、ナイーブな感覚を持つフォークソングを書いている。デモソングの延長線上にある曲と思われるが、シンプルな演奏の中に見えるボーカルのニュアンスの中に非凡なセンスが表れている。シンプルなポップソングを書こうとも、優れたコード感覚とメロディセンスがキラリと光る。「#6 Good Fight」も同系統にあり、クランチなギターを強調し、エモーショナルな雰囲気を生み出す。この曲を聞くかぎり、90、00年代頃の男性のバンドのギターロックやオルタナティブロックは、今や女性シンガーソングライターの多くに、そのバトンが引き継がれたという印象を受けざるを得ない。


これらの内省的な雰囲気を持つインディーロックソングは、スターシステムの対極に位置し、自らの弱さや脆さを受け入れないと生み出されない。それは人間性として語るなら、弱さの背後に隠れた強さでもある。そして、これは実は、最近の女性シンガーが一番得意とするところである。アルバムの7曲目に収録されているプレビューシングルとして公開された「Leave」は、繊細さと大胆さを兼ねそなえた素晴らしいインディーロックソングである。アルバムのクローズ「#8 Rainbow」では、曲のポピュラリティとシンプルさを重視しつつ、軽快なソングライティングを行っている。一貫して、虚栄心が感じられず、シンプルに音楽を楽しんでいる印象があるのが◎。それは結果的に、音楽の持つ純粋な楽しみを呼び覚ましてくれることがある。


『Marmalade』はデビュー作ではあるものの、ソングライターとしての明るい未来を約束するものである。一歩ずつ地面を踏みしめるような軽快なビート、センチメンタルさやナイーブさを思わせるボーカルが掛け合わされ、そして、ギターサウンドが激しさを増すとき、切ないような共感性が呼び覚まされる。


それは、シンパシーを越えた"エンパシー"の感覚に近い。フィービー・ゴーが果たして、どのような感じでソングライティングを行っているのかまではわからないが、少なくともアーティストのスタンスとして、大多数のマジョリティの感覚に無理に迎合するのではなく、主流派から少し距離を置いたポジションを取っているように思える。それは同時にミュージシャンとしての信頼性を意味するのではないでしょうか。

 

 

85/100
 

 *掲載時にタイトルに誤りがございました。訂正とお詫び申し上げます。


 

Best Track-「Leave」

 Dehd 『Poetry』




Label: Fat Possum 

Release:05/10/2024

 

 

Review シカゴのオルタナティヴロックトリオの快作

 

三人組のシカゴのオルタナティヴロックバンド、DehdはBeach Fossils、Real Estate、DIIVのフォロワー的な存在と言えるかもしれない。彼らのインディーロックのニュアンスは現在のUSスタイルに合致しており、Packs、Why Bonnie、Wednesdayといった良質なオルタナティヴの系譜にある。

 

端的に言えば、サーフミュージックをオルタナティブロックに絡めるというスタイルは、ビーチ・フォッシルズのデビュー当時の音楽性を想起させることがある。特に、伝説的なギタリストDick Daleの影響を思わせる古典的なサーフミュージックの性質は、稀に、ダン・キャリーが手がけるWet LegやRoyal Otisのようなライトで緩い感じのポストパンクに近くなる瞬間があって素晴らしい。超越性や完璧性を追求するのではなく、少し砕けた感じのオルタナティヴロックに親近感を持つリスナーは少なくないはず。古臭いといえばそれまでだけど、オープナー「Dog Days」には三人組のほとばしるような青さが親しみやすいロックソングという形で展開される。

 

Dehdの作り出すインディーロックソングはどことなくノスタルジックな気分に浸らせてくれる。続く「Hard To Love」、「Mood Ring」はアルバムの序盤のハイライトで、シンガロングのフレーズとエバーグリーンな感じが掛け合わされ、軽快なイメージを持つロックソングが作り出される。


Dehdのギターサウンドは、ごく稀に轟音のフィードバックを活かしたシューゲイズのディストーション/ファズに縁取られることがある。「Necklace」は、それらをちょっとルーズな感じのアメリカーナと融合させている。ダウナーなボーカルも表面的なイメージとは異なり、渋みと深みを生み出す。ボーカルにはLou Reedからの影響が感じられ、アメリカのオルタナティヴの原点を思い出させる。それらが、Real Estate,Beach Fossilsが2010年代頃に確立したアルトフォークやサーフミュージックからの影響を絡めたロックソングを継承するような形で展開される。


もう一つのDehdの長所としては、曲ごとにメインボーカルが切り替わり、そのことが作風にバラエティ性をもたらしていること。「Alien」ではボーカルがアンセミックに掛け合わされ、バンドの一体感を生み出される。これがより強固なイメージを持つ音楽となれば理想的かもしれない。


続く「Light On」は、Violent Femmesを彷彿とさせるコアな音楽的なプローチを選び、ルーズかつ緩い感じのロックソングへと昇華させている。サビでのアンセミックなフレーズは親しみやすさがあり、それらの音楽的なストラクチャーを乾いた質感のあるシンプルなドラミングが補佐している。バンドのきらめきを感じさせるのは、ボーカルのフレーズにディストーションギターが溶け合い、純粋なエモーションを生み出す時だろう。さらに「Dist B」では、表向きから見えづらい形でボーカルのちょっとキュートなイメージが醸し出される。そこには、バンドによるセンチメンタルなエモーションの奔流を捉えることが出来る。拙さや弱さ、あるいは音楽が未完成であることは、時にバンドの強みになることがある。これらのマイナスの側面から生み出される純粋さは、経験豊富なベテランバンドにはなかなか生み出しがたい空気感でもある。

 

もしかすると、音楽的な知識の豊富さ、実際的な演奏技法の多彩さ、アウトプットの広範な選択肢を持ち合わせているかどうかは、Dehdの少しだけ斜に構えたクールな音楽を聴くかぎり、良い音楽を制作する際にそれほど重要なことではないのかもしれない。つまり、彼らは、対外的に言うべき言葉を内側に持っていて、ロックソングに乗せてシンプルに吐露しているに過ぎない。また、そういったもどかしい感じは若い年代のロックバンドを聴く時の醍醐味でもある。


「Knife」、「So Good」では、ややアヴァン・ポップのような音楽性が見え隠れしており、こういった音楽性が今後どのように変化していくのか、楽しみにしていきたい。しかし、中盤を過ぎても、相変わらず、Dehdは少し緩く着崩した''洒脱''ともいうべき軽妙な感覚に充ちたロックソングを提示している。「Don't Look Down」では、ビーチフォッシルズの最初期のライトな質感を持つ爽やかなロックが古典的なサーフミュージックと融合を果たす。そしてやはりシンプルなギターのアルペジオの合間を縫うようにして歌われるエバーグリーンなボーカルが穏和な雰囲気を生み出す。それに加わるビーチ・ボーイズ風の純粋なコーラスワークも良い感じ。歌詞についても、「下を向かないで/愛はあなたの周りにあるのだから……」という温かいビネットが心に残る。

 

ひとつ難点を挙げるとするなら、多少、これらの曲は終盤において少しバラエティの乏しさや作り込みの甘さを露呈する瞬間もあること。ただ、ローファイな質感を持つ「Magician」は彼らの魅力の一端が表れていると言える。いちばん興味を惹かれるのは、クローズトラックにおいて、瞑想的な響きを持つサーフ音楽をベースに新しいオルトロックのスタイルを構築していること。また、トリオの音楽にはスケーターパンクからのフィードバックを感じるときがある。

 

 

 

76/100

 
 
 

 Best Track-「Don’t Look Down」

 Lightning Bug 『No Paradise』


 

 

Label: Self Release

Release : 05/03/2024

 

 

Review   ライトニングバグの進化のプロセスを示す

 


通算4作目となるニューヨークのライトニング・バグの新作アルバム『No Paradise』は自主レーベルからのリリースとなる。

 

このアルバムは、旧来のバンドのカタログの中ではアヴァンギャルドな側面を示している。3年前までは、オルタネイトなフォークバンドというイメージもあったライトニングバグであるものの、この作品を聴いて単なる”フォークバンド”というリスナーは少ないかもしれない。つまり、この4作目のアルバムで、バンドは勇猛果敢にアートポップ/アート・ロックバンドへの転身を試みたと解釈出来る。これをバンドの進化と言わずなんと言うべきか。そして難解な謎解きのようなニュアンスもある一方、アルバム単位では最高傑作の一つになるかもしれない。そして、最初からすべてが理解出来るというより、聴くうちに徐々に聴覚に馴染んでくるような不思議な音楽である。

 

バンドの旧作のアルバムは、良い曲を集めたような感覚があり、それが一連の流れを持つことや躍動感を生み出すことは稀だった。それはバンドがフルアルバムという概念に絡め取られていたからなのか。少なくとも、このアルバムでは、オープナーとクローズに対比的な収録曲を配置し、コンセプチュアルな意図を設け、ボーカリストが話すように、「エッジの効いたサウンド」に昇華されている。考え次第によっては、従来はドリームポップやオルタナティヴフォークという、ある一定のジャンルを重視していた印象もあるライトニングバグが、いよいよそれらの通牒をかなぐり捨てて、より広大な世界へと羽ばたいたとも言える。

 

 

アルバムには冒頭の「On Paradise」を中心にカーペンターズの時代から受け継がれるバロック・ポップの要素が表面的なイメージを形作る。しかしながら、2021年までは古典的なポップスにこだわっていた印象もあったが、今回、それがモダンなイメージを擁するアートポップに生まれ変わった。

 

前衛的なサウンドプロダクションを見ると分かる通り、安定感のあるドラム、センス抜群のギター、そして、分厚いグルーブ感のあるベースによる強固なアンサンブルを通して、バンドという形で、エクスペリメンタルポップ/アヴァン・ポップを体現させようとしている。もちろん、ボーカリストを中心とする夢想的なエモーションや、美麗なメロディーが薄れてしまったというわけではない。例えば、「The Withering」を筆頭にして、オルタナティヴフォークとドリームポップという、旧来の活動で培われてきた二つの切り口を通じて、先鋭的な音楽性が示されたと言える。フローレンス・ウェルチやシャロン・ヴァン・エッテンの主要曲に見受けられる、物憂げを通過したゴシック的なエモーションが、エキゾチックな印象を形作り、甘く美しいメロディーのみならず、硬質な印象を持つ聞き応え十分の音楽性が作り上げられたのである。

 

正直、これらのポスト志向の音楽の進展はまだ完全な形になったとは言えない部分もある。しかし、それでも、#5「Opus」から続く数曲の流れは圧巻で、バンドの新たなベンチマークが示されたと言えるのではないでしょうか。特に『No Paradise』では、よりポスト・ロック/アート・ロックに近い実験的な音楽性に進み、緻密なアンサンブルやミックス/マスターを介して精妙かつ刺激的なサウンドが繰り広げられる。

 

「Ops」はニューヨークのオルタナティヴロックバンド、Blonde Redheadの作風を思わせるアヴァンギャルドな展開力を見せることがあり、2007年の『23』を彷彿とさせるアートポップ/アート・ロックの狭間にある異質な音楽性へと直結する瞬間がある。特にボーカルが消え、オーバードライブを掛けたベースとギター、そして、それを手懐けるドラムの巧みなスネア捌きには瞠目すべきものがある。音源という概念に絡め取られることが多かった印象のあるバンドは、リアリティを持つロックソングを制作し、結成10年目の真価を示そうとしている。

 

 

「Opus」

 

 

 

ライトニング・バグは、アルバムの制作を通じて、背後には目もくれず、未来へと少しずつ歩みを進めているように思える。そんななか、アンソロジー的な意味を持ち、一息つけるような安心出来る曲もある。現在、ストリーミング回数を順調に積み上げている「December Song」は、旧来のドリーム・ポップ/オルタナティヴ・フォークの中間域にある一曲として楽しめるはず。 そして、今回は、上品なストリングスが導入され、それがより開けたような響きをもたらしている。最新アルバムの中では、一番聞きやすい部類に入るナンバーとして抑えておきたい。また、アルバムの中盤と終盤をつなげる役割を持つ「Serenade」は、ボーカリストのトリップ・ホップの趣味を反映させた一曲で、これは従来のバンドの音楽性には多くは見られなかったものである。

 

古典的な音楽と最新の録音技術を駆使したアヴァンギャルド性の融合は、アルバムの終盤にかけて一つの重要なハイライトを形成する。ボーカル・ループから始まる「Lullaby For Love」と「Feel」は、連曲となっており、より大掛かりな音楽のアイディアが反映されている。オードリー・カンのボーカルを起点として、スリリングな響きを持つ巧緻なバンドアンサンブルを構築している。イントロでは、アイルランドフォークを思わせるライトニングバグのお馴染みのスタイルを披露し、それをポピュラーなバラードという形に繋げた後、「I Feel...」では、ミニマルミュージック、プログレッシヴロック、ポストロックに近いアヴァンギャルドな曲展開へと移行していく。

 

最終盤になっても、バンドのアイディアが尽きることはなく、それとは正反対に広がりを増していくような感覚がある。彼らは一つのジャンルに絡め取られるのではなくて、その時々の音楽を自由に表現しようとしている。このことは、バンドの将来の有望性を示しているのではないだろうか。メキシコからニューヨークへのバイク旅行の成果は「Morrow Song」に見いだせるかもしれない...。Touch & GoのCalexicoを彷彿とさせるメキシカーナをアートポップの側面から解釈しているが、この曲も従来のバンドの音楽性とは明らかに性質が異なっている。


最近のアメリカの主要なオルタナティヴロックバンドや、ソロアーティストと同じように、本作の終盤では、旧来のバンドのフォーク・ミュージックやポップスの音楽性を踏まえ、アメリカーナへの愛着が示されている気がする。とにかく素晴らしいと思うのは、バンドの音楽はスティールギターを思わせるお約束のギターフレーズが入っても、心なしかエキゾチックな響きを漂わせていることだろう。これは、バック・ミークやワクサハッチーの最近の曲と聴き比べると、違いが分かりやすいのではないだろうか。もっと言えば、ライトニングバグの音楽性には、アイルランドのLankumに代表される北ヨーロッパのフォークミュージックの色合いが込められている気がする。

 

 

 

86/100

 

 

 

 

Best Track-「December Song」

 

 

 

 

・Lightning Bug(オードリー・カン)のQ&Aのインタビューはこちらよりお読み下さい。

 

・Bandcampでのアルバムのご購入はこちらより。

 Yaya Bey  『Ten Fold』

 

Label: Big Dada

Release: 2024/05/10


Review    癒やしに充ちたスモーキーなネオソウル



ニューヨークの気鋭のネオ・ソウルシンガー、Yaya Bey(ヤヤ・ベイ)はすでに2022年のアルバム『Remember Your North Star』でシンガーとしてもソングライターとしても洗練された才覚を発揮し、シーンで存在感を示している。このことはコアなR&B/ソウルファンであればご存じのはず。


続く最新作『Ten Fold』では、どうやらヤヤ・ベイが内面のフォーカスを当て、瞑想的なサウンドを打ち立てているという。アルバムのアートワークに写しだされる扇動的でセクシャルかつグラマラスなシンガーの姿は、一見したところポップな作風を思い浮かばせるが、しかし、驚くなかれ、それはブラフのような意味を持ち、実際はメロウでスモーキーなネオソウルのアトモスフィアが今作の全体には漂っている。ある意味では、このアルバムの事前のイメージは、ニューヨークの摩天楼を思わせるような洗練されたネオソウルによって覆されるに違いない。ヒップホップをベースにしながらも、ボーカルのサンプリング、レゲエ/ダブに近いリズム、そして時折、ソウルシンガーとして表されるヒップホップカルチャーへのリスペクト……。これらが混在しながら、メロウかつアーバンな響きを持つR&Bのストラクチャーが築き上げられる。



この作品の発売元であるBig DadaがNinja Tuneのインプリントであることを考えると、ニューヨークのソウルシンガーでありながら、インターナショナルな香りを漂わせるアルバムである。ヤヤ・ベイのサング(歌唱法)は、例えば旧来のサザン・ソウルやモータウンサウンドとは対極に位置し、アーバンな雰囲気に浸されている。ベイの歌はまるで、夜が深まったニューヨークの五番街を歩きながら、日常生活を丹念にリリックとして描写し、それをソフトに歌うかのようである。いや、歌うというよりも、ウィスパーボイスによってささやくといった方がより適切だろう。ベイの歌には、ヒップホップからの影響もあり、細かなニュアンスの変化とともに抑揚をコントロールしたピッチの微細なゆらぎを駆使し、マイルドな質感を持つ歌を披露する。背後のビートにUKソウルからの影響を反映させ、ダブともベースラインともつかないアンビバレントなリズムを背景にし、ヤヤ・ベイは軽やかな足取りでステップを踏むかのように歌う。このアルバムには、ニューヨークでの生活がリアルな形で反映され、その土地にしかないリアルな空気感が含まれている。曲が進むごとに、夜の町並みが中心街から地下鉄、そして再び地上の家へと、代わる代わるサウンドスケープが変化するような印象があるのがとても興味深い。

 

インプリントということで、ニンジャ・チューンらしいサウンドも反映されている。ロンドンのJayda Gがヒップホップとソウルの中間域にあるモダンなサウンドを、昨年の「Guy」で確立したが、この作品には、ヒップホップのサンプリングをストーリーテリングの手法として導入するという画期的な手法が見受けられた。 補足すると、Jayda Gが試みたのは家族のストーリーをサンプリングとして導入するというもので、スポークンワードの中で文学的にそれを表現するのではなく、サンプルのネタとして物語性を暗示的に登場させるという手法である。これは例えば、デル・レイの最新作にも共通している。もっと言えば、このサンプルの技法は、ストーリーにとどまらず、フレンドシップやコミュニティを表現することもできるかもしれない。「east coast mami」ではスポークンワードのサンプルを導入し、音飛びのしないブレイクビーツの規則的なリズムを背景にし、ヤヤ・ベイはメロウでマイルドな質感を持つリリックと歌を披露している。アルバムの中盤に収録されている「eric adams in the club」にもこの手法が見出せる。


ヤヤ・ベイは、ニューヨークを中心とする暮らしを、彼女の得意とするR&Bの手法で端的に表現している。それは、例えば、S.Raekwonのスタテン・アイランドに向かう船で切ない慕情を歌ったものとは異なり、ニューヨークのビジネスマンが肩で風を切って歩くような都会的な洗練性である。その中には、ややウィットに富んだ内容も見え、「Chasing Bus」は、乗り遅れたバスを追いかけるシーンと、彼女自身のソウルのアウトプットが現代的な質感とともに古典的な側面を持つことに対する自虐とも解釈出来る。これらはメインボーカルと鋭いコントラストをなしているし、そしてまた、ヒップホップの話のようなレスポンスと合わせて新旧の両側面を持つソウルミュージックの形として昇華されると、洗練されたモダンな音楽の印象を与える。さらにそういった多角的なネオソウル/ヒップホップのアプローチを通じて、トラックリストを経るごとに、ヤヤ・ベイの日常的な生活は内面と呼応するような感じで、どんどんと奥深くへと潜っていき、音楽的な世界観の広がりを少しずつ増していく。 つまり、このアルバムでは、最初から完成形が示されるのではなく、リスナーがニューヨークやロサンゼルスの歌手の体験を追いかけて、それらの出来事に接した際の感情の過程を追体験するような楽しさがある。さらに救いがあるのは音楽がシリアスになりすぎず、ユニークな要素をその中に併せ持つということ。

 

 

基本的にはヤヤ・ベイのソングライティングのスタイルはヒップホップとソウルの中間に位置していて、同時にそれがこのアルバム全般的な特色やキャラクターともなっているが、音楽性の中心点から少しだけ離れる場合もある。例えば、「Slow dancing in the kitchen」では、Trojan在籍時代のBob Marleyのレゲエサウンドを踏まえ、それらを現代的な質感を持つソウルミュージックとしてアウトプットしている。これらのサウンドは、シリアスになりすぎたヒップホップやソウルにウィットやユニークさを与えようという、ヤヤ・ベイの粋な取り計らいでもあろう。その他にも、ユニークな曲が収録されている。「so fantasic」では、Mad Professor、Linton Kwsesi johnsonのような古典的なダブサウンドに近づく楽曲もある。しかし、歌にしても、ソングライティングにしても、少しルーズで緩い感覚があり、それこそが癒やしの感覚をもたらす理由でもある。これらのチルアウトに近いレゲエやソウルの方向性は、ノッティンガムのYazmin Lacey「ヤスミン・レイシー)の最新作『Voice Notes』の系統にあるサウンドと言えるか。


これらの多角的な音楽性は基本的には、メロウなソウルという感じで、全体的なアルバムの印象を形作っている。それは真夜中の憂鬱や憂いというイメージを孕んでいるが、一方でブラックミュージックの華やかさに繋がる瞬間もある。例えば、先行シングルとして公開された「me and all n---s」は、ダウナーな感覚を持ちながらも、背後のオルガンの音色と合わせて、ヒップホップのニュアンスが少し高まる瞬間、ダークで塞いだ気持ちを持ち上げるような効果がある。


また、「iloveyoufrankiebeverly」は、古典的なノーザン・ソウルの影響下にある素晴らしいトラック。この曲では一貫して、アンニュイなボーカルを披露してきたシンガーが唯一楽しげな雰囲気を作り上げている。しかし、ベイが作り出す音の印象は一貫して真夜中のアトモスフィアなのである。憂いに留まらず夜の陶酔ともいうべき際どい感覚、要するにこれらは、トリップ・ホップのブリストルサウンドと似ているようで、実はカウンターポイントに位置している。

 

ダンスミュージック、ヒップホップ、チルアウト、レゲエ/ダブ、ジャズ、モダンなネオソウル、それとは対極にある70年代のノーザン・ソウルというように、幅広いバックグランドを持つベイだが、最後は、安らいだ感じのチルウェイブで統一されている。


「yvettes's cooking show」はヒップホップやローファイに近い音楽性を選んでいるが、依然として癒やしの感覚に満ちている。クローズ「let go」ではチルアウトをトロピカルと結びつけ、リラックスしたサウンドを生み出す。アウトロのタブラを思わせる民族楽器のエキゾチックな響きは、リゾート気分を呼び覚ますこと請け合いだ。


序盤ではニューヨークの都会的なイメージで始まるこのアルバム。しかし意外にも、複数の情景的な移ろいを通じて、最終的にはリゾート地への逃避行のような感覚を暗示している。『Ten Folds』には本格派のソウルミュージックの醍醐味が満載だ。それがウィットに富んだミュージシャンのユニークさに彩られているとあらば、やはり称賛しないというわけにはいかないのである。

 

 

 

86/100

 






Yaya Bey






ニューヨーク育ちのR&Bボーカリスト、ヤヤ・ベイは、彼女の新しいスタジオアルバム「Ten Fold」で包括的な自画像を想起させる。彼女の以前の作品が真剣でマインドフルだったところでは、ヤヤの新しいアルバムは決定的であり、意識的な意図の流れで彼女を取り巻く世界の未来を調べながら、彼女の過去の側面を遡ります。


ジャズグループブッチャーブラウン、カリームリギンズ、ジェイダニエル、エクサクトリー、ボストンチェリーのコーリーフォンビルからの熱狂的な制作を通して、ヤヤは、悲しみと喪失、人生を変えるマイルストーン、そしてその間のすべてによって中断された1年間の忍耐の複雑さを語る自由話の傑作を提供します。


彼女の強力な2022年のアルバム「Remember Your North Star」をリリースしてから9ヶ月後、ヤヤは激動を通して進化する準備を整えた北星のExodusで戻ってきました。「私は通常、アルバムに入るときに、このテーマ全体のものを持つようにしています。しかし、私が人生が起こっていたときに作ったこのアルバム」と彼女は言う。


そのようなオープンエンドの創造的なリズムの中で働くことで、ヤヤは音楽とそれ以降の彼女の仕事に知らせるすべての努力、感情、経験を伝える瞬間でアルバムを豊かにすることができました。彼女は詩人、抗議のストリートメディックとして人生を送り、サナアと呼ばれる相互扶助組織、アートキュレーター(PGアフリカ系アメリカ人博物館)、そしてブルックリンのモカダ博物館に居住し、過去のプロジェクトのカバーアートを制作したミクストメディアアーティストを設立しました(「ケイシャ」、「9月13日」、「The Things I Can't Take With Me EPなど)。


このアルバムは、ヤヤのアイデンティティのこれらのさまざまな側面の間に糸を結びつけ、彼女が誰であるかの心のこもった肖像画を提示し、彼女が見ているように世界について話すためのスペースを切り開く。テンフォールドでは、彼女は自分の内なる存在について瞑想し、恋に落ち、同様に、彼女の周りの世界やコミュニティについてコメントし、コストの上昇や人類のほぼディストピア状態などの政治状況を批判します。


滑稽で風刺的なリスニングのために、ユーフォリックな「クラブのエリックアダムス」を演奏し、ヤヤは市全体の混乱の真っ只中に公共のお祝いに出席するためにニューヨーク市長の名前をチェックします。「インフレと住宅危機のために、私たちは同じパーティーをすることさえできませんが、少なくとも市長は私たちと一緒にパーティーをしています」とヤヤは冗談を言います。


他の社会政治的懸念もヤヤの頭にある。彼女は、紛争鉱物と児童労働が毎年それらを注ぎ出すために使用されているため、別のiPhoneを購入することを拒否します。彼女のニューヨークの友人は、家賃が高騰している間、避難所の支払いに苦労しています。広大なLPを作るプロセスを通して自分自身をプッシュし、ヤヤは彼女の仕事が共感的であり、実生活とその絶え間なく変化する状況に対する彼女の意識を示すことを目指しました。アーティストとしての彼女の人生の真実を提示するヤヤのコミットメントは、本質的に音楽を作るキャリアの一部である成果と失敗の両方に聴衆を聞かせ、派手な芸術的なペルソナのファサードを取り除き、代わりにこの旅が彼女に教えたことへの感謝を植え付けます。


ヤヤは、彼女の中心的な音楽物語が苦労している黒人女性の声として彼女を見つけるというジャーナリズムの考えに反撃します。なぜなら、テンフォールドは、彼女が内側に焦点を向けるときと同様に、彼女の音楽が群衆を含むことができることを証明しているからです。彼女がどのように認識されても、ヤヤの使命は、主に最初から彼女を知っていたサポーターに、常に信憑性を維持することです。「私は失敗したので、現実と関連性からあまり離れないことを願っています」と彼女は言います。


ヤヤの本質は、センターピースのトラック「サー・プリンセス・バッド・ビッチ」にあります。催眠性のイヤーワームは、歌手が「私以外の何もない」と歌いながら、のんきに感じます。自然の中では軽いが、歌の中で、ヤヤはジェンダークィアな人としての彼女の存在について熟考する。ヤヤの定義では、「サー・プリンセス・バッド・ビッチ」はアーティストの複雑さを表しています。「このスイッチは非常に極端です。ある日、私はハンサムな男で、次の日、私はクソガウンを着てステージにいます」とヤヤは告白します。


内面と外面の探検がヤヤの精神であるように、テンフォールドはその文章に無文化なニュアンスで輝いています。ソウルフルなオープナー「歯をかばって泣く」は、ヤヤが「私はこのすべてのお金を得たが、私はまだクソ壊れている」のようなパンチの効いたセリフでユーモアを通して人生の重荷を運ぶのを見ます。「証拠」の大気生産は、ヤヤの穏やかな発声と「時々私はそれを作らないように感じる」のような不安な告白を覆います。


テンフォールド全体に散在するのは、日曜日の朝の親密さを醸し出す、軽くレゲエが塗られた「キッチンでのスローダンス」のように、喜びを垣間見ることができます。ヤヤは、短く輝く「私とすべての私のニガー」で彼らの窮状から自分自身を回復する彼女の友人サークルの能力を証明しています。「Iloveyoufrankiebeverly」は、夜間のバーベキューの雰囲気があり、迷路のフロントマンへの適切なオマージュです。各曲は、テンフォールドが顕在化するのにかかったライティングとフリースタイルセッションの治療的性質で流れます。


ヤヤは、祖先と直接つながっているように、バルバドスの父方の故郷を思い起こさせます。彼女のカリビアンのルーツを取り入れて、ヤヤは、詩の重い「私のパパのようなスタンティン」であろうと、ベイが娘に「あなたがどこかにいたように世界に自分自身を提示する」ことを思い出させる「私と私の」の紹介のような散在したオーディオクリップで、彼女の父アユブ・ベイに絶え間ないオードを与えます。


そして、本当に、彼女はどこにでもいました - ヤヤは私たちにそれをすべて音響的に旅行させています。第二世代のアーティスト、ヤヤが直接目撃した旅は、音楽とのより健康的な関係を築き、彼女の労働の成果を受け入れるために必要なツールを彼女に与えました。「それは天職であり、私と私の血統にとって、それは先祖代々のものです」と彼女は言います。彼女がアーティストとして舗装された道では、テンフォールドに浸透するヤヤの真実です。

The Lemon Twigs  『A Dream Is All We Know』 

 


 

Label: Captured Tracks

Release: 2024/05/03

 

 


Review    ダダリオ兄弟が巻き起こすパワーポップ/ジャンクルポップの熱狂

 

 

最近、よく思うのは、例えば、イギリスのロンドンやマンチェスターから登場する音楽はある程度事前に予測出来るが、アメリカから登場する音楽は予測することがほとんど不可能ということである。つまり、どこから何がやってくるのかさっぱり見当がつかないし、そして驚きに充ちているというのがアメリカの音楽の楽しさなのである。

 

ご多分に漏れず、ニューヨークのキャプチャード・トラックスに在籍するダダリオ兄弟による四人組のバンド、ザ・レモン・ツイッグスの音楽も驚きに充ちていて、2024年の時間軸から1970年代、いや、それよりも古い年代にわたしたちを誘う力があるのではないだろうか。


レモン・ツイッグスの音楽は、一般的にアメリカのメディアで比較対象に出されるように、ビートルズやビーチ・ボーイズに近い。ついで、ルビノーズのようなビートルズのフォロワーの時代に登場したロック・グループの音楽を現代に蘇らせている。70年代頃にイギリスやアメリカで盛んだったビートルズの音楽をモダンに解釈しようという動きは、Flaming Grooviesに代表される”マージービート”という名称で親しまれていたが、それが以降のThe WHOやThe Jamに象徴付けられる英国のモッズロックの形に繋がった。また、もうひとつの流れとしては、ビートルズは、オーケストラ音楽をポップスの中に組み込んだチェンバーポップ/バロックポップという形式を重要な特徴としていたが、このジャンルのフォロワーは以後の世代に無数に生み出され、パワーポップというマニアックなスタイルへと受け継がれていったのである。この流れのから、アメリカの最初のインディーロックスター、アレックス・チルトンも台頭し、その系譜は最終的にポール・ウェスターバーグに続いていったのである。パワーポップの有名なコンピレーションとして、「Shake Some Action」という伝説的なカタログが挙げられる。このコンピには、Shivversというマニアックでありながらアメリカの良質なバンドの曲が収録されていた。

 

 

ザ・レモン・ツイッグスの名を冠して活動するダダリオ兄弟は、上記のマージービートやチェンバーポップの要素を受け継ぎ、”アナログレコードの質感を現代的なレコーディングで再現する”というのをポイントに置いている。実際的にはアナログのサチュレーター等に録音した音源を落とし込むと、テープ音楽のようなビンテージな音の質感が得られることがあるが、レモンツイッグスの場合は、それらをライブセッションを通じて探求しようと試みる。彼らの音楽には、60、70年代のロックバンドの間の取り方があり、リアルなロックミュージックの魅力を留めている。

 

前作と同様、このアルバムの音楽に安心感があるのは、兄弟がクラシックなタイプのロックミュージックをじっくり聴き込んだ上で、それをどのように現代的に洗練されたサウンドとするのか、バンドセクションで試行錯誤しているからである。ただ、彼らが単に70年代のレコードだけを聞いていると見るのは早計で、実際の音楽に触れると分かる通り、他のヒップホップやローファイも結構聴くのかも知れない。そして、何より大切なのは、彼らはごくシンプルにロックの楽しさをわかりやすくリスナーに提供しようとしているということでだろうか。口ずさめるメロディー、そして乗りやすいリズム、複雑化した現代の音楽に一石を投じ、あらためてロックの真髄を彼らは叩きつける。選択肢が多いということは確かに長所であり、強みでもあるけれども、それを一点に絞ったほうが、その音楽の魅力がリスナーに伝わりやすくなる。シンプルな感覚を伝えようとすることは、複雑なものを伝えるよりも勇気を必要とするのである。

 

 

現時点のダダリオ兄妹の最大の長所は、傑出したコーラスのハーモニーにあり、これはビートルズ、ビーチボーイズ、あるいはチープトリックの全盛期にも匹敵するものである。 ときにメインボーカルはこぶしをきかせた力んだ感じの節回しになることがあるが、それは不思議と古びた印象を与えない。それは背後のバンドアンサンブルがボーカルを上手い具合に引き立てており、音の出処と引き際をうまく使い分け、レモンツイッグスしか生み出し得ないオリジナルのグルーブやメロディーを生みだすからである。


アルバムの冒頭に収録されている今年の年明けに発表された「Golden Years」は、このことを顕著に表している。シンプルな8ビートによるロックソング、そして、ビーチボーイズに比する美麗なコーラスのハーモニー、バンドアンサンブルを通じて曲の一連の流れのようなものを作り、サビの部分でクリアな響きを作り出す瞬間は、ほとんど圧巻とも言えるだろう。昨年のフルアルバムでは、ややノイジーなサウンドに陥ってしまうという難点もあったが、このオープナーはコーラスワークが洗練されたことに加え、バンドアンサンブルのグルーヴィーな音の運びが陶酔感のあるポップ/ロックの世界を生みり出す。「Golden Years」は米国の深夜番組、''ジミー・ファロン''のステージでも披露されたのを思い出すが、少なくとも、レモン・ツイッグスの代名詞のようなナンバーであるとともに、重要なライブレパートリーともなりそうな一曲である。


「They Don't Know Hot To Fall In Love」、「Sweet Vibration」を見るとわかるように、アルバムの序盤の収録曲には、ビートルズからの音楽的な影響を窺わせるナンバーが多い。そしてダダリオ兄妹は60年代頃のロックミュージックがそうであったように、青春時代をおもわせる爽やかさを織り込んだシンプルなラブソングに昇華させている。演奏の部分ではリバプールの四人組のスタイルを受け継いで、ドラムを中心にしなやかなアンサンブルを組み上げている。そして、例えば、ビートルズがチェンバロを使用した楽曲を、彼らはシンセのエレクトリックピアノの音色を織り交ぜて、ややクランチな質感を持つロックソングに変化させている。その他、クラシカルなロックに対するツイッグスの興味は、アルバムの中盤の重要なハイライトとなる「If You And I Are Not Wise」にも見出せるはずである。ここではCSN&Yのアルバムに見出せるようなフォーク・ミュージックを絡めてロックソングをアレックス・チルトンのBig Starのようなスタイルで解釈している。ここにはアメリカのインディーロック音楽の真髄を見ることが出来る。歌詞に関しても、少しウィットに富んだ内容を書いているのは珍しいことと言える。



アルバムの中のもうひとつの注目曲としては、先行シングルとして公開された「How Can I Love Her More?」が挙げられる。イントロでは、金管楽器に加えてギタープレイがフィーチャーされている。この曲で、ダダリオ兄弟は甘酸っぱいというか、青臭い感じのあるラブソングを書いている。また、曲の背景には、ビーチ・ボーイズの「Pet Sounds」の時代を思わせる爽やかなコーラスワークが散りばめられている。そしてツイッグスの甘酸っぱいサウンドを引き立てているのは金管楽器とストリングス、メロトロン、チェンバロの代用となるシンセベースである。

 

下記にご紹介する注目曲「How Can I Love Her More?」のミュージックビデオでは、ダダリオ兄弟がまるで録音の中でチェロを実演しているかのようなシーンが映像に収録されているが、多分このレコーディングでは、生楽器ではなくシンセが使用されている。レコーディングとしては、シンセストリングスを使う場合、安っぽくならないように細心の注意を払う必要があるが、バンドの喜び溢れるエネルギーに満ちた演奏がそのポイントをやすやすと乗り越えている。

 

曲の親しみやすさ、時代を越えても色褪せることのないロック性、さらに淡麗なメロディーの運びは、バロックポップ/チェンバーポップの最終形態とも言えるかも知れない。リフレインが続いた後、アウトロにかけてのダダリオ兄弟のボーカルは感動的なものがある。この曲には、Sladeの「Com On The Feel the Noize」に比するロックの普遍的な魅力がある。そう、最も理想的なロックソングとは、難しいことを考えず、叫びたいように叫べばよい、ということなのだろう。


今回の5作目のアルバムは、前作「Everythig Harmony」とは明らかに異なり、単なる懐古主義の作品とは決めつけがたい。いくつか新鮮な試みが見いだせることも、リスニングの際のひそかな楽しみになるに違いない。レモン・ツイッグスは、チルウェイブやローファイ、ヨットロック、ジャズの要素を他の収録曲で織り交ぜていて、これらが今後どんな形になっていくか楽しみである。例えば、「I Dream is All I Know」では、チルウェイブ風のロックソングを制作し、「Ember days」ではヨットロックをフォークやジャズと絡めて、安らぎと癒やしに満ちたナンバーを制作している。しかしながら、こういった多角的な音楽のアプローチも見受けられる中、アルバムのクローズを飾る「Rock On」では、やはりクラシックなロックに回帰している。そして、ブルースの基本的なスケールを基にして、Sweet、マーク・ボラン擁するT-Rexを思わせるかなり渋いグリッターロックを書いているのも、いかにもレモン・ツイッグスらしいといえるでしょうか。




90/100

 


Best Track-「How Can I Love Her More?」