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 Charles Lloyd 『The Sky Will Still Be There Tomorrow』

 

 

Label: Blue Note(日本盤はユニバーサルミュージックより発売)

Release: 2024/03/15

 


Review

 

2022年から三部作「Trios」に取り組んできた伝説的なサックス奏者のチャールズ・ロイド(Charles Lloyd)は、北欧のヤン・ガルバレクと並んで、ジャズ・サックスの演奏者として最高峰に位置付けられる。


ECMのリリースを始め、ジャズの名門レーベルから多数の名作を発表してきたロイドは86歳になりますが、ジャズミュージシャンとして卓越した創造性、演奏力、 作品のコンセプチュアルな洗練性を維持してきました。驚くべきことに、年を経るごとに演奏力や創作性がより旺盛になる稀有な音楽家です。彼の名作は『The Water Is Wide』を始め、枚挙に暇がありません。スタンダードな演奏に加え、ロイドは、アヴァンギャルド性を追求すると同時に、カラフルな和音性やジャズのスケールを丹念に探求してきました。近年、ロイドはジャズの発祥地である米国のブルーノートに根を張ろうとしています。これはジャズのルーツを見れば、当然のことであるように思える。

 

 『The Sky Will Still Be There Tomorrow』は彼のサックスの演奏に加え、ピアノ、ドラムのバンド編成でレコーディングされた作品です。冒険心溢れるアヴァンギャルドジャズの語法はそのままに、アーティストがニューオリンズ・ジャズの時代の原点へと回帰したような重厚感のあるアルバムです。

 

ブレス、ミュート、トリル、レガートの基本的な技法は、ほとんどマスタークラスの域に達し、エヴァンスやジャレットの系譜にあるピアノ、オーリンズとニューヨークの奏法のジャズの系譜を受け継いだドラムとの融合は、ライブ・レコーディングのように精妙であり、ジャレットのライブの名盤『At The Deer Head Inn』のように、演奏の息吹を間近に感じることが出来る。チャールズ・ロイドは、あらためてジャズの長きにわたる歴史に焦点を絞り、クラシカルからモダンに至るまですべてを吸収し、それらを華麗なサックスとバンドアンサンブルによって高い水準のプロダクションに仕上げました。スタンダードな概念の中にアヴァンギャルドな性質を交えられていますが、これこそ、この演奏家の子どものような遊び心や冒険心なのです。


ロイドは落ち着いたムードを持つR&Bに近いメロウなブルージャズから、それと対極に位置するスタイリッシュなモダンジャズの語法を習得している。彼の演奏はもちろん、ピアノ、ドラムの演奏は流れるようにスムーズで、編集的な脚色はほぼなく、生演奏のような精細感がある。ブルーノートの録音は、ロイドを中心とするレコーディングの精妙さや輝きをサポートしています。



オープニング「Defiant, Tendder Warrior」は、まごうことなきアメリカの固有のジャズのアウトプットであり、ウッドベースとドラムの演奏とユニゾンするような形で、チャールズ・ロイドは、スタッカートの演奏を中心に、枯れた渋さのある情感をもたらす。年を重ねてもなお人間的な情感を大切にする演奏家であるのは明確で、それは基本的に繊細なブレスのニュアンスで表現される。チャールズ・ロイドの演奏は普遍的であり、いかなる時代をも超越する。彼の演奏はさながら、20世紀はじめの時代にあるかと思えば、それとは正反対に2024年の私達のいる時代に在する。

 

抑制と気品を擁するサクスフォンの演奏ですが、ときに、スリリングな瞬間をもたらすこともある。二曲目の「The Lonely One」ではライブのような形でセッションを繰り広げ、ダイナミックな起伏が設けられる。しかし、刺激的なジャズの瞬間を迎えようとも、ロイドの演奏は内的な静けさをその中に内包している。そしてスタンダードなジャズの魅力を伝えようとしているのは明らかで、曲の途中にフリージャズの奏法を交え、無調やセリエリズムの領域に差し掛かろうとも、アンサンブルは聞きやすさやポピュラリティに焦点が絞られる。ジャズのライブの基本的な作法に則り、曲のセクションごとにフィーチャーされる演奏家が入れ替わる。ドラムのロールが主役になったかと思えば、ウッドベースの対旋律が主役になり、ピアノ、さらにはサックスというようにインプロヴァイゼーション(即興演奏)を元に閃きのある展開力を見せる。

 

ロイドの最新作で追求されるのは、必ずしも純粋なジャズの語法にとどまりません。「Monk's Dance」において音楽家たちは寄り道をし、プロコフィエフの現代音楽とジャズのコンポジションを融合させ、根底にオーリンズのラグタイム・ジャズの楽しげな演奏を織り交ぜる。この曲には、温故知新のニュアンスが重視され、古いものの中に新しいものを見出そうという意図が感じられる。それは、最もスタイリッシュで洗練されたピアノの演奏がこの曲をリードしている。 

 

アルバムの中で最も目を惹くのがチャールズ・ロイドの「Water Series」の続編とも言える「The Water Is Rising」です。抽象的なピアノやサックスのフレージングを元にし、ロイドは華やかさと渋さを兼ね備えた演奏へと昇華させる。この曲では、ロイドはエンリコ・ラヴァに近いトランペットの奏法を意識し、色彩的な旋律を紡ぐ。トリルによる音階の駆け上がりの演奏力には目を瞠るものがあり、演奏家が86歳であると信じるリスナーは少ないかもしれません。ロイドの演奏は、明るいエネルギーと生命力に満ち溢れ、そして安らぎや癒やしの感覚に溢れている。サックスの演奏の背後では、巧みなトリルを交えたピアノがカラフルな音響効果を及ぼす。

 

アルバムの中盤では、内的な静けさ、それと対比的な外的な熱量を持つジャズが収録されています。「Late Bloom」は北欧のノルウェージャズのトランペット奏者であるArve Henriksenの演奏に近く、木管楽器を和楽器のようなニュアンスで演奏している。ここでは、ジャズの静けさの魅力に迫る。続く「Booker's Garden」では、それとは対象的にカウント・ベイシーのようなビックバンドのごとき華やかさを兼ね備えたエネルギッシュなジャズの魅力に焦点を当てている。

 

古典的なジャズの演奏を踏襲しつつも、実験性や前衛性に目を向けることもある。「The Garden Of Lady Day」では、コントラバスのフリージャズのような冒険心のあるベースラインがきわめて刺激的です。ここにはジャズの落ち着きの対蹠地にあるスリリングな響きが追求される。この曲では、理想的なジャズの表現というのは、稀にロックやエレクトロニックよりも冒険心や前衛性が必要となる場合があることが明示されている。これらは、オーネット・コールマン、アリス・コルトレーンを始めとする伝説的なアメリカのジャズの演奏家らが、その実例、及び、お手本を華麗に示してきました。もちろんロイドもその演奏家の系譜に位置しているのです。


タイトル曲はスタンダードとアヴァンギャルドの双方の醍醐味が余すところなく凝縮されている。この曲はスタンダードなジャズからアヴァン・ジャズの変遷のようなものが示される。ロイドの演奏には、したたな冒険心があり、テナー・サックスの演奏をトランペットに近いニュアンスに近づけ、演奏における革新性を追求しています。また、セリエリズムに近い無調の遊びの部分も設け、ピアノ、ベース、ドラムのアンサンブルにスリリングな響きを作り上げています。微細なトリルをピアノの即興演奏がどのような一体感を生み出すのかに注目してみましょう。

 

ブルーノートからのリリースではありながら、マンフレート・アイヒャーが好むような上品さと洗練性を重視した楽曲も収録されています。「Sky Valley, Spirit Of The Forest」は、Stefano Bollani、Tomasz Stanko Quintetのような都会的なジャズ、いわば、アーバン・ジャズを意識しつつ、その流れの中でフリージャズに近い前衛性へとセッションを通じて移行していく。しかし、スリリング性はつかの間、曲の終盤では、アルバムの副次的なテーマである内的な静けさに導かれる。ここにはジャズの刺激性、それとは対極に位置する内的な落ち着きや深みがウッドベースやピアノによって表現される。タイトルに暗示されているように、外側の自然の風景と、それに接する時の内側の感情が一致していく時の段階的な変遷のようなものが描かれています。

 

 

本作の後半では、神妙とも言うべきモダン・ジャズの領域に差し掛かる。ウッドベースの主旋律が渋い響きをなす「Balm In Gilead」、ロイドのテナー・サックスをフィーチャーした「Lift Every Voice and Sing」では歌をうたうかのように華麗なフレージングが披露される。アルバムの音楽は、以後、さらに深みを増し、「When The Sun Comes Up, Darkness Is Gone」でのミュートのサックスとウッドベース、ピアノの演奏の絶妙な兼ね合いは、マイルスが考案したモード奏法の先にある「ポスト・モード」とも称すべきジャズの奏法の前衛性を垣間見ることが出来ます。

 

続く「Cape to Clairo」ではセッションの醍醐味の焦点を絞り、傑出したジャズ演奏家のリアルなカンバセーションを楽しむことが出来る。このアルバムは、三部作に取り組んだジャズマン、チャールズ・ロイドの変わらぬクリエイティヴィティーの高さを象徴づけるにとどまらず、ジャズの演奏家として二十代のような若い感性を擁している。これはほとんど驚異的なことです。

 

また、本作にはジャズにおける物語のような作意もわずかに感じられる。クローズ「Defiant, Reprise; Homeward Dove」は、ピアノとウッドベースを中心にジャズの原点に返るような趣がある。この曲は、ロイドの新しい代名詞となるようなナンバーと言っても過言ではないかもしれません。



95/100

 


Charles Lloyd 『The Sky Will Still Be There Tomorrow』の日本盤はユニバーサルミュージックから発売中。公式サイトはこちら。 

 


「Defiant, Tendder Warrior」

 zakè 『B⁴+3 』

 

 

 

Label: zakè drone recordings

Release: 2024/03/08

 

 

【Review】



zakèはザック・フリゼル(Zack Frizzell)のアンビエント/ドローンの別名義であり、アメリカでは「Past Inside the Present」のレーベル・ボスでもある。反復と質感のあるアンビエントドローンが彼のオーディオ・アウトプットの真髄である。ザック・フリゼルは、Pillarsのオリジナル・ドラマーとして活動し、以前、dunk!records / A Thousand Armsから「Cavum」をリリースし、高評価を得た。dunk!recordsからの初のソロ・リリースは、スロー・ダンシング・ソサエティとのコラボ・リミックス・トラックで、ピラーズの「Cavum Reimaged」2xLPに収録されている。


『B⁴+3 』は「煉獄状態におかれたまま」の状態を表しており、未完成のものをそのままにしておく。それはつまり、アルバムの音楽の向こう側に、余白や続きがあることを示唆している。zakèのアルバムでのアプローチは一貫している。グリッチノイズ、ヒスノイズ、ホワイトノイズをアンビエントやダウンテンポの中に散りばめ、精妙な感覚をドローン音楽の形で表現する。アウトプットの手法は、ニューヨークのラファエル・アントン・イリサリに近いものがある。

 

しかし、イリサリの最新リマスター作『Midnight Colours』がディストピアへの道筋を示したものであるとするなら、ザックのアンビエントはその先に続くユートピアへの道筋を暗示する。しかし、「人々が天国と地獄の中間にある煉獄に置かれたまま」と仮定するなら、このアンビエント作品は先見の明があり、理にかなったものだと言える。

 

どこまでも永続的であり、まったく終わることのない抽象音楽がリスナーの前に用意されている。多くのポピュラーやロックとは異なり、ザックの音楽は聞き手に1つの解釈を強制することはない。何かを強いるということは受け手の心を締め上げる行為である。


 

彼は、無限の選択肢を用意し、それを受け手に投げかけ、恣意的にその中にある解答を受け手に選ばせる。それが良いものなのか、悪いものなのかを決めるのは、受け手次第なのであり、無数の解答が用意されている。ある意味では、それは「受け手側が作り出した影の反映」とも言うべきものである。さながらブライアン・イーノが開発した「オブリーク・ストラテジーズ」や、ブラック・ボックスの中にあるカードを引くかのようでもあり、受け手次第により、音楽の意義も異なるものに変わる。zakèが差し出した7つの無色透明のカードに書かれている音楽的言語の意味がナンセンスと取るのか、それとも、有意義であるかを選ぶのは受け手次第である。音楽そのものが、受け手側の解釈や価値観、あるいは、意識がどの階層にあるのかによって、理解度や解釈が異なるのと同じように、zakèの音楽は1つの価値観にとどまることはない。

 

ただ、アルバムの中に流れる音楽が、何らかの意図に欠けたもので、設計もなしにランダムに制作されたと思うのは早計となるかもしれない。本作に流れるアンビエントは無限の時間の中に存在するように思える一方、地形的な起伏が設けられ、その中に複数のアクセントが置かれている。山岳地帯の精妙な空気感を反映したようなドローン・アンビエントの抽象的な音像の中には、デジタルの信号を刻した効果音(SE)が導入され、それが曲の中にアクセントをもたらしている。

 

アルバムの収録曲は、「記号論のアンビエント」として制作されており、仮に、1から7曲までを別のアルファベットや数字、ローマ数字に置き換えることも出来るかもしれない。少なくとも、アルバムの収録曲ごとに調性と雰囲気を変え、制作者が意図する「煉獄におかれたままであるということ」を段階的に表現しているということが、リスニングを通して伝わってくる。それは記号論的に言えば、AーGまでの7つの表層的な音楽が別の意図を持ち、異なる性質を持ち、そして、煉獄の中にある異なる段階を表しているとも解釈することが出来る。例えば「A」という階層に親近感を覚える受け手もいるだろうし、最後の「G」という階層に心地よいものを覚える受け手もいる。いわば受け手のアンテナの周波数の差により音の解釈が変わるのだ。

 

因数分解のような不可解な数式をタイトルに冠した曲は、例えば、他にもウィリアム・バシンスキーの『On Time Out Of Time(2019)』のクローズに収録されている「4(E+D)4(ER=EPR)」がある。また、数学的な周波数を元にグリッチを発生させるアーティストとして、パリを拠点に活動している池田亮司が挙げられる。これらのアーティストは、前の時代の黄金比や純正律といった音楽の音階の基礎を作り出した方法論に対し、新しい意義を与えようというグループである。zakèに関しても、同じように7つの曲の中で異なる調性の階層を設けている。良く聴くと、アンビエント・ドローンのアウトプット方式も若干異なることが理解出来るはずである。それは、グリッチノイズやホワイトノイズの出力方式、あるいは王道の抽象的なサウンドスケープを呼び覚ますためのシークエンス、パンフルートのプリセットをアレンジしたパッドの音色、そしてシンセの波形を操作し、パイプオルガンのような音色を作り、それらをスウェーデンのアーティストのように保続音として伸ばすというもの。このアルバムに収録された七曲それぞれに、ザック・フリゼルは異なる意匠を凝らし、バリエーションをもたらしている。


 

78/100

 

 


 Kim Gordon 『The Collective』



 

Label: Matador

Release: 2023/03/08


Listen/ Stream



【Review】

 


ニューヨークのアンダーグランドシーンの大御所のジョン・ケールがソロ・アルバムをリリースしたとなれば、手をこまねいているわけにはいかなかったのだろう。ノイズロックとアートロックを融合させた『No Home Record』に続く『The Collective』は、ボーカリストーーキム・ゴードンがいまだ芸術的な感性を失わず、先鋭的なアヴァンギャルド性とアイデンティティを内側に秘めていることを明らかにする。

 

キム・ゴードンはこのアルバムを通して、ヤー・ヤー・ヤーズ(YYY’s)、リル・ヨッティ(Lil Yachty)、Charli XCX,イヴ・トゥモア(Yves Tumor)といった現代のポピュラーシーンに一家言を持つバンドやアーティストとコラボレーションを行い、同じように、一家言を持つレコードを制作したということになる。


アルバムの冒頭を飾る「BYE BYE」ではNYドリルが炸裂し、不敵なスポークンワードが披露される。ノイズロックとオルトロックを通過した、いかにもこのアーティストらしいナンバーは、ソニック・ユース時代からの定番のノイズ・ギターによって絡め取られる。そんな中、縦横無尽に張り巡らされた蜘蛛の巣を縫うかのように、スタイリッシュかつパンチ力のあるボーカルを披露する。ロックシンガー、そしてラッパーでもあるキム・ゴードンは、それらの合間のアンビバレントな領域を探ろうと試みる。


このレコードは率直に言えば、旧来のロックという文脈からしばし離れ、ハイパーポップの領域へと歩みを進めたことを示唆している。アプローチが多少遊び心に満ちているとは言え、ゴードンのボーカルは従来と変わらず緊張感があり、リスニングに際して程よいストレスを生じさせる。それはつまり、このレコードがヘヴィネスの切り口から制作されていることを示すのである。


二曲目の「The Candy House」では、NYドリルとトラップをかけあわせた前衛的なスタイルを介し、JPEGMAFIA、Billy Woods、Armand Hammerといった米国のアブストラクトヒップホップシーンの最前線にいる、いかにもやばげなラッパーの感性を吸収しようとする。


''甦るロックとラップの吸血鬼''ーーそんな呼称がふさわしいかは定かではないが、実際のところ、ニューヨークのアンダーグランドの気風を吸い込んだロックとラップの融合は、先鋭的な気風を持ち合わせている。

 

最初期のソニック・ユースの象徴的なサウンドと言えばメタルに近い硬質なノイズギターが挙げられるが、サーストン・ムーアが不在だとしても、3曲目「I Don't Miss A Mind」では文字通り、それらの原初的なノイズ性(アーティストが持つスピリット)を未だに失っていないことを示唆している。


インダストリアル・ロック風の苛烈なノイズに支えられ、NYドリルの先鋭的なリズムを交え、”ノイズ・ラップ”とも称すべきスタイルにより、JPEGMAFIAのアブストラクト・ヒップホップに肉薄していこうとする。


トラックに乗せられるライオットガールを基調としたアジテーションに富むゴードンのボーカル。そこに加えられるわずかなメロディー、セント・ヴィンセントのシンセポップの風味。これらは、この数年間、ゴードンが現代のミュージックシーンに無関心ではなかったことを象徴付けている。そして、改めてアーティストが知る最もクールな手法でそれらを体現させている。

 

ラップとノイズの融合性は、続く「I'm A Man」により、最高潮に達する。アーティストは、現代的なノンバイナリーの感覚や、トランスジェンダーの感覚を聡く捉えながら、まるで秘められた内的な男性性、獣的な感性を外側に開放するかのように、ワイルドで迫力のあるボーカルを披露する。

 

シネマティックなサウンドはビートの実験性と結びつくこともある。「Tropies」では、ハリウッド映画のアクションシーン等で使用されるオーケストラ・ヒットをラップのドリルから解釈し、前衛的なリズムを生み出す。そして、ゴードンは、ハリウッドスターやムービースターに与えられる栄誉に対し、若干のシニカルな眼差しを向ける。


それはゴードンによる「横目の疑いの眼差し」とも呼ぶべきものである。そのトロフィーは墓場に持っていくほど価値のあるものなのか、というような現代的な虚栄に対する内在的な指摘は、ライオット・ガールの範疇にあるボーカルという表現を以て昇華される。そして、そこには確かに華美なアワードやレセプションに見いだせる虚偽への皮肉や揶揄が含まれている。これが奇妙な共感やカタルシスを呼び起こす。

 

キム・ゴードンは根幹となる音楽観こそ持つけれど、決して決め打ちはしない。アルバムの中に見えるノイズロック、ヒップホップという2つの両極的な性質は、常にせめぎ合い、収録曲ごとにどちら側に傾くのか全然分からない。いわば、曲の再生をしてみないと、どちらの方向にかたむくのか分からないという「シュレディンガーの猫」のような同時性とパラレルの面白みがある。


続く「I’m A Dark Inside」では、ブレイクビーツの手法を選び、ノイズと融合させる。音が次の瞬間に飛ぶようなトリッピーな感覚を活かし、Yves Tumorのデビューアルバムに近い音楽の方向性を選んでいる。それに「No New York」の頃の前衛性とサイケデリアの要素を加えているが、それは最終的に「ハイパーポップのノイズ性」というフィルターを通してアウトプットされる。


また、方法論的なディレクションが全面的なレコードの印象を作るが、感覚的で抽象的な音楽も収録される。「Pychedelic Orgasm」ではアーティストの中に棲まう2つの人格を対比させながら、ソニック・ユース時代から培われたスポークンワードに近いクールなボーカルで表現しようとする。


音楽表現という範疇に収まらず、ボーカルアート、パフォーミングアートという切り口からゴードンは語りを解釈し、2つの性質を持ち合わせたボーカルを対角線上に交差させる。そして、その2つの別の性質を持つエネルギーを掛け合わせ、中心点に別の異なるエネルギーを生じさせる。これは平均的な歌手ではなしえない神業で、新しいボーカル・パフォーマンスの手法が示されたと見て良い。ここにも音楽的な蓄積を重ねてきたゴードンの真骨頂が垣間見える。

 

ヒップホップのドリルという比較的オーバーグラウンドに位置する音楽スタイルを選ぼうとも、その表現性がNYのアンダーグラウンドの系譜の属するのは、ゴードンが平凡なミュージシャンでないことの証である。

 

「Tree House」では、アーティストが知りうるかぎりのアヴァン・ロックの手法が示されている。ガレージロック、「No New York」のノーウェイヴ、ドイツのインダストリアルロックがカオスに混ざり合いながら、アナログレコードの向こうから流れてくるかのようだ。レコードの回転数を変えるかのように、ローファイな質感を持つこともある。この曲には、10年どころか、いや、それ以上の時間の流れていて、30年、40年のアヴァン・ロックの音楽が追憶の形式をとり、かすかに立ち上ってくる。


終盤でも、ゴードンがソニック・ユースやソロ活動を通して表現しようとしてきたことの集大成が構築されている。そこには一部の隙もなければ、遠慮会釈もない。「Shelf Warmer」では、ロンドンのドリルに近い手法が示される。しかし、オーバーグラウンドの音楽に属するとはいえども、商業主義やコマーシャリズムに一切媚びることなく、絶妙なラインを探っている。続く「The Believer」は、インダストリアル・ノイズに精妙な感覚を織り交ぜたワイアードなサウンドである。

 

クローズでは、Sleaford Modsの英国のポストパンク(当局が宣伝するものとは異なる)を吸収して、ゴツゴツとした硬派な感覚のあるアプローチを図る。そこに、盟友のYYY'sのサイケ・ガレージの色合いを添えていることは言うまでもない。『The Collective』はロサンゼルスでレコーディングされたアルバム。にもかかわらず、驚くほどニューヨークの香りが漂う作品なのである。



80/100

 


Best Track‐ 「Dream Dollar」

Bleachers 『Bleachers』


 

Label: Dirty Hit

Release: 2024/03/10

 

Purchase

 



 

デビュー・アルバムのアートワークがその多くを物語っているのではないだろうか。モノトーンのフォトグラフィ、ジョージ・ルーカスの傑作『アメリカン・グラフィティ』に登場するようなクラシックカー、そして、ニュージャージー郊外にあるような家、さらには、そのクラシックカーに寄りかかり、ナイスガイの微笑みを浮かべるアントノフ。テイラー・スウィフトのプロデューサーという音楽界の成功者の栄誉から脱却し、ロックグループとして活動を始めたアントノフの意図は火を見るよりも明らかである。アントノフが志すのは、米国のポピュラー音楽の復権であり、現代的なシンセポップやソフト・ロックの継承である。そしてなにより、空白の90年代のアメリカンロックの時間を顧みるかのような音楽がこのデビューアルバムを貫く。

 

ブリーチャーズのサウンドを解題する上で、アメリカン・ロックのボスとして名高いブルース・スプリングスティーンが少し前、後悔を交えて語っていたことを思い出す必要がある。ボスは80年代に『Born In The USA』で商業的な成功を収め、アメリカンロックの象徴として音楽シーンに君臨するに至る。しかし、スプリングスティーンのファンはご存知の通り、ボスは90年代にそれほど象徴的なアルバムをリリースしなかった経緯がある。本人曰く、実は結構、録り溜めていた録音こそあったのだったが、それが結局世に出ずじまいだったというのだ。


しかし、音楽的な傾向として見ると、現在は、むしろ80年代のソフト・ロックやAOR、そして、それより前の時代のニューウェイブに依拠したサウンドの方が隆盛である。そして、アントノフのブリーチャーズは、改めて90年代以降に軽視されがちだった80年代のスタンダードで健全なアメリカンロックに焦点を絞り、それをサックスを中心とする金管楽器の華やかな編成を交えたロックで新しいシーンに一石を投ずるのである。アントノフのサウンドは、ブルース・スプリングスティーン、ビリー・ジョエルのロックソング、フィル・コリンズのソフト・ロック、ジョージ・ベンソンやダイアナ・ロスのロックにかぎりなく近いR&B/ファンクとアーティストの並々ならぬ音楽への愛着が凝縮され、それがプロデューサー的なサウンドに構築されている。


 以前、アルバム発売前にアントノフがバンドとともに米国のテレビ番組に出演した時、アントノフはヴォーカルを披露しながら、自分でボーカルループのエフェクターを楽しそうに操作していた。ボーカルの編集的なプロダクションをライブで披露するという点では、カナダのアーケイド・ファイアと同じ実験的なロックサウンドを彼は志向している。それはプロデューサーとしては世界的に活躍しながらも、ミュージシャンとして表舞台に戻ってこれたことに対する抑えきれない喜びが感じられる。アントノフはプロデューサーになる前からバンド活動を行ってきたのだから、演奏者としての原点に戻ってこれたことに歓喜を覚えているはずなのである。なぜなら彼は、過去のグラミー賞の授賞式で次のような趣旨の発言を行った。「グラミー賞の栄誉に預かるのは、人生のどこかで、すべてを投げ捨てる覚悟で頑張ってきた者に限られる」と。おそらくアントノフもそういった覚悟でプロデューサーとしての道のりを歩んできた。


 

ということで、このアルバムはプロデューサーではなく、バンドマンとしての喜びが凝縮されている。本作の冒頭を飾る「I Am Right On Time」はニューウェイブ系のサウンドに照準を絞り、ミニマルなテクノサウンドを基調にしたロックが展開される。アントノフのボーカルはサブ・ポップからもう間もなくデビューアルバムをリリースする''Boeckner''のような抑えがたい熱狂性が迸る。アントノフは意外にも、JAPAN、Joy Divisionの系譜にあるロートーンのボーカルを披露し、トラックの背景のミニマルなループをベースにしたサウンドに色彩的な変化を及ぼそうとする。サビでは、今年のグラミー賞の成功例に即し、boygeniusのゴスペルからの影響を交え、魅惑的な瞬間を呼び起こそうとする。曲全体を大きな枠組みから俯瞰する才覚は、プロデューサーの時代に培われたもので、構成的にもソングライティングの狙いが顕著なのが素晴らしい。

 

「Modern Girl」は近年の米国の懐古的な音楽シーンに倣い、 ホーンセクションをイントロに配し、ビリー・ジョエルやブルース・スプリングスティーン、ジョージ・ベンソンのようなR&Bとロックの中間にあるアプローチを図る。Dirty Hitのプレスリリースでは、結婚式のようなシチュエーションで流れる陽気なサウンドとの説明があり、そういったキャッチコピーがふさわしい。華やかなサウンドとノスタルジックなサウンドの融合は、ブリーチャーズの真骨頂となるサウンドである。そこにブライアン・アダムスを彷彿とさせるアメリカン・ロックの爽快な色合いが加えられると、軽妙なドライブ感のあるナンバーに変化する。コーラスにも力が入っており、テイラー作品とは別の硬派なアントノフのイメージがどこからともなく浮かび上がってくる。


 

ニューウェイブからの影響は、続く「Jesus Is Dead」に反映されている。ドライブ感のあるシンセがループサウンドの形を取ってトラック全体に敷き詰められ、 ぼやくように歌うアントノフのボーカルには現代社会に対する風刺が込められている。ただ、それほど過激なサウンドになることはなく、The1975のようなダンサンブルなロックの範疇に収められている。バッキングギターとベースの土台の中で、シンセのシークエンスの抜き差しを行いつつ、曲そのものにメリハリをもたらす。このあたりにも名プロデューサーとしてのセンスが余すところなく発揮される。

 

続く「Me Before You」は、ドン・ヘンリーのAORサウンドを織り交ぜた、バラードともチルウェイブとも付かない淡いエモーションが独特な雰囲気を生み出す。現代的なポピュラーバラードではありながら、その中に微妙な和音のポイントをシンセとバンドアンサンブルの中に作り出し、繊細な感覚を作り出そうとしている。また80年代のソフトロックをベースにしつつも、アルト/テナーサックスの編集的なプロダクションをディレイとリバーブを交えて、曲の中盤にコラージュのように織り交ながら、実験的なポップの方向性を探ろうとする。しかし、アントノフのプロダクションの技術は曲の雰囲気を壊すほどではない。ムードやアトモスフィアを活かすために使用される。アンサンブルの個性を尊重するという点では、ジョン・コングルトンの考えに近い。このあたりにも、良質なプロデューサーとしてのセンスが発揮されている。

 

先行シングルとして公開された「Alma Mater」は、解釈次第ではテイラー・スティフト的なトラックと言える。ただもちろん、テイラーのボーカルは登場せず、そのことがイントロで暗示的に留められているに過ぎない。イントロのあと、雰囲気は一変し、渋さと深みを兼ね備えたR&B風のポップスへと変遷を辿る。ボーカルのミックス/マスターにアントノフのこだわりがあり、音の位相と音像の視点からボーカルテクスチャーをどのように配置するのか、設計的な側面に力が注がれている。実際に、それらの緻密なプロダクションの成果は淡いエモーションを生み出す。そして色彩的な音楽性も発揮され、それらはダブルのサックスの対旋律的な効果によりもたらされる。曲の後半では確かにレセプションのような華やかな空気感が作り出される。

 

 「Tiny Moves」はジョージ・ベンソンを彷彿とさせるアーバンコンテンポラリー/ブラックコンテンポラリーを下地に古典的なゴスペル風のゴージャスなコーラスをセンスよく融合させる。この曲は本作の中でもハイライトを形作り、アートワークのクラシックカーや、アメリカの黄金期、そしてナイスガイなイメージを音楽的に巧みに織り交ぜる。リスナーはアメリカン・グラフィティの時代のサウンドトラックのようなノスタルジックな感覚に憧れすら覚えるだろう。


「Isimo」は映画好きとしてのアントノフの嗜好性が反映され、実際にシネマティックなポップが構築されている。ブリーチャーズが表現しようとするもの、それは現代の米国のポップシーンの系譜に位置し、アメリカのロマンス、そして黄金期の時代の夢想的な感覚である。それらは実際に夢があり、気持ちを沸き立たせるものがある。そしてここでも80年代のマライア・キャリー、ホイットニー・ヒューストンのようなダイナミックなポピュラー・ソングをバンドアンサンブルとして再解釈し、あらためてMTVの最盛期の音楽の普遍性を追求しようとしている。

 

アルバムは後半部に差し掛かると、いきなり、クラシックな音楽からモダンな音楽へとヴァージョンアップするのが特に心惹かれる点である。#8「Woke Up Today」はバンジョーのようなアコースティックギターの演奏を生かしたフォークソングだ。 この曲で、ブリーチャーズはやはりアパラチアフォークや教会音楽のゴスペルといったアメリカの文化性の源泉に迫り、 ニューイングランドの気風を音楽的な側面から探求する。ゴスペル風のコーラスにこだわりがあり、それが吟遊詩人的なアパラチア・フォークの要素で包み込まれる。草原の上に座りこみ、アコースティックを奏でるような開放感、ブルースの源流をなすプランテーション・ソングを高らかにアントノフは歌う。それは19~20世紀初頭の鉄道員のワークソングのような一体感のある雰囲気を生み出す。続く「Self Respect」でもミニマル・ミュージック/テクノを下地にし、パルス状のシンセをベースに、USAの文化の原点に敬意を表す。そして、敬意と愛、そして慈愛に根ざした感覚は、ゴスペルの先にある「New Gospel」という現代的な音楽を作り出す契機となる。

 

ジミ・ヘンドリックスの名曲に因んだ「Hey Joe」ではアコースティック・ブルースの要素が現れる。アントノフとブリーチャーズはジョン・リー・フッカーやロバート・ジョンスンよりもさらに奥深いブルースソングに迫り、それを現代的に変化させ、聞きやすいように昇華させる。それらの音楽的な礎石の上に、アントノフは現代的な語りのスポークンワードを対比させる。ロックやブルースへのアントノフやバンドの愛着が凝縮されているが、それは決して時代錯誤とはならず、徹底して新しい音楽や未来の音楽に彼らは視線を向け、それを生み出そうとする。



アルバムの残りの4曲はジョン・バティステのような現代の象徴的なR&B、オートチューンをかけたシーランのようなポピュラーソングが付属的に収録されている。アルバムを聴いてくれたリスナーへのねぎらいとも取れるが、その中にも次なるサウンドへの足がかりとなる要素も見いだせる。


例えば、「Call Me AfterMidnight」はクインシー・ジョーンズのアーバン・コンテンポラリーを受け継ぎ、そのサウンドをAOR/ソフト・ロックの文脈から解釈している。その他にも、「We' Gonna Know Each Other Forever」は友情ソングともいえ、それは映画のクライマックスを彩るエンディングのようなダイナミックなスケールを持つポピュラーバラードの手法が選ばれている。

 

「Ordinary Heaven」でもアルバムの冒頭と同様にゴスペル風のコーラスワークを交えてポピュラーソングの理想形を作り出そうと試みる。クローズ「The Waiter」はオートチューンのボーカルを駆使し、2010年代のシーランのポピュラー性を回顧しようとしている。思っていた以上に聴きごたえがある。


『Bleachers』の序盤には、アントノフとバンドの才覚の煌めきも見えるが、アルバムの終盤が冗長なのがちょっとだけ難点で、既存のサウンドの繰り返しになり、反復が変化の呼び水になっていないことがこのアルバムの唯一の懸念事項といえるかもしれない。ただ、デビュー作して考えると、注目すべき良質なポップナンバーが複数収録されている。本作をじっくり聴いてみると、アントノフ率いるブリーチャーズが何を志すのかありありと伝わってくるはずである。

 

 

 

Best Track- 「Tiny Moves」

 




82/100




Bleachers:




明るくソウルフルなテクニカラーに彩られた「Bleachers」では、バンドのサウンドに豊かな深みがある。このアルバムは、フロントマンのアントノフが、現代生活の奇妙な感覚的矛盾や、文化における自分の立場、そして自分が大切にしているものについて、ニュージャージーならではの視点で表現したものだ。


サウンド的には、悲しく、楽しく、ハイウェイをドライブしたり、泣いたり、結婚式で踊ったりするための音楽だ。クレイジーな時代にあっても、大切なものは忘れないという、その心強さと具体的な感情に触れることができる。


2014年にデビュー・アルバム「Strange Desire」をリリースしたバンドは、3枚のスタジオ・アルバムで熱狂的な支持を集め、印象的なライヴ・ショーと感染力のある仲間意識で有名になった。前作「Take the Sadness Out of Saturday Night」では、アントノフの没入感のあるソングライティングと、Variety誌が証言するように「個人的なストーリーを、より大きなポップ・アンセムに超大型化する」生来のスキルが披露され、バンドは新たな高みへと到達した。


ブリーチャーズでも、ソングライター、プロデューサーとしても、2021年にBBCから「ポップ・ミュージックを再定義した」と評価されたアントノフは、テイラー・スウィフト、ラナ・デル・レイ、ザ・1975、ダイアナ・ロス、ローデ、セント・ヴィンセント、フローレンス+ザ・マシーン、ケヴィン・アブストラクト等とコラボレートしてきた。

 寺田創一(Soichi Terada) 『Apes In The Net』


 

Label: Far Eat Recording

Release: 2024/ 03/08

 


Review

 

 

日本のハウスシーンの先駆者、寺田創一。『Apes In The Net』はプレイステーション用ゲーム『Ape Escape』(サルゲッチュ)のサウンドトラックからの6曲を集めたコンピレーションである。


ドラムンベースやブレイクコア、もしくはアシッド・ハウスを思わせるエレクトロが凝縮されている。寺田さんはゲーム音楽で知られるサウンドクリエイターではあるものの、実際の作品を聴くと、スクエアプッシャーに匹敵するほど本格派のプロデューサーで、熟練の卓越した技術を感じる。

 

APHEX TWINのデビュー作やSQUAREPUSHERの実質的なデビュー作『Feed Me Weird Things』の系譜にあり、デトロイトハウスの直系に位置する。近年のブレイクビーツやドラムンベースに親しんでいるリスナーにはリズムがシンプル過ぎるように感じられるかもしれない。


しかし、その簡素さゆえに、寺田のダンスミュージックは本格派の雰囲気を醸し出す。それに加え、寺田は、SF的なアナログシンセやMIDIのアウトプットの手法を知り尽くしている。ゲーム音楽で培われた熟練のプロデューサーによる思慮に富んだビートメイクは、ゲームセンターのビートマニアのはるか上を行き、エレクトロの真髄ともいうべき硬質なグルーブ感を生み出す。

 

「Spectors Factory」では4つ打ちのデトロイトハウスに焦点を絞りつつも、ブレイクコアのようなマニアックなクラブ・ミュージックの性質が反映されている。この曲は日本のゲーム音楽がオーケストラとともにダンスミュージックを中心として発展してきたということを思い返させてくれる。


原始的なハウスのビートのシークエンスを執拗に繰り返しながら、そこにちょっとした脚色、つまり、コナミの名作ゲーム『グラディウス』のようなスペーシーな色合いを加えている。性急なビートが矢継ぎ早にボクシングのジャブのように繰り出されるが、アシッド・ハウスを吸い込んだ奇妙な高揚感がリスナーを惑乱と幻惑の奥底へと誘う。


基本的なシークエンスにローエンドのベースライン、ゲームサウンドのチップ・チューンのマテリアルが宝石のように散りばめられ、まるでビートそのものが宙を舞うような高揚感を生み出す。ハウスをベースにしながらも電気グルーブのレイヴ・ミュージックのような恍惚とした感覚を生み出すのだ。

 

「Coaster」は原始的なドラムンベースを下地に置いたトラックで、SQUAREPUSHERが得意とするアウトプットに近いニュアンスも見いだせる。ベースラインはドラムンベース寄りだと思うが、ハイエンドに導入されるゲームのSEのような効果音は、初期のSQUAREPUSHERに近いニュアンスである。時々、その中に細分化され、圧縮されたビートが付属的に導入されると、楽曲はにわかにドラムンベースからドリルンベースに近づいていく。これらはベースやリズムの徹底した細分化が行われた90年代のテクノを復習するような内容となっている。クラブミュージックの実制作者にとっても参考になるのではないか。トラックの中盤ではスリリングな展開が訪れ、聞き苦しくない程度にノイズやグリッチの要素が付け加えられる。シンプルなドラムンベースではあるものの、複雑化したこの最近のジャンルを見るにつけ、新鮮なものが感じられる。


「Spectors」はAPHEX TWINの「Come To Daddy」の時代のテクノの系譜にあり、それほど過激なアプローチはないにせよ、先鋭的な要素が感じられる。ビートに対するメロディーは「グラディウス」やインベーダーゲームの系譜にあり、癒やしの感覚が漂う。8ビットで音楽を出力していた時代のチップチューンやアナログのテクノの懐かしさをどこかに留めている。曲の中盤でブンブン唸るベースラインは迫力があり、寺田サウンドのオリジナリティーが刻印されている。曲の終盤では、ゲームセンターで聞こえるプリクラのSE的な効果がファンシーな雰囲気を醸し出す。これらはゲームのサウンドクリエイターとしての手腕が凝縮されている。

 

『サルゲッチュ』のゲームは1999年にソニーから発売されたが、続く「Haunted House」を聴くと、いかにこのサウンドトラックが時代の最先端を行くものであったのかがわかる。


このトラックでは、アシッド・ハウスの手法を選んでいるが、ゲームの射幸性と熱狂性を表すとともに、長時間のゲームプレイに耐えうるように、音楽のなかに落ち着きと静けさが織り交ぜられている。また、ここには、サウンドデザイナーとしての寺田の手腕が遺憾なく発揮されている。どのシークエンスをどこに配置するのかという設計者としての直感が満載なのである。


リズムやビートは90年代のUKテクノの系譜にあり、シークエンスの中に、細分化され圧縮されたリズムが導入される。とにかく理論的なアウトプットの手段を選ぼうとも情感を失わないのが凄い。リードシンセやシークエンスを散りばめ、ミステリアスな感覚を生み出す。このトラックは今聴いても新しいエレクトロなのだ。

 

寺田創一はハウスやドラムンベースの基本的なスタイルを選んでいるが、「Mount Amazing」ではエキセントリックでトリッピーな技法が発揮される。寺田は得意とするドライブ感のあるビートを下地に、ピッチベンドを駆使し、トーンのうねりを生み出したり、清涼感のあるピアノのフレーズを散りばめ、安らいだ感覚を生み出す。


BPM、ビートやリズムは性急なのに、奇妙な落ち着きを作り出すプロデューサーとしての手腕は見事としか言いようがない。とりわけ、ピッチベンドの使用はシークエンスだけではなく、ベースラインにも導入され、これが全体的なウェイブのうねりを作り出し、所々に聞き手を飽きさせないような工夫が凝らされている。

 

EPの最後に収録されている「Time Station」 は、シュミレーションのような趣を持つトラックだ。これは、ゲームの効果音がアクション、バトル、ロールプレイングの動きのある側面とは異なる「システムのエディット」という要素があったことに拠る。この曲の中で、寺田はバトルやロールプレイング的なアグレッシヴな要素とは別の安らいだ感覚を電子音楽で示唆している。

 

少なくとも、90年代と00年代の日本の全般的なゲーム音楽は、オーケストラ、映画音楽、ダンスミュージックはもちろん、ロック、メタル、民族音楽など、あらゆる音楽の要素を網羅していた。恐るべきことに、グレゴリオ、古楽、さらには、日本の古典的な民謡に至るまで、驚くべき情報量を誇っていたのだった。EP『Apes In The Net』は、ダンス・ミュージックとしても一級品なのは事実だが、日本のゲームカルチャーの変遷のようなものが示されているのがとても素敵である



 

 

85/100


 Mannequin Pussy 『I Got Heaven』

 



 

Label: Epitaph

Release: 2024/03/01

 

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エピタフから魅惑的なロックバンドが登場。フィラデルフィアのマネキン・プッシーは、ホットなライブアクトとして注目しておきたい四人組。

 

ライオットガールのロックから、それとは対極にあるセンチメンタルまで幅広い音楽のアウトプットを要している。マネキン・プッシーのサウンドはエモに近いスタンスを取るという点ではSlow Pulpにも近い。ただ、マリセ・ダビスとコリンズ・"ベア"・レジスフォード、二人のボーカルのアンバランスさに面白さがあり、マネキン・プッシーの醍醐味が宿っている。ダブルボーカルだと思われるが、キム・ゴードンやグレン・ステファニーを真っ青にさせるようなライオット・ガールになったかと思えば、とは正反対に、Wednesday、Ratboy、Slow Pulpのようなしっとりとした歌を紡ぐ、しとやかなオルトロックのシンガーのスタイルに変わるときもある。


エピタフが最も洗練された作品と銘打つ『I Got Heaven』は、名プロデューサー、ジョン・コングルトンがプロデュースを手がけた。シンプルに言えばオルタナティヴロックの楽園であり、バンドが理想とするサウンドが体現されている。ライオット・ガールとしての魅力は、オープニング「I Got Heaven」とアルバムの終盤の「Ot Her」「Arching」に集約されている。

 

マリス・ダビサの脳天をつんざくようなシャウトは目の覚めるような迫力が宿っている。しかし、ボーカルスタイルはスクリームはメロディアスなパンクサウンドを取り入れたバンドサウンドによりポップ・パンクやスクリーモに近い印象を放つ。新しくはないのだが安定感がある。

 

それとは正反対に二曲目「Loud Bark」は、しっとりとしたオルトロックに転じる。しかも月並みなオルタナティヴではない。そこにはちょっとした可愛らしいガーリーな趣味が見え隠れし、ノイジーなサウンドを主体としつつも、そこには微妙なエモーション、そしてセンチメンタルな感覚がスタンダードなロックソングに凝縮されている。現代的なエモソングとも言える。

 

3曲目「Nothing Like」は、ループサウンドとBon Iverや現代的な4ADのプロダクション的なマスタリングをかけあわせたナンバーで、シンプルな魅力がある。ときどき、パンクバンドらしいノイジーなサウンドになったかと思えば、センチメンタルなインディーロックに変化するときもある。バンドアンサンブルの中で、その雰囲気を見て、バリエーション豊かな歌い方をする。

 

4曲目「I Don't Know You」では音楽性の多彩さを見せる。ボサノヴァやワールド・ミュージック、トロピカルやチルウェイブ的な癒やしのあるサウンドはバンドの新たな代名詞的な音楽性と言えるか。バンドアンサンブルとして、シューゲイザーギターの轟音性を織り交ぜるが、これがRentals(マット・シャープのバンド)のようなニッチなポピュラー性を呼び起こすときがある。これらのアプローチはシューゲイザーとドリーム・ポップに位置しており、一曲目と同様に妙な安定感がある。ライブで聴いてみるとよりダイナミックなソングに変身しそうである。

 

マネキン・プッシーのエモの性質は続く「Sometimes」に見いだせる。フランスのエモコアバンド、Sportの代表曲「Reggie Lewis」を思わせるエバーグリーンな感じのイントロに続いて、オルトロック的な疾走感のあるサウンドに移る。このあたりは、日本のナンバーガールや、Mass of The Fermenting Dregsに似ているが、マネキン・プッシーの場合はよりヘヴィなロックへと移行していく。

 

この曲でもシューゲイザー的な轟音性とそれとは対象的なセンチメンタルでナイーブなロックサウンドを展開させる。しかし、サビの部分では、頼もしいほどのライオット・ガールスタイルのボーカルへと変化する。

 

ボーカルを起点として、全体的なバンドサウンドも疾走感とパンチの聴いたサウンドへと変化していく。そして、その中にもエモ的な仕掛けが施されており、昨年のSlow Pulpの「Mud」で見いだせるボーカル・ループ、そして感傷的なボーカルスタイルへと変わる。

 

マネキンプッシーは続く「OK! OK! OK! OK!」で90年代のRATMのようなミクスチャーロック、そしてそれ以降のEVANESCENCEのニューメタル・サウンドを巧みに吸収し、よりモダンなパンクサウンドに昇華させている。ベースラインは特にRHCPのフリーのスラップ奏法のような「バキバキ」した音が出ており、ここにベーシストのテクニック性の高さがうかがい知ることが出来る。

 

これらの気分の変調というか、テンションの急激な上昇と下降は、アルバムの終盤でも引き続いている。かと思えば、続く「Softly」はガーリーを越えて、やや乙女チックな領域に入り、リスナーを震え上がらせる。本気でセンチメンタルになっているのかどうかわからないのが面白く、新鮮さがある。しかし、その後も、バンドサウンドがヘヴィ・ロックのスタイルへ進むにつれて、急に人が豹変したようなノイジーなライオット・ガール風のボーカルスタイルに変わる。

 

「Of Her」では、Pissed Jeansの面々を震え上がらせるほどの苛烈なヴァイオレンスを対外的に示し、軟弱なオルトロックに凄まじいドロップキックをお見舞いするという始末。さらにその後、手がつけられなくなり、続く「Aching」ではストレイトエッジに近いハードコアパンク/ニューメタルで、ファッションパンクスに目潰しを食らわせ、息の根を止めにかかる。かと思えば、最後の曲では柔らかいセンチメンタルなオルトロックに回帰する。恐ろしいほどの二面性、多重人格性がバンドの最大の魅力。一体、どっちが本当のマネキン・プッシーなんだろう??

 

 

 

84/100

 

 

 

 Best Track 「I Don't Know You」


Faye Webster 『Underdressed at the Symphony』 

 


 

Label: Secretly Canadian

Release: 2024/03/01


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アトランタ交響楽団のクラシックのコンサートに行く時、フェイ・ウェブスターは着飾った自分を発見する。いつもと違うおしゃれな自分であったり、いつもと違う着飾った自分であったり。たしかにそれはいつもよりも少し素敵だけれど、それは本当の自分ではないことをアーティストは知っている。それはまた、自分の知らなかった自己を知る瞬間とも言うべきなのだろう。

 

そんなわけで、オーケストラ・コンサートをウェブスターは誰よりも愛しているのだけれど、このアルバムではそれとは対極にある日常的な自己のペルソナを探りながら、それを最終的にオーケストラホールの聴衆であるときの非日常的な自分と重ね合わせようとしている。


ある意味で、自己の中にある二面性に焦点を絞り、ファニーなものを愛する砕けた感じの自己、そして、それとは対極にあるフォーマルな自己を表現する。アートワークはそのベンチマークを暗示し、着飾った自己と着飾らない自己を内在させている。ウェブスターは、この2つの自己像を巧みに使い分け、良作を作り上げた。アーティストにとって、音楽の制作に取り組むことは、本来の自己を深く知ることであるとともに、未だ知らなかった自分との遭遇を意味する。

 

アルバムの音楽はソニック・ランチ・スタジオでバンド形式で録音されたが、まるでホームレコーディングで録音をし、その後にミックスやマスターを行ったかのようなベッドルームポップ色の強いサウンドであることは明らかだ。アメリカーナというよりもハワイアンギターに近いスティールギターの音色、グロッケンシュピール、クレスタのようなオーケストラ楽器は、最新作の重要なポイントを作り、フェブスターの音楽に色彩的なイメージを付け加える。一昔前のフュージョン・ジャズ、チルウェイブのトラックメイク、そして、そういった本格派の音楽性とは対極にある、親しみやすく、可愛らしいボーカルの歌い方、これらはすべて自然に作り上げられたものでありながら、相当な計算を元に緻密に構築されている。しかし、それらの計算高さは、鼻につく感じにはならないのは不思議でならない。いわば、そのファニーな感じを元に音楽をたぐり寄せると、フォルムの印象とは別の上質な素材を見つけることが出来るのだ。

 

アルバムの冒頭で以上のようなことはすべて表されている。「Thinking About You」はちょっと斜に構えたようなラブソングだが、驚くほどシンプルで爽快な感覚に彩られている。リードボーカルを強調するグロッケンシュピールも、それと交差的に導入されるギターラインの音色もすべてがシンプルで裏がない。考えようによっては自分の感情をそのままボーカルに乗せている。それらのメロディーを背後から支えるドラムのプレイも無駄な装飾はなく、着飾らないアーティストが表され、それがちょっと高い場所にいる憧れの自分を慈しみの眼差しで見つめるのだ。曲は日曜の午後の微睡みのように流れていくが、大きなダイナミックスを設けることなく、ローファイやチルウェイブを含めた痛快なインディーポップサウンドが爽やかに駆け抜ける。


続く「But Not Kiss」は同じ系統にあるラブ・ソングに思えるが、アーティストのインディーロッカーとしての性質が垣間見える。


スロウコアやサッドコアの系譜にあるイントロのギターから、ピアノを交えたチェンバーポップへと移行し、スティールギターの音色でメロウなムードが最高潮に達した時、「Gyu Gyu!」という意外性のあるウェブスターのボーカルがそれらのムードの雰囲気を一変させる。


一瞬のブレイクの後、フュージョン・ジャズやロック的な雰囲気のある曲へとその印象が変化する。しかし、いくらかノイジーな展開へと進んだ後、すぐにスロウコアやサッドコア、エリオット・スミスさながらに内省的なオルタナティブフォークに象徴される静かなギターラインへと変遷を辿る。アーティストは曲の展開を決め打ちをすることなく、セクションごとに緻密な構成を組み上げていく。簡素な曲構成ではありながら、その中にはなだらかな感情の起伏が設けられている。これが表面的なファニーな印象とは裏腹に曲そのものに重厚感をもたらしている。

 

「Wanna Quit All The Time」は細野晴臣の「ハネムーン」のようなリゾート的な感覚に充ちている。音楽のジャンル的にはフュージョンジャズをベースにし、それを現代的なチルウェイブへと書き換えている。


アルバムの冒頭の二曲では、ソロアーティストの性質が強いものの、3曲目ではバンドセッションの要素が強い。曲は途中フェードアウトで中断するが、その後、無音のセクションを設けた後、再びフェードインにより、寛いだ感じのライブセッションに舞い戻る。限界まで音楽の情報を雪崩のように詰め込むのではなく、情報量の少なさを元にし、リラックスしたチルウェイブを制作している。これは現代的な情報の過剰さへの反駁、無数に流れる情報からの逃避や、そこから距離を置くことを重んじているとも取れる。

 

西海岸の象徴的なアーティスト、リル・ヨッティの参加も見逃せない。ヨッティはウェブスターの学生時代からの親友であるという。先行シングル「Lego Ring」は、アルバムの中で最もロック的なナンバー。オーバードライブをかけたパンキッシュなベースラインとクランチなギターの融合は、サッカーマミーを彷彿とさせるオルトロック性をもたらすが、ロックの文脈に固執することなく、その後すぐベッドルームポップへと移行する。リル・ヨッティのオートチューンは、必ずしもアーティストがスノビズムにかぶれているわけではないことの表明代わりである。


同じように、ファニーさを徹底して押し出したボーカルにはちょっとした毒気があり、うっかりそこに手を出そうものなら、フェイ・ウェブスターに「がぶり」と噛みつかれることは必須といえる。少なくとも、ボーカルの人間的なものと機械的なものの混在は、現代のポピュラー・ミュージックに対する一石を投じるような意味合いが込められている。


「Feeling Good Today」では、オートチューンをもとにしたモダンなポップソングを聴くことが出来る。オートチューンによりボーカルの単旋律は分裂し、心地よくも奇妙なハーモニーを生み出す。背後のアコースティックギターは、ジャズ的な文脈を元にアップストロークを中心とするプレイが繰り広げられる。アルバムでの一貫したトロピカルな感覚とくつろぎは、この曲でも続き、ときどき、ピアノのフレーズを交えながら、スタイリッシュなポップソングへと昇華している。曲の終盤にかけてのピアノの演奏はアーバン・ジャズ的な雰囲気を生み出す。

 

アルバムの中で先鋭的なリズムを取りいれたナンバー、「Lifetime」はダブステップのリズムを徹底してBPMを落とし、 横乗りのチルウェイブを生み出している。ヨット・ロックや、Poolsideのようにハウスとバレアリックの要素もなくはないが、ウェブスターは一貫してノイズ性を削ぎ落とし、このジャンルの主な特徴であるトロピカルな感じとリゾート的な安らぎを強調する。


音楽的な選択に加え、実際的なサウンドスケープを呼び覚まし、西海岸のビーチで夕焼けとパラソルの群れ、海の向こうに太陽がゆっくり沈んでいくような音像を作り出す。ゆったりとしたリズム、ウェブスターの声、さらにはベース、ドラム、ギター、バンドの緻密なアンサンブルは、波の流れやその先端が夕焼けに染め上げられるサウンドスケープをものの見事に呼び起こす。

 

このアルバムの序盤から中盤にかけては、2020年代らしいモダンなポピュラーサウンドが構築されるが、続く「He Loves Me Yeah!」はビンテージなウェストコーストロックに焦点を絞っている。The Doobie Brothersのようなアクの強いリズムは、しかし、ウェブスターのソングライティング、及び、バンドの手にかかったとたん、爽快感のあるサウンドに変化する。ファニーなボーカルと、ドライブ感のあるシンセが合わさることにより力強いエナジーを放つ。

 

アルバムの終盤になってもフェイ・ウェブスターの音楽的な方向性は一貫しており、1つの線を引いたように繋がっている。「eBay Purchase History」はヒップホップのハナシの系譜にあるソングだが、フェイ・ウェブスターはポップネスという観点から、それを打ち明け話のような形で紡ぐ。

 

アルバムの最後までリラックスした感覚が続く。アメリカーナを通過したバロック・ポップ「Undredded at The Symphony」、Laufeyのソングライティングの同系統にあるジャズ・ポップの影響を反映したクローズ「Tttttime」で終了する。終盤では、少しマンネリに陥りがちなのが難点であるものの、少なくともモダンなポップネスの形骸化に一石を投ずるようなアルバムである。

 

フェイ・ウェブスターのオルタネイトなポピュラーサウンドは、多くのファンを密かに魅了しつづけている。肩ひじをはらずに聞ける軽やかなポップスは、多くの現代の音楽ファンに求められるものでもある。もちろん、NYTを始めとする、ニューヨークのメディアがフェイ・フェブスターを注目のアーティストとして特集で取り上げたのには、それなりの理由があるわけなのだ。

 

 

 

 

82/100

 

 

 

Best Track 「But Not Kiss」

 Pissed Jeans 『Half Divorced』 

 

Label: Sub Pop

Release: 2024/03/04


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アメリカでは、たまに忘れた頃に魅力的なパンク・クルーが登場する。Pissed Jeansはペンシルバニアのハードコアバンドで、結成から20年のキャリアを誇る。今までこのバンドの存在を知らなかったが、実際の音源に触れれば、少なくとも、その活動期間は空虚なものではなかったと理解出来る。

 

パンクには、グループの音楽に内包されるアティテュードや、社会情勢に対してずばり物申すことが不可欠な要素なのだ。もし、それが的を射たものであればあるほど、実際にアウトプットされる音楽にも説得力が籠もるだろうし、より多くのファンを獲得することも出来る。つまり、パンクは、音楽そのものが尖っていれば良いというものでもない。少なくともルーザーから資産家の全方位にむけ、タブー視されていることや、一般的には言いにくいことを、ハードなサウンドに乗せてMCのように痛快にまくしたてる必要がある。かつてはそういったご意見番は、NOFXやGreen Dayといったパンクバンドが担っていたが、そろそろ次の世代が出てこないと、彼らもいよいよ「若い連中は何をやっているのか?」と嘆かわしく思いはじめることだろう。

 

例えば、政治的な揶揄、社会情勢や人生の成功者にたいして「ノー」を突きつけることは、彼らの実際の人生から生じている。バンドが直面した人生の辛酸や皮肉などを中心に、辛辣なハードコアパンク、カオティックハードコアとして昇華される。そこには、世間のいう幸福から遠ざかったことにより、赤裸々なパンクを制作することに躊躇がなくなった見る事もできる。人間誰しも、守るものがあったり、優遇される立場に置かれていると、人生の本質を見失い、そして、表現そのものに遠慮が出てくる。社会的な地位があればなおさら。みずからの発言や表現性により、誰がどんな表情をするのかをあらかじめ予期し、彼らのご機嫌取りしようとばかりに、お体裁の良い言葉や、彼らの気に入るであろう見目好い言葉を矢継ぎ早に投げかけるのだ。

 

そういった虚偽を覆うために奇妙な肩書があり、仰々しい名の元に構成された団体や機構、グループがある。だが、それらは実際、何の役にも立たず、誰も幸福にしない。そもそも、こういった虚偽の元に構成された奇妙な構造を持つ社会が少数の幸福者の下に無数の不幸者を生み出してきた。

 

どのような国家の議会でも聞かれるような言葉。その言葉は確かに配慮に富み、耳障りが良いかもしれないが、その実、そういった嘘くさい言葉は、何も現状を変えることもなければ、大多数の人々を癒やしたり、ましてや救うことなどありえない。なぜなら、それらは成功者、あるいは資本家を喜ばすことしかできず、一般大衆を喜ばすことなど到底なしえないからである。

 

Pissed Jeansが、そもそも他の一般的な人々よりも不真面目であり、真っ当な人生を歩んで来なかった、などと誰が明言出来るだろうのか。少なくとも、彼らのハードコアパンクは不器用なまでに直情的で、フェイクや嘘偽りのないものであるということは事実である。オープニングを飾る「Killing All The Wrong People」は、タイトルはデッド・ケネディーズのように不穏であり、過激であるが、その実、彼らが真面目に生きてきたのにも関わらず、相応の対価や報酬(それは何も金銭的なものだけではない)が得られなかったことへの憤怒である。その無惨な感覚を元にした怒りの矛先は、明らかに現在の歪んだ資本構造を生み出した資本家、暴利を貪る市場を牛耳る者ども、また、そういった社会構造を生み出した私欲にまみれた悪党どもに向けられる。それはパンクの餞であり、彼らなりのウィットに富んだブラック・ジョークなのだ。

 

実際の音楽はカオティック・ハードコアの屈強なスタイルを選んでいるが、これらの曲の中でたえず強調される不協和音は、四人が感じ取る現代社会の悲鳴であり、その中にまみれている不幸者の言葉にならぬ激しい呻きである。これらが長い経験から発生する激烈なカオティック・ハードコアという形で組み上げられていき、PJのサウンドを作り上げていくのだ。その中には、カルフォルニア・パンクの始祖であるBlack Flagのヘンリー・ロリンズのような慟哭もある。

 

バンドのパンクサウンドバリエーションがあり、単調なものに陥ることはほとんどない。オープニングのカオティックハードコアで盛大にぶちかました後、2曲目「Anti-Sapio」ではメロディック・パンクへと舵を取る。彼らのサウンドの下地にあるのは、複数のメディアが指摘しているように、ワシントン、ボストン、あるいは、ニューヨークの80年代から90年代にかけてのオールドスクール・ハードコアだ。彼らのサウンドは、バッド・ブレインズ、バッド・レリジョン、あるいは、ニューヨークのゴリラ・ビスケッツのような象徴的なバンドの系譜に位置する。シンガロング性の高いフレーズを設けるのは、ポップ・パンクに傾倒しているがゆえ。それは以後のドロップキック・マーフィーズやフロッギン・モリーのようなパブ・ロックをメロディックパンクやケルト音楽から再解釈したサウンドを咀嚼しているからなのだろう。Pissed Jeansのサウンドには風圧があり、そして、それが怒涛の嵐のように過ぎ去っていく。

 

3曲目「Helicopter Parent」では、Sub Popのグランジ・サウンドの原点に迫る。『Bleach』時代のヘヴィネス、それ以後のAlice In Chainsのような暗鬱で鈍重なサウンドを織り込んでいるが、それはハードロックやヘヴィメタルというより、QOTSAのようなストーナーサウンドに近い形で展開される。しかし、彼らはグランジやストーナーロックをなぞらえるだけではなく、Spoonのようなロックンロール性にも焦点を当てているため、他人のサウンドの後追いとなることはほとんどない。クールなものとは対極にある野暮ったいスタイル、無骨な重戦車のような迫力を持つコルヴェットのボーカルにより、唯一無二のパンクサウンドへと引き上げられていく。挑発的で扇動的だが、背後のサウンドはブギーに近く、ロックのグルーブに焦点が置かれている。


アルバム発売直前にリリースされた「Cling to a Poison Dream」では、敗残者のどこかに消し去られた呻きを元に、痛撃なメロディック・ハードコアを構築する。アルバムの中では、間違いなくハイライトであり、現代のパンクを塗り替えるような扇動力がある。彼らは自分たち、そして背後にいる無数のルーザーの声を聞き取り、イントロの痛快なタム回しから、ドライブ感のあるハードコアパンクへと昇華している。乾いた爽快感があるコルヴェットのボーカルがバンド全体をリードしていく。リードするというよりも、それは強烈なエナジーを元に周囲を振り回すかのよう。しかし、それは人生の苦味からもたらされた覚悟を表している。バンドアンサンブルから醸し出されるのは、Motorheadのレミー・キルミスターのような無骨なボーカルだ。メタリックな質感を持ち、それがオーバードライブなロックンロールという形で現れる。曲は表向きにはメロディック・パンクの印象が強いが、同時に「Ace Of Spades」のようなアウトサイダー的な70年代のハードロック、メタルの影響も感じられる。アウトロでの挑発的な唸りはギャングスタラップの象徴的なアーティストにも近い覇気のような感慨が込められている。 

 

 

 「Cling to a Poison Dream」

 

 

 

ペンシルバニアのバンドではありながら、西海岸の80年代のパンクに依拠したサウンドも収録されている。そして、それは最終的にワールドワイドなパンクとしてアウトプットされる。これらは彼らのパンクの解釈が東海岸だけのものではないという意識から来るものなのだろう。「Sixty-Two Thousand Dollars in Debt」は、最初期のミスフィッツ、「Black Coffee」の時代、つまりヨーロッパでライブを行っていた時代のブラック・フラッグのサウンドをゴリラ・ビスケッツのハードコアサウンドで包み込む。ボーカルのフレーズはクラッシュのジョー・ストラマーからの影響を感じさせ、ダンディズムを元にしたクールな節回しもある。その中に、現代社会の資本主義の歪みや腐敗した政治への揶揄を織り交ぜる。しかし、それは必ずしもリリックとしてアウトプットされるとはかぎらず、ギターの不協和音という形で現れることもある。バッキングギターの刻みをベースにしたバンドサウンドは親しみやすいものであるが、これらの間隙に突如出現する不協和音を元にしたギターラインが不穏な脅威を生み出し、フックとスパイスを付与している。特に、ギターの多重録音は、PJの代名詞的なサウンドに重厚さをもたらす。

 

その後もブラック・フラッグ的なアナーキストとしてのサウンドが「Everywhere Is Bad」で展開される。相変わらず、不協和音を元にした分厚いハードコアパンクが展開されるが、ここには扇動的で挑発的なバンドのイメージの裏側にあるやるせなさや悲しみが織り交ぜられている。さらに彼らはパンクそのもののルーツを辿るかのように、「Junktime」において、デトロイトやNYのプロト・パンクや、プッシー・ガロア、ジーザス・リザード、ニック・ケイヴ擁するバースデイ・パーティのような、前衛的なノイズパンクへ突き進む。アルバムの序盤で彼らはオーバーグラウンドのパンクに目を向けているが、中盤では、地中深くを掘り進めるように、アンダーグランドの最下部へ降りていく。しかし、その最深部は見えず、目の眩むような深度を持つ。それを理解した上で、彼らはナンセンスなノイズ・ロックを追求しつづける。彼らのアナーキストとしての姿が垣間見え、上澄みの世間の虚偽や不毛な資本主義の産業形態を最下部から呆れたように見つめている。これは確かにルーザーのパンクではあるが、その立ち位置にいながら、まったくそのことに気がづいていない、ほとんどの人々に勇気を与え、彼らの心を鼓舞させるのだ。

 

バンドと彼らが相対する世界との不調和は、世間の人々の無数の心にある苛立ちやフラストレーションを意味しており、それがいよいよ次のトラック「Alive With Hate」で最高潮に達する。挑発的なノイズのイントロに続くボーカルは、腹の底というより、地中深くから怨念のように絞り出され、その後、Paint It Blackを彷彿とさせる無骨なハードコアパンクへと移行する。これらのハードコアパンクは、世間の綺麗事とは対極にある忖度が1つもない生の声を代弁している。

 

地の底を這うようなギターライン、それに合わさるワイアードなノイズ、扇動的なギター、ドラム、ハードコアに重点を置くボーカルが、目くるめく様に繰り広げられる。世の中のたわけきった人々を、彼らはニュースクール・ハードコアの文化に象徴される回し蹴りのダンス、外側に向けて放たれる強烈なエナジーにより蹴散らし、ヘイトをやめようなどと言い、その実、ヘイトを増大させる人々に、「目を覚ませ!」とばかりに凄まじい撃鉄を食らわす。怒涛の嵐の後には何も残らない。Panteraのダイムバック・バレルが墓場から蘇ったかのようだ。

 

アルバムの終盤では、比較的キャッチーな曲が収録されている、しかし、そのキャッチーさは必ずしも上澄みのパンクバンドのものとは一線を画している。


「Seabelt Alarm Silencer」では、80年代のストレート・エッジの性急なビートを元にし、メロディック・ハードコアを展開する。この曲は、Negative ApproachやNegative FXのようなボストン周辺のハードコアのような無骨さとミリタリー・パンクの要素を思わせる。続く「(Stolen) Catalytiic Converter」では、Gorilla Biscuitsのようなニューヨークのハードコアサウンドに立ち返る。ただその中にも現代的な音楽性も伺える。パルス状のシンセは、カナダ/トロントのFucked Upのエレクトロ・ハードコアの系譜にあるが、Pissed Jeansは、それを聞きやすいものにしようとか、親しみやすいものにしようなどという考えはない。ストレートなハードコアサウンドを突き抜けていくのは、耳障りなノイズ、そして、90年代や00年代のミクスチャーロックをベースにしたアジテーションである。


「Monsters」はアルバムの中で最もスリリングなポイントとなる。ボーカルはBad Religionのメロディック・ハードコアをスタイルに属するが、他方、全体的なサウンドとしてはUKのオリジナルパンクやハードコアの系譜にある。どこまでも無骨でゴツゴツとした感じ、一切、忖度やご機嫌取りをしないという生真面目でナーバスな点では、Discharge、Chaos UK、The Exploitedといったカラフルなスパイキーヘア、そして鋲のついたレザー・ジャケットの時代のUKハードコアの影響下にある。もちろん、疾走感のある性急なビートがそれらの屋台骨を形作り、現代的なハードコアがどうあるべきなのかを示している。これらは、Convergeやヨーロッパのハードコアバンドほど過激ではないが、王道にあるハードコアサウンドは、牙をそぎ落とされたファッションパンクばかり目立つ現代のシーンの渦中にあって鮮やかな印象を放つ。彼らはまだパンクが死んでいないことを証し立てる。


アルバムでは、引き出しの多いパンクのスタイルが重厚なサウンドによって展開される。表向きには、ぶっきらぼうな印象もあるが、最後の曲だけは、そのかぎりではない。「Moving On」では、Social Distortionを思わせる渋いメロディック・パンクをベースにし、コルヴェットの唸るようなヴォイスがその上を高らかに舞う。無骨なボーカルであるため、メロディー性は相殺されてしまっているが、サビのシンガロングの部分に彼らの最も親しみやすい部分が現れる。


この曲には、ソーシャル・ディストーションと同じように、カントリーとフォークの影響もわずかに見えるが、まだ残念ながら完全な形で表側には出てきていない。これがもし、ジョー・ストラマーのように、スカやカントリー、フォーク等、パンクの外側にあるジャンルを思い切り盛り込み、それが最も洗練され研ぎ澄まされた時、理想的なサウンドが出来上がるかも知れない。クラフトワークの『Autobahn』を思わせるアルバムジャケットはおしゃれで、部屋に飾っておきたいという欲求を覚えさせる。エミール・シュルトのセンスを上手く受け継いでいる。

 



85/100

 

 

 

Best Track 「Alive With Hate」



『Half Divorced』はSUB POPから3月1日に発売。アルバムからは前作「Sixty-Two Thousand Dollars in Debt」「Moving On」「Cling to a Poisoned Dream」先行シングルとして公開済み。  

 『Liam Gallagher & John Squire』

 

Label: Warner Music UK

Release: 2024/ 03/ 01



Review  



元オアシスのリアム・ギャラガーと元ストーン・ローゼズのジョン・スクワイアによるコラボレーション・アルバムは、予想以上の良作である。もちろん、このアルバムは両バンドのファンにとって納得の出来と言える。ビートルズ、ザ・フー、ローリング・ストーンズといったUKロックの代表格に加え、ブルース・ロックやウェストコーストロックの影響も感じさせるアルバムだ。


近年、リアム・ギャラガーは90年代のUKロックをベースにしたロックソングをソロ作の重要な根幹に据えていたが、今作はその延長線上にある作品と言える。ジョン・スクワイアはソロ・アルバムの音楽性にブルース・ロックという意外な要素を加えている。しかし、実はこれはストーンローゼズのクラブミュージックとサイケロックの融合という皮相の音楽性に隠されていたものだ。今回、ローゼズのファンはこのバンドの隠れた原石を発見することが出来るかも知れない。


オアシスやそれ以後のソロ作品において、ギャラガーは一般的にスタンダードなロックソングの面白さを追求してきたように感じられる。それはノエル・ギャラガーの良質なポップミュージックを追求するという考えとは対照的である。しかし、両者の考えにはマリアナ海溝のような深い隔たりがあるように思えるが、ロックとポップ、実はこの違いしか存在しないのである。


そして今までオアシスやソロアルバムでは一貫して英国のロックを追求してきたウィリアム・ジョン・ポール・ギャラガーであるが、今回は必ずしもイギリスという括りにこだわっていないように思える。

 

長くも短くもなく、日曜の午後のように快活に過ぎ去っていくアルバムの10曲には、モッズ・ロックや、ビートルズ時代のバロック・ポップ、そして、90年代の宣伝用に作られた架空のジャンルである「ブリット・ポップ」の要素に加えて、アメリカの西海岸のロック、どちらかと言えば、ステッペンウルフのようなワイルドさを擁するロックソングが展開される。その中には、ストーンズのブギーやホンキー・トンクの影響下にあるロックの中核にある渋いリフが演奏されるが、これが表面的なロックソングに鋭いアクセントを与えている。表向きに歌われるメロディー性は、やはりオアシスやソロ・アルバムの系譜にあるが、そこにはロックの歴史の源流を辿るような意味合いが込められている。あらためて両者のミュージシャンは、ロックソングを誰よりもこよなく愛していることがわかるし、この音楽の魅力を誰よりも真摯に掘り下げようとしている。ギャラガーとスクワイアは間違いなく「現代のロックの伝道師」なのである。

 

昨年末、このアルバムの発表を事前にリークした時、リアム・ギャラガーは「リボルバー以来の傑作」とソーシャルで宣伝していた。しかし、このアルバムには、ビートルズの最初期の音楽性を想起させる「I'm So Bored」において、ビートルズの『Revolver』に収録されている「She Said She Said」に象徴されるようなマージービートという古典的なロックのスタイルを図っているのを除けば、明らかにローリングストーンズの影響下にあるアルバムである。次いで、言えば、このアルバムは、オアシスのようなアンセミックなフレーズ、そして清涼感のある音楽性を除けば、「Let It Bleed」のようなブルースの要素を前面に押し出した作品に位置づけられる。

 

今回のコラボレーション・アルバムで、ギャラガーはジョン・スクワイアのギターを徹底してフィーチャーすることを制作の条件にしたという。そのことがユニットという形であるにも関わらず、バンドセッションのような精細感をもたらす瞬間もある。スクワイアのギタープレイは、ブルースロックの要素をもたらしているが、それはジェフ・ベックやクラブトンといった、UKの伝説的なギタリストのラフなプレイの系譜に属している。そして、驚くべきことに、ジョン・スクワイアは、ストーン・ローゼズのエキセントリックな音楽性に隠れていたが、ジェフ・ベックやクラプトンに匹敵するブルース・ギタリストだったという事実が明らかになった。

  

このコラボレーションアルバムは、少なくとも両者の嗜好に根ざした日曜大工のような職人的な音楽の方式を取りながら、リズム、音階、構成、これらの3つの要素をどれひとつも軽視していないことは明確である。それはたしかに全盛期のように先鋭的ではないものの、あえて理想的な音楽の基本的な形に立ち返ったとも考えられる。また、若いミュージシャンを見るに見かねて、ある程度憎まれ役になるのを見越した上で、教則本のようなアルバムをリリースしたとも言える。


このアルバムは、先鋭的な創造性という側面では、中盤に少しだけ陰りが見られるが、全体的なアルバムとしては、いくつか傾聴すべきポイントが含まれている。また、本作は、古き良き時代を回想することだとか、古い時代への逃避を意味していない。前の時代の基本的な事例を示しながら、音楽とは何かを表そうとしているのである。この音楽を古びたものとか、そういうふうに考える事自体がナンセンスなのであり、もし、そんなことを考えるとすれば、それは音楽を堕落させる不逞の輩なのであり、考えられる限りにおいて最も愚鈍としか言いようがない。

 

アルバムには二人のミュージシャンの音楽的な語法を元に、ある意味では二人が理想とするスタイルが貫かれている。「Raise Your Hands」は、ギャラガーの生命力のある歌唱や、スクワイアの経験豊富なギターの組み合わせにより、理想的なロックミュージックの型を作り出す。この曲は、聞き手の心を鼓舞させ、音楽が人を消沈させたり悩ませたりするものではないことを表している。ギャラガーの音楽性は、お世辞にも新しいものとは言えまいが、それでも、この音楽の中には融和があり、愛がある。そして何より、音楽とは、人を怖がらせる化け物でもなく、また人を脅すものでもなく、聞き手にそっと寄り添うものであるということを示唆している。 

 

 

 「Mars To Liverpool」

 

 

 

理想的な音楽の形を示しながらも、リアムとジョンは、人間的な感覚をいまだに大切にしている。「Mars To Liverpool」は、彼らの住む場所を与えられたこと、ひいては生きていることへの感謝である。かつて若い頃は、「そういったことがわからず、家に閉じこもってばかりいた」と話すギャラガーは、彼が日課とする「愛犬との公園での散歩」という日常的なテーマに基づいて、最も良いメロディーを書こうとしている。


そこにスパイスを与えるのがスクワイアだ。二人の演奏の息はぴったり合っていて、根源的な融和という考えを導こうとしている。人種や政治、現代的な社会情勢を引き合いに出さずとも、こういった高らかな音楽を作ることは可能なのである。「過去へのララバイ」とも称せる「One Day At A Time」はノスタルジックなイントロを起点に驚くほど爽快なロックソングへと移行する。オアシスやソロ・アルバムで使い古された手法ではあるものの、こういったスタンダーなロックソングは複雑化しすぎ、怪奇的な気風すら漂う現代的な音楽の避暑地ともなりえる。


「I'm A Wheel」では、ジョン・スクワイアのブルースギタリストの才質が光る。ジョン・リー・フッカー、バディ・ガイのような硬派なブルースのリフを通じて、そこから飛び上がるように、お馴染みのリアム・ギャラガーが得意とするサビへと移行していく。シンプルでわかりやすい構成を通じて、BBCの「Top Of The Pops」の時代の親しみやすい音楽へと変遷を辿る。アウトロは、キース・リチャーズの得意とするような、渋みのあるリフでフェードアウトしていく。この音楽には、他にも英国のパブ・カルチャーへの親しみが込められているように思える。曲を聴けば自ずと、地下にある暗い空間、その先にある歓楽的な歓声が浮かび上がってくる。

 

年明けにリリースされた先行シングル「Just Another Rainbow」(MV)は、UKシングルチャートで見事一位を獲得した。


ストーン・ローゼズの「Waterfall」を思い起こさせる曲で、ギターラインはフェーザーのトーンのゆらぎを強調し、ニューウェイブの範疇にある手の込んだ音作りとなっている。そこにギャラガーは、ザ・スミスを彷彿とさせる瞑想的なフレーズをみずからの歌により紡いでいく。この曲は、ジョン・スクワイアのセルフカバーとも言えるが、「Waterfall」に対するオマージュは、ベースのスケールの進行にも見出せる。これらのストーン・ローゼズのカバーのような志向性は、しかし、やはりギャラガーの手にかかると、オリジナルのものに変わる。

 

アルバムの序盤では、驚くほどビートルズの要素は薄いが、「Love You Forever」 ではわずかにフォロワー的な音楽性が顕現する。ブルース・ロックをベースとし、シンコペーションを多用したロックソングが展開される。特に、楽節の延長を形作るのが、スクワイアのギターソロである。ここでは、ジャズのコール・アンド・レスポンスのように、ギャラガーのボーカル、スクワイアのギターによる音楽的な対話を重ねている。ギャラガーのボーカルが主役になったかと思えば、スクワイアのギターが主役になる、という面白い構成だ。音楽的な語法は、古典的なブルース・ロックやジョージ・ハリソンが好むような渋いロックソングとなっているが、その中に現代的な音楽の要素、主役を決めずに、語り手となる登場人物が切り替わる、演劇のようなスタイルが取り入れられている。この曲はまさに新旧のイギリスの音楽を咀嚼した内容である。

 

「Make It Up As You Go Along」は、キース・リチャーズがゲスト参加したと錯覚させるほどの見事なギターの模倣となっている。ストーンズの曲でもお馴染みのホンキー・トンク風のギターで始まり、TVドラマのエンディングのような雰囲気の曲調へと変遷していく。しかし、その後はビートルズのレノンが得意とする同音反復を強調するボーカルの形式を踏襲している。これらは、すでに存在する型を踏まえたものに過ぎないが、ポップ・ミュージックの理想的な形をどこかに留めている。この曲にある温和さや穏やかさはときに緊張感の欠いたものになる場合もあるが、アルバムを全体的な構成の中では、骨休みのような意味合いが込められている。つまり、崇高性や完璧主義とは別軸の音楽の魅力があり、また、少し気を緩めるような効果がある。


「You're Not The Only One」のイントロでは、New York Dolls、Sladeを思わせるブギーを主体にした呆れるほどシンプルなロックンロールに転じる。「You're Not The Only One」の場合は、少しクールというか気障なスタイルを採っている。この中に流動的なスクワイアのギター、そして、ストーンズのように4(8)拍を強調するピアノ、Led Zeppelinの「Rock N' Roll」の70年代のハードロックの要素が渾然一体となり、Zeppelinのバンドマークの要素を作り出す。これらは最近、ポストロックという形で薄められてしまったロックンロールの魅力を再発見することが出来る。


ロールとは、ダンスミュージックの転がすようなリズムを意味し、そもそもロックは、Little Richards,Chuck Berry、Bo Diddlyの代表的な音楽を聴くとわかる通り、ダンスの一貫として作られた音楽であることをありありと思い起こさせる。最近のロックは踊りの要素が乏しいが、本来はダンスミュージックとして編み出された音楽であるということをこの曲で再確認出来る。

 

「リボルバー以来の傑作」という制作者自身の言葉は、作品全体には当てはまらないかもしれないが、「I'm So Bored」には、お誂え向きのキャッチフレーズだ。イントロでは、ビートルズの初期から中期の音楽へのオマージュを示し、その後、ソロ・アルバムで追求してきた新しいロックの形を通じて、曲の節々に、ビートルズのマージービートのフレーズをたくみに散りばめている。


懐古的なアプローチが目立つ中、この曲は古びた感覚がない。それはスタンダードであり、またロックの核心を突いたものであるがゆえなのだ。ギターの録音のミックスもローファイな感覚が押し出され、モダンな雰囲気がある。その中にはザ・フーのタウンゼントに近いギターフレーズも見いだせる。UKロックのおさらいのような意味を持つのが上記の2曲である。ここには現代的な録音へのチャレンジもあり、ザ・スマイルが最新作『Wall Of Eyes』(リリース情報を読む)で徹底して追求したボーカルのディレイ、リバーブで、音像を拡大させるという手法も披露されている。

 

正直に言うと、コラボアルバムが発表された時、それほど大きな期待をしていなかった。それは単なる過去へのオマージュや回想の域を出ないことが予測されたからである。しかし、実際に聴いてみると、期待以上の出来栄えで、少なくとも、ローリンズ・ストーンズの『Hackney Diamonds』(リリース情報を読む)に匹敵するアルバムである。ここには、ロック・ミュージックの魅力がダイアモンドの原石のように散りばめられていて、商業音楽の理想形が示唆されている。それはやはり、分かりやすいメロディー、リズム、曲の構成という音楽を構成する基本的な要素が礎となっている。

 

最後にいうと、小さい子に聞かせることが出来ないタイプの商業音楽は、最良の選択とは言いがたい。その点、このアルバムは小さい子だって安心して楽しめる。もしかすると、犬でも猫でも楽しむことができるかも知れない。それは言い換えると、最良の音楽である証でもあるのだ。


アルバムのクローズ「Mother Nation's Song」では、他の曲では封印されていたフォークロックの雄大な性質が顕となる。 スクワイアのギターは全盛期のキース・リチャーズに匹敵し、円熟期を越え、マスタークラスの領域に達している。


リアム・ギャラガーは直近のインタビューで、若いミュージシャンが怠惰であることをやんわりと指摘していたが、このアルバムを聴くと分かる通り、どのような分野にも近道はないということが痛感出来る。少なくとも、ギャラガーとスクワイアは、今日までの道のりを一歩ずつ上ってきたのであり、その間、ひとつも近道をしようとしなかったことがわかる。彼らはいつも、正しい道を誰よりも実直に歩んできたのであり、少なくともそれは今後も同じなのだろう。

 


 

90/100 
 




Best Track 『I'm So Bored」

Yard Act 『Where’s My Utopia?』

 


 

Label: Islands / Universal Music

Release: 2024/03/01


Listen/Purchase(国内盤の予約)



Review



依然としてヤード・アクトのシアトリカルなイメージはデビューアルバムから二作目に引き継がれている。オープナー「An Illusion」はリーズのバンドが得意とするジェームス・スミスのスポークンワードを主体とした、ダブ風のトラックにブレイクビーツを交えたサウンドが繰り広げられる。これは、ヤードアクトの新機軸が示されたと言える。ヤードアクトのサウンドにはザ・クラッシュの『London Calling』や『Sandinista』に対する憧憬のようなものも感じられる。イギリスのパブの仄暗く、また奇妙な熱狂性を擁する空気感は『Overload』以来も健在で、ひとまずこのオープナーでデビューアルバムがブラフではなかったことを証明づけようとしている。

 

デ・ラ・ソウルやDr.DREに象徴づけられる古典的なR&Bの系譜にあるオールドスクールヒップホップのターンテーブルのスクラッチやサンプリングをモチーフにした「We Make Hits」は、アルバムのハイライトとなりえる。


ヤードアクトは、そのヒップホップの要素に、ブレイクビーツやドリルの前衛的な手法を交え、一目散にサビへと向かっていく。「俺たちはヒットを生み出す!」というシンガロング必須のサビは、彼らのステートメント代わりであり、ゾンビ風のユニークなコーラスワークが絡みあい、ひときわユニークな印象を及ぼす。米国の深夜番組「ザ・トゥナイト・ショー・ステアリング・ジミー・ファロン」のパフォーマンスでは、ディスコ風のアレンジが施され、複数の女性コーラスがゴージャスな雰囲気を醸し出していたが、このアルバムの収録バージョンは硬派な雰囲気が漂う。サビでの熱狂的な雰囲気はバンドの最たる魅力が現れたと言える。

 

 以降の3曲目「Down By The Stream」ではデビューアルバム時のベースラインが強調された硬派なポストパンクサウンドに回帰している。 旧来よりパーカションの効果を押し出し、最初のアルバムのサウンドに前衛的な効果を及ぼそうとしているが、ちぐはぐな印象を覚えてしまうのは気のせいだろうか。リズムトラックとボーカルがまったくまとまっておらず、ビートやグルーブが断裂している。もし、ビリー・ウッズのようなアブストラクトヒップホップにおける先鋭的な要素を意図している場合は、この指摘は的外れとなるだろうが、歌いやすさと乗りやすさがバンドの魅力であったと考えると、やや難解なサウンドに傾倒しすぎたとも言える。

 

その後もヤードアクトはデビュー時の印象に変化を及ぼそうとする。「The Undertow」ではストリングスをダブサウンドやスポークンワードを取り入れたパンクサウンドに織り交ぜている。部分的には古典的なソウルミュージックの影響も反映されているかもしれないが、これらの複合的なジャンルは残念ながら、化学反応を起こすことなく、線香花火のようにそのスパークが「しゅーっ」と立ち消えになってしまう。一、二年のハードワークのライブツアーの疲弊がトラックには見え隠れする。それは本来のバンドの輝きやスミスのボーカルの生命力を削ぎ落とす結果となっている。

 

しかし、その中でもディスコ・サウンドやミラーボール・ディスコ、あるいは80年代のブラック・コンテンポラリーに根ざしたエンターテインメント性の高いサウンドで、なんとか陽気な雰囲気を生み出そうと試みる。先行シングルとして公開された「Dream Job」は、デビューアルバムの時代のユニークな風味をどこかに残しながら、シアトリカルなサウンドへと転換を図っている。ボンゴのようなワールドミュージックの打楽器を交えつつ、ヤード・アクトは、叫び声を取り入れたりし、コメディー風のサウンドを作り出している。その中に、やはりアースウィンドファイアー等を参考にしたコーラスが入ると、「Boggie Wonderland」のような70年代の空気感が生み出されることもある。しかし、スポークンワードという唯一無二の武器があるとはいえども、それらがなんらかの新しい音楽として昇華されたかどうかまでは分からない。

 

「Fizzy Fish」がギターサウンドをベースに、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の世界へ入り込んだSF的なポスト・パンク。 ヒップホップをベースにしながらも、「パワー・オブ・ラブ」のような懐古的な感覚と未来的な感覚をクロスオーバーするようなユニークなトラックである。しかし、曲の中盤から導入されるコーラスワークはいくらか調子はずれであり、本来の持ち味であるバンドが一体になって迫ってくるようなドライブ感が相殺されてしまっているのが残念。


ただノイジーな展開からダブ風のベースラインの起点とし、いくらか落ち着いた展開に移行する瞬間のスミスのスポークンワードに、この曲の醍醐味が宿っている。もしかすると、あえてアンセミックな展開を避け、全体的に落ち着いたサウンドにしても面白かったのではなかろうか。アウトロでは再び、トラックのイントロのようなノイジーで過激なサウンドへともどるが、これも何かエネルギーがくすぶり続けるような感じで、完全な不発に終わってしまっている。

 

「Petroleum」はヤード・アクトの代名詞的なトラックで、ダブサウンドを基調としたポストパンクをチョイスしている。しかし、この曲でも疲労感が漂う。スポークンワードは本来の切れ味がなく、それは情けない呻きのようにも聞こえる。リズムトラックに関しては入念に作り込まれており、その中にジャーマン・テクノのような新鮮な要素もキラリと光る。ところが、どうしても、それらは何らかの阻害を受けたかのように、なめらかなリズムの流れが途絶え、彼らの本来の魅力である親しみやすさやわかりやすさとは正反対にある難解で奇妙なサウンドに陥っている。これはおそらく、音楽的な選択肢が多すぎるがゆえの苦悩なのであり、それが最終的にはまとまったサウンドではなく、分散的なサウンドにとどまってしまっているのが難点か。

 

続く「When The Laugher Stops」では、女性ボーカリスト、J Pearsonをフィーチャーし、シンセ・ポップを主体とするニューウェイブ風のサウンドだ。表向きの陽気さや楽しさとは別に何かバンドやフロントマンの苦悩のようなものが浮かび上がる。厳密には明言できないが、それは何らかの選択に迷っているという気がし、これがフィーチャーの部分では煌めきがあるのに、メインのボーカルではくすぶっているような印象を覚える。曲そのものは親しみやすく痛快だが、もう少しだけ単純明快でクリアなサウンドを追求してもよかったかもしれない。

 

「Grifter's Grief」はスリーフォード・モッズのようなアウトローな感じのある打ち込みをベースにしたポストパンクサウンド。ここには新鮮な試みが見られ、トロピカルなサウンドやヨットロックのような要素をまぶし、安らいだ感覚を生み出す。ここにもバンドやフロントマンの隠された本音のようなものが見え隠れする。アウトロではブライトンのKEGのように一気呵成に轟音のハードコアサウンドへと猪突猛進する。しかし、残念ながらこれも完璧な不発に終わってしまっている。


表面的には増長や拡大、暴発的なサウンドを行き来するが、アルバムで最も説得力があるのは、それと対極にある「Blackpool Illumination」である。ここにはバンド、ボーカリストとしての進化が示され、そこにはアルバムの他の曲にはない深み、そして、本当のスピリットのようなものが一瞬だけ現れる。この曲が収録されていることが、ファンにとっての救いの瞬間となりえる。

 

Zen FCを離れて、メジャーレーベルのアイランドと契約し、多忙なスケジュールを組み、それを完璧に遂行し、国外のテレビ番組にも出演するようになったヤード・アクト。

 

解釈次第では、彼らはプロフェッショナルで、売れることを宿命づけられた立場にあるとも言える。クローズ曲でも売れるサウンドを生み出そうとしているが、それらのプレッシャーを完全にはね避けたとまでは言いがたい。なおかつ、本作は彼らの本当に理想とするサウンドになったとも明言しかねる。アルバムを聴いていると、何かしら懸念が頭の隅に突っかかっているという気がし、音楽そのものも、核心から次第に離れていくような違和感をおぼえてしまった。

 

単独の素晴らしいシングル「The Trench Coat Museum」が収録されなかったのも不可解である。今回のアルバムのリリースに関しては、多忙な日程でも核心にあるスピリットを誰にも受け渡さなかったアイドルズの『Tangk』とはきわめて対象的な結果となってしまった。切れ味のあるブラックジョークのような精彩味が乏しいのも残念。


才覚に満ち溢れたバンドが過密スケジュールで疲弊する事例があるが、このアルバムほどそのことを証明づけるものはない。バンドはすぐマヨルカ島へ行き、しばらくバカンスをする必要があるかもしれない。


 

 

70/100
 

 

 「We Make Hits」

 



 Whitelands 『Night-bound Eyes Are Blind To The Day』

 


 

 

Label: Sonic Cathedral 

Release: 2024/02/23


Purchase /Listen



Review

 

「黒人のミュージシャンがシューゲイズをやってはいけない」などと考えるのは、Whitelandsの音楽を聴けば、迷妄であり、アナクロニズムや過去への埋没に過ぎないとわかる。ロンドンから登場したホワイトラインズは、ポリティカル・コネクトネスが持つ意味合いとは裏腹に、音楽そのものがもつ未知の可能性を呼び込み、将来のロックバンドの理想像がどうあるべきかを示す。

 

スペシャルズ、リバティーンズ、ブロック・パーティを筆頭に、ロンドンのロックミュージックは、いつも人種の融和によって新しい表現性が生み出されてきたということを、彼らはありありと思い出させてくれる。上記の偉大なロックバンドが示したのは排他ではなく、融和だった。ホワイトランズもまた無限の可能性に充ちている。


驚くべきことに、ホワイトランズは四人組で活動しているというが、そのうち3人が黒人のミュージシャンだ。彼らの音楽は、実際の音そのものが持つ響き以上に何らかの共鳴を呼び起こし、そして、何らかのメッセージ性を孕み、示唆に富んでいる。もちろん、すでにその予兆は見られる。ニューヨークのLutaloのような優れたソロアーティストの台頭はオルタナティヴロックがすでに白人だけのものではなく、人種的に開かれた音楽になりつつあることを示している。


ヴァネッサはオルタナティブ・ロックに隠されたレイシズムに関して言及する。「白人男性がロマンチックで、繊細で、感情的で、ドリーミーな音楽を作るのはOKなのに、対照的に、若い黒人男性は怒りに満ちた音楽を作るべきという物語が根底にある。私たちは皆、このようなステレオタイプで育ってきたから、ホワイトランドを目にした時、人々は不思議に思うのだと思う」

 

「私は多くのメディアを消費している」とエティエンヌは幅広い影響について言う。「テレビゲーム、音楽、ニュース、絵画、漫画、アニメ、映画、特に、アニメが私のお気に入り。表現の重みを理解し、感じたい欲求がある。だから、曲は、他の曲、絵、美学、「バイブス」であるべきで、誰かが感じた感情をベースにしている。基本的にあなた自身はあなたが食べたもので出来ているのです」

 

ヴァネッサは続ける。「私たちは、建前主義、微々たる行動、妬み、憤りを経験してきた。だから私たちは、自分たち自身を証明し続けなければならないと感じています。自分たちが良い影響を与えていることは分かっていますが、ホワイトランズには本当に壁を打ち破ってほしいのです」

 


オープニングを飾る「Setting Sun」が示すように、ボーカルそのものは失意や哀愁を元にして、JAPANの音楽性を思わせるようなニューロマンティック調の夢想的なメロディーがゆるやかな速度で流れていく。

 

ボーカルは、理想的な高所に手をのばすかのように歌われ、その合間をシューゲイズ・ギターがぼんやりと彷徨う。しかし、それらの空白や隙間は、ため息をつくほど深く、どれほど手を伸ばそうとも、理想的な領域には近づきがたい。一見すると、出発点の失意や絶望を生み出すように思えるが、必ずしもそうではない。理想的な場所に近づこうとするリスナーの心に、それらの哀愁のあるボーカルが定着して、共鳴的な感覚を呼び起こす。何より頼もしいのは、彼らの音楽が、高い場所から見下ろすのではなしに、自分たちと同じ立場にいる人々に向けて発信されていることである。このことは、モグワイがその才覚を見出したbdrmmと共通している。

 

繊細かつきらびやかなギターラインと甘美的なボーカルのメロディーの融合は「Prophet &Ⅰ」にも共通している。一曲目と比べると、ポピュラーな印象があり、ジョニー・マーのギターのように抒情的なフレーズが光っている。しかし、それらは必ずしも80年代に埋没することもなく、はたまたアナクロニズムに堕することもなく、比較的モダンな印象に彩られている。それはアンセミックなボーカルのフレーズを配し、そして、リズムに重心を置いているからである。


バンドは、時々、ハウス・ミュージックの要素を取り入れ、バスドラムのシンプルな4つ打ちを織り交ぜ、効果的なビートを生み出す。これはMBVが志向していたギターロックとハウスの融合という、このジャンルの重要な核心を受け継いでいるといえる。ただ、ホワイトランズの場合は、轟音性は少しだけ控え目である。アイルランドのNew Dadのような夢想的な旋律性を擁しながらも、アンダーワールドのようなクラブ・ミュージックを基調としたリズムを取り入れることにより、楽曲そのものに、親しみやすさやわかりやすさを付与している。良いメロディーだけではなく、曲の節々に溜めを作ることで、トラック全体に起伏をもたらそうとしている。

 

「Cheer」はよりドリーム・ポップに近いアプローチが敷かれ、その中にニューロマンティックやブリット・ポップ前夜の雰囲気が漂う。どちらかと言えば、ノスタルジックな楽曲となっているが、冒頭の2曲と同じく、Mewのような透き通るようにクリアなボーカルの声質が存在感を放つ。スロウバーナーのタイプの曲であるが、注目すべきは、そこには90年代から00年代のクラブ・ミュージックからのリズム的な引用が精彩な感覚の揺れ動きを反映させていることだろう。

 

続く「Tell Me About It」は、アルバムのハイライトで、ポストシューゲイザーの名曲である。ハウスを反映したイントロから始まり、4ADの幻のドリーム・ポップバンド、Pale Saintsの「Kinky Love」を彷彿とさせる夢想的な感覚へ続く。ホワイトランズは、この曲でツインボーカルのスタイルを取っているが、これがより抽象的な音像の領域に差し掛かる。それはリスニングの背後にある音楽の源に近づくことであり、それは人種的な超越と性別の超越によって発生している。曲は、Cocteau Twinsのドリーム・ポップの核心に迫るかのようで、RIDEのダンスミュージックの影響も反映されている。混合のボーカルのユニゾンは、声の性質の違いにより、むしろその美しさが強調され、冬の夜空を舞う粉雪を眺めるような美しさが留められている。


「How It Feels」はシューゲイズのメインストリームにある曲で、アルバムの中では、フィードバック・ノイズと、シャリシャリとしたパーカッションの硬質な響きが強調される。ただ、他に比べると、ギターノイズは苛烈なのだが、効果的なサウンド・デザインには至っていない。メロディーや音像は一見するとクリアなようだが、音の流れが相殺されてしまっている。これはもしかすると、作曲よりもミックスやマスタリングソフトの選別に原因があるかもしれない。

 

しかし、続く「Chosen Light」では、美しいメロディー性とギターサウンドの幻惑が還ってくる。フィードバックノイズをベースにしたギターラインはアイルランド的な哀愁に彩られており、他方、ボーカルのフレーズは、現行のロンドンのポストパンクバンドに比する才気煥発さがある。そして、その中にはバンドやアーティストとしての奇妙に光るセンスも含まれている。しかし、それはまだはっきりした完成形になったとまでは言いがたいものがある。シューゲイズバンドとしての本領発揮とまでは至らず、暗闇の向こうに、かすかにぼんやりと揺らめくに過ぎない。一方で、その弱点を補って余りあるのが、「Tell Me About It」と同じように男女混合のボーカルである。これらは二人のボーカリストの声質も相まって、見事なハーモニーを作り出す。それはもちろん、このジャンルの重要な要素である聞き手を酔わせる情感を擁している。

 

「Born In Understanding」は、ハルのbdrmmがデビューアルバムで示したようなポストシューゲイズの範疇にある音として楽しめる。これらはモダンなUKロックの一角を捉え、それらをキュアーやライドのような象徴的なバンドのフォロワー的な立場を示そうとしている。夢想的なメロディー、浮遊感のある、ふわりと浮き上がるような感覚には心惹かれる。バンドは、以上のように、シューゲイズ/ドリーム・ポップを主体とする幾つかの手法を示した上で、クローズ曲「Now Here's The Weather」で目の覚めるようなナンバーを書いている。このことは注目に値する。

 

ミニマルなフィードバックギター、夢想的でアンセミックなボーカル、そして、重力を備えるベースラインという、バンドの中核を担う3つの要素はそのままに、ホワイトランズはこの曲で彼らにしかなしえないキャラクター性を発現させる。現在のポストシューゲイズ・シーンは世界的に見ても飽和状態にあるため、頭一つ抜けるのは相当困難となっている。しかしそれでも、このバンドは、ロンドンやイギリスのシーンにたいして良いエフェクトを及ぼす可能性が高い。それが憎しみや怒りではなく、より融和的な考えであったら、とても理想的なのだが。。。

 

 

80/100


 

 

Best Track- 「Tell Me About It」

 Real Estate 『Daniel』



Label: Domino

Release: 2024/02/23

 

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Review

 

 

現在、ブルックリンを拠点に活動するロックバンド、リアル・エステイトは2009年のセルフタイトルのデビュー作からノスタルジックなロックサウンドを追求してきた。前衛的なアプローチを図るロックバンドとは対象的に、リアル・エステイトのロックサウンドはわかりやすくスタンダードである。

 

リアル・エステイトは、ブルース・スプリングスティーン、アダムス以降のアメリカン・ロックの流れを汲み、米国のロックミュージックの良さや伝統性を再発見しようと試みる。2009年当時は、ニューヨーク近辺のリバイバル・ロックの運動と並び、バンドはビーチ・フォッシルズに近いサウンドに取り組んでいた。その後、登場したニュージャージーのパイングローヴとの共通点も見い出せる。ギターのディレイ、フェイザー等を使用した手の込んだ音作り、マーティン・コートニーの爽やかなボーカルが特徴となっている。バンドは2011年の『Days』で成功を手にしたが、それ以降も「Taking Backwards」等、良質なロックソングを数多く発表してきた。2020年の『The Main Thing』の後、マーティン・コートニーは、ニュージャージでの幼少期の思い出をテーマにした『Magic Sign』を発表した。このアルバムも良作に挙げられる。

 

リアル・エステイトは、ロンドンのドミノと契約した後も、インディペンデントをベースにしたライブを重視している。ニューヨークでの「ダニエル」という名前のファンを中心に招いたイベントもその一貫だった。メジャーなレーベルと契約しようとも、こういったユニークな試みを欠かさないことがリアルエステイトの最大の魅力である。


実は、レコーディングの長さは、作品の出来不出来を左右しない。慢性的な練習不足で、ゲームプランを持たないスポーツ選手の試合での活躍がほとんど期待できないように、ミュージシャンもどのような構想やヴィジョンを持ってスタジオに入り、録音に挑むのかが最重要といえるかもしれない。『Daniel』は、わずか9日でレコーディングされたサウンドとは思えないほど、コンパクトにまとめ上げられ、一気呵成に録音したかのようなスムーズなロックサウンドが貫かれている。 彼らの知名度を上げる要因となった70年代のアメリカンロックに根ざした懐古的なサウンドも健在である。トラックにはペダル・スティールも使用され、現在の米国の音楽のトレンドを形成するアメリカーナの要素も含まれている。2021年頃から、古い時代の米国の音楽に取り組むアーティストが増えてきたが、エステートは以前から懐古的な音楽に挑んでいた。今、アメリカ人が何を望んでいるのか、かれらはそのことの代弁者とも言える。

 

懐古的なアメリカンロックと並んで、リアル・エステイトのもうひとつの魅力として、コートニーのボーカルの甘いメロディーがこのバンドの重要な中核をなしている。このことは旧来のファンならばご存知のはず。8ビートのシンプルなリズム、ディレイやフェーザーを加えたギターサウンド、シンプルなベースラインが絡み合い、ゆったりした曲風を作り出し、ロックサウンドをベースに置いているに、癒やしの感覚を伴うのに驚く。ノイジーさを徹底して削ぎ落としたスマートなロックサウンドは、奇妙なことにアンビエントサウンドのような余白を作り出す。

 

最新作『Daniel』は和らいだロックソング、彼らの持ち前の夢想的なメロディーセンスが満載となっている。もちろん、メンバーがレコーディングでいくつかの音作りで工夫を凝らしたとプレスリリースで語った通り、いくつか新しい試みも取り入れられていて、ストリングスのようなサウンドを織り交ぜ、落ち着きがありながらもドラマティックな方向性に進んだと言えるだろう。

 

オープニングを飾る「Somebody New」では、70年代のアメリカン・ロックサウンドを参考としつつも、パワー・ポップやジャングル・ポップ風の甘いメロディーが、このアルバムに対する興味を惹きつける働きをなす。The Byrds(ザ・バーズ)やCSN&Y(クロスビー・スティルス・ナッシュ・アンド・ヤング)といったバンドのビンテージなフォークサウンドをベースにしている。それらのビンテージ・ロックはエレクトリック/アコースティックギターのユニゾンやアルペジオを細部に配した緻密なプロダクションによってモダンなサウンドに書き換えられる。ノイジーさを徹底して排した心地よいサウンドは、パーカションの側面からも工夫が凝らされて、カスタネットのような音色を取り入れることで、優しげなサウンドデザインが施されている。


「Haunted World」でもフォーク/カントリー、アメリカーナを基調とし、ニール・ヤングのような古典的な音楽を展開させ、ドラムの側面からアメリカーナの源泉に迫り、ギター、ベース、ボーカルと基本的なアンサンブルを通じ、持ち前の甘いサウンドを作り出す。ボーカルのフレーズはわかりやすさに焦点が置かれ、脚色や無駄なものが一切存在しない。足し算というよりも引き算のサウンドを介して、オープニング曲と同じく心地よいリスニングを提供している。


音楽性をよりアメリカーナに近づけようする工夫も凝らされている。1分40秒ごろにはペダルスティールが導入され、夢想的な空気を生み出す。エレクトリック・ピアノの使用もソウルとまではいかないものの、メロウな雰囲気を作り出す。これらのサウンドは個性をぶつけるという感じではなく、他のメンバーを尊重した平均的なバンドサウンドが生み出された証ともなっている。アンサンブルでの沈黙や間を重視したサウンドは健在で、これが安らいだ印象を与える。

 

「Wonder Underground」は従来の形式と異なり、リアル・エステイトが新しくコーラスワークの妙に取組んだ一曲。


マーティン・コートニーの温和なボーカルは変わらないものの、親しみやすさのあるコーラスを取り入れつつ、アルバムの冒頭でお馴染みのアメリカーナとフォークサウンドを融合させる。その他、R.E.Mに代表されるカレッジ・ロックが付け加えられている。このジャンルには、明確な特徴は存在せず、基本的には、1990年代にアメリカの大学のラジオでよくオンエアされていた音楽ジャンルだった。


リアル・エステイトは、このジャンルの音楽性を踏襲した上で、温和なインディーロックサウンドに昇華させている。例えば、いかにもオルタナティヴといったサウンドに比べると、聞きやすさがある。それは、ひねりがなく、簡素なコードやリズムを主体に曲が構成されているのが理由である。こういったアプローチに関しては、何より親しみやすい音楽を提供したいというバンドの狙いのようなものも読み解くことが出来る。そして旧来よりもそれは洗練されている。


 「Flowers」は、2009年のデビュー当時のビンテージな感じのあるロックサウンドに回帰しているが、原点回帰と見ることは妥当ではないかもしれない。親しみやすく、歌えるメロディーという商業音楽に不可欠な要素を重視した上で、緻密なミニマルのギターラインを配し、ウィルコのような録音した音源をサンプリングの手法で配するコラージュの要素を加え、現代的なプロダクションに取組む。以前は懐古主義にも思えたものが、今となっては生まれ変わり、2020年代のロックらしいモダンなサウンドに接近したことが痛感出来る。考え次第によっては、リバイバル・サウンドからの脱却、及び、次なるロックミュージックへの通過点を示したとも言える。


「Interrior」は、エレアコ・ギターをベースにしたザ・パステルズのようなスコットランド/アイルランドのギターポップに近いサウンドが組み上げられるが、マーティンのボーカルについては、ポール・マッカートニーのような親しみやすさが感じられる。この曲は特に、ビートルズの後、数しれないフォロワーを出現させ、それがパワー・ポップ/ジャングル・ポップというジャンルに変化していったことをあらためて思い出させる。やはりバンドが意識していることは、誰にでも口ずさめるメロディー、誰にでも乗れるビートなのである。これは、少し複雑化しすぎ、時々、怪奇的に傾く現代的なポピュラー音楽の向こうに現れたオアシスとも言うべき現象である。

 

リアル・エステイトはロックにとどまらず、ポピュラー音楽の核心を付く曲にも取組んでいる。「Freeze Brain」は驚くほどキャッチーであり、ジャスティン・ビーバーの曲のように痛快だ。曲の中にはR&Bやネオ・ソウルからの影響も伺えるが、しかし、商業的な音楽のソングライティングの方向性を選ぼうとも、やはりインディーロックサウンドに近づくのは、リアル・エステイトらしいと言えよう。これは前の曲と同じように、ポピュラーで爽快な音楽を提供したい、というバンドの狙いや意図も読み解ける。さらに、レコーディングにおける音楽の楽しさも反映されている。ポンゴによる心地よいリズムが、緩やかな感覚とトロピカルなリゾート感を作り出し、それらはヨット・ロックやAORのサウンドによってカラフルに彩られている。


続く「Say No More」では、70年代のサイケデリックロックをベースにして、疾走感のあるロックサウンドを展開させる。旋律の進行の中には、ルー・リードの「Sweet Jane」のように夢想的な感覚が漂い、バンドの爽快なサウンドを背後から支えている。バンドが「Taking Backwards」をはじめとする代表曲で取組んできた音楽性の延長線上にあるナンバーと言えるだろう。

 

終盤の3曲、「Airdrop」、「Victoria」、「Market Street」では、お馴染みのリアル・エステイト節とも称せる代名詞的なロックが繰り広げられる。サウンドにはやはり一貫して爽やかさとわかりやすさを重視したインディーロック、カレッジロックが下地になっている。「Air Drop」ではギターポップ/ネオアコースティック風のギターが登場し、「Victoria」では、ビートルズの直系にある1960年代のバロック・ポップの要素が含まれている。また、続く「Market Street」ではローファイな感覚を宿したインディーロックソングソングがシンプルかつスマートに展開される。

 

これらは夏の終わりの風が通り抜けていくかのような清々しさと爽やかさに充ちあふれている。クローズ曲の「You Are Here」では、オアシスのリアム・ギャラガーが好むような、90年代のブリット・ポップのアプローチが示される。それはやはり、ビートルズのバロック・ポップの息吹を吸収している。アルバムの11曲は、彼らがどのような音楽的なバックグラウンドを持つのかを物語るかのようである。米国のバンドでありながら、本作の最後にブリット・ポップ調のロックソングを収録したことは、ロンドンのレーベルに対する紳士的な儀礼とも言えよう。

 

 

78/100

 

 

「Haunted World」

 Molly Lewis 『On The Lips』 

 

 

 

Label: Dead Oceans

Release: 2024/02/16

 

Review

 

 

オーストラリア出身のウィストラー(口笛)奏者、モリー・ルイスは古典的な西部劇映画、例えば「荒野のガンマン」に代表されるシネマの音楽、例えば、エンニオ・モリコーネサウンドを20世紀のブロードウェイの音楽と繋げ、それを口笛の演奏によって表現する。ルイスは、若い時代をオーストラリアで過ごし、父親からブロードウェイミュージカルのサウンドトラックを聞かせてもらい、それらの音楽に親しむようになった。幼少時代から、ルイスは何時間でも口笛を吹いていたといい、それを父親は慈しみの眼差しで見守ってあげたのだった。モリー・ルイスはこれまで、他ジャンルのアーティストと親交を積極的に交わしている。音楽的な盟友のなかには、Yeah Yeah Yeah'sの釜山出身のニューヨークのフロント・シンガー、カレン・Оもいる。

 

モリー・ルイスは、言葉が過剰になった現代社会の風潮にそれとは別のコミニケーション方法があることを教えてくれる。彼女は口笛を吹くことの定義について、「人間のテルミン」とし、なぜ口笛を吹くのかについて次のように話している。「なぜ、私は口笛を吹くのかといえば、それはコミュニケーションをすることに尽きるでしょう。その他にも、私にとって口笛を吹くということは創造することであり、身振りやジェスチャーをすることとおなじようなものです。悲しみと喜びという2つの原初的な感情を最もよく表現するのにぴったりなのがこの口笛という楽器なのです」

 

二作のEPに続いて、発表されたデビュー・アルバム『On The Lips』 は、ルイスの音楽としてお馴染みのマカロニ・ウェスタン、エンニオ・モリコーネの映画のサウンドトラックを彷彿とさせるインストゥルメンタルに加えて、ジャズ、ラウンジ、トロピカルを交えたムードたっぷりのアルバムとなっている。聴き方によっては昭和歌謡や同年代のムード歌謡のようなノスタルジックな音楽とも言える。これまでムードや内的な感覚をロマンティックな口笛の単旋律に乗せ、音楽制作をしてきたルイスのアプローチに大きな変更はないように思われる。

 

モリーはこのところ、ニューヨークで過ごすことが多かったのだという。そして、バーのラウンジに足を運んで、これらの音楽を吸収していたのだった。また、実生活における様々な経験もこのデビュー・アルバムに何らかの影響を及ぼしているように思える。


過去数年間、ルイスは、映画『バービー』のサウンドトラックでマーク・ロンソンと共演したほか、ドクター・ドレー、カレン・O、ジョン・C・ライリー、マック・デ・マルコ、ファッション・ハウスのシャネル、グッチ、エルメス、フォーク・ロックのジャクソン・ブラウンらと共演し、音楽的スキルを発揮してきた。LAのZebulonで開催されたカフェ・モリーの夕べで、長年の友人であるウェイズ・ブラッドとバート・バカラックの『The Look of Love』で共演した後、モリーはこのシンガーの全米ツアーをサポートし、彼女のサウンドをまったく新しい聴衆に紹介した。「私がやっていることには、驚きとユニークさがあることを時々忘れてしまう」

 

アルバムにはやはり、このアーティストの考えるロマンスや憧れが凝縮されている。シンバルで始まり、ラウンジ・ジャズをベースとした曲調に、アコースティックギターの演奏がかさなり、ややミステリアスな雰囲気を持つモリー・ルイス・ワールドが繰り広げられる。今回、ルイスは、オープニングトラック「On The Lips」で、スポークンワードに取組んでいるのに驚く。そして、それを受け、やはりムード感たっぷりの口笛がはじまる。まるでそれは現実とは異なるファンタジーの扉を開くような幻想性に満ちあふれている。つづく「Lounge Lizard」ではエンニオ・モリコーネのマカロニ・ウェスタンへのオマージュを示し、西部劇のウエスタンな時代へと遡っていく。モリーの口笛の中に含まれる悲しみ、孤独、そして、それとは対象的な悦びやロマンチシズムが複雑に重なり合い、流麗な旋律の流れを作っていく。とりもなおさずそれは感情表現、あるいは口笛による感覚の奔流となり、ひとつの川の流れのように緩やかに流れていく。ベースラインやジャズの影響を含めたアルトサックスの心地よい流れが聞き手を安らかな心境へと導く。

 

二曲目でジャズやラウンジ、フュージョンへのアプローチに傾倒した後、ルイスは、アメリカーナ/フォーク・ロックに近い音楽へと歩みを進める。ノスタルジックな音楽性は健在であり、20世紀初頭のブロードウェイ・ミュージカル、日本の第二次世界大戦後の昭和歌謡やムード歌謡に近い、コアな音楽性が含まれている。 曲の進行にエレクトーンやオルガンのレトロな音色を配し、ダブに近いビートを生み出す。スロウな曲でありながら、アーティストとしては珍しくダンスミュージックに近い音楽性が選ばれる。それはポール・クックの娘、ホリー・クックのソロアルバム(Reviewを読む)のダンサンブルなアプローチに近い。これまでモノフォニーによる旋律を重視してきたルイスだが、この曲ではリズム性に重点を置いている。これは旧来からアーティストの音楽をよく知るリスナーにとって、新鮮なイメージをもたらすと思われる。

 

やはり映画のサウンドトラックを意識したコンポジションは健在で、続く「Slinky」では、モリコーネ・サウンドを基調とする西部劇の世界に舞い戻る。このサウンドへの入れ込みようには一方ならぬものがあり、女性的なコーラスを配するところまでほとんど完璧な模倣を行っている。しかし、この音楽にはイミテーション以上の何かがある。それはボサノヴァに近いゆったりしたリズム、安らぎと穏やかさが曲にワールド・ミュージックに近い意義を与えている。間や休符の多い曲は、情報が過多になりがちな現代のポピュラーミュージックに聞き慣れたリスナーに休息と癒やしを与える。さらに音楽という表現を介し、ナラティヴな試みも行われる。「Moon Tan」では、「海の上に浮かぶ夜の月」を眺めるようなロマンティックなサウンドスケープが描かれる。そこには概念や考えとはかけ離れた感覚的な口笛がのびのびと吹かれ、とてもあざやかな印象をもたらす。これは「バービー」のサウンドへの参加とは違う形で現れたシネマティックな試みでもある。

 

続く「Silhoette」では「007」のようなスパイ映画で聴くことが出来る、緊迫したシーンとは別の箇所で使用されるリラックスしたインストゥルメンタルの楽曲が展開される。ミニマリズムのアプローチが敷かれているが、しかし、ルイスの口笛は、映画的な音響にフルートの演奏のようなニュアンスをもたらし、人工の楽器というよりも、器楽的な音響を彼女自身の口笛によって作り出そうとしている。それは口を膨らませて、その中を空洞のようにして空気を外側に出すというクラシックのオペラのような歌唱法で、これらのウィストルが吹かれている事がわかる。 これらの音楽のやすらいだムードを効果的に高めるのが、女性コーラスとレトロな音色のシンセ。これらの複合的な音楽の要素は全体的に見ると、アフロジャズ、トロピカル、そしてヨットロックの組み合わせのような感覚をもたらす。そして、ポール・クックの音楽のように、海辺のバカンスを脳裏に呼び覚ますピクチャレスクな換気力を持ち合わせている。

 

その後も、ムード感とリラックス感のあるインストゥルメンタル・ミュージックが続く。そしてEPの時代に比べると、ワールド・ミュージックの要素が強まったという印象を覚える。例えば、「Porque Te Vas」では、Trojan在籍時代のボブ・マーリーのレゲエのドラムの立ち上がりから、キューバのBuena Vista Social Clubのようなキューバン・ジャズの哀愁へと繋がっていく。最終的にはジャズやファンク、そしてR&Bという大まかな枠組みに収めこまれるが、やはりリズム性を重視しているのは一貫していて、今回のアルバムの重要な中核をなしている。その後、ワールドミュージックの性質が強まり、「Cocosette」ではアントニオ・カルロス・ジョビンのブラジルのクラシックの影響下にある音を展開させる。ブラジルのサンバとは対極にあるリラックスした海辺の街の音楽を強かに踏襲し、それらをやはりルイスは口笛で表現するのである。

 

その後はフュージョン・ジャズに近い音楽性が「Sonny」に見いだせる。旋律の進行に関しては、ニューヨークのジャズボーカルの元祖、フランク・シナトラの古典性、もしくは、坂本九の「すき焼き」の昭和歌謡に近い印象がある。ただ、もちろん、ルイスは、ボーカルや声ではなく、ウィストルという彼女にしか出来ない演奏法によって表現しようと試みる。そして、この曲でも、ルイスが口笛によって伝えたいことは一貫して、ロマンスや安らぎ、淡い幻想性なのである。これらの音楽は、現実的な表現方法よりもリアリティーがある瞬間があるのはなぜなのだろう。ともあれ、アルバムは、口笛の国際コンクールで上位入賞の経験のあるウィストラー奏者の一定の水準以上の音楽を通じて、アーティストによるロマンスが感覚的に続いていく。


クローズ「The Crying Game」では、カントリー/フォークの古典的な音楽がシンセのアレンジと併せて繰り広げられる。この曲は、一連のストーリーのエンディングのような印象もあり、他の楽器パートに対し、口笛が色彩的なカウンターポイントを形成している。最後では、男女混声によるコーラスがこの曲のロマンティックなムードを最大限に高める。個人的な印象に過ぎないものの、ボーカル、ハミング、スポークンワードを積極的に披露しても面白かったのではないか? しかし、少なくとも、忙しい現代人のこころに空白や余白をもたらしてくれる貴重な作品であることは確かである。

 

 

 

75/100

 

 

Best Track-「Sonny」



Label: Partisan

Release: 2024/02/16


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Review

 


 ロンドンのポスト・パンクバンド、アイドルズが前作のアルバム『Crawler』を発表したのは2021年のこと。

 

彼らのアルバム『Crawler』はグラミー賞にもノミネートされ、マーキュリー賞にもノミネートされた。その後、彼らが過酷なツアースケジュールをこなしたのは、この年に他のブレイクを果たしたバンドと同様である。特に、ライブステージでのアジテーションを交えたジョー・タルボットのマイクパフォーマンスは多くの聴衆を惹きつけるものだった。記憶に新しいのは、2022年の英国の最大級の音楽祭”グラストンベリー”のステージで、ちょうどその数時間前に起こった人工中絶の権利を自動的に保証するものではないとの判決、米国最高裁判所が「Roe v. Wade (ロー対ウェイド裁判)」の判例を覆したことについて言及し、こんなことを言っていた。

 

「彼らは米国の法律を中世に戻したんだ。つまり、中絶が違法行為であるかどうかが決定された。これはすべての母親、すべての女性、それから、母親になるかどうかを選択する権利のためにある法律なんだ」とタルボットはこの最高裁の決定について異議を唱えた後、こう述べた。「オープンマインド、万歳。私の母に万歳。そして、あなたがたひとりひとりにも万歳だ」

 

実は、ジョー・タルボットの母親というテーマはデビュー・アルバム『Brutalism』にも登場し、重要なインスピレーションの源となっている。 3作目のアルバム『Crawler』は、パンデミックの封鎖で落胆している人々を勇気づけるために書かれた。続いて、4作目のアルバム『Tangk』はシンプルに言えば、普遍的な愛について書かれた作品である。驚くほどアグレッシヴな轟音ポスト・パンクが主要なイメージを占めていた『Crawler』に比べると、ダンサンブルなニューウェイブ風のナンバーを交え、アイドルズは、より深みのある音楽を追い求め始めているという気がする。


このアルバムには例えば、米国のジミー・ファロン主演の深夜番組に出演し、「The Wheel」をパフォーマンスした時のように、まるで数万人の観客を前に演奏するような驚くべき迫力やエナジーとは少し異なる音楽性が展開される。それはまた、バンドとしての熟成や円熟味というべきで、マーキュリー賞にノミネートされた時の重戦車のような勢いとは別様の音楽的な核心へと至るプロセスが示されたとも言える。いわば、前作までは外側に放射されていたエナジーが、今作では、地球の近くのコアに向けて放たれるかのように、次世代のパンクサウンドのエナジーが内側へ、さらに内側へと向かっていき、地球の地殻の最深部へと迫っていくのである。

 

一見すると、これは、アイドルズに対して、ポストハードコアパンクのイメージを抱いていたリスナーにとっては、彼らが意気消沈したか、ちょっと後退したように感じられるかもしれない。しかし、実際はそうではない。レディオ・ヘッドのプロデューサーとして知られるナイジェル・ゴッドリッチを招いた『Tangk』は、ディスコやニューウェイブ、マンチェスターの80年代のFactoryを中心とする象徴的なダンスムーブメントの音楽をベースにし、彼らなりの2020年代のポスト・パンクの理想像をリアルに描いている。そしてそれはタルボットが語っている通りで、「踊りによって人々を喜ばせ、人生に必要な愛を伝える」という2021年からの一貫したテーマが奔流している。

 

アルバムのオープニングは予兆のような感じで始まり、彼らとしては珍しくピアノを導入し、現代音楽や映画のオープニングのような効果を導入している。そして、彼らの代表曲「The Wheel」の続編「Gift House」でフックの効いたポストパンクを期待するリスナーの期待に応える。


しかし、ポストハードコアサウンドの印象が強かった「The Wheel」のラウドな感じを残しつつも、ダンス・ロックを基調にしたグルーヴィーなトラックが展開される。これは、イギリスでディスコ・サウンドやダンス・ロック(2000年-2010年代を象徴するアークティック・モンキーズ、キラーズ等が示した)の影響を絡めた次世代のイギリスのロック・ミュージックを展開させる。それは「ポスト・ダンスロック」とも称すべき、最もモダンなスタイルが刻印されている。ナイジェル・ゴッドリッチのプロデューサーの手腕は傑出しており、徹底して重低音を生かしたラウドロック・バンドとしての性質をこの上なく魅力的な形でパッケージしている。

 

特に、バンドとしての著しい進化を象徴付けるトラックとして「POP POP POP」が挙げられる。彼らは新たにロンドンのベースメントのクラブミュージックを吸収し、UKグライム、ガラージ、ブレイクビーツ、UKラップまでを取り入れ、新しいダンスロックの形を提示している。ロンドン近郊のダンスフロアで鳴り響いているようなリアルなクラブ・ミュージックを反映させ、それらを近年にないほど洗練させている。


ここに重要なテーマである「人々を踊らせる」という彼らの意図がわかりやすい形で反映されている。その中にはノッティンガムのスリーフォード・モッズが好むようなアンダーグラウンドなクラブ音楽の性質が含まれている。


そしてシンセの効果を背景に、タルボットは従来になく、ふてぶてしさを見せ、スポークンワードにかぎりなく近い歌唱法を披露する。横ノリのクルーヴは、真夜中の歓楽への称賛と言える。それは分離した社会、あるいは制限された世の中に対する痛烈な批評性ーーパンクの姿勢ーーなのである。 

 

バンドサウンドとしての円熟味、そして、ボーカリストとしての成長は、続く「Roy」にも見いだせる。このトラックにおいて、タルボットはソウルに近い渋さのあるボーカルに取り組んでいる。民族音楽のパーカッションを下地にしたイントロから、意外にもプログレッシヴ・ロックに近いダイナミックな展開力を見せる。モダンなサイケロックを反映させたギター、そしてシンセの兼ね合いはピンク・フロイドの初期のサウンドを思わせる。しかし、単なるフォロワー的なサウンドと堕することがないのは、タルボットのボーカルの歌い方にその理由が求められるのかもしれない。彼は、ノーザン・ソウルの古典的なソウルシンガー、オーティス・レディングになりきったかのように、味わい深い叙情的なボーカルで、実験的なサウンドをリードしていく。多様な音楽ジャンルがフロントマンの声を取り巻くかのように奇妙な形で渦巻いている。

 

プログレッシヴ・ロックやポスト・ロックに近い形はインストゥルメンタルという形で次の曲に昇華される。ピアノとサイケデリックなギター、アンビエントに近い抽象的なサウンドによって、中間部に起伏をもたらし、聞き手を飽きさせない工夫を凝らしている。

 

アンティークな感じのピアノの音色は、現代という時間軸を離れて、中世の時代に迷い込んだかのようなシュールレアスティックな音像空間を作り出す。この曲にもゴッドリッチのプロデューサーとしての卓越した手腕が示され、アルバムの中にストーリー性をもたらそうと試みる。 そしてアイドルズの音楽の表向きの印象を形作る射幸性とは対極にある「聞かせる音」を提供している。もちろん、これは彼らの音楽の美学が目に浮かぶような形で表現されたと言える。

 

ダンスというテーマは他のトラックにも見出せる。アース・ウィンド・アンド・ファイアーの「Boggie Wonderland」のようなソウルフルなエンターテイメント性を重視したイントロのストリングスから始まる「Dancer」は、彼らが次の段階へと歩みを進めた証拠だ。この曲ではダンスロックの代表格、LCD Soundsystemをコラボレーターに選び、ヒップホップのダンスロックバージョンと洒落込む。しかし、その後に展開されるのは、やはりアイドルズの代名詞的な無骨なポスト・パンク。


これらのゴツゴツとした玄武岩のような感覚は、タルボットのスペイン語やポルトガル語を意識したシラブルにより、フレッシュな印象をもたらす。かつてジョン・ライドンがドイツ語の音節を英語の中に取り入れたように、彼は南欧の言語性を英語の発音の中に取り入れている。それはラテン語の源流に迫るかのようであり、旧来になかったサウンドが生み出された証拠である。ここにアイドルズの表向きには見えづらいインテリジェンス性をうかがい知ることが出来る。

 

特に、意外だったのは続く「Grace」。この曲では、The Whoの「Baba O' Riley」のソングライティングを継承し、それらをビート感の強固なポストパンクという形で展開させる。しかし、一見すると、外向きのように思えるサウンドはやはり、奇妙な内省的な感覚に彩られている。そして、The Smith、Stone Roses、Oasis、Blur、Coldplayといった80年代から90年代のブリット・ポップバンドの核心にある音の感覚を鋭い感性によって掴み、マシンビートを背景に、驚くほどセンチメンタルなボーカルを披露する。基礎となる大まかなコード進行は「Baba O' Riley」と同じであるが、ボーカルのスタイルを見ると分かる通り、タルボットは神妙な感覚を表現しようとしている。これは無数のライブ・ツアーをこなしてきた中で、彼とバンドが自分たちの奥底にある最も重要なスピリットを誰にも明け渡さなかったことをはっきりと証明づけている。


そしてもちろんアルバムの終盤を聴くと、ハードコア・パンクとしてのバンドの性質が薄められたわけではないことがわかる。ダリル・ホール&ジョン・オーツにちなんだ「Hall & Oates」は、意外にもゴツゴツした岩石のような無骨なポストハードコアで、爆発的なエナジーが枯渇したわけではないことを示す。実際、このアルバムでは「Gift House」とならんで、パンチとスパイスの効いた音楽をお好みのリスナーに、この上ないエンターテイメント性を提供する。パンクバンドとしての性質は「Jungle」にも表れている。この曲では、むしろパンクの源流にあるプロトパンクのサウンドをアイドルズは追い求めている。やはり硬質なカミソリのようなギターとガレージ・ロックのごときプリミティヴな質感が合わさったような痛快なパンクサウンド。

 

 複数のハイライトやライブレパートリーを用意した上で、アルバムの終盤では実験的なサウンドが展開される。「Gratitude」では、Sonic Youthの『Goo』のような骨太のベースラインを受け継ぎ、疾走感のあるポストパンクを提示している。ここにも野暮でプリミティブなものに対するアイドルズのメンバーの愛があり、それは新旧の音楽ファンの表情を綻ばせるものと思われる。


これまで、アイドルズの5人は、ギターロックの代表格とも言えるMy Bloody Valentine(マイブラ)、Yo La Tengo(ヨ・ラ・テンゴ)とは一風異なるギターロックの轟音性の可能性を追求し、未来の可能性に賭けてきた。最後のクローズ曲「Monolith」では、プログレッシヴ/ポストロックバンドの未来系を示している。今作のクライマックスで明示されるもの、それはやはり、現代のロックバンドと同じく、電子音楽を反映させた現代的なロックミュージックなのである。

 

 

 

86/100 
 



 

Best Track 「Grace」

  

 

 

 

 

 IDLES 『Tangk』:





 『TANGK』は、クレイジーな真実を追求するバンド、IDLESの正しく活気に満ちた5枚目のアルバムである。バンドが想像していたギターの激しい音の響きを擬音で表現したもので、以来、愛に生きることを意味するシンボルに成長した。


かつてIDLESは、強靭な姿勢で永遠の権利者に立ち向かい、個人的なトラウマをリアルタイムで行使することを目標としていたが、新しい活動は、そのような忍耐の果実を提供するために到着した。


ナイジェル・ゴドリッチ、ケニー・ビーツ、そしてIDLESのギタリスト、マーク・ボーウェンが共同プロデュースした『TANGK』からは、反抗的なエンパワーメントのラディカルな感覚が放たれている。フロントマンのジョー・タルボットは、煽情的なポスト・パンクの火付け役という評判とは裏腹に、この10曲の中のほとんどすべての感情を鍛え抜かれたソウルで歌っている。


『TANGK』はラブ・アルバムであり、侵食してくる虚無感を退けるために大声で叫ぶ何かを必要とする人なら、今もこれからも、誰にでも開かれたアルバム。『TANGK』は2024年2月16日にパルチザン・レコードからリリースされた。