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 Cate Le Bon  『Michelangelo Dying』


Label: Mexican Summer

Release: 2025年9月26日

 

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Review

 

現在、UKを拠点に活動するケイト・ル・ボン。ソロシンガーとしてだけではなく、プロデューサーとしても活躍してきた人物である。 三年ぶりの新作アルバム『Michelandelo Dying』は、MOJOが評したように、ソフィスティポップの系譜にあるアルバムである。ギターのフェーザーなどのエフェクトをかけた音像がボーカルの背後に心地よく鳴り響く。ドラムの演奏もあるが、ボーカルと同様にフィルターがかけられ、全体的なミックスの中に絶妙に溶け込んでいる。

 

アルバムを聴くというよりも、体感的に何かを感じるといった内容だ。全体的な曲の構成もややぼかされている。ひたすら心地よい音を重ねていき、それを組み合わせたような作品で、やはり、''ミュージック・コンクレートによるポップソング''ともいえるかもしれない。しかし、それは決して難解ではない。ただ、心地よい音や旋律、時にはハーモニーの流れが積み重なり、そして波の上をゆらゆらと漂うかのような心地よいサウンドが敷き詰められている。確かにソフィスティポップだと思うが、やはり、このソングライターの作曲は、アートポップやアヴァン・ポップに根ざしている気がする。これはずばり、''大人のポップアルバム''とも言えるだろう。

 

「Jerome」はギターとドラムがミュージック・コンクレートのように敷き詰められ、ルボンの真骨頂であるあえて旋律をぼかした抽象的な歌声がゆらめく。独立した楽曲というよりも、ルボンの持つ芸術的なセンスを垣間見るかのようだ。陶芸などで培われた彼女の造形のセンスは、間違いなく、音楽の構成的な側面に影響を及ぼしている。そして、時の流れを懐かしむかのような、あるいはそのことを儚むかのような感覚的なボーカルがバレエのように華麗に舞う。


これは結局、ボーカルアートの形式を一歩先に推進させた曲で、それらが最終的にアンビエントのようなギター、AOR/ソフト・ロックのような音楽性と組み合わされて新しいポップソングが生み出されるのである。ハミングのように、鼻を通して歌われる旋律は、時折、華麗なラインを描くことがある。この曲には、たしかに、音楽的な優雅さが歌手の悲哀と組み合わされ、独特な音楽のイディオムを出現させている。そして、反復的な構成を恐れず、それを強調させることもある。特にアウトロにかけてのアトモスフェリックなギターは幻惑的な印象を呼び覚ます。

 

80年代中心のポピュラーソング、例えば、The Policeの中期以降のサウンドをかたどった曲が続く。


「Love Rehearsed」 も一曲目の作風を引き継ぎ、アトモスフェリックなポップソングである。その中で、今度はボーカルのスタイルが変わり、NICOのようなスポークンワードの形式へと変わる。ルボンの歌は何かを語りかけるというよりも、何かを問いかけるかのように胸に響き、聞き手側の感覚と共鳴するような瞬間を誘う。


一曲目と同じようなインストゥルメンタルの構成の中で、フレーズごとに歌い方を変えながら、孤独や悲哀、そして対象的な優雅な感覚の間をボーカルが揺れ動いていく。やはり感覚的な音楽で、言葉こそあれ、言葉では表現してきれない淡いエモーションを歌やソングライティングで表現している。 抽象的なサウンドの向こうからほのかな温かい叙情性が伝わってくることもある。

 

3曲目と4曲目は対象的な楽曲が並んでいる。「Mothers of Rich」では、ダンスミュージックやディスコをゆったりとしたテンポ感覚を持つポップソングへと落とし込んでいる。こういった作曲の方法を選ぶと、楽曲そのものが懐古的になりがちだが、この曲は古さを感じさせない。過去の音楽に今の音楽を落とし込んだというよりも、今の音楽の形に過去の音楽を昇華させている。


そのため、ライヒのようなミニマリズムや、ディスコポップからの影響があろうとも、水と油のようにはならず、ルボンのヨーロッパ的な感覚を持つ音楽やコスモポリタンの性質の中に上手く溶け込む。この曲はシンセの使い方が巧みで、リズム的な側面と対旋律的な側面との双方の音楽的な効果を発揮している。音楽そのものにインテリジェンスを感じさせるのも美点であろう。

 

「Is It Worth It?」は、バラードの形式を選び、悲哀や物悲しい感覚をギターロックと融合させている。聴き方によれば、日本の歌謡曲のような雰囲気を持っているが、ルボンはこの曲に現代的なアルトロックのアレンジメントを加えることにより、個性的な作風に仕上げている。さらに瞑想的な音楽性が中盤に登場し、音楽に沈潜したり浸り切る完備的な感覚が示されている。


前曲のダンスポップ風の音楽的なアプローチとは対称的で、ドリーム・ポップにも近い。全般的なメロディーには、やはり80年代ごろのディスコポップやシティ・ポップの影響が強いように感じられた。プロデュースとしては楽曲後半のパーカッションにルボンの敏腕の手腕が宿っている。シンバルやハイハットにフィルターなどを加えることで、独特な音響性を作り上げる。アルバムの序盤は、単純にポップソングとしても楽しめるのはもちろん、実験的なポップとしての性質としての魅力も有している。このアンビバレントなサウンドはルボンの真骨頂である。

 

前曲の実験的な音楽の性質を引き継いだ「Pieces of Mind」は、かなり聴き応えがある。反復的な構成、そして、シンセサイザーの効果を最大限に引き出し、その全体的な音楽的なキャンバスの中でルボンは、海に揺られるような心地良いサウンドを生み出している。この曲もまた、感覚の発露としての音楽の効果が強調されている。その中で、民族音楽の要素や印象音楽としての性質を同時に発現させ、質の高いアートポップソングを作り上げていく。この曲では、ボーカルはより繊細的な側面を恐れず、センチメンタルな音楽の魅力を巧みに引き出している。

 

 序盤とは対象的に、わずかな快活さを感じさせる「About Time」にも注目だ。シンセポップが下地になっているが、この曲の構成や旋律は他のトラックよりもはっきりとしている。ルボンの音楽制作は、構成的な側面から始まるという気がするが、珍しくこの曲についてはソングライターとしての性質が強い。歌声や鼻声のようなシンプルな出発点から始まったことを予想させる。


しかし、依然としてトラックの作り込みの凄さは傑出している。例えば、中盤におけるシンセサイザー、ギターの多重録音が美麗なハーモニーを形成している。何より、このアルバム全体の甘美的でうっとりとした感覚が最も巧みに引き出されているのが魅力だ。やはり、こういった感覚的な世界は現代の音楽シーンでは女性作曲家に軍配が上がる。

 

以降はマンネリ化した部分もある。ミニマルミュージックを元にポップソングを作り上げているが、どうも既視感が拭いきれない。しかしながら、ニューヨークの伝説的な存在、ジョン・ケイルが参加した「Ride」は、かなりアヴァンギャルドなポップソングで、聴き応えがある。特に、シンセサイザーが前衛的な構成やハーモニーを作り上げ、独創的な音楽が生み出されている。


最後の収録曲「I Know What's Nice」も同様に個性的な一曲。他の曲とは異なる歌唱法を選んでいる。歌い方ひとつで、こんなに音楽の印象が変わるのか、と驚嘆することがあった。ここに日記のように音楽を制作してくというようなコンセプトが見出すことが出来る。そして、それは、独創的なシンセポップやアートポップの未知の領域を垣間見させる。聴くごとに印象が変わってきそうという側面では、カラフルで多彩な印象を持ったアルバム。侮れない快作である。

 

 

82/100 

 


 
 
 
Tracklist:

1. Jerome
2. Love Unrehearsed
3. Mothers of Riches
4. Is It Worth It (Happy Birthday)?
5. Pieces of My Heart
6. About Time
7. Heaven Is No Feeling
8. Body as a River
9. Ride [feat. John Cale]
10.I Know What's Nice

 

「Piece of My Heart」

Wednesday 『Bleeds』




Label: Dead Oceans 

Release: 2025年9月19日

 

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Review

 

アッシュビルのWednesdayは前作『Rats Saw God』の後継作『Bleeds』において少なからず飛躍を遂げている。内面の恐怖が自画像としての暗喩を形作り、そしてサザン・ロックに根ざしたオルタナティヴロックの新しい水準を作り出した。内面的な恐れは、この最新作の中核となるラウドロックの形を取って表面に現れる。バンドの創設者の一人、ハーツマンのボーカルは、内省的な側面を持ち、それらが内面と外側とで常にせめぎあいを続けている。これは精神分析学の話とは無関係だが、それらがこのバンドのMJ レンダーマンを中心とするアンサンブルによって重層的なサウンドを作り上げる。ニューヨークともロサンゼルスとも異なる、独特な暗い憂いと激しい感情の間を揺れ動く、センチメンタルでエモなアルバムが登場している。

 

アルバムの冒頭では、内面の恐怖を象徴付けるかのような、ディストーションギターが配置されている。それが減退した後、クロマティックスケールを多用したロックサウンドが続く。チューブアンプを通したようなギターのノイズが重層的に重なると、ノイズであるはずのものがハーモニーに変わる。そしてWednesdayのロックサウンドで重要なのは、ブルース・ハープのような音色をギターで表現していることである。サザン・ロックの重要なソウルやブルースの要素が泥臭い感覚を生み出し、それらが青春のエバーグリーンな感覚と重なり合う。

 

深夜すぎのちょっとしたパーティをイメージ付けるような退廃的であるが心地良いサウンドが、このアルバムの序盤のコアの部分となっている。ミュートギター(バッキングギター)と、轟音のシューゲイズを彷彿とさせるラウドロックのフレーズを交互に配置させ、90年代のグランジやミクスチャーロックを受け継いだ2020年代のアルトロックの新しい定形を作り出していく。狂騒的なギター、ブリジャーズを彷彿とさせるボーカル、彼らが持てるすべてを注ぎ込んだ一曲と言える。実際的にこのオープナーは何か白熱したエネルギーを持ち、そしてモラトリアムのような感覚を宿している。青春時代の感覚を見事なロックサウンドに反映させている。

 

Wednedayは、ラウドなロックからアルトなロック、そしてカントリーやフォークに根ざしたバラード、またそれらの中間に位置するものまで器用に書き、それらを実際にバンドによって体現させる力を持っている。 郷愁的な気持ちを示した「Townies」は新しい時代のカントリーとも言えるだろうし、「Wound Up Here」でさえ、それらのクロスオーバーとしての効力を持つ。上記の二曲は、ワクサハッチーのようなカントリーとロックの融合というこのバンドのテーマを縁取っている。しかし、このバンドらしいというべきか、ウェンズデーの曲を個性的にしているのは、曲から立ち上ってくる幻想的な感覚である。これらがダイナーやモーテルのようなアメリカンな光景と混ざり合い、センチメンタルでナイーブな感覚を呼びおこすのである。特に「Wound Up Here」では明らかにブルースハープを縁取ったようなギターの音色が輝かしい魅力を放っている。それらは無類のロックファンの5人組の姿を脳裏に浮かび上がらせる。

 

特にアルバムの中盤にかけて、サザンロックへの傾倒は強くなる。ウェンズデーのこのアルバムにおける最大の強みとはブルース・ロックがいまだに2020年代のロックの文脈においてそれ相応の魅力があることを示したということである。アコースティックギターの弾き語りのバラードソング「Elderberry Song」ではアメリカ文学的な感性を通して、サッカー・マミーの書くようなセンチメンタルでエモな楽曲を書き上げている。また、The Byrd、Lynrd Skynrd、Bad Company周辺のブルース・ロックを彷彿とさせる「Phish Pepsi」は、このアルバムの中でも最も風変わりな一曲だ。この曲はそれほど轟音に傾くことなく、 カントリーとロックの中間にある渋いトラックとして楽しめる。よりモダンなアルトロックソングとして聞こえる「Candy Breath」ですら、カントリーやブルースロックの影響下にあるサウンドが敷かれていることを理解していただけるはずだ。

 

 

アルバムは最もセンチメンタルなトラック「The Way Love Goes」で一つのハイライトを迎える。 昼下がりのほっとするような瞬間をフォークソングに仕上げたこの曲は、このバンドが良質なメロディーを持ち、それらをニール・ヤングやミッチェルのようなレジェンドのサウンドと結びつけることが出来る器用な一面を兼ね備えていることを表している。 しかもこの曲でも明らかにブルースの影響が強く、それらが現代的な感性を持つバラードとして仕上がっている。少なくとも、このバンドのサウンドの大部分が古典的なロックやそのルーツからの影響があって成立していることがわかるはずである。それが彼らの描こうとする偉大なアメリカの象徴ともなっている。納屋や牧歌的な風景、アッシュビルはそれほど田舎とは言えまいが、これらのカントリーの叙情性をスティールギターなどを中心につくりあげていこうとするのである。

 

「Pick Up That Knife」では、轟音性という表層の部分が剥がれ落ちて、ウェンズデーというバンドの本質的な部分を垣間見ることが出来る。特にこの曲ではカントリーというよりもフィドルのような楽器の音色を用いていることからもわかるとおり、フォーク・ソングの性質が強い。これらの米国の民謡とロックやポップの形をオルタナティヴという共通認識によって、何か面白いものを作ろうというのが彼らの目論見でもある。また、それはこの曲を聴けば、結構上手くいっているという気がする。 

 

また、それは「Bitter Everyday」でも功を奏している。前作の音楽性と陸続きにあるアルトロックソングで非常に聴きやすく親しみやすい。この曲は近年、飽和状態にあるオルタナティヴロックに一定の規律を与えるような曲である。また、ペイブメントやGalaxie500の系譜にあるカレッジロックの真骨頂でもある。これは彼らが学生バンドのような立ち位置から出発したことを伺わせ、また同時に、原点回帰のような意味合いを持ちあせているとも解釈出来るわけだ。

 

ウェンズデーは明るい側面だけではなくて、暗い側面にも焦点を当てている。それはラウドで激しい印象を持つロックソングと対象的な印象を持つ。「Carolina Murder Suicide」は、幻想的なロックソングのスタイルと、シンパシーやペーソスが結びついた曲である。アルバムの最後の曲「Gary’s Ⅱ」は静かで落ち着いたフォークバラードで、癒やされるような感覚がある。 

 

 

 

82/100 

 

 

 

 

 

「Elderberry Song」 

 Kara-Lis Coverdale 『A Series of Actions in a Sphere of Forever』 


 

Label: Smalltown Supersound

Release:2025年9月12日

 

Review

 

カナダ/ケベックを拠点に活動する音楽家、カラ・リス・カバーデールは、2012年頃からソロ・ピアノ作品をリリースしてきた。専門的な音楽教育を学習した演奏者で、後にMITプログラムでも学んでいる。若い時代から、カナダの教会のオルガニストや音楽監督を務めてきた。著名な音楽からの賛辞も絶えない。ブライアン・イーノやアルヴォ・ペルトから称賛されているという。

 

近年、ミニマルミュージックに関しては飽和状態に陥っている様子があるが、その上にどのような音楽性を付け加えるかで、結果が変わってくるかもしれない。

 

最新作『A Series of Actions in a Sphere of Forever』は、アルバムのアートワークと呼応するかのように、深い霧とミステリアスな雰囲気に彩られている。

 

基本的にはミニマリズムがベースとなっている作品だと思うが、一曲の中で同じリズムを用いながらも、作曲家/ピアニストは、多彩な和声感覚や主旋律の変奏力を見せている。無調の和声が入る場合があるが、無調のセリエリズムというより、フォーレ、メシアンの高度な半音階法であったり、現代音楽に根ざしたカウンターポイントを取り入れた作曲。やはり侮れないものがある。

 

すでに一曲目において、作曲家としての敏腕の才覚がほとばしっている。「Kone Vatu」では対位法の形式を受け継いでいるが、その後、この曲はきわめて独創的な展開を見せる。低音部と高音部を明確に対比させ、フォーレ、メシアン以降の無調の和声感覚を取り入れ、主旋律はそれとは対象的にジャズ的な即興演奏の自由な音の連なりが感じられる。


エストニアのアルヴォ・ペルトによる名曲「Fur Alina」のような現代音楽のミニマリズムに依拠したコラールの形式の音階の構成は、賛美歌の教会音楽の作曲形式に根ざしている。その中でペルトを彷彿とさせる、クリスタルのように澄明なハーモニーが形成される。


特にこの曲では、低音部の音響性が強調され、叙情的で迫力のある響きを聴くことが出来る。あるいはドビュッシー以降の色彩的な和音の要素が拡張され、それらがオリヴィエ・メシアンの響きに縁取られていると言える。作曲や和声感覚こそ、古典主義に根ざしているが、その雰囲気は、武満徹のピアノ作品にも近似する。若い頃の武満はメシアンを専門的に研究していた。

 

カバーデールの作曲の主要な特徴は、フレドリック・ショパンの『ノクターン』のように、低音部の音域の通奏低音を強調し、それらを徹底的に持続させ、背景のアンビエンスとして見立てるということである。これは、ドビュッシーが、『映像』に収録されている「ラモーを讃えて」で好んで用いていた作曲技法である。それらが現代的な電子音楽のセンスと融合し、音響的に研ぎ澄まされたピアノ音楽として昇華されている。ドローン的な通奏低音と主旋律の美しい対比は「In Change Of Hour」に見出すことが出来る。


しかし、カバーデールの作曲法については、クラシック音楽ほどかしこまりすぎない印象をおぼえる。ニルス・フラーム、マックス・リヒターのような、洗練されて聴きやすいピアノ音楽として昇華されていることもまた事実であろう。それは何が要因かといえば、主旋律の音の配置にあり、それほど流れるようなパッセージは登場せず、一貫してコラール形式の均一なリズムの和声構造が維持されているのである。

 

現代音楽のメチエが明確に取り入れられた「Vortex」は、20世紀以降追求されたセリエリズムの形式が見出される。メシアンやリゲティを始めとする無調音楽の領域が探求されている。しかし、ピアノの響きは一貫して洗練されている。この曲を聴きやすくしている理由は、ジャズ的な遊び心のあるパッセージがあるからではないか。また、同時に、サウンドエフェクトの面でもこだわりが感じられ、沈黙に根ざしたサイレンスの要素が楽節の間に登場することもある。 


この曲でもまた、通奏低音の残響が徹底的に強調され、主旋律の音楽の雰囲気が変化してもなお、それらが維持され、空間的な雰囲気を作り出す契機となっている。


また、アイスランドや北欧のモダンクラシカルに適応したようなポピュラーなピアノ曲が続く。オーラヴル・アルナルズの音楽性を彷彿とさせる「Circulrism」では、叙情的で親しみやすいピアノ曲を聴くことが出来る。ピアノの弦の音をマイクで拾い、それにディレイやリバーブなどを施したマスタリングの手法は、もはやこのジャンルの基本的な形とも言えるかもしれない。

 

ジョン・ケイジと一柳慧が試みたプリペイドピアノの前衛形式が登場することもある。これは20世紀のニューヨークの現代音楽で、また、ジャズ的な手法とも言える。厳密に言えば、ピアノの弦をミュートさせる方法で、音にフィルターをかけたような音響効果が主に得られる。また、デチューンを施したサウンドとも言える。


「Lowlands」では、この現代音楽の技法が導入されている。現代的な音楽とは異なる音律を強調させ、Goldmungが坂本龍一と行った共同制作アルバムのような従来とは一風変わったピアノの音響を際立たせている。


しかし、このあと、それらの現代音楽は、ブレイクビーツのような手法を用いて、ティム・ヘッカーのような電子音楽の前衛主義と結び付けられる。間違いなく、アルバムでは革新的な気風が反映されている。これはピアノ音楽の革命と言っても過言ではない。


ピアノの音色は、低音部から中音部に移り変わり、オルゴールのような音色に変わる。それらがミニマルミュージックの反復構造やトーンクラスターを形成する。しかし、倍音の効果が強調されていて、ダウンテンポのような響きに縁取られている。電子音楽とミニマル音楽、そしてダンス・ミュージックの要素が合致した前衛音楽である。

 

「Comulative Resolution」はジャズのインプロやクラシックのアンプロンプチュの印象が強い。印象主義や叙情的なピアノ曲の系譜にある。ここでは、和声的な縦の音の構成ではなく、横向きのポリフォニックな音の連続が強調されている。ピアノ音楽の自由な側面が反映されている。徹底的に音を削ぎ落とし、澄明な音響性を得るという点では、エストニアのアルヴォ・ペルトの作風にも近い。これを映画的というのは誇張となるが、描写主義の音楽性も含まれているような印象を覚える。また、それは内的な感覚を表現した新しいロマン主義の音楽とも言える。


こういった中で、アンビエントやドローンのようなアブストラクトな音響とミニマル音楽を結びつけた「Tuning Multitudes」がピアノ曲として傑出している印象を覚える。この曲では、叙情的な感性とコンポジションのメチエにおいて絶妙な均衡が保たれており、現代的なピアノ音楽を象徴付けるような曲が誕生している。また、ミニマル音楽の中にも、独創的なパッセージが登場することがあり、それらは分散和音や音階の華麗な駆け上がりの中に発見することが出来る。特に曲の終盤では、8Va(オクターヴァ)の音階が頻繁に登場し、即興的な演奏の性質が強くなる。ここでもまたジャズのインプロヴァイゼーションの演奏法を取り入れている可能性がある。

 

「Soft Fold 3/4」は、エリック・サティの''家具の音楽''をコンパクトにし、コラールの和声構造に組み替えている。また、この曲は、Hans Otteの「Das Bach Der Klange」のようなクラシックとミニマルミュージックの中間にある曲として楽しめるに違いない。全9曲が収録された『A Series of Actions in a Sphere of Forever』は、ピアノ音楽の卓越的な側面は控えめで、古典から現代にかけての系譜を受け継ぎ、普遍的な音楽性が抽出されている。それはまた、サティが実験していたBGMのような音楽とも言えるかもしれない。アルバムの曲は、音楽的な印象が強められたり、それとは対象的に、弱められたりというように、起伏に富んだグラデーションが配置されている。

 

クローズ曲は一曲目と並んで強固な印象を持つ。「Suspension of Swallowed Earth」は、音楽そのものがときに言語的なメッセージを持ちうるということを示唆している。 再び低音域と中音域を強調させた叙情的なピアノ曲へと回帰し、演奏家は前衛的な和声や旋律を探求する。演奏力が傑出しており、流れるような旋律のパッセージは一聴の価値あり。最後は、マックス・リヒター、ロジャー・イーノ(ブライアン氏の弟)のようなモダンクラシカルの曲。瞑想的な趣がある。

 

 

 

88/100 

 

 

 「Lowlands」 

 

 Shame 『Cutthroat』


 

Label: Dead Oceans

Release: 2025年9月5日

 

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Review

 

Shameのニューアルバムは、メタリックな雰囲気を持つ硬派のポストパンクのスタイルを選んでいる。とはいえ、2025年の世界のミュージックシーンの中でも、彼らは最もロックなバンドの一つにあげられる。もっといえば、ボーカリストのチャーリー・スティーンの歌詞には、国際的な政治問題に関する思想が込められているが、十代の若者のような純粋な眼差しがそそがれている。若い頃の''なぜ''という疑問は、いつしか世の中の体制的な概念に絡め取られてしまう。年齢を重ねるにつれて、それが当たり前のことになり、ある意味では感覚が鈍化してしまう。どうにもならないのだから仕方がない。だが、Shameの面々にはそのような言葉は当てはまらない。

 

Shameの音楽が期待感を抱かせる理由は、彼らは基本的には主流派に対して、カウンターの役割を担っているからである。アルバムの冒頭を飾る「Cutthroat」をきいてみてほしい。彼らは他のいかなるものにも魂を売り渡さない。


前作アルバムと同様に、ブリット・ポップやポストブリット・ポップのサウンドを織り交ぜながら、2025年のロックソングとはかくあるべきという理想形を突きつける。チャーリー・スティーンのユーモア満載のボーカルも最高の域に達しているが、コイル・スミスが中心となる電子音楽のトリッピーなサウンドも目の覚めるような輝きを放つ。重厚なギターやベースが織りなす骨太のサウンドは聴いていて惚れ惚れするほど。現代ロックの最高のエンジニア、コングルトンの手腕が表れ出た瞬間だ。ダンサンブルなロックは、全盛期のBlurのような響きを持ち、ボーカルの扇動的なアジテーションと混在している。これはおそらく、かれらがライブを意識したレコーディングを心がけているから、こういったドライブ感のあるサウンドが出てくるのだろう。



「Cutthroat」-Best Track



全力で疾走するかのような勢いは、続く「Cowards Around」でも維持されている。スネアのロールのような連打から始まり、緩急のあるヴォーカルがこの曲を先導していく。この曲では、スティーヴ・アルビニやBig Blackのメタリックなサウンドワークがギラリと光る。

 

 

こういった軸となるサウンドは後半にもぽつりと出てくるが、今回のアルバムでは、Shameとしてはいくつか新しい試みが取り入れられている。イギリスのバンドが本気でアメリカーナのロックをやるとどうなるか。その答えが「Quiet Life」で示されている。カントリーとロックの融合で、ジョニー・キャッシュの曲をポストパンクに組み替えたかのようである。しかし、この曲もShameの手にかかると、奇妙なオルタネイトな曲展開となり、オフキルターなリズムが形成される。カントリーとポストパンクの融合といった感じで、このバンドらしいユーモアが満載。


「Nothing Better」は、オーバードライブのかかったベースを中心とするポストパンクソングだ。ヴォーカルのスポークンワードは、このジャンルの定形ともいえるが、コーラスの箇所に至ると、お馴染みのShameの節回しが出てくる。P.I.Lのサウンドを通過したような不協和音を生かした歪んだギターがリズミカルに演奏され、強烈な印象を及ぼす。これぞポスト・パンクの真骨頂だ。また、このバンドは、ポストパンクの以外にもロックバラードの名手である。続く「Plaster」を聴けば、そのことがよくわかるのではないかと思う。オアシスやヴァーヴの系譜にあるポピュラーなロックバラードだが、電子音楽の要素が加わり、従来のShameの曲よりも未来志向になっている。また、この曲のスポークンワードは、コテコテのお好み焼きのような味わいだが、それもまたこのバンドらしさ。曲の後半ではオアシスのフォロワー的なサウンドに至る。

 

「Spartak」は、スミスやオアシスの初期のサウンドを受け継ぎ、哀愁に満ちたオルタナティヴロックに昇華している。また、サウンドの中には、Happy Mondays、Inspiral Carpetsのような''マッドチェスター''からの影響も伺え、80年代後半のUKロックのサウンドを継承している。この曲から立ちのぼる哀愁のあるロックサウンドはイギリスのバンドならではといえるか。


「To and Fro」では、英国のポストパンクが新しいサウンドに移行した瞬間を捉えられる。この曲は、サビ(コーラス)の部分が最高で、バンドのポップセンスが遺憾なく発揮されている。シンガロングを誘い、ライブでかなり盛り上がりそうな一曲である。曲の終わりでは一音ずつ上昇していき、アウトロにかけての期待感を盛り上げている。アルバムの中では異色の曲といえる「Lampiao」では、伝説的な盗賊団のリーダーをポルトガル語で揶揄している。

 

 「After Party」では従来にはなかった試みで、驚くことに、Shameはテクノポップに挑戦している。シンセのメロディがきらびやかに響き、メロディアスで叙情的なボーカルと合致している。激しいポストパンクサウンドの後のチルアウトともいうべきゆったりした瞬間を楽しめる。Shameの落ち着きのないサウンドは以降も健在だ。以後、ドライブ感に満ちたポストパンクソング「Screwdriver」に戻り、眠りかけたリスナーを畳み掛けるようなサウンドで起き上がらせる。


最も前衛的なトラック「Packshot」では、Jesus Lizardや初期のグランジのような不協和音を押し出したパンクサウンドで、このアルバムをまとめにかかる。スロウバーナーの曲であるが、奇妙な重さがあり、不穏な響きに圧倒されてしまう。世界の紛争を描いた曲であるかのごときリアリズムが奔出し、戦時下のサイレンのような不穏なノイズが、ギター、シンセ、ベース、ドラムで描かれる。ボーカルのチャーリー・スティーンはシェイクスピアの戯曲を制作時に読んでいたというが、この曲は間違いなく印象主義のポストパンクであり、どことなく映像的である。

 

『Cutthorat』はハチャメチャに陽気なダンスナンバーで締めくくられる。「Axis of Evil」はどことなくSparksのサウンドを彷彿とさせる。Underworld、New Orderを想起させる大胆不敵なダンスロックは、Shameのバンドとしてのポテンシャルの高さを印象付けている。アルバム全体としても相当聴きごたえがある。何度も聴くたびに面白い発見があるかもしれない。Shameは必ずしも単一のジャンルにこだわらず、広大なイマジネーションを働かせ、良質なアルバムを制作している。アルバム全体を聴きとおすのに、かなりの精神力とカロリーを消費するはずだ。奇異な作品である。

 

 

 

85/100

 

 

 

 Best Track-「Cowards Around」

 Big Thief  『Double Infinity


Label: 4AD

Release: 2025年9月5日

 

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Review

 

 昨年、ニューヨーク市のパワー・ステーションで録音された『Double Infinity』は、ビックシーフの代表的なアルバム『Dragon New Warm Mountain〜』の続編となっている。 彼らは、ブルックリンとマンハッタンを自転車で移動しながら、毎日のように9時間に及ぶ録音を行った。ドム・モンクスがプロデューサーを務め、アンビエント/ニューエイジの音楽家Laraajiが参加している。録音は同時にトラックを録音しながら、即興でアレンジを組み立て、最小限のオーバーダビングが施されている。基本的なアルトフォークの方向性に大きな変更はないが、先行シングルのコメントを見るとわかる通り、ニューエイジ思想のようなものが込められている。従来のエレクトロニックの要素は維持されている一方で、普遍的なフォーク・ミュージックやボーカルメロディーの良さが強調されている。 ビッグ・シーフの中では最も渋いアルバムと言える。

 

アルバムのオープナーを飾る「Incomprehensible」は宇宙的なサウンドスケープが敷き詰められ、壮大な序章のような印象をもたらす。Pear Jamの最新アルバム『Dark Matter』のような映画的なイントロ。しかし、その後に始まるのはサイケのテイストを漂わせるビックシーフらしいアルトフォーク。流れるようなバンドサウンドにシンセの効果的なシークエンスが加わり、飄々としたディランタイプの音程をぼかしたようなボーカル。音楽的な手法は従来と変わらずだが、そこにはウィルコのような2000年代以降のインディーフォークサウンドが付け加えられている。


”生きている美しさとは、真実以外の何物でもないのだろうか” この曲のなかでエイドリアンヌは、子供の頃の思い出の品々を未来に突きつけながら問いかける。従来とは打って変わって、哲学的な歌詞が歌われている。ある意味では、この曲の中にある陶酔的な感覚が、これらの玄妙なフォークサウンドと融合し、ビックシーフとしての新たな視点が加わっている。

 

Words」は爽やかで牧歌的なイメージを呼び覚ますアコースティックギターから始まり、ボーカルの逆再生等の遊び心のあるアレンジを加えたアルトフォークである。 ギターやドラムのアレンジはかなり複雑で込み入っているが、ⅠーVーⅣの和声進行がこの曲にわかりやすさをもたらしている。ボーカルは王道のポピュラー/フォークなので、あまり言われないことだが、この曲には繊細な感覚、それはより脆い感覚が漂い、それらがエモに近い雰囲気を添えている。この曲では、従来よりも繊細な自己が歌われているような気がした。ドラムの演奏/ミックスが素晴らしく、背景となるギターと重なり合い良質なハーモニーを形成している。曲の途中にはエレキギター風のシンセも登場したりというように、これまであまり試されてこなかった前衛的な音楽性が取り入れられているのにも注目だ。「Los Angels」はスタンダードなフォーク・ソングに依拠しているが、ゴスペル風のコーラスを取り入れたりと、様々な工夫が凝らされている。

 

All Night All Day」ではエイドリアンヌ節が炸裂し、こぶしの効いたビブラートを聴くことが出来る。旧来のBTのファンは違和感なく楽しめるはずだ。特にこの曲を聴くとわかるように、リズムトラックに力が入れられている。これはベーシストのマックスが脱退した影響なのかもしれない。この曲のサビ(コーラス)の部分では、ビックシーフらしい大陸的なロマンを込めた音楽性が登場する。そしてやはり、こういったわかりやすい部分にこのバンドにシンパシーを持ち、思わず口ずさんでしまう。ゆったりしたドラム、ボーカルの多重録音、メロディーを縁取るベースラインなど、コンパクトな構成であるが、アルバムの中では傑出した曲と言えるだろうか。特にメインボーカルとサブボーカル(ソプラノの音域)の組み合わせは息を飲むような美しさがある。これほど練度の高いフォーク/カントリーの歌唱が出来る歌手は他にいない。

 

タイトル曲「Double Infinity」はブルージーな味わいを持つフォークロックである。ニューヨーカーの古き良き南部的なロマンチズムを表した曲とも解釈出来る。The Byrdのような渋い一曲であるが、この曲に聴きやすさやとっつきやすさをもたらしているのが、やはりエイドリアンヌの高い音域にあるボーカルである。そしてこの曲では、アンセミックなコーラスを強調し、ポピュラー・ソング寄りのアプローチも取り入れられている。フォークロックをよりオーバーグラウンドな領域にお仕上げたいという思いが、この曲の中に込められているという気がする。

 

今回のアルバムではItascaのようなサイケフォークのサウンドが取り入れられていて、それが一つの核のようになっている。また、スタジオ録音でしか得られないジャム・セッションの醍醐味を続く「No Fear」で追求したりしている。器楽的なスタジオセッションをもとにした曲だが、その音楽からは抽象的なアンビエンスが立ち上り、心地よさをもたらす。この曲ではベースが曲の中心となっている。また、ニューエイジの象徴的なミュージシャン、Laraajiが参加した「Grandmother」では古典的なフォークロックに挑戦しており、70年代のバーバンクサウンドに近い雰囲気がある。ララージのボーカルは後半に登場し、かなり渋い雰囲気を添えている。

 

アルバムの終盤の2曲は従来のビックシーフの延長線上にあるサウンドと言えるだろうか。軽快なアコースティックギターのストロークで始まる「Happy With You」はダンサンブルなフォークロックの印象を押し出し、アルバムの中では軽快に聞こえる。しかし、歌詞の側面で少し歌うべきテーマを探しあぐねているという印象があった。また、全体的なバンドサウンドとしても斬新なアイディアが出てくるまでには至っていないような気がした。これは全体的に忙しない感じがあり、ハードワークが過ぎた面もあったのかもしれない。冗長な録音セッションから思わぬ名作が出てくることもまれにあるので、ゆったりした録音スケジュールを取ってみてもよかったのではないか。

 

ただ、最後には聴き応えのある曲を収録しているのが流石といえ、これぞビックシーフのプロフェッショナリティである。「How Could I Have Seen」は融和的な感覚をバンドとして表現し、その中には、アメリカの大陸的なロマンが叙情的なサウンドに乗り移っている。アルバムでは、ビックシーフの性質が最も強いトラックではないだろうか。


個人的な私見に過ぎないが、『Double Infinity』はニューヨーカーによるロサンゼルスに対する賛歌が込められているのではないか。カルフォルニアの砂漠地帯のような幻想的なサウンドスケープが彼らのフォークロックサウンドから立ち上ってくることがあった。 まとまりがつかなかった部分もあるが、力作であることは間違いない。


 

82/100 

 

 

 

 「Incomprehensible」

 The Beth 『Straight Line Was A Lie』





Label: Anti

Release: 2025年8月29日

 

Review 

 

ニュージーランドのザ・ベスはアンタイと新契約を交わし、ニューアルバム『Straight Line Was A Lie』を引っ提げて復帰を果たした。前作では、先鋭的なパンクのイメージを刻印していてその楽曲は疾走感のあるテンポを用いていたがが、最新作では聴きやすくメロディアスなロックソングが満載である。また、メロディを聞かせるために意図的にテンポが落とされている。

 

今回のアルバム『Straight Line Was A Lie』では、ストークスを中心とする良質なメロディーメイカーとしてのベスの姿を捉えられる。人生は平坦ではないという思いを込めたアルバムのオープニングトラック/タイトル曲は、ザ・ベスの持ち味が引き出され、4カウントのコールから始まり、程よくパンキッシュなロックソングが展開される。オープニング曲には、前作よりも成長したオークランドのロックバンドの姿を垣間見ることが出来るでしょう。


程よく力の抜けた演奏、そしてメロディアスなコーラスワークでバンドとしての一体感が滲み出ている。これをバンドとしての成長と言わずしてなんと言おう。また、ザ・ベスはパンク/ロック・バンドとしての他にも琴線に触れるようなジャングルポップやパワー・ポップを書く能力に恵まれている。曲の後半部では、メロディアスなボーカルと演奏から切ないエモーションが見事に引き出される。

 

 そして新レーベルへの移籍を契機として、バラードタイプの曲を書くことも遠慮することはなくなった。「Mosquitos」のイントロはしっとりとしたフォークバラードで、アコースティックギターを中心に構成され、その後ゆったりとした射幸性を廃して落ち着いついたロックソングが展開される。この曲では、珍しくザ・ベスはアメリカーナに依拠しており、牧歌的な空気感やシンセサイザーの遊び心あふれる対旋律を導入し、バラエティに富んだ音を配置する。しかし、音楽的な手法が変化したといはいえ、依然としてベスらしさが満載で、ボーカルの旋律からは温和な叙情性が浮かび上がる。


そして、より基本的なロックやポップスの作曲法に回帰し、ギターソロやコーラスの箇所を通じて、良質なロックソングとは何かを探求しているのである。そしてサビの箇所でのサブコーラスに特に力が入っている。これはちょっと飛躍しているが、バンドは今回のソングライティングにおいてABBAのような良質なメロディーを追求している。この心変わりは、従来のようなパンクの文脈においては実現しえなかったものでしょう。

 

そんな中でも心楽しいアップテンポな曲もある。「No Joy」はやんちゃな掛け声で始まり、ドラムの8ビートのシンプルなリズムから分厚いギター、そしてパンキッシュなボーカルが出てくる。全体的なロックソングとしてはガレージ・ロックに近い印象を持つ。なおかつまた、同じベイエリア繋がりというわけではないが、西海岸のパンクバンドのようなフレーズが出てくる。タイトルの歌詞はシンプルだけど、ギターラインに奇妙なパンクセンスを散りばめることにより、この曲はおのずと軽快な印象を持つ。虚無的なパンクセンスがこの曲のコアである。その中でノイズや不協和音を散りばめながら、アヴァンギャルドなロックソングを構築する。しかし、それらは飽くまで、聴きやすさを重視したロックソングという形で昇華されている。さらに「Metal」は彼らの持ち味であるパワー・ポップのセンスがほとばしっている。温和的な旋律がバンドサウンドとはまっていて、特にエレクトリックとアコースティックの中間にある淡いギターライン、そのアルペジオがきらりと光る。その中で、ストークスのボーカルは美麗な旋律線を描くことがある。この曲では、ポップバンドとしての意外な姿を捉える事もできます。

 

アルバムの中盤においても、アメリカーナの影響が見受けられ、エレクトリックのカントリーともいえる「Mother, Pray For Me」、エレクトリックとポップスの融合を目指した「Til My Heart Stops」もまたメロディアスな音楽性が強調されている。前の曲は、賛美歌のような旋律を押し出した精妙なカントリー、そして、後者はTikTokサウンドに触発されたポップサウンドである。そんな中で、「Take」は良い曲で、ファジーなベースとギターがユニゾンを描きながら、スポークンワードの織り込んだボーカルと見事なコントラストを形成している。これらの近未来的な魅力を持つエレクトロポップパンクがアルバムのハイライトです。

 

最後のトラック「Best Raid Plans」は素晴らしい曲です。この曲は、ソフトロックの影響を交えて、本来のベスのカラフルなサウンドの魅力が余すところなく引き出されている。いわばバンドの自由性に任せたサウンドで、トロピカルな印象で、このアルバムの最後を華麗に彩っている。一般的なロックやパンクの概念から距離を置く時、バンドの本当の魅力が出てくる気がする。最後の曲は、ベスの本当の魅力が目に見えるような形ではっきりと滲み出ていて良かった。

 

 

 

78/100 

 

 

 

「Best Raid Plans」 

Winter 『Adult Romantix』

 

Label: Winspear

Release: 2025年8月22日


Listen/Stream

 

Review

 

シューゲイザーというのは本来、90年代はサウンドの一形態を表していたものの、次世代のポスト世代の音楽を経過して、Y2Kのようなファッションやライフスタイルに近づいてきた。

 

シューゲイズ業界……そんなものがあればの話だが、少なくとも、このジャンルは近年飽和状態にある。リスナーの需要とアーティスト側の供給がマッチしているのか定かではない。このジャンルは少なくとも、数あるアルトロックソングのスタイルでも最もわかりやすく、伝わりやすい。そういった中、このジャンルをファストファッションのように志向するミュージシャンが増えたとしても不思議ではない。シューゲイズは今やかつてのパンクのようになりつつある。ただ、このジャンルに入るのは簡単だが、それを高い水準に持っていくためには、+アルファが必要になってくる。そのバンドやミュージシャンしか持ち得ない何かが追加される必要がありそうだ。

 

Winterは、ブラジルのルーツを持つミュージシャン。近年はロサンゼルスに根を張っていた。アメリカのインディーズロックのミュージシャンとしてはよくある話であるが、どうやら独自のコミュニティで生活し、それらは”ザ・エコー”と呼ばれていた。このアルバムはDIYの共同体の生活をフランケンシュタインのようなラブコメディと組み合わせて、それらをノスタルジーに振り返るという内容で、30代になったミュージシャンが20代の人生観を総括するというものである。ロサンゼルスから離れたミュージシャンがその土地を回想する。二度とは帰らない青春の最後の年代の記憶……、センチメンタルにも思えるが、人間の円熟期はたいてい壮年期以降に訪れる。クリエイティビティの頂点はこの年代以降に訪れる。人生のなにがしかがわからなければ、音楽の真髄を理解することは難しい。その理解を的確に反映した時、名作が出てくる。20代でそれをやってしまう人もたまにいるが、少なくとも人生や音楽が本当に理解出来るのは、もっと後になってから。そしてそれが理解できたとき、その人は音楽の氷山の一角しか見ていなかったことに気がつく。どのようなジャンルも例外はない。もちろん、近道もない。

 

このシューゲイズアルバムは、まるでそれ以上の意味を持ち、人生の一部分を切り取ったかのような趣を持つ。名作ではないが、はっきりとした聞かせどころがある。ウインターは、写真でも日記でもブログでもTikTokでもない、音楽という形でそれらの記憶を留めておく必要があった。コラボレーションは人生の視野を広げ、華やかにするためにある。このアルバムに、独特なテイストを添えるのが、Tanukicyan、Horse Jumper of Loveである。前者は西海岸のシューゲイズの象徴的なミュージシャンによるコラボ、後者はボストンの気鋭のアルトロックバンドとのコラボレーションで、それぞれ異なる楽曲となっている。ただ、シューゲイズに傾倒したアルバムといよりも、ストレートなオルタナティヴロックソング集として楽しめるかもしれない。

 

アルバムの冒頭を飾る「Just Like A Flower」はどちらかと言えば、今週アルバムをリリースしたSuperchunkに近いロックソングで、シューゲイズの要素は薄めである。唯一、サミラ・ウィンターのドリーミーなボーカルがシューゲイズの要素を捉え、それらを伝えている。センチメンタルなボーカルが骨太のギターラインと結びつき、このジャンルの陶酔的な雰囲気を生み出している。湿っぽくナイーブなヴァース、それとは対象的に晴れやかなコーラスを対比させ、キャッチーなソングライティングが強調されている。サビはクロマティックスケールを使用して、ペイヴメントのような曲に近くなる。しかし、その旋律の中には、切ない感覚が潜んでいる。

 

一方、打ち込みのようなフィルターをかけたドラムと重厚なディストーションギターが特徴である「Hide-A- Lullay」はシューゲイズの質感が徹底的に押し出されている。ジャグリーなギターの中で独特のポップセンスが光ることがあり、2つ以上のギターでそれらの対旋律の響きを作り出す。おのずと音楽自体はドローン音楽に近づくが、結局のところ、それらを聴きやすくしているのが旋律的な要素である。コラボレーターとしてボーカルで登場するたぬきちゃんは、この楽曲にアンニュイな雰囲気を添えている。これは前作EPとどこかで繋がっている。


ボーカルに関しても、MBVの80年代後半の曲やステレオラブのような鋭いハーモニーを作ることがある。そして、複数のギターを入念に重ね合わせて、その中にトレモロの効果を強調することで、独特なトーンやハーモニクスを作り出す。ギターの音響を巨大なシンセサイザーのように解釈して、その中でボーカルの側面でポップセンスをいかんなく発揮している。それはまた、オルタナティヴポップとしてのポップセンスであり、オーバーグラウンドの話ではない。これらのニッチでナードな音の運びは、およそロサンゼルスや西海岸の意外な表情を浮かび上がらせる。LAのくっきりとした澄んだ色の青空とは対極にある曇り空のような印象を呼び起こす。それはまた、内側の世界と外側の世界の出来事をすり合わせるための音楽でもあるのだ。両者のささやくようなボーカルのやりとりは、曲の雰囲気と連動している。名コラボである。

 

これらのシューゲイズの憂愁により、まったりとした効果を添えているのが、Horse Jumper of Loveである。こちらのコラボレーションもボーカルが中心だが、良いコラボレーションの見本を提示している。こちらの曲は『Loveless』を現代的なアルトロックとして再解釈したという感じ。『Loveless』の「Sometimes」と聴き比べてみると面白いはず。この曲をシューゲイズの中のシューゲイズにしている理由は、アコースティックギターやエレアコのような音色を駆使して、スコットランドのThe Patelsのようなサウンドを作り出しているから。また、ボーカルのメロディーラインも秀逸で、Horse Jumper of Loveのドミトリー?のボーカルは、シールズに匹敵する鋭い感性がある。コラボレーターがどのように歌えば良いのかを熟知していて、それらを的確に声で表現している。音楽的な効果が明瞭に表れ出ている。この曲は、Wrensのような00年代のロックソングを思い起こさせる。決してクールではないが、その点に共感のようなものを覚えるわけなのだ。

 

近年のシューゲイズは、90年代の最初のウェイブがそうであったように、ダンスミュージックとロックを結びつけるという形式が主流になりつつある。もちろん、現在のダンスミュージックは90年代よりも未来に進んでいて、表側に出てくる内容もへんかしてきている。「Existentialism」 では、現代的なインディーポップのボーカルと、グルーヴ感を強調した打ち込みのようなドラムを連動させ、その中で、ウィンターらしい少しナイーヴな感覚を織り交ぜている。そしてこれは、全般的に言えば、ローファイやサイケに近い音楽として成立している。こういった曲が三曲ほど続く。これらはシカゴのKrankyから昨年新作アルバムをリリースしたBelongのスタイルに準じている。


その中、多幸感を持つフラワームーブメントの雰囲気を持つ「Without You」こそ「LAのシューゲイズ」と言える。ただ、この曲の中に揺らめく独特な感性、そしてアンニュイな感覚こそ、Winterのソングライティングの核とも言える箇所である。これらはドラスティックな印象を持つシューゲイズ曲のさなかにあって特異な印象を持つ。バラードやフォークのような音楽性を反映させたこの曲は、ドリームポップへと傾倒し、ヒップホップのビートを内包させながら、独特な音楽性へと落着する。アンニュイなボーカルは、飽くまでアトモスフェリックな要素を添えているに過ぎず、デコレーションのようなものである。どうやら今後のシューゲイズは、ダンスミュージックの他、ヒップホップのローファイを通過した形式が主流になっていきそうである。つまり、今日のこのジャンルは、必ずしもロックの系譜にあるわけではなく、ブラックミュージックの要素を内包させている。西海岸のラップヒーロー、Ice Cubeのように過激ではないにせよ、これらのリズムの要素は、今後のシューゲイズソングを制作する際の重要な主題になるに違いない。

 

これまでのシューゲイズバンドの課題は、90年代のケヴィン・シールズの音楽をどのように再現するのか、という点にあった。しかし、音響技術の発展やエフェクターやマスタリングの進化により、近年そのハードルは下がりつつある。今後は現代のミュージシャンとしてのシューゲイズを制作するのが最重要課題となる。アルバムの後半はトーンダウンして、90年代の模倣やミレニアム以降のブルックリンのベースメントのインディーズロックサウンドへの偏愛がうかがえる。しかし、独創的な感性を示した「Running」は、ポストロックや音響系のサウンドとむすびつき、アンビエントのようなアトモスフェリックな音楽に行き着いている。


この点を見ると、ポストロックやアンビエントとのクロスオーバーをやるのもアリかもしれない。ウィンターは、ボーカリストとしてはどこまでも叙情的であるが、ギタリストとしてはアーティスティックな感性をもっている。アルバムで聞こえるギタープレイはペインターのように芸術的。 色彩的なギターの音響は時々、マクロコスモスの音楽さながらに鳴り響くことがある。秀作。

 

 

 

80/100(Edit)

 

 

 

 

Best Track - 「Without You」

 Water From Your Eyes 『It's A Beautiful Place』


 

Label: Matador 

Release: 2025年8月22日

 

Listen/Stream 

 

Review

 

ニューヨークのWater From Your Eyesは、2023年のアルバム『Everyone's Crushed』に続いて、Matadorから二作目のアルバム『It's A Beautiful Place』をリリースした。前作は、アートポップやエクスペリメンタルポップが中心の先鋭的なアルバムだったが、本作ではよりロック/メタル的なアプローチが優勢となっている。ネイト・アトモスとレイチェル・ブラウンの両者は、この2年ほど、ソロプロジェクトやサイドプロジェクトでしばらくリリースをちょこちょこと重ねていたが、デュオとして戻ってくると、収まるべきところに収まったという感じがする。このアルバムを聴くかぎりでは、ジャンルにとらわれないで、自由度の高い音楽性を発揮している。

 

表向きの音楽性が大幅に変更されたことは旧来のファンであればお気づきになられるだろう。Y2Kの組み直した作品と聞いて、実際の音源に触れると、びっくり仰天するかもしれない。しかし、ウォーター・フロム・ユア・アイズらしさがないかといえば、そうではあるまい。アルバムのオープニング「One Small Step」では、タイムリープするかのようなシンセの効果音で始まり、 レトロゲームのオープニングのような遊び心で、聞き手を別の世界に導くかのようである。

 

その後、何が始まるのかと言えば、グランジ風のロックソング「Life Signs」が続く。今回のアルバムでは、デュオというよりもバンド形式で制作を行ったという話で、その効果が一瞬で出ている。イントロはマスロックのようだが、J Mascisのような恐竜みたいな轟音のディストーションギターが煙の向こうから出現、炸裂し、身構える聞き手を一瞬でノックアウトし、アートポップバンドなどという馬鹿げた呼称を一瞬で吹き飛ばす。その様子はあまりにも痛快だ。


しかし、その後は、スポークンワードを取り入れたボーカル、変拍子を強調したマスロック、Deerhoofのようなめくるめく曲展開というように、デュオらしいオリジナリティが満載である。ロックかと思えばポップ、ポップかと思えばロック(パンク)、果てはヒップホップまで飲み込み、爆走していく。これらのジョークなのかシリアスなのかわからない曲に釘付けになること必須である。その中でアルバムのタイトルが執拗的に繰り返される。これがドープな瞬間を巻き起こす。


「Nights In Armor」では先鋭的な音楽性を取り入れ、ほとんどバンド形式のような巨大な音像を突き出し、ルイヴィルのバストロ以降のポストロックの系譜を称賛するかのような刺激的な音楽が続いている。新しい時代のプログレ? Battlesのリバイバル? この曲を聴けば、そんな些細な疑問は一瞬で吹き飛び、ウォーター・フロム・ユア・アイズのサウンドの虜になること必須である。K-POPのサウンドを部分的に参考にしたとしても、二人の秀逸なソングライターの手にかかると、驚くべき変貌を遂げ、誰にも真似出来ないオリジナリティを誇るポップソングが作られてしまう。ミニマルミュージックの構成やミュージックコンクレートのようなギター、そして、それらのカオスな音楽の中で奇妙なほど印象深いブラウンの声、すべてが混在し、この曲のすべてを構成している。それらの音楽はときおり、宇宙的な響きを持つこともある。

 

このアルバムでは、前作よりもはるかにヘヴィネスが強調されている。「Born 2」はまるでBlurのタイトルのようだが、実際は、90年代-00年代のミクスチャーロックを彷彿とさせる。同様に、魔神的なディストーションギターが曲の中を歩き回り、口から火炎を吐き、すべてを飲み込むような迫力で突撃していく。そのサウンドは、全体的にはシューゲイズに近づいていき、最終的にはボーカルが入ると、NIN、Incubus、Ministryのようなインダストリアルロックに接近していく。しかし、最も面白いのは、これらのサウンドから、ボーカルとして聞こえてくるのは、Evanescenceのようなニューメタルを想起させるポップネスである。これらのアンビバレントな要素ーーヘヴィネスとポップネスの混在ーーこそがこのアルバムの核らしいことがわかる。また、曲の終盤では2000年代以降のポストメタルに近づいていき、そのサウンドは、Meshuggahのようなポストスラッシュのような変則的なメタルソングに傾倒していく。 

 

Water From Your Eyesの多趣味は以降もほとんど手がつけられない。それは彼らが音楽制作におけるオールラウンダーであることを伺わせる。「You Don't Believe In God?」では、古典的なアンビエントでセンスの良さを見せつけ、古参のアンビエントファンを挑発する。しかし、アルバムの中で奇妙なほど静かなこの曲は実際的にインタリュードとしての働きを担っている。さらに続く「Spaceship」では、ニューヨークのAnamanaguchiがやりそうでやらなかったチップチューンを朝飯前のようにこなす。しかも、それ相応にセンスが良い曲として昇華されている。 その中には賛美歌のようなボーカル、アートポップ等が織り交ぜられ、まるでそれは''音楽バージョンのメトロポリタンミュージアムがどこかに開設したかのよう''である。続く「Playing Classics」もまたチップチューンを主体とした曲で、ゲームサウンドとエレトロニカの融合に挑んでいる。この曲もまた同年代のエレクトロニックのプロデューサーに比肩するような内容である。しかし、ボーカルが入ると、軽快なエレクトロ・ポップに印象が様変わりする。背景のビートとボーカルの間の取れたリズムは、単発のコラボレーションでは実現しえないものである。

 

これらのデュオの多趣味は、デモソングのようなローファイなロックソング「It's A Beautiful Place」で最高潮に達する。史上最も気の抜けたタイトル曲で、わずか50秒のやる気が微塵もないインスタントなギターロックのデモソング。炭酸の抜けたコカコーラのような味わいがしなくもない。最後とばかりに気を取り直し、実質的なクローズ「Bloods On Dollar」が続く。クライムサスペンスみたいな妙なタイトルだが、曲は同郷の有名なインディーフォークバンドのオマージュかイミテーションそのもの。しかし、この模倣もそれなりの曲として完成されている。アルバムの最後では再びイントロのタイムリープのようなシンセの効果音が入る。入り口と出口が繋がっているのか。それとも別の世界に続いているのか。その真相は謎に包まれたままだ.......。

 

 

 

84/100

 

 

 

 

Best Track-  「Life Signs」

 


デンマークのミュージシャン、Blue Lake(ブルー・レイク)が野心的なアルバムを、ロンドンのTonal Unionから10月3日にリリースします。アルバム発売日を前にこの作品をいち早くご紹介します。


広範なビジョンを具現化するクリエイター、ジェイソン・ダンガンがバンドの集団的な化学反応を活かし、10曲の情熱的なトラックが力強い直接性で共鳴し、広大な世界との生態学的つながりを喚起する。


テキサス州ダラスで育ったダンガンは、その後長年移動を繰り返し、ヨーロッパとアメリカ合衆国で生活した後、デンマークの首都コペンハーゲンに深く惹かれ、現在もそこに居住しています。


この場所は、アストリッド・ソンネ、ML・ブッフ、クラリッサ・コネルリーなど、同時代の実験的アーティストたちにとって、近年注目される創造的な土壌として浮上している。この多岐にわたる地理的な経験は、ダンガンがアンビエント、アメリカーナを横断し、コスミッシュの要素をノルディック美学で融合させた独自の芸術的な声として台頭する上で、大きな意義を持つことでしょう。


ソロプロジェクト(ブルー・レイク)は、現在5枚目のアルバムをリリースしている。その名前とインスピレーションは、ドン・チェリーの1974年のライブアルバムから得たもので、ダンガンに創造的な啓示をもたらし、彼は非歌詞的な作曲の中に存在する感情的な可能性を引用し、自身の未開拓のサウンドの世界へと踏み出す道筋を築いた。


新たな理念を掲げ、直接的でシンプルな器楽音楽に深い感情を込めることを目指したジェイソンは、多様な音楽的要素を組み合わせ、高く評価されるアルバム『サン・アークス』(2023年)を生み出しました。このアルバムは「装飾的な、ツィターを主体とした格子模様」(ピッチフォーク、ベスト・ニュー・ミュージック)と評されています。

 

スウェーデンの森の中に建つ小屋の至福の孤立の中で生まれたこの音楽は、その時期の満開の春を彩るサウンドトラックとなりました。その後、『Sun Arcs』の孤独なアプローチとは対照的に、高く評価されたミニアルバム『Weft』(2025年)は、ブルー・レイクのサウンドをバンド指向のアプローチで表現する方向性を明確に示しました。


ジェイソンは、この頃までにバンドとの特別な集団的なエネルギーをライブパフォーマンスを通じて体験し、それを『The Animal』で活用し凝縮しようと試みました。これにより、彼は才能豊かな仲間たちと共に、伝統的なレコーディングスタジオ(The Village)とその無限の可能性を追求するプロジェクトへと進んだのです。

 

 『The Animal』は、その核心において人間の協力を鮮やかに讃え、コミュニティの意識と階層のないつながりに根ざしている。グループの創造的な錬金術は、共に演奏するミュージシャンを超え、より広い世界とその住む空間との包摂的、存在論的、生態学的なつながりを呼び起こします。アルバムは、ダンガンが説明する通り、人間を動物として捉えるアイデアを考察しています。


「私は、人間を動物の環境の一部として考えることに非常に興味を持っています。人間が『人間』という領域に分離された存在として、または階層的なピラミッドの頂点に立つ存在としてではなくて。つまり、『The Animal』は私や私たち自身なのであり、苔や雀や牛と同じように、ただ生きて、そこに存在しているのです」とダンガン。


ダンガンは完全にオープンな対話を歓迎し、そのプロセスはバンドの初期のリハーサルから始まり、彼のデモはダブルベース、チェロ、クラリネット、ヴィオラ、ドラムスを加えることで急速に進化し、洗練され、聴覚的に装飾された。


ジェイソンは録音プロセスにおいてより広範な深みを捉えることに焦点を当て、楽器の細かなニュアンスを分析し、自然界と都市界で展開される複雑で常に変化するバランスとダイナミクスを表現した。テーマもまた、「都市を動物や都市の生物として捉える」というアイデアを巡っています。コペンハーゲンの故郷について、その工業的な過去と半野生地域や海への近接性を挙げ、彼は重なるシナリオを説明します。「今や、それは不可能になりつつあると思います」

 

『The Animal』において、ダンガンは声を楽器として使用する手法を導入し、優雅なアルバムのオープニング曲『Circles』で聴かれるような歌のような特性を引き出す手段として活用しています。この曲では、グループが鳥のさえずりのように合唱のユニゾンで歌い、その声が周囲のサウンド環境の一部として響き渡ります。


バンドは演奏において際立ち、力強い存在感を示し、ダンガンのツィター奏法、土臭いギター、打楽器のパターンに豊かなアコースティックな伴奏を添えています。サウンドワールドは『Cut Paper』で明らかになるように、大胆で活気ある内容となっています。これは、現在定期的にミキシングで協力しているジェフ・ザイグラーが、新しいバンドのサウンドの豊かさを捉えているため。


ジェイソンはデンマークのプロデューサー、アスケ・ジドーレの協力を得て、新たな作業戦略への挑戦を促されました。この解放的な介入は、驚きと発見の要素を可能にした。ダンガンは中心を完全に支配せず、尊敬の念を抱きながら距離を保ち、ミュージシャンの即興的なパフォーマンスと即興に広い空間を与え、彼らの音楽的直感が魅惑的な全体的な同期を生み出すようにしています。 


ダンガンは、ドイツの首都ベルリンでのツアー滞在中に、豊かなツィターのリフと長いリバーブの余韻が、テキサスの起伏に富んだ丘陵地帯への広大な深夜の賛歌を織り成す映画的な『Berlin』を執筆しました。ジェイソンの親密で情感豊かな作風は、『Flowers for David』で感じられます。この心温まるフォーク調のトリビュート曲では、高揚感のあるフィンガーピッキングのギターが、友人の死への温かい別れのメッセージを伝えています。


アルバムは『Yarrow』で前進する勢いを増し、グループがメロディックに調和して進む中、カラフルな『Strand』では、高揚するソロと土臭い下地が、恍惚としたコメシクレシェンドへと突き進みます。タイトルトラック『The Animal』は、ドラムマシンが点線のような道を刻む中、情感豊かなホーンと、言葉のない癒しの大気的なボーカルが再び集う、短いメランコリックなバラード調の曲です。


To Read』に到達すると、ダンガンの探求は驚くべき明快さで凝縮され、グループが響き渡る和音で完全に一致する瞬間が訪れます。ダンガンにとって、音と空間で互いに絡み合ったまま、その瞬間の存在を捉える貴重な瞬間です。彼はこのように結論付けます。「私はいつも、音楽を通じて共有される、一瞬の儚さ、それから強い一体感を持つ瞬間に興味を抱いています」


『The Animal』は音楽的な変容の形態であり、依然としてアコースティックを中心に組み立てられながら、より作品として増幅され、新たな次元へと昇華されています。ブルー・レイク・プロジェクトは、ジェイソン・ダンガンとの普遍的なつながりに基づくコラボレーションを通じて新たな生命を吹き込まれました。それは彼の最も野心的なアルバムにおいて結実を果たしています。

 

 

Blue Lake  『The Animal』

 

 

Preview      ヨーロッパの視点から見た故郷テキサスへの賛歌

 

エレクトロニックの実験音楽からミニマルミュージックを中心とする前衛音楽、そして民族音楽まで幅広い実験音楽をリリースするロンドンのレーベル、Tonal Unionがこの秋新譜として送り出すのは、コペンハーゲンの作曲家/ツィター奏者のブルーレイクによるニューアルバム『The Animal』です。 


デンマーク/コペンハーゲンに在住するアーティストによる故郷アメリカ/テキサスへの賛歌ともいえ、ツィター(フォルテ・ピアノの原型。琴のように演奏する)、ダブルベース、クラリネット、ヴィオラ、ドラム等、ジャズからカントリーをくまなく駆使し、開放的なフォーク/カントリーミュージックを制作しています。インスト中心のアルバムですが、ツィターの音色がエキゾチックに響く。全般的にはヨーロッパのレンズから見たアメリカへの郷愁を意味するかのようです。

 

アルバムのオープニング「Circles」のイントロでは、オーケストラのティンパニのような奥行きのあるパーカッションのミュートの演奏から始まり、蛇腹楽器(コンサーティーナ/アコーディオン)、ツィター、弦楽器等の楽器が分散和音を描き、色彩的な音楽空間を生み出す。イージーリスニングのような響きがありますが、よく耳を澄ますと、様々な音楽が混在し、民族音楽音楽やフォーク音楽を融合した芳醇な響きが込められている。これらの色彩的にきらびやかな万華鏡のような世界は、ヨーロッパとアメリカの音楽を混在させながら発展していく。民族的な音楽の発露の後には、静かなシークエンスが登場し、ピアノとクラリネット、そしてツィターの演奏が和やかなムードをはなつ。その後、女性ボーカルのフォークミュージックに依拠した賛美歌のようなコーラスが登場し、音楽そのものは霊妙な感覚を持つようになる。様々な音楽文化が入り乱れながら、霊妙な出口へと音楽が向かっていく。それはアーティスト自身が様々な声や楽器を用いながら、故郷のアメリカへと精神的に近づいていくような感覚を授けてくれます。

 

二曲目「Cut Paper」ではフォーク/カントリーミュージックの色合いが強まる。 ナイロン弦を用いた繊細なアコースティックギターのアルペジオの演奏をもとにして、古き良きカントリーの世界へと誘います。この曲は、南部の広大な農場や畑のような田園風景を思い起こさせる空気感を、静かで落ち着いたフォーク/カントリーミュージックで体現している。音楽そのものが情景的な効果を持ち、聞き手は音楽を聴きながら自由な発想を膨らませることも不可能ではないでしょう。そして、それこそが、このアルバムの重要なポイントとなっているという気がします。


アコースティックギターとオクターヴの音程の関係でユニゾンを描くクラリネットの音色はふくよかな響きが含まれていて、聞き手の心を和ませる力を持っています。この曲はまた、次第に馬の疾駆の風景を象るかのように、軽快さを増していき、さらにリズミカルになっていきます。


インストゥルメンタル曲でありながら、聞かせどころがあり、ヴィオラのような楽器が伸びやかなパッセージを描き、風のように音楽が浮上する時、心が洗われるような感覚がもたらされる。フィドルのように響くヴィオラの華やかなイメージをパーカッションのシンバルが強調している。楽器の特性や音響性をしっかりと踏まえて、それらをうまく活かした一曲となっています。

 

続く「Berlin」は同じ調性を用い,同じような音楽のムードを引き継いでいますが、 より都会的な空気感が漂っています。この曲ではツィターのアルペジオを強調させ、異文化の混合という近代以降のベルリンという都市の気風のようなものを縁取っているように感じられます。この曲では、BGM(バックグラウンドミュージック)のような音楽的な手法を用い、家具の音楽としての爽やかなフォーク・ミュージックをアーティストの巧みな楽器の使用法により体現しています。音楽に耳を傾けていると、おのずと牧歌的な風景が目の裏に浮かんできそうになります。これらの印象的な音楽は、2分後半以降、ツィターと弦楽の演奏が中心となり、静謐なサイレンスに近い音楽へと近づく。曲の後半では、ツィターの演奏がエキゾチックに心地よく響き渡る。この曲は、どこまでも爽やかな音楽で、イージーリスニングに近い郷愁を持っています。

 

 

アルバムのハイライト曲「Flower For David」は、アコースティックギター、ツィターを中心に演奏され、カントリーの空気感に満ちている。ミニマル・ミュージックをヒントにした独創的なカントリーミュージックとも言えますが、その中にはやはり様々な文化や民俗が入り混じるように混在している。南欧の古学、あるいはイスラム圏の古楽の影響が折り重なり、これらの表層のヨーロッパ的なフォークミュージックを支えていると言える。しかし、この曲は現代的な音楽として出力されているのは間違いなく、それらがスタイリッシュな印象を及ぼすことがあります。

 

「Seeds」はこのアルバムの中でも風変わりな楽曲です。イントロでは、ダブル・ベース(ウッドベース)や弦楽器を中心とするレガート奏法の演奏を敷き詰めていますが、音楽的な印象はクラシックというより、ジャズ寄りです。エキゾチックなサウンドスケープの向こうから、爽やかなアコースティクギターの演奏が登場し、この曲はにわかにフォークミュージックの雰囲気が強まります。しかしまた、音楽そのものは単一に規定されることを忌避するかのように抽象性を増していき、ジャズのサウンドスケープの中で、ヨーロッパの民族音楽の響きを持つツィター、そしてアメリカのフォーク/カントリーミュージックの響きを持つアコースティックギターが色彩的に散りばめられ、カラフルで多彩な音楽性が強まります。 聞き手はきっと時代感覚を失ったかのような年代不明の魅惑的な音楽のワンダーランドへいざなわれることでしょう。

 

「Yarrow」において、ジェイソン・ダンガンはフォークミュージックの奥深い音楽世界を探求しています。舞踏的な要素の強い曲です。複数のギターを中心とする楽器で演奏されるアルペジオは時折、見事なほどきらびやかな音響を得ており、プロデュース的な側面においても、これらの滑らかな音響が見事に強調され、クリアな音像を獲得しています。しかし、このアルバムの中心的なテーマーー牧歌的な風景ーーが音楽で描写されているとはいえ、曲そのものは単調になることはなく、時折、ミステリアスな空気感が醸成されることがある。 全体的な四拍子のリズムの中で、曲の後半ではスラヴの民族音楽のようなイディオムも登場し、中央ヨーロッパの音楽性が強まる。アーティストの音楽的な感性がどのように完成されていったのかを垣間見ることが出来るかもしれません。「Strand」では同じように、民謡の音楽の形式が続きますが、前曲よりもアメリカーナの音楽性が色濃いように感じられます。一連の曲には、やはりアーティストの故郷への温かな思いが、爽やかな印象を持つフォーク音楽の中に滲み出ているようです。

 

もう一つの注目曲がアルバムの後半に収録されているタイトル曲「The Animal」となります。この曲では、ジャズの形式を通してフォークミュージックが展開されます。清流のせせらぎのように美しいアコースティックギターのような弦楽器の演奏を通して、伸びやかな印象を持つクラリネットのレガートがジャズ調の雰囲気を生み出すとともに、柔らかく安らいだ感覚を与えています。この曲に感じられるような温いエモーションを捉えられるかが、このアルバムを聴く際のポイントとなるかも知れません。 特に、アコースティックギターの演奏の聞かせどころがあり、1分20秒付近のギターソロは澄明で美しい感覚に縁取られています。これは今や現代的な工業化が進む中で失われつつある原初的な風景への憧憬が仄めかされているように思えます。

 

終盤の曲を聴けば、フォーク/カントリーミュージックが単なるボーカル音楽ではないことが理解してもらえるはずです。 ギターミュージックによる理想的なフォーク/カントリーを探求したのが「Vertical Hold」だとするなら、「To Read」はその音楽の郷愁的な印象を強調している。それぞれに異なる印象を持つ曲が多く収録されており、フォークミュージックの奥深い魅力を知るのに最適な一枚となる。また、『The Animal』は、BGMとしても聴くことが出来、ブルー・レイクの音楽性の片々には、リゾート的な安らいだ趣向も凝らされているように思えます。聴く場所を選ばず、気兼ねなく楽しめる音楽という点では家具の音楽の要素を多分にはらんでいるようです。聞き手の空間の雰囲気を尊重した珍しいタイプのカントリーアルバムとなっています。



*レビューは英国のレーベル、Tonal Unionから提供された音源をもとに掲載しました。(8月24日)

 

 

Pre-save: https://bfan.link/cut-paper

 

 

▪Reactions from various media outlets for ”Blue Lake”(各メディアからの反応)


・“Radiantly tranquil...braids together masterful precision and naturalistic experimentation(輝きに満ちた静けさ…卓越した精度と自然主義的な実験を巧みに融合させた)” -Pitchfork


・“Blue Lake weaves a scintillating sonic tapestry(ブルー・レイクは、きらめく音の織物を見事に作り出す)” - Paste Magazine


・"Irresistably radiant(抗いがたい輝き)" - Uncut


・"Dazzling(まばゆさ)" - The Guardian


・“A pastoral gem..painting a gorgeous vista of experimental Americana, country music for someone who is far from home(牧歌的な宝石…実験的なアメリカーナ音楽の壮麗な風景を描き出す、故郷から遠く離れた人に向けたカントリー音楽)” - Beats Per Minute


・“Gentility and grace.. lowered my blood pressure about 10 points(優美さと優雅さ…血圧を10ポイントほど下げてくれる)” - NPR All Song Considered


 

 Bret McKenzie 『Freak Out City』

Label: Sub Pop

Release:2025年8月15日

 

Listen/Stream 

 

 

Review

 

ニュージーランド出身のシンガーソングライター、ブレット・マッケンジーは、良質なポップ・ミュージックを制作することで知られている。前作はビリー・ジョエル風のピアノバラードが中心でしたが、このアルバムは、楽しげでダンサンブルな音楽性で暑い夏を彩っています。

 

ニューアルバム『Freak Out City』は、ロサンゼルスとニュージーランドの両方でレコーディングされ、ブレットと長年のコラボレーターであるミッキー・ペトラリアが共同プロデュースした。

 

このアルバムでは、70、80年代のブルーアイドソウルが彼持ち前の良質なメロディセンスと融合している。オープニングを飾る「Bethnal Green Blues」は、ビートルズやマージービートなどで知られる弾みのあるエレクトリック・ピアノに合わせて、ブレット・マッケンジーのややソウルフルな歌声が披露される。聴いていると、なんだかシンガーの雰囲気に釣り込まれて楽しげな気分になるでしょう。 気持ちがほんわかするようなハートウォーミングな楽曲です。前回のアルバムはソロシンガーとしての作品でしたが、今回はバンドアンサンブルの性質がより強調されています。ブレットのボーカルだけではなく、バンドとしての演奏も粋な雰囲気がある。和やかに始まったこの一曲目だが、2分半頃からほろりとさせるような切ないハーモニーが顕著になる。ビートルズタイプのメロディは、喩えれば「煙に目が染みる」かのようである。この曲では、人生の中にある悲喜こもごもを巧みなソングライティングによって体現しています。

 

ブレット・マッケンジーは俳優/コメディアンとしても活動してきましたが、コメディ番組で使用されるような曲もある。タイトル曲「Freak Out City」はその好例でしょう。 おどけたようなエレクトリックピアノの演奏を取り巻くようにして、マッケンジーはボーカルと語りの中間に属するユニークな歌声を披露しています。ジャズの要素も含まれていて、それがコミカルな音楽と結びつき、軽快な音楽に昇華されている。曲の展開にはコミカルな笑いがあり、ホーンの後に抑揚のあるボーカルがユニークに続く。音楽はサーカスのようにアトラクティヴになり、音楽の楽しい側面が強調されます。そういった中で、渋いジャズフォークバラード「The Only Dream I Know」が鋭いコントラスを描く。女性ボーカルとのデュエット形式の曲は、浜辺のランデブーのように温和な空気感に浸されている。アコースティックギターの演奏とデュエットの歌が折り重なるようにし、伸びやかなハーモニーを作り上げている。海辺の夕陽のような美しさ。

 

70年代のByrds、Mott The Hoopleのようなブルース色の強いフォークロックが現代的に復刻されている。それらのリバイバルに属する渋いフォーク・ロックがこのアルバムの中盤の核となる。「All The TIme」はブルージーなロックで、サザン・ロックの色合いをどこかに残している。エレクトリックピアノとアコースティックギターがブレットのビートルズ・ライクなボーカルとうまく融和しているのを感じました。とりわけ、新しい音楽のタイプではないですが、こういった曲にはなぜか懐古的なノスタルジアを感じ、そしてほんわかしてしまうものがある。

 

前作のアルバムより音楽性が幅広くなり、音楽的な楽しみも増えたように思えます。例えば、南米かカリブ地域の伝統音楽のような要素が、これらのフォーク・ロックと結びつくことがある。「That's The Way that World Goes Round」は、Buena Vista Social Clubのようなキューバ音楽、フォークやロックが結びつき、マッケンジーのブルーアイドソウルに根ざした温かさのある歌声と混ざり合う。この曲に含まれている複数の地域の伝統音楽の融合は、最終的にジャジーな雰囲気を持つムード音楽として導きだされます。楽器としては、金管楽器やマラカス、ボンゴの演奏を取り入れることで、音楽性に奥行きを与えています。この曲は、最終的には、フォーク、ソウル、ロックを越えて、ビッグ・バンドのようなジャジーな音楽にたどり着きます。デューク・エリントンやカウント・ベイシーほどには派手ではないものの、それらに比する楽しげなジャズやエスニックの雰囲気を伝えようとしています。 ボーカルのコーラスもかなり楽しい。

 

ブルースロックやサザンロックの本格的な再現に挑んだ「All I Need」はこのアルバムのハイライトの一つ。ブレット・マッケンジーの家族に向けた愛情が渋いファンクの影響をとどめたブルースロックの中に表現されています。前作は、レコーディングスタジオ向けの曲が多かったですが、今回のアルバムではよりスタジオのライブ感覚を重視し、ライブを意識した曲作りへと変わったという印象を覚えます。この曲では、モータウン以降のソウル、そしてブルーアイドソウルまでを含めたR&Bを下地にして、こぶしの効いた渋〜い歌唱が披露されています。特にギター、ベース、エレピの組み合わせは、70年代のファンクバンドのような迫力が宿る。こういった中で、マッケンジーは力感のこもった歌声を披露、そして背景のゴージャスなゴスペル風の女性コーラスと絶妙にマッチしています。特に、この曲の表向きのブルースロックやファンクロックのイメージもさることながら、R&Bのハーモニーの美しさに焦点が置かれているようです。

  

アルバムの以降の二曲も渋い良い曲が続いているので聴き逃せません。「Eyes On The Sun」は繊細なフィンガーピッキングのアコースティックギターから始まり、Wilcoのジェフ・トゥウィーディーのソングライティングを彷彿とさせるようなインディーフォークが続いている。やがて、そのフォークソングは、エレクトリック・ピアノで和声を縁取られ、ゴージャスな感覚を持つようになる。その中でも根本となる音楽は変わりません。程よく力の抜けてほんわかしたようなフォーク・ソングの魅力をブレット・マッケンジーはこの曲で伝えようとしています。


「Too Young」は個性的な楽曲として楽しめるでしょう。ゴスペル風のイントロから導かれるようにして、金管楽器のレガートが入り、そして女性ボーカルのゴスペル風のコーラスワークが続いている。この曲は、ドラムとベースの動きのあるリズムと連動しながら、アーティストがこよなく愛するというハリー・ニルソンを彷彿とさせる渋みのあるブルースロックの曲へと変貌していきます。最初から曲が完成されているという感じではなく、実際的なバンドの演奏からどのようなヴォーカルのメロディやニュアンスを引き出すべきか、そういった試行錯誤を垣間見ることも出来る。そういった中で、2分以降のアコースティックギターによるブルースのソロが曲の雰囲気を最高に盛り上げている。キース・リチャーズに匹敵するブルースのプレイ。マッケンジーのボーカルは、スイングのリズムを取り入れつつ、アウトロにかけて軽快さを増していきます。この曲でも、ブルース・ロックを入り口として、ジャズの音楽性に変化していく。こういった一曲の中で音楽性が徐々に変遷していくような感じが最大の魅力となっています。

 

エンリオ・モリコーネ・サウンドのサウンドトラックのような口笛で始まる「High And Lovers」もまたブレット・マッケンジーのニューアルバム『Freak Out City』の音楽性の魅力の一端を担っています。マカロニ・ウエスタン風に始まったこの曲は、リゾート気分に満ち溢れたトロピカルな音楽へと次第に変化していきます。この曲に満ちわたるリラックスした感覚は、このアルバム全体に共通している音楽的な性質です。ブレットの家族に対する愛情が音楽に上手く浸透したと言えるでしょう。最後はピアノ・バラードで来るか!?………と思いきや、クローズ「Shouldna Come Here Tonight」は動きのあるフォークロックで締めくくれられます。聴いていると、気分が良くなるアルバムです。ブルースロックのような珍しい音楽性だけではなく、このシンガーの持つエンターテイナーとしての魅力を存分に味わえる一枚となっています。 


 

80/100

 

 

  

 Best Track- 「All The Time」

 

 Wombo  『Danger In Fives』


 

Label: Fire Talk

Release: 2025年8月8日

 

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Review


Womboは2016年頃から活動しているケンタッキー州ルイヴィルのロックバンド。先週末にニューアルバム『Danger In Five』をリリースしたウォンボ。トリオ編成で、アルトロックバンドとして真を穿ったサウンドを誇る。表向きにはパンクの音楽性は希薄ですが、ポストハードコアのようなサウンドを通過したロックソングを提供します。これはまさしく、ルイヴィルが80~90年代を通して、アートロックやプログレッシヴロックの名産地で有り続けてきたことを印象づける。

 

基本的には、『Danger In Fives』はマスロックのような数学的な変拍子を基調としたアルバムです。マスロックとは、二つ以上の異なるリズムを織り交ぜたポリリズムのロックのことを意味します。広義においては、転調や変拍子を強調するロックサウンドのことを言う場合もある。


しかしながら、今作はスノビズムをひけらかすような内容ではありません。Womboの音楽に、ポップネスをもたらしているのが、ベース/ボーカルのシドニー・チャッドウィックのアンニュイなボーカルですが、最近流行するシューゲイズやドリームポップのアウトプットとは明確に異なる。2000年代のレディオヘッドのトム・ヨーク、Portisheadのベス・ギボンズ、Cocteau Twinsのエリザベス・フレイザーをかけ合わせたような特異なボーカルであり、現実空間と幻想的な空間の間を揺らめくようなニュアンスをもたらす。また、上記のボーカリストがそうであるように、器楽的な音階を強調するボーカルであり、器楽的なニュアンスをアンサンブルに及ぼす。

 

『Danger In Fives』は入念に作り込んだサウンドが特色です。それらはミニマル音楽を通過したロックソングという点では、ニューヨークのFrankie Cosmosのソングライティングに近い印象を抱く。しかし、同時に、ボーカルとギターがユニゾンしたり、ポリリズムがリズムの中に取り入れられたり、全体的なアンサンブルの中でベースの演奏が優位になり、90年代初頭の最初期のグランジやメタルのような音楽が重点を占めるとき、Womboのオリジナリティの高い魅惑的なサウンドが表側に出てきます。それらは、全般的には、Radiohead『Kid A』のエレクトリックサウンドとロックの融合を基底にして、Portishead、Trickyのトリップホップを織り交ぜて、最終的にそれらをルイヴィルのアートロック/マスロックで濾過したような特異なサウンドになる。


複雑なサウンドを想像するかもしれませんが、実際の音楽はそこまで難解ではありません。楽曲の作りがシンプルで、盛り上がってきたところでスパッと切り上げる。それが全11曲、30分後半という簡潔な構成に表れています。Womboの曲はまったく演出がかっていないのが良い。グリム童話やアンデルセンの童話からの影響があり、幻想的な興趣を添えているが、実際的にそれは彼らのいる現実とどこかで繋がっています。基本的には、リアリズムの音楽でもあるのです。

 

Womboは、曲の中で、強い主張性を織り交ぜることはほとんどありません。本作の場合、シドニー・チャッドウィックのボーカルはスキャットやハミングのように明確な言葉を持たぬ場合が多い。しかし、それがたとえ、2000年代のトム・ヨークのように、器楽的な音響効果を強調するものであるとしても、音楽そのものからメッセージが立ち上がって来ないわけではありません。(例えば、意外にもインストの方がボーカルよりも多くのメッセージが伝わる場合があり、無言の方が多言より説得力を持つことがあるのと同じ)ようするに、彼らのサウンドには、アメリカの現実的な側面が反映され、それは寂れた工業地帯や閑散とした農村風景など、一般的な報道では表沙汰にならない現実的な側面をしたたかに織り込んでいるのです。その音楽は、時々、不安を掻き立てることもあるが、奇妙な癒やされるような感覚が内在しています。

 

その中で、Womboが重視するのはホームという概念です。それは実際的な自宅という考えだけではなく、いつでも帰ってこれるような共同体のようなものを意味するのかもしれません。これらの不安の多い世界情勢の中で、こういったホームの広義の解釈によって、Womboのサウンドは独特な安らぎや癒しの印象を受け手に与えることがあります。それはもっといえば、現代社会において、必ずしも物理的な空間を示唆するとはかぎらず、仮想的な空間のようなものも含まれるのかもしれません。これらが、このアルバムの曲に概念として反映されるとき、Womboのサウンドは聞き入らせるだけでなく、かなり説得力のある水準まで達することがあるのです。

  

こういった点を踏まえた上で、注目すべき曲が幾つかあります。オープナーを飾る「Danger In Five」はアルバムの方向性を理解する上で不可欠な楽曲です。グランジ風のベース進行の中でドリームポップ風のアンニュイなボーカルが本作をリードしている。この曲は、ボーカルの性別こそ異なるものの、Interpolのような独特な哀愁を作風の基底に添えている。また、ルイヴィルのバンドらしい不協和音やクロマティックスケールが登場します。「S.T. Titled」は、Joan of Ark、Rodan、Helmetの不協和音を強調したパンクのエッセンスを吸収し、独特な楽曲に仕上げている。この曲ではドラムやベースの生み出すリズムと呼応しつつ、ギターが即興演奏のようにプレイされる。ロックソングの不協和音という要素を押し出した、面白いトラックとなっています。


このアルバムの場合は、それらの不協和音の中で、調和的な旋律を描くボーカルが魅力的に聞こえます。それらは、トリップホップのようなUK/ブリストルのサウンドを彷彿とさせる。「A Dog Says」などを聞けば、このバンドの特異なサウンドを掴むことができるのではないでしょうか。

 

古典的な童話をモチーフにした幻想的な音楽性は、短いインタリュード「Really melancholy and There Are No Words」で聴くことができます。また、続く「Spyhopping」においても、彼らの織りなす独特なワンダーワールドを垣間見られます。さらに、終盤のハイライト曲「Common Things」は素晴らしく、ピクシーズの「Trompe le Monde」の時期のアルトロックソングをわずかに思い起こさせます。ギターソロについては、Weezerのリバース・クオモのプレイを彷彿とさせる。そして、Womboの手にかかると、この曲は独特なメランコリアを放ち、癒やしの雰囲気のあるオルタナティヴロックのスタイルに変貌します。アルバムのクローズ「Garden Spies」はマスロックのテクニカルな音楽性を吸収し、雰囲気を満ちたエンディングを形成しています。アートロックという側面で少しマニアックな作風ですが、聞き逃し厳禁のアルバムでもあるでしょう。

 

 

 

84/100 

 

 

「Common Things」 

Anamanaguchi   『Anyway』 


 

Label: Polyvinyl 

Release:2025年8月8日

 

 

 

Listen/Stream

 

Review

 

ポリヴァイナルから新譜をリリースしたニューヨークのパンクロックバンド、Anamanaguchi(アナマナグチ)は、最新アルバム『Anyway』において、まるでデビューバンドのような鮮烈なイメージを与える。ご存知の通り、このアルバムの家は、シカゴのロックバンド、アメリカン・フットボールの『LP1』のアートワークとして写真で使用されている。いわばエモの名物的な物件なのだ。

 

つい数年前、ポリヴァイナル・レコードは、この文化財を救済するため、競売にかけられたこの一軒家をバンドと共同で購入した。私自身は僭越ながら、Anamanaguchiというバンドを今年までよく知らなかったが、どうやらチップチューンの先駆者であると彼らは自称しているらしい。アナマナグチは、このシカゴ郊外でニューアルバム『Anyway』のレコーディングに取り組んでいる。長い間、この物件は、''モラトリアムのメランコリア''ともいうべきシカゴの象徴的な文化財であったが、今回のアナマナグチは、はつらつとしたパンクエナジーでその先例を打破する。

 

アメリカンフットボール・ハウスの中にある改装されたリビングルームでは何が行われていたのか。それを知るためには、このアルバムを聴いてみるのが一番だと思う。『Anyway』では、デジタルプロセスで制作された一般的なアルバムとは少し異なり、''同じ部屋で集まり、そして一緒にアルバムを作り上げた''とピーター・バークマンは述べている。つまり、トラック別のライン録音ではなく、同時録音を中心に構想されたアルバムではないかと推測される。おそらく、ベースとなる録音を制作し、その後にボーカル・トラックなどを被せていったのではないか。


さて、結果的に生み出された産物は、ロック、パンクの激しいエナジーが放たれ、スタジオライブのように緊密な空気感を録音に聴くことが出来る。そのライブサウンドとしての象徴的な音楽性が冒頭曲「Sparkler」から目に見えるような形で炸裂している。ハードロックやパンクの中間にあるギターは、近年インディーズ界隈では倦厭されつつあるギターヒーローらしいサウンド。マーシャルのアンプを積み上げたライブステージのように重厚なイントロを形成している。


ドラムのフィルが入った後、コテコテのインディーズ・パンクサウンドを展開させる。彼らのロックサウンドは疾走感があり、爽快感もある。さらにギターソロがシンボリックに鳴り響く。勢いのあるパンクロックチューンの中で、シンガロングを誘発させるボーカルが織り交ぜられる。オープニングトラックとして申し分のない、素晴らしい楽曲がアルバムをリードしている。


 

 「Sparkler」

 

 

「Rage」は2000年代のUSインディーズロックの時代に回帰したような楽曲だ。このジャンルのファンの心を捉えるであろうと予測される。 Saves The Day、Third Eye Blind、Motion City Soundtrackを彷彿とさせるインディーズロックのリバイバルの楽曲である。全般的なロックの方向性の中で、エモの性質が垣間見えることがある。その中で、エレクトロパンクとエモやパワーポップを融合させた切ないフレーズが骨太のロックソングに内在するという点に注目すべきだ。彼らのロックサウンドは基本的にはインディーズ贔屓であり、USインディーズという概念を実際的なサウンドを介して復刻するような内容である。さらに、''チップチューンの先駆者''を自称するアナマグチであるが、今作では、1990年代のグランジ、ミクスチャーロック、オルタナティヴロックのテイストを吸収し、かなり際どいサウンドにも挑戦していることが分かる。


「Magnet」はアメリカのロックミュージックの多彩さがパワフルに反映されている。彼らのサウンドはメタリックにもなり、パンキッシュにもなり、スタンダードなロックにもなる。曲の中で熱帯雨林の生物のように変色し、セクションごとにまったく別の音楽を聴くような楽しさに満ちあふれている。そして全般的には、1990年代のRage Against The Machineの主要曲を彷彿とさせるミクスチャー・ロックのリズムがベースになっているが、その中には、Pixies、Weezer、Radioheadのようなオルタネイトなベース/ギターが炸裂し、クロマティック・スケールを最大限に活用したクールなロックサウンドが前面に押し出され、オルタナファンをノックアウトする。

 

「Lieday」は、The Gamitsのような2000年代初頭の良質なメロディックパンクサウンドに縁取られている。しかし、こういった曲は、さほど古びておらず、いまだにそれなりの効力を持っているのだ。ただ、アナマナグチの特色はベースメントのパンクサウンドの要素を押し出し、チップチューンのようなサウンドを疾走感のあるパンクソングに散りばめている。アナマナグチのサウンドの運び方は秀逸であり、飽きさせないための工夫が凝らされている。曲の後半のチャントは、1990年代以前のシカゴのエモコア勢に対する愛に満ち溢れている。結局、リバイバルエモへと受け継がれたチャント的なコーラスが、この曲のハイライトになるだろう。その後、商業的なポップパンクソング「Come For Us」では、Get Up Kidsの音楽性を踏襲し、エモパンクのお手本を見せている。「Buckwild」は最近のエモラップへの返答ともいうべき楽曲だ。

 

『Anyway』は、こういったエモ/パンクがアルバムの音楽性の中核部を担っている。一方で、チップチューンを織り交ぜたシンセの近未来的なサウンドが入る時、アナマグチの魅力が顕わとなる。「Sapphire」では、スペーシーなシンセがポップパンク/メロデイックパンクの要素と結びつき、ポップパンクのポスト時代の台頭を予見している。これらはどちらかと言えば、The Offspring、Sum 41のような骨太なロックやメタルの延長線上にあるパンクソングという形でキッズの心を捉えそう。ただ、アナマナグチの多趣味は、ロック/パンクの領域を超える瞬間もある。「Valley Of Silence」はニューヨークのエレクトロポップシーンと共鳴する楽曲である。Porches、Nation of Languageのサウンドを彷彿とさせる清涼感のあるポップソングのフレーズは、アルバムの全体的なノイジーなロックサウンドの中にあるオアシスのような意味をもたらす。

 

ただ、全般的には、Reggie And The Full Effectとポップパンクを結びつけたような個性的なサウンドがアルバムの中枢を担っている。「Fall Away」では、Fall Out Boyのような、やんちゃなパンクスピリットを反映させているが、同じようにスペーシーなシンセサイザーが独特なテイストを添えている。また、楽曲のBPMを下げて、テンポを緩めて、リズムがゆったりすると、彼らのメロディセンスの良さが表側に引き出されて、Weezer、The Rentals、Fountains of Wayneのような甘酸っぱいパワーポップ/ジャングルポップに接近する。「Darcie」は最も親しみやすい曲として楽しめるはず。また、アルバムの終盤でも、荒削りではあるけれども、良いバイブレーションを放つパンク/ロックソングが収録されているため、聴き逃さないようにしていただきたい。


「Really Like to」は、Fall Out Boyのようなシカゴの代名詞への尊敬の念が感じられる。その他、ベテランのバンドらしからぬ鮮烈な勢いを収めた「Nightlife」はアナマナグチの重要な音のダイアログの一つ。多彩なパンクロックを収録したユニークなアルバムがポリヴァイナルから登場。

 

 

 

84/100

 

 

「Magnet」

Wisp 『If Not Winter』


Label: Interscope

Release: 2025年8月1日

 

Review

 

カルフォルニアのWispは次世代のシューゲイズアーティストで、すでにコーチェラ・フェスティバルに出演し、過度な注目を浴びている。昨年、たぬきちゃんのEPにもゲスト参加していた覚えがある。いわば今最も注目されるシューゲイズアーティスト。待望のデビュー・アルバムは、冬にイメージに縁取られ、そしてアーティストのキャラクターのイメージを押し出した内容だ。

 

サウンドは全般的には、Wispが信奉するというMBV、Whirrといったシューゲイズバンドの影響が押し出されている。さらにサウンドプロダクションとしては、MogwaiやExplosions In The Skyのような音響派に近く、全般的にはダンスビートやエレクトロニックの性質が強く、ボワボワとした抽象的なロックサウンドが敷き詰められている。このアルバムはインタースコープからの発売ということで、それ相応の売れ行きは予測出来るかもしれないが、シューゲイズアルバムとしてはやや期待はずれと言える。バイラルヒットが見込める曲が用意されているが、内容が少し薄い気がする。インクを水で薄めたようなアルバムで、太鼓判を押すほどではないだろう。

 

その全般的なサウンドは、Y2KやK-POPとシューゲイズやダークウェイヴの融合である。その意図は斬新で、才気煥発なメロディーセンスが発揮される場合もある。しかし、まだそれは瞬間的に過ぎず、クリエイティビティは線香花火のように立ち消えになってしまう。あまり持続しない。そして、ロンドンのYEULEのような甘いポップセンスが漂い、その点は、オープニング「Sword」のような曲で聴くことが出来る。悲哀に満ちたメロディセンスが轟音のフィードバックギターやポストロックのアンビエンスがからみあい、Wispの持つ独自の世界観が垣間見える。そしてそれはシューゲイズというよりも、ユーロビートやレイブのようなサウンドに傾倒する。このアルバムは、どちらかと言えば、インディーポップに属するダークウェイヴのような音楽性が顕著である。また、それらは、ヘヴィメタル/ニューメタルに近いテイストを持つケースもある。「Breath onto Me」は、Wispの持ち味であるペーソスに満ち溢れたメロディーとメタリックなサウンドが融合している。これらはシューゲイズの第一世代というより、Amusement Parks on Fire、The Radio Dept.のようなミレニアム世代以降の第二世代のシューゲイズを参考にしているような印象がある。シューゲイズの甘美的な雰囲気を活かしたサウンド。しかし、2020年代のシューゲイズとして聴くと、既に形骸化していて、物新しさに欠けるように思える。

 

一方で、Y2K、aespaのようなサウンドに傾倒した曲の方がむしろ良い印象を放っている。 「Save Me Now」はWispの甘いメロディセンスがこれらの現代的なカルチャーと融合し、瞬発力を見せる。そして同じようにヴァースからコーラスというシンプルな構成の中で、ロックやメタルのパワフルな効力を持つことがある。この曲もまたYEULEのサウンドに近い雰囲気がある。


ダークウェイブのサウンドを参考にして、抽象的なロックサウンドで縁取った「After Dark」は、たしかに夏の暑さを和らげる清涼効果があり、冬のアトモスフィアに彩られている。それらは情景的な印象を呼び覚まし、アーティストが表現しようとする冬の息吹のようなものを感じとられる。一方で、どうしても曲全般は依然として薄められすぎているという印象を抱いてしまう。苛烈なシューゲイズサウンドをメタリックなノイズで表現した「Guide Light」も意図は明瞭で期待させるが、本物のヘヴィネスを体現出来ていない。ヘヴィネスとは、表層のラウドネスではなく、内面から自然に滲み出て来る何かなのだ。K-POPのようなサウンドに依拠しすぎていることが足かせになり、独自のオリジナリティ示すには至っていない。この点では、商業性とアンダーグラウンドの音楽の間で迷っているという気がする。もう少し、吹っ切れたようなサウンドがあれば、迫力が出ただろうし、より多くのリスナーに支持されたかもしれない。

 

対象的に、ヘヴィネスを削ぎ落としたY2K風のポップソングの曲に活路が見いだせる気がする。ニュージーランドのFazerdazeのようなドリームポップの範疇にあるタイトル曲「If Not Winter」はアルバムのハイライトであり、Wispのメロディーセンスがキラリと光る瞬間でもある。過激さよりも軽やかさを重視したほうが、良さが出てくるのではないかと思った。この曲では少なくとも、Wispのダークなメロディーセンスと切ないような感情が上手く合致している。 そしてこの曲でも、アーティストの冬のイメージが上手く導き出されていることが分かる。 

 

アルバムとしてはもう一声。ただ、難しいのは、シューゲイズとしてもセンスの良い曲があること。「Mesmerized」はニュージェネレーションのシューゲイズソングで、ハイパーポップのメタルの要素がヨーロッパのEDMの要素が巧みに結びつき、このジャンルの特徴である超大な音像を作り出す。さらに、グランジ風のギターロックの要素がこの曲の大きな魅力となっている。しかし、以降の収録曲は、アルバムのために収録した間に合わせのものに過ぎず、Wispの本領発揮には至っていないような気がして残念であった。他方、アルバムの最後に収録されている「All I Need」は良い雰囲気が漂っている。デモ風のラフな曲であるが、なにかこのアーティストのことを少し理解出来るような気がした。最もストレートな感情を示したフォークミュージックによるこの曲は、激しいシューゲイズサウンドの中において異彩を放ってやまない。

 

 

 

75/100 

 

 

 

Best Track 「If Not Winter」

The New Eves  『The New Eve Is Rising』

Label: Transgressive

Release:  2025年8月1日


Lisen/Stream

 


Review

 

今年のTransgressive Recordsは、魅力的なデビューバンドを積極的に送り出している。ブライントンの四人組、The New Evesもまたそのうちの一つ。ニンジャ・チューンのBlack Country, New Roadのツアーにも帯同し、今後人気を獲得しそうだ。The New Evesは、2025年にデビューしたばかりで、潜在的な能力は未知数であるが、若いエナジーとパワフルなサウンドを特色にしている。この四人組は、ニューヨークの1960年代後半のプロトパンクを吸収し、パティ・スミス、VUなどのプリミティブなロックサウンドを、彼女たちの最大のストロングポイントであるスカンジナビアの伝統的な羊飼いの音楽と結びつける。その伝統音楽は上辺だけのものではなく、本格的である。例えば、アルバムの先行シングル「Cow Song」はその象徴的な楽曲で、ヨーデルのような特殊な歌唱法が登場する。それらは確かに北欧の牧歌的な印象を呼び起こす。

 

The New Evesの音楽は、ラフ・トレードに所属するLankum(アイルランドの中世の伝統音楽を実際の楽譜を参照し、実験音楽の領域から探求する)のような民俗学的な興味を呼び覚ます。しかし、ブライトンの四人組の記念すべきデビューアルバム『The New Eve Is Rising』は、必ずしも世界音楽だけに限定されているわけではない。例えば、その音楽性は、英国の伝統的な戯曲を筆頭とする舞台芸術(オペラ/バレエ)のようなシークエンスを想起させることもある。それらが現在のUKロックの一つの主流であるシアトリカルな音楽性を矢面に押し出す場合がある。これらは結局、イギリスの音楽形態そのものが、西ヨーロッパの芸術性と密接に関連してきたことを想起させる。そこには確かに付け焼き刃ではない、歴史や文化の匂いが漂っている。

 

アルバムのオープニングを飾り、大胆不敵にもバンド名を冠した「The New Eve」を聴けば、このバンドがどのような音楽を志すのか、その一端を掴むことが出来るに違いない。例えば、The Whoの『Tommy』で示されたような、ロックオペラの再現を試みているらしいことが分かる。しかし、表現者が違えば、もちろん、外側に表れる印象も変化する。この曲ではバレエやオペラの音楽性を吸収し、ドローン音楽を弦楽器で表現し、舞台上の独白のようなボーカルが繰り広げられる。Lankumのような実験音楽性を踏襲し、ミステリアスなイントロを形成している。そして、オペラやバレエのような印象を持つ導入部に続いて、2分以降には、ニューヨークのプロトパンクの原始的なロックが発現する。ジョン・ケイルのエレクトリック・ビオラのような弦楽器のトレモロ、そして、ルー・リードさながらに、アンプのダイヤルをフルに回して演奏したかのような分厚いギターが炸裂し、この一曲目は「Sister Ray」のような秘術的なロックサウンドを生み出す。デビューバンドらしからぬ不敵なイメージが的確に体現された楽曲である。

 

The New Evesは、ニューヨークのプロトパンク、ブライアン・イーノがプロデュースを担当した『No New York』のコンピレーションに登場する複数のアート・ロックバンドの形式を受け継ぎ、ノイズや不協和音を徹底して強調している。それは、まるで現在の世界情勢や貿易戦争、の軋轢をそのままギターロックに乗り移らせたかのような印象をもたらす。もう一つ特筆すべきは、米国西海岸の原始的なパンクバンドのような不穏な空気感を持ち合わせていることである。

 

先行シングルとしてリリースされた「Highway Man」は、Dead Kennedys、Black Flag、Germs、そしてロサンゼルスの最初のパンクグループ、Xのような不穏なテイストを滲ませる。曲全体に響く不協和音は、日本のポストパンクバンド、INUのシニカルな空気感とも共通する。ベースがこの曲をリードし、その後、ミニマルなギター、そしてスカンジナビアの伝統音楽の歌唱法を受け継いだ、喉を小刻みに震わせ、トレモロの効果を得る特異なボーカルなど、多彩な文化が不穏なパンクロックサウンドのなかに混在している。それらの原始的なパンクサウンドの中では、ボーカルアートの形式も織り交ぜられ、ニューヨークのメレディス・モンクのような舞台芸術に根ざしたコーラスワークも登場する。これらは音楽の聴きやすさを維持してはいるが、その中に奇異なイメージをもたらすことがある。それは何によるものなのか。協和音の中に入り交じる不協和音という形で、このバンドの独自のスタイルを象徴付けているのである。曲の後半では、ボーカルにも力がこもり、魔術的かつ秘術的なデビューバンドの魅力が顕わになる。

 

続く「Cow Song」は、クラシックや民族音楽とロックの融合を目指した楽曲で、BC,NRとも共通点がある。しかし、フォロワー的でもなければ、はたまたイミテーションでもない。 アルバムの幾つかの曲がスウェーデンの山小屋で書かれたというエピソードからも分かる通り、The New Evesのワールドミュージックの要素はかなり本格的であり、類型が見当たらない。この曲では、The Whoの名曲「Baba O' Riley」の作風を受け継ぎ、それらを舞台芸術のボーカルアートの形式と融合させている。ヨーデルのように、喉を震わせる特異な歌唱法、そしてスティーヴ・ライヒ、フィリップ・グラスの20世紀のミニマル・ミュージックの方式を受け継いで、それらをダンスミュージックのパルス音のように響かせ、2025年の新しい舞踏音楽に挑戦している。ラフで荒削りな印象もあるものの、それもまた、この曲を聞く際の魅力となるはずだ。

 

一方で、「Mid Air Glass」は、チェロのような弦楽器のトレモロを通奏低音として敷き詰め、アイスランドのビョークのような歌唱法を披露している。明確にボーカルの役割分担をしているのかまでは分からないが、楽曲ごとにメンバーそれぞれの個性を活かしているような感じがあり、その点に好意的な印象を覚えた。スカンジナビアやアイスランドのような北欧の音楽が曲の中盤までは優位を占めるが、後半以降、その音楽はスコットランド/アイルランドの音楽に傾倒していく。それらの繁栄と衰退を繰り返す西ヨーロッパの情勢の変遷と呼応するような音楽である。曲の後半では、弦楽器とムーディーなギターが活躍し、ジム・オルークのようなアヴァンフォークに近くなる。というようにこの音楽のコスモポリタニズムは魅惑的に聞こえる。そして実際的に曲の後半では、瞑想的な音楽性が優位になるのが興味深いポイントである。

 

 

「Astrolabe」 には、The Lankumのような伝統音楽と実験音楽の間にある絶妙なニュアンスが捉えられる。そしてその音楽から立ち上るスカンジナビアの海の音楽の影響がより鮮明になる。この曲には、中世ヨーロッパのスペイン以北の音楽が入り混じっている。それらが悠久の歴史に対する憧憬を掻き立てる。これらは実際に、ルー・リードの音楽やフォークの形式の原点となったヨーロッパの民族音楽に傾倒していく。変拍子のように聞こえる複合的なリズムの構成、拍子の感覚を見失ったかのようなビートが、チャントのようなボーカルや弦楽器と結びつき、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの最初期のようなサイケデリックな音楽性を発生させる。


「Circles」でもルー・リードやジョン・ケイルの作曲を受け継ぎ、わざと曲の中でテンポを早め、音楽そのものが異なるニュアンスを帯びるように組み立てられている。この曲もまた、複数のボーカルの融合やリズムの側面での変拍子などを駆使し、生きた音楽を探っている。また、曲の後半では、オーケストラのティンパニーのようなドラムが優勢となり、アフリカの民族舞踊のような反復するリズムを徹底的に強調させ、いわば儀式的であり魔術的な音楽性を作り出す。これらのリズムの側面での多彩さは曲全般に大きな変化を及ぼし、 飽きさせることがない。

 

アルバムの後半の3曲では、ヴェルヴェットアンダーグラウンドを中心とするニューヨークのプロトパンクのスタイルを継承しつつ、ギターロックに傾倒している。聴いていて面白いと思ったのは、ライブセッションの中で自分たちの音を探している様子が伺えることである。この四人組にしか持ち得ない心地よい音を実際のスタジオセッションから探る。それは音楽によるコミュニケーションの手段であり、そういった温和さや心楽しい感覚がありありと感じられた。その等身大のロックサウンドは、決して商業性が高いとは言えないが、今後が非常に楽しみである。


「Mary」はメインボーカルが力強さがあって素晴らしい。そして、完成度を度外視した自由な気風に満ちたサウンドが牧歌的な雰囲気を造出している。その中には、まるでボブ・ディランを称賛するかのようなブルースハープ(ハーモニカ)も鳴り響いている。もちろん、ディランほどには上手くないが、70年代以降の平和主義に根ざしたロックの残影をどこかに見いだせる。この曲でもジェットコースターのような展開力が健在である。民族音楽的なダンスミュージックを奏でる四人組は、どこまでも純粋に音を鳴らすことを楽しむ。なんの注文が付けられようか。

 

長い時代、女性中心のロックバンドは冷遇されてきた経緯がある。また、音楽産業という男性優位の業界の枠組みの中、アイドル的なポジションしか与えられなかった。しかし、近年ではその潮目が変わり、自由闊達に女性ロックバンドが活躍することが可能になってきた。ロックを始めたのは男性であるが、それをやるのに性差などは必要ないのである。これはまた、ロック・ミュージックという形式が現実世界とは別の理想主義を描き出せるからこその利点である。

 

終盤でも音楽を心から奏でるスタンスは相変わらず。「Rivers Run Red」では、パティ・スミスやテレヴィジョンの文学的なロックのイディオムを受け継いで、見事にそれを現代に復刻している。クローズ「Volcano」は、火山のような爆発的なエナジーをブルースロックで体現する。あまりに渋すぎるが、驚くべきことに、これをやっているのは若い女性たちなのだ。

 

 

 

 

85/100 

 

 


 Best Track- 「Cow Song」





 Far Caspian  『Autofiction』   



Label: Tiny Library 

Release: 2025年7月25日

 

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Review   

 

アイルランド出身のミュージシャン、Far Caspian(ファー・カスピアン)は、前作『The Last Remaining Light』を通じて、素晴らしいインディーロックソングを聴かせてくれた。2021年頃からクローン病に悩まされ、また、その中で神経症などに悩まされていたジョエル・ジョンストンだったが、前作アルバムの発表後、 ロサンゼルスなどをツアーし、好評を博した。


イギリスでは最近、スロウコアやサッドコアのバンドが登場する。リーズのファー・カスピアンの場合は、ローファイなサウンドが特色で、Tascamなどを用いたアナログ風のサウンドが主体となっている。ジョエル・ジョンストンのソングライティングは派手さはないが、その音楽は叙情的で切ない雰囲気がある。軽妙なインディーロックソングの中に、淡いエモーションが漂っている。

 

前作のアルバムのレコーディング中に、ジョエル・ジョンストンは、ブライアン・イーノのアルバムをよく聴いていたというが、それがプロデュースとしてかなり洗練されたサウンドを生み出す要因となった。 新作アルバム『Autofiction』でも大きな音楽性の変更はないように思える。

 

アルバムの冒頭を飾る「Ditch」は、オープニングを飾るに相応しいダイナミックなトラックとして聞き入らせてくれる。アナログの逆再生をかけて、そのサウンドの向こうから、軽妙なアコースティックギターのバッキングが鳴り響く。ミニマルな構成を持つ演奏をベースにし、奥行きのあるアトモスフェリックなアンビエンスを作り、ジョエル・ジョンストンらしい心温まるエモーションが、音の向こうからぼんやり立ち上ってくる。どうやら、ライブツアーの時に指摘されたらしく、ボーカルの音量を上げて録音したのだとか。実際的に、きっとそれは幻想的なインディーロックソングの中で、クリアな質感を持つボーカルという形を捉えられるはずだ。

 

ジョエル・ジョンストンのボーカルは、少しだけ物憂げでダウナーな雰囲気を持っている。欠点のように思えるが、これは間違いなく、繊細さという面でストロングポイントなのである。それがむしろ曲の背景となるギターロックと絶妙なコントラストを描き、迫力をもたらしている。


オープナー「Ditch」のサウンドは、エリオット・スミスのように、インディーフォークやサッドコアの雰囲気に縁取られているが、ロックのアプローチを選ぶことにより、絶妙な均衡を保っている。そして、静と動をギターの重ね録りによって音量のダイナミズムを表現しながら、フォークロックとシューゲイズの間を行き来している。


この曲のサウンドは、従来よりもノイジーに聞こえる。だが、その中で独特な美的センスが現れることがある。メロディアスなきらめきともいうべき瞬間が、ミニマルな構成からぼんやりと立ち上ることがある。例えば、3分前後の轟音のフィードバックギターから、癒やされるような音楽性が滲み出てくる。それは、バンジョーの演奏から繰り出されるアメリカーナの要素が、スーパーチャンクのような、ほっこりするようなハートウォーミングな音楽性を作り出すのである。

 

二曲目「First Day」は、カスピアンらしい持ち味が現れ、ジョギングをするような軽快な疾走感を持つロックソングである。今回のアルバムでは、ギターを多重録音し、異なるコードを演奏しながら、その中でムードのあるボーカルが心地よい雰囲気を作る。前作では、ドラムの録音やミキシングに結構苦労したような印象があった。しかし、今回のアルバムでは慣れたというべきか、その経験を踏まえて、ミックスの側面で、ギターやボーカルと上手くマッチしている。


この曲では、良質なシンガーソングライターとしての表情だけではなく、名プロデューサーとしての性質を捉えることが出来るかもしれない。そして、前作アルバムでも登場した女性ボーカルとのデュオも同じように物憂げな雰囲気を醸し出す。そのサウンドには前作と同様、Rideの90年代のメロディアスで哀愁に満ちたロックソングの影響が捉えられる。二本以上の重厚なギターサウンドの迫力はもちろん、アウトロではドラムのテイクが強い印象を及ぼす。今作はソロアルバムの性質が強いが、依然としてバンドアンサンブルを重視していることが痛感出来る。

  

ジョンストンは、『Autofiction』に関して、''今この瞬間を楽しむことをモットーにしている''という。序盤から中盤にかけての以降の三、四曲は、フラットなアルトロックソングを聴くことが出来るが、それぞれ異なる音楽性に縁取られ、録音を通して現在を楽しんでいる様子が伺える。


このアルバムが、どのように評価されるか、もしくはどのような完成品になるのかというのを考えず、ミュージシャンは直情的でストレートなサウンドを重視している。そのサウンドは飾り気がなくどこまでも実直だ。またジョンストンは自分を楽しませることが良い作品を作るための近道であることをよく知っている。「The Sound Changind Place」ではスロウテンポのギターロック、続く「Window」ではミドルテンポのギターロックを提供し、心地よく、時に切ない叙情性を曲の節々に込めている。


「Lough」では、パワーポップやジャングルポップ風のサウンドを選び、これもまた独特な甘酸っぱさがある。上記の三曲はアナログのコンソールを取り入れたことにより、本格的なローファイサウンドを獲得した。 ザラザラとした質感を持つギターサウンドは、現代のアルトロックの主流のサウンドディレクションだ。カスピアンの場合は幻想的な雰囲気を兼ね備えている。

 

アルバムの中では、フォーク・ロックやジャングルポップなどの音楽性が強いように思える。しかし、その中でシューゲイズ色が強いのが続く「Here Is Now」である。 このアルバムの重要な録音方法であるギターの多重録音で得た重厚なギターサウンドをベースにして、ドリームポップのような夢想的なジョンストンのボーカルが揺らめく。


ジョンストンのボーカルや歌詞には、伝統的な英国詩人のような性質がある。そして、それらが、轟音性を強調したサウンドと、それとは対象的なミニマルなエレクトロニックの静かなサウンドを対比させ、起伏のあるロックソングを構築する。それほど構成は奇をてらわず、ヴァースからコーラスにそのまま跳躍するというのも、聴きやすさがある要因なのかもしれない。


ともあれ、前作アルバムから引き継がれるエレクトロニックの音楽から触発を受けたサウンドがミニマルな構成を持つロックソングと結びつく。また、最新アルバムでは、ドラムの録音に結構こだわっており、硬質な響きを持つスネアが力強い印象を帯びている。最終的には、生のドラムの録音をエレクトロニックの打ち込みやサンプラーのような音として収録している。こういったアコースティックなサウンドを活かしたロックソングがこのアルバムの持ち味である。


アルバムの前半部から中盤部は、前作アルバムの復習ともいうべきサウンドが顕著だ。しかし、完全な自己模倣には陥っていない。新しい音楽性がアルバムの終盤になって登場する。アーティストの持ち前のローファイ性をサイケのテイストで縁取った「A Drawing Of The Sun」は、American Footballの『LP1』のポスト世代に位置づけられる。エモ好きは要チェックだ。

 

また、「An Outstreched Hand/ Rain From Here to Kerry」はオーストラリアのRoyel Otisのようなポストパンク勢からのフィードバックを感じさせる。ただ、ファー・カスピアンの場合は、美麗なギターのアルペジオを徹底して強調させたキラキラとした星の瞬きのようなサウンドが特色である。音楽の系統としてはエモ。しかし、このアルバムでは、柔らかさと強さが共存している。これはたぶん、前作にはなかった要素であり、シンガーソングライターとしての進歩を意味する。

 

終盤にも注目曲が収録されている。「Autofiction」は、エモとアルトロックの中間域にあるミドルテンポの女性ボーカルとのデュエット形式で展開される。この曲は、二曲目「First Day」と同じように、ファー・カスピアンのアイルランドのルーツを伺わせ、スコットランド民謡のダブル・トニック(楽曲の構成の中で2つの主音を作る。二つの調性を対比させる形式)の影響がバラード風のロックソング、スロウコアやサッドコアのようなインディーサウンドに縁取られている。


前回のアルバムではニッチなロックソングもあったが、今回のアルバムにおいてファー・カスピアンの音楽は一般性を獲得したように感じられる。一見すると矛盾しているようだが、徹底して自己を楽しませることにより、広汎なポピュラー性を獲得する場合がある。それは、自分が楽しんでいるから他者を楽しませられるという、ごくシンプルな理論。このロジックに即して、ジョエル・ジョンストンは、相変わらず良質なインディーロックアルバムを制作している。


「Whim」のようなサウンドはグランジ的な響きが漂う。90年代のアメリカのカレッジ・ロックの系譜にあるファー・カスピアンらしいサウンド。これらのスタイリッシュでマディーな匂いのするアルトロックソングは、他のバンドやアーティストの作品ではなかなか聴くことが出来ない。

 

クローズ曲「End」はエレクトロニカとロックの実直な融合である。そこにあるのは、やはり''瞬間に集中する''ということである。何ができるかわからないが、やってみる。これがロックの楽しみだ。本作を通じて、何かしら新しい音楽の芽をアーティストは見つけたに違いない。楽しみは苦しみを凌駕する。音楽を心から楽しむこと。それは結局、受け手にも伝わってくる。前作は会心の一作だったが、今作でもカスピアンは人知れず、良質なアルバムを制作している。

 

 

82/100 

 

 

 

「A Drawing of The Sun」  

Madeline Kenney 『Kiss From The Balcony』
 

 

Label: Carpark

Release: 2025年7月18日 

 

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Review

 

この数年来、カルフォルニア/オークランドのシンガーソングライター、マデライン・ケニーは実験的なポップソングを制作しており、アヴァン・ポップやアブストラクトポップのリーダー的な存在と言っても過言ではない。

 

2023年の『A New Reality Mind』はシンガーソングライターとしての才能が花開いた瞬間だった。前作のリリース後、ベン・スローン、スティーヴン・パトータと一緒にツアーを敢行。そのツアーは音楽的に刺激的だった。3人は異なる都市に住んでいたが、一緒にフルアルバムに挑戦しようと考え、各々のハードドライブに散在していた断片的な曲は、音の探求、ボーカルパフォーマンス、プロダクションスタイル、世界観の構築といった分野で実験へと発展した。孤独、理想化された恋愛、不満、女性性といった歌詞のテーマは、メインテーマの「コラボレーションがアイデアを最大限に成長させ、そして飛翔させる」というメッセージを支える要素となっている。

 

このアルバムは、サウンドコラージュの志向が強く出ている。しかし、分散的にはならず、曲としてまとまりがあって聴きやすい。それは全般的には聴きやすいポップソングの中の枠組みの中に収まっているからなのかもしれない。しかし、それは非常に多彩な形を持つ音楽として現れ、掴みどころがないようでいて、しっかりとした味わいがある。


アルバムの冒頭を飾る「Scoop」はサイケポップバンドのようなカラフルな印象に縁取られ、それがソロシンガーというより、アンサンブル形式で展開される。クルアンビンのようなサイケ性があるが、この曲の場合はレコードのレトロ感覚がある。


それは結局、ベイエリア風のヨットロックやチルアウトのような西海岸の音楽と組み合わされ、それがケニー持ち前のソフィスティポップとバロックポップ、あるいはドリーム・ポップの中間に位置する親しみやすいメロディーラインで縁取られる。 ケニーの歌い方もおしゃれな感じがして素晴らしい。また、このボーカリストの歌声はなぜか奇妙なほど耳に残る。それはとりも直さず、無類の音楽好きとしての性質が反映されているからなのだろうか。


音楽のコンポジションの手法は高度であり、聴く方も一筋縄ではいかない。口をぽかーんと開けていれば良いのではなく、自分から良さを探しにいく必要がある。それは続く「I Never」を聴くと分かる。アフロ・ビートやアフリカの民族音楽、あるいは先鋭的なスピリチュアル・ジャズのような音楽をクロスオーバーさせ、解釈次第では、ヒップホップの系譜にあるローファイの核心に迫っている。


しかし、この曲が単なる音源ではなく、生きた音楽のようになっているのが好ましい点である。特にバンドアンサンブルとしてのキャラクターを押し出し、プログレッシヴジャズのインストとしても聞かせる。しかし、それらの音楽性は必ずしも定着せず、ケニーが得意とするアヴァン・ポップやアブストラクト・ポップのような前衛的なスタイルで縁取られる。ファッションで言えば、服に着られることもない。いわば、音楽を自在に操縦出来ているような感じがして、荒唐無稽な音楽的なアプローチを選ぼうとも、ボーカルが浮いたり、違和感が出ないのが素晴らしい。この曲で、マデライン・ケニーは音楽という波を変幻自在に乗りこなしている。

 

そんな中、ラナ・デル・レイ、エッテン、エンジェル・オルセンのような音楽性を選んだ「Breakdown」の完成度が際立っている。ギター、ドラム、ピアノのようにシンプルな楽器が取り入れられ、特にミックスやマスターの面でかなり力が入っている。オーケストラヒットのように雄大で迫力のあるスネアが、マデライン・ケニーのどことなく夢想的で陶酔感のある歌声を上手い具合に引き立て、この曲のバラードソングとしての性質を否応なく高めるのである。


ボーカル自体はクリアであるが、この曲の背景となる様々な要素が煙のようにうずまき、また、夏の幻想のような景色を形作る。どことなく大陸的な雄大さを持つパーカッション、シンセのシークエンス、そして民族楽器のように響く異国的なドラムが複雑に折り重なり、瞑想的でサイケデリックな雰囲気すら持ち合わせている。


また、そういった中で、曲が単調になることはほとんどない。フィルターや逆再生のような音楽的なデザインが施され、この曲の色彩や印象、そして微細なトーンすら曲のランタイムに応じて変化させる。さらに2分後半からは音楽的にはより瞑想的になり、ドアーズ風のロック的なテイストが漂う。

 

「Slap」のような曲を聴けば、ポップソングの新しい形態が台頭したことに気がつくはずだ。いわば、この曲はジャズ的なドラム、トロピカルの要素、あるいはヨットロックやソフィスティポップのような音楽性を組み合わせて、前代未聞のアートポップソングを作り出している。ビートそのものはヒップホップ、ミニマルミュージックなどの要素を絡め、アフリカの民族音楽のようなポリフォニックなリズムを作り出す。そしてマリンバの音階を挟み、曲の後半では、ミニマルテクノへと傾倒していく。これらは一曲の中で、複数のジャンルが入れ替わり、曲のセクションごとに全く別の音楽が現れる。ジャンルを決め打ちしないで、前衛的な側面と商業的な側面のバランスが絶妙な感じで保たれていて、ほとんど飽きさせるものがない。シンガーソングライター、ないしはトリオとしてのバンドの人生的な背景を暗示するかのように、ひとつ所に収まることはない。まるでこれらはジプシーやノマドのポップソングのようである。


「Cue」は、メロディアスで聴きやすいフォーク・ミュージックである。しかし、この曲でもミックスやマスタリングが素晴らしく、ギターの低音を強調したり、まるでその吐息をもらさず拾うかのようなコンデンサーマイクの性能がクリアなサウンドヴィジョンを生み出し、ボーカルが歌われている瞬間にとどまらず、その歌と歌と間に曰く言いがたいような美的なセンスを感じさせる。音楽が鳴っていない瞬間の精細な感覚をとどめているという点で、素晴らしいプロデュースである。実際的に、マデライン・ケニーは、アンビエントフォークのような音楽性を駆使して聞き手を奇妙な陶酔的な感覚へと誘う。この曲もまた、序盤から中盤、それから終盤にかけて、驚くべき展開が用意されている。この曲のクライマックスでは、ギターのアルペジオに並行してシンセサイザーによるトーン・クラスターのような現代音楽の前衛性が登場する。

 

前作とは打って変わって、2000年代頃のエレクトロニック・ミュージックの性質が色濃いのも聴くときの楽しみとなるに違いない。「Semitone」は2020年代の新しいエレクトロ・ポップの登場と言える。しかし、それらは決して精彩味のない音楽にはならないのが驚きだ。重厚でダイナミクスを活かしたドラム、そしてウェイヴのように畝るシンセのアルペジエーター/モジュール、こういった電子音楽的な要素とバンドセットの要素が結びつき、言うなれば音楽のキャンバスの中に組み込まれ、それらを背景にハイセンスなポップソングが歌われている。音程もまたマギー・ロジャースのようにスポークンワードとボーカルの中間にあるニュアンスを活かし、新しい時代のポピュラーミュージックを予見している。おそらく、2020年代後半以降になると、ジャンルというものはさほど意味をなさなくなっていく気配がある。この曲に関しては、ブライアン・ウィルソンの系譜にある独特なトロピカル性、そしてヨットロックのようなまったりとした感覚が組み合わされ、ドリーム・ポップに近い音楽へと接近していく。

 

それを象徴付けるのが続く「Paycheck」である。シカゴドリルやニューヨークドリル、あるいはUKドリルで使用されるグリッチは、もはやヒップホップから離れ、ポピュラーソングの中に取り入れられつつある。しかし、それらの音楽性を決定付けるのはラップではない。バロックポップのような60、70年代のポップソングの系譜に根ざした懐古的な音楽性、キャロライン・ポラチェック以降のアートポップへの飽くなき挑戦を意識付けるボーカルである。この曲のトリッピーな展開はおそらく誰にも予測することは出来ないだろう。また、これらはエレクトロニック風の曲展開の中で、変調を交えたり、変拍子的となったりと、ほとんどカオスな様相を呈する。これはプログレッシヴポップへの新しい扉が開かれた瞬間となるかもしれない。

 

終盤でも良曲に事欠かない。「They Go Wild」は長らく空白が空いていたTOTOの次世代のAORとも言える。また、この曲の民族音楽的な音階、そしてアフリカのゴスペル音楽のような独特な開放感を持つアンセミックなボーカルのフレーズは聴けば聴くほどに面白いものが見つかりそうだ。


アルバムのクローズ曲「All I Need」はフォークトロニカの現代版であり、フィールドレコーディングの鳥の可愛らしい声が収録され、それらがスロウなポップソングの中に組み込まれている。しかし、全般的には前衛的な作風の中でケニーのメロディーメイカーとしての抜群のセンスが際立つ。これらが、それほどアヴァンギャルドなポップソングになろうとも、曲の構造が崩れない要因だろう。言うまでもなく、バンドメイトの演奏面での多大な貢献も見過ごせない。

 

 

86/100

 

 

「Scoop」 

  Wet Leg 『Moisturizer』


Label: Domino

Release: 2025年7月11日

 


Review

 

ワイト島のリアン・ティースデールとヘスター・チェンバーズが結成したウェット・レッグのは、この数年、大型のフェスを始めとするライブツアーを行う中、エリス・デュラン、ヘンリー・ホームズ、ジョシュア・モバラギの五人編成にバンドに成長した。

 

デビューアルバム『We Leg』では、ライトな風味を持つポスト・パンク、そしてシンガロングを誘発する独特なコーラスを特徴とし、世界的に人気を博してきた。その音楽性の最たる特徴は、パーティロックのような外向きのエナジー、そして内向きのエナジーを持つエモーションの混在にある。痛撃なデビューアルバム『Wet  Leg』は、その唯一無二の個性が多くのリスナーを魅了し、また、ウェット・レッグをヘッドライナー級のアクトとして成長させた要因ともなった。デビュー当時は、ギターを抱えてパフォーマンスをするのが一般的であったが、最近ではリアン・ティースデールはフロントパーソンとしてボーカルに集中するようになった。

 

2作目『Moisturizer』にはデビューアルバムの頃の内省的な音楽性の面影は薄れている。むしろそれとは対極に位置するヘヴィネスを強調したオープニングナンバー「CPR」は、そのシンボルでもあろう。オーバードライブをかけたベースやシンプルなビートを刻むドラムから繰り出されるポスト・グランジのサウンドからアンニュイなボーカルが、スポークンワードのように続き、サビでは、フランツ・フェルディナンド風のダンスロックやガレージロックの簡素で荒削りなギターリフが折り重なり、パンチの効いたサビへと移行していく。スペーシーなシンセ、そして、ポスト・パンク風のヴォーカルとフレーズ、そのすべてがライブで観衆を踊らせるために生み出された''新時代を象徴付けるパンクアンセム''である。その一方、二曲目では大衆的なロックのテクニックを巧みに身につけ、アコースティックギターからストロークス風のミニマルなロックソングへと変遷していく。上記二曲はライブシーンで映えるタイプの曲だろう。

 

数年間の忙しないライブツアーの生々しい痕跡は続く「Catch These Fists」に反映されている。すでにライブではアンセム曲であり、また、ライブパフォーマンスにおいても個性的な演出が行われる。狂乱的なギターのイントロに続いて分厚いベースラインが繋がり、そしてやはり、Wet Legの代名詞的なロックのイディオムである''囁くようなスポークンワード''が絶妙な対比をつくり、ブリッジでは例のセクシャルなダンスパフォーマンスが脳裏をよぎる。しかし、サビではイントロのモチーフを生かしたダンスロックやガレージロックへと変わる。この瞬間に奇妙なカタルシスのようなものを覚える。いわばロックナンバーとしては申し分のない楽曲なのだ。

 

以降の三曲は、五人編成によるデビューアルバムとは対象的な重厚なサウンドを楽しめる。ダンスパンクやガレージ・ロック、グランジなどを下地に、ヘヴィーなロックソングを追求している。しかし、その中には、やはりWet Legらしさがある。「Pond Song」にはスペーシーな世界観やスチームパンクのようなSFの感覚というように、スタンダードなロックソングの枠組みの中にバンドらしさを感じ取ることもできる。しかし、同時にヘヴィネスが加わったことにより、デビューアルバムには確かに存在した唯一無二の魅力も薄れてしまったのも事実だろう。言葉には尽くせないが、このアルバムのパワフルな感覚は大きな魅力なのだが、何かを見失っているという印象も覚える。ここにはヒットソングを書かねばという強いプレッシャーを読み解くことが出来た。しかし、いずれにせよ、アンセミックな曲を制作しようというバンドの心意気のようなものは明瞭に伝わってくる。そのチャレンジに関しては大きな称賛を送るべきだろう。

 

意外なことに、Wet Legの魅力が出てくるのは、一般性ではなく、個人的な趣味や特性が表れ出る瞬間にある。 例えば、デビュー・アルバムの延長線上にある少し軽めのポスト・パンクとドリーム・ポップが融合したような楽曲「Pokemon」は、むしろそういったプレッシャーや重圧から開放された瞬間ではないか。この曲は、売れる売れないは関係なく、バンドのソングライターが最も書きたかったタイプの曲ではないかと推測される。密かに東京のカルチャーへの言及がある。近未来的な雰囲気を持つモダンなロックナンバーで、素晴らしい一曲である。それとは対象的に、ノイジーなパンクナンバー「Pillow Talk」は、バンドの抱える不協和音のような感覚が表れ出ている。それは内在的なものなのか、Iggy Pop & The Stoogesのようなプロトパンクの形式のロックソングを通じて、内在的な歪みや奇妙な軋轢のようなものが反映されている。

 

このアルバムは、サイレンスとラウドを行き来するグランジの形式で行われるロック、従来のスポークンワードを活用したポストパンク、さらにはガレージ・ロック等、ロックの教科書のような内容となっている。さらに、従来にはない試みが取り入れられた曲も収録されているのに注目。「11:21」はストロークスへのオマージュだろうか? 少なくとも、バンドが最初にバラードに取り組んだ瞬間だろう。それはまだ完成されていないが、未知なる音楽性への期待が高まる。 リアンのボーカルはまるでステージとは別人のような繊細さと女優性を併せ持つ。

 

セカンドアルバムの全般的なレコーディングでは、むしろ相方のヘスター・チェンバースのギターが大活躍しているという印象で、実際的に職人的なプレイの領域まで到達しているのではないだろうか。どうやら察するに、ウェット・レッグはしんみりした形でこのアルバムを終わりたくなかったみたいだ。デビューアルバムと地続きにあるクローズ曲「u and me at home」で終了する。この曲にはデビュー当時のファンシーな音楽のテイストがどこかにのこされている。それがライブアクトで培われたアンセミックでシンガロングを誘発するフレーズと融合している。


ヤードアクトと同様、ウェットレッグは2ndアルバムの難しさに突き当たった。完全な録音作品にするのか、それとも、ライブの延長線上にあるロックアルバムにするのか、思い悩んだ形跡が残されているという気がする。しかし、同時に、過密なライブスケジュールを縫って制作された作品であることを考えると、ウェット・レッグの奮闘は大いに称賛されて然るべきだろう。

 

 

 

82/100

 

 

 

Best Track- 「Pokemon」