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 Shugo Tokumaru(トクマルシューゴ) - 『Song Symbiosis』

 


Label: Tonofon

Release: 2024年7月17日

 


Review


トクマル・シューゴの8年ぶりのニューアルバム『Song Symbiosis』は、今後開催される演奏イベントとトークショーでその全貌が明らかとなるということなので、詳細な楽曲の説明については御本人の解説を参考にしていただきたいと思います。

 

ということで、今回のレビューでは、全曲紹介は遠慮しておき、全18曲の大まかな概要と併せて注目曲をピックアップし、レビューをするに留めておきます。しかし、近年の日本のポップスとしての作風を踏襲しながらも、『L.S.T』の時代への原点回帰を図ったような作風であり、トクマルシューゴの代表作の一つに挙げられるに違いない。このアルバムでは、トクマルシューゴの代名詞であるアコースティックギター、バンジョー、トイピアノ、民族音楽の風変わりなパーカッションなど、お馴染みの多数の楽器を用い、バラエティに富んだ作品になっています。


以前から海外の珍しい楽器の収集に余念がなかったトクマルさんではありますが、単なる物珍しさでの楽器使用から、楽器の音響や音楽的な役割を活かした楽曲が際立つ。それが、この10年ほど、明和電機等のコラボレーション楽曲の制作を通して培ってきた日本のポピュラーミュージックとしてのソングライティングの構成の中にガッチリ組み込まれた作品となっています。

 

つい数年前、トクマルシューゴさんは日本のポップスについて松本隆氏の発言を引き合いに出して説明していました。


はっぴいえんどの松本隆氏の発言は、「人類の歴史的観点から考えると、まず思いがあり、思いに継ぐ言葉があり、それをメロディーに乗せてきた。そうやってポップスが生まれる歴史に繋がってきた」というもの。そして、松本さんは現代の日本の音楽に関して、次のように憂慮しているようです。


「日本は外国の真似をして、サウンド重視。かっこいいサウンドを真似して、それに合うメロディーをつけ、それから詩をつけるという逆の手順を踏んでいる。だから、日本の独自のものにならない」という。


私自身も身に覚えがあるため、耳の痛い話なのですが、トクマルさんはこの発言に関して次のように付け加えていました。「言葉に人の思いが乗っていないように感じるポップスの核心をついていると思う」


ただし、この発言は、トクマルさんが指摘するように、松本隆氏の言いたいことのすべてを表しているとは考えづらい。印象づけのための発言の切り抜きとも取れなくもないという。少なくとも前後の文脈を見ずに、結論付けるのは穏当とは言いがたい。そして、これが単なる批判的な意見かといえば、必ずしもそうではないように思われる。


トクマルシューゴさんも指摘するように、上記の発言には、「議論の余地が残されていて、そして、未来の日本の音楽に向けた建設的なメッセージになっている」というのです。


例えば、松本隆が在籍した''はっぴいえんど''ですら、必ずしも日本の音楽だけで成立していたものとはかぎらず、戦後、米国から輸入された洋楽文化の影響を受けつつも、その枠組みの中で日本独自の音楽的な表現や歌詞、音調といった表現性を探ってきました。そのため、いかなる地域の音楽であろうとも、その国の文化のみで成立するとは考えづらく、 完全な独自の音楽という概念が存在しえない。補足すると、単なる模倣のサウンドについて両者は指摘しているのが伺える。少なくとも、「日本語という言語が、どんなふうに音楽の中で響くのか?」 その答えらしきものを、両者ともに音楽活動を通じて探求してきたというイメージがある。そのため海外でも評価が高い。両者共に単なる海外音楽のイミテーションでは終わることがないのです。

 

かつて、トクマルシューゴは歌詞を書くときに、「時代や流行に左右される言葉を使用することを避けてきた」と語っていました。それは、いついかなる時代でも普遍的に受け入れられる言語性を組み込もうとしていることの証でもあり、それはこの8年ぶりの新作アルバムでも受け継がれています。

 

同じくTonofonに所属するフォークグループ”王舟”にも近い雰囲気を持つ牧歌的なフォークミュージック、民族音楽のリズム、そして従来から追求してきたトイトロニカの本来楽器としては使用されないマテリアルを活かし、音楽や作曲そのものに、これまで発見されてこなかった新鮮味とユニークな興趣をもたらす。そして、どの年代にも親しめ、また、いかなる場面でも楽しめるという音楽性に関しては、もはやこのアーティストの代名詞的なサウンドとも呼べる。そして、日本の民謡のような伝統的な音楽から、金管楽器のアレンジを用いた多幸的な雰囲気を擁するアンセミックなフレーズ、そして活動最初期からの特性であるインドやチベットの民族音楽に触発されたような瞑想的な響きを持つボーカルのフレーズ、それから音階進行に至るまで、従来培われてきた音楽的な蓄積を、アルバムの前半部において惜しみなく披露しています。

 

「Tolope」では、最初期のようなサイケデリック性は削ぎ落とされていますが、時を経て、それが簡潔なポップネスのストラクチャーの中に組み込まれたことが分かる。その一方、続く「Counting Dog」ではミニマルミュージックの要素を押し出し、それらに牧歌的なオルトフォークの要素を付け加え、そして時々、Bon IverやWilcoのサウンドに見いだせるようなコラージュのサウンドを取り入れている。また、Sigur Rosの名曲「Gobbledigook」からの影響も含まれている。


デビュー当初から、DIYやハンドクラフトの音楽にこだわってきたイメージもあるトクマルシューゴは、本作の序盤において、より編集的なサウンドのイメージを浮き立たせているように感じられる。そして一貫して、これまでと同様、キャッチーでポピュラーな音楽という要素が重要視されている。


そのことは、トイピアノの演奏を取り入れた「Hitofuki Sote」にも窺える。そして歌詞にもトクマルシューゴらしい特徴があり、文節として解釈したさいに、文脈をぼかすようなセンテンスを活用する。音楽的なニュアンスとして解釈した時、「音楽的な効果を及ぼす日本語」という、従来見過ごされてきたスペシャリティが明らかになる。彼はまた、この曲で、古典的な芸能に見出される「音調を持つ言語の特性」を蘇らせる。そして最終的には、洋楽の要素、民謡、他地域の民族音楽、普遍的な歌謡曲やポップスの要素を消化し、現代的なサウンドが構築される。これは音楽の探求者としてのアーティストの姿を浮かび上がらせるものとなっています。


「Abiyoyo」も民族音楽的な影響が反映されている。アフリカの儀式的な民族音楽の影響をうかがわせ、それらをヨーロッパの舞踏音楽のような形式と組み合わせ、ユニークな楽曲に昇華させている。こういった側面を見ると、海外の音楽の良さを取り入れながらも、日本的な詩情や表現性の理想的な側面を探求しようとしているのかもしれません。また、Gellersのドキュメンタリーフィルムを見ると、以前からビンテージピアノの音色の面白さに惹かれてきた印象もあるトクマルさんですが、それらの新しさとは対極にある古典的な音楽の影響が含まれているようです。


例えば、「Kotonohane」では、チューニングのずれたビンテージな雰囲気を持つピアノに、優しげで穏やかなボーカルのフレーズが加わる。


これはビートルズのような60年代のバロックポップを踏襲しているものと思われますが、「ことのはね/およぐなら」というフレーズを用い、童謡のようなノスタルジア溢れる音楽的な世界を作り出している。メインボーカルのバックグラウンドとなる、彼自身のコーラスワークも夢想的な雰囲気を作り出し、さらにアーティストの代名詞である温和な空気感を生み出している。これらの曲は、松本隆さんのご意見に賛同していたトクマルさんではありますが、現行の米国のクラシカルな音楽を探す、という現代的なテーマと連動した内容となっていることが分かる。

 

 

アルバムの序盤では、ポピュラーミュージックの中での音楽のバリエーションに焦点が置かれていますが、中盤ではフィールドレコーディングや民族音楽のテイストを押し出した楽曲が多い印象です。知る限りでは、最近の作品の中ではワールドミュージックの影響が色濃く反映された楽曲が収録されています。


「Resham Firiri」では、中近東やバリのような、世界的にあまり知られていない音楽を探索している。もちろん、これはバリ島の祭りや儀式的な文化など、日頃あまり知られていない音楽の魅力を堪能できるはずです。


本作のタイトル曲の代わりとなる「Bird Symbiosis」では、フィールドレコーディングを取り入れ、実験音楽に果敢に挑戦しています。


しかし、作曲については、それほどシリアスにならず、シンプルでユニーク、そして遊び心のある実験音楽の範囲にとどめられる。マリンバやシロフォンのような楽器の導入はオーケストラの影響も伺わせる。これらの作風が今後、どのような変遷を辿っていくのかを楽しみしていきたいところです。

 

アルバムの後半に差し掛かると、さらにユニークな音楽的な試みが登場します。「Atte Katte Nuwa」は、ビバップと民族音楽を掛け合わせ、レコードで素早く回転させたような一曲。この曲には、エキゾチズムとトロピカルの音楽的な背景にスポークンワードという現代的な音楽の要素が浮かび上がってくる。その他にも、70年代のコーラス・グループやドゥワップの影響を交え、それらをヒップホップのブレイクビーツのように組み合わせ、前衛的な試みが行われる。


その後、民族音楽の影響を活かした曲が続く。バンブーフルートを使用した「Bamboo Resonace」はドローンに挑戦し、タイトルの通り、レゾナンスの共振の変容とトーンの変容を活かし、モダンクラシカルやアヴァンギャルドの作風に繋げている。間奏曲のような意味を持つトラックのあと、「Mazume」では、最初期の『L.S.T』の時代の作風へと回帰しています。ギター・ソロやアメリカーナのスティール・ギターを導入したりというように、幾つか新しい試みを発見できる。変拍子のリズムを取り入れて、かなり複雑な曲の構造を作り上げていますが、ボーカルのメロディーのキャッチーさ、音楽の持つ親しみやすさという側面は変わらず。この曲にも、現代の洋楽、特に米国のオルトフォークと連動した音楽性を垣間見ることができる。

 

もし、『Song Symbiosis』の全体的なモチーフや何らかの一貫するテーマのようなものを挙げるとするなら、それは「音楽による世界旅行」と呼べるかもしれません。数知れない音楽の影響がある中、続く「Chanda Mama Door Me」では、インドのタブラやシタールの演奏を取り入れ、ベンガルの要素をポピュラー音楽に取り入れています。これらの飽くなき音楽に対する探究心は、ほとんど圧巻ともいうべき音楽的な知識や蓄積によってまとめ上げられている。そして最終的には、ベンガルの「バウル」のような大道芸人が道を流すときに奏でる音楽に直結する。そうかと思えば、「Oh Salvage!」では、ミュージカルのような音楽をベースにし、日本のポップスの形に昇華させる。音楽の持つエンターテイメントの要素はこの曲でハイライトを迎えます。

 

 

アルバムの終盤では、最近の音楽的な蓄積を踏まえつつ、最初期への回帰というテーマも発見できる。「Hora」は、バンジョーの演奏を取り入れたアーティストらしさのあるアイルランドフォークで、やはり牧歌的な雰囲気と開放感のある音楽性に縁取られている。続く「Autumn Bells」では、フィールドレコーディングを取り入れ、忘れ去られた夏の思い出のような情景を蘇らせる。 

 

トクマルシューゴの音楽は、サイケロックバンド、Gellers(ゲラーズ)の活動もあってか、マニアックでサイケデリックになることもありますが、優しげなイメージを持ち、どこか情景的なシーンを脳裏に呼び覚ます。 


日本の音楽は、歴史やその成り立ちから見ても、必ずしも論理や思想と密接な関係を持つとはかぎらない。それは、能や田楽といった伝統音楽の始まりが、人間の情感から引き出されるものだからです。


そして、もしかりに、情感を元に制作されるものが日本的な音楽であるとするなら、これほど理想的な音楽は存在しません。少なくとも、トクマルさんは以前からそれらを何らかの形式にしようと探求してきましたし、一般的に楽しめる作品として磨き上げてきました。それはニューヨークのインディペンデント・レコードから出発した『Night Piece』の時代から不変のようです。


トクマルシューゴはこれまで、シンガーソングライターとして私生活を伺わせる歌詞を書くのを極力避けてきた印象もあるものの、本作のクローズ「Akogare」だけは、その例外となるでしょうか。そして、距離を置いて聴くと、現代的な日本人の悩みの代弁であるとも解釈できる。しかしながら、そういった外的な要因に左右される現代的な気忙しい暮らしの中で、一般的なものとは少し異なるユニークな見方があること、別の視点が用意されていることを、この作品は示唆している。何らかの癒やしをもたらすようなアルバムであることは間違いなしでしょう。


本作の楽曲が今年のフジロックフェスティバルのセットリストに組み込まれるかどうか非常に楽しみです。


 

84/100

 

 

 

Best Track-  「Counting Dog」 

 

 

トクマルシューゴの新作アルバム『Song Symbiosis』はTonofonから7月17日に発売されました。ストリーミングはこちら。Tonofonでのご購入はこちら


収録曲:


01. Toloope

02. Counting Dog

03. Frogs & Toads

04. Hitofuki Sōte

05. Abiyoyo

06. Kotohanose

07. Sakiyo No Furiko

08. Resham Firiri

09. Bird Symbiosis

10. Canaria

11. Atte Katte Nuwa

12. Bamboo Resonance

13. Mazume

14. Chanda Mama Door Ke

15. Oh Salvage!

16. Hora

17. Autumn Bells

18. Akogare

Passepartout Duo and Inoyama Land  『Radio Yugawara』

 


Label: Tonal Union

Release: 2024年7月26日

 

 

制作背景:


パスパルトゥー・デュオはニコレッタ・ファヴァリ(イタリア)とクリストファー・サルヴィト(イタリア/アメリカ) によって結成され、2015 年以来世界を旅して「スローミュージック」と呼ぶ創造的な楽曲を発表している。 

 

著名なアーティスト・レジデンスのゲストや文化スペースでのライブ・パフォーマンスなど彼らはカテゴラ イズされる事なく活動して来ました。定住地を持たない彼らの音楽的巡礼の旅は最初 2019 年に日本を訪問。

 

この時に環境音楽と深く結び付いた事でサウンドに没頭し、2023 年に日本を再び訪れた彼らは 井上誠と山下康によるイノヤマランドの音楽に再会します。イノヤマランドは、細野晴臣がプロデュースしたアルバム「Danzindan-Pojidon」(1983 年)やグラミー賞にノミネートされたコンピレーション・アルバム 「KANKYO ONGAKU」(Light in The Attic Records)のリイシューも含めて世界的に高い評価を得ているデュオ。ニコレッタは、イノヤマランドに連絡を取ることに成功し、彼らの熱意が受け止められて今作の即 興セッションを行う事になったのです。


「デュオであることの意味、そして音楽を通じて人々がつながることの意味を深く考えている」


今作『Radio Yugawara- レディオ・ユガワラ』は 、ロンドンのTonal Unionから来週発売予定です。2023 年に井上誠の故郷である湯河原でレコーディングされました。彼の実家は幼稚園を運営しており敷地内のホールで行われたのです。

 

パスパルトゥー・デュオが到着すると、ホールには 4 つのテーブルの輪が用意されていました。テーブルには、ハンドベル、グロッケンシュピー ル、木琴、リコーダー、メロディカ、ハーモニカなど子供用の楽器が丁寧に並べられていたのです。テー ブルの周りには様々なベルやウィンドチャイムが吊るされた棚があり、この環境の中でそれぞれの演 奏者は自分の電子楽器をセットアップしました。

 

(1)「電子楽器のみ」、「アコースティックのみ」、「両方の ミックス」、

(2)「お互いのデュオ」のメンバーを交代して演奏する「4 通りのデュエット」、

(3)「制約なしに 自由に演奏」の 3 つのセッションに時間が分けられ、3 時間以上の音源を制作している。

 

期待感の高まるオープ ニング”Strange Clouds”ではシンセサイザーのベッドとクロマプレーン(パスパルトゥー・デュオが設計し たタッチレス・インターフェイスと無限のオーガニック・サウンドを特徴とする手製のアナログ楽器)を使って作られた緑豊かな風景を描くサウンドで、アルバム 11 曲の下地となっています。”Abstract Pets” ではパーカッシブなパルス音が作品の心臓となりアーシーなサウンドがきらめくグロッケンシュピール やウィンドチャイムを迎え入れています。


レビュー:

 

アルバムの音楽は奥深い鎮守の森を探索するかのような神妙な雰囲気に縁取られています。パスパルトゥー・デュオとイノヤマランドは、スモールシンセサイザーを駆使し、精妙な感覚と空気感を作り上げる。全曲はインストゥルメンタルで構成されています。鉄琴、メロディカなどユニークで一風変わった楽器を用い、エレクトロニカやトイトロニカのような作風を序盤に見出すことができる。そして、デュオは湯河原の風景を象ったサウンドスケープを描きだしています。

 

例えば、「Strange Cloud」では、夏の変わりやすい天候を巧みに描写するかのように、空に雲が覆いはじめるような情景をシンセ等の楽器を駆使してユニークな音像を作り上げる。そしてパーカッシヴな効果も相まって、涼し気な音響効果を及ぼす。続く「Abstract Pets」では日本の祭ばやしのような音像を作り上げる。その音楽に耳を澄ますと、太鼓や神楽、神輿を担ぐ人々の情景が目に浮かんでくるかのようです。これらはエレクトロニカの範疇において制作されていますが、ニコレッタ・ファヴァリ(イタリア)とクリストファー・サルヴィト(イタリア/アメリカ)のデュオの遊び心のある楽器の選び方や演奏手段によって、ひときわユニークな内容となっている。

 

本作は環境音楽として制作されたと説明されていますが、どちらかと言えば、なんらかの情景を呼び起こすためのサウンドスケープとして序盤の収録曲を楽しめるはずです。一方、抽象的なアンビエントも収録されており、「Tangerine Fields」はシンセパッドを用い、シークエンスを作り上げ、メロディカや鉄琴などの楽器を演奏することで、情景的な感覚はもちろんのこと、エレクトロニカの系譜にあるサウンドが作り上げられる。シンプルな構成で、それほど音の要素も多くないものの、聴いていて安らぎがあり、癒やしのためのアンビエントとして楽しめるでしょう。

 

また、単なる実験音楽の領域にとどまることなく、アルバムの冒頭のように、神社にいったときに感じられるような神秘的な空気感、森の中をそよ風が目の前をやさしく駆けぬけたり、遠くの方で雲が流れていくような情景、そして、木の葉の先から雫が滴り落ちるようなとき、制作者が湯河原で体験したかもしれない情景が素朴なサウンドによって作り上げられています。現代の複雑なアンビエントとは異なり、原初的な電子音楽として聞き入らせるものがあるはずです。


その後、水の情景をモチーフにしたようなサウンドが続き、「Observatory」では、電子音楽における描写音楽にパスパルトゥー・デュオとイノヤマ・ランドは挑戦しています。水の滴るような柔らかい感覚の音をもとにして、マレット(マレットシンセ)などを使用し、それにグリッチサウンドやミニマル・ミュージックの範疇にある手法を交えることで、巧みなサウンドスケープを描き出しています。レイ・ハラカミが生前に志向していたような、サウンドスケープと電子音楽におけるデザインの融合というテーマの範疇にある楽曲として巧みに昇華されている。

 

アルバムの中盤にも注目曲が収録されています。「Mosaic」は抽象的なピアノの断片から始まり、その後にスモールシンセを駆使して精妙な感覚を作り出す。これらはアメリカのCaribouのデビューアルバムのような精妙な空気感を持つグリッチサウンドに近づいたり、ドイツのApparatのようなアコースティックとエレクトロニックを組み合わせた電子音楽へと近づいたりする。そしてシンプルなピアノも演奏の中に穏やかさと温和さ、もしくは稀に高い通奏低音をを組み合わせることで、テープディレイやアナログディレイなどを用いて逆再生のようなフェーズを設け、神秘的な音響性を作り出す瞬間がある。これはアルバムのハイライトの一つとなるかもしれません。日本の建築の神秘的な空間性を電子音楽の観点から切り取ったような曲です。


以降の2曲はアンビエントが収録されており、アルバムの序盤や中盤とは異なる雰囲気に縁取られています。「King In A Nushell」はアナログサウンドを重視しながらドローンのような抽象的な音像を作り上げている。一方、「Xiloteca」ではSFのようなダークなドローンのテクスチャーをイントロに配し、シロフォンのようなアフリカの打楽器の演奏を織り交ぜ、民族音楽とアンビエントの融合に取り組んでいる。これらはエスニックジャズをアンビエントや電子音楽の観点から組み直したという点で、やや革新的な音楽性が含まれているといえるかもしれません。

 

しかし、こういった実験的な試みもありながら、アルバムの終盤では、パスパルトゥー・デュオ、イノヤマランドはやはり序盤の収録曲のように、癒やしと清々しさに充ち、遊び心のある電子音楽に回帰しています。


「Solivago」では、逆再生のピアノとアンビエントのシークエンスを組みあわせ、神秘的な雰囲気を持つエレクトロニカを制作しています。その中にはやはりトイトロニカの系譜にある本来であれば子供のおもちゃのような楽器を取り入れ、Lullatoneのようなハンドクラフトのかわいらしい電子音楽の世界を築き上げる。これらは安らぐような印象を重視したアジア的なエレクトロニカとして聞き入ることが出来るはずです。

 

「Berceuse」も水泡のような音像をモジュラーシンセで作り上げています。サウンドデザインのような意図を持ち、夏の暑さをほんのりと和らげるような一曲となっています。本作のクローズ曲「Axioloti Dreams」でも同じような電子音楽の方向性が選ばれ、可愛らしい感じのエレクトロニカとなっている。ただ、曲の最後にはパルス音が用いられ、前衛的な試みが用意されています。

 

 

* 上記はレーベルからご提供いただいた11曲収録のオリジナル・バージョンのアルバムを元にレビューしています。 



 

 


78/100

 

 

 

本作はLP盤の他、日本盤も発売されます。セッションの様子、及び、リリースの詳細は下記よりご覧下さい。  



セッションの様子:









アーティスト : Passepartout Duo and Inoyama Land (パスパルトゥー・デュオ・アンド・イノヤマランド)
タイトル : Radio Yugawara (レディオ・ユガワラ)
レーベル : Tonal Union/p*dis
■国内盤 CD/PDIP-6611/店頭価格 : 2,500 円 + 税
バーコード : 4532813536118
*国内盤CDのみボーナストラック”Paper Theater”収録
■国内流通盤 LP/AMIP-0363LP/店頭価格 : 5,900 円 + 税
バーコード : 4532813343631



アーティスト : Passepartout Duo and Inoyama Land (パスパルトゥー・デュオ・アンド・イノヤマランド)
タイトル : Radio Yugawara (レディオ・ユガワラ)
レーベル : Tonal Union/p*dis
■国内盤 CD/PDIP-6611/店頭価格 : 2,500 円 + 税
バーコード : 4532813536118
*国内盤CDのみボーナストラック”Paper Theater”収録
■国内流通盤 LP/AMIP-0363LP/店頭価格 : 5,900 円 + 税

 


バーコード : 4532813343631


CD : Track list


1. Strange Clouds
2. Abstract Pets
3. Simoom
4. Tangerine Fields
5. Observatory
6. Mosaic
7. King in a Nutshell
8. Xiloteca
9. Solivago
10. Berceuse
11. Axolotl Dreams
12. Paper Theater *CD のみボーナストラック


LP : Track list


A1. Strange Clouds
A2. Abstract Pets
A3. Simoom
A4. Tangerine Fields
A5. Observatory
B1. Mosaic
B2. King in a Nutshell
B3. Xiloteca
B4. Solivago
B5. Berceuse
B6. Axolotl Dreams
B7 > end. (Locked Groove)

 

 


INOYAMALAND(イノヤマランド) バイオグラフィー:


1977年夏、井上誠(key)と山下康(key)は巻上公一プロデュースの前衛劇の音楽制作現場で出会い、メロトロンとシンセサイザー主体の作品を制作する。この音楽ユニットは山下康によってヒカシューと名付けられた。

 

同年秋、ヒカシューはエレクトロニクスと民族楽器の混在する即興演奏グループとして活動を始め、1978 年秋には巻上公一(B,Vo)、海琳正道(G)らが参入、リズムボックスを使ったテクノポップ・バンドとして 1979 年にメジャーデビューする。
1982 年以降、井上と山下はヒカシューの活動と並行して 2 人のシンセサイザー・ユニット、イノヤマランドをスタート、翌 1983 年には YMO の細野晴臣プロデュースにより ALFA/YEN より 1st アルバム『DANZINDAN-POJIDON』がリリースされた。

 

その後、二人は各地の博覧会、博物館、テーマパーク、大規模商業施設等の環境音楽の制作に携わる。1997 年に Crescent より 2nd アルバム『INOYAMALAND』、1998 年には TRANSONIC より 3rd アルバム『Music for Myxomycetes(変形菌のための音楽)』をリリースし、10 数年振りにライブも行った。21 世紀に入り 1st アルバム他、各アイテムが海外の DJ、コレクターの間で高値で取引され、海外レーベルよりライセンスオファーが相次ぐなど、内外の再評価が高まる。

 

2018 年、デュオ結成のきっかけとなった 1977 年の前衛劇のオリジナル・サウンドトラック『COLLECTING NET』、3rd アルバム『Musicfor Myxomycetes [Deluxe Edition]』、1st アルバム『DANZINDAN-POJIDON [New Master Edition]』、2nd アルバム『INOYAMALAND [Remaster Edition]』、ライブアルバム『LIVE ARCHIVES 1978-1984 -SHOWA-』、『LIVE ARCHIVES 2001-2018 -HEISEI-』を連続リリース。 中でも世界的に再評価されている。『DANZINDAN-POJIDON』は、オリジナルマルチトラックテープを最新技術で再ミックスダウン、マスタリング、ジャケットもオリジナルとは別カットのポジを使用し、新たな仕様にした事が評価された。

 

 

近年はアンビエントフェスのヘッドライナーを務めるなど、ライブ活動と共に海外展開も活発化。『DANZINDAN-POJIDON』をスイスの WRWTFWW から、委嘱曲のみのコンピレーションアルバム『Commissions:1977-2000』を米 Empire of Signs からリリース、2019 年には米 Light in The Attic 制作の、80 年代の日本の環境音楽・アンビエントを選曲したコンピレーションアルバム『環境音楽 Kankyō Ongaku』に YMO、細野晴臣、芦川聡、吉村弘、久石譲等と並び選曲され、同アルバムがグラミー賞のヒストリカル部門にノミネートされ、更なる注目が集まる。


2020 年、22 年振りとなる完全新作による 4th アルバム『SWIVA』、翌 2021 年に 5th アルバム『Trans Kunang』をリリース。リリースの前後にはクラブミュージックの世界的ストリーミング番組、BOILERROOM、国際的に芸術文化活動を展開する MUTEK、ほか OFF-TONE、FRUE、FFKT といったフェスティバル、各種音楽イベントへの出演を継続。
最新作は 2023 年 12 月リリースの『Revisited』(Collecting Net/ExT Recordings)。

 


Passepartout Duo(パスパルトゥー・デュオ)バイオグラフィー:

 

ニコレッタ・ファヴァリ(イタリア)とクリストファー・サルヴィト(イタリア/アメリカ)によって結成され、エレクトロ・アコースティックのテクスチャーと変幻自在のリズムから厳選されたパレットを作り上げるデュオ。2015 年から世界を旅して「スローミュージック」と呼ぶ創造的な楽曲を発表している。

 

アナログ電子回路や従来のパーカッションを使って小さなテキスタイル・インスタレーションからファウンド・オブジェまで様々な手作り楽器を駆使して専門的かつ進化するエコシステムを開発し続ける。著名なアーティスト・レジデンスのゲストや文化スペースでのライブ・パフォーマンスなどカテゴライズされる事なく活動。ウォーターミル・センター(米国)、スウォッチ・アート・ピース・ホテル(中国)、ロジャース・アート・ロフト(米国)、外国芸術家大使館(スイス)など世界各地で数多くのアーティスト・レジデンスの機会を得ている。また 2023 年には中之条ビエンナーレに参加し、4 月には”Daisy Holiday! 細野晴臣”に出演。2024 年には”ゆいぽーと”のアーティスト・イン・レジデンスとして来日し東北・北海道を訪れています。

 Land Of Talk  『The EPs』 


 

Label: Saddle Creek

Release: 2024年7月12日

 

 

Review

 

現在、オルタナティヴロックの再興が起こっているのが、カナダのモントリオール。ジャズフェスティバルを中心に栄えてきたモントリオールのバンドは、米国のオルタナティヴロックの系譜に属しながらも、音楽性の性質が少し異なることで知られています。


そして、無名のバンドであっても、意外とベテランのバンドが多い。エリザベス・パウエル率いるLand Of Talkは、デビューからキャリア18年目に突入しているが、今なおデビュー当時のバンドのような熱情や鮮烈さを失わずに活動をつづけています。

 

「The EPs」はバンドの最初期の音楽性を踏襲し、テクスチャーとトーンの実験性を活かし、憧れと贖罪をテーマにしている。ポスト・パンクからのフィードバックがあるという点では、同地のColaと同様だが、ボーカリストのエリザベス・パウエルのボーカルが独特なキャラクター性を付け加えている。


オープナー「Sixteen Asterisk」は、ポスト・パンクサウンドとオルトロックの中間を行く楽曲であるが、パウエルのボーカルは何かに対する憧憬を示すかのように、ポピュラーの要素を付加する。しかし、バンド全体のサウンドは平凡なものにはならず、少しひねりが付け加えられている。


もちろん、変拍子を織り交ぜた立体的なサウンド、そしてシンセサイザーの要素がポスト・パンクバンドとしての性質を強化し、ニューヨークのBodegaのような先鋭的な音楽性をもたらす。さらに、ジャキジャキとした不協和音を活かしたギターが、それらに独自のテイストをもたらす。テクスチャーとトーンの複雑性という実験的な要素がありながらも聞きやすいのは、エリザベスのボーカルがポップネスを意識しているからでしょう。

 

 

懐古的なメロディーを擁するシンセピアノで始まる「May You Never」は、どことなく映画音楽のようなピクチャレスクな印象をもたらす。バンドの実験的な性質を象徴づけている。そして、その後、米国のフィラデルフィアのバンドとも共鳴付けられるようなオルトロックソングへと移行する。


特に、シンプルなドラムのプレイから引き出される、アンセミックなパウエルのボーカルは、米国のバンドとは異なるエキゾチズムをもたらす。ボーカルと呼応するようにして暴れまわるギターラインは、Land Of Talkの象徴的なサウンドと言えるでしょう。


しかし、その後、ディストーションを配したローファイなギター、さらにはドライブ感を持つドラムサウンドがバンド全体を巧みにリードし、ボーカルを上手く演出したり、引き立てたりしている。いわばベテランのバンドとしての巧みな展開力やリズムの運びが、曲に聴きごたえをもたらす。荒削りであるが、米国の90年代や00年代のSebadohのようなサウンドは、かなり魅力的です。


Land Of Talkのようなバンドは、男性のボーカリストをフロントマンに擁するバンドとは異なり、その夢想的な雰囲気や恋い焦がれるようなアトモスフィアが含まれる場合が多い。それらが硬派なオルトロック・バンドとしての枠組みの中、絶妙なバランス感覚をもたらすことがある。Alvveys、Ratboys、Wednesdayといった現代の注目すべきオルトロックバンドは、このバランス感覚を上手に活かしながら、聞きやすく乗りやすいインディーロックソングを制作している。

 

ご多分に漏れず、Land Of Talkも同様に、「As Me」「A Series of Small Flames」といった中盤のハイライトの中で、これらの幻想性と夢想的な感覚をオルトロックソングの中に織り交ぜている。ドラムの演奏がバンドの司令塔や大きな骨組みとなっているのは事実だが、その前面で変幻自在に展開されるギターやボーカルは、シューゲイズ風のギターを披露したり、また、それとは別に、90年代の米国のオルタナティヴロックのように乾いた質感を持つフレーズを演奏している。 


これが全体的に合わさることで、ボーカルのThrowing Musesの系譜にあるファンシーなロックソングが構築される。一方、「A Series of Small Flames」では、Ratboysを彷彿とさせる夢想的なインディーロックソングである。続いて、「As Me」では、ギターがシューゲイズの範疇を越えて、アートのドローイングのような色彩的なテクスチャーを作り上げ、最終的にサイケデリックな性質を帯びる。これらは、彼らが平均的なバンドではないことの証立てになるかもしれません。

 

「Leave It Alone」、「Moment Feed」に関しては、エクスペリメンタルポップを下地にしたオルトロックソングに移行する。


これらはエリザベス・フレイザーのような現代的なアートポップソングを重視したバンドサウンドと称せるかもしれない。 後者の「Moment Feed」では、アルバムの序盤のポストパンクの系譜にある変則的なリズム、立体的なサウンドのテクスチャーを構築し、リアルなサウンドを作り上げる。ベースラインが全体的なサウンドから浮かび上がってくる時、バンドのもう一つのキャラクターである"シックな印象"が立ちのぼる。


「Something Will Be Said」では、バンドのローファイ、サイケ、R&Bなどの意外な性質がにじみ出て、EPの全体的な印象はガラリと一変する。最後の曲には、パウエルのソングライターとしての才覚が遺憾なく発揮されているようにおもえる。ギターとシンセのテクスチャーが組み合わされると、夢想的とか幻想的とかいう月並みな言葉以上の深さがにじみ出てくるのです。

 

"音楽によるアトモスフィア"といえばそれまでに過ぎませんが、この最後の曲には、バンド全体のスピリットのようなものが宿っている。アウトロの流れを生み出す熱狂的なギターソロ、背後のテクスチャーを構成するギター、シンセが組み合わされ、イントロからは予測しえないような壮大なエンディングを生み出す。この曲では、全体で一つになるような理想的なサウンドが味わえます。


本来は分離した存在がアンサンブルを通じて、どのような一体感をもたらすか? これは、バンドや複数のミュージシャンのセッションという形態でしかなしえないことでもある。

 

多くの方がご存知の通り、現在は有力な各メーカーの開発力によって、レコーディング技術が日々進歩し続けているため、ソロアーティストでもバックバンドやコラボレーターの協力を得ることにより、バンドに引けを取らない高い水準のサウンドを制作出来るようになっています。そのため、今後は、バンドでなければいけない理由を示すことが重要になってくるかもしれません。

 

 

78/100 

 

Clairo 『Charm』 

 

Label: Clairo Records LLC.

Release: 2024年7月12日


Review  


ポピュラーミュージックの良心


クレイロの最新作『Charm』は、チェンバーポップ/バロックポップ、そしてビンテージソウルを巧みに踏襲し、それらをローファイの録音により現代的なポップスの最高水準の作品へと昇華させている。従来の作品から受け継がれるソングライティングの良いメロディー、展開力、そして音感の良さは、最終的にクレイロのボーカルの温和な雰囲気で彩られると、ギルバート・オサリバンやカーペンターズのようなクラシカルなポピュラー・ミュージックに変化する。クレイロはベッドルームポップを卒業したとみて良いだろう。素晴らしいソングライティング。

 

もちろん、クレイロの音楽をポピュラーだけの側面から語ることはむつかしいだろう。その中に多彩な音楽性が含まれ、それがこのアーティストの最大の魅力となっている。アウトプットにはフラワームーブメントのサイケデリックやヴィンテージソウルも含まれる。そして自動車産業とともに機械工業として発展したデトロイトを中心とするノーザンソウルやモータウン・サウンドを通過し、親しみやすく内的な情感を活かした素晴らしいポピュラーアルバムが誕生した。


最新作『Charm』のマスターの過程では、録音した音源をテープ・サチュレーターのような機材に落とし込んだという。つまり、ヒップホップやミックステープ発祥のローファイの録音のプロセスが導入されていることが、アルバム全体にアナログの質感を付け加えている。デジタルサウンドで録音されていながら、ヴィンテージ・レコードのような懐かしさと深みが漂うのである。

 

 

現在のアメリカのポピュラーミュージックの主流は、背後に過ぎ去った国家の文化的な遺産をどのように現代に活かすのか、ということに尽きる。この動向は、一、二年前から始まっており、東海岸から西海岸に至るまで主要なアーティストがある種の命題やテーマ、モチーフとして掲げるようになっている。


回顧的な音楽は、太平洋の向こう側から見ると、アナクロニズムにも見えるかもしれないが、それは単にノスタルジアや懐古主義を象徴づけるものではない。アメリカの現代の音楽の中に内在するのは、商業的な発展とは相異なる米国社会の核心にある概念を捉えるということである。米国社会や現代の社会構造に組み込まれる市井の人々が産業や文化の変遷に絶えず翻弄される中、普遍的なものは何なのか、時代を越えて伝えたい思いはどのようなことなのか、アメリカの文化の根幹や中枢にある消えやらぬ真実を、アーティストらは真面目に探し求めている。


そして、60、70年代の古典的な音楽を踏襲し、オーケストラ楽器をポピュラー音楽の枠組みの中に配して、聞きやすく親しみやすいものとする。このアルバムに漂う絵画的な雰囲気はアルバムのアートワークとばっちり合致しており、それはヨハネス・フェルメールの絵画のようなミステリアスさと上品さに縁取られていると言える。音楽が単なる音の発生で終わらず、何らかの意味を持ち、そして何より素晴らしいのはイメージの換気力があることだろう。 

 

前半部では、三分のポピュラーの理想形が示唆されている。序盤では、テープサチュレーターの二段階の録音形式を活かし、バロックポップとビンテージソウルという2つの大きな枠組みの中で、ときおり、ローファイやサイケデリックのテイストをまぶしながら、センス抜群の音楽性を発揮している。

 

先行シングルとして公開された「Nomad」は、サチュレーターをかけたヴィンテージソウルで始まる。これらはデジタルレコーディングでありながら、古いレコードやそれよりもさらに古い蓄音機からクレイロの音楽が流れてくるような錯覚をおぼえさせる。


しかし、その後、ギルバート・オサリバンやカーペンターズの音楽性を踏まえた魅惑的なバロックポップワールドが繰り広げられる。


コーラスとフォークミュージックを象ったギターラインに引き立てられるように、オーケストラのティンパニのような音響効果を狙ったローリング・ストーンズや最初期のヴェルヴェット・アンダーグランド風のダイナミックなパーカションにより、このアルバムは一曲目ですでにポピュラーミュージックの至福の瞬間に到達する。気の早いTikTokerの気忙しい要求に端的に応えてみせる。


「Nomad」



続く「Sexy To Someone」は一般的なポピュラーアーティストとは異なり、ヴィンテージソウルへのクレイロの愛着が示されている。オーティス・レディングのスモーキーなR&Bを踏襲したこの曲は、アーティストの新しい音楽性が示された瞬間を捉えることができる。音作りはノーザンソウルやモータウンのサウンドを意識しているが、それらは結局、ベッドルームポップの系譜にある軽やかなボーカルによって、クラシックのテイストがモダンに変貌を遂げる。アルバムの一曲目と同じように、LPの回転数の差異で発生する音のディレイのような特殊な音響効果を活かしながら、このレコードは巧みにリスナーを現代と古典の間にある言い知れない陶酔感へといざなう。

 

「Second Nature」ではフレンチ・ポップやイエイエの様式を踏まえ、 序盤の音楽性の中に一つの起伏やポイントを設けている。しかし、それでも上記の2曲と同じように、クレイロの曲は懐古主義に堕することはない。ボーカルの背景にあるリズムトラックに関してはヒップホップのローファイを活かし、しなるようなグルーヴ、ミックステープのような、きわどい音質を復活させる。レコーディングとしても聞き所が満載となっているが、やはりクレイロのボーカルの音感の良さ、ソフトな質感を持つ歌のフレーズが現代的なリズムトラックに夢想的なアトモスフィアを及ぼす。クレイロのソングライティングの多くは、メインストリームとベースメントの線上を歩くかのように、絶妙なバランスを保っている。そのため耳にじんわりと馴染んでくる。

 

 

アルバムの中盤には60,70年代のポップスのリバイバルが見受けられ、個性的な印象を放つ。依然として、この作品がアナログレコードのような質感と懐かしさを重視したものであることがわかる。その中には遊び心のある音楽性が込められていて、心を絆すものがある。

 

ローズ・ピアノで可愛らしく始まる「Slow Dance」は冒頭と同じように、バロックポップの音楽性を踏まえ、モダンなポップスとして昇華させている。トラックの背景にはファンクやR&Bの跳ねるような感覚のビートを交え、グルーブ感のあるポップスを作り出す。これらはやはり、現代的なローファイやヒップホップのトラック制作と無関係ではないとおもわれる。それがメロディーの良さにリズミカルな効果を及ぼし、トラック全体に聞きやすさを与える。


続く2曲では、Lovin' Spoonfulのような音楽性を活かし、サイケのテイストを添える。「Thank You」はアーティストのロック好きの一面が伺え、それらがキラキラしたメロディーに縁取られている。もちろん、クレイロらしい夢想的な雰囲気が最大の長所になっている。レゲエでお馴染みのタムで始まる「Terrepin」は、ジャズ的なムードとクレイロの持つ夢想的な音楽が組み合わされて、遊び心溢れるポピュラーソングに昇華される。アーティストの才覚のきらめきは、フレーズのセンス抜群の転調(移調)や、シンセ・ピアノのアルペジオの配置に顕著に反映されているとおもわれる。音楽的にも楽園的な空気感をボサノヴァ風のベースラインを元に作り出している。

 

 

終盤では、再び、ヴィンテージソウルを中心とする音楽に回帰し、レコード産業の最盛期の華やかな時代の夢想的な空気感を深める。「Juna」はやはり、古典的なレゲエやソウル、ジャズを主な題材にし、ダンスミュージックのテイストを添え、『Charm』の核心ともいうべき箇所を作り出す。このアルバムのテーマは一貫して、古典的な音楽を題材にした夢想的な空気感に縁取られている。これぞまさしく、往年のモノクロ映画に内在する抽象的な雰囲気に対する憧れなのだ。


同じように、ノーザン・ソウルの代表曲ではお馴染みの疎なドラムを配した「Add Up My Love」では、ポピュラーシンガーではなく、ソウルシンガーとしての才覚を発揮している。これらの中盤の2曲は、クレイロが従来とは異なる音楽的な境地を切り開いた瞬間となるだろう。


クレイロは歌手としてだけではなく、シンセサイザー奏者としても知られているが、「Echo」ではビクトロンを彷彿とさせるレトロな質感を持つオルガンに、サイケデリックな要素を添える。しかし、ボーカルやコーラスのメロディーは柔和な空気感を漂わせ、聞き手の心を和ませるものがある。


同じように、シンセのモジュラーでドラムのビートを作り上げた「Glory Of The Snow」は、70年代の古典的なエレクトロ・ロックを踏襲し、それらをバロックポップやイエイエの音楽の系譜にある、チャームで夢見るようなオリジナルの世界を築き上げる。そして、従来のクレイロのイメージを覆し、ロックアーティストとしての姿を、その先にくっきりと浮かび上がらせる。


アウトロ「Pier 4」では従来の古典的なフォークが収録されている。アルバムの冒頭と同じように、ギルバート・オサリバンやカーペンターズといったバロックポップの形式を受け継ぎ、それらを現代的なポップソングで包み込む。それらの音楽にはビートルズのレノンのデモソングのような荒削りでインディーズ性を意識したソングライティングが含まれている。とっつきやすいだけではなく、かなりの密度があり、録音としても掘り下げる余地がありそうなアルバム。いうなれば現代のリスナーのニーズに端的に応えた良質なポップスと言えるだろうか? 

 

 

86/100

 

 

Best Track- 「Juna」

 STONE 『Fear Life For A Lifetime』

 


Label: Polydor

Release: 2024年7月12日

 

 

Review   


リバプールの四人組 STONEの鮮烈なデビューアルバム

 


リバプールの四人組、STONEは2022年頃からイギリス国内の注目のライブ・バンドとしてファンベースを着実に拡大させてきた。シングル「Money」 、デビューEP「Punkadonk」などバンドの最初期の必須アイテムはもちろん、OASIS、Verveの次世代のUKロックバンドとしての存在感を見せつけてきた。四人組は、記念すべきデビューアルバムをポリドールからリリースする。彼らのファンやイギリスの複数の音楽メディアにとっては、このアルバムがそれなりのスマッシュヒットを記録したとしても、さほど大きな驚きはないかもしれない。彼らは上記のシングルやEPで他のインディーロックバンドとは異なる力や影響力を対外的に示してきたのだから。


エネルギッシュで痛快なロックというのがリバプールのストーンの最大の持ち味である。青臭さや拙さは、実際的なライブアクトで培われた演奏技術、そして、ポリドールの高水準の録音技術によって弱点となるどころか、むしろエバーグリーンな感覚を引き立てている。ストーンのロックソングは、ポスト・ブリットポップに位置づけられるが、商業的な音楽性とベースメントのロックが混在している。このデビュー・アルバムは、"STONEとは何者か?"ということを対外的に示すにとどまらず、イギリス国外にも彼らの名を轟かせる機会になってもおかしくない。

 

 

曲は青春物語として展開され、若者時代の激動の経験を掘り下げている。リッチ・コスティのプロデュースによるこのアルバムは、愛、野心、自信喪失、帰属意識など、さまざまなテーマに取り組んでいる。いわば、ロイル・カーナーが持つテーマをオルタナティヴロックバンドとしてストーンは探求している。すでに言ったように、音楽をそれほど知り尽くしていないことは長所となる場合があり、まだ見ぬ地点に向けてストーンは肩を組みながら歩き始めたところだ。

  

デビュー当時のアークティック・モンキーズのように、ヒップホップやポストパンク、それからブリットポップ、それ以前のマンチェスターサウンドの影響を交えながら、彼らは挨拶代わりのタイトルトラック「Fear Life For A Lifetime」で壮大なSEを背景にスポークンワードを吐露する。内的な告白のようでいて、勇敢で自負がある。彼らは、この曲がデビューアルバムの始まりを飾ることを自覚している。それは稀に、実際的な音楽以上の迫力とダイナミックさをもたらす。無謀であること……、これはデビューを果たすバンドのみに許された特権でもあり、恐れ知らずが多くのオーディエンスの人気を獲得する場合がある。かつてのカサビアンのように。

 

もちろん、それはデビューバンドが陥りがちな罠、無謀さが傲慢さに繋がる恐れがあるが、少なくともストーンのファーストアルバムには、そういったものがほとんど感じられない。 彼らの音楽から読み取れるのは、実直さとひたむきさである。90年代のブリット・ポップの熱狂的な雰囲気を収めた「My Thoughts Go」は、確かにバンガー的なものを狙っているが、純粋なエネルギーが放出されている。これはライブ・バンドとして出発したストーンが地元のコミュニティやファンに支えられてきたことへの報恩、あるいは感謝を示しているのではないだろうか。


確かに、Smith,Stone Roses,OASIS、Verveといった80、90年代前後のUKロックの象徴的なサウンド、ボーカル、ギターを彼らは継承している。しかし、ステレオタイプのロックであろうとも形骸化せず、サビのコーラスに入ると、口ずさませるものがある。そして、サビに続いてドライブ感のある痛快なサウンドがUKロックらしい哀愁を漂わせる。デビュー当時のカサビアンのようなエキゾチックなシンセを交え、スタジアム級のアンセムナンバーを作り上げる。彼らにはすでに目に浮かんでいるのかもしれない。この曲で多くの観客がシンガロングする姿が。


「My Thoughts Go」- Best Track


「Roses」、「Train」を聴くと、ストーンがどれほどUKロックをこよなく愛しているのか手に取るように伝わってくる。しかし、スタンダードな2曲を挟んだ後、彼らはオルタナティヴなロックソングを選んでいる。


内省的な感覚を織り交ぜたギターロック「Say It Out Loud」はストーンのエネルギッシュなロックバンドとは異なるアンニュイでセンチメンタルな一面を示している。これらは、バンドとして手の内をすべて明かしておらず、曲の引き出しやバリエーションを持つことの証しとなるかもしれない。


丹念に作り込まれたローファイ寄りのギターロックは、80年代以降のブリット・ポップの潜在的な音楽性を暗示している。彼らはリバプールの現代的な若者の声や生き方を反映させ、それらを現代的なオルトロックに組み替える。同レーベルのサム・フェンダーのソングライティングに近い。つまりストーンは、この曲を通じて傷んだ若者の肩を支えるような共感性をもたらす。

 

少なくとも、ストーンは高い場所から歌をうたったりするのではなく、他の若者と同じ目線で歌をうたう。彼らは、国内のライブで人気を獲得しても自分たちを特別視したり神聖化することはない。それは地元のファンや近郊のファンに支えられていることを理解しているからなのか。

 

1970年から2020年の音楽シーンの流れを見ると、商業的に売れるロックアルバムを制作する上で重要なことは、バンガー的な理解しやすいアンセミックな曲と、バンドが心からやりたい曲を共存させることかもしれない。

 

アルバムの序盤でバンガーをバンドは提供した後、ストーンは、新人バンドとしてただならぬ才覚を見せつける。「Save Me」のハスキーなボーカルとガレージ・ロック/ストーナーロックの系譜にあるアグレッシヴなサウンドは、力感がありすぎたり気負いがあるけれど、デビューバンドとして絶妙な領域にとどまっている。オルタネイトなバンドであるべきか、それともメインストリームにあるバンドであるべきか? それらの戸惑いを示したロックソングと言える。これらの苦悩を元にした力強いパンキッシュなロックソングこそ、イギリスの音楽ファンの共感を誘うものとなるだろう。ストーンは、サム・フェンダーと同じように、若者の苦悩の代弁者となり、ヘヴィーなグルーヴを擁する痛快なビートに乗せ、丹念に歌をうたいこんでいる。この曲にはデビュー作に持ちうるすべてを詰め込もうというバンドの心意気が感じられる。 


それは最終的に現代のトレンドであるポスト・パンク、メタル、スクリーモ、エモ、ミクスチャーロックと、その時々に形を変えながら移ろい変わっていく。ヤングブラッドのような掴みがある素晴らしい一曲であるが、ストーンの武器はそれだけにとどまらない。英国のティーンネイジャーの多感さ、そして気持ちの移ろいの早さ、絶えず揺れ動く国内の政変の中、たくましく生きていこうとする若者の生き方が、この曲に体現されているとしてもふしぎではないのだ。

 


アルバムの後半でも聴き逃がせない曲がある。着目すべきは、曲のタイトルがそのままバンドからのメッセージとなっていて、シンプルでわかりやすい内容となっている。実際、タイトルと曲の雰囲気も合致していて、ストーンはファンの期待を裏切ることはない。オルタネイトなバンドでありながらバンガーも書けるという点では、要注目のバンドであることに疑いはない。

 

「Never Gonna Die」は、アンフィールドのアンセム「You'll Never Walk Alone」を思い起こさせ、FCリバプールに対する地元愛が示されているのかもしれない。実際的には、Underworld、New Orderの系譜、あるいは、Killersの次世代に位置づけられる痛快なダンスロックナンバーを提供している。この曲は、「My Thoughts Go」「Save Me」といったトラックと合わせてライブの定番になりそうだ。他にも現代的なスポークンワードとパンクの融合というトレンドの形を踏まえ、「Sold My Soul」というファイトスピリット満載のアンセムナンバーを作り上げている。そしてストーンは、他のバンドよりもライブスペースで映えるソングライティングを意識しているように思える。これらの曲がより大きめの会場でどのように聞こえるのか楽しみにしたい。

 

「Hotel」では、Bad Bunnyの系譜にあるプエルトリコのラップからの影響を活かしている。それが最終的にアートワークに象徴づけられるような癒やしと開放感を生み出す。やはり、ストーンは、同年代の若者に対して同じ目線で歌をうたい、「Save Yourself」ではラップを絡めたオルトフォーク風のサウンドで本作を締めくくっている。しかし、ストーンの歌詞はパワフルであり、言葉が上滑りしたりすることがない。彼らの曲は偽りがなくて、誠実な感覚を感じさせる。

 

ストーンの曲は生きているかのようにエネルギッシュに躍動することがある。もちろんボーカルにもリアルな言葉の力がある。それがポップソングそのものの説得力に加えて、彼らの年齢からは想像しえない渋く円熟味のある音楽性をもたらす場合がある。


現時点では、音楽のジャンルにこだわらず、その時々に音楽を選んでいるような感じがあるため、自由な気風に充ちたアルバムとして楽しめるはず。収録曲にはストーンの今後の飛躍のヒントになりそうな"ダイヤモンドの原石"が隠されている。それを見つけるという楽しみもありそうだ。

 


 

86/100

 

  

 

STONE-『Fear Life For A Lifetime』はポリドールから7月12日にリリース。ストリーミングはこちら

 Loma 『How Will I Live Without A Body?』


 

 

Label: Sub Pop

Release: 2024年6月28日



Review   


 

テキサス出身のオルトロックバンド''Loma''は、限られたリソースから創造性溢れる音楽性を作り上げた。


制作時にはAIからの返答を得たりと新たな試みも行われた。レコーディングでは、木管楽器を取り入れたり、ブライアン・イーノからのエレクトロニックの手法を受け継いだりというふうにオルトロックバンドとして多種多様な工夫が凝らされている。このアルバムはそういった制約のある中で、どういった新しいサウンドが生み出せるか、試行錯誤のプロセスが示されている。

 

ひとえにオルト・ロックといっても、シューゲイザー/ドリーム・ポップ、パンク、ポスト・パンクやニューウェイヴの系譜にあるサウンド、さらには、2010年代頃にニューヨーク周辺のベースメントで流行したサーフロックや60年代の古典的なロック、古典的なハードロックをモダンにアレンジしたものまでかなり広汎に及ぶ。その他にも、エモやパンクなどをごった煮にしたサイケデリックなサウンドもある。ただ、リバイバルのような意味を持つオルトロックは、ジャンルの最前線のイギリスのロンドンやアメリカのニューヨークの事例を見ると、2020年代に入り、新しいものが容易に出てこないため、やや停滞化しつつあるのは事実である。


そういった側面から言うと、ロマは硬化しかけたオルトロックシーンに新風を吹き込むような存在である。メンバーはバンドのサウンド、制作している音楽に対して無自覚な場合が見受けられるが、面白い概念や新しい表現は、必ずしも自覚的に生み出されるわけではない。それがライブセッションの結果、もしくは制作過程の試行錯誤の段階で恣意的に発生する場合がある。

 

これまでのロックシーンでは、暗鬱な感情性に浸された音楽というのがいついかなる時代も存在した。本作も同じように、近年、多くのオルトロック・バンドが忌避してきた暗さを徹底的に活かそうとしている。ロマは、内面の奥深くに生じた海の底を覗き込むかのように、内省的な悲しみを吐露する。その憂いは、怒涛のように押し寄せるのではなく、一貫して冷静な感情からもたらされる。波打ち際を寄せては返すさざ波のように静かにひたひたと流れ込んでくる。


ようするに、Lomaの音楽は、夜更けの海岸のような寂しさと人気の無さを感じさせる。しかし、寂しさだけで終わるわけではない。その海岸の向こうに目を凝らすと、街の明かりがぼんやり見えたり、あるいは灯台のテラスサーチライトが暗い海の向こうを走るように、闇の向こうから温かい灯火がうっすら立ち上がる。そして最終的に、その純粋な結晶からなる悲しみは、地上にいる私達をそっと照らし出そうとする。さながら暗闇の中に生じた灯火を遠目にぼうっと見つめるような催眠性と神秘性を兼ね備えたオリジナリティ溢れる音楽と呼べるのである。

 

明晰な意識から作り出される音楽があるのと同様に、ぼんやりとした意識から生み出されるアンニュイなロックというのが存在する。多分、ロマの場合は後者に属している。いわば、抽象的で、夢現とか夢幻、ないしは、半睡とか微睡というような感覚である。彼らは、言葉では言い表しづらい意識状態を的確に捉え、彼らの得意とするオルトロックのフィールドに持ち込む。


ロマの音楽は目の覚めた状態とは対蹠点(アンティポデス)に位置する。しかし、明晰であることが制作者にとって必ずしも良いことだとは限らない。分からないもの、得難いもの、探求しつくせぬもの、跋渉しきれない限界が何処かに存在すること……。これらはバンドやミュージシャン、シンガーソングライター、DJ、プロデューサーにとっての幸福を意味する。それは、このアルバムにおけるロマの制作プロセスやテーマに関しても共通するものがあるかもしれない。

 

オルトロックの中にオーケストラやジャズの楽器を取り入れることは、現在、マンチェスターのCaroline、ロンドンのBC,NR、Goat Girlといったバンドが率先して取り組んでおり、ポストパンクの次世代のロックとしてミュージックシーンの一角を担っている。しかし、一方、これらは未曾有の音楽というわけでもない。例えば、カナダのGod Speed You Black Emperror、オーストラリアのDirty Three、アイスランドのSigur Ros、他にもRadhioheadなどが2000年代以降に取り組んでいたポストロックの原初的なモチーフの継承でもある。 さらに時代を遡ると、90年代頃にはジェフ・パーカーのTortoiseのようなバンドがジャズをロックの領域に引き入れ、前衛的な音楽を構築していた。ロマはこれらのポスト・ロックの第3世代に当たるグループとも言えよう。

 

ロマの音楽は、ドリーム・ポップからトリップ・ホップ、スロウコア、サッドコア、ジャズやクラシックのテイストを込めたロックまでかなり間口が広い。音楽的な多彩さが完全な形になったとまでは明言出来ない。


しかし、それでも、アルバムのオープニング「Please Come In」は目を瞠るような才気煥発の旋律性が感じられる。トラックにはグランジやトリップ・ホップ、それらの表面上の音楽性を覆うゴシック的なニュアンスが渾然一体となり、バンド特有のオルトロックのスペシャリティが築き上げられる。


そして、サイケデリックに傾く場合もある音の塊は、実験的なサウンドプロダクションを通じて新奇性がもたらされる。ロック・バンドにとって、ジャズやクラシックで使用される楽器を録音に導入することは、2024年では稀有な事例ではなくなったということが分かる。これらはまだ散らかっていて、まとまりのないサウンドの範疇にあるが、バンドの未来の有望性や未知の潜在的な能力がそれらの弱点を補って余りある。

 

90年代のミクスチャーの領域は、今やロックやメタル、パンクに付随するジャンルにとどまらず、従来では考えられなかったような意外なジャンルへと概念を広げようとしている。中盤に収録される「Arrythmia」、「Unbraiding」、「How It Starts」といった楽曲はロマが一般的なロックバンドではなく、つまり''オルトの末裔''であることのエヴィデンスともなっている。上記の三曲はポストクラシカルの範疇にあり、特に「How It Stars」ではガブリエル・フォーレの「Sicilienne- シシリエンヌ」をモチーフにし、それらをゴシック的な雰囲気によって縁取っている。


「Arrythmia」、「Unbraidin」はアイスランドのクラシカルな音楽性の系譜にある。この曲では彼らの暗鬱な音楽性を付け加えている。ジャズのリズムを元に曲を展開させ、最終的にはクラシカルとロックのクロスオーバーを図っている。クラシックロックというと、まったく意味が異なるので、適切な呼称とは言えないが、上記の三曲には少なくとも新鮮な気風が漂っている。

 

ロマはクラシカルの他、ジャズ、実験音楽の要素を実験的に取り入れる場合もある。トータスが90年代にPro Toolsでエレクトロニック・サウンドをトラックに導入し、新しいスタイルを生み出したのと同様に、ロマもオルトロックという領域でジャズをどのように調理できるかを模索している。


「Dark Trio」は、ジャズの文脈とサイケロックを結びつけ、Meat Puppetsのような南米のエキゾチックなテイストを持つ曲に昇華している。 また、ライヒ、グラスの系譜に属するミニマル・ミュージックの要素とエレクトロニック、ロックを結びつけ、「A Steady Mind」という形に昇華している。次いで民族音楽からの影響もある。「I Swallowed Stone」では、ガムランの打楽器をイントロのモチーフにし、ピアノのサンプリングを散りばめながら、トリップ・ホップやネオ・ソウルをオルトロックの領域に持ち込もうとしている。そしてボーカルから引き出される暗鬱な感情性が、それらの前衛的な手法と合わさり、稀にポピュラリティを及ぼす場合がある。

 

中盤は実験的な音楽性が目立ち、先鋭的な印象を受けるが、終盤に至ると、バンドの才覚煥発の瞬間を捉えられる。


「Pink Sky」は、トリップ・ホップ、サイケ、ローファイを結びつけており、ロマの特性である暗鬱な叙情性がボーカルとバンドサウンドによって立ちのぼってくる。様々な試みを通じて制作された本作の中では、オープナー「Please Come In」と合わせて「Affinity」が異彩を放っている。ロマはバロック・ポップ、フレンチ・ポップ(イエイエ)、ボサノヴァといった複数のジャンルを手繰り寄せ、アンセミックな瞬間を作り上げることに成功している。この曲の中で導入された木管楽器は、表向きのイメージとは異なり、スタイリッシュな感じの音楽性を生み出す。

 

クローズは、エリオット・スミスの作風を彷彿とさせ、サッドコアとオルトフォークの融合というテーマが見受けられる。収録曲は、表面的には前衛的な要素が押し出されているようでいて、トリオのオルタナティヴに対する普遍的な愛情が溢れている。それが結果的には派手ではないにせよ、本作を聞き終えた時、温かさを感じさせる理由なのだろう。もしかすると、グランジの次世代の音楽ーーPost-Grungeーーというのは、こういったスタイルになるかもしれない。

 

「Please Come In」、「Affinity」にはテキサスのバンドの才気煥発の瞬間が捉えられる。曲としてもかなり素晴らしい。音楽を一点に集中させると、さらに良質な作品が出来上がるかもしれない。

 

 

 

78/100 

 

 

Best Track-「Please Come In」 
 

Norman Winstone & Kit Downes 『Outpost of Dreams』


 

Label: ECM

Release: 2024年7月5日

 

Review  


偶然のコラボレーションが生み出した夢の前哨地

 

 

82歳のベテランボーカリスト、ノーマン・ウィンストンは、BBCジャズ・アワード、マーキュリー賞にもノミネート経験があるイギリス/ノリッジ出身の演奏家のキット・ダウンズをコラボレーターに迎え、『Outpost of Dreams』に制作に取り組んだ。このデュオは偶然の結果により実現したという。

 

当初、ウィンストンはニッキー・アイルズをピアニストとして起用する予定だったが、ロンドンでのギグを予定していたのでスケジュールが合わなかった。しかし、意外な形で実現したコラボレーションで、両者は驚くほど息のとれた合奏を披露している。

 

『Outpost of Dreams』はタイトルも素敵である。「夢の前哨地」には2つの解釈がある。夢に入る前の微睡んだような瞬間の心地よさ。それから現実的には夢が実現する直前のことを意味している。音楽もそれに準じて、夢見心地のぼんやりとした抽象的なシーンが刻印されている。キット・ダウンズが新しく書き下ろした楽曲のほか、ECMの録音でお馴染みのジャズ・プレイヤー、ジョン・テイラー、ラルフ・ターナー、カーラ・ブレイの作曲にヴォカリーズとしての新しい解釈を付け加える。他にもスタンダードのナンバー、「Black In Colour」、「Rowing Home」がある。2023年、キット・ダウンズは、ピアノによるソロアルバム『A Short Diary』をリリースした。このアルバムは、上品さと静謐な印象を併せ持つジャズ・ピアノの名品集だった。

 

その流れを汲み、キット・ダウンズは今作で、ジャズ・ボーカルの大御所ノーマン・ウィンストンのボーカルのテイストを静かに引き立てるような役割を担っている。


ウィンストンは、定番のボカリーズのスタイルに加えて、スキャットの歌唱法を披露している。そのボーカルは、メロウであるとともに伸びやかで、デビュー当時の歌手のように溌剌とした印象を与える。キット・ダウンズの伴奏の美しさに釣り込まれるようにして、ウィンストンは自身の歌の潜在的な能力を引き出し、クラシックとモダンのジャズ・ボーカルの影響を込めながら、アルバムを単なるボーカル作品にとどまらず、アーティスティックな水準へと引き上げている。ウィンストンのボーカルは、ヘレン・メリルのようにアンニュイであったかと思えば、それとは対象的に、エタ・ジェイムズ、アーネスティン・アンダーソンのような生命力を作り出す。もちろん、その歌声にはスキャットの遊び心が添えられ、安らいだ感覚を生み出す。

 

このアルバムは、現実的な感覚から距離を置いた夢見心地の音楽が繰り広げられる。「El」はキット・ダウンズが赤ん坊の子供のために作曲した。ノーマン・ウィンストンは気品のあるダウンズのジャズ・ピアノに子守唄のような優しい印象を及ぼす。ダウンズは、ウィンストンのヴォーカリーズの歌唱法に合わせて、色彩的な和音やボーカルの合間に、ブゾーニやJSバッハの原典版にあるような装飾音をつけくわえ、ウィンストンのアンニュイな雰囲気を引き立てる。


音符がふと途絶えた瞬間、向こうから静けさが立ち上がる。ボーカルにしてもピアノにしても、次にやってくる静寂を待ち望むかのように、主旋律、対旋律、和音、付属的な装飾音が演奏される。両者の合奏は現実的な感覚から遠ざかり、シュールレアリスティックな雰囲気を生み出す。

 

「Fly The Wind」は、マッコイ・タイナーも同じタイトルの曲を書いているが、これはマンチェスターのジャズ・ピアニスト、ジョン・テイラーが別名義であるWynch Hazelとして1978年に録音したものである。2015年に亡くなったジョンへの献身と敬意が示されていて、ジャズ・ボーカルのスタンダードな歌唱法をウィンストンは受け継ぎ、クラシカルな雰囲気を生み出している。もちろん古典の範疇にとどまることなく、ダウンズのピアノが現代的な印象を添える。

 

注目すべきは、続く「Jesus Maria」で、この曲はカーラ・ブレイのボカリーズの再構成である。ダウンズのムードたっぷりの流麗な演奏は、穏やかで落ち着いた雰囲気を生み出し、ノーマンが歌う主旋律に美しく上品な装飾を付け加えている。曲はポルカのようなリズムを活かしながら進み、やがてピアソラのアルゼンチンタンゴの気風を反映した熱情的な雰囲気に縁取られる。


レコーディングに取り組む以前、「近い将来、再び一緒に崖から飛びおりるのが待ちきれない」とユニークに話していたダウンズの刺激的な精神と冒険心が、カーラ・ブレイのボカリーズの再構成に意義深さを与える。さらに、ウィンストンのボーカルは陶然とした旋律のラインを描き、無調の冒険心とアバンギャルドな気風を添えている。しかし、古典的なジャズの上品さは一貫して失われることはなく、両者の合奏は、うっとりした美しいムードに縁取られている。

 

「Beneath An Evening Sky」は、ECM Recordsに所属するジャズ・ギタリスト、ラルフ・タウナーの作曲の再構成である。


タウナーのギターの作曲は無調によるものが多く、難解である場合があるが、ノーマンとキットの合奏は、この曲に親しみやすさとメロウな雰囲気をもたらしている。ウィンストンのボーカルはやはりスタンダードなジャズの系譜にあり、ダウンズのピアノのアルペジオが時々刺激的なニュアンスを付与する。しかし、セリエルの技法は、曲の雰囲気やムードを損ねることはなく、ウィンストンのスタンダードなジャズボーカルに上品さと洗練された質感を加えている。

 

このアルバムにはジャズのスタンダードやモダンジャズからの影響と合わせて、古典的なフォーク・ミュージックからのフィードバックも感じられる。「Out of the Dancing Sea」はスタンダードのナンバーをジャズとして解釈した一曲。ダウンズは、「スコットランドの画家、ジョーン・アードリーのペインティングからインスピレーションを受けることがあった」と述べている。


画家のアードリーは、海を見ながら、自宅の庭から同じシーンを描いていた。まったく同じ景色であるにもかかわらず、光の具合、時間帯、そして気分、天気といった外的な環境により、同じ風景がまったく異なる様子に描かれる。


キット・ダウンズは、それらの得難い不思議な出来事を踏まえ、ウィンストンのクワイアのように清冽な歌にバリエーションを付与する。ボーカルに合わさるダウンズの繊細なピアノの音列が同じ旋律の進行を持つボーカルに異なる印象を添える。つまり、同じ音階進行のフレーズであるにもかかわらず、ダウンズのピアノの演奏が入ると、まったく違うニュアンスを及ぼすのだ。

 

それらの物語的な要素は、「ジェームズ・ロバートソンの短編小説にインスピレーションをうけた」とダウンズ。それを踏まえると、音楽そのものがおのずとストーリー性を持つように思えてくる。


続く「The Steppe」では、前の曲のモチーフを受け継ぎ、それらが次の展開を形作るバリエーションの一貫として繰り広げられていくように感じられる。これは、音楽の世界がひとつの曲ごとに閉じてしまうのではなく、曲を連続して聴くと、その世界がしだいに開けていくような、明るい印象を聞き手に与える。同じように、旧来、Anat Fortが2000年代にレコーディングで探求していたエスニックジャズの性質を巧緻に受け継ぎつつ、ダウンズはヘレン・メリルの系譜にあるアンニュイなウィンストンの伸びやかなボカリーズにさりげない印象の変化を及ぼしている。


同曲において、ウィンストンは、消え入るようなアルトの音域のウィスパーから、それとは対象的なソプラノの音域にある伸びやかなビブラートに至るまで、幅広い音域を行き来し、圧巻のボーカルを披露している。前曲に続き、夢という歌詞が再登場し、それらが物語的な流れを形作っている事がわかる。ここには、ノーマン・ウィンストンが語るように、「音楽そのものに偏在する言葉を読み取る」という彼女のボカリーズの流儀のような概念も伺い知ることができよう。

 

このアルバムでは、ジャズのスタンダードから、ECMらしいモダンジャズの手法に至るまで、様々な音楽が体現されているが、「Noctune」ではアヴァン・ジャズの性質が色濃く立ち現れる。


キット・ダウンズのインプロヴァイゼーションの要素が強いピアノの伴奏に合わせて歌われるウィンストンのボーカルも、ボカリーズの真髄に位置する。特に、ウィンストンの無調に近いソプラノのボーカルが最高の音域に達した後、それとは対象的に、ダウンズのピアノが最も低い音域の迫力ある音響を生み出す瞬間は圧倒的といえる。2つの別の演奏者、なおかつ、全く別の楽器と声の持つ特性が合わさり、一つの音楽の流動体となるような神秘的な瞬間を味わえる。

 

今作は再構成とオリジナルを元に構成されるが、アルバムの終盤に至ってもなお野心的な気風を維持しているのが驚き。


「Black In The Colour」は、バッハの「Invention」のような感じで始まり、その後、ウィンストンの歌により古典的なジャズ・ボーカルの世界へと踏み入れていき、ヘレン・メリルの代名詞''ニューヨークのため息''のような円熟味のあるヴォカリーズの綿密な世界観を構築していく。ジャズ・スタンダードを元にした再構成は、物憂げな印象を携えながら次曲への呼び水となる。


ウィンストンとダウンズによる奇跡的なデュオの精華は、前衛的なジャズの気風に縁取られた「In Search Of Sleep」により完成を迎える。ダウンズのピアノのパッセージとウィンストンのスポークンワードは、彼らの音楽表現が古典的な領域にとどまらぬことの証であると共に、デュオの遊び心と冒険心がはっきりと立ち現れた瞬間でもあろう。


同曲は、モダンジャズという文脈を演劇のように見立てており、新鮮な雰囲気に満ち溢れている。最終曲「Rowing Home」は悲しみもあるが、憂いの向こうから清廉な印象が立ち上ってくる。その印象を形作るのが、キット・ダウンズの見事なジャズ・ピアノのパッセージ。ここには、意外な形で実現したウィンストン/ダウンズの合奏の真骨頂を垣間見ることができるはずだ。

 



94/100

 

 

 

Sachi Kobayashi - 『Lamentations』 

 


 

Label: Phantom Limb

Release: 2024年6月28日

 

Review

 

埼玉県出身のサチ・コバヤシによるアルバム「Lamentations」は、UK/ブライトンのレーベル、Phantom Limbからの発売。


すでにBBC(Radio 6)でオンエアされたという話。ローレル・ヘイロー、ティム・ヘッカー、バシンスキーの系譜にあるサンプリングを特徴としたエレクトロニックで、アシッドハウス、ボーカルアートを織り交ぜたアンビエント、モダンクラシカルと多角的な視点から制作されている。

 

「Lamentationsは、身をもって体験した心の痛みという現代的な物語を織り交ぜている。現在の戦争に対する私の悲しみと嘆きから生まれた」と小林はプレスリリースを通じて説明しています。「一日でも早く、人々が平和で安全に暮らせるようになってほしい」


制作の過程については「最初の素材集を作った後、カセットテープを使って自作曲を編集し、ループさせ、歪ませ、時間調整し、それらのバージョンをスタジオで再加工することで、テープ録音特有のアナログ的な残像や予測不可能な音のトーンの変化を取り入れた新しい作品を生み出した」と説明します。

 

本来、小林さんは、Abletonを中心に制作する場合が多いとのことですが、今回のアルバムの制作ではテープデッキを使用したのだそうです。


『Lamentations』は、ボーカルのサンプリングを用い、クワイアのような現代音楽の影響を反映させた実験音楽、ティム・ヘッカーやローレル・ヘイローのような抽象的なアンビエントまで広汎です。


カセットテープを使用した制作法についてはニューヨークのプロデューサー、ウィリアム・バシンスキーの『The Disintegration Loops』を思い浮かばせるが、曲の長さは、かなり簡潔である。


制作のミックスに関しては、マンチェスター周辺のアンダーグラウンドのエレクトロニック、強いて言えば、”Modern Love”、もしくは"Hyper Dub"のレーベルの方向性に近い。その中には、ベースメントのダブステップやベースライン、トリップ・ホップのニュアンスが含まれています。


これが、対象的なクワイア(賛美歌)の音楽的な感覚の再構成、それらにアシッドハウスの要素を加味した、きわめて前衛的なエレクトロニックの手法が加わると、気鋭の前衛音楽が作り出されます。アンビエントは基本的にノンリズムが中心となっていますが、少なくとも、このアルバムにはAutechreのように”リズムがないのにリズムを感じる”という矛盾性が含まれています。


オープニング「Crack」は、アシッド・ハウスやミニマル・テクノを一つの枠組みとしてモジュラーシンセの演奏を織り交ぜている。


解釈の仕方によっては、ベースを中心にそれとは対比的にマニュピレートされた断片的なマテリアルが重層的に重なり合う。現代の中東の戦争を象徴づけるように、それは何らかの軋轢のメタファーとなり、異なる音の要素が衝突する。


たとえば、ゴツゴツとした岩石のような強いイメージのあるシンセの音色で、遠くて近い戦争の足跡をサウンド・デザインという観点から綿密に構築してゆく。


重苦しいような感覚と、それとは異なる先鋭的な音のマテリアルの配置がここしかないという場所に敷き詰められ、まるでパレスチナのガザのいち風景の瓦礫の山のように積み重なっていく。この曲にはエレクトロニックとしてのリアリズムが反映されている。


「Unforgettable」は一転して、自然のなかに満ち溢れる大気の清涼感をかたどったようなアシッド・テクノ。イントロのシークエンスから始まり、一つの音の広がりをモチーフとしてトーンの変容や変遷によって音の流れのようなものを作り上げる。その後、アルペジエーターを配置し、抽象的なノンリズムの中にビートやグルーヴを付加する。アルペジエーターの導入により、反復的な構成の中に落ち着きと静けさ、そして癒やされるような精妙な感覚を織り交ぜる。しかし、アウトロはトーンシフトを駆使し、サイケデリックな質感を持つ次曲の暗示する。

 

続く「Aftermath」は、断片的な音楽のマテリアルですが、現在の実験音楽の最高峰に位置しており、ローレル・ヘイローやヘッカーの作品にも引けを取らない素晴らしい一曲。他のアーティストの影響下にあるとしても、日本人のエレクトロニック・プロデューサーから、こういう曲が出てきたということが本当に感激です。


オーケストラ・ストリングや金管楽器の要素をアブストラクトなドローンとして解釈し、アシッド・ハウスの観点からそれらを解釈しています。シュトックハウゼンのトーン・クラスターや、ローレル・ヘイローのミュージック・コンクレートの解釈は、サチ・コバヤシのサイケデリックやアシッドという文脈において次の段階へと進められたと言える。


アルバムの後半では、サチ・コバヤシのボーカルアートとしての性質が強まる瞬間を見出せる。特に、クワイア(賛美歌)をアンビエント/ドローンから解釈した「Lament」はクラシック音楽を抽象性のあるアンビエント/ドローンとして再解釈した一曲で、前曲と同じように、ここにも制作者の美学やセンスが反映されている。


緊張感のあるアルバムの序盤の収録曲とは異なり、メディエーションの範疇にある癒やしのアンビエントのひとときを楽しむことができるはずです。また、サンプリングを交えたストーリー性のある試みも次の曲「Memory」に見いだせる。


ガザの子供の生活をかたどったような声のサンプリングが遠ざかり、その後、ロスシルや畠山地平の系譜にあるオーガニックで安らげるシンプルなアンビエント/ドローンが続いています。これらの無邪気さの背後にある余白、その後に続く、楽園的な響きを持つアンビエントの対比が何を意味するのか? それは聞き手の数だけ答えが用意されていると言えるでしょう。

 

終盤では、クラシック音楽をドローンとして解釈した「Pictures」が再登場する。この曲は、グスタフ・マーラーの「Adagietto」のオーストリアの新古典派の管弦楽の響きを構図とし、イギリスのコントラバス奏者、ギャヴィン・ブライヤーズの傑作「The Sinking Of Titanic」の再構築のメチエを断片的に交えるという点ではやはり、Laurel Haloの『Atlas』の系譜に位置づけられる。


ドローン音楽による古典派に対する憧れは、方法論の継承という側面を現代的な音楽としてフィーチャーしたものに過ぎません。けれども、チャイコフスキーのような大人数の編成のオーケストラ楽団を録音現場に招かずとも、サウンド・プロダクションの中で管弦楽法による音響性を再現することは不可能ではなくなっています。そういった交響曲の重厚な美しさをシンプルに捉えられるという点で、こういった曲には電子音楽の未来が内包されているように思える。

 

 

アルバムの最後の曲は、デジタルの音の質感を強調したサウンドでありながら、ブライアン・イーノのアンビエントの作風の原点に立ち返っている。


抽象性を押し出した''ポストモダニズムとしての電子音楽''という点は同様ですが、ぼんやりした印象を持つシークエンスの彼方に神秘的な音のウェイブが浮かび上がる瞬間に微かな閃きを感じとれる。


それは夏の終わりに、暗闇の向こうに浮かび上がるホタルの群れを見るかのような感覚。こういった音楽は、完成度や影響されたものは度外視するとしても、アンビエントミュージックやエレクトロニックが方法論のために存在する音楽ではないことを思い出させてくれる。音の印象から何を感じ取るのか? 


もちろん聞く人によって意見が異なり、それぞれ違う感覚を抱くはずです。そして、どれほど完成度の高い音楽であろうとも、人間的な感覚が欠落した音楽を聴きすぎるのはおすすめしません。

 

これは、「Autobahn」の時代のクラフトワークの共同制作者であり、アメリカのAI開発の第一人者でもある、ドイツ人芸術家のエミール・シュルト氏も以前同じような趣旨のことを語っていた。彼はまた音楽に接したとき感じられる「共感覚」のような考えを最重要視すべきと述べていた。そういう側面では、シュルトが話していたように、音楽は今後も数ある芸術の中でも”感情性が重視される媒体”であることは変わりなく、今後の人類の行方を占うものなのです。



 

 

 

92/100

 

 

 


Queen Of Jeans 『All Again』

 


 

Label: Memory Music

Release: 2024年6月28日


Review

 

フィラデルフィアの四人組のオルトポップバンド、Queen of Jeans(クイーン・オブ・ジーンズ)は、2018年のデビュー作から、60年代のクラシカルなポップ、そしてケイト・ルボンの系譜にあるアートポップと作風を変更してきた。


3作目のアルバム「Allagain」ではプロデューサーのWill Yipと共同制作を行い、デボラ(ボーカル/ギター)、マテソン・グラス(リードギター、ピアノ)、ドラマーのパトリック・ウィール、ベースのアンドリュー・ニッツを含めた2015年以来初めてとなるフルバンド編成でスタジオアルバムの録音に臨んだ。Yipと協力し、話し合いを重ねながら曲のアレンジを行い、明確なビジョンを持ってスタジオ入りした。

 

アルバムでは人間関係に焦点が絞られ、それが時間の経過と併行し、どのように移ろうのかを制作で振り返っている。「私達は一般的な人間関係を振り返るときの物語を語ろうとしている。そのことについて、年月が経ち、熟考すればするほど事実は曖昧になる。私達はそれで遊んでみたかった」とマテソン・グラスは言う。一方のボーカルのデボラは、「これらはブックエンドで始まり終わる」という。


より詳細に言えば、アルバムの曲の多くは半架空の物語についてであり、再文脈化されているという。しかし、実際的には、幻想的な音楽とも決めつけがたい何かがあり、底流には現実性が織り込まれている。それが最終的には、ドリーム・ポップ風のインディーロックというクイーンズ・オブ・ジーンズらしい形で置き換えられる。それほど真新しいとも言えないにせよ、新旧の音楽的なアウトプットを綯い交ぜにした淡い感覚を持つポップソングが生み出されている。

 

QOJのインディーロックのスタイルは、ラット・ボーイズ、キシシッピ、ペタルというふうにフィラデルフィアらしい純粋さがある。分かりやすい特性を挙げるとするなら、ドリーム・ポップに近いデボラのボーカルである。これらの要素に合わせて、フローレンス・ウェルチ、デル・レイ、大物歌手のオルタナティヴな解釈が付け加えられる。


もちろん、上記のシンガーともにその出発点はメインストリームではなく、オルタナティヴにあることが依然として人気が高い要因でもある。


いずれにせよ、フルバンドで挑んだこのアルバムは、ソロシンガーとしてのデボラの個性を背後からしっかり支えるバンドという絶妙なバランス感覚によって成立している。ある意味では、シンガーとしての独立を許すバンドの懐深さがものをいうバンドなのである。

 

 遠くにいる恋人への思いを綴った「All My Firends」は、ドリーム・ポップ風のギターラインに支えられるようにし、デボラのドリーミーなボーカルが紡がれる。ただ、どういった音楽性を志向しているのかを、ギタリストのグラスが良く理解しているため、彼はボーカルの風味や性質を引き立てる役割を果たす。ドラムやベースのパトリックとアンドリューも同様で、ソロボーカリストとしての性質を背後から引き立てる演奏をレコーディングにおいて重視している。そして、普段は、派手な音作りや演奏を控えめにしているが、ボーカルのフレーズがアンセミックな段階に差し掛かると、ディストーションを掛けボリュームの音量を上げたり、そしてドラムのダイナミクスを高めたりと、曲のフェーズに従って、演奏のスタイルを変化させている。


現時点では、バンガーと呼ぶべき瞬間が現れる瞬間は稀有だが、「Horny Hangover」では、シンガロングを誘発するアンセミックなワンカットを作り出すことに成功している。ただ、最初から見え透いた即刻性を意識するのではなく、静かなバラードやワルツ風の品格のある立ち上がりから、徐々にアンセムを出現させる。そのムードを引き立てているのが、フィラデルフィアのバンドらしい素朴なメロディーと温和な空気感である。さらに言えば、クイーン・オブ・ジーンズのオルトロックのスタイルには、ギザギザした感覚やエッジという概念はほとんどない。いわば、聞いているうち、じわりじわりと心に染み入るような味わい深いロックソングである。序盤には温和なインディーロックソングが収録されていて、「Karaoke」でもそれは同様だ。


一見すると、派手さに欠けるように思えるかもしれない。けれども、中盤にはハイライトとなる曲が収録されている。「Enough To Go Around」ではバラードをインディーポップ風に解釈し、デル・レイ風の優雅なアートポップの感覚を瞬間的に引き出している。メインストリームではなく、インディーズバンドとしてのポピュラー性の範囲にとどめている。映画的なポップスといえば大げさかもしれないが、現行のシネマ・ポップに近い手法をバンドという形で体現している。


その他にも、80年代のケイト・ブッシュのようなポピュラー性を踏まえ、「Neighbor」は、ニューロマンティックのようなポピュラー性、このジャンルの系譜にあるドリームポップ/シンセポップを巧緻に再現させる。ただ、ニューヨークのアーバンなシンセポップとは少しだけ異なり、フィラデルフィアのバンドらしい素朴な抒情性が含まれている。これらの多角的なポップネスは稀にルボンのようなアートポップに近づく場合もある。それほど先鋭的とも言えないにせよ、「Let Me Forget」はシャロン・ヴァン・エッテン/オルセンのソングライティングーーロック/ポップ/フォークの中間に位置づけられる抽象的なアートポップーーを思わせるものがある。

 

それ以後もインディーポップを基調とした、抽象的で淡い感覚のナンバーが続く。それらは例えば、コクトー・ツインズやペール・セインツほどにはアーティスティックな領域には至ることはない。デボラのボーカルは依然として、背後のアンビバレントなサウンドからクリアに浮かび上がり、それらの明確なサウンドをドラムが引き立てる。結果的には、明快なインディーロックソングが作り出され、「Books In Bed」、「Bitter Pill」でも、エバーグリーンな感覚を擁するセンチメンタルなナンバーが中盤のハイライトを形作る。中盤では健康的なロックソングが続く。しかし、Queens Of Jeansのエモからのさりげないフィードバックが純粋な感覚を呼び覚ます。


穏やかなインディーロックソングは終盤も続き、表面上の印象とは異なり、バラードソングに近い形で琴線に触れる場合がある。しかし、それは一瞬のまたたきのようなものであり、その輝きを捉えようとすると、次のサウンドへ移ろってしまう。いわば、それほど後腐れのない淡白なサウンドが現在のバンドの魅力なのだ。形式がシンプルであるからか、心を惹かれる時がある。


本作のクローズはフィルターを掛けたデモソングのようなラフな曲を収録している。 現時点ではブレイクポイントを迎えたといえば誇張になるはず。けれども、現代のインディーロック/ポップシーンの渦中にあり、都会性に毒されぬピュアなサウンドが個性的な魅力を放ってやまない。

 

 

 

75/100

 



 

 

 

Queen Of Jeansによる新作アルバムは6月28日にMemory Musicから発売。日本国内ではTobira Recordsで販売中。

 HOMESHAKE 『HORSIE』

 


 Label: SHHOAMKEE

Release: 2024年6月28日


Review

 

2024年始め、ローファイ/スラッカーロックの良作『CD Wallet』を発表したカナダのソロミュージシャン、ピーター・サガーは今期二作目のフルアルバム『Horsie』をリリースした。サガーはマック・デマルコのバックバンドで活躍していた。そういう経緯もあってか、カナダのミュージシャンであるものの、アメリカのミュージックシーンをよく知っており、それらのどの部分を自らのソングライティングに活かすかを知り尽くしている。

 

つまり、ピーター・サガーのローファイのアウトプットは、西海岸のローファイ/チルアウトをデマルコ風のユニークなベッドルームレコーディングや荒削りなオルトロックで包み込むという感じ。よりシンプルに言えば、Ariel Pinkを彷彿とさせるトリッピーでサイケなスラッカーロックとデマルコのオルタナティヴ性を継承し、それをHOMESHAKEの作風としているのである。


トリップ感のないものをローファイと呼ぶことはむつかしい。その点では、サガーのギターロックは奇妙な浮遊感を伴う。ただ、前作アルバムは、ティーンネイジャーの多感な時代の記憶を元に制作された。解釈次第では、青春の鬱屈とした苛立ち、内省的で憂鬱な感覚をときに激しいディストーションギターに乗せて歌っていた。一見して穏やかに見えるが、その中に激しいエナジーを持ち合わせていたのだ。一般的に言われるように、ボーカルはたしかにマック・デマルコのようにまったりしていてメロウなのだが、それとは対象的なスロウコア/サッドコアの影響下にある苛烈なオルタナティヴのスピリットが前作『CD Wallet』には貫流していたのである。


 

『HORSIE』は前作と同じくローファイやスラッカーロックの延長線上にある。が、実際の作風は驚くほど対照的。いわばシリアスに傾きすぎた音楽性にユニークな風味を添えたという感じだ。先行シングルのミュージックビデオではアーティスト自ら宇宙人に扮して、カルフォルニアの荒野を歩き回るという、かなり興味深い内容を見ても、それは瞭然と言えるのではないか。

 

このアルバムは、前作の真面目なインディーロッカーとは対象的に、きわめて親しみやすいミュージシャンとしての姿が浮かび上がる。そして、ギターとローファイなビートを織り交ぜて制作された前作に比べると、シンセの演奏を交えたり、リル・ヨッティのようなヒップホップ寄りのビートを配置したり、テーム・インパラのようなサイケ性をコラージュのように散りばめ、2020年代のミクスチャーロックの形を探求している。そのことを象徴づけるのがオープナーの「Ravioli」。ファイナルファンタジーのオープニング曲を想起させるシンセのアルペジオから入り、彼自身のチルウェイブに根ざしたヴォーカル、ボーカル・サンプリングをサイケ風にアレンジしたりと、前作より遊び心のあるオルトロック・サウンドが築き上げられていることがわかる。しかし、HOMESHAKEの音楽性の中核を担うアンニュイなスロウコア/サッドコアの系譜にあるオルタナティヴ性は、今作のリスニングの際に引き続き重要なポイントとなるだろう。

 

例えば、続くタイトル曲は『CD Wallet』の延長線上にあるトラックと言えよう。ダウナーな感覚を放つギターの録音を基底にして、ローファイビートを背後に配置し、抽象的なメロディラインのボーカルを紡いでいく。そして、その後、断片的なピアノの録音を散りばめ、暗鬱なエモーションを作り上げる。内省的な感覚に縁取られているのは事実なのだが、他方では、この曲には90年代のエモのような奇妙な安らぎがある。そして、アルバムでは70年代,、80年代風のハードロックのギター・ソロも登場する。いわば新旧の音楽がカオスに入り混じっている。

 

前作に比べると、シューゲイザー・サウンドのようなフィードバックギターが出現することは稀で、チルウェイブの範疇にあるスロウなロックソングがアルバムの序盤の印象を形成している。「Dinner Plate」は、ドラムとベースの演奏を中心とし、ジャジーな雰囲気を持つトラック。ただ、全般的なローファイの録音性とサガーのゆったりしたボーカルが入ると、R&Bのようなメロウなエモーションを生み出す。彼の音楽やボーカルは、シンセの穏やかな海の上を漂うかのように揺らめき、曲の後半では、バックバンドの演奏者としての経験が生かされ、ブルージーなギターソロがそつなく入る。最近、ギターソロをカットしたり、曲の構成の一部分に組み込んだりする場合が多いのは、ソロプレイを嫌悪するリスナーが多いからだという。それでも、音楽に浸るという側面で、演奏者のソロは曲の重要な構成要素であり、次の流れを呼び込むためにも必要不可欠だ。合理主義的な音楽が目立つ中、無駄を恐れない音楽ほど素晴らしいものはない。合理主義や省略主義が行き過ぎると、音楽をつまらなくする要因となってしまう。

 

HOMESHAKEは、完璧主義を目指すのではなく、それとは対象的に弱点ともいうべき性質を彼自身の作風に織り込んでいる。それはそのままアルバムの親しみやすさへと繋がる。

 

「Blunk Talk」は、イントロのシンセのウェイブを起点として、インディーロックへと繋がるが、ギター/ボーカルにデチューンをかけ、ローファイ/サイケのスペシャリティを探求している。それほど低音は出ないが、POOLSIDE(ジェフリー・パラダイス)の系譜にあるモダンなチルウェイブを独特な世界観へと繋げる。また、ピーター・サガーは映画好きということで、ここには、彼のホラー映画趣味やSF映画趣味が反映されている。他のメディアからの影響は、この曲にオリジナリティを付加している。


続く「On A Roll」でも、ローファイをベースに、トロピカルなテイストを添えている。これはどちらかと言えば、デマルコの系譜にあるリラックスしたトラックとして楽しめるはず。 同じように「Smiling」もまた、デマルコの作風を踏襲し、ゆったりとしたテンポの曲の中で、エレクトリック・ピアノの演奏を交えながら、アンニュイなローファイサウンドの魅力を引き出す。

 

以後、シンセサウンドの重点を置いたチャズ・ベア(Toro Y Moi)を彷彿とさせる西海岸の気風を反映したチルアウトのナンバーが際立つ。先行シングルとして公開された「Nothing 2 See」は、ミュージックビデオも映画のワンカットのように楽しめるし、トラック自体もヒップホップ/チルアウトの良曲だ。今作の重要なテーマと思われる遊びや冒険心を、ボーカルのループやローファイビートを形成するリズムトラックを元にし、HOMESHAKEらしい独特なサイケデリックな世界観を確立させる。大規模のスタジオレコーディングとは対極にあるホームレコーディングの録音技術は、ハンドクラフトのサウンド、DIY、そして荒削りな音の質感を作り出す。シンセサウンドをメインにしているがゆえか、次曲「Simple」は、ジェイムス・ブレイクの最近の音楽性に近い。ポピュラーソングをベースにしているものの、ネオソウル風のテイストが漂う。

 

『HORSIE』のシンプルでストレートなサウンドは、回りくどい印象もあったHOMESHAKEの作風に軽やかさと聞きやすさという利点をもたらしている。この点については、幅広いリスナーに親しまれる可能性があるかもしれない。終盤に至っても、サガーは音楽のムードやテイストという点に重点を置き、ミックステープのように、自作のリミックスサウンドに見立て、アルバムの最終盤を緻密に構築している。さらに、終盤では、ミュージシャンとしての幅広い音楽的な背景、サガーのバックバンドとしての経験や体験が前のアルバムよりも色濃く反映されている。


「Easier Now」は、ジャズ、ヒップホップ、ローファイを結びつけ、それをシンプルなサウンドに昇華させる。ここでは前作の印象とは対比的な音楽の安らぎの瞬間を出現させる。アルバムの終盤を通じて、音楽性はよりメロウでスロウになる。眠りの前の微睡みのひとときを表すかのように。

 

「Believe」ではローファイ・ビートを背景に、ジャズ、R&B,ファンクと多角的な要素を織り交ぜ、軽快なビートを作り出す。「Empty Lot」は、前作の系譜にあるスロウコア/サッドコアのギターロックを、ヒップホップのローファイの観点から組み替える。本作はサガーの秀逸なビートメイカーとしての性質が際立つが、最後のトラック「Ice Tea」だけは別。フィードバックを活用したギターサウンド、ネオソウル風のピッチのよれたボーカルがマイルドで落ち着いたギターサウンドに縁取られ、トリップ感を引き起こす。ティーネイジャーの記憶を反映させたのが『CD Wallet』と仮定づけるなら、本作はHOMESHAKEの二十代の頃の記憶と言えそうだ。

 

 

80/100
 
 
 


HOMESHAKEによるニューアルバムは『HORSIE』は6月28日から発売中。ストリーミング/ご購入はこちら


 zakè  『Veta』

 

Label: zakè Drone Recording

Release: 2024年6月24日

 

Purchase


Review


zakèは、ザック・フリゼル(Zack Frizzell)のプロジェクトで、「Past Inside the Present」のレーベルオーナーでもある。反復と質感のあるアンビエント・ドローンが彼のオーディオ・アウトプットの真髄。ザック・フリゼルは、Pillarsのオリジナル・ドラマーとして活動し、以前、"dunk!records / A Thousand Arms"から「Cavum」をリリースし、高評価を得た。dunk!recordsからの初のソロ・リリースは、スロー・ダンシング・ソサエティとのコラボ・リミックス・トラックで、ピラーズの「Cavum Reimaged」2xLPに収録されている。ザック・フリゼルはかなりハイペースでリリースを重ね、今年3月に発表された『B⁴+3 』からすでに4作目のリリースとなる。

 

『B⁴+3 』では古典的なアンビエントサウンドを制作したザック・フリゼルであるが、今作ではシネマティックなドローンサウンドを聴くことができる。ヘンリク・グレツキのメチエを電子音楽として組み上げ、そしてそれを彼特有の清涼感溢れるアンビエントサウンドに昇華させている。今作では、ホーン・セクションをリサンプリングし、それらをオーケストレーションのように解釈している。何より、ザックのアンビエントが素晴らしいのは、録音やミックスにおけるこだわりを見せつつも、心地よさのあるアンビエントを制作していることである。ザックは絶えず、音の大小のダイナミクスを緩やかな丘のように組み上げ、心地よいウェイブを作り出す。彼のアンビエントは音響的ではなく、どちらかと言えば、ウェイブやヴァイブスを意味する。

 

最近のアンビエントのトレンドは、低音域や重低音を強調したサウンドが多くなってきているが、このアルバムも同様となる。10分以上の長尺の曲が2つ収録されたEP「ミニアルバム)のような構成となっている。そして、フリゼルは最新鋭のデジタルレコーディングの技術を駆使し、シネマティックなサウンドを組み上げる。オープニングの「Veta」は、ほんの些細なミニマルなフレーズを元に壮大な音響空間を構築する。幾つものホーンのサンプリングが海の波のように寄せては返す中、オーケストラ・ストリングスを模したシンセのシークエンスを配する。

 

雄大さと繊細さを兼ね備えた抽象的なエレクトロニックは、このプロデューサー特有のサウンドといえる。「Bewrayeth Vol.2」は、パン・フルートの音源をストリングに見立て、中音域から低音部を強調したサウンドだ。前の曲と同じように、一小節のフレーズを音の大小、トーンの微細な変化、そして音の抜き差しによってバリエーションを生み出す。この作曲構造に関して、zakèの作風がミニマルテクノの延長線上にあることを暗に示唆している。そしてもう一つの特徴は、音響的なノイズ性を徹底的に引き出しながら、その果てにある奇妙な静寂を作り出す。

 

この作品では、電子音楽家としての実験的な試作にとどまらず、アイスランドのヨハン・ヨハンソンが生み出したモダン・クラシックの範疇にある「映画音楽としてのアンビエント/ドローン」の作風に近い曲も収録されている。


お馴染みのコラボレーターであるダミアン・デュケ(City Of Dawn)が参加した「Glory」では、木管楽器の演奏を取り入れて、沈鬱でありながら敬虔なドローンの響きを、短いパッセージを積み重ねながら作り出している。


これは今は亡きアイスランドの英雄であるヨハンソンが映画音楽という領域で取り組んでいた作風で、その遺志を継ぐかのようだ。葬礼を思わせる厳粛な音の運びは、ブラームスの交響曲のような重厚な感覚に縁取られる。本楽曲は電子音楽におけるオーケストラの意義に近く、古典派の作曲家がいまも生きていたのなら、こういった曲を制作していたのではと思わせる何かがある。

 

本作のクローズ曲「Memorial」では、それらの重苦しさは遠ざかり、祝福的なドローンをザックは制作している。オープナーと同じように、ホーン・セクションの録音、リサンプリングにより、トーンの変容を捉えながら、アンビエントの理想的な安らかさを生み出す。ミュージック・コンクレートの範疇にあるエレクトロニック作品で、シンプルな構成から成立しているが、録音としては非常に画期的。エレクトロニックをオーケストレーションのように解釈しているのもかなり斬新であり、現行のエレクトロニックシーンの良い刺激剤となるかもしれない。

 

 

 

82/100




 Lankum - Live In Dublin

Lankum-『Live In Dublin』

 

Label: Rough Trade

Release: 2024年6月21日

 


Review

 

 

昨年、ダブリンの四人組のフォークバンドLankumは、Rough Tradeから4作目のアルバム『False Lankum』を発表し、イギリス/アイルランド圏の最優秀アルバムを選ぶマーキュリー賞にノミネートされた。

 

昨年のアルバムに続いて発売されたライブ・アルバム『Live In Dublin』は、2023年のダブリン市街地にあるヴィッカー・ストリートでの三夜のソールドアウト公演の模様を収録。音源を聴くと分かるように、ライブパフォーマンスにこそ、Lankumの真価が垣間見える。ティンパニ(タム)、フィドル、ヴァイオリン、アイリッシュ・フルート、アコーディオン、キーボード、エレクトロニクス、ダラのボーカルを中心に構成される重厚感のあるコーラスワークは、ドローンのように響き渡る弦楽器の重低音に支えられるようにして、ダブリンの3つの夜の濃密な公演を生々しく活写している。

 

ダラ・リンチ、イアン・リンチ、コーマック・マクディアマーダ、ラディ・ビートの四人組は、故郷のライブのステージで他のいかなる会場よりも大胆な演奏をしている。もちろん、ステージでのMCに関しても遠慮会釈がなかったという。具体的な言及は控えておくが、アイルランドのルーツを誰よりも誇らしく思う四人組の勇姿が、この音源を通して手に取るように伝わって来る。

 

本作はあらためてバンドとしての結束力を顕著な形で示す内容である。弦楽器、ボーカル、リコーダー、パーカッション、別々に分離した場所から発せられる異なる音は、Lankumの手にかかると、一体感を帯び、リアリティのある音楽に組み上げられる。


ダブリンの四人組は、『False Lankum』において、中世のアイルランドの儀式音楽の古いスコアをもとにして親しみやすいフォークを制作した。が、彼らの音楽は必ずしもクラシックの範疇にとどまるわけではない。


彼らは、エレクトロニクス、ドローンという前衛主義の手法を通じて、新しい音楽をダブリンから出発させる。これは実は、かつてオノ・ヨーコのコミュニティに属していた日本の音楽家”YoshiWada”がニューヨークで自作のバクパイプを制作し、ドローンという音楽の技法を生み出した経緯、要するに、ドローン音楽がスコットランドのバグパイプから出発していると考えると、フォークバンドが通奏低音を活かしたパフォーマンスをすることは当然のことなのである。

 

ライブはポストパンクバンドのようなSEから始まる。本作の序盤は古典的なスタイルを図るアイルランドのフォークミュージックが続いている。


「The Wild River」が弦楽器の短いフレーズを何度も反復させ、ベース音を作り、哀愁のあるフレーズをダラ・リンチが紡ぐ。他のメンバーのコーラスワークが入ると、彼らにしか作り得ないスペシャリティが生み出され、短調のスケールを中心に構成されるアイルランドフォーク音楽の核心に迫る。


このアルバムのイントロには彼らの儀式音楽の性質が現れるが、その後、比較的聴きやすいフォークミュージック「The Young People」が続いている。アコースティックギター、フィドルの演奏とエレクトロニクスを織り交ぜ、古典的なニュアンスにモダンな印象を添えている。(イアン・リンチの)ボーカルは渋さと温かさがあり、ホームタウンへのノスタルジアを醸し出す。

 

「The Rocky to Road to Dublin」はイギリスの会場では演奏されたなかったらしく、アイルランドのルーツが最も色濃いナンバーだ。ボーカルの同音反復の多いフレーズと対比的に導入される弦楽器のドローンと組み合わされ、重厚な音響性が作り出される。男女混合のダブルボーカルは一貫して抑制が効いているが、同じ楽節や音階を積み重ねることによって、内側から放たれる熱狂的なエナジーを作り出す。ボーカルの合間に入る観客の歓声も、その場のボルテージを引き上げる。Lankumは、この曲で、音楽研究家がこれまであまり注目してこなかったフォークの「ドローン(通奏低音)」という要素をライブパフォーマンスという形で引き出そうとしている。そしてスタジオ・アルバムより、このグループの音楽の迫力がリアルに伝わってくるのが驚き。

 

Lankumは、一般的にはフォークバンドとして紹介されることが多いが、「The Pride Of Petravore」を聴くと、モダンな実験音楽を得意とするグループであることが分かる。特に、この曲ではダークなドローンを最新のエレクトロニクスで作り出し、ボウド・ギターを使用して前衛主義としての一面を見せる。


この曲は、間違いなく重要なハイライトとなり、また、Lankumは硬化しかけたイギリス圏の実験音楽シーンに容赦ない一石を投じている。 前衛的なエレクトロニクスとアイリッシュ・フルートの演奏の融合に続く、古典的なフォークミュージックへの移行は、バンドの可能性を拡大させると共に、表現形式をコンテンポラリー・クラシックへと敷衍させていることを示唆している。

 

アルバムは中盤のスリリングな展開を経て、その後、クールダウンともいうべき静謐なフォーク・ミュージックが続いている。「On A Monday Morning」はアコースティックギターの緩やかな弾き語りで、このライブアルバムの中では最も繊細かつ悲哀に充ちたフォークナンバーである。

 

あいにくのところ、アイルランドの歴史に関する知識を持ち合わせていないが、この曲は、同地の長きにわたる侵略の歴史、もしくはその悲しみへの悼みとも言うべきなのだろうか。しかし、その出発点となる悲しみとしてのフォークは、その後、明るく開けたような、やや爽快な音楽の印象に変わる。これは、背後に過ぎ去った過去を治癒するような神秘的な力が込められている。


「Go Dig My Grave」は『False Lankum』の収録曲で、バンジョーのような楽器の音響性を活かし、忘れられた時代、ないしは航海時代の中世ヨーロッパへのロマンチズムを示している。中世ヨーロッパの葬礼のための儀式音楽の再構成であるが、ライブになると、「土の音楽」ではなく、その先にある「海の音楽」に変わる。一貫して、弦のドローンの迫力ある音楽形式により構成されているが、このことはおそらく、中世のアイルランドの音楽が、海上交易を通じて、アルフォンソ国王が治世するスペイン王朝はもとより、イスラムやアラブ圏の文化と一連なりであったことを象徴づけている。


スコットランドとアイルランドの文化の中庸としてのフォークミュージック、セルティックの影響下にある「Hunting The Wren」も、ライブ・アルバムの重要なポイントを形成しているようだ。蛇腹楽器のアコーディオンの演奏を取り入れつつ、パブカルチャーを反映させたように感じられる。


ただ、ランカムの全般的な音楽はやはり単なる消費文化とは一線を画していて、中世から何世紀にもわたって継承される国民性や、その土地の持つ独特なスペシャリティがしたたかに反映されている。また、そこには、南欧のスペイン圏のジプシー音楽の持つ流浪(永住する土地を持たない民族)の息吹が内含されているようにも感じられる。


何らかの歴史が反映されているがゆえなのか、音楽そのものが概して安価にならず、淡い深みと哀愁を漂わせている。続く「Fugue」は、「The Pride Of Petravore」と同様、ドローン音楽としても圧巻である。ダブリンのフォークバンドの意外な一面を楽しめる。更にクローズ「Beer Cleek」では、舞踏音楽(ダンスミュージック)としてのアイルランド・フォークの醍醐味を堪能出来る。

 


88/100

 

 

Best Track - 「The Pride Of Petravore」

 John Cale-  『POPtical Illusion』 

 


 

Label: Domino Recordings

Release: 2024/06/15

 

 

Review  理想的なポップとはなにか?

 

驚くべきことに、ジョン・ケールは何歳であろうとも清新な感覚を持つミュージシャンでありつづけることが可能であると示している。

 

古賀春江のシュールレアリズムやアンディー・ウォーホールのポップアート、そしてカットアップ・コラージュを組み合わせたアートワークもおしゃれで惚れ惚れするものがあるが、実際の音楽も、それに劣らず魅力的である。アーティスティックな才覚が全篇にほとばしっている。

 

思えば、「Shark Shark」のミュージックビデオはケール自身が出演し、アグレッシヴなダンスを披露し、エキセントリックなイメージを表現していた。このアルバムからのメッセージは明確で、岡本太郎の言葉を借りると、生きることが芸術、アートでもある。色褪せない感覚、古びない感性、最前線の商業音楽。これらは、1960年代にアンディー・ウォーホールのファクトリーに出入りしていた年代から続くケール氏の生き方を反映している。アートをどのように見せるのか? そしてそれは商業的な価値を生み出せるのか? その挑戦の連続なのだ。

 

『Mercy』でケールはヒップホップやエレクトロニック等の影響を織り交ぜて、重厚感のある作風に焦点を絞っていた。ボーカルとしての印象も多少、重苦しくならざるを得なかったが、『POPtical Illusion』は、前作の系譜にある収録曲もありながら、全体的な印象は驚くほど軽やかで明るい。ソロアーティストとしてのクリエイティブな苦悩を超えた吹っ切れたような感覚に満ち溢れ、 アートワークに象徴付けられるように色彩的な旋律のイメージに縁取られている。


前作では、ピーター・ガブリエルやイーノの最新の作風に近いものがあったが、今回、ケールは、デヴィッド・ボウイの全盛期を彷彿とさせる''エポックメイキングなアーティスト''に生まれ変わった。旧来からプロデューサーとしても活躍するケールは、培われてきた録音の経験や音楽的な蓄積を活かし、現代的な質感を持つエクスペリメンタルポップ/ハイパーポップを制作している。


しかし、『POPtical Illusion』は、Domino Recordingsの他の録音と同様に、前衛性や斬新さだけが売りのアルバムではない。モダンとクラシックを13曲でひとっ飛びするようなエポックメイキングなポピュラーアルバム。デヴィッド・ボウイのベルリン三部作、それと並行して、80年代のAOR/ソフト・ロック、さらには2010年代以降のエレクトロ・ポップと、70年代からのポピュラー音楽の流れを捉えながら、それらを最終的にシンプルで親しみやすい形式に落とし込む。

 

「#1 God Made Me Do It(don't ask me again」は、シンセ、ギター、ドラムを組み合わせたモダンなポピュラー音楽として楽しめる。旧来になくケールのメロディアスな才覚がほとばしり、彼自身のコーラスワークを配置し、夢想的なテイストを散りばめる。エレクトロニックとポピュラーを組み合わせ、摩訶不思議な安らぎーーポプティカル・イリュージョンーーを生み出す。


続く「#2 Davies and Wales」は、70年代のニューウェイブや80年代のAORに依拠したポピュラーソングで、エレクトリックピアノが小気味よいビートを刻み、組み合わされるシンセベースがグルーブ感を生み出す。負けじと、ケールはハリのある歌声を披露する。彼のボーカルは軽やかで、高い精妙な感覚を維持している。そしてタイトルのフレーズの部分では、コーラスを織り交ぜながらアンセミックなフェーズを作り出す。ソングライターとしての蓄積が曲に色濃く反映され、どのようにしてサビを形成するポピュラリティを作り出すか、大まかなプロセスが示される。この曲にも、ケール氏のポピュラー音楽に対する考えがしっかりと反映されている。自分の好きなものを追求した上で、それらにどのようにして広告性と商業性を付与するのか。


続く「#3 Calling You Out」は、ジャンルというステレオタイプの言葉ではなかなか言い表しづらいものがある。男性シンガーとしての内省的センチメンタルな感覚をエレクトロニックで表現し、それをジャズのテイストで包み込む。


そしてそれらの現代性を与えるのが、モダンなエレクトロやヒップホップを通過したリズムトラックだ。しかし、前衛的な要素を織り交ぜながらも、曲自体は、ボウイやそれ以後の十年間にあるポピュラー性に重きが置かれている。いわば古典派としての音楽家の表情、現代派としての芸術家の表情、それらのアンビバレントな領域を絶えず揺れ動くかのようなナンバーである。


そしてケール氏は、古典的なものに敬意を示しながらも、現代性に対しても理解を示している。曲の終盤にかけて、コラボレーターのボーカルにオートチューンをかけていることも、彼が新しいウェイヴに期待を掛けている証なのである。


かつて、60年代後半に無名だったVUの音楽に理解を示してくれたファンがいたことと同様に、ジョン・ケール自身のこれらの新たな表現性に対する理解や肯定、あるいは次にやってくる潮流に対する期待感は、本作の中盤の流れを決定付ける「#4  Edge Of Reason」において、シカゴ・ドリル/ニューヨーク・ドリルの系譜にあるリズムトラックというカタチで明瞭に反映される。


2000年代のドイツ等で盛んだったグリッチを散りばめたトラックは、やがてエレクトロニックを反映させた2010年代以降のシカゴやニューヨークのドリルに受け継がれた。ケールはそれらの影響を踏まえ、ドレイクのような現代性を意識し、無理のない範囲で独自のポピュラリティに置き換えようとしている。これらは、キム・ゴードンの最新アルバムとも連動する性質でもある。かつてラップの中にポピュラー性を取り入れたように、現代的なポピュラー性の中にラップの要素を取り入れることが、今ではそれほど珍しくなくなっていることを暗示している。


「#5  I'm Angry」のイントロは、アンビエントがいまだアンダーグラウンドのチルウェイブの一貫として勃興した時代の作風を彷彿とさせる。オルガンの演奏に合わせてコール・アンド・レスポンスの形で歌い上げられるケールのボーカルはタイトルとは正反対である。フレーズを繰り返すうち生み出される怒りを冷静さや慈しみで包みこむ感じは、直情的な感覚とは対極に位置している。それに続く「#6 How We See The Light」は、連曲のようなニュアンスが含まれる。ダンサンブルなリズムとシンセ・ポップを組み合わせ、ボウイの系譜にあるナンバーを作り出す。


続く「#7  Company Commander」は、アルバムのアートワークに象徴づけられるコラージュのサウンド、ミュージック・コンクレートを導入している。2010年代のアイスランドのエレクトロニカ、ニュアンスとスポークンワードの中間にあるケイルのボーカルは、「Abstract Pop」という、ニューヨークの最前線のヒップホップシーンへのオマージュの考えも垣間見ることが出来る。

 

 

前半部では一貫してミュージシャンによる「理想的なポップとは何か?」という考えが多角的に示される。それは、多少、録音のイリュージョンというジョークのような意味も込められているのかもしれない。一方、後半部では、アーティストとしての瞑想的な感覚と感性が組み合わされ、アストラルとメンタルの間の領域にあるポピュラリティへと近づく場合がある。肉体の感覚と魂の感覚ーー一般的に、これらは、年を経るごとにバランスが変わると言われているが、人間が単に肉体の存在ではなくて、霊に本質があるというレフ・トルストイが『人生論』で書いていたこと、つまり、人々は、ある年代で生きることの本質に気づき始めるというのだ。


それは、録音作品を語る上で、商業音楽としての霊妙な感覚に近づく瞬間もある。つまり音楽というのが必ずしも、旋律やリズム、和音や対旋律、ないしは作曲技法の範疇にある旋法やメチエといった技法に縛られるものではないことを示唆している。これは意外と、10代や20代の始めの頃には、肌身でなんとなく知っていることなのに、以降の年代、肉体的な感覚が優勢になるにつれ、忘れさられていく。ケールは、長い音楽活動の経験を踏まえ、感覚的な音楽を制作し始めており、それは音楽の本質が表されていると言ってもさしつかえないかもしれない。

 

サウンドについて言えば、「#8 Setting Fires」はベテランアーティストによるチルウェイブへの親和性が込められている。これは、例えば、Toro y Moiのような安らぐ音楽は、何歳になっても気軽に楽しめることを示唆する。 また、「#9 Shark Shark」には、気鋭のロックアーティストとしての性質が立ち現れる瞬間が捉えられる。ここには、ダンスという人間的な表現下における生命力の発露が音楽として表れる。そして、霊妙な感覚、人間の本質を表す魂の在り処をポピュラリティとして刻印した「#10 Funkball the Brewster」は、この世の中のどの音楽にも似ていない。それも当然のことで、彼はすでに存在する鋳型に何かを注ぐのではなく、自らの内側にある魂の揺らめきを、音階や脈動が織りなす流れとして捉え、それらを音楽にしているだけなのだ。

 

ジョン・ケールは、『POPtical Illusion』において外側に表出せざるを得ないもの、表さずにはいられないものをスタジオ録音を通じて記録というシンプルな形で残している。これらのアーカイブが果たしてポピュラーやレコーディングの歴史における「記憶」となるかどうかは定かではない。


ただ、「All To The Good」、「Laughing In My Soup」とユニークな印象がある軽快なダンスポップが続いた後、シンセピアノを活かした美しいバラードがクライマックスを飾る。クローズ曲「#13 There Will Be No River」は、ビートルズのような古典的なテイストを放つ。シンセサイザーのストリングスを込めたミニマル音楽を基にしたバラードは、シンプルであるがゆえ心に残る。

 

 

 

86/100




「God Made Me Do It(don't ask me again)」

 Cola  『The Gloss』

 

Label: Fire Talk

Release: 2024/06/14



Review

 

Colaは、ジャズ・フェスティバルに象徴されるモントリオールのシーンから必然的に登場したバンドである。Oughtの元メンバー、Tim Darcy(ティム)とBen Stidworthy(ベン)によって結成され、U.S.ガールズやブロディ・ウェストなどトロントの活気あるジャズ/エクスペリメンタル・シーンでセッション・ミュージシャンとして活躍。以降、エヴァン・カートライトが2019年の初練習後に加入。モダン・ジャズからの影響はエクスペリメンタルロック/マスロックとして昇華され、細やかな変拍子による曲構成が織りなす極めてハイレベルな演奏力が特徴である。

 

ColaはワシントンDCのディスコード・レコードからの影響を挙げている。これらはFugaziのような1980年代のパンクシーンのイマジネーション溢れるエクスペリメンタルロックを踏襲していることを象徴付けている。しかし、そういったキャッチフレーズを見ると、ハードなサウンドを想像してしまうが、Colaのサウンドはものすごく分かりやすく、耳にスムーズに飛び込んでくる。


確かにプレイの側面では、マスロック/エクスペリメンタルロックの系譜にある数学的な変拍子を取り入れている。しかし、その一方で、Strokesのシンプルかつスタイリッシュな構成が織りなすガレージ・ロックの影響が立ち現れる。つまり、バンド側から見ると、とてつもなくハイレベルな演奏なのだけれど、表向きのサウンドについてはキャッチーなサウンドが繰り広げられる。


ティム・ダーシーのボーカルに関しては、Strokesのジュリアン・カサブランカス、Televisionのヴァーレンの系譜にあり、インテリジェンスとクールさを兼ね備えている。例えば、ストロークスの最初期は、同音反復の多いミニマルの構成を持つアルバート・ハモンドJr.のシンプルなギターとカサブランカスのスタイリッシュなボーカル、それを背後からガッチリと支えるシンプルなリズムセクションが2000年代のロックのリスナーの需要とピタリと合致したのだった。


ある意味、モントリオールのColaは、ガレージロックのリバイバルサウンドの核心を聡く捉えている。しかし、問題点は、ミニマルな構成を持つギターロックを続けていると、演奏側としては飽きが来るという懸念にある。その後、ストロークスは、RCAからのリリースの時代、ガレージ・ロックからR&Bを踏襲した渋さのあるロックサウンドにシフトチェンジしたのだった。


そのところをColaはよく考えていて、彼らは、構成の中に変拍子というリズム的な側面からエフェクトを及ぼすことによって、バリエーションのあるサウンドに昇華している。これは、録音のマスタリングでエフェクトをかけるという固定観念を逆手に取り、ライブセッションを通じて編集的なロックサウンドとは何かを探求した作品と言える。ここには、モントリオールのジャズカルチャーのライブセッションを通じて音楽性を突き詰めるという考えが反映されている。

 

現在は、ひとしなみにロックといっても様々なスタイルがあり、また、あまりにも細分化されすぎているので、リスナーとしても本当に理想的なロックとは何かがよくわからなくなることがある。よく聞いている人ほど抱える悩み。しかし、どれほど細分化したとしても、理想的なロックとは何かと言えば、音を聴いてかっこいいか、痺れるか、ということに尽きるのかもしれない。最もクールな何かを端的に示したバンドが次世代のロックアイコンの座を掴むはずだ。少なくとも、モントリオールのColaは、時代の象徴にはならないかもしれないが、アンダーグラウンドレベルでは、かなりクールなサウンドを追求している。それは、三人組がジャズやパンクのような音楽に触発されながらも、ロックというシンプルなスタイルにこだわってきたことを意味する。


挨拶代わりの「Tracing Hallmarks」はフックのあるナンバー。Televisionの系譜にあるパンクもあるし、最初期のルー・リードのような斜に構えた感性をひけらかすこともある。ただ、それはロックミュージシャンに許される特権ともいえ、彼らのスノビズムは不思議なほど嫌味がない。実際的には、パンクでアクの強いロックサウンドが敷き詰められる。ベースのルート進行とギターのミニマルな構成、これらの融合は、ポエトリーな響きを持つカサブランカスの影響下にあるティム・ダーシーのボーカルによって強固なイマジネーションをもたらす。

 

同じようにルート進行をベースにしたストロークスの系譜にあるガレージロックの曲が続く。「Pulling Quotes」は、バンドの演奏に加わるボーカルがエモーションを漂わせる。これぞまさしくストロークスのデビューアルバムにあった革新性だ。つまり背後の同音反復から浮かび上がってくるハーモニーの温和さがトリオのソングライティングの醍醐味になっている。ギターの演奏も無駄を削ぎ落とし、裏拍を強調したスケール進行が爽快な印象を形作る。バンドはガレージロック・リバイバルのサウンドに加えて、QOTSAの初期のストーナー、Black Keysのブギーを吸収し、「Pallor Tricks」では硬派なロックとして吐き出す。リズム自体は裏拍が強調され、ギターリフは、不協和音をもとに構成されている。いわば、Rodan、Helmet、MOBの系譜にあるアヴァンギャルドなポストパンク/ポストロックの尖った印象が表情をのぞかせる。

 

「Albatoross」もまた不協和音を突き出したギターサウンドが際立つ。しかし、その中にはピチョトー/マッケイが追求していた不協和音の中に潜む偶発的な協和音が立ち表れ、80年代のエモーショナル・ハードコアやニューヨークのTelevisionの最初期のプロト・パンクのようにしぶとく、ざらついた硬質なサウンドを生み出す。表向きには無愛想であるのに、その裏側には温かさが滲む。この二律背反に位置するロックサウンドがColaの魅力なのかもしれない。マニアックでニッチだけど、なぜか聞き入らせる何かがあるのが不思議でならない。

 

そんなふうにして聴いていると、いつの間にか不思議な魅力に取りつかれている。「Down To Size」でも、何かリスナーを食ってかかるようなパンキッシュな迫力、そして前のめりな感覚を持つロックソングが続く。この曲は、アルバムの序盤で最もポスト・パンクの性質が強く、尖りまくっている。ティム・ダーシーのボーカルが、Talking Headsのデヴィッド・バーンの系譜にあるのを伺わせる。しかし、不協和音を表面的には押し出しつつも、必ず協和音のポイントを設けている。これが人好きのしない無愛想なロックの気配を醸し出しながらも、意外にも親しみやすさを感じさせる理由なのだろう。それはもしかすると、聴くたびに意外な印象がもたげるかもしれない。


Colaのサウンドには、その他にも、Black Keys、Spoonのような古典的なロックの影響、ローリング・ストーンズのリフをエクスペリメンタルロック風に解釈したものまで極めて幅広い。しかし、編集的なサウンドでなく、ライブセッションの中から音楽が作り出されているという点に信頼感を覚える。

 

それは「Keys Down If You Stay」のように、やや泥臭い感覚をもって心を鷲掴みにする場合がある。この曲は、ニューヨークのGeeseのようなリバイバルロックに近い空気感に縁取られている。その他にも、ローファイやチルウェイブと古典的なロックを融合させた「Nice Try」なども良い味を出している。これらのシンプルなギターロックは、現行の複雑化しすぎたポストパンクへ一石を投じるような意味があるかもしれない。ただ、彼らのサウンドが単なる懐古主義でないことは、続く「Bell Wheel」を聴くと明らかである。ここでは、Squidのような先鋭的なロンドンのポストパンクに近いニュアンスが感じられ、なおかつプログレッシヴ・ロックの系譜を踏まえて異質なサウンドを作り上げている。ひねりのあるボーカルも、ややUKのテイストを漂わせる。

 

正直、現時点ではブレイクポイントを迎えたとまでは言いがたい。しかし、モントリオールから清新なロックのウェイブが沸き起こりつつあるようだ。そのことを印象づけるのがColaの台頭なのである。アルバムのクローズ「Bitter Melon」は、ジャズセッションのような実験性があり、興味をひかれる。今後、どのようなバンドになるのかがさっぱり分からないのがとても魅力的だ。

 

 

85/100

 

 

 

「Bell Wheel」

 Clarissa Connelly 『World Of Work』

 

Label: Warp

Release: 2024/04/12




Review



クラリッサ・コネリーはスコットランド出身で、現在デンマーク/コペンハーゲンを拠点に活動するシンガーソングライター。近年、Aurora(オーロラ)を始め、北欧ポップスが脚光を浴びているが、コネリーもその一環にある北欧の涼やかなテイストを漂わせる注目のシンガーである。


それほど音楽そのものに真新しさがあるわけではないが、親しみやすい音楽性に加え、ABBAやエンヤのような北ヨーロッパのポピュラーの継承者でもある。おそらく、コネリーは、デンマークを中心とするポピュラーソングに日常的に触れているものと思われるが、シンガーが添えるのはスコットランドのフォーク・ミュージック、要するにケルト民謡のテイストなのである。

 

このリリースに関しては過度な期待をしていなかったが、素晴らしいアルバムなので、少し発売日から遅れたものの、レビューとしてご紹介したいと思います。Warpはこのリリースに際して特集を組み、クラリッサ・コネリーは、アメリカの音楽学者でアメリカン・パラミュージック学博物館の館長でもあるマット・マーブルさんとの対談を行い、以下のように述べています。

 

「私は新しいメロディーやコードを書きながら、こうした無意識の状態に陥るようにしている。長いメロディーを書き続けて、調性が変わるところに出てきて、また戻ってくることがよくある。そして、その輪が終わったとき、輪が短すぎたり、曲の中で新しいパートを導入したいと思ったりすると、夢うつつの状態に陥ることがよくある。そして、それが私に与えられる」


音楽学者のマット・マーブルはこの対談のなかで、コネリーの音楽について次のように話している。

 

ーークラリッサが初めて私に自分の「思考の下の聴取」について語ったとき、私はロシアの詩人、オシップ・マンデルスタムを思い出さずにはいられなかった。マンデルスタムは自分の実践を 『秘密の聴覚』と呼びならわし、それを彼は 『聞く行為と言葉を伝える行為の間にある中間的な活動』と表現したことがあるーー

 

ーー聴くことをある哲学的な雰囲気を通してフィルターにかける一般的なクレアウディエントの伝統と同様に、クラリッサは、『自分の作曲のプロセスを、特に願望的な静寂に導かれている』と述べた。これは、祈りと静寂に満ちた傾聴が効果的でインスピレーションを与えてくれることを証明し、セルフケアのための内なる必要性から発展したものである。いずれにせよ、クラリッサの音楽の多くは、この静謐な雰囲気の中で、まるで夢の中にいるかのように生まれるーー

 

この対談はさすがとも言え、音楽そのものが表面的に鳴り響くものにとどまらず、聞き手側の思考下になんらかの主張性をもたらし、そしてまた心の情感を始め、科学的には証明しがたい効果があることの証となる。つまり、ヒーリングミュージックに象徴されるように、人間の傷んだ魂を癒やすような力が音楽には存在することになる。もうひとつ気をつけたいのは、音楽はそれとは正反対に、把捉者の聴覚を通して、その魂を傷つける場合があるということである。これは、アンビエントが治癒の効果を持つように、クラリッサ・コネリーのデビュー・アルバムもまた、ポピュラー・ミュージックを介しての治癒の旅であることを示唆している。クラリッサ・コネリーのソングライティングは、ギター、ピアノを中心におこなわれるが、それに独特なテイストを添えているのが、北欧の言語にイントネーションを置いたシラブルである。

 

多分、英語で歌われるのにも関わらず、デンマーク語の独特なイントネーションを反映させた言葉は、アメリカン・パラミュージック博物館の館長のマット氏がロシアの詩人の警句を巧みに引用したように、『聞く行為と言葉を伝える行為の間にある中間的な活動』を意味している。ひとつ補足しておくと、それはもしかすると「伝達と受動を超越した別の表現形態」であるかもしれない。これはまた「伝達」と「受動」という2つの伝達行為の他にも別の手段があることを象徴づけている。例えば、米国のボーカル・アーティスト、メレディス・モンクは古くから、このことをパフォーミングアーツという形態で伝えようとしていた。また、オーストラリアの口笛奏者のモリー・ルイスは、「口笛がみずからにとって伝達の手段である」と語っていることを見ると更に分かりやすい。つまり人間は、近代から現代への機械文明に絡め取られたせいで、そういった高度な伝達手段を失ってきたとも言えるのだ。SNSやメディアの発展は人間の高い能力を退化させている。これは時代が進んでいくと、より退化は顕著になっていくことだろう。そしてクラリッサ・コネリーのボーカルは、単なる言葉の伝達手段なのではなくて、神秘的な意味を持つ「音や声のメッセンジャーである」ということが言えるかもしれない。

 

 

コネリーが説明しているように、デビューアルバムの冒頭の収録曲の音楽は、絶えず移調や転調を繰り返し、調性はあってないようなもので、ミュージック・セリエルの範疇にあるメチエが重視されている。しかし、完全な無調音楽とも言い難く、少なからず、その中にはドビュッシーやラヴェルのような転化による和声法が重視されている。色彩的なタペストリーのように織りなされる旋律の連続やアコースティックギターやピアノ、ストリング、ドラム、シンセサイザーのテクスチャーという複合的な要素は、最終的にデンマーク語のシラブルを踏まえたボーカルと掛け合わされ、美しいハーモニーを作り出す。クラリッサ・コネリーの作曲の手腕にかかると、床に散らばった破片が組み合わされていき、最終的に面白いようにピタリとはまっていく。

 

ここには、ビョークが最新アルバムで見落としたポピュラーの理想的なモダニズムが構築されている。アルバムの冒頭部「Into This, Called Lonelines」にはこのことが色濃く反映されている。音楽的には、北ヨーロッパのフォークミュージックを踏まえ、それらを柔らかい質感を持つポップスとして昇華させる。


いわば、アルバムのオープナーは、未知の扉を開くような雰囲気に縁取られている。アルバムの中には、サンプリングの導入によってストーリーが描かれるが、それらは多くの場合、他の曲と繋がることが非常に少なく、分離した状態のままにとどまってしまっている。しかし、このアルバムはその限りではなく、「The Bell Tower」は、木目を踏みしめる足音と教会の鐘の音のサンプリングを組み合わせ、次の曲の導入部の役割を担う。まるで、音楽の次のページをめくったり、次の物語の扉を開けるかのように、はっきりと次の音楽の雰囲気の予兆となっている。

 

また、良いことなのかはわからないにせよ、クラリッサ・コネリーのソングライティングは、時代性とは距離を置いていて、流行り物に飛びつくことはほとんどない。「An Emboridery」はタイトルの通りに、刺繍を組み合わせるようにギターの演奏がタペストリーのように縫い込まれ、長調と短調の間を絶えず行き来する。これらの感覚的なトラックに対し、コネリーのボーカルは、より情感的な効果を付け加える。たとえ現代的なノイズを交えたエクスペリメンタル・ポップの音響効果が組み込まれても、それらの感覚的な旋律や情感が失われることがない。そして、曲のアウトロでは、前の曲の鐘の音が予兆的なものであったことが明らかになる。

 

「Life of Forbidden」は、北欧ポップスの王道にあるナンバーで、この音楽の象徴的な特徴である清涼感を味える。構成にはコールアンドレスポンスの技法が取り入れられ、北欧の言語やフォーク・ミュージックにだけ見出される特性ーー喉を細かく震わせるようなファルセットとビブラートの中間にある特異な発声法ーーがわかりやすく披露されている。この曲は、単なるフォーク・ミュージックやポピュラー・ソングという意味で屹立するのではなく、上記の対談で語られた伝達や受動とは異なり、その中間域にある別の伝達手段としてボーカルが機能している。

 

これは例えば、メレディス・モンクが『ATLAS』で追い求めたボーカルアーツと同じような前衛的な形式が示されている。アートというと、ややこしくなるが、クラリッサ・コネリーの曲は、耳障りの良く、リーダビリティの高い音楽として表側に出てくる。山の高地の風を受けるかのような、軽やかで爽やかなフォーク・ミュージックとして楽しめる。それに続く「Wee Rosebud」も同様に、メレディス・モンクがコヨーテのような動物の声と人間のボーカルを同化させたように、声の表現として従来とは異なる表現形式を探求している。それはデビュー作であるがゆえ、完全なカタチになったとまでは言いがたいが、ボーカルだけで作り上げられるテクスチャーは、アコースティック・ギターの芳醇な響きと合わさり、特異な音響性を作り上げる。

 

アルバムの前半部では、北欧のポップスの醍醐味が堪能出来るが、それ以降、クラリッサ・コネリーの重要なルーツであるスコットランドのケルト民謡をもとにしたフォーク・ミュージックがうるわしく繰り広げられる。ソングライターは、ギターを何本も重ねて録音することで、アコースティックの重厚なテクスチャーを作り出して、曲の中に教会の鐘の音をパーカッシヴに取り入れながら、ケルト民謡の神秘的な音楽のルーツに迫ろうとする。この曲は、他の曲と同じように、聞き手にイメージを呼び覚ます力があり、想像力を働かせれば、奥深い森の風景やそれらの向こうの石造りの教会を思い浮かべることもそれほど難しくはないかもしれない。これはベス・ギボンズの最新作「Live Outgrown」と同じような面白い音響効果が含まれている。


優しげな響きを持つ「Turn To Stone」もソングライター/ボーカリストとしての力量が表れている。ピアノのシンプルな弾き語り、そしてやはり北欧の言語のイントネーションを活かした精妙なハーモニーをメインのボーカルと交互に出現させ、柔らかく開けたような感覚を体現させる。その後、「Tenderfoot」では、スティール弦の硬質なアコースティックギターのアルペジオを活かして、やはり緩やかで落ち着いたフォーク・ミュージックを堪能出来る。それほど難しい演奏ではないと思うが、ギターと対比的に歌われるコネリーのボーカルがエンヤのような癒やしを生み出す。この曲でも、ボーカルをテクスチャーのように解釈し、それらをカウンターポイント(対位法)のように組み合わせることで、制作者が上記のWarpの対談で述べたように、「願望的な静寂」に導かれる。これはまた深層の領域にある自己との出会いを意味し、聞き手にもそのような自らの原初的な自己を気づかせるようなきっかけをもたらすかもしれない。

 

制作者は複合的な音の層を作り上げることに秀でており、シンセの通奏低音や、ギターの断片的なサンプリング、 コラージュのような手法で音を色彩的に散りばめ、それらをフォークミュージックやポピュラーミュージックの形に落とし込んでいく。上記の過程において「Crucifer」が生み出されている。この曲は、アルバムでは珍しく、セッションのような意味合いが含まれていて、旋律の進行やどのようなプロセスを描くのかを楽しむという聞き方もあるかも知れない。


アルバムは意外にも大掛かりな脚色を避けて、シンプルな着地をしている。クローズ「S,O,S Song of The Sword」は、編集的なサウンドはイントロだけにとどめられていて、演出的なサウンドの向こうからシンプルな歌声が現れるのが素敵だと思う。これらの10曲は、表面的な華美なサウンドを避けていて、音楽の奥深くに踏み入れていくような楽しさに満ちあふれている。
 



82/100




 「Life of The Forbidden」

 Peggy Gou 『I Hear You』


Label: XL Recordings

Release: 2024/06/07



Review    A stunning debut album



ペギー・グーのキャリアは、南ドイツのハイデルベルクのベースメントのクラブシーンから出発した。以後、Ninja Tuneをこよなく愛するクラブビートの愛好者、そして、Salamandaなど気鋭の実験的なエレクトロニックデュオを発掘して育成するレーベルオーナー、そして、それ以後、イギリスのクラブシーンに関わりを持つようになったDJというように、かなり多彩な表情を持つ。どうやら、今年の夏、日本の音楽フェスティバルで準ヘッドライナーを務めるという噂もある。表向きには、新進気鋭のプロデューサー、DJというイメージを持つリスナーもいるかもしれないが、それは完全な誤りである。ペギー・グーは2010年代ごろからドイツのベースメントのクラブシーンに慣れ親しんでおり、満を持してXLとのライセンス契約を結んだと言える。こんな言い方が相応しいかはわからないけれど、意外に下積みの長い音楽家なのである。

 

ペギー・グーのクラブビートへの親しみは、南ドイツの哲学者の街、ネッカー川や古城で有名なハイデルベルクに出発点が求められる。


当初、ペギーは、ハイデルベルクの地元のレコードショップを務めていた名物DJ/プロデューサー、D Manと親しくしていたようで、それゆえ彼女のクラブビートは正確に言えば、イギリスのロンドン/マンチェスター由来のものではない。ヨーロッパのクラブビートの色合いが滲んでいる。


だからなのか、ベルリン等の大型のライブフェスで聴けるようなハリのあるサウンドがこのデビュー・アルバムで繰り広げられる。ある意味では、ペギー・グーはドイツのハイデルベルクのベースメントのクラブミュージックを背負い、デビューアルバムに詰め込んでいる。それは形骸化したクラブ・ミュージックとは異なるもの。アーティストのデビュー作への意気込みやプライドのようなものがオープニングから炸裂する。

 

アルバムから醸し出される奇妙なクールさは実際に聞かないとわからない。「Your Art」ではユーロビートの次世代のビートを込め、スポークンワードを散りばめ、ドイツ的なものからイギリス的な表現へと移り変わる過程が描かれている。その中にダブの録音だったり、Tone 2のGradiatorのような近未来的なアルペジエーターを多彩に散りばめ、魅惑的なトラックを作り上げている。


ミックスにより表面的なトラックの印象が押し出されているが、その内実はかなり細かいところまで作り込まれたサウンドであることが分かる。ただ、録音的には、イギリスのレコーディング技術が駆使されているとはいえ、ペギーがプロデューサーとして体現させるのは、ユーロ的な概念なのである。いわば、ここにコスモポリタンとして生き残ってきたグーの姿が浮かび上がる。


「Back To One」は、例えば、ロンドンのクラブで鳴り響いているようななんの変哲もないディープ・ハウスのように思えるかも知れないが、その中にユニークなサンプラーやシンセの音色を散りばめることで、 カラフルな印象を持つサウンドを構築していく。ただ、やはりIDMではなくEDMに軸足を置いているのは一曲目と同様で、やはりクラブでの鳴りの迫力を意識している。ここにはやはりヨーロッパで活躍する電気グルーヴのような親しみやすいテクノからの影響も含まれている。一貫して乗りやすく、親しみやすいビートを作り出している。 


インストゥルメンタルを中心とする曲が続いた後、クラブビートを反映させたボーカルトラックが収録されている。アルバムのハイライト「I Believe In Love Again」では、レニー・クラヴィッツが参加している。このことに由来するのか、クラブビートはややソウルやR&Bの性質が色濃くなる。キャッチーなボーカルやビートはお決まりの内容なのだが、よく聴くと分かるように、意外と深みが感じられる。ここには直接的なリリックとしては登場しないが、愛情という考えの裏側にある孤独や寂しさといったような考えが、ボーカルのニュアンスの背後からぼんやり浮かび上がってくる。


アルバムの中盤ではサンプラーの引用によってR&Bを抽出する''ジャングル''というダンスミュージックが色濃く反映されている。ここではロンドンのベースメントのクラブ・ミュージックを反映させ、それは数年前にペギーが実際にダンスフロアで体験した音楽が追憶のような形で繰り広げられている。ここにはやはり、アーティストの音楽的な背景が示唆されるにとどまらず、リアルな生活、日頃どのような暮らしを送っているのか、そういったバックグラウンドを感じ取ることが出来る。それは実際、かなりリアルな感覚をもって聞き手の感覚を捉えてやまないのだ。コラボレーターとして参加したVillano Antilannoは、ヒップホップという側面で貢献している。そして複雑さでははなくて、簡素さという側面で、この曲の雰囲気を上手く盛り上げている。


「It Goes Like) Nanana」では、DJ/プロデューサーのアーバンフラメンコやレゲトンといった最新のクラブビートへの親しみがさりげなく示される。しかし、ここではロザリアとは異なり、チープな音色を取り入れ、軽やかなクラブビートを作り出す。夏のリゾート地で活躍しそうなナンバーで、涼やかで爽やかな気風が反映されている。意外なことに、この曲にはTM Network(小室哲哉)のような日本のレトロなテクノサウンドへのオマージュが示されている。

 

こういった古いタイプのダンスチューンは今聞くと、意外と新鮮な感覚を覚える。ペギーは、チープさを徹底して押し出すことで、いわく言いがたい「新しさ」を添えている。また、それに続く「Lobster Telephone」でも、YMO/TM Networkからのサウンドの引用がある。どうやらアーティストによる日本の平成時代のカルチャーへの親しみがさりげなく示されているようだ。

 

アルバムの中盤で、日本のテクノシーンへさりげないリスペクトが示された後、ようやく韓国的なクラブビートが展開される。「Seoulsi Peggygou」は大胆にも京城とアーティスト名をタイトルに冠しているが、ここにはリナ・サワヤマのロンドンでの活躍に触発されてのことか、ディアスポラの概念とホームタウンへの熱い思いが織り交ぜられる。ドラムンベースの影響下にある変則的なリズムから三味線や胡弓のような音色でエキゾチズムを込め、アジアのテイストを添えている。ここにはアーバンフラメンコを始めとするスパニュッシュの文化に対抗する「アジアイズム」が分かりやすい形で反映されている。言うまでもなく、この曲にはDJとしての手腕が遺憾なく発揮され、ドラムンベースを主体とするビートはSquarepusherのようなドライブ感を帯びる。しかし、こういったベースメントのクラブサウンドを展開させても、それほどマニアックにならない理由は、シンプルな構成を心がけているからなのかもしれない。



ボーカルトラックとして強くおすすめしたいのが「I Go」である。やはりペギー・グーはデトロイト発祥の古典的なテクノサウンドをベースにし、涼やかな印象を持つトラックを制作している。アルバムの中では、K-POPのようなニュアンスを持ち合わせている曲だが、ただこれらの音楽のベースにあるのは、韓国由来のものだけにとどまらない。どちらかと言えば、MAX、安室奈美恵、BOA、それに類する日本の平成時代のダンスミュージックの影響を感じ取ることが出来る。これらの「Avex Sound」と呼ばれるものは、日本では長らく忘れ去られていたタイプの音楽だが、海外で活躍する女性シンガーが意外とセンスよく昇華させているに驚きを覚える。日本のポップシーンに言いたいのは、平成時代の音楽に原石が眠っているということなのだ。


ここまで聞きやすい曲を揃えておいて、アルバムの終盤ではペギー・グーの抑え込んでいた趣味や衝動が全開になり、バイクで夜道を爆走するような迫力満点のクラブビートが繰り広げられる。「Purple Horizon」では、イギリスのベースメントのクラブミュージックを反映させつつ、そしてアシッドハウスの色合いを添える。マニアックな曲だが、一番聴き応えがある。ここでは、Four Tetのようなカラフルなサウンド・デザインを描き、音楽家としてのデザインのセンスがうかがえる。ペギー・グーはサンプラーのビートを巧みに配し、サウンドパレットの中に大胆なシーケンスを取り入れている。大掛かりな仕掛けを持つテクノミュージックとして楽しめるはず。

 

アルバムの最後の「1+1=11」は、明らかにD Manのアシッド・ハウスのビートを意識していて笑ってしまった。やはり、ここには、イギリスのクラブミュージックへのリスペクトもあるが、その裏側で南ドイツからキャリアを出発させたDJとしての底意地のようなものが揺らめく。デビュー作であるものの、三作目のアルバムのような雰囲気があるのも面白いのでは。ダンス・ミュージックの楽しさ、軽快さ、爽やかさという基本を追求した素晴らしいアルバム。

 

 


85/100




 

「I Go」