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Yoshika Colwell・The Varnon Spring  『This Weather(E.P)』

 

Label: Blue Flowers Music

Release: 2024年12月6日



Review  エクペリメンタルポップのもう一つの可能性 

 

ロンドンをベースに活動するYoshika Colwell(ヨシカ・コールウェル)の新作『This Weather』はThe Vernon Spring(ヴァーノン・スプリング)が参加していることからも分かる通り、ピアノやエレクトロニクスを含めたコラージュ・サウンドが最大の魅力である。単発のシングルの延長線上にある全4曲というコンパクトな構成でありながら、センス抜群のポップソングを聴くことが出来る。

 

ヨシカ・コールウェルは、イギリスの伝統的なフォークサウンドから影響を受けており、同時にジョニ・ミッチェルに対するリスペクトを捧げている。例えば、ミッチェルの1971年の名作『Blue』のようなコンテンポラリーフォークの風味を今作に求めるのはお角違いと言える。しかしながら1970年代の西海岸の象徴的な音楽性、ジャズシーンでも高い評価を受けた名歌手の影響をコールウェルのボーカルに見出したとしても、それは気のせいではない(と思う)。


それに加えて、ポスト・クラシカルともエレクトロニックとも異なるヴァーノン・スプリングの制作への参加は、このささやかなミニアルバムにコラージュサウンドの妙味を与えている。Bon Iver以降の編集的なポップスであるが、その基底には北欧のフォークトロニカからのフィードバックも捉えられるに違いあるまい。また、感の鋭いリスナーはLaura  Marling(ローラ・マーリング)のソングライティング、最新作『Patterns In Repeat』との共通点も発見するかもしれない。


EPの収録曲に顕著なのは、エレクトロニカとフォークトロニカのハイブリッドであるフォークトロニカをポップネスとして落とし込むという点である。オープニングを飾る「No Ideology」を聴くと分かる通り、グロッケンシュピール等のオーケストラの打楽器をサンプリング的に配し、ジャズ的な遊び心のあるピアノの短い録音をいくつも重ね合わせ、コラージュサウンドを組み上げていく。聴いているだけで心が和みそうなサウンドの融和は、コンテンポラリーフォークを吸収したヨシカ・コールウェルのボーカルと巧みに折り合っている。現代的な「ポップスの抽象化」(旋律や和音、そして全般的な楽曲の構成の側面に共通している)という観点を踏まえ、自然味に溢れ、和らいだポピュラーワールドが構築されていく。そして、ピアノの演奏の複数の録音やグロッケンシュピールの音色が、アンビバレント(抽象的)なボーカルと重なりあうとき、曲のイントロからは想像だにしないような神秘的なサウンドが生み出される。ここには構築美というべきか、音を丹念に積み上げることによって、アンビエント風のポップスが完成していく。この曲は近年の実験的なポップスの一つの完成形でもあるだろう。



ヴァーノン・スプリングのエレクトロニカ風のサウンドは次の曲に力強く反映されている。「Give Me Something」は前の曲に比べると、ダンサンブルなビートが強調されている。つまり、チャーチズのようなサウンドとIDMを融合させたポピュラー・ミュージックである。この曲ではイギリスのフォーク・ミュージックからの影響を基にして、エレクトロニカとしてのコラージュ・サウンドに挑んでいる。Rolandなどの機材から抽出したような分厚いビートが表面的なフォークサウンドと鋭い対比を描きながら、一曲目と同じように、グロッケンシュピール、ボーカルの断片が所狭しと曲の中を動き回るという、かなり遊び心に富んだサウンドを楽しめる。また、サウンドには民族音楽からのフィードバックもあり、電子機器で出力されるタブラの癒やしに満ちた音色がアンビバレントなサウンドからぼんやり立ち上ってくる。色彩的なサウンドというのは語弊があるかもしれないが、多彩なジャンルを内包させたサウンドは新鮮味にあふれている。ボーカルも魅力的であり、主張性を控えた和らいだ印象を付与している。

 

「Your Mother’s Birthday」はローラ・マーリングとの共通点が見いだせる。クラシックを基にしたピアノ、そしてエレクトロニカを踏襲したシンセ、そしてボーカルが見事に融合し、上品さにあふれる美しい音像が組み上げられていく。結局のところ、この曲を聞くかぎり、2020年代の音楽においては、北欧のエレクトロニカもポスト・クラシカルも旧来のフォークやポップスと影響を互いに及ぼしながら、新しいポップスの形として組み込まれつつあるのを実感せざるを得ない。こういったサウンドは、今後、主流のポピュラーの重要な基盤を担う可能性もありそうだ。そして楽曲は、旋律の側面においても、構成的な側面においても、緩やかな波を描きながら、曲の後半では、ドラマティックな瞬間を迎え、そしてアウトロにかけてクールダウンしていく。この曲には、即効性や瞬間性とは異なるオルトポップの醍醐味が提示されている。

 

EPのクローズも個性的なサウンドを楽しめる。この曲は、EDMとネオソウルのハイブリッドサウンドをイントロで強調した後、意外な展開を辿る。エレクトリック・ピアノを背景の伴奏として、ドラマティックなポピュラーミュージックへ転変していく。一曲目と同じように、最初のモチーフは長い時間を反映しているかのように少しずつ形を変え、植物がすくすくと葉を伸ばし成長していくように、ダイナミックでドラマティックな変遷を辿る。いわば最初のモチーフから曲が成長したり、膨らんでいくようなイメージがある。つまり、制作者のイマジネーションによって、民族音楽の打楽器をボーカルの背景に配し、エキゾチックなサウンドを強調させるのである。最終的には種にすぎないモチーフが花開くような神秘的な瞬間は圧巻と言える。


エクスペリメンタルポップは、近年においては、電子音楽やメタルのような音楽を吸収し、次世代のサウンドへ成長していったが、いまだクロスオーバーの余地が残されていることに意外性を覚える。もしかすると、クラシック/民族音楽/ジャズというのが今後の重要なファクターとなりそうだ。

 

 

82/100

 

 

Fennesz  『Mosaic』



Label: P-Vine Inc.

Release: 2024年12月4日


Review


『Mosaic』は2000年代はじめに発表された『Venice』のサウンドと地続きにある。今年、『Venice』は20周年を迎えるにあたって、リマスターを施したアニヴァーサリー・バージョンも発売されている。1990年代に彗星のごとくウィーンのテクノシーンに登場したFenneszは、ギタリストとして知られるほか、プロデューサー、作曲家として幅広い分野で活躍してきました。その中には坂本龍一とのコラボレーションアルバム『Cendre』を筆頭に、この10年間、 Fennesz(フェネス)はミュージシャン、映画制作者、ダンサーと共同制作を行ってきた。デヴィッド・シルヴィアン、キース・ロウ、スパークルホースのマーク・リンカス、マイク・パットン、多くのミュージシャンとレコーディングやパフォーマンスを行っている。また、ピーター・レーバーグ、ジム・オルークとともに即興トリオ、フェン・オーバーグとしても活動している。

 

フェネスの音楽的なアプローチに関しては、基本的にノイズ、アンビエントの中間に位置づけられる。また、その中には稀に、一般的なリスナーには聞き慣れないアフリカ等の民族音楽の要素が含まれることもある。しかし、結局、今世紀初めには上記のジャンルが(おそらく)確立されていなかったため、前衛音楽の枠組みの中で解釈されることは避けられなかった。ときにはアウトサイダー的なテクノとして聴かれる場合もあったかもしれない。だが、『Venice』の20周年盤でも言及した通り、テクノ全般のイディオムがフェネスの音楽にようやく追いついて来た。おそらく90年代や00年代にフェネスの音楽を理解した人はかなり少なかったはず。しかし、時代が変わり、今やフェネスの音楽はアウトサイダー・テクノではなく、むしろ主流派の領域に属し始めている。これはテクノや全般的な電子音楽を中心にクロスオーバー化やハイブリッド化が進んだことにより、フェネスの音楽はむしろ時代にマッチするようになった。

 

『Venice』の20周年記念盤のレビューでも言及した通り、このアルバムでは20年後の音楽が予見的に登場していた。それは”ドローン”という新しい音楽形式、それから、他の数々のジャンルを吸収したハイブリッドの末裔としてのテクノ等、 2000年代にグリッチが登場し、それらが新しい音楽として先見の明がある聞き手に支持されていた時代から見ると、たとえリアルタイムの体験者ではないとしても、心なしか感慨深いものがある。しかしながら、待望の新作アルバム、そして解釈に仕方によっては『Venice』の続編とも言える『Mosaic』は、あらためてこのプロデューサーの音楽がどのようなものであったのかを把握するのに最適である。彼の音楽が最先端に属していて、2020年代のミュージックシーンに馴染む内容であることが分かる。

 

本作は、2019年に発表された『Agora』からすでに始まっていたというルーチンワークから生じたという。「今回はゼロからのスタートで、すぐにはコンセプトもなく、厳しい作業ルーティンがあった。朝早く起きて昼過ぎまで仕事をし、休憩を挟んで、また夕方まで仕事をする。最初は、ただアイデアを集め、実験し、即興で演奏した。それから作曲、ミキシング、修正。''モザイク "というタイトルは、ピクセルのように一瞬で画像を作り上げる以前の、古代の画像作成技法を反映した」というのがフェネスのコメントとなっている。そして、アルバムの強度を持つノイズ、アンビエント、民族音楽の融合は、深遠なテクノのイディオムを顕現させる。

 

少なくとも、本作は一度聴いただけで、その全容を把握するのは至難の業である。五分から九分に及ぶ収録曲の音楽の情報量は極めて多い。アルバムの冒頭を飾る「Heliconia」は大まかに二部構成から成立している。ガラス玉のようなパーカッションがイントロに登場し、その後、ギターによるドローンが曲の構成や印象を決定付ける。微細な音の配置は、ポストロック的なマクロコスモスを描き、音像が際限なく広がっていき、宇宙的な壮大さを帯びる。この点に、坂本龍一の遺作『12』との共通項も見出される。


そして、2001年の『Endless Summer』の時代から培われたシンフォニックなテクスチャーが立ち上る。この間、一筋の光のように伸びていくシンセも登場し、4分以降にはダイナミックなハイライトを迎える。


以降は曲風が一変し、ノイズからサイレンスへ変遷していく。すると、精妙なノイズが登場し、民族音楽的なパーカッションが配され、曲全体は霊妙な雰囲気を帯びる。そして、後半部では、民族音楽とテクノを融合させ、その後、ギターのミュートを用いたアルペジオ等が登場し、曲の構成の背景を形作るシンセによるシークエンスは、Loscilの『Umbre』のような荘厳な雰囲気を帯びる。ギターの演奏だけでなにかを物語るかのように、曲はアウトロのフェードアウトに向かっていく。

 

フェネスは音楽制作者としてノイズミュージックの他にも音響派のギタリストとしての表情を併せ持つ。二曲目「Love And The Framed Insects」では2023年に発表されたアルバム『Senzatempo』、『Hotel Paral.lel』の両作品の作風を融合させ、叙情的なギターアンビエントと苛烈なノイズを交互に出現させる。


さらにフェネスはノイズと叙情的なシークエンスを丹念に融合させ、音楽の持つ静謐で美麗な瞬間を作り出す。いわばアルバムのジャケットに描かれるような情景的な美しさが音楽的なモチーフとして登場し、主体性を持つに至る。主体性を持つというのは、音楽が主人公となり、それらが発展したり、敷衍したり、奥行きを増していったりと、多彩な側面を見せるということ。これらは音楽の持つ多次元的な性質を反映させている。それらをフェネスは最終的な編集作業を通してコンダクターさながらに指揮するのである。ノイズも登場するものの、この曲の全般的な魅力はむしろ感覚的な美しさに込められている。これは調和と不調和の融合をかいして、制作者の美学のようなものが鏡のように映し出される。

 

経済学者であるジャック・アタリも指摘するように、ノイズというのは社会学として見た上では、不調和を意味する。しかし、一方で、実際的にホワイトノイズやピンクノイズ等、音の発生学として多彩なノイズがこの世に存在するように、これらの雑音が必ずしも不快な印象を与えるとはかぎらないということは、次の収録曲「Personare」を聴けば瞭然なのではないかと思う。


例えば、この曲では坂本龍一とのコラボアルバム『Cendre』で用いた精妙なノイズを駆使し、「不調和の中にある調和」を示唆している。実際的に、多くの人々は、単一の物事の裏側にある別の側面を度外視することが多いが、この世の現象や出来事の大半は、こういった二面性や多面的な要素から成立している。この曲では、そういった現象学としての普遍性がしたたかに織り交ぜられている。同時に、ノイズという本来は不快であるはずの音響的な現象中に、それとは対極に位置する快適な要素ーー心地よさーーを見出すことも、それほどむずかしくない。


実際的にこの曲はノイズを不自然に除去した音楽よりも、不思議と音に身を預けていたいと思わせる快適な要素が偏在している。なぜ、一般的には心地良くないと言われている音響に心地よさを覚えるのかといえば、それは、自然界を見ても分かるように、雑音性というのは必ずどこかに生じ、自然の摂理に適っているためである。これはフェネスのノイズ制作の清華とも言える。

 

続く「A Man Outside」でもノイズの要素は維持され、パーカッシヴな音響効果を用いた環境音楽の形式が取り入れられている。そして、この曲でも序盤は前曲の作風を受け継いで、ノイズの精妙な感覚、次いで、ノイズの中にある快適さという側面が強調されているが、二分後半からは曲調がガラリと変化し、ダークなドローン風の実験的なテクスチャーが登場する。まるで情景的な変化が、ノイズや持続的な通奏低音を起点に移ろい変わっていくような不可思議な感覚を覚える。曲の序盤における天国的な雰囲気は少しずつ変化していき、メタリックで金属的な響きを帯び、冥界的なアンビエント/ドローンに変遷していくプロセスは圧巻というよりほかなし。これほどまで変幻自在にサウンド・デザインのように音の印象を鋭く変化させる制作者は他に思いつかない。曲の後半でも曲の雰囲気が変わり、序盤の精妙な雰囲気が立ち戻ってくる。

 

「Patterning Heart」は、現在のアンビエントシーンの流れに沿うような楽曲と言えるかもしれない。抽象的なドローン風のテクスチャーが通奏定音のように横向きに伸びていき、極大の音像を形成してゆく。大掛かりな起伏は用意されていないけれど、曲の中盤ではサイレンスが強調される瞬間があり、『Venice』に見いだせるギターノイズが取り入れられている。アルバムのクローズでもフェネスらしさが満載で、濃密な音楽世界が繰り広げられる。モーフィングを基に制作された「Goniorizon」では音の波形の変化に焦点が絞られている。


2000年代の制作者が二十年後の音楽を予見したように、音楽の未来性を読み取ることも可能かもしれない。本作には音楽の持つ楽しさはもちろん、未知の芸術的な表現性への期待感が込められているように思えた。

 

 

 

90/100 

 



「Heliconia」

  Jakob Bro  『Taking Turns』



Label: ECM

Release:2024年11月29日

 

Review

 

ジェイコブ・ブロはデンマーク出身のギタリスト。同国の王立アカデミーで学習した後、アメリカにわたり、ボストンのバークリースクール、ニューヨークのニュースクールで学習を重ねた。元々、ブロはポール・モチアン、トーマス・スタンコのバンドメンバーとして、ECMに加入した。ジャズマンとしてソロリーダーとしてデビューしたのは2015年のことだった。以降、ジャズアンサンブルの王道であるトリオ編成を始め、ジャズ・ギターの良作を発表してきた。

 

先日、同レーベルから発売された『Taking Turns』は、10年前にニューヨークで録音され、長い月日を経てリリースされた。ブロの作品としては珍しくセクステット(6人組)の編成が組まれている。作品に参加したのは、リー・コニッツ、アンドリュー・シリル、ビル・フリセル、そしてジェイソン・モラン、トーマス・モーガン。ジェイコブ・ブロはこの作品に関して、感情を垣間見て、それをつぶさにスケッチし、記録しながら展開することにあった」と説明する。内省的なソングライティングをベースに制作されたジャズアルバムという見方が妥当かもしれない。

 

基本的なソロアルバムとは異なり、「オールスター編成」が組まれたこのアルバムでは、ソロリーダーというより、ジャズアンサンブルの妙が重視されている。よって彼の演奏だけが魅力のアルバムではない。金管楽器(サクスフォン)がソロ的な位置にある場合も多く、ブロのギターは基本的にはムードづけというか、補佐的な役割を果たすケースが多い。演奏の中には、サックス、ピアノ、ドラム、ウッドベース、そしてギターといった複数の楽器の音楽的な要素が縦横無尽に散りばめられ、カウンターポイントの範疇にある多声部の重なりが強調される。収録曲の大半は、ポリフォニーではなく、音楽的基礎をなすモノフォニーが重視されるが、ピアノ、ギターを中心とする即興的な演奏から、ロマンティックでムードたっぷりの和音が立ち上がる。

 

アルバムの冒頭曲「Black Is All Colors At Once」で聞けるギターの巧みな演奏は空間的な音楽性を押し広げ、そしてピアノの微細な装飾的な分散和音が加わると、明らかに他のセクステットではなしえない美麗で重厚感のある感覚的なハーモニーがぼんやりと立ち上ってくる。二曲目「Haiti」では、ドラムの演奏がフィーチャーされ、民族音楽のリズムが心地よいムードを作り出す。同じように構成的な演奏が順次加わり、金管楽器、ギター、ベースが強固なアンサンブルを構築していく。当初はリズムの単一的な要素だったものが、複数の秀逸な楽器の演奏が加わることにより、音楽全体の持つイメージはより華やかになり、豪奢にもなりえる。そういった音の構成的な組み上げを楽しむことが出来る。リズムの構成はエスニック(民族音楽)の響きが強調されているが、対してジェイコブ・ブロのギターはスタンダードなフュージョンジャズの領域に属する。これがそれほど奇をてらうことのない標準的で心地よいジャズの響きを生み出す。

 

三曲目「Milford Sound」ではウッドベース(ベース)やドラムの演奏がイントロでフィーチャーされている。例えば、トーマス・スタンコなどの録音ではお馴染みの少し明るい曲調をベースにしている点では、ECMジャズの王道の一曲と言えるかもしれない。しかし、そういったスタンダードなジャズを意識しながらも、多彩な編成からどのような美しい調和が生み出されるのか。ジェイコブ・ブロを始めとする”オールスター”は、実際の即興的な演奏を通じて探求していきます。これはジャズそのものの楽しさが味わえるとともに、どんなふうに美しいハーモニーが形作られていくのか。結果というよりも過程をじっくり楽しむことが出来るはずです。

 

特にアルバムの全体では、リーダーのジェイコブ・ブロの演奏の他に、リー・コニッツによるサクスフォンの演奏の凄さが際立つ。「Aarhus」ではピアノとベースの伴奏的な音の構成に対して、素晴らしいソロを披露している。彼のサクスフォンは、ジャズのムードを的確に作り出すにとどまらず、実際的に他の楽器をリードする統率力のようなものを持っている。だが、それは独善的にはならず、十分に休符と他のパートの演奏を生かした協調的なプレイが重視されている。これが最終的には、ジャズの穏やかでくつろげるような音楽的なイメージを呼びおこす。

 

「Pearl River」はおそらくアルバムの中では最も即興的な要素が色濃い楽曲となっている。ドラムのシンバルを始めとする広がりのあるアンビエンスの中から、ギター、ベース、ピアノのインプロバイゼーションが立ち上るとき、ぼんやりした煙の向こうから本質的な核心が登場するようなイメージを覚える。そしてアルバムの序盤から作曲的に重視されている抽象的なイメージは同レーベルの録音の特性ともいえ、このアルバムの場合では感情的な表現を重視していると言える。そういったジャズの新しい要素が暗示された上で、古典的なジャズの語法も併立する。楽曲の二分後半にはマイルス&エヴァンスが重視したアンサンブルとしての和音的な要素が強調される。また、それらに華やかな効果を及ぼすのが、金属的な響きが重視されたドラムのシンバル、もしくはタム等の緩やかなロールである。これはジャズドラムの持つ演出的な要素が、他のパートと重なり合う瞬間、アンサンブルの最高の魅力を堪能することが出来るでしょう。

 

 

ジャズというと、旧来はマイナー調のスケールが重視されることが多く、また、それがある種の先入観ともなっていたのだったが、ECMは2000年頃からこういった旧来のイメージを払拭するべく新鮮な風味を持つ作品をリリースしてきた。それがメジャー調のスケールを強調づける、爽やかで高級感のあるサウンドであった。このアルバムは、ジェイコブ・ブロの移行期に当たる作品であるとともに、ドイツのジャズレーベルの主要なコンセプトに準じており、アンサンブルとしての音の組み立ての素晴らしさのほか、BGM的な響きを持つアルバムとしても楽しめるかもしれません。つまり、それほど詳しくなくとも、聴きこめる要素が含まれています。


「Peninsula」は同レーベルのエスニックジャズを洗練させた曲で、ピアノの演奏がミュート技法を用いたギター、ベースに対して見事なカウンターポイントを構成し、曲の後半ではまったりした落ち着いたハーモニーを形成する。クローズ「Mar Del Plata」は、アルバムではジェイコブ・ブロのギタープレイがフィーチャーされる。ラルフ・タウナーのギターほど難解ではなく、フュージョン・ジャズを下地にした心地よいギターの調べに耳を傾けることが出来るでしょう。



84/100

 


「Black Is All Colors At Once」

 Bibio 『Phantom Brickworks』(LP2)



Label: Warp

Release: 2024年11月22日

 


Review     

 


これまでフォークミュージックとエレクトロニックを結びつけた”フォークトロニカ”の作品『Sleep On The Wing』(2020)、チルアウト/チルウェイヴを中心にしたクールダウンのためのダンスミュージック『All This Love』(2024)、他にも、ギター/ボーカルトラックを中心にAORのような印象を持つポピュラーアルバム『BIB 10』など、近年、ジャンルや形式にとらわれない作品を多数輩出してきたBibio(スティーヴン・ジェイムス・ウィルキンソン)は、EDMと合わせてIDM(Intelligence Dance Music)を主体に制作してきたプロデューサーである。

 

実際的に他のヒップホップや近年のダンスミュージックを主体とするポピュラー/ロックでは、 生のギター等をリサンプリング(一度録音してから編集的に加工)する手法はもはや一般的になりつつあるが、Bibioは2010年頃からこの形式に率先して取り組んできた。当初、それはダンスフロア向けのディスコロックという形で表に現れることがあった。2011年頃のアルバムにはロック的な作風が顕著で、これはBibioが一般的なロック・ミュージックの流れを汲むことを印象付ける。少し作風が変化したのが、2013年頃で、当時、2000年代のグリッチ等のダンスミュージックと並行して台頭したmumに象徴付けられるフォークトロニカの作風に転じた。以降は、単一の作風にとらわれることなく、多作かつバラエティの幅広さを示してきた。

 

「Phantom Brickworks」は、Bibioによる連続的な作品で、散発的なライフワークとも称すべき作品である。当初はギターやピアノ等のコラージュ的なサウンドを主題にしていたが、今作ではアンビエント作品に転じている。ボーカル、ピアノ、シンセテクスチャーなどを用いて、王道のアンビエントが作り上げられる。先日、エイフェックス・ツインの『Ambient Works』が再編集盤として同レーベルから発売されたばかりだが、それに近い原始的なアンビエントの位置づけにある。しかし、例えば、エイフェックス・ツインの場合は、プリペイド・ピアノのような現代音楽の範疇にあるコンポジションが用いられたとしても、アーティスティックな表現に傾倒しすぎることはなく、一般的な商業音楽の性質が色濃かった。これは私見としては、このプロデューサーの作品自体が機械産業のような意味を持ち、一般的に親しめる音楽を重視していたのである。「アンチ・アート」と言えば語弊となるが、それに近い印象があり、アートという言葉に絡め取られるのを忌避していた。しかし、対象的に、Bibioの『Phantom Brickworks』は、ダンスミュージックのアートの要素を押し出している。クラブビートが非芸術的であるという一般的な観念を覆そうという興きを、このアルバムの制作には見出すことが出来るかもしれない。


スティーヴン・ウィルキンソンは、この作品の制作に際して、イギリスの各地を訪れ、かつては名所であった場所が衰退する様子を観察し、それらを音源として収録した。いわば、ウィルキンソンは時代と共に消えていく風景をその目で確認し、土地に偏在するエーテルのようなものを、時にはその名所が栄えた時代の人間的な息吹を、電子音楽として描写しようと試みている。


これは例えば、印象派の絵画等では一般的に用いられるが、ウィリアム・ターナーの系譜に位置づけられる描写音楽である。人間は一般的に、ある種の建築的な外壁、その場所に暮らす人々を見たとき、時代性や文化性を明確に発見する。でも、それとは対象的に、すでに朽ちた遺構物や廃墟等を目の前にしたとき、それが最も栄えた時代の圧倒的な感覚に打たれる瞬間がある。古代ローマの水道橋、カエサルの時代の遺跡、コロッセウムなどが、それに該当する。しかし、なぜ驚異なのかと言えば、我々の住む時代の建築よりも遥かにその時代の遺構物の方が本質的で魅力的であるからなのだ。そして、現代的に均一化された構造物に慣らされた感覚から見ると、いかに旧い時代の遺構物が圧倒的で創造的であるかに思い至るという次第なのである。

 

このアルバムの音楽は、人工的な廃墟、ないしは工業生産的にはなんの意味ももたない海岸沿いの侵食された地形、岸壁など、イギリスの海岸地域の固有の旧い美しい風景や、また、都市部から少し離れた場所にある田舎地方の奇妙な風景がサウンドスケープで描かれているようだ。アルバムの冒頭を飾る「Dinorwic」は、制作者がイギリスの土地で感じたであろう空気の流れが表現され、それを抽象音楽として描写したものと推測される。しかし、それは追体験のようなカタルシスをもたらすことがある。これは、実際的に高原や海岸のような開けた場所に行ったときに感じる精妙な感覚とリンクする。それは制作者の体験と利き手側の体験が一致し、実際的な体験が重なり、共有される瞬間を意味するのである。更に、「Dorothea’s Bed」では、ボーカルのリサンプリングを用い、アートポップに近いアンビエント/ドローンを提供している。米国西海岸のGrouper、あるいは、ベルギーのChristina Vanzouの系譜に位置づけられ、アンビエント/ドローンをオペラやボーカルアートの切り口から解釈した新鮮な雰囲気のトラックである。

 

10年以上にわたり洗練させてきた制作者の作曲における蓄積は、遊び心のある音楽として昇華されることもある。例えば、「Phantom Brickworks」は、フランスのサロン音楽をサンプリングとして落とし込み、フランス和声の革新者であり、アンビエントの始祖とも称されるエリック・サティが、モルマントルの「黒猫」で弾いていたサロン音楽とはかくなるものではなかったかと思わせるものがある。調律のずれたアンティーク風のピアノが断片的に散りばめられると、「Gymnopédies(ジムノペティ)」は現代的なテイストを持つパッチワークの音楽へと変化する。対象的に、「SURAM」ではエイフェックス・ツイン、Burialのように、ボーカルのサンプリングをビートやパーカッションの一貫として解釈し、コラージュ的にノイズを散りばめて、ベースメントのクラブビートに触発されたトラックに昇華している。2010年代のBig Appleを中心とするダブステップの原初的なコンポジションを用いているのに注目である。

 

田舎的な風景、都市的な風景を交互に混在させながら、アルバムの収録曲は続いていき、「Llyn Peris」では再び、田舎を思わせるオーガニックなアンビエントに回帰している。この曲では、例えば、Tumbled Seaといったアーティストが無償でドローン音楽を提供していた時期の作風を彷彿とさせる。ドローン音楽を2010年代前後に制作していたプロデューサーは商業的な製品ではなく、ヒーリング音楽のような形でインターネット上で前衛的な作品を無料で公開していたことがあった。ドローンは、近年、他のジャンルとの融合化が図られる中で、徐々に複雑化していった音楽であるが、それほど複雑なテクスチャーを組み合わせないでも、ドローンを制作出来ることは、この曲を聴いてみるとよくわかるはずである。「Llyn Peris」の場合、パンフルート系の簡素なシンセ音源をベースにして、反響的な音楽の要素を抽出している。

 

ウィリアム・バシンスキーの系譜にあるピアノのコラージュを用いた曲が続く。「Phantom BrickworlsⅢ」では、おそらく、ピアノのフレーズの断片を録音した後、テープリール等で逆再生を用いて編集を掛けたトラック。これらの作風はすでにウィリアム・バシンスキーがブルックリンに住み、人知れず活動していた80年代に確立された次世代のミュージック・コンクレートの技法であるが、ミニマル・ミュージックとコラージュ・サウンドの融合という現代的なレコーディングの手法が用いられているのに着目しておきたい。これらは、本来アートの領域で使用されるコラージュと音楽の録音技術が画期的に融合した瞬間であり、電子音楽が本来の機械工学の領域から芸術の領域へと転換しつつある段階を捉えることが出来るかもしれない。


コラージュ・サウンドの実験はその後も続き、「Tegid's Court」では、オペラのようなクラシカルの領域にある音楽と電子音楽を融合させる試みが行われている。ピアノの演奏をハープのように見立て、それに合わせてボーカルが歌われる美しい印象を持つコラール風の曲である。その後、再び、情景的な音楽が続く。「Brograve」、「Spider Bridge」の二曲では、バシンスキー、ギャヴィン・ブライアーズの音の抽象化、希薄化、断片化という音響学の側面からミニマルミュージックを組み直すべく試みている。アルバムのクローズ「Syceder MCMLⅩⅩⅩⅨ」では、逆再生を用いながら、遺構物に相対したときのようなミステリアスな感覚がたちあらわれる。

 

 

82/100

 

 

 「Dorothea’s Bed」

Kim Deal  『Nobody Loves You More』

Label: 4AD

Release: 2024年11月22日


Review


今回、NYTの特集記事で明らかになったのは、キム・ディールは一般的にベーシストとして知られているが、当初はギタリストとして音楽キャリアを出発させようとしたこと。しかし、結果的には、ボストン時代を通じて、ベーシスト、ボーカリストとしてキム・ディールの名を世界に知らしめることになる。ピクシーズの他、ブリーダーズ、アンプスの活動で知られるキム・ディールは先週末、ソロ・アルバム『Nobody Loves You More』をリリースしたが、実際的な制作は2011年頃、つまり、ピクシーズのツアー「Lost Cities Tour」の後に始まり、フルアルバムの形になるまでおよそ13年の歳月を要することになった。ソロシンガー、ギタリストとして一つの集大成をなすような作品であることは事実である。プロデューサーにはブリーダーズのメンバー、ケリー・ディール、そしてジム・マクファーソン、さらに最終ミックスにはスティーヴ・アルビニの名前がある。アルビニの最後のエンジニアのアルバムということになるだろうか。

 

一般的な印象としてはギター中心のアルバムかと思うかもしれないが、実際は少し内容が異なる。歌謡曲とまではいかないが、従来から培われたインディーロックのイメージを払拭する作品である。このアルバムでは、ピクシーズやブリーダーズという名の影に隠れていたキム・ディールという歌手のポピュラーの側面が強調されている。それらのサウンドにロマンティックなムードを添えるのがストリングスやホーンの編曲で、 アルバムのハイライトともなっている。タイトル曲でオープナーでもある「Nobody Loves You More」では、ゆったりとしたテンポで切ないメロディーを情感たっぷりに歌い上げる。タイトルでは聞き手を突き放すかのように思えるが、実際のところそうではないことは、この曲の中にはっきりと伺い知ることが出来る。かと思えば、曲の途中からはミュージカルやビッグバンドのような華やかな金管楽器が登場し、古典的なジャズの雰囲気を醸し出す。必ずしも特定のジャンルを想定した作品ではないことがわかる。キム・ディールの音楽は、90年代からそうであるように、ウィットのある表現からもたらされるが、これが長らく上記のバンドの音楽性の一部分を担って来た。二曲目「Coast」は温和なインディーロックソングで、リスナーの心を和ませる。新たに加わったホーンセクションは、楽曲に華やかさを添えるにとどまらず、ディールの持つロハスな一面を強調付ける。ギター・ソロもさりげなく披露され、ハワイアン風のスケールを描き、曲に変化を及ぼす。

 

 

キム・ディールは様々な音楽の側面から理想的なロックソングとはなにかを探求する。ダンス・ポップと旧来のインディーロックの融合にも新しく取り組んでいる。「Crystal Breath」 ではコアなロックミュージシャンとしての一面が表れ、ダンスビートを背景とし、ノイジーなギターを演奏している。もちろん、ディールのボーカルもそれに負けておらず、「Canonnball」の時代の歌唱法を基にして、過激なロックの性質を録音作品に収めようとしている。ギターフレーズの間に古典的なロックンロールのスケールをさりげなく散りばめているのにも注目したい。また、「Are You Mine?」では、60年代のオールディーズ(ドゥワップ)で使用されるようなシンプルなギターのアルペジオを中心に、良質なポップソングに制作している。この曲では冒頭曲と同じように、歌謡曲調のストリングスがボーカルの合間に導入され、癒やしの感覚を与える。ある意味では60年代のドゥワップを入り口として、シナトラの時代へと接近していくのだ。


このアルバムと録音場所のロサンゼルスを結びつけるのは少し強引かもしれない。しかし、まったくその影響がないかと言えば、そうでもないようだ。「Disobedience」では70年代のバーバンクサウンド(西海岸のフォーク・ロック)の幻想的な雰囲気をギターロックで表現している。表面的なサイケデリック性はそれほど強調されず、あくまで楽曲からそういった幻想性が立ち上るのみである。しかし、こういった控えめなサイケデリアがピクシーズやブリーダーズの音楽の基礎を支えていたことを考えると、旧来のファンとしては頷くものがあるはずである。続く「Wish I Was」でもこれらの西海岸のフォーク・ロックやバーバンクサウンドからの影響は保持され、Throwing Musesと共鳴するような温和なインディーサウンドが貫流している。

 

そして、キム・ディールの作り出す音楽表現の中には、パンクやアヴァンギャルドの側面が含まれていることは旧来のファンであればよく知ることであるが、この点は続く「Big Ben Beat」にわかりやすい形で反映されている。 何らかのレッテルや枠組みの範疇に収まることを厭い、そしてそれらを前向きなエナジーとして発露するというロックンローラーとしての性質が出現する。これはむしろ、キム・ディールという歌手の対極的な性質が的確な形で反映されたと言える。曲の中盤の二分頃には、未だインディーズの性質を失わず、ノイズを炸裂させ、反骨精神を発現させる。体制に対するアンチであるという鋭い表明は、しかし、最終的には温和なギターフレーズにより包み込まれる。これらのアンビバレンスなサウンドは一聴する価値がある。

 

このアルバムの制作がかなり以前に始まったことは事実だが、一方で最終的にフルレングスとして組み上げるまでに、キム・ディールがベス・ギボンズの最新作に何らかの形で触発されたのではないかという印象を受けた。それは、一つの表情の裏側にある複数の顔とも呼ぶべきかも知れない。また、ギタリストとしてだけではなく、ボーカリストとしての新しいチャレンジが試みられているのも着目すべき点であろう。「Bats In The Afternoon Sky」では、ボーカルを用いたアンビエントに挑戦しており、アートポップに近い楽曲として聞き入らせるものがある。かと思えば、「Summer Land」ではミュージカルのサウンドに挑戦し、ジャズボーカリストになりきっている。曲全体の背景となる美麗な弦楽器のレガート、トレモロを含むパッセージや駆け上がり、アコースティックギターは、最後のカデンツァで温かな余韻を残す。これらの一つのジャンルに定義されない自由なアプローチは、時々、開放的な感覚をもたらすことがある。


キム・ディールは、このアルバムの最後でインディーロックの普遍的な魅力を再訪する。「Come Running」では、このジャンルの幻想的な雰囲気をゆったりとしたテンポの楽曲で表する。1分55秒以降に不意をついて出現する奇妙なオルタナティヴロックの幻影は、まるで時間の途絶えた砂漠に生じたオアシス(蜃気楼)のようである。音楽からもたらされる奇妙な幻想性ーー蜃気楼ーーは、砂上の果てに立ち上り、聞き手を静かで落ち着いた幻惑へと誘う。それらの幻想性は、最終曲でも維持され、ディールの音楽が普遍的な輝きを放つことを印象付ける。ピクシーズ、ブリーダーズ、アンプス......、代表的なロックサウンドに耳を傾けてきた人々にとって、これは当たり前のことであるが、新しいリスナーにとっては驚きを意味するだろう。

 



84/100




 「Disobedience」

 Fazerdaze 『Soft Power』


Label: section1

Release: 2024年11月15日

 

 

Review

 

オーストラリアのメルボルンに続いて、ニュージーランドはクライストチャーチを中心として良質なベッドルームポップシーンが築かれようとしている。Fazerdazeという存在が出てきたのもその一環の流れを象徴付けている。アンセミックなフレーズ、ダンサンブルなビート、そしてドリーム・ポップの範疇にある陶酔的でヒプノティックな質感を持つフェイザーデイズの楽曲は、トレンドのインディーポップを渇望するリスナーの琴線に触れるものがあるに違いない。

 

シンガーソングライターというのは、人生にまつわる人間的な成長と並行し、作曲の形式を変化させるのが常である。何より大切なのは、自分自身にストレートに向き合うということである。その例に違わず、フェイザーデイズの2ndアルバムは、 献身、激しい自己憐憫、成熟した自己認識といったテーマを探求しながら、アーティスト自身が「ベッドルームポップ・スタジアム」と呼びならわす広大なサウンドスケープを築き上げる。繊細でありながら、同時に広大な音像を持つ楽曲がライヴシーンでどのように映えるのか、すごく楽しみになるようなアルバムである。

 

本作の収録曲はエレクトロニック寄りのドリーム・ポップが大半を占める。オープナー「Soft Power」に見いだせるように、アンセミックなフレーズが散りばめられ、EDMに近いムードを漂わせている。ベッドルームから始まった制作がスタジアムのような大規模な会場で響く瞬間を夢見るようないわばドリーミーな雰囲気が漂う。そういった感覚が切ないようなエモい雰囲気を作り出す。しかし、繊細さは決して脆弱性に傾くことなく、張りがあり、溌剌としたエネルギーを放っている。現代のオルトポップファンが渇望してやまぬポップスの形がアルバムの最初で提示される。ときどき、オルタネイトなスケールを散りばめながら、フェイザーデイズは端的で的確なソングライティングを行う。「So Easy」はその代表例であり、口ずさみやすく、親しみやすい、そしてどことなくラフな感覚を織り交ぜたインディーロックソングを書いている。


オルタナティヴロックとしてのナイーブな感覚は続く「Bigger」に立ち現れる。ローファイなギターがリバーブによって音像が拡大され、アンビエント風の抽象性を帯びる。そして全体的な構造に乗せられるフェイザーデイズのボーカルは、夢想的で幻想的な感覚を帯びている。荒削りながらファジーなギターはメロとサビの対比を形成し、ポップソングのわかりやすさを強調する。続く「Dancing Year」ではベッドルームポップに強く傾倒している。TikTokのポピュラーの流れを汲みながらも、端的なオルト性を失わぬソングライティングの質の高さを実感できる。ダンサンブルなビートやリミターを引き上げたギターが、スタジアム・バンガーに比するアンセミックな響きを帯びる。その反面、フェイザーデイズのボーカルは、ベッドルームポップの範疇にあり、内省的な雰囲気を擁する。これらのアンビバレントな感覚は、従来のロックミュージックの「静と動の対比」という主題とは異なる「感覚的な対比」が示されていると言える。

 

80年代の商業的なポップス、とくにMTVの全盛期のダンス・ポップをベースにした楽曲も収録されている。「In Blue」では、ディスコサウンドを参照しつつ、それにコクトー・ツインズのようなアートポップ、あるいはチャーチズの要素を追加している。エリザベス・フレイザーが描いたゴシック的なテイストが散りばめられているが、それほど暗鬱にはならず、からりとした質感が漂うのは、ニュージーランドという土地の気風が反映されていると言えるかもしれない。

 

 

テクノとポップの融合に関しては、現代的なロック・バンドの重要な主題である。それをギターロックとして再構成しようという動向は、モグワイ周辺のレーベル”Rock Acction"、あるいはイギリスのロックバンドに見出されるが、フェイザーデイズもこの流れに上手く乗っている。「A Thousand Years」は、テクノやエレクトロニック全般をギターロックとしてどのように組み替えるのかという実験であり、それは2000年代のテクノロジーとロックの融合というテーマの継承している。 しかし、野心的な試みは、前衛的にはなり過ぎず、一貫してベッドルームポップを下地にしたバランスの取れたソングライティングが重視されている。これがそれほど音楽そのものを難解にせず、一般的に開けた感覚を持つポピュラーソングになる理由なのである。

 

このアルバムは、ポピュラー性を意識した序盤に比べると、中盤から終盤にかけて、通好みのコアな音楽性が際立つ。通しで聴いていると、アルバムの音楽が成長し、徐々に深化していくような不思議な感覚を覚える。オルタナティヴロックの荒削りなローファイ性に焦点を当てた「Purple 02」は、女性のギターヒーローの時代を予感させるし、「Distorted Dreams」では、ネオシューゲイズで止まりかけていた時計の針を未来へと進める。それは大きな時間の流れではなく、小さな進歩であるかもしれないが、遠い場所には一瞬ではたどり着けないことを考えると、自然の摂理とも言えるだろう。特に、現時点のフェイザーデイズのソングライティングの最大の武器は、チャーチズの系譜にあるエレクトロポップ、そしてシューゲイズの融合に求められる。

 

アルバムのハイライト曲の一つである「Chery Pie」は、上記の音楽的なアプローチが開花した瞬間で、ソングライターとして暗いトンネルを抜け、開けた場所に歩み出たことを象徴付けている。清涼感のあるポップスという、このジャンルの核心を捉えたソングライティングが、アーティストの個人的な趣向でもあるドリーム・ポップの形と劇的に融合した瞬間を捉えられる。

 

アルバムの最後にも良曲が収録されている。「Sleeper」では、Grouperのようなフォークアンビエントを抽出し、アルバムのクローズでも同じような音楽性が選ばれている。ハルのbdrmmがアンビエントとシューゲイズの融合という新しい手法を言語的に確立しているが、すでにフェイザーデイズは、その未来派のロックの潮流を巧緻に捉えている。これはセンスの良さとも言うべきか。幻想的なドリームポップのムードは、アルバムのクライマックスで最高潮に達する。

 

 

 

78/100

 

 

「Cherry Pie」

Our Girl 『The Good Kind』


 

Label: Bella Union

Release : 2024年11月8日

 

 

Review

 

『The Good Kind』は派手さがないからといって素通りすると、ちょっともったいない作品である。最新のオルトロックバンドは、全般的に音楽のイメージの派手さがフィーチャーされることが多いが、実際的には、堅実で素朴なロック・バンドの方が長期にわたって活躍するケースがある。

 

ロンドンのOur Girl(アワー・ガール)は、爆発的なヒットこそ期待出来ないかもしれないけれど、渋く長く活躍してくれそうなバンドだ。アワー・ガールのオルトロックのスタイルは、90年代から00年代のカレッジ・ロックの系譜に属している。ソリッドさとマイルドさを兼ね備えたギター、ライブセッションの醍醐味を重視したベース、曲のイメージを掻き立てるシンプルなドラムによって構成されている。取り立てて、新しい音楽ではないかもしれない。しかし、こういった普遍的なオルトロックアルバムを聴くと、なんだかホッとしてしまうことがある。

 

 

アワー・ガールは、最初にレコーディングスタジオに入ってセッションを行った後、少し曲を作り込み過ぎたと感じたという。以降、一度曲を組み直した後、友人の自宅のレコーディングスタジオに入った。その結果、ラフだけど、親しみやすいオルトロックが作り上げられることになった。 結局、このアルバムを聴くと、オルトロックというのは、マジョリティのための音楽ではなく、マイノリティのための音楽なのかもしれない。つまり、音楽自体がマジョリティに属した瞬間、本義のようなものを見失う。バンドは、この作品で、セクシャリティ、リレーションシップ、コミュニティ、イルネスといった表向きには触れにくい主題を探求しているという。

 

それらのどれもが日常生活では解きほぐがたい難題であるため、音楽で表現する必要性がある。実際的に、バンドのメンバーがクイアネス等の副次的なテーマを織り交ぜながら、どの地点までたどり着いたかは定かではない。しかし、何かを探求しようとする姿勢が良質なロックソングとして昇華されたことは明らかである。たとえ、すべてが解き明かされなかったとしても。

 

バンドが曲を組み直したということは、レコーディングの趣向に、ライブセッションのリアルな質感を付け加えたことを示唆している。それは卓越性や完璧主義ではなく、程よく気の抜けた感じの音楽に縁取られている。アルバムでは、Guided By Voices、Throwing Musesといった90年代ごろのオルトロックのテーマ、アート・ポップやシューゲイズ風のギターの音色が顕著に表れている。

 

アルバムのオープナー「I'll Be Fine」では、心地よくセンチメンタルなアンサンブルがライヴセッションのような形で繰り広げられる。複数のギターの録音を組み合わせて、エモな響きを生み出し、ストレリングスのアレンジを添えて叙情的な響きを生み出す。音楽性は抑えめであり、派手さとは無縁であるが、良質なオルトロックソングだ。さらに、このバンドがコクトー・ツインズの音楽性を受け継いでいることは、続く「What You Made」を聴くと明らかである。彼らはJAPANやカルチャー・クラブのようなニューロマンティックの要素を受け継いでいる。それはノスタルジアをもたらすと同時に、意外にもフレッシュな印象を及ぼすこともある。

 

アワー・ガールは、比較的、現実的なテーマを探っているが、アルバムの音楽はそれとは対象的に夢想的な雰囲気に縁取られている。ギターロックによって色彩的なタペストリーを描き、それを透かして、理想的な概念に手をのばすような不思議な感覚でもある。「What Do You Love」は淡々とした曲にも思えるが、ダイナミクスの変化が瞬間的に現れることもある。ダイナミックスの変化はボーカルとギターのコントラストによって生じる。Wednesday、Ratboysといったオルトロックの気鋭の音楽性に準ずるかのように、絶妙なアンサンブルを発生させることがわる。そして、それは、まったりとした音楽性とは対象的なギターのクランチな響きに求められる。彼らの優しげな感覚を縁取った「The Good Kind」は、むしろこのバンドがロックにとどまらず、Future Islandsのようなオルトポップバンドのような潜在的な魅力を持つことを表す。

 

ギターロックとしても聴かせどころが用意されている。「Something About Me Being A Woman」は、現代的な若者としてのセクシャリティを暗示しているが、幽玄なギターのデザインのような音色によって抽象的な感覚が少しずつ広がりをましていく。ゆったりしたテンポの曲であるけれど、ドリームポップ風のアプローチは、音楽の懐深さと味わい深さを併せ持っている。特に、バンドアンサンブルを通じて最も感情性が顕著になる3分以降の曲展開に注目したいところ。中盤から終盤にかけては、BPMを意図的に落とした曲が続いている。続く「Relief」、「Unlike」は、現代的な気忙しいポップソングの渦中にあり、安らぎと癒やしを感じさせる。微細な音を敷き詰めるのではなく、休符に空間や空白を作りながら、夢想的な音楽世界を生み出す。

 

オルト・ロック、ドリーム・ポップに依拠した音楽性が目立つ中、続く「Something Exciting」は、かなり異色の一曲だ。この曲では、ヴィンセントの最初期のシンセポップ、グリッターロックの手法を選び、スタイリッシュさとユニークさを併せ持つ楽曲に仕上げている。むしろ、基本的な上記の二つの音楽性よりも、この曲に見受けられるようなオリジナリティに大きな期待を感じる。そして、少しシリアスになりがちな作風に、ユニークなイメージをもたらしている。 

 

アルバムの終盤にもしっかり聴かせる曲があり、アワー・ガールの音楽の深さを体感できる。「I Don't Mind」のような曲は、コクトー・ツインズやスローイング・ミュージズの未来形とも言え、また、ドリーム・ポップの知られざる一面を示したとも言えるかもしれない。続く「Sisiter」は、DIIV、Real Estateの最初期に代表される2010年代のインディーロックのスタイルを受け継ぎ、ネオシューゲイズ/ポストシューゲイズの軽めのポップネスに転じる。クローズを飾る「Absences」では、AOR/ソフィスティ・ポップへと転じ、未知の領域へと差し掛かる。


 

 

80/100

 

 

 

 Best Track-「Something Exciting」

 Andrea Belfi & Jules Reidy 『dessus oben alto up』


Label: Marionette

Release: 2024年11月8日

 

Review

 

Andrea Belfi(アンドレア・ベルフィ)とJules Reidy(ジュール・レイディ)による初のコラボレーション・レコーディング『dessus oben alto up』は実験音楽の一つの未来を提示している。

 

レイディとベルフィは、オーストラリアとイタリアという異なる出身地でありながら、ともに長年ベルリンに住んでいて、そのアプローチには多くの共通点がある。19世紀の機械工場を改装したベルリンの芸術施設「Callie's」のサウンド・スタジオに滞在していた2人(マルコ・アヌッリがデスクを担当した)は、ギターとエレクトロニクスのきらめく靄の中を美しく録音されたベルフィのドラムのパーカッシヴな透明感が通り抜ける、4つの広がりのある作品を完成させた。

 

『dessus oben alto up』は、新しい音楽の息吹を感じさせる作品である。ミニアルバムは実験音楽を中心に展開され、アンドレア・ベルフィのジャズ・ドラム等で頻繁に使用されるブラシ・ドラムとコラボレーターであるジュールズ・レイディの変則的なチューニングを施したギター(12弦ギターが使用されることもあるという)に電子的な音響加工が施されて、異質なサウンドが組み上がる。彼らの音楽は、フロイドの『The Dark Side Of The Moon』、あるいはHolger Czukay(ホルガー・シューカイ)のように神妙でありながら、そしてアヴァンジャズやエスニック、エレクトロニック等を行き来する。全体的な枠組みとしてはジャズドラムを中心とする作品のように聴こえるかもしれないが、エレクトロニックの要素が前衛的な要素をもたらす。


最近の音楽は、ドラムにせよ、ギターにせよ、付属的に導入される弦楽器やエレクトロニクスにせよ、音楽の構造自体が省略化されてしまうことが非常に多い。そのせいで音楽自体に深みがなくなり、深く聴くことを拒絶させるのである。それは例えば、Tiktokなどで音楽を省略的に聴く人々が増加しているから止むを得ないとしても、音楽自体を痩せ細らせる原因ともなりうる。60年代、及び、70年代のミュージシャンは、マスターやミックスで音楽をごまかすことが出来なかったため、音の細部に至るまで入念に配慮していたし、全般的な楽器等の音色や出力には必要以上にこだわっていた。要するに、自分の納得のいかない音は、一切出そうとしなかったのだ。だが、それが結果的に、デジタル・リマスター等の普及によって(技術の向上自体は歓迎すべきことだけれど)自分たちの出す音にかなり無頓着になっていったのである。ミュージシャンの中には、何をやっても一緒ではないか、と思うような方々もいるかもしれない。

 

しかし、トム・ヨークやマルタ・サローニとの共演で知られるアンドレア・ベルフィ、そして弦楽器奏者のジュールズ・レイディのコラボレーションアルバムを聴くと、そういった幻想はすぐさま吹き飛ぶ。『dessus oben alto up』は、デチューニングを施したインドのシタールのようなエキゾチックなギターが、無限に鳴り響き、それらに電子音楽のマニュピレーションが組み合わされ、ジャズドラムが加わると、強固な音楽の構造体が組み上がる。繊細なドラムプレイ、弦楽器のピッキング/タッピング、エレクトロニクスがどのように組み合わされるのかに耳を傾ければ、音楽の持つ深さはもちろん、実験音楽の本質的な魅力に気づくことだろう。そして音楽を一切簡略化することなく、セッションの組み合わせにより、誰も到達しえない境地に到達している。もちろん、音楽というフィールドの奥底にある霊妙な領域へと聞き手を誘うのである。


このミニアルバムは、ある種の変奏曲のように組み上げられ、同じような形式による実験音楽が4曲収録されている。しかし、その音楽的なボリュームの圧倒的な量に驚かされるはずだ。オープナー「dessus」は、連曲のモチーフのような役割を担い、作品全体に影響を及ぼす。しかしながら、同じような手法や作曲の形式が用いられるからと言え、全然飽きが来ないのが不思議である。しかも、歌がないのは欠点にならず、ひたすら心地よいセッションが繰り広げられ、彼らのライブセッションに、ずっと身を委ねていたいという欲求すら覚えることもある。ジャズドラムのブラシとシタールのような弦楽器は、たとえ同じような旋律の曲線を描いたとしても、また、同じようなリズムの構成を経たとしても、聞き手側の聴覚には同じ内容には聞こえない。それは彼らが上辺だけの「曲」を作ろうとせず、音楽の奥深い泉に迫ろうと試みているから。そして曲のセクションの中で、クローズのハイハットの連打やジャズ的な微細なピッキングギターによって、およそ二人だけで作り上げたとは思えない刺激的かつ壮大なライブセッションが繰り広げられる。このことは二曲目「oben」を聴くとよく分かるのではないか。

 

私自身は、これまでアンドレア・ベルフィというドラマーを全然知らなかった。それでも、三曲目「alto」を聴くと、彼が世界屈指の技術を誇る天才的な演奏者であることが分かる。良い打楽器奏者というのは、自らの技術を十分に洗練させた後、曲に対してどのような影響を及ぼすのかを熟知している人々である。それは、ギター、ベースと同様に、曲の細かな抑揚やニュアンスの変化に際して、最適な演奏方法を知っていて、それを忠実に実践できる、ということである。つまり、アンドレア・ベルフィのような卓越した演奏者は、無自覚に音を発生させることはほとんどなく、すべての音の要素が十分に計算されて出力され、まるで頭脳と楽器が一体化しているような印象すら受ける。これは全盛期のヤング兄弟のギターにも言えることだろう。

 

アンドレア・ベルフィの場合は、ハイハットの連打の間に組み込まれるタム/スネアが、ギターの超絶的なビッキングに対して、音階的な影響を及ぼし、タブラのような演奏効果を生み出す。これは、ロックやポップスのドラムだけではなく、民族音楽を熟知しているからなし得る神業の一つ。そして、アンドレア・ベルフィのドラムは、単に技巧的な側面をひけらかすことはなく、曲の構造に対する音響効果やテンションによる音階効果を重視している。さらに、それらの組み合わせに強い影響を及ぼすのが、マニュピレートされた電子音である。これらは、NEU、CAN、ホルガー・シューカイ等が探求していた「実験音楽の結末」とも呼ぶべきであろう。

 

アルバムの終曲「up」だけは実験音楽の枠組みから遠ざかり、民族音楽のイメージが強調される。そして、インドのカシミール地方の民族音楽、ないしはパキスタンのアラブ音楽の雰囲気が強まる。これは民族楽器の専門的な演奏者として知られ、世界各地を放浪しながら、珍しい楽器を探訪する、Stephan Micusというミュージシャン(ドイツのECMの録音でよく知られている)の音楽的なアプローチに準ずるものである。しかし、ジュールズ・レイディの弦楽器の連続性、反復性は「up」に対して瞑想的な要素を及ぼしている。そして、ミニマルミュージックの魅力は、画一的な連続性や反復性にあるわけではなく、変奏や倍音の発生により、原初の反復的な曲の構成からどれだけ遠くに行けるかという、冒険心や遊び心にあることが分かる。最終的には、最初のモチーフからセッションの巧みさによって、全く印象の異なる音楽へと変貌していく。つまり、音楽によって遠い場所に連れて行くような不思議な力を備えているのである。

 

 

 

95/100


 

 

Rafael Anton Irisarri  『FAÇADISMS 』

Label: Black Knoll Editions

Release: 2024年11月8日



Review     創造とは何を意味するのか? 



結局のところ、音楽における創造性の多寡を見極めるのに不可欠な指針となるのは、その創造性の発露となるものが、単なる模倣的な二次表現に留まらず、(制作者の)自己を超越するための重要な機会となっているのか。より端的に言えば、以前の音楽の系譜や作品をしっかり咀嚼した上で、それをオリジナリティの高い作品としているのか、ということに尽きるのではないだろうか。例えば、J.Rimasという専門的な研究家が今年発表した論文「The Concept of Creativity and its Importance For Musical Expression』(2024)において、著者は、リトアニアの作曲家のイグナス・プリエルガウスカス(Ignas Prielgausukas)の言葉を引用し、「古くから決められていることに満足する者たちは、模倣の道を歩み、創造性を放棄している」と指摘している。

 

つまり、模倣や引用に過ぎないものが、生産的な意味を持つことは稀であり、それは大量のコピー製品を製造していることを意味する。また、最低限の創造性を乗り越える上では、原初的な体験や経験等を通して培われた感受性を発露する必要があり、なおかつ、制作者の技術や知識が対象物の本質を知るために駆使されなければならず、さらにいえば、音楽的な表現が単一の自己の世界の反映だけにとどまらず、他者とのコミュニケーション、イメージの共有という意義を持つ必要がある。これらに該当しなければ、「創造未満の何か」と呼ぶよりほかない。こういった音楽とは言いがたい商品が世の中に氾濫する一因としては、音楽の大衆化により、模造品が大量に生産され、常識下に留まることや模倣を良しとする社会的な風潮が一役買っているのである。

 

おそらく、ニューヨークの実験音楽シーンを代表するプロデューサー、ラファエル・イリサリはその限りではない。このアルバムを聞けば瞭然ではないか。表向きのアウトプット方法こそ、エレクトロニックを中心とするアンビエント、要するに抽象音楽なのだが、その始まりは、ヘヴィメタルのような音楽を聴き、それらを幾つかの実験音楽のフィルターに通して、さらに自らのミックス/マスタリングの高い技術を駆使し、独自の音楽表現として昇華するのである。

 

アントン・イリサリの音楽には、ブラック・メタル、ドゥーム・メタルといった、かなりマニアックな音楽の引用を感じることがあるが、たとえギターが使用されることがあっても、独創性の高いスタイルの音楽が組み上がる。そして例えば、プロデューサーの音楽に歌詞がないからと言え、概念や言葉に乏しいというわけでもない。イリサリの音楽には、時々、資本主義に対する風刺的な暗喩や政治的な主張性が、言葉ではなく、音の流れの中に組み込まれている。一見すると、無機質な電子音楽のように感じられるかもしれないが、意外なことに、感覚的なものがしっかり組み込まれ、そして珍しいことに、琴線に触れる瞬間も含まれているのである。

 

制作はニューヨークのプロデューサーがイタリア・ツアーに行った時期に始まったという。ミラノの 「il Mito Americano」(「アメリカン・ドリーム」という意味で、英語に直訳すると「アメリカの神話」)という名の食堂の言語的な不具合(看板?)が、コンセプチュアルかつ音楽的な一連のアイデアに火をつけた。2020年の混沌の中、ブルータリズム建築の荒涼とした世界を探求し、「FAÇADISMS」というヴィジョンが作り上げられた。およそ3年の歳月をかけて作曲されたこの作品は、「煮えたぎるような電気的な落胆に満ちた後期資本主義の嘆き」であるという。そして最近のアルバムのようにディストピア的なイメージを持って始まるが、それと同時に、そのディストピアの向こうに、ぼんやりとユートピアが浮かび上がってくる瞬間がある。

 

アルバムはノイズ/ドローンを中心とする抽象的な楽曲「Broken Intensification」ではじまり、巨大な共同体や構造物が崩壊していく過程がサウンドテクスチャーによって組み上げられる。旧社会の常識や規範であると看過されていた構造全体が少しずつ崩壊していくような瞬間がサウンドスケープによって巧みに表現されている。この曲は、アーティストが2010年代にかけて追求していた、荒野に象徴付けられる旧約聖書の黙字録的な世界観の集大成でもあろう。まるで、それは例えるなら、人類が打ち立てていったバベルの塔の崩落の瞬間が刻印されているとも言える。この端的なトラックに、ジャック・アタリのような資本主義に関する暗喩が含まれていると考えるのは行き過ぎだろうが、幻想的なものと現実的なものがないまぜとなり、およそラファエル・イリサリしか作り得ないであろうフリューゲル的な世界観が打ち立てられている。

 

2010年代にはディストピアを予見させる異質な世界観を鋭いノイズ性と合わせて表現してきたアントン・イリサリであるが、近年、それらの対極に位置する天国的、祝福的な音楽性が顕現するようになった。西洋的な美学としては、「コントラスト」という概念があらゆる美術形態の基礎となったというのは、ボローニャ大学のウンベルト・エーコも指摘していたが、イリサリは、この対比性という要素を上手く活用して、西洋的な観念を作品に取り込もうとしている。また、生楽器を録音し、リサンプリングするという方法は「A Little Grace Is Abundance」に見出すことが出来る。この曲は複数の段階に分割され、前半部では、ドローン/ノイズアンビエント、一方の後半部では、ギターのリサンプリングを用いた音響系の音楽へと変化していく。さらに、ランタイムごとに少しずつ情景的な変化があり、曲の最後では、クワイアのサンプリングによってミュージック・コンクレートの技法が用いられ、祝福的な音楽性が登場する。

 

また、チェロのジュリア・ケント、ヴォーカルのエリザベス・コックスをフィーチャーした「Control Your Soul's Despite For Freedom」では、プロデューサーの重要な音楽性の一つである「混沌ーカオス」という概念が登場する。例えば、経済学者のジャック・アタリは「ノイズ」という概念について、原罪的なものや暴力的なものと定義付け、「それらに調和をもたらすために音楽が発生した」と指摘している。(また、楽譜出版、録音、ライブといった時代ごとの音楽形式の変化とともに、ノイズの概説的な意味もまた徐々に変化していったということも指摘している)


そして、この曲には、ノイズという概念の原初的な意義が表されているような気がする。それは言い表しがたいが、「世の中に混沌をもたらすノイズの現象中にある調和」という非常に難解な概念を読み解けるのだ。これは二元論を超越し、「善と悪」を始めとするキリスト教的な原理主義の観念を乗り越えるための手助けをする。(世の中には対極的な二つの考えのほかに、「中庸」という概念が存在する)そして、結果的に、一般的には醜悪な要素とされているノイズの原初的な意味が転化し、本来は醜いはずのものが美しい印象に縁取られる稀有な瞬間が刻印されている。これはアンビエントが経過的な段階を持たぬという一般的な定説を覆すものである。

 

曲の中においても時間的な経過や音楽の変化といった多彩な段階が示されるが、アルバム全体でも徐々に音楽的な印象が変化し、楽曲とアルバムの相似形を形づくる。ディストピアな印象を持つ序盤とは正反対に、後半の収録曲では、 ユートピア的な印象に縁取られていく。これは言ってみれば、地獄から煉獄、そして天国にかけての旅行のようでもあり、また、それらが概念的な表現を通じて繰り広げられていく。「The Only Thing that Belongs To Us Are Memories」は、エイフェックス・ツイン、ティム・ヘッカーのノイズ/ドローンの系譜に属しているが、一方では、最初に述べたように、ミステリアスな印象を持つアンビエントの音像の向こうから天国的なサウンドスケープが浮かび上がる。この曲では、他曲と同じように、明確な言語は出てこないが、確実に音楽が言語以上のメッセージの役割を果たし、啓示に近づいているのである。そして珍しく、この曲では感情的なシークエンスが最後に登場し、やや泣かせるものがある。

 

しかし、ステレオタイプの音楽にはならず、予想を裏切るようにして曲が続く。例えば「Forever Ago Is Now」では、ポスト・ロックや音響派のアプローチを図り、Explosions In The Skyのような映画的なギターロックのコンポジションを採用している。それらがストリングスのリサンプリング等の手法を用い、ドローン・アンビエントへと昇華されている。そして音楽は、更に抽象的になり、明確な意味を持つことを放棄する。つまり、当初は概念的であったものが、そういった現実的な領域を離れて、混沌とした生命の原初的な領域へと還っていくのである。

 

もちろん、アルバムでは、地上的な概念が暗示されることもあるが、制作の一番の意図は、生命の神秘的な領域、あるいはその一端に触れるということではないだろうか。「Dispersion of Belief」、「Red Moon」ではプロデューサーらしいと言うべきか、ノイズの形式を通して、「カオス」を描出している。それは地上的な何かを表したというよりも、宇宙的なワンネス、もしくは、根源的な生命の神秘へ迫るというような意義が込められている。むしろ本作の音楽は、アンビエントというより、スピリチュアルジャズやフリージャズに近い文脈に属するように思えた。

 

 

86/100

 




 Fucked Up 『Someday』

 

Label: Fucked Up Records

Release: 2024年11月1日

 


Review

 

カナダ・トロントの伝説的なハードコアバンド、Fucked Upは、一日で録音された『One Day』、今夏に発売された『Another Day』に続いて、『Someday』で三部作を完結する。今作は、エレクトロニックとハードコアを融合させた前二作の音楽性の延長線上に属するが、他方、ハードコアパンクのスタンダードな作風に回帰している。

 

それと同時に、ボーカルの多彩性に関しても着目しておきたい。例えば、『One Day』と同じように、ハリチェクがリードボーカルを取っている。4曲目の「I Took My Mom To Sleep」ではトゥカ・モハメドがリードボーカルを担当している。他にも、8曲目では、ジュリアナ・ロイ・リーがリードボーカルを担当。というように、曲のスタイルによって、フォーメーションが変わり、多彩なボーカリストが登場している。従来のファックド・アップにはあまりなかった試みだ。

 

アルバムの冒頭では、お馴染みのダミアン・アブラハムのストロングでワイルドなボーカルのスタイルが激しいハードコアサウンドとともに登場する。しかし、そのハードコアパンクソングの形式は一瞬にして印象が変化し、バンドの代名詞である高音域を強調した多彩なコーラスワークが清涼感をもたらす。バンドアンサンブルのレコーディングの音像の大きさを強調するマスターに加え、複数のコーラス、リードボーカルが混交して、特異な音響性を構築する。少し雑多なサウンドではあるものの、やはりファックド・アップらしさ満載のオープニングである。


また、従来のように、これらのパンクロックソングの中には、Dropkick Murphysを彷彿とさせる力強いシンガロングも登場する。2010年代からライヴバンドとして名をはせてきたバンドの強烈かつパワフルなエネルギーが、アルバムのオープニングで炸裂する。しかし、今回のアルバムでは、単一の音楽性や作曲のスタイルに依存したり固執することはほとんどない。目眩く多極的なサウンドが序盤から繰り広げられ、「Grains Of Paradise」では、ボブ・モールドのSugarのようなパンクの次世代のメロディックなロックソングをハリチェクが華麗に歌い上げている。一部作『One Day』の9曲目に収録されている「Cicada」で聴くことができた、Sugar,Hot Water Musicのメロディックパンクの原始的なサウンドが再び相見えるというわけなのである。

 

一見すると、ドタバタしたドラムを中心とする骨太のパンクロックアルバムのように思えるが、三曲目の後、展開は急転する。アナログのディレイを配した実験的なイントロを擁する「I Took My Mom To Sleep」では、ガールズパンクに敬意を捧げ、トゥカ・モハメドがポピュラーかつガーリーなパンクを披露する。察するに、これまでファックド・アップがガールズ・パンクをアルバムの核心に据えた事例は多くはなかったように思える。そしてこの曲は、バンドのハードコアスタイルとは対極にある良質なロックバンドとしての性質を印象付ける。また、2000年代以前の西海岸のポップパンクを彷彿とさせるスタイルが取り入れられているのに驚く。さらに、アルバムはテーマを据えて展開されるというより、遠心力をつけるように同心円を描きながら、多彩性を増していく。それはまるで砲丸投げの選手の遠心力の付け方に準えられる。

 

「Man Without Qualities」は、ロンドンパンクの源流に迫り、ジョン・ライドンやスティーヴ・ジョーンズのパンク性ーーSex PistolsからPublic Image LTD.に至るまで--を巧みに吸収して、それらをグリッターロックやDEVOのような原始的な西海岸のポスト・パンクによって縁取っている。彼らは、全般的なパンクカルチャーへの奥深い理解を基に、クラシカルとモダンを往来する。

 

最近では、米国やカナダのシーンでは、例えば、ニューメタル、メタルコア、ミクスチャーメタルのような音楽やコアなダンスミュージックを通過しているためなのか、ビートやリズムの占有率が大きくなり、良質なメロディック・ハードコアバンドが全体的に減少しつつある。しかし、ファックド・アップは、パンクの最大の魅力である旋律の美麗さに魅力に焦点を当てている。「The Court Of Miracles」では、二曲目と同じように、Sugar、Husker Duのメロディック・ハードコアの影響下にある手法を見せ、それらをカナダ的な清涼感のある雰囲気で縁取っている。

 

ミックスやマスターの影響もあってか、音像そのものはぼんやりとしているが、ここでは、アブストラクト・パンク(抽象的なパンク)という新しい音楽の萌芽を見て取ることも出来る。つまり、古典的なパンクの形式を踏襲しつつ、新しいステップへと進もうとしているのである。そして、パンクバンドのコーラスワークという側面でも、前衛的な取り組みが含まれている。

 

例えば、続く「Fellow Traveller」は、メインボーカルやリードボーカルという従来の概念を取り払った画期的な意義を持つ素晴らしい一曲である。この曲では、ファックド・アップのお馴染みのストロングでパワフルな印象を擁するパンクロックソングに、ライブステージの一つのマイクを譲り合うかのように、多彩なボーカルワークが披露されるのである。いわば、この曲では、バンドメンバーにとどまらず、制作に関わる裏方のエンジニア、スタッフのすべてが主役である、というバンドメンバーの思いを汲み取ることが出来る。これはライヴツアー、レーベル、業界と、様々な側面をよく見てきたバンドにしか成し得ないことなのではないかと思われる。


そして、全般的なパンク・ロックソングとして聴くと、依然として高水準の曲が並んでいる。彼らは何を提示すれば聞き手が満足するのかを熟知していて、そして、そのための技術や作曲法を知悉している。さらに、彼らは従来のバンドの音楽性を先鋭化させるのではなく、これまでになかった別の側面を提示し、三部作の答えらしきものを導き出すのである。音楽はときに言葉以上の概念を物語ると言われることがあるが、このアルバムはそのことを如実に表している。

 

「In The Company of Sister」は報われなかったガールズパンクへの敬愛であり、それらの失われた時代の音楽に対する大いなる讃歌でもある。パンク・シーンは、80年代から女性が活躍することがきわめて少なかった。Minor Threatの最初期のドキュメンタリー・フィルム等を見れば分かる通り、唯一、アメリカのワシントンD.C.の最初期のパンクシーンでは、女性の参加は観客としてであった。つまり、パンクロックというのは、いついかなる時代も、マイノリティ(少数派)を勇気づけるための音楽であるべきで、それ以外の存在理由は飽くまで付加物と言える。近年、女性的なバンドが数多く台頭しているのは、時代の流れが変わったことの証ともなろう。

 

ファックド・アップは、いつも作品の制作に関して手を抜くことがない。もちろん、ライヴに関してもプロフェッショナル。一般的なパンクバンドは、まずこのカナダのバンドをお手本にすべきだと思う。「Smoke Signals」では軽快なパンクロックを提示した上で、三部作のクライマックスを飾る「Someday」では、かなり渋いロックソングを聴かせてくれる。このアルバム、さらに、三部作を全て聴いてきた人間としては、バンドの長きにわたるクロニクル(年代記)を眺めているような不思議な感覚があった。 ということで、久しぶりに感動してしまったのだ。

 

 

 

88/100

 

 

 




◾️ 【Review】  FUCKED UP 『ONE DAY』

Haley Heyndrickx 『Seed Of a Seed』

 


 

Label: Mama Bird Recordings Co.

Release: 2024年11月1日

 

Review

 

ポートランドのギタリスト、ソングライター、ヘイリー・ハインデリックスは、三作目のアルバムで自らのフォーク/カントリーの形式を完全に確立している。ヘイリー・へインドリックスにとって音楽制作の動機となるのは、内向きの感覚であり、ナビゲーションであり、みずからの内的な声に静かに耳を傾け、そして純粋な音楽として昇華することにある。ニュース、ソーシャルメディア、または絶え間ない自己疑念など、私達を取り巻く喧騒から身を守るためのシェルターでもある。しかし、それらは決して閉鎖的にならず、開放的な自由さに満ちあふれている。

 

アルバムは、いくつかのテーマやイメージに縁取られているという。花(ジェミニ)、空想(フォックスグローブ)、森(レッドウッズ)、友人(ジェリーの歌)という地点を行き来するかのように、へインドリックスの歌とアコースティックを中心とするギターは鬱蒼とした森の中に入り、果てしない幻想的な空間へとナビゲートする。その導き役となるのは、妖精ではない。彼女自身の内的な神様であり、それらの高次元の自己がいわば理想とする領域へと誘う。

 

へインドリックスの音楽はオープニングを飾る「Gemini」から明確である。フィンガーピッキングのなめらかなアコースティックギター、ナイロン弦の柔らかな響き、そして何よりへインドリックスのソフトな歌声が心地良い空気感を生み出す。ツアー生活でもたらされた二重の生活、時間の裂け目から過去のシンガーが現在のシンガーを追いかけようとする。過去の自分との葛藤やズレのような感覚が秀逸なフォーク・ミュージックによって描出される。しかし、御存知の通り、「数年前の誰かは明日の誰かではない」のである。その違いに戸惑いつつ、彼女は自分の過去を突き放そうとする。しかし、その行為はどうやら、歌手にとっては少し恥ずべきことのように感じられるらしい。背後に遠ざかった幻影をどのように見るべきなのだろうか。そういった現在の自己を尊重するためのプロセスやステップが描かれている。秀逸な始まり。

 

フォーク・ミュージックから始まったアルバムはディラン、ガスリー、キャッシュ以前のハンク・ウィリアムズのような古典的なカントリーへと舵取りを果たす。「Foxglove」はトロットのリズムに軽快なアコースティックギターのフィンガーピッキングを乗せ、軽快な風のような感覚を呼び起こす。カントリーの忠実な形式を踏襲したアルペジオを見事であり、歌手の歌うボーカルの主旋律とのカウンターポイントを形成している。古典的なカントリーソングには、時々、ストリングスのレガートが重なり、ロマンチックな雰囲気を帯びる。鬱蒼とした森の中を駆け抜けるかのようである。曲の最後は、神妙なコーラスが入り、ほど良い雰囲気を生み出す。

 

その反面、タイトル曲では、アップストロークのアコースティックギターでしんみりとしたフォーク・バラードを提供している。この曲でもナイロン弦が使用されており、裏拍を強調するリズムカルなギター、そして艷やかな倍音がこの曲の全体的なアトモスフィアを醸成している。美しいビブラートを印象付けるへインドリックスのボーカル、そして、こまやかなフィドルの役割をなすバイオリンの音色が、これらのフォークミュージックの音楽性をはっきりと決定付けている。この曲では、フォーク/カントリーに加え、60、70年代のUSポピュラーの音楽的な知識が良質な音楽性の土台を形作っている。例えば、ジョニ・ミッチェルの『Blue』のような。

 

 

「Mouth Of A Flower」は、古きアメリカへの讃歌、または、現代の音楽として古典的なフォーク/カントリーが、どのような意義を持つのかを探求したような一曲である。古い時代のプランテーション、農場、農夫等、失われたアメリカの文化への幻想的な時空の旅を印象付ける。続く「Spit In The Sink」は、序盤の収録曲の中では、かなり風変わりな一曲である。低音部のリズム的な役割を担うギター、高音部のリード/アルペジオを中心とするアコースティック/エレキギターの演奏をベースにし、インディーロック、アヴァンフォーク、ジャズ、ララバイのような形式が込められている。金管楽器(フレンチホルン)の導入は、ジプシー音楽の要素を付け加え、ヨーロッパ大陸を遍歴するユダヤ人の古典的な流しの楽団の幻影を呼び覚ます。そして、基本的に、歌手は内的な感覚をリリスティックに吐露しているが、その反面、内にこもったようなビブラートを披露する。ヘイリーの声には、派手さはないけれど、見事なボーカルの技巧が披露されている。いわば「大人向けのフォーク/カントリー」といった感じとして楽しめるに違いない。

 

 

ヘイリー・ヘインドリックスのフォーク音楽には、ハンク・ウィリアムズのような古典的なアメリカの民謡よりも更に古い移民としての音楽性が何らかの鏡のように映し出される。とりも直さず、これらはニューヨークから北部に何千キロにもわたって連なるアパラチア山脈に住んでいたイギリスやアイルランドからの移民が山小屋でフォーク・ミュージックを演奏していた。


これらの共同体の中には、実は、黒人の演奏家もいたという噂である。少なくとも、ヘイリーの音楽は、一世紀以上の米国の隠れた歴史を解き明かすかのように、長い文明の足取りをつかもうとする。「Redwoods」では、CSN&Y、サイモン&ガーファンクルといった60、70年代のフォークロックの形式を通じて、その中にそれよりも古い20世紀の詩の形式を取り入れる。これらは民謡特有の歌唱法ともいうべきで、ビブラートの音程をわざと揺らし、音程そのものに不安定な要素をもたらす。アメリカの古い民謡などで聴くことが出来る。しかし、これらは、ケルト民謡やノルウェーのノルマンディ地方などの民謡にもあり、有名な事例では、スイスのヨーデルのような民謡の形にも登場する。いわば「ユーラシア大陸発祥の歌唱法」である。



そういったアメリカの歴史が英国の清教徒の移民や、その船にオランダ人も乗っていたこと。アステカ発祥の南アメリカとの文化、メキシコ等の移民の混交が最初の自由の女神のイメージが作られていったことを、このアルバムは顕著に証明付ける。「Redwoods」は単なる歴史的なアナクロニズムではなく、この国家の音楽的な文化の一部分を巧みに切り取ったものなのである。更に、この曲には、アステカ文明の「太陽の神様への称賛」を読み解ける。しかし、それらの自然崇拝は一体どこへ消えたのだろうか。それよりも権威的な崇拝が21世紀以降のアメリカ国家の全体を支配してきたのは事実であろう。アニミズム(自然信仰)は、一般的な宗教より軽視される場合が多いと思われるが、現代人が学ぶべきは、むしろアニミズムの方かもしれない。これは物質文明が極限に至った時、この言葉の意味がより明らかになることと思われる。


アルバムの後半では、聴きやすいフォークミュージックが提供される。「Ayan's Song」では、ジャズのスケールを低音部に配し、フォークジャズの範疇にある旋法を駆使しながら、親しみやすい音楽を生み出す。この曲でも、小節のセクションの合間にシンコペーションの形で伸びるヘイリーのボーカルは美しく、ほんわかした気分を掻き立てる。この曲には融和の精神が貫かれている。分離ではなく、融和を描く。言うのは簡単だが、実行するのは難しい。しかし、この曲は音楽や芸術が、政治のような形態よりも部分的に先んじていることを証左するものである。

 

ヘイリー・へインドリックスのギターの演奏は、フラメンコギターに系統することもある。「Sorry Fahey」では、二つのアコースティックギターの演奏を組み合わせ、見事なフレットの移動を見せながら和音を巧みに形成していく。ヘイリーのボーカルはイタリアのオペラに近い歌唱法に近づく場合もあり、西欧的な音楽性を反映させているのは事実だろう。 また、へインドリックスは、現代テクノロジー、消費社会の中で、現代人が自然主義からどれほど遠ざかっているかを示す。それは人類が誤った方向から踵を返す最後の機会であることを示唆するのだ。

 

この世のあらゆる病は、自然主義から遠ざかることで発生する。時間に追われること、自分を見失うこと、倫理にかき乱されること。人類はほとんどこういったものに辟易としているのだ。「Jerry's Song」は、現代人が思い出すべきもの、尊重すべきものが示唆されている。この曲は、開けた草原のような場所の空気、あるいは山岳地帯の星空の美しさを思い出させてくれる。

 

アルバムのクローズ「Swoop」も素晴らしい一曲。子供の頃にはよく知っていたが、年を経るにつれて、なぜか少しずつ忘れていくことがある。現代人は何を求めるべきなのか、そして私達が重要としているのは本当に大切なことなのだろうか。改めて再考する時期が来ているのである。

 

 

 

84/100

 


 


  Laura Marling 『Patterns in Repeat』 


Label: Partisan

Relase: 2024年10月25日


Listen/Stream


Review 



ローラ・マーリングの前作『I Speak Because』は「まだ見ぬ子供のために書かれた作品」であるとPartisan Recordsは指摘しているが、続く『Patterns In Repeat』は実際に生まれてきた彼女の子供のために書かれたささやかな小品集である。


十代の頃にイギリスの音楽シーンに登場し、既に八作目となる今作は、シンガーソングライターとしての節目を意味する。このアルバムでは、アコースティックギター、アコースティックピアノの作曲を中心に、ささやくような静かなウィスパーボイスで構成される。キャロル・キングやジョニ・ミッチェルの70年代の作風を彷彿とさせるが、幅広い音楽的な知識で構成される作品である。


フォーク・ミュージックの引用や、JSバッハの平均律クラヴィーアの前奏曲の変奏的な引用等、音楽的な閃きやインスピレーションだけではなく、音楽的な見識と人生の蓄積が取り入れられた作品である。それはポピュラーからフォーク、クラシックまで広汎に及ぶ。そして、このアルバムがマーリングが愛しい子供と一緒に書かれた作品であること、さらに、彼女の子供にきかせても恥ずかしくない音楽を制作しようとしたことは疑いない。そして、ローラ・マーリングは実際的に、駆け出しのシンガーでは表現しえない感情的な深みや心の機微、そういった解きほぐし難い内的な感覚、そして子供を育てる時の学びや人生の愛おしさを端的に歌おうと試みている。


ローラ・マーリングは自身の音楽的なアウトプットについて、3つか4つくらいでそれほど器用ではないと謙遜しているが、反面、本作に内包される音楽は極めて多彩である。アルバムはフォークミュージックではじまり、ギターのサウンドホールの音響を生かしたサウンドプロダクションはローラ・マーリングの自身のボーカル、背景となるゴスペル風のコーラス、そしてオーケストラのストリングスと組み合わされ、音楽的な至福の時間を呼び覚ます。彼女自身の子供に直接的に呼びかけるような歌声は聞き手の心を和ませ、安らかな境地へと導く。2020年から音楽的な表現を熟成させてきた作曲家の真骨頂とも言えるオープニングである。続く「Patterns」は、巧みで精細なアルペジオをイントロで披露した後、古典的なフォーク・ミュージックに依拠した曲へと移行する。速いアコースティックギターのアルペジオを中心に、水の流れのように巧みなパッセージを作り上げ、基本的な長調のスケールに単調を織り交ぜる。そして、これが神妙なコーラスやチェロの重厚な響きと組み合わされ、奥深い音楽性を作り上げる。 


中盤で注目したいのは、平均律クラヴィーアの前奏曲をモチーフにしたアンティークなピアノ曲「No One’s Gonna Love You Like I Can」。この曲は彼女自身の子供に捧げられたものと推測される。クラシック音楽の型を基にして、ジョニ・ミッチェルの70年代のささやくような美しい声を披露する。そして、子育ての時期を経て獲得した無償の愛という感覚が巧みに表現される。それは友愛的な感覚を呼び起こし、愛しい我が子に対する永遠の愛が表現される。やがてこの曲は、他の収録曲と同じように、チェロ、バイオリン、ビオラといった複数の弦楽器のハーモニクスによって美麗な領域へと引き上げられる。崇高な領域まで到達したかどうかは定かではないものの、少なくとも細やかな慈しみの感覚を繊細な音楽性によって包み込もうとしている。


アルバムでは、多彩な感情の流れが反映され、それらは高い領域から低い領域までをくまなく揺曳する。その過程で、暗鬱な感覚が幽玄なフォーク・ミュージックと融合することもある。「The Shadows」は喜びのような感覚とは対比的な憂いがギター/ボーカルによって端的に表現される。こういった感情の高低差は、歌手の四年間を総括するもので、それらを包み隠さず表現したと言える。


本作の音楽は非常に現実的であるが、シリアスになりすぎないというのがある種の狙いとなっているものと推察される。そういった中で、幻想的なひとときが登場することもある。コンサーティーナのようなアコーディオンの原型となる蛇腹楽器を使用した「Interlude」は、ジプシーに関する一コマの映像的なカットを音楽的に体現しているものと推察される。フォークトロニカのようなファンタジックなイメージを作り出し、休憩所のようなシークエンスを設けている。


続く「Caroline」は、フォーク・ミュージックの代名詞的な一曲である。フラメンコのスパニッシュギターの奏法を踏襲して、長調と短調を交互に織り交ぜ、ヨーロッパ的な空気感を作り出す。その上に、キャロル・キングのような穏やかなスキャットを基に、牧歌的なフォーク・ソングを組み上げていく。アルバムの全般的な録音ではプロデューサーの意向によるものか、50年代や60年代のアナログ/ヴィンテージのモノラル風のマスタリングが施される。こまやかなフォークソング「Looking Back」は驚くほどクラシカルな曲風に変貌している。これらのアナログでビンテージな感覚は、ローラ・マーリングのヴォーカルと驚くほど合致し、聞き手を得難い過去の陶酔的な瞬間へと誘う。特に空間処理としてニア(近い)の領域にあるマイクロフォンの録音とマスターが美しい。また、ヴォーカルは、リボンマイク(コンデンサーマイク)の近くで歌われているようだ。これがボーカルのレコーディングに精彩味とリアリズムを付与している。

 

全般的には良質な録音作品であり、聴き応えがあること事実だが、引用的な音楽が多かったこと、独自の音楽として昇華しきれていないこと、結末のようなニュアンスに乏しいのがちょっとだけ残念だった。まだ、これは歌手が音楽の核心を探している最中であることを暗示させるので次に期待したい。つまり、まだ、ローラ・マーリングは、このアルバムですべてを言い終えたわけではないらしく、なにか言い残したコーダの部分がどこかに残されているような気がする。アルバムの終盤は、序盤の音楽性に準ずる牧歌的なフォークミュージックが展開される。「Lullaby」は、エイドリアン・レンカーのようなソングライティングのスタイルを彷彿とさせる。続くタイトル曲「Patterns In Repeat」も素晴らしい曲であることは間違いないが、アルバムの終曲としては少し気がかりな点がある。音楽の世界が最後に大きく開けてこないのである。

 

全体的な構想から判断すると、例えば、成長するものや飛躍するものに若干乏しかった点が評価を難しくしている。それが満場一致とはならず、評価が分かれた要因なのかも知れない。良作であることは明白なのだけれども、最後に音楽が開けていかず、閉じていくような感覚があるのが難点か。JSバッハの引用があるため言及させていただきたいが、例えば平均律は「反復的で規則的な事項」を設けている。しかし、それらをあっけなく放棄してしまうことがある。期待していたアルバムであったが、もう一歩、もう一押し、というところだったかもしれない。

 



86/100

 

 

 

「Your Girl」

Soccer Mommy 『Evergreen』

 

Label: Loma Vista/ Concord

Release: 2024年10月25日


Review


当初、ベッドルームポップシンガーとして登場したサッカー・マミーは、前作『Sometimes , Forever』(2022)では、ブラック・サバス等のゴシック色を吸収したダークな作風を選んだ。最新作ではそれまでの霧が晴れたかのような爽やかなソングライティングに回帰している。良質な曲を作りたいというスタンスはすでにオープニング「Lost」に反映され、事実、ポピュラーとしての一級品の曲が誕生したと言える。従来は、インディーロックやギターロックという形にこだわっていたような印象もあるソフィーアリソンであるが、この新作ではギターのソングライティングという面に変更はないものの、画一的なギターロックからは卒業しつつあるようだ。

 

「プロデューサーを選ぶのに苦労した」というプレスリリース時のコメントは、このアルバムに、クレイロと同じようなチェンバーポップやオーケストラ楽器の要素を加えようとした意向によると推測出来る。アルバムの序盤から、フォークソングに依拠したソングライティングにゴージャスなオーケストラ・ストリング等が登場し、タイトルである青春の雰囲気が醸し出される。また、収録曲の全般には、草原のようなサウンドスケープが登場し、これらのアルバムの印象を力強く縁取るのである。いうなれば、アトモスフェリックな一作とも言えるだろうか。

 

タイトルを見ると分かる通り、シンガーソングライターが今作で探求しようとしたのは、おそらく多感な時代の繊細な感情や叙情性、デジタルの全盛期にはなかった”アナログな感覚”である。端的に言えば、デジタル・ゾンビになることを、アーティストはやめたのだ。それはミッドファイの範疇にあるやや荒削りな質を取るロックソングに現れることがあり、「M」はその象徴的なナンバーだ。そして、ボーカルやギターの繊細なハーモニーから、得難いようなエモーショナルな感覚、ナイーブさ、さらにはエバーグリーンな感覚が立ち上る。アルバムの序盤は、自然豊かな場所で、風が優しく通り抜けていくような爽やかさを感じ取ることが出来る。 そして青春という不思議な感覚と合わせて、これらの爽やかな感覚が重視されている。この曲では、アコースティックギターの多重録音で分厚い音像を作り出し、曲の最後で今流行りのメロトロンを使用し、ノスタルジックな感覚を作り出す。作曲家としての成長が感じられる。

 

最初期のベッドルームポップ、そして、その後のオルタナティヴロックという二つの時期を経て、ソングライターは今まさにミュージシャンとして次の道を歩みはじめているところだ。「Driver」は旧来のファンの期待に応えるようなグッドソングである。ワイルドな雰囲気を重視し、そして力強いソングライターのもう一つのアメリカン・ロック好きの一面が垣間見える。さらに、アルバムの序盤から印象的に登場する草原のようなイメージはその後も維持される。「Some Sunny Day」では、繊細で切なさを併せ持つオルタナティヴフォーク・ソングを聴くことが出来る。ベースの進行との兼ね合いの中で、琴線に触れるような切ないハーモニーを生み出す。近年のソングライターの苦心の跡が見えるような一曲。必ずしも最初期のような音楽を第一義にしていない証拠でもある。結果として、普遍的なポピュラーソングに近くなりつつある。

 

現在、サッカー・マミーはおそらくモダンなベッドルームポップやインディーフォーク、それからロックソングという旧来の楽曲性を踏まえた上で、今後、どのような青写真を描くのかを模索している最中であるように思える。それは例えれば、雲の切れ端が空を多い、少しずつ流れ、別の形に変わっていく様子によく似ている。

 

「Changes」は米国的なフォーク音楽というよりも、ヨーロッパ的なフォーク音楽を志向した結果でもある。部分的にはジョニー・マーのような繊細なギターラインが登場することがあり、これは旧来のソングスタイルには見られなかった新しい要素で、今後の一つの音楽的な指針にもなる可能性があるように思える。

 

しかし、そういった幾つかの新しい試みもある中で、アルバムの音楽性の核心を形成するのは、従来のような聴きやすく琴線に触れる”切ないポップソング”である。発売日前に公開された「Abigail」は本作のハイライトで、ときめくような人生の瞬間を音楽的に表現している。楽曲としても構成やダイナミクスの側面で、より起伏や抑揚のある曲を書こうという姿勢が反映されている。曲の最後では驚くようなサウンド効果が用意されている。これもまた新しい試みの一つ。

 

オルトロックとしてのヘヴィーさを強調した前作に比べると、落ち着いた音楽性が際立ち、安定感のあるアルバムとなっている。そしてどうやら、ハイファイなサウンドのみに焦点が絞られるわけではなく、「Thinking of You」ではスラッカーロックに近いローファイに近いスタイルを選んでいる。しかし、サビの部分では他曲と同じように清涼感に溢れるボーカルが登場する。

 

「Dream of Falling」は、アメリカのスタンダードなポピュラー音楽を基にして、普遍的なサウンドを探求し、心地よいドラムのミュートが、ギター/ボーカルのマイルドな感覚を引き立てる。「Salt In Wound」は、オルタナティヴ・ロックとして聴かせるものがあり、それは明るさと暗さの間を揺れ動くようなボーカルの旋律進行に反映されている。これらが、従来のベッドルームポップのスタイルと的確に結び付けられている。未知の音楽への挑戦は、この後も部分的に登場する。

 

「Anchor」では、ダブやトリップホップ的なサウンドとギターロックの融合に取り組んでいる。続く、本作の最後を飾るタイトル曲は、サッドコアのインディーサウンドからピクチャレスクなフォークソングへと移行する。どちらかと言えば、米国というよりも、アイリッシュフォーク、ケルト民謡に近いダイナミクスを描く。この表題曲でアルバムジャケットのイメージは結実を果たす。最初から分かるというよりも、聴いていくうちに分かってくるようなアルバム。


結論づけると、『Evergreen』はフォーク、ロック、ポップ、オーケストラという複数の方式で繰り広げられる一連の抒情的なストーリーのようでもある。また、従来のサッカー・マミーの作品に比べ、バンドの性質の強い作風となったのは事実だろう。個人的には、米国の短編小説「The Strawberry Season(苺の季節)」(Erskin Caldwell)に近いセンチメンタルな感覚が感じられた。

 


 

 

84/100

 

 

Best Track- 「M」



◾️REVIEW / SOCCER MOMMY 「SOMETIMES,FOREVER」

 Aaron Parks(アーロン・パークス)   Litte Big Ⅲ


Label: Blue Note/UMG

Release: 2024年10月18日

 

 

 

Review

 

 

ニューヨークのジャズ・ピアニスト、Aaron Parks(アーロン・パークス)は、ECM(ドイツ)のリリースなどで有名な音楽家。今回、彼は13年振りに名門ブルーノートに復帰している。『Little Big Ⅲ』は、2018年の『Little Big』、2020年の『Ⅱ』に続く連作の三作目で、三部作の完成と見ても良いだろう。今作は彼の代表作『Arborescence』と並び、代表作と見ても違和感がない。軽快なシャッフルのドラムとアーロン・パークスの静謐な印象を持つピアノが合致した快作。


アーロン・パークスのピアノの演奏は旋律とリズムの双方の側面において絶妙な均衡を併せ持ち、今作にかぎってはバンドアンサンブル(カルテット)の醍醐味を強調している。エレクトリックジャズをバンドとして追求したように感じられた。例えば、オープニング「Flyways」はピアノとドラムを中心に組み上げられるが、軽快さと心地よさのバランスが絶妙だ。パークスのLyle Mays(ライル・メイズ)を彷彿とさせるフュージョンジャズに依拠したピアノのスケール進行がエレクトリック・ギター、エレクトロニックの系譜にあるシンセサイザー、しなやかなドラムと組み合わされ、聞いて楽しく、ビートに体を委ねられる素晴らしい一曲が登場する。ギター、ピアノの組み合わせについては、ロック的な響きが込められているように感じられた。

 

「Locked Down」は、パークスの主要な作風とは異なり、シリアスな響きが強調されているように思える。この曲では、ドラムの演奏が主体となり、ピアノは補佐的な役割を果たしている。ドラムのタム、スネア等のエフェクトもクロスオーバ・ジャズの性質を印象付ける。そして都会的な地下のムードを漂わせるゆったりとしたイントロから、中盤にかけて瞑想的なセッションへと移行していく。特に、2分20秒付近からパークスの見事な即興的な演奏に注目したい。またジャズのコンポジションの基本形を踏襲し、エレクトロニックの文脈が曲の最後に登場するが、パークスは華麗なグリッサンドを披露し、前衛的なエレクトロとドラムの演奏に応えている。

 

三曲目に収録されている「Heart Stories」はアーロン・パークスらしいジャズ・ピアノを中心とした曲で、彼の代名詞的なナンバーと言えるかもしれない。この曲でも、ライル・メイズの70年代の作品のようなフュージョン性が重視されている。ライブセッションとして繰り広げられる心地よいリズム、心地よい''間''を楽しむことが出来る。表情付けやアンビエント的な効果を持つドラムのプレイと組み合わされるパークスの演奏は、落ち着いていて、ほのかな上品さに溢れている。曲の序盤では、ピアノからギター・ソロが始まるが、音楽的な心地よさはもちろん、無限なる領域に導かれるかのようである。特に、二分半頃からフュージョンジャズのギター・ソロは瞑想的な空気感を漂わせる。基本的に、この曲ではブラシは使用されないが、リバーブなどのエフェクトでダイナミクスを抑えつつ、スネアの響きに空間的な音響処理を施している。4分付近からはピアノソロが再登場し、以前のギターとの対話を試みるかのよう。また、作曲の側面から言及すると、「複数の楽器によるモチーフの対比」と解釈出来るかもしれない。曲の最後ではブルーノートのジャズライブで聞けるような寛いだセッションを録音している。

 

「Sports」は、エレクトリック・ベースで始まり、ライブのような精細感に溢れている。イントロではファンクの要素を押し出している。しかし、その後に入るドラムが見事で、断片的にアフロ・ビート等のアフリカの民族音楽のリズムを活かし、スムースなジャズセッションに移行していく。ピアノの旋法に関しても、アフリカ、地中海等の音楽のスケールを使用し、エキゾな雰囲気を醸成する。分けても、ピアノとギターがユニゾンを描く瞬間が秀逸で、ジャズの楽しさが見事に体現されている。この曲は、演奏者の息遣い等を演奏に挟み、痛快なイメージで進行していく。更に、曲の中盤では、ギターソロが入り、ロック/プログレジャズのような要素が強まる。以後、カリブの舞踏音楽「クンビア」のような民族的なリズムを活かし、闊達なジャズを作り上げる。4分頃からはベース・ソロが始まり、三つの音域での自由な即興が披露される。この曲でも、それぞれの楽器の持つ音響性や特性を生かしたジャズの形式を発見出来る。ロンドンのジャズバンド、エズラ・コレクティヴをよりスマートに洗練させたような一曲。

 

「Little Beginnings」は規則的な和音をアコースティックピアノで演奏し、それをモチーフにして曲を展開させる。イントロのミニマリズムの構成を基にして、このアルバムのアンサブルの三つの楽器、ギター、ベース、ドラムの演奏が複雑に折り重なるようにして、淡いグルーヴを組み上げていく。しかし、それらのリズムの土台や礎石のような役割を担うのが、アーロン・パークスのピアノである。この曲の中盤からはフュージョン・ジャズの領域に入り込み、それぞれの楽器の演奏の役割を変化させながら、絶妙な音のウェイブを描いている。曲の後半ではローズ・ピアノの華麗なソロが入り、イントロの画一的な音楽要素は多彩的な印象へと一変する。アウトロでのローズ・ピアノの刺激的なソロは、このプレイヤーの意外な側面を示唆している。

 

また、今作にはニューヨーク・ジャズとしての要素も含まれているが、同時にロンドンのアヴァンジャズに触発された曲も収録されている。この辺りのプログレッシヴ・ジャズの要素がリスニングに強いアクセントをもたらす。「The Machines Says No」は、繊細かつ叙情性のあるギター・ソロで始まり、落ち着いたバラードかと思わせておいて、意外な変遷を繰り広げる。その後、Kassa Overallのような刺激的で多角的なリズムの要素を用い、絶妙な対比性を生み出す。旋律の要素は叙情的であるが、相対するリズムは、未知の可能性に満ちあふれている。この曲もまた従来のアーロン・パークスの作曲性を覆すような前衛的なジャズのアプローチである。


その後、アルバムの音楽性は、序盤のフュージョンジャズの形式に回帰している。「ジャズのソナタ形式」といえば語弊があるが、つまり、中盤の刺激的なアヴァンジャズの要素がフュージョンと組み合わされている。「Willamia」は、フォーク/カントリーとジャズとの交差性というメセニーが最初期に掲げていた主題を発見することが出来る。実際的にジャズの大らかな一面を体感するのに最適だろう。「Delusion」は、閃きのあるピアノ・ソロで始まり、スネアやタムが心地よい響きに縁取られている。音楽的な形式とは異なるライブセッションの要素を重視した聞き応え十分の一曲。アルバムは続く「Ashe」で終了する。そして、この最後の曲では、アーロン・パークスらしい落ち着いたピアノの演奏を楽しめる。ポピュラーとジャズの中間にあるこのバラード曲には、ジャレットのライブのように、パークスの唸り声を聞き取る事もできよう。

 

アーロン・パークスの13年ぶりのブルーノートへの復帰作『Little Big Ⅲ』では、ジャズという単一の領域にとらわれぬ、自由で幅広い音楽性を楽しむことが出来る。2024年の良作のひとつ。

 

 

 

86/100

 

 

 

「Ashe」

High Vis 『Guided Tour』

 

Label: Dais

Release: 2024年10月18日


Review


あまり元気がないときに聴くと、エナジーが出てくる曲がある。それは実は、明るく温和な曲ばかりとは限らず、少し憂愁に溢れたロックソングである場合が多い。憂いは憂いによって同化され、吹き飛ばせるとも言える。この点において、ロンドンのポスト・ハードコアバンド、High Visの新作アルバム『Guided Tour』は天候不順や曇りがちの日々を見事に吹き飛ばす力がある。

 

High Visは、傷んだ兄弟や未知のパンクスのためにエナジーに満ち溢れたハードコアを提供する。当初彼らは今作で聴こえるよりも遥かに無骨なハードコアソングを特徴としていたが、『Guided Tour』はややエモーショナル・ハードコアに近い作風である。詳細に指摘すると、DiscordのワシントンDCのパンク、Minor Threat、One Last Wishのような最初期のポスト・ハードコアを基底にし、そこからJoy Divisionのような静謐なポスト・パンク性を抽出する。ロンドン的な都会性とマンチェスターの古き良き港湾都市の雰囲気を併せ持っている。

 

このアルバムのハードコアソングは表面的にはパンキッシュであるが、聴き方によったら、すごくナイーヴにも思えるかもしれない。しかし、そのナイーヴな感覚が癒やしの瞬間に変化するときがある。アルバムの冒頭を飾るタイトル曲「Guided Tour」、そして最初の先行シングルとしてリリースされた「Mind's A Lie」等を聴くと、彼らが何をやろうとしているのかつかめるはずだ。そして、なぜ痛みをストレートに吐き出しつつも、それが都会の夕暮れの切なさや、何か情景的なセンチメンタルなイメージを呼び覚ますのかといえば、ボーカルが公明正大で、その声がエナジーとともに吐露される時に、心に何の曇りもないからである。これらのクリアで透徹した感覚は、歌詞や表現に何らかの遠慮や偽りがあるとなしえない。そして音楽的には、イアン・マッケイの系譜にあるストレートなボーカルに、メロディアスなギターラインが特徴的である。これがバンドのサウンドに色彩的なイメージを添えることがある。

 

 

もう一つ、High Visの主要なハードコア・パンクソングの中には、古き良きUKハードコアの影響が含まれている。それはGBH,Dischargeを筆頭とする無骨で硬派なパンクバンドである。そしてこれらの80年代のバンドがそうだったように、ヘヴィメタル寄りの重力のあるギターやベース、そしてシンプルなドラムが特徴となっている。というのも、GBH等のバンドはヘヴィ・メタルを演奏しようとしたが、演奏力が巧緻ではなかったために、ああいったドタバタのサウンドになった。 けれども、多くの実力派のギタリストが言うように、「テクニックより表現したいことがある」ということが良い演奏者になるための近道となるかもしれない。High Visの場合も同じように、英国の古典的なハードコアバンクを受け継ぎ、現代の若者として何を表現したいのか、つまり、そういった一家言のようなものをしたたかに持ち合わせている。

 

特に、このアルバムではそれらは洗練されたモダンなポスト・パンクとして昇華される場合がある。「Worth The Wait」、「Fill The Gap」では、バックバンドの演奏自体はオルタナティヴロックであるが、ボーカルだけが硬派なハードコアスタイルという複合的な音楽を探求していることが分かる。

 

歌詞に関しても一家言があり、例えば、「Mob DLA」等では脳に障害を負う兄弟のために歌っている。結局のところ、彼らのパンクサウンドは、満たされた人々ではなく、憂いを抱える人々の心を揺さぶり、それらに勇気をもたらすために存在している。もちろん、そういったマジョリティとは距離をおいたパンクソングは、いかなる時代であろうとも貴重なのだ。今作の最大の成果は、別のアーティストからトラック提供を受けた「Mind's A Lie」のようなアンセミックなパンクソングを制作したことに加えて、「Untethered」のようなポストハードコアの静謐なサウンドの側面を示したことにあるだろう。そしてポスト・ハードコアはどちらかと言えば、ハードコア・パンクにおける激しさや過激さは控えめで、きわめて静謐な印象をもたらすのである。その中には隠された知性も含まれている。


High Visのパンクロックソングは、必ずしも一般的なものとは言いがたいかもしれない。しかし、彼らが今作で示したのはUKハードコアの新機軸であり、それは先にも述べたように「別ジャンルとのクロスオーバー」に求められる。今回のアルバムでは、EDMのダンスミュージックとの融合という側面を捉えることが出来る。このアルバム全般には、内的な痛みがあり、それはむしろ誰もが持ちうることがあるからこそ、カタルシスのような癒やされる瞬間に変わる。最後にそれは清々しさに変化する。

 




78/100

 

 

 


「Deserve It」

Jordana 『Lively Promotion』

 

Label: Grand Dury

Release: 2024年10月18日

 

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Jay Som、Clairo、Faye Websterを始めとするベッドルームポップシーンの注目アーティストとして登場したジョーダナの最新作『Lively Promotion』は、プレスリリースで示されている通り、ドナルド・フェイゲン、キャロル・キング、ママス&ザ・パパス等、70、80年代のポピュラーソングを思い起こさせる。"ベッドルームポップ"と称される一連の歌手の多くの場合と同じように、このジャンルの可能性を敷衍する。もちろん、「カメレオン」と自らの音楽性について述べるジョーダナのソングライターとしてステップアップしたことをを示唆しているのではないか。要は、普遍的なポピュラー性が今作において追求されていて、この点が音楽そのものに聞きやすさをもたらし、幅広い年代に支持されるような作品に仕上がった理由なのだろうか。

 

また、80年代のディスコサウンドからの影響も含まれていて、アースウインド&ファイアの系譜にあるR&B性も反映されている。もちろん、フォーク・ミュージックをモダンな印象で縁取ったバイオリンの演奏もその一環と言える。これらの音楽的な広がりは、曲の中で断片的に示唆されるというより、ソングライティングの全般的に滲出しており、作曲全般の形式そのものが変容したことを表す。ケイト・ボリンジャーのデビュー作と同様、若い年代のシンガーの音楽観には、世代を越えた音楽を追求していこうという姿勢やポピュラー音楽の醍醐味を抽出しようという考えが垣間見えるような気がした。もちろん、ジョーダナの場合はどことなく穏やかで開けたポピュラーサウンドを通して。このことは、ベッドルームポップというZ世代の象徴的なサウンドが2020年代中盤に入り、形質を変化させつつある傾向を見出すことが出来る。そしてこのアルバムでは、演奏や作曲を問わず、音楽自体の楽しさを追求しているらしい。


オープニングを飾る「We Get By」には、心を絆すようなギターサウンドが登場する。ディスコファンクを反映させたベース、そして遊び心のあるヴァイオリンのパッセージが音楽全体の楽しさを引き立てる。その中で開放的な感覚のあるコーラスやサクソフォンの音色が音楽全般にバリエーションを付与している。おそらく、単一の音楽にこだわらないスタンスが開放的な感覚のあるポピュラーソングを生み出す契機になったのだろう。さらに、アルバムのハイライト曲「Like A Dog」は、チェンバーポップの規則的なリズムを反映させて、口当たりの良いポップソングを提供している。しかし、曲全般の構成や旋律進行は結構凝っていて、ファンクやR&Bのバンドスタイルを受け継いでいるため、多角的なサウンドが敷き詰められている。これが曲そのものに説得力を与えるし、表面的なサウンドに渋さを付与している。また、音感が素晴らしくて、サビの前のブリッジの移調を含め、ソングライティングの質はきわめて高い。シンガーソングライターのカラフルな印象を持つポップソングを心ゆくまで楽しむことができるはずだ。

 

以降、本作はカントリー/フォークやバラードに依拠したサウンドに舵を取る。「Heart You Gold」は三拍子のワルツのリズムを取り入れて、ビートルズの系譜にあるナンバーを書いている。しかし、曲の途中ではその印象が大きく覆り、ビリー・ジョエル風の落ち着いたピアノバラードへと変化する。このあたりには音楽的な知識の蓄積が感じ取られるが、全般的には、インディーポップという現代的なソングライティングのスタイルに縁取られていることが分かる。

 

続く「This Is How I Know」は、キャロル・キングを彷彿とさせる穏やかな一曲。そして前の曲と同じように、カントリーを反映させた作曲と巧みなバンドアンサンブルの魅力が光る。これらのポピュラーソングには、ダンスミュージック、ファンク、R&Bなどの要素を散りばめ、Wham!の代表的なヒットソングのような掴みがある。決めを意識したアコースティックギター、コーラスワークが、80年代のMTVの全盛期のポピュラー時代の温和な音楽性を呼び起こす。

 

その後も、音楽性を選ばず、多彩なジャンルが展開される。「Multitude of Mystery」では、スポークンワードの対話をサンプリングしている。そして、ヒップホップというよりも、ジャネット、ベンソン、ワンダーの時代のファンクサウンドを参考にし、80年代のAORに近い音楽性を選んでいる。しかし、これらが単にリバイバルなのかといえば、そうとも言いがたい。表面的には、テンプルマンやパラディーノに近いモダンなポピュラーサウンドが際立つが、アーバン・コンテンポラリーのリバイバルを越えた未知の可能性が示唆されている。

 

イギリスではディスコリバイバルやその未来形のサウンドが盛んなようだが、ジョーダナはこれらのミラーボールディスコの要素を巧みに自らの得意とするフィールドにたぐり寄せる。「Raver Girl」では、70年代から80年代のファンクソウルを反映させ、それをフェイ・ウェブスターと同様にベッドルームポップと組み合わせている。

 

ただ、レコーディングでは、すでにスタジオのバンドサウンドが完成されているので、これをベッドルームポップと呼ぶのは適切ではないかもしれない。寝室のポップは、背後に過ぎ去りつつあるようだ。そして、同時に、ファンクとポップをクロスオーバした形は、アナクロニズムに堕することなく、新鮮な印象を携えて聴覚を捉える。続く「Wrong Love」でも、基本的にはベッドルームポップが下地になっていると思われるが、アースウインド&ファイアの系譜にあるディスコファンクが織り込まれていることが音楽に快活味をもたらす。

 

このアルバムは、カントリー/フォーク、ディスコファンク、ポピュラーという三つの入り口を通して広がりを増してゆく。そしてアルバムのクライマックスでは、幾つもの要素を融合させたような音楽性が展開される。「Anything For You」ではセンチメンタルな印象を持つオルタナティヴフォーク、続いて、「The One I Know」では南部のカントリーの性質が強まる。上記の二曲にはイメージの換気力があり、ミュージックビデオに見出せるような草原の風景を呼び覚ます。そして、この作品の全般的な印象に、癒やしのような穏やかな情感をもたらすことがある。

 

アルバムの曲は一つずつ丹念に組み上げられてゆくような感覚がある。そして複数のジャンルや年代を越えたポピュラーが重なり合うようにして、本作『Lively Promotion』の音楽は成立している。このアルバムは表向きに聴こえるよりも奥深い音楽性が含まれ、それはアーティストの文化観が力強く反映されているともいえる。アルバムのクローズ「Your Story’s End」 は、キャロル・キングを彷彿とさせる美しくもはかないバラードソングである。音楽というものは、数十年では著しく変化しない。形こそ違えど、その本質はいつも同じなのもしれない。また、もしかすると、「カメレオン」というのは”ジョーダナ”としての音楽性の幅広さを言うだけにとどまらず、自分の憧れの姿になりきれるということを暗に示しているのではないだろうか。

 

 

 

84/100

 

 

 

「Like A Dog」

burrn   『Without You』

 

Label: Self Release 

Release: 2024年10月16日


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Review


2005年に東京で結成され、最初期のシューゲイズシーンを形成したburrrn。バンドは2011年に自主制作盤『blaze down his way like the space show』を発表した後、活動を休止した。それから13年が経過し、待望の復帰作『Without You』でカムバックを果たす。しかも、アルバムのプロデューサーにはRIDEのフロントマン、Mark Gardner(マーク・ガードナー!!)を抜擢。

 

burrrnはボストンのシューゲイズバンド、Drop Nineteen(ギタリストに安江さんを擁する)の東京版とも言える。バンドに何があったのかは定かではないものの、13年の ブランクはむしろバンドの音楽性を煮詰める絶好の機会になったように感じられる。このアルバムはシューゲイズのカルト的な側面を擁しているが、よく聞くと分かる通り、世界水準のロックアルバムである。傑作とまではいかないかもしれないが、熱心なファンの間でマニアックな人気を獲得しそうだ。

 

 burrnのニューアルバム『Without You』にはシューゲイズの基本的な作風が凝縮されていて、『Loveless』の系譜に属している。転調や移調をギターのトーンの変容の中で交えながら、アシッド的な雰囲気を呼び覚まし、ドリーミーなボーカルが全般的な陶酔感を引き立てる。シューゲイズの醍醐味であるフィードバックノイズと幻覚性を呼び起こすMBVの音楽が下地になっている。しかし、バンドの音楽には深い知見があるので、音楽が単なるキャッチコピーに終始することはない。このジャンルの中核にあるネオ・アコースティック/ギター・ポップの要素がバーンのソングライティングの核心をなしており、ギターサウンドの組み立て方やマンチェスターの80年代のエレクトロのビートの引用し、ポンゴ等のワールドミュージックの一貫にある楽器も取り入れたりと、念入りな工夫が凝らされている。しかし、サウンド自体はそれほどマニアックにならず、耳にすっと入ってくる。聴きやすいサウンドと言えるのだ。これはシューゲイズのマスタークラス、マーク・ガードナーさんのプロデュースの功績と言えよう。

 

ロンドンのWhitelandsのギタリスト/ボーカルのエティエンヌは、このジャンルが「誰でも出来る」と言っていたのだったが、それが彼の天才たる所以である。シューゲイズはギターの音響の特性やフィードバックに関する広汎な知識を必要とするので、少なくとも素人が手を出すようなジャンルにはあらず。むしろ他のジャンルを卒業したバンドがやるべき音楽であり、感覚的にこういったジャンルの音楽を確立するのは至難の業。しかし、バーンは、このアルバムで、シューゲイズのトーンの変調を活かし、独特なグルーヴを出現させている。ただ、バーンの音楽は、他のシューゲイズバンドと同じように、ダンス・ミュージックに特化しているというよりも、ドリーム・ポップの要素が色濃い。アルバムの冒頭を飾る「Vague Word」では、カヒミ・カリイ等の渋谷系シンガーを彷彿させるスタイリッシュなボーカルが際立ち、これらがノンビートに近い希薄なドラム、そして抽象的なギターのアンビエンスと掛け合わされる。一見すると、シンプルに思えるが、実際的にはかなりの深い見識に裏打ちされたサウンドである。これは軽さやポップさという側面をバンドサウンドとして計算しつくした結果と言えそうだ。


二曲目の「Your Sweetness」では天才的なメロディーセンスが遺憾なく発揮されている。ラフでローなサウンドは、Bar Italiaの最初期のサウンドに近いが、ロックではなく、ポップという側面がburrrnのサウンドに個性味をもたらしている。甘めのメロディーは、渋谷系の直系に当たり、スコットランドのネオ・アコースティックの音楽性を活かし、エレクトリック/アコースティックのギターのユニゾンの多重録音を強調させ、陶酔感のあるシューゲイザーを作り出している。バンドアンサンブルに加えて、男女ボーカルのユニゾンというMBVのコーラスの要素が登場する。さらにシューゲイズの転調という側面を活かし、曲のセクションごとに移調を繰り返し、独特なトーンの揺らぎと抽象的な音像を作り出している。これは見事としか言いようがない。

 

このアルバムには、ボーカルやドラムの音像を曇らせる、シューゲイズの「暈しの技法」が取り入れられていて、それはThe Telescopesのようなカルト的なロック性に縁取られている。他方、アルバムの中盤に登場する「Band Doll」のような曲には、ローファイやスラッカーロックの要素が出現し、リスニングの際に強固な印象をもたらす。ノイズやフィードバックを強調させたサウンド、それとは対称的なダウナーでスロウテンポの楽曲が並置されることで、かなり危ういところでバランスを保っている。これは経験が乏しいとハチャメチャなサウンドになる恐れがあるが、burrrnはスレスレのところで絶妙な均衡を保っているのに驚きを覚える。この曲では、シューゲイザーの天国的な音楽性がバンドアンサンブルによって組み上げられる。プロデュース的なサウンドに陥ることなく、精細感溢れるバンドサウンドを追求しているのに注目だ。

 

シューゲイズの音楽はときどき、シリアスになりすぎたり、ダークになりすぎたりすることがある。これは時々、リスナーとして気が滅入りそうになることがある。しかしながら、このアルバムでは、アートワークのかなり不気味なイメージとは異なり、明るい光に満ち溢れたエネルギーが発露する瞬間もある。「Flirtation」は、burrrnがワールド・スタンダードに到達した瞬間であり、特に他の曲では存在感をあえて消しているドラムのビートの刻みの迫力が押し出されている。ボーカルは他曲と同様に多重録音だが、表向きに現れる精細感のあるボーカルワークを聴くとスカッとする。少なくとも、「Flirtation」はロックソングとして秀逸で、爽快感に満ちあふれている。特に、マーク・ガードナーのプロデュースはこの曲に洗練性を付与している。

 

東京のオルタナティヴロックバンド、 burrrnは、The Telescopes、Bar Italiaとおなじようにサイケデリックの音楽性をエッセンスとしてまぶすことがある。日本語で美しさを意味する「Birei」は、まさしく曲名とぴったり合致し、ギターサウンドのアーティスティックな側面がフィーチャーされている。それは轟音のディストーションギター、そしてフィードバックノイズというこのジャンルの基本的な要素を踏襲している。この曲でも、ファンシーな印象を持つボーカルが際立つ。表面的なサウンドはハードロックであるが、その背後にぼんやりと煙のように揺らめくのは、Throwing Muses、Breedersのような、4ADの最初期のコアなオルタナティヴサウンドなのだ。

 

burrrnのロックのアウトプットは広汎であり、間口が広い。「Always Alright」ではヨ・ラ・テンゴのようなギターロックに挑戦し、「Destruction」では、デモソングのようなラフなミックスが強調されている。こういったギターロックやオルタナティヴロックのコアな魅力をいくつも提供した上で、本作のクローズ「Lovers Interlude」では、70年代のバーバンクサウンド、あるいはLa's(ラーズ)のようなフォークロックが登場するのだから手がつけようがない。


もしかすると、このアルバムは定期的に作品をリリースしていたら完成しえなかったかもしれない。しばらくプロジェクトと距離を置いていたからこそ、音楽にパワーが溢れ、奇妙なパッションが込められている。2024年のトクマル・シューゴの最新作と並んで、世界水準のロックアルバムの登場!!

 

 

 

86/100 

 



 

Letting Up Despite Great Faults  『Reveries』 

 

Label: P-VINE

Release: 2024年10月11日

 

Review

 

テキサス/オースティンを拠点に活動するLetting Up Despite Great Faultsは、5回の来日公演を実現させているドリーム・ポップ/シューゲイズバンド。タヌキチャンがバンドを組んだら、と思わせるようなグループである。すでに音楽ファンが指摘している通り、エレクトロニックとドリーム・ポップの融合を図るバンドである。彼らは、近年、さらにK-POPの音楽性を組み合わせて、ポップとロックの中間にあるアンビバレントな作風に取り組んでいるところだ。

 

『Reveries』は、ドリームポップ・ファンとしてはぜひともチェックしておきたい佳作である。ミックスにベッドルームポップの象徴的な存在で、カナダのLiving Hourの最新作にも参加しているJay Som、マスタリングには、Slowdiveのドラマー、Simon Scottを迎えて制作された。コラボレーターにも注目で、3曲目の収録曲「Color Filter」では、LAで注目を集めるシューゲイズ・バンド、”Soft Blue Shimmer”からMeredith Ramondをゲストヴォーカルに迎えた。インディーポップやシューゲイズ・リスナーにはたまらないメンバーが参加した作品。

 

夢想的で甘口のメロディーを武器に、チルウェイブ、ヨットロックのような気安さが漂うのはテキサスのバンドならではといえる。フェーダー、ディレイを掛けたスタンダードなシューゲイズサウンドを聴くことが出来るが、基本的には苛烈な轟音になることはない。ギターサウンドはライトなポップの範疇にあり、それがバンドの音楽に近づきやすい印象をもたらす。アルバムの冒頭「Powder」では、テクノとドリーム・ポップの融合に取り組んでいる。特に、ゲーム音楽から発展したチップチューン、ポップのクロスオーバーは、フレッシュな感覚をもたらす。

 

Letting Up Despite Great Faultsは『Reveries』において、メロディーやハーモニーの側面でバンドとして素晴らしい連携を示し、各々のセンスを上手く発揮している。「Dress」は、抽象的なギター、ベースがボーカルの夢想的な感覚と重なりながら、DIIV、Slowdiveの系譜にある艷やかなハーモニーを形成する。この曲はアルバムの序盤のハイライトとして楽しめるはず。アルバムの序盤から中盤に掛けて、このアルバムはより深い幽玄なドリームポップの領域に入り込む。「Emboidered」ではニューロマンティックの系譜にあるサウンドへと近づいていく。

 

また、バンドの音楽は2010年代のキャプチャードトラック周辺のサウンドの影響を感じさせ、それはサーフロックやヨットロックのような旧来のサウンドとパンクの系譜にあるドライブ感のあるロックとの融合という音楽性に結び付けられる。「Past Romantic」では、90年代のエレクトロをベースにドライブ感に充ちたシューゲイズサウンドに舵を取る。シンセサイザーをフィードバックギターに見立て、ボーカルを対比させ、心地よいアンビエンスを作り出す。構成的にはギターロックだけれど、表面的にはアンセミックなポップとして聞き入ることが出来る。彼らのサウンドのアグレッシヴな一面が体現され、ライブで映えそうなナンバーだ。

 

基本的には、このアルバムではSlowdiveの系譜にあるサウンドが強調されている。ただ、よりアートポップバンドのような一面が立ち現れる場合もある。「Collapsing」ではコクトー・ツインズのようなゴシックやニューロマンティックの系譜にあるアートポップの要素を読み取れる。ボーカルはエリザベス・フレイザーのように艷やかであり、甘美な感覚に縁取られている。この要素がより洗練されていくと、何かオリジナル性のあるサウンドが出てきそうな予感もある。また、バンドの音楽には4ADのThrowing Musesのようなオルト性を読み取ることが出来、それが部分的に牧歌的、あるいは温和な音楽性という側面を併せ持つことの証左でもある。

 

バンドの音楽はチップチューンのようなゲーム音楽に近いテクノサウンド、そしてダンサンブルなエレクトロ、オルトフォーク、ニューロマンティックを中心に形成されている。序盤では都会的というか、アーバンなイメージに縁取られているが、終盤になると、古典的な音楽性が強調され、それが淡いノスタルジアを漂わせる。現代的なリスナーにとって、過去の音楽の一端に触れることは郷愁的な感覚をもたらすが、テキサスのバンドが最もこのアルバムの制作で最も意識したのはノスタルジアーー過去の時代への沈潜ーーだったかもしれない。それは実際的に抽象的な感覚に縁取られると、聞き手に心地よさという美点を提供する。 また、ノスタルジアに対するイメージがぼんやりとしたものであればあるほど、実際にアウトプットされる音楽には陶酔感が漂う。それはつまり、言語では表しえない非言語性を内包しているからなのだ。


アルバムの終盤は、Slowdive、Cocteu Twinsのアルバムに最初に触れた時のような感覚に溢れ、あっという間に過ぎ去っていく。ぼんやりした午後、背後に過ぎ去る季節、そして次にやってくる夢。彼らは複数の観点から、センチメンタルで、心をくすぐるような切ないラブソングに近いポップソングを書く。そのシューゲイズ的な音楽に耳を澄ませてみると、ぼんやりした意識の向こうから美麗なハーモニーが夜のライトのようにちらつく。抽象的な時間、さほど意味がないように思える穏やかなひとときが、『Reveries』の最大の魅力とも言える。「Swirl」、「Self-Destruct」のような曲のスタイルが、たとえすでに使い古されていたとしても、このアルバムの音楽には確かに人をうっとりさせるものがある。お世辞にも傑作とは言えないかもしれないが、インディーポップファンとしては一聴の価値がある良作となっている。


 

 

76/100

 

 

 

Best Track- 「Dress」

 

 

 

Letting Up Despite Great Faultsの新作アルバム『Reveries』はP-VINEより発売中です。アルバムのストリーミングはこちら

 

 

■Letting Up Despite Great Faults

 

LAで結成され、現在は音楽の街、テキサス・オースティンで活動中のLetting Up Despite Great Faultsが5枚目のオリジナルアルバム『Reveries』を10月11日にリリースする。

 

Letting Up Despite Great Faultsはデビューアルバムで完成させたエレクトロなシンセサウンドをシューゲイズやドリームポップというジャンルに落とし込むという発明で、日本でも5回の来日公演を成功させるなど人気を集めるバンドだ。

 

『Reveries』はミックスにJay Som、マスタリングにSlowdiveのドラマーであるSimon Scottを迎えて制作された作品で、3曲目に収録されている「Color Filter」ではLAで注目を集めるシューゲイズ・バンド、Soft Blue ShimmerからMeredith Ramondをゲストヴォーカルに迎えるなど、インディーポップやシューゲイズ・リスナーにはたまらないメンバーが参加した作品。

 

本作でもLetting Up Despite Great Faultsの特徴であるエレクトロ+シューゲイズ/ドリームポップにキャッチーなメロディーラインを加えるという彼らのオリジナリティーを武器にした作品に仕上がっているが、その上で冒頭を飾る「Powder」や6曲目「Past Romantic」のように実験的なリズムを取り入れた楽曲も収録。

 

K-POPからHyper Popまで様々なポップスを聞くようになったというフロントマンのMike Lee(マイク・リー)がLetting Up Despite Great Faultsのインディーポップな良さに様々なジャンルをポップセンスを加えた楽曲たちもアルバムの中で存在感を放っている。

 

2曲目「Dress」はインディーポップのルーツが存分に感じ取れる心地良い楽曲であり、7曲目に収録されている「Collapsing」のコード感やメロディーセンスも90sのインディーポップやギターポップが好きな人たちにはたまらないであろう。シングル曲として公開された「Swirl」は2010年代の〈Captured Tracks〉が好きな人にはオススメな楽曲であり、国内盤CDに収録されている2曲も間違いない。Letting Up Despite Great Faultsが感じ取れる楽曲が収録!!

Lex Amor. 『forward ever.』 

 

Label: Modern Oak

Release: 2024年10月4日



Review


Lex Amor(レックス・アモール)は、ノース・ロンドンを拠点に活動するラッパー/DJである。詳しいリスナーならば、Wu-Luの「South」にコラボレーターとして参加し、曲の最後でラップしているのをご存知かも知れない。レックス・アモールは端的には言えば、Little Simzの次世代のラッパーである。アモールのニュアンス、ラップ自体は繊細で、ナイーヴな感覚を持ち合わせている。

 

レックス・アモールのラップは、トラックメイクの前面に出てくるというより、背景となるエレクトロニック・サウンドにじんわりと馴染むといった感じである。最近のロンドンでは、トラップ/サザンヒップホップの「エレクトロニックとヒップホップの融合」という手法を受け継いで、イギリスのダンスミュージックと結びつけている。レックス・アモールのヒップホップもまた、ダブステップやドラムンベース、UKガラージといったベースメントのEDMと密接な関係を持つ。ジョーダン・ラケイの系譜にあるEDMに加わるセンス抜群のラップは、次世代のヒップホップの象徴とも言える。また、実際的に、ギターやベースの生演奏が加わるという点では、Ninja Tuneのサウンドの系譜に位置づけられる。様々な観点から楽しめるヒップホップだ。

 

『forard ever.』に関してはどうだろうか。大掛かりな枠組みを設けず、さりとて分かりやすいサビを作るわけでもなく、淡々とラップを続けてグルーヴを作り上げ、音楽をマイスターのように組み上げてゆく。全体的には、エレクトロニックのトラックにラップするというシンプルな内容である。しかし、トラック制作に関して非凡なセンスがあり、メロウでダークな質感を持つラップ、細かなビートの組み合わせ、 それからレゲエ/レゲトンの系譜にあるフロウが際立っている。さらに、ボーカルやホーンをサンプリングし、組みわせて、心地よいビートを生み出す。

 

実際的に近年のヒップホップアーティストは、エレクトロニックのプロデューサーとしても優れている場合が多い。レックス・アモールも同様である。オープニング「SUN4RAIN」を聞けば、いかに彼女がプロデューサーとして傑出しているか、お気づきになられるだろう。そして、レックス・アモールのヒップホップは、ECMのニュージャズのように、エレクトロジャズの影響も含まれている。これが、全般的な音楽として、ネオソウルのようなメロウさと甘美的な感覚を作り出し、切なさを漂わせるラップと重なりあう。「SHINE IN」は、ワールドミュージックやニューエイジのイントロを起点にして、グリッチ・サウンドをベースにしたUKドリルを展開させていく。しかし、しっとりとした感覚を持つネオソウルの系譜にあるアモールのリリック捌きが独特なアトモスフィアを作り上げる。その雰囲気を一層メロウにしているのが、ダブステップ/フューチャーベースの系譜にあるビートやホーンのコラージュ、コーラスの配置である。これらの多角的なヒップホップは、アシッド・ジャズのような瞑想的な雰囲気を呼び覚ます。決してヒップホップが軽薄な音楽ではないよとレックス・アモールは示唆するわけだ。


このアルバムを聴くと、インストゥルメンタルのEDMは今後、大きな革新性や工夫を凝らさないと、時代遅れになりそうな予感もある。なぜなら、リトル・シムズを筆頭に、ヒップホップ界隈のアーティストのほとんどは、平均的な水準以上のプロデューサーとしての実力を兼ね備えているからである。これは、はっきり言うと、インストゥルメンタルを専門とするエレクトロニック・プロデューサーにとっては、かなり脅威なのではないかと思われる。特に、ハードコアやガラージ、ドラムンベースをヒップホップと掛け合わせることは、ロンドンのラップミュージシャンとしては、ほとんど日常的になっていることが分かる。それらのダンスミュージックの知識とセンスの良さがNY/ブロンクスの古典的なDJのように試されるといった感じである。

 

「BEG」は、EDMとしてそれほど新しくはなく、古典的なドラムンベースを踏襲しているが、やはりというべきか、レックス・アモールのラップが入ると、それらの古典的なダンスミュージックは新鮮なエモーションを帯びる。そして、アモールのラップに関して言及すると、現代的なレゲエ/レゲトン等を吸収した歌唱法を披露していることに注目である。そして、リリックを曲の中に能うかぎり詰め込むというよりも、歌わない箇所をうまく活かし、いわば乗せる部分と聞かせる部分を選り分けているように感じられる。これは、ダンスミュージックのインストゥルメンタルの箇所の魅力を知っているから出来ることだろう。

 

続く「GRIP」も同じくダンスミュージックを主体とする楽曲だが、レックス・アモールのラップは、ほとんど囁きやウィスパーに近い。これはオーバーグラウンドのヒップホップとは対象的に、もの憂げな側面を押し出した、大胆なラップのスタイルである。従来までは、アグレッシヴな側面ばかりが取りざたされることもあったが、どのようなアーティストもナイーヴな側面を持っている。それをストレートに伝えることもまたヒップホップの隠れた魅力の一面なのかも知れない。そして、リズムの複雑化というのが、近年のロンドン界隈のヒップホップの主題である。続く「A7X」は、Stormzyの系譜にあるシンプルで聴きやすいUKドリルの楽曲であるが、リズムの構成が緻密に作り込まれているし、なおかつフューチャーソウルの音楽性がSF的な雰囲気を帯びる。音楽的な世界観としてはSZAに近いが、それほど過剰な音楽性になることはない。ストリートの空気を吸い込んだシンプルなヒップホップのスタイルが貫かれている。

 

「SUMMER RAIN」は、ギターのアップストロークの演奏をコラージュしたEDM。この曲もジョーダン・ラケイの系譜にあるスタイリッシュなヒップホップである。そして、他の収録曲とは少し異なり、ポピュラーの歌唱が織り交ぜられていることが、楽曲そのものの楽しみや面白さを倍増させている。つまり、これはラップの進化のプロセスを示していて、今後のヒップホップは、曲の中でポピュラーのボーカルを部分的に披露するというスタイルが台頭してくるような気配もある。(もちろん、ポピュラーのコラボレーターを参加させるというのも奥の手になるだろうか)これは、例えば、ポピュラーアーティストがスポークンワードを曲で披露するのとは真逆の手法であり、ポピュラー音楽に対するラッパーからの回答とも言うべきだろう。


もうひとつ、このアルバムの最大の魅力は、全体のアンビエンスを形作るオーガニックな感覚にある。「1000 Tears」は、ゆったりとしたBPMのダブステップの系譜にあるヒップホップだ。もちろん、現代的なネオソウルの影響も含まれるとは言え、ボーカルアートのような要素がひときわアーティスティックな印象を帯びる。ヒップホップやラップはおそらく、その表現性を極限まで研ぎ澄ましていくと、ボーカル・アートに近くなるのかもしれない。この曲では、ELIZAのボーカルの協力を得て、「ラップのコラージュアート」という未知の領域へと差し掛かる。ボーカルのサンプリングを活かして、それらをトラックの随所に散りばめるという手法は、ラップにおけるアクション・ペインティングの要素を思わせる場合がある。これはまた、バスキアの事例を見ても分かる通り、ヒップホップというジャンルがストリートで発生し、そしてアートと足並みを揃えて成長してきた系譜をはっきりと捉えることが出来るだろう。


現在、多数のプロデューサーが取り組んでいる「ジャズとヒップホップのクロスオーバー」という主題は、すでにシカゴ等の地域で盛んであったが、ロンドンでも今後の主流となっていきそうな気配がある。「AGAIN」では、ジャズの抽象的なニュアンスを捉え、グルーヴ感のあるEDMにテイストとしてまぶすという手法が見出される。そして、これらは現代的なロンドンのダンスミュージックと結びつくと、アーバンでスタイリッシュ、洗練された印象を帯びるのである。この曲は、ヒップホップがジャズに最接近した瞬間で、それらの表現法はニュージャズに属する。今後、こういった手法がどのように変化したり、成長していくのかを楽しみにしたい。

 

レックス・アモールの音楽性がすべてが完成したといえば誇張表現になるだろう。もちろん、その中には発展途上の曲もある。しかし、現代の女性ラッパーとしては、抜群のセンスが感じられる。全般的には、アンニュイとも言うべきヒップホップに終始しているが、クローズ「SUPER BLESSED」だけはその限りではない。アンダーグラウンドのダンスミュージックとヒップホップを結びつけ、本作のクライマックスで強烈な爪痕を残す。レックス・アモールはフューチャーベースを主体としたヒップホップにより、ロンドンのラップの現在地を示している。

 

 

 

82/100


 

 

Godspeed You! Black Emperor 『No Title As of 13 February 2024 28, 340 Dead』




Label: Constellation

Release: 2024年10月4日

 

Review  

 

単にバンドというよりも、アートグループといった方が最適なカナダの伝説的なポストロックバンド、Godspeed You! Black Emperor(以下、GY!BE)は、ギタリストでソングライターであるエフリム・メニュクを除いては、メンバーを固定せずに30年余り活動を続けてきた。当初の編成は弦楽器を含む9人編成だった。現在のラインナップは、二本のヴァイオリン、コントラバス、グロッケンシュピール、テープループ、16mmのフィルム撮影者を含む9人編成である。93年頃に結成され、翌年には限定33枚のカセットテープをファースト・アルバムとしてリリースした。99年にはNMEのカバーストーリーを飾り、世界的にその名を知られることに。プロジェクターをステージの背後に置き、音楽と同期させ、映像的なライブパフォーマンスを行うことでも知られている。

 

MOGWAI、Sigur Rosと並んで、ポストロックの代表格とされるGY!BEであるが、当初はハードロックバンドとして認知されていた。うろ覚えであるが、カナダかイギリスのメディアは、このバンドを当初、Led Zeppelinと比較していた。それはハードロックの中に、ストーリーテリングの要素が含まれ、また、90年代としては画期的なスポークンワードのサンプリングの映像的な試みが取り入れられる場合があったからである。分けても、Kranky(国内ではP-VINE)から発売された『Lift Your Skinny Fists Atennas to Heaven』(2000)では、アルバム全体が映画のような趣を持つコンセプチュアルな作品だった。また、演奏がない箇所が時々10分近くに及ぶという側面では、同年代のアルバムとは似て非なる革新的な内容であった。さらに、この音楽性は実際的に、ケンタッキー州ルイヴィルのRachel'sの『Handwriting』(1995)という黎明期のポストロック・アルバムに準ずるものであった。ストリング等のオーケストラ楽器は、1995年の時点でロックのアンサンブルと共存していたということだけは指摘しておくべきだろう。

 

カナダのGY!BEに関しては、幻惑的なハードロックギターを自前の室内楽のストリングスと重ね合わせて、それらをダイナミックなロックソングとして昇華するという点で際立っていた。同時に、このバンドは、ロックミュージックの瞑想性や70年代前後の英国のハードロックバンドが持ち合わせていたサイケデリック性や幻惑的な雰囲気をギターロックを中心に構築してきた経緯がある。また、主要な音楽性と合わせて、政治的な暗喩を交えることもあり、啓示的だと言われることもあれば、旧約聖書の黙示録になぞらえられることもある。つまり、アンサンブルに関しては、Led Zeppelinに比肩するが、歌がなくインストゥルメンタル主体の構成である。


時々、語りのサンプリングが導入されることもあるが、それは飽くまで主体となる音楽のサイドストーリーに過ぎない。その分、ギターのコイルの電気信号の増幅によって暗示的な物語性を増強するというのが他にはない彼らの特性である。だからこそ、プロジェクター映像の同期が演出として生きてくる。彼らの代表作『Lift Your Skinny-』では、轟音のギターがストリングと組み合わされると、MBVのようなシューゲイズに近くなる場合もあったが、基本的なサウンドは、ハードロックやプログレッシヴロックのプリミティヴな響きにあると言えるだろう。また、ドラムに関しては、オーケストラのドラムを使用する場合が稀にあり、現代的なロックやパンクのようなタイトなドラムの録音とは対称的である。聞き方次第では、バタバタというトロットのようなヒットにも聞こえる。GY!BEのドラムは、ジャズやロックのように、リズムを強化するためではなく、ギター、ベース、ストリングスがもたらす幻想性を強める役割を司る。リズムの強化にとどまらず、曲全体に漂う幻惑を湧き立てるような演出的な効果を担うのである。

 

 

近年では、テーマやモチーフそのものが大掛かりになり過ぎて、作品として収集がつかないというケースがあった。つまり音楽自体がベクトルとして外側に放射されていることは確かだったが、それがアンサンブルとして交わる点がなく、科学的な反応を起こすまでには至らなかった。要は、多人数の編成によるアンサンブルがタイトにまとまる瞬間が稀だったのである。確かに、音楽からは長大な大河劇のようなドラマを、アンサンブルを通じて構築しようというコンセプトを感じることが出来たが、それが上滑りに終わってしまうというか、分散的な音楽に終始し、着地点を見失っていたことがあった。しかし、今作では、未来志向の音楽性でなく、それとは対象的に原始的なロック性を中心に据えたことで、強固なアンサンブルの骨組みが出来上がり、そして、音楽そのものがイントロからアウトロまでスムーズに移行していく。 このアルバムは祝福的なギターロックで始まり、アンプリフターの特性を生かしたファズサウンドが気持ちを湧き立てる。近年の暗鬱な音楽性はどこへやら、晴れやかな序曲がファンファーレのように鳴り渡る。


その後、本作は、「BABY IN A THUNDERCLOUD」で瞑想的なギターロックの領域に差し掛かる。テープループを元に、ベース、ギターの演奏を織り交ぜ、テープサチュレーションを用いた荒削りなロックソングへと移行していく。ほとんど無調に近いギターはマーチングのようなドラムと合わさり、勇壮な雰囲気を帯びる。そして音響派に位置づけられる抽象的なギター、ストリングスのトレモロによって、徐々に曲のテンションが上昇し、バンドアンサンブルのエナジーが強まっていく。近年、鳴りを潜めていたアンサンブルの一体感や音の一つひとつの運びによって次の展開を呼び覚ますような流れが構築されていくのである。最終的には、ロックソングとしての余韻をただよわせながら。かなり古い型のメロトロンでこの曲は締めくくられる。

 

 

アルバムの中で深い瞑想性を呼び覚ますのが続く「RAINDROPS CAST IN LEAD」である。 イントロのテープループが続いた後、エレクトリックギターの演奏が続くが、久しぶりに聴く正真正銘のギター・ソロである。そして、90年代から長らくそうであったように、ミニマルミュージックの構成を踏襲し、それらをLed Zeppelinの音楽性と結びつける。この曲では、同じフレーズを辛抱強く重ね、ストリングの演奏を交え、お馴染みの渦巻くようなエネルギーを徐々に上昇させていく。また、音楽には、カシミール地方の民謡のエキゾチックな要素が含まれ、UKのロックバンドと同じように瞑想的な雰囲気や、エキゾチズムを湧き起こす。それはMdou Moctorのような古典的な民謡の要素である。これが果たしてカナダのウィニペグ族の音楽であるのかについては考察の余地が残されている。また、ミニマリズムを用い、バンドのアンサンブルは最もノイジーな瞬間を迎えるが、その後すぐさま静寂に立ち返り、スポークンワードのサンプリングが導入される。この手法は最近のポピュラーでは頻繁に使用されるが、彼らが90年代に一貫して試作してきた音楽は、2020年代にふさわしいものであったことが分かる。

 

 

前曲で最も激しい瞬間を迎えた後、続く「BROKEN SPIRES AT KAPITAL」、「PALE SPECTOR TAKE PHOTGRAPHERS」は連曲のような構成となっている。実際的に啓示的で黙示録的な音楽性が目くるめく様に展開される。弦楽器のアコースティックのドローンを用い、中東の戦争を予言的に暗示している。さながら西と東の対岸にある二つの勢力が折り重なり合うように、弦楽器のドローン奏法が音を歪ませ、強い軋轢をもたらし、そして世界の不協和音を生みだす。従来、音楽による社会的な暗喩がこれほど的確であったことはない。オーケストラ・ヒット(ドラのようなパーカッション)、テープループが主体の実験音楽であるが、コントラバス(ウッドベース)の強いスタッカートが打楽器の効果を発揮する時、独特の不気味さを帯びる。彼らの実験音楽のアプローチが遂に集大成を迎えたと言うことが出来るだろう。その後、再びバンドアンサンブルに戻るが、7分35秒以降のスリリングな展開は圧巻と言えるだろう。

 

アルバムは「GREY RUBBLE」でエンディングを迎える。ギターのトレモロで始まり、お馴染みの音響派としての方向性が選ばれる。Godspeed You! Black Emperorの音楽性は一貫して明るくはないが、示唆や暗示に富み、そして茫漠とした霧の向こうにある構造物を垣間見るかのようである。しかし、その暗鬱な音楽性の果てに浮かび上がる祝祭的な音を捉えられるかどうかが、バンドの音楽を好ましく思うかの瀬戸際となる。ロックバンドとしては最高峰に位置し、並み居る平均的なバンドとは格が違う。これは、彼らが、売れるか否かによらず、実験的な音楽性や革新性を見失なわなかったことに要因が求められる。そして何より、ギターという楽器が単に曲を演奏するためのツールではないことは、このアルバムを聴くと一目瞭然ではないだろうか。ギターとは啓示をもたらすための装置で、テクニックや演奏だけに終始するわけではない。そして、一般的に考えられているよりも未知の可能性に満ちた楽器であることが分かる。

 

 


95/100