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NYCのインディーロック・バンド、Frankie Cosmosが6作目のアルバム『Different Talking』の知らせを引っ提げて復帰を果たした。今作はサブ・ポップから6月27日に発売予定。またレーベルの説明によると、現時点のバンドのベストアルバムであるという。

 

断片的な記憶、思い出の場所、再解釈された感情が、明晰でハミングするような全体像に集約されている。年齢と時の流れをテーマにした骨太で世俗的なインディー・ロックでありながら、鋭く今を感じさせる。

 

フランキー・コスモスの現在のメンバーは、グレタ・クライン、アレックス・ベイリー、ケイティ・ヴォン・シュライヒャー、ヒューゴ・スタンレー。

 

クラインは唯一不変の存在だが、スタンリー、ベイリー、フォン・シュライヒャーは重要なコラボレーターだ。「グレタ・クライン」と「フランキー・コスモス」という名前を使い分けるのは正しくないだろう。クラインが主要なソングライターであることに変わりはなく、『ディファレント・トーキング』の楽曲はバンド全体がアレンジしているが、このアルバムは外部のスタジオ・プロデューサーを起用せず、ユニットがセルフ・トラッキングした初のアルバムである。

 

 

リード・シングル 「Vanity 」は、プロダクションとソングライティングに対する完璧主義者のアプローチを例証している。

 

 フォン・シュライヒャーはこの曲を「クソみたいなポップ・アンセム」と表現しているが、ポップ・アンセムにここまで細部にこだわった曲があるだろうか?

 

「Vanity」は余裕と忙しさを同時に感じさせる曲で、初期のフランキー・コスモスのテープを思い起こさせるようなミニマルな好奇心のパッセージの間に、セカンドアルバム『Strokes』のコーラスが花を咲かせている。

 

「ある晩、トンプキンス・スクエア・パークからサンセット・パークまで(約6.5マイル)歩きながら、宇宙に直接語りかけ、宇宙から配慮してもらえるよう嘆願しながら書き始めた」とクラインは言う。「大人と子供、政府と被統治者、惑星と草の葉の間の押し引きを包括しているように感じる」

 

ディファレント・トーキングのレコーディング中に編集され、フランキー・コスモスのメンバーであるグレタとアレックスが撮影した映像を使用した「Vanity」の公式ビデオをご覧ください。


「Vanity」


 

 

Frankie Cosmos  『Different Talking』


Label: SUB POP

Release: 2025年6月27日

 
Tracklist

1. Pressed Flower
2. One of Each
3. Against the Grain
4. Bitch Heart
5. Porcelain
6. One! Grey! Hair!
7. Vanity
8. Not Long
9. Margareta
10. Your Take On
11. High Five Handshake
12. You Become
13. Joyride
14. Tomorrow
15. Wonderland
16. Life Back
17. Pothole

 Mamalarky 『Hex Key』


Label: Epitaph

Release: 2025年4月11日

 

Listen/Stream

 

Review


ロサンゼルスのMamalarkyは米国のパンクの名門レーベル、Epitaphと契約を結んで『Hex Key』を発表した。カルテットはおよそ8年間、LA、オースティン、アトランタに散らばって活動してきた。いつも一緒にいるわけではないということ、それこそがママラーキーのプロジェクトを特別なものにしたのか。ママラーキーのドラマーを務めるディラン・ヒルは次のように述べています。「私達は互いに大きな信頼を持っている。しかし、プロフェッショナルな空気感はありません。文字通り、四人の友人がブラブラして、なにかの底にたどり着くという感じです」

 

結局、ママラーキーの音楽の魅力は、雑多性、氾濫性、そして、クロスオーバーにあると言えるでしょう。ネオソウル/フィーチャーソウル、そしてパンクのエッセンスを込めたインディーロック、サイケ、ローファイ、チルウェイブなどなど、ベイエリアらしい空気感に縁取られている。


かしこまりすぎず、開けたような感覚、それがMamalarkyの一番の魅力である。これは、1960~70年代のヒッピームーブメントやフラワームーブメントのリバイバルのようでもある。ロックソングとしては抽象的。ソウルとしては軽やか。そして、チェルウェイブやローファイとしては本格的……。ある意味では、ママラーキーは、これまでにありそうでなかった音楽に、アルバム全体を介して挑戦している。明らかにロンドンっぽくはないものの、新しいカルチャーを生み出そうという、ママラーキーの独自の精神を読み取ることが出来るはず。これらは、異なる地域から集まった秀逸なミュージシャンたちのインスタントな音楽の結晶とも言える。

 

アルバムのオープニングを飾る「Broken Bones」はママラーキーの挨拶代わりの一曲である。サイケデリックな風味を持つインディーロックソングで、ベネットのボーカルは明らかにこの曲に新鮮なテイストを付け加えている。ハードロック、ポップ、プログレッシブ・ロック、いずれでもない宇宙的な壮大な感覚を持つボーカルを提供し、バンドサウンドの中に上手く溶け込んでいる。必ずしも歌をうたうというのではなく、ベネットのボーカルはごく稀に器楽的な役割を果たすことがあり、ジャズのスキャットをロック的に解釈した「ラララ〜」などのボーカルは、このアルバム全体のリスニングをする際に強烈な印象を残すかもしれない。これはママラーキーが音楽を難しく考えすぎず、ゆるく構えるというスタンスを持つことの証立てとなる。


しかし、アンサンブルとしては、プロフェッショナルで、高い演奏力を誇る。専門的ではないからこそ、インスタントなスタジオのジャムなどで高いレベルを追求してきたことが分かる。というよりも、楽しんでいたら、いつの間にか高いレベルに到達していたということかもしれません。これらはバンドとしての存在感を示すにとどまらず、ライブアクトとしても一定のエフェクトを及ぼしそうな雰囲気が出ている。つまり、バンドとしてのスター性は十分と言える。

 

''インディーロックバンド''と単に紹介するのは、Mamalarkyに礼を失するかもしれない。特に、このバンドは、Funkadelicやジョージ・クリントン界隈のファンク/ソウルの音楽性が強まることがある。序盤に収録されている「Won’t Give Up」、そして後半に収録されているメロウでアーバンな雰囲気を持つソウルバラード「Take Me」などは、アルバムの隠れたハイライトとなりえる。


そんな中で、チルウェイブやダンス・ミュージックの影響を絡めたスペシャルな音楽性も目立つ。そして、ロックソングという全体的な枠組みの中で、西海岸の幻想的で魅力的な光景を思い起こさせる曲も収録されている。心地よいヨットロック風のギターで始まる「The Quiet」は、その好例であり、テキサスのKhruangbin(クルアンビン)の音楽性をわずかに彷彿とさせる。しかし、このバンドの場合は、アフロソウルの要素は少し薄く、サザンソウルの渋さが漂う。これが近年のロックバンドとは異なる、''ビンテージに根ざしたモダン''という新しい要素を示唆するのである。もちろん、かっこよさや渋さという側面でも音楽全体に奥行きを与えている。

 

サイケデリックな要素が強まるタイトル曲「Hex Key」を聴くと、このアルバムの楽曲の多くはママラーキーの一面が表れ出たものに過ぎないと思わせる。ドラムに深いフィルターをかけ、ダンスミュージック的なサウンド処理を施し、その中でハイパーポップのようなトリッピーな音楽が展開される。 その中で、ボーカルは、ドリームポップに近づいたり、バロックポップに近づいたりと、まるで海の中を漂うかのように、音楽性を変貌させていく。例えば、海を泳いでいると、地上から降り注ぐ太陽によって海の中の景色が変わったりする。ママラーキーの音楽は、そういった類のもので、決め打ちをせず、バリエーションに富んだ音楽を展開させていく。


ベッドルームポップ風のインディーロックがお好きなリスナーには「Anhedonia」がおすすめ。軽妙なインディーロックソングを本曲では堪能することが出来る。しかし、先にも行ったようにソウルやファンクの要素が強い、この曲では特に、アフロソウルを反映させ、奥行きのある音楽に仕上げている。ビンテージレコードのようなアナログライクなプロデュース方法によって。

 

先行シングル「#1 Best of All Time」はママラーキーの魅力を体現している。ローファイ、チルウェイブといったベイエリアらしい音楽性に加え、 ママラーキーとしては珍しくドライブ感のあるパンキッシュなサウンドを展開させる。ミュージックビデオもユニーク。ロサンゼルスのストリートをオープンカーでバンドメンバーが疾走するという構成である。おそらく、現在、最も新しい西海岸の音楽を確立しようとしているのは、このバンドなのではないか。そのほか、アルバムの終盤もかなり聴き応えがあり、ママラーキーのポテンシャルの高さを伺わせる。

 

 

 「#1 Best of All Time」

 

 

 

「Take Me」は、4/8のバロックポップを下地にし、ソウル/ファンクバンドの性質が強まる。ボーカルも本格派のソウルで、聞き入らせる何かがあるかもしれない。ベースのヌーラ・カーンの演奏はファンクの跳ねるようなリズムをもたらし、そして、その上にローズ・ピアノの同音反復が続く。ドラムのしなやかな演奏もバッチリで、全体的なカルテットの演奏が傑出しているため、ボーカルが安心して遊び心のある歌唱を披露出来る。この曲ではインスタントな録音のバンドでは体験しえない、バンドとしての演奏の深さを堪能することが出来るはずである。

 

 

アンサンブルとして変拍子を組み込む場合があるのに注目したい。「MF」はフレーズごとに拍子を変え、カクカクとしたプログレッシヴなロックを提示している。そして、この曲の面白さは、ミルフィーユのような構造性にある。一つの音楽を捉えると、その向こうに別の音楽がまた一つ現れるということ。全体的にはサイケなプログレということも出来るでしょうが、曲のイメージとしてはドリーミーでファンシーな感覚に満ちている。こういった''体感的な音楽''という論理性だけで語り尽くせぬママラーキーの特性を掴むのには最適なトラックとなるかもしれません。


続いて「Blow Up」は、Deerhoofの最初期を想起させるローファイなインディーロック性に縁取られている。拡張器を思わせるボーカルのエフェクトをかけたりと、プロデュースの側面でもユニークさが際立ち、全体的な音楽の構造は入り組んでいるが、その中にはライブセッションからもたらされるルーズな感覚やラフな感覚に満ち溢れている。これらの''かっちりしすぎない''という要素はロックソングの醍醐味。70年代のロックにはあった魅力、それをママラーキーはきわめて感覚的に習得し、それらを現代のレコーディングで再現している。非常にお見事。

 

 

アルバムの後半では、インディーロックやプログレッシヴなロックの影に隠れていた本格派のビンテージソウルバンドとしての一面を見せる。「Blush」、「Nothing Lasts Forever」はロンドンのソウルやリトル・ドラゴンのような北欧のフューチャーソウルのバンドの完成度に肩を並べている。また、後者の楽曲は、Clairoの最新アルバムの音楽的なアプローチと重複する部分もある。特に、ファンクの文脈の中で繰り広げられるワウのギターが凄まじい。これらはジミ・ヘンドリックスが洗練された新しいモダンなサイケロックの一つの形とも言えるかもしれません。


ポップソングと80年代のディスコソウルを結びつけた「Feels So Good」もハイレベルに達している。ジョージ・クリントン周辺のバンド、あるいはカーティス・メイフィールドのバンドのようなコアなグルーヴを体感することが可能である。ママラーキーのアンサンブルの能力は、圧倒的に高いレベルにあるが、それらはすべて感覚的な表現としてバンドの演奏に定着している。

 

頭で考えてそれをやるというよりも、演奏を通じて自然に新しいものが溢れ出てくるというのは、彼らがインスピレーションを元にして音楽を制作している印象である。「バンドメンバーの目をしっかりと見つめて、次のテイクを信じられないものにしよう」というリヴィ・ベネットの言葉は、「Feel So Good」に明確に反映されている。この曲では、ボーカルの持つメロディーの良さに加えて、バンドアンサンブルとしての最も刺激的な瞬間を味わうことが出来ます。

 

レコーディングを体験のように捉えているのが『Hex Key』の音楽をアグレッシヴにしている理由なのでしょう。たぶん聴くたびに印象が様変わりするようなユニークな風味を感じ取ることが出来るはず。本作の最後を飾る「Here's Everything」も海岸のムードたっぷり。ヨットロックを彷彿とさせるディレイとリバーヴをてきめんにきかせたイントロで始まり、サイケソウル風の音楽へ変遷していく。と、同時に、次のアルバムに向けた伏線を残しているような気がします。”含みがある”といえば、少し誇張になるかもしれませんが、次の作品にも期待が持てますね。 



 

88/100

 

 

 「Nothing Lasts Forever」

Black Country, New Road 『Forver Howlong』 



Label: Ninja Tune

Release: 2025年4月4日


Review

 

ファーストアルバム『For The First Time』では気鋭のポストロック・バンドとして、続く『Ants From Up There』では、ライヒやグラスのミニマリズムを取り入れたロックバンドとして発展を遂げてきたロンドンのウィンドミルから登場したBC,NR(ブラック・カントリー、ニューロード)。


マーキュリー賞へのノミネート、それから、UKチャート三位にランクインするなど高評価を獲得し、さらには、フジ・ロック、グリーンマン、プリマヴェーラを始めとする世界的なフェスティバルでライブ・バンドとしての実力を磨いてきた。すでにライブ・パフォーマンスの側面では世界的な実力を持つバンドという前提を踏まえ、以下のレビューをお読みいただければと思います。

 

メンバーチェンジを経て制作された三作目。フジロックでの新曲をテストしたりというように、バンドは作品ごとに音楽性を変化させてきた。ロンドンではポストロック的な若手バンドが多く登場しており、BC,NRは視覚芸術を意図したパフォーミング・アーツのようなアルバムを制作している。また、ブッシュホールでの三日三晩の即興的な演奏の経験にも表れている通り、即興的なアルバムが誕生したと言えるかもしれない。メンバーが話している通り、スタジオ・アルバムにとどまらない、精細感を持つ演劇的な音楽がアルバムの収録曲の随所に登場している。音楽的に見ると、三作目のアルバムではバロックポップ、フォーク、ジャズバンドの性質が強められた。これらが実際のライブパフォーマンスでどのような効果を発揮するのかがとても楽しみ。

 

今回、バンドはミニマリズムを回避し、ジョン・アダムスの言葉を借りれば、ミニマリズムに飽きたミニマリスト、としての表情を伺わせる。しかし、全般的にはクラシック音楽の影響もあり、アルバムの冒頭を飾る「Besties」ではチェンバロの演奏を交え、バロック音楽を入り口として即興的なジャズバンドのような音楽性へと発展していく。ボーカルが入ると、バロックポップの性質が強くなり、いわばメロディアスな楽曲の表情が強まる。一曲目「Besties」は新しい音楽性が上手く花開いた瞬間である。


一方で、ビートルズの中期以降のアートロックを現代のバンドとして受け継いでいくべきかを探求する「The Big Spin」が続く。「ラバーソウル」の時代のサイケ性もあるが、何より、ピアノとサックスがドラムの演奏に溶け込み、バンドアンサンブルとして聞き所が満載である。新しいボーカリスト、メイ・カーショーの歌声は難解なストラクチャーを持つ楽曲の中にほっと息をつかせる癒やしやポピュラー性を付与する。


そういったバンドアンサンブルを巧緻に統率しているのがドラムである。現在のバンドの(隠れた)司令塔はドラムなのではないか、とすら思わせることもある。散漫になりがちな音楽性も、巧みなロール捌きによって楽曲のフレーズにセクションや規律を設けている。上手く休符を駆使すれば最高だったが、音楽性が持続的な印象が強いのは好き嫌いが分かれる点かもしれない。休符が少ないので、音楽そのものが間延びしてしまうことがあるのは少し残念な点だった。

 

そんな中で、これまでのBC,NRとは異なり、ポピュラー性やフォークバンドとしての性質が強まるときがある。そして、従来のバンドにはなかった要素、これこそ彼等の今後の強みとなっていくのでは。「Socks」では60〜70年代のバロックポップの影響をもとにして、心地よいクラシカルなポピュラーを書いている。メロディーの良さという側面がややアトモスフェリックの領域にとどまっているが、この曲はアルバムを聴くリスナーにとってささやかな楽しみとなるに違いない。そしてこの曲の場合、賛美歌、演劇的なセリフを込めた断片的なモノローグといったミュージカルの領域にある音楽も登場する。 これらは新しい「ポップオペラ」の台頭を印象づける。


次いで、クイーンのフレイディ・マーキュリーのボヘミアン的な音楽性を受け継いだ曲が続いている。「Salem Sisters」は「ボヘミアン・ラプソディー」の系譜にあるピアノのイントロで始まり、その後、アートポップやジャズ的なイディオムを交えた前衛的な音楽が続いている。一曲目と同じように、チェンバロの演奏も登場するという点ではジャズとクラシック、そしてポピュラーの中間域に属する。ボーカルは優雅な雰囲気があり素晴らしく、この曲でもドラムの華麗なロールが楽曲に巧みな変化や抑揚の起伏を与えている。いわば、BC,NRの目指す即興的な音楽が上手く昇華された瞬間を捉えられる。そして曲の後半部にかけて、ボーカルはミュージカルに傾倒していく。いわば、このアルバムの中核を担うシアトリカルな音楽の印象が一番強まる瞬間だ。

 

 アルバムの中盤では中性的なアイルランド民謡に根ざしたフォーク/カントリーミュージック「Two Horses」、「Mary」がアルバムの持つ世界観を徐々に拡張させていく。そして同じタイプの曲でも調理方法が異なり、前者では変拍子を交えたプログレッシブな要素、さらに後者では、ジャズやメディエーションのニュアンスが色濃い。また、賛美歌やクワイアのような聴き方も出来るかもしれない。すくなくとも、それぞれ違う聴き方や楽しみ方が出来るはずだ。

 

ブラック・カントリー、ニュー・ロードの掲げる新しい音楽が日の目を見た瞬間が「Happy Birthday」となる。印象論としては、ビートルズの「サージェント・ペパーズ・ロンリー・クラブ・ハーツ・バンド」のミュージカルの系譜にある音楽を踏襲し、それらをクイーン的にならしめたものである。この曲ではボーカルはもちろん、サックス、ドラム、ピアノの演奏がとても生き生きとして聞こえる。また、チェンバロの導入など遊び心のある演奏もこの曲に個性的な印象を付け加える。しかし、やはり、このバンドの曲が最も輝かしい印象を放つのは、ロック的な性質が強まる瞬間であると言える。無論、調性の転回など、音楽としてハイレベルなピアノの旋律進行もフレーズの合間に導入されることもあり、動きがあって面白く、さらに音楽的にも無限のひらめきに満ちているが、音符の配置が忙しないというか、手狭な印象があるのが唯一の難点に挙げられるかもしれない。その反面、一分後半の箇所のように、ダイナミックスが感じられる瞬間がバンドとして溌剌としたイメージを覚えさせる。 曲の後半では、カーショーの伸びのあるビブラートがこの曲に美麗な印象を添える。音楽的な枠組みに囚われないというのは、バンドの現在の美点であり、今後さらに磨きがかけられていくのではないかと推測される。

 

ロック寄りの印象を持つ瞬間もあるが、終盤では古楽やバロックの要素が強まり、さらにアルバムの序盤でも示されたフォークバンドとしての性質が強められる。「For The Cold Country」では、ヴィヴァルディが使用した古楽のフルートが登場し、スコットランドやアイルランド、ないしは、古楽の要素が強まる。結局のところ、これは、JSバッハやショパン、ハイドンのようなクラシック音楽の大家がイギリスの文化と密接に関わっていたことを思い出させる。特にショパンに関しては、フランス時代の最晩年において結核で死去する直前、スコットランドに滞在し、転地療養を行った。彼の葬式の費用を肩代わりしたのはスコットランドの貴族である。ということで、イギリス圏の国々は意外とクラシック音楽と歴史的に深い関わりを持ってきたのだった。

 

この曲は、スコットランドの古城や牧歌的な風景のサウンドスケープを呼びさます。そして実際に、そういった異国の土地に連れて行くような音楽的な換気力に満ちている。


タイトル曲「Forver Howlong」に関してもケルト民謡の要素が色濃い。これらの中世的な音楽性は、今後のブラック・カントリー、ニューロードの強みとなっていくかもしれない。かなり複雑で入り組んだアルバムであるため、一度聴いただけではその真価はわからないかもしれない。ただ、それゆえに、聴く時のたのしみも増えてくると思う。


今回は''バンド''という言葉を使用させていただいたが、BC, NRは、ひとつの共通概念を共有するグループーーコレクティヴの性質が強い。バンド/コレクティヴとして純粋な音楽性を感じさせたのがアルバムのクローズを飾る「Goodbye」だった。一貫して、ポスト・ブリットポップ的な音楽を避けてきたバンドが珍しくそれに類する音楽を選んでいる。ただ、それはやはり、フォークバンドとしての印象が一際強いと付言しておく必要があるかもしれない。今後どうなるのかが全くわからないのがこのバンドの魅力。潜在的な能力は未知数である。

 

 

 

84/100

 

 

「Goodbye(Don't Tell Me)」

  Momma 『Welcome to My Blue Sky』

 


 

Label: Polyvinyle/ Lucky Number

Release: 2025年4月4日

 

Listen/ Stream

 

Review

 

Mommaは今をときめくインディーロックバンドであるが、同時に個性的なキャラクターを擁する。ワインガルテンとフリードマンのセカンドトップのバンドとして、ベース/プロデューサーのアーロン・コバヤシ・リッチを擁するセルフプロデュースのバンドとしての二つの表情を併せ持つ。コバヤシ・リッチはMommaだけにとどまらず、他のバンドのプロデューサーとしても引っ張りだこである。現在のオルタナティヴロックやパンクを象徴する秀逸なエンジニアである。

 

2022年に発表されたファーストアルバム『Household Name」は好評を得た。Pitchfork、NME、NYLONといったメディアから大きな賞賛を受け、アメリカ国内での気鋭のロックバンドとしての不動の地位を獲得した。その後、四人組はコーチェラ・フェスティバルなどを中心とする、ツアー生活に明け暮れた。その暮らしの中で、人間的にも、バンドとしても成長を遂げてきた。ファーストアルバムでは、ロックスターに憧れるMommaの姿をとらえることができたが、今や彼等は理想的なバンドに近づいている。ベテランのロックバンド、Weezer、Death Cab For CutieとのライブツアーはMommaの音楽に対する意識をプロフェッショナルに変化させたのだった。

 

本拠地のブルックリンのスタジオGとロサンゼルスのワサッチスタジオの二箇所で制作された『Welcome To My Blue Sky』はMommaにとってシンボリックな作品となりそうだ。目を惹くアルバムタイトル『Welcome To Blue Sky』はツアー中に彼等が見たガソリンスタンドの看板に因んでいる。アルバムの収録曲の多くはアコースティックギターで書かれ、ソングライティングは寝室で始まったが、その後、コバヤシ・リッチのところへ音源が持ち込まれ、楽曲に磨きがかけられた。先行シングルとして公開された「I Want You(Fever)」、「Ohio All The Time」、「Rodeo」などのハイライトを聴けば、バンドの音楽性が大きく洗練されたことを痛感するはずだ。

 

ファーストアルバムではベッドルームポップに触発されつつも、グランジやオルトロックを受け継ぐバンドとしての性質が強かった。続いて、セカンドアルバムでは、タイトルからも分かる通り、エモへの傾倒が強くなっている。「I Want You(Fever)」はBreedersを彷彿とさせるサイケ性があるが、オルトロックとしての轟音性を活かしつつも、それほどマニアックにはならず、バンガーの要素が維持されている。これらはアコースティックギターで曲が書かれたというのが大きく、メロディーの良さやファンに歌ってもらうための''キャッチーなボーカル''が首座を占めているのである。仮にテープ・ディレイのような複雑なサウンド加工があろうとも、それほどマニアックにならず、一定のポピュラー性(歌いやすさ)が担保されている。その理由はマニアックなサウンド処理が部分的に示されるに留まること、そして、バンドの役割が明確であること。この二点がバンガー的なロックソングを生み出すための布石となった。ボーカルがメインであり、ギターやシンセ、ドラムなどの演奏はあくまで「補佐的な役割」に留められている。

 

これはワインガルテンとフリードマンが自由奔放な音楽性や表現力を発揮する懐深さを他のメンバーが許容しているから。それが全体的なバンドの自由で溌剌としたイメージを強調付ける。たぶんこれは、ファーストアルバムにはそれほどなかった要素である。がっつりと作り込んでいた前作よりロックソングのクオリティーは上がっているが、同時にバンドをやり始めた頃の自由な熱狂性を発揮することを、バンド全体、コバヤシ・リッチのプロデュースは許容している。 そしてこれがロックソングとしての開けた感覚と自由なイメージを強調するのである。

 

セカンドアルバム『Welcome To My Blue Sky』において、バンドはポピュラーソングとロックソングの中間に重点を置いている。おそらく、Mommaはもっとマニアックで個性的な曲を書くことも出来ると思うが、オルタネイトな要素を極力削ぎ落とし、ロックソングの核心を示そうとする。そして、これは彼らが必ずしもオルタネイトな領域にとどまらず、上記のバンドのようなメインストリームに位置する商業的なロックバンドを志していることの証ともなりえるのである。

 

バンドというのは結局、どの方向を向いているのか、それらの意思疎通がメンバー内で共有出来ているかという点が大切かと思う。彼等が実際にそういったことを話し合ったかどうかは定かではないものの、多忙なツアースケジュールの中で、なんとなく感じ取っていったのかもしれない。その中には、ツアー中に起きた''不貞''が打ち明けられる場合があり、「Rodeo」で聴くことが出来る。音楽からは、メンバー一人ひとりが器楽的な役割を理解していて、そして彼等が持つ個性をどんなふうに発揮すれば理想的な音楽に近づくのか、そういった試行錯誤の形跡が捉えられる。


一般的には、試行錯誤の形跡というのは複雑なサウンドや構成、そして脚色的なミックスなどに現れることが多いが、Mommaの場合は、それらのプラスアルファの要素ではなくて、マイナスーー引き算、簡略化ーーの要素が強調されている。これが最終的に軽妙なサウンドを生み出し、音楽にさほど詳しくないリスナーを取り込むパワーを持つようになる、というわけである。Mommaの音楽は、ミュージシャンズ・ミュージシャンのためにあるわけではなく、それほど音楽に詳しくない、一般的なロックファンが渇望するパッションやエナジーを提供するのである。

 

 

これが本作のタイトルにあるように、Mommaの掲げる独自の世界「ブルースカイ」への招待状となる。その中には先にも述べたように、90年代以降のオルタナティヴロック、エモ、シンセポップなどの音楽が引きも切らず登場するが、全般的に、その音楽のディレクションの意図は明確である。


わかりやすさ、つかみやすさ、ビートやグルーヴの乗りやすさ、この三点であり、かなり体感的なものである。それは以降の複雑なポストロックやポストパンクに対するカウンターの位置取りであり、頭でっかちなロック・バンドとは異なり、ロックそのものの楽しさ、雄大さ、そして、心を躍らせる感じ、さらには、センチメンタルなエモーションがめくるめくさまに展開される。音楽的な方向性が明瞭であるからこそ、幅広く多彩なアプローチが生きてくる、という実例を示す。これらは、数しれないライブツアーの生活からしか汲み出し得なかったロックソングの核心でもあるのだ。

 

 

 

上記の先行シングルのようなバンガーの性質を持つロックソングと鋭いコントラストを描くのが、内省的なエモの領域に属するセンチメンタルなロックソングの数々である。そして、これらがロックアルバムとして聴いた上で、作品全体の奥行きや深さを作り上げている。「How To Breath」、「Bottle Blonde」では、それぞれ異なる音楽性がフィーチャーされ、前者ではThird Eye Blindのような、2000年代以降のオルタナティヴロック、後者では、シンセ・ポップをベースにしたベッドルームポップのキャラクターを強調している。 そしてどちらの曲に関しても、ボーカルのメロディーの良さやドリームポップに近い夢想的な感覚を発露させている。これらに多忙なツアー生活の中の現実性とは対極に位置する幻想性を読み解くことも不可能ではない。

 

 

また、ライブツアーにまつわる音楽性は従来とはカラーの異なる音楽性と結びつけられる場合がある。例えば、「Ohio All The Time」は、Placeboを彷彿とさせる音楽性に縁取られている。ソングライティングの側面で大きく成長を遂げたのが、本作のクローズに収録されている、子供時代の記憶を振り返りながら、自分の姿が今とはどれほど変わったかを探る「My Old Street」である。他の曲と同じく、歌える音楽性を意識しつつ、スケールの大きなロックソングを書きあげている。これらはMommaがいよいよアリーナクラスのロックバンドへのチケットを手にしつつあることを印象付ける。

 

 

85/100

 

 

Best Track-「How To Breath」

 girlpuppy 『Sweetness』

 

Label: Captured Tracks

Release:2025年3月28日

 

Review

 

キャプチャード・トラックスと新契約を結んで発表されたベッカ・ハーヴェイによる新作アルバム『Sweetness』はインディーロックの純粋な魅力に溢れている。ガールパピーは記憶に間違いがなければ、従来はインディーポップ寄りのソングライティングを特色としていたシンガーであったが、今回のアルバムではロック的なアプローチを選んでいる。むしろオルタネイトな要素を削ぎ落として、聴きやすいロックソングとは何かという点を追求した作品となっている。バンガー的な曲も幾つか収録されているが、失恋という全体的なテーマからも分かる通り、エモーショナルで切ない雰囲気を帯びたアンニュイなロックソングが特徴のアルバムである。このアルバムでは傷ついた心を癒やすような活力に満ち溢れたロックソングを楽しめるはず。

 

アルバムはシンセの壮大なインスト曲「Intro」で始まり、ソングライターとしての成長を印象付ける「I Just Do」が続く。心地よい8ビートにインディーロックのラフなバッキング・ギター、そしてベッカ・ハーヴェイの内省的なボーカルが徐々にドライブ感を帯び、サビの箇所で轟音性を増す。そしてそれはセンチメンタルな雰囲気がありながらも、若い年代のシンガーらしい純粋な感覚を表現していて、聴いていて何か爽快感やカタルシスをもたらす瞬間がある。このアルバムでは痛快な轟音のインディーロックが強い印象をはなつ。レーベルの契約と合わせて発表された「Champ」はベタであることを恐れず、ロックソングの本来の輝きを放つ。シューゲイズの響きとグランジの重さがこの曲のロック的な魅力を強調している。使い古されたと思えるようなロックの手法もベッカ・ハーヴェイの手にかかると、新鮮な音楽に生まれ変わる。「Champ」はギターソロが力強い印象を放ち、雄大なイメージを呼び覚ます瞬間がある。

 

従来のインディーポップ風の曲も収録されている。「In My Eyes」はドリーム・ポップ風の曲であるが、ハーヴェイのボーカルはこの曲に切ないエバーグリーンな感覚を添えている。過去の数年間を振り返るようなポップソングで憂いや悲しみをアンニュイなポップソングとして昇華している。その後、このアルバムの音楽はやや夢想的になっていき、同レーベルのデュオ、Widowspeakにも似たセンチメンタルなインディーロックソングへと傾倒していく。そしてセンチメンタルであることを恐れないという点にソングライターとしての力強さが宿っている。「Windows」、「Since April」はそれほどオルタナティヴロックファンにも詳しくないリスナーにも琴線に触れるものがあるに違いない。それはソングライターとして感覚的なもの、一般的には見えにくいエモーションを歌で表現することにガールパピーは長けているからである。

 

本作の音楽はゆっくりと歩きだしかと思うと、徐々に走りが軽快になっていき、クライマックスでそれらが軽妙な感覚に変わる瞬間がある。それらは過去の傷ついた心を癒やすような優しさに満ちている。人間としての成長が断片的に描かれ、それらがスナップショットのように音楽に収められている。シンガーとしてはそれらの過去を振り返りつつも、別れを爽やかに告げるという瞬間が織り交ぜられている。それはまた過去に浸らず、次の未来へとあるき出したということだろう。終盤の収録曲に聞かせる部分が多い。「Beaches」はアメリカーナやカントリー/フォークをポップの側面から解釈し、聴きやすく、つかみやすい曲である。特にシンパシーを超えたエンパシーという感覚が体現されるのが「I Was Her Too」だ。サッカー・マミー、MOMMAといったトレンドのロックシンガーの音楽をわずかに彷彿とさせる。その一方で、エモに近い雰囲気が立ち込め、それらがドラムやシンセストリングスの演奏により、ドラマティックな空気感を帯びる。そして、なかなか表しがたい内在的な感情性をロックソングに体現させている。この曲はガールパピーの象徴的な一曲が生み出されたと見ても違和感がないように思える。

 

ガールパピーは、TilTokなどのカルチャーの波に乗り、それらをベッドルームポップの系譜にある軽快なロックソングに落とし込んでいる。しかし、その中には個性的な雰囲気が漂い、それが『Sweetness』の潜在的な魅力となっている。それほど肩ひじを張らず気楽に楽しめると思いますが、一方でポストパンクからの影響も読み解ける。例えば、「For You Two」は象徴的な一曲で、ドライブ感というパンクの要素が聴きやすく甘いポップセンスと融合している。これらはパワーポップとまではいかないものの、 それに似た甘く切ない雰囲気に満ちている。言葉で具象化することの難しい感覚を表すのがロックソングの醍醐味であるとすれば、『Sweetness』はその一端を味わえる。そして実際なんらかのカタルシスをもたらすはず。クローズ「I Think Did」はアコースティックギターをメインにした開放的なフォークポップ。ロックソングの音楽性が瞬間的なものであるがゆえか、アルバムを聴いた後に切ない余韻を残す。

 

 

 

 

80/100 

 

 

Best Track-「For You Two」

  Frenchie 『Frenchie』

Label: Frenchie

Release: 2025年3月28日

 

Review

 

 

80年代くらいに”アーバン・コンテンポラリー”というジャンルがアメリカを中心に盛り上がった。 日本ではブラック・コンテンポラリーという名称で親しまれていた。いわゆるクインシー・ジョーンズやマーヴィン、スティーヴィーといったアーティストを中心に新感覚派のソウルミュージックが登場したのである。これらはきらびやかなソウルという音楽性をもって従来のブルージーなソウルミュージックに華やかな印象を添えたのだった。以降、このジャンルはイギリスにも伝播し、ポピュラーミュージックと組み合わせる動きが出てきた。Tina Turner,Billy Ocean,Heatwaveなどがその筆頭格といえるが、正直なところを言えば、米国のアーティストに比べれば小粒な感じがあった。いまだこの音楽は完全には洗練されていなかったのである。

 

しかし、最近、UKソウルはこの80年代のプロデュース的なソウルミュージックを受け継いで、再びリバイバルの運動が発生している。そして、80年代の米国のソウルと比べても引けを取らないシンガーが台頭してきている。例えば、JUNGLEはもちろん、サム・ヘンショー、NAO、ファビアーナ・パラディーノなどがいる。エズラ・コレクティヴの最新アルバムにもコラボレーターとして参加したヤズミン・レイシーはレゲエやカリブ音楽の方向からダンスミュージックを再編するシンガーである。これらがソウル・リバイバルのような二次的なムーブメントに結びつくかは不透明だが、米国ではラディカルなラップが目立つ中、一定数リスナーの需要がありそうだ。これらのグループはソウルミュージックの歌唱とポップソングのセンスを融合した存在である。ただ、これらは90年代の日本のミュージック・シーンには不可欠な音楽だった。

 

 

フレンチーはその名の通り、フランス系のシンガーで、移民が多いロンドンの世相を反映している。移民は少なくとも、従来の文化観に新しい風を呼び込む存在なのであり、音楽的には、そういった新しいグループを尊重することは、なかなか避けられないだろう。フレンチーは、ネイキッド・アイズというグループで元々活動していたらしく、その後ソロシンガーに転向している。その歌声を聴けば、グループのシンガーではもったいないというイメージを抱くことだろう。セルフタイトルを冠した「Frenchie」は、UKソウルのリバイバルを象徴付ける作品で、NAOの作風にも近い雰囲気があり、フレンチーの場合はよりメロウでうっとりとした感覚に満ちている。おそらくダンスミュージックにも精通しているフレンチーは、今回のアルバムにおいて、複数のバンドメンバーの協働し、魅惑的なアーバン・コンテンポラリーの世界を見事に構築した。鍵盤奏者のルーク・スミス、KOKOROKOのドラマー、アヨ・サラウ、ホーネン・フォード、フライデー・トゥーレイのバッキングボーカル、そしてアーロン・テイラー、アレックス・メイデュー、クリス・ハイソン・ジャス・カイザーが楽器とプロデュースで参加した。

 

80年代の米国のソウルミュージックは、多くが70年代のファンクグループからの影響を元に成立しており、ジャクソン5などを筆頭に大活躍した。また、専門家によると、プリンスのようなエキセントリックなシンガーの音楽でさえ、その基盤となるのはファンクだったということであり、結局、ヒップホップが存在感を放つ90年代〜00年代のブラックミュージックの前夜はファンクの要素が欠かせなかったのである。


さすがにブルースやドゥワップは古典的過ぎるとしても、James Brownのようなファンクはいまだ現代的に聞こえることがある。それはソウル/ヒップホップという音楽の成立にファンクの要素が不可欠だからである。そして、UKソウルの多くの歌手が曲りなりにもファンクのイディオムを上手く吸収している。だからダンスミュージックのビート/リズムに乗せたとき、軽快に聞こえ、メロウな歌と結びついたとき、心地よさをもたらす。もし、これらのファンクの要素を完全に外すと、それらのソウルはニュートラルな感覚に近づき、ポピュラーに傾倒していくのである。これらは音楽的には親しみやすいけれど、深みに欠けるという印象を与えることがある。

 

 

ただ、ファンクを吸収したソウルというだけでは、米国の70年代や80年代のソウルミュージックの二番煎じになってしまう。そこで、ロンドンの移民性という個性的な文化観が生きてくる。例えば、このデビューアルバムは、本格派としてのソウルの雰囲気が通底しているが、一方で、ワールドミュージックの要素が満載である。そしてこれがR&Bのイディオムを懐古的にせず、おしゃれな感覚やエスプリの要素を付け加えている。特に、ボサノヴァを意識したリゾート的なアコースティックギター、さらにはフレンチポップ(イエイエ)の系譜にあるフランス語のポップスが登場したりもする。これらのワールド・ミュージックの要素はおそらく、音楽が閉塞したり、陳腐になりかけたとき、偉大な力を発揮するようになるのではないかと思う。


そして、それらは、とりも直さず、現代の世界情勢に分かちがたく結びついている。いままでの音楽の世界は、商業的に強い地域で繁栄する場合が多かったが、現今では多極主義の情勢の影響を受け、固有の地域の音楽がエキゾ(異国的)ではなくなり、ワールドスタンダードに変化した。そして、これはグローバリズムや自由貿易といった政策がもたらした功績の一つでもあったろう。もちろん、EU圏内をパスポートなしで自由な旅行ができるという点も功を奏した。旅行や貿易は、人やモノだけではなく、''文化を運搬する''という点を念頭に置かねばならない。また、音楽という形態は、他の地域の人が固有の音楽や民謡を発見することで、従来の音楽的なアプローチにささやかな変化をもたらしてきた。これは他のどの媒体よりも顕著な点である。

 

フレンチーのデビューアルバムは、そういった「自由貿易の時代の産物」である。「Can I Lean On You」ではUKソウルを下地にして、メロウなエレクトリック・ピアノがストリングスやリズムの輪郭を際立たせるドラム、そしてフレンチーのボーカル、そして同じように美麗なコーラスが溶け合い、重厚なソウルミュージックが作り上げられる。近年、米国のソウルはディープになりがちだが、フレンチーの音楽はどこまでも軽快でソフト。しかし、ニュートラルな音楽には陥らない。そして、それは何より、メロディーやリズムのセンスの良さだけではなく、ファンクの要素がポピュラーソングと上手く干渉し、ハイセンスなソウルミュージックが作り上げられていく。この曲はガール・レイのようなイギリスのバンド形式のソウルの録音の影響が含まれ、ソロシンガーとしての性質を保ちながら、バンドの音楽にもなっているのである。

 

近年、ヒップホップが流行ると、ファンクの持ち味である華麗な調性の転回が少なくなってしまった。しかし、「Searching」は、バンドアンサンブルのグルーブと華麗な転調がセンスの良い音楽性を作り上げる。そしてさらにStylisticsなどに象徴されるようなポピュラー寄りのコーラスグループの音楽性を踏まえ、ソウルミュージックの醍醐味とはなにかを探っている。懐かしさがあるが、やはりヒップホップやファンクを意識したグルーヴィーなリズムがハネるような感覚をもたらし、曲を聴きやすくしている。この曲はドライブのお供にも最適なトラックである。同じようにヒップホップの軽快なリズムを活用した「Love Reservior」は、ニルファー・ヤンヤの書くソウルに近い雰囲気がある。ドライブ感のあるリズムを反復的に続け、そこに心地よいさらっとした歌を添える。スポークンワードと歌の中間にあるニュアンスのような形式で、わざと音程(ピッチ)をぼかすという現代的で高度な歌唱法が巧みに取り入れられている。

 

本作の中盤の二曲はソウルバラードとして聞き入らせる。「Werewolf」はオルガンの音色を用いたゴスペルの雰囲気を印象付けている。三拍目を強調する変則的なリズムを用い、心を和ませるような巧みなバラードを書き上げている。メインボーカルとコーラスと伴奏という形の王道の作風に、ジャズ風のピアノのアレンジメントを配し、甘美な趣のあるソウルミュージックが流れていく。さらに失恋をテーマにした歌詞がこれらの曲に切なさを添えている。しかし、曲は悲しくなりすぎず、ジャズ風のピアノが曲にハリのような感覚を与えている。続いて、アイスランドや北欧のポストクラシカルと呼応した曲も収録されているのに注目したい。「Almost There」はクラシックとポピュラーの融合で、同じようにそれらをバラード・ソングとして昇華している。上記2曲の流れはアルバムのハイライトとなり、うっとりした時間を提供する。

 

続く「Distance」はアルバムの序盤の音楽性に再帰し、ファンクの要素が色濃くなる。それらをディスコ風のサウンドとして処理し、懐かしのEW&Fのようなミラーボール華やかなディスコソウルの音楽性が強まる。しかし、同時に、80年代のアーバン・コンテンポラリーの作風が強く、マーヴィン、クインシー、スティーヴィーのポップソングとしてのR&Bの要素が色濃い。

 

これらは古典性と新奇性という両側面において二律背反や矛盾撞着の意味を付与するが、曲の軽快さだけではなく、ディープさを併せ持っている。これが欠点を長所に変えている。そして曲に聴きやすさがある理由は、ファビアーナ・パラディーノのようにポップセンスがあり、曲の横向きの旋律進行を最重要視しているからだろう。美しい和音が発生するように聞こえるのは、モーダルな要素であるポリフォニーの動きと倍音の調和が偶発的に生み出したものである。これらが立体的な音楽を作り上げ、リズムにしても、メロディーにしても、ベースとなる通奏低音にしても、流動的な動きをもたらす。たぶんそれが聴いていて飽きさせない理由なのだろう。

 

結局、バリエーションという要素が曲の中で生きてくるのは、根幹となる音楽性がしっかりと定まっている場合に限定される。その点においてフレンチーは、バンドとともに本格派としてのソウルを構築している。アルバムの後半には遊び心のある曲が多い。「Shower Argument」はアコースティックギターを用いたボサを聴くことができ、小野リサのようなブラジル音楽を彷彿とさせる。かと思えば、音楽そのものは軽くなりすぎることはない。「It' Not Funny」ではしっとりしたピアノバラードを慎ましく歌い上げている。この点は、例えば、ブルーノートに所属するSSW、ノラ・ジョーンズのようなシンガーにも何か共鳴するものがあるのではないかと思う。

 

音楽が移り気になろうとも、全体の水準が下がらない。これはおそらく歌手としての卓越した才覚をさりげなく示唆しているのではないだろうか。「Que Je T'aime」はボサノヴァをワールドミュージックとして再考している。この曲ではゲンスブールのようなフランスの音楽を受け継いでいる。クローズもフレンチポップの気配が濃い。しかし、現代的なUKソウルの要素が音楽自体を前の時代に埋没させることがない。音楽が明るく、スタイリッシュな感覚に満ちている。


以前のソウルといえば、地域やレーベルのカラーが強かったが、今は必ずしもそうではない。そして海を越え、イギリスでこのジャンルが再び花開こうとしている。もちろん、自主制作でも、メジャーレーベルのクオリティに引けをとらない作品を制作することは今や夢物語ではなくなったのである。

 

 

 

 

85/100 

 

 

 

Best Track-  「Werewolf」

Perfume Genius 『Glory』 

 



Label: Matador

Release: 2025年3月28日

 

Listen/Stream 


 

Review


2025年のマタドールのリリースはいずれも素通りできないが、パフューム・ジーニアスの『グローリー』もその象徴となろう。従来はエキセントリックなイメージを持つアーティスト像を印象付けてきたパフューム・ジーニアスだったが、「Ugly Season」とはまったく異なるSSWの意外な一面を把捉できる。全盛期のエルトン・ジョンを彷彿とさせる渋いバラード曲が収録されている。これもシンガーソングライターの歩みの過程を示唆している。このアルバムを聴いたファンは従来のパフューム・ジーニアスのイメージが覆されたことにお気づきになられるだろう。

 

ロサンゼルスのシンガーソングライター、マイク・ハドレアスのプロジェクト、パーフューム・ジーニアスは、このアルバムがミュージシャンの孤独という側面から生み出されたことを明らかにしている。


「何も起こっていないときでさえ、私は圧倒され目を覚まします。私は一日の残りを規制しようとする過ごしかた、たとえばそれは家で一人で自分の考えで行うのが好きです。しかし、なぜ? それらはほとんど悪いです。それらはまた、何十年も本当に変わっていません。私はこれらの孤立したループの1つに閉じ込められたまま「It's a Mirror」を書きました。何か違う、そしておそらく美しいものがそこにあるのを見ましたが、冒険する方法がよくわからなかった。ドアを閉めておく練習がもっとたくさんあります」 


しかしながら、逆説的であるが、本来孤独なランナーであるはずの音楽家、作家や画家と同じように、もしも彼らが作り上げた作品が何らかの有機的な意味合いを持つとすれば、それは誰かがそれを聴いたり、目にしたり、そしてコンサートでファンとの交歓ともいうべき瞬間があるということだろうか。その瞬間、作品は伝達の意味を持つ。これはストリーミングの再生数やアルバムの売り上げなどよりもはるかに作り手にとって一番充実した有意義な瞬間である。




本作の音楽性に話を集約すれば、ソングライティングという入り口を通して、あるいはレコーディングにおけるアルドゥス・ハーディングをはじめとするミュージシャンとの共演を通して一人の持つ世界が共有される空間、そしてコミュニケーションを広めるまたとない機会になった。これは本来は個人的な音楽が共同体やコミュニティ、古くはサロンのような小さな交遊のための社会性ら結束力を持つようになる瞬間である。

 

 

アルバムの音楽はロックやフォークバラードを融合させた形で繰り広げられる。オープニングを飾る「It' Mirror」はその象徴でもある。そしてソロシンガーという孤高のランナーを支えるのが今回のバンド形式の録音である。ギタリストのメグ・ダフィー、グレッグ・ウルマン、ドラマーのティム・カー、ベースのパット・ケリーはパフューム・ジーニアスの良質なソングライティングに重厚さという利点を付け加えた。もちろん、ブレイク・ミルズのプロデュースも動きのあるアグレッシブな要素をもたらした。全般的にはインディーロックとも解釈できる同曲は、聴きやすい音楽性の中にあるマイク・ハドレアスの繊細なボーカルを巧緻に際立たせている。そして音楽そのものは静けさと激しさの間を行き来しながらサビの部分で一瞬スパークする瞬間を迎える。だが、激しさはミラージュのように遠ざかり永続しない。独特な雰囲気を持つロックソングが緩やかな起伏を描きながら、ほどよく心地よい音楽性が作りあげられる。


ハドレアスはエキセントリックなイメージを押し出すことが多かったが、今回のアルバムに関しては、ポピュラーミュージックの普遍的な側面を探求しているように感じられる。「No Front Teeth」のような曲は、パフューム・ジーニアスのインディーフォークソングのセンスが光る。奥行きのあるサウンド・ディレクションはもとより、70年代のカルフォルニアのバーバンクを吸収し、それらを現代的な作風に置き換えている。タンバリンのパーカションがシンセサイザーのストリングスと合致し、マイク・ハドレアスの甘い歌声と上手く溶け合っている。特に、NZのアルドゥス・ハーディングの参加も同様だが、ボーカル録音に特に力が注がれている。それらが重厚なバーバンクサウンドを思わせるバンドアンサンブルの中で精彩味を持つ瞬間がある。

 

 

パフューム・ジーニアスは従来、内面にある恐れや不安という感覚をロックやポップソングとしてアウトプットする傾向があったが、今回はそういった印象はほとんどない。例外として、「Clean Heart」は前作アルバムのエキセントリックなイメージを実験的なポピュラーソングと結びつけているが、アルバムの終盤に収録されている「Capezio」などを聴くと分かる通り、それは別のセンチメンタルな姿に変貌している。実験的なポップスはネオソウルの系譜にある音楽性と結びつき、今までにはなかった新鮮な音楽に生まれ変わっている。これは作曲家として一歩先に進んだことの証と言えるだろうか。しかし、先にも述べたように、マイク・ハドレアスは、この数年のアメリカの音楽の流れを賢しく捉え、それらを自分のフィールドに呼び入れる。それは70年代のバーバンクサウンドやエルトン・ジョンの時代の古き良きポップソングのスタイルである。これらは例えば懐かしさを呼び起こしこそすれ、先鋭的な気風に縁取られている。そしてソングライターとして持ちうる主題を駆使して、メロディアスなバラードソング、そして才気煥発なロックソングを書き上げている。分けても「Me & Angel」は素晴らしいバラードソングで、ポール・サイモン、エルトンの60、70年代の楽曲を彷彿とさせるものがある。


「Lust For Tomorrow」はまさしくバーバンクサウンドの直系に当たり、 カルフォルニアのフォークロックのシンボライズとも言える。スティールギターのような雄大で幻想的な響きを背景に、太陽と青空、民謡的で牧歌的な音楽が掛け合わされ、見事な楽曲が誕生している。それらのバーバンクサウンドは60年代のビートルズ/ローリングストーンズのようなサウンドと結びつく場合もある。次の「Full on」は彼の持つ幻想的な雰囲気とフラワームーブメントの雰囲気と合致し、サイケデリアとフォーク・ミュージックという西海岸の思想的なテーマを引き継いでいる。それらの概念的なものが見事なインディーフォークサウンドに落とし込まれている。これらの曲は、Big Starのアレックス・チルトンのような米国の最初のインディーズミュージシャンの曲をふと思い起こさせることがある。さらにアルバムの最後でも注目曲が収録されている。

 

7thアルバム『Glory」ではバラードソングという側面に力が込められているのを個人的には感じた。それは昨今失われかけていたメロディーの重要性が西海岸のサウンドと結びついて、うっとりさせるような幻想的なポピュラーソングが生み出されたと言えよう。「Dion」はいわゆるオルタネイトなポップスを中心に制作してきたパフューム・ジーニアスが王道であることを厭わなかった瞬間だ。王道であるということ、それがアルバムタイトルの「栄光」というテーマと巧みに結びつけられている。栄光にたどり着くためには、王道を避けることは出来ない。ただ、アルバムの最終盤では、アーティストらしく実験的なポピュラーーーエクスペリメンタルポップの音楽性がより顕わになる。こういった古典性と新奇性のバランス感覚を上手く身につければミュージシャンとしてさらなる飛躍が期待できる。

 

 

 

84/100

 


「Full On」

 Benefits 『Constant Noise』


 

Label :Invada

Release: 2025年3月21日

 

Review

 

ミドルスブラのデュオ、Benefitsは2023年のデビューアルバム『Nails』で衝撃的なデビューを果たし、グラストンベリーへの出演、国内メディアへの露出など着実にステップアップを図ってきた。 メンバーチェンジを経て、デビュー当時はバンド編成だったが、現在はデュオとして活動している。


当初はインダストリアルな響きを持つポスト・ハードコアバンド/ノイズコアバンドとして登場したが、その中には、ヒップホップやエレクトロニックのニュアンスも含まれていた。ベネフィッツは新しい時代のポストパンクバンドであり、いわば、Joy Divisionがイアン・カーティスの死後、New Orderに変身して、エレクトロの性質を強めていったのと同じようなものだろうか。もしくはそのあとのヨーロッパのクラブを吸収したChemical Brotersのテクノのようでもある。

 

待望の2作目のアルバム『Constant Noise』ではベネフィッツの意外な一面を捉えられる。いわば''気鋭のエレクトロニック・デュオ''としての姿である。グライムを通過したディープ・ハウスはキングスレイのヒップホップ的なセンスを持つスポークンワードと融合し、新時代のハードコアラップとして昇華されている。アルバムは前作のクローズの続きのように始まり、「Constant Noise」で賛美歌のような祝福的な響きの中で、スポークンワードが披露される。


「Land Of The Tyrants」はダークなシンセから始まり、アップテンポなダンサンブルなヒップホップナンバーへと変化していく。極限までBPMを早めた「The Victory Lap」でグライムコアの新境地に達する。シンプルな4つ打ちのハウスにリズム的な工夫を凝らし、新時代のEDMを作るべく苦心している。これは彼らがKilling Jokeのようなリズム的な革新性を追求していることの表れでもある。さらにこのアルバムはデビュー時のノイズコアのヘヴィーなイメージを突き出した「Lies And Fear」で最高潮を迎える。この曲はグラストンベリーのライブでも披露された。

 

メンバーチェンジを経て、サウンドの可能性は制限されたように思えるが、ベネフィッツの二人はかなり苦心しながら次の音楽を探求しているように思える。デビュー・アルバムでアンダーグランドではありながらわずかな成功を手にした後、「以前と同じことをすることもできたが、あえて違う音楽性を目指した」というボーカリスト、キングズレイの発言は、2ndアルバムの制作に際して、2人のメンバーでどうやるのかというかなり難しい局面もあったことを想像させる。


その後、アンビエント、 アップテンポなディープハウス、ドローン風の実験的なエレクトロニックなど、サウンドの工夫を凝らし、画期的な曲を書いているが、やはり少し散漫というべきか、全体的な音楽の方向性が定まっていない部分もあるように感じられる。しかし、その一方、力強い印象を持つ良い曲もあり、「Divide」のようなガラージやグライムを通過したエレクトロニックとスポークンワードに今後の活路が見出だせる。この曲は最も成功した事例と言える。


Libetinesのピーター・ドハーティをフィーチャーした「Relentless」は、英国の音楽の系譜に対するリスペクト、そして、わざわざ高速道路で数時間かけてギグを見に来て彼らを発掘してくれたInvadaのジェフ・バーロウへの感謝代わりとも解釈することが出来る。90年代のブリストルのトリップホップの要素を受け継ぎ、文字通りポスト世代の代名詞的な楽曲として聞き入らせる。

 

実験的な音楽性も含まれ、これは前作のデビューアルバムから引き継がれた要素でもある。「Terror Forever」はタイトルが縁起でもないなと思ったが、ドラムに拠る実験的なビートを抽出しようという、西ドイツ時代のインダストリアルやクラウトロックの要素を受け継いだ、UKのアートパンクの最後の末裔ともいうべき内容である。Benefitsの音楽はやはり、The Crass、Throbbing Gristle、This Heatといった実験的なアートパンクの系譜にあり、アヴァンギャルドの領域に属する。


しかし、そのアヴァンギャルドな要素をどこに落とし込むか、もしくはどのように消化するかという点に課題がある。この箇所に相当苦心した形跡が見出せる。さらに、デュオはまだ着地する場所を見定めているような段階で、今後、幾度か音楽性が変遷していく可能性が残されている。


アルバムの終盤では、広汎な音楽性が少し仇となり、散漫な音楽性に陥ってしまっている。当初、ベネフィッツは、音楽性が画一的であると指摘されたことに立腹したとの話があったが、正直なところ、他の人に何を言われても気にするべきではないと思う。たぶん、その人達よりは音楽に対して真摯な態度を持って臨んでいるのだから。それに画一的な方がカッコいい場合もある。

 

過激な音楽性と相反する祝福的な音楽性の混在という側面に、現在のベネフィッツの最大の魅力がある。これはもちろん、対極的な要素が混在するからこそ生きてくるものがあるといえる。例えば、「The Brambles」では、荒削りで未完成ではありものの、アルバムの一曲目と同じように、新奇な音楽の萌芽を見出すことが出来る。賛美歌のような祝福されたような雰囲気のアンビエント、その中で''言葉がどのように生きるか''という実験だ。 それは意外なことに、中世のグレゴリオ聖歌のような特異な音楽と地続きになっている。つまり、今後の方向性がどう変わっていくのかがさっぱりわからないという点に、ベネフィッツのロマンを感じさせるのだ。

 

最後は、ジャズ・バラードのような要素がオルガンの演奏と組み合わされて、「Burnt Out Family Home」という楽曲が確立している。この曲ではボーカルが少しメロディアスになりつつある。これから非音楽的な領域を抜け出して、新しいベネフィッツに生まれ変わるという事もありえる。今回のアルバム『Constant Noise』は、曲を寄せ集めたアンソロジーのような雰囲気になったのが少し惜しかった。それでも、相変わらず才気煥発なセンスがほとばしる。そしてまだキングズレイの言葉には力がある。もし、アルビニがまだ生きていて、ベネフィッツの2ndアルバムを聴いたら、なんと感想を漏らすだろう。''それほど悪くはないね''と言うような気がする。

 

 

 

76/100 

 

Best Track- 「Relentless Feat. Peter Doherty」

Nico Paulo  『Interval_o』EP
 

Label:  Foward Music Group

Release: 2025年3月21日

 

 

Review    

 

ニコ・パウロはポルトガル系カナダ人のミュージシャン、ビジュアル・アーティスト。パウロは芸術と音楽を追求するために2014年にカナダに移住し、当初はトロントに根を下ろし、この街の活気あるクリエイティブ・コミュニティに身を置いた。

 

2020年代初頭にはセント・ジョンズに移り住み、ニューファンドランドの名高い音楽シーンに欠かせない存在となった。この島を拠点に活動するパウロは、世界中のステージにおいて、うなり、うっとりし、はしゃぎ、踊る、魅惑的なライブ・パフォーマーとしての地位を確立した。

 

絶賛されたセルフ・タイトルのデビュー作(2023年4月)は、豊かで洗練されたポップ・アレンジの中で、人間関係の相互関連と時間の流れを探求し、メロディアスでオープンハートなソングライティングをリスナーに紹介した。最新のEP『Interval_o』(2025年3月)は、温かみのあるアンビエントとミニマルなサウンドスケープの中で、直感的なソングライティングで変容の時を謳歌し、そうなりつつある過程に存在の意義を見出す。上記2枚のアルバムのテクスチャーの複雑さは、友人でありコラボレーターでもあるジョシュア・ヴァン・タッセルの貢献によるものだ。


このEPは忙しい人のささやかな休息のためにぴったりのポピュラーソング集である。EPは記憶のムーブメントで占められている。ニコ・パウロ、そして彼女が率いるバンドからの招待状を受け取ったリスナーはどのような世界を見出すだろう。

 

本作は声楽の響きを追求した『Interval 1 : Invitation』で幕を開ける。2つのボーカルを組み合わせた声楽形式のアカペラで聞き手を安息の境地へといざなう。背景となるトラックには水の音のサウンドスケープが敷き詰められ、それがパウロのゆったりとした美しいボーカルと溶け合う。

 

「Interval 2: Grow Somthing」はアコースティックギターをベースとしたフォーク・ソングである。どことなく寓話的でお伽話のような音楽の世界が繰り広げられる。ミニマルで反復的なギターフレーズが続く中、パーカッションが入り、パウロのコーラスとメインボーカルが美しく融和している。南国のサーフミュージックのように開けた安らいだ感覚を味わうことが出来る。アウトロではパウロのボーカルがフィードバックしながら、夢心地のままとおざかっていく。

 

その後、シネマティックなサウンドに接近する。「Memory 3: In Company」は再びクワイアのコラージュサウンドに舞い戻る。一貫してミニマルな構成と美しいハーモニーを交えながら淡々とした曲が続く。 

 

しかし、その中には、アーティストがライブで培ってきたアートパフォーマー的なセンスとサーフミュージックのようなトロピカルな要素が溶け合い、陶酔的なアートポップが構築される。最もアップテンポなトラックが「Memory 4: Move Like A Flame」。ワールド・ミュージックの要素をベースに、ボサ・ノヴァ的なアコースティックギター、そしてリズムの中でシンプルなボーカルワーク、エレクトロニカ風のサウンド処理が心楽しげな雰囲気を醸し出している。

 

EPの音楽を聞き出すと、惜しいほどすぐに終わってしまう。それでも、情報過多な時代においてスペースや余白の多い音楽ほど美しいものは存在しない。クローズ「Movement 5:  Two Ends」はボサ・ノヴァやハワイアン音楽を基底にし、夕日を浜辺で見るような甘美さを表現する。ほんの瞬きのように儚く終わるEP。音楽そのもののセンスの良さ、そして歌の本当の美しさによって、ニコ・パウロはカナダの注目のフォークシンガーとして名乗りを挙げようとしている。


 


82/100

 


 Circuit Des Yeux 『Halo On The Inside』

Label: Matador

Release: 2025年3月14日


Listen/Stream

 

 

Review         潮流を変えるモーダルなアートポップ

 

マタドールに移籍して発表された『Halo On The Inside』。シカゴのミュージシャン、ヘイリー・フォアの最新作で、シンガーとしてのひとつの変容の瞬間が刻印されている。しかし、このアルバムの主題の芽生えは、2021年のアルバム『Sculping The Exsodus』に見出すことが出来た。オーケストラストリングスとの融合を基底にしたシアトリカルなアートポップ。その本領はまだ数年前には発揮されず、ぼんやりとした印象に留まっていたが、今作ではより明瞭な感覚をもって聴覚を捉える。

 

ギリシャ神話をモチーフにして、半身半獣の怪物、悪魔的なイメージを持つヤギ、それらの神話的なモチーフは、地下室のスタジオでの午後9時から午前5時という真夜中の雰囲気と密接に結びつけられることになった。録音現場のひんやりとした静けさ、それは制作者の内面にある感覚と符合し、アルバムのサウンドの全体を作り上げる。独特な緊張感と強固なキャラクターを持つ異形としての実験的なアートポップ。これらの全9曲は、トリップ・ホップとハイパーポップ、グリッチポップ、それらの先鋭的な音楽性を内包させた孤絶したアルバムの一つである。

 

アルバムにはダンサンブルなポップが裾野のように打ち広がっている。結局、それをどのような形でアウトプットするのか、アーティストは相当な数の試行錯誤を重ねただろうと推測されるが、デモーニッシュなイメージ(悪魔的な印象)と小形式のオペレッタのような歌唱が全般のエレクトロニックの要素と合致し、その上にロックやメタルといった音楽が取り巻き、薄く、もしくは分厚い層を形成している。

 

これがアルバムを聴いたとき、複数の層がぼんやり揺らめくように聞こえる要因なのかもしれない。なおかつ、それらのサウンドとしての機能をはっきりと浮かび上がらせたのは、フリーフォームの即興、絵画、オーディオ・ビジュアルといったヘイリー・フォアが親しんでいるというリベラルアーツの全般、そして、内的な探検を通して得られたもう一人の自己の"分身"である。これらは、例えば、カフカの『変身』のようなシュールレアリズムの範疇にある内的な恐怖としてポップサウンドの向こうがわに渦巻いているというわけである。 そのアンビバレントな(抽象的な)音の層に目を凝らし、耳を静かに傾けたとき、一つの核心のようなものに辿り着く。これはもしかすると、音楽を通したフランツ・カフカ的な探検を意味するのではないか、と。

 

本作は、EDMをベースにしたダークを超越したエレクトロポップ「Megaloner」で幕を開ける。そして同じく、Underworldのエレクトロをベースにした「Canopy Of Eden』といった曲を聞くと、音楽そのものが旧約聖書の黙示録の要素を持って繰り広げられる。聞き手はそれらを宗教としての符牒ではなく、アーティスティックな表現下にあるポップソングという側面で捉えることになろう。


しかし、その中では、ブリューゲルのバベルの塔や洪水から救済するためのノアの方舟といった西洋絵画などのモチーフに度々登場する絵画的な表現性によって音楽という名の媒体が展開されていく。これらのポップソングとしての構造の背景には、明らかに中世の西洋的な概念が揺らめく。それが的確なソングライティング、そして中性的な印象を放つアルトやバリトンの音域に属するヘイリー・フォアのボーカルによって、強固な音楽空間が綿密に構築される。音楽としては、ロックらしい情熱を持つ瞬間があり、二曲目「Canopy Of Eden』ではユーロビートやレイヴのようなアシッド・ハウスに近い音像の広い奥行きのあるサウンドが熱狂的に繰り広げられる。決して安易に箱庭の音楽を作ろうとせず、ライブでの熱狂を意図したサウンドが楽しめる。

 

対象的に、「Skelton Key」では、イントロや導入部の箇所においてアルバムの冒頭にある悪魔的なイメージ、旧約聖書の終末的な余韻を残しつつ、神話に登場するようなエンジェリックな印象を持つ曲へと変化させる。曲の始まりでは、ゆったりしたテンポ、清涼感のあるアンビエント風のサウンドと結びつき、緊張感に満ちた音楽が繰り広げられるが、中盤からは、暗黒の雲間から光が差し込むような神秘的なイメージを持つストリングスとピアノの美麗な旋律進行が顔をのぞかせる。すると、当初の印象が一変し、それと相反する祝福的な音楽性が登場する。それらを間奏の楔として、その後再び、ノイズの要素を用いたハイパーポップが後半で登場する。これらの盛り上がりがどのように聞こえるのか、実際の音源で確かめてみてください。

 

収録曲そのものが続編のように繋がる。続く「Anthem Of Me」では再びノイジーなロックやメタル風のサウンドが驚きをもたらす。内的な探検をもとにした内的な自己の発見を端的に表そうという試みなのだろうか。それは、メタル的な興趣を持つギターの代わりとなるシンセのジェネレーター、そしてそれとまったく相反するオペレッタ風のシアトリカルなボーカルというように、これこそ新時代のロック・オペラなのではないかと思わせる何かが込められている。

 

しかし、これは、例えば、クイーンやザ・フーのような大衆的なロック・オペラではない。 現代的なステージ演出とインスタレーションを仮想的に表現した音楽の新しいオペラやミュージカルの形式なのである。それはアルバムの全体的なテーマである恐怖というプロセス、そしてその時間を前に巻き戻して、おそれのない境地まで辿り着こうとする表現者としての歩みが暗示されているのである。


そして実際的に、アーティストは仮想的な舞台の演出の中にある恐ろしい内的な感覚という形而下の世界の情景をダンテの『神曲』の地獄編のように通り抜け、別の境地を探ろうとする。それはまるで中世のイタリアの作家が長い迷路に迷い込んだときや、地獄の門を船でくぐり抜ける情景をサウンドスケープとして脳裏にぼんやり蘇らせることがある。また、この曲では聴取下にある音楽という単一の音楽の意義を塗り替える趣旨が込められているように思えてならない。

 

 

アルバムの音楽にはセイント・ヴィンセントやガガのようなメインストリームにある歌手の音楽とも相通じる感覚も含まれていると思うが、稀に異彩を放つ瞬間がある。「Cosmic Joke」では明らかにPortisheadの影響下にあるトリップホップの要素が体現されている。 『Dummy』の時代のサウンドだが、それらはやはりオペレッタの歌唱やピアノの実験的なサウンドワークによって別の境地に達している。この曲こそ、無響室のひんやりとした感覚、真夜中から明け方の時間、そういった制作現場のアングラな雰囲気がリアルに乗り移っている。アルバムを象徴するような一曲といえるかもしれない。全体的なミックスやマスタリングのアトモスフェリックな音響効果の中で、ひんやりした印象を持つダークなボーカル、サウンド・コラージュのように響きわたる低音部を担うピアノ、それらが組み合わされ、アルバムの中で最も情感あふれる一曲として聞き入らせる。一度聴いただけではわからない、奥深さを持った素晴らしい楽曲である。

 

 

イギリスの象徴的な作曲家/プロデューサー、ジェイムス・ブレイクの系譜に位置付けられる「Cathexis」ではハモンド・オルガンを彷彿とさせるシンセサイザーの伴奏を用い、恐怖とは異なる哀愁や悲哀の瞬間を体現させようとしている。これらはセンチメンタルな響きを持つギターライン、そしてボーカルとハーモニーの層を作りながら、アルバムの最も奇跡的な瞬間ーー淡麗な美しさーーを形作ることがある。さらに注目すべきは、このアルバムの音楽のほとんどは、縦の構造を持つ和声によって音楽が書かれたのではなく、横の構造を持つモーダルの音楽によって紡がれ、従来にはなかった偶発的なハーモニクスが形成されるということである。

 

こういった音楽を聴いていると、和声法だけで音楽を作るのには限界があり、マイルス・デイヴィスのようなモーダル(Modal)の要素がどこかで必要になってくることが分かる。デイヴィスの音楽には、和音という概念が稀にしか出てこないこともあるが、これは複数の音階の横の動きにより、自由度の高い音楽構造を構築していくのである。和声は、全体的な構成の中で限定的な働きしかなさず、和声にこだわるほど自由な音楽性が薄れたりする。その反面、ポリフォニーの音楽(複数の声部の重なり)の方が遥かに作曲の自由度が高くなる。それはなぜかと言えば、音楽の構造を限定させず、次の意外な展開を呼び入れることが可能になるからである。

 

 

一曲目や二曲目を除けば、アートポップやハイパーポップというように、ポップソングの枠組みを取り払うための前衛的な試みが中心となっている。しかし、最も着目すべきは、『Halo On The Inside』は単なる録音作品以上の意味が込められているということである。例えば、ライブ会場でどのように響くのか、もしくはファンを楽しませるための音楽として書かれた曲も発見出来る。

 

「Truth」では、例えば、アヴァロン・エマーソンにも引けを取らないようなDJらしい気質を反映させた刺激的なダンス・ポップに挑戦している。この曲には、ヘイリー・フォアという人物の音楽フリークとしての姿を捉えられる。それは、制作者としての研究者気質のアーティストとは対照的に''音楽を心から楽しもう''という姿勢を映し出す。アルバムは全体的にアーバンな印象で縁取られている。これは中西部の文化を背景とし、現代のミュージシャンとして何が出来るかという未知なる挑戦でもある。同時にアーティストとしての矜持を体現しているのだろう。

 

「Organ Bed」はダンサンブルなビートを生かしたアップテンポな楽曲であるがオーネット・コールマンやアリス・コルトレーンのフリージャズの範疇にある前衛的なサックスフォンを登場させている。 これらはジャズに託けて言うと、フリー・ポップ(ポップソングの解放)のような意味が込められている。

 

 

創作活動の全般における困惑や戸惑いのような感覚は、シンガーソングライターを悪魔的な風貌に変化させた。けれども、実際のサウンドが示す通り、音楽的な収穫や手応えは非常に大きかったように思える。それは音楽的な蓄積、及び、それにまつわる幅広い知識は、プロデューサーの協力により音楽作品として結実した部分もあるかもしれないが、同時にアーティストが自らの志す音楽をじっくり煮詰めていったことに拠るところが大きいのかも知れない。本作の最後でも期待を裏切らない。

 

「It Takes My Pain Away」は、90年代のモグワイの音響派としてのポストロックをインスト曲として更新している。あるいはエイフェックス・ツインの初期のアンビエントの音楽的なアプローチに共鳴する内容である。こういった曲は、90年代や00年代では男性ミュージシャンの仕事と相場は決まっていたが、時代を経て性別に限定されなくなった。前作に比べると劇的かつ飛躍的な進化を遂げた。これは肯定的に見ると、音楽的な変容というプロセスがどこかで必要だったのだろう。サーキット・デ・ユーの従来の最高傑作の一つが誕生したといえるだろう。

 

 

 

 

86/100

 

 

 



 

 「Skelton Key」-Best Track

  brdmm 『Microtonic』

Label: Rock Action

Release: 2025年2月28日

 

 

Review

 

 

ハルのロックバンド、bdrmm(ベッドルーム)はその名の通り、 ベッドルームレコーディングを行うグループとして出発したが、ライブツアーでMOGWAIにその才覚を認められ、バンドの独立レーベル、Rock Actionの看板バンドになった。2ndアルバム『I Don’t Know』のリリースをきっかけにメキメキと力をつけ、英国内にとどまらず、世界的な知名度を持つようになった。以前はシューゲイズバンドと紹介されることもあったbdrmmではあるが、まさかこの3作目を聴いて彼等のことをそうのように呼ぶ人はいないものと思われる。90年代のモグワイやNew Orderの血筋を受け継ぎながら、それらを奥深いロックソングに昇華している。このアルバムは、即効性というよりも、聴いていくうちにその音楽の真価が徐々に浸透してくるような作品である。

 

このアルバムは単なる音源という意味以上のものが込められている。bdrmmは医療/科学分野の巨大ハイテク企業、マイクロテック社と提携し、実際的にこの企業の施設内でこのアルバムをレコーディングしている。KeepItLiveによると、全容こそ明かされていないものの、このアルバムの音楽は最新のテクノロジーを反映させ、マイクロテック社の最新製品「Microtonic」にも関連がある。 AIテクノロジーの最新鋭の技術を活用している。デジタル/フィジカルの側面にマイクロテックが組み込まれ、周波数を放ち、リスナーの五感を刺激するという最新鋭の技術が組み込まれているという。

 

音楽的にはロックソングのポップネス、そして、エレクトロニクスの近未来的な感覚、さらにはマニック・ストリート・プリーチャーズの最初のブリット・ポップはもちろん、ヴァーヴのようなブリットポップのポスト世代の音楽の系譜を受け継ぎ、抽象的で催眠的なロックソングを特徴としている。90年代から00年代初頭のマンチェスターのFacrotyからの雰囲気を受け継いだダンスロックソング「John on the Ceiling」、そして、ザ・スミスからオアシス、そして、ザ・ヴェーヴへと受け継がれるブリット・ポップの系譜を継承した「Infinite Peaking」を筆頭に、UKロック・バンドらしいダンスとロックの中間にある霧がかったサウンドワークが光る。特に、中盤の注目曲「Snare」はクラブ・ハシエンダを中心とする80年代後半のダンスムーブメント魅力をかたどり、Warpの最初期の7インチレコードなどを彷彿とさせるものがある。

 

 

そういった中で、モグワイが音響派やポストロックのオリジネーターとして活躍したように、ロック・バンドとして先鋭的な試みがなされている。アグレッシヴでアンセミックな趣を持つアルバムの序盤の収録曲とはきわめて対象的に、「In The Electric Field」、そしてタイトル曲「Microtonic」といった曲はロックバンドとしてアンビエントとサイレンスを探求した記念的な瞬間である。そして上記の要素はアルバム全体のサウンドに抑揚とメリハリをもたらしている。また、それは従来よりも音楽のディープな領域に達したともいえ、bdrmmの成長を感じさせる。またタイトルからも分かるように、Clarkの90年代、00年代のレイブやアシッド・ハウスを受け継いだ「Clarkycat」もロックバンドとしてはかなり新鮮な試みが取り入れられている。 従来のフランツ・フェルディナンド、ブロック・パーティ、キラーズなどのダンスロックというジャンルが取りざたされた時代の音楽をモダンにかっこよく鳴らすことを重視している。これらは少し陳腐化しつつあるこのジャンルに新しい風を呼び入れようという試みでもある。

 

このアルバムは従来のシューゲイズというニッチの領域から脱却し、エレクトロニックロックの新鋭へと突き進んでいこうとするbdrmmの旅の過程をかたどったアルバムである。またロックバンドでありながら、IDMの作曲のセンスがあり、「Sat In The Heat」を聴けば、そのことが分かると思う。Yard Actが呼び込んだポストパンクの流れを受け継ぎ、そこに彼等の持ち味であるドリーム・ポップやアートポップの要素を付け加え、魅力的なサウンドを作り上げている。この曲では、従来にはなかった近未来的な要素とSFの雰囲気が上手く融合している。アルバムの終盤の収録曲も聴き逃がせない。「Lake Disappointment」ではアシッドハウスとロックの融合という形式によって、ポストパンクの新しい音楽の流れを呼び込もうとしている。 こういった曲はもしかすると、何度も繰り返し聴きたくなるような中毒性があるかもしれない。

 

アルバムのクローズを飾る「Noose」は次の作品への期待を感じさせる、ひとつの枠組みの収まらない、壮大な趣を持ったトラックである。Underworldの系譜にあるUKロックサウンドをどのように調理するのかの実験の過程である。もちろん、Mogwaiの音響派へのオマージュがアンビエントのようなチルウェイブの要素と重なり合い、 清涼感のあるエンディングを形成している。

 

 

 

80/100

 

 

「John On The Ceiling」

 


異分野のリベラルアーツの融合。ロンドン/テルアビブの実験音楽グループ、Staraya derevnya(スタラヤ・デレヴニャ)は1994年からスタジオ・プロジェクトとして、2017年からはミュージシャンと画家の大規模なアートグループとして活動を行っている。 

 

2025年のラインナップは、Gosha Hnlu(ボーカル、カズー、パーカッション)、Maya Pik(フルート、シンセ、フルート)、Ran Nahmias(サイレント・チェロ、サントゥール、ウード、ボーカル)、Grundik Kasyansky(フィードバックシンセサイザー)、Miguel Perez(ギター)、Yoni Silver(バスクラリネット)、Andrea Serafino(ドラム)となっている。

 

Staraya derevnyaというグループ名はサンクト・ペテルブルグの地名に因む。このプロジェクトは、暗闇の中でパフォーマンスを行い、詩と音楽と映像を同期させ、独特なアート活動を行うことで知られている。音楽的には、ボーカルアート、エレクトロニクスと東欧やアラビアの民族楽器、オーケストラ楽器などを鋭く融合させ、前衛音楽の新たな道筋を切り開こうとしている。

 

新作アルバム『Garden Window Escape』は2022年8月から制作が始まり、ロンドンのBonaflide Studio、2023-2024年には、イスラエル、ロンドン、メキシコ、ブルガリアの4つの拠点で録音された。このアルバムは、プリペイドする楽器という現代音楽の形式を踏襲し、それらを詩を含めたドローン音楽の系譜にあるアヴァンギャルドに昇華させている。異文化が渦巻く、ロンドンやイスラエルの気風を吸収させたこの世で最も奇妙なレコードの一つ。

 

Staraya derevnyaの音楽には多数の民族から構成される混合の歴史とグロテスクな音楽が偏在している。改造または自作の楽器を使って録音され、本物と作り物の言語の両方で歌われる。 グループはレコードはRambleRecordsとAuris Mediaの共同リリースとして5月2日に発売される。




Staraya derevnya『Garden Window Escape』


Tracklist:

 

A

Tight-lipped thief

What I keep in my closet

Half-deceased uncle

B

Cork flight operation

Virtue of standing still

Onwards, through the garden window

Myshhh

 Mdou Moctor 『Tears of Injustice』

 


 

Label: Matador

Release: 2025年2月28日

 

 

Review  祖国ニジェールへの賛歌

 

 

『Tears of Injustice(不正義の涙)』は、Mdou Moctorが2024年に発表した『Funeral For Justice』のアコースティックバージョンによる再構成となっている。ハードロックを中心とする前作アルバムよりも音楽の旋律の叙情性とリズムの面白さが前面に押し出された作品である。このアルバムを聞くと、Mdou Moctorの音楽の旋律的な良さ、そして叙情的な側面がより明らかになるに違いない。『Funeral For Justice』の発売日前には本作の制作が決定していたというが、結局、彼等の故郷であるニジェールの国内の動乱ーー政権移行により、アルバムの制作は彼等にとってより大きな意義を持たせた。なぜなら、国境封鎖によりエムドゥー・モクターのメンバーは祖国ニジェールに帰国できなくなり、音楽によって望郷の歌を紡ぐ必要性に駆られたからである。

 

本作はブルックリンで録音されたが、遠ざかった故郷への郷愁、そして祖国への慈しみの感情が複数の民族音楽の中に渦巻いている。プロデューサー的な役割を持つコルトン、そして、ジミ・ヘンドリックスの再来とも称されるギタリストのモクターの他、四人組のメンバーの胸中はおだやかならぬものがあったはずだが、結果的に、彼等にとって象徴的なカタログが誕生したと見ても違和感がない。


ニジェールは西アフリカの砂漠地帯にある地域で、独特な民族衣装ーー古代ギリシアのチュニックのようなーー白い装束、ターバンのような帽子を着用するのが一般的である。しかし、最近では白い衣装だけではなく、他の色の衣装を身にまとうこともある。同時に、私達にとって彼等の衣装は奇異な印象を抱かせることがあるが、それはとりもなおさず、彼等の故郷の文化や風俗に対するリスペクトやスピリットを表し、それらを次世代に繋ごうという意味がある。例えば、「Takoba」を始めとする先行シングルのミュージックビデオでは原始的な情景をトヨタの車を運転して疾駆するという印象的な映像が出てくる。

 

こういったシーンを見ると、アフリカの原初的な光景を思い浮かべざるを得ないが、実際的な事実としては、ニジェール近辺の地域は2000年代以降、近代化が進み、デジタルデバイスが一般市民に普及し、市中をバスがふつうに走ったりしている。そして、エムドゥー・モクターというギタリストは、デジタルデバイスの一般的な普及を受けて登場したギタリストなのである。これらは、90年代以降の東アジアやドバイのような急速な発展を遂げた国家を彷彿とさせる。つまり、砂漠地帯というイメージだけでこの国家を語り尽くすことは難しい。それだけではなく、例えば、前作では、長らく植民地化されてきた西アフリカの代弁者として歯に衣着せぬ意見も滲んでいた。


それは領主国であったフランス(西側諸国)に対する辛辣な批評精神の表れでもあった。これらは、結局、アフリカ大陸や当該地域の国家の殆どが西側諸国に金融市場を牛耳られてきたこと、コートジボワールのような海岸地帯で象牙を過剰に乱獲したりと、生態系を破壊させる行為が行われてきたこと等、西側諸国の搾取の歴史を断片的に反映させた。無論、これはアフリカという地域がヨーロッパによって近代国家的な性質を付与されたことは相違ないが、同時に経済的な側面での搾取や文化破壊というあるまじき行為を助長させたのだった。(最近では、アフリカ諸国のBRICSへの参加により、世界情勢の均衡に変化が生じ、現在の世界は多極化している最中だという。つまり、覇権主義的な一国体制は過去の幻影へと変化しつつあるようだ)

 

結局のところ、それらがこのバンドの主要な音楽性であるエレクトリックを中心とする古典的な70年代のハードロックのアプローチによってストレートに展開されたのである。しかし、続く再構成バージョンは音楽的にも、全体に通底する文化的なメッセージにおいても、まったくその意を異にしている。これらの西アフリカの民族音楽の一つであり、アメリカのブルースやゴスペルのルーツとなった”グリオ”という祭礼で演奏される儀式音楽の要素が凝縮されている。これは、単独のメインシンガーを取り巻くようにし、複数の歌い手がコーラスの合いの手を入れる音楽形式である。日本の民謡等にもこの合唱の形式は発見することが出来る。例えば、ゴスペルは、アフリカの儀式音楽が海を越えて伝えられ、旋律的に洗練されていったものである。これらの正真正銘の伝統音楽は、アフリカの悠久の歴史を映し出すにとどまらず、大陸の国家や人々の様々な生き方や人生の一面をリアリスティックに描写する。このことにより、音楽的なエキゾチズム性はもちろんであるが、歴史や伝統性を反映させた作品に昇華された。もちろん、マタドールの現代性に重点を置いた録音技術も称賛に値するものとなっている。

 

しかし、長い時代、植民地化されてきたアフリカ、宗主国に翻弄されてきた国家、そういった複雑な歴史の流れを汲みながらも、Mdou Moctorは批判性だけに焦点を絞らず、それとは対照的にアフリカの伝統性の美しさと人類が進むべき建設的な未来に目を向ける。このアルバムは、前作では歴史の暗部に断片的に言及することのあったエムドゥー・モクターが原曲の再構成を通じて、祖国への郷愁という叙情的な感覚を基にし、世界の平和、国家の正常化、そしてまた、明るい未来への賛歌を歌うというコンセプトへと変容している。こういった音楽は、もし政権の転覆がなければ制作しえなかった。ハードロックソングが反体制的な意義を擁するとすれば、このアルバムはそれとは裏腹に保守的な表情をのぞかせる知られざるモクターの姿を映し出す。

 

さらに言えば、「国家」という共通概念を離れた場所から歌っていた前作のアルバムとはきわめて対象的に(地理的な録音場所はその限りではないにせよ)、ニジェールという国家に近い場所で音楽が鳴り響いているように思える。 いわば、近代以降、アフリカの諸国は国家として独立の歩みを続けてきたが、独立的な国家としての文化的な役割を探り、最終的に世界情勢に関して建設的な役割を持つ文化圏として歩むという、いかなる現代国家も通らざるを得ない役割を踏まえ、それらを代表者として演奏し、歌を紡ぎ、その伝統性を未来へと繋げる橋渡しの役割を司る。それがゆえ、このアルバムのモクターを中心とする歌声にはただならぬ覇気がこもっている。そしてアフリカの歴史に関心のない聞き手を引き付けるものが内在するのである。

 

 

無論、音楽的にも原曲とは主な印象を異にしている。70年代の古典的なハードロックをベースにしていた前作と比較すると、アコースティックギター、タブラ、ベースなどを中心に生の録音を活かし、アナログ性を最初の録音段階で重視した後、最終的には、現代的な要素であるデジタルレコーディングのプロセスを経て良質な録音作品に仕上がった。これらは伝統性と未来性という二つの文化的な精華の重なりを意味し、単なる音楽的なハイブリッドやクロスオーバーというテーマを乗り越え、本来はすべてが一つであるという神秘的な瞬間を体現している。

 

そして、それらが従来に培ってきたアフリカの民族音楽という形式を通じて、心地よくリズミカルな興趣に富んだ音楽が繰り広げられる。これらのニジェールの伝統音楽は、たしかに、西洋音楽の音階や旋法に慣れ親しんだ人々にとっては珍しい響きに聞こえる。リズム的にも変拍子が含まれ、多角的な旋律が縦横無尽に流れていく。これらは古典的な音楽の手法を通じて制作されているにもかかわらず、驚くべきことに、カウンターポイントとして非常に洗練されている。そして、本作の中には無数のアフリカの人々の営み、国家としての歴史の断片的な流れがまるで走馬灯のように流れ、一定のリズムやリフレインの多いアンセミックな響きを持つフレーズと合致し、音楽的な感覚、民俗的な感覚という二つの側面から見ても、極めて高い水準にある音楽として体現されている。そして、西アフリカに対する郷愁の感覚が複数のアコースティック楽器や歌声とぴたりと重なり合う瞬間、稀に見る美しい音楽がエキゾチズムという表向きの幕間の向こう側にたちあらわれ、本作のタイトルの冒頭に付与されている涙ーー人類全体に対する慈しみの思いーーが音楽の向こうにかすかに浮かび上がることに気づく。それは、音楽の表向きの魅力を示すにとどまらず、その向こう側にある芸術の本質的なコアの部分に肉薄したとも言えるかもしれない。彼等の音楽は一般的な評価軸から距離を置き、上や下、右や左、敵や味方、正と邪、そういった二元論における偏見的な概念を乗り越え、優れた音楽に欠かせぬ根源的な精神性を遺憾なく発揮している。だから聴いていて気持ちが癒される瞬間が込められているのかもしれない。

 

『Tears of Injustice』には、「Takoba」、「Imajighen」、前作のタイトル曲「Funeral For Justice」といった魅力的な曲が多い。そして編曲という観点から見ても、全く別の雰囲気を持つ曲に変身している。あらためてエムドゥーの魅力に触れる恰好の機会となるはずである。本作はエムドゥー・モクターというプロジェクトの編曲能力の高さを証明づけたにとどまらず、彼等が音楽的な核心を把握していることを印象付ける。本作ではエキゾチックであった音楽の印象が普遍的な感覚に変化する瞬間がある。要するに、遠くに鳴り響いていた彼等の音楽が身近に感じられる瞬間を体験することができる。そして、その音楽に耳を澄ました時、ないしは彼らの言葉を心から傾聴した時、まったく縁もゆかりもないはずのアフリカ、ニジェールという私達にとって縁遠い地域のことがなんとなく分かり、そして、人間の本質的な部分やその一端に触れることが出来るようになるのだ。

 

私達は日頃生きていて、画一的な価値観や思想に左右されることを避けられない。そういった固定概念をしばし離れて、音楽の持つ神秘性の一端に接することは、いわば未知なる扉を開くようなものである。しかし、未知の扉の先にある何かーーそれは実は、私達が物心付かない頃に持っていたのに、いつしか価値のないものとしてどこかに葬り去られてしまっただけなのかもしれない。

 

 

 

85/100 

 

 

「Takoba」

 Saya Gray 『Saya』

Label:Dirty Hit

Release: 2025年2月21日


 

Review

 

サヤ・グレイの記念すべきデビューアルバムの制作は2023年の日本への旅行が一つの契機となっている。もちろん、日本人のルーツを持つシンガーにとって、大きな意味を持つトリップになったに違いない。グレイは、EP作品において独創的なソングライティングや演奏、ボーカルを披露してきた。考えようによっては、少し移り気のある音楽性、どこに行くかわからない見ていてハラハラするシンガーソングライターである。このアルバムはレッド・ツェッペリン、ジョニ・ミッチェル、ビートルズといった彼女が愛してやまぬアーティストへのリスペクト代わりでもある。「Qwenty」シリーズでは気鋭のエレクトロニックプロデューサーとして、あるいはプログレッシヴロックやハードロック好きの意外な一面が伺えたが、デビューアルバムではそれらの中間点を行く音楽性が顕著である。つまり、ソングライティングや曲構成において非常にバランスの取れた内容となっている。従来の作品よりも聞きやすさがあるはずである。

 

 

インディーポップからダンス、ロック、ジャズ、ソウル、他にも広汎な音楽的な知識を伺わせるサヤ・グレイはデビュー作において、クワイアとエレクトロニックの融合、ネオソウルのポップ風のアレンジ、そして従来としては珍しくアメリカーナへの音楽的な言及も見出せる。グレイのソングライティングは基本的にはBon Iver、The Vernon Spring以降のコラージュのサウンド、サンプリング的な組み合わせが中心となっている。前作の「Qwenty」シリーズでは他の媒体からのサンプリングや自身のボーカルやギターの録音のリサンプリングなどが刺激的な楽曲として組み上げられていたが、依然としてデビュー・アルバムでもこれらのカットアップ・コラージュ、クラシック風に言えばミュージック・コンクレートの要素が楽曲の中心となっている。

 

これらの制作スタイルは例えば、JPEGMAFIAのようなラッパーが新しいヒップホップ、アブストラクト・ヒップホップの領域で実験的に導入しているが、それらをインディーズ系のポピュラーでやろうと試みているのがサヤ・グレイだ。こういったコラージュサウンドは、一般的に見ると、豊富な音楽的な知識が必要で、生半可に手を出すとダサいサウンドに陥るかも知れない。ある意味、ミュージシャンとしての自負が必要であり、自分が最もクールな音楽を知っているという強固な自意識が必要になってくる。そしてそれらを実現させるための高い演奏技術、ボーカルのセンス、全般的な音楽のディレクションなど、プロデューサー的な才能も必要になってくる。素人が手を出すような音楽ではなく、それ以前にジャズやクラシック、もしくはポピュラーやロックバンドで相当な経験を積まないと、洗練された作品を創り出すことはむつかしい。

 

一、二年前にはこのシンガーソングライター/作曲家が天才的な才覚を持つことに気がついていたが、それはある意味では無謀ともいうべき音楽の過剰な情報量と末恐ろしいようなインパクトが込められているのを感じたからである。このデビューアルバムでは過剰さや余剰の部分は削ぎ落とされ、フラットな音楽が出来上がったと言えようが、これはアーティスト自身がカルト的なポップシンガーの領域に収まりたくないという隠れた欲求を持っているからなのだろう。結果的にバランスの取れたインディーポップソングが収録されている。「Qwenty」シリーズほどの強烈さはないし、音楽的に散漫になるときやAIっぽい音楽すら登場するが、それもある意味では狙ってやっている部分があるのではないかと思う。半ば計算づくといったアルバムである。

 

 

サヤ・グレイの音楽は、枠組みや構成、もしくは前例といった既存の概念から読み解いても無駄である。また、他のミュージシャンがこの人の音楽を真似しようとしても徒労に終わる。それどころか、自分の不甲斐なさに愕然とするかもしれない。サヤ・グレイの音楽はきわめて感覚的なので、論理的な分析を行うのは無粋となるだろう。例えば、ロンドンのNilfur Yanyaはなんとなく良い感じの音楽を作っていると言っていたが、グレイの曲もまたそれに近い趣きがある。自分の感情やインスピレーション、それは絵画のスケッチや詩の断片のようなものをコラージュのように組み合わせていったらこうなったという感じかもしれない。だから他の人には作ることもできなければ模倣することもできない。なおかつ解釈次第では、音楽というリベラルアーツの記憶の集積、つまりダニエル・ロパティンの『Again』もそのような感じがあったのだが、制作者が見てきたもの、体験したもの、出来事に対する心の機微、そういった目に映らない要素の集積や積み重ねの作品といえるかもしれない。だから、音楽は一定ではなく、形態のようなものを持つことなく、ランタイムごとに音楽の表情がくるくると変わっていく。これは音楽を聞くというより、ある種のバーチャルな体験のような意味を持つ。だから決まった法則のようなものはない。聞き手側が自由に発想をふくらますことが出来るアルバムなのである。

 

その中にはクワイアとエレクトロニックやダンスを結びつけたもの、フォークやカントリーからの引用、ハードロックやベタなロックからの影響、アヴァンジャズの進行、もしくは遠くに鳴り響く日本的な音楽(これは制作者にとってエキゾチズムそのものである)が組み合わされ、オリジナリティの高い音楽が作り上げられる。ただ、映画のシークエンスのような興趣を持つインタリュードも収録されているとはいえ、表向きにはフォークミュージックの要素が強い。Big Thiefのようなインディーのモダンからの影響を基にし、それらをロンドン風のインディーポップソング(クロスオーバー化したポップソング)に落とし込む手腕はさすがと言うしかない。


例えば、アルバムの二曲目「SHELL」、そしてアルバムの終盤に収録されている「H.B.W」がこれに該当するかもしれない。その他の曲は多くがハイパーポップやエクスペリメンタルポップを通じた音楽家のアヴァンチュールの表れである。日本的な概念はかなり薄いというか、ほとんどないと思う。たぶん来日した時にアーティストが日本からかなり遠ざかったことを実感したものと思われる。しかし、その反面、逆説的になってしまうが、歌手の郷愁のような響きをこのアルバムのどこかに発見出来たとしてもそれは偶然ではないのである。

 

 

74/100

 

 

 

 「H.B.W」

Sam Fender 『People Watching』


Label: Polydor

Release: 2025年2月21日

 


Review

 

才能というものの正体が何なのか、本作を聴くとよりよく理解できる。『Seventeen Going Under』で大きな成功を掴んだ後、サム・フェンダーは地元ニューカッスルのセント・ジェームス・パークで公演を行う予定だったが、精神的な披露を理由にキャンセル。しばらくシンガーはお休みを取っていた模様であるが、ライブも再開し、徐々に本来の調子を取り戻しつつある。

 

前作ではメンタルヘルスなどの危機にある若者に対する応援ソングを中心に発表し、イギリス国内で不動の人気を獲得したサム・フェンダー。二作目のアルバムも良盤と言っても良いのではないか。スティングのような音域の広いボーカルは前作から引き継がれ、そしてそれらがドン・ヘンリーのような軽快なAORと巧みに合致している。こういった音楽を倦厭する人は少ないのではないか。ソングライターというのは、毎回のように何らかのテーマを探さねばならないので非常に大変であるが、どうやら傑出した歌手のもとには主題が向こうからあらわれるらしい。テーマというのは探すのではなく、すでに日常のどこかに偏在するものである。今回、サム・フェンダーは家族の問題、分けても彼にとって代理母のような存在をテーマにしている。

 

「タイトル曲『People Watching』は、僕にとって代理母のような存在で、昨年11月に亡くなった人のことを歌っています。私はその最期、彼女の側にいて、彼女の隣の椅子で眠っていたんだ。この曲は、その場所と家への往復で、私の頭の中をよぎっていたことを歌っている。彼女は僕にステージに上がる自信を与えてくれた人だし、いつも『なんで受賞スピーチで名前を出さないんだ』って言われていた。でも今は、曲(とアルバム)全体が彼女につながっている。彼女が今どこにいようと、『そろそろ坊や』と言って見守ってくれていることを願っている」

 

身近な人の死というのはかなり重い主題のように思えるが、生と同じく誰もが通らざるをえない扉である。ここでフェンダーは愛する人の彼岸への旅立ちを悲嘆で包むのではなく、温かい慈しみの心で送り出そうとしている。死とは今生から見た悲しみであるが、もちろん、そのなかに肯定の意味も見出すことが出来る。そこには現世的な概念からの魂の開放という前向きな考えも込められている。そして、それらの考えがアルバムのオープナーからほの見える気がしてならない。おそらく、タイトル曲を聴けば、本作が十分にポピュラーとして応力を持ち、多くの人々にとって普遍的な内容であることが理解していただけるだろう。それは死というレンズを通して生きる人が何をするべきなのかが暗示されている。軽やかに前進し、走り出すような感覚を持ったライトなロックソングは、彼が暗闇から立ち上がり、そして明るい方へ向かってゆっくりと歩き出す様子を捉えている。つまり、それが何らかの明るい感覚に縁取られている理由なのだろう。彼のポップ/ロックソングからは、走馬灯のように愛する人との記憶が立ち上ってくる。それがつまり、音楽として説得力を持ち、何らかの意義深さがある要因でもある。

 

 

特にサム・フェンダーのボーカルは、中音域から高音域に切り替わる時に、最も感動的な瞬間が訪れる。これはライブではすでにおなじみと言えるが、そういったボーカリストとしての素晴らしさを続く「Nostalgia's Lie」で確認することが出来る。ビリー・ジョエルを彷彿とさせるクラシカルなバラードソングは、サム・フェンダーの手にかかると、モダンなポピュラーへと変容する。それらがアコースティック/エレクトリックのギターの多重録音という、スコットランドのネオ・アコースティックなどでの象徴的なギターロックの要素と結び付けられる。サビの部分では、郷愁的な感覚が生み出され、やはりそこには温和な感覚がにじみ出ているのである。

 

前回のアルバムでは''懐古主義''と書いた覚えがあるが、それはフェンダーの楽曲に80年代から90年代のポピュラーの影響が感じられたからである。そして、二作目では2020年代にふさわしいポピュラーソングを書いたという印象を抱く。ただ、それもやはり オアシスのようなブリットポップの象徴的な音楽、そしてヴァーヴのようなポスト・ブリット・ポップの世代からの色濃い影響をうかがわせる。「Chin Up」はオアシスのヒット曲「Woderwall」を彷彿とさせるギターワークが光る。一方でボーカルの方はヴァーヴのリチャード・アシュクロフトのソングスタイルを彷彿とさせる。これらの組み合わせに、彼の音楽的な背景の一端を確認することも出来る。そして、何らかの影響こそ受けているが、それらをフェンダーらしいソングライティングや歌唱に昇華している。つまり、彼の歌は、やはり2020年代の象徴とも言えるのだ。2ndアルバムでは少し風変わりな音楽も含まれている。アコースティックギターの演奏をフィーチャーし、起伏に富んだ音楽を擁する「Wild Long Lie」はシンガーソングライターの新しい方向性を象徴づける楽曲といえるかもしれない。ゆったりしたテンポに戯れるように歌うフェンダーだが、この曲は途中シンセサイザーのアレンジを通して、ダイナミックな変遷を描く。

 

「Arm's Length」はオープニングと同様に、80年代のAORやニューウェイブのサウンドを活用し、シンプルなコード進行のロックソングに昇華している。近年、複雑化しすぎた音楽をより省略したり簡素化する一派が出てきている。昨年のファビアーナ・パラディーノのようにゆったりとしたスケールの進行やシンプルな曲作りは、POLICEのヒットソングのソングライティングのスタイルと組み合わされ、2020年代のUKロックのベースになったという気がしている。これはスティングだけではなく、The Alan Person's Project、Tears For Fearsのヒットソングの系譜に属している。これはもちろん類似性を指摘したいというのではなく、ヒットソングには必ずステレオタイプが存在し、過去の事例を活かすことが大切だということである。もちろん、それを現代の歌手としてどのように表現するのかが、2020年代に生きる人々の課題なのである。そして何かに似すぎることを恐れずに、自分なりの表現をつきつめていくのが最善であろう。

 

 

前作を聴いたかぎりでは、フェンダーの音楽が何年か経つと形骸化するのではないかという不安要素もあった。しかし、このアルバムではそういった心配は無用である。彼は、依然として80年代のディスコやダンスミュージック、華やかなMTV時代のポピュラー音楽に背を支えられ、軽妙で味のある2020年代の音楽を作り上げている。よく個性とは何かと言われることもあるが、それは端的に言えば、他者とは相異なる性質を示すことである。そして、それが意外なものであればあるほど、多くの人に受け入れられる可能性がある。音楽にちなんで言えば、他の一般的な人々とは異なる音楽的な背景がその人物の個性をはっきりと浮かび上がらせる。


例えば、一般的な音楽と相容れない性質を示すことを恐れていると、だんだんと音楽は無個性になり、均一化せざるを得ない。そして、一般的な要素を肯定しながらも、何かしら特異点を設けることが重要になってくる。それは音楽を演奏したり歌う人にとっては、その人が育った土地、環境、人生そのものを意味する。その点では、サム・フェンダーは本当の意味での他者が持たないスペシャリティを示しつつ、それをマイルドな方法で提示することに長けている。そしてそれこそが、ポピュラーミュージックでの大きな成功を掴むための秘訣でもあると思う。「Crumbing Empire」は、今多くの人が求めているタイプのポピュラーソングだと思う。それは聞きやすく、そして口ずさみやすいという商業音楽の基礎をしっかりと踏まえたものである。

 

『People Watching』は文句のつけようのない完成度だと思う。これらの楽曲の中では、苛烈なライブツアーの中で掴んだ手応え、大多数のオーディエンスとの共鳴する瞬間など、実際の体験者しかわからない感覚を踏まえて、的確なポピュラー/ロックソングとして昇華させているのが素晴らしい。

 

中盤ではビートルズのアートロックからの影響を感じさせる「Rein Me In」など、前作にはなかった実験的な音楽の方向性が選ばれている曲もあり、今後の制作にも期待したい。また、本作の中で最も力強くパワフルな「TV Dinner」は、フェンダーの新しいアンセム曲が誕生したと言えるかも知れない。この曲は、アリーナのスタジアムのライブパフォーマンスのために書かれた曲ではないかという推測も出来る。少なくともライブで素晴らしい効果を発揮しそうなトラックだ。


きわめつけは、クローズを飾る「Remember My Name」となるだろう。シンガーとしての圧倒的なスケールの大きさを感じさせるし、彼はこの曲で内側に秘めるタレントを惜しみなく発揮している。これまでで最もドラマティックなバラードソングである。ホーンセクションとサム・フェンダーのボーカル融合は新たな「ウォール・オブ・サウンド」が台頭したことを印象付ける。

 


 

95/100

 

 

 Best Track 「Remember My Name」

 Bartees Strange 『Horror』


Label: 4AD

Release: 2025年2月14日

 

 

Review

 

前作では「Hold The Line」という曲を中心に、黒人社会の団結を描いたバーティーズ・ストレンジ。2作目は過激なアルバムになるだろうと予想していたが、意外とそうでもなかった。しかしやはり、バーティーズ・ストレンジは、ブラックミュージックの重要な継承者だと思う。どうやら、バーティーズ・ストレンジは幼い頃、家でホラー映画を見たりして、恐怖という感覚を共有していたという。どうやら精神を鍛え上げるための訓練だったということらしい。

 

ということで、この2ndアルバムは「Horror」というタイトルがつけられたが、さほど「ホラー」を感じさせない。つまり、このアルバムは、Misfitsのようでもなければ、White Zombieのようでもないということである。アルバムの序盤は、ラジオからふと流れてくるような懐かしい感じの音楽が多い。その中には、インディーロック、ソウル、ファンク、ヒップホップ、むしろ、そういった未知なるものの恐怖の中にある''癒やし''のような瞬間を感じさせる。もしかすると、映画のワンシーンに流れているような、ホッと息をつける音楽に幼い頃に癒やされたのだろうか。そして、それが実現者となった今では、バーティーズがそういった次の世代に伝えるための曲を制作する順番になったというわけだ。ホラーの要素が全くないとは言えないかもしれない。それはブレイクビーツやチョップといったサンプルの技法の中に、偶発的にそれらの怖〜い感覚を感じさせる。しかしながら、たとえ、表面的な怖さがあるとしても、その内側に偏在するのは、デラソウルのような慈しみに溢れる人間的な温かさ、博愛主義者の精神の発露である。これはむしろ、ソングライターの幼少期の思い出を音楽として象ったものなのかもしれない。

 

バーティーズ・ストレンジは、オペラ歌手と軍人という特異な家庭に育ったミュージシャンであるが、結局、彼はギタリストとしての印象が強い。例えば、数年前にはロンドンにあるカムデンのマーケットでギターを選んでいる様子をドキュメント映像として残している。ギターに対する愛情は、アルバムの始めから溢れ出ている。そして、彼の家でかかっていたというパーラメント、ファンカデリック、フリートウッド・マック、テディ・ペンダーグラス、ニール・ヤング、そういった懐かしのR&B、そしてロック、さらにコンテンポラリーフォークまでもがこのアルバム全体を横断する。

 

「Too Much」のイントロはツインギターの録音で始まり、その後、まったりとしたR&Bへと移り変わる。それは、通勤電車やバスの向こうに見える人生の景色の変化のようである。そしてバーティーズはデビューの頃から培われたソウルフルなヴォーカルで聞き手を魅了する。ラフな感じで始まったこのアルバムだが、続く「Hit It Quit It」ではヒップホップとR&Bの融合というブラックミュージックの重要な主題を受け継いでいる。しかし、バーティーズのリリックは、それほど思想的にはならない。音楽的な響きや表現性が重要視されているので、言葉が耳にすんなり入ってくる。ファンカデリック、パーラメント好きにはたまらないナンバーとなるだろう。バーティーズはまた、哀愁のあるR&Bやソウルのバラードの系譜を受け継いでいる。「Sober」は、デビュー作に収録されている「Hold The Line」と同じ系統にある楽曲だが、しんみりしすぎず、リズムの軽やかさを感じさせる。エレクトリック・ピアノ(ローズピアノ)とセンチメンタルなボーカルが融合する。この曲は、ジャック・アントノフ&ブリーチャーズが志向するようなAOR、ソフィスティポップといった80年代のUSポップを下地にした切ないナンバーだ。


米国のトレンドに準じた形でアメリカーナを取り入れた曲が続く。「Baltimore」は、もしかすると、この土地に対するアーティストの何らかの繋がりのようなもの描いているのかもしれない。しかし、それほど、バーティーズの音楽はモダンにならず、70年代のUSロックの懐かしさに留まっている。これは彼の音楽観のようなものが幼い頃に出発しており、それらを現代のアーティストとして再現するのが理想だと考えるからなのだろうか。そして、アメリカーナ(カントリー)の要素は、バーティーズ・ストレンジが子供の頃に聴いていたニール・ヤングの世界観と結びつき、普遍的な響きのあるポップスとして蘇る。そして、それらは、南部のブルースの影響下にある渋いギターや曲調と繋がっている。むしろ、前作では、黒人社会について誰よりも真摯に考えていたシンガーであるが、この二作目では、人種的な枠組みを超えるような良質な曲を書いている。これは、明らかにシンガーソングライターとしての大きな成長といえる。なぜなら、この世界に住んでいるのは一つや二つの人種だけではないのだから。

 

「Lie 95」は、たぶんマイケル・ジャクソンのようなナンバーにすることも出来たかもしれない。しかし、この曲は少し控えめな感覚が維持されている。見え透いたようなきらびやかなポップスからは距離を置いているのが分かる。それが、渋さや深みのような奥深い感覚を漂わせている。もちろん、ポップソングとしての分かりやすさや聞きやすさという点はしっかりと維持した上で、深い感覚がしっかりと宿っている。従来のポピュラーソングの聞き方が少し変わるような面白い音楽である。結果的に、この曲は80年代のディスコとYves Tumorのハイパーポップのセンスを巧みに結びつけて、古さと新しさを瞬時にクロスオーバーするようなユニークな感じに仕上がっている。

 

中盤にもハイライト曲がある。最もロックソングの性質を前面に押し出した「Wants Need」は、ブリーチャーズとも共通点のあるナンバーである。 この曲はスプリングスティーンから受け継がれる定番のようなロックソング。しかし、それほどマッチョイズムにそまらず、中性的な感じが生かされているのが新しい。この曲でも、古典的な観念に染まりきらず、現代的な考えを共有しようという、ソングライターの心意気のようなものが伝わってくる。歌詞に関しても、無駄な言葉を削ぎ落としたような洗練性があり、耳にすんなり入ってくることが多い。「Love」は、アーティストがこれまでに作ったことが少ないタイプの曲ではないかと推測される。EDMに依拠したダンストラックで、この曲の全体に漂うダブステップの感覚に注目してもらいたい。

 

『Horror』は単なる懐古主義のアルバムではないらしく、温故知新ともいうべき作品である。例えば、エレクトロニックのベースとなる曲調の中には、ダブステップの次世代に当たる''フューチャーステップ''の要素が取り入れられている。こういった次世代の音楽が過去のファンクやヒップホップ、そしてインディーロックなどを通過し、フランク・オーシャン、イヴ・トゥモールで止まりかけていたブラックミュージックの時計の針を未来へと進めている。おそらくバーティーズ・ストレンジが今後目指すのは"次世代のR&B"なのかもしれない。


終盤のハイライト曲「Loop Defenders」「Norf Gun」には、未知なるジャンルの萌芽を見出すことが出来るはずだ。後者の曲については、Nilfer Yanyaが2022年のアルバム『Painless』で行ったR&Bの前衛性を受け継いだということになるだろうか。こういったフレッシュな音楽が次の作品ではどのように変容していくのかとても楽しみだ。

 


 

85/100 

 


 

 Best Track-「Norf Gun」

Horsegirl 『Phonetics On and On』

 

Label: Matador

Release: 2025年2月14日

 

Review

 

シカゴの三人組ロックバンド、ホースガールは正真正銘のハイスクールバンドとして始まり、同時にシカゴのDIYコミュニティから台頭したバンドである。

 

ファーストアルバムで彼女たちは予想以上に大きな成功を掴み、そしてコーチェラなどの大規模なフェスティバルにも出演した。現時点ではバンドは大成功を収めたと言えるが、問題は、そういった大きなイベントに出演しても当初のローファイなギターロックサウンドを維持出来るのかがポイントであった。それはなぜかと言えば、他のバンドやアーティストの音楽に目移りしてしまい、ホースガールらしさのようなものが失われるのではないかという一抹の懸念があったのである。大きなフェスティバルに出演した後でもホースガールは自分たちの音楽に自負を維持出来るのか。まだ若いので色々やってみたくなることはありえる。しかし、結果的には、周囲に全く揺さぶられることがなかった。ホースガールは、周りに影響されるのではなく、自分たちのリアルな経験や手応えを信じた。ファースト・アルバムほどの鮮烈さはないかもしれないが、本作の全編にはホースガールらしさが満載となっている。荒削りなサウンド、温和なコーラス、ラモーンズからヨ・ラ・テンゴまで新旧のパンク/オルタナ性を吸収し、的確なサウンドが生み出された。そして、今回はシカゴ的な気鋭の雰囲気だけではなく、西海岸のバーバンク、ウェスト・コーストやヨットロックを通過した渋さのある2ndアルバムが誕生した。

 

特に、コーラスの側面ではデビュー当時よりも磨きがかけられており、これらはホースガールのチームワークの良さを伺わせるもので、同時に現在のバンドとしての大きなストロングポイントとなっていると思われる。それらがノンエフェクトなギターサウンドと合致し、 心地良いサウンドを生み出す。ローファイなロックサウンドはマタドールが得意とするところで、Yo La Tengoの最新作と地続きにある。しかし、同じようなロックスタイルを選んだとしても、実際のサウンドはまったく異なるものになる。もっと言えば、ホースガールの主要なサウンドは、ヨ・ラ・テンゴやダイナソー・Jr.の90年代のサウンドに近いテイストを放つ。カレッジロックやグランジ的なサウンドを通過した後のカラリとした乾いたギターロックで、簡素であるがゆえに胸に迫るものがある。そして、適度に力の抜けたサウンドというのは作り出すのが意外に難しいけれど、それを難なくやっているのも素晴らしい。「Where'd You Go?」はラモーンズの系譜にあるガレージロック性を踏襲し、ラモーンズの重要な音楽性を形成しているビーチ・ボーイズ的なコーラスを交え、ホースガールらしいバンドサウンドが組み上がる。特にドラムの細かいスネアの刻みがつづくと、サーフロックのようなサウンドに近づくこともある。これは例えば、ニューヨークのBeach Fossilsのデビュー当時のサウンドと呼応するものがある。

 

最近では、インディーポップ界隈でもアナログの録音の質感を押し出したサウンドが流行っていることは再三再四述べているが、ホースガールもこの流れに上手く乗っている。厳密に言えば、アナログ風のデジタルサウンドということになるが、そういった現代のアナログ・リヴァイヴァルの運動を象徴付けるのが続く「Rock City」である。イントロを聴けば分かると思うが、ざらざらとして乾いた質感を持つカッティングギターの音色を強調させ、ピックアップのコイルが直に録音用のマイクに繋がるようなサウンドを作り上げている。これが結果的には、ブライアン・イーノがプロデュースしたTalking Heads(トーキング・ヘッズ)の『Remain In Light』のオープニングトラック「Born Under The Punches」のようなコアでマニアックなサウンドを構築する要因となった。しかし、ホースガールの場合は、基本的には、ほとんどリバーブやディレイを使わない。拡張するサウンドではなく、収束するサウンドを強調し、これらが、聴いていて心地よいギターのカッティングの録音を作り出している。いわば、ガレージロックやそのリバイバルの系譜にあるストレートなロックソングとしてアウトプットされている。そしてトーキング・ヘッズと同様にベースラインをギターの反復的なサウンドに呼応させ、さらにコーラスワークを交えながら、音楽的な世界を徐々に押し広げていく。まさしく彼女たちがデビュー当時から志向していたDIYのロックサウンドの進化系を捉えられることが出来る。 


「In Twos」では、デビュー当時から培われた神秘的なメロディーセンスが依然として効力を失っていないことを印象付ける。ゆったりとしたリズムで繰り広げられるサウンドは、温和なメロディーとニューヨークパンクの原点であるパティ・スミスのようなフォークサウンドと絡み合い、個性的なサウンドが生み出される。この曲でも、トラック全体の印象を華やかにしたり、もしくは脚色を設けず、原始的なガレージロック風のサウンドが、それらの温和な雰囲気と絡み合い、独特なテイストを放つ。

 

弦楽器のスタッカートやピチカートのようなサウンドをアンサンブルの中に組み込もうとも、やはりそれはヴェルヴェッツやテレヴィジョンの最初期のニューヨークパンクの系譜に位置づけられるサウンドが維持され、Reed & Nicoのボーカルのようなアートロックの範疇に留まっている。これらは結局、パッケージ化されたサウンドに陥らず、商品としての音楽という現代の業界のテーゼに対して、演奏の欠点をそのまま活かしたリアリスティックなロックサウンドで反抗しているのである。言い換えれば、それは上手さとか巧みさ洗練性というものに対する拙さにおけるカウンターでもある。これは結局、実際のサウンドとしては「Marquee Moon(マーキー・ムーン)」のポエティックな表現下にあるアートロックという形に上手く収まる。改めて、商業的なロックとそうでないロックの相違点を確かめるのに最適な楽曲となっている。

 

「2468」も同様に、フィドルのようなフォークソングの楽器を取り入れて、アメリカーナの要素を強調しているが、依然としてハイスクールバンドらしさが失われることはない。この曲には、学生らしさ、そして何かレクリエーションのような楽しさと気やすさに満ちている。 これらのサウンドは超越性ではなく、親しみやすさ、リスナーとの目線が同じ位置にあるからこそなしえる業である。ホースガールのサウンドは、これなら出来るかもしれない、やってみようという思いを抱かせる。それは、パティ・スミス、テレヴィジョン、ラモーンズも同じであろう。

 

続く「Well I Know You're Shy」は、ポエティックなスポークンワードと原始的なロックの融合性がこの曲の持ち味となっている。アルバムの序盤の複数の収録曲と同様に、ニューヨークの原始的なパンクやロックのサウンドに依拠しており、それはヴェルヴェットの後期やルー・リードのソロ作のような古典的なロックサウンドの抽象的なイメージに縁取られている。意外とではあるが、自分が生きていない時代への興味を抱くのは、むしろ若い世代の場合が多い。それらは、同時に過去の人々に向けた憧憬や親しみのような感覚を通じて、音楽そのものにふいに現れ出ることがある。この曲までは、基本的にはデビューアルバムの延長線上にある内容だが、ホースガールの新しい音楽的な試みのようなものが垣間見えることもある。「Julie」は、その象徴となるハイライトで、外側に向けた若さの発露とは対象的に内省的な憂鬱を巧みに捉え、それらをアンニュイな感覚を持つギターロックに昇華させている。比較的音の数の多いガレージロックタイプの曲とは異なり、休符や間隔にポイントを当てたサウンドは、ホースガールの音楽的なストラクチャーや絵画に対する興味の表れでもある。ベースの演奏のほかは、ほとんどギターの演奏はまるでアクション・ペインティングのようでもあり、絵の具を全体的なサウンドというキャンバスに塗るというような表現性に似ている。これらはまた、ホースガールのアーティスティックな表現に対する興味を浮き彫りにしたようなトラックとして楽しめる。

 

ニューヨークの原始的なロックの向こうには、マタドールのレーベルメイトのヨ・ラ・テンゴがいるが、最もカプラン節のようなものが炸裂する瞬間が続く「Switch Over」である。ミニマルなギターの反復というのはまさしくヨ・ラ・テンゴの系譜にあり、ホースガールがポスト世代にあることを印象付ける。 同時にコーラスやボーカルも一貫して言葉遊びのような方法論を活かし、心地よいロックサウンドが組み上がる。ホースガールのメンバーは基本的に、歌詞そのものを言語的にするのではなく、音楽的な響きとして解釈する。結果、ボーカルの声は器楽的な音響に近づき、英語に馴染みのない人にも調和的な響きを形成するのである。そしてミニマリズムの構成を通じて、モチーフの演奏を続け、曲の終盤にはより多角的なサウンドや複合的なサウンドを作り上げる。これらは毛織物の編み込みのように手作りなサウンドの印象に縁取られ、聴いていて楽しい印象を抱くに違いない。最初は糸に過ぎなかったものが、ホースガールの手にかかると、最終的にはカラフルでおしゃれなセーターが作り上げられるという次第だ。

 

基本的にはこのアルバムはニューヨークの印象とシカゴのDIYの趣向性に縁取られている。しかし、稀に西海岸のサウンドが登場する。これらのサウンドは現代の北米のミュージックシーンの流れに沿ったもので、基本的にはホースガールは流行に敏感なのである。そして、それらはまだ完成したとは言えないが、次のバンドの音楽の暗示ともなっているように感じられる。「Information Sound」、「Frontrunner」はイギリスのフォークムーブメントと呼応するような形で発生したバーバンクサウンドや最初期のウェスト・コーストサウンドの系譜にあるノスタルジックなフォークサウンドである。これらは70年代初頭のカルフォルニアのファン・ダイク・パークスといったこのムーブメントの先駆的なミュージシャンと同じように、 フォークとロックの一体化というイディオムを通して、アメリカ的なロックの源流を辿ろうとしている。

 

アルバムの最後には、ホースガールらしいサウンドに回帰する。これらはニューヨーク、シカゴ、西海岸という複数の地域をまたいで行われる音楽の旅行のようで興味をひかれる部分がある。「Sports Meets Sound」では、ローファイなロックとコーラスワークの妙が光る。しかし、それはやはりハイスクールバンドの文化祭の演奏のようにロック本来の衝動的な魅力にあふれている。そして最もソングライティングの側面で真価が表れたのが、続く「I Can't Stand to See You」であり、サーフロックの系譜にあるサウンドを展開させ、海岸の向こうに昇る夕日のようなエンディングを演出する。本作を聴いた後に爽やかな余韻に浸ることが出来るはずである。

 

 

80/100 

 

 

「Julie」

Helen Ganya 『Share Your Care』


Label: Bella Union

Relase: 2025年2月7日

 


Review



スコットランド在住で、タイにルーツを持つシンガー、ヘレン・ガーニャはベラ・ユニオンから発売された新作で摩訶不思議なポピュラーワールドを展開している。祖母の死をきっかけに書かれたアルバムで、タイとの繋がりが断ち切られるおそれを抱いたヘレン・ガーニャは、前作の発売前にこの新作に着手しはじめました。日記を手に入れ、タイでの思い出にまつわる子供の頃についての楽曲を書き始めた。結果的には、西洋側から見たアジアではなく、アジアそのものの奥深いルーツを辿ることになった。そのプロセスでシンガーは大切なことに気がつきました。家族や伝統的な概念に対する愛情、現代社会における過度な個人主義の歪みでした。

 

そういった社会的な問題は、家族愛やタイやシンガポールとの関係によって演繹され、温かく朗らかな愛情のひと雫に変化しています。それはとりもなさず、幼少期に彼女を育ててくれた祖母をはじめとする家族という概念がアルバムの音楽に通底しているからなのでしょうか。音楽としてはタイの民族楽器であるラナットエット、フルート、サックスが登場しますが、これらは西洋主義に慣らされた人々にとってはエキゾチックに聞こえるに違いありません。ときどき、それはタイのボクシングを観戦するときの「チャイヨ!」という掛け声にたちあらわれます。

 

本作は、音楽的にはシンセポップが中心となっており、ビョークの最初期やミツキの初期のアプローチに重なるものがある。しかし、同時に、それらのシンセポップは、タイの民族音楽や祭礼の音楽によって強められ、独自の音楽に変化しています。いわば、アジアの音楽に詳しくない方にとっては、これらの音楽は摩訶不思議に聞こえるでしょう。しかし、これらはアジア発祥の音楽がベースになっています。西洋主義が優勢になるにつれ、多くの人はアジア的な概念がなんであるのかを忘れてしまった。そんな中で、アジア出身の歌手が西洋びいきのポップスを制作する中で、ヘレン・ガーニャは西洋音楽と東洋音楽の融合に取り組んでいる。これが結果的に、心地よいサウンドとオリジナリティの高い音楽性を生み出すことになったのでした。 


アルバムは流行りのインタリュードの形式を各所に設け、物語性を付与し、起承転結のあるポピュラーソングが展開されます。これは例えば、YMOのようなアジアのサウンドがギターを中心としたモダンなポップスに生まれ変わり、タイやシンガポールのような地域の原初的な音楽と結びついたらどうなるのか、という空想でもあるのです。しかし、その空想は、タイの楽器演奏者、Artit Phoron、Chinnathip Poolapという現地の音楽をよく知るコラボレーターに恵まれたことで現実に近づいた。ヘレン・ガーニャの音楽的な構想には''ファンタジア''の要素が求められますが、実際的には現実性に富んだ音楽性が組み込まれている。まさしく、彼女がこれらの音楽の制作や歌唱を通じて、幼少期の思い出に近づいたとき、温かな感覚が蘇る。それは私たちが見る現実以上にリアルです。そして、その音楽という端緒を通じて、タイとのつながりを取り戻す。''無くしたと思っていたものが、実は身近にあったことに気がつく''という次第なのです。

 

アルバムのオープナーから軽快な印象です。「Share You Care」ではファジーなシンセポップにヘレン・ガーニャの華麗なボーカルが乗せられる。全体的な音楽の枠組みが西洋に依拠しているからと言えども、そのメロディーの節々にはアジアのテイストが漂う。聴く人にとっては少しエキゾチックにも聞こえるかもしれませんが、懐かしい感覚が蘇る。それらをスタイリッシュな感覚に充ちたポップスに落とし込むという点では、ニューヨークのインディーポップシーンに呼応するもので、セイント・ヴィンセントのデビューアルバムを彷彿とさせます。アジアのよな抜き音階を踏襲したシンセのベースライン、そしてボーカルが心地良いサウンドを生み出している。ダンス・ポップ、ないしはシンセ・ポップとして申し分のないナンバーでしょう。

 

ファンタジックな音楽性は「Mekong」に登場します。ギターのアルペジオを中心に組み上げられるポップソングはやがてビョークの系譜にあるアートポップの手法においてその壮大さを増していき、アーティストの持ちうる音楽的な世界が序盤から見事に花開いています。プレスリリースで紹介されている通り、これらのポップスはシネマティックであるばかりか、映像的な側面を持つ。実際的にリスナーは音楽の持つ換気力により何らかのイメージを膨らますことが出来ます。ベースラインの進行が秀逸であり、ボーカルの主旋律を上手く補佐し、なんらかの切ないイメージのような感覚を聞き手の脳裏に呼び覚ます。音楽の持つ想像性が発揮された瞬間です。この曲にはプロデューサーとシンガーのイメージが巧みに合致した瞬間を捉えられます。

 

「Intelude-1」を挟んで、 Zitherのような楽器の華麗なアルペジオが登場する「Fortune」はエキゾチックな民族音楽とポピュラーの融合を意味します。Zitherは、フォルテ・ピアノの原型とも言われ、日本の琴の音にも近似している。少なくとも、この曲では、タイの象徴的な仏教寺院などで聞かれる祭礼の音楽を、親しみやすく聞きやすいサウンドに編曲しています。エスニックなサウンドにビョークの系譜にあるアートポップの要素を結びつけて、新鮮味溢れる音楽性を作り上げている。これらのサウンドには、例えば、ニューヨークの伝説的な歌手、Murgo Garyanの象徴づけられるバロックポップからの影響がうかがえ、チェンバロのような背景のサウンドと上手くマッチしています。近年の米国のポップスの懐古的なサウンドを踏襲しつつ、それらにエキゾチズム(アジアのサウンド)を付与したことが、曲にささやかな楽しみをもたらす。


「Horizon」は、ピアノとヨットロックのようなギターを結びつけたナンバーです。ペシミスティックな雰囲気を持つバラードソングで、ここではおそらく亡き祖母との思い出、そしてタイという土地のつながりについて追憶します。つまり、全体的に見ると、オペレッタの作風が取り入れられ、セイント・ヴィンセントやビョークのアートポップの音楽性に直結しています。そして驚くべきことに、それは単なるエンターテインメント以上の意味を擁する。とりもなおさず、消えかけた記憶の糸をたぐりよせる……、それこそ歌手にとってのリアリティを意味するのでしょう。これらは聞き手を追体験のような瞬間に誘い、感情的な気分にさせることがある。

 

「Morlam Plearn」は、推察するに、タイの民族音楽ということになるでしょうが、例えば、アイルランドのLankumの音楽性と相通じるものがあります。あまり詳しくありませんが、タイの吹奏楽器や弦楽器が登場し、これらはスペインのアルフォンソ国王の御代の中世ヨーロッパの音楽を彷彿とさせる。アルフォンソは、トルコや北ヨーロッパとの交易を通じて原初的な民族音楽を確立しました。後にコーカサスの音楽と結びつき、例えば、ゲオルギイ・グルジェフのような音楽家/舞踏家が「アルメニアの民族音楽」として紹介しました。タイとの関連性は不明なのですが、少なくとも、この曲においてリズムミカルな舞踏音楽と結びつけ、祭礼的な意味合いの強い楽曲として昇華している。二つ目のインタリュード「Interlude-2」は、子供の頃の思い出を呼び覚ますためのもの、過去の声の日記(ボイスメモ)のような意味合いがあるのでしょうか?

 

分けても、アジアの音楽のテイストとシンセ・ポップやダンス・ポップと上手く結びつけたのが終盤の収録曲で、これらは単なる奇異の目をもってアジアの音楽を聴く以上の魅力が感じられる。「Bern Nork」ではタイで流行しているポピュラーソングがかくなるものではないかと想像させる。それが、実際、モダンでスタイリッシュな感覚を持つポップソングに昇華されている。そして、ヘレン・ガーニャの歌声には、ちょっとした可愛らしさと可笑しみが含まれていて、これもファンタジーに登場する妖精のようにファニーな雰囲気を持ち合わせている。特に、このアルバムで完成度が最も高い曲が続く「Hell Money」でしょう。この曲では、アルバムの全体的なシンセ・ポップという枠組みの中で、歌手のメロディーセンスが光る瞬間でもある。そして、この曲には開放的な感覚に充ちていますが、それはケルト民謡の要素が含まれており、この音楽の特徴である牧歌的な雰囲気がモダンなアートポップの中で個性的な魅力を放つ。

 

終盤にも素敵な曲が収録されています。タイのボクシング観戦の時に言うセリフ「チャイヨ!」という掛け声は、YMO、JAPANのようなニューロマンティックの系譜にあるサウンドと結びついて、懐かしくレトロな響きを生み出す。最後のインタリュード「Interlude 3」では、子供の遊び場のサウンドスケープが呼び覚まされる。続くアルバムのクローズを飾る「Myna」は、クライマックスを飾るに相応しいダイナミックなバラードソング。歌手としての存在感を示すにとどまらず、歌唱の表現力の豊かさを発揮しています。今後がとても楽しみなシンガーソングライターがスコットランドから登場しました。ヘレン・ガーニャの今後の活躍に注目です。

 

 

80/100

 

 

 

 

「Hell Money」

 Squid  『Cowards』

 

Label: Warp

Release: 2025年2月7日

 

 

Review

 

最もレビューに手こずった覚えがあるのが、Oneohtrix Point Never(ダニエル・ロパティン)の『Again』だったが、ブリストルのポストパンクバンド、Squidの『Cowards』もまた難物だ。いずれも、Warpからの発売というのも面白い共通点だろう。


そして、いずれのアルバムも成果主義に支配された現代的な観念からの脱却を意味している。スクイッドは無気力と悪魔的な考えがこのアルバムに通底するとバンドキャンプの特集で語った。また、サマーソニックの来日時の日本でのプロモーション撮影など、日本に纏わる追憶も織り交ぜられており、日本の映像監督が先行曲のMVを制作している。従来、スクイッドは、一般的なロンドンのポストパンクシーンと呼応するような形で登場。同時に、ポストパンクの衝動性というのがテーマであったが、ボーカルのシャウトの側面は前作『O Monolith』から少し封印されつつある。それとは別のマスロックの進化系となる複雑なロックソングを中心に制作している。さて、今回のイカの作品は音楽ファンにどのような印象をもって迎え入れられるのだろう。

 

 

近年、複雑な音楽を忌避するリスナーは多い。スクイッドも、時々、日本国内のリスナーの間でやり玉に挙げられることもあり、評論家筋の評価ばかり高いという意見を持つ人もいるらしい。少なくとも、最新の商業音楽の傾向としては、年々、楽曲そのものが単純化されるか、省略化されることが多いというデータもあるらしい。また、それはTikTokのような短いスニペットで音楽が聞かれる場合が増加傾向にあることを推察しえる。ただ、音楽全体の聞き方自体が多様化しているという印象も受ける。以前、日本のTVに出演したマティ・ヒーリーは短いスニペットのような音楽のみが本質ではないと述べていた。結局、音楽の楽しみ方というのは多彩化しており、簡潔な音楽を好む人もいれば、それとは反対に、70年代のプログレッシヴロックのような音楽の複雑さや深みのような感覚を好き好むと人もいるため、人それぞれであろう。ちゃちゃっとアンセミックなサビを聞きたいという人もいれば、レコードで休日にじっくりと愛聴盤を聞き耽りたいという人もいるわけで、それぞれの価値観を押し付けることは出来ない。

 

一方、スクイッドの場合は、間違いなく、長い時間をかけて音楽を聞きたいというヘヴィーなリスナー向けの作品をリリースしている。また、『Cowards』の場合は、前作よりも拍車がかかっており、まさしくダニエル・ロパティのエレクトロニクスによる長大な叙事詩『Again』のポストロックバージョンである。スクイッドは、このアルバムの冒頭でチップチューンを絡めたマスロックを展開させ、数学的な譜割りをもとに、ミニマリズムの極致を構築しようとしている。

 

スクイッドはアンサンブルの力量のみで、エキサイティングなスパークを発生させようと試みる。バンドが語るアパシーという感覚は、間違いなくボーカルの側面に感じ取られるが、バンドのセッションを通じてアウトロに至ると、そのイメージが覆されるような瞬間もある。それは観念というものを打ち破るために実践を行うというスクイッドの重要な主題があるわけだ。激動ともいえるこの数年の大きな流れからしてみれば、小市民は何をやっても無駄ではないのかという、音楽から見た世界というメタの視点から、無気力に対して挑もうとする。これが「Crispy Skin」という日常的な出来事から始まり、大きな視点へと向かっていくという主題が、ミニマリズムを強調した数学的な構成を持つマスロック、そしてそれとは対象的な物憂げな雰囲気を放つボーカルやニューウェイヴ調の進行を通じて展開されていく。この音楽は結果論ではなく、「過程を楽しむ」という現代人が忘れかけた価値観を思い出させてくれるのではないか。

 

以前、ピーター・ガブリエルのリアル・ワールド・スタジオ(実際はその近くの防空壕のようなスタジオ)で録音したとき、スクイッドは成果主義という多くのミュージシャンの慣例に倣い実践していたものと思われる。だが、このアルバムでは彼等は一貫して成果主義に囚われず、結果を求めない。それがゆえ、非常にマニアックでニッチ(言葉は悪いが)なアルバムが誕生したと言える。その一方で、音楽ファンに新しい指針を示唆してくれていることも事実だろう。

 

そして「プロセスを重視する」という指針は、「Building 500」、「Blood On The Boulders」に色濃く反映されている。ベースラインとギターラインのバランスを図ったサウンドは、従来のスクイッドの楽曲よりも研ぎ澄まされた印象もあり、尚且つ、即興演奏の側面が強調されたという印象もある。いずれにしても、ジャジーな印象を放つロックソングは、彼等がジャズとロックの融合という新しい節目に差し掛かったことを意味している、というように私自身は考えた。


続く「Blood On The Boulders」では、ダークな音楽性を通して、アヴァンギャルドなアートロックへと転じている。ハープシコードの音色を彷彿とさせるシンセのトリルの進行の中で、従来から培われたポストパンクというジャンルのコアの部分を洗い出す。この曲の中では、女性ボーカルのゲスト参加や、サッドコアやスロウコアのオルタネイトな性質を突き出して、そしてまるで感情の上がり下がりを的確に表現するかのように、静と動という二つのダイナミクスの変遷を通じて、スクイッドのオリジナルのサウンドを構築するべく奮闘している。まるでそれは、バンド全体に通底する”内的な奮闘の様子”を収めたかのようで、独特な緊張感を放つ。また、いっとき封印したかと思えたジャッジのシャウトも断片的に登場することもあり、これまで禁則的な法則を重視していたバンドは、もはやタブーのような局面を設けなくなっている。これが実際的な曲の印象とは裏腹に、何か心がスッとするような快感をもたらすこともある。

 

 

同じように、連曲の構成を持つ「Fieldworks Ⅰ、Ⅱ」では、ハープシコードの音色を用い、ジャズ、クラシックとロックが共存する余地があるのかを試している。もっとも、こういった試みが出来るというのがスクイッドの音楽的な観念が円熟期に達しつつある証拠で、アンサンブルとしての演奏技術の高いから、技巧的な試みも実践出来る。しかし、必ずしも彼等が技巧派やスノビズムにかぶれているというわけではない。


例えば、「Ⅰ」では、ボーカルそのものはスポークワンドに近く、一見すると、回りくどい表現のように思えるが、ハープシコードの対旋律的な音の配置を行い、その中でポピュラーソングやフォーク・ソングを組み立てるというチャレンジが行われている。そして「Ⅰ」の後半部では、シンセによるストリングスと音楽的な抑揚が同調するようにして、フィル・スペクターの「ウォール・オブ・サウンド」のオーケストラストリングを用いて、息を飲むような美しい瞬間がたちあらわれる。この曲では必ずしも自己満足的なサウンドに陥っていないことがわかる。ある意味では、音楽のエンターテインメント性を強調づけるムーブメントがたちあらわれる。

 

また、「Ⅱ」の方では、バンドによるリズムの実験が行われる。クリック音(メトロノーム)をベースにして、リズムから音楽全体を組み上げていくという手法である。また、その中にはジャズ的なスケール進行から音楽的な細部を抽出するというスタイルも含まれている。一つの枠組みのようなものを決めておいて、そのなかでバンドメンバーがそれぞれ自由な音楽的表現を実践するという形式をスクイッドは強調している。それらがグラスやライヒのミニマリズムと融合したという形である。それが最終的にはロックという視点からどのように構築されるかを試み、終盤に音量的なダイナミクスを設け、プログレやロック・オペラの次世代にあるUKミュージックを構築しようというのである。試みはすべてが上手くいったかはわからないけれども、こういったチャレンジ精神を失えば、音楽表現そのものがやせほそる要因ともなりえる。

 

以後、楽曲自体は、聞きやすい曲と手強い曲が交互に収録されている。「Co-Magnon Man」ではロックバンドとしてのセリエリズムに挑戦し、その中でゲストボーカルとのデュエットというポピュラーなポイントを設けている。シュトックハウゼンのような原始的な電子音楽の醍醐味に加えて、明確に言えば、調性を避けた十二音技法の範疇にある技法が取り入れられるが、一方で、後半では珍しくポップパンクに依拠したようなサビの箇所が登場する。明確にはセリエリズムといえるのか微妙なところで、オリヴィエ・メシアンのような「調性の中で展開される無調」(反復的な楽節の連続を通して「調性転回」の技法を用いるクラシック音楽の作曲方法で ''Sequence''と言う)というのが、スクイッドの包括的なサウンドの核心にあるのだろう。これらの実験音楽の中にあるポップネスというのが、今後のバンドのテーマになりそうな予感だ。また、ギターロックとして聞かせる曲もあり、タイトル曲「Cowards」はそれに該当する。ここでは、本作のなかで唯一、ホーンセクション(金管楽器)が登場し、バンドサウンドの中で鳴り響く。アメリカン・フットボールの系譜にあるエモソングとしても楽しめるかもしれない。

 

どうやら、アルバムの中には、UKの近年のポストロックやポストパンクシーンをリアルタイムに見てきた彼等にしか制作しえない楽曲も存在する。「Showtime!」は、最初期のBlack Midiのポスト・インダストリアルのサウンドを彷彿とさせ、イントロの簡潔な決めとブレイクの後、ドラムを中心としたスムーズな曲が繰り広げられる。そして、アルバムの序盤から聴いていくと、観念から離れ、現在にあることを楽しむという深い主題も見いだせる。そのとき、スクイッドのメンバーは、おそれや不安、緊張から離れ、本来の素晴らしい感覚に戻り、そして心から音楽を楽しもうという、おそらく彼等が最初にバンドを始めた頃の年代の立ち位置に戻る。


アルバムの最後では、彼等のジャンルの括りを離れて、音楽の本質や核心に迫っていく。ある意味では、積み上げていったものや蓄積されたものが、ある時期に沸点のような瞬間を迎え、それが瓦解し、最終的には理想的な音楽に立ち返る。その瞬間、彼等はアートロックバンドではなくなり、もちろんポストパンクバンドでもなくなる。しかし、それは同時に、心から音楽をやるということを楽しむようになる瞬間だ。「Cowards」は、音楽的に苦しみに苦しみ抜いた結果にもたらされた清々しい感覚、そして、次なるジャイアント・ステップへの布石なのである。

 

 

 

 

 82/100

 

 

Best Track 「Blood On The Boulders」