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Vernon Spring(ヴァーノン・スプリング)は、ノース・ロンドン出身のミュージシャン、サム・ベステのレコーディング・プロジェクト。
サム・ベステは幼い時代からジャズ、フォーク、現代音楽ネオソウルに親しみ、幅広い音楽的なバックグランドを持つ。さらに彼は元々バックミュージシャンとして活動していて、音楽的なセンスに磨きをかけてきた。その中には、エイミー・ワインハウスのライブステージを背後から支えたという功績がある。サム・ベステの音楽は、こういった世界的なスターの背後で培われた。
ベステが最も早く音楽に触れたのは、セロニアス・モンクからボブ・ディラン、ディアンジェロからルイジ・ノーノまで、多彩なレコード・コレクションを持つ父親の影響だった。 11歳のとき、偶然のピアノ・レッスンがベステを重要な方向へと導き、即興演奏への継続的な情熱を促し、彼の人生の軌跡を形作った。
かれのたゆまぬ努力と才能は、エイミー・ワインハウスの成功の軌道に乗せられ、彼女の出世作の大半をライブ・ピアニストとして伴奏した。 この2人のペアは、ガブリエルズ、ケンドリック・ラマーのプロデューサー、サウンウェーブ、ベス・オートン、カノ、ジョイ・クルークス、マシュー・ハーバート、MFドゥームなど、他の重要で多様なコラボレーションへの道を開いた。
20代半ばにアルト・ソウルの”Hejira”で何年も作曲とリリースを行った後、ベステは”Lima Limo”という集団とレーベルの結成に協力、支援的なコミュニティと刺激的な創造的基盤を提供した。その後、サム・ベステは表舞台に出る準備が整ったとばかりに、ソロ活動を始めた。 2019年までに、ザ・ヴァーノン・スプリングを名乗り、ソロ作品をリリースし始め、ジャズのバックグラウンドと現代的なエレクトロニック・プロダクションを融合させた歌声を展開した。
『A Plane Over Woods』や『Earth, On A Good Day』を含む彼のデビューEPとその後のリリースは、エモーショナルなヴォーカルと繊細なエレクトロニクスを重ねた幽玄なピアノ・ワークから構成される特徴的なサウンドを確立した。2021年のデビュー・アルバム『A Plane Over Woods』はロングセラーを記録。その後、LPのみでリリースしたマーヴィン・ゲイの名作『What’s Going On』を独自に解釈したアルバム『What’s Going On』も高い評価を獲得した。
ニューアルバム『Under a Familiar Sun』は、アイスランドの著名な作曲家、ピアニスト、さらにKiasmosとしても活動するÓlafur Arnalds(オーラヴル・アーノルズ)が主宰するレーベル”OPIA Community”(EU)、RVNG Intl(US)、インパートメント(JP)の3レーベルからの共同リリースとなる。 これはヨーロッパ、北米、そして日本を超える新しいリリースの形態である。
最新作『Under a Familiar Sun』は、彼の芸術的進化の幅の広さと深みを物語る。作曲とプロセスに基づく長い実験期間を経て生まれ、これまでの即興的なプロダクションから、複雑なアプローチへの転換を果たした。
サムは、プロデューサーのIko Nicheと一緒に、彼自身の所有するレコーディングスタジオでアルバム制作を進行させるなかで、彼は音楽的な背景を包み隠さず披瀝している。ヒップホップの影響や、サンプリングを活用した前衛的な手法を取り入れながら、The Vernon Springらしいピアノ・コンポジションを全編にわたって貫き、前人未到のサウンドスケープを描き出す。
本作には、ソロプロデューサーの音楽を通じて、未知の世界の扉を開く、というコンセプトがある。そのインビテーター(案内役)となるのが、複数のコラボレーターである。また、それはベステの別の人を通じて新しい音楽を発見するというキャリアを象徴づけるものだといっても過言ではないはずである。アルバムの案内役、それは何も彼と近いミュージシャンだけとは限らない。全く異分野のミュージシャン、あるいはその表現者たちは、ベステの音楽に鮮やかな命を吹き込む。「The Breadline」の詩でアルバム全体のコンセプトにインスピレーションを与えた作家のMax Porter、直感的なアレンジが没入感のあるレイヤーと深みを加えたチェリストのKate Ellis、NYブルックリンを拠点に活動するヴォーカリスト、プロデューサー、作家、天体物理学博士のadenなどが参加し、それぞれ魅惑的な表現で作品に命を吹き込んでいる。
The Vernon Spring 『Under a Familiar Sun』- OPIA Community(EU)/RVNG(US)/Impartment (JP)
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例えば、バックミュージシャンがソロミュージシャンに転向する場合、ソロでやるつもりはなかった、と語ることがある。これは元々、グループで活動していた歌手などがソロに転向するときも同様だ。その言葉にはリップサービスも含まれているのかもしれないが、基本的には、その言葉に違わず、音楽を仕事にしようと一生懸命に活動していたら、バックミュージシャンになり、生計を立てるようになった、さらにその後、行きがかりでソロミュージシャンに転向した、という場合が多い。いわば有名なミュージシャンのバックバンドなどで演奏することは、ソロミュージシャンや表舞台に出るための欠かさざる準備期間であったと言えるのだが、もちろん、それはだいぶ後になって気がつくことである。こういった人々は、偶然の要素を見逃さず、何くれとなく新しいことに挑戦するような、たくましい精神力を持っていることが多い。
サム・ベステのニューアルバム『Under a Familiar Sun』 を聴いて、よもや新進ミュージシャンが制作したものではないことは、それなりに多くの音楽を聴いてきた方々であれば、理解しえることと思う。そして彼の音楽的な才能は、エイミー・ワインハウスのピアノ演奏者として活躍していたことからも分かる通り、コラボレーターの音楽性を際立たせることにある。そして、ソロミュージシャンとしての独自性も加わり、説得力のあるアルバムが完成したと言える。
本作は、ヒップホップ、ネオソウル、ブレイクビーツを基調とした都会的な空気感を吸い込んだスタイリッシュなモダンクラシカルのアルバムである。もちろん、アンビエントの要素もあるが、Autechreの”ノンリズム”が騒がれていた時代のビートが希薄なダンス・ミュージックとはかけ離れている。サム・ベステの音楽やアウトプットには明確なリズムが示唆される。そして、控えめではあるが、微かなグルーヴも感じられる。エレクトロニカのブレイクビーツのリズムがワインハウスの次世代のネオソウルと絡み合い、新しいモダンクラシカルの形が登場したと言える。
次のモダンクラシックの主流となるのは、間違いなく、ダンスミュージックやネオソウルといったジャンルとの融合で、もちろんボーカルも入る可能性がある。最終的には、全般的なポピュラー、ダンス、フォーク、ジャズとの融合が今後のモダンクラシカルの主流となりそうだ。直感的なミュージシャンはすでにその気配を察知している。これはクラシック音楽がその時代の流行のジャンルを吸収し、発展してきたことを考えれば、当然の成り行きではないかと思う。
『Under a Familiar Sun』は、ザ・スミスの未発表のアルバムのタイトルのようである。部分的には、イギリスの音楽の気配をどこかに留めている。ただ、これはイギリスの音楽というよりも、2000年以降のグローバリゼーションの時代を反映した”EUの音楽”とも言える。また、言い換えれば、なんでも簡単に気安く取り出せる”インターネット時代の音楽”とも呼べるかもしれない。そして、ヴァーノン・スプリングは持ち前の傑出したプロデュース技術を駆使しながら、変幻自在なビート、曲風、そしてアンビエンスを用い、アルバムの意義を紐解こうとする。
アルバムとは、写真のファイルようなもので、一つの曲を聞くごとに、異なる情景やシーンが順繰りに繋がっていく。そして、こういった科学的には解明しがたい不思議なイメージの換気力は、例えば、そのアルバムをリアルタイムで聴いていた時点から、十年、二十年が経って、そのアルバムを聞き直したとき、その時代の出来事をぼんやりと思いださせることがある。そう、記憶の蘇生のような効果を発揮するのである。つまり、その瞬間、本来は、一方的であるはずの音楽制作やその演奏という営為が、コネクションとしての意義を与えられることになる。
そして、再三再四述べているように、アルバムは単なる曲の寄せ集めとはかぎらない。 制作者が込めた思い、それが別の形をとってぼんやり流れていく、そんな不思議な感覚なのである。そしてそれが聞き手側の感覚と共鳴したとき、感情的な交流のようなものが発生する。見ず知らずの人の考えが掴んだり、そしてどんな背景であるのかを断片的に理解するということである。
そして、サム・ベステのフルアルバムは、音楽が、文学、映画、絵画といった他の媒体と連動するような形で成立し、それが人生の反映させるという機能を持つことを思い出させる。彼の音楽には、幼い時代に音楽を聞き始めたころ、多感な時期に音楽に夢中になったころ、バックミュージシャンであったころ、それから、ソロアーティストとしての人生を選ぶことになったころ、そういった重層的な追憶が入道雲のように連なり、もくもくと煙のように舞い上がり、ミルフィーユのような層を作り上げている。ヴァーノン・スプリングの音楽的な観念の世界には、明確な棲み分けという括りのような概念は存在しないのかもしれない。言い換えれば、サム・ベステは、どのような音楽も、自分の友人や子供のように愛してきたことをうかがわせるのだ。
アルバムはブレイクビーツをネオソウルと結びつけた「Norton」で始まる。そして実際的にヴァーノン・スプリングの音楽がコラージュアートのように断片的なマテリアルを中心に組み上げられるのはそれなりの理由があり、それは記憶の代用としての機能を持つからである。その切れ切れの音源のリサンプリングは、彼の人生の歩みを映し出すように、音楽的なシーンが流れていくのである。それはバックミュージシャンの時代から始まり、かなり広い年代の記憶を音楽という形で収めている。それが音楽的にはヒップホップのビートとピアノのリサンプリングというネオソウルのいち部分を形成する彼独自の手法で展開されることは言うまでもない。そしてオープニングの場合は、ネオソウルのコーラスワークという部分に最もきらめく瞬間がある。これはワインハウスに対する何らかの追憶のようなものが込められているといえる。
ムードたっぷりで始まり、アーバンなUKソウルというのをひとつの出入り口として、『Under a Familiar Sun』の音楽は異分野の表現形態と結び付けられる。「The Breadline」はジャズ/ソウル風のピアノがスポークンワードと合わさり、Benjamin Clementineのようなシアトリカルな音楽に変化する。マックス・ポーターは、この曲に文学的な感性を付与し、音楽の領域を見事に押し広げる。この曲はロマンティックな変遷を辿り、その最後にはゴスペル風のコーラスで最も美しいモーメントを作り上げる。音楽というものが、ひとりだけの力では成立しえないことを知っているからこそ、彼はこういった友愛的な音楽を作り上げることが出来るのかもしれない。
「Musutafa」は、OPIA Communityらしい独自のキャラクターを押し出されたUKソウルである。ヴァーノン・スプリングはコラボレーターであるIko Nicheと共同制作をしたとき、ヒップホップの魅力を体感するようになったというが、そういった異分野への興味がこの曲には反映されている。モダンクラシックのピアノ、サンプリング、先鋭的なエレクトロニクスの処理、そしてネオソウルの範疇にある美麗でソウルフルなボーカルというスプリング独自の形が出来上がっている。この曲では前曲に続き、現在のゴスペルがどのように変わったかを実感することができる。
プロデューサーとしての敏腕の才覚を伺わせる「Other Tongues」はアルバムのハイライトの一つ。この曲では、ミュージック・コンクレートの手法を用い、ジャズ・ボーカルの新しい境地を切り拓く。
同じようにゴスペルを基調にした曲であるが、トリップ・ホップの要素、ダークな質感を持ったネオソウルを踏襲し、UKソウルの新境地に達している。アトモスフェリックなサウンド、スポークンワードのサンプリングの導入、これらが一緒くたとなり、メインの演奏を構成し、ピアノで伴奏をする。ただ、この場合もピアノはアコースティックの本来の音を活かすのではなく、ケージやノーノ以降のデチューニングされたリサンプリングのピアノが録音の中で存在感を持つ。
それは2つのボーカルの録音の背後で、ソロ演奏として存在感を増したり、それとは対象的に存在感を薄めたりしながら、絵の具の色彩のように緻密で淡いハーモニクスを形成する。こういった曲を聴くと、どのようなジャンルも単体では存在しえないということがわかるかも知れない。
「Other Tongues」
中盤の二曲は、 モダンクラシカルの象徴的なミュージシャン、Olafur Arnoldsの系譜にある曲として楽しめるに違いない。ただ、タイトル曲、「Fume」はいずれもミュージック・コンクレートの性質が強いが、タイプが少しだけ異なる。タイトル曲はポストクラシカル風の曲で、遊び心のあるピアノのパッセージを組み合わせて、前衛的なサウンドを作り出している。「Fume」はアンビエントとスタイリッシュなビートを背景に、ネオソウルを抽出したインスト曲である。
「In The Middle」はアルバムの中盤のハイライト曲である。弦楽器のトレモロをイントロに配して、徐々に曲の雰囲気が盛り上がっていく。 重層的なストリングスとボーカルが精妙な空気感を放つ。ピアノの叙情的な伴奏を背景に、同じく琴線に触れるようなボーカルが乗せられる。アンセミックに歌い上げられるタイトルを含む歌詞の箇所は、ポール・ガイガーのような前衛的な奏法を組み合わせることで曲にメリハリがもたらされる。コラールの輪唱がボーカルとピアノの交互に演奏され、別の音域に主要なモチーフが出現するという側面を見ると、プロデュースの形を取って現れた''新しいフーガ''とも呼ぶべきものである。そして、サム・ベステのソングライティングは基本的に、ゴスペルやコラールにある神妙な雰囲気を感じ取ることが出来る。
ピアノがアコースティックそのまま出力されることは稀である。波形のモーフィング、ディレイ、リバーヴを駆使し、夢想的でアトモスフェリックな音像を作り出す。これは残響的なサウンドで音響派の音楽に近い。そして落ち着いてはいるが、陶酔感に満ちた雰囲気を作り出す。こういったアシッドハウス的な雰囲気については、好き嫌いが分かれる箇所かもしれない。しかし、サム・ベステの紡ぎ出す演奏は、シンプルだけど深みがある気がする。たとえ脚色的なサウンドであることを加味しても、本質的なコアが込められている。夜の雰囲気、そして祝福的な感覚は、UKネオソウルの核心と一致するものである。前の曲と連曲の構成となっている「Esrever Ni Rehtaf」では、ミュージシャンの過去が暗示的に表され、子供の声のサンプリングとして出現する。これらは、現実性と物語性が陸続きにあることを伺わせ、それはまたリアリティの一端を語るための機能を果たす。そして、それはなぜか温かい雰囲気に縁取られている。ジャズ風の軽やかなパッセージ、ボーカルが組み合わされ、ネオソウルの新機軸が示される。
アルバムの終盤にはもう一つハイライト曲がある。「Counting Strings」は、ピアノの同音反復による通奏低音、木管楽器がイントロに配された、スタイリッシュな雰囲気を持つ曲である。ボーカルが入ると、この曲は、ダイナミックでゴージャスなネオソウルへと変化していく。他の曲はコラージュサウンドが行き過ぎ、まとまりがつかない部分もあるものの、この曲は非常に研ぎ澄まされている。前曲と同様に謎めいたシンガー、adenの歌唱を上手く引き立てている。
「Requiem for Reem」は、フレドリック・ショパンの『ノクターン』を彷彿とさせる。基本的には、夜想曲の雰囲気に近い。しかし、このノクターンの形式は、サム・ベステのプロデュースにより、現代的なエレクトロニクスと組み合わされ、アーバンな空気感に縁取られている。演奏の合間にはアンビエント風のシークエンスが登場し、休符による静寂を電子音楽的に表現している。レクイエムと題されているので、追悼曲だと思われる。しかし、やはり美麗なピアノの演奏を引き立てているのは背景のシークエンスであり、全体には祝福的な音が敷き詰められている。アルバムの終曲はポスト・トム・ウェイツとも呼ぶべき祝福的なピアノバラードである。
このアルバムは、後半部に聞き所が多いので、聞き逃さないようにしていただきたい。それはヴェーノン・スプリングのミュージシャンとしての人生を反映するかのように、ネオソウルを入り口として様々な音楽が無尽蔵に飛び交う。さまざまな人種が渦巻く多文化のロンドンの都会性を反映した音楽といえ、それは制作者の心にそれらを許容して慈しむような感覚に溢れている。
ネオソウルから始まり、音楽が多彩な形で反映される。ここには、白人の音楽もあり、黒人の音楽もある。古い音楽も、新しい音楽もある。掴み所がないようでいて、実は核心のようなものが存在する。
感覚的な音楽とも言え、必ずしもそれらをはっきりした形で表現しようと思っていないのだろうか。それは良い音楽には、多くの言葉を費やす必要がないという制作者の考えのあらわれに思える。ぼんやりと遠方に鳴り響く祝福的な楽の音、それは、ジャズ、ソウル、ヒップホップ、クラシックと様々な形を取って、アルバムの節々に立ち現れ、聞き手を飽きさせることがない。
85/100
「Requiem for Reem」
▪ザ・ヴァーノン・スプリングのニューアルバム『Under a Familiar sun』は本日発売。ストリーミングはこちら。