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| Cola |
トロントのColaはどことなく不敵で、アヴァンギャルドな3人組ロックバンドとして君臨する。不条理のテーマを織り交ぜたフランツ・カフカのような文学性と彼らの言うところのミニマリズムが混在する異質なバンドである。彼らのサウンドはメロディがないようでいて微かに存在し、同時に現代的なポストパンクの位置付けにある。そのサウンドから立ち上る、ほのかなエモーションがこの3人組をカナダ、いや、世界で唯一無二のバンドにしている理由なのである。
『C.O.L.A.』は、彼らが何者かを象徴するような、ある意味、本質的なセルフタイトル・アルバムと言える。これは「Cost of Living Adjustment(生活費調整)」の頭文字をとった、バンドの3作目となる本作のコンセプトとしてふさわしい枠組み。なぜなら『C.O.L.A.』は、「社会主義対地獄」といったテーマを考察しているからだ。そして、人生のサイコロを振るということについても考察している。ノスタルジアが引き起こす、不気味でありながら甘美な切なさがある。
しかし、これは、ティム・ダーシー、エヴァン・カートライト、ベン・スティッドワージーにとって、それほど決して新しい領域ではないという。カートライトの言葉を借りれば、「我々がこれまで行ってきたことの深化」を意味する。『C.O.L.A.』は、複雑で美しく、時に奇妙な作品だ。これはバンドにとって最も洗練された作品であり、丹念に磨き上げられた美的衝動の極致である。
ティム・ダーシーによれば、バンドとしてのColaは「上品なミニマリズム」によって定義されるという。ロマンチックで、繊細でありながら、一見してわからないほど強烈な音楽を作ることに深い敬意を払っている。しかし、『C.O.L.A.』は、バンドにとってこれまでで最もマキシマリスト的な作品である。また、これは少し皮肉を込めた表現でもある。「このアルバムの曲がどれも違いすぎてしまうのではないかと、すごく心配していたんだ」とカートライトは語る。
実際、このマキシマリズムとは、「Hedgesitting」のような曲に、生ドラムとサンプリングされたドラム・ループの両方が使われていることを意味する。「Hedgesitting」は、華やかで豊かな曲だ。まるでザ・キュアの『Disintegration』から取り出した、デコンストラクションされ、チョップ&スクリューされたB面曲のようだ。また、サラ・レコード(1995年まで継続していたブリストルのレーベルでネオアコースティックやインディーポップの秀作を輩出)の影響も少し感じられる。「若い頃、君は成功するためにここへ来た」とティム・ダーシーは曲の冒頭で歌う。
『C.O.L.A.』は、このバンドが書くすべての楽曲と同様に、本質的に共同作業の産物だ。メンバーはそれぞれ別々に曲を作り、その後スタジオに集まって共同作業を行う。このプロセスを確認するには、「Hedgesetting」を聴いてみてほしい。この曲はダーシーが送ってきたコード進行から始まり、バンドが共に展開を広げ、スタジオ入り直前にスティッドワージーがリミックスを行った。この分業体制は直感的に機能している。スティッドワージーが書いたアレンジを基に、ダーシーとカートライトがそれを発展させていくというのは、バンドのDNAの一部なのだ。
例えば「Favoured Over the Ride」については、「ティムが歌詞を書くための、薄暗く憂鬱な色調を作りたかった」とスティッドワージーは語っている。曲は孤独で夢見心地なギターリフで始まり、そこにシャープなベースラインが入り、すべてがクリアになる。「天井に何があるんだろう? 君の視線を釘付けにしているのは何なのか?」とダーシーがシニカルに歌う。抽象性を追求したこのアルバムにおいて、これは明快な瞬間だ。『C.O.L.A.』にはこうした明快な瞬間が満ちている。渦巻く感情のすべてが、少し痛みを伴うほどにはっきりと浮かび上がる瞬間だ。
『C.O.L.A.』における目標の一つは、メロディーが歌詞を導くようにすることだった。これは、ダーシーの過去の多くの作品を支えてきたシュプレヒザング(語り歌)からの明確な転換である。ここでは、ボーカルのメロディが、アルバム内の他のすべてのメロディと同等の位置づけにある。しかし、歌詞の詩的表現や精緻さは、ダーシーがこれまでに書いたものより決して劣ってはいない。「コクトー・ツインズの曲を作っているわけじゃないからね」と彼は冗談を言う。
その結果生まれたのは、構成要素のすべてを徹底的に意識し、それらをすべて等しく重要視しようとする作品だった。『C.O.L.A.』は、その構成要素すべてが互いに直接対話している。本作は、いわば「自己対話」するアルバムである。音が広がりを見せる場面でも、その輪郭はぼやけない。抽象的で、間接的で、時に奇妙である——。しかし、同時に、古典的な意味での美しさも備えている。まるで絵画が持つような美しさだ。実験的な要素をこれほど意図的に操るその様は、まるで彫刻のように精緻だ。例えば「Skywriter’s Sigh」では、音がパチパチと弾け、きらめく。それは崇高な領域に触れている。これこそが、バンドとしてのColaの最高の姿だ。
Cola 『Cost of Living Adjustment』- Fire Talk
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三作目の実質的なセルフタイトル『C.O.L.A』においても、Colaのサウンドは奇妙で、異彩を放っている。いくつかのバンドや音楽の影響は感じさせるが、実のところは似て非なる内容である。
ポストパンク的なアプローチは、Fugaziの1995年から2000年前後の最終盤のサウンドを彷彿とさせる。『Red Medicine』や『Instrument Soundtrack』によく似た独特な緊張感、しかし、そこからほのかに感じられるボーカルのエモーションが漂う。8ビートを中心にオフキルターのリズムを配したロックソングは、表向きにはヘヴィーなわけではないけれど、奇妙な重力が感じられる。
現代社会に生きる人間としてのニヒリズムというべきだろうか。これは、Fugaziの後期の思想性に通じるものがある。 歌うというより、ぼやきやつぶやきにも似たティム・ダーシーのボーカル。これは、抽象的なギターワークや、ミニマリズムとオフキルターを織り交ぜた変則的なビートを刻むドラム、そして、徹底して基礎的な和声法を度外視する不協和音のスケールを描くアヴァンジャズのようなベース、これらが渾然一体となり、特異なサウンドが出来上がっていく。
しかし、それらに現代的なサウンドの雰囲気を添えているのが、リサンプリングによるミックスの作業で、これらはローファイの先鋭的な音楽アプローチの一貫でもある。このアルバムの場合、それらはミュージックコンクレートの一貫として制作に組みこまれている。一度録音した素材や音源をミックスの段階で組み直して、全体的な録音の過程の流れに組み入れることは、現代のロックバンドに定着しつつある。これらは結局のところ、Cindy Lee、Homeshakeのようなトロントのローファイ/スラッカーロックの重要な流れを汲んでいると言える。
Colaの音楽は、お世辞にも聴きやすいとか取っつきやすいとは言えない。アルバムの冒頭から、ベースの意図された不協和音のスケール(音階)が演奏される。彼らのサウンドは、アヴァン・ジャズに傾倒しており、それらは、縦の音階を中心に構成されるのではなく、横の音階の流れを中心に組み上げられる。そのため、明確に意図された和音やコード進行ではなく、ジャズのピアノや金管楽器のようなスケールの流れの中で、全体的な楽節の進行が続いていく。
和声法を中心とする作曲は、音楽史の流れから見るかぎり、後発的に発生したに過ぎない。音楽は旋法の組み合わせを中心に組み上げられるのが基本であり、その場合、最高音域と最低音域を中心に構成するのが定石である。つまり、和声は、旋法の組み合わせを縦に抽出したに過ぎない。和声法だけを頼りに作曲を続けると、どこかで大きな壁に突き当たることになる。和声は、音の動きを定義し、静止させる。しかし、その一方、旋律は、音の動きを円滑にする。トロントのバンド、コーラは、それを逆手に取って、これらの均衡をうまく図りながら、アヴァンジャズとミニマルロックの中間に属する音楽を展開していく。
「Forced Position」 は和声と旋法の組み合わせが見事にハマった一曲である。ベースの不協和音のスケールは流れを円滑にし、ギターのコードはそれらを定義するために存在する。それらを強調するかのように、ボーカルが流れを作り出す。ドラムはイギリスのニューウェイブ、ニューヨークのノーウェイブのような前衛性があり、基本的なリズム構成の中、変則的な分数のリズムを組み込み、不思議なグルーヴを作り出す。聴いてみると分かるが、明確な和声的な流れはほとんど存在しない。むしろ本質的には、和声法を度外視した不協和音が際立つ。しかし、表向きには居心地の悪いような音楽の中に、居心地の良さが見出される。
ティム・ダーシーのボーカルは、エモーショナルな響きがあり、それらの混沌とした音の流れに規律をもたらす。そして、ボーカルとベースがユニゾンのような関係を持つことで、芯の強いサウンドが生み出される。これはジャズのような音楽で見いだせる内容だと思うが、ロックバンドとしては、見過ごされてきた演奏法である。また、どちらかと言えば、パンクやポストハードコアのアヴァンギャルドな音楽を通過したバンドの演奏にまれに見いだせる内容である。こういった前衛主義の音楽を制作する人々は、意図するしないに関わらず、ジャズやクラシックのような音楽で使用される演奏法を自らの制作に取り込むことがある。コーラも同様で、二律背反の考え、簡素や複雑、美しさや醜さ、明るさと暗さといった本来は対極にある概念を混在させ、カオティックなサウンドを作り上げる。でも、そういった概念や定義付けは本来はあってないようなもので、主観的にならざるをえない。その脆さを彼らは暗示する。
「Forced Position」
コクトー・ツインズやキュアーを思わせる曲も確かにある。「Headgesitting」。しかし、影響が示されるのはイントロだけで、その後は、ダンサンブルなロックソングが続き、それらにシュプレヒサングやスポークンワードの新しい要素を加味したサウンドが続いている。前作『Gloss』では、どちらかと言えば、アンチメロディーの立ち位置にあった彼らだが、今作では、ボーカルを聴くと分かるように、メロディアスな音楽を押し出している。また、シニカルなだけではなく、ドリーミーなシンセのテクスチャを加えて、音楽的な優しさをもたせようとしている。さらに、彼らはUnderworldのようにエレクトロとロックを結びつける。ただ、手法はそれに近くても、Kasabianのようなサウンドにならない。彼らが言う”上品なミニマリズム”は、ニューヨークのプロトパンクのような詩情的なサウンドと組み合わされ、叙情的な気風を呼び込む。コーラは二番煎じでは終わらず、新しい音楽性を示すことに成功している。
カナダのローファイのサウンドが乗り移った「Painting Spelling」は、マック・デマルコの次世代の音楽と言える。 どことなくゆったりとした開けたフォークソングの要素は、ミニマリズムの解釈を通して、戯けたような雰囲気のある曲に昇華されている。しかし、コーラらしさは健在であり、ベースとギターはボーカルに対して不協和音の関係にある。それらがときに、協和音になったり、不協和音を奏でたりしながら、シュールな音楽を作り上げていく。 また、リサンプリングの音楽は、ときおり、エレクトロニカのようなサウンドに近づくこともある。これらの次々に移り変わる音楽は、まるでコーラの持つ音楽の無尽蔵の魅力を象徴するかのようだ。
ただ、こういった難解さだけが彼らのサウンドの特色ではない。「Haveluck Country」では、単純さに焦点が置かれ、ギターの単音/オクターブ反復を中心に曲が組み上げられ、これらのミニマリズムは時々、どことなく夢想的で幻想的なファズギターの音像が組み合わされることで、驚くべき変遷を辿っていく。曲が進むうちに、ダーシーのボーカルは、ジョニー・キャッシュのようなフォーク性を帯びるようになる。曲の最初は、あまりにも単純にも思える音楽であるが、ベースの音階やスケールがランタイムごとに変化していき、異なる音楽的な情景を作り上げる。ボーカルはダンディズムに対する、ちょっとした皮肉も込められている。それらの中にある脆さのような感覚が混在する。ミニマルから脱却し、マキシマムに至る。曲の後半でのギターとボーカルが織りなす幻想的なコントラストは本作のハイライトとなるはずだ。
「Satore-torial」はニューヨークのプロトパンクが強調され、ルー・リード/トム・ヴァーレンのような雰囲気の楽曲でもある。音楽的には、Velvet Undergroundというより、Televisionを彷彿とさせ、タイトなアンサンブルと少しニヒリズムを感じさせるボーカルが特徴のロックソングである。これらは、Colaのアンチ・メロディの性質がひときわ強く感じられる。そして、これこそが、このアルバムの表向きには見えづらいパンク性を象徴付けている。つまり、平たく言えば、メインストリーム音楽に対する反抗でもある。これらは、結局、このバンドのオルタネイト性を象徴づけ、つまり、メインストリームのロックとは異なる音楽性を生み出すことに成功している。また、この曲は、最小限の構成の中で、Doorsのような催眠的な音楽性が作り上げられる。曲の後半では、オルガンのような演奏が薄く組み込まれ、神聖な雰囲気を帯びる。
「Much of Muchness」は現代的な価値観に対する疑念とも言える。やはり、ティム・ダーシーのボーカルは、昂ずるわけでもなく、また猛り狂うわけでもなく、淡々と語りかけるような雰囲気である。しかし、これらが背景となるバンドアンサンブル、彼らの持つミニマリズムとかっちりとハマると、グルーヴ感や心地よいビートが浮かび上がってくる。極彩色で派手な音楽がメインストリームの音楽シーンを席巻する中、彼らの音楽はどこまでもモノトーンに染まる。しかし、このアプローチは確実に、このアルバムの本質的なかっこよさに直結している。この曲ではどちらかと言えば、リチャード・ヘルのようなプロトパンクのサウンドが際立つ。更にアルバムのもう一つの主題である、メロディアスな叙情性がボーカルとギターを通じて、はっきりとした形で浮かび上がるときがある。これはバンドとしての大きな進歩と言えるか。
「Third Double」は異色の一曲として存在感を放つ。依然としてシニカルで、ニヒリスティックなボーカルが、シューゲイズ風の音像の大きなギターと混在しながら、ニューヨークのバンド、Interpolのような暗澹としながらも、叙情性に溢れる音楽的なイディオムを持つようになる。また、ギターとベースの演奏は、どことなくジプシー音楽のような奇妙なテイストに溢れる。曲の後半では、このアルバムでは珍しく、轟音のファズ/ディストーションサウンドが敷き詰められる。 これらのサウンドはまるで、内的な感情をそのまま曲に昇華させたかのようである。
本作の決め手となるのが「Conflagration Mindset」。「憂鬱を悲しみに変える」というフレーズが印象に残るこの曲は、オルタナティヴロックの名曲で、このジャンルの今年度の最高の曲である。オルタナティブというのは、基本的にメインとなる概念とは少し異なる考えや思想を織り交ぜてこそ。それに乏しい場合、アルトとは言えず、メジャーの領域に近づいてしまう。
重厚なギター、対旋律を描くベース、シンプルな4/8拍を刻みながら分数的な分割のリズムを刻むドラム、内的な悶々とするやるせない思いを延々と打ち明けるかのような内省的な雰囲気を持つボーカルなど、計算づくのサウンドは、曲が進むごとに、まったく予想だにしなかった意外な展開に繋がっていく。それらのミクロ(最小)の音楽はだんだんマクロ(最大)に近づいていく。多くの人が言うところの小さなものは、実は意外と大きかったのかもしれないとふと気付かされるのである。つまり、このロックソングには、マクロコスモスのような内的な宇宙が混在し、それ拡大していくような不思議な感覚がある。一人の思考が強大な意味を持つような広大さを帯びる変遷でもある。少なくとも哲学的な雰囲気を持ったロックソングとなっている。
不協和音と協和音の共存は「Favoured Over The Ride」 でも健在である。彼らのサウンドには、便宜的に言えば、不調和と調和が共存している。彼らは世にはびこる善悪のような一般的な概念がどれほど脆く、弱い基盤の上に成立しているかを音楽の果てに投射してみせる。つまり、それらの背後には別の対極にある概念や要素が内在していることがある。フォーク・ソングの哀愁とロックソングの組み合わせは、独特のズレのような感覚をもとに、彼らなりのオリジナリティとして昇華されていく。そして独特な旋律的なズレから、温かみのあるエモーションが滲み出てくることがある。
『C.O.L,A』と題されたアルバムは、物事の背後にある本当の意味のような何かを浮かびあがらせることがある。それが最初に述べたフランツ・カフカのような印象を帯びる理由と言える。なおかつまた、こういった思索的な要素に加え、叙情的な温かさもまたこのアルバムの魅力の一となるはずである。アルバムの最後を飾るクローズ曲「Skywriter's Sigh」は、ガレージロックのような荒削りな勢いがあり、そして、本作では珍しく、ほのかな爽快さすら感じさせる。
しかし、やはりというべきなのか、Colaのサウンドは、ヨ・ラ・テンゴのようなひねりがあって、一筋縄ではいかない部分がある。どことなく曲がりくねっていて、どこに続くかわからないようなスリリングさ。しかし、同時に、ロックバンドとしてすべてが全て平坦すぎる場合は、それもまた面白みに欠けているとも言える。コーラは珍しくロックソングの原初的な魅力を教えてくれるバンドである。所属レーベルが紹介するように、サードアルバムは彼らにとって、代表的な作品になるに違いない。表向きには明るい音楽とは言えないにもかかわらず、なぜか妙に勇気づけられる不思議なアルバム。また、オーディオで聞くのと、イヤホン/ヘッドホンで聴くのとでは、ぜんぜん印象が異なる不思議な作品でもある。
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「Conflagration Mindset」
・Cola 『Cost of Living Adjustment』は本日Fire Talkから発売。ストリーミングはこちら。

































