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©︎Ebru Yildiz |
聞いてほしい、とエリザベス・ウィットモアはジュリアン・ベイカーとトーレスの新作を紹介する際にアメリカの現状を訴えかけている。
私たちの何人かにとって、あるいはほとんどの人にとっても、今年は大変な年だった。 この原稿を書いている11月中旬のシカゴは、記録的な暖秋で、悪いニュースが続いている。
南部の田舎では家族や動物、家が流されてしまった。 山火事の季節は終わらない。 ある場所では水が多すぎるし、ある場所では水が足りない。 私の故郷のテキサス州では、幼少期を終えたばかりの妊娠中の人々が、医療を受けられず命を落としている。 そして、あなたやあなたの愛する人が不法移民であったり、トランス、クィア、貧困、黒人などということは数え上げればきりがない。
時々、呪われた世界全体が、きっぱりと自滅する決意を固めたように感じることがある。 だから私は、ジュリアン・ベイカーが歌う、「これ以上悪くなることはない」という言葉を骨の髄まで自分のことのように感じる。 もしかしたらあなたもそれを感じているかもしれないし、絶賛されたアーティスト、ジュリアン・ベイカー&トレス(別名マッケンジー・スコット)によるこの待望のカントリー・アルバムの良い仲間を利用できるかもしれない。
「Send A Prayer My Way」は何年も前から制作されていた。このアルバムは楽屋での意気投合から始まった。 2人の若いミュージシャンが、ここシカゴで愛されているリンカーン・ホールで初めて一緒にライヴをするところを想像してみてほしい。 2016年1月15日、外は底冷えするほど寒く、特に南部に住む2人組にとってはなおさら。 ライヴが終わり、クソみたいなことを言い合っているとき、一人のシンガーがもう一人に言った。"私たちはカントリー・アルバムを作るべきだよ"。
これはカントリー・ミュージックの世界では伝説的な原点であり、余裕のあるエレガントな歌詞と、彼らの音楽を愛する人々と苦悩を分かち合う勇気ですでに賞賛されている2人のアーティストのコラボレーションの始まりでもある。
それは不朽のカントリー・アルバムのように、歌い手と聴き手の双方を支え、鼓舞し、この世で孤独な人間など一人もいないこと、音楽は安定した伴侶であることを思い起こさせる作品作りの始まりでもある。'' なぜ泣いているの? '' 「No Desert Flower」で彼らは歌う。 ''少しくらいの雨なら平気さ/辛いことがあってもへこたれない/過ぎゆく歳月が僕を洗い流すことはない''。
「Send A Prayer My Way」は、アウトローの伝統に則って書かれ、そして歌われた、とても素晴らしいカントリー・アルバムだ。 (最高のアウトロー・カントリーでは、法律も男も味方ではない。トレスとベイカーの音楽では、宗教の吹き溜まりも、娘のセクシュアリティを我慢できない母親もそうだ)。 これらの曲は、長い勤務を終え、疲れて家路につくとき、マリファナと静かな場所で足を休めたいと願う歌であり、ワゴン車から(またもや)落ちてしまい、今度こそ、車輪の下に引きずり込まれるのではないかと思う歌であり、間違った決断をすることだけが自分の知っている決断なのだと思う歌である。 ベイカーは、冒頭の「Dirt」でこう歌い、その数行後にはこんな美しさがある。''きれいになるために一生を費やす/ただ汚れの中で終わるために''
Julien Baker & TORRES 『Send A Prayer My Way』 - Matador
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ジュリアン・ベイカー、トーレスはともにアメリカ国内では著名な歌手である。双方ともに、歌手としてだけではなく、ギタリストとしても活動している。近年、ベイカーはボーイ・ジーニアスのメンバーとして活動し、様々なイベントにも出演してきた。一方のトーレスは昨年、ソロ・アルバム『What an enormous room』を発表し、ポピュラーシンガーとして成功を収めた。この度、二人が挑戦したのは純正のカントリー・アルバム。聞けば分かる通り、ポピュラーに薄められたカントリーではなく、戦前の時代、つまり、20世紀中葉の本格的なカントリーソングの系譜にある曲も含まれている。ベイカー/トーレスは、ふたりとも若い年代のシンガーであるが、こういった古典的な作風に挑戦したのに大きな驚きを覚える。なぜなら、このアルバムの音楽の中には、両者がまだ生まれていない時代のものも含まれているからである。
カントリーとフォークというのは、一般的な日本の音楽ファンは同じようなものと考えることが多いのではないかと思われる。 カントリーは田舎の音楽であって、フォークは民謡.......。つまり、民俗的な音楽である。2つの音楽の共通点は、いずれもその土地の風土を音楽として織り込んでいる。ただ、この2つの音楽を漠然と一括りにするのは妥当ではないのかもしれない。とくに、カントリーを語る上では、この音楽がゴスペルやブルースと密接な関係を保ちながら発展してきたことを考えると、キリスト教や霊歌としての教会音楽と切り離すことが出来ない。
元々、教会音楽と対象的な構造を持つものとして、世俗音楽というのがヨーロッパ社会には存在してきた。結局、教会の祭礼で歌われる霊歌やカンタータを共同体の外に持ち出し、それを民衆化した瞬間、ポピュラーの歴史が始まり。以降、ジャズやポピュラーという形で発展してきたのが、アメリカの音楽である。それからは、ポピュラーは徐々に均一化していった。そして、アメリカの音楽というのは、このキリスト教の概念を元に発展してきていることは忘れてはいけない。
おそらく、この点が、単にアメリカの音楽をなぞらえただけでは同じものにならない理由なのだろうか。例えば、アメリカの裁判ではまず神の名のもとにと宣誓する。これは神という概念の下に法が存在するからである。仮に、一般的には、汎神論や一神論を否定する、つまり得難い存在の実在を完全に否定するとしても、概念のどこかに神が存在すること、これはやはり否定出来ない。神様なんかいないぜ、と現代の人々の多くは考えるかもしれないが、神様という言葉が概念のどこかに出てきたとき、それはすでにその存在を認めているも同然なのである。もちろん、我が日本では、汎神論的な考えが優勢であり、山や空にも神様がいると考えてきた。
今回、若いシンガー二人が取り組んだ「カントリー」というのは、日本の音楽ファンにとっては単なる符牒や意気投合のための共通点だったと考えるかもしれない。このアルバムを聴く人々の多くはそのように考えるに違いない。しかし、そう考えるのは、あまりにも浅薄であり、理解に乏しい。少なくとも、驚きを覚えたのは、このアルバムを聴くとわかるように、ジュリアン・ベイカーにせよ、トーレスにせよ、カントリーを単なるツールのように考えていないらしいということである。つまり、カントリーという音楽を通して、二人のミュージシャンは、人生を考えたり、悩みを共有したり、ときには、喜びや安らぎを共有している。ようするに、なんらかの感覚を別の人間が共有したその瞬間、ソロという役割が変化し、本当の意味での”コラボレーション”が実現するのである。ジュリアンとトーレスには、カントリーをツールにするような考えは微塵もかんじられない。しかも、カントリー音楽に神聖な感覚を見出そうとさえしている。とくにジュリアン・ベイカーに関してはそういうイメージがなかったが、音楽に対して敬虔な気持ちすら読み取ることも出来る。そして、ぼんやりと目に浮かんできたのは、帽子を深く被って録音マイクの前に立つ歌手の姿。良い音楽を作るためには、こういった厳粛で慎ましい感情を、自分の作り出す音楽に対して抱くことも時には必要なのではないか。
カントリーという音楽は、アメリカ国内ではWW2の戦前、戦後にかけて最盛期を迎えた。ハンク・ウィリアムズ、ジョン・デンバー、レッド・フォーリー、ジョニー・キャッシュなど偉大な歌手を輩出した。これらの音楽は、共同体の中の外に持ち出して、霊歌を一般化したり世俗化するような意味があった。もうひとつは、音楽の持つ意義の変化が要因ではなかっただろうか。戦争の前後の時代の国威発揚のような意味をもたらし、外地から望郷の念などをワイルドに歌うことが多かった。兵士に向けて歌われることもあり、また、何らかの従軍キャンプのようなパーティーでも演奏される機会が多かったはずである。そこでは、当然、離れた恋人が一緒に踊りながら、カントリーに合わせて歌うこともあったはず。欧州ではポルカやジーグ、メヌエットという三拍子を中心とする舞踏音楽の形式があるが、これらの20世紀バージョンがアメリカの南部を中心に発展していった。これがカントリーの正体だろう。アコースティックギターで軽快なリズムを刻み、ときに、ジャズのリズムの影響を受けてスイングする(拍を後ろにずらすシンコペーションの一種)のは、この音楽が本来は舞踏的だからだったのだろう。
カントリーは、男性中心の音楽として栄えてきたようなイメージがある。私自身もつい数分前まではそうとばかり思っていた。しかし、ロレッタ・リンというデュエットの名手がいる。ロレッタ・リンは2022年に死去しているが、特に、男性のカントリーシンガーとのデュエットで、素晴らしく甘い雰囲気を添えた。そして、コンウェイ・トゥッティ、アーネスト・タブなどのデュエット曲を通じてリンが表現してきたのは、切ない純粋な恋心であった。そしてこれもまた、どちらかといえば、ジャズのクラシックをボーカル化したような音楽でもある。
重要なのは、カントリーは、離れたところにいる恋人への恋慕や望郷の念など、何らかの対象物に対し、慎ましい気持ちを表現するものだった。それは恋人という存在や故郷の姿が自分よりも大きいことの表れでもある。それが戦後にかけて反戦歌などが作られるようになり、政治的な趣旨の色合いを増すこともあった。例えば、ジョニー・キャッシュはそのアイコンだろう。いわば、カントリーという音楽そのものが神棚に祭り上げられるようになってしまった。これには確かに弊害もあった。本来は世俗的な音楽や一般的な市民の感情を歌うものであったはずなのに、それとは対象的にエルヴィスのようなカリスマの象徴になっていってしまったのだ。キャッシュはあまりにもこの音楽を神格化しすぎていた。それを贖罪の対象としたのだった。本来はカントリーというのは、世俗的な音楽であり、誰でも楽しめるように設計されている。もちろん、音楽にまったく詳しくないような人でも気楽に歌えるようになっているのである。
ジュリアン・ベイカーとトーレスは、アルバムの録音の価値と並行して文化的な側面からこの音楽に取り組もうとしている。「カントリーの民衆化」という元来の音楽の意義を蘇らせ、現代的な感性で包み込んでいる。このアルバムは、アメリカの長いカントリーの歴史を網羅するものであるのと同時に、現代的な感性からそれを再解釈し、聴きやすい音楽として出力している。
ジュリアン・ベイカーとトーレスの声質は似ているようでいて似ていない。モダンなポップソングを、両者ともに軽やかに歌うが、ソロのアルバムよりも奇妙な覇気がこもっている。それは気負いとはならず、音楽のリスニングに際して、敬虔な気持ちを授けてくれる。この録音には、二人のシンガーが実在していること、そして音楽を作ってくれたことに深く感謝したくなる。二人の歌声には、心を落ち着かせるものがあり、それがアルバム全体に共鳴する内容である。Ⅰ、Ⅴ、Ⅳ、Ⅵを中心とする基本的な和声構成を中心に、エレクトリックとアコースティックのギターの両方を巧みにボーカルの録音の間に織り交ぜ、時には心を落ち着かせ、そしてまた時には、切なさを呼び起こす素敵なカントリーソングが紡がれる。
現代的なカントリーの精神とはどのようなものだろう。それはボブ・ディランのような、やるせないような感覚である。クイア、移民、そして、混乱する国内経済(日本にもその影響は波及している)は、多くの国民に苦境をもたらしている。それは、上記のライターの記述を見ると明らかである。多くの歌手はこの問題から目をそむけているが、この二人の歌手はそうではない。自分の環境やミュージシャンとしての生き方、さらには社会の問題などに関心を向け、それらを自分たちが出来る形で、カントリーソングに乗せて歌う。ふたりとも有名な歌手なので、そういったイメージはなかったが、「1−Dirt」では人生の悲哀が歌われることがある。
シンプルで精細なイメージをもたらすアルバムの冒頭を飾るこの曲は、アメリカに生きる市民の実情について考え合わせたとき、驚くほど音楽の印象が変化する。牧歌的な感覚の中に満ち渡る望郷の念というカントリーの原義に加え、哀愁にも似た淡い感覚を呼び覚ますのである。スムースなアコースティックギターの演奏、甘い雰囲気をもたらす一番の歌詞を歌うジュリアンのボーカル、メロウな雰囲気を持つハモンド・オルガン、さらにはフィドルの音色を想起させるヴァイオリン、さらにブルースのように渋いエレクトリック・ギターのソロ、そして二番の歌詞をリードするトーレス、続いて、デュエットで歌われる二人のボーカル……。こういった二人の人生を感じさせる素晴らしいカントリーソングがこのアルバムの音楽の手ほどきをする。
オールドタイプのカントリーソング「2−The Only Marble I've Got Left」は、ジョン・デンバーやハンク・ウィリアムズを彷彿とさせ、スティールギターの音色で始まる。その瞬間、雄大な感覚を呼び起こし、カントリーに対する讃歌へと変わる。古典的な二拍子のリズムを基にして、トーレスのボーカルで始まり、音楽のワイルドなイメージを敷衍させる。そして望郷の念や恋慕の気持ちなど、カントリーソングの基本的な作法を活かし、本格的な音楽を作り上げていく。サビの箇所では「Daydream Believer」を想起させる心地よいフレーズを二人で歌い上げる。
ここでは、未来に対する漠然とした希望、もしくは希望への道筋が歌われる。デュエットとしての相性も抜群で、アルトの音域を担うトーレス、そして、ソプラノの音域を担うジュリアンというように、音域の棲み分けが出来ている。さらに、両者の声質もデュエットとしての最大の効果を発揮し、甘く美しい感覚を呼び起こす。音楽というのは、実際の音を通して、どのようなインスピレーションを呼び起すのが一番大切だと思われる。それは、AIのようなテクノロジーを駆使しようとも普遍のテーマである。この点を、二人の秀逸な歌手は知り尽くしており、明るく穏やかなイメージを彼女たちのボーカルを通して、丹念に体現させていくのである。いわば”悪しき時代の星”となるため、ジュリアンとトーレスは肩を組むように歌をうたうのだ。
カントリーソングの中には、世俗的な感覚を歌うというのが通例である。 「3-Sugar In The Tank」はその好例。アコースティックギターのラフなストロークから始まり、Ⅲ-Ⅳのスケールを行き来しながら、スティールギターのアレンジを楔にして歌が始まる。ジュリアン・ベイカーのリードボーカルは彼女のポピュラー性という側面を強調させ、くつろいだ感覚を付与する。その後、ドラムの演奏が心地よいリズムを刻み、休符を途中にはさみながら、軽快なカントリーソングが紡がれる。そしてこの曲では日頃の生活から汲み出される感情をつややかな歌に歌い上げている。近年の均一化したポピュラー性という内在的な音楽性を古典的なカントリーと組み合わせているのが秀逸である。現在、この曲のストリーミング再生数はアルバムの中では最も高くなっている。アルバムの中で最も聴きやすく、そして親しみやすい一曲でもある。また、この曲ではバンジョーの演奏も登場する。そしてこれが曲に遊び心を付け加えている。
「4-Bottom of the a Bottle」は、デヴィッド・ボウイの最初期のフォーク・ソングを想起させるイントロではじまり、フィドル(弦楽器)の演奏を配したアメリカーナの雰囲気を強調させる。 この曲ではトーレスがリードボーカルを担い、精神的に円熟した感覚を思わせる。ポピュラーソングの普遍的な音楽は、トーレスの安定感のあるボーカル、そしてジュリアンの甘い雰囲気のあるボーカルを中心に、明るい曲調から憂いのある曲調へと変遷を辿る。
”ⅥーⅣーⅤ(ーⅡ)”という、基本的な和声構成をアコースティックギターで演奏し、ドミナントの導入和音(Ⅴ-Ⅴ 短三和音)を用い、憂いの感覚を表現し、雄大なスティールギターと合わせて、切ない印象が呼び覚まされる。
その後、タイトルの歌詞が端的に歌われ、弦楽器の演奏を介して音楽が面白いように次にロールしていく。意外とシンプルなようでいて、和声の構成がきわめて傑出している。そして強進行の和音を導入し、その後に休符を入れているから、その後の音楽にはずみがつく。いわば曲に流れが出てくる。以降、トニック(主音)に戻り、シンガロングを誘う瞬間が訪れる。曲の始まりは、不安定な印象であるが、中盤にかけて安定感を持つようになる。この曲では、基本的な和音構成が安定しているからこそ、ポピュラーソングとしての安定感や均衡感を持つ。
「Bottom of the a Bottle」
「5-Downhill Both Ways」は段階的に半音ずつ降りていくスケールが導入されている。前の曲が和声的だとすれば、この曲は対旋律的である。イントロから続くアコースティックギターを中心とする通奏低音を担う演奏にはスティールギターの伸びやかな対旋律をもたらし、そして、その後、アルペジオ(分散和音)が奏でられるアコースティックギターがもう一本追加される。
この時点で、曲の大まかな伴奏が組み上げられる。この全般的な伴奏は、パット・メセニー/ライル・メイズの最初期のフュージョンジャズの一貫として登場したカントリーとジャズのクロスオーバーのように、落ちついて、リラックスした感覚をもたらす。ボーカルははじめからデュエット形式で歌われる。
ジュリアン・ベイカーがソプラノの音域を歌い、そして、トーレスがアルトを歌っていると思われる。これらは、カウンターポイントの基礎である3度(短3度)の音程の組み合わせを中心に構成され、心地よい音楽性が作り上げられる。簡単なように聞こえるが、高度な音楽形式が繰り広げられる。いわばアメリカのポピュラーが単なる感覚や感性だけに依拠せず、音楽理論の基礎が定着していることに驚きを覚える。
その中で、ピッチやトーンの微細なズレを活かし、いわばブルースのような渋いボーカルのテイストを生み出している。もちろん、両者の歌の素晴らしさを引き出す録音の水準の高さは言うまでもない。南部のカントリーを意識した軽やかなポピュラーソングで、良い雰囲気が漂う。さらにバンジョーの演奏も二度登場する。一回目は一番の後のソロ、そしてアウトロのソロ。感覚的に曲を作っているように思えるかもしれないが、ソングライティングは構成的である。
舞楽的な音楽は「6-No Desert Flower」に見出だせる。歌を聴くと四拍子に聞こえるが、ドラムは二拍をどっしりと刻んでいくというように、こちらも変則的なリズムが取り入れられている。そして短調の曲の中で、哀愁を感じさせるボーカルをダブルで披露している。例えばこういった曲はルー・リードがヴェルヴェットアンダーグラウンド時代に書いていたが、東欧の民謡を吸収した、新時代のカントリーとしての効力を持っていた。この曲ではバロック音楽のジーグ(Gigue)のような、古典音楽の要素がバラードタイプの音楽として生まれ変わっている。同じように、スティールギターの演奏が組み合わされ、エキゾチックな雰囲気を醸し出す。
一方、アルバムの中盤では70年代ごろのウェストコーストロックの色合いが強まる。ドゥービー・ブラザーズやイーグルスの最初期のサウンドで、別名”バーバンク”とも呼ばれ、ハリウッドお抱えのロック音楽としてワーナーが押し出していた。
そして、このアルバムの場合は、 「7-Tapes Runs Out」、「8-Off The Wagon」などの録音を通じて、アナログのコンソールを使用してクラシカルなフォーク・ソングを作り上げている。
ジュリアンがリードボーカルを担うが、トーレスのコーラスが入ると、サザンロックの要素が強まる。ウェスト・コーストの音楽は南部のソウルやブルースの影響下にあるサウンドを織り交ぜていたのは周知の通りであるが、これらの南部と西海岸の中間にあるようなフォークロックに取り組んでいる。しかし、モダンな要素も同時に強調され、弦楽器の演奏はオーケストラのような壮大さを生み出す。
ただ、ギミックのような感じではなく、曲の延長線上にあるアレンジメントである。一方の「Off The Wagon」ではライブツアーのワンシーンのような情景が映画さながらに切り取られる。そして前の曲と聴き比べてみると、続き物のような感じで楽しむことが出来る。後者の曲は、ジャクソン・ブラウンの『Running On Empty』の収録曲「The Road」をわずかに彷彿とさせる。このアルバムの中盤の2曲ではアメリカ的な雄大さと哀愁を味わうことが出来るはずだ。
その後、アルバムはカントリーの古典性に回帰している。「9-Tuesday」は再び本格的なデュエットの形式が繰り広げられる。しかし、同じアルバムの収録曲のデュエットとして聴くと、両者の人間関係のようなものが移ろい変わっているように感じる。そして、制作者の人生の周囲を通り過ぎていく車窓の風景のように流れる。それは、実際のレコーディングにも反映され、収録順の時系列としての並び方はさておき、アルバムを一緒に制作したことで、デュエットの歌がもたらす空気感や雰囲気にも変化が生じている。ということで、このアルバムは、ジュリアンとトーレスという、二人の歌手の人生が徐々に変化している様子を捉えている。
これは言ってみれば、音楽におけるドキュメンタリーのような意味合いが含まれている。そして、従来のジュリアン、トーレスという二人の歌手を知る人々にとっては元来のイメージのようなものが変化するかもしれない。そこには真摯な姿勢で録音や音楽に向き合おうとするふたりのミュージシャンの姿が、実際の音源を通して目にまざまざと浮かんでくるかのようである。それは音楽を聞いていても、クールだし、かっこいい、というイメージを抱かざるをえない。そしてトーレスの得意とするスポークンワード風のボーカルが登場するのにも注目したい。
「10-Showdown」はジュリアンがリードボーカルを担う。静かな雰囲気に満ちたバラードソングで、そして内的な静けさという今までになかった気風が漂う。この数年、制作者が作ってきたポピュラーソングのおさらいをするような内容となっている。しかし、例えば、2021年のソロアルバムと比べてみると、本格派のシンガーとしての威風堂々たる雰囲気を感じさせる。明言こそできないが、シンガーソングライターとしての進化の気配が伺えるのである。
「11-Silvia」は異なる個性を持つシンガーソングライターの才能が見事に花開いた瞬間である。イントロは哀愁あふれるフレーズをトーレスが歌い、その後、デュエット形式に変わり、美麗なハーモニーを形成する。個人的な出来事を歌詞で歌う歌手は多いが、この曲のポイントは、両者で共有される第三者への思いである。そこには痛切な感覚が漂い、シンプルな「シルビア、私を忘れないで.......」というフレーズが深い意味を持つに至る。きっと、トーレス、ジュリアンともに言葉の重さを痛感しているからこそ、こういった心に響く曲を書くことが出来たのだろう。カントリーと銘打たれた本格派のアルバムの中で、ポピュラーソングとして異彩を放つ。ダークで気だるいような感覚からもたらされる最も美しい結晶が生み出されたのである。
聴き応え十分だし、マタドールのレコーディングの素晴らしさも完璧で、惚れ惚れしてしまう。ジュリアン・ベイカーとトーレスの真摯な音楽に対する姿勢と、意外な一面を感じさせる素晴らしいアルバム。このアルバムが、アメリカの音楽市場に、どのような影響をもたらすのかは定かではない。しかしながら、良質なカントリーアルバムとして、後世にさりげなく語り継がれるでしょう。もちろん、少数派の人間としての意見やスターダムに押し上げられた歌手の気持ちをストレートに反映させているのもひとつの魅力となりえる。少しシリアスな内容になりかけたアルバムは、その後、穏やかで柔らかい雰囲気を持ってクライマックスを迎える。トーレスはジュリアンに語りかけ、ジュリアンが答え、軽快なカントリーソングが展開される。
90/100
Best Track-「Sylvia」
▪Julien Baker & TORRESのニューアルバム『Send A Prayer My Way』はマタドールより本日発売。ストリーミング/購入はこちらより。日本国内では、beatink/ディスクユニオンで販売中。