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・日本のインディペンデント・レーベルの草分け  "Snuffy Smile"は、どんなレーベルなのか??

 

Snuffy Smileは、1990年代から2000年代にかけて、栄森陽一氏が主宰していた日本の伝説的なパンクロックの専門レーベルです。

 

このレーベルは、ドクロをレコード会社のトレードマークとしていて、そのマークの下には、「非転向地下活動」というコアな漢字のキャッチフレーズが書かれてます。このインディーレーベルの根本的な思想には、草の根のレコード会社としての運営方針と虚無思想「ニヒリズム」が掲げられている。 実は、スナッフィー・スマイルのレーベルの経営スタイルは、横山健氏の主催するパンク専門レーベル「Pizza Of Death」に影響を与えたものと思われます。


おそらく、日本で一番最初に「7インチ・ビニール」の形式を発売した伝説のパンクロックレーベルです。レーベルオーナーの栄森陽一氏は、現在、このインディーレーベルの新たなリリースは行っていない。2005年、スナッフィー・スマイルは、レーベル拠点を、東京の世田谷から京都に移し、「スナッフィー・スマイルズ」に改名をしたあたりが経営の最後かと思われます。

 

これまでスナッフィー・スマイルから発表された作品についても、ハイ・スタンダードは別として、その多くのカタログが廃盤、入手困難となっている。このレーベルを知る有志がアップロードしたyoutube動画、また、中古レコード店、ディスクユニオン、高円寺の中古レコード店を探るくらいしか方法がなく、入手困難な作品ばかり・・・。しかも、このレーベルの作品は他のメジャーレーベルの雰囲気とは異なり、アメリカやイギリスのアンダーグラウンドな正真正銘のインディー・レーベルの雰囲気が醸し出されまくりで、デモに近いラフな作品も積極的にリリースしています。

 

さて、この「Snuffy Smile」というレーベルの最初のリリースを行った中に、東京のRegistratorsというバンドがいて、このロックバンドは、当時、国内で人気があったWater Closet、Bloodthirsty Butchersと同じくらいカルト的な人気を誇るインディー・ロックバンドに挙げられます。

 

スナッフィー・スマイルは、日本のメジャーレーベルの傘下にあるわけではなく、本当の意味で独立した数少ないインディペンデント・レーベルの先駆的な存在。特筆すべきは、J Church、Mega City Four、Broccoliと、日本のバンドのスピリット盤を、2000年代を中心にリリースしています。

 

かつて、渋谷の「Gig-Antic」(現在は閉店・・・)、下北沢の「Shelter」、 高円寺の「20000V」、新宿の「Antiknock」といったライブハウスを中心に、パンクブームが2000年代前後に到来し、シガレットマン、ネーブル、スプレイ・ペイントを中心とし、レーベルを運営する栄森さんは、全国から魅力的なパンクロックバンドを掻き集めて、東京でイベント企画を行っていました。

 

Snuffy Smileは、商業面、興行面を度外視した自主レーベルらしいスタイルを取り、一貫して、硬派なレーベルカラーを掲げてました。唯一の例外と呼べるのが、栄森氏も最初のイベント設立に少なからず関わっている「Set You Free」という日本の比較的大規模な音楽イベントの先駆けの開催にあったわけですが、レーベルのコンセプト「非転向地下活動」にもある通り、このスナッフィー・スマイルというレーベルは、基本的に、日本のアンダーグラウンドミュージックシーンを、1990年代から2000年代にかけて支えてきた重要な存在だったわけです。

 

この時代の前に、東京ロッカーズ、関西ノーウェイブ、それに加えて、イースタン・ユース、カウパーズを輩出する伝説的な札幌のパンク・シーン、また、山塚アイを擁するハナタラシに続く、Boredoms、さらには、あぶらだこ・・・、といったきわめて異質な異分子的な存在、それから、怒髪天という、その後、オーバーグラウンドのシーンの一角をなす日本語ロックバンド。そのあたりの一連の流れの中で登場した現在も続いている「消毒ギグ」で有名な、Gauzeといった新宿のアングラなジャパニーズ・ハードコアバンド、近年も世界的に活躍するENVYといったバンドが、日本のメジャーシーンとは異なる地下のコアなミュージックシーンを長い期間を経て形成してきたのです。


それらの昭和と令和の合間にある1990-2000年近辺の平成世代、現代のポストロック勢が盛り上がりを見せる日本のインディーロックシーンの合間に登場し、君臨したのが「スナッフィー・スマイル」です。スナッフィー・スマイルは、経営的には成功しなかったものの、Hi-Standardの後に続くメロディック・パンク勢のフォロワーを台頭させ、Envy、Enzweckといったアジア圏や世界で活躍するニュースクール・ハードコア勢を生み出す素地を形作り、重要な役割を果たしている。

 

この90年代から00年代にかけて、東京の最初のインディペンデントレーベル、Snuffy Smileは、その後のポスト・ロックバンド、Toe、LITEのようなインディーロックバンドが登場するまでの流れを、アメリカやイギリスのパンク・レーベルやアーティストと連携を図り、独立レーベルというスタイルを維持しつつ、なんとか新しい風を日本国内に呼びこもうとしていたのです。  

 


・スナッフィー・スマイル関連の名盤 

 

以下で紹介していくのは、東京→京都のインディレーベル、Snuffy Smile(スナッフィー・スマイル)の活動を支えたバンドの名盤。つまり、一度はこのレーベルからリリースしたことがあるバンドのリリースです。

 

隠れた良質な日本のパンクロックバンドを探す手立て、及び、メロディック・パンクのファンの備忘録となれば幸いです。下記に掲載するMVは、あくまで、アーティストの音楽の印象を掴んでもらうためのものに過ぎません。必ずしも、付記する推薦盤の収録曲ではありませんので、ご注意下さい。



・Registrators  

 

1990年代初頭に東京で結成されたパワー・ポップ、ニューウェイブ・パンクバンド、レジストレーターズ。

The Registrators

 

スナッフィー・スマイルのレーベルの1990年代のカタログの最初期、およそ、このロックバンドなしには成立しえなかったレーベル運営。むしろこのロックバンドを送り出すために、最初のリリースが行われたといっても過言でないかもしれない。伝説的なスリーピースのロックバンド、東京発のザ・レジストレーターズを差し置いてスナッフースマイルを語ることは許されません。

 

Registratorsは、名パワーポップバンドとしても聴けなくもない、痛快な音楽性を擁する。かつて、タワーレコードの日本の名ロックバンドの名盤を紹介したフリーペーパーにも以下のWater Closetと共に掲載されていた。日本のインディーシーンでは、Guitar Wolfと共に、絶大な人気を誇った。

 

私自身は、これらのバンドの後追いの世代ですので、リアルタイムでこの1990年代のシーンに通じている方ほど明確なことはいえませんが、特に、1990年代の東京のインディーズシーンの立役者に挙げられる。

 

Hi-Standardの横山健の主宰する「Pizza Of Death」とも関わりの深いバンド。まず間違いなく、The Registratorsは、Husking Bee、Water Closetと共に、1990年代の東京を中心とする日本のインディー・ロックシーンの源流を形作った貴重な存在です。既存のリリース作品は非常に入手が困難となっている。

 

下記の作品は、日本のインディペンデント・レーベル"Lastrum Music Entertainmentからのリリース。

 

 

 

 

 

 

・ Radistrators 『Verocity』 2000


 

 

・Cigaretteman


おそらく、日本で初めてメロディック・パンクを海外から持ち込んだ4ピースの名古屋出身の伝説的なロックバンド、シガレットマン。日本の歴代のインディーシーンにおいて最重要のパンクロックバンド。Husking Beeとのスピリットをリリースしていることでも知られている伝説的なグループです。

 

Cigaretteman

 

シガレットマンは、1993年に愛知県で魚住夫妻を中心に結成され、その後、栃木に活動拠点を移した。2000年に解散。

 

英サンダーランドのLeatherface、米カルフォルニアのJawbreaker、ミネアポリスのHusker Duの直系にあるパンクサウンドです。Green Dayが台頭するメロディック・パンク誕生前夜、哀愁の漂うメロディック・パンクを日本で最初に演奏した伝説的パンク・ロックバンド。上掲の写真については、おそらく、Husker Duの最初期のデモ曲等を収録した「Savage Young Du」のアートワーク写真のオマージュとなっています。

 

 Husker Du、Jawbreakerの音楽性に加えて、紅一点の女性ボーカルの親しみやすいキャラクターがキュートなイメージを添え、キャッチーで切ないパンクロック性がシガレットマンの魅力です。シンディー・ローパーの名曲「Time After Time」のカバーもYoutubeで密かな人気を呼んでいるようです。

 

現在、アメリカのインディーレーベル”Suburban Home Records”から何故かシガレットマンのベスト盤がリリースされてます。シガレットマンとしての活動六年間にリリースされたオリジナル作品はすべて現在廃盤となっていて、現在、CD,Vinyl盤については非常に入手困難です。Youtubeでバンドのフルディスコグラフィーが公開されているので、ぜひ聴いてみて下さい。

 

女性がフロントマンをつとめる日本の最初のパンク・ロックバンドとしての挑戦は素晴らしく、この点の功績についても、後の世代にも語り継がれていって欲しいですね。

 

 

Cigaretteman 「Stay」 

 

 

 

 

 

 Cigaretteman/Jon Couger 『Concentration Camp 7Inch』 2010



 

 

・I Excuse

 

1990年代から2000年代にかけて、メロディック・パンクとハードコアを融合した独特な日本のバンドが台頭。その筆頭格が、この伝説的なエモーショナル・ハードコアバンド、アイ・エイクスキューズです。

 

I EXCUSE

イギリスのインディーパンクシーンと関わりの深いロックバンドで、海外のバンドとのコラボ、タイアップの流れを最初に形成したバンドでもあります。それくらい海外でも通用するものを持ってました。

 

I Excuseは、京都で2000年に結成された伝説的なメロディック・ハードコアバンド、スナッフィー・スマイルの代名詞的な音楽性で、このレーベルの看板アーティストといえるでしょう。

 

「As Someones' Like」という楽曲が、後にUKのパンク・ロックバンド、Chestnut Roadによってカバーされています。

 

最近のポストハードコアバンドに引けを取らないくらいかっこいいです。Leatherfaceや最初期のSnuffに影響を受けつつ、そこのハードコアの攻撃性を加味している。苛烈でダーティーでがなり立てるようなボーカル、そして、バンドサウンドとしての凄まじい疾走感、そして狂気的なほどのパンクに対する熱気とエナジーの一体感というのは鬼気迫るものがある。加えて、メタル寄りの速弾きのギターフレーズは、The Mad Cupsule Market、Cocobatといったヘヴィ・ロック勢と共に、2000年代前後のニューメタルの誕生を日本のシーンにおいて予見していた。

 

この後、2010年代近辺には日本のニュースクールハードコア勢が台頭するようになりますが、下記の1000 Travels Of Jawaharlalと共に、その素地を形成した最重要のグループです。  

 

「As Someone's Like」



 

『Burn The Enpty To The Ash』  2002



 

 

 

・1000 Travels Of Jawaharlal

 

北九州出身小倉出身のスリーピース・ハードコアバンド、1000 Travels Of Jawaharlalについては説明不要。このバンドなしには日本の2000年代のハードコアシーンを語ることが出来ない。

 

1000 Travels Of Jawaharlal

 北九州の小倉出身のハードコアバンド、1000 Travels Of Jawaharlal(ワンサウザント・トラベルズ・オヴ・ジャワハルラール)は、ワシントンDCのハードコアシーンのDiscordレーベルやボストンのハードコア直系の激烈なパンク・サウンドを逸早く日本にもたらしたシーンの最重要バンドです。

 

日本のニュースクール・ハードコア/ポスト・ハードコアの先駆的な存在ともいえるトリオですが、イギリスのフランキー・スタブス率いるパンクバンド、Leatherfaceのコンピレーション「VA/The Bastards Can't Dance  A Tribute To Leatherface」に、盟友、Navel,The Urchin,Spraypaintと参加しており、Snuffy Smile(s)と少なからず関わりを持ってきた。

 

このハードコアバンドは、米国のハードコアシーンに強い触発を受けつつも、それ以前のジャパニーズ・ハードコアの系譜も受け継いでいます。日本語で歌うパンク・パンドでありながら、アメリカやイギリスのハードコアバンドに引けを取らない世界水準の実力を持つ。日本国内でも、多数の野外イベントに出演し、他にも、一度、ヨーロッパの単独ツアーを決行し、多分、日本のパンク・バンドとして初めて、イタリアの地を踏んだバンドではないでしょうか。

 

1000 Travels Of Jawaharlalの魅力を端的に挙げると、何か、ふと考えさせられる思索的、思弁的な歌詞が激烈に紡ぎ出されるスタイルにある。Minor ThreatやNegative Approachのように、核心のみを叩きつけていくリリックは、ギャングスタ・ラップにも比するクールさが込められている。このバンドが唯一のフルアルバムとしてリリースした『Owari Wa Konai』は、凄まじいアジテーションに満ち、重戦車のような破壊力/マシンビートのような手数の多さをもち、バンドサウンドを牽引していく敏腕ドラムの迫力を体感することが出来る。伝説的なジャパニーズ・ハードコアバンドです。

 

 

 「Owari Wa Konai」

 

 

 

 

『Owari Wa Konai』 2003 

 





・Off With Their Heads

 

Snuffy Smile(s)のカタログには、日本のバンドの他にも、J Chruch 、Bloccoという海外のメロディックパンクバンドを含んでおり、このレーベルからデビューした後にパンクシーンで有名になったのが、米国、ミネアポリスのメロディックパンクバンド、Off With Their Heads(オフ・ウィズ・ゼア・ヘッズ)です。
 
 

Off With Their Heads

 

後に、バッド・レリジョンの主宰する「エピタフ・レコード」から作品のリリースを行うようになり、アメリカでも著名なメロディック・パンクバンドになりました。

 

実は、このバンドが売れる以前から逸早く目をつけていたのが、日本のスナッフィー・スマイルでした。7インチのシングル「Off With Their Heads Split7”」で逸早くこのメロディクパンクバンドを世に送り出し、2007年、スナッフィースマイルズ主催の単独日本ツアーを敢行しています。

 

Leatherface、Hot Water Musicにも比する、激渋のパンクロックバンドという触れ込みで、当時、ディスクユニオンでは宣伝されていたような記憶がある。そのキャッチフレーズに違わず、実に、男らしい激渋のメロディック・パンクというのは、レザー・フェイス好きにはたまらないものがあるはず。もちろん、入手しやすい作品をまず聴きつつ、レア盤をあさってみるのがお勧めですよ。

 

特に、最初期の名盤「All Thing Moves Towards Their End」2007は、ハイ・スタンダードをはじめとするメロディックパンク好きは必聴の一枚。サッドパンクと称される哀愁漂う痛快なパンクロックサウンド、誇張抜きにカッコいい作品。 後のこのアルバムに収録されている「Big Mouth」は、LAのティーンネイジャーパンクバンド、The Linda Lindasがカバーしてますね。


「Bog Mouth」

 



 

『All Is Not Well』 2007

 

 

 

 

・Hi-Standard


ご存知、「Pizza of Death」を主宰する横山健のメロディック・パンクパンド、ハイ・スタンダードです。日本の歌謡的な雰囲気と英語の歌詞を擁するメロディック・パンクで一世を風靡しました。

 

Hi-Standard

 

Pizza of Deathからリリースされたスタジオ・アルバム『Growing Up』、続く『Making The Road』(Fat Wreck Chords Editonも後に発売されている)については、既にファンの間で知らない人はいない名盤扱いになると思いますが、それ以前のスナッフィー・スマイルから1994年リリースされたHi-Standardの幻の「In the Bright Moonlight」こそ、実質的なデビュー作となる。実際、その存在こそ、マニアの間で知られていながら、正直、これまで一回も聴いたことないです。どれくらいプレスされたのかもわからず、サブスクリプションでも公開されていない。

 

そもそも、スナッフィー・スマイルは、顧客から注文が来てからCDなりレコードなりを生産するレーベルスタイルをとり、余剰在庫をレーベル内に一切置かなかったため、現在、バックカタログの全作品が廃盤となってます。特に、この作品についても同じように、非常に入手な困難なレア作品となっていますので、お探しの方は、辛抱強くネットショップ関連を探すか、もしくは高円寺のレコード店やディスク・ユニオンのパンク館等で廃盤の中古を探してみて下さい。 

 

「Stay Gold」/「Manking The Road」収録

 

 

 

Hi-Standard 『In The Bright Moonlight』 1994

 



 


・Snuffy Smile(s) コンピレーション作品についての補足

 
 
この他にも様々な隠れたメロディックパンクバンドがこのレーベルを通じて活躍した。徳島のMinority Blues Band、中京のNavel、東北のSpraypaint、福岡のPear Of The West、東京のThree Minute Movie、というように、素晴らしいバンドがこのレーベルから魅力的な作品をリリースしています。
 
 
これらのレーベルを象徴するバンドの有名曲を網羅したコンピレーションも発売されています。
 
 
下掲のコンピレーションは、レーベルの過渡期にリリースされたもので、京都に本拠を移した後にリリースされています。ライナーノーツには、歌詞、及び栄森氏のレーベル運営に関してのメッセージが記されてます。
 
 
 
『I Hope The End Is Always The Beginning V.A.』 2002


 

Woody Gathrie 「The Machine Kills Fasicts」はガスリーの人生観を表す


 

 ウディ・ガスリーは、1940年に発表した「This Land is Your Land」という歌で知られるアメリカのシンガーである。

 

オクラホマ生まれのガスリーは、1930年代から放浪生活を送るようになり、アーティストとしての活動を始める。労働階級への讃歌、プロテスト・ソングーーいわゆる反戦歌の始祖ーーであり、ボブ・ディランの考えや音楽的な価値観にも強い影響を与えた。フォークミュージックの父とも称されることがあることからも分かる通り、米国のポピュラー・ミュージック史においては、ジョニー・キャッシュ、ボブ・ディランと並んで最重要人物に挙げられる。その忌憚ない政治的な発言とともに、ウディー・ガスリーの音楽性はその後のコンテンポラリーフォークの素地を形成した。

  

 

RCAと契約を交わしたのち、1940年に発表された「「This Land is Your Land(この国は君のものだ)」という歌は、無数の政治集会、デモ、さらには近年、オバマ大統領就任式でも歌われた。アーヴィング・バーリンの「ゴッド・ブレス・アメリカ」に対抗して書かれたこの曲は、土地や財産の私有ではなく公有に敬意を表し、社会の平等を求める破壊的なメッセージを持っていることが、時に忘れ去られることがある。

 

ウディ・ガスリーは、1910年代にオクラホマの田舎で育った貧困と、ニューヨークを除く全米で2番目に大きなソーナー社会党によって、その世界観をより強固にした急進派であった。彼の音楽は、労働者階級の闘争を称え、抑圧的な制度や権威を非難するものであった。彼は、世界産業労働者会議(IWW)に影響を与えたジョー・ヒルの遺志を継ぎ、共産党が推進し、反ファシズム、反リンチ、産業別組合会議(CIO)を中心に形成された1930年代の大衆戦線で活動した。




1.第二次世界大戦と広島への原爆投下


1930年代を通して、ウディはアメリカの第二次世界大戦への参加に反対し、フランクリン・ルーズベルトを二枚舌の戦争屋として非難する反戦歌を数多く書き、演奏した。ヒトラーが1939年のモロトフ・リッベントロップ不可侵条約を破り、ナポレオンの愚行を再現するかのようにロシアを攻撃し、ロシアが西側連合国と協力してファシズムと戦うと、彼の見解は1941年以降に変わった。


真珠湾攻撃後、アメリカが参戦すると、ウディは孤立主義者とアメリカ・ファーストを非難する「リンドバーグ」のような曲を書き始めたが、別の曲では、「あらゆる側の」すべての兵士に「ヘルメットを脱ぎ、銃のベルトを外して、ライフルを置いて、いや、誰も殺すつもりはない、と言ってほしい」というひそかな願いを表現している。


1945年9月7日、ガスリー上等兵は、陸軍週刊誌『ヤンク』から得た情報をもとに、「どんな爆弾だ」と題する歌を書いた。そこにはこう書かれていた。


「ティベッツ、キャロンネルソン、フェレビーの3人が、エノラ・ゲイと呼ばれるB-29を飛ばした。



B-29は晴れた夏の日にグアムを離陸し、広島湾に爆弾を投下した。


ボブ・シュマード、メガネをかけろ!あれを見よ!下界では火山が噴火しているようだ。


私たちは窓から顔を出して、この大芝居を見ましたよ。広島はいい町だ。いい町だ! なくなってしまうのは残念だ」


ガスリーはこう続けた。


「空全体が揺さぶられ、4万フィートの高さにまで雲が発生した。


熱線は太陽をしのぐほど明るく、私たちは互いに "ああ、どんな爆弾なんだ "と尋ね合った」


続いて歌われた「Talkin' Atom Bomb」という曲は、こう警告している。


「閃光と大火災がやってくるとき、もしあなたの電話が使えず、あなたの列車の線路が壊れているならば。


高速道路がなくなり、トンネルがすべて塞がり、あなたと家族全員が9マイル先でノックアウトされたら、病院を見つけるのは少し難しい...。


この大きな爆弾の爆発から身を守る唯一の方法は、大きな爆弾を非合法化することだ、それも迅速に。


配達人が私企業や公有地について話そうが何しようが関係ない。


この新しい爆弾の炎をかわせると思っているなんて、頭がおかしくなったのかと思うくらいだ」



この言葉は、核軍拡競争を口語で力強く批判している。ウディの歌は、広島への原爆投下に抗議する最初の歌の一つであり、原爆科学者や平和主義批判者による原爆反対の運動を先取りしていた。「炎が忍び寄るとき、煙が立ち昇るとき、私たちは眠っているように遊ぼう、世界が燃えている間は」と唄っている。


1946年7月、ウディは、中国の内戦で蒋介石を支持するアメリカに抗議する歌を書いた。ウディは蒋氏に「あなたが殺害した一般労働者の正確な数を覚えていますか、記録はありますか、紙はありますか、死者や負傷者の数は......」と問いかけている。


血の一滴一滴が私の記憶の中で輝いている、借りた銃で、借りた金で(アメリカの援助について)・・・すべての農民を数え、すべての組合員を数え、すべての学生を数え、すべての急進派を数え・・・・・・。


 


2.朝鮮戦争を語るウディ


 ウディの社会正義の活動の中で、これまで歴史家に無視されてきたことの一つに、アメリカの朝鮮戦争に対する彼の熱烈な反対がある。


オクラホマ州タルサのウディ・ガスリー・アーカイヴで発見された10曲以上の歌は、ウディがベトナム戦争に対する新左翼の批判を先取りするような言葉で朝鮮戦争を批判していることを示している。ウディは、アメリカ政府の同盟者の腐敗、軍部とペンタゴンの上層部の欺瞞、そしてアメリカの兵器が韓国人に与えた犠牲を非難している。


「バイバイ、ビッグ・ブラス」(1952年)では、自分が朝鮮半島に送られ、出会った中国兵を殺すのではなく、キャンプファイヤーのそばに座って話をするというシナリオを夢想していた。この曲や他の多くの曲で、彼はベトナム戦争中のフィル・オックスやピート・シーガーの役割を先取りしている。


ウディは、ポール・ロベソンのような共産党系の少数のアーティストとともに、同時代の多くのアーティストが沈黙を守っていた時代に、戦争反対を訴えたのである。例えば、ウィーバーズは、朝鮮戦争勃発時に「おやすみアイリーン」や「ツェナ、ツェナ」がビルボードチャートの上位を占めたが、戦争については沈黙を守っていた。それでも、『反撃』と『レッドチャンネル』に共産主義者として掲載され、ブッキングを失いテレビ番組がなくなりレコード契約も解除された。


ビルボードチャートで9位まで上昇したジミー・オズボーンの「神よアメリカをお守りください」やジーン・オートリーのダグラス・マッカーサーへの賛辞「Old Soldiers Never Die」など、この時代のヒット曲は、戦争支持と愛国心をテーマに、宗教的情念を織り交ぜて宣伝した。ウィルフ・カーターのヒット曲「Goodbye Maria, I'm Off to Korea」は、"自由のための新たな戦いに勝利するのはオールド・グローリー次第で、昔と同じ物語 "だと指摘した。アール・ナンのマッカーサーへの賛辞は、次のような台詞で終わっていた。これは、反抗的な態度を理由にマッカーサーを解雇したハリー・トルーマン大統領に向けられた辛辣な言葉であった。


ウディは、冷戦の保守的な文化の中で異彩を放っていた。作曲家のエリー・ジークマイスターが呼んだ「錆びた声のホーマー」は、1930年代の過激主義を燃え立たせていた反対派の底流の一部だった 。


ガスリーの朝鮮戦争への批判は、ウォブリー(IWW)やスメドリー・バトラー(後に反戦パンフレット『戦争とはラケット』16を制作した四大将軍)といった不況時代の過激派の言葉で組み立てられたものであった。朝鮮戦争に対する彼の見解は、彼のアイドルであったジョー・ヒル(IWWのソングライター)の見解とも一致する。


彼は、戦争を資本主義システムの破壊的な現れと考えていたが、資本主義のボスに対して赤い旗の下で行われた戦争は容認していた(ヒルの歌「私は今まで兵士になるべき」にあるように)。


1952 年 11 月の「韓国バイバイ」では、「(米国が)爆撃するのは嫌だ、火薬は関係ない、 平和が私の叫びだ」として、申し訳ないことをしたと書いている。同様に「I Don't Want Korea」では、韓国はいらないし、「空からのプレゼントとして、韓国を私の奴隷にすることもない」と宣言している。


ウディの伝記作家エド・クレイは、この時期の彼の著作は極論であり、以前の質には及ばないと考えている。しかし、ウディは当時、朝鮮の人々の人間性を認め、尊重する数少ない人物であり、北朝鮮の人口の10分の1が死亡し、国連の復興機関によれば、朝鮮を歴史上最も荒廃した土地にした戦争に反対を表明する数少ない人物でもあった。


ウディは「韓国流砂」(1951年4月)の中で、「死んだ数百万人の血の洪水!韓国流砂!」と嘆いている。朝鮮の流砂。

 

いくつかの歌は、韓国軍と米軍・国連軍による漢江橋の破壊と、それに伴う難民の溺死について言及し、「漢江は長すぎる、漢江は長すぎる、バーンの下に沿って下に、バーンの下に沿って下に、漢江は長すぎる」とウディは書いている。続いて「Han River Mud」では、ウディは "It's a bloody, bloody flood, of Sweet Han River mud. "と書いている。「私には泥が血まみれに見える」


「三十八度線」では、ウディは「三十八度線を越えて行進することはない、敵と握手するため以外には」と宣言している。「あらかじめ銃を捨てておく」と。


1952年12月の「Korea Ain't My Home」では、ウディは「Korea ain't my home, since we've got germ warfare, this whole world's not my home, Nobody is living here」と書いている。韓国は私を家に送ってくれ、家に送ってくれ、そもそも私は韓国の人間ではないのだ」


「Stagger Lee」では、ウディは韓国の指導者を蒋介石と同様の言葉で批判し、「ミスター・リー、ディジー・オールド・シグマン・リー、お前は俺をバカにできない!」と書いている。その他にも、ウディは「ウォール街のGIジョー」が「ウォール街のジープと一緒に泥沼にはまり込んでしまった」とも歌っている。


国防長官ロバート・ロベット(戦争の重要な立役者)は、国防企業を顧客とするウォール街の投資会社に勤務し、トルーマン内閣の他の閣僚は、その会社の役員を務めていた。朝鮮戦争によって、国防予算は 1949 年の 130 億ドルから 1953 年には 540 億ドル(2016 年のドル換算で 5000 億ドル以上)と 4 倍に膨れ上がった。

 

一方、マクドネル、ダグラス、ゼネラルエレクトリック、ボーイング、 クライスラー、ユナイテッド・エアクラフトは戦争の結果、記録的利益を上げ、ロッキードジョージアは米国南東部で最大の従業員となった。


1952 年 11 月に書かれたウディの歌「Korean War Tank」は、暴力に訴える原始的な行為を揶揄している。さらに、ウディは「漢江の女」(1952 年 11 月)では、次のように歌っている。


「狙ったわけじゃない、意図したわけでもない、あのいまいましいゼリー爆弾を落としに来たんじゃないんだ!」。

 

「漢江の女よ、言っておくが、俺が落としたんじゃない、俺がやったんじゃない、俺のような人間が落としたんじゃない、ほんの一握りのクソ野郎、血まみれのハイエナどもだ。向こうでやれ」


ウディの憤りは、ナパームが進路上のあらゆるものを焼却し、ある海兵隊員が表現したように「揚げたポテトチップス」のように人々の皮膚を焼くことができるという事実から生まれた。リチャード・ピート伍長は、自分の部隊のメンバーが味方の攻撃でやられた日のことを決して忘れていないと語った。


「アーガイル(イギリス兵)が石油ゼリーまみれで火の中を走り回っているのを見たとき、ひどかった。ある将校は生きたまま皮を剥がされ、死ぬまでに20分かかった」。ナパームが体に付着し、焼き付いた兵士たちは、ひどい悲鳴をあげていた」


「ハン・リバー・ウーマン」は、1965 年にマルビナ・レイノルズが歌った「ナパーム」に力強く表現された、ベトナム戦争中のナパームに対する大衆の大きな反発の予兆であった。この歌は、「ルーシー・ベインズ(ジョンソン - LBJ の娘)、あのナパーム弾を見たことある?ナパームで撃たれた赤ん坊を見たことがあるか?引き剥がそうとすると、なぜか肉も一緒に出てくる......ナパームにはいろんな名前がついているんだ......。そして、彼らは空からそれを投下し、人々は燃えて死ぬのだ」


おそらく最も雄弁な反戦バラード「トーキング・コリアンブルース」で、ウディは「戦争全体がゲームのように見える、まるで子供たちがやっているおかしな小さなゲームのように。もし我々が兵士や船や飛行機を送らなければ、赤軍が商品と国民を獲得するのは同じだ」と唄っている。


ガスリーはこのように問いかける。


「なぜマックは数千人が刈り取られるのを見たいんだ?


赤軍が次のラウンドで勝ち残ることを知らないのか。我々は南部に物資を送り、彼らは北部の人たちにそれを配る。


この前の中国人の配達の時、彼の頭はどこにあった?数千の兵隊と飛行機は南が北に渡さないようにするために使う価値はない


蜂が自分の花や巣に近づかないようにするために、一人の人間の命を使う価値はない。


韓国の赤軍はどちらにしてもクリスマスパッケージを手に入れる。


赤軍に入るか、赤軍のメッセンジャー・ボーイになるかだ」


ガスリーは、この戦争を、アメリカの努力もむなしく、社会の総動員を伴う国家解放の闘いだと理解していた。ガスリーはこの歌の中でこう続ける。


「マッカーサー元帥が故郷から遠く離れたところで何をしているのか、私は時々不思議に思う。


彼はあそこが好きではないのだろう、なぜ子犬のテントを畳んで家に戻ってこないのだろう、そして彼の精神神経症のGIたちを連れて帰ってくるのだろう。


GIボーイズがあそこを嫌がるのはよく分かっているんだ」


その時代からFBIは彼を監視していたというが、ピート・シーガーのように、下院非米活動委員会(HUAC)に連行されることもなく、ポール・ロベソンのように、パスポートを剥奪されることもなく、ウディ・ガスリーは非人間的な活動を続けた。彼は、大きな決断を下す男たちの非人間性を嘲笑し続けた。「Hey General Mackymacker」(1952年)の中でウディはこう書いている。


「ホッ、ホッ、ミスター・ラヴビット(国防長官ロバート・ロベットのこと)、あの吹雪は確かに苛烈だった(寒い冬のことだ)。


荷造りをしている姿は見えないが、俺たちを死ぬために行進させたのか? 歩いているのか、それとも走っているのか?


おい、シンマン・リー君、何が悪かったんだ? プジョンから追い出された時、南ピョンヤンに戻った時、まだ散歩していたのか? それとも走っていたのか?


おい、ディグジー・マッキマッカー、クリスマスは歩いて帰ると言ったが、どのクリスマスとは言っていないぞ。歩いて帰るのか、それとも走って帰るのか、知りたいんだ。


マッカーサーが提唱したように)共産主義者を原子爆弾で攻撃し、彼らが我々を原子爆弾で 攻撃すれば、誰も走らないだろう」



3.ベトナム戦争でウディが残したもの


 核兵器による不安と、自ら危険を顧みず勝利を宣言して国民を欺いた指導者によって特攻隊に送られた米兵への憂慮を表現している「Hey HeyGeneral Mackymacker」は、同じようなテーマを持つ多くのベトナム反戦歌への道筋をつけた。

 

例えば、カントリー・ジョー&ザ・フィッシュの「I Feel Like I'm Fixin' to Die Rag」(1965年)は、ウォール街の暴利に言及し(「さあウォール街、遅れをとるなわこれは戦争オゴリだ、ここに儲かる金はいくらでもある、軍にその商売道具を供給すればの話・・・」)、この曲は、軍の幹部とその血に飢えた反共産主義をあざ笑ったものである。ある一節にはさらにこうある。「さあ、将軍たちよ、急ごう。ついにビッグチャンスが来たのだ」と。この曲のコーラス(「and its' one two three, what are we fighting for?)は、ウディが以前に韓国で歌ったベトナム戦争での人命の不条理、無目的、浪費を指摘するものであった。


フィル・オックスの「アイ・エイント・マーチング・エニモア」(1965年)は、ウディ・ガスリーと同じように、「戦争に導くのはいつも年寄り、死ぬのはいつも若者」と宣言している。この曲は「トーキン・アトム・ボム」のように、「日本の空で最後の任務を果たし、強大なキノコの轟音を響かせ、街が燃えるのを見て、私は学んだ、もうマーチングしないことを」と続く。 

 

ピート・シーガーが1967年に発表した有名な歌「Waist Deep in the Big Muddy」は、1942年にミシシッピ川が深すぎるという軍曹や兵士の警告にもかかわらず、隊長に命じられて川を下る米兵の小隊を中心に構成されている。

 

大尉は、ベトナムを連想させるように、聞く耳を持たず、突き進み、兵士たちはどんどん水の中に沈んでいく。シーガーは、「私たちに必要なのは、ほんの少しの決意だ。私たちはビッグ・マディーに首まで浸かり、大馬鹿者が進め」と言う。そして、その結末は、最終節に描かれている。「突然、月が曇ってきて、ゴボゴボという叫び声が聞こえた。数秒後、隊長のヘルメットだけが浮いていた。軍曹が『お前たち、こっちを向け!』と言った。これからは私が責任者だ。

 

ここでシーガーは、兵士が指揮官の後を継いで、不当な戦争による大規模な破壊から名誉ある撤退を図るという、ウッディの反権威主義的ファンタジーのバリエーションを提供していたのである。


朝鮮戦争は、ベトナム戦争と多くの共通点があるが、マッカーシズムや第二次世界大戦後の抑圧的な環境の中で、大規模な反戦運動は展開されず、アメリカ軍指導者に対するアメリカの信頼が醸成されていった。ウディ・ガスリーの戦争への反省は、結果として、シーガー、ジョーン・バエズ、フィル・オックス、カントリー・ジョーのベトナム戦争への反撃の歌のように、世代や運動の戦意となることはなく、実際、彼がどの程度公に歌ったかを示すものはほとんどない。


しかし、ウディは、戦争に反対する活動家の一人であり、1960年代の反戦運動の種をまいたと思われる。
 
 
社会学者のC.ライト・ミルズは、「子供や女性や男性を石油ゼリーで焼く」米国の戦闘機(韓国)によって行われた機械化・非人間化された虐殺に嫌悪感を示した同時代の人である。 「共産主義者の作家、ハワード・ファストは、反戦詩「朝鮮戦争の子守唄」を書き、韓国の子供たちに目を閉じ、「燃えるガソリン、とても純粋で穏やかな炎で燃える穏やかでジェリー状のガソリン」を忘れ、「周りに落ちて肉を引き裂き、地面を引き裂く爆弾の破裂音を聞かず、半分狂った男の腹から聞こえる痛みの叫び声を聞かない」よう呼び掛けた。韓国は抑圧から救い出され、「自由世界」は不況から救われた。脳や骨のかけら、痛みの叫び、苦悶のうめき、人肉の焼ける臭さ、生々しい裂傷は何でもない、それがあなたを自由にするのだから」とファストは辛辣に言い切った。
 

ウディと共にピープルズ・ソングスの一員であった歌手であり公民権運動の指導者であるポール・ロベソンは、朝鮮戦争をアメリカ史上「最も恥ずべき戦争」と呼び、マディソン・スクエア・ガーデンでの集会で、「アメリカの場所はラファイエット、フランス革命の英雄たち、トゥサイン、コジオスコ、ボリバルの側だった--ヨーロッパのクイーズ、アジアのチェン、バオダイ、シンマンリーではない」と宣言している。『フリーダム』紙の1952年1月号でポール・ロベソンはこう書いている。
 

「この戦争で10万人のアメリカ人の死者、負傷者、行方不明者が出た。それ以上に100万人の韓国人を殺し、傷つけ、家をなくした。米軍は、侵略的で帝国主義的な軍隊がそうであるように、獣のように行動してきた。38 度線の北と南で、彼らは朝鮮人を侮蔑的に見、汚らわしい名前で呼び、女を犯し、老女や子供を支配し、捕虜を背中から撃ってきた」

ガスリーもまた、あらゆる戦争を野蛮なものだと考えていた。1952 年 11 月に書かれた「バイバイ、ビッグ・ブラス」では、ガスリーは自分が軍隊に再入隊し、 「誰もこの旅に出ることを私に尋ねなかった」にもかかわらず、新兵訓練を受けた後に「戦争支配者」によって「昔の朝鮮に忍び込む」ことを思い描いている。
 
 
お偉いさんは「雷のように怒鳴り、罵り、帽章と銃を渡され、手榴弾の詰まったベルトを留められ、命令される、少し遊んでこい」。ウディは、さらにこう続けている。「戦争になったら武器を持てと言われた/いいよ、貸してくれるならすぐにでも持つよ、でも保証はできないよ」
 

ここでウディ・ガスリーは、韓国や中国側への共感と、彼らの大義名分に対する認識を表明している。


私は韓国で、ジャングルや山々をパトロールしていました。


武器を地面に下ろし、焚き火をし、ここで話をした。


ビル・スミスは私の名前、彼の名前はホー・トン。私たちはお互いに恋人の写真を見せ合いました。


ウディはさらにこう語る。


「レッドスター・ホー・ツンに武器を渡して、草屋根の小屋まで運んだ。


すると、国連軍の砲兵師団が、日が暮れるまでその小屋を砲撃したんだ。


お偉いさん方は野戦ガラス越しに私を見ていた。9ドル小屋に100万発の弾丸が撃ち込まれた。


ホー・ツンと俺は、ただ横になっていた。赤い星の軍隊が俺を追跡しているその時に


そのピクニックには国連軍の兵士は一人も残っちゃいなかった。男も、大砲も、ライフルも、戦車もなく、7千人の赤軍派が踊りながらラフィンをしていた。


私がどうやって荷物を運ぶか見せると、私は赤い星とその制服を手に取り、彼らは言った:あなたは一生ヒーローであり続けるだろう。


その日のうちにロックハウスを建て直し、今は子供と妻と一緒にここに住んでいる。私の周りに咲く花に、こんにちは。


平和のために植える種に、こんにちは。グッバイ!  さよなら!  このビッグ・ブラス野郎! 俺はもうどこにもいかねえぞ!」

 

これはウディ・ガスリーが最も反抗的であり反体制的であったときのものだ。彼は、原爆の影響を報告した、最初の国際特派員であるとともに、後に朝鮮戦争での米軍の残虐行為やインドシナ戦争での米軍とその同盟国を暴露しながら韓国人や中国人を人間らしくしたオーストラリアのジャーナリスト、ウィルフレッド・バーチェットと歌で対比をなしている。


ウディのバラードは、アメリカの朝鮮戦争を非難し、平和主義、反権威主義、反物質主義を掲げた1960年代のカウンター・カルチャー運動を先取りしたものであり、アメリカ社会を形成していた。1930年代、ウディは、オクラホマからカリフォルニアまで、ピケットラインやバーや酒場で演奏する浮浪者の生活を実際に経験し、そのコミュニティの疎外された人々を哀れんでいる。1960年代のカルフォルニアのヒッピーは、共同体主義や自然回帰運動に倣い、農村に共同生活を営み、財産を共有し、有機食品を栽培し、性的束縛から解放されてシンプルかつ平和に暮らす文化を発展させた。


ウディの末息子アーロは、ベトナム戦争の徴兵に反対するヒッピーソング「アリスのレストラン」を書いた。

 

これは、軍の心理学者に殺意があると言ったことよりも、主人公アリスの住む教会のゴミを誤って捨ててしまい、ポイ捨てで逮捕されて徴兵を免れた自分の体験に基づいて、無表情に書いたものだ。これは、政府の優先順位が歪んでいることの典型であった。アーロは3歳の時にハディ・"リード・ベリー"・レッドベターのアパートで初めてギターを弾き、高校時代には父親のために慈善興行を行い、子供時代には多くの反核、公民権、反戦のデモに参加した。アリスのレストラン」で、彼はこう歌っている。

 

「この皮肉は、アーロがベトナムでの暴力と殺戮に強い嫌悪感を抱いていたことと同様に、韓国に対する父親の見解と呼応している。アーロが兵役を拒否された後、入隊手続きを担当した軍曹は、「小僧、我々はお前のような奴は嫌いだ、お前の指紋をワシントンに送ってやる」と言った。


1969年11月15日、ウディの息子であるアーロは、ワシントンD.C.で行われたベトナム戦争反対モラトリアムで、25万人の観衆を前にして、ウディ・ガスリーの歌、「I've Got to Know」を歌い上げた。この曲は、朝鮮戦争が始まって2ヵ月後に初めて発表された。それはこう問いかけた。

 

なぜ、あなたの軍艦は、私の海を走るのですか? 

 

なぜ、私の空から死の灰が降ってくるのか? 

 

なぜ、あなたの船は食べ物や衣類を運んでこない? 

 

私は知らなければならない、ぜひとも知らなければならないのだ」

 

ピート・シーガーは、作家・スタッズ・ターケルとカルヴィン・トリリンに、”「I've Got to Know」は、ゴスペル曲「Farther Along」に対するウディの返答であり、天国の約束は地上で経験するこの世の不公平と窮乏に対する十分な報酬だと聴く者を慰めている”と語っている。


この歌は、ウディとアーロがモラトリアムで語った「親父がここに来れば、本当に喜ぶだろう」という思いが込められている。ウディと末息子のアーロは、モラトリアムの観衆に対して、「老人がここにいれば本当に喜ぶだろうし、彼の魂はそこにいる子供たちの中にあるはずだ」と語っている。

Yeves Tumor




・Hyper Pop/Experimental Pop主導のミュージックシーンの未来はどうなる??

 


ハイパーポップ/エクスペリメンタルポップは、近年、特に注目を浴びるようになった音楽ジャンルの一です。サブスクリプションサービスの台頭もあってか、最近はアーティスト自体も以前に比べて、大量の音楽を聴き、そのバックグラウンドも幅広くなっています。今や、一国の音楽文化はその国だけのものにとどまらず、ワールドワイドなものとなっている。米国のアーティストたちは英国の音楽に強い影響を受け、英国のアーティストたちが米国の音楽に強い影響を受ける。そのようなことはごく当たり前の風潮となっている。それはインターネットという情報網を通して、どのような地域の音楽も、さらにどの時代の音楽にもたやすくアクセス出来るようになったからこそなのでしょう。

 

この音楽自体の多様化と情報量の著しいまでの増大は、当初、アンダーグラウンドシーンのアーティストに強い触発を与えていたが、今日では最早、オーバーグラウンド、メインストリームのポップスを基調とするアーティストにも全然無関係ではなくなりつつある。彼ら(彼女ら)は、純粋な王道のポピュラー音楽だけをそのまま提示することに飽き始めているのかもしれません。それは、言い換えれば、すでに単純なポップスでは、リスナーを市場に取り込むことが困難になってきたからなのです。今日のポピュラーアーティストたちは、本来相容れないジャンルまでをも取り込み、これまでになかった前衛的なポップスを生み出す時代の要請に答える必要があったのです。

 

そういった時代/聴衆の要請に応えて出現した音楽制作の新たなスタイルが、アーティスト自身でソングライティングからプロデュースまでを一人で完遂する”Bedroom Pop”だったのです。彼らは、それ以前まで膨大な制作費用を必要としていたような音楽を、その費用の十分の一、いや、それ以上に低い割合で、以前のヒット・ソングと同じクオリティーの作品をベッドルームで作り上げるようになりました。この最初のウェイヴを巻き起こしたひとりが、イギリスのエド・シーランだった。作品の最終的な段階ではこの限りではないが、彼はそれまでプロデューサーが行っていたようなことを、自分のアイディアで欠点を賄おうと試みたアーティストの一人に挙げられます。

 

そして、このベッドルームポップと並んで、ここ数年で台頭してきた音楽が、ハイパーポップ/エクスペリメンタルポップです。

 

では、これらのポップスは一体以前のポップスと何が異なるのでしょう。これは一見、判別が難しいかもしれないが、長年、米国の音楽メディア、Pitchforkの編集長を十数年にわたり務め、ウォール・ストリート・ジャーナルでも評論を行ってきたMark Richardson(マーク・リチャードソン)氏は、この”Hyper Pop”という新ジャンルについて、「キャッチーな曲と記憶に残るフックを取り入れたコミカルなノイズの壁」というように表現しています。つまり、リチャードソン氏の言葉を引き継ぐと、ポピュラー音楽の根本的な要素のひとつである楽曲自体の掴みやすさ/わかりやすさに加えて、本来アンダーグラウンドの領域に位置するノイズ・ミュージックの要素があることや、コミカルな雰囲気を要する音楽というように定義づけることが可能となる。それに加えて、ハイパーポップやエクスペリメンタルポップは他のジャンルとのクロスオーバー、IDMを始め、ハウス、ロック、メタル、オルタナティヴロック、現代音楽というように、これまでポピュラー音楽とは相容れなかったジャンルまでを無節操に内包するようになってきています。このことは、アイスランドのビョークの最新作「Fossora」にも顕著に見られる特徴です。

 

このアルバムでは、エレクトロ・ポップの要素に加えて、映画音楽、現代音楽、メタル、民族音楽、ノルウェーのミュージック・シーンの中心のジャズ/フォークトロニカ、そして、アイスランドの電子音楽をすべての飲み尽くそうとこのアーティストが試みたアルバムである。つまり、これらの音楽は、ヘヴィ・メタルから、ダンス・ミュージック、旧来のエレクトロ・ポップまで何から何まで”モンスターのごとく”取り入れてしまおうというわけなのです。

 

これらのミュージックシーンの台頭はもちろん、ソーシャルメディアの主流化や、それまでサブカルチャーという、メインストリームの下層にあるいかがわしいところのある文化とみなされてきた概念が若者たちの文化にごく自然に根差していったことによって、日頃普通に鑑賞しているドラマやアニメーションからの影響や、それ以外にも、SNSのスラングをごく自然に音楽として昇華したことで生み出された音楽と言える。これらのポピュラー音楽は、InstagramやTiktok、TwitterといったSNSで起きることと何ら無関係とは言いがたいです。それが理由なのか、これらの音楽は、どことなくSF的であるとともにメタ的な構造を持ち、そして、仮想空間に氾濫している音楽をポピュラー・ミュージックとして体現したような印象を聞き手に与えることでしょう。


音楽的な観点からのハイパーポップ、エクスペリメンタルの定義は以上のようなものであるが、一人のアーティストとしてのコマーシャリズムにもこれらのシーンに属するミュージシャンたちには変化が生じているとも付け加えておかねばなりません。つまり、アーティスト写真や、アーティストの佇まいの変化について。一例では、FKA Twigs,Willow,Rina Sawayama,Bjorkに至るまで、近年のアルバム・ジャケット、及び、アーティストの宣伝写真に著しい変化が見られることに、すでに多くの読者諸賢はお気づきになられていることでしょう。

 

アートワークに映し出されるアーティストの姿は人間離れしており、SFに登場するキャラクター化している場合もあれば、映画「アバター」に登場するような仮想的なモンスターの場合もある。これらはこのアートワーク/アーティストという音源に付随する一種の芸術作品に接した鑑賞者にいくらかセンセーショナルな印象を与え、そのアーティスト写真やアートワークを見た瞬間に一発で、そのことを記憶に残させるという効果がある。今や、これらの宣伝方法を見るに、アーティストは時に人間から離れ、SF化され、人間ではない他のなにかになぞらえられたり、変身したりするような時代になっています。それは全時代から続いていたミュージシャンのスター・システムがより先鋭化した表現性がこれらの文化、音楽が見いだされるとも換言出来るわけです。


これら、以下に掲載するハイパーポップ/エクスペリメンタルポップのアーティストの入門編は、新世代の音楽の門扉を率先して開いてみせた、画期的かつ前衛的なアルバムばかりです。


しかし、これらの最新の音楽に最大の賛美を送るとともに、警鐘を鳴らしておく必要もありそうです。これらの音楽が未来によりスタンダードとなり、それらが消費される意味しか持たぬ音楽に堕するとするならば、決してこれらの音楽は、必ずしも人間にとっての良薬となりえない可能性もある。オートチューン、オートメーション、過度なノイズ加工や過剰なコンプレッション、それらは音楽をロボットにすることであり、また、音楽をAI化することでもある。このハイパーポップ/エクスペリメンタルポップは、2022年代の象徴的な音楽であることに変わりはありませんが、音楽をオートメーション化しないということを念頭におかないで、先鋭化しつづけるならば、必ずや、どこかの年代において飽和状態を迎える時期が到来すると思われます。


とにかく、2022年の今、どのような音楽が次に到来するのか全く予測することができません。未だ知られていないだけで現在も私たちがしらないどこかで、すでに新たな音楽が誕生しようとしているのかも知れませんね。

 



・Hyper Pop/Experimental pop ー入門編ー

 

今回、読者の皆様にご紹介するのは、「ベスト10」を始めとするような網羅的なセレクションではなく、そのごく一部であり、単なる入門編に過ぎません。他にも素晴らしいアーティストは数多く活躍していますので、ぜひ、以下のリストを参考にしていただき、皆さんそれぞれのオンリーワンと呼べるような作品を探してみてください。

 

 

 

 Yeves Tumor 「Heaven To A Futured Mind」 

 


Yves Tumorが2020年にリリースした「Heaven To A Futured Mind」 は、ポピュラー・ミュージックの定義そのものを覆してしまったセンセーショナルなアルバムです。

 

今作において、Yves Tumorは、IDM、ヒップホップ、ソウルなどのクロスオーバーミュージックを企図している。

 

オープニングトラック「A Gospel For A New Country」で、Yves Tumorは新世代のポピュラー・ミュージックの到来を告げており、ブレイクビーツを多様し、唯一無二の世界観を確立しています。このアーティストは、 インタビューを一切受け付けていないらしく、いまだ多くの謎に包まれている。

 

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Charli XCX 「Crash」


Hyper Popというジャンルを知るためにこれ以上はないというくらい最適なのが、UKの大人気シンガーソングライター、チャーリー・XCXの2022年の最新作「Crash」でしょう。

 

ノイズ性の強いポップ、コミカルな雰囲気、ボーカルに施されたオートチューン等、ハイパーポップのジャンルを構成する基本的な要素を今作に見出すことが出来る。内郭にある音楽としてはチルアウトの要素が強く、ゆったりとした感じを楽しむことが出来るアルバムです。ソーシャルメディア文化の気風を体現した作品で、スマッシュヒットを記録したのも頷ける話ですね。



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Rina Sawayama   「Hold The Girl」

 

 

UKの主要な音楽メディアを騒然とさせたリナ・サワヤマの最新作「Hold The Girl」。主な英国内のメディアが殆ど満点評価を与えたにとどまらず、日本人としてUKチャートの歴代最高位を記録するなど、素晴らしい功績をサワヤマはこのアルバムで残しています。

 

制作時、サワヤマは、エルトン・ジョンから幾つか有益なアドバイスを貰ったとのことで、相当、プロダクションからも相当苦心の跡が窺え、真摯に聞き入ってしまうアルバムです。ハイパーポップの要素に加え、ヘヴィ・メタルなど幅広いジャンルが含まれている。タイトルトラック、及び「This Hell」を始め、ポップ・バンガーが勢揃いしており、国内の気鋭メディアが総じて絶賛しているのも納得の内容。ポピュラー・ミュージックとしても名盤にあげておきたい作品。

 

 

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Willow  「Ardipithecus」

 


アメリカ出身のシンガーソングライター、ウィローもまたジャンルにとらわれない幅広い音楽性を生み出しています。ウィローは、10月7日に新作アルバム「COPINGMECHANISM」を発表したばかりです。

 

最初期は、R&B色の強い音楽を制作していたウィローですが、2021年の「lately I Feel Everything」では、ロックミュージックにも挑戦している。ハイパーポップの音楽性の雰囲気が感じられる作品としては、2015年のアルバム「Ardipithecus」を挙げておきたい。この作品で、ウィローは時代に先んじて、ハイパーポップ、モダンソウル、IDMの融合に挑戦しています。他にも、ハープやシロフォンといったオーケストラ楽器を取り入れたアヴァンギャルドな作風。 


 

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Sophie 「Oil of Every Pearl's Un-Insides」

 


今回、これらのハイパーポップの入門編として幾つか作品を挙げる中で、最も音楽的に異彩を放っているのがギリシャ・アテネを拠点にするSopieというシンガーソングライターです。

 

他のアーティストがIDMなど、メインストリームのダンスミュージック/エレクトロニカを取り入れているのに対して、 このアーティストは、アンビエントやドローンとアンダーグラウンドに属する音楽を本来、メインストリームにあるポピュラー・ミュージックとして昇華しようと試みています。

 

ここに取り上げる2018年に発表された「Oil of Every Pearl's Un Insides」は、アヴァンギャルドな領域に属する音楽であり、ポップス=シンプルな音楽という旧来の文脈を書き換えようとした画期的な作品にあげられます。アンビエントドローンとボーカルトラックの融合は幻想的な雰囲気すら感じられる。

 

 

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Bjork  「Fossora」

 


 

ビョークの「Fossora」は、エクスペリメンタルポップとハイパーポップの中間点に位置するような作品です。今年のポピュラー・ミュージック作品の中では最も洗練された作品と言えるでしょう。

 

キノコを主題に置いたという「Fossora」は、モダンクラシカル/北欧フォークトロニカと旧来のポピュラー音楽との融合を試みた作品として位置づけられるかもしれません。オーケストラのストリングスの重厚感のある重奏、スティーヴ・ライヒのミニマリズムに象徴される木管楽器を、どのように既存/現在のポップスの枠組みの中に組み込むかを模索したようにも見受けられる。もちろん、その他にもメタル、ノイズなど、幅広い要素がこの作品の中に見出すことが出来る。

 

アルバムの評価自体は差し置いて、質の高いアヴァンギャルドポップであることに変わりはありませんが、その真価がよりはっきりと発揮される瞬間があるとするなら、ライブパフォーマンスにおける舞台芸術とのこの「Fossora」の収録曲の劇的な融合性にあるかもしれません。これらの楽曲はステージ演出において実際の演奏とどのように同期されるのかに注目していきたいところです。もちろん、ビョークの息子がヴォーカルに参加したというクローズド・トラック「Her Mothers's Voice」など、アート性の高い最新鋭のアヴァン・ポップスに挙げられるでしょう。


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