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  60年代半ばはサイケデリックな時代の幕開けとなり、急成長を遂げたロンドンのアンダーグラウンド・シーンでは、当時のムードに合ったドリーミーでトリップしたようなサウンドを生み出すバンドが数多く登場した。

 

60年代のサイケデリック・シーンのあまり魅力的でなかった特徴のひとつは、一部のパフォーマーたちが自分たちのことをあまりにも真剣に考えすぎていたことだ。新しいバンドが次々と登場しては消えていく様子は、すぐに地元の図書館の神話コーナーでビックバンが起こったかのような印象を与えた。

 

このシーンから、「ダンタリオンの戦車」、「ヤコブの梯子」、「アフロディーテの子供」、「神々」といったありそうもないタイトルのバンドが次々と登場したのだ。幸運なことに、アクエリアスの時代を祝うために真剣に努力する、前兆のある名前のグループの流れの中で、このシーン全体が少し真剣すぎるのではないかという考えに、喜んで首肯する人たちが何人かいた。いくつかのバンドは、アンダーグラウンド・シーンは単なる一過性のジョークに過ぎないかもしれないと認識し、グループ名にやんわりと自嘲的なダジャレを取り入れることで、出口をしっかりと見据えていた。

 

 

  1965年、あるバンドは、イギリスのケンブリッジ出身の友人たちにロンドンの建築大学出身の新しい知り合いを加え、結成された5人組のラインナップを擁していた。当初、グループは、小さなクラブやプライベートなパーティー、そして、自分たちの大学の安全な場所でギグを演奏していた。「RAFノースホルト」で行われた広い世界でのギグに飛び出してみると、意外なことに、ロンドン・サーキットに「ティー・セット」と名乗る2つのグループがいることがわかった。

 

ライブ会場の必然的なダブル・ブッキングを避けるため、新参グループたちはその場で代案を出すことになった。彼らのリード・シンガーがすぐに決めた名は、「ピンク・フロイド・ブルース・バンド」だった。1965年の初夏から、この名前はポスターやフィルターに登場するようになった。ピンク・フロイド・ブルース・バンドには当初、ボブ・クロースがギターとヴォーカルで参加していた。ボブはあまり長くは活動せず、バンド名のブルースの要素もなかった。1965年の夏までにバンドは4人編成にスリム化され、バンド名もそれに合わせて縮小された。その後数年間、バンドは「ザ・ピンク・フロイド』として知られることになる。バンドがようやく定冠詞の『The』を振り払うことができたのは、1970年代初頭のことだったが、1971年までには、彼らは単にピンク・フロイドとして広く認知されるようになっていた。

 

  ピンク・フロイドとして知られる4人組の初期メンバーは、ベースのロジャー・ウォーターズ、キーボードのリチャード・キース、ドラムスのニック・メイスンだった。リード・ギターとヴォーカルを担当したのは、ロジャー・キース・バーネットで、シド・バレットとしてよく知られている。シドのグループにとって、報われない無名の長い年月はなかった。バンドは、初期のリズム・アンド・ブルースのスタンダードを捨て去り、次のようなスタイルで活動していた。1966年11月までに、このバンドに関する情報は首都の居心地の良い世界を超えて広く伝わり始めていた。

 
  ケント州で発行されている地元紙『ヘラルド』は、ピンク・フロイドのメンバーへのインタビューをいち早く掲載した。リック・ライトは、この特別なインタビューを担当し、バンドの音楽が急速に拡大する聴衆に与えた影響を説明する仕事を任された。

 

「それは時々、驚嘆に値するポイントに到達します。それはうまくいったときで、いつもというわけではありません。そのとき、楽器が私たちの一部になるのではなく、音楽が私たちから出ていることを実感するんだ。私たちの背後にある照明やスライドを見て、そのすべてが私たちと同じように観客に影響を与えることを願っています」

 

「完全に自然発生的なものなんだ。私たちはただアンプリファスターを上げ、それを試してみた。でも、私たちが望むものを正確に手に入れるまでには、まだ長い道のりがある。さらに発展させなければならない。私たちのグループは、どのポップ・グループよりもメンバー間の協調性が強いと思います。もちろん、ジャズ・グループのような演奏も出来る」「正しい音を出すためには一緒にいなければならないから、私たちは音楽的に一緒に考えるようになった。私たちの演奏のほとんどは、自然発生的でリハーサルのない即興的なものなんだ」

 

「私たちは比較的新しいグループで、本当に新しいサウンドを発信しているので、ほとんどの人は最初はただ立って聴いているだけです。私たちが、本当に望んでいるのは、音楽に合わせて、音楽と一緒に踊って、私たちの一部になってもらうことです。私たちが望んでいることを体験してくれる人がいると、ちょっとしたジャングルになるけれど、彼らは音楽と自分自身に夢中になっているから、それほど害はないわけです」「それは感情の解放であるが、外向きのものではなく、内向きのものであり、ですから誰もトランス状態になったりすることはないのです」



  アンダーグラウンド・シーンの口コミが急速に広まった結果、バンドはすぐに、権威あるサンデー・タイムズ紙を含む主要メディアの注目を集めるようになった、 1966年末、同紙はアンドリュー・キングにインタビューしたバンドに関する最初の全国的な特集のひとつを掲載した。


サイケデリックバンドと呼ばれることについて、マネージャーのアンドリュー・キングは次のように答えた。「自分たちをサイケデリックとは言わない。でも否定はしないよ」


ベース奏者のロジャー・ウォーターズはこう付け加えた。「しかし、それは協力的なアナーキーであり、私の言っている意味がわかるなら、それは間違いなくサイケデリアの目的を完全に実現していると思う。でも、もし、LSDを飲んだとしたら、何を経験するかはあなた次第。たいていは後者で、聴衆が踊らなくなると、口を開けたまま立ち尽くし、完全にグルーヴしてしまうんだ」


改善された音楽はもちろん好評で、渦巻くサイケデリックな光のショーが加わったことで、全体的な体験にアクセントが加わり、音楽がポイントを外れる瞬間がたびたびあったが、それもまた必要な気晴らしとなった。バンドが多大な時間と労力を費やしたのは、観客を引き離し、音楽を引き立て、時にはそれを凌駕するような、真に心を揺さぶるライト・ショーだったのだ。

 

このパワフルで即効性のあるインパクトの結果、ピンク・フロイドは、発売直後からすぐに聴衆の心をつかんだ数少ないバンドのひとつとなった。瞬く間にザ・バンドは、ロンドンで爆発的な人気を誇るサイケデリック・シーンの寵児となった。 

 

フロイドは1966年、伝説的なクラブ、マーキーへのレギュラー出演から始まった。その年の暮れには、同じく有名なUFOクラブがオープンし、ピンク・フロイドは急速にこのクラブのハウス・バンドとなり、ヒップでトレンディとされるものすべてのバロメーターとして広く認知されるようになった。



  1969年の9月、リック・ライトはUFOのクラブでの体験について、Top Pops and Music誌に次のように解き明かした。

 

「僕らが駆け出しの頃は、ヒットシングルを出さないと誰も聴いてくれなかった。当時は、音楽は踊るものだった。でも、踊らない人が多いのは残念だね。今のところ、観客は頭で考えているだけで、身体で感じていない。でも、これから変わっていくだろうね。私たちはUFOでこのことに気づいた。僕らが始めたころは、観客全員が踊っていたんだけど、だんだん踊らなくなり、聴くようになった。UFOはその変化にとても大きな役割を果たしたと思うね」

 

「以前はPowis Gardensの教会ホールで開催されていた、ワークショップのような雰囲気だった。すべてがオープンになり、とてもいい気分だった。すべて実験的なもので、当時は音楽と照明で何とかしていた」

 

「当時、私たちの生活の中心はUFOだった、すべてがオープンになり、とてもいい気分だったよね。フロイドはステージの上にいたけれど、観客や他のすべての出来事も同じくらい重要だった。お金は関係ないんだ。今はもっとプロフェッショナルな態度を取らなければならない。今でもたくさんの実験をしているが、同じではない。みんな私たちのことを知っているし、何を期待するかもわかっている。その 今の観客の感じはいいけれど、僕らの背後には、確立するために戦い抜かなければならなかったことがある。結成したてのころは、基本的に音楽を聴くために演奏していただけで、将来のことは考えていなかった。でも今は、しばらくはやっていけるという自信がある」

 

 




  1967年1月14日、UFOでの体験に近い時期に、ニック・メイソンとロジャー・ウォーターズはMelody Maker誌のインタビューを受けた。

 

「マネージャーが現れ、フルタイムで照明を担当する人を探し始めるまでは、私たちはとても混乱していた。その照明係は文字通りグループの一員でなければならない。初期の頃は、エレクトロニックな音楽はあまり演奏していなかったし、スライドもまだアマチュアっぽかった」

 

「しかし、今ではそれが発展し、主に改良されたエレクトロニックシーンへの "テイクオフ "はより長くなり、もちろん、私の意見では、スライドはとんでもないものに発展した。彼らは本当に素晴らしい。自分たちをサイケデリック・グループと呼んでいるわけでも、サイケデリック・ポップ・ミュージックをやっていると言っているわけでもない。ただ、みんな僕らをサイケデリックと結びつけて、ロンドンのいろんなフリークアウトやハプニングでよく起用されるんだ」

 

「サイケデリックという言葉に定義はないよ。サイケデリックという言葉はそもそも、私たちの中にあるのではなく、私たちの周りにあるものなのだから」とロジャー・ウォーターズ。「それは私達が数多くの機材と照明を持っているからであり、プロモーターがグループのために照明を雇う必要がないからだと思います。とにかく、フリークアウトは非公式かつ、自発的であるべきです。これまで最高のフリークアウトは、何百人もの人々が集まるパーティーにいるときだった。フリーアウトは、ビンを投げつける野蛮な暴徒であってはいけないんだ」

 

 





  もちろん、フロイドには誇大広告やフリークたち以上のものがあった。当時、光と音を組み合わせて本物のオーディオ・ビジュアル体験を提供する最前線にいた彼らは、そのステージ・ショーにも気を配っていた。

 

初期の実験は、大学の講師であり、家主でもあるマイク・レナードの協力を得て行われた。当時の基準では、パフォーマーや観客に投げかけられた渦巻くような色彩のパターンは、革新的で実に印象的だった。 刻々と変化する照明ショーは、催眠術のように脈打つ音楽のリズムに合わせて手作業でシンクロされ、結果、純粋に不穏なインスピレーションと催眠術のような効果が生まれた。レオナードのライトショーは、BBCの人気の科学番組『Tomorrow's World』のピンク・フロイドを特集したエピソードに収録されるほど、アヴァンギャルドであった。 


これらの初期のテレビ放送はもちろん白黒だったので、イベントは何か訳がわからなくなってしまった。コンサートの観客の薬漬けの部分にとって、ショーは確かに衝撃的だった。しかし、先入観を捨て、即興演奏の実験的な側面を受け入れる準備ができていたストレートな観客にとっても、このショーは同じように効果的だった。



  バンド結成当初の原動力となったのは、もちろんシド・バレットだった。しかし、当時のアンダーグラウンド・シーンがいかに小さく、ロンドンに集中していたかは興味深い。ピンク・フロイドがスウィングするロンドン・シーンの高みに上り詰めていくのに忙しかった頃、『アトム・ハート・マザー』の共作者であるロン・ジーシンのような未来のフロイドの共同制作者たちは、この高まりつつある現象にまったく気づいていなかったと、後になって回想している。

 

「シド・バレットとのピンク・フロイドは私の視野の外だったよ。彼自身の音楽に関しては、ちょっとボロボロで個性的だと言えるかもしれないね。実際、シド・バレットを見たのは、私たちが『アトム・ハート・マザー』をやっているときに、アビー・ロードのセッションにひょっこり顔を出したときだけだった。彼はスローモーションで2、3回転してまた出て行ったよ」


ロン・ジーシンはフロイドのことをあんまり知らなかったかもしれないが、常に次のセンセーションに目を光らせていたロンドンの流行に敏感な観客たちは、パワフルなライヴ・ショウを繰り広げる彼の素晴らしい新バンドの音楽をよく知っていた。

 

  1967年初頭には、フロイドはアンダーグラウンド・シーンで大きな話題となり、フロイドの体験を初めてフィルムに収めたインディペンデント・フィルム・メーカー、ピーター・ホワイトヘッドの注目を集めた。彼は、サウンド・テクニック・スタジオで「Interstellar Overdrive」を演奏するバンドを撮影し、1968年1月13日のUFOクラブでのパフォーマンスと、1967年4月29日にロンドンのアレクサンドラ広場で行われた24時間の "ハプニング "と称された24 hours Technicolour Dreamをモンタージュした映像に切り替えた。


  数週間後、『Record Mirror』のインタビューに応じたロジャー・ウォーターズは、フロイドの音楽とこれらの出来事との関連性を説明しようとした。「俺たちは好きなものを演奏するし、演奏するものは新しいんだ。 ファンが聴きたいものをやっているのは、俺たちだけだから、俺たちをこの新しい時代のハウス・オーケストラと表現することもできるだろう。私たちは、自由と創造性を含む現在のポップス全体の一部であり、楽しませることだけをやっている。私たちは、通常、リンクされない音をリンクさせるし、通常、リンクされない光をリンクさせる。自分たちが本当に言いたいことを示すため、アルバムに多くを頼っているんだ。私たちは、発展させようとしている。ただ、他のアーティストのコピーをしたり、アメリカのレコードを手に入れて、一音一音書き写していくような人たちに、私たちはあまり時間を割けない」


このような強力なビジュアル・ストーリーによって、テレビ局もアンダーグラウンド・シーンのワイルドで素晴らしい世界に興味を持ち始めるのに時間はかからなかった。1967年1月下旬、グランダ・テレビジョンは『Scene Special』というドキュメンタリー番組のために、UFOクラブで『Interstellar Overdrive』を演奏するバンドを撮影した。このエピソードのタイトルは "It's So far Out It's Straight Dawn "であったが、これはフロイドの音楽のクオリティを揶揄したものであったかもしれない。

 


  新たにプロとなったフロイドは、ブラックヒル・エンタープライズというマネージメント会社を設立。マネージャーのピーター・ジェナーとアンドリュー・キングは、以前はバンドのためにギグをブッキングしており、初期のフロイドの活動の原動力となっていた。時代の真の精神を反映し、ジェナーとキングは後にBlackhill Enterpirsesの所有権を自分たちとグループの間で等分した。グループのもう一人の初期の支持者は、ジョー・ボイドというアメリカのA&Rマンだった。


新生のプロフェッショナル・フロイドは、ブラックヒル・エンタープライズというマネージメント会社を彼らの代理人として指名した。マネージャーのピーター・ジェナーとアンドリュー・キングは以前、バンドのためにギグをブッキングしており、初期のフロイドの活動の原動力となっていた。

 

グループのもう一人の初期の支持者は、ジョー・ボイドというアメリカのA&Rマンだった。ジョーは、ブラックヒルをDoors以前のエレクトラ・レコードとの契約に誘うことに熱心だった。エレクトラはレーベルとして断られたが、ボイドは代替案としてポリドールを提示した。1967年2月、バンドはポリドールを念頭に置いて、ジョー・ボイドがサウンド・テクニック・スタジオでプロデュースした「アーノルド・レイン」のファースト・シングルをレコーディングした。このキャッチーなサイケデリアは、ポップ・ビデオの時代よりもずっと前に、プロモーション・フィルムまで制作されている。

 

デレク・ナイスがプロデュースと監督を務めたこの素朴で小さな短編映画は、基本的に流行のビートルズ・スタイルで撮影されており、4人のフロイドが仕立て屋のマネキンと浜辺ではしゃぎまわるという内容だ。このフィルムが1967年3月10日にUFOクラブで世界初公開された時、この地味なフィルムが、セルロイドに記録されたロック音楽の中で最も強烈なオーディオ・ビジュアル体験の先駆けになるとは、誰も思いもよらなかっただろう。


アーノルド・レインのポリグラムへの前進は、ロンドンのエージェント、ブライアン・モリソンの介入によってハイジャックされた。EMIは、すでにレコーディングされ準備の整った興味深いネス・イングルを携えていたため、このバンドが勝者であることを知っていた。ザ・バンドは、ビートルズの本拠地として誰もが認める名門レーベルと契約できたことを同様に喜んだ。とても "英国的 "な曲であるアーノルド・レインは、ロジャー・ウォーターズとシド・バレットが彼らの故郷ケンブリッジで実際に遭遇した出来事にインスパイアされた。シドとロジャーの母親はともに女子学生を下宿させており、下着の洗濯物干し場は定期的に下着泥棒に荒らされていた。


「Arnold Layne」Music Video

 

  バレットは1967年、メロディ・メーカー誌にこの曲の背景をこう語っている。「最近書いたんだ。アーノルド・レインっていい名前だと思ったし、すでに作曲していた曲にもぴったりだった。ベースのログの家の裏庭に巨大な洗濯物干し竿があったんだ。それで、アーノルドには趣味があるに違いないと思ったんだ。アーノルド・レインはたまたま女装が好きだったんだ。誰もが反対できる歌詞は、この部分だけだろうね。でも、もし彼らのような人たちが僕らを嫌うのなら、アンダーグラウンドの人たちのような人たちが僕らをディグすることになる」

 

B面はキャンディ・アンド・カレント・バン(Candy And A Current Bun)で、これもバレット作曲。原題は『Let's Roll Another One』で、EMIはタイトルを変更することを条件にリリースを承諾した。バンドはまだ初期で、党派的な路線に従うことを望んでいたため、タイトルは正式に変更された。

 

A面という珍しい題材にもかかわらず、バンドがEMIと契約して最初にリリースしたこの作品は、レコード購入者の間で意外なヒットとなった。しかし、ブラックヒル・エンタープライズのオフィスでは、サプライズの要素はやや薄かった。後にアンドリュー・キングが明かしたように、この曲をシングル・チャートで20位という立派なポジションに押し上げたのは彼らだった。歌詞に対する俗物的な反応から、このシングルは発売禁止にすべきだという声が一部から上がっていたことを考えると、シングルを宣伝するという決断は賢明なものだった。しかし、海賊ラジオ局ラジオ・ロンドンは、このシングルを正式に放送禁止にしたのだ。


ロジャー・ウォーターズ、リック・ライト、シド・バレットは、このシングルのリリース時にインタビューに答えている。ロジャーは「現実を直視しよう、海賊局はアーノルド・レインよりもずっと "スマート "なレコードをプレイしているんだ。実際、この曲を流しているのはラジオ・ロンドンだけだ。政治が違うだけで、僕らに恨みがあるわけじゃない。リック・ライトは彼自身の見解を付け加えた。「政治が違うだけで、反対するようなことは何もない」バレットは「どうせ、ビジネスライクな商業的侮辱にすぎない。私たちに個人的な影響はないんだ」と一蹴した。

 

 幸運なことに、アーノルド・レインに続くシングル『シー・エミリー・プレイ』は物議を醸すこともなく、商業的にも成功した。『シー・エミリー・プレイ』はチャート6位を記録し、60年代の短い花の期間に制作されたサイケデリック・ソングの中でも間違いなく最高傑作のひとつとなった。 

 

 

「See Emily Play」 

 

 

  この曲は、バンドが1967年春にクイーン・エリザベス・ホールで行った特別コンサート『Games for May』のために書かれたもので、歌詞の中でもそのイベントの名前がチェックされている。

 

その直後、『Record Mirror』はロジャー・ウォーターズのインタビューに基づいた記事を掲載し、このイベントについて触れている。「私たちは、彼らが聴きたいと思うものを演奏した最初の人たちの1人だから、ムーヴメントのハウス・オーケストラと表現できるかもしれない。私たちは、自分たちが好きなものを演奏することから始めただけで、現在のポップ・ムーヴメント全体の一部なんだ。僕らは、アナーキストじゃない。でも、私たちがやっているようなことは、クラブやダンスホールでやるよりも、コンサートでやるのが一番伝わるから、とても難しい立場にいるんだ。少し前にロイヤル・フェスティバル・ホールでコンサートを開いたとき、そこから多くのことを学んだが、同時に大損もしてしまった。すべてを手配するために、1週間の仕事をあきらめなければならなかった。Game for Mayと呼ばれるコンサートは夕方からで、私たちは午前中にステージに上がり、演技を練った。それまでは何をするか考えていなかった。それでも、個々のナンバーのリハーサルと照明の調整くらいしかできなかった」


『Games For May』はピンク・フロイドの発展における重要なマイルストーンとなり、バンドがライヴの音質に気を配るようになった最初の兆しを示すものとなったが、ニック・メイソンが当時のインタビューでこう振り返っているように、音楽に対する配慮はあまりなかったようだ。

 

「私たちはステージにたくさんの小道具を持っていき、即興で演奏したんだ。私たちがやったことのかなりの部分はうまくいったけど、多くのことは完全に失われてしまった。私たちは素晴らしいステレオフォニック・サウンド・システムを完成させ、それによって音がホールを一種のサークルのように巡り、観客はこの音楽に完全に包まれているような不気味な効果を得ることができた。もちろん、私たちは照明を使ってその効果を助けようとした。 残念なことに、それはホールの前の方に座っている人にしか効果がなかった」

 

「あのコンサートでは多くのミスを犯したが、この種のコンサートでは初めてのことだった。そして私たち個人も、そこから多くのことを学んだ。でも、自分たちがやっていること、過去3年間やってきたことが受け入れられ、他のグループが今やっているようなことに大きな影響を与えたと思うと、とてもいい気分だ。今年の2月になってから、僕らにとってすべてが起こり始め、プロに転向することを決意させた」


「しかし、待った甲斐があったよ。3年前は、それが何なのか誰も知らなかった。でも今、観客は私たちを受け入れてくれている。私たちは一般大衆を教育しようとは思っていない。もちろん何かを押し付けようとは思わない。でも、私たちが提供するものを受け入れてくれるのなら、そして今のところ受け入れてくれているようなら、それはとても素晴らしいことだと思う。私たちの考えが多くの人々に伝わっているのだからね」

イパネマの海岸


ボサノバは1950年代のブラジルを発祥とする音楽で、リオデジャネイロのビーチに隣接するコパカバーナとイパネマの2つの地区の中流階級の学生とミュージシャンのグループにより始まった。


このジャンルは、アントニオ・カルロス・ジョビンとヴィニシウス・デ・モラレスが作曲し、後にはジョアン・ジルベルトが演奏した「チェガ・デ・サウダージ」のレコーディングにより一躍世界的に有名になった。


もちろん、知名度で言えば、「イパネマの娘」も世界的な知名度を持つヒット・ソング。くつろいだアコースティックギターの演奏、甘いボーカル、パーカッションの心地良い響きなど、心を和ませる音楽は、今も世界のファンに親しまれている。

 

 

ボサノバはサンバとともにブラジルを象徴する音楽でありつづけたのだったが、同時にその誕生は、政治的な意味と文化的な表現が融合されて完成されたものだった。これはスカやレゲエの前身であるカリプソが当初、トリニダード・トバゴの軍事的な意味を持つ政府お抱えの音楽としてキャンペーンされたのと同様である。1956年から61年にかけてのジュセリーノ・クビチェック政権は、ボサノバの文化的な運動の発生を見るや、政権としてこの音楽を宣伝し、バックアップしたのだった。クビチェック政権がもたらした成果はいくつもある。ブラジルの国家の近代性の立ち上げ、全般的な産業の確立、それから自国での石油の生産と供給の権限である。もちろん、ブラジリア市建設の主導権を握り、国家の独立性の重要な立役者となった。


芸術運動は、そもそも経済産業の余剰物であり、経済産業の一部にはなっても、根幹となることは稀である。果たして、政治的、経済的の基礎的な安定なくして、国家の文化事業を生み出すことが可能だろうか? 


つまり、これこそが経済的に安定した国家から優れた音楽が登場する理由なのだ。幸運にも、50年代後半のブラジルは、上記の条件を満たしていたこともあり、比較的経済的に恵まれた若者の気分に余裕が出来た。つまり、余剰の部分が後の世界的な文化を生み出すことに繋がった。当時のリオデジャネイロが生み出したのは、何も音楽だけではない。リオは、その当時の世界の中心地である、パリやニューヨークに向けて、最新のファッショントレンドを発信した。

 

そして、この大統領政権時代には、無数の文化が世界に向けて輸出され、それらがブラジルの固有のカルチャーとなったのである。文学的な活動、また、そこから生まれた詩、シネマ・ノボ、自由劇場、新式の建築、ボサノバが世界に向けて発信された。ボサノバは、ブラジル音楽の歴史で重要な役割を果たし、サンバの音楽から熱狂的な打楽器の要素を取り除き、対象的に静かで落ち着いたサウンドに変化させ、米国のジャズやフランク・シナトラのジャズ・ボーカルの影響をもとに、それらを最終的にジャジーなムードを漂わせる大衆音楽へと昇華させたのだった。

 

 

Antnio Carlos Jobin


当初、リオの海岸の街で生み出されたブラジルのジャズとも言えるボサノバは、アントニオ・カルロス・ジョビンによって磨きがかけられた。 ジョビンはリオデジャネイロのチジュッカ地区に生まれたが、14歳の頃からピアノをはじめた。音楽で、生計を立てたいと若い時代から考えていたが、家族を養うため、建築学の道に進むことを決意した。


しかし、建築学校に入学後、どうしても夢を捨てきれず、ラジオやナイトクラブでピアノ演奏家として働いていた。その後、ハダメス・ジナタリによって才覚を見出され、コンチネンタル・レコードに入社し、譜面起こしや編曲の仕事に携わった。カルロス・ジョビンの音楽にプロデューサー的な視点があるのは、これらの若い時代の経験によるものだ。その時代から、幼馴染のニュートン・メンドゥーサと一緒に音楽活動を始め、これが後に、「想いあふれて(Chega De Saudade)」で完成を見た。このレコードが世界で最初のボサノバ・ソングと言われている。

 

 

 

アントニオ・カルロス・ジョビンの音楽には、幼少期からのクラシック音楽の薫陶、クロード・ドビュッシーのフランスの近代印象派に加え、ブラジルの作曲家、ヴィラロボスの影響があった。それに彼は米国のジャズの要素を加えて、ボサノバの代名詞となるサウンドを構築していく。歌詞についても、音楽と密接な関係があり、ブラジルのルートリズムに根ざしている。

 

「イパネマの娘」 はカルロス・ジョビンが1962年に録音したボサノバソングで、このジャンルの最大のヒット作である。この曲はヴァイニシウス・モライスが作詞を手掛けた。ビートルズの「ハード・デイズ・ナイト」に続いて、世界で最もカバーされた曲でもある。


イパネマとはリオの南部の海岸筋にある地区を指し、現在では名高いサーフィン・スポットとして知られている。海岸にある半島には遊歩道があり、素晴らしい夕暮れの景観を楽しめる。


イパネマ地区の近隣には、 緑の多い通り、ファッション・ブティック、ダイニング・レストランなどがずらりと並ぶ。現在でも、ボサノバのアコースティック演奏を楽しめる、くつろいだスペースもある。

 

 

Marcus Vinícius da Cruz e Mello Moraes


この曲は音楽家として知られるようになっていたジョビンと外交官/ジャーナリストのモライスが共作した。1957年頃から二人は、コンビを組んで活動を行っていた。両者はボサノバの最初のムーブメントを牽引した。

 

「イパネマの娘」の曲の誕生にまつわる面白いストーリーがあるので、ここでひとつ紹介しておこう。当時、ジョビンとモライスを始めとするボサノバのアーティストは、リオのイパネマ海岸近くにあるバー「ヴェローソ(ガロータ・デ・イパネマ)」に通い、酒を飲んでいたという。そこへ、エロイーザという少女が現れ、母親のタバコを買いに来た。10代後半の女、比較的背が高く、近隣でも有名であった。好色家の二人は、この女性にインスピレーションを得た。その場で即興で作られた曲という説もあるが、実際は作詞作曲ともに、二人の自宅で制作された。

 

1962年、この曲は正式にお披露目となった。そのお披露目には、ジョビン・ジルベルト、モライスとボサノバーのスターが共演した。しかし、懸念すべき事項があった。この曲が初演されたのは、リオのナイトクラブ「オ・ボン・グルメ」で8月2日から45日間にわたって開催されたショーだった。外務省から「外交官がナイトクラブに出演するなど言語道断である!」との通告を受けたモライスは、報酬は貰わないと決めた上でステージに出演し、クラブに来客した友人の飲食代を肩代わりした。しかし、モライスは終始酒に酔い続け、飲み代がかさみ、あげくはナイトクラブのショーの後には出演者の料金まで受け持つことになったという。


 

『Getz / Gilberto』1964


後に、「イパネマの娘」は、スタン・ゲッツ、カルロス・ジョビン、ジョアン・ジルベルト、アストラッド・ジルベルトのバージョンで世界的に有名になった。1964年のアルバム『GETZ / GILBERT』は、ボサノバ・ブームの火付け役となった。本作は、ビルボード誌のアルバム・チャートで2位に達する大ヒット作となり、「イパネマの娘」もシングルとして全米5位に達した。


そして、グラミー賞では、アルバムが2部門(最優秀アルバム賞、最優秀エンジニア賞)を受賞し、「デサフィナード」が最優秀インストゥルメンタル・ジャズ・パフォーマンス賞を受賞、「イパネマの娘」が最優秀レコード賞を受賞した。本作の音楽は本来のボサ・ノヴァとは別物であると主張する声も多かったが、結果的には、アメリカにおけるボサ・ノヴァ・ブームを決定づけた。

 

「イパネマの娘」のリリース後、ブラジルと米国を中心に大ヒットを記録し、続いて、日本、フランス、イタリアで知られるようになり、世界的なヒット・ソングとなった。

 

スタン・ゲッツやチャーリー・バードといった米国のジャズ演奏家がボサをカバーしたのをきっかけに、米国にもこのジャンルが一般的に浸透した。優れたジャズ演奏家がボサノバを発見したことで、音楽的にも磨きがかけられた。シンコペーションが取り入れられ、洗練された響きを持つようになった。

 

De La Soul

・サンプリングはどのように発展していったのか?

サンプリングというのは、すでに存在する音源を利用して、それらをコラージュの手法で別の意味を持つ音楽に変化させるということである。つまり、再利用とか、リサイクルという考えを適用することができる。それはクリエイティヴィティの欠如という負の印象をもたらす場合もあるにせよ、少なくとも、ヒップホップミュージシャンやレーベル関係者にとっては、再利用という考えは、「音楽の持つユニークな側面」として捉えられていたことが想像できる。そして、すでにあるものを使うという考え、それはそのままラップのひとつの手法となっていった。

 

ヒップホップ・シーンでのサンプリングに関しては、70年代後半にはじまった。


1979年、シュガーヒル・ギャング(The Sugarhill Gang)の「Rapper’s Delight」のサウンドトラックを制作するにあたり、レーベルの経営陣は苦肉の策として、シック(Chic)の「Good Times」をコピーさせるという手法を選んだ。

 

そして、その18年後、ノートリアス・BIGの「Mo Money Mo Problems」の曲を制作するさい、ション・パフィ・コムズが選んだのはダイアナ・ロスの「I Coming Out」をただサンプリングしただけだった。どちらの原曲もナイル・ロジャースによって書かれた。


当初、こういったサンプリングとかチョップの試みは、シュガーヒル、エンジョイといったラップアーティスト、スタジオでバンドを使った初期のラップレコードの多くによってもたらされた。それは、ブレイクビーツの手法を用いず、こういったサンプリングを使用すると、ラジオ曲でオンエアされやすいという事情もあったため、積極的に使われていくようになった。そして当時はソウル全盛期に音楽的なルーツを持つミュージシャンの象徴的なメンタリティでもあった。

 

以降、サンプリングの手法がひろまると、この技法はソウルの後のヒップホップを聴いて育ったミュージシャンのトラックメイクの重要なファクターになり、ヒップホップの新しい可能性を開くための道筋を開く。ライブステージでしか生み出し得ないと思われていたリアルな音楽をレコーディングやレコード・プロダクションの過程で生み出すことが可能になった。これはレコードという媒体が、単なる記録の集積以上のものとなり、以前に演奏されたサウンドや再発見されるサウンドの集合体という、今までとは違った意義を持つようになった。

 

ただ、この時点では、サンプリングは、ミュージシャンだけの特権ともいうべきものにすぎず、一般的なリスナーにはあまり知られていなかった。この手法を一般に普及させたのが、パブリック・エネミー(Public Enemy)、そして、昨年、サブスクリプションで全作品を公開したデ・ラ・ソウル(De La Soul)である。

 

(昨年末、ビースティ・ボーイズ、デ・ラ・ソウルのプロデューサーと制作を作ったイギリスのDef. foというミュージシャンとメールでやりとりとしていたが、こういったミュージシャンに関しては、新しいものにこだわっておらず、良い音楽を再発見するというサンプリング的な意義を見出そうとしている。彼の作品には、ベル・アンド・セバスチャンのキーボード奏者も参加している)

 

ちなみに、デ・ラ・ソウル、そしてパブリック・エネミーは両方とも、ロングアイランド出身のグループである。とくに、パブリック・エネミーの代表作『Public Enemy Ⅱ』は、ブラック・パンサー党の思想、そして、ネイション・オブ・イスラームの理念をかけあわせ、黒人を排除する冷血な社会構造と対決する姿勢が示されていた。これが同じような思いを持つブラザーに大きな共鳴をもたらしたのである。そして、サンプリングという観点から言うと、現在のヒップホップミュージシャンがそうであるように、ヘヴィメタルの再利用が行われ、スラッシュ・メタルの先駆的なバンド、アンスラックス(Anthrax)の音源が彼らのトラックに取り入れられていた。最近でも、JPEGMAFIA、Danny Brownが、SlayerやMayhemのTシャツを着ていたのは、詳しいファンならばご存知と思われる。彼らがスラッシュメタルやブラック・メタルに入れこんでいるらしいのは、パブリック・エネミーからの時代の名残り、あるいはその影響と言える。

 

Public Enemy

そして、サンプリング・ミュージックの今一つの立役者がヴィンテージ・ソウルをブレイクビーツ的な手法で取り入れたのが、デ・ラ・ソウルである。デ・ラ・ソウルのデビューアルバム『3 Feet High and Rising』で、ラップはもちろん、歌やジョーク、寸劇などが爽快に散りばめられた24曲入りの超大作だった。

 

このアルバムは、パブリック・エネミーの『Ⅱ』の一年後に発売された。パブリック・エネミーの作品がストリートギャングの余波を受けた黒人としての怒りとアジテーションを集約した作品であったとするなら、デ・ラ・ソウルのデビュー作は、それとは対比的に、子供っぽさ、無邪気さ、可愛らしいサウンドが織り交ぜられた作品だった。デ・ラ・ソウルのデビュー作の中には、彼らのソウル・ミュージックに対する愛情が余さず凝縮されていた。スティーリー・ダン、オーティス・レディング、スライ・ストーン、ダリル・ホール&ジョン・オーツ等、ネオソウルからモータウンのソウルまで幅広い引用が行われている。そして、デ・ラ・ソウルは、これらのミュージシャンの曲を見事に組み合わせた。それは「拡散的なサウンド」ともいえるし、ブレイクビーツの系譜の重要な分岐点となったことは想像に難くない。そして、トゥルーゴイとポスダナスが繰り出したのは、ジョークとウィットに富んだリラックスしたリリックだった。

 

彼らの音楽は、ソウルミュージックの系譜にあると同時に、ヒップホップの友愛的な側面を示していた。80年代に活躍したプロデューサーは、こぞってサンプリングに夢中になり、権利関係を度外視し、音楽のサンプルをかなり自由に使用していた。しかし、サンプリングが商業音楽として普及していくと、同時に著作権やライセンスに関する問題が生ずるようになり、以降は音楽業界全体が、著作権というものに関して一度十分な配慮をおこなう必要性に駆られた。

 

 

・サンプリングと権利問題  利益性とライセンスの所在

 

著作権におけるサンプリングの問題を提起する契機を与えたのが、他でもない冒頭で紹介したシュガーヒル・ギャングの「Rapper's Delight」であり、このシングルがチャートで大ヒットを記録した時だった。

 

このシングルが大ヒットすると、元ネタとなった「Good TImes」を書いたバーナード ・エドワーズ、及び、ナイル・ロジャースは訴訟を起こし、シュガーヒル・ギャングのソングライターのクレジットと印税を獲得することで、この話は収まったのだった。このライセンスに関する問題は、1979年に、報道で大きく取り上げられたというが、それでもサンプリングはこの年以降も比較的自由に使われ続けていた。楽曲のサンプルの元となったソングライターにとって、サンプリングされるということは、経済的に美味しい話をもたらす格好の機会となった。そして、サンプリングは事実、それ以降は弁護士の間で、大儲けのネタになるという話が盛り上がったのである。現在でも、レーベルの方からミュージシャンに、サンプリングやリミックスをしないか、という提案がある場合があるというが、これは早くいえば利益を生むからである。


金銭的な問題や争点と合わせて、一般的な解釈として、サンプリングに対する警戒感が強まった要因には、人種に関する差別意識も含まれていた。サンプリングそのものが、一般的に嫌悪感を持って見られるようになったのは、パブリック・エネミーやデ・ラ・ソウルといった、ブラック・ミュージックの一貫として、オリジナル曲が使用されるようになってからのことである。

 

サンプリングの一番の問題とは、サンプリングされた後に、元ネタとなるミュージシャンの楽曲の価値がどれくらい残されているかという点にある。つまり、音楽的な貢献度の割合自体にクレジットの付与を行うべきかどうかの判断基準が求められるはずだ。もしかりに、元ネタの曲が、有名でもヒット・ソングでもなければ、クレジットする必要はきわめて低いと明言しえるが、デ・ラ・ソウルなどの上記のサンプリングの問題は、有名な音楽が引用元として使用されたことが争点となった。しかし、ここでも矛盾点が生じる。例えば、有名ではない音楽、ヒット・ソングではない音楽そのものが、そうではない音楽よりも価値が乏しいのかという問題だ。

 

1979年の問題に関しては、いわば楽曲を使用された側の感情的な側面が、法律的な騒動を惹起するように働きかけたと考えられる。一例では、ヒップホップという音楽自体を嫌悪していたロック・ミュージシャン、ポップ・ミュージシャンが、自分の楽曲がネタとして使用されていると気がついた時、こういったミュージシャンは、そのことを糾弾するばかりか、ラップそのものに対する敵意すらむき出しにしたのである。しかし、サンプリングに対して問題視しなかったのが、ベテランのR&Bミュージシャンであった。ただ、この点については、彼らが音楽業界で、騙されたり、マージン等をごまかされていたため、それほど権利自体に配慮しなかったのが要因だったという指摘もある。こういった流れが沸き起こった後、プリンス・ポールは、デ・ラ・ソウルと「Transmisitting Live From Mars」で知られるポップバンド、タートルズの曲の一部を使用したということで訴訟が起こり、そして示談金で自体の収束を図ったのである。

 

ただ、これ以降もサンプリングは受け継がれていった。しかし、デ・ラ・ソウルの時代に比べると、攻めのサンプリングはできなくなり、守りのサンプリングという形でひっそりと継続された。以後は、パブリック・エネミーのような鋭角でハードなサウンドは鳴りを潜め、耳慣れたビートやボーカルの一部のフックを織り交ぜた単純なサンプリングが使用されることになった。

 

単純なループサウンドが主流になると、音楽的にもシーンの新しい存在を生み出すことに繋がった。ハマー、クーリオ、ショーン・パフィー・コムズの曲が大ヒットを記録する過程で、その元ネタとなったR&Bの古典的なカタログは、金のなる木、もしくは資金的な鉱脈と見なされるようになった。

 

この点においては、サンプリングの良い側面が存在する。それは、サンプリングされてヒットすると、元ネタとなるミュージシャンの楽曲も同時に売れるということである。たとえば、スターミュージシャンが、それほど有名ではないミュージシャンの曲のサンプリングを行うと、元ネタの曲もヒットするという相乗効果が求められる。ただ、これに関しては、引用を行ったアーティストがわかりやすい形で、なんらかの表記かリスペクトを示す必要があるように思える。

 

 

・以後の時代 他ジャンルへのサンプリングの普及 

 

Beastie Boys

1990年代に入ると、サンプリングという考えは、音楽業界ではより一般的なものとなった。そして、これらの土壌は、むしろヒップホップを聴いて育った第2世代ともいうべきミュージシャンによって受け継がれていく。ビースティ・ボーイズ、トリッキー、ベックといった90年代のミュージックシーンの象徴的な存在はもちろん、ダンス・ミュージックシーンでも、ケミカル・ブラザーズ、プロディジーといったグループがサンプリングの手法を用いた。定かではないが、ゴリラズもおそらく、それらのグループに入っても違和感がないように思える。


その後、サンプリングという考えは、電子音楽に対するテクノロジーの一貫として、以後の世代に受け継がれていくことになった。現在では、インディーロックやオルタナティヴロックで、このサンプリングの手法を用いるケースが多い。例えば、それらをコラージュのように組み合わせ、別の音楽として再構築するというのが、現在のサンプリングの考えである。代表的な事例が、Alex Gであったり、Far Caspianという優れたソロミュージシャンである。彼らの素晴らしさは、元ある表現性を踏まえた上で、それを全然別のニュアンスを持つ音楽として昇華することにある。それはオルトロックという範疇に、新しい表現性をもたらしたと考えることができる。

 

もちろん、サンプリングのやり方というのも重要で、なんでもかんでもやって良いというわけにはいかないだろう。どの程度、原曲やその楽曲を制作したアーティストに敬意を示しているのか、もし、単なるネタとして原曲を捉えているとなれば、これはちょっと問題である。影響を受けることは仕方ないが、他のものに触れないでも、優れた音楽を生み出すことができるかもしれない。

 

現代のミュージシャンは、そもそも、広汎に音楽を聞きすぎている、という印象を受ける。なぜなら、ダイアナ・ロス、マイケル・ジャクスン、プリンスの時代には、音楽の総数はもっと少なく、音楽の影響も限定的だったと推測される。しかし、上記のミュージシャンが現在のミュージシャンに劣っているとは到底思えない。従って、そのことを照らし合わせてみれば、現代のミュージシャンは、他の音楽を厳しく選り分けて聞くべきかもしれない、というのが私見である。 


私自身は、サンプリングという技法を用いることに賛成したいが、それはミュージシャンの美学を元にし、条件的かつ限定的に使用されるべきと考えている。厳密に言えば、サンプルの素材を「なぜ、そこで引用する必要があるのか?」を明示しなければいけないと思う。次いで、そのサプリングではなく、「他のサンプリングでも代替できる」という場合、理想的なものとは言いがたい。サンプリングは、そうでなければいけない素材を最適な場所で使用せねばならないという、限定的な音楽形式ということを把握した上で、クリエイティビティを誰よりもクールに発揮すべきである。 以上の考察を踏まえて、サンプリング音楽の更なる発展に期待したい。



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ーグルジエフの人生と考え

 

 

グルジェフは、コーカサス地方のアルメニア出身の神秘思想家で、20世紀最大のオカルティストとして知られている。神秘思想家としては、一般的にヘルメス主義の影響を受けているといわれ、イスラム神秘主義の「スーフィズム」の影響下にあるという説もある。彼はオカルティストとして絶大な影響力を誇った。

 

グルジェフは、ギリシャ系の父とあるルーマニア系の母のもとに生まれた。青年時代のグルジエフは、医師と牧師になるという夢を抱えていたが、その医術は、現代的に解釈すると、神秘主義的な治癒の方法に焦点が置かれていた。以後、彼は古文献を渉猟し、神秘主義者としての道のりを歩み始めた。彼の行動の手始めとなったのが、コーカサス地方をはじめとする放浪の旅である。


グルジエフは、アナトリア、エジプト、バビロニア、トルキスタン、チベット、コビ、北シベリア、東欧から小アジア、アラビアをくまなく歩いた。彼の探究心は、最終的に古代文明に行き着き、複数の秘技的な宗教集団と接触する。そのなかには、イスラム、キリストの神秘主義派、チベット密教、シベリアのシャーマニズムなど、多岐にわたるレリジョンが含まれている。

 

グルジェフは、複数の地域で秘技的な文化に接するが、最も強い触発を受けたのが、西アジアの北ヒマラヤにある「オルマン僧院」と言われている。ここにグルジェフは数ヶ月滞在し、イスラム神秘主義のひとつとされる「スーフィズム」を通じて、「大いなる知恵」を掴んだとされる。

 

しかし、グルジェフは意外にも、最初に実業家として名を揚げた。 20世紀初頭、チベットから戻った彼は、中央アジアのタシュケントで事業をはじめ、それを拡大させ、いつの間にか大金を手にしていた。彼が第一次世界大戦直前の社会的に混迷を極めていたロシアに姿を現した時、すでに彼は100万ルーブルもの資金を手にしていた。


この時代、彼は、実業家としての並々ならぬ才覚を発揮し、鉄道、道路のインフラ、レストラン、マーケット、映画館の経営に携わり、驚くべき大金をその手中に収めた。1ルーブルを現在の円のレートで換算すると、グルジエフは1,5億円以上もの収益を上げたということになる。 金銭価値は市場の相対的な評価に過ぎないので、現在ではさらに多額の価値があると推測される。

 

以降、ヨーロッパの貴族社会の人々や名士と交流を交わし、名声を獲得していったといわれている。そのなかで、新約聖書のなかで使徒が語ったように、ナザレのイエスがなした奇跡的な治療を施し、これがのちに、20世紀最大の神秘思想家として知られる要因になったと推測される。

 

グルジェフは、神秘主義の教団の首領として弟子たちをワークというかたちで先導するかたわら、アラビア、イスラム、スラブの民族音楽に触発された音楽家/舞踏家として芸術的に優れた才覚を発揮し、数年間で複数のスコアを遺している。なぜ、体系的な音楽教育を受けていないグルジェフが、音楽や舞踏という分野に活路を見出したのかは不明だが、これは秘技的な教団を率いる以前の放浪の時代に、音楽的な源泉が求められるのは明白だろう。彼は、それらをアカデミーで学ぶのではなく、生きた体験として学んだことは想像に難くない。グルジェフの音楽には、ヨーロッパ、南米、南アジアとも異なるエキゾチックな響きがある。その楽曲の演奏時には、Santur、Tmbuk、Duduk、Pkuなど、アラビア、イスラム圏の固有の楽器が複数使用される。

 

そして、グルジェフがアナトリア、エジプト、バビロニア、トルキスタン、チベット、コビ、北シベリア、東欧から小アジア、アラビアといった若い時代に旅をした地域のエキゾチズムが彼の音楽の根幹を成すことは、実際の音源を聴けば痛感できる。

 

彼の神秘主義の教えの中には、現代社会に通じる真実性が含まれていることがわかる。グルジェフは、「人類全体が目覚めておらず、眠ったままの隷属的存在」であるとし、そこから開放されることの重要性を訴えた。それを単なる神秘思想やオカルトと結びつけることは簡単だが、現代的な視点から見ると、スピリチュアリティに基づく思想だけを最重要視すべきではないように思える。

 

グルジェフは生前、弟子に対して、人類がなぜ戦争を幾度も繰り返すのかについて、そして戦争がなくならない理由について次のようなことを語っている。彼が話すのは1世紀前のことだが、しかし、2020年代の東欧やイスラエルで起きていることに深い関連性を見出すことができる。


ーー戦争を嫌う人々は、ほとんど世界が創造された当初からそうしようと努めてきたと思う。それでも、現在やっているような大きい規模の戦争は一度もなかった。戦争は減るどころか、時代とともに増えていて、しかもそれは普通の手段では止めることが出来ない。世界平和や平和会議に関する議論も、単に怠惰の結果であり、どころか欺瞞に過ぎない。 人間は、自分自身について考えるのも嫌でたまらず、いかにして他人に望むことをやらせることばかり考えている。

 

ーーもし、戦争をやめさせたいと考える人々の十分な数が集まれば、彼らはまず彼らに反対する人々に戦争を仕掛けることから始めるだろう。そして、彼らはそういうふうに戦うだろう。人間は今あるようにしかなれず、別様であることは出来ない。

 

ーー戦争には我々の知らない多くの原因が潜んでいる。 ある原因はひとりの人間の内側にあり、また別のものはその外側にある。そして戦争を止めるためには人間の内側から手をつけなければいけない。環境の奴隷であるかぎり、巨大な宇宙のちからという外的な影響をいかにして免れることができるのか? 人間はそもそも、まわりの外的な環境に操られているだけだ。もし、それらの物事から自由になれれば、そのときこそ人間は本来の意味で自由な状態になることができる。

 

ーー自由、開放、これがまず人間の生きる目的でなければならない。自由になること、隷属の状態から開放されること、これこそ人々が獲得すべき目標となるだろう。内面的にも外面的にも、奴隷状態にとどまるかぎり、その人は何者にもなることもできず、また、何もすることができない。内面的に奴隷であるかぎり、外面的にも奴隷状態から抜け出すことはできない。だから自由になるためには、人間の内的自由を獲得しないといけない。

 

ーー人間の内的な奴隷状態の第一の要因となるのは、その人自身の無知、なかんずく自分自身に対する無知である。自分自身を知らずして、みずからの内側にある機械的な動きとその機能を理解せずには、人間は本当の意味で自由になることも、自分自身を制御することもできない。それは単なる奴隷に過ぎないか、あるいは、外的な環境の翻弄される遊び道具にとどまるだろう。ーー  グルジェフ

 


 ーーグルジエフの音楽観 客観的な音楽と主観的な音楽の定義 東洋の発見

 


客観的な芸術と考えられるものに対する一般的な反応について語るのは難しい。それは、私たち誰もが経験したことのある普通の連想プロセスを超越しているように見える。私たちが知っている多くの音楽では、少なくともある文化圏の一般的な経験の範囲内では、特定の音の進行や質、それらの組み合わせや時間的な間隔が、他の人と共通する特定の感覚や感情を聴き手に呼び起こす。


この現象は、一見不可解であると同時に否定できない。この現象は、聴き手の中で活性化される共鳴から生じるに違いなく、さらに、音と記憶との関連性が曖昧だったり不明だったりしても、過去の経験との連想を引き起こすことが可能なのだ。全般的な芸術において、この振動(ヴァイヴ)の力は、その過程と結果を部分的にしか知らないまま使われている。アーティストの主観的な意識によって制限され、アーティストが発信するものは、同じように「主観的な反応」しか生み出せない。


従って、主観による表現の結果は偶然のものに過ぎず、「受け手によって正反対の効果をもたらすこともありうる」というのがグルジェフの主張である。「無意識的な創造的芸術は存在しえない」とまで彼は主張している。


逆に、客観的な音楽は、振動の法則を決定する数学、ピタゴラス派の標榜する黄金比による正確無比で完全な知に基づいており、それゆえ聴く人に特定の予測可能な結果をもたらす。グルジェフは、無宗教の人が修道院にやって来た時の例を挙げている。そこで歌われ演奏される音楽を聴いて、その人は宗教性をもたないにもかかわらず、なぜか「敬虔な祈り」を音楽の流れのなかに感じとることがある。この例では、人間を高い内的状態に導く能力が、「客観的な芸術の特性のひとつ」として定義付けられる。その効果は、人によって程度が異なるだけである。


音楽の持つ客観的な力学について、グルジェフは『ベルゼバブ物語』の中でもう一つの例を挙げている。彼は、特別なシステムに従って調律された普通のグランドピアノで、ある一連の音を繰り返し叩く驚くべき老練なダービッシュについて述べている。


ーーこれらの音はすぐに、聴衆の一人の足に、師匠が予言したとおりの場所にできものを生じさせる。その直後、別の音符の連打でその腫れ物はすぐさま消える。エリコの城壁が破壊されたという伝説は、単に奇跡的な出来事の想像上の物語ではない可能性を考えることはできないだろうか? もしかしたら、ヨシュアは音の振動の特異な性質と効力を知悉していたのかもしれないーー


このように、グルジェフの考えでは、心地よい楽音を楽しむだけでは、いかに深刻で高尚なものであろうと、科学として、芸術として、高次の知識として、そして、人間の成長と進化のために必要な糧としての音楽の究極的な理想には、少しも近づいていないことは明らかなのである。


グルジェフが、真理の体現という本来の神聖な目的を果たす芸術を発見したのは、主にアジアだった。東洋の古代芸術を彼は台本のようにすらすら読むことができた。それは好き嫌いのためではなく、「より深く理解するため」と彼は言った。


しかし、平均的なヨーロッパ人にとっては、ある程度の音楽的教養があっても、東洋音楽はエキゾチックであるが、最後には単調で理解しがたいものに思える。ベートーヴェンの交響曲やシューベルトのリート、あるいは単純な民謡の「内容」を受け取ることができるように思えるのと同じように、私たちはこの音楽のほとんどが「何について」書かれているのか理解できないのだ。


グルジェフは、オクターブ構造は普遍的であるが、東洋の音楽では、西洋人にとって奇妙な方法で分割されている可能性があることを想起させる。基音とオクターブとの間には、4つという少ない分割もあれば、48という多い分割もある。西洋的な考えでは、私たちの知覚は7音のダイアトニックスケールや、ピアノの鍵盤のように等距離にある12音の半音階構造によって制限される。


東洋の音楽は、微分音的な配置によって、私たちの「制限された音階」では到達しえない、かけ離れた感情を呼び起こすことができる、と言われている。にもかかわらず、私たちのほとんどは、それらが調律されていないような音楽というかたちでしか聴くことが出来ない。私達は、アジア人であっても、常日頃から西欧的な音楽の中で生き、それが一般的な概念であると捉えている。


他方、特別な感受性と開放性を持つヨーロッパ人が、東洋音楽のなかに熟考すべき深遠な何かが存在することを肯定しえる何かを発見する可能性が高いことは、紛れもない事実だろう。チベットの僧侶の深い三和音の詠唱、スーフィーのジークルの小声のクレッシェンド、日本の能楽の伴奏の滑舌のよい声音など、これらはすべて、感覚的な印象のみならず、未知なる感情を呼び起こす音楽形式に他ならない。当初の反応はしばらく新奇な感覚として後に残るかもしれない。それでも未だ疑問点は残る。ドミナントからトニックへの進行を追うように、知性により音楽の「構文」を追うことができなければ、その音楽は主観的に完全に受け入れられたのだろうか?


音楽を聴く行為というのは、聴覚により何かを把捉しているように見えて「他言語の構文」を追っているに過ぎない。そして、その語法が一般的なものと乖離するほど、その言語はより難解になり、一般的には受け入れ難いものとなる。

 

してみれば、各地域の文化の壁が、各々の音楽的な語法や言語的な特性を有するがゆえ、純粋な芸術という形で高次の知識を伝えることを阻害していると定義付けられる。しかし、もしかしたら、この真実を追求することが可能な道筋がどこかにみつかるかもしれない。グルジェフの客観的芸術の定義に近づけるような音楽的な事例を、西洋の遺産や伝統から探すのはどうだろう。アンブロジオ聖歌やグレゴリオ聖歌の純粋さと正確さについて思いを馳せるのはどうだろう?


あるいは、ノートルダム派の謎めいたオルガヌムや、15世紀のフランドルの巨匠、ヤコブ・オブレヒトが作曲した、「3」という数の順列を表現した数秘的な声楽ミサに注目すべきかもしれない。J.S.バッハが静謐で瞑想的な殻の中で対位法の難解な謎を探求したライプツィヒの合唱前奏曲や平均律のフーガの芸術を考えてみることはできないだろうか。あるいは、モーツァルトの五重奏曲の、シルクのように滑らかで欺瞞に満ちた表面の下に、音、音程、リズムの組み合わせが、言葉では説明できないような感情を人間の心に呼び起こす秘密が隠されているのではないだろうか?


これらの全般的な疑問は、芸術に関するグルジェフの考えを肯定し、彼自身が作曲した音楽と関連づけようとするとき、特に大きな意味を持つようになる。もちろん、グルジェフの音楽の目的そのものや、それが創作された状況さえも、音楽の捉え方に大きな影響を与える可能性があるということがわかる。



ーーロシアの作曲家、トーマス・デ・ハルトマンとの関わり



グルジェフとロシアの作曲家トーマス・デ・ハルトマンとの関わりはよく知られている。若いデ・ハルトマンは、精神的な教えを求めて1916年にグルジェフのもとを訪れ、彼の弟子となった。グルジェフは訓練された作曲家ではなかったため、デ・ハルトマンもグルジェフの音楽的思考を表現する理想的な補助役となった。


彼はまず、グルジェフの教えの不可欠な部分である聖なる舞曲(ムーヴメント)のために、グルジェフの音楽を調和させ、発展させ、完全に実現することから始めた。数年後、デ・ハルトマンは、ムーヴメントとは独立したグルジェフの音楽作品に同様の方法で協力した。驚くべきことに、これらの後者の作品は非常に数が多く、ほとんどすべてが1925年から1927年にかけて、グルジェフが数年前に研究所を設立したフランスのフォンテーヌブローのプリューレで作曲された。1927年、この音楽活動は終わりを告げ、グルジェフが再び作曲することはなかった。


ド・ハルトマンの貢献の重要性は極めて大きい。実際、デ・ハルトマンの献身的な協力がなければ、グルジェフの音楽的アイデアは私たちが知っているように生まれなかったのではないか、と考える人もいるだろう。しかし、グルジェフの音楽を綿密に研究し、特にデ・ハルトマンがグルジェフと関わる前、関わっていた時、関わっていた後の、グルジェフ自身の膨大な音楽作品と比較すれば、グルジェフの音楽の真の源泉はグルジェフ自身にあったことは明らかである。


もちろん、デ・ハルトマンには洗練された音楽的精神があり、この共同作業ではそれを見事に発揮した。しかし、グルジェフの目的に対する彼の感覚は鋭く、聡い音楽的本能を十分に保ちながら、この仕事のために自らの創造性を昇華させることができた。彼がグルジェフから指示されたメロディーをいかにして上品かつ適切に調和させ、発展させたとしても、本質的な音楽的衝動と、その音楽が呼び起こす独特の感情の質は、一人の人間から生まれたものであることは明らかである。デ・ハルトマンが作曲した各曲の草稿は、グルジェフによって聴かれ、グルジェフがその意図を実現できたと満足するまで、しばしば大幅に修正されることもあった。


デ・ハルトマンは、グルジェフとの作曲過程についての驚くべき記述からも明らかなように、この共同作業における自分の役割について、控えめであるどころか、どちらかと言えば自嘲的であった。デ・ハルトマンはグルジェフとの共同作業について次のように回想している。


ーーゲオルギイ・イワノヴィッチのすべての音楽の一般的なキャッチとメモは、通常、プリーレハウスの大きなサロンまたはスタディハウスのいずれかで、夕方に起こりました。私は演奏し始め、音楽用紙を持って階下に急いで降りなければならなかった。すべての人々がすぐに来て、音楽のディクテーションはいつもみんなの前にありました。


ーー書き留めるのは簡単ではありませんでした。彼が熱狂的なペースでメロディーを演奏するのを聞いたので、私は紙に一度に曲がりくねった音楽の反転、時には2つの音符の繰り返しを走り書きしなければならなかった。しかし、どんなリズムで? アクセントの作り方は? メロディーの流れは、時々止めたり、バーラインで分割したりできませんでした。そして、メロディーが構築されたハーモニーは東洋のハーモニーであり、私は徐々にそれを認識しただけだったのです。


ーー多くの場合、私を苦しめるために、彼は私が表記を終える前にメロディーを繰り返し始め、これらの繰り返しは微妙な違いを持つ新しいバリエーションであり、私を絶望に駆り立てました。もちろん、このプロセスは単なるディクテーションの問題ではなく、本質的なキャラクター、メロディーの非常にノヤウまたはカーネルを「キャッチして把握」するための個人的な練習でした。


ーーメロディーが与えられた後、ゲオルギイ・イヴァノヴィッチはピアノの蓋をタップしてベース伴奏を構築するリズムを演奏しました。その後、私は与えられたものをすぐに演奏し、私が行くにつれて調和を即興で演奏しなければなりませんでした。



Gurdjieff


グルジェフは、ロシア領のアルメニアとトルコの国境にある、豊かな民族と宗教が混在する中心地で生まれ、幼少期を過ごした。少年時代から人間存在の意味について深い疑問を抱いていた。彼は、彼を取り巻く光景や音、特に音楽に対して非常に敏感であった。


深く慕い、『驚くべき人々との出会い』の中で彼が感動的な章を書いている父親は、「アショク」という職業に就いており、彼の民族の古代の伝説の数々を歌や詩で語る吟遊詩人のような存在だった。


これがグルジェフの最も初期の音楽的印象と影響であった。その後、若い学生時代にロシア正教会の聖歌隊で歌った。それ以上の音楽的訓練はほとんど受けていない。しかし、少年時代やその後の旅で吸収した多様な土着の音楽に対する彼の並外れた感受性は、彼自身の作曲に顕著に反映されている。


民謡や舞踊、さまざまな聖職者の宗教的聖歌、エジプトや中央アジア、遠くはチベットの寺院や修道院で耳にした神聖な合唱曲など、ありとあらゆる音楽がグルジェフのスコアのなかには通奏低音のように響き渡る。彼自身の楽器演奏能力については、ギターや、片手で弾き、もう片方の手で空気を送り込む小さなハルモニウムの形をした鍵盤の演奏など、ささやかなものだったようだ。


彼の音楽にはアラビア、イスラム、スラブの独特な音楽性が発見できる。そこには讃美歌の影響があると指摘する識者もいる。現代音楽のシーンでは、グルジェフのアーティスト/ミュージシャンとして再評価の機運が高まっているという話もある。それらのスコアの再構成に取り組むのが、The Gurdjieff Ensemble(グルジエフ・アンサンブル)、そして、ジャズレーベル、ECMである。


The Gurdjieff Ensemble


ドイツの国家観としては、グルジエフの作品をリリースすることは勇気が必要だが、従来から「エスニック・ジャズ」というジャンルを手掛けてきたレーベルは、アラビア、イスラム圏の音楽の伝統性をより良く知るための最適な機会を提供している。The Gurdjieff Ensembleの功績は、グルジェフの音楽の隠れた魅力を発見したことに加えて、単なるオカルティストや神秘主義者の遊戯という領域を超越し、真に芸術的な表現に引き上げようとする挑戦心に求められる。

 

以前は、アラビア、イスラム圏の作曲家は、日の目を見る機会が少なく、軽視されることもあったが、以下に紹介する、グルジエフのスコアの再録のリリースなどの機会を通して、スラブ、アナトリア、イスラム、中央アジアを中心とする文化圏の音楽にも注目が集まることを期待したい。


 


 The Gurdjieff Ensemble & Levon Eskenian『Music of Georges I. Gurdjieff』



 

グルジェフ(1866年頃~1949年)の音楽を民族的なインスピレーション源に立ち返らせる、魅力的で非常に魅力的なプロジェクト。


これまでグルジェフの作品は、西洋ではトーマス・デ・ハルトマンのピアノ・トランスクリプションによって研究されてきた。アルメニアの作曲家レヴォン・エスケニアンは、印刷された音符を越え、グルジェフが旅の間に出会った音楽の伝統に目を向け、その観点から作曲を再編成した。


エスケニアンは、アルメニア音楽、ギリシャ音楽、アラビア音楽、クルド音楽、アッシリア音楽、ペルシャ音楽、コーカサス音楽のルーツに注目している。アルメニアを代表する奏者たちの協力を得て、エスケニアンは2008年にグルジェフ民族楽器アンサンブルを結成し、彼らとともにこの驚くべきアルバムを完成させた。


レヴォン・エスケニアンの楽器編成で私が最も魅力を感じるのは、静寂の荒野でほんのわずかな音への介入を行う際、不必要な "作曲 "や "巧みさ "を排した、極めて綿密で明快な作業アプローチである。グルジェフの音楽の核心には深い静寂があり、それは聖書のコヘレトの書の章、あるいは遠い国の深い静寂が語る真実と関係している。- ティグラン・マンスリアン 

 




Anja Lechner / Vasslis Tsabropoulos 『Chants, Hymns and Dances』



ドイツのチェリスト、アンニャ・レヒナーとギリシャのピアニスト、ヴァシリス・ツァブロプロスによる魅力的な新プロジェクト「聖歌、賛美歌、舞曲」は、「世界の十字路からの音楽」という副題が付けられるかもしれない。グルジェフの作品のなかでは最も室内楽的な響きを持つ。


東洋と西洋、作曲と編曲と即興、現代音楽と伝統音楽の境界線を曖昧にするプロジェクトだ。レパートリーの中心は、古代ビザンチンの賛美歌をインスピレーション源とするツァブロプーロスの作曲と、アルメニア生まれの哲学者・作曲家であるジョルジュ・イヴァノヴィッチ・グルジェフ(1877-1949年頃)の音楽で、コーカサス、中東、中央アジアの聖俗両方のメロディーとリズムを使用している。 ーECM

 


 

 

 

The Gurdjieff Ensemble & Levon Eskenion『Komstas』



  



アルメニアン・グルジェフ民族楽器アンサンブルは、G.I.グルジェフ/トーマス・デ・ハルトマンのピアノ曲を「民族誌的に正統な」アレンジで演奏するために、レヴォン・エスケニアンによって設立された。


ECMからのデビューアルバム『ミュージック・オブ・G.I.グルジェフ』は広く賞賛され、2012年にエジソン賞のアルバム・オブ・ザ・イヤーを受賞した。今、エスケニアンと彼の音楽家たちは、コミタス・ヴァルダペト(1869-1935)の音楽に注目している。

 

作曲家、民族音楽学者、編曲家、歌手、司祭であったコミタスは、アルメニアにおける現代音楽の創始者であり、コレクターとしての活動の中で、アルメニアの聖俗音楽を独自に結びつけるつながりを探求した。民俗楽器の演奏とインスピレーションに満ちた編曲に焦点を当てたこのアンサンブルは、201年2月にルガーノで録音されたこのプログラムで、コミタスの作曲の深いルーツに光を当てる。ーECM

 



 The Gurdieff Ensemble & Levon Eskenion  『Zartir』

 

 



 

昨年にECMから発売された『Zartir』は、グルジエフの音楽的な遺産を発掘するためのアルバムである。

 

レヴォン・エスケニアンによる注目のアンサンブルのサード・アルバムは、これまでで最も冒険的な作品となった。G.I.グルジェフの音楽を民族楽器のために再生させただけでなく、アシュグ・ジヴァニ、バグダサール・トビール、伝説的なサヤト・ノヴァなど、アルメニアの吟遊詩人やトルバドゥールの伝統の中にグルジェフを位置づけている。これと並行して、神聖な舞踊のための作品に重点を置いた『大いなる祈り』は、グルジェフ・アンサンブルとアルメニア国立室内合唱団との魅惑的なコラボレーションで頂点に達し、複数の宗教の儀式音楽を取り入れている。


アレンジャーのエスケニアンは、「『大いなる祈り』は単なる "作曲 "以上のものだと思います。グルジェフの作品の中で、私が出会った最も深遠で変容的な作品のひとつです」と語る。


『ザルティール』は2021年にエレバンで録音され、2022年11月にミュンヘンでマンフレート・アイヒャーとレヴォン・エスケニアンによってミキシングされ完成した。ーECM





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Tシャツ産業の発展、ロック・ミュージックとの関わり
「Autobahn」のオリジナル盤のアートワーク

クラフトワーク(独:クラフトヴェルク)は、1970年代にビートルズを凌ぐほどの人気を獲得した。クラフトワークには象徴的なカタログがある。「Trans-European Express」、「Die Mensch Maschine」は当然のことながら、「Autobahn」も軽視することは出来ない。そしてクラフトワークはメンバーを入れ替えながら活動しているが、プロジェクトの主要なメンバーであるラルフ・シュナイダーとフロリアン・ヒュッターに加え、当時、画家として活動していたエミール・シュルトによる上記の3作品における功績を忘れてはならない。シュルトは、クラフトワークの複数のアルバムのカバーアート、歌詞を手がけ、デザインと詩の側面から多大な貢献を果たした人物である。


そもそも、エミール・シュルトがクラフトワークのメンバーの一員となったのは、フロリアン・シュナイダーが彼のスタジオに姿を現したときだった。最初、シュナイダーはシュルトにバイオリンの弓を制作するように依頼し、シュルトはクラフトワークの使用していたスタジオに出入りするようになった。

 

当時から、シュナイダーとヒュッターは最新鋭のドラムマシン、エフェクトボードを所持しており、シンセサイザーのコレクションを多数所有していた。シュナイダーとヒュッターはともに、裕福な家庭の生まれだったが、シュルトは、デュッセルドルフ近郊のメルヒェングラートバッハで育った。この土地は、1960年代の頃、非常に制限的であり、文化的に貧しい場所であったという。その後、奨学金を得て、ニューヨークへと行き、様々な音楽に親しむことになる。


いつもシュルトは彼らのスタジオを訪れるたびに、新しい機材が搬入されたことに驚きを覚えていた。その頃、すでにシュルトはクラフトワークのことを良く知っており、ディーサー・ロスのクラスで勉強をし、彼らの音楽を使い実験映画を作曲していた。流水の音、車の音といった音楽的な実体、現在でいう環境音を表現しようとしていた。

 

クラフトワークのスタジオを訪れるようになった後、エミール・シュルトは、ギター、ベース、ドラム、オルガンを用いて小さなジャムセッションを始めた。その後、実験音楽の方向性へと進んでいった。

 

フロリアンはシュルトに中古ギターを渡し、彼は周波数を調整していた。伝統的な高調波の仕組みまでは理解していなかったというが、周波数変調の技術を実験音楽として制作しようとすべく試みた。うまくいったこともあれば、うまくいかなかったこともあった。音の周波数を変更するため、送信機を使用していたというが、その送信機から物理的な距離があると機能しなかった。

 

実際、クラフトワークのライブステージでもこの送信機が使用された。ケーブルでの接続が出来なかったので、最終的にメンバーはローラースケートを使用してステージを走りまわり、送信機の受信範囲を超えると、激しいひび割れたようなノイズが発生した。しかし、エミール・シュルトに関しては、観客と折り合いがつかず、クラフトワークのライブメンバーとしての期間はあっという間に過ぎ去った。以降、彼はビジュアル・アーティストの経験を活かし、歌詞とアートワークの2つの側面で、いわば''裏方''としてクラフトワークの活動をバックアップしたのだった。曲の歌詞に関しては、「The Model」、「Computerworld」「Music Don't Stop」で制作に取り組んでいる。

  

クラフトワークの音楽の未来性を加味すると意外ではあるが、「歌詞の多くは日常的な生活からもたらされた」とシュルトは回想している。「Autobahn」に関しては、 実際に作品で何が起こっているかを理解出来るように試みた。さらにクラフトワークのメンバーは、仮想的な事実ではなく、実際に起きた現象に対する感覚的な体験を重視していたと話す。つまり、クラフトワークのメンバーは、アウトバーンを横断する旅に出かけ、その体験をもとに「Autobahn」を制作したのだ。


実際、音楽を聴いていると、アウトバーンを走行しているような錯覚を覚えさせるのはそのせいだろうか。アルバムバージョンのタイトル曲では、13分頃に象徴的なコーラスが入る。「Fahn Fahn Fahn, Auf Der Autobahn」というフレーズには言葉遊びの趣旨が感じられるが、このフレーズの発案者はエミール・シュルトであったという。シングル・バージョンではよりわかりやすい。


 

「Autobahn」-single version


 

 

エミール・シュルトは、その後も歌詞とアートワークの側面で、クラフトワークの活動を支えつづけた。しかし、「Trans European Express」のアートワークを手掛けた頃、他のメンバーとは疎遠になった。エミール・シュルトは、1979年にカルフォルニアに赴き、人工知能の研究に専念した。

 

以後、クラフトワークは1989年から二年間活動を休止していたため、エミールはメンバーと連絡をとらなかった。その頃、シュルトは結婚し、カリブ海にいったり、ドイツでレーシングバイクで走ったりと、バカンスを楽しんだ。 この時期についてシュルトは回想する。「''Mensch Maschine"以後の私のバンドへの貢献は限界に至り、それで終わってしまった。しかし、クラフトワークはその後も友人です。ただし、作品についてだけは例外的」であるとしている。

 

クラフトワークは、1970年代のデュッセルドルフの最初の電子音楽シーンの渦中にあって、アングロアメリカの音楽とは別のゲルマンらしい音楽を示すために存在したとシュルトは回想する。

 

また、彼は、クラフトワークが現代の音楽シーンに多大な影響を及ぼしたと指摘し、その功績を讃えている。「ヒップホップ、エレクトロ、テクノ、特に、後者から発生した音楽はすべて……」とシュルトは語った。「クラフトワークが成したことに何らかの影響を受けていると思います。それらはいわば''電子音楽のビーコン''とも言えるかもしれません。シュトゥックハウゼンに(トーンクラスターという)固有名詞がついたりするように、クラフトワークにもなんらかの名詞が付けられて然るべきでしょう」

 

現在、エミール・シュルトは、ビジュアル・アーティストとして活躍しており、音楽とビジュアルの融合に取り組んでいるという。


「音楽と写真、写真と音楽、そして、それらの組み合わせと併せて''共感覚''と呼ばれるものがある。それこそが文化の第一歩となりえるでしょう。音楽とビジュアルの組み合わせは、ユニークな第三の要素、ロマンスの感覚を生み出します」と指摘しており、テクノロジーが進化してもなお、人間の感覚を大切にすべきであるとしている。これは人工知能の研究者の言葉だからこそ、非常に説得力があるのではないだろうか。「私達の未来には黄金時代があり、そして、今後も音楽が文化の主要な役割を果たすことはほぼ間違いがありません」と彼は述べている。


海外ではその名をよく知られる”Yoshi Wada”の愛称で親しまれる和田義正は、音楽家としてだけでなく、楽器開発者として見ても本物の天才である。和田は、ラ・モンテ・ヤングと並んでドローンミュージックの重要なファクターに挙げられる。「Nue」を始めとする代表作があるが、ストリーミングではほとんど視聴出来ない。フィジカル盤のみ彼の作品に触れることが可能である。

 

和田はドローンミュージックの重要な構成要素である止まった音、すなわちオーケストラでいうところの持続音や保続音に徹底してこだわった。彼は、77年の生涯の中で、インド声楽やスコットランドのパグパイプの持続音に取り憑かれ、その人生を前衛音楽の追求に費やした。


和田義正は1943年に京都に生まれた。建築家を務めた彼の父は第二次世界大戦で亡くなっている。子供時代は、そのほとんどが上記の理由により、苦難に満ち溢れていたというのが通説となっている。彼が音楽に目覚めたのは10代の頃。サックスフォンを演奏しはじめ、ジャズに傾倒した。

 

オーネット・コールマン、ソニー・ロリンズ等、ジャズの巨匠の音楽に触れ、特にこの音楽に強く傾倒したという。1967年には、京都美術大学で彫刻を学習し、彼はニューヨークへと旅立った。その後、ジョージ・マチューナスが住むアパートへと転居する。フルクサス(1960年代から1970代にかけて発生した、芸術家、作曲家、デザイナー、詩人らによる前衛芸術運動。リトアニア出身のデザイナー、建築家 ジョージ・マチューナスが提唱したと言われている)のマチューナスは、和田義正をオノ・ヨーコ、久保田成子(クボタ・シゲコ)に紹介し、当時使用されていなかったニューヨークのソーホーのロフトをアーティストの空間にリノベートするために彼を雇った。


彼の中頃の人生の中心にはニューヨークのダウンタウンがあった。当時、活気のある実験音楽のシーンが発生した後、和田はミニマリストの作曲家、ラ・モンテ・ヤングと電子音楽を学び、さらに北インドの声楽家であるパンディット・プラン・ナートと歌唱法の勉強に取り組んだ。以後、ナンシー・クラッチャ―からバクパイプの演奏法を学び、即興音楽を制作しはじめた。彼は音響工学の中に、インド、スコットランド、マケドニア等、複数の地域にある独自の民謡や土着の音楽を取り入れた。


以降、彼は独自の管楽器の制作に着手し、「ハイプホーン」という楽器を開発している。別名「アースホーン」とも称されるこの楽器が、実制作として陽の目を見ることになったのが1974年である。さらに、彼はパグパイプとインド楽器に触発を受けた新式の楽器を開発する。これらは、空気を圧縮したパグパイプのような構造を持ち、1982年の作品「Lament for the Rise and Fall of the Elepantine Crocodile」に反映されることになった。


その後、「Off The Wall」を制作に取り掛かった。D.A.A.Dのフェローシップを得て、1983年から一年間、ベルリンに滞在し録音した。 教会の本式のパイプオルガンの構造と製作法を学び、『ラメント・フォー』で試した「改良共鳴バグパイプ」を発展させた小型パイプオルガンを新たに開発している。滞在先のスタジオ隣室から騒音苦情が出るほど研究に専念し、まるで実際的な大きさと質量を持つかのような構造物的な存在感のある音を構築した。こうした一年間の制作成果として1984年に録音されたのが『Off The Wall』(※「壁にはね返る」というニュアンス)だった。和田の作品としてはグループ編成の演奏であるため、比較的分かりやすい内容になっている。

 

和田のライブのほとんどは即興演奏であり、自作自演も行った。しかし、同時に一般的に演奏できる作品やインスタレーションも多数制作した。この類の作品のカタログは1991年から翌年にかけて見出すことが出来る。その時代から和田はニューヨークでグループショーを開催するようになったが、この作品について当時、アート・フォーラムの記者であるキース・スワードは以下のように評した。「ワダの仕事は、コーヒー・グラインダー、フロントガラスのワイパー、ドラムキット、スチールパンをハンマーで打つ等、楽器の可能性を切り開くアプローチを行うことで、機械的なオーケストラを形成し、指揮することを可能とした。そのアイディアに関しては本質的には面白いものはないように思える。感情的な価値を求めるとしたら、それは音の生成のメカニズムや、リスナー、それからコンテクストの融合や結合に依存すると思われる」

 

彼は機械工学を用いたロボット的な音楽も制作した。これがドローン音楽のオリジネーターと目されることに加えて、彼が電子音楽やアンビエントの領域で語りつがれる理由でもある。一例では、航海の緊急使用の信号として用いられるタイプの「聴覚フレア」の信号を中心に機械工学的な知識に基づいた楽器、あるいはシステム構造を構築している。特に、この楽器は、「ハンディ・ホーン」とも称されるようで、「信号の開発」とも説明されることがある。それ以後、実験音楽という領域ではありながら、和田は知名度を高めていき、90年代半ばには、ピッツバーグにあるカーネギーメロンでの講義を終えてから、6名の学生に作品を演奏させた。 彼の音楽性はあまりに前衛的すぎたため、まだ一般的に受けいられるための時間を擁する必要があった。

 

和田義正は全生涯にわたり、商業的成功を手に収めることはなく、そのほとんどが資金不足に陥っていた。数少ない商業での成功例といえる「Lament for the Rise and Fall of the Elepantine Crocodile」ですら、印税のロイヤリティは数ドルという範疇に収まっていた。(このアルバムはニューヨークの実験音楽のレーベルである”RVNG”から発売されている。)しかし、以後、彼は電子音楽家である息子と協力し、晩年にかけて創作意欲を発揮しつづけた。2008年にWireのジム・ヘインズに対して、和田義正は、以下のように自らの音楽について言及している。「基本的に私は自由奔放なんです。私は自分のために面白い音楽を制作しようとしている。実は私はチェスをするためにアートをやめたマルセル・ドゥシャンはあまり好きではないのです」

 


1994年の4月5日、Nirvanaのフロントマン、カート・コバーンの悲劇的な死は、グランジ/オルタナティヴ・ロック・コミュニティがメインストリーム・カルチャーをおとぎ話のように支配してきたことに、恐ろしい現実を突きつけた。しかし、ナイン・インチ・ネイルズの『The Downward Spiral』とマニック・ストリート・プリーチャーズの痛ましいサード・アルバム『The Holy Bible』のリリースは、ロックが掘り起こすべき闇とニヒリズムがまだたくさんあることを証明した。


喪に服したシーンが残した空白に、英国ではブリット・ポップが、米国ではポップ・パンクが登場し、新星オアシス、ブラー、ウィーザー、グリーン・デイが、人生を肯定し、ハッピー・ゴー・ラッキーなポジティブさに満ちた画期的なアルバムをリリースした。第二の "サマー・オブ・ラブ "の余韻として、アシッド・ハウスとテクノがポップ・チャートの大ヒット曲へと共産化され、大きな物議を醸した刑事司法法案がカウンター・カルチャー・ムーブメントとしてのアシッド・ハウスを破壊しようとし、スーパースターのDJの台頭を促した。ヒップホップも変貌を遂げつつあり、初期のギャングスタの冷徹な社会政治的コメントは、前年のクリスタルを弾くような大ヒットを記録したドクター・ドレーのアルバム『ザ・クロニクル』によってかき消され、チャートに引きずり込まれた。


しかし、メインストリームがフリークス、アウトサイダー、落ちこぼれを受け入れようと手を伸ばした時代においてさえ、ポーティスヘッドの存在感は際立っていた。


ブリストルのトリオは、謎めいた、影のある破天荒なアーティストとして評判を得たが、彼らのデビュー・アルバム『Dummy』が、後にトリップ・ホップとして世界的に知られるようになる、クラシック・ソウル、ジャズ、最先端のサンプル、ゴシック・ノワールを奇妙にローファイにマッシュアップした音楽への、最初の大きな商業的関心の先駆けとなった。



ダミーは、オアシス、スーパーグラス、トリッキー、レフトフィールド、PJハーヴェイ、その他多くの尊敬を集める多彩なアーティストたちとの競争を勝ち抜き、1995年のマーキュリー・ミュージック・プライズを受賞した。ブリストル・サウンドは、今やスーパースター・アルバムとその代表格、そしてトリップホップという決定的な名前を手に入れた。


マーキュリー賞授賞式後の記者会見で、明らかに圧倒された様子のジェフ・バロウは、「10枚もの年間アルバムがある中で、1枚だけを評価するのはどうかと思う」と肩を落とした。「自宅のオルガンで、このどれよりも優れた作品を録音している人がいるかもしれない。今年の人々は、アルバムに自分の感情をすべて注ぎ込んだ......。私はただ、タダで小便がもらえると思っただけだ!」


バロウは当時気づいていなかったかもしれないが、『ダミー』はその後30年間で最も高い評価を得たアルバムのひとつとなった。そのサウンドは今でも素晴らしく、画期的な内容に彩られている。ゆるくクリーンなギターにターンテーブルのスクラッチ、シンプルなドラム・ループ、ギボンズの亡霊のような歌声が加わったオープニング・トラック『Mysterons』から、ダミーは聴く者の心を掴んで離さない。「Strangers」でのエイリアンの行進曲とギボンズの慟哭、モス・デフがゴースト・タウンを彷彿とさせる「Numb」、今や象徴的となったオルガンが胸を締め付ける『Roads』の冒頭、悲痛を聴覚的に表現したような曲、そしてアルバム屈指のクロージング・ナンバーとして名高い『Glory Box』まで、『Dummy』は完璧な作品であることに変わりはない。


さらに重要なのは、いまだに1つのバンド、1つのバンドだけのサウンドであること。音楽界で最もクリエイティヴな時期のひとつであるこの時期に、これほどまでに断固として孤高の存在であり続けたことは印象的であり、30年経った今でもそこに居続けていることは驚くべきことだ。



このバンドは「ブリストル・サウンド」を定義したことで大きく評価されることになるが、その起源は12マイル南西、2万2,000人の小さな海岸沿いの町から始まった。現在、Invada Recordsを主宰するジェフ・バロウとDJのアンディ・スミスはそこで一緒に育ち、ヒップホップとブレイクに興味を共有していた。


「ジェフとは80年代後半に知り合ったんだ。ポーティスヘッドのユース・クラブでギグをやって、ヒップホップやレア・グルーヴ、ファンクなんかをプレイしたんだ。そこで彼と出会ったんだ」とアンディ・スミスは明かす。


「彼は僕より若かったけど、当時は基本的にマッシヴ・アタックの『ブルー・ラインズ』が作られていたコーチ・ハウス・スタジオで働いていた。基本的にお茶を入れたり屋根を直したりしていた」1992年から2006年までマッシヴ・アタックをマネージメントしていたキャロライン・キロリーは、「ジェフは、マッシヴ・アタックがレコードを制作していたコーチ・ハウス・スタジオのテープ・オペレーターだった。マッシヴ・アタックはLP『Blue Lines』の大半を制作していて、とてもプロジェクト的で、共同作業をベースとしたアルバムだった。ジェフも同じようなことをしようとしていた」と回想している。



アンディは言う、「(マッシヴ・アタックは)彼がビートを作ったりすることに熱心だったことに目をつけた。それでAKAIのサンプラーとコンピューターを与えて、彼は自分の部屋にセットアップしたんだ......でも、彼はレコードをあまり持っていなかったから、サンプリングしたものは何も持っていなかったよ。彼はあまりレコード・コレクターではなかったんだ。彼は自分の行きたい場所を知っていた。彼が『グリース』のサウンドトラックのブレイクをサンプリングしていたのは覚えているよ。それで、当時のオールドスクールのヒップホップや現在のヒップホップ、ブレイクなどの知識なんかで意気投合したんだ。彼が聴いたことのないような古いブレイクを聴かせて、トラック作りをしたんだよ。これは、ポーティスヘッドの他のメンバーが参加する前のことで、ポーティスヘッドというバンドができることすら知らなかった。サンプラーとコンピューターを持っていたのはジェフだけでね、僕はビートをループさせたり、ちょっといじったりしていたんだ」


「何人かの女の子がブリストルからバスでやってきて、彼のお母さんの家に行って、彼のベッドルームでボーカルをやってオーディションを受けたのを覚えている。でも、うまくいかなかった。だから彼はヴォーカリストを探し、バンドを作ろうとしていた。それが90年代半ばにまとまるまでには長い道のりがあった。その頃から、ジェフはアイデアをまとめ始めたんだ。ヒップホップのビート、音楽性を使いたいとは思っていたようだけど、どうやるかはそのときはまだわからなかったとしても、違うやり方でヒップホップをアレンジすることはわかっていたようだ」



ジェフ・バロウの決意は、一連の骨格となるトラックや未完成のデモのヴォーカルを担当するため、数多くのアーティストのオーディションを受けることになる。しかし、思いもよらない場所での運命的な出会いが、ベス・ギボンズに彼を導くことになる。「ふたりとも、政府の職業体験コースみたいなものに行ったんだと思う。自分のビジネスを持っていることを証明すれば、政府からいくらかお金をもらえるというものだった。僕は行かなかったけど、ジェフは行ったよ」とアンディは言う。「パン屋のおじさんとか、作家のおじさんとか、いろんな職業の人がいたと思うよ。音楽関係者はベスだけだったかな。彼女は自分のプロジェクトを進めるための資金を得ようとしていたからね」


アンディは、ジェフとの偶然の出会いの前からベスを知っていた。「彼女は当時、ただの歌手だった。実際、今思うとおかしなことだけど、ベスがベスとしてギグをやるだけで、私は彼女とブレイクを切り上げるようなギグもあったんだ」とアンディ。「でも、当時はまだポーティスヘッドというアイデアは形成されていなかったんだ。ジェフは明らかに彼女がやっていることに興味を持っていた。みんな知り合って意気投合して、他のメンバーも加わって、すべてが後からまとまったんだ」


キャロラインは言う。「彼はいろいろなシンガーやラッパーを連れてきていて、それはとてもプロジェクト・ベースのものだった。私たちは皆、ベスが前座であることに少しずつ気づいていった。プロジェクトというよりも、完全に形成され、統一されたバンドという感じだった。もちろん、Go!Discsと契約した後は、資金も集まり、バンドは従来のレコーディング・プロセスでより本格的にスタジオに入るようになった。それから、エイドリアン・アトリーがギターで彼のサウンドを取り入れるという意味で、より深く関わるようになった。サウンド的には、より発展したサウンドに肉付けされた」


ギタリストのエイドリアン・アトリーは、ドラマーのクライヴ・ディーマーを連れてきて、全体を結びつけるミッシング・リンクとなった。ディアマーは、もがき苦しんでいたアトリーに、毎晩ライブで演奏するだけでなく、レコーディングするように勧めた。


「私はエイドリアン・アトリーの家に住んでいたんだ。彼と私は無一文のミュージシャンで、生計を立てようとしていた。私はR&Bバンドやジャズバンドで演奏していた。エイドリアンは当時、ジャズ一筋だった。当時、彼は本当に純粋主義者だった」とクライブは言う。「そして、ジャズ・ミュージシャンとしての現実のフラストレーション、つまりレコーディングされた作品があまりないことに対処しながら、コーチ・ハウス・スタジオの一室を借りていた。私はエイドリアンに部屋を取るように勧めたことを覚えている。君は素晴らしいミュージシャンで、素晴らしいアイディアを持っている。ただ外に出てギグをやって、そのギグが風前の灯火になってしまうのとは違って、レコーディングに取り組むべきだよ」


「そこで彼はジェフと出会った。同じスタジオでドラマーとしてセッションをしたとき、私は知らず知らずのうちにジェフに出会っていた。数カ月が経ち、エイドリアンはジェフ・バロウという男とどのような関係を築いているのかを私に話し、やがてある日、彼らが自分たちで作ったState of Arts Studioに来ないかと誘われた。彼らは2曲か3曲を持っていた。でも、彼らがとてもユニークなサウンドを生み出していることは明らかだった。エイドリアンと彼がチームを組んだ瞬間、彼らが急速に前進したのは明らかで、その後すぐに、彼らは実質的に2つの主要なレコーディング・セッションを行うために私を呼んだ。私が行ったこの2つのレコーディング・セッションが、実質的に彼らの最初のレコードの大部分になったんだ」



コーチ・ハウス・スタジオでのジェフの9時から5時までの勤務は、マッシヴ・アタックのセッションに同席し、無料のサンプラーを手に入れたという自慢以上のものを彼に与えていた。彼は深夜にスタジオの時間を "借りて "自分のアイデアを実現させることが多かった。キャロラインは、「このアルバムは、かなり長い期間、本当に1年半以上かけて作られた」と回想している。


「コーチ・ハウスで自由な時間があるときはいつでも、他に誰もいないときはいつでも、ジェフは前の部屋に行って、たとえそれが真夜中であったとしても、できる限りの時間を使ってアイディアを進めていた」とアンディは言う。「ジェフがトラックを書き、ベスがトップ・ラインを書く。必ずしも同じ部屋にいる必要はなかった」


ダミーのサウンドと、そこから生まれたトリップホップというジャンルは、前例のないものだった。ジェフとその仲間は、サンプル・ベースのヒップホップ・ビートを作り、その上にシネマティックな生楽器を加えるという古典的なアプローチを取っていた。その音楽は、アメリカのMCがラップしているかのようでもあり、60年代のスパイ映画のサウンドトラックのようでもあった。「ジェフはサウンドトラックが大好きだった。彼は(イタリアの作曲家)エンニオ・モリコーネとか、そういうものに夢中だった」とキャロラインは言う。


「『ダミー』のサウンドは、本当にジェフの赤ちゃんのようだった。ジェフには、彼が本当に望んでいた方向性があった。私はただサンプルを持ってくることで彼を助け、彼が本当に知らなかった音楽を教えてあげただけなんだ」とアンディは語る。「彼は、ポータブル・レコード・プレーヤーを持って一日中レコード・ショップを探し回るような人ではなかった。だから、私はそれをテーブルに持ち込んだようなものだ。でも、ヒップホップのサウンドを使いつつも、どこか別のところに持っていこうというのが彼の意図だった。彼はジミ・ヘンドリックスのヘヴィネスやロックにも傾倒していたから、それをひとつにまとめたかったんだ」


ほとんどのヒップホップ・プロダクションとは異なり、ポーティスヘッドのサウンドは、サンプルやドラムマシンを使ったビート以上のもので、ミックスに生楽器を融合させることで恩恵を受けていた。



「当時は、ほとんどの人が持っていたビニールのブレイクビーツを洗い流していた。だからジェフはその頃、ドラマーとしてはちょっとアレだったんだけど、自分では演奏できないものを演奏するために僕を使ったんだ。僕にビニールを少し聴かせて、こう言うんだ。ハイハットはこう変えてくれ。あるいはもっとこうしてくれ」とクライブ。「彼はどう変えてほしいかを説明してくれた。そして、マイク、サウンド、サウンドのチューニング、ドラムのダンパーなど、彼が望むものが得られるまで、細部にわたって完璧に仕上げる。唯一の例外は、私がフリーフォールしたときで、それで「ミステロンズ」のビートが完成した。あのビートは完全に私の演奏だ。その部分をループさせたんだ」


「多くの場合、僕は何も演奏していなかった。だから、自分が何に向かって演奏しているのか、何のために演奏しているのか、まったくわからなかった」とクライヴは続ける。「だから、ドラムのビート、演奏スタイル、演奏のバランスをとても注意深く構築することにとても微細に集中していた。通常のドラムのレコーディングとはまったく違う。すべてのパートの相対的なボリュームのバランスを取ることがとても重要なんだ。スネアドラムに対するバスドラムのレベル、ハイハットやシンバルなどに対するレベル。非常に厳密にコントロールされた演奏で、信じられないほど静かに録音された。誰も録音したことのないような静かさだ。それがサウンドの大きな要素であり、他の多くの要素でもある。とても細かく、珍しいものだった。サンプリングは私にとって新しい経験だった。レコードを聴いたとき、自分が何を演奏したのかほとんどわからなかったほどだ。小節ずつ、完璧にループしている。それは初めての経験だった」



1994年8月、シングル「Sour Times」を筆頭に『Dummy』をリリースしたポーティスヘッドは、瞬く間にメインストリームにアピールされ、マッシヴ・アタックやトリッキー(後者はキャロライン・キロリーのマネージメントも受けていた)と並んで、"トリップ・ホップ "や "ブリストル・サウンド "の顔となった。「ブリストルは当時、大きなシーンだった。当時、ブリストルは大きなシーンだった。マンチェスターのシーンも盛り上がっていた。みんなブリストルに注目していた。ジャイルス・ピーターソンとか、そういう人たちがいたように、クールでクラブ的な側面もあった。そういう世界だった」とキルリーは振り返る。「その後、少しずつメインストリームに浸透し始め、火がついた。なぜこのようなことが起こったのか、その理由を知るのは難しい。その渦中にいると、なぜそのようなことが起こったのかがわからない。意識的にではなく、ただ乗り物に乗って、作って、作って、作って、という感じね」と彼女は付け加えた。


このアルバムは1995年にマーキュリー・ミュージック・プライズを受賞し、ヨーロッパではダブル・プラチナ、アメリカではゴールドを獲得し、バンドを世界中に広めた。


 


「このアルバムが世に出たとき、その最初の証拠となったのは、最初のツアーでイギリスや特にアメリカを回ったときだった。観客の反応やライブの雰囲気には、ただ驚くばかりだった。自分が何を演奏しているのか、それが人々にとって何を意味するのかを理解し始めたんだ。ユニークなことだったし、その一部になれたことは光栄だった」とクライブは言う。


60年代、及び、70年代のアメリカン・ロックにも様々なジャンル分けがある。CSN&Y、イーグルスに象徴されるカルフォルニアを中心とするウェストコースト・サウンド、オールマン・ブラザーズに代表される南部のブルースに根ざしたサザン・ロック、ニューヨーク、デトロイトを中心に分布するイーストコーストロックに分かたれる。特に、西海岸と東海岸のジャンルの棲み分けは、現在のヒップホップでも行われていることからも分かる通り、音の質感が全然異なることを示唆している。兼ねてからロサンゼルスは、大手レーベルが本拠を構え、ガンズ・アンド・ローゼズを輩出したトルバドールなどオーディション制度を敷いたライブハウスが点在していたこともあり、米国の音楽産業の一大拠点として、その歴史を現代に至るまで綿々と紡いでいる。


当時、最もカルフォルニアで人気を博したバンドといえば、「Hotel California」を発表したイーグルスであることは皆さんもご承知のはずである。しかしながら、のちのLAロックという観点から見て、また当地のロックのパイオニアとしてロック詩人、ジム・モリソン擁するドアーズを避けて通ることは出来ないのではないだろうか。ジム・モリソンといえば、ヘンドリックスやコバーンと同様に、俗称、27Clubとして知られている。今回は、このバンドのバックグランドに関して取り上げていこうと思います。

 

 

1967年、モリソン、マンザレク、デンズモア、クリーガーによって結成されたドアーズ。本を正せば、詩人、ウィリアム・ブレイクの「天国と地獄の結婚」の「忘れがたい幻想」のなかにある一節、

 

近くの扉が拭い 清められるとき 万物は人の目のありのままに 無限に見える

 

に因んでいるという。そして、オルダス・ハックスレーは、この一節をタイトルに使用した「知覚の扉」を発表した。ドアーズは、この一節に因んで命名されたというのだ。


いわば、本来は粗野な印象のあったロック・ミュージックを知的な感覚と、そしてサイケデリアと結びつけるのがドアーズの役目でもあった。 そして、ドアーズは結成から四年後のモリソンの死に至るまで、濃密なウェスト・コースト・ロックの傑作アルバムを発表した。「ロックスターが燃え尽きる」という表面的なイメージは、ブライアン・ジョーンズ、ヘンドリックスやコバーンの影響も大きいが、米国のロック・カルチャーの俯瞰すると、ジム・モリスンの存在も見過ごすことが出来ないように思える。

 

ただ、ドアーズがウェスト・コーストのバンドであるといっても、その音楽は一括りには出来ないものがある。カルフォルニア州は縦長に分布し、 また、サンフランシスコとロザンゼルスという二大都市が連なっているが、その2つの都市の両端は、相当離れている。そして、両都市は同州に位置するものの、文化的な性質がやや異なると言っても過言ではない。ドアーズもまた同地のグループとは異なる性質を持っている。


そもそも、ウェスト・コースト・サウンドというのは、1965年にオープンした、フィルモア・オーディオトリアムを拠点に活躍したグループのことを示唆している。ただ、これらのバックグランドにも、ロサンゼルスの大規模のレコード産業と、サンフランシスコの中規模のレコード産業には性質の違いがあり、それぞれ押し出す音楽も異なるものだったという。つまり、無数の性質を持つ音楽産業のバックグランドが、この2つの都市には構築されて、のちの時代の音楽産業の発展に貢献していくための布石を、60年代後半に打ち立てようとしていたと見るのが妥当かもしれない。

 

ザ・ドアーズの時代も同様である。60年代後半のロサンゼルスには、サンフランシスコとは雰囲気の異なるロック産業が確立されつつあった。ドアーズはUCLAで結成され、この学校のフランチャイズを特色として台頭した。一説によると、同時期にUCLA(カルフォルニア州立大学)では、ヘルマン・ヘッセの『荒野のオオカミ』が学生の間で親しまれ、物質的な裕福さとは別の精神性に根ざした豊かさを求める動きが大きなカウンター・カルチャーを形成した。


この動きはサンフランシスコと連動し、サイケデリック・ロックというウェイブを形成するにいたったのであるが、レノンが標榜していた「ラブ・&ピース」の考えと同調し、コミューンのような共同体を構築していった。そういった時代、モリソン擁するドアーズも、この動向を賢しく読み、西海岸の若者のカルチャーを巧みに音楽性に取り入れた。一つ指摘しておきたいのは、ドアーズは同年代に活躍したグレイトフル・デッドを始めとするサイケ・ロックのグループとは明らかに一線を画す存在である。


一説では、サンフランシスコのグループは、オールマン・ブラザーズやジョニー・ウィンター等のサザン・ロックと親和性があり、ブルースとアメリカーナを融合させた渋い音楽に取り組んでいた。対して、ロサンゼルスのグループは、明らかにジャズの影響をロックミュージックの中に才気煥発に取り入れようとしていた。これはたとえば、The Stoogesが「LA Blues」でイーストコーストとLAの文化性をつなげようとしたように、他地域のアヴァンギャルド・ジャズをどのように自分たちの音楽の中に取り入れるのかというのを主眼に置いていた。


サンフランシスコのライブハウスのフィルモア・オーディオトリアムの経営者であり、世界的なイベンター、ビル・グラハムは、当初、ドアーズがLAのバンドいうことで、出演依頼を渋ったという逸話も残っている。ここにシスコとロサンゼルスのライバル関係を見て取る事もできるはずである。

 

 


 

さて、ザ・ドアーズがデビュー・アルバム 『The Doors』(邦題は「ハートに火をつけて」)を発表したのは1967年のことだった。後には「ロック文学」とも称されるように、革新的で難解なモリソンの現代詩を特徴とし、扇動的な面と瞑想的な面を併せ持つ独自のロックサウンドを確立した。

 

デビューアルバム発表当時、モリソンの歌詞そのものは、評論家の多くに「つかみどころがない」と評されたという。


デビュー・シングル「Light My Fire」は、ドアーズの代表曲でもあり、ビルボードチャートの一位を記録し、大ヒットした。その後も、「People Are Strange」、「Hello I Love You」、「Touch Me」といったヒットシングルを次々連発した。ドアーズのブレイクの要因は、ヒット・シングルがあったことも大きいが、時代的な背景も味方した。

 

当時、米国では、ベトナム戦争が勃発し、反戦的な動きがボブ・ディランを中心とするウェイヴが若者の間に沸き起こったが、ドアーズはそういった左翼的なグループの一角として見なされることになった。しかし、反体制的、左翼的な印象は、ライヴステージでの過激なパフォーマンスによって付与されたに過ぎない。ドアーズは、確かに扇動的な性質も持ち合わせていたが、 同時にジェントリーな性質も持ち合わせていたことは、ぜひとも付記しておくべきだろう。

 

ドアーズの名を一躍全国区にした理由は、デビュー・アルバムとしての真新しさ、オルガンをフィーチャーした新鮮さ、そして、モリソンの悪魔的なボーカル、センセーショナル性に満ち溢れた歌詞にある。ベトナム戦争時代の若者は、少なくとも、閉塞した時代感覚とは別の開放やタブーへの挑戦を待ち望んだ。折よく登場したドアーズは、若者の期待に応えるべき素質を具えていた。同年代のデトロイトのMC5と同じように、タブーへの挑戦を厭わなかった。特にデビュー・アルバムの最後に収録されている「The End」は今なお鮮烈な衝撃を残してやまない。 


 

 

「The End」の中のリリックでは、キリスト教のタブーが歌われており、ギリシャ神話の「エディプス・コンプレックス」のテーマが現代詩として織り交ぜられているとの指摘もあるようだ。


歌詞では、ジークムント・フロイトが提唱する「リビドー」の概念性が織り込まれ、人間の性の欲求が赤裸々に歌われている。エンディング曲「The End」は、究極的に言えば、セックスに対する願望が示唆され、人間の根本的なあり方が問われている。宗教史、あるいは人類史の根本を形成するものは、文化性や倫理観により否定された性なのであり、その根本的な性のあり方を否定せず、あるがままに捉えようという考えがモリソンの念頭にはあったかもしれない。性の概念の否定や嫌悪というのは、近代文明がもたらした悪弊ではないのか、と。その意味を敷衍して考えると、当代の奔放なカウンター・カルチャーは、そういった考えを元にしていた可能性もある。



これらのモリソンの「リビドー」をテーマに縁取った考えは、単なる概念性の中にとどまらずに、現実的な局面において、過激な様相を呈する場合もあった。それは彼のステージパフォーマンスにも表れた。しかし、性的なものへの欲求は、ドアーズだけにかぎらず、当時のウェスト・コーストのグループ全体の一貫したテーマであったという。つまり、性と道徳、規律、制約、抑圧といった概念に象徴される、社会的なモラル全般に対する疑念が、60年代後半のウェストコーストを形成する一連のグループの考えには、したたかに存在し、時にそれはタブーへの挑戦に結びつくこともあった。その一環として、現代のパンク/ラップ・アーティストのように、モリソンは「Fuck」というワードを多用した。今では曲で普通に使われることもあるが、この言葉は当時、「フォー・レター・ワード」と見なされていた。放送はおろか、雑誌等でも使用を固く禁じられていた。”Fuck”を使用した雑誌社が発禁処分となった事例もあったのだ。


それらの禁忌に対する挑戦、言葉の自由性や表現方法の獲得は、モリソンの人生に付きまとった。特に、1968年、彼は、ニューヘイブンの公演中にわいせつ物陳列罪で逮捕、その後、裁判沙汰に巻き込まれた。しかし、モリソンは、後日、この事件に関して次のように供述している。「僕一人が、あのような行為をしたから逮捕された。でも、もし、観客の皆が同じ行為をしていたら、警察は逮捕しなかったかもしれない」


ここには、扇動的な意味も含まれているはずだが、さらにモリソンのマジョリティーとマイノリティーへの考えも織り込まれている。つまり多数派と少数派という概念により、法の公平性が歪められる危険性があるのではないかということである。その証として彼は、この発言を単なる当てつけで行ったのではなかった。当時の西海岸のヒッピーカルチャーの中で、コンサートホール内は、無法状態であることも珍しくはなく、薬物関連の無法は、警官が見てみぬふりをしていた事例もあったというのだから。

 

さらに、ジム・モリスンのスキャンダラスなイメージは、例えば、イギー・ポップやオズボーンと同じように、こういった氷山の一角に当たる出来事を取り上げ、それをゴシップ的な興味として示したものに過ぎない。上記二人のアーティストと同様に、実際は知性に根ざした文学性を発揮した詩を書くことに関しては人後に落ちないシンガーである。文学の才覚を駆使することにより、表現方法や言葉の持つ可能性をいかに広げていくかという、モリソンのタブーへの挑戦。それは、考えようによっては、現代のロック・ミュージックの素地を形成している。


デビュー作から4年を経て、『L.A Woman』を発表したドアーズの快進撃は止まることを知らなかった。しかし、人気絶頂の最中にあった、1971年7月3日、ジム・モリソンは、パリのアパートにあるバスタブの中で死去しているのが発見された。死亡時、パリ警察は検死を行っていないというのが通説であり、一般的には、薬物乱用が死の原因であるとされている。



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『Nevermind』の成功の後にコバーンは何を求めたのか




「より大衆に嫌われるレコードを作ろうと思ったんだ」カート・コバーンは、『Nevermind』の次の作品『In Utero』のリリースに関して率直に語っている。そもそも、Melvinsのオーディションを受けたシアトルのシーンに関わっていた高校生時代からコバーンの志すサウンドは、若干の変更はあるが、それほど大きく変わってはいない。『Nevermind』で大きな成功を手中に収めた後、新しい作品の制作に着手しないニルヴァーナにゲフィン・レコードは業を煮やし、コンピレーション・アルバム『Incesticide』でなんとか空白期間を埋めようとした。その中で、「Dive」「Aero Zeppelin」といったバンドの隠れた代表作もギリギリのところで世に送り出している。

 

ある人は、『In Utero』に関して、ニルヴァーナの『Bleach』時代の原始的なシアトル・サウンドを最も表現したアルバムと考えるかもしれない。また、ある人は、『Nevermind』のような芸術的な高みに達することができず、制作上の困難から苦境に立たされた賛否両論のアルバムだったと考える人もいるだろう。しかしながら、このアルバムは、グランジというジャンルの決定的な音楽性を内包させており、その中にはダークなポップ性もある。シングル曲のMVを見ても分かる通り、カート・コバーンの内面が赤裸々に重々しい音楽としてアウトプットされたアルバムと称せるかもしれない。





三作目のアルバムが発売されたのは1993年9月のこと、カート・コバーンは翌年4月に自ら命を絶った。そのため、このアルバムは、しばしばコバーンの自殺に関連して様々な形で解釈され、説明されてきたことは多くの人に知られている。


『In Utero』は彼らが間違いなく最高のバンドであった時期にレコーディングされた。前作『Nevermind』のラジオ・フレンドリーなヒットは、バンドにメインストリームでの大きな成功をもたらし、ビルボード200チャートで首位を獲得し、グランジをアンダーグラウンドから一般大衆の意識へと押し上げた。もちろん、彼らは当時の大スター、マイケル・ジャクソンを押しのけてトップの座に上り詰めたのだった。


DIY、反企業、本物志向のパンク・ムーブメント、Melvins、Green River、Mother Love Boneを始めとするシアトル・シーンに根ざして活動してきたバンドにとって、この報酬はむしろ足かせとなった。コバーンは、心の内面に満ちる芸術的誠実さと商業的成功の合間で葛藤を抱えることになった。巨大な名声を嫌悪し、私生活へのメディアの介入に激怒したカートは、あらゆる方面からプレッシャーをかけられて、逃げ場がないような状況に陥ったのだ。


アバディーンで歯科助手を務めていた時代、その給料から制作費をひねり出した実質的なデビュー・アルバム『Bleach』の時代から、カート・コバーンはDIYの活動スタイルを堅持し、また、そのことを誇りに考えてきた経緯があったが、メジャー・レーベルとの契約、そして、『Nevermind』のヒットの後、彼は実際のところ、シアトルのインディー・シーンのバンドに対し、決まりの悪さを感じていたという逸話もある。期せずして一夜にしてメインストリームに押し上げられたため、それらのインディーズ・バンドとの良好な関係を以後、綿密に構築していくことができなくなっていた。

 

それまではDIYの急進的なバンドとしてアバディーンを中心とするシーンで活躍してきたコバーンは、多分、売れることに関して戸惑いを覚えたのではなかった。自分の立場が変わり、親密なグランジ・シーンを築き上げてきた地元のバンドとの関係が立ち行かなくなったことが、どうにも収まりがつかなかった。それがつまり、94年の決定的な破綻をもたらし、「ロックスターの教科書があればよかった」という言葉を残す原因となったのである。彼は、音楽性と商業性の狭間で思い悩み、答えを導きだすことが出来ずにいたのだ。

 

『In Utero』を『Nevermind』の成功の延長線上にあると考えることは不可欠である。コバーンは、バンドのセカンド・アルバムがあまりにも商業的すぎると感じ、「キャンディ・アス」とさえ表現し、アクセシビリティと、ネヴァー・マインドのラジオでの大々的なプレイをきっかけに制作に着手しはじめた。当時、カート・コバーンは、「ジョック、人種差別主義者、同性愛嫌悪者に憤慨していた」と語っている。だから、歌詞の中には「神様はゲイ」という赤裸々でエクストリームな表現も登場することになった。サード・アルバムで、前作の成功の事例を繰り返すことをコバーンは良しとせず、バンドのデビュー作『Bleach』におけるアグレッシヴなサウンドに立ち返りたかったとも考えられる。その証拠として、アルバムに収録されている『Tourette's』には、『Nagative Creep』時代のメタルとパンクの融合に加え、スラッシュ・メタルのようなソリッドなリフを突き出したスピーディーなチューンが生み出された。


カート・コバーンは、内面のダークでサイケデリックな側面を赤裸々に表現し、芸術的な信憑性を求めようとした。以前よりもソリッドなギターのプロダクションを求めていたのかもしれない。そこで、以前、Big Blackのフェアウェル・ツアーで一緒に共演したUSインディーのプロデューサーの大御所、スティーヴ・アルビニに白羽の矢を立てた。

 

それ以前には、Slintのアルバム『Tweedz』のエンジニアとして知られ、後にロバート・プラントのアルバムのプロデューサーとして名を馳せるスティーヴ・アルビニは、1990年代中頃、アメリカのオルタナティブ・シーンの寵児として見なされていた。当時、彼は、過激でアグレッシヴなサウンドを作り出すことで知られ、インディー・ロックの最高峰のレコードを作り出すための資質を持っていた。この時、彼は別名でミネアポリスのスタジオを予約したという。その中には、メディアにアルバム制作の噂を嗅ぎつけられないように工夫を凝らす必要があった。

 



・スティーヴ・アルビニとの協力 ミネアポリスでの録音




「噂が広まらないようにする必要があった」とスティーヴ・アルビニは、NMEのインタビューで語った。


「インディペンデントなレコーディング・スタジオで、そこで働いている人は少人数だった。彼らに秘密を託したくなかったから、自分の名義で"サイモン・リッチー・バンド"という偽名でスタジオを予約することにした」「実は、サイモン・リッチーというのは、シド・ヴィシャスの本名なんだ。もちろん、スタジオのオーナーでさえ、ニルヴァーナが来るとは知らなかったのさ」

 

しかし、当時のバンドの知名度とは裏腹に、プロデューサーはセッションは比較的スタンダードなものだったと主張した。「セッションには変わった点は何もなかった」と彼は付け加えた。


「つまり、彼らが非常に有名であることを除けば……。そしてファンで溢れかえらないように、できる限り隠しておく必要があった。それが唯一、奇妙なことだったんだよ」


「”In Utero”のセッションのかなり前に、Big Blackがお別れツアーを行った時、最終公演はシアトルの工業地帯で行われた」とアルビニは回想している。「奇妙な建物で、その場しのぎのステージでしかなかった。でも、クールなライブで、最後に機材を全部壊した。その後、ある青年がステージからギターの一部を取っていい、と聞いてきて、私が『良いよ、もうゴミなんだし』と言ったのをよく覚えているんだ。その先、どうなったかは想像がつきますよね...」


アルビニは自らスタジオを選び、Nirvanaをミネソタ/ミネアポリスのパチダーム・スタジオに連れ出すことに決めた。音楽ビジネスに対する実直なアプローチで知られる彼は、バンドの印税を軽減することを拒否し、ビジネスの慣習を "倫理的に容認できない"と表現した。その代わり、彼は一律100,000ポンドで仕事を受けた。当初、バンドとアルビニはアルバムを完成させる期限を2週間に設定したが、全レコーディングは6日以内に終了、最初のミックスはわずか5日で完了した。


アルバムをめぐる最大の議論の一つは、セカンドアルバムとは似ても似つかないプロダクションの方向性である。アルビニが好んだレコーディング・スタイルは、可能な限り多くのバンドを一緒にライブ演奏させ、時折、ドラムを別録りしたり、ボーカルやギターのトラックを追加することだった。

 

これによって2つの画期的なサウンドが生み出されることになった。第一点は、コバーンのヴォーカルを楽器の上に置くのではなしに、ミックスの中に没入させたこと。第二点は、デイヴ・グロールのアグレッシブなドラムがさらにパワフルになったことである。これは、アルビニがグロールのドラム・キットを30本以上のマイクで囲み、スタジオのキッチンでドラムを録音し自然なリバーブをかけたことや、グロールの見事なドラムの演奏の貢献によるところが大きかった。コバーンの歌詞が『イン・ユーテロ』分析の焦点になることが多い一方、グロールのドラミングは見落とされがちだが、この10年間で最も優れた演奏のひとつに数えられるかもしれない。


録音を終えた後、カート・コバーンは完成したアルバムをDGCレーベルの重役に聴かせた。『ネヴァーマインド』的なヒット曲を渇望していた会社幹部は、失望の色を露わにした。同時に、その反応は、アルバムの成功に思いを巡らせながら、自分の理想を堅持し続け、自分たちの信じる音楽をリリースすることを想定していたカート・コバーンに大きな葛藤を抱えさせる要因となった。

 

結局、レーベルとバンドの議論の末、折衷案が出される。アルバムのシングルは、カレッジ・ロックの雄、R.E.Mのプロデューサー、スコット・リットに渡され、ラジオ向きのスタイルにリミックスされた。スティーヴ・アルビニは当初、マスターをレーベル側に渡すことを拒否していたのだった。



・『In Utero』の発売後 アルバムの歌詞をめぐるスキャンダラスな論争

 


 

諸般の問題が立ちはだかった末、リリースされた『In Utero』は、思いのほか、多くのファンに温かく迎えられることになった。しかし、このアルバムに収録された「Rape Me」を巡ってセンセーショナルな論争が沸き起こった。この曲について、カート・コバーンは、SPINに「明確な反レイプ・ソングである」と語っていて、後にニルヴァーナの伝記を記したマイケル・アゼラット氏は、「コバーンのメディアに対する嫌悪感が示されている」と指摘している。しかしながら、世間の反応と視線は、表向きの過激さやセンセーション性に向けられた。その結果、ウォルマート、Kマートは、曲名を変更するまで販売の拒否を表明した。にもかかわらず、このアルバムは飛ぶように売れた。

 

翌年の4月8日、コバーンがシアトルの自宅で死亡しているのが発見された。警察当局は、ガン・ショットによる自殺と断定したことは周知の通りである。このことは、アルバムの解釈の仕方を決定的に変えたのである。多くのファンや批評家は、アルバムの歌詞やテーマは、コバーンの死の予兆だったのではないかと表立って主張するようになった。このアルバムは、混乱し窮地に立たされた彼の内面の反映であり、以後のドラッグ常習における破滅的な彼の人生の結末の予兆ともなっている。

 

しかし、別の側面から見ると、「死の影に満ちたアルバム」という考えは、単なる後付けでしかなく、歴史修正主義、あるいは印象の補正に過ぎない事を示唆している。憂鬱と死に焦点を当てた『Pennyroyal Tea』の歌詞は、『In Utero』リリースの3年前、1990年の時点で書かれていたし、同様に、ニルヴァーナ・ファンのお気に入りの曲のひとつであり、来るべき自死の予兆であったとされる『All Apologies』も1990年に書かれていたのだ。


ただ、ニルヴァーナの最後のアルバムがレコーディング中のカート・コバーンの精神的、感情的な状態を語っていないとか、コバーンが自ら命を絶つ兆候を全く含んでいないと言えば嘘偽りとなるだろう。しかし、それと同時に、『In Utero』をフロントマンの自殺だけに関連したものとして読み解くことは、その煩瑣性を見誤ることになる。


このレコードは、スターとしての重圧、新しい家族との関係、メインストリームでの成功と芸術的誠実さの間の精神的な苦闘について、あるいは、彼の幼少期の親戚の間でのたらい回しから生じた、うつ病や死の観念について、アーカイブで表向きに語られる事以上に、彼の生におけるリアリティが織り交ぜられている。



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  今では、不動の地位を獲得している伝説のシンガーにも、困難な時代があった。ローリング・ストーン誌の選ぶ、歴史上最も偉大な100人のシンガーで2位を獲得し、ケネディー・センター名誉賞、国民芸術勲章、ポーラー音楽賞の授与など、音楽という分野にとどまらず、米国のカルチャー、ポピュラー・ミュージックの側面に多大な貢献を果たしたレイ・チャールズにも、不当な評価に甘んじていた時期があったのだ。それでも、チャールズはちょっとした悲しい目に見舞われようとも、持ち前の明るさで、生き生きと自らの人生の荒波を華麗に乗りこなし、いわば、その後の栄光の時代へと繋げていったのだった。今回、この伝説的な名歌手の生い立ちからのアトランティック・レコードの在籍時代までのエピソードを簡単に追っていこう。



 

レイ・チャールズの歌には、他の歌手にはない深みがある。深みというのは、一度咀嚼しただけでは得難く、何度も何度も噛みしめるように聞くうち、偽りのない情感が胸にじんわり染み込んでくるような感覚のことを指す。もっといえば、それは何度聴いても、その全容が把握出来ない。チャールズは、バプテスト教会や黒人霊歌を介し、神なる存在に接しているものと思われるが、他方、聴いての通り、彼の歌は全然説教っぽくない。スッと耳に入ってきて、そのままずっと残り続ける。

 

彼の歌は、サザン・ソウル、ゴスペル、ジャズ、ポップ、いかなる表現形式を選ぼうとも、感情表現の一貫である。そして、それは説明的になることはない。彼はいかなる表現でさえもみずからの詩歌で表する術を熟知していた。彼の歌は、彼と同じ立場にあるような人々の心を鷲掴みにした。

 

歌手がビック・スターになる過程で、チャールズは、天才の称号をほしいままにするが、アトランティック・レコーズの創始者、アーメット・ガーディガンはチャールズのことについて次のように説明していた。彼いわく、天才と銘打ったのは、マーケティングのためではなかった。「そうではなくて、単純に我々が彼のことを天才だと考えていたんだ。 音楽に対するアプローチ全般に天才性が含まれていた。あいつの音楽のコンセプトは誰にも似てはいなかったんだ」



 

そのせいで、彼は当初、異端者としてみなされるケースもあった。「攻撃されるのは慣れっこだったよ」とチャールズは後にアトランティック・レコードの時代を回想している。「ゴスペルとブルーズのリズム・パターンは、以前からクロスオーバーしていた。スレイヴの時代からの名残なんだろうと思うけど、これはコミュニケーションの手段だと思っていたから・・・。なのに、俺が古いゴスペルの曲をやりはじめたら、教会どころか、ミュージシャンからも大きなバッシングを受けた。”不心得者だ”とかなんとか言われてさ、俺がやっていることは正気ではないとも言われたな」

 



 

  


1980年のこと、クリーブランドのホテルの一室でパーマーという人物が直接に「君は天才ではないのか?」と尋ねると、チャールズは例のクックという薄笑いを浮かべた。

 

「俺はさ、つねに決断を迫られているマネージャーみたいなもんでね・・・」チャールズは、そういうと、オレンジ色のバスローブ姿で立ち上がり、それまで吸っていた煙草の火をテーブルの上にある灰皿で器用にもみ消した。

 

「上手く行きゃ、天才呼ばわり・・・。行かなきゃ、ただのバカかアホ・・・。俺たちがやったことは、結局はうまく行ったわけだ。だから俺は天才ということになった。ただ、それだけのことだろ?」

 

 

  



1930年、9月22日にレイ・チャールズはジョージア州、オルバニーに生まれ、フロリダ州で少年時代を過ごす。彼は、生まれた時点で、不幸の兆候に見舞われていた。五歳の時、弟が風呂場で溺死するのを目撃した。七歳になる頃には、緑内障で失明した。独立精神を重んじた母親の教育方針の賜物があってか、彼は当時住んでいたフロリダのグリーンヴィルのカフェのブギ・ウギ・ピアノの演奏家から、ピアノ演奏の手ほどきを受けるようになった。「ヘイ、チャールズ、昨日弾いたみたいに弾いてごらん」と、つまり、それが親父の口癖だった。

 

チャールズの演奏の才覚は目を瞠るべきものがあった、バッハ、スウィング・ポップ、グランド・オール・オプリー、お望みとあらば、何でも弾くことが出来た。それから、彼はセント・オーガスティンという人種隔離制の視覚障がい者学校で裕福な白人婦人のためのピアノを弾いた。

 

チャールズは、その後、作曲と音楽論を学び、点字で編曲を行うようになった。クラスメートが休暇に帰省すると、彼は白人専用の校舎にあるピアノ室に寝泊まりした。そんな生活がチャールズの人生だったが、15歳のときに母親が他界した。いよいよ学業を断念せざるをえなくなった。「ママが亡くなった時・・・」チャールズは自伝で回想している。「夏の数ヶ月間が俺にとってのターニングポイントだったよ」「つまりさ、自分なりのタイミングで、自分なりの道を、自分のちからで決断せねばならなかった。でも、沈黙と苦難の時代が俺を強くしたことは確かだろう。その強靭さは一生のところ俺の人生についてまわることになったんだ」



 

 

 チャールズは青年期を通じて、故郷であるフロリダを中心に演奏するようになった。もちろんレパートリーの多さには定評があった。その後、彼は、バスに乗り込んで、西海岸を目指した。1947年頃には、Swing Timeという黒人のレコード購買層をターゲットにしたロサンゼルスの弱小レーベルとレコード会社と最初のサインを交わした。レイ・チャールズは、ナット・キング・コールとチャールズ・ブラウンをお手本にし、彼らの自然な歌の延長線上にあるピアノの演奏をモットーにしていた。

 

 

「レイは俺の大ファンでいてくれたんだ」とブラウンは打ち明け話をするような感じで回想している。「実は、彼と一緒に演奏していた頃、それでかなりの稼ぎがあったんでね・・・」

 

 

Charles Brown
   1951年に、「Baby Let Me Hold Your Hand」が最初のヒット作となった。このシングルは翌年にメジャーレーベルのアトランティック・レコードが2500ドルで彼の契約を買収したことで、アーティストにとっては自信をつけるためのまたとない機会となった。ニューヨーク、ニューオーリンズで行われたアトランティックが企画した最初のセッションでは、「It Should Have Been Me」、「Don’t You Know」、「Black Jack」等、感情的なナンバーを披露した。 これらの曲にはアーティストの最初期の文学性の特徴である、皮肉と自己嫌悪が内在していた。



 

こういった最初の下積み時代を経て、チャールズはより自らの音楽性に磨きをかけていった。続く、1954年、アトランティックのビーコン・クラブのセッションでは、アーメット・アーティガンとパートナーに向けて、新曲を披露する機会に恵まれた。「驚くべきことに、彼は音符の一個に至るまで」とアーティガンは回想している。「すべて頭の中に入っていた」「彼の演奏を少しずつ方向づけすることは出来ても、後は彼にすべてを任せるしかなかったんだ」

 

 

レイ・チャールズの音楽性に革新性がもたらされ、彼の音楽が一般的に認められたのは、1954年のことだ。アトランタのWGSTというラジオ局のスタジオで「I Get A Woman」というマディー・ウォーターズのような曲名のトラックのレコーディングを、ある午後の時間に行った。これが、その後のソウルの世界を一変させた。「たまげたよ」レコーディングに居合わせたウィクスラーは、感嘆を隠そうともしなかった。「正直なところさ、あいつが卵から孵ったような気がしたな。なんかめちゃくちゃすごいことが起ころうとしているのがわかったんだよ」



 

ウィクスラーの予感は間違っていなかった。「I Get A Woman」は、一夜にしてトップに上り詰めた。古い常識を打ち破り、新しい常識を確立し、世俗のスタイルと教会の神格化されたスタイルを混同させて、土曜の歓楽の夜と日曜の礼拝の朝の境界線を曖昧にさせる魔力を持ち合わせていた。チャールズのソウルの代名詞のゴスペルは言わずもがな、ジャズとブルースに根ざした歌詞は、メインストリームの購買層の興味を惹きつけた。もちろん、R&Bチャートのトップを記録し、エルヴィス・プレスリーもカバーし、1950年代のポピュラー・ミュージックの代表曲と目されるようになった。この時期、アメリカ全体がチャールズの音楽に注目を寄せるようになった。

 

 

 

 

  


やがて、多くのミュージシャンと同様に、ロード地獄の時代が到来した。チャールズはその後の4年間の何百日をライブに明け暮れた。中には、ヤバそうなバー、危険なロードハウスでの演奏もあった。ところが、チャールズの音楽は、どのような場所でも歓迎され、受けに受けまくった。その後も、ライブの合間を縫ってレコーディングを継続し、「This Little Girl Of Mine」、「Hallelujah I Love Her So」の両シングルをヒットチャートの首位に送り込んでいった。その中では、レイ・チャールズのキャリアの代表曲の一つである「What'd I Say (PartⅠ)」も生み出されることに。この曲は文字通り、米国全体にソウル旋風を巻き起こすことになった。



 

この曲は、ゴスペル風の渋い曲調から、エレクトリック・ピアノの軽快なラテン・ブルースを基調にしたソウル、そしてその最後にはアフリカの儀式音楽「グリオ」のコール・アンド・レスポンスの影響を交えた、享楽的なダンスミュージックへと変化していく。 1959年、ピッツバーグのダンスホールで即興で作られた「What'd I Say (PartⅠ)」は、ブラック・ミュージックの最盛期の代表曲としてその後のポピュラー音楽史にその名を刻むことになる。しかし、当時、白人系のラジオ曲では、この曲のオンエアが禁止されていた。それでも、ポップチャート入りを果たし、自身初となるミリオン・セラーを記録した。その六ヶ月後に、チャールズは、アトランティックからABCレコードに移籍した。その後、カタログの所有権に関する契約を結ぶ。当時、29歳。飛ぶ鳥を落とす勢いで、スター・ミュージシャンへの階段を上っていった。