流れが変わったのはアルバムが発売されて一年が経過した1965年。この曲に注目した人物がいた。ボブ・ディランのプロデュースで知られるトム・ウィルソンである。ウィルソンは、アルバムのハイライト「Sound Of Silence」を聴き、一発で惚れ込む。彼はまだ、この曲に修正の余地があると感じ、本人には知らせぬまま、この曲をオーケストラレーションを付け加えた再録音した。1966年9月、ようやくこの曲はシングル・バージョンとして発売される。またたく間にこの曲は電波をジャックし、ラジオを中心にヒットしはじめた。この間、トム・ウィルソンは、プロモーターとして暗躍し、数々のキャッチコピーを広め、この曲をプロモーションしつづけた。ウィルソンの熱意が、なかなか日の目を見なかったこの曲をオーバーグラウンドに押し上げた。
1966年1月1日、ガーファンクルが友達のグリーンバーグに電話をかけてからおよそ二年が経過した。「The Sound of Silence」は最初のヒットを記録、ビートルズと首位を争った末、ビルボードのホット100で1位を獲得する。翌年には映画『卒業』の挿入歌として使用され、重要な背景となり、多くのファンを生んだ。そのあと彼らは、「Mrs. Robinson」「Boxer」「The Biridge Over Troubled Water」といった伝説的なヒットソングを連発し、一躍スターダムを駆け上がることに。この時それを予測したのはごく少数の熱心なファンだけだっただろう。
「私たちは流行を意識したことはなく、常に自分たちが楽しめるタイプの音楽を演奏し、それにこだわってきた。今はみんなとても良い友達だ」とオズボーンは言う。「森を見つけるには木々の障害を抜けなければならない」 その後もサバスはメンバーチェンジをくりかえしながら、オズボーンをラインナップに復帰させ、2000年以降も散発的なライブを行い活動を継続してきた。2025年、ブラック・サバスのラストツアー「Back To The Beginning」が開催される。この夏、多くのロックファンは伝説的なバーミンガムのバンドの最後の勇姿を見届けることになる。
しかし、このアルバムが、なぜ後にロックファンの間で伝説化したのか.......。 それは、当時、このアルバムが一般的には販売されていなかったという理由である。そのため、『#1 Record」は一部の評論筋やロック雑誌の間だけで知られるに過ぎなかった。特に、このバンドのデビュー・アルバムを高く評価していたのが、ローリング・ストーン誌だ。後にローリングストーンは『史上最高の500枚のアルバム』にランクインさせた。チルトン/ベルのソングライティングは、マッカートニー/レノンとよく比較された。しかし、スタックスは、アルバムをほとんど宣伝せず、レコードショップでの販売はもちろん、ラジオでもあまりオンエアされなかった。アルバムには「The Ballad Of El Goodo」、「Thirteen」、「The India Song」が収録されていたにもかかわらず、ヒットには恵まれなかった。リリース時は数千枚の売上にとどまった。
クリス・ベルは、デビューレコードのために、レコーディングとミキシングに関して相当な試行錯誤を重ねたため、これらの商業的な失敗は、かなり堪えるものがあった。1972年末までに、ベルはこのバンドを去っていた。それに加え、チルトンに焦点を当てたレビューが彼を悩ませた。スティーヴンスは、「クリスがデビュー・アルバムのレビューを読み始めたとき、物事が少しずつ悪化しはじめた」とドキュメンタリー映像『Nothing Can Hurt Me』で語る。「それは彼の創造的なビジョンの非常に大きなウェイトを占めていたので、プレスのレビューがアレックスに焦点を当てて帰ってきたとき、彼はミュージシャンとして今後その影響下で生きなければならないと考えたのだった」
プロデュース的なロック/フォークサウンドであったファーストと比べると、その違いは一目瞭然である。ブルースやソウル、サザンロックといったチルトンの音楽的な背景を駆使し、ライブサウンドに近いロックがセカンドアルバムには見いだせる。セカンドの制作に取り掛かったビッグ・スターは、チルトンを中心に作曲を行い、フンメルやスティーヴンスも同じように、ソングライティングに貢献を果たした。その中には、バンドを去ったクリス・ベルが残した遺産も含まれていた。それが、「O My Soul」「Back of A Car」といったトラックだ。
個人的なことにとどまらず、他者や社会全体のことを考えられるというのはスペシャルな才能ではないか。そして、意外にも激しいイメージを持つジョー・ストラマーがこういった性質を持ち合わせていたのは、以降の「I Fought The Law」のような友愛的な一曲を見れば歴然としている。ザ・クラッシュはこの日の出来事に強い感銘を受け、デビュー曲「White Riot」を書き上げた。
「西ベルリンの中心部にある巨大なデパート、''Ka De We''で買い物をすることもあった。このデパートには、誰もが想像できるような巨大な食品売り場があり、一時期深刻な食糧難に陥った国か、単に食べることが好きな国民しか想像できないような陳列がされていた。 私たちは、チョコレートやキャビアの小さな缶など、当時は贅沢品と感じられるものを時々買い込んでいた。ある日、私たちが出かけている間にジムがやってきて、私たちが朝から買い物に費やした冷蔵庫の中のものを全部食べてしまった。 私たち夫婦がジムの心から怒った数少ない出来事だった」
「ヴァン・ダイク・パークス、そして、ランディ・ニューマンなどはまったくと言っていいほど、商業性を無視していたから、それらの成果により名前だけは知られていても、アルバムの売上は十分と言えるものではなかった。そのため、日本でもほとんど紹介されぬまま終わっていたものも少なくなかった。 ところが、アーロ・ガスリーの「Coming To Los Angels」(1969年)がアンダーグラウンドでヒットしたのをきっかけに注目が集まるようになった。アーロ自身がウッドストック・フェスティバルで成功をおさめたことや、コメディ映画『Alice's Restaurant(アリスのレストラン)』(1969年)の成功も大いに手伝った。そして、1972年の夏、アーロ・ガスリーは「The City Of New Orleans」を大ヒットさせ、地位を決定づけた」
「それに刺激されてか、レニー・ワロンカーのアシスタント的な存在だったテッド・テンプルマンが、ポピュラー的な感覚を持つロック・グループを育てることに力を入れ始めた。その第一弾としてデビューしたのが、ドゥービー・ブラザーズだった。第二作『Toulouse Street』、その中のシングル「Listen To Music」が大ヒットし、成功を収めた。テッド・テンプルマンは、ヴァン・モリソンの制作を手伝うなど、音楽業界では、ワロンカー以上の注目を集めるようになりました。さらに、ドゥービー・ブラザーズに続いて、ヴァン・ダイク・パークス、リチャード・ペリーに才能を買われ、ニルソンやカーリー・サイモンのセッションにも参加したローウェル・ジョージを中心とするリトル・フィートが出てきた」とき、バーバンク・サウンドは決定的となった。
ワーナー・ブラザーズは、1970年代頃、ボー・ブランメルズ、モージョー・メン、そしてハーパーズ・ビザールを所属させていたAutumn Recordsというサンフランシスコのレーベルを傘下に置いていた。レニー・ワロンカーは、このレーベルに向かい、Harpers Bizarre(ハーパーズ・ビザール)のデビュー・レコード、そしてMojo Men(モージョー・メン)のヒット作「Sit Down,I Think I Love You」を制作した。
Gordon Lightfoot(ゴードン・ライトフット) 『If You Could Read Mind(邦題 : 心に秘めた思い』
ゴードン・ライトフットは1960年代後半から良いアルバムを発表しつづけていましたが、それがようやく商業的な形となったのが、1970年に発売された『If You Could Read Mind』でしょう。60年代後半はボブ・ディラン風のフォークロックでしたが、徐々に作曲はメロディアスになっていきました。
Ry Cooder(ライ・クーダー) 『Into The Purple Valley(邦題: 紫の渓谷』 1971
若い頃から知っているが、素通りしてしまったアルバムが存在する。それがライ・クーダーの『Into The Valley』。ライ・クーダーはロマンティックなアルバムジェケットが多いですが、この作品だけはちょっとコメディー風で、映画の宣伝広告のようでもある。この先にどこに向かうのか。
実際に繰り広げられるのはカントリーをベースにしたロックです。他のアルバムに比べると、異質なほどブルース/カントリー色が強いです。アコースティックのブルース、カントリーをベースにしたロック/ポップで、南部のバーなどで流しのミュージシャンが演奏していそうな曲が目立つ。わけても、「Billy The Kid」は、ほとんどブルースと言っても良い。おそらくこのサウンドは、テッドニュージェント、ZZ TOPなどのサザンロックと呼応するようなものでしょう。他のアルバムに比べると入手しやすいはずです。渋いロックをお探しの方におすすめ。
ヘンドリックスを含めたエクスペリエンスの面々は、この年、象徴的な年末を過ごした。ボクサーのビリー・”ゴールデンボーイ”・ウォーカーと、その弟フィルが共同経営していたロンドン北東部の「アッパーカット・クラブ」で演奏する機会を得た。 元々、アイススケートリンクを改築したこの会場は、オープニングセレモニーを終えたばかりで、ストラトフォード・エクスプレス紙に「豪華なビッグ・ビートの宮殿」と称されるほどだった。ここでは月曜日の定例イベントが開かれていた。「ボクシング・デー、家族みんなでご一緒に」と華々しい広告が打たれたアッパーカットのポスターには、午後のイベントとしてエクスペリエンスのショーが予告されていた。入場料は、男女ごとに分けられ、紳士は5シリング、婦女は3シリング。この週のイベントには、他にも、The Who、The Pretty Things、The Spencer Davis Groupが出演した。
驚くべきことに、彼の代表曲の一つ「Purple Haze」は、午後4時に始まるショーの開始を待っている合間に書き上げられた。「紫のもや」について、ヘンドリックス自身は「海の中を歩いている夢について書かれた」と公にしている。この時期、サンド社が同様の文言の入ったカプセルを販売しており、LSDの暗喩ではないかというの説もあるが、それだけではない。彼のロンドンとの出会いに触発され、「クリスマス・キャロル」などの著作で知られるチャールズ・ディケンズの「大いなる遺産」(1861)の54章の一節から引用された。「There was the red sun, on the low level of the shore, in a purple haze、fast deepening into black..」(海岸の低い位置に、紫色の靄に包まれた赤い太陽があった)という箇所に発見出来る。
デビュー・シングル「Stone Free」はイギリスで受けが良かったが、「Purple Haze」に関してはアメリカで支持された。シングルとして発売されると、ビルボードホット100で65位にランクインし、デビューアルバム『Are You Experienced』の収録曲としては最高位を記録している。結果的に、1stアルバムはビルボード200で5位にラインクインし、500万枚の売上を記録、一躍両国でジミ・ヘンドリックス&エクスペリエンスの名を有名にしたのだった。
デビューアルバム『Marquee Moon』の制作のプロデュースには複数の候補が挙がっていたという。ジョン・ケイル、ジャック・ダグラス(ニューヨーク・ドールズ、チープ・トリック、エアロスミス)という意外な名前も挙がっていた。 しかし、エレクトラは、最終的には、イギリスの敏腕エンジニアであるアンディ・ジョーンズを抜擢している。アンディ・ジョーンズは、ローリング・ストーンズ、レッド・ツェッペリン、ジャック・ブルース等のプロデュースを世に送り出した伝説的なロックのプロデューサーだ。そして、実際のレコーディングでは硬質でエッジの効いたギターサウンドが強調されている。このデビューアルバムから、「See No Evil」、タイトル曲、「Venus」といったテレヴィジョンの代表曲が誕生したことは周知の通りである。
その影響は分岐し、ファンクビートを古典的なブラックミュージックに取り込もうというグループ、それから、「Stand!」の中で発現した黒人としてのアイデンティティを突き詰めようとするグループに分岐していった。つまり、後者のグループに属するミュージシャンたちが「ニューソウル」という運動を巻き起こしたというのが一般的な見方である。これは、さらに後の時代になると先鋭的になり、スライの1971年の代表作『There's A Riot Goin' On (暴動)』において完成される。このアルバムではスライのしなるようなファンクギターを楽しむことが出来る。
スライが「Stand!」において人種的なアイデンティティを示唆しようとした以前にも、同じような試みを行ったグループがいた。特にアメリカの南部において、これらの動きが顕著であって、その中にはEddie Floydの「Raise Your Hand」が挙げられる。彼は曲の中で、拳をあげようというラディカルなメッセージ性を添えていた。68年には、James Carrが「Freedom Train」という曲の中で、「自由の列車はもうすぐやってくる!」と歌っている。
ただ、後者のニュアンスに関しては、Sam Cooke「サム・クック)の系譜にあり、彼の代表曲でブラックミュージックの至高の名曲でもある「Change Gonna Come」のように未来に対する純粋な希望が歌われている。 シンプルだが心を揺さぶられるメッセージは、この年代のニューソウル運動の前後の時代の醍醐味だ。取り分け、南部のシンガーは、マーティン・ルーサー・キングに親愛の情を抱いていたという。ブラックミュージックの先駆的な存在、サム・クックは、1964年のコパでのライブステージにおいて、「If I Had A Hammer」を歌い、自由の喜びを端的に伝えた。制限的な権利から開放的な権利を有する時代への変遷を上記のエピソードは反映している。
・社会との関わりを持つ音楽 --ニューソウル--
ただ、それらの靄は完全には払われたわけではない。1968年に、キング牧師が暗殺されたことは、彼を信奉していた南部の歌手に深い衝撃を及ぼしたにとどまらず、根深い人種問題をもたらす。現在も、多くのブラックミュージックの系譜にある歌手が、何らかの罪や背後に残してきた暗さを暗示的に歌う理由は、この時代が出発なのではないか。サザン・ソウルの代表的な歌手、Wilson Pickettは「People Make The World」において、キング牧師に哀悼の意を表しているし、ナッシュビルのFreddie Northもまた「I Have A Dream」の有名な演説の一説を引用したりしている。
同じ年代には、「Black Power」と呼ばれる運動が湧き起こり、「Black Is Beautiful」というキャッチフレーズが新聞や雑誌に相次いで登場した。マイアミのDJ、Nikie Leeは、このキャッチフレーズをタイトルにしたシングルをリリースし、話題を呼んだ。Edwin Howkins Singersの「O Happy Day」がチャートで一位を獲得したのは、ゴスペルからのこのムーブメントへの回答でもあった。その他、Syl JohnsonはJBに触発を受け、「Is It Because I'm Black」という曲を制作し、ブラックとしてのアイデンティティを定義づけた。社会的な混乱の時代、こういったシンガーやグループは時代の変化を賢しく読んで、リスナーの人気を獲得することに成功したのだった。