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ブラック・サバスは、イギリスの労働者階級都市バーミンガムから生まれた。ギタリストのトニー・アイオミとドラマーのビル・ウォードは、もともと幼なじみで学校の同級生であり、ザ・レストというバンドで一緒に演奏し、後にマイソロジーというコンボで共演した。ヴォーカルのジョン・オジー・オズボーンは他のメンバーと同じ地域で育ったが、別の学校に通っていた。

 

やがて彼はベーシストのテリー・ギーザー・バトラーと意気投合し、レア・ブリードというバンドのメンバーとして、アイオミやワードと同じクラブ・サーキットでバンド対決を繰り広げた。以後、アイオミがジェスロ・タルに短期間在籍した後、バーミンガムの若者4人が力を合わせ、1968年にアース(Earth)として登場した。

 

前身バンドのアースというグループ名の変更を余儀なくされたとき、彼らはちょうど作ったばかりの曲のタイトル、''ブラック・サバス''に因むことにした。ブラック・サバスは、悪魔崇拝の弊害を警告する不吉で暗鬱なメタル・ドローンだった。以降、ウィリアム・バロウズの''ヘヴィメタル''という概念と並んで、この曲がメタルの元祖となった。 現在ではメタルの代名詞とも言えるブラック・サバスだが、ミステリアスなヴェールの向こう側にあったのは、意外な音楽であった。

 

「俺たちは当初、ジャズ・ブルースのバンドだった」とギタリストのアイオミは1984年のインタビューで回想している。ご存知の通り、半音下げチューニングの生みの親は自分のサウンドに対してある意味では無自覚であったことが伺える。

 

「自分たちのサウンドは、基本的に大きな音でチューニングすることから生まれた。当時は、自分たちのサウンドをなんと呼べばいいかまったく分からなかった」とバトラーはいう。このことは当時、彼らにラウド・ロックという点で先んじていたレッド・ツェッペリンよりもサバスのライブが轟音であることを宣伝広告として打ち出していたことが証し立てている。デビュー当時のブラック・サバスのバイオグラフィーは以下のような内容であった。


ーーこのグループは、ゴシック的な威厳と悪魔的な恐怖を帯びた火炎と硫黄のようなサウンドを形成しているーーと、まあ、大げさで笑ってしまうようなシニカルさだ。少なくとも、ブラック・サバスはアヴァンギャルドでニッチなバンドとして国内のシーンに登場した。

 



ブラック・サバスは、1970年2月、セルフ・タイトルのデビューアルバム『Black Sabbath』をリリースし、国際的な音楽シーンに登場した。当時、ディープ・パープル、レッド・ツェッペリン、ハンブル・パイといったブルースをベースとしたヘヴィ・ロック・グループが国際的な賞賛を浴び、レコード・セールスを急上昇させていた。


一般的には、ハイテンポなロックソングが目立つ中、ブラック・サバスのようなスロウテンポのおどろおどろしい音楽は異端的であったということが分かる。ブラック・サバスは、ハードロックの進化における次の論理的なステップであるように見えた。

 

ギターのリフは、これまで聴いたことがないほど悲痛で、不吉で、大音量であり、バトラーとウォードの叩きつけるようなリズムは、最も耐久性のあるバッテリーを提供した。その上、オズボーンの苦悶の叫びは特許を取得し、それ以来、決して誰にも模倣されないオリジナルのボーカルスタイルとなった。

 

「Black Sabbath」 

 

 

それでも、挑発的な題材に照らして、サバスのナンバーは大ヒットした。アメリカのFMラジオは、サバスの曲をオンエアし、グループのダウンチューニングされた陰鬱なサウンドを受け入れた。特に、「War Pigs」、「Iron Man」、そしてオジー・オズボーンのソロ曲としても絶大な人気を誇るアンセム曲「Paranoid」が、この年度のアメリカのラジオの定番曲となった。ブラック・サバスの歌詞は、1970年の当時の若者のありふれた心情を歌っていた。セックス、ドラッグ、ロックンロールなど……。もちろん、西海岸のヒッピーのような高揚した調子ではなかったが。

 

ブラック・サバスは、もっと世の中に対して率直で、懐疑的な視線を投げかけていた。さらにサバスは、ベトナム戦争に抗議し、スピリチュアリティのダークサイドを探求し、あらゆる種類の権威に疑問を投げかけ、「邪悪な世界」の内なる意識に飛び込むことを決して恐れなかった。

 

バーミンガムの殺伐とした地帯から生まれた彼らの世界観には、そうした非形成的な感情が渦巻いていた。バンドによれば、最大の成功のいくつかは、ほとんど起こりえない純粋な偶然から始まった。ギーザー・バトラーによれば、「''Paranoid''という曲は、世に出た時、ほとんど書きかけに過ぎなかった」という。私たちは、"War Pigs"のレコーディングを終えたばかりで、このアルバムは『War Pigs』というタイトルになるはずだった」とバトラーは言う。 「アルバムにはあと3分の長さのトラックを入れなければならなかったし、しかもスタジオでのレコーディング時間はあと1時間しか残っていなかった。レコードの時代には、片面につき最低は20分くらい必要だった。だから、両方を使うことに決めたんだ。"Paranoid"は20分くらいで書き上げました。この曲はとても良いものになったので、アルバム名を『War Pigs』から『Paranoid』に変えた」

 



後のブラック・サバスのライブのアンセム曲ともなった「War Pigs」は、バンドがチューリッヒのクラブに滞在し、毎晩45分のセットを7回演奏したことから始まった。この間、バンドは延々とジャムを続け、彼らが抱くようになったダークなサウンドを無感覚な客を相手に試していた。そんな形で誕生した「War Pigs」は、ベトナム戦争時代のプロテスト・ソングの最終形態ともいえるだろう。彼らはスイスのパブで何日も練習を重ね、新しいアレンジを施した。しかし、名曲になるはずだった曲を2、3日かけて練り上げた後、パブのオーナーは”もうたくさん”と言って、バンドを帰らせた。しかしながら、このセレンディピティと実験から、サバスの偉大な名曲のひとつが生まれ、今日に至るまでハードロックのベンチマークのひとつとなっている。

  

彼らの代名詞的な名曲「Black Sabbath」は、バンドの秘儀的な悪魔主義への接近と取られがちなのだが、真実はまったく異なると明言しておかなければならない。むしろ、その意味はまったく逆だった。ギーザー・バトラーは、この曲について次のように明かしている。「ベースのリフから書かれ、オジーが歌詞を書いた。''悪魔崇拝に近づかないように''という警告の曲だった。実は、それがこの曲の原点なんだ。もちろん、それは完全に誤解されちゃったんだけどね!」これらのライヴ録音が行われた重要な時期については、サバスの遺産の中でも最良の時期であるように見えるが、実際にはオリジナル・ラインナップにとっては終わりの始まりでもあった。

 

1970年代半ばには、バンドはマネージメントから何年も金をむしり取られてきたという現実に目覚め、すでに嫉妬、不安、パラノイア、薬物中毒の渦に落ち始めていた。1970年代半ばまでに、このため、アイオミ、バトラー、ウォードは1979年にオズボーンを過剰な薬物乱用で解雇し、オリジナル・ラインナップは最終的に崩壊した。

 

「初期は最高の日々だった。俺たちは毎日出世し、どんどん成功していった」とオズボーンはデビュー時について回想したことがある。「まるで、はしごを毎日のように昇っていくかのようで、どんどん成功が舞い込んできた。もちろん、それにつれ、車を買ったり、そして女を手に入れたりした。それから最も楽しい生活、グルーピーに囲まれたパーティーに明け暮れるような暮らしが始まった。しかし、ドラッグが蔓延したことで、それらの楽しい暮らしがすべて崩壊していった。つまり、バンドの運命をドラッグが左右してしまったんだ。しかし、それでも当時としては、それなしには生き残ることは非常に難しかったと思っている。私たちは中毒者だった。ドラッグやアルコールはすべての苦痛を取り払うためのものだった。一日の終わりに、褒美を与えなければならなかった......。そして、私はバンドから離れざるを得なくなったんだ」

 

1992年、オジーとのお別れギグをカリフォルニアで行った後、オリジナル・サバスは再結成した。1998年から1999年にかけて再結成ワールドツアーを行い、大成功を収めた。バンドは今でも特別なイベントのために再結成を果たした。「私たちは自分たちのスタイルをあまり変えたことがない」とアイオミは認め、ファンがブラック・サバスを決して見捨てない理由を説明した。


「私たちは流行を意識したことはなく、常に自分たちが楽しめるタイプの音楽を演奏し、それにこだわってきた。今はみんなとても良い友達だ」とオズボーンは言う。「森を見つけるには木々の障害を抜けなければならない」 その後もサバスはメンバーチェンジをくりかえしながら、オズボーンをラインナップに復帰させ、2000年以降も散発的なライブを行い活動を継続してきた。2025年、ブラック・サバスのラストツアー「Back To The Beginning」が開催される。この夏、多くのロックファンは伝説的なバーミンガムのバンドの最後の勇姿を見届けることになる。

 

「Back To The Beginning Trailer」 

 

Big Star

 

メンフィスが生んだロックバンド、Big Starは、秀逸なソングライター、タレント、バンドのスター性をすべて持ちあわせても、ヒットソングやヒットアルバムを作り出すことの難しさを歴史的に証明している。

 

メンフィスは古くはサザン・ソウルのメッカで、ミシシッピ川周辺のソウルミュージック、そしてほど近いニューオリンズのジャズとの連携において発展してきた。その象徴的なレコード会社がStaxレコードであった。

 

しかし、オーティス・レディングのようなスターを輩出した経験を持つレコード会社ですら、ビック・スターの管理には手を焼いていた。というか、宣伝に力を入れなかったのではないかと推測される。結局のところ、Big Starは米国の最初のインディーロックスターである”アレックス・チルトンの在籍したバンド”という条件付きの共通認識で音楽ファンに知られるようになる。ビックスターを信奉するアーティストは殊の外多い。ティーネイジ・ファンクラブ、REM、ウィルコなどカレッジロック/インディーロックの著名なバンドはみな、Big Starを聴いて育ったと言える。ある意味ではオルタナティヴという源流はこのバンドにあると断言出来る。

 

そもそも、ビッグ・スターを生んだ時代のロックは、結局、ビートルズのフォロワー・サウンド、そしてフォーク・ミュージックやソウルという自家薬籠中の音楽をどのように結びつけるかという試作段階にあった。その代表格がバッド・フィンガーである。彼らは確かに、ヒット・ソングを作り出すことに成功した。しかし、ビートルズに匹敵する実力派のバンドであったにもかかわらず、アイドルのようなプロモーションが行われたことに不満を示し、さらにメンバー内のマージンの分配の問題を抱え、最終的にはバンドとして空中分解をする。代表曲「Without You」はレコード業界の光と影であるとよく言われ、売ることの代償、バンドというものの難しさを表している。そして、彼らと似たような運命を辿ったのがビッグスターだった。



・Big Star   第一期 デビューアルバム『#1 Record』の誕生まで 

 


アレックス・チルトンはビッグ・スターに参加する以前に公式なヒット・ソングを持っていた。彼は、元々、ソウル・ミュージック(ブルーアイド・ソウル)を主要なバックグラウンドとしていた。メンフィスのセントラル高校に在籍していた16歳の時点で、ソウルグループThe Box Topsのメンバーに参加していた。1960年代の後半には、「Cry Like A Body」「The Letter」「Soul Deep」、「Sweet Cream Ladies, Forward March」というヒット・ソングを持っていた。

 

1971年に、このグループは解散し、しばらくチルトンは音楽的な漂流を重ねた。チルトンは21歳の頃、ナショナル・ストリートにあるジョン・フライのアーデン・スタジオに出入りするようになった。そのスタジオで偶然、物静かで少し愛想の悪い青年と出会う。それがクリス・ベルだった。彼は、メンフィス大学を出たあと、テネシー大学に短期間通っていた。そしてアイスウォーターというバンドで活動していた。

 

二人は意気投合して、ビッグ・スターを結成する。そしてクリスの高校時代の友人であったアンディ・フンメル、そしてジョディ・スティーヴンスが参加し、ベース、ドラムが加わり、1971年にラインナップが完全に整った。当初、彼らはLed Zeppelin,Bad Finger,James Gangのカバーソングとオリジナル曲を演奏し始めた。「Big Star」という名称は、当時、メンフィスにあった食料品店に因んで名付けられた。

 

当初、彼らはビートルズのようなロックソングを書きたいと切望していた。チルトンとベルは集中的に作曲を行い、わずか数ヶ月で十数曲を書き上げた。そしてフンメルとスティーヴンスとのライブセッションでそれらを形にしていく。そのための環境は整っていた。当時、ビックスターのメンバーは、アーデント・スタジオに気楽にアクセスし、セッションを行うことが可能だった。

 

そしてすでに、彼らのデビュー・アルバム『#1 Record』の大まかな骨子は、この年に出来上がっていた。アーデントはスタックスの子会社で、傘下のインディーズレーベルから1972年にデビューを果たす。 『#1 Record』は、STAXの説明によると、二番目のアーデントのリリースだった。

 

 

 

 

 

しかし、このアルバムが、なぜ後にロックファンの間で伝説化したのか.......。 それは、当時、このアルバムが一般的には販売されていなかったという理由である。そのため、『#1 Record」は一部の評論筋やロック雑誌の間だけで知られるに過ぎなかった。特に、このバンドのデビュー・アルバムを高く評価していたのが、ローリング・ストーン誌だ。後にローリングストーンは『史上最高の500枚のアルバム』にランクインさせた。チルトン/ベルのソングライティングは、マッカートニー/レノンとよく比較された。しかし、スタックスは、アルバムをほとんど宣伝せず、レコードショップでの販売はもちろん、ラジオでもあまりオンエアされなかった。アルバムには「The Ballad Of El Goodo」、「Thirteen」、「The India Song」が収録されていたにもかかわらず、ヒットには恵まれなかった。リリース時は数千枚の売上にとどまった。

 

クリス・ベルは、デビューレコードのために、レコーディングとミキシングに関して相当な試行錯誤を重ねたため、これらの商業的な失敗は、かなり堪えるものがあった。1972年末までに、ベルはこのバンドを去っていた。それに加え、チルトンに焦点を当てたレビューが彼を悩ませた。スティーヴンスは、「クリスがデビュー・アルバムのレビューを読み始めたとき、物事が少しずつ悪化しはじめた」とドキュメンタリー映像『Nothing Can Hurt Me』で語る。「それは彼の創造的なビジョンの非常に大きなウェイトを占めていたので、プレスのレビューがアレックスに焦点を当てて帰ってきたとき、彼はミュージシャンとして今後その影響下で生きなければならないと考えたのだった」

 


・第二期 セカンドアルバム『Radio City』の制作の難航 バンドの空中分解

 



 

主要メンバーのベルが去った後、ビッグ・スターの活動は行き詰まっていた。残された三人のメンバーは、ラフィエットのミュージック・ホールの閉会式の後のコンサートで演奏するために久しぶりに再会した。このショーは成功し、アーデントのジョン・キングがチルトン、フンメル、スティーヴンスを説得し、セカンドの制作をするように勧めた。


ジョン・フライは、「バンドが次のアルバムの制作を決めたことは嬉しかった。けれど、それはナイトクラブ、バーや酒のために生み出されたとも言える。つまり、(セカンド・アルバム)ラジオ・シティに映る地理がここに見えてくる」と回想する。

 

 

プロデュース的なロック/フォークサウンドであったファーストと比べると、その違いは一目瞭然である。ブルースやソウル、サザンロックといったチルトンの音楽的な背景を駆使し、ライブサウンドに近いロックがセカンドアルバムには見いだせる。セカンドの制作に取り掛かったビッグ・スターは、チルトンを中心に作曲を行い、フンメルやスティーヴンスも同じように、ソングライティングに貢献を果たした。その中には、バンドを去ったクリス・ベルが残した遺産も含まれていた。それが、「O My Soul」「Back of A Car」といったトラックだ。

 

 

スタジオのセッションでは、音楽的なプロデュースの役割を担っていたベルの不在のため、以前よりも緩くなり、散漫に陥ることもあったが、バンドはそれらの欠点を受け入れようとした。しかし、デビュー時のような熱量は失われつつあった。ライブセッションに価値を見いだせなかったフンメルは、ビッグ・スターを脱退し、ロッキードに勤務し始める。メンバーの多くは、この年代にありがちな進路の問題を抱え、ビッグスターの活動は暗礁に乗り上がりつつあった。

 

セカンド・アルバムは、バンドとしての見通しがたたない中、1974年2月にリリースされる。アルバムの中では、「September Gurls」がヒットの可能性があると目されていた。しかし、デビュー・アルバムと同じように、STAXの流通の問題が再燃した。『Radio City』は数千枚の売上にとどまり、商業的な成功には至らなかった。しかし、このアルバムの収録曲にはカバーアンセムが含まれている。The Replacements,The Banglesがカバーしていることは付記しておくべきだろう。

 

ビッグ・スターは、公式には二作のアルバムをリリースしたに過ぎなかった。次のアルバム『Third』を加えたとしても三作。しかし、3つ目のアルバムがリリースされたのは2000年代以降、正確に言えば2016年である。こうした中、最初のオリジナルメンバーは、チルトンとスティーヴンスだけになる。1974年の秋、彼らはプロデューサー、ジム・ディッキンソンとリボルビング・キャスト・スタジオに戻り、新しいレコードの制作に取り組もうとした。

 

ところが、プロデューサーのディッキンソンは、明らかにこのバンドがすでに空中分解しようとしているのを肌で感じ取っていた。「その頃すべてが悪化していたんだ。そして、それはレコードにはっきりと表れ出ていた。 しかし、まだ地理性のようなものが含まれていた。ミッドタウン……、つまり、メンフィスらしさがあった。しかし、バンドとしてはすべてが悪化しつつあった。それはレコードにはっきりと捉えられている。芸術的なビジョンの分解という....... 」

 

 

Big Starの三枚目のアルバムのレコード制作の噂は長いあいだ眉唾ものとされていたが、マッシュアップタイトル「Third/ Sister Lovers」の出現により、現実視されるに至った。しかし、全般的には、ジョン・フライがレコーディングを中止したほど、アルバムの制作は完成には程遠かった。


結局のところ、彼らのファンの間では、三枚目のアルバムは幻となり、「#1 Record」「Radio City」がビッグ・スターの公式のリリースという見解が根強い。STAXもバンドのおすすめ作品として、ファーストとセカンドを重要視しているようだ。

 

 

「I'm In Love With A Girl」(Radio Cityに収録)




参考:  Culturesonar:  Big Star: An Appreciation

 

イギリスのパンクの歴史の原点は一つは、マルコム・マクラーレンがもたらした宣伝的な概念である。そしてもう一つは、社会に内在する政治的な側面である。これは源流に当たるニューヨークのパンクグループよりもその性質が強い。特に、ジョン・ライドンやシドの影に隠れがちだが、イギリスの音楽の系譜を見る際には、ジョー・ストラマー、そしてミック・ジョーンズ、ポール・シムノンを素通りすること出来ない。


当初のザ・クラッシュはラモーンズの音楽に触発されたということもあり、4カウントで始まる直情的なパンクロックソングを特色としていた。その後、レゲエ、スカ、ラヴァーズ・ロックなどを融合させ、パンクロックそのものの裾野を広げていった。パンクの可能性というのは、内包されるジャンルの多彩性にある。それはジャズと同じようになんでも出来るという、ある種の無謀な音楽的な挑戦でもあったわけなのだ。

 

しかし、ジョー・ストラマーやジョーンズがなぜ、レゲエやスカといったカリビアンの共同体の音楽を取り入れるようになったのかという点は、当時の1970年代後半のイギリス社会の情勢が如実に反映されている。


例えば、ノッティング・ヒルの1976年のカリブ系移民と白人を巻き込んだライオットにジョー・ストラマーは偶然居合わせ、この事件に触発され、白人が黒人と一緒に共闘すべきであること、そして白人もまたカリブ系移民のように政治に怒ることをステートメントの中に取り入れたのだ。これは1970年代のサッチャリズムの渦中で、資本を搾取される市民に対し、彼らに倣い、権力に従属することなかれという意見をパンクソングの中に織り交ぜたのであった。


パンクロックの初心者は、例えば、デビューアルバムに何らかの共感を示し、そのあと『London Calling』のようなハイブリッドのパンクの魅力に惹かれていく場合が多いと思うが、ザ・クラッシュのメンバーがなぜカリブ系の音楽をパンクの文脈に取り入れるようになったかを知るのはとても大切だろう。デビュー時のパンクロックソングはもちろん、『Sandanista!』のように一般的に亜流と称されるアルバムまで、表向きの印象だけでなく聴き方が変わってくるからだ。

 

1976年、もう一つのパンクの始まりを告げる動きがロンドンで発生しつつあった。この年の7月にニューヨークのパンクバンド、ラモーンズがノースロンドンにあるラウンドハウスでギグを行い、このライブにはイギリスの最初期のパンクバンドが多く参加していた。彼等はロックソングを簡素化したラモーンズのスタイルに共感を示し、それらを同地で再現させるべく試みた。セックス・ピストルズが1975年11月6日にウェストロンドンのセント・マーチング・スクール・オブ・アートで初演を行い、時を同じくして、ザ・クラッシュは1976年7月4日にはシェフィールドのザ・ブラック・スワンでピストルズを支援するライブを行った。


驚くべきは、この最初の流れが発生したあと、ロンドンのパンクの先駆的な動きはわずか数年で終焉を迎える。いわばこの音楽ムーブメントそのものが''衝動的''であったと言わざるを得ない。


当時の音楽ジャーナリスト、キャロライン・クーンは、この最初のパンクバンドの台頭に直面した時、ピストルズについて、「個人的な政治」であるとし、クラッシュについて、「真剣な政治」と報道しているため、政治的な性質が強かったと言わざるを得ない。


ジョー・ストラマーとシモノンは、ロンドン西部にあるノッティングヒルやドブローク・グローブなどのレゲエ・クラブに足を運んで、ジャマイカの音楽に慣れ親しんでいた。これが結局、クラッシュの多彩な音楽性を形成したのにとどまらず、パンクロックの音楽の網羅性や裾野の広さを構築することになった。

 

 

1976年の夏、ザ・クラッシュのメンバーはノースロンドンのカムデン・タウン、そして西ロンドンのラドブローグ・グルーブ、ノッティングヒルの区域に不法に滞在していた。しかも取り壊し予定の古い空き家に陣取っていた。ギタリストのミック・ジョーンズは、ウィルコム・ハウスと呼ばれる議会のタワーの18階に祖母と一緒に住んでいた。この場所は、ロンドンの高速道路であるウェストウェイが見下され、名曲「London’s Burning」の歌詞でも取り上げられている。 

 

 

彼等が重要な音楽の根幹に置いたアフロカリブの音楽、ジャマイカのレゲエ/スカはおそらくノッティングヒルのカーニバルでも演奏される機会が多かったのではないか。現在も開催されているこのフェスティバルは当時それほど大規模ではなかった。このフェスティバル自体も1958年の最初の人種的な暴動の反省を踏まえて、愛に満ちた祝祭として行われるようになった。

 

しかし、当時の社会情勢の影響もあってか、1976年に二十年前と似たような事件が発生する。それが「ノッティングヒルの暴動」と呼ばれる事件である。この年のカーニバルが終了すると、ストリートが独特な緊張に満ち始め、黒人の一部のカリブ系の若者(白人も参加したという説もある)が警察側に対して暴徒化したのだった。

 

1976年のノッティングヒルの暴動に参加したDJ、映画監督のドン・レッツ

 

この暴動に居合わせたストラマーとシモノンは、黒人の暴動に深い共感を示し、彼等の勇気に接して、「同じように自分たちも怒るべきだ」と最初のパンクロックソング「White Riot」にその意見を込めた。この暴動にはシド・ヴィシャスもいて、二人は彼を捕まえるため暴動に戻った。その様子をテラスハウスから見た黒人の年配女性は彼等に言った。「あそこにいくな。少年たち。殺されるわ!!」

 

ところが、彼等は戻らず、この暴動に最後まで居残った400人規模の黒人たちを英雄視し、「ハードコアのハードコア」と呼んだ。そして、これがすでにオリジナルパンクの後の80年代の「ハードコアという概念」が誕生した瞬間であると言えるだろう。もちろん、この曲は白人側に対するステートメントであると言えるが、そこにはカリブ・コミュニティの考えに対する深い共感を見出すことが出来る。拡大解釈をすると、人種を越えて協働すべきという内在的なメッセージも滲んでいる。その証立てとして、彼等はセカンドアルバム『London Calling』ではレゲエ、スカ、そしてフォーク/カントリーと人種を超越した音楽へと接近していったのである。これは単なる音楽の寄せ集めのような意味ではなく、音楽は人種を超えるという提言がある。

 

個人的なことにとどまらず、他者や社会全体のことを考えられるというのはスペシャルな才能ではないか。そして、意外にも激しいイメージを持つジョー・ストラマーがこういった性質を持ち合わせていたのは、以降の「I Fought The Law」のような友愛的な一曲を見れば歴然としている。ザ・クラッシュはこの日の出来事に強い感銘を受け、デビュー曲「White Riot」を書き上げた。

 

「黒人は多くの問題を抱えている。彼等は確かにレンガを投げる方法を知っている。白人は学校に行って、そこで厚くなる(賢くなる)方法を教えられる。彼等の誰もがムショには行きたがらない」


扇動的な内容であるが、権威や権力に対し反抗を企てることも時には必要であると彼らは訴えかけたのだった。

 

この曲は当初、それほど大きな話題を呼ばなかったが、BBCのジョン・ピールが高く評価し、そしてラジオでも積極的にオンエアした。また、以降の時代になると、ミック・ジョーンズは若気の至りのような部分があったということで「White Riot」を演奏することを忌避したという。しかし、市民が権力に従属せぬこと、反対意見を唱えることの重要性を訴えたという点では、粗野で直情的という欠点もあるにせよ、パンクロックの重要な原点を形作ったと言えるか。

 

なお、最近もノッティングヒルのカーニバルは続いており、現在では、フレンドシップに脚光を当てた友愛的なイベントへと変化している。1976年の暴動をドキュメンタリーフィルムとして追った映画「白い暴動(White Riot)」は、日本で2021年に公開された。この映像では経済破綻状態にあった70年代のイギリスの世相が的確に映し出されている。こちらの映像もぜひ。 

 



 ジギー・スターダストに象徴されるように、よくデヴィッド・ボウイは架空のキャラクターを矢面に押し出したイメージ先行のアーティストと言われる。一理あるが、しかしそれがすべてだとも言いがたい。デヴィッド・ボウイは1976年から1978年まで西ベルリンに住んでいたが、この3年間は彼がミュージシャンとしてヒューマニスティックな暮らしを送った期間だ。この時代、『Low』、『Heroes』、『Lodger』など名作群を世に輩出した。いわゆるベルリン三部作と言われ、ブライアンイーノがプロデュースした。そのなかではかのオブリーク・ストラテジーズも使用された。ここではボウイが旧ドイツでどんな暮らしを送っていったのかを探索する。


 ボウイがベルリンを訪れたとき、1960年代の激動と熱気に包まれたこの都市は、東西分裂の時代とあってか、やや荒廃していた。 しかし、ベルリンという都市は、戦後もなお、その名を知られることのなかった、独自の発展を遂げた都市でもあった。 戦争の後、この都市は、常にその名を知られるようになったのである。 しかし、市庁舎センターは、戦争と社会主義的な市街地計画の結果であるような、激しい対立の場でもあった。 その結果、オスト・ベルリンは滅亡の危機に瀕したのである。 その結果、わずか数メートルの距離で、すべての市街地が破壊された。


 西ベルリンは当時、ドイツ連邦共和国からの補助金のみによって運営されている非常に活気のある都市であった。拡大された街並みと、それに付随する街の魅力が、多くの人々の関心を引きつけていた。


 四半世紀前に大成功を収めた後、米国で活躍するミュージシャンは大きな転機を迎えた。 彼は、ある時はファンから激しく非難され、ある時はファシスム・シンパシーを強く意識するようになった。 ボウイは世界主義の人間として再出発しようとしていた。 西ベルリンは、まさにうってつけの世界都市であった。ここでのデヴィッド・ボウイは、世界での数年を経て、再びエルデ星に降り立ったのである。 しかし、ボウイは1970年代のドイツ・キノに興味を持ち、クラフトワーク、ノイ、カンといった、新しい音楽性を追求するクラウトロックにも興味を持った。


「LAでの生活は、私に圧倒的な予感を残していた。 薬物による災難の瀬戸際に何度も近づいたし、何らかの前向きな行動を起こすことが不可欠だった。 長年、ベルリンは私にとってある種の聖域のような魅力があった。 事実上、匿名で動き回れる数少ない都市のひとつだった。 私は危うく一文無しになりそうだった」


「私は10代の頃から、とくに表現者たち(芸術家も映画製作者も)の怒りに満ちた感情的な作品に夢中になっていた。 ベルリンは、ディ・ブルッケ運動、マックス・ラインハルト、ブレヒト、そして『メトロポリス』や『カリガリ』の発祥の地だった。 それは、出来事によってではなく、''気分によって人生を映し出す芸術''だった。 これが私の仕事の方向性だった。 1974年にリリースされたクラフトワークの『アウトバーン』によって、私の関心はヨーロッパに戻った。 電子楽器が圧倒的に多かったので、この分野はもう少し調べなければいけないと確信したんだ」


「クラフトワークが私たちのベルリンのアルバムに与えた影響については、多くのことが語られてきた。 でも、そのほとんどは、少しいい加減な分析だろう。 クラフトワークの音楽へのアプローチは、私の構想には入っていなかった。 彼らの音楽は、管理され、ロボット的で、注意深く、ミニマリズムのパロディに近いものだった。 フローリアンとラルフは、自分たちの環境を完全に管理しており、彼らの作曲はスタジオに入る前に十分に準備され、研ぎ澄まされているという感じがした。 私の作品は表現主義的なムード・ピースの傾向があり、主人公(私自身)は自分の人生をほとんど、あるいはまったくコントロールすることなく、''時代精神''(当時の流行語)に身を任せていた。 音楽はほとんど自然発生的なもので、スタジオで作られた」


「実質的にも、私たちは両極端だった。 クラフトワークのパーカッション・サウンドは電子的に作られたもので、テンポが硬く、動かない。 他方、私たちのサウンドは、力強くエモーショナルなドラマー、デニス・デイヴィスによる揶揄されるような処理だった。 テンポは「動く」だけでなく、「人間」以上に表現されていた。 クラフトワークは、その屈強な機械的ビートを、すべて合成音の発生源で支えていた。 私たちはよくR&Bバンドを使った。『Station To Station』以来、R&Bとエレクトロニクスのハイブリッド化が私の目標だった。 実際、70年代のブライアン・イーノのインタビューによれば、彼はこの点に惹かれて私と仕事をするようになった」


 ベルリンでの時代については、多くの出来事が伝説化している。ボウイは、シェーネベルガー通り155番地の大きなアパートで暮らしていた。また、157番通りにある "Anderes Ufer "というバーにも出入りした。それ以前は、ニュルンベルガー通り53の「Dschungel」、フッガー通り33の「Chez Romy Haag」、パウル・リンケ・ウーファーの「Exil」、カント通りの「Paris Bar」で活動していた。 ボウイの音楽は、ポツダム広場にある有名なハンザ・スタジオで演奏された。 


デヴィッドボウイが暮らしていたアパートメント


 ボウイが文化に興味を持ったとき、彼はブリュッケ・ミュージアムに入った。 WGの仲間であるイギー・ポップの歴史は半ば伝説化して語り継がれている。パンク界のレジェンドは、ボウイの部屋の中に入ってからまもなくアパートを去った。原因は冷蔵庫の食材を勝手に食べたのが理由だったとか……。ボウイがロミー・ハーグと親交を深めたのも、ベルリン時代の思い出のひとつ。そして当然、彼のアシスタントのココ・シュワブもいた。 イギー・ポップの友人であるエスター・フリードマンも、この小さなグループに加わった。 スタジオでは、プロデューサーであるトニー・ヴィスコンティとトーン奏者のエドゥアルド・マイヤーが重要な役割を果たした。


 ベルリンでは、デヴィッド・ボウイは創作活動に没頭した。 この時期に発表された3枚のアルバム、いわゆるベルリン三部作は、ベルリンで最も重要な時代的出来事である。 ボウイは『Low』『Heroes』をドイツ語とフランス語でも発表した。 しかし、それは極限の状態で書かれた。


「私にとっては危険な時期だった。 肉体的にも精神的にも限界だったし、自分の正気について深刻な疑問を抱いていた。 でも、これはフランスでの話……。全体的に、私は''ロー''から絶望のベールを通した本当の楽観主義を感じる。 自分自身が本当に元気になろうと必死になっているのが聞こえてくる。ベルリンは数年ぶりに生きる喜びを感じ、大きな解放感と癒しを与えてくれた。 パリを思い出すよりも8倍も大きな都市で、迷いやすく、自分自身を見つけるのも簡単だった」



 この街では、ボウイはさらに多くのことを学んだ。 そして彼は、西ベルリンが、その昔もそうであったように、きわめて異質なものであったが、その末期には郷愁的であったことを知った。一般的には彼は1978年にこの地を去り、以来ベルリンには戻らなかった。しかし、デヴィッドボウイにとってベルリンは住みやすい街で離れるつもりはなかった。その後ニューヨークに行ったのは行きがかりとも言うべき理由だった。当時のことについてボウイは回想している。


「ベルリン離れるつもりはなかった。たぶん、うまくいっていたんだと思う。 かけがえのない、見逃せない経験だったし、それまでの人生で一番幸せな時期だったかもしれない。 ココもジムも私も、とても素晴らしい時を過ごした。 でも、あそこで感じた自由な感覚は言葉では言い表せない。 私たち3人が車に飛び乗り、東ドイツを狂ったようにドライブして黒い森に向かい、目に留まった小さな村に立ち寄った日……。何日もかけて。 冬の日にはヴァンゼーで午後の長い昼食をとったりしたんだ。そこはガラス張りの屋根があり、木々に囲まれていて、はるか昔の1920年代のベルリンの雰囲気がかなり残っていた。 夜はクロイツベルクにあるレストラン「エグザイル」、インテリやビートとつるんだりもした。奥にはビリヤード台がある煙の充満した部屋があり、いつも仲間が入れ替わる以外は、もうひとつのリビングルームのようだった」



「西ベルリンの中心部にある巨大なデパート、''Ka De We''で買い物をすることもあった。このデパートには、誰もが想像できるような巨大な食品売り場があり、一時期深刻な食糧難に陥った国か、単に食べることが好きな国民しか想像できないような陳列がされていた。 私たちは、チョコレートやキャビアの小さな缶など、当時は贅沢品と感じられるものを時々買い込んでいた。ある日、私たちが出かけている間にジムがやってきて、私たちが朝から買い物に費やした冷蔵庫の中のものを全部食べてしまった。 私たち夫婦がジムの心から怒った数少ない出来事だった」


「ジムは、ベルリンで知り合った女性と結婚し、私たちのアパートの隣に自分のアパートを建てたので、もうしばらくベルリンに残ることにした。 それからエレファント・マンの話が持ち上がり、私はかなりの期間アメリカに滞在することになった。 それからベルリンを離れたんだ」


 

バーバンクにあるワーナー・ブラザーズのスタジオ


 Burbank Sound(バーバンク・サウンド)は、1970年代のロサンゼルスの象徴的なサウンドで、その多くがサンセット通りにあるレコーディング・スタジオから生み出された。西海岸の特有のロック、ウェスト・コーストサウンドとも重複する部分があり、長らくこのサウンドの正体を掴みかねていました。思い出の中にあるロックといえば語弊になりますが、それに近い印象もあったのです。

 

 該当するバンドといえば、ドゥービー・ブラザーズ、ライ・クーダー、ヴァン・モリソン、キャプテン・ビーフハートなどが思い浮かびます。どうやら、バーバンク・サウンドには表立った特徴がなく、ハリウッドの北の郊外にあるバーバンクという土地から生み出されたという理由で、このジャンル名がつけられたという。そして、フィル・スペクター・サウンドモータウン・サウンドには明らかな音楽的な特徴があるけれども、それとは反対にバーバンク・サウンドには明確な特徴がない。それだけではありません。バーバンク・サウンドが面白いのは、アーティスト主導によって推進され、考え方によっては音楽的な共同体のような意味が求められるというのです。

 

 日本の音楽評論家の重鎮であり、”はっぴいえんど”のファースト・アルバムを手掛けた小倉エージさんは、このサウンドについてドゥービー・ブラザーズのLPのライナーノーツでこう説明しています。「ロサンゼルスとはいっても、それはまったく東京のようでもあり、さらにそれを音楽と結びつけ、例えば、デトロイト、フィラデルフィア・サウンドというように表現しようとすると、これがまた複雑怪奇で、様々に入り乱れていて、なんと説明してよいか困り果ててしまう」

 

「ところで、ロサンゼルスには、無数のレコーディングスタジオが立ち並び、例えば、テレビのメロドラマのサウンドトラックのレコーディングから、明日を夢見るロックグループがなけなしの金をはたいて、わずかな時間を借り、レコーディングに励んでいたり、また、ずっとスタジオを借り切って新しい音の創造に熱を燃やす有名ロックグループ、というように様々なレコーディングが行われていた」

 

「もっとも、バーバンクでレコーディングされる音は、その姿勢などからいくつか分けることが出来ます。そのひとつが敏腕プロデューサーをチーフとし、有名スタジオ・ミュージシャンをバックに、プロデューサー本位の音楽を追求し、独特のサウンドを創造していくスタイル、かつてルー・アドラーが持っていた「ダンヒル」等、ポップマーケットを意識した音作りをしているものが挙げられます」

 

「それとは対象的に、バーバンク・サウンドは、あくまでアーティスト本位の音楽性を追求していくスタイルで、例えば、多くのロックグループがそれに当てはまり、ロックミュージシャン同士の交流も盛んだったので、互いのレコーディングに顔を出していることも多かった。 『スワンプ・ロック』という名前で紹介されたデラニー&ボニーやレオン・ラッセルなどが挙げられる。そして、これまでに伸びてきた二つのスタイルを重ね合わせ、アーティスト本位の音楽性を重視した上で、スタジオ・ミュージシャンなどを使い、商業性にこだわらない独自のサウンドを作り上げているプロデュースチームもあった。その代表格が、ハリウッドの北にあるバーバンク・サウンドのグループだった」

 

「バーバンク・サウンドという言葉を知らしめるきっかけとなったハーパーズ・ビザールの一連のヒット曲や、彼らが作り出した4枚のアルバム、ボー・ブランメルズ、アーロ・ガスリー、ランディ・ニューマン、ヴァン・ダイク・パークス等のアルバムを聴いていると、共通したなにか、それこそバーバンク・サウンドの特徴ともいえるものを発見することが出来る。セピア色に色づいた1920年代から40年代のアメリカ、それもハリウッドの黄金時代を思わせる都会的なものから、映画『怒りのぶどう』をほうふつとさせるものなのです。そこにはブルースがあり、カントリー&ウェスタンがあり、フォーク・ミュージックがあり、ジャズがあり、それにくわえて、ヴァン・ダイク・パークスやドゥービーのようにカリブ海からも音楽性を吸収している」

 

 

 こういった特徴を持つバーバンク・サウンドでありますが、この一連のグループが有名になっていったのには以下のような経緯がある。そして、商業性を度外視した音楽性から、一般的に有名になるのには少し時間がかかった。海外ではなおさらで、日本でこの言葉が普及するのには経過が必要だった。言ってみれば、じわりじわりとバーバンクの言葉が浸透していったのです。

 

 「ヴァン・ダイク・パークス、そして、ランディ・ニューマンなどはまったくと言っていいほど、商業性を無視していたから、それらの成果により名前だけは知られていても、アルバムの売上は十分と言えるものではなかった。そのため、日本でもほとんど紹介されぬまま終わっていたものも少なくなかった。 ところが、アーロ・ガスリーの「Coming To Los Angels」(1969年)がアンダーグラウンドでヒットしたのをきっかけに注目が集まるようになった。アーロ自身がウッドストック・フェスティバルで成功をおさめたことや、コメディ映画『Alice's Restaurant(アリスのレストラン)』(1969年)の成功も大いに手伝った。そして、1972年の夏、アーロ・ガスリーは「The City Of New Orleans」を大ヒットさせ、地位を決定づけた」

 

「それに刺激されてか、レニー・ワロンカーのアシスタント的な存在だったテッド・テンプルマンが、ポピュラー的な感覚を持つロック・グループを育てることに力を入れ始めた。その第一弾としてデビューしたのが、ドゥービー・ブラザーズだった。第二作『Toulouse Street』、その中のシングル「Listen To Music」が大ヒットし、成功を収めた。テッド・テンプルマンは、ヴァン・モリソンの制作を手伝うなど、音楽業界では、ワロンカー以上の注目を集めるようになりました。さらに、ドゥービー・ブラザーズに続いて、ヴァン・ダイク・パークス、リチャード・ペリーに才能を買われ、ニルソンやカーリー・サイモンのセッションにも参加したローウェル・ジョージを中心とするリトル・フィートが出てきた」とき、バーバンク・サウンドは決定的となった。

 

 

 バーバンク・サウンドはアーティスト主体によるサウンドで、フィル・スペクター・サウンドのように、限定的なサウンドではないことは先述した通りです。しかし、このバーバンク・サウンドは才能豊かなエンジニア、アレンジャー、プロデューサー、作曲家、そしてミュージシャンが支えてきた。これらは当時、ハリウッドのサイドストーリーともいえるバーバンクのスタジオで働く人々だった。その中には驚くべきロックミュージシャンの名前を見出すことが出来ます。

 

・レニー・ワロンカー(ワーナーーのチーフプロデューサー)

・テッド・テンプルマン(ワロンカーのアシスタントだったが、著名なプロデューサーになる)

・アンディ・ウィッカム(プロデューサー)

・ジョン・ケイル(音楽家、プロデューサー)

・ラス・タイトルマン(音楽家、プロデューサー)

・ヴァン・ダイク・パークス(音楽家、プロデューサー)

・ランディー・ニューマン

・リー・ハッシュバーグ(エンジニア)

 ・ドン・ランディー (エンジニア)


 というように、多数の才能豊富なミュージシャン、エンジニアがバーバンクのスタジオには在籍していたことが分かる。そして彼らが生み出したバーバンクの主要なグループは次の通りです。

 

 

 ■レニー・ワロンカーのプロデュース

 

 ・ライ・クーダー

・ハーパーズ・ビザール

 ・エヴァリー・ブラザーズ

・ランディ・ニューマン

・ボー・ブランメルズ

・ヴァン・ダイク・パークス

・ゴードン・ライトフット

 

■テッド・テンプルマンのプロデュース

 

 ・ドゥービー・ブラザーズ

・リトル・フィート

・キャプテン・ビーフハート

・ロレイン・エリソン


 

 ■伝説的なプロデューサー、レニー・ワロンカーが生み出したサウンド

 

 

 当時、ワロンカー氏は31歳になったばかりの若手プロデューサーだった。24歳のときに、ワーナーで勤務し始め、リバティ・レコードのプロモーション、そしてパブリッシングを担当していました。

 

 その経歴は彼の部下テンプルマンをして「今までに書かれたすべての曲を知っている男」と呼ばれていた。音楽的な知識が非常に豊富であったことがこのエピソードからうかがえる。ワロンカーがワーナーにきたとき、新しいマスターテープを聴き、アドヴァイスをし、そしてときにはレポートを書いたりして過ごし、1967年の始めまで プロデューサーをすることはなかった。


 ワーナー・ブラザーズは、1970年代頃、ボー・ブランメルズ、モージョー・メン、そしてハーパーズ・ビザールを所属させていたAutumn Recordsというサンフランシスコのレーベルを傘下に置いていた。レニー・ワロンカーは、このレーベルに向かい、Harpers Bizarre(ハーパーズ・ビザール)のデビュー・レコード、そしてMojo Men(モージョー・メン)のヒット作「Sit Down,I Think I Love You」を制作した。

 

 レニーは、レオン・ラッセルをハーパーズのアレンジャー、そしてモージョー・メンにはヴァン・ダイク・パークスをミュージシャン/アレンジャーに採用した。これがバーバンク・サウンドの始まりでした。

 

 

 ■レニー・ワロンカーのプロデュースの方針

 

レニー・ワロンカーが打ち出したプロデュースの方針は以下の通りでした。

 

1.プロデュースは''音楽の愛情''から行われるものである。

 

2.重要なことは、タレント(才能)を見つけ、 助けるということである。

 

3.「私は、私の知らない事を埋め合わせ、私のアイディアを理解出来る人々と働けるように務めている」

 

4.アーティスト自身にもプロデュースすることを勧める。 才能ある人の熱狂がどこかで必要だ。

 

5.すべては曲に始まる。曲の良さから来るアイディアが、時と場所、そしてアレンジャー、楽器の設定を可能にする。 


6.音楽はフィーリングである。

 

 

■ワーナー・ブラザーズの音楽的な方針 モー・オースティン氏の場合

 

 一方、これらのバーバンク・サウンドの自由性、あるいは寛容的な方針を推進したのが、親会社のワーナー・ブラザーズでした。当時、社長の座にあったのは、モー・オースティン氏だった。彼が打ち出した戦略、そして方針は、明らかにメジャーレコード会社らしからぬものでした。

 

1.何よりもまず、創造の自由を保証したい。 A&Rの働ける必要条件は、アーティストが創るものに一切の口出しをしない、ということである。放任主義あるのみ。そして、時間と費用も制約しない。


 

■ もう一人の立役者 テッド・テンプルマン

 

 テッド・テンプルマンといえば、後にヴァン・へーレンのプロデュースを手掛け、一躍ミュージック・シーンの重鎮になった人物である。彼の音楽の仕事の始まりは、他でもない、バーバンクでの仕事であった。彼は、レニー・ワロンカーが発掘した最も優秀な人材の一人であると称される。当初、ハーパーズ・ビザールの中心人物で、リード・ボーカル、ドラム、トランペット、ギター、作曲を担当していたマルチな才能の持ち主で、レニーとの初対面のときから、深い理解と友情へと結びついたという。そして、彼らの最初の科学反応の結果は、ハーパーズ・ビザールの大ヒット、そして「Feeling Groovy」に繋がりました。テッドは、のちにグループを離れ、ワーナーの専属プロデューサーの迎え入れられた。1970年9月のことでした。

 

 テンプルマンの最初の仕事はドゥービー・ブラザーズのデビューレコードの制作、そしてヴァン・モリソンの「Tupelo Honey」(1971年)、リトル・フィートの「Sailin' Shoes」(1973年)でした。その後、順調にキャリアを進め、『Toulous Street』、ヴァン・モリソンの『St.Dominic's Preview』(1972年)を制作した。以後、1972年4月に彼は役員プロデューサーに昇進しています。

 

 後に、プラチナやゴールド・ディスクを生み出すための布石は、すでに1970年代から盤石でした。彼の創り出すサウンドには、当時から惜しみない賞賛が送られています。


 リトル・フィートのリーダー、ローウェル・ジョージによる「彼は、アーティストがやりたいことをさせてくれる、アーティスト好みのプロデューサーだ」、キャプテン・ビーフハートによる「新作を彼とやったんだけど、今までのアルバムすべてを彼とやればよかった」、レニー・ワロンカーによる「彼は私の知っているベスト・プロデューサー。音楽的な基礎、技術的な基礎、そして、最高のプロデューサーの条件、自分のエゴで他人を妨げることのない才能を持っている」といった称賛の言葉はほんの一例に過ぎません。バーバンク・サウンドの自由な気風や創造における自由の保障という、当時のワーナーが掲げていた目標に沿ったものであることが実感出来ます。




【バーバンクの名盤 サウンドの感じを掴むための入門】 

 

 

Arlo Gathrie(アーロ・ガスリー) 『The Last Brooklyn Cowboy(邦題: 最後のブルックリン・カウボーイ)』 初盤は1973年に発売 2004年にリマスター盤が発売


アーロ・ガスリーによる1973年に発売された『Last Of The Brooklyn Cowboy』はバーバンクサウンドの最初期の良作です。このバーバンクサウンドの音楽的な温和さを味わうことが出来る。

 

このアルバムでは、ブルックリンと銘打たれていながら、アイルランド民謡のフィドルを取り入れたり、バンドセッションにおけるフォークロックの源を探っています。アーロ・ガスリーのボーカルはまったりしていますが、それもまたバーバンクの魅力とも言えるでしょう。初盤はホワイト・アルバムのようなアートワークでしたが、再発盤はワイルドなカウボーイと女性の影。

 

 

The Doobie Brothers(ドゥービー・ブラザーズ)『Toulouse Street(トゥールーズ・ストリート)』 初盤は1972年に発売 

 


 イーグルスと並んで、後のウェストコーストサウンドの象徴的なバンドへと成長するドゥービー・ブラザーズ。代表作としては『Captain and Me』が有名ですが、バーバンクサウンドとしては二作目のアルバム『Toulouse Street』が最適でしょう。

 

後にディスコロックの先駆者となるドゥービーのフォークロック色の強いアルバム。アーロ・ガスリーと同様に、カルフォルニアのフォークサウンドをベースにしつつも、R&B、ファンクといったブラックミュージックの要素も強い。渋いアルバムではありますが、アメリカのフォークロックの名盤の一つ。

 

 

 

Gordon Lightfoot(ゴードン・ライトフット) 『If You Could Read Mind(邦題 : 心に秘めた思い』 


 

ゴードン・ライトフットは1960年代後半から良いアルバムを発表しつづけていましたが、それがようやく商業的な形となったのが、1970年に発売された『If You Could Read Mind』でしょう。60年代後半はボブ・ディラン風のフォークロックでしたが、徐々に作曲はメロディアスになっていきました。

 

このアルバムはアコースティックギターの弾き語りをベースにしたもので、フットライトの温かく、心に染みるようなメロディーが切ない感覚を放つ。音楽的にも素晴らしいですが、バーバンクの高水準のレコーディングにも注目したいところですね。




Van Dyke Parks(ヴァン・ダイク・パークス) 『Discover America』 1972

 


 

ヴァン・ダイク・パークスは最初期の傑作『Song Cycle』においてビートルズのポップスを踏襲し、バロックポップやウォールオブサウンドの一貫であるチェンバーポップを実験的に政策していますが、特に、このアーティストらしさが上手く引き出されたのが『Discover America』でしょう。

 

地中海/カリブ音楽の影響が強いのは一目瞭然で、当時の西海岸のラジオで普通に流れていたのかもしれません。いわゆる現代のクロスオーバーの先駆的な存在であり、聴きのがすことが出来ません。ジャズやフォーク、そして当世のポップ、ロックなど、いかに当時のカルフォルニアには多彩な音楽が溢れていたかをこのアルバムに見てとることが出来る。

 

 

 Ry Cooder(ライ・クーダー) 『Into The Purple Valley(邦題: 紫の渓谷』 1971

 


 

若い頃から知っているが、素通りしてしまったアルバムが存在する。それがライ・クーダーの『Into The Valley』。ライ・クーダーはロマンティックなアルバムジェケットが多いですが、この作品だけはちょっとコメディー風で、映画の宣伝広告のようでもある。この先にどこに向かうのか。

 

実際に繰り広げられるのはカントリーをベースにしたロックです。他のアルバムに比べると、異質なほどブルース/カントリー色が強いです。アコースティックのブルース、カントリーをベースにしたロック/ポップで、南部のバーなどで流しのミュージシャンが演奏していそうな曲が目立つ。わけても、「Billy The Kid」は、ほとんどブルースと言っても良い。おそらくこのサウンドは、テッドニュージェント、ZZ TOPなどのサザンロックと呼応するようなものでしょう。他のアルバムに比べると入手しやすいはずです。渋いロックをお探しの方におすすめ。

 

 

 

Van Morrison 『Veedon Fleece』 1974

 

バーバンクサウンドの最高の名盤の一つです。テネシー・ワルツやフォーク、R&Bが折り重なり、ヴァン・モリソンのオリジナルサウンドが組み上げられた。ソウルフルな歌唱とピアノ、そしてベース、ギターという的確なアンサンブルが芳醇なバーバンクの世界を作り上げる。音楽に酔いしれることの素晴らしさ、そして西海岸の音楽の素敵さを、このアルバムは教えてくれるはずです。現代の音楽的な感覚から見ても、文句なしのポピュラーの名盤。 1980年代以降の米国の商業音楽のバラードは、おそらくヴァン・モリソンの影響が強いものと考えられる。

 




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1960年代をベトナム戦争の陸軍の精鋭部隊(精確には劣等兵だったという噂もある)として過ごした後、ジミ・ヘンドリックスは本格的にミュージシャンの道を歩み始めた。アイク&ティナ・ターナー、アイズレー・ブラザーズのバックバンドを経験した後、有名ミュージシャンのバックで演奏し、全米ツアーに同行した。リトル・リチャードのツアーにバックバンドとして同行したこともある。1966年7月、キース・リチャードの恋人だったリンダ・キースの仲介によりアニマルズのベーシスト、チャス・チャンドラーに見出され、9月にヘンドリックスは渡英した。当時、チャンドラーはヘンドリックスの演奏について次のように回想している。「ギタリストが三人くらい弾いているのかと思ったら、実際はジミ一人だけだったのに驚いた」 

 

ジミ・ヘンドリックスは、自分のブルースに根ざしたロックがイギリスの音楽シーンに受けいられるか不安に思っていた。ヘンドリックスは軍隊に従軍する前に、いくつかのアマチュアバンドを経験していたが、このとき初めて最初の自身のバンド、エクスペリエンスを結成した。ベースは、ノエル・レディング、ドラムは、ミッチ・ミッチェルが担当した。(何度かわざと除隊になるため、怠慢な仕事やわざと同性愛者のフリをするなど)長い軍隊生活でフラストレーションが溜まっていたのか、ライブバンドとしての活動を始めるや、ヘンドリックスは、潜在的なクリエイティビティを爆発させ、およそ数カ月間に、以降の代表曲のほとんどを書き上げたのだ。

 

デビューシングル「Stone Free」、「Purple Haze」、「Foxey Lady」、「The Wind Cries Mary」、「Highway Chile」、「Are You Experienced」などである。ほどなくライブ活動を開始した。彼のトレードマークで、ワイト島やウッドストックでの代名詞となる、きらびやかなサイケデリックな衣装、また、アグレッシヴにギターをかき鳴らしながら、ステージを所狭しと動き回るステージスタイルは、すでに最初期に完成されていた。この頃、デビュー・シングル「Stone Free」の全英チャート4位という偉業のお膳立ては整っていたのだった。

 

1966年、ジミ・ヘンドリックスは、生まれて初めてロンドンでクリスマスを過ごした。新天地での生活は彼に大きな刺激を与えたのは想像に難くなく、他のいかなる時代よりも活動的な時期を過ごした。彼はイギリス、フランス、ドイツを行来しながら、エクスペリエンスと一緒に制作した音楽を録音し、イギリスのファンに支持され、マスメディアからその実力を認められるようになった。

 

ヘンドリックスを含めたエクスペリエンスの面々は、この年、象徴的な年末を過ごした。ボクサーのビリー・”ゴールデンボーイ”・ウォーカーと、その弟フィルが共同経営していたロンドン北東部の「アッパーカット・クラブ」で演奏する機会を得た。 元々、アイススケートリンクを改築したこの会場は、オープニングセレモニーを終えたばかりで、ストラトフォード・エクスプレス紙に「豪華なビッグ・ビートの宮殿」と称されるほどだった。ここでは月曜日の定例イベントが開かれていた。「ボクシング・デー、家族みんなでご一緒に」と華々しい広告が打たれたアッパーカットのポスターには、午後のイベントとしてエクスペリエンスのショーが予告されていた。入場料は、男女ごとに分けられ、紳士は5シリング、婦女は3シリング。この週のイベントには、他にも、The Who、The Pretty Things、The Spencer Davis Groupが出演した。

 

驚くべきことに、彼の代表曲の一つ「Purple Haze」は、午後4時に始まるショーの開始を待っている合間に書き上げられた。「紫のもや」について、ヘンドリックス自身は「海の中を歩いている夢について書かれた」と公にしている。この時期、サンド社が同様の文言の入ったカプセルを販売しており、LSDの暗喩ではないかというの説もあるが、それだけではない。彼のロンドンとの出会いに触発され、「クリスマス・キャロル」などの著作で知られるチャールズ・ディケンズの「大いなる遺産」(1861)の54章の一節から引用された。「There was the red sun, on the low level of the shore, in a purple haze、fast deepening into black..」(海岸の低い位置に、紫色の靄に包まれた赤い太陽があった)という箇所に発見出来る。

 

ヘンドリックスのルームメイトでマネージャーを務めたチャンドラーによると、彼はすでに、10日前には「Purple Haze」の象徴的なギターリフを思いつき、ある程度曲のイメージがまとまっていたという。この曲の誕生について、次のように回想している。「その日の午後、彼が楽屋でリフを演奏しはじめたので、私は’’残りを書いてほしい’’と言った。彼はそのことばに素直に従った」 この曲では、西洋音楽としては、一般的に忌避されるトライトーン(3全音とも言われる。減5度、増4度の進行をいう。中世音楽では悪魔の進行とも呼ばれ、和声法の禁則的な事項として知られる)が登場し、後に「ヘンドリックス・コード」と呼ばれるようになった。

 

デビュー・シングル「Stone Free」はイギリスで受けが良かったが、「Purple Haze」に関してはアメリカで支持された。シングルとして発売されると、ビルボードホット100で65位にランクインし、デビューアルバム『Are You Experienced』の収録曲としては最高位を記録している。結果的に、1stアルバムはビルボード200で5位にラインクインし、500万枚の売上を記録、一躍両国でジミ・ヘンドリックス&エクスペリエンスの名を有名にしたのだった。 


歌詞の側面ではジミ・ヘンドリックスは相当この曲に苦心した形跡がある。それは当初のサイケデリックなイメージをどのように昇華するのか、言葉をまとめ上げるのがスムースにいかなかったことが要因でもある。当初、ヘンドリックスは「Purple Haze」のために1000語を費やしたが、結局、最終バージョンでは100語に削られた。そもそもヘンドリックスの音楽では言葉は補足的であるため、多くの歌詞を必要としないのが特徴である。ヘンドリックスのロックの核心は、そのほとんどがギターリフによって語られると言っても大げさではないのだろう。

 

 

バロックポップとチェンバーポップの原点

 

The Beatles-Strawberry Fields

他のジャンルと同様に、ポピュラーミュージックの中には、数えきれないほど無数のジャンルがある。例えば、この中にチェンバーポップ、バロックポップというジャンルが存在するのを皆さんはご存知だろうか。


大まかに言えば、これらの2つの専門用語ともに古典音楽の影響を含めるポピュラー音楽を意味する。チェンバーポップ、バロックポップの原点は間違いなくビートルズにある。そう、勘が鋭い読者はお気づきのことだろう、「Strawberry Fields Forever」である。


「Strawberry Fields Forever(ストロベリー・フィールズ・フォーエバー)」は、ビートルズの楽曲である。1967年2月に「Penny Rain(ペニー・レイン)」との両A面シングルとして発売され、ビートルズのサイケデリック期における傑作。


レノン=マッカートニー名義となっているが、実質的にはジョン・レノンの作った楽曲といわれ、レノンが幼少期に救世軍の孤児院「Strawberry Fieldsr」の庭園で遊んでいた思い出をモチーフにしている。

 

1966年11月にレコーディングを開始し、スタジオで5週間に渡って異なる3つのバージョンを制作し、最終的にテンポやキー、使用される楽器の異なる2つのバージョンを繋ぎ合わせて完成した。


現代の「編集的なサウンド」、及び現代のWilcoがレコーディングで使用するような音楽のレコーディングはすべてここから始まったといえる。

 

この曲にはメロトロンやストリング、ホーンセクション、逆再生、そしてポピュラー音楽の範疇を越えたクラシック音楽の構成など、現在でもレコーディングやソングライティングの教科書とも言えるマスターピースであり、チェンバーポップやバロックポップの出発点とみても大きな違和感がない。


しかも、この音楽にはバロック音楽の要素が取り入れられている。しかし、教会のポップ、そして、バロックのポップとはいったい何を意味するのか。それを始まりから現在に至る系譜を大まかに追っていきたい。



バロック音楽



そもそも「チェンバー」は教会の意味である。これは教会で演奏されるクラシック音楽を模したポピュラー音楽を意味すると推測できる。その一方、「バロック」というジャンルも音楽の専門用語で使用され、クラシック音楽の一ジャンルをポピュラーの中に組み入れることを意味していると思われる。バロックはポルトガル語で「不整形の真珠」を意味している。バロックというジャンルは、中世の古典音楽のジャンルで、イタリアからフランス、ドイツまでヨーロッパの音楽様式として栄華をきわめた。

 

バロックは、音楽という観点で言えば、イタリアのヴィヴァルディに始まり、フランスのクープラン、ドイツのJSバッハまでの中世ヨーロッパの音楽形式を示すのが一般的と言える。音楽としては、ハープシコードを用いたり、トランペット(ピッコロ)やフレンチホルン、さらには木管楽器を弦楽曲と共に組曲の中で使用した。テンポとしては、ゆったりとしたアンダンテから、性急に駆け抜けていくプレストまで様々である。これらのバロックやチェンバーという様式の原点は、そのほとんどが宗教的なモチーフや宮廷などの委嘱作品として制作される場合が多かった。詳述するには音楽家が宮廷お抱えの演奏家や作曲家であった時代にまで遡る必要がある。


中世の音楽家は、そもそも教会組織に使える人物であり、王族や教会のためのミサ、及び、宗教的な儀式のための音楽を制作し、教会の組織から特別な「サラリー(給与)」を得ていたのである。(サラリーは、塩から派生した言葉で、仕事の定期的な報酬は「塩」という貨幣の代替品により始まった。塩が最も貴重であった時代の話である)それらのバックアップを得て、ヨーロッパの近隣諸国の演奏旅行に出かけることもあった。現在で言う''ライブツアー''の原点である。つまり、現在のプロモーターやレーベルのスポンサーの役割は、中世音楽という観点からいうと、教会の組織やコミュニティ、もしくはその背後にある国家が司っていたと見るべきだろうか。


これらの作曲家、演奏家の多くは教会専門の音楽家として生計を立てていたが、もしその契約を打ち切られると、かなり大変だった。たちどころにスポンサーを失い、みずからの音楽が演奏される機会が少なくなり、最終的にはモーツァルトのように借金をしてまで生計を立てねばならなくなる。晩年、ザルツブルグの教会内部との軋轢があってのことなのか、モーツァルトは晩年には無宗教者として墓に入ることを決意した。しかし、彼の遺作が宗教音楽のレクイエムであることはかなり皮肉にまみれている。

 

時代が変わり、楽譜(スコア)が出版されるようになると、現在でいうCD/LPの販売のような商業的な形態の初歩的な構造が出来上がっていった。当初は銅板の印字のような出版形式で、後に現在のスコアのような紙の出版へと移行していく。すると、ドイツや旧ワイマール帝国、あるいはオーストリアの作曲家は楽譜を書店などで売ることで、ようやく生計を立てられるようになった。

 

しかし、現在のようなライブツアーや物販という営業形態までは至らず、依然として教会や国家に仕える比較的経済に余裕がある場合を除いては、音楽家のほとんどはどのような時代も貧困にあえいでいたと見るべきだろう。現在のようなスターシステムは当然ながら、グッズ販売などの付加要素がないため、楽譜の売上だけではなく、ピアノ教師をやりながら生計を立てていかなければならなかった。現在でいう専門のインスティテュート、ピエール・ブーレーズが設立したIRCAMのような研究の専門機関もまだ存在しないので、それはほとんど個人的な音楽教師の範疇にとどまっていた。

 

ロベルト・シューマンと並んで世界最初の音楽評論家であるロマン・ロランによるベートーヴェンの伝記にも出てくるが、音楽室の壁に飾ってある大作曲家の半数は、中世においては社会的な地位に恵まれることは少なかった。フランスでは、だいたいのところ国立音楽院で学んだ後、教授職に就いたり、ガブリエル・フォーレのように学長に歴任するというケースはきわめて稀だった。これは彼が出世コースを歩み、アカデミズムの世界の人物であったからである。

 

音楽家が独立した職業として認められ、一般的に生計を立てられるようになったのは、少なくとも19世紀の終わりか、もしくは20世紀のはじめと推測される。後にはマーラー、ブーレーズ、ストラヴィンスキーなど、指揮者と作曲家を兼任し活動を行う人々も出てくる。この時代からようやく音楽家の地位も一般的な水準より高まり、つまり文化人として認識されるようになる。

 


 

ジャズとポピュラーの融合 大衆のための音楽

 

Mourice Ravel & George Gershwin USTour

こういった流れを受け継いで、近代文明の中にクラシックとともに''ジャズ''という音楽が台頭した。ニューオリンズの黒人の音楽家を中心とするブラック・ミュージックの一貫にあるコミュニティとは別に、クラシックの系譜に属するジャズが出てくる。ニューヨークでジャズが盛んになった経緯として、ジョージ・ガーシュウィンの大きな功績を度外視することは難しいだろう。

 

ジョージ・ガーシュウィンはオーケストラとジャズを結びつけ、フランク・シナトラと合わせて米国のポピュラー音楽の最初の流れを形作った人物といえるかもしれない。


そして、バロックポップやチェンバーポップの中には、クラシック音楽と合わせて、古典的なジャズの要素が入る場合があることを忘れてはいけない。これは、以降のMargo Guryanというソングライターに受け継がれ、現代的な米国のポピュラー・ミュージックの一部を形成していると見るのが妥当である。

 

もう一つ、ポピュラー・ミュージックの文脈の中に組み込まれるバロックやチェンバーという様式の中に、別のルーツがヨーロッパのクラシックに存在する。それがフランスの著名な近代の作曲家であり、クロード・ドビュッシー、モーリス・ラヴェル。特にラヴェルに関しては、『ボレロ』などミニマル・ミュージックの元祖を制作しているし、アメリカへのツアー旅行の過程でガーシュウィンと交流を持った。彼は音楽にスタイリッシュさをもたらした作曲家である。


また、フランスのサロン文化やジャポニズム、また絵画芸術が発祥の印象派の作曲家、クロード・ドビュッシーは同じように古典音楽という形式の中に洗練されたスタイリッシュさをもたらした人物だ。彼はロシアからアメリカに亡命したイゴール・ストラヴィンスキーと交友関係にあった。これらのエピソードはアメリカのポピュラー音楽がフランスの近代音楽やロシアの古典音楽からの影響を元に原初的なポピュラーという形態を作り上げていったことを証立てている。


そして、上記二人の作曲家に強い触発を与えたパリ音楽院を十数年かけて卒業した作曲家、エリック・サティの存在も重要となるだろう。


元々は、サロン文化華やかし時代の花の都パリで、フレドリック・ショパンをサロンのような場所でカバーを演奏していたが、ドビュッシーが彼の音楽を取り上げはじめたおかげで彼の名は歴史に埋もれずに済んだ。サティはのちのハロルド・バッドのような現代的なミュージシャンに影響を及ぼし、オーケストラ音楽やピアノ曲をポピュラーとして編曲した。


和音法の革新性という側面でもエリック・サティは度外視することができず、フォーレのアカデミズム一派と並んで、フランスの近代和声の一部を形成していることは事実である。''その場のムードを重んじる''という意味で、環境音楽やアンビエントのルーツでもある。そしてそれは以降のコクトー・ツインズのように、絵画や建築、服飾などの他分野を発祥とする美学やイデアを元に構成される音楽の一派に直結する。いわばサティは、クラシックという領域でポピュラー(大衆のための音楽)というテーマを最初に意識づけた作曲家である。それ以前から、クラシックとポピュラーのクロスオーバーは、歌曲や大衆向けのオペラでも頻繁に行われていたのは事実だが、この時、古典音楽の意義が変わり、一部の共同体のためのものから大衆の音楽へと移行した。

 

 

ロックやポップスのレコーディングの中で組み込まれるオーケストラ楽器

 


音楽が「大衆のための娯楽」として確立されたのち、ミュージック・スターが誕生するのは当然の成り行きだったのかもしれない。1950年代に入ると、レコード会社が米国各地に乱立するようになり、音楽産業が確立されると、ヒーローが数多く登場するようになった。チャック・ベリーやリトル・リチャード、エルヴィスを中心とするロックンロール、これは明らかにブルースやゴスペルをはじめとするブラックミュージックを出発点として発展していった。


その一方、ポピュラー・ミュージック全般は、明らかに以前の時代のクラシックやジャズ、それからミュージカルやオペラのような形態を元に発展していった。イギリスでは、アイルランドやスコットランドのデーン人のフォーク音楽、そして米国ではゴスペルやアパラチア発祥のニューイングランドを意味するフォークミュージックを吸収し、教会音楽の格式高さを受け継いだものから、それとは別の完全なショービジネスとして君臨するものまでかなり広汎に及んだ。

 

しかし、少なくとも、現在のような商業的な音楽の流れを決定づけたのはやはりビートルズである。そしてチェンバーポップやバロックポップというジャンルもまたリバプールのバンドから出発したと考えるのが妥当だろう。今回、クラシック音楽をポピュラー・ソングに取り入れた最初の成功例として注目したいのが、ザ・ビートルズの名曲「Strawberry Fields Forever」である。


この曲は『Rubber Soul』時代のサイケデリック文化からの影響をうかがわせつつも、チェンバーポップとバロックボップの最初の出発点だ。ビートルズの中期の曲ではお馴染みのメロトロンの使用という要素は、現在のリスナーから見ると、ノスタルジックな印象をおぼえるはずである。

 


 

これは同時期に、サイケデリック・ムーブメントやフラワー・ムーブメントの一貫として登場したザ・ローリンズ・ストーンズの『Their Satanic Majesties Request』の収録曲「In Another Land」にもチェンバロ(ハープシコード)というオーケストラ楽器が登場する。これらの2曲が一般的な意味でのバロックポップ/チェンバーポップの出発点と見るのが妥当であるといえるかもしれない。


またこの要素はジョージ・ハリソンやレノンがインドでシタールなどの民族楽器を学んだこともあり、チェンバー・ポップの文脈にくみこまれたり、さらに独立した音楽ジャンルとしてエスニックのロック/ポップという、以後のニューエイジ系の先駆けとなったことは想像に難くない。

 

 

そして、バンドのレコーディングという側面では、ビートルズがオーケストラ音楽の要素をポピュラーの中に組み込み、それらをリスナーの期待に応えるような形式に仕上げたことは明らかである。他方、ローリング・ストーンズは、これらをサイケデリックやミュージカル、もしくは映像的な音楽効果と結びつけ、ビートルズとは異なる音楽の新しい様式を作り上げることになった。


これは続く、80年代から90年代のブリット・ポップに直結している。ブリット・ポップの正体とは、「バロック・ポップ/チェンバー・ポップの継承」である。それらを前の年代のニューウェイブやポストパンク、ロンドンやマンチェスターのダンスミュージック、及び、エレクトロニックと結びつけるという意義があった。ブリット・ポップのレコーディングにオーケストラのストリングが必須であるのは、こういった理由によるのかもしれない。そして、商業的なロックソングという観点でも、オーケストラのストリングやエレクトロニックの要素が複合的に取り入れられると、それがブリット・ポップとなり、その影響下にあるポスト世代の音楽となる。

 

 

 

 

もう一つの系譜 女性シンガーソングライターを中心とするチェンバーポップの発展


Murgo Garyan

 

ビートルズやストーンズのバンドという形態で築き上げられるバロックポップとチェンバーポップは以降のブリットポップに直結した。そして、もう一つの系譜として女性シンガーソングライターを中心とするチェンバーポップが台頭する。それらの音楽は独特のふんわりした音楽性が特徴となっている。

 

例えば、その原点として、元々はクラシックやピアノの演奏に親しんだMargo Guryanがいる。女性シンガーとしては傑出していたが、寡作のシンガーソングライターであったこと、所属レーベルとの関係の悪化、さらに家庭の人生を重んじたため、生涯の作品こそ少ないが、ポピュラー音楽の中にクラシック音楽やジャズを本格的に組み入れようとした最初のシンガー/作曲家である。

 

米国では著名な女性のシンガーソングライターがレコード会社やプロデューサーと協力し、チェンバロやメロトロン、そしてオーケストラ楽器を曲の中に導入し、シンガーソングライターとしてのチェンバーポップ、バロックポップの様式を作り上げていった。

 

このジャンルが盛んだったのは何もアメリカのニューヨークだけにとどまらない。もう一つの文化の重要な発信地であるフランスでは、イエイエが盛んになり、パリの音楽シーンは映画やファッションと連動するようにして、ジェーン・バーキンやシルヴィ・バルタンを筆頭とするフランス版のチェンバーポップの象徴的なシンガーを輩出する。イエイエの系譜にありながらボーカルアートの領域まで表現形態の裾野を広げて、アートポップやスポークンワードの先駆的な存在として活躍したシンガーソングライター、Brigitte Fontaineも忘れてはいけないだろう。

 


現代のチェンバーポップ/バロックポップの音楽がおしゃれでスタイリッシュな印象があるのは、60年代頃のフレンチ・ポップ、つまりイエイエからの影響が大きい。シルヴィ・バルタンやジェーン・バーキン、これらのシンガーはそのほとんどがモードファッションに身を包み、ファッションリーダーとしても活躍した。現在のアートポップやバロックポップの歌手がファッションに関して無頓着ではなく、新しい文化性を感じさせるのはパリ文化からの影響がある。

 

 

 

 

現在のバロックポップ、チェンバーポップ 無数に細分化する先に見えるもの

 

Melody's Echoes Chamber

もう一つ、現代的なサブジャンルとしてドリーム・ポップというジャンルがある。Cocteau Twins(コクトー・ツインズ)、Pale Saints(ペール・セインツ)などを中心とする4ADが得意とする音楽である。これらはよく知られているように、上記のバロックポップやチェンバーポップをニューウェイブやソフィスティポップというレンズを通して再度見つめ直したものである。

 

音楽的な特徴としては、甘いメロディーや、柔らかい感覚のボーカル、ソフィスティポップの系譜にあるうっとりとさせるような雰囲気がある。これらもMargo Guryanやイエイエの系譜にあるものを英国らしい音楽として昇華させたということができるかもしれない。さらに言えば、これらのジャンルの原点である建築様式のゴシックという要素でやや暗鬱な音楽で包み込んだ。

 

これらは現在のアートポップの原点となったにとどまらず、80年代のグラスゴーのギターポップ/ネオ・アコースティック、そして80年代のロンドンやマンチェスターのダンスミュージック/クラブミュージックと組み合わされて、90年代のシューゲイズやエレクトロポップ、それ以後の2000年代のオルタナティヴロックの流れを形づくることになった。(これは後に日本の渋谷系[shibuya-kei]というジャンルに直結している。詳しくはコーネリアスやカヒミカリィの音楽を参照)


現在のバロックポップやチェンバーポップというのは、以前よりもさらに細分化されつつあり、他のジャンルの音楽と同じく、他文化からの干渉をまぬがれない。音楽自体も懐古的なものから、現代の需要に応えるようなスタイリッシュなポップソングに変遷しつつある。最近の事例ではアークティック・モンキーズの『The Car』、あるいはピーター・ガブリエルの最新作『i/o』という例外はあるにせよ、このジャンルは、男性中心のロックバンド、及び、ソロシンガーから女性シンガーソングライターの手に移りつつあるようだ。


ウェールズのCate Le  Bon、フランスのMelody"s Echoes Chamber、アメリカのKate Bollingerが現代版のバロックポップ、チェンバーポップの筆頭格だ。


これらはオルタナティヴの系譜にあるドリームポップやシューゲイズ、クラブミュージックにも部分的に取り入れられる場合がある。また、これらの音楽は全般的にエクスペリメンタルメンタルポップ、つまり、実験的なポピュラー・ミュージックと称されることもある。


以降、チェンバーポップには、把握しきれないほど多種多様なスタイルが登場している。例えばサンフランシスコや西海岸のサイケデリックを吸収したり、ヒップホップのローファイサンプリング、ブレイクビーツからの影響を交え、より洗練された未来志向の音楽に変化しつつある。ラップトップの一般的な普及により台頭したベッドルームポップという新世代の録音の象徴的な音楽と融合し、Clairo(クレイロ)のような現代的な音楽に変わることもある。それとは対象的に、全般的なオルタナティヴロックという文脈に部分的に取り入れられる場合もある。


最近のレコーディングでは、ポピュラー音楽にオーケストラを導入することは日常的となりつつあり、さまざまな形が混在し、そしてまだ完成されていないジャンルでもある。


もしかすると、現在最も注目すべきジャンルの一つが、バロックポップ、チェンバーポップなのかもしれない。



 


 

1974年はニューヨークでニューウェイブが始まった年である。すでにマクシズ・カンサス・シティでは、ヴェルヴェット・アンダーグランドやリチャード・ヘル、トム・ヴァーラインが登場していたが、続いて、ローワー・マンハッタンのバワリーのライブハウス、CBGBからニューウェイブは発展していく。そこにはパティ・スミス、ブロンディ、テレビジョン、ラモーンズ、トーキング・ヘッズ等、のちのウェイブを牽引するグループのミュージシャンが数多く出演していた。

 

かつて、CBGBのライブハウスのオーナー、ヒリー・クリスタルは、このスペースに出演するバンドやソロアーティストのほとんどが、”自分たちをミュージシャンであると考えていない”ことを気に入っていた。そういった素人意識やプロフェッショナリティーとは対極にあるところから、ニューウェイブのムーブメントは出発している。最初に注目したのは、ニューヨークの『ヴィレッジ・ボイス』誌である。続いて、NMEやタイムズのようなメディアが、1975年にこの薄汚いライブハウスを訪れて、何か新しい波が沸き起こりつつあるのを肌で感じ取っていた。

 

1974年9月、もうひとつのニューヨークのミュージックシーンのメッカであるマクシズ・カンサス・シティでも新しいアンダーグラウンドの運動ーーニューウェイブーーが起ころうとしていた。すでに主流のメディアから支持を獲得していた最初のパンク詩人であるパティ・スミス、そしてトム・ヴァーライン、リチャード・ヘル、ビリー・フィッカ、リチャード・ロイドの四人組、テレヴィジョンがこのスペースに出演していた。フロアの一階はレストランバー、2階は客席150からなる比較的大きめな空間、そして3階はバンドの控室、つまり、楽屋になっていた。

 

狭い部屋にある鏡にむかい、リチャード・ヘルが頭にオレンジジュースをふりかけている。ビリー・フィッカーは口にスティックをくわえて廊下で逆立ち。パティ・スミスとヴァーラインは人目を憚らず、抱き合い、一分に一度はキスをしている。空調は効いていない。そして、むさ苦しく、法治の及ばない場所で、最初のパンク/ニューウェイブの動きが始まろうとしていた。

 

当時、マクシズ・カンサス・シティに出演することは、ロサンゼルスのトルバドールにレギュラー出演することと同意義で、ニューヨークのバンドとして認められることを意味していた。テレヴィジョンのトム・ミラーはその頃、アンリ・ミショー、ヴェルレーヌ、ランボーを愛読していた。このエピソードは彼らが登場したのは裏町だが、必ずしも、裏町の出身ではないことを明かし立てている。


パティ・スミスは、その頃、すでにニューヨークのストリート・パンクの女王として名を馳せていた。ただ、一方、それ以外のテレヴィジョンやラモーンズをはじめとするCBGBのレギュラー・メンバーの方は、メディアの評判は芳しくなかった。唯一、ロイドとコネクションがあった『ヴィレッジ・ボイス』誌のみが、明らかに先走ったキャッチ・コピー「この四人組----、泣かせてくれるぜ」を広告として掲載したに過ぎなかった。デボラ・ハリーを擁するブロンディに至っては、「ギタリストに誰かマイクに向けて歌えとおしえてやれ」と言われるような始末だった。

 

しかし、その中で、唯一、一発で覚えられるシンプルなバンド名を冠するテレヴィジョンにレコーディングの噂が持ち上がっていた。現在のように、録音が気楽に行える時代ではなくて、レコード会社とのライセンス契約、そしてレコード幹部やプロデューサーに気に入られなければレコーディングをすることは一般的ではなかった時代である。そしてテレビジョンというシンプルなバンド名が一般的な興味をそそる要因となったことは想像に難くない。彼らはジョークを効かせ、トム・ヴァーラインの頭文字を取り「TV」を名乗りはじめた。「アメリカのどの家庭にもあるものだ。でしゃばりな機械だけど、ときにとても謙虚でもある」すでにヴィレッジ・ボイスとコネクションを持っていたロイドはバンド名の由来についてこう振り返っている。

 

ヴァーラインは、パティ・スミスのバックミュージシャンとして知られていた。しかし、両者の関係は音楽的なものにとどまらず、より深い関係に及んでいた。パティ・スミスは、ブルー・オイスター・カルトのアラン・ レイニヤーとの二年間の恋愛を終えた後、青い目のやや痩せぎすの青年を恋人に選ぶ。「鶴のような長い首の官能的なロックンローラー」というパティ・スミスののろけた表現は、ミラーがスミスにとって自らの分身のような存在であったことを明かし立てている。


実は、ミラー青年は、当初、パティ・スミスのレコーディングで演奏し、シングル「ピス・ファクトリー / ヘイ・ジョー」にギターで参加している。(このシングルは、1974年に自費出版でリリースされ、1000枚の限定のプレスだった。)


すなわち、ヴァーラインは、スタジオ・ミュージシャンのようなカタチで、ニューヨークの音楽シーンで知られる存在であった。天才パンク詩人と気鋭のギタリストというカップルの組み合わせは、ニューヨークのロックシーンの新星、言い換えれば、名物のような存在として知られることに。また、後にアリスタ・レコードから発売される『Horses』にもトム・ヴァーラインはギターで参加している。そればかりか、トムはこのレコードで作曲も行っている。いわば、パティ・スミスの音楽的な成果の一部は、とりも直さず、ヴァーラインの貢献が含まれている。

 

ゴシップ誌のような宣伝文句と思われた『ヴィレッジ・ボイス』誌のテレヴィジョンの提灯記事が、その翌年にほぼ現実のものになると誰が想像したのか?  1975年にかけてCBGBは、音楽フェスティバルのようなカタチで長期的なイベントを開催して注目を集め、複数のメディアがCBGBでテレヴィジョンのプレイを目撃することになった。最初に目をつけたのがNME(ニュー・ミュージック・エクスプレス)で、その次が1980年代のイギリスの音楽シーンに重要な影響を及ぼした『Melody Maker(メロディー・メイカー)』誌だった。その後に続いて、『Times』のような大規模のメディアがCBGBの現地取材に訪れ、最初のパンクシーンを目撃している。


そういったメディア業界の動きは、最終的に大手レコード会社を関心を与える契機をもたらし、ウェイブの筆頭格であったテレヴィジョンに注目が集まるようになる。アトランティック、アリスタ、ワーナー、アイランドといった現在でも影響力を持つ大手レーベルの一群が、トム・ヴァーラインのギター、そしてテレヴィジョンの音楽に注目し始めたのである。上記のレーベルの勧めで、テレヴィジョンは何度もテスト・レコーディングを行ったが、それから最初のリリースが決定したのは、およそ二年後のこと。それは、レコード会社が要因だったのではなく、テレヴィジョンが自らの特殊性やスペシャリティーを活かそうとしたからであった。つまり、どのレーベルであれば、自分たちの音楽性を尊重してくれるかを判断していたのだろう。

 

その二年の間に、同じくCBGBのライブハウスのオーナー、ヒリー・クリスタルが最も気に入っていたラモーンズがニューヨークアンダーグランドのバンドとして最初にSireからのリリースにこぎ着けた。その傍ら、テレヴィジョンは、辛抱強くテスト・レコーディングを重ねながら、あるレーベルとの契約を目論んでいた。それがElektra(エレクトラ) であり、当時、レーベルはドアーズのレコードをリリースしていた。最終的には、レーベル側との話し合いは上首尾であった。1976年6月、テレヴィジョンはエレクトラとの契約がすでに内定したことを明かしている。

 

 

デビューアルバム『Marquee Moon』の制作のプロデュースには複数の候補が挙がっていたという。ジョン・ケイル、ジャック・ダグラス(ニューヨーク・ドールズ、チープ・トリック、エアロスミス)という意外な名前も挙がっていた。 しかし、エレクトラは、最終的には、イギリスの敏腕エンジニアであるアンディ・ジョーンズを抜擢している。アンディ・ジョーンズは、ローリング・ストーンズ、レッド・ツェッペリン、ジャック・ブルース等のプロデュースを世に送り出した伝説的なロックのプロデューサーだ。そして、実際のレコーディングでは硬質でエッジの効いたギターサウンドが強調されている。このデビューアルバムから、「See No Evil」、タイトル曲、「Venus」といったテレヴィジョンの代表曲が誕生したことは周知の通りである。

 

かつて、Kraftwerkの共同製作者のエミール・シュルトは、「Autobahn」にそれ以後の世代の電子音楽やヒップホップのすべてが集約されていると語っていた。もちろん、Televisionの『Marquee Moon』も同程度の影響力を誇る。四人組のデビュー作には、以後、数十年のパンク、ニューウェイブ、ポスト・パンクというジャンルが凝縮され、いまだ鮮烈な輝きを放ってやまない。

 

 

 


 

・1970年の時代背景

 

ジョージ・クリントン擁するパーラメント/ファンカデリック、ジェイムス・ブラウン、さらにはスライ&ザ・ファミリー・ストーンといったグループは、ファンクとソウルを結びつけた象徴的なグループで、ブラック・ミュージックを語る上で軽視することができない。そしてこれらのグループは、アメリカの音楽の歴史において、かなりデリケートな時代を生き抜いている。

 

黒人と白人が共に同じ目的に向かい、歩んでいくという理想が幻想に終わり、そしてストーンズとビートルズがフラワー・ムーブメントへ歩みを進める中、黒人のグループはより独自の音楽的な過程を歩まざるを得なかった。

 

それは1950年代から60年代にかけて公民権運動が始まり、より人種間の主張の差が著しくなった時代でもあった。マーティン・ルーサー・キングの活動によって公民権運動は勝利を収め、社会としては公平性が担保されたと言えるが、それは表向きの話であり、レイシズムがなくなったわけではなかった。そのことによって、両者の間に深い溝を作ったと言える。政治的な公平性は、社会構造に歪みをもたらし、ときに社会における不公正やバランスの歪みを作り出す。

 

スライ&ザ・ファミリー・ストーンの音楽が重要な意味を持つのは、人種的な混合のグループであるにとどまらず、人種間の軋轢をリアルに体現させ、時には社会概念から開放させる力があるからだ。米国南部では、古くから激しい人種差別があり、その暗い靄を拭うために、公民権法が議会で承認され、次いで法案が通過したことは、米国南部で大きな意味があった。北部では、それ以前から黒人と白人が日頃の暮らしにおいて接触を図る機会は圧倒的に増加していた。


それでも、依然として、経済的な格差は著しく、毎年夏になると、黒人暴動が起きていた事実を鑑みると、公民権法は紙切れの公約に過ぎず、平等性が幻想の範疇にとどまっていたことを象徴していた。時代背景として、1960年代といえば、不均衡に関してバランスを取ろうという動きが世界各地で沸き起こった。


例えば、ベトナム戦争では、米国とソビエトの代理戦争が起き、それに関する反戦運動は学生運動に結びついて、68年から翌年にかけて大規模な学生運動に繋がった。日本でもこれらの動向は無関係ではない。これは現時点のガザに関連する米国での学生運動にも通じる何かがある。これは潜在的な”民衆の蜂起”と見るのが妥当で、単なる学生の思いつきと見て、武力で制圧するようなことがあると、政府や国家はその見立ての不確かさを露呈することになるだろう。

 

以降、音楽の世界でも同じような動向が沸き起こり、白人と黒人が同じステージに立つことも日常的となった。1967年のモントレー国際ポップフェスティバルでは、オーティス・レディングが白人のロックミュージシャンと同じ舞台に立った。そして、そこでは白人と黒人との音楽における共闘が演じられた。1969年のウッドストック(ニューヨークのキャッツキルバレーで開催され、40万もの観客が詰めかけた)では、スライ&ザ・ファミリー・ストーンがステージに上がった。ただし、これらは例えば、白人のフラワー・ムーブメントという概念の中に絡め取られていた。

 

スライに関しては、早くから白人と関わりを持ってきたため、人種間における軋轢のようなものをより身近に感じ取っていただろうと思われる。スライの音楽は、人種混合のバンドとしての深いテイストがあり、ボーカルやコーラスに関しては、ジャクソン5の影響下に置かれたグルーヴィーなものがあったが、ビートやリズムに関しては、白人音楽の影響を感じさせるものだった。サンフランシスコ出身のスライは、同地のサイケデリックムーブメント等と連動し、いわばロサンゼルスとは異なる''もうひとつのウェストコースト・サウンド''を確立させようとしていた。

 

黒人としてのアイデンティティを切実に感じていたスライ&ザ・ファミリー・ストーンが必要としたのは、ブラウンの次世代を行くファンクビートだった。とくに、1969年の「Stand!」にそのことが表れている。この曲にはオーティス・レディングの系譜にある南東部のソウルからの影響は泥臭い感じのフレーズに乗り移り、それとは対象的なハリのあるファンク・サウンドーージェイムス・ブラウンの次のニュー・ファンクーーが付け加えられ、軽快なグルーブが出現する。


ジェイムス・ブラウンのファンクには表向きには思想性はほとんどないが、スライのファンクには、何らかの意図や狙いのようなものが浸透している。これらは、他の以降の年代のブラック・ミュージックのグループやミュージシャンが試みたように、離れた2つの地域ーー西海岸と東海岸の音楽を繋げるような役割を担っていた。


いわばスライは潜在的なレイシズムの内在を捉えながらも、対立項を作り出すのではなく、融和や和合のようなものを描いた。だから、この曲は、友好的な雰囲気に満ち溢れ、ハートウォーミングな味わいがある。言わばスライは、かなり進んだ存在で、憎しみが愛情に勝ることはないと知っていた。加えて、彼らの音楽は特別視や神聖さとは別の民衆と同じスタンスを取っている。 

 

 

 

 

 

 

 

・スライ&ザ・ファミリー・ストーンの音楽の醍醐味


There's A Riot Goin' On 1971
スライの音楽の特徴は、ソウルミュージックの識者によると、とりも直さずファンクに求められるという。68年には、「My Lady」において、ジェイムス・ブラウン風のファンクビートが刻まれているが、より重要視すべきなのは、「Sing A Simple Song」の方だという見方がある。そして、「Stand!」での試作を経て、ようやく「Thank You」において最終的な形となった。

 

ジェイムス・ブラウンのファンクは音楽家としての専門性を土台として構築されたが、スライのファンクはそのハードルを少し下げ、誰にでも演奏出来るような軽やかさに変化したのだ。この後、ファンクビートはより一般的となり、誰にでも真似出来るものとなった。つまり、スライが、1960年代や70年代の音楽業界にもたらしたのは、リズムにおける革新性だった。


その影響は分岐し、ファンクビートを古典的なブラックミュージックに取り込もうというグループ、それから、「Stand!」の中で発現した黒人としてのアイデンティティを突き詰めようとするグループに分岐していった。つまり、後者のグループに属するミュージシャンたちが「ニューソウル」という運動を巻き起こしたというのが一般的な見方である。これは、さらに後の時代になると先鋭的になり、スライの1971年の代表作『There's A Riot Goin' On (暴動)』において完成される。このアルバムではスライのしなるようなファンクギターを楽しむことが出来る。 

 

 

 

 

 

スライが「Stand!」において人種的なアイデンティティを示唆しようとした以前にも、同じような試みを行ったグループがいた。特にアメリカの南部において、これらの動きが顕著であって、その中にはEddie Floydの「Raise Your Hand」が挙げられる。彼は曲の中で、拳をあげようというラディカルなメッセージ性を添えていた。68年には、James Carrが「Freedom Train」という曲の中で、「自由の列車はもうすぐやってくる!」と歌っている。


ただ、後者のニュアンスに関しては、Sam Cooke「サム・クック)の系譜にあり、彼の代表曲でブラックミュージックの至高の名曲でもある「Change Gonna Come」のように未来に対する純粋な希望が歌われている。 シンプルだが心を揺さぶられるメッセージは、この年代のニューソウル運動の前後の時代の醍醐味だ。取り分け、南部のシンガーは、マーティン・ルーサー・キングに親愛の情を抱いていたという。ブラックミュージックの先駆的な存在、サム・クックは、1964年のコパでのライブステージにおいて、「If I Had A Hammer」を歌い、自由の喜びを端的に伝えた。制限的な権利から開放的な権利を有する時代への変遷を上記のエピソードは反映している。



・社会との関わりを持つ音楽 --ニューソウル--


ただ、それらの靄は完全には払われたわけではない。1968年に、キング牧師が暗殺されたことは、彼を信奉していた南部の歌手に深い衝撃を及ぼしたにとどまらず、根深い人種問題をもたらす。現在も、多くのブラックミュージックの系譜にある歌手が、何らかの罪や背後に残してきた暗さを暗示的に歌う理由は、この時代が出発なのではないか。サザン・ソウルの代表的な歌手、Wilson Pickettは「People Make The World」において、キング牧師に哀悼の意を表しているし、ナッシュビルのFreddie Northもまた「I Have A Dream」の有名な演説の一説を引用したりしている。


この時代の音楽は、政治的ないしは社会的な側面とは無縁ではなく、いつもどこかで繋がっている。彼らは仮想的でバーチャルな空間に逃げないで、真っ向から現実を見つめる厳格な感覚を持ち合わせていた。だから、それが限定的であるにしても、音楽が何らかの意味を持っていた、あるいは、社会に対して何らかの働きかけをするということがありえたというように考えられる。つまり、80年代に入り、ブラック・ミュージックそのものが商業主義に絡めとられるまでは、多くのグループにとって、音楽は権利のための重要なファクターの役割を担っていた。


スライ&ザ・ファミリー・ストーンや同時代のコーラス・グループ/ドゥワップの代表格であるTemptationsのメッセージは、歌詞だけに求められるわけではないようで、そこにブラック・ミュージックとしての面白さがあるのだという。彼らはリリックだけで、拳を挙げよと伝えるのではなしに、ファンクビートをより先鋭的にさせ、それらの音楽からメッセージを伝えた。

 

つまり、音楽そのものが何らかのメッセージであるということを、彼らはよく知っていた。これは音楽に乗せられる言葉だけがメッセージであると考える人々にとっては、かなり意外なことに思えるかも知れないが、音楽そのものからなんらかの思想や考え、ひいては重要なメッセージを読みとるということはありえる。そういったことを象徴するのが、ジェイムス・ブラウン、ファンカデリック/パーラメント、スライといった一派なのであり、彼らは社会的に報われぬ人々の魂を鼓舞する音楽を率先して作り上げた。そういった音楽の一側面が、人種的な平等性ーー社会的な問題と個人的な問題の均衡ーーの合間で矛盾を抱えていた人々に希望を与えたのだ。

 

1960年代後半から1970年初頭は、社会的にも大きな変化があった時代だった。いわば、「ニュー・ソウル」という名称は、時代の変化の前触れを予兆していた。「新しいソウル」という標語は、音楽的な側面を示唆するにとどまらず、社会的な側面を強かに反映させていたのだった。


同じ年代には、「Black Power」と呼ばれる運動が湧き起こり、「Black Is Beautiful」というキャッチフレーズが新聞や雑誌に相次いで登場した。マイアミのDJ、Nikie Leeは、このキャッチフレーズをタイトルにしたシングルをリリースし、話題を呼んだ。Edwin Howkins Singersの「O Happy Day」がチャートで一位を獲得したのは、ゴスペルからのこのムーブメントへの回答でもあった。その他、Syl JohnsonはJBに触発を受け、「Is It Because I'm Black」という曲を制作し、ブラックとしてのアイデンティティを定義づけた。社会的な混乱の時代、こういったシンガーやグループは時代の変化を賢しく読んで、リスナーの人気を獲得することに成功したのだった。

NEU! デュッセルドルフのクラウドロックの先駆者 音楽のイノベーションの変遷

 


 

1971年に旧西ドイツに登場した"NEU!"は、以降のデュッセルドルフの電子音楽のシーンの先駆者で、音楽に革新性をもたらしたグループである。クラウス・ディンガーとミヒャエル・ローターによって立ち上げられたこの実験音楽グループは、湯浅譲二と武満徹が制作したテープ音楽に近い趣旨がある。マシンビートを元にしたサウンドは、アンビエントからノイズ、ポスト・パンクに至るまで、その後の数十年の音楽を予見していたと言えるかもしれない。

 

 1970年代、CANやKraftwerkと並んで登場したNEU!の周りには厳然としたシーンと呼ばれるものがあった。産業革命の後の時代、彼らは工業都市の環境音を反映させた音楽を構築した。カン、クラフトヴェルク、そしてノイ!によるデュッセルドルフを中心とした音楽運動は、「Kosmische Music」という名で親しまれていた。日本語で訳すと、”宇宙の音楽”である。実はそのルーツは60年代後半にあり、伝統音楽の規則に対する反抗の意味が込められていた。現代音楽の規則に制約されることを嫌った音楽家たちは、あえてそれらのルールを破ることにしたのだ。

 

上記の3つの主要なグループに共通するのは、多数のジャンルをクロスオーバーしていることである。アヴァンギャルド、エレクトロニックはいうに及ばず、実験的なロック、フリージャズ、そしてイギリスで盛んだったプログレッシブ・ロックを吸収し、それらを独自のサウンドとして構築していく。そんななかに登場したNEU!とはどのようなグループだったのか。

 

当時のことについて、クラウスとローターは次のように回想する。「わたしたちは同じようなヴィジョンを持っていた。初期のバンドは1971年後半に結成され、音楽ジャンルの異なる折衷案を融合させたのです」

 

クラフトワークとの意見の相違、音楽的な感性に関する欲求不満の後、バンドは新鮮な気風を感じていた。それは二人のミュージシャンを活性化せることは明確だった。彼らが完全に同意しなかったのはドイツ語で新しいを意味する「ノイ!」だけ。マイケルはバンドに自然な名前をつけることを望んでいたが、一方のクラウスはこの英語ではない新鮮な音の響きに感激していた。

 

結局のところ、彼らは実験音楽活動の一部としてこのプロジェクトを立ち上げたのだから、この「NEU!」という名前は理に叶っていた。

 

 

NEU!のロゴの誕生

 




 ノイ!の誕生に合わせて、バンドのイメージが必要になった。そこで、テキスタイル風のポップなロゴが作りだされ、著作権の特許を得た。


このロゴにはどうやら意味があるらしく、''現代の消費文化に対する抗議''を意味しているという。使い捨てられるものに対する反抗、音楽は消費されるものではないというロゴの考えは、ある意味では工業化や商業化されつつあるデュッセルドルフの70年代にしか登場しえなかった。


ノイ!は社会的な意見と芸術に関する考えを組み合わせることを躊躇しなかった。それでも、クラフトワークのようにノイ!は当時、裕福な経済力を有していたわけではなかったことは着目すべきか。この中で音楽の再利用を意味するサンプリングという考えも出てくるようになった。

 

 

デビューアルバム『NEU!』の制作

 




 

 

 

ミヒャエルは「わたしたちは貧しいミュージシャンだった」とデビュー当時のことを回想する。1971年、デビュー・アルバムを録音するときも、彼らの念頭にあったのは制作費だった。

 

彼らは12月にウィンドローズ・デュモン・タイム・スタジオを四日間予約した。つまりこれ以上の使用代を支払えなかったのだ。当のスタジオを選んだのも安かったからという単純明快な理由。「それは実用的な髭剃りのようなもの。私はそれについて考えると、無謀で震える気がする。しかし、コニー・ブランクの助けを借り、どうにかわたしたちはメッセージを伝えられた」


驚くべきは、4日間という限られた時間で、ノイ!は六曲をレコーディングした。そして音源を8トラックのレコーダーに落とし込む。マイケルはギターとベース、そしてクラウスはドラムと琴を演奏した。

 

「最初は録音の速度が遅かったけれども、その後、前進するポジティヴなエネルギーを見出した。曲は必要な箇所だけむき出しになるまで削ぎ落とされた。あの時、8トラックのレコーダーしかわたしたちは所有していなかったんだ。6曲のうちの5曲、デビュー・アルバムのために録音されたのは長いトラックが中心となった、その中にはHellogalloとNegativelandが含まれていた」

 

「アルバムが録音され、ミックス作業が終わると、 コニー・ブランクは私にきかせるためのテープをくれた。私はそれを誇りに思い、ガールフレンド、家族、友人の前で聞かせてみました。アルバムの効力は見当もつかなかった。私はアルバムを録音できたことが本当に嬉しかった」

  

デビュー・アルバム『NEU!』は1972年のはじめにリリースが予定されていた。発売当初の評論家の意見は二分されていた。一部の先見の明のある批評家は、画期的なアルバムであるとし、ジャンルという概念を超越するものであると評していた。 少なくとも、このアルバムには、アンビエント、エレクトロニカ、エクスペリメンタル、フリージャズ、インダストリアル、ミュージック・コンクレート、ロックの要素が織り交ぜられていることは事実である。当初、ノイ!の音楽はロンドンで評価され、メロディーメイカー誌の評論家がこの音楽を「クラウト・ロック」と命名した。デビュー作『ノイ!』はドイツでは三万枚の売上を記録する。実験音楽としては驚異的な数字である。しかし、ドイツ以外では商業的な成功には見舞われなかった。


ついでクラウスとミヒャエルはドイツ国内でしか評判を呼ばなかったにもかかわらず、2ndアルバムの制作に着手する。 

 

「Hallogallo」

 

 

セカンドアルバム『Neu! 2』

 



 

 


翌年、 二人はデビューアルバムのプロデューサー、コニー・ブランクと連れ立ってスタジオ入りした。


「わたしたちはレコード・レーベルと契約していなかったからクラウスとコニーと私は制作費を節約しようとした。スタジオにいったとき、10日間録音するための経費を支払った」とミヒャエル。

 

「二度目の録音は作業するときに16トラックのレコーダーがあったので、複数の楽器を多重録音することが可能になった。私はギターを弾いて、それが逆再生され、テンポが意図的に早められ、最終的にエフェクトが追加された。それらの音楽的なプロセスはノイ!の実験性を新しいレベルへと引き上げ、音楽の境界を限界まで押し上げ、すべてを越えたように思えた。すべてが上手く行ったように思えたものの、問題が発生した」

 

「それまでにわたしたちは音のレイヤーを追加し、試行錯誤するのにおよそ1週間を必要とした。私は5つのギターを積み重ね、歪みのような効果を与えようとした。しかし、この作業に一週間かかりましたが、結局、アルバムの収録曲の半分しか録音されておらず、これでは終わらないと思ったので、かなりの混乱に陥っていた。それからわたしたちは解決策を用意しようとした」



さらにセカンド・アルバムについて、ミヒャエルは補足している。「つまり、絶望の結果なんです。わたしたちは色々なことを試した。ターンテーブルでシングルを演奏し、クラウスは演奏中にそれを蹴り上げた。その後、わたしたちは、カセットプレイヤーで曲を演奏し、音を遅くしたりスピードアップしたりというように試行錯誤を重ね、そのプロセスの中でマスタリングを行った。デビューアルバムと同じように、『NEU! 2』はスタジオの使用期間の制限に合わせて制作が完了した。おわかりの通り、それはデビューアルバムとはまったく異なるものだった」

 

 

『NEU!2』は当初、1973年に発売予定だった。アルバムのリリース後の批評家の反応はデビューアルバムよりも好意的だった。彼らのトレードマークのサウンドを洗練させたという評価。批評家は、 特に11分に及ぶ電子音楽の叙事詩と評価する声もあった。しかし、同時に物議を醸すアルバムでもあった。全般的にはそれほど評価が高かったとも言いがたい。批評家たちはNEU!のサウンドをギミックと見なし、レコード・バイヤーを騙しすかそうとしていると指摘した。しかし、ノイ!がこのセカンド・アルバムで試みたのは既存のサウンドの解体だった。

 

「わたしたちは既成の音楽を相手取り、それらを一度ばらばらにすることだった。その後、解体したものを再構築していった。一般的な評論家は、このことを理解できなかったか、理解したくなかった」と、ミュージック・コンクレートの技法を重視していたとノイ!は回想しているのである。

 

しかし、革新的な制作法は一般受けせず、このセカンド・アルバムはイギリスどころか、ドイツ国内でも商業的な成功を収められなかった。現在のサンプリングやコラージュのような手法はあまりにも前衛的すぎるため、一般のリスナーには受け入れられなかったというのが実情である。

  

クラウス・ディンガーと彼の兄弟のトーマスはノイの音楽を宣伝できないかと、画策を始める。イギリスに向かい、DJのジョン・ピールとザ・フーのタウンゼントの妻、カレン・タウンゼントに出会った。ピールはノイ!の音楽をオンエアしたものの、やはり一般的な反応は薄かった。 

 

 

「Casetto」

 

クラウスとミヒャエルは、ノイ!が終わったわけではなく、他の興味やプロジェクトを追求するため、しばらく時間を取りたかったと明言した。クラウスの新しいプロジェクトは『ラ・デュッセルドルフ』だった。一方、ミヒャエルはフォルスト・コミューンへの旅に出ることにした。

 

 

 そこで彼は、クラスターのディーター・メビウスとハンス・ヨアヒム・ローデリウスに出会うことになる。ミヒャエルは、クラスターの2枚目のアルバム『Cluster II』に収録されている「Im Süden」を聴いていた。ディーター・メービウスとハンス・ヨアヒム・ローデリウスがノイ!の拡張ラインナップに加わることに興味を持つのか? それからミヒャエルは、ノイ!とクラスターからなるスーパーグループを検討しはじめた。フォルスト・コミューンで、ミヒャエルはディーター・メビウスとハンス・ヨアヒム・ローデリウスとジャムった。最初のジャムは、後にハルモニアの1974年のデビュー・アルバム『Musik von Harmonia』の収録曲『Ohrwurm』となった。最初のジャム・セッションの後、ミヒャエルはフォルスト・コミューンに滞在し、ハルモニアのデビュー・アルバム『ムジーク・フォン・ハルモニア』のレコーディングに備えた。


一方、クラウスとトーマス・ディンガーはロンドンから戻っていた。彼らは贈り物を携えてやってきたのだ。

 

賜物のひとつは、1972年の大半をコニーのエンジニアだったスタジオエンジニアのハンス・ランペ。もうひとりは、クラウスの弟トーマス。クラウスの提案で、彼らはノイ!のラインナップに加わることになり、その準備のため、ラ・デュッセルドルフとして一連のコンサートを行う。


しかし、ミヒャエルはハルモニアの活動で忙しかった。デビューアルバムのレコーディングだけでなく、レコーディング・スタジオを建設し、ミヒャエルは''ノイ!''の将来のプロジェクトに取り組み、後にソロアルバムのレコーディングも行う予定だった。しかし、それはまだ先のこと。その前に、ハルモニアはデビューアルバム『ムジーク・フォン・ハルモニア』の録音を開始した。

 

 

 

Neu! 75



他のプロジェクトの活動も行う中、ノイ!は三作目のアルバム「Neu!'75」の制作に取り掛かる。ミヒャエル・ローターとクラウス・ディンガーは1974年12月にコニー・プランクのスタジオで再結成した。その頃、コニー・スタジオはドイツのグループのためのレコーディング・スタジオだった。彼らは望んでいた。''天才 "が自分たちのアルバムに魔法をかけてくれることを。


ノイ!の2人のメンバーは変わっていた。クラウスはロックに傾倒し、ミヒャエルはアンビエント・ミュージックへの関心を高めていた。 ミヒャエルが説明するように、「2年も離れていると、僕らは別人になっていた。問題を複雑にしたのは、クラウスがドラムキットの後ろから離れたがっていたこと。彼は自分が隠れていると感じていた。それはわかる。でも、それはクラウスがとても上手くやっていた。しかし、彼はギターを弾きながら歌うエンターテイナーになりたかったんだ。彼は自分の代わりに2人の新しいミュージシャンを迎え入れようとした。その中には、クラウスの弟トーマス、コニー・プランクの元エンジニア、ハンス・ランペも含まれていた」


ミヒャエルはこれが問題だと気づいた。「その頃には、クラウスは一緒に仕事をするのが難しくなっていた。そこで妥協して、2つの全く異なる面を持つアルバムを作ることにしたんだ」 サイド1は、古いノイ! のスタイルを展開させ、サイド2では、クラウスはギターを弾きながら歌った。

 

アルバムは1975年1月に完成し、同年末に発売された。ノイ!は、この三作目でアンビエント風の作風を確立させる。もちろん、その中には「Hero」のような後のパンクのヒントとなる作風もあった。

 

 

「Leb' whol」

 

John Adams


ジョン・クーリッジ・アダムス(John Coolidge Adams)は1947年生まれの米国の現代音楽家。1971年にハーバード大学でレオン・キルヒナーに学んだ後、カルフォルニアに移り、サンフランシスコ音楽院で教鞭と指揮者として活躍、以後、サンフランシスコ交響楽団の現代音楽部門の音楽顧問に就任する。1979年から1985年まで楽団の常勤作曲家に選出される。

 

その間、アダムスは『Harmonium(ハーモニウム)』、『Harmonielehre(和声学)』を始めとする代表的なスコアを残し、作曲家として有名になる。以後、ニュー・アルビオン、ECMといったレーベルに録音を提供し、ノンサッチ・レコードと契約する。1999年には『John Adams Ear Box』を発売した。


ジョン・アダムスの作風はミリマリストに位置づけられる。当初は、グラスやライヒ、ライリーの系譜に属すると見なされていたが、コンポジションの構成の中にオリヴィエ・メシアンやラヴェルに象徴される色彩的な和声法を取り入れることで知られる。


その作風は、新ロマン主義に属するという見方もあり、また、ミニマルの未来派であるポストミニマルに属するという解釈もある。彼の作風では調性が重視されることが多く、ジャズからの影響も指摘されている。

 

管弦楽『Fearful Symmetries」ではストラヴィンスキー、オネゲル、ビックバンドのスウィングの技法が取り入れられている。また、ライヒのようなコラージュの手法が採られることもある。

 

チャールズ・アイヴズに捧げられた『My Father Knew Charles Ives』でもコラージュの手法を選んでいる。1985年の歌劇『Nixon In China(中国のニクソン)』の晩餐会の場面を管弦楽にアレンジした『The Chairman Dances(ザ・チェアマン・ダンス)」は管弦楽の中では再演される機会が多い。

 

ジョン・アダムスの作曲家としての主な功績としては、2002年のアメリカ同時多発テロを題材に選んだ『On The Transmission of Souls』が名高い。この作品でアダムスはピリッツァー賞を受賞した。ロリン・マゼール指揮による初演は2005年度のグラミー賞の3部門を獲得した。



Phrygian Gates / China Gates  (1977)

 


 

ジョン・アダムスのピアノ・スコアの中で特異なイデアが取り入れられている作品がある。『Phyrygian Gate and China Gates』であり、二台のためのピアノ協奏曲で、マック・マクレイの委託作品で、サラ・ケイヒルのために書かれた。

 

この曲は1977年3月17日に、サンフランシスコのヘルマン・ホールで、ピアニスト、マック・マクレイにより初演された。和声法的にはラヴェル、メシアンの近代フランス和声の系譜に属している。

 

この2曲には画期的な作曲概念が取り入れられている。「Gates- 門」は、なんの予告もなしにモードが切り替わることを意味している。つまり、現実の中に別次元への門が開かれ、それがミルフィール構造のように移り変わっていく。


コンポジションの中に反復構造の意図が込められているのは事実だが、音階構造の移行がゼクエンツ進行の形を介して段階的に変化していく点に、この組曲の一番の面白さが求められる。つまり、ライリー、ライヒの作品とは少し異なり、ドイツのハンス・オッテ(Hans Otte)のポスト・ミニマルの系譜にあるコンポジションと言える。さて、ジョン・アダムスは、このピアノの組曲に関してどのように考えているのだろうか。


 



 

「Phrygian Gates(フリギアの門)」とその小さなコンパニオン作品である「China Gates(中国の門)」は作曲家としての私のキャリアの中で重要な時期の産物でした。

 

この作品は、1977−78年に新しい言語での最初の一貫した生命として登場したという事実のおかげで、私の「Opus One」となる可能性を秘めている。1970年代のいくつかの作品、アメリカンスタンダード、グラウンディング、いくつかのテープによる作曲は振り返ってみると独創的であるように見えますが、まだ自分自身の考えをまとめる手段を探している最中でした。


「Phrygian Gates」 はミニマリストの手段の強い影響を示していて、それは確かに反復的な構造の基づいています。しかし、アメリカのミニマリストにとどまらず、ハワード・スケンプトン、クリストファー・ホッブズ、ジョン・ホワイトのようにあまり知られていない英語圏の実践者は、この作品を制作する上で私の念頭に置かれていた。


1970年代はそもそも、ポスト・シェーンベルクの美学の過程がセリエリズムの原則にそれほど希望を見出さない作曲家によって新しい挑戦が始まった時代でした。これはまた、言い換えれば、新しい音楽における巨大なイデオロギーとの対立の時代だったのです。私はその頃、ジョン・ケージの方法に同様に暗い未来を見出していたが、それは合理主義と形式主義の原則に立脚しすぎているように私には思えたのです。


例えば、『易経』を参考にして作曲法を決定することは、『トーン・ロー』を参照して作曲することとそれほど違いがあるとは思えなかった。ミニマリズムというのは、確かに縮小された、ときには素朴なスタイルなのですが、私にこの束縛から抜け出す道を与えてくれたのです。調性、脈動、大きな建築構造の組み合わせは、当時の私にとって非常に有望であるように思えたのです。 

 

 

 「Phrygian Gates」

 


『Phrygian Gates』は、私がミニマリズムのこうした可能性にどのようにアプローチしたかを明確な形で示している。

 

また、逆説的ではあるが、私が当初からこのスタイルに内在する単純さを複雑化し、豊かにする方法を模索していたという事実も明らかにしている。よく言われる、”ミニマリズムに飽きたミニマリスト”という言葉は、別の作家が言ったものだが、あながち的外れではないでしょう。


『Phrygian Gates』は、調のサイクルの半分を22分かけて巡るもので、「平均律クラヴィーア曲集」のように段階的に転調するのではなく、5度の輪で転調していく。


リディアンモードとフリジアンモード(注: 2つとも教会旋法の方式)の矩形波が変調する構造になっている。曲が進むにつれて、リディアンに費やされる時間は徐々に短くなり、フリギアに費やされる時間は長くなる。

 

そのため、一番最初のAのリディアンの部分は曲の中で最も長く、その後、Aのフリジアンの非常に短いパッセージが続く。次のペア(Eのリディアンとフリジアン)では、リディアンの部分が少し短くなり、フリジアンの部分がそれに比例して長くなる。そして、コーダが続き、モードが次々と急速に混ざり合う。「ゲート」とは、エレクトロニクスから借用した用語で、モードが突然、何の前触れもなく変化する瞬間である。この音楽には「モード」はあるが、「変調」はない。


私にとって『Phrygian Gates』がいまだに興味深い理由を挙げるとするなら、その形状の地形と、波紋を思わせる鍵盤のアイデアの多様さである。

 

波が滑らかで静かなときもあれば、波が押し寄せてフィギュレーションが刺さるような場合もある。ほとんどの場合、それぞれの手を波のように動かし、もう一方の手と連続的に調和するパターンとフィギュレーションを生み出すように扱う。これらの波は、常に短い「ピング音」によって明瞭に表現され、小さな道しるべとなり、内部の小さな単位をおよそ「3-3-2-4」の比率で示す。


『Phrygian Gates』は一種の巨大構造であり、相当な肉体的持久力と、長い音のアーチを持続する能力を持ったピアニストが必要とされます。一方、『China Gates』は若いピアニストのために書かれたものです。演奏者のヴィルトゥオーゾ的な技術的効果に頼ることなく、同じ原理を利用している。

 

この曲もまた、2つのモーダルな(様式的な)世界の間を揺れ動くが、それは極めて繊細に行われている。この曲は、暗さ、明るさ、そしてその間に内在する影の細部に真摯に注意を払うことを求めるような曲であると私には感じられる。-John  Adams


「China Gates」