1951年に、「Baby Let Me Hold Your Hand」が最初のヒット作となった。このシングルは翌年にメジャーレーベルのアトランティック・レコードが2500ドルで彼の契約を買収したことで、アーティストにとっては自信をつけるためのまたとない機会となった。ニューヨーク、ニューオーリンズで行われたアトランティックが企画した最初のセッションでは、「It Should Have Been Me」、「Don’t You Know」、「Black Jack」等、感情的なナンバーを披露した。 これらの曲にはアーティストの最初期の文学性の特徴である、皮肉と自己嫌悪が内在していた。
レイ・チャールズの音楽性に革新性がもたらされ、彼の音楽が一般的に認められたのは、1954年のことだ。アトランタのWGSTというラジオ局のスタジオで「I Get A Woman」というマディー・ウォーターズのような曲名のトラックのレコーディングを、ある午後の時間に行った。これが、その後のソウルの世界を一変させた。「たまげたよ」レコーディングに居合わせたウィクスラーは、感嘆を隠そうともしなかった。「正直なところさ、あいつが卵から孵ったような気がしたな。なんかめちゃくちゃすごいことが起ころうとしているのがわかったんだよ」
ウィクスラーの予感は間違っていなかった。「I Get A Woman」は、一夜にしてトップに上り詰めた。古い常識を打ち破り、新しい常識を確立し、世俗のスタイルと教会の神格化されたスタイルを混同させて、土曜の歓楽の夜と日曜の礼拝の朝の境界線を曖昧にさせる魔力を持ち合わせていた。チャールズのソウルの代名詞のゴスペルは言わずもがな、ジャズとブルースに根ざした歌詞は、メインストリームの購買層の興味を惹きつけた。もちろん、R&Bチャートのトップを記録し、エルヴィス・プレスリーもカバーし、1950年代のポピュラー・ミュージックの代表曲と目されるようになった。この時期、アメリカ全体がチャールズの音楽に注目を寄せるようになった。
やがて、多くのミュージシャンと同様に、ロード地獄の時代が到来した。チャールズはその後の4年間の何百日をライブに明け暮れた。中には、ヤバそうなバー、危険なロードハウスでの演奏もあった。ところが、チャールズの音楽は、どのような場所でも歓迎され、受けに受けまくった。その後も、ライブの合間を縫ってレコーディングを継続し、「This Little Girl Of Mine」、「Hallelujah I Love Her So」の両シングルをヒットチャートの首位に送り込んでいった。その中では、レイ・チャールズのキャリアの代表曲の一つである「What'd I Say (PartⅠ)」も生み出されることに。この曲は文字通り、米国全体にソウル旋風を巻き起こすことになった。
この曲は、ゴスペル風の渋い曲調から、エレクトリック・ピアノの軽快なラテン・ブルースを基調にしたソウル、そしてその最後にはアフリカの儀式音楽「グリオ」のコール・アンド・レスポンスの影響を交えた、享楽的なダンスミュージックへと変化していく。 1959年、ピッツバーグのダンスホールで即興で作られた「What'd I Say (PartⅠ)」は、ブラック・ミュージックの最盛期の代表曲としてその後のポピュラー音楽史にその名を刻むことになる。しかし、当時、白人系のラジオ曲では、この曲のオンエアが禁止されていた。それでも、ポップチャート入りを果たし、自身初となるミリオン・セラーを記録した。その六ヶ月後に、チャールズは、アトランティックからABCレコードに移籍した。その後、カタログの所有権に関する契約を結ぶ。当時、29歳。飛ぶ鳥を落とす勢いで、スター・ミュージシャンへの階段を上っていった。
マクラーレンは元々はファッションデザイナーとして活動していて、ブティック、”SEX”に出入りしていた若者を掴まえ、後にこのバンドをプロデュースし、Pistolsというロンドンパンクの先駆者を生み出すことになる。これは以前に、彼がニューヨーク・ドールズのプロデュースを手掛けており、それをロンドンでより大掛かりに、そしてセンセーショナルに宣伝し、一大ムーブメントに仕立てようという彼なりの目論見があったのだ。シド・&ナンシーに代表されるファンションは既にジョニー・サンダース擁するNew York Dollsの頃のグラム・ファッションで完成されたつつあった。それをより、洗練させ、ある意味では彼らをファッションモデルのような形で飾り立てることで、パンクという概念を出発させることに繋がった。
Sex Pistolsの最初のショーは1975年11月6日に行われた。ショーは主にカバーを中心に構成されていた。それからいくつかのギグを続け、ピストルズは、ブロムリー・コンティンジェントとして知られるファンベースを獲得する。続いて、1976年、バンドは、パブロックの代表格、Eddie & The Hot Rodsの最大のショーのサポートを務める。既にその頃から、バンドの攻撃性と興奮は多くの観客を魅了していた。唯一の懸念だったバンドの演奏力は見れるものとなり、そしてスティ-ヴ・ジョーンズの演奏力も上昇した。特にこの時代、ピストルズの面々は多くの熱狂的なファンに熱量のあるショーを期待されており、信念やインスピレーションを欠いた気のないパフォーマンスをしようものなら、ファンが暴徒化する場合もあったという。結局それらの取り巻きのフーリガン的な行動により、セックス・ピストルズに暴力的なイメージが付きまとうことになった。また、このイメージはのちのスキンズやハードコアパンクのスタイルの源流を形成することになった。
ライブギグで一定の支持を獲得した後、1976年7月20日にパンクの古典となる「Anarchy In The UK」をEMIからリリースする。社会風刺的な歌詞は当時のロックファンにとって真新しいもので、米国と英国のパンクの相違を象徴していた。さらに続いて、9月1日、バンドはテレビに初めて出演する。パンクブームの発起人の一人でありマンチェスターのファクトリー・レコードの主宰者でもある、トニー・ウィルソンのテレビ番組に出演し、スタジオでこのデビュー・シングルを初披露する。その5日後、ビル・グランディが司会をするテレビ番組にも出演し、バンシーズのスージー・スーに軽率な発言を行い、批判を呼ぶ。これはグランティとスティーヴ・ジョーンズとの間に会話をもたらし、その当時の国内のメディアの意義を根底から揺るがすものでもあった。また、12月のテレビ出演時には、四文字言葉を連発し、センセーショナルな話題をもたらした。
1977年、イギリス国内最大の音楽メディアのNME宛てに一通の電報が届いた。 Sex Pistolsのマネージャーのマクラーレンから、「グレン・マトロックが解雇された」との一報だ。デビュー当時はピストルズの音楽性の一端をになっていたマトロックの解雇は、大いに注目に値するものだった。
「God Save The Queen」のセンセーショナルな宣伝 ジョン・ライドンが曲に込めた真意とは?
Sex Pistolsのデビュー・シングルの宣伝 20世紀には飛行機から広告をまく手法があったが、それに近いゲリラ的な宣伝方法の一つ
セックス・ピストルズのデビュー・シングルがA&Mからリリースされたのは1977年のことだ。このリリース日は、エリザベス女王のシルバー・ジュビリーの祝典と時を同じくしていた。ピストルズの四人は、報道カメラマンを呼んで、船の上で「God Save The Queen」のリリース記念パーティーを開催するが、後に社会問題に発展する。この宣伝方法が、すべてがマルコム・マクラーレンによってしかけられたものであるとしても、オリジナル・バージョンのシングルのアートワークは過激きわまりないもので、女王の顔に彼らのトレードマークである安全ピンを差したデザインだった。最初のバージョンは、すぐに発禁処分になり、後にアートワークは差し替えられるが、このシングルのリリースが知れ渡ると、英国内で論争を巻き起こすことになった。当然のことながら、ピストルズは、レーベルとの契約後、わずか6日でA&Mとの契約を打ち切られる。次いで、レコードの25,000枚が廃棄処分となる。現存する希少なオリジナルバージョンは現在でもコレクターの間で価値のあるレコードとしてみなされている。
A&Mとの契約解消後、PistolsはすぐにVerginと契約を結ぶ。その後、「God Save The Queen」はピクチャースリーブ付きで発売された。
「God Save The Queen」では、国家概念を擬人的に捉える古典的な詩の手法が取り入れられていて、「イングランドは叫んでいる、未来はない」というフレーズが最後の部分で歌われるが、それは実際、のちのサッチャー政権時代ザ・スミスの楽曲のように、他のどのロックよりも社会不安のリアリティを直視し、それをシンプルに言い当てたものだった。多くの若者たちは英国への愛と不信が混在したシニカルな歌詞と歌に大きな共感を覚えたことは想像に難くない。しかし、ジョン・ライドンはこのデビューシングルについて、ピアーズ・モーガンに次のように語った。これは長年のライドンの英国王室へ嫌悪感があるという誤解を解くための発言として念頭にとどめておいた方が良さそうだ。
1977年10月28日にデビュー・アルバム『Never Mind The Bollocks」がVirginから発売された。米国では2週遅れで発売となった。ほとんどの曲は、グレン・マトロックとジョニー・ロットンにより書かれており、他のメンバーは補佐的な形で意見を交えている。マトロック脱退後、アルバムのために2曲「Holiday In The Sun」、「Bodies」 を書き加えられた。グレン・マトロックは76年にEMIからリリースされた「Anarchy In The UK」のうち一曲で演奏している。
アルバムの最初のタイトルは、「God Save Sex Pistols」であった。1977年半ばに「Ballocks」という単語が追加された。しかし、「Ballocks」というタイトルが1899年に施行された「わいせつ広告法」に該当するとし、レコード・ショップのオーナーの多くは、ショーウィンドウで宣伝をした際には罰金及び逮捕の処分があると警察から忠告を受けた。実際、警察はノッティンガムにあるVirginの店舗の捜査に踏み切り、オーナーを逮捕する。しかし、これもヴァージンとマクラーレンにとって恰好の宣伝の機会となり、彼らは”アルバムが長持ちする”という判断を下した。
デビューアルバム『Never Mind The Bollocks』に込められた意味、一般的な発売日を迎えるまで
さて、日本で最初にレゲエが親しまれることになったのは、74年のこと。エリック・クラプトンが「I Shot the Sheriff(警官を打っちまった)」をカバーしたからという説が濃厚である。最早このナンバーはCREAMの演奏としてはお馴染み過ぎる。当時、一部の音楽マニア、ロックファンを中心に親しまれていたが、1979年にボブ・マーリーは来日公演を行い、日本国内でもレゲエという代名詞とともにその名を知られるようになる。しかしながら、その二年後、正確に言えば、81年の5月11日、36歳という若さでマーリーは死去する。捉え方によっては彼が推進したエチオピア皇帝を唯一神とするラスタファリアニズムとともに、またジャマイカの三色旗とともに、彼の存在は半ば、クラブ27の面々のように神格化されるに至った。
後に、彼のもとから去った父親という人生の中の出来事は、彼の音楽性や思想に深い影響を及ぼしたという指摘があり、マーリーは「父の不在」というテーマを音楽活動を通じて追い求めていくことになる。彼は、”ナイン・マイルズ”と呼ばれる地方の村にあるセントアン教区で幼少期を過ごしたという。セント・アンでの彼の幼馴染のひとりに、ネヴィル・バニー・オライリー・リビングストンという少年がいた。同じ学校に通っていた彼らは、音楽への愛情を深めたという。バニーの影響により、ボブ・マーリーはギターを演奏するようになった。ここに後にレスポールギターをトレードマークとする音楽家のルーツを伺うことが出来る。のちに、リビングストンの父親とマーリーの母親も、この関係に関与するようになったとクリストファー・ジョン・ファーリーは、マーリーの伝記『Before The Legend: The Rise Of Bob Marly』で指摘している。1950年代に、キングストンに転居したマーリーは、市内の最も貧しい区域の一つ、トレンチ・タウンに住むようになる。この時の経験は、彼の後の代表曲「トレンチ・タウンロック(Trench Town Rock」の着想の元になったと推測される。この年代を通じ、マーリーと彼の友人であるリビングストンは音楽に多くの時間を費やした。ジョー・ヒッグスという人物の指導のもと、彼はボーカルの訓練にも精励するようになった。
60年代後半になると、ボブ・マーリーはポップ歌手のジョニー・ナッシュと仕事を行った。ナッシュはマーリーの曲「Stir It Up」で世界的なヒットを記録する。ウェイラーズはこの時代に、プロデューサーのリー・ペリーとも仕事をするようになった。リー・ペリーはウェイラーズの最盛期の活躍を支え、「トレンチタウン・ロック」、「ソウル・レベル」、「フォー・ハンドレド・イヤーズ」を世に送り出した。この時代を通じて、ウェイラーズの名は徐々に世界の音楽ファンに親しまれるようになった。またウェイラーズは、1970年代に入ると、ラインナップを変更し、アストン・バレット、彼の弟であるドラマーのカールトン・バレットを新たなメンバーに迎え入れ、サウンドの強化を図った。翌年、フロントマンのマーリーは、スウェーデンでジョニー・ナッシュと一緒に人生で初の映画のサウンドトラックの制作に取り組んだという。
その結果、バンドの出世作となる「Catch a Fire」が誕生したのは当然の成り行きだった。ウェイラーズはアルバムの発表後の73年に、イギリスとアメリカをツアーし、アメリカン・ロックのボス、ブルース・スプリングスティーン、スライザ・ファミリーストーンといった当時最大の人気を誇った音楽家やグループの前座としてステージに登場し、その名を普及させた。ウェイラーズはデビューからまもなくその人気を不動のものにしていく。同じ年に、ヒット曲「I Shot The Sheriff」を収録する2ndアルバム『Burnin'』を発表し、世界的な人気を集中に収めた。発売から一年後、イギリスのギタリスト、エリック・クラプトンがこの曲をカバーし、全米チャート第一位を獲得する。ウェイラーズの名は一躍世界的なものとなっていく。
ウェイラーズはその後、マーリーの妻であるリタをメンバーに擁する女性グループのアイ・スリーズとともに共演を果たし、単独のウェイラーズではなく、ボブ・マーリー&ウィラーズの名で親しまれることになる。彼らは大規模なスアーを行い、レゲエ人気を普及させていく。またこの時代の男性と女性の混合の構成は、この家父長制的であった音楽に革新をもたらし、より柔らかな音楽として親しまれる要因となった。1975年にリリースされた彼らの代表曲「No Woman, No Cry」は特にイギリスでトップ40位内にランクインを果たし、英国でも彼らの名は知られるようになった。
最初のシングルは『There She Goes』で、1988年に発売されたが、ヒットしなかった。この曲は、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの『There She Goes Again』にインスパイアされたという噂が絶えなかったが、タイトルと歌詞が似ている以外は異なるものだった。誰もがこの曲を名曲だと言っていたため、再発される機会がないうちに、さらにラインアップに問題が生じ、リーの弟で、正式には彼らのローディだったニールがドラムとして参加することになった。
「There Shes Goes」(Original Us Version)
この曲は1989年1月に再リリースされたが、全英チャート59位と低迷。テストプレスはラジオ局や音楽新聞社に送られ、Melody MakerはSingle of the Weekとしたが、Maversはレコードの出来に満足せず、そのまま廃盤となった。この頃、ストーン・ローゼズ、ハッピー・マンデーズ、シャーラタンズ、インスパイラル・カーペッツなど多くの新しいバンドが登場し、彼らは結局Timeless Melodyを発表することにしたが、57位にとどまった。この曲は「There She Goes」より少し高い順位を記録したが、ファンに支持されており、「There She Goes」は1990年末に再びリリースされ、今度はかなり広範囲に放送されたため、13位を記録し、バンドの最初のヒットを記録した。メイヴァースはピート・タウンゼントやレイ・デイヴィスといったロックの伝説たちと好意的に比較されるようになり、普遍的な賞賛を浴びた。
「There She Goes」はどんな曲なのだろうか? ”There”というのは、「そこへ」を指すわけではなく、「ほら!」という冠詞に近い意味であり、歌詞の中にはそれほどはっきりとした詩はなく、コーラスが4回のみ繰り返されるだけだが、「There she goes again, racing through my brain, pulsing through my vein, no one else can heal my pain~」という歌詞が見られることから、この曲は当初、様々な憶測を呼ぶことになった。一般的にはルー・リードの曲と同じように、ヘロインについて歌っているのではないかとも噂されていた。 当時、 ある音楽新聞には、「The La's' ode to heroin」というかなり過激な小見出しが掲載されたという。ベーシストのジョン・パワーはこの件に関してコメントを求められたが、回避的な答え方をし、元ギタリスト、ポール・ヘミングスはその噂を一蹴した。
1999年、シックスペンス・ノン・ザ・リッチャーが、曲の内容を無視したカバーを録音し、La'sより1つ低い順位でピークを迎えた。その後、彼らは再び注目を集めるようになり、レコード会社がプロモーションのため、5度目の再発売に踏み切ったが、意外にも65位にとどまり、目に見えるような効果を及ぼさなかった。さらに、2003年、「In Search of The La's」という本が出版された。謎に包まれたバンドをよりよく知るための一冊である。そこには3年前のインタビューが掲載されており、リーは自分の性格や音楽的な意図について語り、シーンへの復帰についても言及している。
その後、2011年にリバプールのバンド、The Banditsのメンバーだった友人のGary Murphyと、Lee Rude & the Velcro Underpantsという奇妙なバンド名で、いくつかのアコースティック・セットを演奏することになった。そのあと、彼らはマンチェスターのデフ・インスティテュートでシークレット・ギグの演奏を行った。
ライブこそ開催したが、新たなリリースの噂もないまま現在に至る。熱心なファンの間では、今もバンドのフォーラムを中心に様々な憶測が飛び交っている。2008年には1stアルバムのデラックスバージョンもPolydorから発売された。デラックス盤には、Mike HedgesとJohn Leckieがリミックスを手掛けた「There She Goes」の二つの異なるバージョンが収録されている。おそらく、この二つのリミックスに当時のリー・メイヴァースが理想とするサウンドにかなり近いのではないかと思われる。しかし、いまだ彼らの謎は謎のままで、本当のところを知る人はそれほど多くはない。
その真偽はさておき、1972年6月16日に発売されたデヴィッド・ボウイの「The Rise and Fall of Ziggy Stardust and the Spiders from Mars」は、架空のロックスター「ジギー・スターダスト」の物語を描いたコンセプトアルバムであ。このアルバムの楽曲をイギリスのテレビ番組、トップ・オブ・ザ・ポップスで初披露し、彼は一躍世界的なロックシンガーと目されるようになった。そして、モット・ザ・フープルやT-Rexと並んでグラムロックの筆頭格として認知されるようになった。そしてアルバムには、T-Rexのようなグラムロックの華美さとそれ以前に彼が書いていたような内省的なフォーク・ミュージックがバランス良く散りばめられている。
まさにデヴィッド・ボウイは、それ以前の内向的なフォークロックシンガーのイメージから奇抜な人物へと変身することにより、誰もいない場所に独自のポジションを定めることに成功したのである。しかし、このミュージカルで描かれるジギーという人物の最後は、ショービジネスの悲劇的な結末を暗示している。ジギーは名声のみがもたらす軽薄な退廃によって、最終的にステージで破壊されてしまう(「Rock 'n' Roll Suicide」)。(多くのロックスターが自ら破滅に向かうのと同じ手段である)。そしてこれは実際のミュージカルで強い印象を観衆に与えるのである。
そこでジギーがこれを実行すると、恐ろしいニュースが流れる。「All the young dudes」はこのニュースについての曲です。これは人々が思っているような若者への賛歌ではない。それは全く逆です。無限が到着すると終わりが来る。本当はブラックホールなのですが、ステージ上でブラックホールを説明するのは非常に難しいので、人物にしました。
彼は自分自身を信じられないほどの精神的高みに連れて行き、弟子たちによって生かされている。無限が到着すると、彼らはジギーの一部を奪って自分を現実にする。なぜなら、本来の状態では反物質であり、我々の世界には存在できないからだ。そして、"Rock 'n' Roll Suicide "の曲の中で、ステージ上で彼をバラバラにしてしまうのです。
最も印象的なのは、ミュージカルのステージ上でのジギーの死が、グラム・ロック・アーティストの仕事に対するボウイの認識を物語っていることだ。72年から76年までを振り返って、彼は後に語っている。「その頃までは、"What you see is what you get "という態度だったけれど、舞台上のアーティストが役割を果たすミュージカルのような、何か違うものを考案してみるのも面白いと思ったんだ」
1983年、ザ・スタイル・カウンシルが発足した最初の年に、彼と新しい仲間であるミック・タルボットは、ポールのソウルとファンクの愛に根ざした、それぞれ全く異なる作品を次々と発表し、水面下でテストを行っていました。ミニLP「Introducing the Style Councile」は、これらの初期の作品をまとめたものだが、本格的なデビューアルバムの発売は、バンド結成から1年後になる。
一方、12月18日にロンドンのアポロシアターで行われたCND(The Campaign for Nuclear Disarmament)の「The Big One」(平和のための演劇ショー)にザ・スタイル・カウンシルが参加した際、ウェラーの新曲の方向性について示唆する声が聞かれました。この公演では、ゲストのディジー・ハイツを迎えてのラップ「A Gospel」や、エルビス・コステロがデュエットした「My Ever Changing Moods」のアコースティック演奏など、5曲を披露しました。
しかし、1984年には失業率が急上昇し、2万人の(主に)女性がグリーナム・コモンで米巡洋艦の設置計画に抗議するデモを行った。この時代を通じ、ポール・ウェラーはCND(The Campaign for Nuclear Disarmament)の協力の下、イベントやTVに出演し、平和のためのキャンペーンを行った。
それまでの10年間、『Tapestry』『Blue』『Horses』といった大作が音楽業界に残した傷の大きさを考えれば、この上ない快挙である。1985年、『She's So Unusual』でグラミー賞7部門にノミネートされ、2部門で受賞したことで、このアルバムの地位は確固たるものとなったが、その後、何度か成功したものの、ローパーが再び到達するには高すぎるハードルであったことが証明された。
多くの絶賛されたアルバムがそうであるように、このアルバムのレコーディング、認知、成功への道のりは簡単なものではなかった。「She's So Unusual」は1983年10月14日にリリースされ、当時30歳だったローパーは、その3年前、生活費を稼ぐために米国のレストランチェーン店"IHOP"でウエイターとして働くという一連の失敗から、歌手に戻ることができるかどうか悩んでいたのだ。
ローパーのバックにはチェルトフをはじめ、エリック・バジリアン、ロブ・ハイマン、リチャード・テルミニ、ピーター・ウッドなど、彼が最近一緒に仕事をしたミュージシャンがついていた。スタジオでは、ローパーはアルバムの方向性を明確にしていたが、当初、彼女はそのビジョンを拒否されたと伝えられている。ローパーは、自分がやりたくない曲の前座を頼まれ、意気消沈していたが、チェルトフ、ミュージシャン、ローパーが円満に折り合いをつけ、テープに曲を入れ始めることができた。「When You Were Mine」、「Money Changes Everything」、「All Through The Night」の3曲は比較的早く制作された。
このデビューアルバムには、ローパーとハイマンが共作した「Time After Time」、チェルトフとゲイリー・コルベットが参加した「She Bop」、ジョン・トゥーリが参加した「Witness」、ローパーとジュールズ・シアーが組んだ「I'll Kiss You」などのオリジナル曲がある一方で、彼女の解釈に合わせて歌詞やスコアを変えたカバー曲がいくつかある。
その中には、このアルバムからリリースされた4枚のシングルのうち、「Girls Just Want To Have Fun」と「All Through The Night」の2枚が含まれている。誰が何を書いたかにかかわらず、ローパーの比類ない4オクターブに及ぶ声域、そして爆発的な歌唱力が、このアルバムを決定づけたのだった。
当時の報道によると、ローパーが85年のアメリカン・ミュージック・アワードで披露した「When You Were Mine」は、1980年にジョン・レノンにインスパイアされたオリジナル曲を、アップテンポでより純粋なポップスに仕上げたもので、プリンスもその価値を認めていた。切なく、記憶に内在する感情の重さを類推させる「Mine」は、最も人間的な精神状態である「後悔」に突入する。ギター、シンセ/キーボード、ベースのマイナーコード・アレンジが、Figのパーカッシブなドラムを軸に、心の琴線に触れるような展開を見せる。ディフォンゾの絶妙なリバーブとピッチベンドを駆使したリード・ギター・リフが、色調をブルーに染め上げている。ローパーのオーバーダビング、エリー・グリニッジ、クリスタル・デイビス、ダイアン・ウィルソン、マレサ・スチュワートのバッキング・ヴォーカルが、不穏な音色を加えているが、マスタリングでヴォーカルのトラックを分離しているため、ミックスの中で簡単に区別がつく。
「Time After Time」は、マイナーコードのフィーリングを保ちながら、ローパーがこのアルバムで最も個人的な出来事について書いたと思われる曲で、当時の彼女の関係が崩壊したことを反映している。この曲は、ローパーとハイマンがスタジオでピアノの前に座り、お互いの破局について語り合いながら書いたと言われている。
「All Through The Night」は、フォークシンガー、Jules Shearのカバーで、キラキラしたシンセサイザーでアレンジされ、ポップバラードとしてきわめて完成度が高い。「Witness」と 「I'll Kiss You」は、スカの影響を受けたレゲエとストレートなシンセポップに寄り道しながら続く。ローパーがレコーディング中にバンドとバーで飲み明かしたという、20~30年代の映画スターへの皮肉を込めた "He's So Unusual "は、芸術的な浅瀬に飛び込むようなビンテージなサウンドの雰囲気が漂う。
このアルバムは、80年代ポップの誕生と成熟を音楽的、文化的に定義し、シーンに大きな活性化をもたらしただけでなく、この10年間の保守的な価値観を受け継ぐことにも貢献した。その価値観は、その後の数十年間の政治的な状況に激震を与えるきっかけともなった。どのように考えたとしても、シンディ・ローパーとShe's So Unusualなくして、80年代はあり得なかっただろうし、この時代のポピュラーミュージックに重要な貢献を果たしたレコード・コレクションのひとつだ。
アイルランドのMy Bloody Valentineは、デビュー当初、大きな市場規模を持つイギリスのミュージックシーンではなく、ベルリンの壁崩壊前の西ドイツのインディーズレーベルからデビューしています。彼らの1984年のデビュー作『This Is Your Bloody Valentine』(残念ながらサブスクリプションでは視聴できない)リリースを行ったドイツのレーベル”Dossier”では、複数のアートパンク/ニューウェイブのバンドのリリースを行っており、その中には、イギリスのアートパンクシーンの伝説的な存在であるChrome、そして、さらにマニアックなところでは、Vanishing Heat,Deleriumが所属していました。つまり、表向きにはあまり知られていないことなんですが、My Bloody Valentineはロック・バンドというよりも、そのルーツの出発点には、ポストパンク/アートパンクがあるといっても過言ではないのです。なぜ、こんなことを言うのかというと、91年の『Loveless』だけをこのバンドのキャラクターであると考えると、実際の音楽性を見誤り、間違ったイメージが定着する可能性があるからです。さらにシューゲイズという音楽はシンプルに出来上がったとは言い難いものがあるのです。
そして、My Bloody Valentineが活動初期からシューゲイズと呼ばれるサウンドを作り出していたわけではないことは熱心なファンの間では既知のことでしょう。当初、どのようなバンドであったのかは、特に、フィジカル盤のみのリリースとなっているファースト・アルバム『This Is Your Bloody Valentine』を聴くと分かるはずです。アルバムのクレジットを見ると、西ドイツ時代のベルリンにあるスタジオで制作され、Dimitri HegemannとManfred Shiekがプロデュースを手掛けています。レコーディングでは、Kevin、Colm,Dave,Tinaという名前が見い出せますが、さらに、ケヴィン・シールズがボーカルを取り、ベースもケヴィンがレコーディングで弾いているところを見ると、この頃は彼のワンマンに近いバンドであるという印象が強い。そして、デビュー当時はケヴィン・シールズが多くの曲を歌っており、ツインボーカルになったのは2nd『Isn't anything』前後のこと。また、このデビュー作でMBVがどんな音楽をやっていたのかいうと、明らかにそれ以前に流行ったポスト・パンク/ニューウェイブを志向したサウンドに位置付けられ、また、ケヴィン・シールズのボーカルは、ジョイ・デイヴィジョンのイアン・カーティスやバウハウスのピーター・マーフィーを彷彿とさせるものがある。バンドサウンドについても、ゴシック・ロックとポスト・パンク/ノイズ・パンクの中間点にある特異な音楽性を探っています。この辺りには、数年前にデビューしたThe Cureの影響も見てとることができるかもしれません。
ただ、結成から一年後に発売されたデビュー・アルバムに関して、後の90年代のシューゲイズサウンドの萌芽が全く見られないかといえば、どうやらそういうわけではないようです。アルバムの最後に収録されている「The Last Supper(最後の晩餐)」は、『Loveless』の象徴的なサウンドの代名詞となる"陶酔的、甘美的"と称されるロマンティックなサウンドの出発点と捉えることが出来る。さらに、シューゲイズの象徴的なギターサウンド、つまりオーバードライブ/ファズとアナログディレイを複合させた抽象的な音作りに加えて、クラブミュージックサウンドの影響もわずかに留めています。
それがどのような結果となったのかは、2ndアルバムが雄弁に物語っている。カントリー/ブルーグラスをパンクとして再解釈した「Magic Toy Missing」、ジョニー・キャッシュのようなフォーク/カントリーをロカビリー風にアレンジした「Lost」、そして、後にニルヴァーナがMTVでアコースティックバージョンとしてカバーする「Plateau」、「Lake Of Fire」、さらにはヒッピーの暮らしと彼らの信ずるジャンクな神様に対する信仰を描いた「New Gods」、さらにはローリング・ストーンズを無気力にカバーした「What To Do」といった唯一無二のパンクロックソングが生み出されることになった。また、オーロラの神秘性をメキシカンな雰囲気で捉えたインストゥルメンタル曲「Aurora Borealis」は空前絶後の曲である。何かこれらの音楽には、度数の高いテキーラ、メキシカン・ハット、タコス、そして、サボテンというものがよく似合う。これらのアリゾナや国境付近の砂漠であったり、テキサス/メキシコ音楽の影響を反映した奇妙なエキゾチズムが、生前のカート・コバーンの心を捉えたであろうことはそれほど想像に難くない。
近年のMeat Puppets
その後、ミート・パペッツは、カート・コバーンの紹介もあり、いくらかシニカルなユニークさを交えたロック・ミュージックへと方向性を転じ、多作なロックバンドとして知られることに。そして、シンプルなロックバンドとしての商業的なピークは、MTVアンプラグドの翌年、94年の「Too High To Die」に訪れる。しかも、このアルバムは、それまでのジャンクロック/カオティックハードコアとは異なり、SoundgardenやAlice in Chainsに近いグランジっぽい音楽性を含んでいた。
94年といえば、ローリング・ストーン誌の有名なカバーアートを飾った後、コバーンが死去した年である。そして、「Too High To Die」が発売されたのはコバーンが死去する3ヶ月前のこと。アルバムのタイトルについて考えると、こじつけのようになってしまうが、ミート・パペッツはシアトルのMelvinsよりもはるかにニルヴァーナと近い関係にあるようにも感じられる。ニルヴァーナは知っているけれどミート・パペッツを知らないという方は改めてチェックしてみてほしい。