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NEU! デュッセルドルフのクラウドロックの先駆者 音楽のイノベーションの変遷

 


 

1971年に旧西ドイツに登場した"NEU!"は、以降のデュッセルドルフの電子音楽のシーンの先駆者で、音楽に革新性をもたらしたグループである。クラウス・ディンガーとミヒャエル・ローターによって立ち上げられたこの実験音楽グループは、湯浅譲二と武満徹が制作したテープ音楽に近い趣旨がある。マシンビートを元にしたサウンドは、アンビエントからノイズ、ポスト・パンクに至るまで、その後の数十年の音楽を予見していたと言えるかもしれない。

 

 1970年代、CANやKraftwerkと並んで登場したNEU!の周りには厳然としたシーンと呼ばれるものがあった。産業革命の後の時代、彼らは工業都市の環境音を反映させた音楽を構築した。カン、クラフトヴェルク、そしてノイ!によるデュッセルドルフを中心とした音楽運動は、「Kosmische Music」という名で親しまれていた。日本語で訳すと、”宇宙の音楽”である。実はそのルーツは60年代後半にあり、伝統音楽の規則に対する反抗の意味が込められていた。現代音楽の規則に制約されることを嫌った音楽家たちは、あえてそれらのルールを破ることにしたのだ。

 

上記の3つの主要なグループに共通するのは、多数のジャンルをクロスオーバーしていることである。アヴァンギャルド、エレクトロニックはいうに及ばず、実験的なロック、フリージャズ、そしてイギリスで盛んだったプログレッシブ・ロックを吸収し、それらを独自のサウンドとして構築していく。そんななかに登場したNEU!とはどのようなグループだったのか。

 

当時のことについて、クラウスとローターは次のように回想する。「わたしたちは同じようなヴィジョンを持っていた。初期のバンドは1971年後半に結成され、音楽ジャンルの異なる折衷案を融合させたのです」

 

クラフトワークとの意見の相違、音楽的な感性に関する欲求不満の後、バンドは新鮮な気風を感じていた。それは二人のミュージシャンを活性化せることは明確だった。彼らが完全に同意しなかったのはドイツ語で新しいを意味する「ノイ!」だけ。マイケルはバンドに自然な名前をつけることを望んでいたが、一方のクラウスはこの英語ではない新鮮な音の響きに感激していた。

 

結局のところ、彼らは実験音楽活動の一部としてこのプロジェクトを立ち上げたのだから、この「NEU!」という名前は理に叶っていた。

 

 

NEU!のロゴの誕生

 




 ノイ!の誕生に合わせて、バンドのイメージが必要になった。そこで、テキスタイル風のポップなロゴが作りだされ、著作権の特許を得た。


このロゴにはどうやら意味があるらしく、''現代の消費文化に対する抗議''を意味しているという。使い捨てられるものに対する反抗、音楽は消費されるものではないというロゴの考えは、ある意味では工業化や商業化されつつあるデュッセルドルフの70年代にしか登場しえなかった。


ノイ!は社会的な意見と芸術に関する考えを組み合わせることを躊躇しなかった。それでも、クラフトワークのようにノイ!は当時、裕福な経済力を有していたわけではなかったことは着目すべきか。この中で音楽の再利用を意味するサンプリングという考えも出てくるようになった。

 

 

デビューアルバム『NEU!』の制作

 




 

 

 

ミヒャエルは「わたしたちは貧しいミュージシャンだった」とデビュー当時のことを回想する。1971年、デビュー・アルバムを録音するときも、彼らの念頭にあったのは制作費だった。

 

彼らは12月にウィンドローズ・デュモン・タイム・スタジオを四日間予約した。つまりこれ以上の使用代を支払えなかったのだ。当のスタジオを選んだのも安かったからという単純明快な理由。「それは実用的な髭剃りのようなもの。私はそれについて考えると、無謀で震える気がする。しかし、コニー・ブランクの助けを借り、どうにかわたしたちはメッセージを伝えられた」


驚くべきは、4日間という限られた時間で、ノイ!は六曲をレコーディングした。そして音源を8トラックのレコーダーに落とし込む。マイケルはギターとベース、そしてクラウスはドラムと琴を演奏した。

 

「最初は録音の速度が遅かったけれども、その後、前進するポジティヴなエネルギーを見出した。曲は必要な箇所だけむき出しになるまで削ぎ落とされた。あの時、8トラックのレコーダーしかわたしたちは所有していなかったんだ。6曲のうちの5曲、デビュー・アルバムのために録音されたのは長いトラックが中心となった、その中にはHellogalloとNegativelandが含まれていた」

 

「アルバムが録音され、ミックス作業が終わると、 コニー・ブランクは私にきかせるためのテープをくれた。私はそれを誇りに思い、ガールフレンド、家族、友人の前で聞かせてみました。アルバムの効力は見当もつかなかった。私はアルバムを録音できたことが本当に嬉しかった」

  

デビュー・アルバム『NEU!』は1972年のはじめにリリースが予定されていた。発売当初の評論家の意見は二分されていた。一部の先見の明のある批評家は、画期的なアルバムであるとし、ジャンルという概念を超越するものであると評していた。 少なくとも、このアルバムには、アンビエント、エレクトロニカ、エクスペリメンタル、フリージャズ、インダストリアル、ミュージック・コンクレート、ロックの要素が織り交ぜられていることは事実である。当初、ノイ!の音楽はロンドンで評価され、メロディーメイカー誌の評論家がこの音楽を「クラウト・ロック」と命名した。デビュー作『ノイ!』はドイツでは三万枚の売上を記録する。実験音楽としては驚異的な数字である。しかし、ドイツ以外では商業的な成功には見舞われなかった。


ついでクラウスとミヒャエルはドイツ国内でしか評判を呼ばなかったにもかかわらず、2ndアルバムの制作に着手する。 

 

「Hallogallo」

 

 

セカンドアルバム『Neu! 2』

 



 

 


翌年、 二人はデビューアルバムのプロデューサー、コニー・ブランクと連れ立ってスタジオ入りした。


「わたしたちはレコード・レーベルと契約していなかったからクラウスとコニーと私は制作費を節約しようとした。スタジオにいったとき、10日間録音するための経費を支払った」とミヒャエル。

 

「二度目の録音は作業するときに16トラックのレコーダーがあったので、複数の楽器を多重録音することが可能になった。私はギターを弾いて、それが逆再生され、テンポが意図的に早められ、最終的にエフェクトが追加された。それらの音楽的なプロセスはノイ!の実験性を新しいレベルへと引き上げ、音楽の境界を限界まで押し上げ、すべてを越えたように思えた。すべてが上手く行ったように思えたものの、問題が発生した」

 

「それまでにわたしたちは音のレイヤーを追加し、試行錯誤するのにおよそ1週間を必要とした。私は5つのギターを積み重ね、歪みのような効果を与えようとした。しかし、この作業に一週間かかりましたが、結局、アルバムの収録曲の半分しか録音されておらず、これでは終わらないと思ったので、かなりの混乱に陥っていた。それからわたしたちは解決策を用意しようとした」



さらにセカンド・アルバムについて、ミヒャエルは補足している。「つまり、絶望の結果なんです。わたしたちは色々なことを試した。ターンテーブルでシングルを演奏し、クラウスは演奏中にそれを蹴り上げた。その後、わたしたちは、カセットプレイヤーで曲を演奏し、音を遅くしたりスピードアップしたりというように試行錯誤を重ね、そのプロセスの中でマスタリングを行った。デビューアルバムと同じように、『NEU! 2』はスタジオの使用期間の制限に合わせて制作が完了した。おわかりの通り、それはデビューアルバムとはまったく異なるものだった」

 

 

『NEU!2』は当初、1973年に発売予定だった。アルバムのリリース後の批評家の反応はデビューアルバムよりも好意的だった。彼らのトレードマークのサウンドを洗練させたという評価。批評家は、 特に11分に及ぶ電子音楽の叙事詩と評価する声もあった。しかし、同時に物議を醸すアルバムでもあった。全般的にはそれほど評価が高かったとも言いがたい。批評家たちはNEU!のサウンドをギミックと見なし、レコード・バイヤーを騙しすかそうとしていると指摘した。しかし、ノイ!がこのセカンド・アルバムで試みたのは既存のサウンドの解体だった。

 

「わたしたちは既成の音楽を相手取り、それらを一度ばらばらにすることだった。その後、解体したものを再構築していった。一般的な評論家は、このことを理解できなかったか、理解したくなかった」と、ミュージック・コンクレートの技法を重視していたとノイ!は回想しているのである。

 

しかし、革新的な制作法は一般受けせず、このセカンド・アルバムはイギリスどころか、ドイツ国内でも商業的な成功を収められなかった。現在のサンプリングやコラージュのような手法はあまりにも前衛的すぎるため、一般のリスナーには受け入れられなかったというのが実情である。

  

クラウス・ディンガーと彼の兄弟のトーマスはノイの音楽を宣伝できないかと、画策を始める。イギリスに向かい、DJのジョン・ピールとザ・フーのタウンゼントの妻、カレン・タウンゼントに出会った。ピールはノイ!の音楽をオンエアしたものの、やはり一般的な反応は薄かった。 

 

 

「Casetto」

 

クラウスとミヒャエルは、ノイ!が終わったわけではなく、他の興味やプロジェクトを追求するため、しばらく時間を取りたかったと明言した。クラウスの新しいプロジェクトは『ラ・デュッセルドルフ』だった。一方、ミヒャエルはフォルスト・コミューンへの旅に出ることにした。

 

 

 そこで彼は、クラスターのディーター・メビウスとハンス・ヨアヒム・ローデリウスに出会うことになる。ミヒャエルは、クラスターの2枚目のアルバム『Cluster II』に収録されている「Im Süden」を聴いていた。ディーター・メービウスとハンス・ヨアヒム・ローデリウスがノイ!の拡張ラインナップに加わることに興味を持つのか? それからミヒャエルは、ノイ!とクラスターからなるスーパーグループを検討しはじめた。フォルスト・コミューンで、ミヒャエルはディーター・メビウスとハンス・ヨアヒム・ローデリウスとジャムった。最初のジャムは、後にハルモニアの1974年のデビュー・アルバム『Musik von Harmonia』の収録曲『Ohrwurm』となった。最初のジャム・セッションの後、ミヒャエルはフォルスト・コミューンに滞在し、ハルモニアのデビュー・アルバム『ムジーク・フォン・ハルモニア』のレコーディングに備えた。


一方、クラウスとトーマス・ディンガーはロンドンから戻っていた。彼らは贈り物を携えてやってきたのだ。

 

賜物のひとつは、1972年の大半をコニーのエンジニアだったスタジオエンジニアのハンス・ランペ。もうひとりは、クラウスの弟トーマス。クラウスの提案で、彼らはノイ!のラインナップに加わることになり、その準備のため、ラ・デュッセルドルフとして一連のコンサートを行う。


しかし、ミヒャエルはハルモニアの活動で忙しかった。デビューアルバムのレコーディングだけでなく、レコーディング・スタジオを建設し、ミヒャエルは''ノイ!''の将来のプロジェクトに取り組み、後にソロアルバムのレコーディングも行う予定だった。しかし、それはまだ先のこと。その前に、ハルモニアはデビューアルバム『ムジーク・フォン・ハルモニア』の録音を開始した。

 

 

 

Neu! 75



他のプロジェクトの活動も行う中、ノイ!は三作目のアルバム「Neu!'75」の制作に取り掛かる。ミヒャエル・ローターとクラウス・ディンガーは1974年12月にコニー・プランクのスタジオで再結成した。その頃、コニー・スタジオはドイツのグループのためのレコーディング・スタジオだった。彼らは望んでいた。''天才 "が自分たちのアルバムに魔法をかけてくれることを。


ノイ!の2人のメンバーは変わっていた。クラウスはロックに傾倒し、ミヒャエルはアンビエント・ミュージックへの関心を高めていた。 ミヒャエルが説明するように、「2年も離れていると、僕らは別人になっていた。問題を複雑にしたのは、クラウスがドラムキットの後ろから離れたがっていたこと。彼は自分が隠れていると感じていた。それはわかる。でも、それはクラウスがとても上手くやっていた。しかし、彼はギターを弾きながら歌うエンターテイナーになりたかったんだ。彼は自分の代わりに2人の新しいミュージシャンを迎え入れようとした。その中には、クラウスの弟トーマス、コニー・プランクの元エンジニア、ハンス・ランペも含まれていた」


ミヒャエルはこれが問題だと気づいた。「その頃には、クラウスは一緒に仕事をするのが難しくなっていた。そこで妥協して、2つの全く異なる面を持つアルバムを作ることにしたんだ」 サイド1は、古いノイ! のスタイルを展開させ、サイド2では、クラウスはギターを弾きながら歌った。

 

アルバムは1975年1月に完成し、同年末に発売された。ノイ!は、この三作目でアンビエント風の作風を確立させる。もちろん、その中には「Hero」のような後のパンクのヒントとなる作風もあった。

 

 

「Leb' whol」

 

John Adams


ジョン・クーリッジ・アダムス(John Coolidge Adams)は1947年生まれの米国の現代音楽家。1971年にハーバード大学でレオン・キルヒナーに学んだ後、カルフォルニアに移り、サンフランシスコ音楽院で教鞭と指揮者として活躍、以後、サンフランシスコ交響楽団の現代音楽部門の音楽顧問に就任する。1979年から1985年まで楽団の常勤作曲家に選出される。

 

その間、アダムスは『Harmonium(ハーモニウム)』、『Harmonielehre(和声学)』を始めとする代表的なスコアを残し、作曲家として有名になる。以後、ニュー・アルビオン、ECMといったレーベルに録音を提供し、ノンサッチ・レコードと契約する。1999年には『John Adams Ear Box』を発売した。


ジョン・アダムスの作風はミリマリストに位置づけられる。当初は、グラスやライヒ、ライリーの系譜に属すると見なされていたが、コンポジションの構成の中にオリヴィエ・メシアンやラヴェルに象徴される色彩的な和声法を取り入れることで知られる。


その作風は、新ロマン主義に属するという見方もあり、また、ミニマルの未来派であるポストミニマルに属するという解釈もある。彼の作風では調性が重視されることが多く、ジャズからの影響も指摘されている。

 

管弦楽『Fearful Symmetries」ではストラヴィンスキー、オネゲル、ビックバンドのスウィングの技法が取り入れられている。また、ライヒのようなコラージュの手法が採られることもある。

 

チャールズ・アイヴズに捧げられた『My Father Knew Charles Ives』でもコラージュの手法を選んでいる。1985年の歌劇『Nixon In China(中国のニクソン)』の晩餐会の場面を管弦楽にアレンジした『The Chairman Dances(ザ・チェアマン・ダンス)」は管弦楽の中では再演される機会が多い。

 

ジョン・アダムスの作曲家としての主な功績としては、2002年のアメリカ同時多発テロを題材に選んだ『On The Transmission of Souls』が名高い。この作品でアダムスはピリッツァー賞を受賞した。ロリン・マゼール指揮による初演は2005年度のグラミー賞の3部門を獲得した。



Phrygian Gates / China Gates  (1977)

 


 

ジョン・アダムスのピアノ・スコアの中で特異なイデアが取り入れられている作品がある。『Phyrygian Gate and China Gates』であり、二台のためのピアノ協奏曲で、マック・マクレイの委託作品で、サラ・ケイヒルのために書かれた。

 

この曲は1977年3月17日に、サンフランシスコのヘルマン・ホールで、ピアニスト、マック・マクレイにより初演された。和声法的にはラヴェル、メシアンの近代フランス和声の系譜に属している。

 

この2曲には画期的な作曲概念が取り入れられている。「Gates- 門」は、なんの予告もなしにモードが切り替わることを意味している。つまり、現実の中に別次元への門が開かれ、それがミルフィール構造のように移り変わっていく。


コンポジションの中に反復構造の意図が込められているのは事実だが、音階構造の移行がゼクエンツ進行の形を介して段階的に変化していく点に、この組曲の一番の面白さが求められる。つまり、ライリー、ライヒの作品とは少し異なり、ドイツのハンス・オッテ(Hans Otte)のポスト・ミニマルの系譜にあるコンポジションと言える。さて、ジョン・アダムスは、このピアノの組曲に関してどのように考えているのだろうか。


 



 

「Phrygian Gates(フリギアの門)」とその小さなコンパニオン作品である「China Gates(中国の門)」は作曲家としての私のキャリアの中で重要な時期の産物でした。

 

この作品は、1977−78年に新しい言語での最初の一貫した生命として登場したという事実のおかげで、私の「Opus One」となる可能性を秘めている。1970年代のいくつかの作品、アメリカンスタンダード、グラウンディング、いくつかのテープによる作曲は振り返ってみると独創的であるように見えますが、まだ自分自身の考えをまとめる手段を探している最中でした。


「Phrygian Gates」 はミニマリストの手段の強い影響を示していて、それは確かに反復的な構造の基づいています。しかし、アメリカのミニマリストにとどまらず、ハワード・スケンプトン、クリストファー・ホッブズ、ジョン・ホワイトのようにあまり知られていない英語圏の実践者は、この作品を制作する上で私の念頭に置かれていた。


1970年代はそもそも、ポスト・シェーンベルクの美学の過程がセリエリズムの原則にそれほど希望を見出さない作曲家によって新しい挑戦が始まった時代でした。これはまた、言い換えれば、新しい音楽における巨大なイデオロギーとの対立の時代だったのです。私はその頃、ジョン・ケージの方法に同様に暗い未来を見出していたが、それは合理主義と形式主義の原則に立脚しすぎているように私には思えたのです。


例えば、『易経』を参考にして作曲法を決定することは、『トーン・ロー』を参照して作曲することとそれほど違いがあるとは思えなかった。ミニマリズムというのは、確かに縮小された、ときには素朴なスタイルなのですが、私にこの束縛から抜け出す道を与えてくれたのです。調性、脈動、大きな建築構造の組み合わせは、当時の私にとって非常に有望であるように思えたのです。 

 

 

 「Phrygian Gates」

 


『Phrygian Gates』は、私がミニマリズムのこうした可能性にどのようにアプローチしたかを明確な形で示している。

 

また、逆説的ではあるが、私が当初からこのスタイルに内在する単純さを複雑化し、豊かにする方法を模索していたという事実も明らかにしている。よく言われる、”ミニマリズムに飽きたミニマリスト”という言葉は、別の作家が言ったものだが、あながち的外れではないでしょう。


『Phrygian Gates』は、調のサイクルの半分を22分かけて巡るもので、「平均律クラヴィーア曲集」のように段階的に転調するのではなく、5度の輪で転調していく。


リディアンモードとフリジアンモード(注: 2つとも教会旋法の方式)の矩形波が変調する構造になっている。曲が進むにつれて、リディアンに費やされる時間は徐々に短くなり、フリギアに費やされる時間は長くなる。

 

そのため、一番最初のAのリディアンの部分は曲の中で最も長く、その後、Aのフリジアンの非常に短いパッセージが続く。次のペア(Eのリディアンとフリジアン)では、リディアンの部分が少し短くなり、フリジアンの部分がそれに比例して長くなる。そして、コーダが続き、モードが次々と急速に混ざり合う。「ゲート」とは、エレクトロニクスから借用した用語で、モードが突然、何の前触れもなく変化する瞬間である。この音楽には「モード」はあるが、「変調」はない。


私にとって『Phrygian Gates』がいまだに興味深い理由を挙げるとするなら、その形状の地形と、波紋を思わせる鍵盤のアイデアの多様さである。

 

波が滑らかで静かなときもあれば、波が押し寄せてフィギュレーションが刺さるような場合もある。ほとんどの場合、それぞれの手を波のように動かし、もう一方の手と連続的に調和するパターンとフィギュレーションを生み出すように扱う。これらの波は、常に短い「ピング音」によって明瞭に表現され、小さな道しるべとなり、内部の小さな単位をおよそ「3-3-2-4」の比率で示す。


『Phrygian Gates』は一種の巨大構造であり、相当な肉体的持久力と、長い音のアーチを持続する能力を持ったピアニストが必要とされます。一方、『China Gates』は若いピアニストのために書かれたものです。演奏者のヴィルトゥオーゾ的な技術的効果に頼ることなく、同じ原理を利用している。

 

この曲もまた、2つのモーダルな(様式的な)世界の間を揺れ動くが、それは極めて繊細に行われている。この曲は、暗さ、明るさ、そしてその間に内在する影の細部に真摯に注意を払うことを求めるような曲であると私には感じられる。-John  Adams


「China Gates」

 

 

  60年代半ばはサイケデリックな時代の幕開けとなり、急成長を遂げたロンドンのアンダーグラウンド・シーンでは、当時のムードに合ったドリーミーでトリップしたようなサウンドを生み出すバンドが数多く登場した。

 

60年代のサイケデリック・シーンのあまり魅力的でなかった特徴のひとつは、一部のパフォーマーたちが自分たちのことをあまりにも真剣に考えすぎていたことだ。新しいバンドが次々と登場しては消えていく様子は、すぐに地元の図書館の神話コーナーでビックバンが起こったかのような印象を与えた。

 

このシーンから、「ダンタリオンの戦車」、「ヤコブの梯子」、「アフロディーテの子供」、「神々」といったありそうもないタイトルのバンドが次々と登場したのだ。幸運なことに、アクエリアスの時代を祝うために真剣に努力する、前兆のある名前のグループの流れの中で、このシーン全体が少し真剣すぎるのではないかという考えに、喜んで首肯する人たちが何人かいた。いくつかのバンドは、アンダーグラウンド・シーンは単なる一過性のジョークに過ぎないかもしれないと認識し、グループ名にやんわりと自嘲的なダジャレを取り入れることで、出口をしっかりと見据えていた。

 

 

  1965年、あるバンドは、イギリスのケンブリッジ出身の友人たちにロンドンの建築大学出身の新しい知り合いを加え、結成された5人組のラインナップを擁していた。当初、グループは、小さなクラブやプライベートなパーティー、そして、自分たちの大学の安全な場所でギグを演奏していた。「RAFノースホルト」で行われた広い世界でのギグに飛び出してみると、意外なことに、ロンドン・サーキットに「ティー・セット」と名乗る2つのグループがいることがわかった。

 

ライブ会場の必然的なダブル・ブッキングを避けるため、新参グループたちはその場で代案を出すことになった。彼らのリード・シンガーがすぐに決めた名は、「ピンク・フロイド・ブルース・バンド」だった。1965年の初夏から、この名前はポスターやフィルターに登場するようになった。ピンク・フロイド・ブルース・バンドには当初、ボブ・クロースがギターとヴォーカルで参加していた。ボブはあまり長くは活動せず、バンド名のブルースの要素もなかった。1965年の夏までにバンドは4人編成にスリム化され、バンド名もそれに合わせて縮小された。その後数年間、バンドは「ザ・ピンク・フロイド』として知られることになる。バンドがようやく定冠詞の『The』を振り払うことができたのは、1970年代初頭のことだったが、1971年までには、彼らは単にピンク・フロイドとして広く認知されるようになっていた。

 

  ピンク・フロイドとして知られる4人組の初期メンバーは、ベースのロジャー・ウォーターズ、キーボードのリチャード・キース、ドラムスのニック・メイスンだった。リード・ギターとヴォーカルを担当したのは、ロジャー・キース・バーネットで、シド・バレットとしてよく知られている。シドのグループにとって、報われない無名の長い年月はなかった。バンドは、初期のリズム・アンド・ブルースのスタンダードを捨て去り、次のようなスタイルで活動していた。1966年11月までに、このバンドに関する情報は首都の居心地の良い世界を超えて広く伝わり始めていた。

 
  ケント州で発行されている地元紙『ヘラルド』は、ピンク・フロイドのメンバーへのインタビューをいち早く掲載した。リック・ライトは、この特別なインタビューを担当し、バンドの音楽が急速に拡大する聴衆に与えた影響を説明する仕事を任された。

 

「それは時々、驚嘆に値するポイントに到達します。それはうまくいったときで、いつもというわけではありません。そのとき、楽器が私たちの一部になるのではなく、音楽が私たちから出ていることを実感するんだ。私たちの背後にある照明やスライドを見て、そのすべてが私たちと同じように観客に影響を与えることを願っています」

 

「完全に自然発生的なものなんだ。私たちはただアンプリファスターを上げ、それを試してみた。でも、私たちが望むものを正確に手に入れるまでには、まだ長い道のりがある。さらに発展させなければならない。私たちのグループは、どのポップ・グループよりもメンバー間の協調性が強いと思います。もちろん、ジャズ・グループのような演奏も出来る」「正しい音を出すためには一緒にいなければならないから、私たちは音楽的に一緒に考えるようになった。私たちの演奏のほとんどは、自然発生的でリハーサルのない即興的なものなんだ」

 

「私たちは比較的新しいグループで、本当に新しいサウンドを発信しているので、ほとんどの人は最初はただ立って聴いているだけです。私たちが、本当に望んでいるのは、音楽に合わせて、音楽と一緒に踊って、私たちの一部になってもらうことです。私たちが望んでいることを体験してくれる人がいると、ちょっとしたジャングルになるけれど、彼らは音楽と自分自身に夢中になっているから、それほど害はないわけです」「それは感情の解放であるが、外向きのものではなく、内向きのものであり、ですから誰もトランス状態になったりすることはないのです」



  アンダーグラウンド・シーンの口コミが急速に広まった結果、バンドはすぐに、権威あるサンデー・タイムズ紙を含む主要メディアの注目を集めるようになった、 1966年末、同紙はアンドリュー・キングにインタビューしたバンドに関する最初の全国的な特集のひとつを掲載した。


サイケデリックバンドと呼ばれることについて、マネージャーのアンドリュー・キングは次のように答えた。「自分たちをサイケデリックとは言わない。でも否定はしないよ」


ベース奏者のロジャー・ウォーターズはこう付け加えた。「しかし、それは協力的なアナーキーであり、私の言っている意味がわかるなら、それは間違いなくサイケデリアの目的を完全に実現していると思う。でも、もし、LSDを飲んだとしたら、何を経験するかはあなた次第。たいていは後者で、聴衆が踊らなくなると、口を開けたまま立ち尽くし、完全にグルーヴしてしまうんだ」


改善された音楽はもちろん好評で、渦巻くサイケデリックな光のショーが加わったことで、全体的な体験にアクセントが加わり、音楽がポイントを外れる瞬間がたびたびあったが、それもまた必要な気晴らしとなった。バンドが多大な時間と労力を費やしたのは、観客を引き離し、音楽を引き立て、時にはそれを凌駕するような、真に心を揺さぶるライト・ショーだったのだ。

 

このパワフルで即効性のあるインパクトの結果、ピンク・フロイドは、発売直後からすぐに聴衆の心をつかんだ数少ないバンドのひとつとなった。瞬く間にザ・バンドは、ロンドンで爆発的な人気を誇るサイケデリック・シーンの寵児となった。 

 

フロイドは1966年、伝説的なクラブ、マーキーへのレギュラー出演から始まった。その年の暮れには、同じく有名なUFOクラブがオープンし、ピンク・フロイドは急速にこのクラブのハウス・バンドとなり、ヒップでトレンディとされるものすべてのバロメーターとして広く認知されるようになった。



  1969年の9月、リック・ライトはUFOのクラブでの体験について、Top Pops and Music誌に次のように解き明かした。

 

「僕らが駆け出しの頃は、ヒットシングルを出さないと誰も聴いてくれなかった。当時は、音楽は踊るものだった。でも、踊らない人が多いのは残念だね。今のところ、観客は頭で考えているだけで、身体で感じていない。でも、これから変わっていくだろうね。私たちはUFOでこのことに気づいた。僕らが始めたころは、観客全員が踊っていたんだけど、だんだん踊らなくなり、聴くようになった。UFOはその変化にとても大きな役割を果たしたと思うね」

 

「以前はPowis Gardensの教会ホールで開催されていた、ワークショップのような雰囲気だった。すべてがオープンになり、とてもいい気分だった。すべて実験的なもので、当時は音楽と照明で何とかしていた」

 

「当時、私たちの生活の中心はUFOだった、すべてがオープンになり、とてもいい気分だったよね。フロイドはステージの上にいたけれど、観客や他のすべての出来事も同じくらい重要だった。お金は関係ないんだ。今はもっとプロフェッショナルな態度を取らなければならない。今でもたくさんの実験をしているが、同じではない。みんな私たちのことを知っているし、何を期待するかもわかっている。その 今の観客の感じはいいけれど、僕らの背後には、確立するために戦い抜かなければならなかったことがある。結成したてのころは、基本的に音楽を聴くために演奏していただけで、将来のことは考えていなかった。でも今は、しばらくはやっていけるという自信がある」

 

 




  1967年1月14日、UFOでの体験に近い時期に、ニック・メイソンとロジャー・ウォーターズはMelody Maker誌のインタビューを受けた。

 

「マネージャーが現れ、フルタイムで照明を担当する人を探し始めるまでは、私たちはとても混乱していた。その照明係は文字通りグループの一員でなければならない。初期の頃は、エレクトロニックな音楽はあまり演奏していなかったし、スライドもまだアマチュアっぽかった」

 

「しかし、今ではそれが発展し、主に改良されたエレクトロニックシーンへの "テイクオフ "はより長くなり、もちろん、私の意見では、スライドはとんでもないものに発展した。彼らは本当に素晴らしい。自分たちをサイケデリック・グループと呼んでいるわけでも、サイケデリック・ポップ・ミュージックをやっていると言っているわけでもない。ただ、みんな僕らをサイケデリックと結びつけて、ロンドンのいろんなフリークアウトやハプニングでよく起用されるんだ」

 

「サイケデリックという言葉に定義はないよ。サイケデリックという言葉はそもそも、私たちの中にあるのではなく、私たちの周りにあるものなのだから」とロジャー・ウォーターズ。「それは私達が数多くの機材と照明を持っているからであり、プロモーターがグループのために照明を雇う必要がないからだと思います。とにかく、フリークアウトは非公式かつ、自発的であるべきです。これまで最高のフリークアウトは、何百人もの人々が集まるパーティーにいるときだった。フリーアウトは、ビンを投げつける野蛮な暴徒であってはいけないんだ」

 

 





  もちろん、フロイドには誇大広告やフリークたち以上のものがあった。当時、光と音を組み合わせて本物のオーディオ・ビジュアル体験を提供する最前線にいた彼らは、そのステージ・ショーにも気を配っていた。

 

初期の実験は、大学の講師であり、家主でもあるマイク・レナードの協力を得て行われた。当時の基準では、パフォーマーや観客に投げかけられた渦巻くような色彩のパターンは、革新的で実に印象的だった。 刻々と変化する照明ショーは、催眠術のように脈打つ音楽のリズムに合わせて手作業でシンクロされ、結果、純粋に不穏なインスピレーションと催眠術のような効果が生まれた。レオナードのライトショーは、BBCの人気の科学番組『Tomorrow's World』のピンク・フロイドを特集したエピソードに収録されるほど、アヴァンギャルドであった。 


これらの初期のテレビ放送はもちろん白黒だったので、イベントは何か訳がわからなくなってしまった。コンサートの観客の薬漬けの部分にとって、ショーは確かに衝撃的だった。しかし、先入観を捨て、即興演奏の実験的な側面を受け入れる準備ができていたストレートな観客にとっても、このショーは同じように効果的だった。



  バンド結成当初の原動力となったのは、もちろんシド・バレットだった。しかし、当時のアンダーグラウンド・シーンがいかに小さく、ロンドンに集中していたかは興味深い。ピンク・フロイドがスウィングするロンドン・シーンの高みに上り詰めていくのに忙しかった頃、『アトム・ハート・マザー』の共作者であるロン・ジーシンのような未来のフロイドの共同制作者たちは、この高まりつつある現象にまったく気づいていなかったと、後になって回想している。

 

「シド・バレットとのピンク・フロイドは私の視野の外だったよ。彼自身の音楽に関しては、ちょっとボロボロで個性的だと言えるかもしれないね。実際、シド・バレットを見たのは、私たちが『アトム・ハート・マザー』をやっているときに、アビー・ロードのセッションにひょっこり顔を出したときだけだった。彼はスローモーションで2、3回転してまた出て行ったよ」


ロン・ジーシンはフロイドのことをあんまり知らなかったかもしれないが、常に次のセンセーションに目を光らせていたロンドンの流行に敏感な観客たちは、パワフルなライヴ・ショウを繰り広げる彼の素晴らしい新バンドの音楽をよく知っていた。

 

  1967年初頭には、フロイドはアンダーグラウンド・シーンで大きな話題となり、フロイドの体験を初めてフィルムに収めたインディペンデント・フィルム・メーカー、ピーター・ホワイトヘッドの注目を集めた。彼は、サウンド・テクニック・スタジオで「Interstellar Overdrive」を演奏するバンドを撮影し、1968年1月13日のUFOクラブでのパフォーマンスと、1967年4月29日にロンドンのアレクサンドラ広場で行われた24時間の "ハプニング "と称された24 hours Technicolour Dreamをモンタージュした映像に切り替えた。


  数週間後、『Record Mirror』のインタビューに応じたロジャー・ウォーターズは、フロイドの音楽とこれらの出来事との関連性を説明しようとした。「俺たちは好きなものを演奏するし、演奏するものは新しいんだ。 ファンが聴きたいものをやっているのは、俺たちだけだから、俺たちをこの新しい時代のハウス・オーケストラと表現することもできるだろう。私たちは、自由と創造性を含む現在のポップス全体の一部であり、楽しませることだけをやっている。私たちは、通常、リンクされない音をリンクさせるし、通常、リンクされない光をリンクさせる。自分たちが本当に言いたいことを示すため、アルバムに多くを頼っているんだ。私たちは、発展させようとしている。ただ、他のアーティストのコピーをしたり、アメリカのレコードを手に入れて、一音一音書き写していくような人たちに、私たちはあまり時間を割けない」


このような強力なビジュアル・ストーリーによって、テレビ局もアンダーグラウンド・シーンのワイルドで素晴らしい世界に興味を持ち始めるのに時間はかからなかった。1967年1月下旬、グランダ・テレビジョンは『Scene Special』というドキュメンタリー番組のために、UFOクラブで『Interstellar Overdrive』を演奏するバンドを撮影した。このエピソードのタイトルは "It's So far Out It's Straight Dawn "であったが、これはフロイドの音楽のクオリティを揶揄したものであったかもしれない。

 


  新たにプロとなったフロイドは、ブラックヒル・エンタープライズというマネージメント会社を設立。マネージャーのピーター・ジェナーとアンドリュー・キングは、以前はバンドのためにギグをブッキングしており、初期のフロイドの活動の原動力となっていた。時代の真の精神を反映し、ジェナーとキングは後にBlackhill Enterpirsesの所有権を自分たちとグループの間で等分した。グループのもう一人の初期の支持者は、ジョー・ボイドというアメリカのA&Rマンだった。


新生のプロフェッショナル・フロイドは、ブラックヒル・エンタープライズというマネージメント会社を彼らの代理人として指名した。マネージャーのピーター・ジェナーとアンドリュー・キングは以前、バンドのためにギグをブッキングしており、初期のフロイドの活動の原動力となっていた。

 

グループのもう一人の初期の支持者は、ジョー・ボイドというアメリカのA&Rマンだった。ジョーは、ブラックヒルをDoors以前のエレクトラ・レコードとの契約に誘うことに熱心だった。エレクトラはレーベルとして断られたが、ボイドは代替案としてポリドールを提示した。1967年2月、バンドはポリドールを念頭に置いて、ジョー・ボイドがサウンド・テクニック・スタジオでプロデュースした「アーノルド・レイン」のファースト・シングルをレコーディングした。このキャッチーなサイケデリアは、ポップ・ビデオの時代よりもずっと前に、プロモーション・フィルムまで制作されている。

 

デレク・ナイスがプロデュースと監督を務めたこの素朴で小さな短編映画は、基本的に流行のビートルズ・スタイルで撮影されており、4人のフロイドが仕立て屋のマネキンと浜辺ではしゃぎまわるという内容だ。このフィルムが1967年3月10日にUFOクラブで世界初公開された時、この地味なフィルムが、セルロイドに記録されたロック音楽の中で最も強烈なオーディオ・ビジュアル体験の先駆けになるとは、誰も思いもよらなかっただろう。


アーノルド・レインのポリグラムへの前進は、ロンドンのエージェント、ブライアン・モリソンの介入によってハイジャックされた。EMIは、すでにレコーディングされ準備の整った興味深いネス・イングルを携えていたため、このバンドが勝者であることを知っていた。ザ・バンドは、ビートルズの本拠地として誰もが認める名門レーベルと契約できたことを同様に喜んだ。とても "英国的 "な曲であるアーノルド・レインは、ロジャー・ウォーターズとシド・バレットが彼らの故郷ケンブリッジで実際に遭遇した出来事にインスパイアされた。シドとロジャーの母親はともに女子学生を下宿させており、下着の洗濯物干し場は定期的に下着泥棒に荒らされていた。


「Arnold Layne」Music Video

 

  バレットは1967年、メロディ・メーカー誌にこの曲の背景をこう語っている。「最近書いたんだ。アーノルド・レインっていい名前だと思ったし、すでに作曲していた曲にもぴったりだった。ベースのログの家の裏庭に巨大な洗濯物干し竿があったんだ。それで、アーノルドには趣味があるに違いないと思ったんだ。アーノルド・レインはたまたま女装が好きだったんだ。誰もが反対できる歌詞は、この部分だけだろうね。でも、もし彼らのような人たちが僕らを嫌うのなら、アンダーグラウンドの人たちのような人たちが僕らをディグすることになる」

 

B面はキャンディ・アンド・カレント・バン(Candy And A Current Bun)で、これもバレット作曲。原題は『Let's Roll Another One』で、EMIはタイトルを変更することを条件にリリースを承諾した。バンドはまだ初期で、党派的な路線に従うことを望んでいたため、タイトルは正式に変更された。

 

A面という珍しい題材にもかかわらず、バンドがEMIと契約して最初にリリースしたこの作品は、レコード購入者の間で意外なヒットとなった。しかし、ブラックヒル・エンタープライズのオフィスでは、サプライズの要素はやや薄かった。後にアンドリュー・キングが明かしたように、この曲をシングル・チャートで20位という立派なポジションに押し上げたのは彼らだった。歌詞に対する俗物的な反応から、このシングルは発売禁止にすべきだという声が一部から上がっていたことを考えると、シングルを宣伝するという決断は賢明なものだった。しかし、海賊ラジオ局ラジオ・ロンドンは、このシングルを正式に放送禁止にしたのだ。


ロジャー・ウォーターズ、リック・ライト、シド・バレットは、このシングルのリリース時にインタビューに答えている。ロジャーは「現実を直視しよう、海賊局はアーノルド・レインよりもずっと "スマート "なレコードをプレイしているんだ。実際、この曲を流しているのはラジオ・ロンドンだけだ。政治が違うだけで、僕らに恨みがあるわけじゃない。リック・ライトは彼自身の見解を付け加えた。「政治が違うだけで、反対するようなことは何もない」バレットは「どうせ、ビジネスライクな商業的侮辱にすぎない。私たちに個人的な影響はないんだ」と一蹴した。

 

 幸運なことに、アーノルド・レインに続くシングル『シー・エミリー・プレイ』は物議を醸すこともなく、商業的にも成功した。『シー・エミリー・プレイ』はチャート6位を記録し、60年代の短い花の期間に制作されたサイケデリック・ソングの中でも間違いなく最高傑作のひとつとなった。 

 

 

「See Emily Play」 

 

 

  この曲は、バンドが1967年春にクイーン・エリザベス・ホールで行った特別コンサート『Games for May』のために書かれたもので、歌詞の中でもそのイベントの名前がチェックされている。

 

その直後、『Record Mirror』はロジャー・ウォーターズのインタビューに基づいた記事を掲載し、このイベントについて触れている。「私たちは、彼らが聴きたいと思うものを演奏した最初の人たちの1人だから、ムーヴメントのハウス・オーケストラと表現できるかもしれない。私たちは、自分たちが好きなものを演奏することから始めただけで、現在のポップ・ムーヴメント全体の一部なんだ。僕らは、アナーキストじゃない。でも、私たちがやっているようなことは、クラブやダンスホールでやるよりも、コンサートでやるのが一番伝わるから、とても難しい立場にいるんだ。少し前にロイヤル・フェスティバル・ホールでコンサートを開いたとき、そこから多くのことを学んだが、同時に大損もしてしまった。すべてを手配するために、1週間の仕事をあきらめなければならなかった。Game for Mayと呼ばれるコンサートは夕方からで、私たちは午前中にステージに上がり、演技を練った。それまでは何をするか考えていなかった。それでも、個々のナンバーのリハーサルと照明の調整くらいしかできなかった」


『Games For May』はピンク・フロイドの発展における重要なマイルストーンとなり、バンドがライヴの音質に気を配るようになった最初の兆しを示すものとなったが、ニック・メイソンが当時のインタビューでこう振り返っているように、音楽に対する配慮はあまりなかったようだ。

 

「私たちはステージにたくさんの小道具を持っていき、即興で演奏したんだ。私たちがやったことのかなりの部分はうまくいったけど、多くのことは完全に失われてしまった。私たちは素晴らしいステレオフォニック・サウンド・システムを完成させ、それによって音がホールを一種のサークルのように巡り、観客はこの音楽に完全に包まれているような不気味な効果を得ることができた。もちろん、私たちは照明を使ってその効果を助けようとした。 残念なことに、それはホールの前の方に座っている人にしか効果がなかった」

 

「あのコンサートでは多くのミスを犯したが、この種のコンサートでは初めてのことだった。そして私たち個人も、そこから多くのことを学んだ。でも、自分たちがやっていること、過去3年間やってきたことが受け入れられ、他のグループが今やっているようなことに大きな影響を与えたと思うと、とてもいい気分だ。今年の2月になってから、僕らにとってすべてが起こり始め、プロに転向することを決意させた」


「しかし、待った甲斐があったよ。3年前は、それが何なのか誰も知らなかった。でも今、観客は私たちを受け入れてくれている。私たちは一般大衆を教育しようとは思っていない。もちろん何かを押し付けようとは思わない。でも、私たちが提供するものを受け入れてくれるのなら、そして今のところ受け入れてくれているようなら、それはとても素晴らしいことだと思う。私たちの考えが多くの人々に伝わっているのだからね」

イパネマの海岸


ボサノヴァは1950年代のブラジルを発祥とする音楽で、リオデジャネイロのビーチに隣接するコパカバーナとイパネマの2つの地区の中流階級の学生とミュージシャンのグループにより始まった。


このジャンルは、アントニオ・カルロス・ジョビンとヴィニシウス・デ・モラレスが作曲し、後にはジョアン・ジルベルトが演奏した「チェガ・デ・サウダージ」のレコーディングにより一躍世界的に有名になった。


もちろん、知名度で言えば、「イパネマの娘」も世界的な知名度を持つヒット・ソング。くつろいだアコースティックギターの演奏、甘いボーカル、パーカッションの心地良い響きなど、心を和ませる音楽は、今も世界のファンに親しまれている。

 

 

ボサはサンバとともにブラジルを象徴する音楽でありつづけたのだったが、同時にその誕生は、政治的な意味と文化的な表現が融合されて完成されたものだった。これはスカやレゲエの前身であるカリプソが当初、トリニダード・トバゴの軍事的な意味を持つ政府お抱えの音楽としてキャンペーンされたのと同様である。1956年から61年にかけてのジュセリーノ・クビチェック政権は、ボサノバの文化的な運動の発生を見るや、政権としてこの音楽を宣伝し、バックアップしたのだった。クビチェック政権がもたらした成果はいくつもある。ブラジルの国家の近代性の立ち上げ、全般的な産業の確立、それから自国での石油の生産と供給の権限である。もちろん、ブラジリア市建設の主導権を握り、国家の独立性の重要な立役者となった。


芸術運動は、そもそも経済産業の余剰物であり、経済産業の一部にはなっても、根幹となることは稀である。果たして、政治的、経済的の基礎的な安定なくして、国家の文化事業を生み出すことが可能だろうか? 


つまり、これこそが経済的に安定した国家から優れた音楽が登場する理由なのだ。幸運にも、50年代後半のブラジルは、上記の条件を満たしていたこともあり、比較的経済的に恵まれた若者の気分に余裕が出来た。つまり、余剰の部分が後の世界的な文化を生み出すことに繋がった。当時のリオデジャネイロが生み出したのは、何も音楽だけではない。リオは、その当時の世界の中心地である、パリやニューヨークに向けて、最新のファッショントレンドを発信した。

 

そして、この大統領政権時代には、無数の文化が世界に向けて輸出され、それらがブラジルの固有のカルチャーとなったのである。文学的な活動、また、そこから生まれた詩、シネマ・ノボ、自由劇場、新式の建築、ボサノヴァが世界に向けて発信された。ボサノバは、ブラジル音楽の歴史で重要な役割を果たし、サンバの音楽から熱狂的な打楽器の要素を取り除き、対象的に静かで落ち着いたサウンドに変化させ、米国のジャズやフランク・シナトラのジャズ・ボーカルの影響をもとに、それらを最終的にジャジーなムードを漂わせる大衆音楽へと昇華させたのだった。

 

 

Antnio Carlos Jobin


当初、リオの海岸の街で生み出されたブラジルのジャズとも言えルコのジャンルは、アントニオ・カルロス・ジョビンによって磨きがかけられた。 ジョビンはリオデジャネイロのチジュッカ地区に生まれたが、14歳の頃からピアノをはじめた。音楽で、生計を立てたいと若い時代から考えていたが、家族を養うため、建築学の道に進むことを決意した。


しかし、建築学校に入学後、どうしても夢を捨てきれず、ラジオやナイトクラブでピアノ演奏家として働いていた。その後、ハダメス・ジナタリによって才覚を見出され、コンチネンタル・レコードに入社し、譜面起こしや編曲の仕事に携わった。カルロス・ジョビンの音楽にプロデューサー的な視点があるのは、これらの若い時代の経験によるものだ。その時代から、幼馴染のニュートン・メンドゥーサと一緒に音楽活動を始め、これが後に、「想いあふれて(Chega De Saudade)」で完成を見た。このレコードが世界で最初のボサノバ・ソングと言われている。

 

 

 

アントニオ・カルロス・ジョビンの音楽には、幼少期からのクラシック音楽の薫陶、クロード・ドビュッシーのフランスの近代印象派に加え、ブラジルの作曲家、ヴィラロボスの影響があった。それに彼は米国のジャズの要素を加えて、ボサノバの代名詞となるサウンドを構築していく。歌詞についても、音楽と密接な関係があり、ブラジルのルートリズムに根ざしている。

 

「イパネマの娘」 はカルロス・ジョビンが1962年に録音したボサノバソングで、このジャンルの最大のヒット作である。この曲はヴァイニシウス・モライスが作詞を手掛けた。ビートルズの「ハード・デイズ・ナイト」に続いて、世界で最もカバーされた曲でもある。


イパネマとはリオの南部の海岸筋にある地区を指し、現在では名高いサーフィン・スポットとして知られている。海岸にある半島には遊歩道があり、素晴らしい夕暮れの景観を楽しめる。


イパネマ地区の近隣には、 緑の多い通り、ファッション・ブティック、ダイニング・レストランなどがずらりと並ぶ。現在でも、ボサノバのアコースティック演奏を楽しめる、くつろいだスペースもある。

 

 

Marcus Vinícius da Cruz e Mello Moraes


この曲は音楽家として知られるようになっていたジョビンと外交官/ジャーナリストのモライスが共作した。1957年頃から二人は、コンビを組んで活動を行っていた。両者はボサノバの最初のムーブメントを牽引した。

 

「イパネマの娘」の曲の誕生にまつわる面白いストーリーがあるので、ここでひとつ紹介しておこう。当時、ジョビンとモライスを始めとするボサノバのアーティストは、リオのイパネマ海岸近くにあるバー「ヴェローソ(ガロータ・デ・イパネマ)」に通い、酒を飲んでいたという。そこへ、エロイーザという少女が現れ、母親のタバコを買いに来た。10代後半の女、比較的背が高く、近隣でも有名であった。好色家の二人は、この女性にインスピレーションを得た。その場で即興で作られた曲という説もあるが、実際は作詞作曲ともに、二人の自宅で制作された。

 

1962年、この曲は正式にお披露目となった。そのお披露目には、ジョビン・ジルベルト、モライスとボサノヴァのスターが共演した。しかし、懸念すべき事項があった。この曲が初演されたのは、リオのナイトクラブ「オ・ボン・グルメ」で8月2日から45日間にわたって開催されたショーだった。外務省から「外交官がナイトクラブに出演するなど言語道断である!」との通告を受けたモライスは、報酬は貰わないと決めた上でステージに出演し、クラブに来客した友人の飲食代を肩代わりした。しかし、モライスは終始酒に酔い続け、飲み代がかさみ、あげくはナイトクラブのショーの後には出演者の料金まで受け持つことになったという。


 

『Getz / Gilberto』1964


後に、「イパネマの娘」は、スタン・ゲッツ、カルロス・ジョビン、ジョアン・ジルベルト、アストラッド・ジルベルトのバージョンで世界的に有名になった。1964年のアルバム『GETZ / GILBERT』は、ボサノバ・ブームの火付け役となった。本作は、ビルボード誌のアルバム・チャートで2位に達する大ヒット作となり、「イパネマの娘」もシングルとして全米5位に達した。


そして、グラミー賞では、アルバムが2部門(最優秀アルバム賞、最優秀エンジニア賞)を受賞し、「デサフィナード」が最優秀インストゥルメンタル・ジャズ・パフォーマンス賞を受賞、「イパネマの娘」が最優秀レコード賞を受賞した。本作の音楽は本来のボサ・ノヴァとは別物であると主張する声も多かったが、結果的には、アメリカにおけるボサ・ノヴァ・ブームを決定づけた。

 

「イパネマの娘」のリリース後、ブラジルと米国を中心に大ヒットを記録し、続いて、日本、フランス、イタリアで知られるようになり、世界的なヒット・ソングとなった。

 

スタン・ゲッツやチャーリー・バードといった米国のジャズ演奏家がボサをカバーしたのをきっかけに、米国にもこのジャンルが一般的に浸透した。優れたジャズ演奏家がボサノバを発見したことで、音楽的にも磨きがかけられた。シンコペーションが取り入れられ、洗練された響きを持つようになった。

 

De La Soul

・サンプリングはどのように発展していったのか?

サンプリングというのは、すでに存在する音源を利用して、それらをコラージュの手法で別の意味を持つ音楽に変化させるということである。つまり、再利用とか、リサイクルという考えを適用することができる。それはクリエイティヴィティの欠如という負の印象をもたらす場合もあるにせよ、少なくとも、ヒップホップミュージシャンやレーベル関係者にとっては、再利用という考えは、「音楽の持つユニークな側面」として捉えられていたことが想像できる。そして、すでにあるものを使うという考え、それはそのままラップのひとつの手法となっていった。

 

ヒップホップ・シーンでのサンプリングに関しては、70年代後半にはじまった。


1979年、シュガーヒル・ギャング(The Sugarhill Gang)の「Rapper’s Delight」のサウンドトラックを制作するにあたり、レーベルの経営陣は苦肉の策として、シック(Chic)の「Good Times」をコピーさせるという手法を選んだ。

 

そして、その18年後、ノートリアス・BIGの「Mo Money Mo Problems」の曲を制作するさい、ション・パフィ・コムズが選んだのはダイアナ・ロスの「I Coming Out」をただサンプリングしただけだった。どちらの原曲もナイル・ロジャースによって書かれた。


当初、こういったサンプリングとかチョップの試みは、シュガーヒル、エンジョイといったラップアーティスト、スタジオでバンドを使った初期のラップレコードの多くによってもたらされた。それは、ブレイクビーツの手法を用いず、こういったサンプリングを使用すると、ラジオ曲でオンエアされやすいという事情もあったため、積極的に使われていくようになった。そして当時はソウル全盛期に音楽的なルーツを持つミュージシャンの象徴的なメンタリティでもあった。

 

以降、サンプリングの手法がひろまると、この技法はソウルの後のヒップホップを聴いて育ったミュージシャンのトラックメイクの重要なファクターになり、ヒップホップの新しい可能性を開くための道筋を開く。ライブステージでしか生み出し得ないと思われていたリアルな音楽をレコーディングやレコード・プロダクションの過程で生み出すことが可能になった。これはレコードという媒体が、単なる記録の集積以上のものとなり、以前に演奏されたサウンドや再発見されるサウンドの集合体という、今までとは違った意義を持つようになった。

 

ただ、この時点では、サンプリングは、ミュージシャンだけの特権ともいうべきものにすぎず、一般的なリスナーにはあまり知られていなかった。この手法を一般に普及させたのが、パブリック・エネミー(Public Enemy)、そして、昨年、サブスクリプションで全作品を公開したデ・ラ・ソウル(De La Soul)である。

 

(昨年末、ビースティ・ボーイズ、デ・ラ・ソウルのプロデューサーと制作を作ったイギリスのDef. foというミュージシャンとメールでやりとりとしていたが、こういったミュージシャンに関しては、新しいものにこだわっておらず、良い音楽を再発見するというサンプリング的な意義を見出そうとしている。彼の作品には、ベル・アンド・セバスチャンのキーボード奏者も参加している)

 

ちなみに、デ・ラ・ソウル、そしてパブリック・エネミーは両方とも、ロングアイランド出身のグループである。とくに、パブリック・エネミーの代表作『Public Enemy Ⅱ』は、ブラック・パンサー党の思想、そして、ネイション・オブ・イスラームの理念をかけあわせ、黒人を排除する冷血な社会構造と対決する姿勢が示されていた。これが同じような思いを持つブラザーに大きな共鳴をもたらしたのである。そして、サンプリングという観点から言うと、現在のヒップホップミュージシャンがそうであるように、ヘヴィメタルの再利用が行われ、スラッシュ・メタルの先駆的なバンド、アンスラックス(Anthrax)の音源が彼らのトラックに取り入れられていた。最近でも、JPEGMAFIA、Danny Brownが、SlayerやMayhemのTシャツを着ていたのは、詳しいファンならばご存知と思われる。彼らがスラッシュメタルやブラック・メタルに入れこんでいるらしいのは、パブリック・エネミーからの時代の名残り、あるいはその影響と言える。

 

Public Enemy

そして、サンプリング・ミュージックの今一つの立役者がヴィンテージ・ソウルをブレイクビーツ的な手法で取り入れたのが、デ・ラ・ソウルである。デ・ラ・ソウルのデビューアルバム『3 Feet High and Rising』で、ラップはもちろん、歌やジョーク、寸劇などが爽快に散りばめられた24曲入りの超大作だった。

 

このアルバムは、パブリック・エネミーの『Ⅱ』の一年後に発売された。パブリック・エネミーの作品がストリートギャングの余波を受けた黒人としての怒りとアジテーションを集約した作品であったとするなら、デ・ラ・ソウルのデビュー作は、それとは対比的に、子供っぽさ、無邪気さ、可愛らしいサウンドが織り交ぜられた作品だった。デ・ラ・ソウルのデビュー作の中には、彼らのソウル・ミュージックに対する愛情が余さず凝縮されていた。スティーリー・ダン、オーティス・レディング、スライ・ストーン、ダリル・ホール&ジョン・オーツ等、ネオソウルからモータウンのソウルまで幅広い引用が行われている。そして、デ・ラ・ソウルは、これらのミュージシャンの曲を見事に組み合わせた。それは「拡散的なサウンド」ともいえるし、ブレイクビーツの系譜の重要な分岐点となったことは想像に難くない。そして、トゥルーゴイとポスダナスが繰り出したのは、ジョークとウィットに富んだリラックスしたリリックだった。

 

彼らの音楽は、ソウルミュージックの系譜にあると同時に、ヒップホップの友愛的な側面を示していた。80年代に活躍したプロデューサーは、こぞってサンプリングに夢中になり、権利関係を度外視し、音楽のサンプルをかなり自由に使用していた。しかし、サンプリングが商業音楽として普及していくと、同時に著作権やライセンスに関する問題が生ずるようになり、以降は音楽業界全体が、著作権というものに関して一度十分な配慮をおこなう必要性に駆られた。

 

 

・サンプリングと権利問題  利益性とライセンスの所在

 

著作権におけるサンプリングの問題を提起する契機を与えたのが、他でもない冒頭で紹介したシュガーヒル・ギャングの「Rapper's Delight」であり、このシングルがチャートで大ヒットを記録した時だった。

 

このシングルが大ヒットすると、元ネタとなった「Good TImes」を書いたバーナード ・エドワーズ、及び、ナイル・ロジャースは訴訟を起こし、シュガーヒル・ギャングのソングライターのクレジットと印税を獲得することで、この話は収まったのだった。このライセンスに関する問題は、1979年に、報道で大きく取り上げられたというが、それでもサンプリングはこの年以降も比較的自由に使われ続けていた。楽曲のサンプルの元となったソングライターにとって、サンプリングされるということは、経済的に美味しい話をもたらす格好の機会となった。そして、サンプリングは事実、それ以降は弁護士の間で、大儲けのネタになるという話が盛り上がったのである。現在でも、レーベルの方からミュージシャンに、サンプリングやリミックスをしないか、という提案がある場合があるというが、これは早くいえば利益を生むからである。


金銭的な問題や争点と合わせて、一般的な解釈として、サンプリングに対する警戒感が強まった要因には、人種に関する差別意識も含まれていた。サンプリングそのものが、一般的に嫌悪感を持って見られるようになったのは、パブリック・エネミーやデ・ラ・ソウルといった、ブラック・ミュージックの一貫として、オリジナル曲が使用されるようになってからのことである。

 

サンプリングの一番の問題とは、サンプリングされた後に、元ネタとなるミュージシャンの楽曲の価値がどれくらい残されているかという点にある。つまり、音楽的な貢献度の割合自体にクレジットの付与を行うべきかどうかの判断基準が求められるはずだ。もしかりに、元ネタの曲が、有名でもヒット・ソングでもなければ、クレジットする必要はきわめて低いと明言しえるが、デ・ラ・ソウルなどの上記のサンプリングの問題は、有名な音楽が引用元として使用されたことが争点となった。しかし、ここでも矛盾点が生じる。例えば、有名ではない音楽、ヒット・ソングではない音楽そのものが、そうではない音楽よりも価値が乏しいのかという問題だ。

 

1979年の問題に関しては、いわば楽曲を使用された側の感情的な側面が、法律的な騒動を惹起するように働きかけたと考えられる。一例では、ヒップホップという音楽自体を嫌悪していたロック・ミュージシャン、ポップ・ミュージシャンが、自分の楽曲がネタとして使用されていると気がついた時、こういったミュージシャンは、そのことを糾弾するばかりか、ラップそのものに対する敵意すらむき出しにしたのである。しかし、サンプリングに対して問題視しなかったのが、ベテランのR&Bミュージシャンであった。ただ、この点については、彼らが音楽業界で、騙されたり、マージン等をごまかされていたため、それほど権利自体に配慮しなかったのが要因だったという指摘もある。こういった流れが沸き起こった後、プリンス・ポールは、デ・ラ・ソウルと「Transmisitting Live From Mars」で知られるポップバンド、タートルズの曲の一部を使用したということで訴訟が起こり、そして示談金で自体の収束を図ったのである。

 

ただ、これ以降もサンプリングは受け継がれていった。しかし、デ・ラ・ソウルの時代に比べると、攻めのサンプリングはできなくなり、守りのサンプリングという形でひっそりと継続された。以後は、パブリック・エネミーのような鋭角でハードなサウンドは鳴りを潜め、耳慣れたビートやボーカルの一部のフックを織り交ぜた単純なサンプリングが使用されることになった。

 

単純なループサウンドが主流になると、音楽的にもシーンの新しい存在を生み出すことに繋がった。ハマー、クーリオ、ショーン・パフィー・コムズの曲が大ヒットを記録する過程で、その元ネタとなったR&Bの古典的なカタログは、金のなる木、もしくは資金的な鉱脈と見なされるようになった。

 

この点においては、サンプリングの良い側面が存在する。それは、サンプリングされてヒットすると、元ネタとなるミュージシャンの楽曲も同時に売れるということである。たとえば、スターミュージシャンが、それほど有名ではないミュージシャンの曲のサンプリングを行うと、元ネタの曲もヒットするという相乗効果が求められる。ただ、これに関しては、引用を行ったアーティストがわかりやすい形で、なんらかの表記かリスペクトを示す必要があるように思える。

 

 

・以後の時代 他ジャンルへのサンプリングの普及 

 

Beastie Boys

1990年代に入ると、サンプリングという考えは、音楽業界ではより一般的なものとなった。そして、これらの土壌は、むしろヒップホップを聴いて育った第2世代ともいうべきミュージシャンによって受け継がれていく。ビースティ・ボーイズ、トリッキー、ベックといった90年代のミュージックシーンの象徴的な存在はもちろん、ダンス・ミュージックシーンでも、ケミカル・ブラザーズ、プロディジーといったグループがサンプリングの手法を用いた。定かではないが、ゴリラズもおそらく、それらのグループに入っても違和感がないように思える。


その後、サンプリングという考えは、電子音楽に対するテクノロジーの一貫として、以後の世代に受け継がれていくことになった。現在では、インディーロックやオルタナティヴロックで、このサンプリングの手法を用いるケースが多い。例えば、それらをコラージュのように組み合わせ、別の音楽として再構築するというのが、現在のサンプリングの考えである。代表的な事例が、Alex Gであったり、Far Caspianという優れたソロミュージシャンである。彼らの素晴らしさは、元ある表現性を踏まえた上で、それを全然別のニュアンスを持つ音楽として昇華することにある。それはオルトロックという範疇に、新しい表現性をもたらしたと考えることができる。

 

もちろん、サンプリングのやり方というのも重要で、なんでもかんでもやって良いというわけにはいかないだろう。どの程度、原曲やその楽曲を制作したアーティストに敬意を示しているのか、もし、単なるネタとして原曲を捉えているとなれば、これはちょっと問題である。影響を受けることは仕方ないが、他のものに触れないでも、優れた音楽を生み出すことができるかもしれない。

 

現代のミュージシャンは、そもそも、広汎に音楽を聞きすぎている、という印象を受ける。なぜなら、ダイアナ・ロス、マイケル・ジャクスン、プリンスの時代には、音楽の総数はもっと少なく、音楽の影響も限定的だったと推測される。しかし、上記のミュージシャンが現在のミュージシャンに劣っているとは到底思えない。従って、そのことを照らし合わせてみれば、現代のミュージシャンは、他の音楽を厳しく選り分けて聞くべきかもしれない、というのが私見である。 


私自身は、サンプリングという技法を用いることに賛成したいが、それはミュージシャンの美学を元にし、条件的かつ限定的に使用されるべきと考えている。厳密に言えば、サンプルの素材を「なぜ、そこで引用する必要があるのか?」を明示しなければいけないと思う。次いで、そのサプリングではなく、「他のサンプリングでも代替できる」という場合、理想的なものとは言いがたい。サンプリングは、そうでなければいけない素材を最適な場所で使用せねばならないという、限定的な音楽形式ということを把握した上で、クリエイティビティを誰よりもクールに発揮すべきである。 以上の考察を踏まえて、サンプリング音楽の更なる発展に期待したい。



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ーグルジエフの人生と考え

 

 

グルジェフは、コーカサス地方のアルメニア出身の神秘思想家で、20世紀最大のオカルティストとして知られている。神秘思想家としては、一般的にヘルメス主義の影響を受けているといわれ、イスラム神秘主義の「スーフィズム」の影響下にあるという説もある。彼はオカルティストとして絶大な影響力を誇った。

 

グルジェフは、ギリシャ系の父とあるルーマニア系の母のもとに生まれた。青年時代のグルジエフは、医師と牧師になるという夢を抱えていたが、その医術は、現代的に解釈すると、神秘主義的な治癒の方法に焦点が置かれていた。以後、彼は古文献を渉猟し、神秘主義者としての道のりを歩み始めた。彼の行動の手始めとなったのが、コーカサス地方をはじめとする放浪の旅である。


グルジエフは、アナトリア、エジプト、バビロニア、トルキスタン、チベット、コビ、北シベリア、東欧から小アジア、アラビアをくまなく歩いた。彼の探究心は、最終的に古代文明に行き着き、複数の秘技的な宗教集団と接触する。そのなかには、イスラム、キリストの神秘主義派、チベット密教、シベリアのシャーマニズムなど、多岐にわたるレリジョンが含まれている。

 

グルジェフは、複数の地域で秘技的な文化に接するが、最も強い触発を受けたのが、西アジアの北ヒマラヤにある「オルマン僧院」と言われている。ここにグルジェフは数ヶ月滞在し、イスラム神秘主義のひとつとされる「スーフィズム」を通じて、「大いなる知恵」を掴んだとされる。

 

しかし、グルジェフは意外にも、最初に実業家として名を揚げた。 20世紀初頭、チベットから戻った彼は、中央アジアのタシュケントで事業をはじめ、それを拡大させ、いつの間にか大金を手にしていた。彼が第一次世界大戦直前の社会的に混迷を極めていたロシアに姿を現した時、すでに彼は100万ルーブルもの資金を手にしていた。


この時代、彼は、実業家としての並々ならぬ才覚を発揮し、鉄道、道路のインフラ、レストラン、マーケット、映画館の経営に携わり、驚くべき大金をその手中に収めた。1ルーブルを現在の円のレートで換算すると、グルジエフは1,5億円以上もの収益を上げたということになる。 金銭価値は市場の相対的な評価に過ぎないので、現在ではさらに多額の価値があると推測される。

 

以降、ヨーロッパの貴族社会の人々や名士と交流を交わし、名声を獲得していったといわれている。そのなかで、新約聖書のなかで使徒が語ったように、ナザレのイエスがなした奇跡的な治療を施し、これがのちに、20世紀最大の神秘思想家として知られる要因になったと推測される。

 

グルジェフは、神秘主義の教団の首領として弟子たちをワークというかたちで先導するかたわら、アラビア、イスラム、スラブの民族音楽に触発された音楽家/舞踏家として芸術的に優れた才覚を発揮し、数年間で複数のスコアを遺している。なぜ、体系的な音楽教育を受けていないグルジェフが、音楽や舞踏という分野に活路を見出したのかは不明だが、これは秘技的な教団を率いる以前の放浪の時代に、音楽的な源泉が求められるのは明白だろう。彼は、それらをアカデミーで学ぶのではなく、生きた体験として学んだことは想像に難くない。グルジェフの音楽には、ヨーロッパ、南米、南アジアとも異なるエキゾチックな響きがある。その楽曲の演奏時には、Santur、Tmbuk、Duduk、Pkuなど、アラビア、イスラム圏の固有の楽器が複数使用される。

 

そして、グルジェフがアナトリア、エジプト、バビロニア、トルキスタン、チベット、コビ、北シベリア、東欧から小アジア、アラビアといった若い時代に旅をした地域のエキゾチズムが彼の音楽の根幹を成すことは、実際の音源を聴けば痛感できる。

 

彼の神秘主義の教えの中には、現代社会に通じる真実性が含まれていることがわかる。グルジェフは、「人類全体が目覚めておらず、眠ったままの隷属的存在」であるとし、そこから開放されることの重要性を訴えた。それを単なる神秘思想やオカルトと結びつけることは簡単だが、現代的な視点から見ると、スピリチュアリティに基づく思想だけを最重要視すべきではないように思える。

 

グルジェフは生前、弟子に対して、人類がなぜ戦争を幾度も繰り返すのかについて、そして戦争がなくならない理由について次のようなことを語っている。彼が話すのは1世紀前のことだが、しかし、2020年代の東欧やイスラエルで起きていることに深い関連性を見出すことができる。


ーー戦争を嫌う人々は、ほとんど世界が創造された当初からそうしようと努めてきたと思う。それでも、現在やっているような大きい規模の戦争は一度もなかった。戦争は減るどころか、時代とともに増えていて、しかもそれは普通の手段では止めることが出来ない。世界平和や平和会議に関する議論も、単に怠惰の結果であり、どころか欺瞞に過ぎない。 人間は、自分自身について考えるのも嫌でたまらず、いかにして他人に望むことをやらせることばかり考えている。

 

ーーもし、戦争をやめさせたいと考える人々の十分な数が集まれば、彼らはまず彼らに反対する人々に戦争を仕掛けることから始めるだろう。そして、彼らはそういうふうに戦うだろう。人間は今あるようにしかなれず、別様であることは出来ない。

 

ーー戦争には我々の知らない多くの原因が潜んでいる。 ある原因はひとりの人間の内側にあり、また別のものはその外側にある。そして戦争を止めるためには人間の内側から手をつけなければいけない。環境の奴隷であるかぎり、巨大な宇宙のちからという外的な影響をいかにして免れることができるのか? 人間はそもそも、まわりの外的な環境に操られているだけだ。もし、それらの物事から自由になれれば、そのときこそ人間は本来の意味で自由な状態になることができる。

 

ーー自由、開放、これがまず人間の生きる目的でなければならない。自由になること、隷属の状態から開放されること、これこそ人々が獲得すべき目標となるだろう。内面的にも外面的にも、奴隷状態にとどまるかぎり、その人は何者にもなることもできず、また、何もすることができない。内面的に奴隷であるかぎり、外面的にも奴隷状態から抜け出すことはできない。だから自由になるためには、人間の内的自由を獲得しないといけない。

 

ーー人間の内的な奴隷状態の第一の要因となるのは、その人自身の無知、なかんずく自分自身に対する無知である。自分自身を知らずして、みずからの内側にある機械的な動きとその機能を理解せずには、人間は本当の意味で自由になることも、自分自身を制御することもできない。それは単なる奴隷に過ぎないか、あるいは、外的な環境の翻弄される遊び道具にとどまるだろう。ーー  グルジェフ

 


 ーーグルジエフの音楽観 客観的な音楽と主観的な音楽の定義 東洋の発見

 


客観的な芸術と考えられるものに対する一般的な反応について語るのは難しい。それは、私たち誰もが経験したことのある普通の連想プロセスを超越しているように見える。私たちが知っている多くの音楽では、少なくともある文化圏の一般的な経験の範囲内では、特定の音の進行や質、それらの組み合わせや時間的な間隔が、他の人と共通する特定の感覚や感情を聴き手に呼び起こす。


この現象は、一見不可解であると同時に否定できない。この現象は、聴き手の中で活性化される共鳴から生じるに違いなく、さらに、音と記憶との関連性が曖昧だったり不明だったりしても、過去の経験との連想を引き起こすことが可能なのだ。全般的な芸術において、この振動(ヴァイヴ)の力は、その過程と結果を部分的にしか知らないまま使われている。アーティストの主観的な意識によって制限され、アーティストが発信するものは、同じように「主観的な反応」しか生み出せない。


従って、主観による表現の結果は偶然のものに過ぎず、「受け手によって正反対の効果をもたらすこともありうる」というのがグルジェフの主張である。「無意識的な創造的芸術は存在しえない」とまで彼は主張している。


逆に、客観的な音楽は、振動の法則を決定する数学、ピタゴラス派の標榜する黄金比による正確無比で完全な知に基づいており、それゆえ聴く人に特定の予測可能な結果をもたらす。グルジェフは、無宗教の人が修道院にやって来た時の例を挙げている。そこで歌われ演奏される音楽を聴いて、その人は宗教性をもたないにもかかわらず、なぜか「敬虔な祈り」を音楽の流れのなかに感じとることがある。この例では、人間を高い内的状態に導く能力が、「客観的な芸術の特性のひとつ」として定義付けられる。その効果は、人によって程度が異なるだけである。


音楽の持つ客観的な力学について、グルジェフは『ベルゼバブ物語』の中でもう一つの例を挙げている。彼は、特別なシステムに従って調律された普通のグランドピアノで、ある一連の音を繰り返し叩く驚くべき老練なダービッシュについて述べている。


ーーこれらの音はすぐに、聴衆の一人の足に、師匠が予言したとおりの場所にできものを生じさせる。その直後、別の音符の連打でその腫れ物はすぐさま消える。エリコの城壁が破壊されたという伝説は、単に奇跡的な出来事の想像上の物語ではない可能性を考えることはできないだろうか? もしかしたら、ヨシュアは音の振動の特異な性質と効力を知悉していたのかもしれないーー


このように、グルジェフの考えでは、心地よい楽音を楽しむだけでは、いかに深刻で高尚なものであろうと、科学として、芸術として、高次の知識として、そして、人間の成長と進化のために必要な糧としての音楽の究極的な理想には、少しも近づいていないことは明らかなのである。


グルジェフが、真理の体現という本来の神聖な目的を果たす芸術を発見したのは、主にアジアだった。東洋の古代芸術を彼は台本のようにすらすら読むことができた。それは好き嫌いのためではなく、「より深く理解するため」と彼は言った。


しかし、平均的なヨーロッパ人にとっては、ある程度の音楽的教養があっても、東洋音楽はエキゾチックであるが、最後には単調で理解しがたいものに思える。ベートーヴェンの交響曲やシューベルトのリート、あるいは単純な民謡の「内容」を受け取ることができるように思えるのと同じように、私たちはこの音楽のほとんどが「何について」書かれているのか理解できないのだ。


グルジェフは、オクターブ構造は普遍的であるが、東洋の音楽では、西洋人にとって奇妙な方法で分割されている可能性があることを想起させる。基音とオクターブとの間には、4つという少ない分割もあれば、48という多い分割もある。西洋的な考えでは、私たちの知覚は7音のダイアトニックスケールや、ピアノの鍵盤のように等距離にある12音の半音階構造によって制限される。


東洋の音楽は、微分音的な配置によって、私たちの「制限された音階」では到達しえない、かけ離れた感情を呼び起こすことができる、と言われている。にもかかわらず、私たちのほとんどは、それらが調律されていないような音楽というかたちでしか聴くことが出来ない。私達は、アジア人であっても、常日頃から西欧的な音楽の中で生き、それが一般的な概念であると捉えている。


他方、特別な感受性と開放性を持つヨーロッパ人が、東洋音楽のなかに熟考すべき深遠な何かが存在することを肯定しえる何かを発見する可能性が高いことは、紛れもない事実だろう。チベットの僧侶の深い三和音の詠唱、スーフィーのジークルの小声のクレッシェンド、日本の能楽の伴奏の滑舌のよい声音など、これらはすべて、感覚的な印象のみならず、未知なる感情を呼び起こす音楽形式に他ならない。当初の反応はしばらく新奇な感覚として後に残るかもしれない。それでも未だ疑問点は残る。ドミナントからトニックへの進行を追うように、知性により音楽の「構文」を追うことができなければ、その音楽は主観的に完全に受け入れられたのだろうか?


音楽を聴く行為というのは、聴覚により何かを把捉しているように見えて「他言語の構文」を追っているに過ぎない。そして、その語法が一般的なものと乖離するほど、その言語はより難解になり、一般的には受け入れ難いものとなる。

 

してみれば、各地域の文化の壁が、各々の音楽的な語法や言語的な特性を有するがゆえ、純粋な芸術という形で高次の知識を伝えることを阻害していると定義付けられる。しかし、もしかしたら、この真実を追求することが可能な道筋がどこかにみつかるかもしれない。グルジェフの客観的芸術の定義に近づけるような音楽的な事例を、西洋の遺産や伝統から探すのはどうだろう。アンブロジオ聖歌やグレゴリオ聖歌の純粋さと正確さについて思いを馳せるのはどうだろう?


あるいは、ノートルダム派の謎めいたオルガヌムや、15世紀のフランドルの巨匠、ヤコブ・オブレヒトが作曲した、「3」という数の順列を表現した数秘的な声楽ミサに注目すべきかもしれない。J.S.バッハが静謐で瞑想的な殻の中で対位法の難解な謎を探求したライプツィヒの合唱前奏曲や平均律のフーガの芸術を考えてみることはできないだろうか。あるいは、モーツァルトの五重奏曲の、シルクのように滑らかで欺瞞に満ちた表面の下に、音、音程、リズムの組み合わせが、言葉では説明できないような感情を人間の心に呼び起こす秘密が隠されているのではないだろうか?


これらの全般的な疑問は、芸術に関するグルジェフの考えを肯定し、彼自身が作曲した音楽と関連づけようとするとき、特に大きな意味を持つようになる。もちろん、グルジェフの音楽の目的そのものや、それが創作された状況さえも、音楽の捉え方に大きな影響を与える可能性があるということがわかる。



ーーロシアの作曲家、トーマス・デ・ハルトマンとの関わり



グルジェフとロシアの作曲家トーマス・デ・ハルトマンとの関わりはよく知られている。若いデ・ハルトマンは、精神的な教えを求めて1916年にグルジェフのもとを訪れ、彼の弟子となった。グルジェフは訓練された作曲家ではなかったため、デ・ハルトマンもグルジェフの音楽的思考を表現する理想的な補助役となった。


彼はまず、グルジェフの教えの不可欠な部分である聖なる舞曲(ムーヴメント)のために、グルジェフの音楽を調和させ、発展させ、完全に実現することから始めた。数年後、デ・ハルトマンは、ムーヴメントとは独立したグルジェフの音楽作品に同様の方法で協力した。驚くべきことに、これらの後者の作品は非常に数が多く、ほとんどすべてが1925年から1927年にかけて、グルジェフが数年前に研究所を設立したフランスのフォンテーヌブローのプリューレで作曲された。1927年、この音楽活動は終わりを告げ、グルジェフが再び作曲することはなかった。


ド・ハルトマンの貢献の重要性は極めて大きい。実際、デ・ハルトマンの献身的な協力がなければ、グルジェフの音楽的アイデアは私たちが知っているように生まれなかったのではないか、と考える人もいるだろう。しかし、グルジェフの音楽を綿密に研究し、特にデ・ハルトマンがグルジェフと関わる前、関わっていた時、関わっていた後の、グルジェフ自身の膨大な音楽作品と比較すれば、グルジェフの音楽の真の源泉はグルジェフ自身にあったことは明らかである。


もちろん、デ・ハルトマンには洗練された音楽的精神があり、この共同作業ではそれを見事に発揮した。しかし、グルジェフの目的に対する彼の感覚は鋭く、聡い音楽的本能を十分に保ちながら、この仕事のために自らの創造性を昇華させることができた。彼がグルジェフから指示されたメロディーをいかにして上品かつ適切に調和させ、発展させたとしても、本質的な音楽的衝動と、その音楽が呼び起こす独特の感情の質は、一人の人間から生まれたものであることは明らかである。デ・ハルトマンが作曲した各曲の草稿は、グルジェフによって聴かれ、グルジェフがその意図を実現できたと満足するまで、しばしば大幅に修正されることもあった。


デ・ハルトマンは、グルジェフとの作曲過程についての驚くべき記述からも明らかなように、この共同作業における自分の役割について、控えめであるどころか、どちらかと言えば自嘲的であった。デ・ハルトマンはグルジェフとの共同作業について次のように回想している。


ーーゲオルギイ・イワノヴィッチのすべての音楽の一般的なキャッチとメモは、通常、プリーレハウスの大きなサロンまたはスタディハウスのいずれかで、夕方に起こりました。私は演奏し始め、音楽用紙を持って階下に急いで降りなければならなかった。すべての人々がすぐに来て、音楽のディクテーションはいつもみんなの前にありました。


ーー書き留めるのは簡単ではありませんでした。彼が熱狂的なペースでメロディーを演奏するのを聞いたので、私は紙に一度に曲がりくねった音楽の反転、時には2つの音符の繰り返しを走り書きしなければならなかった。しかし、どんなリズムで? アクセントの作り方は? メロディーの流れは、時々止めたり、バーラインで分割したりできませんでした。そして、メロディーが構築されたハーモニーは東洋のハーモニーであり、私は徐々にそれを認識しただけだったのです。


ーー多くの場合、私を苦しめるために、彼は私が表記を終える前にメロディーを繰り返し始め、これらの繰り返しは微妙な違いを持つ新しいバリエーションであり、私を絶望に駆り立てました。もちろん、このプロセスは単なるディクテーションの問題ではなく、本質的なキャラクター、メロディーの非常にノヤウまたはカーネルを「キャッチして把握」するための個人的な練習でした。


ーーメロディーが与えられた後、ゲオルギイ・イヴァノヴィッチはピアノの蓋をタップしてベース伴奏を構築するリズムを演奏しました。その後、私は与えられたものをすぐに演奏し、私が行くにつれて調和を即興で演奏しなければなりませんでした。



Gurdjieff


グルジェフは、ロシア領のアルメニアとトルコの国境にある、豊かな民族と宗教が混在する中心地で生まれ、幼少期を過ごした。少年時代から人間存在の意味について深い疑問を抱いていた。彼は、彼を取り巻く光景や音、特に音楽に対して非常に敏感であった。


深く慕い、『驚くべき人々との出会い』の中で彼が感動的な章を書いている父親は、「アショク」という職業に就いており、彼の民族の古代の伝説の数々を歌や詩で語る吟遊詩人のような存在だった。


これがグルジェフの最も初期の音楽的印象と影響であった。その後、若い学生時代にロシア正教会の聖歌隊で歌った。それ以上の音楽的訓練はほとんど受けていない。しかし、少年時代やその後の旅で吸収した多様な土着の音楽に対する彼の並外れた感受性は、彼自身の作曲に顕著に反映されている。


民謡や舞踊、さまざまな聖職者の宗教的聖歌、エジプトや中央アジア、遠くはチベットの寺院や修道院で耳にした神聖な合唱曲など、ありとあらゆる音楽がグルジェフのスコアのなかには通奏低音のように響き渡る。彼自身の楽器演奏能力については、ギターや、片手で弾き、もう片方の手で空気を送り込む小さなハルモニウムの形をした鍵盤の演奏など、ささやかなものだったようだ。


彼の音楽にはアラビア、イスラム、スラブの独特な音楽性が発見できる。そこには讃美歌の影響があると指摘する識者もいる。現代音楽のシーンでは、グルジェフのアーティスト/ミュージシャンとして再評価の機運が高まっているという話もある。それらのスコアの再構成に取り組むのが、The Gurdjieff Ensemble(グルジエフ・アンサンブル)、そして、ジャズレーベル、ECMである。


The Gurdjieff Ensemble


ドイツの国家観としては、グルジエフの作品をリリースすることは勇気が必要だが、従来から「エスニック・ジャズ」というジャンルを手掛けてきたレーベルは、アラビア、イスラム圏の音楽の伝統性をより良く知るための最適な機会を提供している。The Gurdjieff Ensembleの功績は、グルジェフの音楽の隠れた魅力を発見したことに加えて、単なるオカルティストや神秘主義者の遊戯という領域を超越し、真に芸術的な表現に引き上げようとする挑戦心に求められる。

 

以前は、アラビア、イスラム圏の作曲家は、日の目を見る機会が少なく、軽視されることもあったが、以下に紹介する、グルジエフのスコアの再録のリリースなどの機会を通して、スラブ、アナトリア、イスラム、中央アジアを中心とする文化圏の音楽にも注目が集まることを期待したい。


 


 The Gurdjieff Ensemble & Levon Eskenian『Music of Georges I. Gurdjieff』



 

グルジェフ(1866年頃~1949年)の音楽を民族的なインスピレーション源に立ち返らせる、魅力的で非常に魅力的なプロジェクト。


これまでグルジェフの作品は、西洋ではトーマス・デ・ハルトマンのピアノ・トランスクリプションによって研究されてきた。アルメニアの作曲家レヴォン・エスケニアンは、印刷された音符を越え、グルジェフが旅の間に出会った音楽の伝統に目を向け、その観点から作曲を再編成した。


エスケニアンは、アルメニア音楽、ギリシャ音楽、アラビア音楽、クルド音楽、アッシリア音楽、ペルシャ音楽、コーカサス音楽のルーツに注目している。アルメニアを代表する奏者たちの協力を得て、エスケニアンは2008年にグルジェフ民族楽器アンサンブルを結成し、彼らとともにこの驚くべきアルバムを完成させた。


レヴォン・エスケニアンの楽器編成で私が最も魅力を感じるのは、静寂の荒野でほんのわずかな音への介入を行う際、不必要な "作曲 "や "巧みさ "を排した、極めて綿密で明快な作業アプローチである。グルジェフの音楽の核心には深い静寂があり、それは聖書のコヘレトの書の章、あるいは遠い国の深い静寂が語る真実と関係している。- ティグラン・マンスリアン 

 




Anja Lechner / Vasslis Tsabropoulos 『Chants, Hymns and Dances』



ドイツのチェリスト、アンニャ・レヒナーとギリシャのピアニスト、ヴァシリス・ツァブロプロスによる魅力的な新プロジェクト「聖歌、賛美歌、舞曲」は、「世界の十字路からの音楽」という副題が付けられるかもしれない。グルジェフの作品のなかでは最も室内楽的な響きを持つ。


東洋と西洋、作曲と編曲と即興、現代音楽と伝統音楽の境界線を曖昧にするプロジェクトだ。レパートリーの中心は、古代ビザンチンの賛美歌をインスピレーション源とするツァブロプーロスの作曲と、アルメニア生まれの哲学者・作曲家であるジョルジュ・イヴァノヴィッチ・グルジェフ(1877-1949年頃)の音楽で、コーカサス、中東、中央アジアの聖俗両方のメロディーとリズムを使用している。 ーECM

 


 

 

 

The Gurdjieff Ensemble & Levon Eskenion『Komstas』



  



アルメニアン・グルジェフ民族楽器アンサンブルは、G.I.グルジェフ/トーマス・デ・ハルトマンのピアノ曲を「民族誌的に正統な」アレンジで演奏するために、レヴォン・エスケニアンによって設立された。


ECMからのデビューアルバム『ミュージック・オブ・G.I.グルジェフ』は広く賞賛され、2012年にエジソン賞のアルバム・オブ・ザ・イヤーを受賞した。今、エスケニアンと彼の音楽家たちは、コミタス・ヴァルダペト(1869-1935)の音楽に注目している。

 

作曲家、民族音楽学者、編曲家、歌手、司祭であったコミタスは、アルメニアにおける現代音楽の創始者であり、コレクターとしての活動の中で、アルメニアの聖俗音楽を独自に結びつけるつながりを探求した。民俗楽器の演奏とインスピレーションに満ちた編曲に焦点を当てたこのアンサンブルは、201年2月にルガーノで録音されたこのプログラムで、コミタスの作曲の深いルーツに光を当てる。ーECM

 



 The Gurdieff Ensemble & Levon Eskenion  『Zartir』

 

 



 

昨年にECMから発売された『Zartir』は、グルジエフの音楽的な遺産を発掘するためのアルバムである。

 

レヴォン・エスケニアンによる注目のアンサンブルのサード・アルバムは、これまでで最も冒険的な作品となった。G.I.グルジェフの音楽を民族楽器のために再生させただけでなく、アシュグ・ジヴァニ、バグダサール・トビール、伝説的なサヤト・ノヴァなど、アルメニアの吟遊詩人やトルバドゥールの伝統の中にグルジェフを位置づけている。これと並行して、神聖な舞踊のための作品に重点を置いた『大いなる祈り』は、グルジェフ・アンサンブルとアルメニア国立室内合唱団との魅惑的なコラボレーションで頂点に達し、複数の宗教の儀式音楽を取り入れている。


アレンジャーのエスケニアンは、「『大いなる祈り』は単なる "作曲 "以上のものだと思います。グルジェフの作品の中で、私が出会った最も深遠で変容的な作品のひとつです」と語る。


『ザルティール』は2021年にエレバンで録音され、2022年11月にミュンヘンでマンフレート・アイヒャーとレヴォン・エスケニアンによってミキシングされ完成した。ーECM





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「Autobahn」のオリジナル盤のアートワーク

クラフトワーク(独:クラフトヴェルク)は、1970年代にビートルズを凌ぐほどの人気を獲得した。クラフトワークには象徴的なカタログがある。「Trans-European Express」、「Die Mensch Maschine」は当然のことながら、「Autobahn」も軽視することは出来ない。そしてクラフトワークはメンバーを入れ替えながら活動しているが、プロジェクトの主要なメンバーであるラルフ・シュナイダーとフロリアン・ヒュッターに加え、当時、画家として活動していたエミール・シュルトによる上記の3作品における功績を忘れてはならない。シュルトは、クラフトワークの複数のアルバムのカバーアート、歌詞を手がけ、デザインと詩の側面から多大な貢献を果たした人物である。


そもそも、エミール・シュルトがクラフトワークのメンバーの一員となったのは、フロリアン・シュナイダーが彼のスタジオに姿を現したときだった。最初、シュナイダーはシュルトにバイオリンの弓を制作するように依頼し、シュルトはクラフトワークの使用していたスタジオに出入りするようになった。

 

当時から、シュナイダーとヒュッターは最新鋭のドラムマシン、エフェクトボードを所持しており、シンセサイザーのコレクションを多数所有していた。シュナイダーとヒュッターはともに、裕福な家庭の生まれだったが、シュルトは、デュッセルドルフ近郊のメルヒェングラートバッハで育った。この土地は、1960年代の頃、非常に制限的であり、文化的に貧しい場所であったという。その後、奨学金を得て、ニューヨークへと行き、様々な音楽に親しむことになる。


いつもシュルトは彼らのスタジオを訪れるたびに、新しい機材が搬入されたことに驚きを覚えていた。その頃、すでにシュルトはクラフトワークのことを良く知っており、ディーサー・ロスのクラスで勉強をし、彼らの音楽を使い実験映画を作曲していた。流水の音、車の音といった音楽的な実体、現在でいう環境音を表現しようとしていた。

 

クラフトワークのスタジオを訪れるようになった後、エミール・シュルトは、ギター、ベース、ドラム、オルガンを用いて小さなジャムセッションを始めた。その後、実験音楽の方向性へと進んでいった。

 

フロリアンはシュルトに中古ギターを渡し、彼は周波数を調整していた。伝統的な高調波の仕組みまでは理解していなかったというが、周波数変調の技術を実験音楽として制作しようとすべく試みた。うまくいったこともあれば、うまくいかなかったこともあった。音の周波数を変更するため、送信機を使用していたというが、その送信機から物理的な距離があると機能しなかった。

 

実際、クラフトワークのライブステージでもこの送信機が使用された。ケーブルでの接続が出来なかったので、最終的にメンバーはローラースケートを使用してステージを走りまわり、送信機の受信範囲を超えると、激しいひび割れたようなノイズが発生した。しかし、エミール・シュルトに関しては、観客と折り合いがつかず、クラフトワークのライブメンバーとしての期間はあっという間に過ぎ去った。以降、彼はビジュアル・アーティストの経験を活かし、歌詞とアートワークの2つの側面で、いわば''裏方''としてクラフトワークの活動をバックアップしたのだった。曲の歌詞に関しては、「The Model」、「Computerworld」「Music Don't Stop」で制作に取り組んでいる。

  

クラフトワークの音楽の未来性を加味すると意外ではあるが、「歌詞の多くは日常的な生活からもたらされた」とシュルトは回想している。「Autobahn」に関しては、 実際に作品で何が起こっているかを理解出来るように試みた。さらにクラフトワークのメンバーは、仮想的な事実ではなく、実際に起きた現象に対する感覚的な体験を重視していたと話す。つまり、クラフトワークのメンバーは、アウトバーンを横断する旅に出かけ、その体験をもとに「Autobahn」を制作したのだ。


実際、音楽を聴いていると、アウトバーンを走行しているような錯覚を覚えさせるのはそのせいだろうか。アルバムバージョンのタイトル曲では、13分頃に象徴的なコーラスが入る。「Fahn Fahn Fahn, Auf Der Autobahn」というフレーズには言葉遊びの趣旨が感じられるが、このフレーズの発案者はエミール・シュルトであったという。シングル・バージョンではよりわかりやすい。


 

「Autobahn」-single version


 

 

エミール・シュルトは、その後も歌詞とアートワークの側面で、クラフトワークの活動を支えつづけた。しかし、「Trans European Express」のアートワークを手掛けた頃、他のメンバーとは疎遠になった。エミール・シュルトは、1979年にカルフォルニアに赴き、人工知能の研究に専念した。

 

以後、クラフトワークは1989年から二年間活動を休止していたため、エミールはメンバーと連絡をとらなかった。その頃、シュルトは結婚し、カリブ海にいったり、ドイツでレーシングバイクで走ったりと、バカンスを楽しんだ。 この時期についてシュルトは回想する。「''Mensch Maschine"以後の私のバンドへの貢献は限界に至り、それで終わってしまった。しかし、クラフトワークはその後も友人です。ただし、作品についてだけは例外的」であるとしている。

 

クラフトワークは、1970年代のデュッセルドルフの最初の電子音楽シーンの渦中にあって、アングロアメリカの音楽とは別のゲルマンらしい音楽を示すために存在したとシュルトは回想する。

 

また、彼は、クラフトワークが現代の音楽シーンに多大な影響を及ぼしたと指摘し、その功績を讃えている。「ヒップホップ、エレクトロ、テクノ、特に、後者から発生した音楽はすべて……」とシュルトは語った。「クラフトワークが成したことに何らかの影響を受けていると思います。それらはいわば''電子音楽のビーコン''とも言えるかもしれません。シュトゥックハウゼンに(トーンクラスターという)固有名詞がついたりするように、クラフトワークにもなんらかの名詞が付けられて然るべきでしょう」

 

現在、エミール・シュルトは、ビジュアル・アーティストとして活躍しており、音楽とビジュアルの融合に取り組んでいるという。


「音楽と写真、写真と音楽、そして、それらの組み合わせと併せて''共感覚''と呼ばれるものがある。それこそが文化の第一歩となりえるでしょう。音楽とビジュアルの組み合わせは、ユニークな第三の要素、ロマンスの感覚を生み出します」と指摘しており、テクノロジーが進化してもなお、人間の感覚を大切にすべきであるとしている。これは人工知能の研究者の言葉だからこそ、非常に説得力があるのではないだろうか。「私達の未来には黄金時代があり、そして、今後も音楽が文化の主要な役割を果たすことはほぼ間違いがありません」と彼は述べている。


海外ではその名をよく知られる”Yoshi Wada”の愛称で親しまれる和田義正は、音楽家としてだけでなく、楽器開発者として見ても本物の天才である。和田は、ラ・モンテ・ヤングと並んでドローンミュージックの重要なファクターに挙げられる。「Nue」を始めとする代表作があるが、ストリーミングではほとんど視聴出来ない。フィジカル盤のみ彼の作品に触れることが可能である。

 

和田はドローンミュージックの重要な構成要素である止まった音、すなわちオーケストラでいうところの持続音や保続音に徹底してこだわった。彼は、77年の生涯の中で、インド声楽やスコットランドのパグパイプの持続音に取り憑かれ、その人生を前衛音楽の追求に費やした。


和田義正は1943年に京都に生まれた。建築家を務めた彼の父は第二次世界大戦で亡くなっている。子供時代は、そのほとんどが上記の理由により、苦難に満ち溢れていたというのが通説となっている。彼が音楽に目覚めたのは10代の頃。サックスフォンを演奏しはじめ、ジャズに傾倒した。

 

オーネット・コールマン、ソニー・ロリンズ等、ジャズの巨匠の音楽に触れ、特にこの音楽に強く傾倒したという。1967年には、京都美術大学で彫刻を学習し、彼はニューヨークへと旅立った。その後、ジョージ・マチューナスが住むアパートへと転居する。フルクサス(1960年代から1970代にかけて発生した、芸術家、作曲家、デザイナー、詩人らによる前衛芸術運動。リトアニア出身のデザイナー、建築家 ジョージ・マチューナスが提唱したと言われている)のマチューナスは、和田義正をオノ・ヨーコ、久保田成子(クボタ・シゲコ)に紹介し、当時使用されていなかったニューヨークのソーホーのロフトをアーティストの空間にリノベートするために彼を雇った。


彼の中頃の人生の中心にはニューヨークのダウンタウンがあった。当時、活気のある実験音楽のシーンが発生した後、和田はミニマリストの作曲家、ラ・モンテ・ヤングと電子音楽を学び、さらに北インドの声楽家であるパンディット・プラン・ナートと歌唱法の勉強に取り組んだ。以後、ナンシー・クラッチャ―からバクパイプの演奏法を学び、即興音楽を制作しはじめた。彼は音響工学の中に、インド、スコットランド、マケドニア等、複数の地域にある独自の民謡や土着の音楽を取り入れた。


以降、彼は独自の管楽器の制作に着手し、「ハイプホーン」という楽器を開発している。別名「アースホーン」とも称されるこの楽器が、実制作として陽の目を見ることになったのが1974年である。さらに、彼はパグパイプとインド楽器に触発を受けた新式の楽器を開発する。これらは、空気を圧縮したパグパイプのような構造を持ち、1982年の作品「Lament for the Rise and Fall of the Elepantine Crocodile」に反映されることになった。


その後、「Off The Wall」を制作に取り掛かった。D.A.A.Dのフェローシップを得て、1983年から一年間、ベルリンに滞在し録音した。 教会の本式のパイプオルガンの構造と製作法を学び、『ラメント・フォー』で試した「改良共鳴バグパイプ」を発展させた小型パイプオルガンを新たに開発している。滞在先のスタジオ隣室から騒音苦情が出るほど研究に専念し、まるで実際的な大きさと質量を持つかのような構造物的な存在感のある音を構築した。こうした一年間の制作成果として1984年に録音されたのが『Off The Wall』(※「壁にはね返る」というニュアンス)だった。和田の作品としてはグループ編成の演奏であるため、比較的分かりやすい内容になっている。

 

和田のライブのほとんどは即興演奏であり、自作自演も行った。しかし、同時に一般的に演奏できる作品やインスタレーションも多数制作した。この類の作品のカタログは1991年から翌年にかけて見出すことが出来る。その時代から和田はニューヨークでグループショーを開催するようになったが、この作品について当時、アート・フォーラムの記者であるキース・スワードは以下のように評した。「ワダの仕事は、コーヒー・グラインダー、フロントガラスのワイパー、ドラムキット、スチールパンをハンマーで打つ等、楽器の可能性を切り開くアプローチを行うことで、機械的なオーケストラを形成し、指揮することを可能とした。そのアイディアに関しては本質的には面白いものはないように思える。感情的な価値を求めるとしたら、それは音の生成のメカニズムや、リスナー、それからコンテクストの融合や結合に依存すると思われる」

 

彼は機械工学を用いたロボット的な音楽も制作した。これがドローン音楽のオリジネーターと目されることに加えて、彼が電子音楽やアンビエントの領域で語りつがれる理由でもある。一例では、航海の緊急使用の信号として用いられるタイプの「聴覚フレア」の信号を中心に機械工学的な知識に基づいた楽器、あるいはシステム構造を構築している。特に、この楽器は、「ハンディ・ホーン」とも称されるようで、「信号の開発」とも説明されることがある。それ以後、実験音楽という領域ではありながら、和田は知名度を高めていき、90年代半ばには、ピッツバーグにあるカーネギーメロンでの講義を終えてから、6名の学生に作品を演奏させた。 彼の音楽性はあまりに前衛的すぎたため、まだ一般的に受けいられるための時間を擁する必要があった。

 

和田義正は全生涯にわたり、商業的成功を手に収めることはなく、そのほとんどが資金不足に陥っていた。数少ない商業での成功例といえる「Lament for the Rise and Fall of the Elepantine Crocodile」ですら、印税のロイヤリティは数ドルという範疇に収まっていた。(このアルバムはニューヨークの実験音楽のレーベルである”RVNG”から発売されている。)しかし、以後、彼は電子音楽家である息子と協力し、晩年にかけて創作意欲を発揮しつづけた。2008年にWireのジム・ヘインズに対して、和田義正は、以下のように自らの音楽について言及している。「基本的に私は自由奔放なんです。私は自分のために面白い音楽を制作しようとしている。実は私はチェスをするためにアートをやめたマルセル・ドゥシャンはあまり好きではないのです」

 


1994年の4月5日、Nirvanaのフロントマン、カート・コバーンの悲劇的な死は、グランジ/オルタナティヴ・ロック・コミュニティがメインストリーム・カルチャーをおとぎ話のように支配してきたことに、恐ろしい現実を突きつけた。しかし、ナイン・インチ・ネイルズの『The Downward Spiral』とマニック・ストリート・プリーチャーズの痛ましいサード・アルバム『The Holy Bible』のリリースは、ロックが掘り起こすべき闇とニヒリズムがまだたくさんあることを証明した。


喪に服したシーンが残した空白に、英国ではブリット・ポップが、米国ではポップ・パンクが登場し、新星オアシス、ブラー、ウィーザー、グリーン・デイが、人生を肯定し、ハッピー・ゴー・ラッキーなポジティブさに満ちた画期的なアルバムをリリースした。第二の "サマー・オブ・ラブ "の余韻として、アシッド・ハウスとテクノがポップ・チャートの大ヒット曲へと共産化され、大きな物議を醸した刑事司法法案がカウンター・カルチャー・ムーブメントとしてのアシッド・ハウスを破壊しようとし、スーパースターのDJの台頭を促した。ヒップホップも変貌を遂げつつあり、初期のギャングスタの冷徹な社会政治的コメントは、前年のクリスタルを弾くような大ヒットを記録したドクター・ドレーのアルバム『ザ・クロニクル』によってかき消され、チャートに引きずり込まれた。


しかし、メインストリームがフリークス、アウトサイダー、落ちこぼれを受け入れようと手を伸ばした時代においてさえ、ポーティスヘッドの存在感は際立っていた。


ブリストルのトリオは、謎めいた、影のある破天荒なアーティストとして評判を得たが、彼らのデビュー・アルバム『Dummy』が、後にトリップ・ホップとして世界的に知られるようになる、クラシック・ソウル、ジャズ、最先端のサンプル、ゴシック・ノワールを奇妙にローファイにマッシュアップした音楽への、最初の大きな商業的関心の先駆けとなった。



ダミーは、オアシス、スーパーグラス、トリッキー、レフトフィールド、PJハーヴェイ、その他多くの尊敬を集める多彩なアーティストたちとの競争を勝ち抜き、1995年のマーキュリー・ミュージック・プライズを受賞した。ブリストル・サウンドは、今やスーパースター・アルバムとその代表格、そしてトリップホップという決定的な名前を手に入れた。


マーキュリー賞授賞式後の記者会見で、明らかに圧倒された様子のジェフ・バロウは、「10枚もの年間アルバムがある中で、1枚だけを評価するのはどうかと思う」と肩を落とした。「自宅のオルガンで、このどれよりも優れた作品を録音している人がいるかもしれない。今年の人々は、アルバムに自分の感情をすべて注ぎ込んだ......。私はただ、タダで小便がもらえると思っただけだ!」


バロウは当時気づいていなかったかもしれないが、『ダミー』はその後30年間で最も高い評価を得たアルバムのひとつとなった。そのサウンドは今でも素晴らしく、画期的な内容に彩られている。ゆるくクリーンなギターにターンテーブルのスクラッチ、シンプルなドラム・ループ、ギボンズの亡霊のような歌声が加わったオープニング・トラック『Mysterons』から、ダミーは聴く者の心を掴んで離さない。「Strangers」でのエイリアンの行進曲とギボンズの慟哭、モス・デフがゴースト・タウンを彷彿とさせる「Numb」、今や象徴的となったオルガンが胸を締め付ける『Roads』の冒頭、悲痛を聴覚的に表現したような曲、そしてアルバム屈指のクロージング・ナンバーとして名高い『Glory Box』まで、『Dummy』は完璧な作品であることに変わりはない。


さらに重要なのは、いまだに1つのバンド、1つのバンドだけのサウンドであること。音楽界で最もクリエイティヴな時期のひとつであるこの時期に、これほどまでに断固として孤高の存在であり続けたことは印象的であり、30年経った今でもそこに居続けていることは驚くべきことだ。



このバンドは「ブリストル・サウンド」を定義したことで大きく評価されることになるが、その起源は12マイル南西、2万2,000人の小さな海岸沿いの町から始まった。現在、Invada Recordsを主宰するジェフ・バロウとDJのアンディ・スミスはそこで一緒に育ち、ヒップホップとブレイクに興味を共有していた。


「ジェフとは80年代後半に知り合ったんだ。ポーティスヘッドのユース・クラブでギグをやって、ヒップホップやレア・グルーヴ、ファンクなんかをプレイしたんだ。そこで彼と出会ったんだ」とアンディ・スミスは明かす。


「彼は僕より若かったけど、当時は基本的にマッシヴ・アタックの『ブルー・ラインズ』が作られていたコーチ・ハウス・スタジオで働いていた。基本的にお茶を入れたり屋根を直したりしていた」1992年から2006年までマッシヴ・アタックをマネージメントしていたキャロライン・キロリーは、「ジェフは、マッシヴ・アタックがレコードを制作していたコーチ・ハウス・スタジオのテープ・オペレーターだった。マッシヴ・アタックはLP『Blue Lines』の大半を制作していて、とてもプロジェクト的で、共同作業をベースとしたアルバムだった。ジェフも同じようなことをしようとしていた」と回想している。



アンディは言う、「(マッシヴ・アタックは)彼がビートを作ったりすることに熱心だったことに目をつけた。それでAKAIのサンプラーとコンピューターを与えて、彼は自分の部屋にセットアップしたんだ......でも、彼はレコードをあまり持っていなかったから、サンプリングしたものは何も持っていなかったよ。彼はあまりレコード・コレクターではなかったんだ。彼は自分の行きたい場所を知っていた。彼が『グリース』のサウンドトラックのブレイクをサンプリングしていたのは覚えているよ。それで、当時のオールドスクールのヒップホップや現在のヒップホップ、ブレイクなどの知識なんかで意気投合したんだ。彼が聴いたことのないような古いブレイクを聴かせて、トラック作りをしたんだよ。これは、ポーティスヘッドの他のメンバーが参加する前のことで、ポーティスヘッドというバンドができることすら知らなかった。サンプラーとコンピューターを持っていたのはジェフだけでね、僕はビートをループさせたり、ちょっといじったりしていたんだ」


「何人かの女の子がブリストルからバスでやってきて、彼のお母さんの家に行って、彼のベッドルームでボーカルをやってオーディションを受けたのを覚えている。でも、うまくいかなかった。だから彼はヴォーカリストを探し、バンドを作ろうとしていた。それが90年代半ばにまとまるまでには長い道のりがあった。その頃から、ジェフはアイデアをまとめ始めたんだ。ヒップホップのビート、音楽性を使いたいとは思っていたようだけど、どうやるかはそのときはまだわからなかったとしても、違うやり方でヒップホップをアレンジすることはわかっていたようだ」



ジェフ・バロウの決意は、一連の骨格となるトラックや未完成のデモのヴォーカルを担当するため、数多くのアーティストのオーディションを受けることになる。しかし、思いもよらない場所での運命的な出会いが、ベス・ギボンズに彼を導くことになる。「ふたりとも、政府の職業体験コースみたいなものに行ったんだと思う。自分のビジネスを持っていることを証明すれば、政府からいくらかお金をもらえるというものだった。僕は行かなかったけど、ジェフは行ったよ」とアンディは言う。「パン屋のおじさんとか、作家のおじさんとか、いろんな職業の人がいたと思うよ。音楽関係者はベスだけだったかな。彼女は自分のプロジェクトを進めるための資金を得ようとしていたからね」


アンディは、ジェフとの偶然の出会いの前からベスを知っていた。「彼女は当時、ただの歌手だった。実際、今思うとおかしなことだけど、ベスがベスとしてギグをやるだけで、私は彼女とブレイクを切り上げるようなギグもあったんだ」とアンディ。「でも、当時はまだポーティスヘッドというアイデアは形成されていなかったんだ。ジェフは明らかに彼女がやっていることに興味を持っていた。みんな知り合って意気投合して、他のメンバーも加わって、すべてが後からまとまったんだ」


キャロラインは言う。「彼はいろいろなシンガーやラッパーを連れてきていて、それはとてもプロジェクト・ベースのものだった。私たちは皆、ベスが前座であることに少しずつ気づいていった。プロジェクトというよりも、完全に形成され、統一されたバンドという感じだった。もちろん、Go!Discsと契約した後は、資金も集まり、バンドは従来のレコーディング・プロセスでより本格的にスタジオに入るようになった。それから、エイドリアン・アトリーがギターで彼のサウンドを取り入れるという意味で、より深く関わるようになった。サウンド的には、より発展したサウンドに肉付けされた」


ギタリストのエイドリアン・アトリーは、ドラマーのクライヴ・ディーマーを連れてきて、全体を結びつけるミッシング・リンクとなった。ディアマーは、もがき苦しんでいたアトリーに、毎晩ライブで演奏するだけでなく、レコーディングするように勧めた。


「私はエイドリアン・アトリーの家に住んでいたんだ。彼と私は無一文のミュージシャンで、生計を立てようとしていた。私はR&Bバンドやジャズバンドで演奏していた。エイドリアンは当時、ジャズ一筋だった。当時、彼は本当に純粋主義者だった」とクライブは言う。「そして、ジャズ・ミュージシャンとしての現実のフラストレーション、つまりレコーディングされた作品があまりないことに対処しながら、コーチ・ハウス・スタジオの一室を借りていた。私はエイドリアンに部屋を取るように勧めたことを覚えている。君は素晴らしいミュージシャンで、素晴らしいアイディアを持っている。ただ外に出てギグをやって、そのギグが風前の灯火になってしまうのとは違って、レコーディングに取り組むべきだよ」


「そこで彼はジェフと出会った。同じスタジオでドラマーとしてセッションをしたとき、私は知らず知らずのうちにジェフに出会っていた。数カ月が経ち、エイドリアンはジェフ・バロウという男とどのような関係を築いているのかを私に話し、やがてある日、彼らが自分たちで作ったState of Arts Studioに来ないかと誘われた。彼らは2曲か3曲を持っていた。でも、彼らがとてもユニークなサウンドを生み出していることは明らかだった。エイドリアンと彼がチームを組んだ瞬間、彼らが急速に前進したのは明らかで、その後すぐに、彼らは実質的に2つの主要なレコーディング・セッションを行うために私を呼んだ。私が行ったこの2つのレコーディング・セッションが、実質的に彼らの最初のレコードの大部分になったんだ」



コーチ・ハウス・スタジオでのジェフの9時から5時までの勤務は、マッシヴ・アタックのセッションに同席し、無料のサンプラーを手に入れたという自慢以上のものを彼に与えていた。彼は深夜にスタジオの時間を "借りて "自分のアイデアを実現させることが多かった。キャロラインは、「このアルバムは、かなり長い期間、本当に1年半以上かけて作られた」と回想している。


「コーチ・ハウスで自由な時間があるときはいつでも、他に誰もいないときはいつでも、ジェフは前の部屋に行って、たとえそれが真夜中であったとしても、できる限りの時間を使ってアイディアを進めていた」とアンディは言う。「ジェフがトラックを書き、ベスがトップ・ラインを書く。必ずしも同じ部屋にいる必要はなかった」


ダミーのサウンドと、そこから生まれたトリップホップというジャンルは、前例のないものだった。ジェフとその仲間は、サンプル・ベースのヒップホップ・ビートを作り、その上にシネマティックな生楽器を加えるという古典的なアプローチを取っていた。その音楽は、アメリカのMCがラップしているかのようでもあり、60年代のスパイ映画のサウンドトラックのようでもあった。「ジェフはサウンドトラックが大好きだった。彼は(イタリアの作曲家)エンニオ・モリコーネとか、そういうものに夢中だった」とキャロラインは言う。


「『ダミー』のサウンドは、本当にジェフの赤ちゃんのようだった。ジェフには、彼が本当に望んでいた方向性があった。私はただサンプルを持ってくることで彼を助け、彼が本当に知らなかった音楽を教えてあげただけなんだ」とアンディは語る。「彼は、ポータブル・レコード・プレーヤーを持って一日中レコード・ショップを探し回るような人ではなかった。だから、私はそれをテーブルに持ち込んだようなものだ。でも、ヒップホップのサウンドを使いつつも、どこか別のところに持っていこうというのが彼の意図だった。彼はジミ・ヘンドリックスのヘヴィネスやロックにも傾倒していたから、それをひとつにまとめたかったんだ」


ほとんどのヒップホップ・プロダクションとは異なり、ポーティスヘッドのサウンドは、サンプルやドラムマシンを使ったビート以上のもので、ミックスに生楽器を融合させることで恩恵を受けていた。



「当時は、ほとんどの人が持っていたビニールのブレイクビーツを洗い流していた。だからジェフはその頃、ドラマーとしてはちょっとアレだったんだけど、自分では演奏できないものを演奏するために僕を使ったんだ。僕にビニールを少し聴かせて、こう言うんだ。ハイハットはこう変えてくれ。あるいはもっとこうしてくれ」とクライブ。「彼はどう変えてほしいかを説明してくれた。そして、マイク、サウンド、サウンドのチューニング、ドラムのダンパーなど、彼が望むものが得られるまで、細部にわたって完璧に仕上げる。唯一の例外は、私がフリーフォールしたときで、それで「ミステロンズ」のビートが完成した。あのビートは完全に私の演奏だ。その部分をループさせたんだ」


「多くの場合、僕は何も演奏していなかった。だから、自分が何に向かって演奏しているのか、何のために演奏しているのか、まったくわからなかった」とクライヴは続ける。「だから、ドラムのビート、演奏スタイル、演奏のバランスをとても注意深く構築することにとても微細に集中していた。通常のドラムのレコーディングとはまったく違う。すべてのパートの相対的なボリュームのバランスを取ることがとても重要なんだ。スネアドラムに対するバスドラムのレベル、ハイハットやシンバルなどに対するレベル。非常に厳密にコントロールされた演奏で、信じられないほど静かに録音された。誰も録音したことのないような静かさだ。それがサウンドの大きな要素であり、他の多くの要素でもある。とても細かく、珍しいものだった。サンプリングは私にとって新しい経験だった。レコードを聴いたとき、自分が何を演奏したのかほとんどわからなかったほどだ。小節ずつ、完璧にループしている。それは初めての経験だった」



1994年8月、シングル「Sour Times」を筆頭に『Dummy』をリリースしたポーティスヘッドは、瞬く間にメインストリームにアピールされ、マッシヴ・アタックやトリッキー(後者はキャロライン・キロリーのマネージメントも受けていた)と並んで、"トリップ・ホップ "や "ブリストル・サウンド "の顔となった。「ブリストルは当時、大きなシーンだった。当時、ブリストルは大きなシーンだった。マンチェスターのシーンも盛り上がっていた。みんなブリストルに注目していた。ジャイルス・ピーターソンとか、そういう人たちがいたように、クールでクラブ的な側面もあった。そういう世界だった」とキルリーは振り返る。「その後、少しずつメインストリームに浸透し始め、火がついた。なぜこのようなことが起こったのか、その理由を知るのは難しい。その渦中にいると、なぜそのようなことが起こったのかがわからない。意識的にではなく、ただ乗り物に乗って、作って、作って、作って、という感じね」と彼女は付け加えた。


このアルバムは1995年にマーキュリー・ミュージック・プライズを受賞し、ヨーロッパではダブル・プラチナ、アメリカではゴールドを獲得し、バンドを世界中に広めた。


 


「このアルバムが世に出たとき、その最初の証拠となったのは、最初のツアーでイギリスや特にアメリカを回ったときだった。観客の反応やライブの雰囲気には、ただ驚くばかりだった。自分が何を演奏しているのか、それが人々にとって何を意味するのかを理解し始めたんだ。ユニークなことだったし、その一部になれたことは光栄だった」とクライブは言う。