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バウハウス  ‐ウォルター・グロピウスがもたらした新しい概念  Art Into Industry-

 

 

20世紀以前の芸術運動は、ロマン主義が主流だったが、以後の時代になると、前衛主義が出てくる。シュールレアリズムは、最初にロマン的表現に対する反動の意味を持ち、芸術運動の一角を担った。これはクラシックなどの音楽や文学の流れと非常に密接な関わりを持っている。


アンドレ・ブルトンが提唱したシュールレアリズムの影響は、表面的な芸術性にとどまらず、深層意識にある目に映らない概念性をテーマに置くように芸術運動全般に促す。この動きと関連して、ドイツのヘルマン・ヘッセも戦後、以前のロマン主義の表現に見切りを付け、文学活動の一環として象徴主義/シンボリズムの影響を取り入れるようになった。以後のドイツ/オーストリア圏の作家はこぞって、これらの意識下の領域に属する奇妙な表現性を追求していく。すべての表現媒体はすべてどこかで繋がっており、互いに影響を及ぼさずにはいられないのである。

 

フランスのシュールレアリズムの動きと時を同じくして、ドイツから合理主義的なアートの潮流が出現する。つまり、それが今回ご紹介するバウハウスを中心とする「前衛主義」である。中世のヨーロッパの芸術活動は基本的に、宗教画と併行して、市井に生きる人々(時代の流れとともに、貴族や特権階級から一般的な階級へと画家の興味やテーマは移行していく)をモデルやテーマにしていた。(フランスの近代抽象主義、モンパルナスの画家の作品を参照のこと)しかし、芸術運動はいつも新しいなにかに塗り替えられ、古いものは一新され、それらの常識は以後通用しなくなった。ワシリー・カンディンスキーを筆頭に、東欧圏の芸術家は、図形、あるいは幾何学的なフォルムを作風の中に大胆に取り入れ、WW2の以前の時代に新たな気風を呼び込んだ。東欧圏の芸術家たちは、より図形的でパターン的なアートの手法をもたらした。


一般的に見ると、中世絵画は、画商やパトロンのために美しいものや崇高なものを描くのが主流だったが、前衛主義の画家たちは、美という概念のコモンセンスを覆し、実用性と革新性を追求していく。これはフランスのマルセル・デュシャンの芸術主義とも無関係ではないが、前衛主義のアーティストたちは、絵画を「デザイン的なもの」として解釈しようと試みる。その中で出てきたのが「バウハウス宣言」という大々的なキャッチコピーである。これらの合理主義に根ざした概念は建築学にも受け継がれ、ル・コルビジュエの建築に深い影響を及ぼすに至る。

 

 

Bauhaus  社会階級の壁を乗り越える新たなマイスター制度

 



バウハウスは、20世紀初頭、ドイツの芸術専門学校として創設された。ウォルター・グロピウスにより設立されたこの学校を中心として、最終的には建築とデザインに対するユニークなアプローチを特徴とする現代美術運動へと発展していく。1919年、ウォルター・グロピウスは、リベラルアーツの分野を一つの屋根の下に統合するというコンセプトを込め、バウハウス(正式名称: Staalitches Bauhaus)を設立した。バウハウスの学生からは、ヨーゼフ・アルバース、ワシリー・カンディンスキー、パウル・クレーなど多くの偉大な芸術家が輩出された。この芸術学校は、ワイマール(1919-1925)、デッセウ(1925-1932)、ベルリン(1932-1933)と3つの都市に開校した。専門学校のマークとしてもシンボリックなデザインが取り入れられ、これがバウハウスの主要なイメージを形作っていることは言うまでもない。

 

バウハウスの創設者のウォルター・グロピウスは、バウハウスのコンセプトについて次のように説明している。「建築家、彫刻家、画家。私達は、手作業に戻らねばなりません。・・・したがって、社会階級を分断し、職人(マイスター)と芸術家(アーティスト)の間に乗り越えられない障壁を立てようとする世の中の傲慢さから開放するべく、職人による兄弟愛を確立していきたいのです」

 

グロピウスの言葉には、ドイツ/オーストリアのギムナジウムにおけるエリート教育、及び職人のマイスター制度という2つの障壁を取り払うという意図が込められている。(ギムナジウムに関しては、ヘッセの「車輪の下」を参照のこと)厳然とした年代による職業差別を彼は取り払うべく努めた。建築、彫刻、絵、芸術、といったリベラルアーツ全般を通じてである。さらに、時代背景も考慮せねばならない。ブルジョワ社会の階級にある人々のみが手工業作品を楽しめる時代において、それらの特権性を一般的な人々にも開放するという意図が込められていた。第一次世界大戦後、デザイン、構成の解決策を求め、多様な社会規範と文化的な革新性が生み出された。この文化運動の延長線上にバウハウスは位置し、芸術運動の一環を司ることになる。

 

 

バウハウスの芸術運動の変遷

 


1. ハンドクラフトによる工業製品の製作


 

 


 

 

バウハウスは、1919年から1933年のナチス・ドイツの摘発による閉鎖に至るまで、いくつかの芸術様式を変化させた。

 

創設の意図にしたがい、当初は産業革命の後の時代のイギリスに端を発する機械産業からの脱却、及び、その産業の手工業化、職人の手作業における信頼性の回復や、職人の能力をアートと同等のレベルまで引き上げ、そして、その製品を販売することに主眼が置かれていた。つまり、機械的な製品ではなく、ハンドクラフトの製品の制作者を育て上げ、それをアートと同等の水準に引き上げていくという点に、バウハウスのエデュケーション(教育)は注力されていたのである。

 

そして、ウォルター・グロピウスの目的は、ハンドクラフト(手工業)の製品を「一般の人々に手頃な価格で提供する」というものだった。


当初、バウハウスでは、農業などで使用される運搬車のような目途を持つ「クレードル」のデザインなど、手工業デザインの制作を推進していた。以後の時代において、図形的、幾何学的なアートやデザインが頻繁に用いられるのは、当初、バウハウスの学習者が手工業デザインの製品を制作していたことに理由が求められる。


正当なエデュケーション(教育)とは、学習者を型に収めることではなく、学習を然るべき機関で修了後、能動的な行動を取れるよう促すものである。このことがバウハウスの最初期の教育方法に一貫しており、一般的な教育機関とは意を異にする事項である。その他、バウハウスでは、展覧会のポスターなども制作しており、最初期の作品としては、他の目的のために制作されたアート/デザインが多いことが分かる。

 

この年代の中で、学生は、手工業製品にとどまらず、金属加工、キャビネット、織物、陶器、タイポグラフィ、壁画などの他の用途のために制作された製品を生み出した。現在のDIYの発祥とも言うべき動きだ。これらの製品は基本的に手工業になされるインダストリーという概念に下支えされていた。

 

 

2.最初の変革期 「Art into Industry」


 



1919年に始まったバウハウスであるが、1923年になると、当初の手法が専門機関として財政的に採算が取れないことが分かった。

 

この年、バウハウスはドラスティックな転換を図り、芸術主義とも称すべき方向へと歩みを進める。芸術的には、ロシアの構成主義と、新造形主義を取り入れ、新しいアイディアを生み出すという内容であり、方法論としては、「本質の研究」と「機能性の分析」に照準が定められていた。その中で、バウハウスは「Art into Industry」というスローガンを掲げた。この動向に関連して、1925年にバウハウスはワイマールからデッセウへと移転している。この建物には、モダニズム建築の要素が取り入れられた。非対称の風車計画、ガラスのカーテンウォール、スチールフレームなど現代建築にも使用されるデザインが取り入れられている。

 

この年代でも前年代のハンドクラフト主義を受け継ぎつつ、実用性の高い製品づくりを行うようになっている。グロピウスは、デッセルの建築内のスペースを有効的に活用し、スタジオ、教室、そして管理スペースに分割した。同時に、1924年から28年にかけて、マルセル・ブロイヤーが提唱した、椅子などの物質は、徹底して軽量化され、「最終的に非物質化する」という考えに基づき、斬新なデザインの家具や工業デザインの製品が制作されることになった。

 

同時に、この流れに準じて、テキスタイルとタイポグラフィーがバウハウスでは盛んになっていった。デザイナーで織物工でもあるギュンター・シュテルツルの教えのもと、学生は、色彩理論、デザインにおける技術的な手法を学習しつつ、抽象的な意匠を持つ製品の制作に取り組むようになる。シュテルツルは、セロハン、ガラス繊維、金属など、ありふれた素材の使用を推奨し、更に、前衛的な製品を生み出すよう学生に精励した。特に学生が制作したテキスタイルに関しては、バウハウスの建築壁画や建物内のインテリアとして使用されるに至った。その中では、「Architype Bayer」という上掲写真の幾何学的なフォントが生み出されることになった。

 

 

 

 

3. ナショナリズムの台頭 バウハウスの終焉と亡命

 


 

多くの芸術活動は、その先鋭的な本質ではなく、外的な要因ーーとりわけ政治的な影響ーーにより堰き止められる場合が多い。ある表現者は、その弾圧を忌避するため亡命を余儀なくされる。ナショナリズムによる弾圧の動きは、既に1928年頃に始まっていた。創設者のグロピウスは、すでに学校を辞任し、建築家のハンネス・マイヤーが実質的なディレクターとなっていた。マイヤーは、大量生産に重点を起き、形式主義の趣があると思われるカリキュラムを削除し、広告と写真芸術における清新な息吹をもたらす。しかし、その頃、すでにバウハウスはナショナリズムからの圧力を受け始め、ほどなくマイヤーも1930年にディレクターを辞任する。

 

以後、ディレクターのポジションはファン・デル・ローエなる人物が引き継いだ。ローエは当時有名な建築家であり、第一次世界大戦後の未来的な建築様式の手法を示そうとしていた。この年代から、バウハウスによる当初のハンドクラフト/手工業的な生産方法は徐々に減少していった。

 

1932年、デッサウで行われた地方選挙において、ナショナリズムが主要政党に成り代わったことは、そのままバウハウスの終焉を意味していた。全体主義とナショナリズムの荒波が、バウハウスにも押し寄せようとしていた。学生の多くは、ナチス警察により逮捕され、尋問を受けた。1933年、バウハウスは閉鎖と解散を決定する。以後、ナチスの占領により、1945年のスターリングラードの戦いまで、全体主義とナショナリズムの動きが途絶えることはなかった。


しかし、バウハウスの主要人物の以後の最も剣呑な年代において、亡命という手段をやむなく選び、その教えを携えて海外に逃れて行く。彼らの多くは、米国への移住を決め、各地に散らばることになった。以後、ブロイヤーとグロピウスは、ハーバード大学で教鞭をとっている。また、その中には、イエール大学で教鞭をとった人物もいる。ファン・デル・ローエはイリノイ州に移住し、イリノイ工科大学で教えた。バウハウスの流儀は、以後、コルビジュエの建築という分野で継承された。もちろん、現在もどこかでそれらの教えが引き継がれているに違いない。




以下の記事もぜひあわせてご一読下さい:


ヒップホップアート GRAFITTIのはじまり 芸術と戯れ


Reference:

 

 

昨年に続き、Ambient Kyoto 2023の開催が決定しました。


昨年はブライアン・イーノのインスタレーションが展示され、所定の会期が延長されるほどの大盛況となりました。今回、2回目の開催となるアンビエント・キョウトでは、坂本龍一と高谷史郎のコラボレーションを始め、コーネリアス、バッファロー・ドーターと山本精一など、魅力的なアーティストの芸術作品が展示される予定です。

 

さらに、同時開催される東本願寺のライブでは、伝説的な音楽家で、パンデミック以降、山梨にお住まいのテリー・ライリーさんが能舞台に登場します。昨年に続いて、どのようなアートイベントになるのか楽しみです。チケット販売や参加料金の詳細は後日発表のことです。


アンビエントとはどんな音楽なのかについてよく知りたい方はぜひこちらの過去記事も参考にしてみてください。

 

 

 ◉参加アーティスト:


[展覧会] 坂本龍一 + 高谷史郎、コーネリアス、バッファロー・ドーター + 山本精一
[ライヴ] テリー・ライリー

◉会場:


[展覧会] 京都中央信用金庫 旧厚生センター
[展覧会] 京都新聞ビル地下1階
[ライヴ] 東本願寺・能舞台

◉会期:2023年10月6日(金)〜12月24日(日)

 

◉開催概要


タイトル:AMBIENT KYOTO 2023(アンビエント・キョウト2023)

参加アーティスト:
[展覧会] 坂本龍一 + 高谷史郎、コーネリアス、バッファロー・ドーター + 山本精一
[ライヴ] テリー・ライリー

会場:
①京都中央信用金庫 旧厚生センター(展覧会)
②京都新聞ビル地下1階(展覧会)
③東本願寺・能舞台(ライヴ)

会期:2023年10月6日(金)- 12月24日(日)
*休館日:11月12日(日)、12月10日(日)
*テリー・ライリーのライヴ実施日:10月13日(金)、10月14日(土)

主催:AMBIENT KYOTO 2023 実行委員会
   (TOW / 京都新聞 / Traffic / 京都アンプリチュード)
企画・制作:TOW / Traffic
協力:α-station FM KYOTO / 京都 CLUB METRO
後援:京都府 / 京都市 / 公益社団法人京都市観光協会 / FM COCOLO
機材協賛:Genelec Japan / Magnux
協賛:Square
特別協力:京都中央信用金庫

 

Morton Feldman

モートン・フェルドマンの「ロスコ・チャペル」は、ヴィオラ独唱、アルト独唱、ソプラノ独唱、混声合唱、チェレスタ、バスドラム、チャイム、ゴング、テナードラム、ティンパニ、ヴィブラフォン、ウッドブロックで構成される打楽器のためのスコアです。この曲は合唱を中心にした現代音楽の一つで、今でも米国の楽団や合唱団などが様々な解釈を行い、再演に挑んでいます。


米国の現代音楽家であるモートン・フェルドマン(1926-1987)は、1971年、テキサス州ヒューストンにあるメニル財団から一般に贈られた同名の建物のために、「ロスコ・チャペル」を作曲した。そもそもロスコ・チャペルは、メニル財団がアメリカの抽象表現主義の画家マーク・ロスコ(1903-1970)に依頼した14枚の巨大キャンバスを収蔵・展示するために設計されました。



ロスコもフェルドマンも、絵画では自意識過剰なモダニズム(ポップ・アートなど)、音楽では12音のアカデミックなシリアリズムという、一般的な、あるいは少なくとも最も話題になっている芸術傾向を受け入れることを避けていました。しかし、ロスコの絵画やフェルドマンの音楽が持つ挑戦的な(あるいは無神的な)性質は、多くの人に、20世紀半ばの芸術が「皇帝の新しい服」に過ぎなかったのか、という問いに直面させることになる。


ロスコ礼拝堂は、ドミニクとジョン・ド・メニル夫妻が構想し、資金を提供した多くの文化プロジェクトの一つである。


ドミニクはパリに生まれ、シュルンベルジェ社(Schlumberger Limited)の石油製品製造設備の資産を受け継いだ。ソルボンヌ大学で数学と物理学を学び、映画製作に興味を持ったドミニクはベルリンに渡り、『ブルーエンジェル』の撮影中、ジョセフ・フォン・スタンバーグの脚本助手として働きました。というのも、トーキー映画の黎明期には、「台詞の置き換え」ができなかったから(『ブルーエンジェル』は1929年末から1930年初頭にかけて撮影され、ドイツ初の長編トーキー映画となった)。そのため、すべてのシーンをドイツ語と英語の2回に分けて撮影する必要があった。


1944年、フランスが崩壊し、ナチスに占領されると、ドミニクは銀行家の夫ジョンとともにアメリカに移住し、テキサス州ヒューストンに定住しました。ドミニクはカトリックに改宗しており、夫とは精神性と芸術のクロスオーバーに強い関心を抱いていた。その代表的な例が、宗教を超えた礼拝堂とそこに飾られたマーク・ロスコの絵画、そして、その空間にインスピレーションを受け、そこで聴くことを意図して依頼したモートン・フェルドマンの音楽作品である。これはまた一般的に現在では盛んなインスタレーションの先駆けと指摘される場合もある。なぜなら、そこには空間と音の融合という二つの芸術形式の混淆が見出せるからである。


    


1947年、ハリー・トルーマン大統領は、国務省が巡回展のために購入したあるモダニズム絵画を見たとき、「これがアートなら、私はホッテントットだ」とコメントしたというエピソードが残っています。ホッテントットとは今や廃れてしまった侮蔑的な意味で用いられる呼称であった。1947年といえば、ニューヨークのジャクソン・ポロックが「ドリップ」技法の実験を始めた時期だが、この展示会にポロックのドリップキャンバスが含まれていたとは思えない。しかし、国務省の新しい絵画がどんなものであれ、トルーマンの印象には残らなかったし、この作品をアートとは考えなかったのだ。


"ごく普通の人 "は、視覚芸術を評価する基準として、むしろ保守的かつ伝統的な(あるいは常識的な)基準を持っている。しかし、ハリー・トルーマンの基準と、イタリア・ルネッサンス期の王子やオランダ黄金期(1570-1650年頃)の商人の基準には、大きな共通点があるように思えるのです。


作品が高品質な素材で作られ、ひときわ高価な素材で強化(価値付け)される。もちろん、水彩画ではなく油絵(あるいは木炭によるスケッチ)がゴールドスタンダードである。油絵は精巧な金箔のフレームがなければ、想定される観客や購入者には裸のように見えるだろう。


もちろん、これらの要因によって、芸術を支援するパトロンが支払っているものが何なのかというパンドラの瓶が開いてしまいますが、この議論ではそれほど重要ではありません。事実、視覚芸術には階層があり、世界中のほとんどの大規模な美術館でそれを見ることができます。


観客にとって意味のある、実在するものを忠実に表現している、部屋、人、馬、犬、風景、友人のグループに属する表現芸術は、長い間、西洋の美術品のコレクター、たとえ、経済的に不自由な大学生であっても、かつては部屋の壁にそれらを飾りたがったものです。例えば、ゴッホの「星月夜」や「ひまわり」が何百万回も複製品として売られているのは、「人々が共感できる(あるいは投影できる)ものを表しているから」なのです。


米ヒューストンにあるロスコ礼拝堂の巨大な暗黒のキャンバスは、マルセル・デシャンの次の世代の空間芸術に位置づけられますが、特にスペインのカトリシズムを思い起こさせる。この点で、特にフランシスコ・デズルブランが思い浮かぶ。彼のシンボル満載の静物画「Still Life with Lemons, Oranges and a Rose」は、モーテン・ローリセンの鎮魂歌「Lux Æterna」に影響を与えた。


ロンドンを拠点とする音楽レーベル兼イベントプロダクションの33-33が贈る、実験音楽、オーディオビジュアル、パフォーミングアーツを紹介するイベントシリーズ<MODE>が5月25日から6月2日にかけて、東京都内の複数の会場にて開催される。


同イベントは2019年のロンドンでの開催以来4年ぶりの開催となり、日本を拠点として実験的なアート、音楽のプロジェクトを展開するキュレトリアル・コレクティブBLISSとの共同企画となる。開催中は、世界のアート、音楽シーンで評価を受けているアーティストたちが集結し、9日間にわたって国際的なアートプログラムが実施される。

 

また、2018年にロンドンで発表された第一回の<MODE>では、日本の作曲家、ピアニスト、電子音楽のパイオニアであり、先日3月28日に惜しまれつつ逝去された坂本龍一氏がプログラムキュレーターを担当しており、敬意と追悼の意を込めて、東京で今回のシリーズ開催に至った。


同イベントは現在、初来日公演となるカリ・マローンはじめ、スティーブン・オマリー、イーライ・ケスラー、ベアトリス・ディロン、Merzbow、カフカ鼾、伶楽舎、FUJI|||||||||||TAなど、全5公演、11組の豪華ラインナップを発表している。

 

本公演のチケットは各プログラム限定数での先着販売となっており、追加販売はないとのこと。気になる方は早めにチケットをお買い求め下さい。


各プログラムの詳細は<MODE>をチェックすべし。

 

現在、日本の作曲家/ビジュアル・アーティストの池田亮司、及び、フィンランドのアーティスト・デュオ、Grönlund-Nisunen(Tommi Grönlund and Petteri Nisunen)がベルリンにあるエスター・シッパー・ギャラリーにて共同展を開催しています。エスター・シッパーはドイツの美術商で、89年にケルンで活動を開始し、95年にギャラリーをベルリンにオープン。この展覧会は、Olivier Renaud-Clémentが企画し、池田亮司とGrönlund-Nisunenのアート作品が展示されています。 


Ryoji Ikeda, point of no return, 2018. Esther Schipper, Berlin, 2023.  Almine Rech Gallery, and Esther Schipper, Berlin/Paris/Seoul
(Image credit: Photography © Andrea Rossetti)
 

2021年にロンドンの”180 The Strand”で行われた、音、光、データによる池田亮司のインスタレーション展で注目を集めた「point of no return」が、現在、ベルリンのエスター・シッパーに登場しています。当時、池田亮司さんは、この作品について「”point of no return”はとてもシンプルで、とても強烈な作品です」と説明しています。「壁に黒い円を描いて、その周囲に光を投射することで、その黒さが強調される。常に発光しているような感じがして、ちょっと怖くなる。圧倒されます」

 

さらに、池田亮司さんが「同時代のアーティストの中で、私にとって最も重要なアーティストの一人」と語るGrönlund-Nisunenにとって、本展は同ギャラリーでの5度目の展示となります。二人は、重力、磁気、放射線の元素の力を電磁波や音波で鑑賞者を包み込む詩的なモチーフに変換することで知られています。

 

《Scattered Horizon》2023年 Esther Schipper, Berlin/Paris/Seoul. © Andrea Rossetti)

さらに、本展のための新作「Scattered Horizon」は、水平線という安定したモチーフを弄することで、鑑賞者を幻惑させる。また、これは、暗い展示空間でのアート的な実験でもある。「投影されたゆっくり揺れる水平線は、互いに変調する低いサイン波の音と対応しており、少し方向感覚を失い、瞑想的な多感覚の体験を提供します」二人は、この作品についてWallpaperに説明しています。「私たちは、長期間、互いの作品を知っていて、高く評価しています。また、Tommiのレーベルからも彼のレコードが発売されています。私たちは、何年も前から一緒に展覧会を開いており、今回また共同でイベント開催中出来ることを大変嬉しく思っています」


さらに、本展では、池田亮司とGrönlund-Nisunenの作品と並んで、エストニアのサウンド&インスタレーション・アーティスト、Kaarel Kurismaaの新作、近作、歴史的作品もギャラリー内のブックストア・エリアで公開されます。池田亮司とGrönlund-Nisunenのコラボレーション展覧会は、2023年2月25日までベルリンのEsther Schipperで開催予定です。本展覧会の詳細はこちら

 


 米国のシンガーソングライター、Sharon Van Etten(シャロン・ヴァン・エッテン)はThe Raincoats(レインコーツ)のGina Birch(ジーナ・バーチ)とコラボレーションし、新刊『Illustrated Lyrics』を制作したと発表した。本刊はVolumeから2023年秋冬に発売予定となっている。先日、シャロン・ヴァン・エッテンは今年始めにリリースした新作『We've Been Going About This Wrong』のデラックスバージョンをDead Oceansから発表している。

 

この新刊書籍『Illustrated Lyrics』には、Sharon Van Ettenのディスコグラフィーにある曲の歌詞と、Gina Birchによるイラストが掲載される予定で、絵本のような構成になっている。この書籍は、布製のサイン入りコレクターズエディションで、1,000部限定で販売、128ページから構成。書籍自体は英語ですが、公式サイトでは日本円での購入も受け付けています。


"みんな、私が嘘つきだと思ってる" "あなたと炎の縁を渡っている、疑問の時間に私は思う - 誰が、誰?"


シンガーソングライター、シャロン・ヴァン・エッテンの言葉は、無防備さに力を見いだし、内なる声が外に向かって発する叫びとなる。Apple Musicが企画した、ヴァン・エッテンとエルトン・ジョンの最近の対談では、彼女の作品に見受けられる率直な性格と、それを聴く人の心の伴侶となる能力の重要性が明らかにされている。エルトン・ジョンが彼女に語ったように、音楽は "私に触れて、私をどこか別の場所に連れて行ってくれて、私の心を暖かくしてくれる...そして、私は長い間あなたを愛してきたから、あなたと話すことにかなり緊張している"。

 

シャロン・ヴァン・エッテンにとって、音楽は子供の頃から不可欠な存在であり、様々な障害や不都合を乗り越えながらも、2009年にスタジオ録音によるデビューアルバム『Because i was in love』をリリースに漕ぎ着けた。このデビュー時まで、彼女は、自作のハンドメイドCDを作って配り、曲を書き、演奏し続けた。ヴァン・エッテンが、これまでにリリースした6枚のスタジオ・アルバムは、ジョシュア・オム、エンジェル・オルセン、ボン・イヴェール、ニック・ケイヴ、ザ・ナショナルなど、音楽界の傑出したアーティストたちとコラボレーションしています。


今回のユニークなコラボレーションでは、アーティストでありミュージシャンでもあるレインコーツのジーナ・バーチと共同で、彼女の歌詞をペイントでアニメートしました。裸の人間の姿、肉の感触、大胆な色調、歪んだ周囲の環境などの表現は、虐待された関係や感情の成長、母性、愛、残してきた自分への郷愁など、ヴァン・エッテンの歌詞の生々しさ、力、繊細さを伝えるものとなっています。

 

書籍の写真は下記からご覧いただけます。



 Illustlation

 




 


バンクシーが、ウクライナに出現した7つの新しいアート作品を制作したことを認めている。


ブリストルのアーティストがウクライナにいるという噂は、彼の特徴である白黒のステンシルスタイルの壁画がウクライナ各地に現れ始めたことから、ソーシャルメディア上で広まっていた。


ブリストル・ポスト紙は先週、柔道着を着た子どもが男性を床に投げつけるバンクシー風の壁画が、首都キエフの北西に位置する町ボロディアンカで目撃されたと報じています。


現在、バンクシーはインスタグラムを通じて、彼が本当にウクライナにいたことを確認し、同じくボロディアンカで描いた別の作品、瓦礫の上で逆立ちをしている体操選手の写真を公開しています。


ボロディアンカは、2月に始まったウクライナとの紛争の初期に、ロシアの砲撃で特に大きな打撃を受け、この町は、4月にロシアの占領から解放された。


バンクシーの作品は、キエフやその近郊のイルピンなど、ロシアの侵攻で特に大きな影響を受けたウクライナの他の地域でも発見されている。そのうちの1つは、金属製のタンクトラップをシーソーのように使う2人の子供を描いたもので、もう1つは、ヘアカーラーをつけ、ガスマスクをした女性が消火器を持っている壁画が描かれています。


一方、イルピンでは、首飾りをつけたバレリーナがリボンを持っている壁画が目撃されています。


 

Andy Warhol Museum 


 米国、ピッツバーグアンディ・ウォーホル美術館は、影響力のあるオルタナティヴロックバンドのデビューアルバムの貴重なマスターテープを発見し、この貴重なアーカイブを展示すると発表しました。

 

1967年にVerve Recordsからリリースされた「The Velvet Underground & Nico」は、ニューヨークのバンドがドイツの歌手、女優、モデルのNicoとコラボレーションしたものです。また、アンディ・ウォーホルの象徴的なバナナ・ジャケットのデザインがアルバムのアートワークとして採用されています。

 

モノフォニックなオープンリール1/4″テープには、バンドが録音したオリジナルの9トラックが収録されており、後に1967年にリリースされた曲の別バージョンとミックスが提供されています。


このオリジナル・マスターテープは、The Velvet Underground & Nicoの制作後にウォーホルに渡され、それ以来、聴くことができなかった作品です。今回、デジタル化されたこの発掘音源は、2023年にウォーホルで開催される予定の新しい展覧会の一部として初公開される予定です。


このオリジナル・マスターの発掘について、ザ・ウォーホル・アーカイブスのマネージャーであるマット・グレイは次のように述べています。「バンドが本来意図したとおりにアルバムを聴くことができるのです。トラックリストだけでも、このアルバムの再話になります。音のクオリティは驚くべきもので、新しい視点を与えてくれます」


ヴェルヴェット・アンダーグラウンドは、当初、ルー・リード、ジョン・ケイル、スターリング・モリソン、アンガス・マクリーズからなり、後にマクリーズの代わりにモー・タッカーがドラムを担当していたが、ウォーホルと1965年後半から一緒に仕事をするようになった。

 

バンドは、ポップアートの巨匠、アンディ・ウォーホルの作品『アンディ・ウォーホル』『アップタイト』『エクスプロージング・プラスチック・イネヴィティ』に参加した。ウォーホルはプロデューサーとしても参加し、ニューヨークのセプター・スタジオでデビュー・アルバムのレコーディングを行った。

 

1966年のレコーディング当時、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドは無名であったため、より自由な創作が可能であった。その後、ヴァーヴ・レコードと契約し、オリジナルのヴェルヴェット・アンダーグラウンド&ニコの楽曲を再ミックス、再録音したアルバムをリリースしている。

 

今回のマスターテープの展示は米国の美術館で行われる。京都のアンディーウォーホール美術館で展示されるかついては不明。

Jean-Michel Basquiat 

 

1960年に、ブルックリンで生まれたジャン・ミシェル・バスキアは、思春期をニューヨークとプエルトリコの間で過ごした。

 

1970年半ば、ニューヨークに戻ったミシェル・バスキアは、当時、ニューヨークの地下鉄を中心に栄華をきわめていたグラフィティアーティストの最初期の運動に加わっていました。彼は、このとき、グラフィティ・アーティストのアルディアスと運命的な出会いを果たし、ほかのタグ付を行っていたアーティストに混じり、二人は、SAMOと名を冠してコラボレーションを始めた。

 

ミシェル・バスキアは、ストリートアートのスタイルにこだわった芸術家である。ニューヨークの個展で作品を公にする前に、キースヘリング、マドンナ、デビー・ハリーなどのアーティストが名をはせたニューヨークのダウンタウンの熱狂的なクラブシーンに参加していた。1980年、ミシェル・バスキアの作品は、ダウンタウンのアートシーンを正当化するものとみなされ、タイムズスクエアショーで最初に公のものとなった。

 

画家バスキアの名がメインストリームに押し上げられる以前、LAのブロード博物館の創設者は、この画家のことを知っていたといいます。彼らは、ニューヨークを訪問した際に、バスキアとコンタクトを取ろうとし、彼のスタジオに出向き、後にバスキアをロサンゼルスに招きいれた張本人でもある。

 

1980年代は、アメリカの文化、ヒップホップ文化、黒人文化の観点から非常に興味深い時期にあたると、南カルフォルニア大学の元DJ兼映画メディアを専門とするトッド・ボイド教授は話しています。「1980年は、ホイットニー・ヒューストン、マイケル・ジョーダン、エディー・マーフィーらの黒人の芸能人がスーパースターになった。変革の十年であった」と指摘している。また、ボイド氏によれば、ミシェル・バスキアは、上記のスーパースターと同レベルの水準にあった存在であるという。「バスキアの芸術について話すことは大事なことですが、それは彼の芸術と彼の芸術における全体的な文化的な影響について話すこととは別のことです」

 

 

ボイド氏は、1983年にバスキアがプロデュースしたランメルジー、K−ロップのヒップホップシングル「ビートバップ」、そして彼の絵画作品である「ホーンプレーヤー」を、ヒップホップとビバップとして知られる即興スタイルのジャズ(フリージャズ)との関連性が見いだされる点であるとしています。 

 

「ホーン・プレーヤーズ」は、ミシェル・バスキアのヒーローであるチャーリー「ザバード」パーカーとディジーガレスピーを題材として描かれていて、これらは、第二次世界大戦後に人気を博した音楽ジャンル「ビバップ」の先駆者の二人であると、ボイド氏は指摘しているのです。一見、バスキアとビバップにはさほど関連性はないと思われますが、これはどういうことなのでしょう?

 

無題 頭蓋骨
 

 「ビバップとヒップホップの間には円滑な線を描くことが出来ます」と、ボイド氏は指摘します。「ミシェル・バスキアは、実際にはこれら2つの世界を緊密ににつないでいるんです。1980年代のアーティストの出現は、ヒップホップ文化の広がりと呼応するものでした。MTVに登場した初期のラップミュージックビデオ「Rapture」という曲のブロンディのミュージックビデオにバスキアは出演しているのです」

 

 

さらに、バスキアは、まず間違いなく、自分の芸術と、ビバップ時代の音楽の台頭に自己投影をしていた、とボイド氏は指摘しています。「ビバップのミュージシャンはスタンダードからの逸脱を意味していました。彼らは芸術として自分たちの音楽を真剣に受け止められることを期待していた人々です。ビバップのミュージシャンは、エンターテイナーであるという概念をはなから拒絶しているのです」、さらに、ボイド氏は、かのバスキアも前の時代のビバップシーンのミュージシャンたちと同じような苦境に陥ったと指摘している。「たとえば、バスキアの芸術の初期の常連が、絵画を家具の色彩と一致させたという逸話が残っている。ミシェル・バスキアの「不快な自由」1982年の作品では「非売品」という文字が大文字で書かれており、さらに、バスキアという芸術家が真剣に受け止められ、みずからのアートを単なる商品として見られないことを望んでいた」のだという。それをバスキアは、絵画の中の大文字のフォントに込めていたというのである。

 

「Horn Players」では、両方のアーティストの名前(グラフィティの専門用語ではタグと呼ばれる)が取り消され、線付きのテキストで描かれている。ボイド氏はこれを、ビバップジャズミュージシャンが有名なジャズ・スタンダードを認識できないように方法と比較検討を行っている。「ビバップミュージシャンは」と、ボイド氏はさらに説明しています。「しばしばアメリカの伝統的な歌集を踏襲しつつ、そこから脱構築しようと試みていた。このたぐいの即興、この取り消し線、また、この脱構築は、鑑賞者がバスキアの絵に明らかに見出すものであり、そこに、ジャズ、そして、ジャズからの影響がはっきりと感じられるのです」


  

Horn Prayers


さらに、ビバップジャズ、ヒップホップ、アメリカの20世紀の主要なブラックミュージックの影響は、バスキアが自身のレコード・レーベルでプロデュースし、さらにリリースを手掛けた"RammeleeandK-Rob1983"から発売されたヒップホップシングル「Beat Bop」のカバアートにも表れているという。


ボイド氏は、取り消し線のついたテキストを、レコードでスクラッチするヒップホップDJのテクニックと同一視しており、この事について、以下のように説明しています。「ヒップホップというのは、基本的に、ほかの音楽を利用し、新しい音楽を作成するジャンルである。古いものが是非とも必要であり、それをリミックスという形で新しいものを作りなおす技法なのです。つまり、その手法をミシェル・バスキアは絵画の領域で表現しようとしていたのです」

 

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1970年代を通して、ブライアン・イーノはこれまでにはなかった芸術における革新をもたらそうとしていた。

 

現代のインスタレーション芸術においても同じことではあるが、ブライアン・イーノという人物は、それが音楽にせよ、視覚芸術にせよ、それ自体を体験の一つと捉えており、なおかつまた、それらの音楽や芸術の鑑賞者に、一種の体験をもたらそうという意図を持っている。彼は、常に音楽や芸術を消費のためのものとは考えていない。それらの体験者に一種の気付きの体験をもたらし、それを自分なりに持ち帰り、あらためて自分の体験としてもらいたいと考えているのだ。もちろん、それはブライアン・イーノのアートの本質ともいうべきものを形成している。

  

 「アート作品をオブジェクトとして考えるのをやめて、それらを体験のきっかけとして考え始めてほしい」と、アンビエントの創始者であるブライアン・イーノは、当時の日記に記している。ミュージシャンとしての成長と並行して発展した1960年代に彼が引き受けた視覚芸術(インスタレーション)のキャリアを支える創造的な衝動は、上記のイーノ自身の日記にかかれている精神そのものである。この概念を、カルフォルニア州立大学の美術館長であるクリストファー・スコーツ氏は、ブライアン・イーノ:ビジュアルミュージック(公共図書館蔵)で取り上げ、深く学問的に探求を重ね、40年以上にわたるイーノの音楽プロジェクト、美術館やギャラリーのインスタレーションのまたがる壮大なモノグラフ、あるいは豊富な展示ノート、それからスケッチブック、その他これまでに明らかにされていなかったアーカイブ資料について解き明かしている。イーノの芸術というのは一種の学問になぞられられてもおかしくはないのだ。



 

そもそも、アンビエントの発祥についても、全ては偶然性ーシンクロニシティから始まったわけであって、それを彼はかつての現代音楽家、ジョン・ケージとは異なる形で敷衍していこうとした。イーノは、生前のジョン・ケージと親交があり、少なからず音楽、あるいは芸術において直接的、間接的にかかわらず薫陶を受けていたのは事実である。そして、イーノ自身も、ロキシー・ミュージックから脱退し、ソロアーティストとしての活動を始めると、ケージの音楽に深い傾倒を見せ、自分自身の音楽との類似性と相違性に気がつくようになった。2005年の英国芸術評議会のインタビューにおいて、イーノは、以下のようにケージの作品との自作品との比較性に言及している。


「ジョン・ケージ・・・ある時点で重要な選択をしました。彼は最早、音楽コンテンツに干渉しないことを。しかし、私が選択したアプローチは彼とは異なるものでした。私は必ずしも干渉を拒否しない。私はむしろ干渉して誰かを導く手法を選びます。・・・例えば、ケージによって設計された音楽システムは、選択の余地がありません。彼は、頭から出てくるものをフィルタリングしたりしませんので、受動的にそれを受け入れるしか有りません。ところが、私のアプローチは、システムの完成を妨げたりはしないものの、最終的な決定があまり良くない場合は、それをきっぱり捨てて別のことをするというものです。これがケージと私との根本的な違いです。自分が実験音楽家であると考える場合、実験の一部が失敗することを受け入れる必要があるんです。失敗した作品も少しは面白みがありますけれど、他の人と共有したり公開するようなものではありません」

 

このことから、ジョン・ケージの方は割と一つの手法に拘泥するようなタイプであり、イーノの方はそれほど執着せず、多種多様な手法をアイディアの段階で変化させていこうとする策略家のような一面を持ち合わせている。

 

そして確かに、イーノの最も興味深いプロジェクトもまた上記の制作の途中の段階で偶然性をもたらし、一つのことで上手く事が進んでいかなかった場合は、それとは異なるアイディアを交え、完成へとこぎつけようとするイーノ独自の作曲技法が見いだされるのが、「オブリーク・ストラテジー」である。

 

これは、1970年代の半ばに、ドイツの作曲家ピーター・シュミットと協力し、「易経」に基づいて考案された一種の作曲技法のひとつである。芸術の革新を追求したこのプロジェクトは、当初、「百以上の価値のあるジレンマ」という字幕がつけられたデッキに、シンプルな黒のテキストが書かれた115枚の白いカードのセットによって構成されていた。これは、コンセプチュアルアートと呼ばれ、これらのカードは、本質的に、アイディアを生み出すために使われ、創造の段階においての壁を乗り越え、古い思考パターンを崩すために生み出された実用的な道具のひとつであった。

 








そして、この「オブリーク・ストラテジー」という概念は、デビッド・ボウイとの1997年の作品「Heroes」のレコーディング中に初めて実質的に取り入れられた。

 

特に、二人は、「Sense of Wonder」を制作している最中にこれらの実際音楽の作曲やレコーディング、マスタリングとは何の関係のないアイディアを記したカードを組み込むことにより、創作の段階で困難に突き当たった際、そのブロックを乗り越えようとした。つまり、ライターズブロックを打破するために生み出されたものである。そして、この「オブリーク・ストラテジー」は、本来、並んでいることとは別のなにかについて考えていたり、悩んでいることとは関係のない事柄について思いをはせている際に、実は一番良いアイディアというのは生まれるものらしい。

 

その後、ブライアン・イーノは、アンビエントを生み出した後に、音楽の領域だけではなく、元々芸術学校で教育を受けた人間としての素養を活かし、現代芸術のひとつ「インスタレーション」の領域に活躍の裾野を広げていった。




後の時代になり、ブライアン・イーノは「なんでも芸術であり、誰でも出来る」という大胆な宣言をし、前衛とフルクサス運動のうねりの中で、彼の正式な芸術教育で、音楽と視覚芸術の融合に直面することになった。


いうなれば、音楽においては革新的なことはやり終えたたため、その向こうにあるインスタレーションというフィールドへ踏み入れていったわけである。彼はまた、伝統的な芸術の世界の専門化や制約という概念に反旗を翻し、創造性の包括的なモデルを共感的に受け入れ、次のように主張している。

 

「美術学校では、段階的に何をすべきかおしえることと、あなたがやりたいことを自由にやることの間で、なんとかバランスを取ることが出来ます。学校としての方向性は、根本的に、 専門家の育成、そして、野心、目標、アイデンティティの提供に向けられています。画家、彫刻家などの正しいアイデンティティを前提にすることにより、市場にたやすく参入できるからです。しかし、その時に培われたアイデンティティというのは他方、大きな束縛ともなります。その価値観を身につけて外に出ていくのは非常に危険なことです」

 

 

また、 ブライアン・イーノ:ビジュアルミュージックの序文では、かつてイーノの教師であった芸術家、サイバネッティクスのパイオニアでもあるロイ・アスコットは、ブライアン・イーノが既存の芸術のシステムのどの領域に属するか究明しようとしている。

 

「イーノの作品を、歴史的な枠組みの中に見出そうとすると、三重の三角測量が必要となるでしょう。英国の伝統におけるその三角形は、ターナー/エルガー/ブレイクのようです。そして、ヨーロッパでは、マティス/サティ/バークソンです。さらにアメリカでは、ロスコ/ラ・モンテ・ヤング/ローティが当てはまるでしょう。ただし、中近東とアジアの文化に基づいた三角測量も必要になるため、この3つの観点の三角測量だけでは、不十分です。・・・ここでは、二次サイバネッティクスを採用してみる必要があるでしょう。 文化的内地を測定しようとする試みは、相対的であり、鑑賞者に依存しており、常に不安定で、変化し、制限がないというのが個人的な認識です。

 

しかし、イーノの芸術を理解するための彼の一連のアプローチからは、彼の降伏と瞑想の美学の本質を簡単には認識しえないでしょう。その点で、彼は一種のマルセル・デュシャンのような無関心を貫いている。彼の芸術の根底にあるものとは・・・、それは平穏の静かな祝福と呼ぶべきものです。

 

ブライアン・イーノの最大の成果、そして彼のインスタレーション芸術、これらを非常に特異でありながら、同時に多くの人の心に共鳴し、さらに欠かさざるものにしているのは、間違いなく、彼自身のアイデンティティの探求ともいえる。創造的自己が必然的に分裂する文化的な景観の中において、イーノはこれまで一貫して、幅広い分野ないし知的分野を跋渉し、同時に統合の芸術を積み上げてきた。ロイ・アスコットは、それを以下のように美麗に表現している。

 

「そもそも、このアーティスト自身のアンビエントの自我同一性を認識しなければ、 イーノの芸術における自我同一性についても把握することは出来ません。これには、哲学、視覚芸術、パフォーマンス、音楽、社会的、および、文化的解釈、活動、といった行為のどこに彼自身が立ち位置を取っているのかを十分に把握しておく必要があるでしょう。・・・少なくとも、これまでのキャリア全体を通して、ブライアン・イーノは、自我同一性を追求してきただけではなく、光、音、空間、そして色彩を自由自在に使用し、それらのアートの参加者が自己性における境界に背くことを、楽しく、そして、情熱的に共有出来るコンテクストを提供してきたことだけは確かなことです」

 

ストリートアートの始まりは? 落書きと芸術について


近年、UKのバンクシーのアート形態を見ても分かる通り、一般的な人々の間では、ヴァンダリズムが芸術なのか、それとも、ただの不法行為の戯れに過ぎないのか、という点で意見が分かれるように思える。

 

しかし、芸術と戯れ、その両側面を意義を持つのがこの芸術形態の本質である。ヴァンダリズムという形式はその始まりを見ると、正真正銘のアウトサイダー・アートといえる。

 

元は、「ヴァンダリズムー落書き」と呼ばれるアート形式、グラフィティアートは、1970年代のニューヨークのヒップホップ文化とともに、地下鉄構内の列車の側面に、あるいは構内の壁に、「タグ付け」と呼ばれる自分の名を記すスタイルが流行した後に一般的な芸術として認められるようになった。

 

1970年代、NYのブロンクス区のヒップホップアーティストが「グラフィティ」というアート形態を確立させ、最初のNYのグラフィティシーンの中には、後に、現代アーティストとして有名になる27歳という若さで、オーバードーズによりこの世を去ったジャン・ミシェル・バスキアもいた。ミシェル・バスキアは、他のヒップホップシーンの最初のアーティストたちに混ざり、NYの地下鉄構内で「タグ付け」を行っていた。

 

その後、白人アーティストたちがこのヴァンダリズムカルチャーを広めていき、NYの壁という壁はカラフルなスプレーだらけとなり、混沌とした様相を呈するようになった。1970年代当時のニューヨーク市長は、これ以上、市の景観が損うわけにはいかないという理由で、このグラフィティアートを一掃するための法案を議会に提出したのだ。その後、長い間、グラフィティというアートスタイルは、若者の戯れとしか見なされなかったように思える。

 

ところが、英国のアウトサイダー・アート界に彗星のごとくあらわれたバンクシーにより、このグラフィティアートは美術界で再注目を受けるようになったように思える。町中の公共施設になんらかのメッセージやイラストを書き記すというバンクシーのアートスタイルは、実のところは、この1960年代から1970年代のバスキアをはじめとするヒップホップカルチャーと共に育まれたアートスタイルを巧妙に模倣し発展させたものでしかない。そのことはおそらく、多くの謎に包まれているバンクシー本人が最もよく理解しているはずである。それ以上の付加価値をつけて街の風営法すらをも度外視させているのは美術界、 オークションでバンクシー作品価値を極限まで釣り上げようとする美術収集家の欲望である。その欲望を逆手にとり、自分の芸術にたいする価値を実際より大きくみせようとするパブロ・ピカソに学んだスタイル、資本主義にたいする強烈なブラックユーモアがバンクシーの作風の核心には込められている。

 

そこで、現代になって漸く芸術形態として確立されるに至ったヒップホップカルチャーの一貫として若者の間に広まっていったグラフィティアートというのは、どのようなルーツを持つのか。本来、このグラフィティと呼ばれるアート形態はニューヨークで生じたものでなく、フィラデルフィアの青年矯正院で過ごしていた黒人青年が始めたものだ。


彼は、[コーンブレッド]の異名をとり、のちに死亡説が新聞紙面で報じられ、自分が死んだという一報を自ら目撃し、公共施設のタグ付けにより自分がまだ生きているということを示した、そんな奇妙なエピソードを持つ。

 

コーンブレッドは、黒人アーティストの第一人者であり、人種上のマイノリティとして生きる上での自分の不確かな存在性、アメリカという図りしれない規模を持つ社会において、みずからのアイデンティティを明確に示す方法、スプレー等で公共施設の壁等に自分のニックネームを記すグラフィティの「タグ付け」という技法を時代に先んじて取り入れた芸術家でもある。


「Tag」という概念は、後に、ウェブで用いられる表記法ともなるが、今回、このコーンブレッドなるアーティストから始まったグラフィティアートが60年代から70年代を通して、どのようにアメリカのカウンターカルチャーとして広まっていったのだろうか、その概要を簡単に記していきたい。

 

 

 

1.コネチカットの少年矯正施設ではじまったグラフィティアート  「コーンブレッド」

 

 

グラフィティアートは、これまで音楽、映画、テレビ、ファインアート、ホビー玩具やファッションに至るまで、現代の大衆文化に深い影響を及ぼしてきた。巨大な壁画、ファッションショー、実物大のアートショー、様々な形式で表現される現代のグラフィティのアート形式は、フィラデルフィアの少年矯正施設に1960年代にある黒人の少年が最初にそのスタイルを確立した。

 

1965年、現代グラフィティアーティストとして知られているドリー・”コーンブレッド”・マクレイは、当時、フィラデルフィアの青少年育成センター(YDC)に収容されていた12歳の問題児だった。

 

ドリー・マクレイは、コーンブレッドをひときわ愛し、YDCで提供される食事を作る料理人にコーンブレッドを食べたい、ことあるごとにせがんだという。マクレイ少年は幼い頃から愛しい祖母と一緒にコーンミールいりのパン、コーンブレッドを食べてきたため、その思い出があるからか、YDCの料理人に何度もそのコーンブレッドを食べたいとせがんだのだ。あまりに少年がせがむとき、料理人は彼のことを愛着を込めて「コーンブレッド!!」と言って叱りつけたという。

 

「Cornbread」は、たちまちマクレイ少年のユニークなニックネームに成り代わった。コーンブレッドは内向的な気質を持つ少年であったようで、当時、フィラデルフィアの矯正施設で蔓延していたドラッグの使用、暴力沙汰に他の子どもたちのように参加するのを避けていた。そこで代わりに、マクレイ少年は、それまで、ギャングの名や、シンボルマークで覆われていた施設の壁に独自のニックーネームをスプレー缶で記すことに没頭し、施設内での多くの呆れるような時間を要した。それはまさに、彼が自分自身の有りか、存在意義を確認するために行った行為である。

 


Cornbread

 

コーンブレッドはその後、YDCのほぼすべての表面に、新しく手に入れたスプレー缶で落書きを始め、昼夜問わずタグ付を行う場所を探し求めていた。それはまさに、マクレイ少年はこの施設内において、自分の存在の在り処を確認するための場所を探し求めていたということでもある。やがて、それから、コーンブレッドは、YDCの場所を問わず、ビジターホール、チャウホール、教会、バスルーム、およそ考えられる場所すべてにタグ付けを行い、「Cornbreaad」と記しはじめたため、施設職員のソーシャルワーカーは彼が精神障害に苦しんでいるのだと決めつけた。

 

マクレイ少年はYDCから釈放された後、少年院時代に始めた芸術形式をより洗練させていこうと試みた。彼はフィラデルフィアの街を訪れ、複数の友人と協力し、街じゅうにタグ付を行った。 


この後、コーンブレッドの謎めいたグラフィティの一貫であるタグ付は、フィラデルフィアの人々に少なからずの影響を与えるようになっていく。

 

町中の若者の間でこのタグ付が流行り始め、街の壁は様々な名前と番号が記され、銘々のアーティストはより注目を集めようと躍起になったという。


当時、フィラデルフィアでは、コーンブレッドの名は一般的に浸透し、地元紙がコーンブレッドはギャングに銃殺されたと誤って報じた際に、上記したように、彼は、街じゅうにタグ付けを行うことにより、自分が生きていることを証明した。「自分の名前を生き返られられるのは自分しかいないと分かっていた」と、フィラデルフィアウィークリーのインタビューにもあっけらかんと答えた。

 

 



コーンブレッドは1960年代を通して、グラフィティアートの第一人者としての地位を確立した後、ゲリラ的なパフォーマンスを行い、センセーショナルな話題をもたらした。コーンブレッドは、フィラデルフィア動物園の中に忍び込み、柵を飛び越え、象の檻の両側に「コーンブレッドドライヴ」を描き出した。このゲリラアートには、フィラデルフィアの船の乗組員も半ば遊びで参加していたという。

 

このゲリラスタイルのパフォーマンスは、後のバンクシーなどの現代アーティストに引き継がれている一種の現代アートのパフォーマンスの原初というようにもいえるかもしれない。その後、コーンブレッドは、刑務所で服役するが、しかし、このごく限られた空間でさえ、彼の評判をとどめるものはなかった。

 

その後、彼は、ロジャー・ガストマンのグラフィティアートを取材したドキュメンタリー作品に登場し、刑務所の警備員が自分のところにサインを求めてくる、自分の名はイエス・キリストのように響いていると証言している。

 

 

 

2.NYストリートアートの立役者 「Taki 183」

 


コーンブレッドがグラフィティの祖であることは疑いないが、この形式は一般的なアートとしては認められたというわけでなかった。北米の一地域で知られるニッチなアウトサイダーアートでしかなかったのだ。

 

そして、この芸術形態を、一般的にカルチャーとして広めていったのがTaki 183なる人物だった。彼は、コーンブレッドがフィラデルフィアの街の至る場所でストリートアートを広めていったのと同時期、ニューヨークでグラフィティという芸術形態を最初に普及させた重要人物である。

 

後に、バスキアといったアーティストも参加することになる公共施設の落書きに最初に取り組んだのはニューヨークの子どもたちだった。これは、上記のコーンブレッドと同じように、子供の戯れとしてこのグラフィティが始まったことを示唆している。それらのニューヨークの子どもたちの中に、ワシントンハイツ出身の自称「退屈なティーンネイジャー」を気取ったTaki183が出現した。彼は1969年にギリシャ名であるデトメリウスの変形「Taki」を組み合わせて、革新的なタグ付を確立した。「183」という番号は彼が住んでいた家の番地に因んでいる。

 



 

 

実のところ、Takiは名前と番号という後のヒップホップアートの符号の一つになるスタイルの最初の確立者ではなかった。それ以前にも、自分のニックネームと何らかの番号を組み合わせたタグ付けはニューヨークで存在していたというが、Takiは、「タグ付け」という行為を、最初のプロフェッショナルな仕事に変えた人物で、コーンブレッドが徹底して自分のニックネームにこだわったのとは異なり、Taki 183は、自分の住んでいる家の近所の番地の番号にこだわりを見せたアーティストである。後にComplexというカルチャーマガジンが「ニューヨークの偉大な50人の現代アーティスト」で彼を取り上げていることからも分かる通り、NYのストリートアート界で有名なアーティストとなった。

 

Taki 183はコーンブレッドが黒のスプレーを用いて、モノトーンのヴァンダリズム様式を生み出したのに対し、それとは異なるカラフルな色彩を用いた前衛的なスプレーペイントを世に広めた人物である。

 

しかし、上記のコーンブレッドと同じように、当時、スプレーペイントはアートとは認められておらず、当然ながら違法行為であった。警官に見つかれば、コーンブレドのように収監される可能性があった。

 

そこで、タキは自分の羽織っているジャケットに穴を開け、その中にスプレー缶やマジックマーカーを忍ばせ、ニューヨーク市の至る壁、街灯、消火栓、地下鉄の車両のタグ付を行い始めたが、現代のバンクシーと同様、人目につかない時間、場所を選び、相当、慎重にこのグラフィティ行為をおこなっていたようである。 

 

彼はコーンブレッドと同じように、すぐにこの奇妙な戯れに夢中になった。このグラフィティを行い始めた当時についてタキは、Street Art NYCのインタビューで以下のように回想している。

 

 

「私は自分の名を上げる感覚が好きだった。一度、落書きを始めたらなかなかやめられなかったんだ」

 


Taki 183は、自転車で移動をし、メッセンジャーとしての役割を担っていた。彼はニューヨークのアッパーサイドからダウンタウンに至るまで、自転車で移動し、グラフィティーアートを広め続けた。その後、彼の欲望はつのり、タグ付けにより街を征服しようとする野望を抱えるようになる。

 

この街の征服というTakiの欲求が一般的なメディアで取り上げられるようになった。最初にグラフィティをアートとして報じたのは、The New York Timesだった。ニューヨーク・タイムズは1971年に発行された紙面で、このグラフィティアートの特集を組み、1970年初頭のNYグラフィティシーンを世界に先んじて紹介し、その記事内で、とびきり風変わりなアーティスト、Taki183を取り上げた。ニューヨーク・タイムズで紹介されたことにより、彼の名は、一躍グラフィティーシーンの重要人物としてアメリカの全国区に知れ渡るようになっていった。

 

ヴァンダリズムで有名となった最初のニューヨーカーTaki 183は、コーンブレッドと同じように、実際のタグ付け行為を続けることにより、その後のニューヨークのストリートアートに対して強い影響を与えた。



3.1970年代、NYブロンクス区でのグラフィティの爆発的な流行

 


最初、Taki183が広めたグラフィティというアートスタイルが1970年代のNYをヒップホップと連れ立って席巻するのにはさほどの時を要さなかった。その一連の流れの中に、かのバスキアが登場したというのは既に述べておいた。そして、このアートスタイルが浸透していったのは1970年代初頭で、この年代にはブロンクスのドウィット・クリントン高校を中心にグラフィティコミュニティが形成されていく。都合の良いことに、クリントン高校は、都市交通局の操車場からさほど離れていない場所にあり、この操車場はその日の操業を終えた地下鉄車両が止められている場所、つまり、グラフィティをするのにうってつけの場所でもあったのだ。

 

クリントン高校に在学する若者たちは、この場所を介して、グラフィティを始めた。クラロイン社、ラストリューム社、レッド・デヴィル社のスプレー缶、フロウマスターインキ、さらに当時としては新しいテクノロジーであったフェルトペンを用いて、都市交通局の操車場に停車している地下鉄車両に、わいせつな言葉、へぼい文句を乱雑に書き連ねていった。


クリントン高校に在学する生徒、その仲間たちは、画家や美学生が用いるような専門の道具を使い、地下鉄車両を汚すという意図でなく、コーンブレッドやTakiと同じように、ゲリアアートを描き続けていたのである。これらの生徒は原初のNYのストリートアートの始祖、Taki183と同じようにタグ付けを行っていたことも同様である。

 

もちろん、これらは不法行為でもあったので、彼らはニックネームを用いることにより、巧妙に自分たちの身元をかくしおおせた。 クリントン高校のロニー・ウッドは「フェーズ2」という奇妙なタグを用い、グラフィックアーティストとして人気を博した。当時、「フェーズ2」は、ニューヨーク市内を走る地下鉄の車両の突然出現し、ニューヨーク市でも大きな噂を集めるようになった。

 

最初のNYの学生アーティスト、痩せて浅黒い肌をしたロニー・ウッドは、アフリカ系アメリカ人だった。しかし、事実としては、NYの初期のグラフィティシーンで活躍したのは、その多くがプエルトリコ系か白人である場合が多かった。平均的なニューヨーク市民にとって、人種的な背景というのはそれほど重要視されず、むしろ、そのアート性の強い個性の方が重視されていた。もちろん、グラフィティというのは、暇を持て余した人間、どことなく危なかっしい生活背景を持つ若者の仕業であると誰もが理解していた。実際、当時、グラフィティアートがカルチャーとして普及していくにつれて、多くのニューヨーク市民にとって、市の公共機関にグラフィティがあっという間に埋め尽くされていく様子のは奇異な感覚をもたらし、彼らが隣にあるニュージャージ州、或いは、フロリダ州に転居する原因を作ったこともたしかなことだった。


この後、1970年代にかけて、ニューヨークの地下鉄車両と駅は、交通手段であるほかに、グラフィティアーティストにとっての自由気ままに使用できるキャンバスのひとつに成り代わっていった。

 





学生アーティストたちの奇妙な欲求、創造性を最大限に発揮したいという思い、そして、ニューヨーク市民を震え上がらせたい、といういたずら心はいやまさっていき、ニューヨーク五区のグラフィティアーティストたちは、あらゆる公共機関にタグ付けをこぞって行い、壁を汚し、車両の端から端に至るまで、カラフルな文字を描き出した。

 

当時は、文字のフォントよりも、読みやすさそのものがアーティストの間では重視されていたようである、アーティストたちは、漫画的な文字で自分のスラングネームの「タグ」を書き連ねた。NYのグラフィティシーンが全盛期になると、ほとんどの地下鉄車両が、こういったヴァンダリズムによってカラフルな装飾にまみれていった。



4,ニューヨーク市のグラフィティアートに対する反発、それに対するグラフィティアーティストたちの反発

 


もちろん、ニューヨーク市としては、1970年代を通して、地下鉄をはじめとするあらゆる公共機関がヴァンダリズム行為によってサイケデリックになっていく様子を黙認していたわけではなかった。

 

アート形態としては多くの市民に支持されていたが、当時のニューヨーク市長、ジョン・リンゼイがついに、これらのグラフィティを一掃し、街の美化のために動き出した。 彼は側近であるエドワード・コッチに働きかけ、この若者たちのストリートアートをニューヨーク市の大きな都市問題としてみなし、目にするかぎりのヴァンダリズム行為を取り締まる主旨の法案を制定した。落書きを取り締まることは、無法状態に陥りつつあるニューヨーク市内の景観において、政治家が制御を取り戻した、という市民の信頼を得るためにも行われる必要があったのだ。

 

グラフィティの一掃運動が始まるや否や、アーティストたちも黙認するわけにはいかなくなった。彼らはすぐに抗議運動を開始し、地下鉄のシステムマップと共有する知識を活用し、落書きを増大させていった。

 

芸術というのは常になんらかの脅威に際して新たな発展を遂げる。それはどことなく人類の進歩にも似ているのだ。この市から突きつけられた脅威に際して、グラフィティアーティストたちは、既存の形式を捨て、新たな表現法を確立する。1970年代のグラフィティは新たな進化を遂げ、マジックマーカーという原始的な描写法から、エアゾールを用いた描写法に移行していく。グラフィティアートの作家たちは、新しく、レタリングスタイルを生み出し、星や王冠、花、眼球などのイラストをタグと一緒に用いて、さらにグラフィティアートの完成度を洗練させていく。この時代の作品には、アートとしてみた上で、歴史的な傑作もいくつか誕生する。もはや、最初の子供の落書きのスタイルでしかなかったグラフィティは、一つの芸術として認められるに至る。

 




この時代の象徴的な作家としては、Superkool223という人物が挙げられる。彼は、スプレーノズルが大きほど文字を素早く描き出せることを発見し、グラフィティアートの最初の傑作を生み出している。

 

そのほかにもTracy 168の作品は、ジョン・トラボルタの出演作のオープニングにも使用されるようになった。もちろん、それに加えて、上記の名前を名乗らない「フェーズ2」の作品も一般的に知られていくようになった。





 

フェーズ2を名乗るブロンクス出身のロニー・ウッドは、エアロゾルライティングが主流の、現在のグラフィティの礎「バブルスタイル」を最初に生み出した重要なアーティストである。

 

これは「ソフティ」とも呼ばれる太くてマシュマロのような文字のフォントを用い、1970年代当時の多くのグラフィティアートの中心的な形式となった。フェーズ2は、インターロッキングタイプと呼ばれる矢印の継いた文字、スパイク、目、星などのアイコンを最初に使用したことで知られている。

 




これらのアーティストの台頭した後、ニューヨークのブロンクスで隆盛をきわめてたオールドスクールヒップホップカルチャーと共に、グラフィティは進化していった。ヒップホップの流行とこれらのアート形式は深く関わりあいながら、ひとつの文化として長い時間をかけて確立されていったのは多くの方がすでにご存知のことだろうと思われる。


以後、グラフィティは、アメリカだけではなく、他の国々の若者のカルチャーとして浸透していく。彼らの始めたゲリラアートは子どもの戯れからはじまり、次第に洗練されていき、やがてモダンアートへ継承され、現代のバンクシーを始め、数多くの現代アーティストたちの重要なスタイルの一つとなっている。

 


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