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リアム・ギャラガーはadidasとのコラボレーション企画を発表した。新作スニーカー「LG2 SPZL」は、海外で7月14日、国内でも7月22日からadidasの直営店にて販売が行われる。今回のリアム・ギャラガー、adidasのコラボレーション企画は、2019年の「LG SPZL」に続き二回目となる。 

 
 
 
 
 
 
 
『LG2 SPZL(リアム・ギャラガー2 スペツィアル』は、今年4月に開催されたブラックバーンのキングジョージ・ホールでのコンサートのステージ(上記写真)で初めてお披露目となった。リアム・ギャラガーは、アディダスファンとして知られ、Spezialの創設者、Gary Aspdenの親友でもある。今回の刺激的なコラボレーションでは、ギャラガーがスリーストライプスに注ぐ愛情の深さを伺わせるものとなっている。
 
 
 

 

オリジナルの『LG SPZL』と同様に、『LG2 SPZL』は、アーカイブスカッシュと屋内モデルからのインスピレーションを組み合わせている。チョークホワイトのナイロンアッパーにライトグレーのストライプとオーバーレイを組み合わせ、シュータンには「Endorsed by Liam Gallagher」のテキストとギャラガーのポートレートグラフィックをデザインした。シューズにはカスタムパッケージおよびハングタグが付属する。

 

リアム・ギャラガー&アディダス、コラボスニーカー「LG2 SPZL」のご購入に関しましては、アディダス公式オンラインショップで御確認下さい。

 

 adidas Spezialとのコラボレーションに続き、マンチェスターの伝説的シンガー、リアム・ギャラガーが、最新ソロアルバム『C'Mon You Know』を記念して、新たなコラボレーション・シリーズを立ち上げました。




今回のコレクションでは、Barbour、C.P. Company、Nigel Cabourn、Sage Nation、Snow Peakのアイテムに加え、マンチェスター・メトロポリタン大学のファッション学科の学生がデザインしたアイテムが登場します。


コレクションでは、リアム・ギャラガーが、Nigel Cabournのため、自らデザインしたアイテムや、Barbourのアップサイクルジャケット、C.P. Companyのスモールコレクションなどが目玉商品となっています。

 

また、Sage NationのスモックやSnow Peakのパーカー、アノラック、バケットハットなど、エクスクルーシブなアイテムも発表されました。

 

その他のアイテムは、Manchester Fashion Institureのコンペティションで選ばれたもので、CDをテーマにしたコラージュを制作したNiamh and Aoife Dobsonとアルバムキャンペーンからインスピレーションを受けたHaripraba Thavanendranの作品がグラフィックとして採用されています。


リアム・ギャラガーのマネージメント・チームのSam Eldridgeは、このコレクションを発表し、次のように述べました。


リアム・ギャラガーは、史上最も偉大なロックスターの一人であるだけでなく、真のファッションアイコンであり、パイオニアであり、そのスタイルと影響は、ハイストリートからフェスティバル会場まで、全国で見ることができます。私たちは、セルフリッジの象徴的な店舗とパートナーシップを組み、リアムのスタイルを称えるユニークなイベントを開催できることを嬉しく思います。

 

このイベントでは、リアムのストーリーの一部となっているBarbour、C.P.カンパニー、フィンレイ、ナイジェル・ケーボン、セージネーションといったブランドの限定アイテムが提供されます。また、マンチェスターファッションインスティテュートとのコラボレーションは、次世代のイノベーターやクリエイターを刺激するものであり、大変嬉しく思っています。

 

 

このコレクションは、5月27日にロンドンとマンチェスターのSelfridgesの店舗、およびSelfridgesのウェブストアで発売されます。


https://www.selfridges.com/JP/en/



Dr.Martens




 

 

モッズ、パンクロックの象徴としてだけではなく、VOGUEのファッションショーにも取り入れられた歴史を持つDr.Martens。現在、ドクター・マーティンはセールス堅調で、根強い人気を誇る革靴です。


ゴムソールという動きやすさを追求した画期的なブーツは、どのように生まれたのでしょうか、ドクター・マーティンが市場に流通するようになっていったあらましを今回追っていきます。

 

 

戦後の混乱の時代

 

そもそも、ドクター・マーティンは、現在、革靴生産の盛んなノーサンプトンシャーのシューメイカーとなっていますが、起源は第二次世界大戦後に求められます。当時、ドイツの軍医であったクラウス・マルティンス博士が1945年の休暇中、バイエルン地方のアルプス山脈でスキーをしていた際、足首に怪我を負った。彼は、その後、軍から支給されたミリタリーブーツは、自分の怪我をした足には適さないことに気が付きました。なにせ、当時の革靴の素材といえば、どれだけ履きつぶしても壊れない頑丈さを重視していたため、固く、重く、あるきにくい素材が主流だったのです。そこで、マルティンス博士は、怪我から回復する間、柔らかい靴底のゴムソールと空気を取り入れるためのホールを設けたブーツを生み出そうという計画を立て始めたのです。


高価な皮革の原材料の問題について、マルティンス博士は濡れ手に粟といった形で獲得してみせます。第二次世界大戦後の混乱の中で、ミュンヘンでは、ドイツ人の貴重品掠奪が始まった際、マーティン博士はチャンスを見出し、廃材中からゴムや革の素材を廃屋となった靴屋から奪取する。革の素材を用い、現在、有名なエアークッションの効いたゴムソールと組み合わせ、マルティンス博士は改良を重ねながら、新しいブーツを生み出しました。これがドクター・マーティンの始まりでした。

 

マルティンス博士は、この革靴を個人的なものにするだけではなく、一般の人々にも履いてもらいたいと考え、このブーツの製品化の計画を立てはじめました。 その後、彼はミュンヘンで大学時代の旧友だったハーバート・フンクに再会を果たす。この時、マルティンスはもの試しと新たな革靴をフンクに紹介しました。たちまち、フンク博士も、友人の制作した革靴に興味をそそられ、開発に協力し、尽力するために手を貸す。二人は、ドイツ空軍飛行場から廃棄されるコムタイヤを原料にして、ドイツのゼースハウプトにて、本格的なブーツの生産に乗り出します。


マルティンス博士とフンク博士

 

マルティンスとフンクは、1947年に正式な靴生産を開始し、クッション性に優れたゴムソールを生み出し、この製品はミリタリーブーツしか履いたことがなかった主婦や年配の女性の間で人気が高まり、次の十年間において、ドクターマーティンはビジネスとして、急激な成長を遂げていきました。最初の十年間のドクターマーティンの売上は、意外なことに、その80%が40歳以上の女性で占められていた。これらの人々は、頑丈で、軽く、動きやすい革靴を求めていたのです。

 

 

グリッグ社の買収、さらなる事業拡大 

 

ドクター・マーティンの売上は1952年、ミュンヘンに工場を開くほどに増大。1959年には、マルティンとフンクの両博士が、国際的な製靴市場を視野に入れる規模に成長した。マルティンは、この後、さらなる事業拡大を視野に入れ、ヨーロッパ中の雑誌で、マルティンスの靴の大々的な宣伝を打ち、ドクター・マーティンの名を広める。

 

同時期、イギリスの主要な靴製造メーカーであったR・グラッグス・グループLtd(当時、グリッグスは、英ノーサンプトンシャー州のウォラストンという街で創業したシューメイカーで、55年の長い歴史を持ち、頑丈なワークブーツを生産することで確固たる評判を獲得していた)のグリッグス社長が、ドクター・マーティンの雑誌広告に着目し、企業買収へと乗り出した。その後、グリッグLtdはイギリスでの特許権を所得。同時にドクター・マーティンのネームライセンスを買収した。

 

Griggs Ltdとの契約 マルティンス博士は左から二番目


 

買収後、グリッグは、ドクターマーティンの靴のデザインをそのまま採用し、フィット感を改良し、かかとを丸みを帯びた球根上のアッパーを追加し、現在の商標である対象的な黄色いステッチを施し、靴底をエアーウェアーという名称で商標登録を行った。グリッグは、1960年に、ドクター・マーティを伝説的な8ホールブーツ、「1460」として英国内で大々的に紹介し、このメーカーの代名詞的なモデルとなった。

 

 

8ホールブーツ、「1460」


「1460」は、1960年4月1日に、現在も稼働しているノーサンプトンシャーの工場で最初に生産された。この製品は、当初、イギリス国内で、二ポンドの低価格で売り出された。ドイツでは、主婦層に人気であったのに対し、イギリスでは、郵便局員、警察官、工場労働者など男性の労働者階級の間で大きな人気を博しました。

 

 

 

サブカルチャー、反逆の象徴としてのドクター・マーティンの浸透


最初に、このドクターマーティンを音楽業界にもたらしたのは、モッズシーンの代表格ともいえるザ・フーのギタリストであるピート・タウンゼントだった。彼は、ビートルズのはきこなしたチェルシーブーツよりも動きやすいライブ向きの革靴を探していたところ、この8ホールの「1460」を見つけて購入した。ピート・タウンゼントは、このドクター・マーティンを最初にライブステージ上では着こなした人物で、見事なジャンプをしている写真も残されています。

 

The Who Pete Townshend


 その後、スキンズと呼ばれるサブカルチャーがロンドンを席巻した時、ドクター・マーティンは、労働者階級のユニフォームの一部として取り入れられていく。ドクター・マーティンはパンクロックの若者のアイコン、特に、スキンズ、ハードコア・パンクの象徴と変化していきます。1970年頃になると、イギリスのパンクロックスターの間で人気を博し、彼らの取り巻きもこのドクター・マーティンを履き好むようになりました。この1970年代当時、特に、「God Saves The Queen」でおなじみのSex PistolsのSid Vicisio、「London Calling」でおなじみのThe Clashのジョー・ストラマーが、ドクター・マーティンを履き好んでいたようで、

 

The Clash

 

黒いライダースの革ジャンとともに、ドクター・マーティンの革靴をパンクロックのシンボル的な存在に引き上げています。また、ドクター・マーティンの名は、アレクセイ・セイルの歌の題名にも使われ、スカバンド、Madnessの「The Business」のカバーアートにも登場するようになります。

 

 

いわば、この1970年代のロンドンにおいて、ドクターマーティンとパンクスの若者は、深い関係を結び、靴をカルチャーの一部としてファッションを取り込んでいったのです。すぐに8ホールの1460と呼ばれるブーツは、デニムやスタプレストのズボン、ボタンダウンジャケットと組み合わさって、スキンヘッド文化の象徴ともなっていきます。1970年代後半になると,セックス・ピストルズを始めとするパンクバンドが挙って、大手のメジャーレーベルと契約を果たし、スターミュージシャンとなったのが要因となり、サブカルチャーとしての文化が急速に衰退していきます。

 

それに伴い、パンク文化は急速に衰退し、The Exploitedはそれを嘆き、「Punks Not Dead」と歌うようになりますが、ドクター・マーティンは、パンクロック文化はその後も、スキンズの復活、グラム・ロック、ゴス、ニューロマンティックらのバンドのファッションとして継承されていきます。そして、ひとつ重要なことは、これらのイギリスの若者がドクターマーティンを革ジャンとともに愛用しまくっていたのは、おそらく、このファッションアイテムを社会にたいする反逆の象徴としてみなし、その概念に、若者として、大きな賛同をしめしていたからなのです。

 


ドクターマーティンとグランジ


1980年代になると、ドクター・マーティンは、イギリスの若者文化と労働者階級の象徴として認めらました。当時、保守党が提案した緊縮財政と社会改革は、イングランド国内において、多くの不安と多くの若者たちの反感を巻き起こす。

 

そんな中、ロックンロールに代わるオルタナティヴロックがミュージック・シーンを席巻するようになる。そして、このことは海を隔てて遠く離れたアメリカも全然無関係ではなかったのです。いつしか、ドクター・マーティンはその反骨精神という概念を携えて、シアトル、アバディーンを中心に形成されたグランジシーンのバンドのファッションに取り入れられていくようになりました。

 

これらのグランジロックに属するアーティストは、そのほとんどがパンクロックにルーツをもち、好んでドクター・マーティンを履きこなして、アメリカにおけるドクター・マーティン人気に拍車をかけました。

 

Alice In Chains

 

 

メルヴィンズ、アリス・イン・チェインズ、パール・ジャム、サウンドガーデン、これらの1980年代のアメリカのロックンロールにノーを突きつけ、暗鬱で重苦しい雰囲気を持ち、不敵な雰囲気をたずさえたロックバンドたちが、アメリカのインディーロックシーンを席巻していく中、ドクター・マーティンは、これらのグランジアーティストのファッション面で重要な役割を果たし、アメリカにとどまらず、世界的な資本主義社会の完全な行き詰まりを暗示した1990年代のグランジロックの重要な概念のひとつである「敗者の子供」の美学と調和を果たしながら、この年代を通して、アメリカでのドクター・マーティン人気を高めていったのです。

 

 

近年のドクター・マーティンの事業

 

1990年代になっても、ドクター・マーティンは根強い顧客を持ち、高い収益率を保持するシューメイカーであることに変わりはありませんでした。ドクター・マーティンは、ロンドンのコベントガーデンに六階建てのデパートを持ち、毎年1000万ペア以上の靴を製造する生産ラインを所有していました。

 

しかしながら、2000年代前後、ミレニアムの変わり目に収益が落ち込み、2003年に利益が著しく急落し、破産申請を行っています。その後、ドクター・マーティンは、イギリス国内で1000人規模の雇用者を削減し、生産コストを極力抑えるため、ドクター・マーティンの主要な生産工場を、イギリス国内から、タイ、中国に移行しています。

 

この動向に関しては、 これまでのメーカーの理念、英国のミッドランドの中心部で作られた純英国製の高い品質のブーツを顧客に提供する、というドクターマーティンの考えにそぐわないものでしたが、これはこのメーカーの生き残りをかけて選択された苦渋の決断のひとつといえるでしょう。

 

その後、ドクター・マーティンはかつてのような勢いを取り戻し、2010年代には売上が再上昇。2021年現在も数々のコレボレーション企画のドクターマーティンモデルを発売しyたりと数々の試行錯誤を重ねながら、安定した販売数を獲得。 その中のコラボレーションの何はYohji Ymamoto,Nepenthes,Suprem Bathing Apeといった素晴らしいデザイナーが並んでいます。

 

また、近年は復刻版のクラシックモデルのDr.Martensの生産も行われています。1960年代のDr.Martensのモデルの再現に焦点を絞った「The Vintage Collection」、またオリジナルのR。Griggのスペシャルコレクション「Made In Rngland」など、現在も魅力的な製品ライナップが展開されています。

 

パンクロックの反逆の象徴としてでだけではなく、近年には、デイリーカジュアルとしても普及しているドクター・マーティン。その魅力は、実際に履いてみてこそ分かるといえるかもしれません。

 

 

今週に入ってから、グッと気温が下がってきた。いよいよ師走の足音がもうすぐそこまで聞こえてきそうな感じである。これから年末にかけて寒くなってくるものと思われるが、この時節になると、是非とも購入を考えたいのがダウンジャケット。

 

しかし、ダウンジャケットも近年、様々なブランドが台頭し、アパレル市場での群雄割拠というべき様相を呈し、どれを選ぶのか迷ってしまうかもしれない。

 

Woolrich、Herno,Pyrenex,といった比較的高級なブランドをはじめ、近年、日本のメーカーもアパレルマーケットに参入し、水沢ダウン、snow peakといったブランドもダウンジャケット市場で大きな存在感を見せている。イギリスのP.H.Designというブランドも良質なダウンジャケットの生産を行い、根強い人気を獲得している。

 

安価なダウンジャケットブランドとしては、ロシア、モスクワのSHUというメーカーをおすすめしたい。このブランドは何と、3万円台という破格の定価でダウンジャケット製品を販売している。

 

やはり、ダウンジャケットといえば、登山ウェアブランドが強い。そもそもダウンジャケットというのは登山のための装備品として開発された。古くから防寒性、撥水機能、耐久性を兼ね備えた製品を生産し、アパレルマーケットで根強い人気をほこっているのが、The north face、他にもpatagoniaといったブランドである。

 

そして、ダウンジャケットのブランドを語る上では、何と言っても、伝統的なブランドMONCLERを度外視するわけには行かない。

 

 

1・モンクレールの発祥

 

モンクレールは、どちらかといえば、HERNOに近い高級なファッションブランドの印象が強いが、実はこのメーカー、登山ウェアとしてのルーツを持つファッションブランドである。

 

モンクレールは、常に登山と深い関わりを持ってきたメーカであり、半世紀以上の伝統を持つブランドである。

 

そもそも同社は、現在は本社所在地をイタリアミラノに置いているが、フランスのモエスティエ=ド=クレルモンに、ルネ・ラミリオムとアンドレ・ヴィンセントが1952年に創業した登山メーカーである。 

 

 

Monestier-de-Clermontモンクレールが創業したグルノーブル近郊の山間地域 モエスティエ=ド=クレルモン  Par <a href="//commons.wikimedia.org/wiki/User:Jvillafruela" title="User:Jvillafruela">Jvillafruela</a> — <span class="int-own-work" lang="fr">Travail personnel</span>, CC BY-SA 4.0, Lien

 

当初は、冬の登山のための装備、寝袋、テント、フード尽きケープといった製品を製造していた。


Monclerというブランド名については、上記のフランスの小さな山間集落、モエスティエ=ド=クレルモンに因んで名付けられた。

 

 

 

 2・モンクレール創業秘話 二人の友人の冒険

 

フランスのブランド、モンクレールの物語は第二次世界大戦の時代にまで遡る。 当時、フランスはナチスに占領されていたため、登山の冒険など夢のまた夢であり、ごく少数の愛好者の贅沢な嗜みであった。

 

そして、このフランスのグルノーブル近郊の山あいにある小さな村落、モエスティエ=ド=クレルモンには、のちにモンクレールを創業することになる二人の登山愛好家の姿が見いだされる。アンドレ・ヴィンセント、レネ・ラミリオムだ。彼らは占領以来、友人となり、共に、山岳活動やスポーツを行うための組織「シャンティエ・ド・ジュネス」の一員であった。第二次世界大戦後、ヴィンセントとラミリオムは小さなスポーツ用品店を地元に開くことを思いつく。

 

第二次世界大戦後の世界は、様々な領土の問題により、フランスにおいても自由な移動や旅行が制限されていた。もちろん、高価な登山用品を購入する余裕は多くの人にはなかった。しかし、彼らはそのこと、つまり、テントや雪山の装備品を売りたいという情熱を人一倍持っていた。

 

苦肉の策として、ヴィンセントとラミリオリは、低コストのキャンプ用品の販売をはじめる。さらに、ここに彼らの友人のデュオが加わり、テントやスポーツ用品を売り出すことにより、モンクレールは長い歴史の道のりを歩みはじめた。

 

最初の年はなにもかもうまくいかなかった。戦争の後の経済的な困窮、そして、社会不安の中において、モンクレールは市場の不安定さに直面し、地元の数少ない顧客を頼りに、これらのスポーツ用品の販売を行っていた。



3.不死身の登山家、リオネルテレイとモンクレール


 

しかし、これらの登山用品を着々と生産を行っていく中、モンクレールの品質の良さ、そして機能面での秀逸さというのは徐々に雪山を踏破しようとする登山家によって支持されるようになる。

 

そしてモンクレールの名を最初に一般に広めたのが不死身の登山家と称されるリオネルテレイだった。

 

テレイは、ヒマラヤのマカルーやパタゴニアのアンデスのセロ・フィッツ・ロイなど多くの山の初登頂を果たしたフランスの登山家であり、ガストン・レビュファ、ルイ・ラシュナルと共に1950年代を代表するフランスの登山家で、上記二人とともに三銃士と呼ばれている。また、リオネル・テレイアンドレとラミリオリの共通の友人でもあった。


リオネル・テレイは、特に、モンクレール製品のアヒルの羽毛ジャケットに興味を持った。

 

フランスには、以前の時代に置いてモールスキンというモグラ皮に似た分厚い綿製品が労働者のウェアとして取り入れられていたが、このダウンジャケットの革新性、アヒルの羽毛の軽さ、そして、温かさに驚いたはずだ。

 

モンクレールのジャケットは、当初、低温環境で長い作業を続けなければならない労働者のために生み出されたが、登山ウェアとして、リオネル・テレイは時代に先んじてモンクレールジャケットを取り入れた。

 

実際、山登りをしている際、このジャケットは、驚くほど温かく、体を動かしやすく、快適であることを見出し、つまり、実用性のある登山ウェアとしての魅力を彼は見出したのである。

 

その後、アンドレとラミリオリは、登山家、リオネル・テレイをコンサルタント、企業アドヴァイザーとしてモンクレールに招聘する。ブランドの特別仕様モデル、モンクレールジャケットの製作に関する技術サポートを一任した。

 

彼らは、プロの登山家から実際の見地によるプロダクションの忠告を受けながら、さらにモンクレールジャケットを高性能なものに洗練させていく。

 

この後、「MONCLER pour Lionel Terray」という名前の製品ラインが生み出されて、様々な登山用品、寝袋、保護手袋、靴、テント、登山装備品、といったプロダクトをモンクレールは生産するようになる。

 

 

3・K2踏破に耐えうる登山ウェア 

 

第二次世界大戦後、様々な国の著名な登山家がエベレストをはじめとする踏破困難とされる冬山登山に挑戦し、歴史的な記録を打ち立てていく。

 

そして、以前、最も踏破が難しいとされていたインドのカシミール地方からウイグル自治区まで伸びるカラコルム山脈に位置する、通称K2の踏破にイタリア人登山家アルディト・デジオは挑む際、モンクレールのダウンジャケットを選んだ。

 

そして、アルディト・デジオは、地球史上最も頂上をきわめるのが困難とされていたK2踏破を1954年に成功させる。さらに、その翌年にモンクレールの登山ウェアは、フランスマカル踏破を後押しした。どのような激しい風雨を凌ぐ事ができる耐久性の高い登山ウェアとして、モンクレールのブランド名は一躍世界に知られるようになった。


その後、モンクレールは、リオネル・テイと協力し、製品開発を続け、彼が主宰した1960年代のアラスカの遠征へのウェアを提供した。

 

Lionel Terray

 

もちろん、その後も、モンクレールはK2遠征と長い関わりを持ち、登山家の登頂の成功を後押しし続けている。

 

人類のK2初踏破を支えたタフな登山ウェアブランドとしての矜持を保ちながら、現在まで長年、K2への遠征の際に登山ウェアを提供し、登山家のスポンサーとなっている。

 

 

4.モンクレールのロゴ

 

モンクレールの印象深いロゴについても説明しておきたいと思う。このロゴに取り入れられているトリコロールは、もちろんフランス国旗に因む。赤と青をあしらったデザインにMの文字が刻印されている。

 

シンボルマークの後ろには、フランスの国章のシルエット、そしてオンドリが描かれている。

 

 

 

Moncler Logo

 

このブランドロゴが使用されはじめたのは1968年。フランスのグルノーブルオリンピックスキーチームの公式スポンサーとして提携後、モンクレールのブランドロゴとして正式に使用されはじめた。

 

先述したように、モンクレールのカラーリングはフランス国旗のトリコロールに因んでいるが、この配色については、権力、権威、情熱、忠誠心を表し、これらの概念はモンクレールのブランドのコンセプトとして今も変わらず、当ブランドの欠かさざる精神として引き継がれている。

 

もちろん本拠をイタリアミラノに移転してからも登山ウェアブランドとしての品格を保ち続けている素晴らしいメーカーである。




Monrelerの製品情報は公式サイト似てご覧下さい

 

 https://www.moncler.com/ja-jp/?tp=67844&ds_rl=1290725&ds_rl=1290725&gclid=Cj0KCQiAzMGNBhCyARIsANpUkzPnbNuURBs1CYg6SprZ0WS5U77k0aPaAR0eW0JfuNx8IjBg6brFyFoaAoCDEALw_wcB&gclsrc=aw.ds

 

 

 

 



 

 

 ベレー帽は、古今東西、様々な政治家、画家、もしくは、漫画家が好んで着用してきたファッションアイテムでもあります。

 

 このベレー帽を19世紀から工業的に行ってきたのが、スペインのバスク、それから、ピレネー山脈を跨いだ所にあるフランスのバスク地方です。

 

 

Lulhereの本社があるOloron-Saint-Marie

 

 

 フランスで最も古い歴史を持つLaulhereは、1840年に創業し、王室や世界各国の軍にメリノウールを使用したベレー帽を支給しています。これらのメーカーは19世紀頃から羊やアンゴラの毛を使用し、自社工場において、ベレー帽のハンドクラフト生産を行ってきた経緯があります。 

 

 

 このロレールというメーカーは、この地域で最も古い歴史をもち、フランスベレーという名称を一般に浸透させたメーカーでもあります。現在もベレー帽製作の一部は人の手で行われています。ファッションとしての高級感やクラシカルな雰囲気をもちながら、価格の相場は一万円前後から二万円ほどで、他の高級ブランドの帽子に比べると、お手軽にクラシカルファッションを現代的なシルエットの中に取り入れることが出来ます。かぶり方についても、他の帽子よりも遥かに豊富なバリエーションがあって、ファッションとしての自由性が極めて高い帽子に挙げられます。

 

 もちろん、性別を選ばず、カジュアル、フォーマル双方のファッションの中に取り入れると、華やかな印象を与えるのがこのベレー帽というアイテム。現代では、一般的なレディスファッション、あるいは、メンズファッションの一貫として取り入れられるようになったベレー帽。実は、この帽子はフランスに起源を持ち、非常に古い歴史を持つファッションアイテムでもあるのです。

 

 

 

ベレー帽の起源

 

 

 服飾の文化史としては、15世紀から16世紀にかけて、キリスト教の聖職者が身につけていた上に飾りのついた角帽、カトリックの司祭がかぶるビレッタという帽子がベレーの発祥とされています。しかし、実はそれよりも古い旧約聖書、ノアの方舟の章を描いた絵画の中にこのベレー帽が登場しています。世界の洪水から動物たちを救い出す際、ベレー帽のような帽子をかぶっているノアの姿が見いだされるのです。また、芸術絵画や彫刻にもこのベレーの原型であるビレッタは数多く描かれています。

 

Imposition of the bonete on a new doctor. Anonymous copy of a 17th century original.
University of Alcalá. Quote:https://www.liturgicalartsjournal.com/2020/10/saint-teresa-of-avilas-biretta-brief.html

 

 

 

 ベレー帽が服飾の最初の資料的証拠として登場するのが、聖書時代よりもさらに古い、青銅器時代にさかのぼります。

 

 西ヨーロッパ、とくに、イタリア、および、デンマークに現存する彫刻、絵画中に、ベレー帽が描かれているのが見いだされます。

 

 少なくとも、この西ヨーロッパという土地は、イタリアのサン・ジョルジョ・マジョーレ、サンタ・クローチェをはじめとする修道院建築、キリスト教文化が非常に盛んな土地であり、聖職者がこのベレー帽に似た帽子を服飾として取り入れていたかもしません。

 

 そして、これら紀元前に生み出された芸術彫刻や絵画の一群には、様々なベレーのヴァリエーションが見みだされるのだという。科学者が、この考古学的な証拠から算出した結果、ベレー帽の原型というのは、少なくとも紀元前400年頃の西ヨーロッパには存在しており、その後、13世紀にかけて様々な形に枝分かれしていったのです。

 

 この青銅器時代の絵画彫刻に歴史資料として登場する最初期のベレー帽は現在のような羊毛ではなく、フェルトが素材として使用されていました。




 ベレー帽の意義の拡張

 

 

 およそ16世紀から17世紀の間に、ベレー帽の原型であるフェルト帽は、聖職者から一般市民へファッションアイテムとして浸透していきます。このアイテムを最初に浸透させたのが芸術家たちでした。

 

 農民の芸術家をはじめとするどちらかといえば、バスク地方の貧困層の画家たちが、このフェルト帽を好んで着用していたようです。

 

 つまり、後に、ピカソがスペインのエロセギ社の生産するベレー帽を好んで被り、自らのファッションアイコンに見立てたのは、これら最初期の農村風景を描く画家たちへの深い敬愛がこめられれいたともいえるのです。

 

 


 

 当初、これらのバスクの画家たちの時代には、ベレーは工業生産されていませんでしたが、ごく一部のクラフトマンが手作業でベレー帽を製造していたものと思われます。

 

 この前の年代の14世紀から15世紀においてのバスク地方で、農村の風景をカンバスに描く画家たちがこのフェルト帽を愛用したのは、髪をまとめやすいという利点に加え、機能的にもすぐれ、悪天候の中でも耐久性があったからでしょう。ピレネー山脈地方の農村画家は、地形的に天候不順に見舞われやすい地域であり、ベレーの原型であるフェルト帽を雨風を凌ぐために着用していたともいえるわけです。この後、レンブラントがこのフェルト帽を愛用していたのは多くの人がご存じかと思われます。

 

 

Detail of Self-portrait at 34, with modified background to make rectangular. Oil on canvas, 1020 x 800mm (40 1/8 x 31 1/2"). Signed and dated bottom right: Rembrandt f. 1640; inscribed: Conterfeycel [Portrait]. The National Gallery, London. London only.


 

 画家に始まり、音楽家にも独特なファッションアイテムとして親しまれるようになったフェルト帽。

 

 芸術家たちのファッションアイテムとしての地位を獲得した後、フェルト帽にいくらかの権威性が付加されるようになったのは19世紀初頭頃です。

 

 特に、赤いフェルト帽は、赤という色彩における心理学、アジテーションやパッションを見る人の印象に与えるという一般的なイメージを想定してか、スペインの政治家、カルロス主義者の主導者、トーマス・ズマラカレグが政治家として最初に赤いフェルト帽をファッションの中に取り入れています。

 

 この年代から、フェルトーベレー帽は、画家や音楽家といった芸術家たちのファッションアイコンとしてのイメージから切り離されていき、それとは全く対極にある「政治における革命の象徴」であったり、「軍隊における権威性、統率性の象徴」としての異なる意味合いを持つようになっていきます。

 

 特に、その「扇動性」という意義を持ち、これらのイメージを定着させる役割を担ったのが上記の赤いフェルト帽でした。

 

 この後の年代において、各国の軍用のファッション、軍用の制服として取り入れられたり、キューバの革命家チェ・ゲバラがベレーを着用してみたことでも分かる通り、

 

アメリカの爆撃で沈没した貨物船「ラ・クブル号」の犠牲者追悼行進に参加するカストロ(左端)とゲバラ(右から2人目、背広服の人物の向かって右側)

 

 フェルト・ベレー、また、フラットハットというアイテムに、これまでには見受けられなかった概念が加えられ、「ベレー=権威性、革命性」というイメージが徐々に定着していくようになるのです。この過程において、それまでのフェルト帽やフラットハットと呼ばれるものから、「ベレー帽」と名付けられたのは1835年のこと。その後、スペインのエロセギ、フランスのロレールとベレー帽の製造を専門とするメーカーが誕生し、ペレーの工業生産の歴史が始まり、ピレネー山脈を跨いでのバスクベレーは、スペイン、フランスの両地域の名産品として認知されていくようになります。



ファッションとしての確立

 

 

  レンブラントをはじめとする芸術家の権威性、チェ・ゲバラといった政治家の革命性、それから軍隊の統率性というそれぞれ異なるイメージを引き立てるために数多くの人々に愛用されたベレー帽。

 

 いよいよ、20世紀に入ると、ファッション性の意味合いが強まり、一般の人々のファッションにも取りいれられるようになりました。

 

 1920年、バスク原産のベレーはフランスのパリのファッション界を席巻し、パリの人々の象徴的な服装として組み込まれていった後は、絵画的なイメージを与えるファッションとして様々な分野でこの帽子が取り入れられ、ファッション界にとどまらず、映画界にもこのベレー帽が印象的なシーンで数多く使用されていくようになります。

 

とりわけ、1950年代のフランス映画「禁じられた遊び」において、神父がバスクベレーを着用し、この映画の象徴的なイメージを形作っています。さらには、1960年代のフランス映画界でニューウェイブが誕生した際、このベレー帽は映画そのものと分かちがたく結びついていて、ムービースター、カトリーヌ・ドヌーヴが愛用し、パリの街なかの人々がこれらの銀幕スターに憧れ、市井の人々がこぞってベレーを着用するようになったのは想像には難くないといえます。

 

 また、後にはファッションデザイナー、ココ・シャネルがフランスのロレールを好んで愛用していたのは有名な話です。

 

 



 

 特に、シャネルの生み出した概念、女性的なファッションの最高峰=ベレー帽というスタイルは、富裕層ではなく、一般的な人々に対するファッションの重要性を常に訴え続けてきたココ・シャネルらしいスタンスといえ、富裕層だけではなく一般的な人々にこの帽子をかぶる門戸を開いてみせたといえます。少なくとも、ココ・シャネルがベレー帽に対して、それまでより強いファッションという概念を与えたことについては疑いはないはずです。

 

 かつてジェームス・ディーンが映画「理由なき反抗」でTシャツを着、アメリカの市民に一般的にカットソーを普及させたのと同様、フランスの映画界のスター、ファッションスターがバスクベレーを服飾中に魅力的に取り入れたことにより、一部の限られた人々だけにとどまらず一般的な人々にベレー帽の見かけの素晴らしさを普及させることに成功し、中でも女性に対して、ベレー帽というアイテムをファッションにおける「憧れ」というイメージを定着させたといっても過言ではないのです。創業当初からのハンドクラフトのベレー製作専門ブランドとしての誇り、それは現在も、ロレールという老舗ブランドの重要なブランドカラーとして継承されています。

 

 

 Lulhere Offical HP


 https://www.laulhere-france.com/fr/

 

 

 

 

 




 


 

Superstarは、STAN SMITHと並んで、アディダスブランドの看板モデルともいうべき代名詞的なシューズとして知られる。


シンプルなデザイン、三本のストライプというシンプルかつシンボリックなデザインで、今もスポーツシューズとして根強い人気を誇り、アディダスブランドの看板ともいうべき普遍的なモデルである。Superstarというモデルは、スポーツウェア、ストリート、カジュアル、如何なるスタイルにも馴染み、ファッションの中に気軽に取り入れられる利点がある。一切の無駄を削ぎ落としたシンプルなデザイン性、足の形を選ばず、フィットしやすいという点では、スニーカーの代表格と称することが出来るはずだ。

 

このスーパースターは、アディダスというブランドの知名度の普及に大きな貢献を果たしたモデルには違いない。1969年に、バスケットシューズ、いわゆるバッシュとして発売されたモデルである。ラバーのトゥーキャップをプロテクターとして採用することで、靴業界に旋風を巻き起こした。

 

1970年代には、アメリカのNBAの選手が挙って、スーパースターを着用して魅力的なプレーを行った。シンプルなデザイン性はもとより、軽量で動きやすく、何より、見栄えのするこのスーパースターは、コンバースと共に、大人気のバスケットボールシューズブランドとして認知されるようになる。特に、伝説的なNBAのセンタープレイヤーで史上最強の選手と称される、カリーム・アブドゥル・ジャバーがこのスーパースターを履いてプレーを行い、ブランドの知名度を高めた。

 

そして、同時期、このアディダスのスーパースターは、スポーツウェアからストリートファッションの中に組み込まれていくようになる。このスーパースターを若者のファッションとして最初に流行させたのは、NYブロンクス出身のオールドスクールヒップホップのカリスマであり、エアロスミスとの「Walk This Way」のコラボレーションで有名なRun-DMCをさしおいてほかは考えづらい。 

 

 

 

ニューヨークでディスコムーブメントが過ぎ去り、ダンスフロアのミラーボールが廃れかけた頃に、ヒップホップは彗星の如く現れた。特に、この1970年代のNYで、貧しい黒人の若者たちのクライムに向かう暗く淀んだパワーを、それとは真逆、音楽という、前向きで明るく、建設的な方向に転換させた。NYブロンクスを中心に発展した原初のヒップホップムーブメントの最中、Run-DMCは、最初期のオールドスクール・ヒップホップのシーンが形成される際のきわめて貴重な数少ない体験者でもある。彼らは、見事に、その文化性を、音楽、ファッションという形で世界に発信していくことに成功したアイコンと称するべきスター。 実のところ、Run-DMCの面々は、パンクロックのラモーンズと同じく、ニューヨーク、クイーンズ出身であり、どちらかといえば、中産階級の生活圏内にある若者たちだったはずだが、その最初のヒップホップの内核にあるハードコア精神を受け継ぐ重要なミュージシャンであり、ブロンクスのコアな音楽性または文化性をポピュラー音楽として普及させた偉大な貢献者である。

 

オールドスクール・ヒップホップもまた、パンク・ロックと同じような発生の仕方をしたムーブメントである。その音楽の源流には同じく、DIY、つまり、言葉はふさわしいかどうかわからないが、君たちのちからでやれという重要な精神が宿っているのである。1973年頃から、このブロンクス地区では、驚くべきことに、ストリートの電灯から電源や電気をことわりもなしに引いてきて、それをPA機器に接続し、バカでかい音量でサウンドをかき鳴らすところから始まった違法的なムーブメントである。

 

いくつかの疑問は残るものの、この寛容性によって文化が育まれた。抑制、禁止、束縛、もちろん、そこからは何も生まれでない。はたから見てみれば、どこからともなく集まってきて実に楽しそうに音を鳴らしている連中に口出しできなかったというのが実情といえるだろう。そして、このブロンクス地域の公園で開かれる「ブロックパーティー」という催しの際に、ジャマイカ出身、DJクール・ハークがPA機器を持ち込んで、最初にジャムセッションを行ったのがこのオールドスクール・ヒップホップの出発である。

 

 

その後、他の黒人の若者たちも、この公園に自前のテープレコーダーのような録音機器を持ち込んで、この公園で流れている音楽を録音し、それを自身のトラックメイクに繋げていった。ギターやドラムセットのような高価な楽器を買ったり、スタジオ設備のようなレコーディング機械を必要としない、テープレコーダーとマイクがあれば、貧しくても、音楽が生み出せる。つまり、最初期のDJたちは、ダブ的な多重録音の手法を行うことにより、ヒップホップは確固たる「音楽」としての形になっていくようになる。


この音楽を最初に商業面で成功させ、知名度の面で世界的に普及させたのがこのブロンクスの公園でのムーブメントを間近で見ていたRUN-DMCであった。この1970年代のニューヨークでは、ウォール街やブロードウェイのような表向きの文化性の背後に、バックストリートカルチャー、パンク・ロック、それから、ヒップホップという相反する側面を持つカウンターカルチャーが現れたのはあながち偶然であるとは言えない。表側のウォール街、ブロードウェイに代表されるメインストリートの資本主義のエネルギー、そして、その背後の世界にうごめくバックストリートの生々しい人々のうねるようなエネルギーが微妙なせめぎあいを続けながら、この当時、1970年代から80年代にかけてのニューヨークには、流動的な社会が形作られていたように思える。

 

表側から見えないバックストリートにも、人間は確かに息づいており、そして、そこに暮らす黒人の若者たちは、表側のメインストリートの概念、価値観を初っ端から信用しちゃいなかった。だからこそ、というべきか、ブロンクスの黒人の若者たちは、ヒップホップを始めとする、独自の若者文化を形作していく必要に駆られたといえるのである。自分たちの人間としての権利が決して消滅してしまわないようにするため、彼らは、独自の引用の音楽を、DIYスタイルで始める必要があった。そして、この最初のブロンクス地区のムーブメントの渦中にいたRUN-DMCも、メインストリートの概念には対し、強い反証を唱えるべく登場した3人の若者たちであったように思える。

 

ジョセフ・シモンズ、ダリル・マクダニエルズ、マスター・ジェイ。彼らは誰にでも理解しやすい音楽性を生み出しただけではなく、ファッションの側面においても多くの人を惹きつけるだけのカリスマ性を持っていた。特に、彼らは同クイーンズ出身のラモーンズのように、バンド名を自身のステージネームとし、3人揃って同系統のファッションで統一することにより、ヒップホップのキャラクター性をより一般的にも理解しやすくした。もちろん、これというのは前の時代のブロンクスの最初期のヒップホップアーティストたちから引き継がれた重要なファッションスタイルでもあるが、彼らはその頃、NBAで取り入れられていadidasファッションをクールに、スタイリッシュに、取り入れることに成功したところが他のアーティストとは異なる。

 

黒いポーラーハット、3本のストライプの入ったアディダスのジャージ、それにだぼだぼのワイドパンツを併せ、それに彼らはadidasのスーパースターを紐なしでクールに履きこなした。

 

これはRUN-DMCのロゴと共に彼らの代名詞的なスタイルとなった。後には、RUN-DMCのライブでは、メンバーのスーパースターを見せてくれという呼びかけに観客が答えてみせ、何千、何万という数のスーパースターが掲げられたことは、彼らのスターミュージシャンとしてのほんのサイドストーリー、いわば、飾り噺の一つでしかない。また、RUN-DMCは、adidas公認のアーティストでもあるのをご存知の方は多いはず。後には、RUN-DMCモデルも発売されていることも付け加えて置く必要がある。

 

同年代のNBA文化を時代のトレンドに則して、本来はスポーツウェアであったものを、実に巧みにヒップホップファッションに取り入れてみせたRUN-DMCのファッションスタイルはあまりにも画期的であったといえる。

 

今やオールドスクールと呼ばれるようになってはいるものの、それは本当にオールドといえるのだろうか?

 

いや、そうではない。この三人組の確立したクールなファッション性は普遍性が宿っているようにおもえる。 それは、ヒップホップのキャラクター性という形で今もなおカニエ・ウェストらをはじめとする現代のヒップホップアーティストに引き継がれている重要な概念でもあるのだろう。


 

References


ヒップホップカルチャーに愛されるadidas


https://jasonrodman.tokyo/adidas-hiphop/


まさにスーパースター! RUN DMCを聴いてadidasを履こう!


https://shoeremake.site/archives/615 


RUN DMCは何が画期的だったのか?


 http://suniken.com/feature/run-dmc-and-old-school-hip-hop-and-my-adidas.html

 


英国の1970年代の文化を形成したパンクロッカーたち、Sex Pistolsやその後のハードコア・パンクのDischargeに代表されるような、革ジャンに、破れたTシャツ、スパイキーヘアといったエキセントリックというべきファッションスタイルは、今やほとんど過去の風物として忘れさられた感がある。

 

特に、この破れたTシャツに黒いライダース風の分厚い革ジャンを着るスタイルは、現在のユニクロファッションのようなお手軽感のあるファストファッションの元祖である。実は、このファッションは、元をたどれば、1970年代のNYのバワリー街というソーホーの裏手、ウェストヴィレッジの奥まった区画のバックストリートにあるスラム街のような場所、その一角にあるニューヨークの伝説的ライブハウス「CBGB」に出演していたラモーンズと呼ばれる若者の象徴的なファッションスタイルであった。 

 

 

Ramones-liner"Ramones-liner" by I'm Heavy Duty! is licensed under CC BY-NC 2.0

 

 

この「バワリーストリート」というウェストヴィレッジの最も奥まった区画に位置する元は億万長者が住んでいた悪名高き一角に、ヒリー・クリスタルという「ヒリーズ・オン・ザ・バワリー」というホンキートンクバーを経営していた人物が、この最初の店の後に最愛の妻と一緒に初めたのが「CBGB」というライブハウスだった。ウェストヴィレッジのバワリー街は、NY最も歴史のある街であり、植民地時代、ボストンへの郵便輸送ルートの要地だったようだ。

 

元々、景気が良かった時代には、新世界に現れたビリオネア、億万長者たちが住まうていた土地だったが、独立戦争後、イギリスの駐軍兵がNYに多く入ってくると、これらの兵士の娯楽施設が必要だったためか、このバワリー街は徐々に没落していき、治安の方もあまりよろしくなくなっていって、サロン、闘鶏場、闘鼠場、売春宿、ストリップショーといった店が立ち並ぶようになり、歓楽街の様相を呈し、この界隈は、当時の海外旅行ガイドブックで危険地域として指定されるほど治安の悪い場所となり、浮浪者、アルコール中毒者、無法者が多くこの界隈を根城とするようになった。そのことにちなんで、ヒリー・クリスタルは「栄養不良の食通のためのカントリー、ブルーグラス」という意味合いで、このような皮肉じみた屋号をつけた。 

 

他方、デヴィッド・ボウイ、ルー・リードといったスターが出演していた比較的、治安の良い場所にあるマクシス・カンサス・シティとはきわめて対象的に、NYアンダーグラウンドの聖地とも呼べるライブハウス”CBGB”は、後になると、マクシス・カンサス・シティとともに、ニューヨークパンクのメッカと喩えるべき場所となった。

 

経営者ヒリー・クリスタルは、当初、この後の時代にアメリカでカントリー音楽が流行ると見込んでいた。しかし、その当てははずれ、彼は後に、このパンクシーンを形づくる第一人者として、「カントリーが流行るのはこの土地ではなかった」というように、いくらか悔しそうにこの1970年代について回想する。ヒリー・クリスタルは、元々、カントリー、ブルーグラスといったトラディショナルな演奏家を、自分のライブハウスCBGBに出演させて、このライブハウスで演奏させるつもりでいたが、次第に、こういったカントリー音楽を聞きに来る客はドリンクも食事もろくに頼まないので、ライブハウスビジネスとしての収益が全然見込めないと気づいた。そこで、ものはためしと、ヒリー・クリスタルは最愛の妻と相談をし、ロック音楽をこのライブハウスに取り入れることに決めたのだった。


プランの手始めとして、幾つかの店内の改装を自らの手で施し、さらにアンディー・ウォーホールの通称バナナジャケットのアルバムデザインでひと稼ぎしたテリー・オークが所有するロフトに出演していた新鋭のロックバンド、テレヴィジョンをこのライブハウスに出演させることに決めたのである。 

 

実を言えば、このCBGBの経営者ヒリー・クリスタルは、ロック音楽に非常に疎い人間であったと、自らロック音楽について話している。元々、第二次世界大戦中、アメリカ海軍の兵士として生きた人間だからか、古風でダンディズムな気質があり、ロックどころか、パンクのがちゃがちゃした音が最初は気に食わなかったらしい。もしかすると、同じニューヨークのライブハウス、マクシス・カンサス・シティで流行っていた、ニューヨーク・ドールズ、ルー・リード、デヴィッド・ボウイをはじめとする”グリッター・ロック”と呼ばれる面々の華美なロックンロール音楽というのは、このヒリー・クリスタルというアメリカ海軍上がりのカントリー、ブルーグラスをこよなく愛す、きわめてハードボイルドな気質を持つ人物の目には、女々しく映ったかもしれない。

 

それに加え、こういった彼のライブハウスを訪うロックバンドのメンバーの連中は、常に自信満々で、「俺達は最高だ!」と皆口を揃えて言ったりするのに、ヒリー・クリスタルは彼等より年上の人物として、いささか辟易としていた。しかし、ヒリー・クリスタルは、ライブハウスを訪れるロッカーたちの若者たちの目の輝きを見たとたん、この若者たちを信頼してみようという気になった。

 

既に、かなり有名なエピソードとなっていますが、テレヴィジョンが週一でこのライブハウスCBGBのレギュラー出演を獲得した際には面白いエピソードがある。


「お前たちはカントリーが演奏できるか?」というヒリー・クリスタルの問いに対して、テレビジョンのギタリスト、リチャード・ロイドは、「カントリー、ブルーグラスでも、なんでもお望みのものはなんでもやる」と言い放ち、CBGBのレギュラー出演の座を半ば経営者をはぐかして勝ち取ってみせた。


その後、テレビジョンのギタリスト、リチャード・ロイドはバンドを大々的にNYで宣伝してもらうため、映画「理由なき反抗」の監督ニコラス・レイに頼み、「君たちはパッションを持った4匹の猫だ」、NYの「16」誌の編集者ダニー・フィールズには、「泣かせてくれるぜ。こいつらは釘のようにタフだ」と、適当なバンドの宣伝文句を広告や雑誌等の媒体に打ってもらい、テレヴィジョンというロックバンドの存在は、NYでそれなりに知られるようになっていく。 

 

そして、これが、ロンドンに先駆けて、パンク・ロックという文化がニューヨークに誕生した瞬間だ。というか、ロンドンのパンクロック文化は後追いとして発生したもので、NY文化をなぞらえ、それを発展させ独自の文化として成長させていったもの。ここで、もし、ヒリーがテレヴィジョンの面々に実際にライブハウスでリハーサルでもさせていたなら、カントリーが演奏できないことが露見し、パンク・ロックはNY、それどころか、世界で誕生しなかった。もちろん、テレヴィジョンは、それまで一度たりとも、カントリー、ブルーグラスを演奏したことはなく、以後もカントリーを演奏したこともほとんどないのにもかかわらず、上記のように言ってのけた。経営者ヒリー・クリスタルを半ばはぐらかしてライブハウスの週一回のレギュラー出演を手に入れたことにより、このニューヨークパンク、それに続くロンドン・パンクという若者文化は始まったというのは有名な話だ。これはバワリー街という治安の悪い場所で発生したカウンターカルチャーであり、上記のニコラス・レイの適当な宣伝文句を見てわかるとおり、パンクという音楽は多くのニューヨーカーにとっても、無論、先進的な気風を持つ映画監督や編集者にとっても得体のしれぬものでしかなく、その最初はいかがわしいものでしかなかったのだ。


 

その後、このカントリー、ブルーグラス専門のライブハウス「CBGB」は、テレヴィジョンの出演を契機として、ロックミュージックが中心に演奏されるようになっていく。このテレヴィジョン、その他にも詩の朗読をライブステージで行う女性詩人、最初の女性パンクロッカーとして名高いパティ・スミス、そして、最初に性転換を行ったロックミュージシャン、荒くれもののウェイン・カウンティが、CBGBでのレギュラーの座を獲得する。その後、登場したのが、ブロンディ、トーキング・ヘッズ、ミンク・デヴィル。それから、ニューヨークパンクの基礎、後のロンドン・パンク勢に多大な影響を及ぼした四人組の若者、ラモーンズだった。


メンバー四人全員が「ラモーン」と名乗り、全員が長髪で、ダメージドジーンズ、Tシャツ、革ジャンという特異ないで立ちをした中産階級の四人の若者たち。彼等四人が、「ラモーン」というステージネームを名乗ったのは、ビートルズのポール・マッカートニーのステージネームにあやかった。ザ・ビートルズが、ドイツ、ハンブルグで”シルバー・ビートルズ”として活動していた際、マッカートニーが「ポール・ラモーン」というステージネームを使っていた。(これはあくまで、ディー・ディー・ラモーンの発言による俗説に過ぎないと付け加えておく必要がある)

 

最初、ラモーンズの面々を、CBGBの経営者ヒリー・クリスタルに紹介したのは、ご存知、アンディー・ウォーホールのアルバムジャケットを手掛けたテリー・オーク。彼は、特に、この最初のパンクムーブメントの立役者のひとりで、実のところは、自主レーベル、オーク・レコードを運営し、パティ・スミスの作品をリリースしたり、アンディー・ウォーホール以上に、この新しいニューヨークの音楽シーンを活性化させようとしていた。テリー・オークの努力には瞠目すべきものがあり、「ソーホーニュース」にこのライブハウス、この場所に出演するミュージシャンを宣伝し、また一人でドリンクを大量に頼むことにより、このニューヨークで始まった新たな音楽の潮流を明確な形にしようと奮起していた。

 

そして、テリー・オークが最も期待のバンドとして連れてきたラモーンズは、CBGBにレギュラーとして出演するまもなく、ニューヨークの若者の間で絶大な人気を博すようになる。このラモーンズが登場したときの衝撃というのは筆舌に尽くがたいものであった。たったひとつかふたつのパワーコードしか演奏されない、実にシンプルな演奏を特徴としていたが、これは彼らの登場以前には存在してなかった音楽だったのだ。


ラモーンズは、活動初期からスタイルを変えず、解散の時期まで全力疾走を続けたロックバンド。一曲は、長くても、二分、あっという間に曲が流れていき、曲間MCも皆無。無駄を徹底的に削ぎ落としたシンプルでソリッドなロックンロール音楽。何らのひねりもない直情的なロックンロール音楽。しかし、ラモーンズが、このライブハウスでライブのステージングを行う瞬間は、CBGBを訪れる多くの若者達を魅了した。彼等のライブでは、若者たちが熱狂的な歓声を上げ、うっとりする客も少なからず。当初、彼等のライブの出演時間は、だいたい、十五分程度であったが、徐々に、十五分の尺が、二十分へと膨らんでいくことになる。

 

 

そもそも、ラモーンズというパンクロックバンドが、それまでのロック・バンドと何が違っていたのか説明しておかなければならない。それ以前のニューヨークで活動するロックバンドは、悲劇のロックンローラー、ジョニー・サンダースを擁するニューヨーク・ドールズをはじめとするグリッターロックと呼ばれるグラムロックに近い音楽が主流だった。カラフルでパーマをくるくるとかけた髪、人形のようなけばけばしい化粧をほどこし、ヒールの高いブーツを履いて、女性の着るドレスのような格好を身にまとう。これは、最初のカウンターカルチャーの発生だが、後のデビッド・ボウイ、そして、ファッションデザイナーの山本寛斎が取り入れるような新奇なファッションスタイル中性的な服装を、これらのNYで活躍するグリッターロックバンドは好んで身につけていて、もちろん、そのスタイルは「ワイルドサイドを歩け」リリース時代のソロ活動をしていたルー・リードの中性的なファッションに引き継がれていった。


この後の世代の1970年代に、NYのパンクシーンに登場した前衛的なファッションを好む男女の若者たち、ウェイン・カウンティ、リチャード・ヘル、ラモーンズの台頭は、その前の時代のニューヨークのミュージシャンのファッション性とは、全くと言っていいほど相容れないものであった。同じく、CBGBを拠点に活動していた女性詩人、パティ・スミス、リチャード・ヘルのファッション性を受けついで、ダメージドジーンズにTシャツ、コンバースのスニーカー、バイカーの好むような革のライダースジャケットというファッションスタイル。この四人全員が「ラモーン」と名乗るNYのクイーンズフォレスト出身の中産階級の若者達の服装は、ものすごくシンプルでありながら、現在のファストファッションのスタイルに近い、ストリートファッションの要素を1970年代において自然に取り入れていた。彼等四人のファッションは、CBGBのステージライトに照らし出され、このライブハウスを訪れた観客の目にどれくらいクールに映ったのかは想像に難くない。

 

そして、音楽性においても、ラモーンズは、革新性の高い、インスタントファッションのような魅力を擁していた。デトロイトのMC5のガレージロックを下地にし、そこに、ビーチ・ボーイズ、ベイ・シティ・ローラーズ等のサーフロックのわかりやすい音楽性を取り入れ、キャッチーでわかりやすいメロディ性、跳ねるようなリズム、矢継ぎ早に繰り出される8ビート、そして、前のめりな「Hey Ho Let's Go!!」という威勢の良いコール。それに引き続いて、「1.2.3.4」という彼等の代名詞といえるドラマーのカウント。全てが完璧。彼等の存在は、力が抜けて、すべてあるがままなのにもかかわらず、自然なかたちでロックスターとしての風格が漂っていた。 

 

 

1st Album 「RAMONES」


1976

 

 

彼等ラモーンズの音楽は、言ってみれば、ビートルズ、ビーチボーイズのレコードの回転数を、無理やり早めたような音楽として、当時のNYの人々、取り分け、このCBGBを訪れた観客たちには聞こえたかもしれない。あまりに痛快で、シンプルなロックンロール。しかし、これが当時のニューヨークの若者の心を見事に捉えてみせたことは事実である。そして、ラモーンズは、NYのパンク・ロッカーとして、最初にメジャーレーベルと契約を結び、国内にとどまらず、イギリスやヨーロッパツアーを敢行し、その過程でラモーンズのファストファッションが海外の若者たちにも知られていく。最初、現地の音楽評論家の中には、彼等の音楽性に辛辣な評価を下す人もあったが、ラモーンズは、次第にニューヨークの若者に絶大な信頼を得て、このライブハウスCBGBの営業面で多大な貢献を果たし、看板アーティストとなったのである。

 

 

最初にも述べたように、このバイク愛好者の着る革のライダースジャケットに、ダメージドジーンズ、に加え、カットソー、スニーカーという、ラフでシンプルなファッションスタイルは、その数年後に、海を越えたロンドンのパンク・ロッカー、オールドスクールパンクのミュージシャンに引き継がれていく。現代、このスタイルは、ライダースジャケットでなく、ごく普通のフォーマルなジャケットスタイルに進化しているが、その他のスタイル、全体的な服装のシルエット自体は50年が経っても、現在のファッション性とそれほど変化がないことに驚く。

 

そして、ロンドンの若者たち、殊に、マルコム・マクラーレンが経営していたブティック”SEX”に屯するパンク文化を最初にロンドンにもたらしたロットン、ヴィシャスという若者は、このNYのバックストリート発祥のファッション、ラモーンズ、パティ・スミス、リチード・ヘル、といったNYのパンクロッカーの醸し出すデンジャラスな雰囲気に惹かれ、このファッションの要素に、カラフルな髪の色、安全ピンという独特なファッションを取り入れたのだ。

 

このストリートファッションが、やがて、GBH、Discharge、Chaos UKといったイギリスのハードコアバンドのスタイル、スパイキーヘアに代表される過激で先鋭的なファッション性に繋がっていく。また、ロンドンの若者のファッションスタイルはデイリーユースでなくて、NYのグリッターロックファッションの方向性に回帰を果たしたかのように思える。ラモーンズファッションとは異なり、このロンドンの若者たちの服装は、エキセントリック過ぎ、使いがってが良くないため、一般のファッションとして流行ることはなかったけれども。

 

しかし、パンクファッション、ストリートファッションの源流を形作ったラモーンズの現代的な服装については、現在も受け入れられるような普遍性が宿る。特に、Tシャツ、デニム、スニーカー、という普遍的なファッションスタイルは、この後に流行するファストファッションの元祖と言えるし、時代を選ばない永遠不変のクールなファッションスタイルだ、もちろん今も変わらず。


 


 

References 

 

CBGB伝説 ニューヨークパンクヒストリー CBSソニー出版 ローマンコザック著 沼崎敦子訳

Acuascutum 英国老舗服飾ブランドとしての始まり

 

アクアスキュータムというブランドは英国の老舗バーバリーに比べ海外においては知名度の低いブランドではあるものの、バーバリーよりも旧い歴史を持つ英国王室御用達のブランドである。

 

アクアスキュータムは、仕立て職人であったジョンエマリーがロンドン西部の高級住宅地に1851年に開業した服飾ブランドである。

 

特にこのアクアスキュータムは、防水加工を施したウール生地を生み出して、特許を取得、ファッションに機能性をもたせたのが非常に革新的であった。ブランド名も防水加工の素材にちなんでおり、ラテン語で「水の盾」を意味する。日本では、防水加工の素材は梅雨時や秋雨の時期しか役立たないイメージも一般的にあるかもしれないが、雨の多いイギリスにおいて、この技術革新は生活に根ざしたものであり、尚且、アウターの実用面での機能性を追求したものであった。


1895年には、ロンドン中心部リージェント・ストリート100番地に最初の旗艦店をオープンした。

創業当初のAquascutum
 

 特に、アクアスキュータムは、イギリス王室からのオーダーメイドに求められ、イギリス王エドワード7性からグレンチェック柄のコートの注文依頼を直々に賜ったことからブランドは始まった。

 

その後、1897年、王室の紋章入の盾板「ロイヤルウォラント」を賜り、王室御用達ブランドとして発足した。そして、1900年に入ると、男性だけではなく、女性のアウターのデザインも手掛けるようになり、当時、イギリスで婦人参政権を訴えていた女性活動家を中心に大きな支持を得ていた。

 

その後、アクアスキュータムはトレンチコートの生産を中心にブランドの商品展開を行うようになる。1914年、第一次世界大戦、および第二次世界大戦に従軍した兵士のために、耐久性の強いトレンチコートの生産に踏み出した。素材そのものの耐久性、そして、防水性に優れているこのアクアスキュータムのトレンチコートは従軍したイギリスの兵士たちから大きな称賛を受けた。

 

さらに、それから、アクアスキュータムは防水加工素材のアウターの他に、防風加工のコートの開発に乗り出し、1953年、エドモンド・ヒラリーのチームがエベレスト登頂に挑んだ際にトレンチコート、ウィルコンという特殊加工素材を生み出し、時速160kmの突風をもろともしない耐久性に優れたトレンチコートを開発し、アウター専門ブランドとして世界的に知られるようになった。この後、アクアスキュータムは次なるアイテム、レインコートの開発へと乗り出していく。

 

多くの著名人に愛される老舗ファッションブランドとしての歩み

 

このアクアスキュータムのトレンチコートは、第二次世界大戦後、多くの著名人に愛されるようになった。

 

アメリカでは、名画「カサブランカ」で主演を務めるハンフリー・ボガートはソフト帽と共にこのアクアスキュータムのトレンチコートを着用し、ボガートのハードボイルド俳優としてのイメージを形作った。そして、ボギー、ハードボイルドという概念が何たるかを世界に発信してみせた。

 

もちろん、これらのアイテムを愛した人物はアメリカの映画俳優にとどまらず、イギリスの政界の大立者の中にも数多く見られる。

 

アクアスキュータムは、婦人参政権の導入を訴えていた女性活動家を中心に支持されていた経緯を持つため、「鉄の女」とも称される宰相マーガレット・サッチャーがこのブランドのアウターを好んで着用していた。

 

マーガレット・サッチャー首相

その他にも、サッチャー政権時代に財務大臣、外務、連邦大臣を歴任した後、イギリスの首相となるジョン・メージャー首相もこのアクアスキュータムを愛用した。これはサッチャー政権をはじめとするイギリスの政権が新たな時代の政治イメージを表するため、アクアスキュータムを好んで着用したとも言える。婦人参政権をファッションブランドとして支えた概念が流れている。

 

また、1996年のアトランタオリンピックでアクアスキュータムは公式ウエアとして採用されている。

 

王室御用達ブランドとして始まった経緯を持つ服飾ブランド、アクアスキュータムは、時代の流れと共に、上品さ洗練さを併せ持つ。

 

服装の中に1つ強いワンポイントのアクセントを設ける独特なアウター専門ブランドとしての歩みを進めていき、着実に、世界的なファッションブランドとしての地盤を築き上げていったのである。

 

ロックミュージシャンとアクアスキュータム

 

 

ミュージシャンとして、このアクアスキュータムのステンカラーコートをファッションの中に絶妙な具合に取り入れてみせた人物がいる。それがポール・ウェラーである。

 

 

ロックンロールにR&Bの影響を伺わせる”The Jam”のメンバーとしてイギリスのミュージックシーンに登場し、70年代から80年代の英国のパンク・ロック、モッズ・ムーヴメントを牽引した重要な人物だ。

 

その後、The Style Councileのフロントマンとして活動、1984年ポリドールから発売された1st Album「Cafe Blue」の中に収録「My Ever Changing Moods」で世界的な大ヒットを飛ばした。この曲は英国内にとどまらず、アメリカ、日本でも売れに売れたヒット作である。その後、ウェラーはソロ活動を始め、イギリスの重鎮的なロックミュージシャンとみなされるに至る。

 

そもそも、ポール・ウェラーは、音楽の側面だけでなく、ファッションアイコンとみなされる場合も少なくない。彼の個性的なファッションはモッズの代名詞ともなり、一世を風靡した。英国内のファッション業界に大きな影響を与え、日本の”渋カジュ”と称されるファッションにも影響を及ぼした。

 

ポール・ウェラーは若い時代からファッションに興味を示し、独自のウェラー流のファッションを追求してきた人物でもある。The Jam時代において、背広に上下に丈の短いトラウザーを合わせ、白いソックス、革靴というモノトーンスタイルで、他のロンドン・パンク勢と異なるフォーマルスタイルで他のバンドと差別化を図っていた。そして、The Jamの後の活動、スタイル・カウンシルにおいて、ポール・ウェラーのファッションは完成される。特に、1stアルバムに映し出されているスラリとしたウェラーのファッションは現在でも新鮮味にあふれている。

 

上掲の写真は、ザ・スタイル・カウンシルの「Cafe Bleu」1stアルバムの内ジャケットの一枚であるが、ウェラーは、ここでイギリススタイルとフレンチスタイルの融合を見事に図ってみせているのに注目である。

 

彼が、ステンカラーコートとして粋に身につけているアイテムは老舗ブランド”Aquascutum”である。

 

そして、ここにはフランスの上流階級で流行った”BCBG”と呼ばれるオールドフレンチスタイルが大胆に取り入れられている。

 

髪を短く揃え、サングラスをかけ、丈の短い八分丈のデニムの下に白いソックスを覗かせ、イギリスのゴルファーが履くような革靴で揃えるスタイル、そこにさらに、最もシルエットとして目立つトップスに英国老舗ブランドとして知られる”Aquascutum" を合わせる。これは、ポール・ウェラーの英国人としての通人としての嗜み、あるいは、矜持のような概念性が表れ出ている。

 

上品さの中に滲むそこはかとないダンディズム。これは、ハンフリー・ボガートが「カサブランカ」で演じた役柄の雰囲気を、ロックミュージシャンとして1980年代に再現させてみせた。

 

フランス流のエスプリとオールドイングリッシュを融合した概念は、その後のブリット・ポップのブラー、オアシスといった面々の「ファッションの美学」として引き継がれていくことになる。

 


スプリング・コート フランスで最古のテニスシューズ

 

 

Spring Courtは、フランスで最古の歴史を持つスニーカー。1870年にアルザスの樽職人であったセオドア・グリムセンがフランス、パリ近郊にラバー専門の工場を設立したことから事業は始まった。

 

生産工場は、パリ11区にあり、現在までグルムメイセン社の本拠となっている。その後、祖父グリムセンの事業を受け継いだセオドアの孫ジョルジュ・グリムセンは、1936年に、ゴム素材を改良し、フランスで最初のスニーカー、”スプリング・コート”を開発した。 


このスプリング・コートというスポーツシューズには画期的な特長が三つある。一つは、コットンキャンバスの素材とバルガナイズ製法という点。

 

そして、テニス用のスニーカーであるにもかかわらず、本来は革靴で頻繁に使用される素材ラバーソールを使用、靴そのものの頑丈さに重きを置いたという点。

 

今ひとつは、靴の側面下底部に四つの空気穴を設けたこと。これにより、靴の中に、常時的に空気を循環するようにし、夏でも足が蒸れにくい実用型のスニーカーが誕生する。 

 

最初、このスニーカーを試用した際の「これはバネ(スプリング)のようで、飛び跳ねるかのようだ!!」という感嘆の言葉、そして、クレーコート(土)用のテニスシューズとして開発された経緯から、フランスで最初に発売されたスポーツシューズは、「Spring Court」と命名された。

 

実際、この靴は、1930年代としては、画期的な軽さの靴であった。特に、インナーソールは分厚いが、柔らかいバネのようなクッション性を持った素材が取り入られ、歩いている時や、走っている際にも、飛び跳ねるような着用感がある。実際、スプリングコートは、1970年代後半まで多くのプロテニスプレイヤーが愛用していた。

 

さらに、このスプリングコートには、他のシューズにはない興味深いデザインが取り入れられている。

 

スプリング・コートのロゴにはトリコロール(フランス国旗)が使用、このスポーツスニーカの長年のトレードマークでもある。さらに、靴のインナーソールを剥がしてみると、一番底の部分に、ユニークなキャラクターが描かれている。

 

 

Spring Court 公式より

 

スプリング・コートの代名詞的な存在のマスコットキャラクターには取り立てて名前がついていないらしいが、頬をぷくっと膨らませて何かをピューと吹き出し、靴の中の空気圧を支えている。ぼんやり見ているだけでも癒やされる可愛らしいデザインである。

 

 

スプリング・コート愛用した歴代ミュージシャンたち

 


このフランスのテニスシューズ、スプリング・コートを愛用した有名ミュージシャンは数知れない。

 

ジョン・レノンをはじめ、ゲンスブール、ジェーン・バーキン、リアム・ギャラガー、他にも、多くのミュージシャンから親しまれているファッションアイテムである。

 

もちろん、ファッション性においても、コーディネートのしやすさがあり、カジュアル、普段着として大活躍すること請け合いで、セミフォーマルとして、このスポーツスニーカーをコーディネートの中に取り入れても、ものすごく「サマ」になることも請け合いである。

 

たとえば、シンプルなセミフォーマルの格好、ジャケット、デニムに、スプリング・コートをあわせても、それなりシルエットとしては洗練されたシャープな印象をもたらし、いかにも「洒脱!!」といった雰囲気になるのがスプリング・コートの魅力である。

 

もちろん、男女兼用で、人による体格も関係なく、どのような格好にもほど良くマッチする。また、機能面においてもすぐれ、動きやすく、歩きやすい、走りやすい、というスニーカーとして三拍子揃った特徴を持っている。

 

このスプリング・コートの主要モデル「G2」は、コットンキャンバスとレザーの二素材で販売が展開されており、コットンキャンバスの方は、1万円前後、レザータイプの方は、2万円前後という価格帯を維持しているため、比較的手の届きやすいリーズナブルなスポーツスニーカだといえるだろうか。このG2モデルの特徴をかいつまんで言えば、日常的に使い勝手の良い、ローテクだけどハイテクなスニーカーである。

 

そして、やはり、デザインとしても秀逸で、シンプルでありながら、とても絵になる。長年、白と黒の二色でメーンの商品カラーを統一してきたこともあり、購買層の年代を選ばない普遍性の高いデザイン性がこのスニーカーの魅力だ。比較的、若い年代のファッション寄りのコンバースの「オールスター」に比べ、ジョン・レノン、オノ・ヨーコの例を見ても分かる通り、若い人だけではなく、御年配の方にも安心して履いていただけるシューズである。

 

そして、これまで、数多のミュージシャンが、なぜ、このスプリング・コートを好んで履いてきたかといえば、はっきりと断言こそできないけれども、靴そのもののファション感度が高く、フォーマルとカジュアルの中間を行く、いわば使い勝手の良さがあること、そしてまた、靴そのものとしての実用性の高さが主な理由といえるだろうか。

 

とりわけ、歴代のミュージシャンの着用例を挙げると、フレンチ・ポップの生みの親のひとり、セルジュ・ゲンスブールは、広告の撮影において、このスプリング・コートを履いている。また、ジェーン・バーキンも、普段着としてこのスプリング・コートを時代に先駆けてカジュアルファッションの中に取り入れていた。

 

特に、ジェーン・バーキンは、オードリー・ヘップバーンと共に、「フェミニン」という現代では一般的となったファッションスタイルの生みの親と言っても良いかも知れない。

 

しかし、ゲンスブールの方は、一般的に言われるのとは少し事情が異なり、どちらかといえば、彼は、フランスのバレエ・シューズ、Repettoを好んでいて、よく言われるほどこのスポーツシューズを履いていたとは言いづらい。

 

一方、セルジュ・ゲンスブールとの間に子をもうけたジェーン・バーキンの方は、確かに、スプリング・コートのG2のハイカットモデルを愛用している姿が多くの写真に残されているのが見いだされる。このフランスのファッショナブルなテニスシューズ、スプリング・コートを日常的に普段着として愛用していた様子が伺えるのである。 

 

 

ジョン・レノンとスプリング・コート 


そして、歴代のミュージシャンの中でも、特に、このフランスのテニスシューズを最も愛好していたのが、他でもない、ジョン・レノンである。

 

レノンは特に、スタジオでの演奏のリハーサルをする時にも、また、日常のふとした場面を写した写真でも、このスプリング・コートを愛用している。

 

とりわけ、オノ・ヨーコと共に映される写真では、毎度のように、このスプリング・コートを履いている。

 

最初のエピソードとしては、オノ・ヨーコとの結婚式で、このスポーツシューズを履いていたくらいで、生粋のスプリング・コート愛用者といえる。特に、一番有名なのは、「アビー・ロード」のジャケット撮影、レノンはこのスプリングコートのG2を身につけている。

 

The Beatles 「Abbey Road」

 

 

つい最近まで、このジャケットワークの写真で、レノンが、普通に革靴を履いていると勘違いをしていたと申し開きをしておく必要があるが、よく見ると、アビー・ロードスタジオにほど近い横断報道を渡る際、先頭を行くジョン・レノンが、上下のド派手な光沢のある白のスーツに合わせているのは、スプリングコートのレザータイプのG2ではなく、コットンキャンバスのG2だ。つまり、スプリングコートの最もクラシカルなモデルを着用している。

 

この「アビー・ロード」のアートワークについて、スプリング・コート側は、レノン、ビートルズ側に公式に提供したものではないと後になって声明を出していて、ファッションブランドとのタイアップの一貫として、レノンは撮影時このテニスシューズを着用したのでなく、単に、自分のファッションとして気に入って身につけていただけだったということが判明している。

 

この時代から、ジョン・レノンのスプリング・コート贔屓は始まり、オノ・ヨーコとの結婚式でもスプリングコートを履いてみたり、それからはオノ・ヨーコとのリンクコーディネートとして、このスプリング・コートを自分たちのもうひとつのアイコンのようにファッションに取り入れていた。このフランス製のスポーツシューズを穿きこんで愛していた。

 

しかし、イギリス人であるレノンが、なぜ、このフランスのスポーツシューズをそれほどまで気に入っていたのかという疑問が浮かぶ。

 

一般的に、ジョン・レノンは「洒脱」と言われるファッションスタイル、つまり、他はフォーマル、セミフォーマルな格好ではあるが、靴等、服装のごく一部にカジュアルな側面を取り入れて、「崩し」という要素を取り入れた粋なファッションを演出することに長じていたという印象を受けなくもない。

 

レノンが、そのようなファッションの着崩し方をしたのはなぜなのか、これはロックミュージシャンとして「既成概念に対する反駁をする」という意図も込められていたかもしれない。 

 

 

John gifter sig med sin Yoko i Spring Court"John gifter sig med sin Yoko i Spring Court" by ljungsgarderob is licensed under CC BY 2.0

 

表向きには、ファッションというのは、ただ単に、見かけを社会性の中で披露するためのもの、というのまた、ファッションとしての楽しみ方のひとつとしてあるかもしれないが、特に、歴代のロックミュージシャンは、それをあんまり良しとせず、自分が身につける服装の中に、なんらかの強い主張性を取り入れることの主眼を置いて来た。

 

もちろん、私は、ファッションの専門家ではないのであまり強くはいえないものの、これは、ファッション=服飾という概念のとても重要なテーマの一つのように思えてならない。それが、たまたま、英国人のジョン・レノンにとっては、フランスのエスプリという概念、少しの、ウィット、スパイス、またあるいは、日本風にいえば「洒落」を効かせたスポーツシューズ、スプリング・コートというアイテムだったのだろう。