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Weekly Music Feature:  JayWood

カナダのウィニペグで生まれ育ったJayWood(ヘイウッド=スミス)は、2015年から自己発見と心痛の旅をユニークなソングライティングで捉えてきた。2019年に母親を亡くし、2020年を通して複数の社会的危機が発生し世界的に行き詰まったヘイウッド=スミスは、前進するための勢いに憧れていた。 


 ヘイウッド=スミスは、両親の死後、自分の過去や祖先とのつながりを断ち切られたと感じて、白人が多いマニトバ州で暮らす自分のアイデンティティと黒人特有の経験を理解するべく意識的に取り組んだ。現在は音楽活動の拠点をマニトバ州ウィニペグからモントリオールに移し、新たな境地を開拓しようとしている。


待望の新作アルバム『レオ・ネグロ』は自己との再接続とアイデンティティの探求を主題に、これまでとは異なる響きを奏でる。 制御された混沌が主導権を握る意味ある変革の瞬間を刻み、実験主義者であることの真髄を哲学的に探求。これまで以上に大胆で遊び心にあふれ、真実味のあるサウンドを通じ、ジャンルを超越した多面的な世界を構築する。


「これは最も正直でパーソナルな自分だ。だが、このアルバムに臨むには、異なるバージョンの自分から書く必要があった。意図的に各曲で脳を分割したことで、単に好きなものを書き散らして意味を期待する散漫な音楽的思考よりも、むしろ一貫性が増した」


タイトルこそレオ(獅子座)だが、本質はそうではない。11の『Jays』は真実と不確実性を貪る。鋭いサンプリングと幾重にも絡み合う展開にもかかわらず、レオ・ネグロは見せびらかすことなく、脆弱性の前で咆哮する。アイデンティティ危機を乗り越える手段として、個人の絶対的な価値観を見つめながら。 


「注目を欲しがるのは認める。それはどうしようもないことだ。なにしろ俺は獅子座だからね」と彼は『Pistachios』でヴィンテージ・ヒップホップのサウンドの合間に語る。子供の頃、注目の的でありたかった欲求を思い出しつつ、大人になってスポットライトから降りたことを振り返る。 


「レオは自信に満ちて自己を確信しているが、このレコードは必ずしもそうではない。だからタイトルを翻訳すると『黒い自信』を喚起する。真実を歪め、内なる全てを体現する、居心地悪く奇妙でシュールな言葉なのだ」


新たな章の不快感と断絶に向き合いながら、彼は、日記のように音楽を書き綴る新たな習慣と実践で地に足をつけた。誰しもそれを感じつつも直視を恐れる感情の寄せ集めを、自らの体験を通じて克明に記録していった。 


制作のペースを落としながら内省を深める中で、彼は他のミュージシャンのツアーや自然の多様な風景、ストリートアートに触れ、リック・ルービンの賢明な言葉から『アーティストの道』、エリザベス・ギルバートの『ビッグ・マジック』に至るまで、芸術家の苦境を描いた著作に触発され(二度も!)フランス語を学んだのだった。 


「アーティストであるとは、芸術的に生き、呼吸することなんだ。つまり、実験し、挑戦し、失敗し、再挑戦し、それを続けることなんだ。私はそれを人生のあらゆる場面で実践する必要があると気づきました。服装の仕方から人との接し方まで。あらゆることに実験を続け、他者が共感できる自分自身の新たな側面を引き出したかった」


人生と音楽の両面で飽くなき実験を重ねるレオ・ネグロと、その初作『Big Tings』(カリフォルニアのアートポップ・デュオ、チューン・ヤーズをフィーチャー)は、2023年のEP『Grow On』や前年の洗練された前作『Slingshot』とは明確に対極に位置する。 


D'Angeloを思わせる流れとToro Y Moiの質感で進むこの曲は、渦巻くシンセのきらめくイントロと遊び心のあるアプローチで、ジェレミーがパソコンのメディアプレーヤーでお気に入りの曲を巻き戻したり、スロー再生したり、早送りしたりしていた思春期へと回帰する。


「自分は現実から離れた音楽作り、世界構築するというアイデアが大好きなんだ」と彼は語る。「このレコードはポケットサイズの体験のようなものです。でも、おそらくここに根ざしたものではないかもしれない」


レコード全体に散りばめられたダイヤルアップ音で点と点を繋ぐか、DJとして自身のプレイリストに反応する客席の動きを観察するか――ジェイウッドは創造の境界を押し広げる構成要素を介して、自らの制作全般を刷新された芸術形態へと昇華させた。 


音楽仲間ウィル・グリアソン、アーサー・アントニー、ブレット・ティクゾンに励まされ、スタイリストや古着好きの友人たちを起用してレオ・ネグロの美学を表現するジェイウッドの2025年の大きなテーマはコラボレーションだ。


Instagramのグリッドに輝くセッション写真の笑顔には、結束の固い音楽仲間たちの姿が映し出されている。 楽曲はウィルとアーサーのコレクター・スタジオで録音され、アイデアをぶつけ合いながらジェレミーの音響的な想像力を捕らえた。「このレコードは頭の中で起こっていることそのものだから、めちゃくちゃ多くのことが起こっているように聞こえるはずだ」と彼は語る。


 「これは、あらゆるものの集大成であり、その二面性でもあります。私の中にあるすべてのメロディーやアイデンティティは、すべて私の一部であり、連携して機能している。それらはすべて現実のものであり、すべて私そのものであり、それはまさに祝賀の瞬間のように感じられる」 もちろんアートワークにも意味がある。「アルバムに近づくためにさまざまなバージョンの自分の視点から曲を書く必要があった」とジェイウッド。そして、これこそがこの作品に多角的な印象をもたらす。


カナダでいちばん権威のあるポラリス音楽賞にノミネートされたことで、臆病なライオンのように、これまで成功してきたことを繰り返して安住するのは簡単だっただろう。 しかし、ジェイウッドにとって、生まれ持った「もしも?」という好奇心に身を任せ、その場その場で自らの好きなようにルールを作り上げ(「そもそも最初からルールなんて知らなかった」)、安心と自信を求め、深いつながりを築くため、正直さという危険な領域へ踏み込むことこそ、彼にとって唯一の選択肢だった。何しろ彼は獅子座なのだから、そうせざるを得ない性分があったのだ。 


『Leo Negro』- Captured Tracks



ジェイウッドはカナダ/ウィニペグから登場したソングライターで、ヒップホップやインディーソウルを融合させ、これらのジャンルを次世代に導く。『Slingshot』では自己のアイデンティティを探求し、繊細な側面をとどめていたが、今作にその面影はない。現在の音楽の最前線であるモントリオールに活動拠点を移し、先鋭的なネオソウル/ヒップホップアルバムを制作した。ここで"ヒップホップはアートだ"ということを強烈に意識させてくれたことに感謝したい。

 

全般的な楽曲からは強いエナジーとエフィカシーがみなぎり、このアルバムにふれるリスナーを圧倒する。ジェイウッドは、電話のメッセージなど音楽的なストーリーテリングの要素を用い、起伏に富んだソウル/ヒップホップソングアルバムを提供している。また、その中には、デ・ラ・ソウル、Dr.Dreなどが好んで用いた古典的なチョップやサンプリングの技法も登場したりする。


直近のヒップホップ・アルバムの中では、圧倒的にリズムトラックがかっこいい。彼は、このアルバムで、トロイ・モアの系譜にあるメロディアスなチルウェイブとキング・ダビーが乗り移ったかのような激烈なダブのテクニックを披露し、ドラムンベースらベースラインを含めるダブステップの音楽性と連鎖させる。彼は次世代の音楽を『Leo Negro』で部分的に予見している。

 

オープニングトラック「WOOZY」はサイケデリックなプレリュードである。文字通り、ウージーでメロウなギターで始まり、深いリバーブ/ディレイのエフェクトをかけたボーカルを通して、催眠的なソウルのリスニング体験に導く。きわどいサウンドエフェクトはダブに属し、サイケソウルの領域に到達している。目のくらむような、寝る前のまどろみのような、心地よい雰囲気がヴォーカルのテイク、そして多重録音によりもたらされ、聞き手の興味を引きつける。


アルバムには古典から最新の形式に至るまで、ソウルミュージックへの普遍的な愛着が感じられ、それらはビンテージのアナログレコードのようなミックスやマスターに明瞭に表れ出ている。ギターのリサンプリング、そしてサンプル、ボーカルが混在し、サイケでカオスな音響空間を形成する。しかし、その抽象的な音の運びの中には、メロウなファンクソウルが偏在している。

 

「PISTACHIOS」は、イントロにサンプリングとDJのスクラッチを混在させ、その後、古典的なファンクソウルのリズムを配して、乗りの良いグルーヴを作り上げる。R&Bの古典的なコーラスワークをサンプルし、その後、ジェイウッドのニューヨークスタイルのラップが披露される。リリックは都会的な空気感を吸い込んでおり、それらが前のめりのリズムに反映されている。


全体的には2000年代前後のヒップホップをベースにし、ピアノのサンプリングを織り交ぜ、ジャズの響きを作り出す。モントリオールの音楽が新しく加わり、ジェイウッドの音楽は驚くほど華麗でゴージャスになっている。実際的にジャズ和声を組み合わせながら、それをリズムと連動させ、強固なグルーブを作り出す。


ニューヨークの前衛的なヒップホップの影響を織り交ぜられ、激烈な印象を持つギターが入ることもある。これらの古典性と先進性が混在したヒップホップソングは、スクラッチの技法を挟みながら、時空の流れを軽々と飛び越えていく。これは本当にすごいことだ。


ジェイは華麗なラップのテクニックを披露したかと思えば、ソウルフルな歌唱に変わり、スポークンワードにも変わる。トラック全体の怒涛のごとき容量は、ナイル・ロジャースに匹敵する。ネオソウルを吸収したヒップホップとして聴けるが、和音の配置や音感の良さが傑出している。特に、一つの和音をくるくると転調させて、別のフェーズに持っていく力量が天才的だ。

 

 

 「PISTACHIOS」

 

 

 

「BIG TINGS」は、D’angeloのモダンなゴスペルを吸収したソウルをヒップホップの領域に近づけている。いわば、ニューゴスペルともいうべきスタイルが誕生している。コラボレーターには、Tune- Yardsが参加している。古典的なブレイクビーツを主体にしており、ブレイクビーツのぶっ飛び方が独創的だ。曲の後半では、R&Bらしい幸福感のある雰囲気を漂わせ、トリッピーな感覚が広がっていく。この曲において、ジェイウッドは、ある政治的な揶揄を込めているらしい。


「みんな気をつけたほうがいい。これから大きなことが起きると誰かが言うのを何度も聞いた。けれど、その後に続くことがないなんておかしいじゃないか。そういうことをいうためにこの曲を書いた」


また、コラボレーターのTune-Yardsのガーバスは次のように説明している。「送られて来たファイル名が”BIg TIngs”だったから、”Big Things Coming, Coming Our Way”って歌ってみた。ジェイウッドにとって大きなことがやってくる」 


これらの言葉は政治的な皮肉として作用するだけではなく、楽しみは自分自身で作っていくことの大切さが歌われているようだ。ジェイウッドのボーカルも素晴らしいが、ガーバスのボーカルも同様に素晴らしいエフェクトを与えている。ゴスペルの手拍子とヒップホップの普遍的なスタイルが見事なほど合致している。

 

インタリュード「J.O.Y」は曲間の接着剤に過ぎないかと言えば、そうではない。ジェイウッドが若い時代にサンプリングを楽しんでいた時代を思い起こさせ、それらは音楽という形態を超え、様々な感情や概念の混在という形で成立している。音楽的にはチルウェイブに近く、それが半ば夢見心地に展開される。 全般的にはサイケソウルのような抽象的な音楽がゆっくり流れていく。

 

「ASSUMPTIONS」は、シカゴ/ニューヨーク・ドリルに形式を受け継いだ現代的なヒップホップソング。イントロでは様々なアイディアが凝らされている。手拍子を入れたり、アフロカリブの音楽性を吸収し、民族音楽のエキゾチズムが反映されている。その後、モダンなドリルに移行するが、ジェイウッドのボーカルは少しソウルに傾倒していて、旋律的なニュアンスをどこかに留めている。ラップスタイルは、ケンドリック・ラマーの影響が見受けられる。また、バッドバニーを筆頭とする、プエルトリコのヒップホップの影響も含まれているような気がする。


しかし、これらのライムをいかにもジェイウッドらしくしているのが、彼の繊細なエモーションとメロディーなのだ。ドリルの後に登場するパワフルなベースラインやドラムンベースのリズムと華麗なコントラストを描いている。それらは、結局、ニュアンスに近いリリックにより、旋律的な効果を帯びる。さらに、2分49秒以降は、音楽が一瞬でトリップして、チルアウトなソウルへと様変わり。曲の後半では、南米やプエルトリコのダンサンブルなラップソングへと移り変わる。これらのエポックメイキングな曲展開は、一聴の価値があると思います。 

 

英国/ロンドンのネオソウルからの影響もありそうです。「GRATITUDE」はダンスミュージックの休憩時にかかるチルアウトとネオソウルの融合である。そして、グリッチやシンセポップ等のエレクトリックからの影響を交えながら、心地よいネオソウルの音響世界を構築している。


このアルバムにおけるソウル・バラードとは、エレクトリックやダンス・ミュージックを反映させたもの。それらが2015年頃から培ってきたヒップホップとラップの中間にあるメロウで淡いジェイウッドのボーカルにより、まったりして落ち着いたハーモニーを作り上げている。この曲の一分後半での抽象的なハーモニーは、Samphaのような音楽性が体現されている。その後、エレクトリックやEDMのイディオムを通して、トロピカルで天国的な音楽性が形成される。

 

アルバムの終盤にもう一つ注目すべき曲が収録されていますが、「ASK 4 HELP」も個人的にはイチオシの曲だと思います。イントロは、アブストラクトなサイケソウルですが、その後のブレイクビーツの音やリズムの運びが強烈である。感覚的なソウルやヒップホップのように聞こえるかもしれないが、論理的な構成力を誇っている。ギターのサンプリングを織り交ぜたり、チルウェイブのリズムを配して、トロイモア(Toro Y Moi)のような音楽的な構造を作り上げる。


また、アコースティックギターのリサンプリングにフィルターやデチューンをかけ、ローファイの音楽性を盛り込んでいる。しかし、一方のジェイウッドのボーカルは、どこまでも甘美的で、聞き手をほどよく酔わせる魅力がある。これらは、西海岸のダンスミュージックを反映させたヒップホップや、イギリスのネオソウルを巻き込み、世界的なブラックミュージックへと到達する。規則や規律をある程度は意識した上で、その規律を超える瞬間が込められている。


これこそまさにジェイウッドのソングライティングが優れているといえる理由なのでしょう。それは規律の中にこそ自由が見つかるというソングライターの美学を反映しているのである。そもそも、一定の規律や規則のないところに、ほんとうの自由は存在する余地がない。そして、音楽のクロスオーバーに拍車がかかり、この曲の最後ではモントリオールを象徴づけるジャズのイディオムが明確に登場する。ウッドベースの響きがラップと心地よく溶け合っている。


 

 「ASK 4 HELP」

 

 


「PALMA WISE」は、内省的なヒップホップ/ネオソウルとして聴きいらせる。しかし、ナイーブな印象が従来の曲では少し弱点となっていたが、この曲ではそういった弱々しさは微塵も感じられない。


本作の副次的なテーマと呼応するように多角性とパワフルな印象を擁している。ネオソウルのコーラスワークを取り入れたこの曲は、現代的なヒップホップの模範例とも言える。2分後半以降の女性コーラスは従来のジェイウッドの作品にはなかった陶酔感、そしてソウルミュージックとしてのスピリットを復刻していて、このジャンルの音楽の魅力を見事なまでに体現させている。


「DSNTRLYMTTR」は80年代のダンスミュージックやディスコを引用し、それを現代的なリズム感を持つダンスミュージックにアップデートさせている。これらのサンプリングの抜群のセンスや技術の高さもまた、アルバムの一つの魅力となりえる。

 

「UNTITLED」ではデジタル社会やSNS時代の人間のコミュニケーションの危険性について警鐘が鳴らされる。「私達と携帯電話の関係やそれが生み出す誤ったつながりについて歌っている。私たちは心のどこかで本物のつながりを求めていて、エネルギーや時間を費やし、友達のいるとこへ行こうとしている」という。 


この曲は、本格派のゴスペルタイプのR&Bで、「太陽の下で私を愛しているといわないで/まるであなたがだれかに時間を作るかのように/あなたはフィードに隠れることはできない」と歌われている。ゆったりしたドラムのビートが刻まれる中、ジェイウッドは根本的な交流の重要性を訴えかけるべく、心温まるような歌を披露している。曲はメロウさを増していき、顕在意識を離れて、潜在意識へと迫っていく。

 

クローズ曲「SUN BABY」は、ジェイウッドが言うところの''様々な自己''が的確に反映されている。ロック風のギター、ノーザンソウルからサザンソウルまでを飲み込み、それらを現代的なフィルターで通し、途中のコーラスの箇所では、ドラムの迫力のあるテイクを交え、迫力のあるボーカルをジェイウッドは披露している。それは多彩なブラックミュージックを融合させる傍ら、その根源的な意味を探るかのようである。


この曲において、ジェイは部分的には、これまで親しんできた音楽家に居並ぶように力感のあるボーカルを歌っている。いかなる前衛的な形式も以前の音楽なしでは成立しえない。ジェイウッドは、旧来の系譜を踏まえた上で、それらの常識を破り、臨界点を突破する。


常識を破るときには、前例や規則を放棄するという意図が必要となるが、それを実際にやるためには、決意の力が試される。さらに、付け加えると、ジェイウッドは、多角性の観点から全体を見事にまとめ上げた。そのさい、論理思考が作品に一貫性を付与したのは言うまでもない。

 

ジェイウッドは、この曲で自分の力を信じきり、既存の扉をぶち破り、革新的な領域へと到達している。しかし、さまざまなアイデアを自分の力で試したりする中、強大なカオスに飲み込まれまいとするアーティストの姿も見い出せることは明らかである。様々な音楽性が錯綜し、混沌とする中、アルバムの最後にアーティストの代名詞となるメロウなR&Bへと回帰している。


ジェイウッドは多様な文化性に影響を受けつつ、あらゆる未知の可能性を試しているが、時代に翻弄されず、自己を見失わない。これが、彼を真のアーティストたらしめている理由なのだ。性別、年齢、時代を問わず、その人がすべての偽りを遠ざけ、まことにその人であろうとする時、人生の中で最も輝かしい瞬間を獲得する。

 

 

 

90/100

 

 

Best Track-「SUN BABY」 

 

 

 

▪JayWoodのニューアルバム『Leo Nego』 は本日、Captured Tracksから発売。ストリーミングはこちら


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・「DUB MUSIC」 ダブの系譜を追う  ジャマイカから始まったダビング録音の系譜  その音楽の本質とは

 Weekly Music Feature: Shabason/Krgovich/Tenniscoats 


2024年4月、カナダの東西に分かれて活動するミュージシャン、ジョセフ・シャバソンとニコラス・クルゴビッチはシャバソン&クルゴビッチとして初の日本公演となる2週間のツアーに出発した。 7e.p.レコードの齋藤耕治氏による取り計らいにより、日本の名高いデュオ「テニスコーツ」のサヤと植野がツアーに同行し、松本、名古屋、神戸、京都、東京の各公演でバックバンドを務めた。


4人はたった2回のリハーサルしかできなかったが、それで十分だった。彼らの絆は瞬時に生まれ、音楽に滲み出ていた。瞬時に音楽的に結びついた4者は互いの演奏に興奮と喜びを持って反応し合い、ライブ・セットは公演を重ねるごとに生き物のように美しく成長を遂げていく。齋藤はこの相性の良さを予見し、録音エンジニアを神戸(塩屋)で待機させる手配をした。彼らは名高いグッゲンハイムハウスに滞在する。この117年前のコロニアル様式の邸宅はアーティスト・レジデンシーに改装されていた。これまでにもテニスコーツ&テープの『Music Exists disc3』、ホッホツァイツカペレと日本人音楽家たちのコラボ作『The Orchestra In The Sky』、マーカー・スターリングとドロシア・パースのライブ・アルバムなどが録音されてきた伝説的な洋館である。


あらかじめ完成した楽曲を事前に用意することなく始まった録音だが、それぞれが持ち寄ったモチーフを起点に、即興的に湧き出ていく4者の多彩でフレッシュなアイディアによって音楽が形作られ、ケルゴヴィッチとさやが書き下ろした詞が歌われ、驚くべきペースで新たな楽曲が次々に生まれていった。


二日間で驚くべき化学反応が起きた。それぞれが持ち寄ったモチーフを起点に、即興的に湧き出ていく4者の多彩でフレッシュな着想によって音楽が形作られていく。ケルゴヴィッチとさやが書き下ろした詞が歌われ、驚くべきペースで新たな楽曲が次々に生まれていく。この制作過程を通じて、サヤとクルゴビッチはすぐ、歌詞作りのアプローチにおける共通点に気づく。 サービスエリアで空を見上げながら雲の日本語愛称を共有すること(魚鱗雲、龍雲、鯖雲、眠雲、羊雲)、衣料品店で靴下を片方ずつ探して揃えること、神戸王子動物園で老衰により亡くなった愛されパンダ「タンタン」への追悼歌——二人は共に日常の魔法を探し求め、歌に紡いだ。


この体験は毎日が魔法のようだという感覚だった。グループはグッゲンハイム・ハウスの窓から瀬戸内海の満ち引きを眺めながら作業を進めた。二日間で彼らは8曲を創作・録音し、制作順に並べたアルバムは『Wao』と名付けられた。これは録音後にテニスコーツのサヤがぽつりとつぶやいた言葉だった。これこそコラボレーションをした異国のミュージシャンたちの共通言語だった。


「このアルバムの素晴らしい点は、家がレコーディングスタジオとは程遠い空間だからこそ、超ライブ感あふれる音に仕上がっていることです。それに線路の真横にあるから、録音中に電車が通過する音がよく入っています。僕にとっては、それが大きな魅力と個性になっています」とジョセフは語る。 


「全てが夢のように感じられ、あっという間に終わったので、家に帰って数週間はすっかり忘れていました。セッションデータを開いた時、僕たちが特別な何かを成し遂げたことがはっきりと分かりました」


トロントでのシャバソンによるミックスを経て完成したアルバム『Wao』。さやによる日本語とケルゴヴィッチによる英語がナチュラルに歌い継がれる“Departed Bird”から、ツアー中テニスコーツのセットにてシャバソン、ケルゴヴィッチ両人を迎え演奏されていた “Lose My Breath”(マイ・ブラッディ・ヴァレンタイン)に至るまで録音順に収録された全8曲。ケルゴヴィッチ&テニスコーツと親交の厚い、ゑでゐ鼓雨磨(ゑでぃまぁこん)のコーラス(M5、M6)を除き、全ての歌唱と演奏は4者によるもの。


ジョセフ・シャバソン、ニコラス・ケルゴヴィッチ、テニスコーツ各々のリーダー作、さらにシャバソン&ケルゴヴィッチ名義での作品とすらも確かに異なる、まさに「シャバソン・ケルゴヴィッチ・テニスコーツ」というユニットとしての音楽でありツアー&録音時の驚きに満ちたマジカルな空気が全編に流れる珠玉のコラボレーション。


ライブツアー、そして制作期間すべてが魔法のように瞬く間に過ぎ去った。夢のように彼らはその渦に飲み込まれ、そして離れていった。数週間後、録音データが郵送で届いた時、初めてその夢のような感覚が鮮明な記憶へと変わり、今や何度でも振り返ることができる瞬間となった。


 

 『Wao』-7e.p.(Japan) / Western Vinyl(World)  



このアルバムが録音され、アートワークにもなっている神戸の旧グッゲンハイム邸は、日本の近代化の象徴とも言える建築的な遺産である。

 

1890年代ーー日本が幕末から明治維新の時代に移行する頃の瞬間的な流れを建築的な遺産として残している。江戸幕府が鎖国を解き、日米修好通商条約を通じて海外との交易を活発化させてから、一時的ではあるにせよ、横浜、神戸、長崎の3つの開かれた港は、海外との貿易を通じて、上海に匹敵する''アジア最大の港''として栄えることになる。 横浜港の周辺一帯、長崎の天主堂やグラバー邸周辺は、''外国人居留地''と呼ばれ、実際に外国人が一時的に定住していた。

 

一方の神戸は、京都御所に近いという理由から、本居宣長の流れを汲む国粋主義的な思想を持つ攘夷派の反乱を懸念し、京都から少し離れた場所に居留地が置かれたという。これらの居留地は、明治時代以降の軽井沢のように''外国人の別荘地''ともいうべき地域として栄えた。しかし、維持費が嵩むことを理由に日本の土地として返還されていく。少なくとも、領土の側面において、外地とも呼ぶべき一帯として20世紀初頭まで発展を続けた。特に、神戸の居留地は特殊な事情があり、”租界”ともいうべき土地であった。実際的に、海外の人々が他の地域に出ることは多くなかったという。この神戸の居留地には、ドイツ人が多く住んでいたことがあり、北野異人館等が主な遺構として脳裏を過ぎる。グッゲンハイム邸もまた、ドイツ人が使用していた邸宅であり、館内にピアノがひっそりと残されている。現在はアーティストレジデンスとして利用され、ライブなどが開催されることもある。その昔、この地帯は外国人の観光海岸として栄えた。

 

土地柄の因縁というと語弊があるかもしれない。が、旧外国人居留地で録音された日本の実験的なフォークデュオ、テニスコーツとカナダの二人のプロデューサー、シャバソンとクルコヴィッチのコラボレーションアルバムは、異質な空気感をまとっている。発売元のテキサスのWestern Vinylは、アルバムを''魔術的''と紹介しているが、聴けばわかる通り、得難い空気感を吸い込んだ素晴らしい作品である。録音はたったの二日間で、よくこれだけ集中した作品を制作出来たものだと感心すること頻りである。実際の音楽性は表向きには派手ではないものの、得難い魅力に満ちあふれている。シャバソンとクルコヴィッチのふだんの音楽性については、私自身は寡聞にして知らぬが、テニスコーツのいつもの音楽とは明らかにその印象を異にしている。

 

カナダと日本のコラボレーターは、ライブツアーや二日間の制作期間を通して体験した出来事を日本の感性と外国の感性を織り交ぜて吐露している。そのやりとりの多くは、コミュニケーションとして深く伝わったかどうかは定かではない。しかし、アルバムに接するとわかるように、日本とカナダの音楽家は、ジェスチャーや共通する言語をかいして、共通理解ともよぶべき瞬間を得ることになったのは明らかだろう。この国際的なコラボレーションは、考えが異なる人々を相互的に理解しようと努め、それが最終的に腑に落ちる瞬間を持つようになる、その過程のようなものが音楽として表されていると思う。そして、グランドピアノなどの音色が取り入れられるのを見ると、現地の標準的な環境設備が楽曲の中に取り入れられている。また、全般的には、楽器の役割がかぶることなく、演奏パートが上手いバランスに割り振られている。


一曲目の「Departed Bird」は、サヤによる日本語ボーカルが中心となり、その後、ボーカルの受け渡しが行われる。ムードのあるエレクトリックギターとジャズの要素をイントロの背景に敷き詰め、日本の童謡のような音楽性が取り入れられている。伴奏の後、哀感に満ちた声で、サヤは次のように歌う。「鳥があるいている、道ゆくぼくらの足もとへ」 このマイナー調の曲は日本語の歌詞と連動するように、ピアノのフレージングを通して叙情性を強めていく。その後、口笛やサックスの演奏を通して、この音楽はアヴァンジャズのような遊び心が取り入れられるが、歌謡的な性質を強調づけるかのように、この曲全体は粛然たる哀感に包まれている。そして賛美歌のようなシンセとサックスの音色が重なり、テニスコーツらしい音楽が強まっていく。さらにその後にはクルゴヴィッチのボーカルが入る。また、シャバソンのサックスの演奏もそのペーソスを強める。歌詞はおそらく日本語と英語の対訳のような感じでうたわれている。

 

日本語と英語の同じ歌詞を二声の対位法のように並置するにしても、その言語的な意味やニュアンスは全く異なることが、このアルバムを聴くと痛感してもらえるのではないか。そもそも言語を翻訳するということに限界があるともいえる。日本語は、ある一つの言葉の背後にあるイメージを呼び覚まし、連想のように繋げていく。つまり、その言語的な成立の経緯からして、''論述的にはなりえない''のである。とは対象的に、英語は、論理的な言語の構造を持つ。つまり、英語は直前の文章を補強したり補填する趣旨がある。一つの同じような伴奏で、同じ意味の文章が歌われても、言語的な意味が全然異なることに大きな衝撃を覚える。特に、日本語の観点から言えば、短歌や俳句のような行間にある、言外のニュアンスや感情性が、サヤの歌から感じ取ることが出来るかもしれない。そして、論理的なセンテンスを並べずとも、日本語は何となく意図が伝わることがある。この''言語における抽象性''はアルバムの重要な核となる。また、英語の歌詞の方は、歌の意味を一般化したり平均化するために歌われる。これらの2つの言語の持つ齟齬と合致は、アルバムの収録曲を経るごとに、大きくなったり、小さくなったりする。

 

続いて、二曲目の「A Fish Called Wanda」は、ヴァースとサビという基本的なポピュラーの構成から成立しているが、実験音楽の性質がそうとう強い。言語的なストーリの変遷が描かれ、「Wanda」という英語の言葉から、最終的には王子動物園の「Tan Tan」の追悼という結末へと繋がっていく。しかし、これらは、英語の「Wanda」と日本語の「ワンダ」という言葉を対比させ、その言葉を少しずつ変奏しながら繰り返し、実験音楽としての性質を強めたり、弱めたりしながら、驚くべき音楽的な変容を遂げる。このあたりに、言語によるコミュニケーションの一致とズレのような意図がはっきりと現れている。 その言葉の合間に、サックスの実験的なフレーズ、シロフォンのような打楽器の効果が取り入れられる。同じような言葉が連鎖する中、言葉が語られる場所が空間的に推移していく。そして、それと対比的なポピュラー音楽のフレーズが英語によって歌われる。これがシュールな印象を与え、ピンク・フロイドのシド・バレットのごとき安らかな癒やしをもたらす。もちろん、ピアノの伴奏に合わせて歌われるフレーズは、明晰な意識を保持している。この点は対称的と言える。ときどき、スキャットを駆使して明確な言語性をぼかしながら、デュオのボーカルが背後のサックスの演奏と美しいユニゾンを描く。「Wanda」「Under」「Anta(You)」など、英語と日本語の言葉を鋭く繰り返し交差させながら、実験音楽の最新鋭の境地へと辿り着く。これらは、二人のボーカリストの言語的な感性の鋭さが、現実性と夢想性の両面を持ち合わせた実験音楽へと転移しているといえる。最終的には、アコースティックギターとサックスの演奏に導かれ、温かな感情性を持つに至る。

  

3曲目に収録されている「Shioya Collection」は、今年度発売された日本語の楽曲では最高傑作の一つ。塩屋の滞在的な記憶がリアルタイムで反映され、叙情的に優れたポピュラーソングに昇華されている。イントロではシンセの水のあぶくのような可愛らしい電子音をアルペジオとして敷き詰め、古くは外国人の観光ビーチとして栄えた塩屋の海岸付近の風光明媚な光景を寿いでいる。シンセサイザーの分散和音を伴奏のように見立て、徐々に音色にエフェクティヴな変化を及ぼしながら、センチメンタルなイマジネーションを呼び覚ます。それは、これらの滞在期間が短期間であるがゆえ、かえって、このような切ない叙情的な旋律を生み出したとも言えるだろう。ボーカルが始まる直前、ジャズの和音を強調したピアノが入り、それらの印象は色彩的な和声進行に縁取られる。以降、日本語の歌詞が歌われるが、これらは断片的な言葉にすぎないのに、驚くほど鮮明にその情景の在処を伝え、同時にその感情性を端的に伝えている。 


坂の上の光景、そして、頭の上を通り抜けていく清かな風、それらを言葉として伝えるためのたった一語「カゼーカゼ」という楽節が歌われるとき、涙ぐませるような切ない感覚が立ち現れることにお気づきになられるだろう。グッゲンハイムの窓から見た光景か、それとも館の下の階段からみた光景かはつかないが、そのときにしか感じえない瞬間的な美しさが最上の日本語表現で体現されている。サビのフレーズの後の始まるサックスやピアノの演奏もまた、非言語でありながら、言葉の間やサブテクストの持つ叙情性を明瞭に伝えている。二番目のヴァース以降は、クルゴヴィッチのボーカルで英語で歌われ、日本語のサヤのボーカルと併置される。今までに先例のない試みであるのに、驚くほど聴覚に馴染むものがある。海際の潮風の風物的な光景が「思い出をならべてる」というような言葉から連想力を持ち、そのイメージがどんどんと自由に膨らんでいくような、ふしぎな感覚にひたされている。そして、日本語と外国語を対比させながら、「カゼーカゼ」の部分では異なる言語のイメージがぴたりと合致している。

 

4曲目の「Our Detour」はエレクトロニカの音楽性が強まる。 イントロにはグリッチのリズムを配して、トーンクラスターやダブの要素を強調しながら、ゆったりとしたビートを刻んでいく。ヴァースの始めでは、「過去から振り返るな」という歌詞が歌われ、それが日本の童謡的な旋律によって縁取られる。その後、「繰り返すと」に言葉が転訛し、ボーカルの受け渡しが行われ、フレーズの途中で、英語の歌詞に切り替わる。以降、この曲は、ピアノのダイナミックな演奏を背景に、ボーカルの叙情的な感覚を深めながら、ダブのディレイのサウンドエフェクトを用い、急進的な楽曲へと変化していく。これまでに何度か述べたことがあるように、一曲の中で音楽そのものがしだいに成長していくような感覚があるのに驚きを覚えた。英語と日本語の歌詞のやりとりの中で「ここには時間がある」という抽象的な歌詞が日本語で歌われる。


ダリのシュールレアリズムの絵画のような趣を持ち、その内的な形而下の世界を徐々に音楽と連動するようにして押し広げていき、サビの箇所では、「みんながいて」、「呼吸は繰り返して」のようなフレーズへと繋がっていく。ここでは変化していく共同体のような内的な記憶がきざみこまれている。単なる郷愁的な意味合いを持つ音楽とはまったく異なるような気がする。曲の最後では、迫力のあるダブのエフェクトがこの曲の持つじんわりとした余韻を増幅させる。

 

「At Guggenheim House」は文字通り、グッゲンハイム邸の滞在について歌われている。デュオの形式で構成されているが、基本的には英語の詩で歌われ、グッゲンハイムでの同じような瞬間的な体験とリアルタイムの記憶を反映させている。とはいえ、ジャズポップス寄りの楽曲である。 クルゴヴィッチのボーカルとシャバソンのサックスは、モントリオールの港の気風を呼び込み、そして、ムードたっぷりの叙情的な歌唱を通じて、ジャズの空気感を深めていく。その中で、まれにリードの役割で登場するオーボエ、クラリネットのような木管楽器がどことなくエキゾチックに響く。


これは憶測にすぎませんが、日本と海外の双方のミュージシャンが感じたエキゾチズムがムード感のあるジャズソングに結びついたのではないか。つまり、由緒ある洋館やこの土地の街角に、ミュージシャンたちは異国的な情緒を感じて、そして、現在の地点からへだたりがあることを滞在時に彼らは肌身で感じ取ったのではなかったか。館の中に残る、当時の異国人の家族や子供の生活や暮らしの様子を、音楽として表現したとしても不思議ではあるまい。いずれにせよ、この曲は、英語のポピュラーの中に日本語の歌謡的な要素が混在している。風土的な概念を象徴付けるようなアトモスフェリックなアートポップソングである。

 

 

続く「Ode To Jos」では、同じように夕暮れの潤沢な時間を伺わせるようなジャズトロニカである。 この曲では、アコーディオンの楽器が取り入れられ、遊び心のあるフレーズが登場するが、全体的な旋律の流れとボーカルはどことなく郷愁的な雰囲気に縁取られている。時々、アヴァンジャズに依拠したサックスのブレスやジム・オルーク風のアヴァンフォークのアコースティックギターのフレーズも登場するが、夢見るような旋律の美しさが維持されている。デュオ形式で歌われる両者のヴォーカルのユニゾンも見事なハーモニクスを形成している。


アルバムの中で最もアグレッシヴな趣を持つ「Look Look Look」は、イントロでフューチャーステップのシンセを配し、スキャットやハミングの器楽的な旋律を強調付けるサヤのボーカル、そして、クルゴヴィッチの深みのある英語の歌詞が対旋律として強固な構成を作り上げる。リズムとしても、オフキルターとの呼ぶべき複合的なポリリズムが強調され、ボーカルだけで伴奏と主旋律を作り上げる。この曲で、テニスコーツとクルゴヴィッチはヴォーカルアートの最前線へとたどり着く。その後、ヒップホップのリズムを交え、この曲は未来志向のアートポップへと傾倒していく。この曲に関しては、細野晴臣さんの音楽性にも相通じるものがあると思う。

 

 

このアルバムを聴くに際して、My Bloody Valentineのカバーソング「Lose My Breath」は意外の感に打たれるかもしれない。


1988年のアルバム『Isn’t Anything』の収録曲である。『Loveless』が登場する数年前の伝説的な作品で、ヨーロッパのゴシックの雰囲気に縁取られている。ダンスミュージックの要素以外のシューゲイズの旋律的な要素は、このアルバムでほとんど露呈していた。今回のテニスコーツのカバーでは、これをインディーフォークやネオアコースティックの観点から組み直している。

 

あるミュージシャンに聞くところによると、カバーというのは難しいらしい。原曲にある程度忠実でなければならず、過度な編曲は倦厭されがち。この曲は、構成や和声や旋律進行の特徴を捉え、それらをダークでゴシックな雰囲気で縁取っている。このカバーは、どちらかといえば、Blonde Redheadのように、バロック音楽に触発されたポップソングのように聴くことが出来る。


従来、My Bloody Valentineのクラシック音楽からの影響というのは表向きには指摘されてこなかった。しかし、このカバーを聴くとわかる通り、ビートルズと同じようにシューゲイズというジャンルには、ダンスミュージックと合わせて、クラシック音楽からの影響が含まれていることがわかる。少なくとも、今まで聴いた中では、センス抜群のカバーであるように感じられた。曲数はさほど多くはないけれど、凄まじい聴き応えを持つアルバム。それが『Wao』である。

 

 

 

 

 

 

86/100 

 

 

 

Shabason/Krgovich/Tenniscoats 『Wao』は本日、日本国内では7.e.pから発売済みです。さらに日本独自CDとして発売。海外ではWestern Vinylから発売。こちらはVinylの限定販売となっています。『Wao』の国内CDバージョンの詳細につきましては、7.e.p.の公式サイトをぜひご覧ください。 

Weekly Music Feature:  TOPS



TOPS —デビッド・キャリエール、ジェーン・ペニー、マルタ・チコジェビッチ、ライリー・フレック — は、即効性と深みを融合させた時代を超越した音楽を率先的に創作している。


2020年以来初のフルアルバムであり、新レーベル・ゴーストリー・インターナショナルからリリースされる『Bury the Key』は、カナダ・モントリオール出身のバンドにとって魅力的な再始動作です。彼らは秀逸なメロディメイカーとして確固たる地位を築きつつも、常に変化や進化を恐れないで、時には暗く重いトーンに挑戦する姿勢を示している。世界のミュージックシーンは刻一刻と移り変わりつつあるが、TOPSもまたそれらの流れに与する。「TOPSは常に同じ本質を持っていますが、世界は新しい時代に差し掛かっている。私たちは、この運動の一部であると感じています」シンガーのジェーン・ペニーは述べている。また、フラット化された概念に対する反感を隠そうともしない。「今日の美学の均質化にうんざりしている」と彼女は付け加えているTOPSとはつまり、個性的な音楽とはなにかを率先して追求するプロジェクトなのだろう。


『Bury the Key』は封印されていた感情に向き合い、幸福、享楽主義、自己破壊の間の相互作用を描いている。架空のキャラクターが頻繁に登場するものの、彼らの輝きとグルーヴに満ちたセルフプロデュースの曲は、個人的な観察からインスパイアされている。バンド内外での親密さ、毒のある行動、薬物使用、そして終末的な恐怖がライトでポップなサウンドに織り込まれている。


レコーディングが始まった際、彼らはその変化に内心気づき、冗談交じりに「evil TOPS」と名付けたとペニーは振り返っている。「私たちはいつもソフトなバンドや、カナダらしい純真で親しみやすいバンドと見なされてきましたが、周囲の世界を真摯に表現するべく挑戦しました」それらの迫りくる時代と年齢に応じた明晰さを通じて、TOPSは『Bury the Key』でより陰湿なディスコの世界に浸り、ソフトフォーカスのソフィスティポップに鋭いエッジを加えています。


2010年代初頭、モントリオールのDIYシーンからインディ・ポップの先駆者として登場し、その影響は今なお現代の音楽シーンに轟く。TOPSの長期にわたる成功の秘訣はシンプル。曲作りを正直でオープンにし、レコーディングを自然体ながら完璧に仕上げ、バンドのダイナミクスをあらゆるレベルで深く調和させることである。彼らの曲は人生の輪郭を描き出し、5枚のアルバム、数多くのツアー、様々なサイドプロジェクトを経て、TOPSはその才能に磨きをかけて来た。


TOPSのヴォーカル、ソングライター、プロデューサー、フルート奏者、シンガーとして幅広い役目をこなすジェーン・ペニー。彼女の静かでささやくようなボーカルは、広範な表現力を持ち、Men I TrustからClairoまで現代のアーティストに影響を与え続けている。彼女の歌詞のテーマは時代を超えた普遍性を擁する。権力のダイナミクス、欲望、認められるための闘い、愛が報われるか否かなど、人間の普遍的な主題に及んでいる。2024年にモントリオールに戻り、初のソロ作品をリリースしたペニーは、過去の自分自身の街に戻り、一歩成長した姿で戻ってきた。


彼女の曲に描かれる洗練された車と永遠のハイウェイは、リズムの相棒デビッド・キャリエールと共に書かれた『Bury the Key』でさらに深化している。キャリエールは、ハイシェーンなフックと絶え間ないドライブ感を特徴とするソングライター、プロデューサー、ギタリストとして、音色とテクスチャーのトリックをさらに魅惑的に拡充している。そしてドラマーのライリー・フレックは、バンドの心臓部として活動し、他者のプロジェクト(最近ではジェシカ・プラットのライブバンド)でも活躍する彼は、より高いテンポとハードなリズムに挑戦している。


2017年にTOPSに加入し、2022年にキャリアーがプロデュースしたデビュー作『Marci』でブレイクしたキーボード奏者のマルタ・チコジェビッチも役割を拡大した。作曲プロセスに参加し、ペニーのボーカルラインの一部をバックアップし、アルバムで最も豊かで満足感のあるパートを演出している。TOPSはポップミュージックの洗練度において高いレベルに達しながらも、惜しいことに、そのレガシーはほとんど記録されていないままになっている。彼らは世界中をツアーして回り、主要なフェスティバルから最も小規模なライブハウスまでくまなく回り、床で寝泊まりし、ツアー管理を自ら行ってきた年月を経て、苦労の末に成功を築いて来たのだった。


仕事に対する倫理観だけでなく、相性や好みも重要な要素となった。どのアーティストの曲が流れているかといえば、フリートウッド・マックやスティーリー・ダンといった予想通りの名前も挙がる。さらに深く掘り下げると、チャイナ・クライシス、プレファブ・スプラウト、フランソワ・ハーディ、ミッシング・パーソンズ、エヴリシング・バット・ザ・ガールといったアーティストたちがプレイリストを独占している。これらのすばらしいアーティストから学んだ輝きとスリル、甘くも陰鬱な楽曲への本能が、バンドを『Bury the Key』へと導いていった。特にフランソワ・ハーディをメインとするフレンチポップからの影響が相当大きかったという。


「私は特にフランソワーズ・ハーディを考えて、Bury the Keyのために歌いました。なぜなら、彼女は同時に感情と思考のバランスを取れる女性だとわかったから。私は彼女の歌のこのような甘いグルーヴも大好き。私たちは、彼女がスタジオでとても楽しかったと感じている」と彼女は言います。ジェーン・ペニーの声の拡散した官能性は、レコードが浸る感情の複雑さを結晶化させる。「異なる要素を混ぜ合わせることを一緒にイメージするというわけではありませんが、うまくいってしまう。TOPSのブランドみたいなものです」とミュージシャンは言います。


作曲は2023 年の冬に始まった。ペニーとキャリエールはまずデモ制作に取り組み、その夏、バンドのPlaza Hubert  Studioでゆるくコラボレーション的なセッションを重ねつつ、デモソングを完成させていった。


「モントリオールで一番好きな場所です。ミュージックビデオを作るのに必要なものもすべて揃っているからです」と彼女は言います。そして、レコードの音楽的影響がある。少しハードコア、少しプログレ、常にポップ、常にトップス。「これらはアルバムの暗いテーマにマッチしています」


「さらに様々な人物像が形作られていった。シンセサイザー主体の「Wheels At Night」では、ペニーは当初、未亡人のキャラクター(「ここにはあなたの服と私の服しか残っていない」)を想像していたが、やがてより普遍的な喪失感へと展開し、最終的に自分自身と孤独の苦悩に向き合う別れの歌となった。


キャリエールのギターラインがブリッジで輝き、ナレーターは孤独な道で夢見るように去っていく。「ICU2」は、ペニーとチコジェビッチの遊び心あふれるやり取りから生まれたクラシックなアップテンポのTOPSらしい曲。しかし、グルーヴの下には、隠れんぼのようなクラブシーンが鏡の迷宮を暗示している。「半ば犯罪のような、幻想的な、暗闇の中で何かを探しているところを捕まったような感じ」とペニーは述べ、1969年の『ミッドナイト・カウボーイ』のパーティーシーンのアーティスティックなサイケデリックを引用しているという。


『Bury the Key』の影は、アルバムが進むにつれて、ますます鮮明になっていく。中盤に差し掛かる「Annihilation」はバンドの転機となる曲と紹介されている。この曲は非伝統的なアプローチから生まれた。フレックはドラムから曲を作成する挑戦を受け、バンドが構築する基盤となる速いハイハット、フィル、そして、4ビートを特徴としたリズムフィールドを生み出していった。坂本龍一、シネイド・オコナーの死後間もなく書かれたこの曲は、徐々に消え去りつつある文化的な神話へのオマージュになっている(「すべての偉大な男と女は死ぬ、友よ!!」)


「Falling On My Sword」は、キャリエールのハードコア音楽への興味をアレンジの観点から反映している。「最終的には私たちのスタイルで演奏した」と彼は言います。「私たちは常に、変化や再発明のアイデアに反対してきた」とペニーは言います。「しかし、私たちはサウンドの限界を押し広げ、これまで作ってきたものとは異なるものを試したかった。少しハードな方向へ進みたかった」


中心となるのは「Chlorine」と銘打たれた空虚な愛のバラード。毒素、化学物質に満ちたウォーターパークの懐かしさ、不健康なバーの夜の安らぎを交差させる。「成長過程での感情の幅、私たちが経験する事柄、自分を満たすような方法が私たち自身を破壊する要因にもなるかもしれない」とペニーは説明する。この概念の重みは、『Bury the Key』という多面的な作品全体に滲み出ている。最新作では、痛みと快楽に根ざした、生きることの複雑な喜び、あるいは、私達の時代の最高峰のバンドとしての存在感が、粗削りな素材から磨き上げられて完成へと繋がった。


TOPSはGhostly Internationalと契約を交わした。アメリカのレーベルから作品をリリースすることは、バンドメンバーのスピリットをモントリオールに近づけることになった。TOPSがニューヨークのレーベルに参加し、キーボードのマルタ・チコジェビッチとドラムのライリー・フレックが現在ロサンゼルスを拠点にしている。しかし、その本質は依然としてモントリオールに根付いている。


「私たちは両都市間で協力して作業を続けています。デイビッドと私はモントリオールで役割を引き継いでいますが、それは彼らの強い芸術的アイデンティティを損なうものではありません」ベルリンとロサンゼルスで生活した後モントリオールに戻ってきたペニーは強調します。「毎回戻ってくるたびに、ようやく家に帰ったような感覚でした。これは深く感じていることです」


近年のモントリオールの開放的な都市性、そして先進的な気風には模範的なものがある。モントリオールは、経済主義による均一化から逃れられた数少ない本物の国際都市である。おそらく、全体主義や排他主義の閉鎖性とは無縁の場所なのだ。ペニーによると、モントリオールは「何にでもなれる場所で、特に音楽を作るには最適な場所」だという。「この秘密は誰もが知っている」と彼女は言うほど。ジェーン・ペニーはモントリオールの文化の独自性を強調する。


「ベルリン、ニューヨーク、ロサンゼルス、パリでは、既に都市そのものが明確に定義されてしまい、既存のシステムに支配されています。一方、モントリオールでは、やりたいことを自由に想像したり、以前存在しなかった新しいものを創造できる」と彼女は指摘する。新しいものが制作できるのは''都市そのものが定義されていない''からだと言う。そしてベテランのミュージシャンにとって、これがモントリオールという都市が世界的に輝やかしく見える理由なのだろう。


TOPSの特色は、どの都市に住んでいようとも常にモントリオールのバンドなのであり、TOPSはTOPS以外の何者でもないということです。メンバーが境界を押し広げ、新たな世界へ挑戦しようともその本質は変わらない。


「実際、私たちは何でもできると気づきました。私の声、ライリーのドラム、デイビッドのギター、マルタのキーボード。何をやっても、それは私たちらしく響く」とジェーン・ペニーは断言している。そして次のようにこのアルバムを結論付けている。 「結局、すでに作ったアルバムを再現しようとしないで、他の場所を探索する方が私たちにとってずっと楽しいことだった」

 


TOPS 『Bury the Key』-Ghostly International  



~ソフィスティポップの次世代を象徴する作品が登場~


トップスは”最も優れたインディーポップバンド"としての称号をほしいままにしてきた存在である。しかし、このアルバム全体を聴くとわかる通り、フラットな作品を作ろうというような生半可な姿勢を反映するものではない。この点において、2012年頃から彼らはコアな音楽ファンからの支持を獲得してきたが、音楽性を半ば曲解されてきた部分もあったのではないだろうか。


トップスの曲は、大衆が親しみやすいように設計されていて、どこまでも聴きやすく軽やかなのは確かだが、その反面、ジェーン・ペニーのファニーなボーカルの印象とは対象的に、強い重力のようなものが基底に存在することに驚く。彼らの音楽は、飲み口の軽いカクテルのような味わいがある。しかし、その味には深さがあり、何重もの層のようなもので覆われている。そして本作に関しても、一度聴いただけではわからない何かがある。よくわからない部分が残されているからこそ、二度、三度と続けて聴きたくなるような魅力が内在しているのだろう。

 

『Bury the Key』はソフィスティポップ(AOR/ソフトロック)を中心に構成され、そしてヨットロックの音楽性も盛り込まれている。 しかし、実際の音楽は表向きの印象とは対照的に軽いわけではない。ギター、ベース、ドラム、フルート、シンセの器楽的なアンサンブルは、無駄な音が一切鳴らず、研ぎ澄まされている。メロディーの良さが取り上げられることが多いが、TOPSのアンサンブルは、EW&F(アースウィンド&ファイア)に匹敵するものがあり、グルーヴやリズムでも、複数の楽器やボーカルが連鎖的な役割を担い、演奏において高い連携が取れている。


TOPSのサウンドは、Tears For Fears、Freetwood Macといった、70、80年代のサウンドを如実に反映させているが、実際的なサウンドはどこまでもモダンな雰囲気が漂い、スウェーデンのLittle Dragonに近い。表向きに現れるのは、ライトな印象を持つポップソングであるが、ディスコ、アフロソウル、R&B、ファンク等、様々な要素が紛れ込み、それらの広範さがTOPSの音楽に奥行きをもたらしている。これが、音楽に説得力をもたせている要因ではないか。しかし、それらのミュージシャンとしての試行錯誤や労苦をほとんど感じさせないのが、このアルバムの凄さといえるのだ。

 

TOPSの曲が魅力的に聴こえる理由はなぜなのか。それは音楽そのものが平坦にならず、セクションごとの楽器の演奏の意図が明確だからである。さらにヴァースやコーラスの構成のつなぎ目のような細部でも一切手を抜かないでやり抜くということに尽きる。


オープニング曲「Stars Comes After You」は、表面的なイメージよりも奥深い内容である。チルアウトやヨットロックの範疇にあるムード感のあるイントロで始まり、以降は、80年代のディスコサウンドへと移行していく。まるで時代を遡るかのようなワクワクした感覚が、アルバムの中にある音楽的な空間を押し広げる。曲のメロディだけで構成を作らず、全体的なリズムや楽器のアンサンブルと連動しながら、構成が推移していく。これぞベテランの領域のサウンドの運び。この点に最高の敬意を表したい。


そして、曲の展開に合わせて、ドラムやシンセ、ギターが入ったりというように、音楽の持つ風通しを重視している。全体的なアンサンブルがメインボーカルを引き立てているのは事実だが、ペニーのメインボーカルですら、全体的なアンサンブルの一貫としての役割を担っている。どの楽器も、いうまでもなく声ですらも、均等な力学を持ち、それぞれが全体のバンドサウンドに等しく引力を及ぼす。だから、どのパートもソリストのように不自然に前に出過ぎるということがない。要するに、四人のメンバーが演奏したり、歌ったりしながら均衡の取れたサウンドを構築していく。表面的なポップサウンドの奥底には、セルジオ・メンデスのようなボサ・ノヴァ、ラウンジ、ラテンの音楽が滲み出てくる。実に多彩な音楽的な知識が内包されている。

 

TOPSの新機軸が早くも2曲目「Wheels At Night」で示される。イントロのバッキングギターをベースラインに重ね、その上にシンセをリズミカルに重ね、二拍目を強調する裏拍の軽快なリズムのセクションを作り出す。その上に、主旋律を担うメインボーカルが乗せられる。ボーカルに目が行きがちだが、土台となる楽器のアンサンブルが盤石だからこそ、ボーカルの旋律の良さが引き立てられる。そして最終的に導き出されるのは、ファビアーノ・パラディーノのサウンドを想起させる、80年代のソフトロックやソウルを反映させた軽やかなポップロックである。


この多彩なサウンドの中には、シンディ・ローパーのような80年代の偉大なボーカリストからのフィードバックも感じられる。少なくとも、「産業的なポピュラーソング」として長らく軽視されてきたサウンドが、非常に見事な形で現代に蘇っている。そして、TOPSとしてのサウンドのトッピングが、ボーカルの間に入るシンセサイザーの華やかなカウンターポイントである。これらのサウンドは、最終的にカラフルな印象をもつ劇的なポップソングに昇華されている。


 

 「Wheels At Night」

 


TOPSのファンクバンドとしての性質が「ICU2」において示されている。この曲のイントロは、リズムとして聞きいらせるものがある。シンセとベースを連動させ、同じように裏拍を強調する軽快なリズムを作り出し、そして、バンドメンバーのコーラスがハーモニーを程よく強調する。メインボーカルはスキャットを用い、器楽的な効果を強調する。すると、アースウィンド&ファイヤのような巧みなファンクサウンドが出現し、曲が面白いようにスムーズに転がっていく。


ベタなように思えるコーラス(サビ)の箇所もまたドラムやシンセといった楽器がたちどころに出現し、ジャズのコールアンドレスポンスのような形式を駆使して、主旋律が自由自在に変遷していく。こういった主旋律が変化する自由性が曲に聴きごたえをもたらしている。さらに、サブボーカルとしてのコーラスワークがこの曲に楽しげな雰囲気を与えている。”i see you do,i see"といったフレーズですら、リズムの側面でポリフォニックな影響を及ぼすための作用を担っている。この曲はメロディーとリズムの両側面において絶妙なバランス感覚が保たれている。

 

「Outstanding In The Rain」は表側からは想像しづらいTOPSのソウルミュージックの影響が最も色濃くなる瞬間です。ジェニー・ペニーの演奏するフルートは、アフロソウルのテイストを曲にもたらす。イントロの後、ディスコ風の曲に移ろい変わり、この曲はダンス・ミュージックの性質が強まる。前曲と同様、シンセとベース、ギターは70年代~80年代のファンクグループのサウンドに近く、巧みなアンサンブルを披露している。そして、複数の楽器のアンサンブルからバロックポップなどで頻繁に登場するチェンバロの音色がはっきりと浮かび上がる。


この曲には、歌手のジェーン・ペニーが述べているように、フランソワ・ハーディからの影響が見え隠れしています。ボーカル全般の旋律は、曲のセクションと連動しながら、華やかになったり、静かになったりする。最も華やかになる瞬間にはシンセサイザーと重なり合うように、豊かなハーモニーが生み出される。その中には、YMOのようなエレクトロポップのアジアンテイストが散りばめられることも。この曲も多彩な音楽性から成立していてすごい。アウトロでは、イントロと呼応するように、アフロソウル風のフルートで締めくくられている。

 

 

「Annihiration」はYMOに捧げられている。シンセサイザーをベースにしたエレクトロ・ポップであるが、依然としてメインボーカルとその間に呼応するサブボーカルは清涼感に満ちている。例えば、YMOのサウンドは近未来的な雰囲気やSFの空気感があり、それらがマイケル・ジャクソンのようなミュージシャンを魅了した要因だったと思われる。また、同時にファンクやソウルからの影響も見過ごせません。


これらのTOPSの再現力には目を瞠るものがあるが、同時にウィスパーボイスに近いボーカル、ソウルではお馴染みのコーラスワーク、軽妙なカッティングギターなど、多彩な要素が混在するようにして、TOPSの曲は成立している。さらにこの曲は、セクションごとに移調を重ね、リズミカルな効果と色彩的な和音をバランス良く並立させている。こういった古典的なスタイルの曲もTOPSの手にかかるや否や、モダンなイメージを持つポップソングに変貌してしまう。お見事。

 

アルバムの中核を担う「Falling On My Sword」は、スパイスとエッジの効いた曲として心を楽しませてくれる。パンキッシュなテイストをギターで表現し、従来のTOPSの軽やかなポップワールドを体現している。エッジの効いた音楽、そして、それとは対象的な夢想的な感覚に浸されたこの曲は、このアルバムの重力ーーヘヴィネスーーを明らかに象徴づけている。表向きのTOPSの軽さに隠された''ヘヴィネス''の側面を体感するのにうってつけの一曲ではないだろうか。


しかし、それと同時に、このグループらしいメロディセンスの妙も重要な核心を形成している。例えば、一分前後のボーカルライン、ギター、ドラムの兼ね合いには、近未来的なロックの要素すら織り込まれている。


また、ヘヴィ・メタルバンドのようなテンポの流動性も魅力である。1分10秒頃には、テンポを極端に落として、このアルバムの急進的な側面を表すヘヴィネスが体現される。すると、通奏低音を担うベースラインが浮かび上がってくる。


これらのバンドサウンドとしての押し引きや抜き差しの部分は、このバンド以外ではなかなか体感出来ないものではないかと思う。その後、一分半過ぎになると、急速に音楽そのものが重力を増し、ラウドなギターが全体の印象を占める。徐々にテンポを小節ごとに早めていき、楽器やボーカルの印象を強めたり弱めたりしながら、見事な構成を組み上げる。そして、音楽そのものがメロディアスになる。ここにきっと、TOPSの真骨頂を捉えることが出来るはずだ。

 

その一方、聴きやすく軽やかな7曲目「Call You Back」が併置され、見事なコントラストを形成している。シティ・ポップのような懐かしさと輝きに満ちたこの曲は、TOPSらしい少し可愛らしい感覚に満ちたポップネスを体現している。


この曲では、”I don't wanna call back”というコーラスの箇所が他の曲よりもクリアに浮かび上がり、華やかなディスコサウンドの渦中にあって、きらびやかな印象を放っている。このような曲はミラーボールディスコ全盛期の時代のバブリーな感覚、それとは対象的な内省的な感覚を織り交ぜたエモーショナルなポップソング。メインボーカルを縁取るギターの演奏も聴きどころで、全体のシンセサイザーのアトモスフェリックなシーケンスと融和している。これらのサウンドが渾然一体となり、夢想的なドリーム・ポップ風の見事なトラックが出来上がっている。

 

80年代のAOR/ソフトロックに最も傾倒した「Chlorine」も聴き逃がせません。アトモスフェリックなイントロから、ゆったりしたテンポ感覚を持つ横乗りのダンサンブルなディスコポップサウンドへ変遷していく。 ボーカルは主体的なウィスパーボイスに対して、華やかな印象を持つソプラノのビブラートが優勢になり、弦楽器のような音響的な効果を曲全体に及ぼしている。メインボーカルの印象は、チャカ・カーンやシンディ・ローパーに近くなる。音楽的には、MJ、ダニー・ハサウェイ、ホイットニー・ヒューストンのサウンドがベースになっていて、それらの80年代の商業音楽に存在した漠然とした未来への期待感が秀逸なポップサウンドに乗り移っている。ノスタルジアも漂うが、現代的な感覚から見た未来への期待感が描かれています。


この曲では起伏のある展開が重視され、休符を設け、ボーカルの主旋律を浮き立たせたり、ドラムの演奏が強まると、ダイナミックな迫力を増したりと、様々な演奏面での工夫が凝らされている。細部まで手を抜かず丹念に作り込もうという姿勢がバラードに依拠した良質なポップソングを作り出す要因になった。ドラムはパーカッシブな効果だけで、曲全体を司令塔のように司る。

 

「Your Ride」のような曲もまた、TOPSがブルーアイドソウルだけにとどまらず、本格派のブラックミュージックに親しんできたことを伺わせる。アーバンコンテンポラリー/ブラックコンテンポラリーのような80年代のソウルミュージックがお好きな音楽ファンに推薦したい楽曲です。軽やかなポップソングとして出力されることは変わりないけれど、やはり、こういった副次的な音楽の影響が、彼らの曲に深さや奥行きをもたらしている。これは、TOPSのメンバーが、結果ではなく、過程を一番に重視しているからこそ起こり得たことかもしれない。


さて、終盤のハイライトは、「Standing at the Edge of Fire」で訪れます。曲名は、YYY’S、Cheap Trickのようだが、実際の曲はAORとブラック・コンテンポラリーに属する。イントロのボーカルは、EW&Fの「Boggie Wonderland」のような乗りの良いダンサンブルなな効果を与える。こういったポップソングでは、''お約束''ともいうべきボーカルのフレーズが登場します。その後、この曲は、ミドルテンポの軽やかな雰囲気に満ちたディスコポップへと変遷していく。そして、その中に現れるシティポップのように切ないメロディを織り込んだセンチメンタルな音楽性が最高の聞き所となるはずです。曲の後半では、ゆったりとしたライブセッションのような感じに近づいて、ギター、シンセ、ドラムを中心としたヨットロックサウンドへと傾倒していく。

 

TOPSは、サブポップがリリースしたMurgo Guryan(マーゴ・ガーヤン)のコンピレーションアルバムに参加していた。カバーの影響が色濃く出たのが、アルバムの最後を飾る「Paper House」でしょう。TOPSらしいサウンドがフレンチポップと結びつき、最終的に魅惑的ですばらしいバロックポップとして昇華されています。上記のサウンドではお馴染みのチェンバロの音色が登場し、それらが聴きやすいポップソングに昇華されている。しかしながら、それは必ずしも懐古的なサウンドだともかぎらない。この最終曲にはTOPSらしい先進的な気風が盛り込まれている。モントリオールの開放的な感覚に満ちた国際都市の香りが漂っている気がします。


『Bury the Key』のサウンドの背景には、セントローレンス川のような風通しの良さがしたたかに織り込まれている。2020年代中盤のヨットロックやディスコポップの隆盛や流行を象徴づける劇的なアルバムが登場しました。

 

 

 

 

 90/100 

 

 

 

「Annihilation」 

 

 

 

▪TOPSのニューアルバム『Bury the Key』はGhostly Internatinalから本日(8/22)発売済み。ストリーミング等はこちらより。

Weekly Music Feature: Marissa Nadler


 

ナッシュヴィルのシンガーソングライター、Marissa Nadlerは、アメリカの首都、ワシントンD.C出身である。マリッサ・ナドラーは、これまで9作のアルバムを発表してきましたが、ほとんどのアートワークは白と黒の色調でデザインされ、モノトーンで統一され、ゴシックの世界観を打ち出して活動してきたといえる。同時に、ナドラーは歌手の他にも学生時代から絵画を専攻し、画家として活動を行っている。アーティストの公式サイトで絵画を購入することが出来る。

 

本日、マリッサ・ナドラーは、記念すべき10作目のアルバム『New Radiations』をリリースします。『New Radiations』を通じて、ナドラーは11曲の異世界的な楽曲からなる粗くも親密で息を飲むようなコレクションを提供しています。最初の一つの音から、ナドラーの豊かなボーカルと複雑なフィンガーピッキングが全面的に押し出されている。彼女は、エバリー・ブラザーズ風のハーモニーを夢のような孤独なサウンドスケープ——ファズのかかった歪んだディストーション、ハモンド・オルガン、そしてシンセサイザー——に重ねあわせて、その温かい脆弱性をテクスチャーと雰囲気により高めようとする。各トラックは、人生の一場面のようなエピソードとして展開され、カーテンが引き上げられたことで「強く響く」感情の重みを届けようとする。


『New Radiations』を通じて、甘いキャッチーなメロディと暗く生々しい歌詞の対比が深く刻にこまれている。「Light Years」において彼女は回想する。「昔は、あなたが流行の頂点だった。彼女を催眠術にかけることができた頃…、あなたは彼女の中に何光年を見ることができた。あなたは彼女と共にいたのだった」「You Called Her Camellia」では、語り手が嘆く。「これが取引ではなかった!(彼女の消えゆく姿)」と嘆いたかと思えば、『Smoke Screen Selene』では「私のように彼女に破壊されないように」と警告する。宇宙的な殺人バラード『Hatchet Man』では、寒気を感じさせるホテルシーンが描かれる。「天使が彼にそうさせた。そして彼は、私に見せた——彼は誰も彼女が消えたことに気づかないと思っていた」語り手は夜へと逃れていく。


このアルバムは、ナッシュビルのHaptown Studiosで友人のロジャー・ムートノットの協力を得て、彼女の自宅スタジオでレコーディングされた。ミキシングは、ランドール・ダン(アース、サン・オー)が手掛け、長年のコラボレーターであるミルキー・バーグスの繊細で没入感のあるアレンジが主な特徴となっている。うっとりするようなスライドギター、催眠的なシンセサイザー、荒々しいリフが折り重なり、音楽全体が海洋的な強度で波打つがごとく展開される。

 

マリッサ・ナドラーの過去2作のゲストアーティストを多く起用した作品とは対照的に、『New Radiations』は内省的で個人的なビジョンを提示している。ポップ、フォークをはじめとするジャンルを超越しつつも、彼女独自のスタイルを体現し、世界の騒音を美しさと荘厳さの瞬間に聞き手をとどまらせる。『New Radiations』は、単なるアルバムではないかもしれない——それはキャリアのハイライトであり、マリッサ・ナドラーの唯一無二のビジョンと芸術性の証でもある。

 

アルバムには奇想天外な着想もある。ロケット工学の父、ロバート・ゴダードに因む曲も収録されている。ナドラーはアルバムについて次のように明かしている。「作風は前のアルバムとは明らかに異なり、内省的で生々しく、個人的な作品である」という。「他の人々について歌った曲であろうと、他人と自身の生活に共通点を見出すような内容になっていると思います」といい、さらに「シンプルなアルバムである」と語る。また、このアルバムのサウンドは基本的にボーカルとギターが中心となっている。「前のアルバムには自分の演奏は使われず、他の人が演奏していました。そのために楽器とのつながりを取り戻したいと考えていました。ピアノは弾けるけれど、あまり上手ではないんです。単にそれは表現方法のひとつにすぎません」  

 

また、マリッサ・ナドラーは、実際のフォークミュージック中心の音楽性からは想像できないが、若い時代にはパンクやグランジに夢中になっていたという。それを止めたのが、彼女の母親だった。ナドラーは次のように話している。「10代の頃、グランジやライオット・ガール、パンクに夢中になっていた。しかし、私の母親はそれにうんざりしていました。高校三年生のころ、ジョニ・ミッチェル、キャロル・キング、レナード・コーエンを紹介してくれた」という。

 

作曲の過程について、ナドラーは次のように説明している。「特に、歌詞に一生懸命に取り組みました。何事にも全力で取り組むので、おそらくそれが原因で、夏の真っ只中に体調を崩しているのかもしれない。これらの歌詞には、いくつかの着眼点が存在しましたが、最初のテーマとは別の内容になりました。最初の曲では物語的な手法を曲の入り口として用い、後からその曲のテーマを決めるようにしています。例えば、”世界中を飛ぶ人について書く”と決めてから書くのではなく、それはアルバムのテーマについて物語るための道筋のようなものでした」 また、ナドラーは、アルバムの一番のお気に入り曲として「To Be The Moon King」を挙げている。

 

「この曲は、現代ロケット工学の父、ロバート・ゴダードから着想を得ています。彼に関する記事を読みましたが、彼は生涯をロケットを空に飛ばしたことに費やした」また、ナドラーは続ける。「これらの曲の中には、特定の人物について歌ったものもあれば、普遍的なテーマについて歌ったものもあるということです。アルバムの最初の曲は、最初に世界一周旅行を単独で行おうとした女性(注: ジャーナリストのネリー・ブライのこと。1889年に新聞社の企画で世界一周を成功させた)からインスピレーションを得ています。しかし、実際には、ある人を忘れたい、という気持ちについて歌っています。アルバムの最初の行は、”あなたを忘れるために私は世界一周旅行をする”という内容です。アルバムの最後の曲も誰かとの別れについて歌っています」

 

このアルバムについて、マリッサ・ナドラーは総括する。「もし、このアルバムを聴く時間を費やしてくれたら、テーマはそれほど難しくないことがわかってもらえると思う。同時に、多くの人々が本を読む時にそうするように、キャラクターを自分で想像してみたり、曲の意味を自分なりに解釈する余地をどこかに残しています。想像する余地があること、それこそが私の世代が幸福であった理由なのです」ナドラーは言う。「私は、アナログな子供時代を過ごしていた。私は本当に、CDやカセットテープのブックレットの媒体以外ではミュージシャンのことをよく知りませんでした。もちろん曲についても。しかし、現在はネットでインタビューを読んで、それらのことを簡単に知ることができますね。今では状況は大きく変化してしまいました」

 

 

 

『New Radiations』 - Sacred Bones/ Bella Union

 

  

最近は、国内外を問わず、マイナー・スケール(単調)の音楽というのが倦厭されつつある傾向にあるように思える。暗い印象を与える音楽は、いわば音楽に明るいイメージを求める聞き手にとっては面食らうものがあるのかもしれない。しかし、どのような物事も陰陽の性質から成立していて、つまり、光と影を持ち、明るさを感じる光というのも、それを何らかの対象物に映し出す影から生じる。音楽もまた、明るい印象を持つだけで真善美に到達出来ない。ダークな曲を恬淡に書き上げ、ブライトな曲と併置させるのが本物のシンガーソングライターである。例えば、ケネディ暗殺の時代にS&Gの名曲「Sound Of Silence」が支持されたのは、暗黒的な時代に、大学の友人を気遣うような二人のシンガーの作風がこの上なく合致したからである。

 

さて、ナッシュビルを拠点に活動を行うマリッサ・ナドラーは古き良きフォークシンガーの系譜に属する。彼女は、レナード・コーエン、ジョニ・ミッチェルのような普遍的な音楽を発表してきたミュージシャンに影響を受けてきた。暗い感情をそのまま吐露するかのように、淡々と歌を紡ぐナドラー。歌手は、物悲しいバラッドを最も得意としていて、それらの曲を涼しげにさらりと歌う。全般的には、このミュージシャンの表向きにイメージであるモノトーンのゴシック調の雰囲気に彩られている。ただ、そのフォークバラッドに内在するのは、暗さだけではない。その暗さの向こうから静かに、そしてゆっくりと癒やされるようなカタルシスが生じることがある。ナドラーのキャリアハイの象徴的なアルバム『New Radiations』は光と影のコントラストから生じている。学生時代から絵画を専門に専攻し、絵をサイドワークに据えてきた人物らしい抜群のコントラストーー色彩感覚がこのアルバムのハイライトになっているのである。

 

音楽という分野は紀元前から存在しており、それほど浅いものではない。年を経るにつれて、様々な見えなかった事実や印象が明らかになってきて、理解できなかったことがなんとなく分かるようになる。そのとき、ぼんやりと音楽という存在の正体が掴めてくる。それは理論的に解釈するというよりかは、ようやく腑に落ちたという感覚である。そして、それらの音楽に対する深遠な理解を、実際の作品に反映させてこそ、本当の音楽になりえる。多くの時代を超えた音楽家たちは、断片的であるにせよ、自分たちの理解を作品に真摯に込めてきた。 『New Radiations』は、時代を超えた魅力を持つアルバムで、ミッチェルの『Blue』に比するフォークバラッドの傑作である。一度聴いただけで、すべてが理解出来るアルバムは、多くの場合、大したものであったことは多くない。時間が経つと徐々に形骸化していってしまう。その点で、アートワークのイメージと合致するように、このアルバムにはミステリアスな謎が残されている。


ただアーティストが言うように難解な音楽ではなく、一度聴いただけでその魅力は伝わってくる。しかし、アルバムに込められたメッセージを掴むためには、音楽を待っているだけでは不十分で、聞き手が音楽や制作者の方に近寄っていかないといけない。「インスピレーションは待っているだけではやってこない。棍棒を持って追いかける」と言ったのは、船乗りの作家、ジャック・ロンドンであったが、本当に優れた音楽を本当に楽しむためには、時折、名画を鑑賞するときのように、作品の方に自分から背伸びをして近づかないといけないのかもしれない。

 

今作には単調の曲がきわめて多く、その合間を縫うように長調の曲が点在する。ぼんやり聴いていると、ナドラーの歌声が永遠にどこかに続いている気がする。アルバムの入り口から出口までを聞き手は歩いていくことになるが、その出口を出た後も、音楽的な情景がどこかにやきついているような気がする。アルバムを聞き終わってもまだ、聴覚の奥には、ボーカルがわだかまっている。そして、音の余韻に浸らせるというよりかは、外側の感覚が抜け落ちたような奇異な脱力感を覚えさせる。音楽そのものがだんだんと途絶えていき、最後には何も残らない、というとても珍らかな手法である。本で喩えれば、読後の独特なエモーションが残るという点で、きわめて文学的なアルバムと言えるかもしれない。残念ながら、ここでは、歌詞について注釈を設けて詳述するのは出来ないが、音楽的な方向から、アルバムのミステリアスなベールの向こう側に迫っていければと思っている。まず、マリッサ・ナドラーの音楽的なストリーテリングの手法とは、”すべてを明らかにせず、含みをもたせる”ことにある。アーティストの言葉を借りれば、”聞き手側に想像する余地をもたせる”ということになろう。例えば、何らかのプロパガンダ的な音楽は、これとは全く対照的である。聞き手側の想像を拒絶するのである。

 

 

「It Hits Harder」は他の収録曲の指針や基礎となる楽曲である。いってみれば、このアルバム全体の音楽性を決定づけ、紹介するようなイントロダクションである。イントロはアコースティックギターのフィンガーピッキングを中心とした優しい歌声のフォークバラッドで始まる。精妙な感じで始まるが、背景にシンセサイザーのシーケンスが敷き詰められ、フォークミュージックの背後にはアンビエント的な空気感が優勢になり、ドラマティックな質感を増していく。その音楽的なストラクチャーを強化するのが他でもない、ナドラーの歌声である。この曲の場合は、ボーカルを重ねることで、その声の印象はコラール風のチャントへと変わり、賛美歌のような印象を持つようになる。ボーカルの2つの録音を対比し、十分な空間的な奥行きのあるリバーブ/ディレイを用い、音楽の印象を広やかにし、音像全体を少しずつ拡大させていく。そして、その間には、ファジーなロックギターがアレンジで取り入れられ、フレーズの節目の調性や和音の縁取りを行っている。静けさと騒がしさが混在する奇異な音楽が、アルバムの最初のイメージを形成している。そして音楽的には、この曲は単調で始まるが、細かなセクションの中で、長調に変わったり、単調に戻ったりというように、幅広い和声感覚が発現している。基本的な音楽は、単調だけで終わることもなければ、長調だけで終わることがない。いわば音楽やポピュラーソングの基本的なルーツに回帰したような素晴らしいオープナーだ。

  

日本には、かつて”ムード歌謡”というジャンルがあった。戦後、アメリカの文化が日本に紹介される中で、映画音楽と演歌のスタイルをかけ合わせるというものだ。シティポップなどの音楽には明確にムード歌謡の影響がどこかに残っている。このアルバムには、いくつかそういった類の音楽が見いだせる。二曲目「Bad Dream Summertime」は、映画音楽とポピュラーの融合体で、ムードたっぷりの曲である。 どちらかと言えば、大瀧詠一や細野晴臣のような音楽性を微かに彷彿とさせる。この曲は、ハワイアン音楽のようなリゾートの雰囲気に包まれ、スライド・ギターがムードたっぷりに鳴り響き、その枠組みの中で、ナドラーらしい音楽が繰り広げられる。アコースティックギター、ボーカル、スライド・ギターを重ね、それらの音楽的な枠組みとして、幻想的なボーカルを披露し、バカンスやトロピカルなムードを強調している。ヴァース→コーラスというシンプルな構成だが、コーラスの箇所では曲の夢想的な感覚があらわとなる。その中で、心地よさと悪夢が混在する微妙な感覚が感情を込めて歌い上げられている。

 

三曲目の「You Called Her Camilla」は、レナード・コーエンの系譜にある、古き良きタイプのフォークソングである。アコースティックギターの分散和音が涼し気に鳴り響き、そして、ナドラーはメロディーを丁寧に歌い上げようとしている。その中には、ビートルズの主要曲のような王道のポピュラーの和声進行も含まているが、特にコーラスの箇所に琴線に触れるものがある。そのムードと呼応するように、スライドギターのような楽器が入ってくる。音楽がどのような感情性を呼び起こすのかを歌手は熟知しており、その感覚の発露に合わせて、使用する楽器も変わってくる。楽器が感情を表現するための媒体であるということを歌手は理解しているのである。また、この曲も同様に、イントロからヴァースにかけては長調が優勢であるが、徐々に曲風が変わり、コーラスの箇所では半音階進行の単調のスケールが顕著となり、和声の解決やカデンツアに向かい、切ない余韻を残しながら、ほんわかするような安堵感をもたらす。この曲を聴けば、ナドラーの人生観のようなものを読み解くことが出来るのではないだろうか。

 

四曲目「Smoke Screen Selene」は、20世紀のフランスの古典的なモノクロ映画のようでもあり、また、 「ゴッドファーザーのテーマ」のようなピカレスク・ロマンが反映されているように思える。ここでは、音楽そのものがよりミステリアスな雰囲気を帯び、映画音楽のオーケストラストリングスが模擬的に導入され、そして映画館の暗闇の中で古典的な映画を鑑賞するような雰囲気が出現する。その煙の向こうにあるスクリーンには何か見えるのか。アコースティックギターはミステリアスな音楽性を反映させ、そしてボーカルはそのアトモスフィアを助長させる。

 

特に中盤のハイライト曲として「New Radiations」を挙げておきたい。 ゴシック的な雰囲気もあるが、フォーク・バラッドの歴代の名曲と言っても良いかもしれない。ダークでミステリアスなイメージから一転して、空を覆っていた分厚い霧が晴れわたるようにアコースティックギターとボーカルがイントロから続く。その中で、曲は、明るさと暗さの間にあるミステリアスな領域をさまよい、そして、ナドラーのボーカルは浮遊するかのようにふわふわしたような印象を抱かせる。しかし、この曲はアルバムの中で最もシリアスな雰囲気をどこかにとどめている。この曲でも2つのボーカルを対比させて、明るさと暗さのコントラストをうまく描いている。


全般的なアルバムの作風の共通点として、「同じ人間が作っているので........」と断っているナドラーではあるが、一つの曲の中で、別の人物を登場させるような多義的なボーカルが傑出している。そして、歌手の記憶に向けて歌われるかのようなコーラスの部分は、過去の自分に向けたレクイエムのような悲しげな興趣を持つ。過去の自分へのささやかな別れを告げるような感覚は、このアルバムの最初の曲、そして最後の曲の共通のテーマである''惜別''という考えと合致する。そして、実際に、そのボーカルを聴いて確かめてもらいたいが、じっくり聴くと、迫真ともいうべきハイライトとして聞き手の脳裏に残りつづける。歌手としての迫力を感じさせる。そして、その歌声の後、間奏の箇所では、シンセサイザーのソロが深い物悲しさを漂わせる。

 

 

 「New Radiations」

 

 

 

アルバムは二部形式で構成される。5曲目までが第一部で、6曲目以降は、第二部として聴くことが出来るはず。一つの作品なので、大きく音楽性は変わるわけではない。しかしダークなイメージを持つが、その中に現れる心温まる感覚が後半では強調され、アルバムの終盤部に向かって繋がっていく。「It's An Illusion」も素晴らしい一曲で、牧歌的なフォークバラッドを通じて、悲しみや喜びを始めとする複雑な感情の機微を丹念に物語ろうとする。一貫して物悲しさも感じるが、ときに、ほろりとさせる琴線に触れるフレーズが登場することもある。さらにその感覚を引き立てるかのように、ファジーなギター、ロマンティックなハモンドオルガンのシンセ、スライドギターなどが、シンガーの歌をミューズのごとき印象で縁取る。最短距離でバンガーの曲を書こうとするのではなく、作品をじっくりと作り上げていったことが、こういった良質な楽曲を完成させる要因になったのかもしれない。このあたりのいくつかの曲はミュージシャンとしての完成ともいうべき瞬間なのではないか。驚くべき聴き応えのある曲である。 

 

「Hachest Man」は、ピカレスクロマンの曲である。「天使が彼にそうさせた。そして彼は、私に見せた——彼は誰も彼女が消えたことに気づかないと思っていた」という歌詞を織り交ぜ、ミステリー映画のような音楽を出現させる。それはまるでマリッサ・ナドラーという人物を中心に繰り広げられる一連のミステリアスな群像劇のようでもある。この曲もイントロはダークな雰囲気だが、コーラスの箇所「I was in over my head(どうしようもなかった)」という箇所では、長調に変わり、切ない雰囲気を帯びる。そして、単調と長調を巧みに織り交ぜつつ、曲はつづら折りのように続き、アウトロに向かっていく。その感情の発露がすごく簡素なものであるから、胸に響くものがある。アウトロではシンセサイザーのストリングスが入り、ふと涙ぐませるものがある。歴代のポピュラーソングと比べても遜色がない素晴らしい楽曲となっている。

 

アルバムの後半に向かうにつれて、このアルバムの音楽は荘厳な雰囲気に包まれ、天上的な音楽性が出現する。「Light Years」は文句なしのフォークミュージックの名曲である。ナドラーはこの曲において、ジョニ・ミッチェルの全盛期に匹敵する音楽性を作り上げた。牧歌的なフォークミュージックの系譜を受け継いだ上で、ロマンティックな雰囲気を添えている。ゆったりとしたアコースティックギターとボーカル、楽園的な趣を持つスライド・ギター、その全体的な音楽の枠組みを印象づけるシンセサイザー等、すべてが完璧に混在し融合している。ミックスなどの側面も傑出しているが、何より曲そのものが素晴らしく、非の打ち所がない。


ナドラーの全般的なソングライティングは、サイモン&ガーファンクルが「Sound Of Silence」を書き上げた時とほとんど同じように、個人的な出来事やパーソナリティから出発しているが、それが社会的な性質と直結していることに感動を覚える。「Weightless Above The Water」は、このアルバムの中で最もダークな曲である。サイモン&ガーファンクルのように茫洋的なロマンスに満ち溢れた良曲である。それは以前の男性的な視点から女性的な視点へと変化している。これは時代の変化とともに、フォーク・ミュージックがどのように変化したのかを知るためのまたとないチャンスである。

 

マリッサ・ナドラーが''一番重要な曲である''と指摘する「To Be The Moon King」は、先にも述べたように、ロケット工学の父にちなんだ一曲である。この曲は、アルバムの最後の曲「Sad Satellite」と連動するような機能を果たし、アルバムの最初の曲、そして最後の曲とも呼応しながら、悲劇的な側面を暗示している。同時に「バラッド」という音楽形態が、ヨーロッパの中世時代の一般階級の女性を中心とした「恋歌」から生じているのを考えると、これほど理にかなった音楽は存在しない。しかし、その中で、最も音楽を強固にしているのが、それらの歌詞が基本的には、''個人的な出来事から出発している''ということ。時にそういった個人的なことを歌った方が、社会的な意義を持つという先例はいくつも存在する。 こういった曲は、個人的な感覚に共感を誘うような意味もあり、広義における社会を俯瞰するためには不可欠な音楽と言える。仮に社会という形態が個人意識の集積体であることを考えれば。

 

アルバムの終曲「Sad Satellite」は悲歌の寂しいような感覚を単調のフォークミュージックで縁取っている。そしてやはり、アルバムの冒頭部のように賛美歌のようなボーカルワークが顕著である。思い出の中にある悲しみを浄められた感情で鎮めようとするためのある種の儀式。しかし、基本的には暗い感覚に満ちているが、その向こうには、それとは対象的な音楽の世界が満ち広がっている。このアルバムは''悲歌という形式の真髄''を意味するが、それと同時に、対照的な楽園的な世界を描出している。これは実は、画家ナドラーの絵画には見受けられない作風なのが面白いと思う。耳を澄ますと、美しく、どこまでも澄明な音楽の世界が無限に広がり、そして、それはときおり絵画的な領域に差し掛かることがある。アウトロのフェードアウトを聴いて、なにか脱力感があるのは、その音楽の持つ世界が息を飲むほど美しいからなのだろう。

 

 

 

95/100

 

 

 

 

 

「Light Years」

 

 

 

Marissa Nadlerのニューアルバム『New Radiations』は本日、Sacred Bones/Bella Unionから発売されました。ストリーミングはこちらから。

Weekly Music Feature: Tommy WA


ガーナ/アクラのシンガーソングライター、Tommy WÁは、2025年新作をリリースした中で最も才能を感じさせる。トミーはコンテンポラリーなアフリカンフォーク、インディー、レトロなソウルを融合させ、アフリカ大陸の広大なサウンドスケープを通して、唯一無二の芸術的なサウンドを確立している。 彼の音楽のカクテルは、トミー・WÁのルーツであるナイジェリアを効率よく巡り、彼が拠点を置くガーナのコスモポリタン、アクラの音楽的な欲求に応えてみせる。


トミー・WÁの音楽には多彩な世界が満ち広がっている。 このアーティストの主要な音楽は、ボン・イヴェールやマイケル・キワヌカのきらびやかな雰囲気を想起させるが、そのルーツは20世紀半ばのアフリカ民謡に求められる。 原始的なフックと鮮やかなストーリーテリングによって表現される彼の音楽は、時代、スタイル、大陸を跨いでいるが、その核心には普遍性がある。 ハチミツのような魅力的な歌声と、即効性のあるフックを得意とするソングライターである。


新作EPの題名『Somewhere Only We Go』は、このシンガーと彼のコミュニティがガーナで立ち上げたフェスティバルの名前だという。シンガーソングライターは、ブライトンの「グレート・エスケープ」の名前を聞き、勘違いをして、田舎の隠れ家を想像し、このプロジェクト名を思いついた。「このイベントには逃避行というテーマがあった」と彼は説明する。奇遇にも、彼はそのフェスティバルでダーティ・ヒットに才能を見出され、2024年に契約にこぎつけた。

 

今日、10年前から彼が温めていたアイディアがようやく日の目を見ることになる。今回のEPで、彼がガーナのみならずアフリカのことを伝えようと試みている。トミー・WÁは次のように回想する。「すべては良いタイミング、つまり神のタイミングで出来事が起こる。その人生を生き抜くために十分な時間が私には与えられた。そして、もちろん、それを分かち合うことも出来た。生きていない人生を私は分かち合いたいのではない。私はアフリカが真実であることをよく知っている。それは私が偶然見つけたものではなかった。何年もかけて作り上げたものだ」

 

彼は言う。「私はいつも”自分の周りの人のこと”を音楽として書いてきた。デビュー作に向けて取り組んできたが、デビューというのを気にしないで取り組んだつもりです。内省的な曲も結構書きますが、トミー・WAという自己だけにポイントを絞った内省的な考えはまだ明らかに出来ていないという気がしています」 また、彼は、自分だけのために音楽を作っているのではない。「子供が”自分”として生まれてくるのではなく、家族の一員として生まれてくるのを思うと、自分の真実を語る以前に、家族の視点から物語を語る方が良いと感じています」トミー・WAの考えは、もちろん、コミュニティを越え、より大きい国歌的な視点に至る場合もある。アフリカの現状、それからアフリカの真実について物語るため、彼の音楽は実在する。「多くの人がアフリカやアフリカに住むことについて狭い考えしかもっていないのではないかと思う。他の現実が存在するんだということを伝えなければ、ひどく損をするような気がする」

 

ミュージシャンにとって音楽をやることはどんな意味が込められているのか。トミー・WAは次のように明かす。「ある種のストーリーを共有することです。また、人々が自由に生きたり、自分の一部を隠そうとせず、正直に生きるように動機づけすることを手助けするものであると思っています。私の友人の幾人かは、私の音楽を家やドライブのような場所で楽しんでくれています」 

 

このシンガーソングライターにとって、音楽とは、それほど非日常的なものではなく、暮らしの中にある当たり前のものとして存在してきたことを伺わせる。それを裏付けるかのように、トミー・WAは次のように語る。「たとえば、歯ブラシで歯を磨くことを異常だとは考えないでしょう? それと同じく、音楽は私にとって生活に欠かせないものだ。それについては特に深く考えもしなかった。ガーナ、ナイジェリアのフェスティバルやショーで、多くの人がアフロビートやポップソングを演奏する中、僕はギターを抱えて、ただ、ステージに突っ立って、『やあ、僕はトミー・ワー。これは普通のことだ。みんな楽しんでくれ!』なんて言っていた。それがすべて。僕の出演の後は、ハードコアなヒップホップや流行のポップソングになった。でも、それで良かった。自分はショーのスターターとしてフェスティバルに出演していた」


淡々と音楽活動を行っていたトミーだが、近年では以前に比べて音楽に対する見方が鋭くなった。「今年、私は30歳になります。時間が増え、責任も減った。生き方がより冒険的になり、リスクを冒すこともいとわなくなった。私と同じくらいの年代に至った人々は、別のプロジェクトが用意されている。次のプロジェクトは、彼らのためのもの。私達はみな異なる国に引っ越し、私自身はイギリスでのショーを行うようになり、人間関係に変化が生じた。友人や家族と過ごす時間が減ってしまった。音楽にじっくり取り組んでいた頃から今に至るまで状況が著しく変化している。このプロジェクトでは人生がどう変化したのかを強調づけたかったんだ」

 

 


Tommy WÁ  『Somewhere Only We Go』EP - Dirty Hit

 
 
植民地化された国家は長い敗戦の時代を送ることを余儀なくされる。それは時折、100年もの月日を植民地化された国家として費すことになる、という意味でもある。19世紀から20世紀にかけて、ガーナは長い植民地支配に甘んじていた。ケニア、ウガンダを始めとする地域に大英帝国の支配の手が及び、この土地全般では、一般的な市民を啓蒙するための活動が行われていた。特に、この基幹的な産業として開始されたのが、「バンドゥー映画ユニット」だった。これはアフリカの都市部に映画産業を発展させ、経済発展を成長させようという目論見であった。
 
 
20世紀を通じて、ガーナ/アクラはその映画産業の一大拠点となり、「ゴールド・コースト・フィルム・ユニット」と呼ばれる映画施設が設立された。これは「ガーナ版ハリウッド」ともいうべき、国際的な映画産業で、地元の俳優も育成された。これらの産業は一度は成長したが、結局のところ、宗主国から義務付けられたものに過ぎず、地元の人々には根付かなかった。


ガーナの市街地には、多くの映画館が建設され、一時は殷賑をきわめたものの、20世紀の末葉には、それらの商業施設は次々と閉鎖していった。結局のところ、自発的な文化を成長させぬかぎり、その文化が土地に定着したり根付くことはない。これらは、ナショナリズムのように見えるかもしれないが、実はまったく似て非なるものである。21世紀に入り、長い植民地化の時代を越え、ガーナ、ひいてはアフリカ全体は真に独立した文化を構築しようとしている。
 
 
2025年はアフリカをルーツとするミュージシャンの活躍が目立っている。かつてのジャポニズムのように、物珍しさによる視線がアフリカに向けられたという意味ではない。これはおそらく、現時点の世界情勢を如実に反映しているのかもしれない。単一の覇権国家が世界を牛耳る支配構造は衰退し、多極主義が今後の世界の主流となりうるのではないかということは、多くの国際政治学の研究者の指摘している。アフリカ諸国はBRICSと足並みを揃えながら、今後は独立し、独自的な発展を遂げていくことが予測される。そんな中で、リリース元はイギリスのDirty Hitということで因縁を感じるが、Tommy WÁのようなミュージシャンが出てきたのは時代の要請とも言え、必然的な流れを汲んでいる。彼は、新しい時代のアフリカの体現者でもある。
 
 
ただ、彼はアフリカの負の部分に脚光を当てようというのではない。アフリカの原初的な魅力、今なお続く、他の土地から見えない魅力を、自然味に溢れた歌声で伝えるためにやってきた。Tommy WÁの素晴らしい歌声は、オーティス・レディング、サム・クック、ジェイムス・ブラウンのような偉大なソウルシンガーのように、音楽の本当の凄さを伝えるにとどまらず、それ以上の啓示的なメッセージを伝えようとしている。高度に経済化された先進国、そして、頂点に近づこうとする無数の国家の人々が散逸した原初的なスピリットと美しさを持ち合わせている。 

 
今年レビューした中で、『Somewhere Only We Go』は最も素晴らしい作品だ。アフリカの夕陽のように澄んだ輝きを持つ「Operation Guitar Boy」は、アコースティックギターの弾き語りで繰り広げられる簡素なフォークミュージックである。最初の一秒から音楽に魅了されずにはいられず、ボブ・マーレーに匹敵する劇的な歌声が披露される。イントロからヴァースを通じて短いフレーズが淡々と歌われ、繊細でセンチメンタルな歌声が披露される。一方で、コーラス(サビ)のオクターヴ上のファルセットは、どこまでも雄大だ。ジャケットのアートワークと呼応するかのように、水辺の小さな船で親しい家族や友人を目の前にして歌うアフリカ独自のフォークミュージックが展開される。親しみやすくて、崇高さがあり、大きな感動を誘う。アコースティックギターの演奏にも感嘆すべき箇所があり、スライドギターのようにフレットの間をスムースに滑るフレーズが、和音の演奏の合間に組み込まれ、それが奥行きのあるボーカルと絶妙に融和している。”Never Never Never Gonna Away”と歌われるコーラスの箇所は、まことに圧倒的であり、息を飲むような美しさが込められている。ボーカルの音量的なダイナミックな変化も大きな魅力となる。ビブラートの微細なトーンの変化を通し、勇壮さや切なさを表現する。サウンドプロダクションの方向性やプロデュースに依存しない本物のボーカルである。
 
 
一曲目は音楽そのものの自然さを体現している。二曲目「Celestial Emotions」では、エレクトロニックのサウンドをイントロに配している。アンビエント風のイントロから始まり、その後はジャック・ジャクソンのように緩やかなフォークミュージックが始まる。とりとめのないように思えるギターの演奏は、一転してアルトの音域にある歌声によって、音楽性そのものがぐっと引き締まる。その後、現代的なネオソウルの音楽に近づき、エレクトロニックとアコースティックを混在させたムーディーなフォーク・ミュージックが繰り広げられる。ドラムのリズムが心地よく響くなか、トミーは、間の取れたボーカルを披露している。この曲を聴けば、Tommy WÁの音楽が必ずしも古典性だけに焦点を絞ったものではないということをご理解いただけるはず。また、歌い方にも特徴があり、独特の巻き舌の発音が音楽に独自性を与えている。アフリカの伝統音楽には独特な発音方法があり、それを巧みに取り入れている。そして音楽的な構成にも工夫が凝らされている。途中からボンゴの演奏によって変拍子を取り入れ、音楽が一挙にアグレッシヴになり、舞踏的な音楽に接近していく。アフリカ音楽は、ポリリズムの複合的なビートが特徴であるが、それらの要素を取り入れ、華やかなコーラスが音楽を決定づける。トミーを中心とする歌声は、やはりアフリカ大陸の雄大なイメージを呼び起こす。アウトロの渋みのあるボーカルは、往年の名ポピュラー歌手の持つブルージーな感覚が存在する。

 
 
このアルバムの全5曲は、ほとんど同じような音楽形式で展開されるが、その実、実際の音楽性はまったく異なる。タイトル曲「Somewhere Only We Go」は、彼のアクラ時代の友人に向けて歌われている。それらは結局、自分を支えてくれた家族や共同体に対する大きな報恩や感謝である。ドラムで始まるこの曲は、リズムの面白さもあるが、アフロ音楽の色合いが最も強固だ。現地語の訛りのある発音を通じて、友人たちへの惜別が歌われることもある。しかし、トミーの歌声は、湿っぽくならない。友人の旅立ちを祝福し、それらを心から応援するかのような力強さに満ちている。これが友愛的な音楽性を付与し、なにかしら心温まるような音楽性を発現させる。しかし、それはセンチメタリズムの安売りに陥ってはいない。友人の存在を心強く思うたくましさがある。この曲には、ジャマイカのレゲエ音楽の要素も入っているが、それは模倣とは縁遠い。このシンガーの独自の独立した存在感を読み取ることが出来る。この音楽は、おそらくエリック・クラプトンが一時期ソロアルバムでやっていたような渋い内容であるが、それを彼は30歳くらいでやっている。驚きなどという言葉では語りつくすことが出来ない。
 
 
 
 
 「Keep On Keeping On」
 
 
 
 
近年、全般的には、ヒップホップやソウルというジャンルの棲み分けにより、ブラックミュージックそのものが矮小化されていることが多く、それが淋しい。本来ではあれば、ブラックミュージックは、一つの枠組みに収まり切るような小さなものではない。Tommy WÁの音楽は、そういった枠組みやレッテルを覆して超越するような力が内在している。アフロ・フォーク「Keep On Keeping On」は、アフリカの民謡の現代的に伝えている。ボーカルのメロディーには琴線に触れる感覚がきっと見つかるはずである。そして、そのシンプルで美しいメロディーを上手く演出するのが、オーケストラのストリングス、アフリカの独自のコーラスワークである。


ここには、地域という概念を超えた”ヨーロッパとアフリカの融合”という素晴らしい音楽の主題を発見出来る。トミーのボーカルは、録音からも声量の卓越性が感じられ、それは最近のプロデュースが優勢な音楽作品ではついぞ聴けなかったものである。中盤以降のボーカルについては、10年に一度出るか出ないかの逸材の才覚が滲み出ている。和声的にも心に訴えかける箇所があり、4分以降の転調の後、曲はサクスフォンの演奏に導かれるように、ジャジーな空気感を放つ。以降のボーカルのビブラートの美しさは比類なき水準に達し、崇高な趣を持つ。彼は音楽全体を通じて歌唱方法をそのつど変化させ、ものの見事に音楽のストーリーを作り上げていく。それはまた、明文化されることのない、音楽独自のストーリーテリングの手法なのである。
 
 
Tommy WÁの人生観は、様々な価値観が錯綜する現代社会とは対象的に、シンプルに人の生き様に焦点が当てられている。個人が成長し、友人や家族を作り、そして、老いて死んでいく。そして、それらを本質的に縁取るものは一体なんなのだろう。この本質的な事実から目を背けさせるため、あまりに多くの物事が実相を曇らせている。そして、もちろん、自己という観点からしばし離れてみて、トミーが言うように、大きな家族という視点から物事を見れば、その実相はもっとよくはっきりと見えてくるかもしれない。家族という考えを持てば、戦争はおろか侵略など起きようはずもない。なぜなら、それらはすべて同じ源から発生しているからである。


このミニアルバムは、音楽的な天才性に恵まれた詩人がガーナから登場したことを印象づける。「God Loves When You're Dancing」は、大きな地球的な視点から人間社会を見つめている。どのような階級の人も喜ばしく踊ることこそ、大いなる存在が望むことだろう。それはもちろん、どのような小さな存在も軽視されるべきではなく、すべての存在が平らなのである。そのことを象徴づけるかのように、圧巻のエンディングを成している。音楽的には、ボブ・ディラン、トム・ウェイツ、ジプシー・キングスの作風を想起させ、ミュージカルのように楽しく動きのある音楽に支えられている。ボーカルは、全体的に淡々としているが、愛に包まれている。個人的にはすごく好きな曲だ。もちろん、彼の音楽が時代を超えた普遍性を持つことは言うまでもない。このようなすばらしいシンガーソングライターが発掘されたことに大きな感動を覚えた。
 
 
 
 
96/100 
 
 
 「God Loves When You're Dancing」
 
 
▪Tommy WÁ -『Somewhere Only We Go』はDirty Hitから本日発売。ストリーミングはこちら


 

UK/ダーラムのロックバンド、Fortitude Valleyは、BBC Radio 6で楽曲のオンエア経験を持つグループ。The  Beths、The Go-Go's、 Pavementなどのサウンドに触発を受けてきた。バンドは、ロス・カンペシーノス!、アロ・ダーリン、グルーフ・リース、ザ・ウェーブ・ピクチャーズとステージを共にしてきた。ローラは以前、サイケデリック・ポップ・バンド、タイガーキャッツで活動しており、バンドにはマーサやファスト・ブラッドのメンバーも参加している。パンクやパワーポップ、インディーポップのエッセンスをくまなく吸収したインディーズサウンドが特徴である。


フォーティテュード・バレーがセルフタイトル・デビューをリリースしてからおよそ4年が経過した。それはたぶんバンドにとって必要な時間だった。本日リリースされたセカンドアルバムは、ロックダウン、ロジスティクス、他にも多くのことを考えながら作り上げられた。 今回はこれまでとは違う。じっくりと念入りに作り上げたため、奇妙な自信と自負に満ちている。現在のラインナップは、ローラ・コヴィック - ギター、ヴォーカル、キーボード、デヴィッド・ヒリアー - ギター、ナオミ・グリフィン - ベース、ネイサン・ステェファンズ・グリフィン - ドラム、パーカッション、ギター。


バンドの曲制作を担当するソングライターのローラ・コヴイックはアルバムの制作について次のように明かしている。 「フィラー・ソング(間に合わせの曲)を入れたくなかった。可能な限り良い曲を作ることに集中し、良くないと思った曲はカットした」という。 メロディーは相変わらず温かく心地よい、エッジはより鋭く、ギターはより歯ごたえがあり、意図はより明確だ。


作曲は2023年初めに始まったが、レコーディングはほぼ1年ごとに2回に分けて行われた。 無理に急ぐことはなく、それが制作の重要なポイントでもあった。 「時間がたくさんあったから、見た目やテーマなど、もう少し慎重に見直すことができた」 その意図的な感覚は至るところに散りばめられているが、決して堅苦しくは感じないはずだ。 それは、すべてのアイデアを二の次にするのではなく、自分の直感を信じることから生まれる明晰さのようなもの。 バンドはノッティンガムのJT Soarでフィル・ブースとレコーディングを行った。彼は何も電話させなかった。


 「フィルは素晴らしくて、たくさんの意見やアイデアをくれた。 彼が提案したことは、ほぼすべて実現したと思う。週末は2日だけで、そのあと私とデイヴ(ギター)は追加のギターを弾くために週末にスタジオに行った」


もちろん、完璧主義的なサウンドディレクションにはそれなりの困難が伴った。 「デイヴは偏頭痛持ちだった。 彼はかなり複雑なソロを書くし、自分を追い込むのが好きだから、レコーディングは難しい側面もあった。 だから何度もテイクを重ねなければならず、かなりストレスを感じていた。 それでも、その努力は表れている。 素晴らしいサウンドで、みんな本当に満足している」


『Part Of The Problem, Baby』はFortitude Valleyらしいサウンドだが、よりラウドになっているという。 デビュー作が優しくインディー・ポップに傾倒していたのに対し、今作はフックの効いたギターとライブワイヤーのようなロック・エネルギーで聴く者を惹きつける。


 「それは自然なこと。 バンドに曲を持って行って一緒に演奏すると、デモとはまったく違うサウンドになることもある。 その多くの理由は、アルバムとアルバムの間にパンキッシュでヘヴィなバンドを好んで聴いていたからだと思う。 でも、ギターでもっと自分を押し出そうとしたからでもある」


リリックの面でも工夫が凝らされている。他者との距離、自己のアイデンティティや成長といったテーマを無意識に織り交ぜている。 「テーマを決めて曲を書いているわけではありません。 なんとなく歌詞が頭に浮かんでくるんだけど、最後には共通する糸が見えてくることがあった」オーストラリアからロンドン、そして、ダラムへと移り住み、COVIDで家族と離れ離れになり、10代の脳みそを持ったまま大人になるという奇妙な余韻が心のどこかにわだかまつている。


オーストラリアに戻ったことで、その糸がより鮮明になった。「あるとき、10代の頃の古い日記を見つけたんだ。 いつも''イギリスに引っ越したい''と書いていた。 そして今、オーストラリアはとても素敵だと思っている。『サンシャイン・ステイト』では、「大げさに言うつもりはないけど、もう二度と恋はしない」という一節が、その日記から引用されている。 「ティーンエイジャーの頃はたくさんのホルモンや感情を持っていて、何もかもがドラマのようだった」


もちろん、今考えるとそれは少しこそばゆい感じもなくはない。昔を振り返ってみると、彼女は苦笑せざるを得ない。「10代の頃の私はなんでも我慢できなかった。 でも、若い頃はライブに行ったり、レコードショップでバンドを見たり、音楽に夢中でした。 その激しさにはちょっと憧れてしまう」


最も静かな感動を与えてくれる曲が「Into The Wild」に他ならない。この曲はローラにとって思い入れのある曲なのだという。「この曲は10年前、ウクレレ時代に書いた。 10曲目が必要だったのだけど、ネイサンがなぜかこの曲を覚えていたの。 アーカイブから掘り出し、ギター用に作り直してみた。 コードをいくつか変えて、ミドルエイトを加えました。歌詞はそのままだったけどね」 それから長い時間が流れた。にもかかわらず、違和感はほとんどなく、あるべきところに収まった。「私の人生の中で違う場所だったけど、それでもフィットしているはずだよ」とローラは言う。




Fortitude Valley 『Part of The Problem, Baby』- Specialist Subject

 

フォーティテュード・ヴァレーのセルフタイトルのデビューアルバムは、Pavementのようなアルトロックが主な特徴だった。その中には、The Beths,Alvvaysのようなポップサウンドを内包させていた。二作目は音楽性が明瞭になり、マスタリングの側面でも音がクリアになっている。それによるものか、ローラのボーカルのメロディーの青春時代を思い起こさせる甘酸っぱさは言わずもがな、バンドサウンドとしても全体的な意図が明らかになっている。このアルバムは、現代的なテイストを持つパワーポップソングを中心に繰り広げられる、ダーラムのロックバンドのドキュメント的な記録である。その親近感のあるインディーロックサウンドは、シカゴのBeach Bunnyに近いかもしれない。センチメンタルなメロディーの雰囲気を保ちつつも、ライブ・バンドとしての空気感のどこかに残している。

 

今作ではメロディックパンクの影響が反映され、楽曲はよりシンプルになっている。スリーコードやパワーコードのギターを多用し、ボーカルのメロディラインを浮き立たせるようなサウンドが特徴だ。バンド全体の演奏は、ボーカルと駆け引きをし、アンサンブルが主体になったかと思えば、ボーカルが主役にもなる。変幻自在なサウンドだが、バンドのソングライティングやレコーディングは、「何を聞き手に聞かせたいか」が明らかにされている。結局のところ、どれほど作曲や音楽性が優れていても、また、演奏が巧みだとしても、それが意図したような形で聞き手側に伝わらないとしたらとても惜しいことだ。音楽がどのように聴かれるのかを把握し、そして曲に磨きをかけていく。基本的なことに過ぎないが、この繰り返しの作業は良いレコードを制作する際に欠かすことができない。そしてもちろん、多くの場合は、ミュージシャンの方が一般的なリスナーよりも音楽的な理解力はあるだろうと思われるが、それほど詳しくない音楽ファンにも取っ掛かりのようなものを用意しないと、どうしても作曲や録音は独りよがりになってしまう。

 

その点、このアルバムは最近聴いた中では最も協調性のあるロックソング集である。もっと高度なことも出来たのではないかと個人的には思うのだが、聞き手の多様な音楽的な理解力に合わせ、最小公約数を探したという感じである。つまり、バンドメンバーがあまり良くないと思う収録曲をカットしたというだけではなく、楽曲の側面でも、余計な箇所を徹底して削ぎ落とし、最小化し簡素化している。西海岸の2000年代のポップパンクのような作曲の簡素さ、そして、それらが現代的なインディーロックのファンシーな感覚に縁取られている。それは少し昔の事例になってしまうが、Fastbacksのようなメロディアスなパンクバンドのような温和な雰囲気を持ち合わせている。楽曲のベースに流れているのは、パンクロックであると思うが、それらがパワーポップやガレージロック、インディーポップを通じてアウトプットされる。結果的には、フレンドリーでキャッチーなロックソングが出来上がるというわけなのだ。

 

ただ、一般化されたロックソングの欠点としては、それらがニュートラルにならざるを得ない、ということである。一般化とは、音楽の網や裾野を広げるということで、換言すれば、一つの焦点に絞った音楽とは対象的に、先鋭的な側面を削ぎ落とし、均等にしていく行為にほかならない。それはより詳しく言うと、親しみやすく、聴きやすいけれど、その反面、欠点としては、すぐ飽きてしまうという弊害をもたらす。しかし、多くの成功した世界的なロックバンドは、なぜかしれないが、こういった均一化された曲を制作しても、音楽そのものが一辺倒にならないし、平坦にもならない。これは本当に不思議でならない。まるで彼らの紡ぐ出す音楽は、ドキュメントや映画のようにドラマティックに映る。また、音楽自体はフラットなのに、静かに聞き入らせる集中性がある。集中性というのは、聞き手から見れば、説得力とも言える。どういう点が音楽に説得力を与えるかと言えば、リアルな体験や人生観しかない。


バンドの場合、個人的な経験を他のメンバーと共有することが大切だ。そういった他者との共有をする時には、複数の人間の中に自分と違う性質を許容したり認めるための懐深さが必要になるのは、言うまでもない。


バンドやコラボというのは友人関係を構築していくのに良く似ている。最初は共通する点の共有から始まり、最終的には、相容れない点の共有へとたどり着く。その中では不和や喧嘩だって起こり得る。しかし、もし自分とはまったく違う点があると、はっきりと認めたとしても、最終的にそれは人間的な衝突や齟齬をもたらすわけではない。いや、それとは対象的に、融和をもたらすのだ。もちろん、こういった領域にまでたどり着いた人々は少ないのではないかと思われる。だが、それこそ、バンドやコラボレーションをすることの意義なのではないだろうか。フォーティテュード・ヴァレーのセカンド・アルバムの楽曲は、そういったことをありありと感じさせる。他者の個性を尊重することが、このアルバムの重要な核心をなす。シンガーソングライターのローラは、そのための道筋を示し、バンドメンバーと肩を組んでゴールを目指す。

 

『Part of The Problem, Baby』はオープニング「Everything Everywhere」を中心に、個人的な感覚や追憶を複数のグループで共有し、それらを的確なロックサウンドに絞っている。ボーカルのメロディーは親しみやすく、時々は湿っぽさがあるが、バンド全体のサウンドには融和があり、それらが良質なハーモニーを奏でている。このアルバムの冒頭曲には、ソングライターのローラが若い時代に夢中になっていたレコードの影響がそこかしこに散りばめられている。それらがたとえ思い出に過ぎないとしても、キラキラとしたまばゆいほどの輝きを放ってやまない。もちろん、音楽そのものが人生の流れと結びつき、センチメンタルな感覚を呼び起こす。それらのエモーションは、パワー・ポップの響きとガレージ・ロック風の響きと呼応している。コーラスやサビの箇所で歌われるのは、一般的な感覚であり、それがシンパシーを生み出す働きを持つのは言うまでもない。卓越したものを選ばず、誰もが共感するような個人的な感覚を見つけて歌い上げる。アルバムの冒頭は、脆いようなセンチメンタルな響きが込められている。しかし、対象的にアップテンポなパンキッシュなロックナンバー「Totally」では、明朗でソリッドなギターのリフを中心に、ハードロックやパワーポップを基幹にした甘酸っぱいロックソングを聴くことが出来る。特にボーカルの旋律進行は、青春の切ないような響きを導き出す。

 

「Video(Right Here With You)」では、The Bethsと共通するような夢想的なインディーポップとパンクサウンドの融合を楽しめる。この曲では、特にギターが全体の中で押し出され、硬質な響きを持ち、全体のアンサンブルの中で良いヴァイブスを生み出す。ガレージロック風のジャキジャキしたサウンドはギターファンであれば必聴である。 そして、それらがこのバンドの持ち味である、ほのかに甘酸っぱいメロディーと融和している。もちろん、パンキッシュでエッジの効いたサウンドだが、その中には温和さが併存している。トゲトゲしいパンクも一つの魅力ではあるのだが、メロディアスなパンクも捨てがたいものがある。そして、フォーティテュード・ヴァレーの場合は、ナンバーガールの最初期のように鮮烈で青春の雰囲気に包まれたギターロックサウンドを提供している。これらは、音楽全体に良いヴァイヴを生み出している。曲の後半では、ドラムの演奏に特に注目してほしい。メロディやビート的確に補佐し、主役的な立ち位置になる。実際的に、ネイサンのドラムは、このパンキッシュな曲にソリッドなダイナミズムを及ぼしている。


 

 「Video(Right Here With You)」

 

 


「Red Sky」はインディーポップをベースにしたロックソングで、このバンドの入門曲として推薦する。持ち前の甘酸っぱいメロディーがバンド全体のアンサンブルに絶妙に溶け込んでいる。特に、ボーカルのコーラスとヴァースの箇所で、バンドアンサンブルが上手く駆け引きをし、ラウドとサイレンスという両側面で、ボーカルの持つ温和な雰囲気や穏やかさを補佐する。連携の取れたサウンドで、一貫して音楽性は旋律的な側面に重点が絞られている。冒頭にも述べたように、「何をどう聞かせたいのか?」という狙いや意図が見える一曲である。


「Sunshine State」では、バンドのアンセミックなコーラスが力強い印象を放つ。 同じようにThe Bethsを彷彿とさせるようなメロディアスなパンクサウンド。そして一貫してスリーコードを中心に組み立てられ、それがボーカルを浮き立たせるような役目を担っている。ヴァースからブリッジにかけての盛り上がりが、サビのコーラスの部分へと期待感を盛り上げ、実際的にそれを裏切らない形で、聞かせどころが登場する。コーラスの箇所では、ほどよく力の抜けたフレーズ、そして少しノスタルジックな雰囲気を持つ音楽性が際立っている。もちろん、ボーカルとギターソロが対旋律を描き、バンドとして連携の取れたサウンドを作り上げている。曲の後半では、シンガロング必須のチャントが登場する。ベタではあるが、その中に熱狂性がこもる。ポップスに強烈に傾倒したサウンドもある。「Don't You Wanna Be Near Me?」は、どこまでも純粋な雰囲気を持つパワーポップソング。ものすごく簡素で、単純な楽曲構成であるが、その中に、なぜかほろりとさせるものがある。これもまた、実際的な経験が含まれているからこその感情的な共鳴効果なのである。ローラの作曲は、夢想的な感覚もありつつも、現実性に基づいている。

 

 

 「Sunshine State」

 

 


タイトル曲は、アルバムのハイライトで、バンドが重要視しているという。ポリヴァイナルに所属するOceanatorを彷彿とさせる、産業ロックの響きを強調した魅力的な一曲である。特に、この曲では、ギターソロが大きな活躍し、全体的な音楽性に強く影響を及ぼしている。その中には大陸的なロマンや情景的な音楽が含まれ、脳裏にそれらを連想させる力がある。また、タイトなドラムの演奏も、曲の音楽性を上手くリードしている。そして、ギターに対して対旋律的な効果を及ぼすベース。バンドとしては、どの要素も欠かすことが出来ない。ボーカルのメロディーが哀愁のある美しさを感じさせる理由は、これらのリアルなライブセッションを重視したサウンドが盤石な曲の枠組みを作り出し、その上で最後の牙城としてボーカルが存在するからである。


ギターやベースの和声進行としても半音階の隣接音を経ながら、基本的な調性の中で、どことなく切ないようなエモーションを巧みに引き出すこともある。また、間奏の箇所では、ドラムが主役となり、スネアとバスの強固で硬質な響きを持つパーカッションが力強い印象を聞き手にもたらす。この曲はバンドが細部までじっくりと作り込んだ形跡があるためか、聴き応えがある。どのような細かな箇所も適当に済まさないというプロフェッショナルな姿勢が、このアルバムを平均的な水準以上の内容にし、そしてAlvvaysのようなバンドの作品と部分的には同じレベルに押し上げている。

  

アルバムの後半の3曲では、音楽性に多彩な側面を持たせていて、コーダのように聞くことができる。しかし、同時に、大きく音楽性が変更されるというわけでもない。よりセンチメンタルでナイーブな感覚を顕にした「Take Me Away,I'm Dreaming」では、現実逃避的なニュアンスもあるが、その足はしっかりと地についている。 そして、ベースがソロ的なパートで間奏を担っている。このバンドは、チームとしての連携が最高のストロングポイントであり、どのメンバーの個性も軽視しないという点が、良質なロックソングを作り出すためのよすがになっていることが分かる。ソロではできない音楽を、彼らフォーティテュード・ヴァレーは巧みに実践してみせるのだ。


音楽性という側面では、むしろアルバムの終盤になればなるほど、深遠な感覚が色濃くなってくる。それは音楽という靄の向こう側に実際的な意味を見出す行為のようであり、また、バンドの音楽の本質的な部分に近づいていくということである。続く「Into The Wild」では、方法論こそ同じでありながら、ブリットポップのような哀愁のあるフレーズが時折登場することがある。

 

Jets to Brazilの前身、伝説的なエモコアバンド、Jawbreakerのカットソーの先入観は裏切らない。バンドはこの数年、パンクやヘヴィロックを中心に聴いていたというが、アルバムのクローズ「Oceans Apart」には、このエピソードがはっきりとした形で現れ出ている。疾走感があり、爽やか。2000年代以降のメロディックパンクの教本のような曲ですが、懐かしさこそあれ、新しいモダンな感覚によりアップデートされている。相変わらず、フォーティテュード・ヴァレーは軽やかで親しみやすい音楽を提供し、そのクオリティは最後まで続いている。サビ(コーラス)でも期待を裏切らない。良いメロディーの条件とは、万人が口ずさめることである。徹底して簡素さを強調するロックサウンドは今後多くのリスナーを獲得しても全く不思議ではありません。

 

 

 

82/100

 

 

 

 

「Part of The Problem, Baby」

 

 

 

▪Fortitude Valley 『Part of The Problem, Baby』はSpecialist Subjectより発売。Bandcampでの視聴はこちらからどうぞ。



『Precipice』は”絶壁”を意味する。そして、これはアーティストがかなり厳しい局面にあることを暗示する。しかし、果たして、これは誇張的なタイトルなのだろうか? 野生の空間が手招きしているような、高い岩棚に立っている瞬間がある。 その瞬間、本能がかき立てられる。もし飛び降りたら? それは「虚空の呼び声」と表現され、感情や衝動よりもどこか原始的な体験である。 


『Precipice』で、インディゴ・デ・スーザは創造的かつ精神的な崖の上を見つめ、ただ飛び降りる。 そして、その覚悟はすでに彼女に備わっている。ノースカロライナ出身の彼女は、多作で詩的なシンガーソングライターであり、わずか7年の間にすでに3枚のアルバムと4枚のEPを発表している。

 

最新のフルアルバム(2023年発表の『All of This Wild End』)は、その大胆なボーカルとスリリングなソングライティングで絶賛を浴びた。 しかし最新作では、デ・スーザは空虚な呼びかけを聞き、呼び戻し、ポップな大げささと日記的な明瞭さによって困難な記憶や帯電した感情をコントロールし、より強い自分を見出している。

 

「人生とは、それが何なのかわからないまま、何かの淵に立たされているようなものだ」とシンガーソングライターは言う。 「音楽はその感覚を生かす方法を与えてくれる。 新しい方向に突き進むための方法をね」


アルバムのタイトル曲で、デ・スーザは変化という潜在的な暗闇に立ち向かい、身を委ねることに希望を見出す。 "崖っぷちまで来て/命がけで踏ん張って/世界を眺めて/何もかもが暗くなってしまった"。 このような感情的な大胆さは、デ・スーザにとって決して新しいものではないはずだ。 

 

元々、彼女のカタログには、揺るぎない正直さと、揺るぎないパーソナルなソングライティングが溢れている。 「何か恐ろしいこと、あるいは何か美しいこと、良くも悪くも私の人生を変えるようなこと、そんな崖っぷちに常にいると感じている」とデ・スーザはつぶやく。 

  

そのために『Precipice』はデ・スーザの未曾有の世界を開拓する。 新たな挑戦として、このソングライターは、ロサンゼルスでのブラインド・スタジオ・セッションに挑み、協力者の広がりと音楽に集中できることを喜ばしく思った。 

 

「以前から、もっとポップな音楽に取り組みたいと思っていたので、ロサンゼルスに来たときは、それを実現する手助けをしてくれる人たちに会うようにしました」と彼女は言う。 「一緒に踊りながら、心が幸福感で満たされるような音楽を作りたかったのです」


そのセッションの中で、彼女はプロデューサーのエリオット・コゼルと素早く深い絆で結ばれた。彼はSZAやYves Tumorのようなミュージシャンのプロデュースやコラボレーションを手がけてきた人物で、フィニアスでテレビ番組の音楽を担当したことは言うまでもない。 デ・スーザとコゼルは、このアルバムの制作の目処がつくと、すぐにハイライト「Not Afraid」の制作に取りかかった。 

 

「Not Afraid」はアルバムの未知への大胆な挑戦の布石となった。 この曲はまた、長く重要なコラボレーションの始まりを告げるものだった。つまり、このハイライト曲を中心にフルレングスが組み上げられていく。アルバムの制作は驚くほどスムースに進んでいった。「エリオットは、歌のために自分自身をさらけ出すスペースを与えるのが本当に上手なので、私は音楽的にも個人的にも、とてもよく見てくれていて、尊重されていると感じた」とデ・スーザは言う。 「この曲は、私がこのアルバムをどうしたいかの羅針盤になった。意味とフィーリングを持ったポップ・ソング、リアルな人間性を表現した歌詞のポップ・ソングを制作することになった」


リードシングル「Heartthrob」は、その象徴となりえる。2人が見出した恍惚とした二面性、即効性のあるエネルギーと思慮深い深さの両方をもたらす方法を例証している。 この曲は、若者を搾取したり、食い物にする人々への牙を剥いた非難であり、パノラマ的なインディーロックの輝きで表現されている。 マルチ・インストゥルメンタリストのジェシー・シュスターのギターのリフがデ・スーザの歌声を押し上げ、彼女の声は痛みと怒りの間で揺れ動く。 "神様、私が大人になったら/満杯のカップを持ちたい/真のハートフルボディになりたい"。 「私は過去に有害な経験をしてきたため、音楽を介し、その感情を処理するのに役立っている」とデ・スーザは言う。 これまでどのような評価がなされようとも意に介さず、コンスタントに良作を発表しつづけ、多作なミュージシャンとして知られてきたスーザ。音楽を制作することは、大きな意味があるという。「私にとって音楽制作というのは、自分がまだ完全な人間であることを思い出させる方法なのです」とデ・スーザは言う。それはおそらく、音楽制作によって人間的な成長を遂げるための一つの道しるべのようなものなのだ。

 

 

Indigo De Souza 『Precipice』 - Loma Vista


インディゴ・デ・スーザは、崖から海に飛び降りるかのように、大幅に音楽性を変更している。従来はインディーロックシンガーの立場に甘んじることが多かったが、それらのジャンルの境界を打ち破り、この作品では、テクノポップを中心とするポピュラーシンガーへと劇的に転身している。


今回の大胆な音楽性の転換は、アーティストの評価を大きく左右する可能性もあるかもしれない。フィニアスへの楽曲提供を見ても分かる通り、この人は元来ヒットソングを書く才能に恵まれている。絵画的な印象は相変わらず。アートワークのドクロ。それらは、ある種のトラウマ的な感覚から出発しているが、このアルバムではそれらが変容しつつある。印象主義だが、錯綜とした印象を持つニューサイケともいうべき派手なアートワークの印象。これまでとは対象的にポリネシア的な明るさ。それから海のような爽快なテーマが見え隠れする。これはポリネシア的なイメージに縁取られたミレーの「落ち穂拾い」のモチーフの継承でもあろうか……。

 

音楽的にも、それらのポリネシア的なイメージ、海と太陽、そして、Human League、a-haの系譜にあるテクノ・ポップ/エレクトロ・ポップが組み合わされ、最終的にはバイラルヒットを見込んだポップソングと結びつく。アンセミックなフレーズを唄うことを恐れず、これ以上、ニッチなアーティストとしてとどまることを忌避するかのようだ。さらに、このアルバムの原動力となったのは、内側から沸き立つ怒りの感情であった。それらはいくつかのハイライト曲の歌詞でも暗示されている。しかし、怒りを建設的なパワーに変換させ、世界への批評的な精神にシフトチェンジする。要するに暗い感情を明るい感情に変換させるというのが、このアルバムの目論見だった。それは達成されたのか。それらをひとつずつ丹念にときあかしてみたいと思う。

 

 

「Be My Love」は、アルバムの重要なインタリュード。インディゴ・デ・ソーザが得意とする旋律のラインが引き継がれている。しかし、従来のようなロック的なイディオムで繰り広げられるわけではない。パワフルなシンセがボーカルと共鳴しながら、決意表明のような形で音楽そのものが展開されていく。ボーカルをモーフィングしたシンセパッドが楽曲の全体的なストラクチャーを決定付け、それらに対してアカペラ風の歌唱が披露されたあと、デ・スーザのボーカルがアンセミックに鳴り響く。そして、青い海や海岸の風景を縁取るかのように、清涼感に満ちたソロボーカルが続く。 また、メインのボーカルに対して、シンセサイザーがフーガ(追走)の形式を図り、カノン(輪唱)のように続く。


ディレクションとして大胆なこの曲は、ミューズ的な優雅な響きがあり、雄大なイメージを持つ。アルバムのタイトルと呼応するかのように、崖の上に立つシンガーが午後の太陽の照り返しを受けながら、また、水しぶきを感じながら歌を紡ぐような印象的なオープニングである。そして、スーザのボーカルの旋律進行が徐々になだらかな起伏を描きながら上昇していく箇所は圧巻だ。旋律の中では、ヨナ抜き音階を登場させ、東洋的な響きを持ち合わせている。まるでエナジーをかき集めるかのように、デ・ソーザの歌はパワフルでエネルギッシュな印象を帯びる。

 

「Crying Over Nothing」は、”ヒットメイカーによるヒットメイカーのための教科書”である。イントロでは、ジャジーな響きを持つエレクトリックピアノが演奏され、シンセのシークエンスがそれらの情感を引き上げ、YMOのようなアジアンテイストのテクノポップがその後に続く。このあと、どんな音楽が続くのか読めない。そして、デ・スーザのボーカルの印象は、従来とは変化し、感情的ではあるが、静かで落ち着いた人格的に円熟味のある雰囲気を帯びている。これまでに控えめだったソウルフルな歌唱が加わり、その歌には淑やかさがほとばしる。はたして、デ・スーザの以前のアルバムで、こういった慈愛的な歌声を聴くことが出来ただろうか。


そして、ヴァースからブリッジを経て、コーラス(サビ)の箇所へ移行する瞬間、ダンスポップの珠玉の名曲へと変貌する。口ずさみやすいキャッチーなメロディー、乗りやすいリズム/ビート、シンセのきらびやかな対旋律、これらが三位一体のように、珠玉のポップソングを作り上げるための礎となっている。(イントローヴァースーブリッジーコーラス)という基本的な構成であるが、その明快さを強調することで、むしろ曲の完成度を高めている。次いで、ブリッジからサビ(コーラス)への音量的な変化もまた、バンガーの性質を高める要因となった。構造的にも、最後まで手を抜かずに、シンセサイザーが簡素だが華麗なアウトロを形成している。最近は、構成を度外視したポップソングが多い印象を受ける。けれど、そもそもポップソングほど形式主義の音楽は存在しない。あらためて、この曲の構成的な美しさを確かめてみてほしい。

 

 

三曲目に収録されている「Crush」は前曲の音楽的な気風を受け継いでいる。しかし、バンガー風の「Crying Over Nothing」とは対象的に、イントロは、Human League、a-ha、Culture Clubの系譜にあるレトロな80年代前後のテクノポップ。そして、モジュラーシンセでユニークな音色を施したあと、絶妙なタイミングでボーカルが入り、音楽が進展してゆく。楽曲の背景となる音楽は、レトロな雰囲気に満ちたシンセポップなのだが、それとは対象的にスーザのボーカルはビリー・アイリッシュ/フィニアスのモダンなポップソングの範疇に類する。軽やかな感覚を持ち、それほどシリアスにならず気軽に楽しめるという点で、夏のプレイリストに欠かせない良曲だ。


夏の海やビーチ、パラソルを彷彿とさせる爽やかさ、海のさざ波、太陽を体現するかのように、風通しが良く、健康的なポピュラーワールドを構築していく。この曲では、レトロとモダンを混在させ、見事なコントラストを描く。何より、デ・スーザのボーカルと打ち込みのドラムが心地よいアンサンブルを形成する。ここには、現代社会を象徴付ける機械的な概念と人間的な概念の混合が捉えられる。曲の後半では、ディープハウスのダンスビートに変化し、ダンサンブルなリズムが強調される。これほどまでにダンスミュージックを強烈に意識した曲はスーザとしては珍しい。音楽に季節感があり、夏の暑さを和らげるような清々しさを兼ね備えている。

 

ハイライト「Not Afraid」は、ビリー・アイリッシュの系譜のあるポップソングだが、実際的にはそれほど難解ではあるまい。

 

この曲では、恐れから始まり、それとは対極にある勇気の領域へと足取りを進めるシンガーソングライター、デ・ソウザの軌跡がなかば暗示的に描かれていると思う。海のように透き通った雰囲気を演出するシンセサイザーのイントロ、ナイーヴでセンチメンタルな感覚を持つボーカルが続く。シンセポップによるバラード風のヴァースでは、ドラムのミュートの小刻みな奏法が心地良く響き、リズムの代わりを務め、スーザの歌声の雰囲気を上手い具合に盛り上げている。

 

この曲でも、旋律の抑揚がなだらかに上昇し、サビ(コーラス)で頂点を迎えるという、王道の作曲技法が取り入れられている。曲のイントロからヴァース全体を通じて、デ・ソーザのボーカルが純粋な感じがして、じっくり聞かせるものがある。ときおり、トリッピーなシンセも登場することもあるが、それは曲の表情付けに過ぎず、雰囲気を損ねることはない。ある意味では、美しい旋律とノイズという、アンビバレントな印象を交えながら、この曲は異なる性質を併存させて進行していく。曲のタイトルのフレーズが歌われる時、インディゴ・デ・スーザのミューズ的な歌唱が圧巻の風格を持ち、パワフルな印象を持つポップソングにより、聞き手と勇気を共有する。最終的には、ロックシンガーの気質が、バンガー調のポップソングと絶妙なバランスを保っている。一定のノイズ性を備えた上で、カタルシスを携えながら、アウトロでは静けさに帰る。この曲では、表面的な音楽的な要素と合わせて、マクロコスモスの音楽が発露する。

 


「Not Afraid」

 

 

 

「Be Like a Water」では、テクノ・ポップやエレクトロ・ポップをベースにした落ち着いた曲に戻る。ただ、この曲の音楽性を決定づけているのは、形式論でもなければ方法論でもない。従来のアルトロックシンガーとして培ったロック的な性質、ポリネシア的な民族音楽の要素、次いでソウルミュージックからの影響である。 それらが他者が真似できない絶妙な形で混在しているため、音楽的にも洗練されている。それはまた、いかなる流行の音楽にも揺り動かされぬ自立心を意味する。


別の見方をすれば、音楽というのは、制作者や共同制作者の音楽的な文化観の集積なのである。そもそも、文化的な感性の集積がなければ、上質な作品を作り上げられることは難しいと思う。


それらの微細なマクロの要素が、全体のミクロを作り上げる。デ・スーザは、これまでに水というテーマを何度か書いてきた覚えがある。それは考え方によっては、シンガーの民族的なルーツが海や水であり、彼女のルーツを辿るような趣旨があるのかもしれない。それが最終的にはアメリカのカルチャーというレンズを通して、音楽そのものが発露する。

 

 

「Heartthrob」は、販売元のLoma Vistaがもう一つのハイライト曲であると指摘する。同時に、フルレングスの制作の指針となった''重要な楽曲''でもある。アルバムの中で、最もギターロック的な性質が強いことが分かる。この曲では、個人的なテーマから離れて、よりよい社会への提言が行われている。それは''若者に対する搾取に対する怒り''がベースになっているというが、明るいエネルギーに変換されている。”歯止めの効かない世界に対する怒り”を表明するデ・スーザ。 それは、表層的な政治や社会現象というより、大きな視点からみた義憤なのかもしれない。


実際的なアーティストの人生とどこかで連動するように、暗示的なメッセージとして心に残る。しかし、少なくとも、この曲は、そういった世界に対する怒りこそあれ、表向きには批判的な内容とはいいがたい。The 1975、ジャック・アントノフのブリーチャーズを彷彿とさせるフラットなロックに根ざしたポップソングは、これまでのシンガーソングライターの軌跡と連動するように、曲の節々で異なる音楽的な印象を放つ。

 

私の知るかぎりでは、デ・スーザの旧来のカタログでは、それほど民族音楽のような音楽性が顕わになることは少なかった印象である。そのせいなのか、「Dinner」はかなり驚かされるものがあった。短い端的な曲であるが、デ・スーザがそういったワールド・ミュージック的な志向を初めて明らかにしている。


これは、このシンガーにとって記念碑的な曲となるかもしれない。ソングライターとして成長するというのは、人間的に成長することと同意義であることが分かる。これはプライベートと職業の二つの顔を使い分ける人々にはたどりつけない場所ではないか。それは背伸びをすることでどうにかなるものではない。人間のゆっくりとした歩みがその人を内面を成長させ、他者の目には映らない。音楽としては、アンビエント風のシンセ、そしてピアノが琴線に触れるバラードソングと融合している。アルバムの全体的なテーマであるオーガニックな印象がより明瞭になる。なぜか最後まで聴くのが勿体ないような楽曲である。ぜひ抑えておいていただきたい。

 

「Dinner」 

 

 

 

さらにアルバムの後半に収録されている「Clean It Up」にも、デ・スーザのヒットメイカーの才覚が滲み出ている。この曲では、親しみやすいメロディー、そして、ビートという基本を踏襲した上で、同じく、エレクトロ・ポップという、アルバムの核心をなす音楽性が一般的な商業音楽として収録されている。今回は、ギターを入れず、間奏のソロをシンセの演奏で代用している。


しかし、こういった曲もシンガーの知られざる一面を体現させているに過ぎない。これまで封印してきた印象もあったボコーダーも登場し、現代的なポピュラーソングの影のように裾野を伸ばす。こういったバイラル的なポップソングを惜しみなく提供していることが、『Precipice』の価値なのだろう。


その中で、やはり、デジタル化される社会の中で、リアルな人間性をどのように保つのかという点が、こういったバンガーでもはっきり提示されているように思える。また、ミュージシャンとしては、自分らしさや正気を保つということでもある。


「Heartbreak」も聴き逃がせない。フォークロックという形で異色を放つ。この曲でもUSロックをベースにし、デ・スーザ節ともいうべき旋律進行が登場する。しかし、そのボーカルには従来のロックソングのような、はつらつとした幼さはない。その歌声は、いよいよ円熟期に差しかかったことを伺わせる。何か渋い感覚を持ち合わせており、じっくりと聞かせるものがある。

  

「Pass It By」は、それとは対象的に軽快なテクノポップである。同じように現代的なテクノロジーと人間性を秤にかけている。ベッドルームポップのスタイルを継承し、疾走感のあるエレクトロポップを提供している。


この曲もまた、現代のポップソングの典型的な模範例となるかもしれない。淡々としたシンプルなヴァースから、多幸感を持つ甘いコーラスに移行するという、お約束の構成がある。部分的にはオートチューンも登場するが、やはり曲の構成に安定感があり、安心して聴いていられる。


オートチューンを用いたシークエンスがそのまま次の曲の呼び水となり、エンディングの導入部となる。「Precipice」は、このアルバムの音楽性の重要なテーマとなる開放的な感覚や海の雄大さのイメージに浸される。それは実際的に、アートワークの印象と音楽がぴったりと重なり合う瞬間なのだ。


インディゴ・デ・スーザのミューズのように迫力がある歌声、波を象徴付けるパーカッシヴなシンセの音響効果に押し上げられて、ダイナミックなエンディングが現れる。音楽が単一の媒体に終始せずに、異なる媒体と連動し広く展開していくことが、このアルバムの最大の魅力ではないか。聴くたびに、驚くほどリスニングの印象が変わりえる。インディゴ・デ・スーザは、この数年を通じて驚くべき成長を遂げている。もはや誰にも彼女を止めることはできない。

 

 

 

90/100

 

 

「Precipice」

 

 

 

▪Indigo De Souzaのニューアルバム『Precipice』は本日Loma Vistaから発売されました。各種ストリーミングはこちら 

 Weekly Music Feature: Sofie Birch & Antonina Nowacka


「ヒラエス」という言葉に英語の直訳はない。 ウェールズ語では、もはや存在しない無形の何か、どこか、あるいは誰かへの憧れを表す。 ソフィー・バーチとアントニーナ・ノヴァッカは、このコンセプトに基づいて2枚目のコラボ・アルバムを制作した。このアルバムは、傷つきやすく、オープン・ハートな即興曲と内省曲からなる組曲で、キメラ的な過去のイメージを把握しようと試みている。


批評家から絶賛されたデビュー作『Languoria』とは異なり、『Hiraeth』はアコースティック・アルバムであり、声や弦楽器によるイン・パーソン・インプロヴィゼーションによって、コンピューターやAI、DAWが登場する以前の時代へのジェスチャーを表現している。


ノヴァッカとバーチは、セレンディピティな即興演奏とセットアップの簡略化への関心から、数々の共同ライブ・コンサートをきっかけにこのアルバムを構想した。 アンサウンドは、チェコ国境に近い南ポーランドの緑豊かな丘陵地帯に佇む牧歌的な村、ソコウォフスコでの静養を手配した。 ソコウォフスコは、ドイツの作家トーマス・マンの1924年の小説『魔の山』にインスピレーションを与えたと噂される廃墟となった大きな療養所を囲み、長い間アーティストたちを魅了してきた。


 2人はこの機会に自分たちのアプローチを全面的に見直し、ギターとチター、そしてポータブルなナグラのオープンリールマシンだけを持ってやってきた。 テープに直接録音し、自分たちの声と楽器だけでアイデアをスケッチし、現代のテクノロジーに気を取られたり、媒介されたりすることなく、周囲の環境を反映させた。


バーチは次のように述べている。「私たちはスクリーンからできるだけ離れたかった。 事前に準備することなく、私たちは毎日野外に出て、日没や真昼の太陽の下、座る場所を探した。 私たちは楽器の新しいチューニングを発見し、メロディーを選び、マシンを始動させ、テイクが取れるまで何度も演奏した」それから秋が来た。二人はコペンハーゲンのスタジオに再び集まり、古いシンセサイザーやオルガンを控えめに注意深く重ね、ミックスを濁すことなく深みを増した。


ノヴァッカとバーチは、アコースティック楽器の間を縫うように歌い、お互いの声が絡み合い、ほとんど一体化している。 しかし、音楽の裏地に織り込まれているのは、ソコウォフスコの日常環境である「鳥や光、ハープを弾く風さえも」である。 瞑想や自然の中で過ごした時間や、バーチがレコーディング中に妊娠していたという事実の影響を受けたこのアルバムは、生き生きとしていて、驚くほど存在感がある。 テープ・マシーンの音質でさえ、ノヴァッカが言うように "温かいお風呂に入っているような "触覚的で有機的なクオリティをヒラエスに与えている。


直感的な歌のための生息地、小さな生態系、生き生きとした活気」での音楽制作に費やした時間の物理的な記念品である。 時代遅れの機材と人里離れた環境は、デュオがしばし現代世界から離れ、時間と名目上の進歩によって失われた存在を想像するのに役立った。 デジタル技術が後景に退いたことで、ノワッカとバーチは、バーチが説明するように、周波数や人々との直感的なつながりを作るスペースを得た。 『ヒラエス』は、ノスタルジアの証ではない。親族の力の証である。 

 


『Hiraeth』- Unsound 



ソフィー・バーチはデンマーク/コペンハーゲンの作曲家であり、アンビエントを中心に制作している。電子テクスチャー、アコースティック楽器、フィールドレコーディング、そして彼女自身の声を駆使して周波数に焦点を絞ったアンビエント作品を制作している。デンマークのユニバーシティ・カレッジ・サウスのソニック・カレッジでサウンド・デザインを専攻した。また、同時に、NTS Radioで「アンビエント・アブラカタブラ」という番組を担当し、アンビエント作品を対外的に紹介するDJでもある。これまでにバービガン・センターなどでの公演経験がある。

 

一方、アントニーナ・ノワッカはポーランド/ワルシャワの気鋭の音楽家である。 ワルシャワの視覚芸術アカデミーを卒業した彼女は、ボーカルアートを主な領域として活躍する。特に、伝統音楽とボーカル芸術の融合という主題に取り組んでいる。これまでにインドネシアのジャワの洞窟、メキシコのオアハカン教会へと出向き、伝統音楽と声の芸術を融合させた作品を発表している。ノワッカは自分自身の音楽の方向性について「絵画や芸術のようなもの」と述べている。その特異な音楽性は、The Quietusのような実験音楽に特化したメディアを唸らせてきた。

 

ソフィーとアントニーナが共同制作を行うのはこれが初めてではない。両者は、2022年の『Holotropica』でも共同制作を行い、声と沈黙というテーマを探求してきた。コラボレーションアルバムとしては二作目となる『Hiraeth』は、トーマス・マンの世紀の傑作『魔の山』の題材となった南ポーランドのソコウォフスコ村に出向き、制作を行うことになった。制作にはドイツやオーストリアの伝統楽器であり、フォルテピアノの原型であるZither、アナログのシンセ、アコースティックギター等が使用されている。そして何より、ソフィーとアントニーナのボーカルは空間芸術的な趣旨を持ち、アトモスフェリックな音楽的なストラクチャーを形成し、このアルバムの中核を担う。そしてメレディス・モンク、ビョーク等の象徴的な声の芸術の魔術師たちのような瞑想的で音楽の奥深い領域に誘うような霊妙なサウンドスケープを形成する。

 

アートワークは、ロシアの国民学派のムソルグスキーが題材にとった「キエフの大門」さながらに聳え立ち、幻想的なイメージを鑑賞者に与える。しかし、ファンタジックな音楽性が展開されるのは事実なのだが、その対象的な強固なリアリズムがどこかに偏在している。それは現代テクノロジーに対する批評性であり、それらはポーランドの由緒ある山岳地帯の村の情景に支えられるようにして、現実性と幻想性の中間域にある奇妙な音楽の世界へと聞き手を招き入れる。そういった意味では、トーマス・マンの『魔の山』と呼応する雰囲気を掴んで貰えると思う。 


『魔の山』では、ドイツの十五年戦争の時代から始まったルター派の啓蒙主義が終焉を迎え、近代的な唯物主義の文明へと移行しようとする重要なヨーロッパの共同体の節目の時代が、多くの登場人物が生きざまを通じて、物語風に描かれている。例えば、ルター派の時代は、多くの場合、疫病や流行り病などにより、人間は幼くして命を落とすのがごく普通のことだった。だから、多くの人は6人も7人も子供を産まねばならなかった。それは一族がすぐに断絶するからである。


しかし、トーマス・マンの時代はそうではなかった。医学が発達し、そして人間の寿命が伸び、旧来のキリスト教的な観念が瓦解し、新しい人間の根本的な生き方を模索していくようになる。要するに個人主義の時代への移り変わりの時期であった。そして、2025年になり、我々人類は、マンと同じような節目の年代を迎えようとしている。それは唯物論の先にあるテクノロジー偏重の時代であり、そしてAIが人類を支配する''SFの時代''なのである。こういった観点から、『Hiraeth』は人間として生きる根本的な意味を探り、それらを両者の得意とする手法で提示しようとしている。このアルバムには一般的に言うところのデジタルの概念はほとんど存在しない。言い換えれば、意図的にデジタル性が排除されている。しかし、その音楽にSNSやソーシャル、そしてChat GPTのようにAIが人間の知能を凌駕する時代に、本質的な人間の魅力や感情性を、あろうことか、20世紀のヨーロッパ社会の節目となった『魔の山』から探るのである。

 

 

アルバムの冒頭には、「Rabbit’s Hole」という曲が収録されている。「うさぎの穴」にはスラング的な意味合いが込められていて、ネットサーフィンを続けると、それがやめられなくなるという批評的な意味がある。ここには現代人が突き当たる時間の浪費、それにより、ある側面では実質的な人生を空費していることを暗示する。それらは導入部となるイントロダクションーーアナログシンセを用いた逆再生のサウンドーーでシュールレアリスティックに表現されている。同時に、それは”アリス・イン・ワンダーランド”のような現実空間と幻想空間をつなぐ”うつほ(洞窟)”の役割を担う。例えば、ボローニャ大学のウンベルト・エーコ氏が生前に指摘していたのを思い出すが、人間は古くから、洞窟のような場所が現実空間とそれとは対照的な”Antipodes(対蹠地)”を繋ぐ通路であると考えてきたという。それはファンタジーやドラマ、映画で幾度も登場し、異世界への通路となったのだ。これらの洞窟や穴、あるいは”うつほ”のような奇妙な空間が、一つの音楽的なモチーフによって描かれ、私達の住まう現実空間と異世界をつなぐ役割をなす。ソコウォフスコという、ポーランド・ワルシャワの村が、これと同じように、現代的な観点から見ると、異世界のような雰囲気を持っていたことが伺えるのである。

 

その後に続くのは、これまでソフィーとアントニーナが音楽制作を通じて探求してきた音と沈黙である。一般的な制作者はあまりそこまで考えないかもしれないが、音楽は鳴っている箇所と鳴っていない箇所から成立し、そのどちらも欠かすことが出来ない。実際的な音響は反響や余韻によって支えられ、同時に、それらの反響や余韻は、実際的な音響の発生によって成立し、また、音響は静寂から始まり、静寂もまた音響から出発する。二人の音楽家は、そのことを熟知しており、現代文明の忙しなさに対して距離を取るような広やかで、寛いでいて、そして間や休符を活かしたサウンドアプローチにより、永遠に続くような摩訶不思議なサウンドを獲得している。「Heart of a Waterfall」で聞くことが出来るソフィーの奏でるギターのフォーク・ミュージックは、イスラム/アジア圏とヨーロッパの混淆の楽器、アントニーナのZitherの幻惑的なアルペジオにより、音楽的な安らかさと幻想性をにわかに帯び始める。そして、 ヨーロッパの民謡/伝統音楽的な両者の歌唱が折り重なり、重層的なサウンドテクスチャーが形成される。それはまた、西洋音楽の最初の出発であるギリシア地域の伝統音楽の源泉まで到達する。

 

例えば、国内にせよ、海外にせよ、伝統的な文化を持つと宣伝されている地域に旅した時、意外とそれほどでもなく、それらが現代性に絡めとられてしまい、奇妙なほど無味乾燥な場所になったと気づくことがある。また、 文学の世界でもそれはよくあることで、何らかのあこがれを持って舞台を訪問したはいいが、その作品の中にある本質のようなものが失われているのを感じることがある。「3-Hiraeth」では、ヨーロッパ社会のある意味では伝統的な側面を持つと思われる『魔の山』の舞台となった村を訪れた二人が、その印象が少し変わってしまったことを暗示している。同時に現代の音楽家として表現するのは、その失われた時代へのロマンチシズムしかない。これが音楽的にかなりわかりやすく体現され、童謡や民謡的な響きを持つアコースティックギターによるフォークミュージックとして展開される。その中にはZither、そして両者のボーカルの融合が登場する。これらは、現代的な空間性と呼応するように、一世紀前やそれよりも昔の中世ヨーロッパや民話のような現代人がおとぎ話と考える幻想性を巧みな形で作り出すのである。しかし、この曲では、そういった表面的な印象とは対象的に、ワルシャワの山岳地帯にある伝統的な本質を、制作環境や日頃から作曲者たちが培ってきた経験により導き出そうとする。それらは実際的にメディエーションミュージックと呼ばれるヒーリング効果を持つ音楽を超越して、民族性、文化性、歴史性に縁取られた音楽の中心点を浮かび上がらせる。

 

現代的な価値観を指針として生きる人々がつい見落としてしまいがちな題材ですら、ソフィーとアントニーナにとっては重要な音の出発点になる。 頭の上を吹き抜けていく風、朝に山の上に昇る太陽、ゆっくりと流れ行く雲、天候が数時間ごとに変化し、空模様が変わり、上空に怪しい色の雲が広がっていく。いつもまにか空が暗くなっている。向こうには水車小屋があり、水路の上をゆっくり水車が回っている。草原の上を歩いていく農夫。それと行き交う観光客のような人々。そういった些細な主題をみつけ、それらの現実的な風景を幻想の領域に近づけていく。目の前に映るなんの変哲もない風景を描くこと、それこそがサウンド・デザインの本質であり、ノーワッカが述べるような音の絵画の本質である。 「4-Comes with sunrise」は音楽的には民族音楽の性質が強い。インドのシタールのようなエキゾチックな響き、そして、チベット地方の伝統音楽等で聞こえるリュートの音が折り重なり、 西アジアの秘境的な響きを生み出す。

 

「5-Stars On The Ground」では、 スティール・ドラムのような音色が登場し、パーカッシヴな効果を及ぼす。そしてZither(ツィター)の分散和音と重なり合うと、モザイク建築のような色彩的なハーモニーが形成される。背景にはアナログシンセが使用され、瞑想的な音楽性を深める。これらの音楽を聴くと分かる通り、このアルバムの音楽は必ずしも現実主義にとどまらず瞑想主義や神秘主義に根ざしたアンビエントへと傾倒することがある。それは例えば、ハロルド・バッドが断片的に追求していた民族音楽や伝統音楽と現代音楽の融合という副次的な音楽テーマを見出せる。Laraaji、Steve Tibbettsの系譜にあるスピリチュアリズムやニューエイジとエスニックの融合は、両者の卓越した音楽的な感性により、感嘆すべき水準まで引き上げられている。続く「6-Nokken」もまた同じ系統にあり曲であるが、ボーカルが入ることにより、その音楽の印象はおどろくほど鮮明になり、そして両者の共通的な概念である治癒の音楽を導き出す。

 

このアルバムの音楽は、ソコウォフスコの滞在からもたらされた一連の記録や物語としてたのしめる。「6-Transient」は雨音をフィールドレコーディングとして収録し、インタリュードとして配置されている。雨音は鎮静効果があり、心を落ち着かせる効果があるという説があるが、それらは必ずしもヒーリングの意味合いにとどまらず、雨音により流木がゆっくりと流れていく様であったり、東欧の山岳地帯の季節を思わせる描写音楽により、それ以上の記録としての意味が求められる。そして何より重要なのは想像力を喚起させ、蜃気楼のように東欧の農村風景を浮かび上がらせる。受動的ではなく、能動性をもたらす音楽は、現代の作品の中ではとても貴重だ。これらはサティがサロンのような場所で試していた実験音楽と直結している。つまり、専有的な音楽ではなく、どこか人間が感性を働かせ、自発的なイマジネーションを作ることが可能なのである。この曲と次の曲は連曲であり、アウトロからアナログシンセの持続音でつながっていて、「How about the time?」の音楽的な雰囲気を立ち上がらせるための経路となる。

 

この曲以降は感覚や心に直接的に響くような音楽が続く。「7-How about the time?」の後は、アジアやインドのような地域の仏教的な音楽、西アジアの秘境的な音楽の領域に差しかかる。こういったタイプの音楽は、消費的な音楽とは対象的に、瞑想的な瞬間を呼び覚ます。例えば、禅宗の考え方では、何らかの行動の中に気づきや悟りがあり、そして、それは、”実際的な体験からしか得られない”というものである。これらは、南方仏教の重要なドグマともなったのだった。また、それと同時に、これは、臨済宗の鈴木大拙や岡倉天心らが提唱していた重要な仏教倫理なのであるが、それらは、芭蕉や一茶に代表される俳句の世界とも分かちがたく結びついている。

 

結局、この曲で展開されるのは、ジョン・ケージが日本文化の中で体験的に習得しようとした静寂の世界を、Zitherのようなヨーロッパの伝統楽器を通じて探求していくというものである。例えば、松尾芭蕉は、音を直感した瞬間に静寂に気づくということを有名な俳句として書いた。静寂とは感じるものではなくて、ある種の悟りの瞬間である。そのことが音楽で体現される。一方で、「9-Love Object」はどちらかといえば、西洋的な概念に縁取られ、北欧のフォーク・ミュージックの影響を感じる。それはソフィー・バーチによるアコースティックギターの弾き語りにより、古めかしい北欧神話の世界の可愛らしい音楽的な感性を発露させるのである。

  

全般的には、今流行りのアンビエント・フォークとも称するべき音楽的な方向性が顕著である。しかし、音の発生の瞬間に工夫が凝らされていて、それは両者の共通概念である沈黙の瞬間から生じる。目をつぶりなにかを思う瞬間、自己からしばし離れ、他者や社会、時にはそれよりも大きな世界に思いを馳せるということである。その瞬間に、どの個体的な存在も独立しているものなどいないし、そして何らかの大きな存在に包まれるようにして存在していることがわかる。豊かな自然やその驚異に触れた時、人間はその本質的な部分に触れることが出来る。

 

ソフィーとアントニーナの二人が、この制作を通じて収穫したことの中で、最も価値があることを挙げるとすれば、それは人間という存在の本質的な部分に到達したという点かもしれない。音楽性に関しては、西アジアやインド、ギリシアやアナトリアのような地域の音楽が折り重なり、それはワールド・ミュージックという一般的な用語だけでは語り尽くせない人類史へとたどり着く。音楽とは、ある種の文化による交流の歴史、また、その中にある人類的なカルマを刻した暗いものから、それとは対象的に明るく華やかなもの、また、人類が接してきた宗教や人生観を通してどのように世界を渡り歩いてきたのかという痕跡にほかならない。そのことを例証するかのように、「10-Collecting Eyes」では瞑想的な音楽性が色濃くなる。この曲の重要な部分を占めるのは、顕在意識から感取する構造物ではなく、潜在意識で感取する構造物である。

 

音楽とはなんだろうという純粋な疑問に対し、このアルバムは形ある答えを提示している。絵画や建造物といった文化遺産は、その対象物に目を向け、そして目を凝らせば、その対象物を確認することが出来る。一方で、音楽は、聴覚を働かせ、音階、調和、拍動、それとは対象的な認識しえない概念を捉える。その音の向こうには霊妙な意識が蜃気楼のように揺らめき、そのゆらめきには制作者の思い、あるいは背景を滲ませる。言い換えれば、表層の世界と裏側の世界の混在こそ、音楽の持つ一番の魅力でもある。また、レビューというのは聴覚を通じて目を凝らす行為であり、それが本質的な部分でもある。 音楽はこれまでルターやトーマス・マンの時代までは確かに地域的な音楽という概念が重視されてきたし、それこそが最も重要であった。しかし、多くの音楽学者が指摘するように、本来は、その垣根や境界など存在せず、それと同時に有史以来の音楽家たちはその境界を押し広げ、未知なる世界を探求することに熱意を燃やしてきた。結局のところ、それこそが人類の進化やテクノロジーの前進を促進させてきた。

 

「11-Come with sunset」ではよりいっそう民族音楽の性質が強まる。アナログシンセで笙のような高い音域にあるドローン音を作り、Zitherのアルペジオと重なり、奥ゆかしいハーモニーを形作る。これらは民族音楽とアンビエントの融合を基にした新しい音楽形式が出てきた瞬間である。「12−Suosan」では、ビョーク的なボーカルアートの表現形式を民族音楽の観点から探索している。幅広い音楽の年代を通じて、アルバムの物語性は「Depature」で魔の山からの出発を暗示する。


かつて、ポーランドのハニヤ・ラニがアルベルト・ジャコメッティのサウンドトラックを制作したことがあったが、それに近似する音楽的なディレクションである。アルバムの最後は、シュトックハウゼンのトーンクラスターを使用し、現代音楽の傾向が強まる。もちろん、聴けば分かる通り、この最後の曲は一曲目と呼応するトラックで、円環構造が取り入れられている。アルバムの入り口からかなりかけ離れた場所で、一つの出口に繋がっているというわけである。

 

 

 

90/100