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Boeckner

ダニエル・ベックナーは、心に溜まった夾雑物を理解し、その散らかったものを突き破って向こう側に潜り込むには''揺るぎない勇気''が必要であることを理解している。そしてボックナーの手にかかれば、その探求はポスト黙示録的なシンセとギターのヒロイズムによってもたらされる。


ウルフ・パレード、ハンサム・ファーズ、ディヴァイン・フィッツ、オペレーターズ、アトラス・ストラテジックとの活動を通して、カナダを代表するインディー・ロッカーは、''希望ほど喜ばしく、印象的で、生成的で、豊かな感情はない''と認識している。しかし、それには自分のやり方から抜け出す必要がある。その深い音楽的参考文献の集大成として、べックナーは自身の名前''ボックナー''で初のアルバムをリリースする。


「自分の中では、いろんな意味でまだバンクーバーでパンク・バンドをやっているつもりなんだ」とべックナーは笑う。「ティーンエイジャーの頃から始まって、僕の音楽人生は自分自身の音楽言語を発展させようとしてきた」


そう。ジャンルの探求がどこへ向かおうとも、パンクやDIYの空間で育ったべックナーには、コラボレーションの濃い血が流れている。『Boeckner!』は、親しみやすい要素の集まりで構成され、若い情熱と発見の同じスリルを引き出す。それは、夢と助手席の特別な誰かに後押しされ、テックノワールの街並みをジェット機で追いかけるようなものだ。


Boecknerは、この融合した言語をド迫力のオープニング・トラックとリード・シングル "Lose "で即座に紹介する。


オペレーターズとの2枚のレコードで培った焦げたスペースエイジのシンセと、ウルフ・パレードの拳を突き上げるようなギターに後押しされ、この曲は新世界へとまっしぐらに突き進む。"今、私は歩く幻影/レーダー基地での夜警 "とボックナーは歌い、まるで希望を失わないために時間との戦いに挑んでいるかのようだ。


その切迫感と情熱は、常にべックナーのトレードマークであり、彼自身のために書くことで、その感情をさらにスコープの中心に押し上げている。しかし、べックナーがこのアルバムの明確な原動力であるとはいえ、ソロ・デビューに協力者がいないわけではない。ニコラス・ケイジ主演のサイケデリック・ホラー映画『マンディ』のサウンドトラックに参加していた時にプロデューサーのランドール・ダンと出会い、べックナーはソロデビューに最適な相手を見つけたと確信した。


「私はずっと彼のファンで、特に彼がプロデュースした”Sunn0)))”のレコードはお気に入りだった。ランダルと仕事をすることで、抑えられていた音楽的衝動が解き放たれたんだ。プライベートでは楽しんでいるけれど、普段は自分がリリースする作品には織り込まないような、オカルト的なシンセや疑似メタル、クラウトロック、ヘヴィ・サイケの影響などだよね」


アルバムのハイライトである "Euphoria "は、オフキルターなダークネスを漂わせ、ヴィブラフォンのダッシュがシンセのうねるような波に翻弄されている。


「もう手遅れだ/時間は加速する/ゆりかごから墓場まで」とボックナーはまるでジギー・スターダストの核廃棄物のように叫び、グリッチしたエレクトロニクスがミックスから滴り落ちる。この曲のパーカッシブなドラムは、パール・ジャムのドラマーとしてだけでなく、ボウイやフィオナ・アップルとの仕事でも知られるマット・チェンバレンによるもので、アルバム全体を通してボックナーの力強いギターを後押ししている。


この強固な基盤のおかげで、ボックナーは感情的なイマジズムと、より地に足のついたストーリーテリングの間を思慮深く織り交ぜることができるようになった。このアルバムを通して、彼のイメージはSFにまで踏み込んでいるが、それは何よりもまず経験によって支えられている。  「初期のウルフ・パレードを除いて、私は常にフィクションの世界に身を置こうとしてきた。その典型例として、"Euphoria "の絶望的な到達点は、すべての行に感じられる」


べックナー、ダン、チェンバレンのトリオは、このアルバムのための一種のダーク・エンジンを形成し、チェンバレンは、各ドラム・トラックと同時にヴィンテージのアープ・シンセサイザーを起動させるという独創的なアプローチで、ボックナーがレコードの雰囲気を形作るのを助けた。その重層的な影が、アコースティック調の靄がかかったような「Dead Tourists」を彩っている。


この曲には、鋼鉄の目をした家畜、教会の教壇に並べられた死体、横転した高級車など、なんとも不気味で悪い予兆が散りばめられている。

 

この緊迫したフューチャリズムは、ダンのCircular Ruinスタジオに滞在していたベックナーの影響によるもので、薄暗いエレクトロニックなオーラが全トラックに歌い込まれている...。彼はよく、寝袋にポップ潜り込んで、シンセ・ラックの下で眠りにつき、小さな天窓からブルックリンの灯りを見上げ、隣でOneohtrix Point Neverの最新作をレコーディングしているダニエル・ロパティンのかすかな音が壁を通して聞こえてくる。


自身のロック・ルーツを掘り下げることに加え、べックナーは個人的なギター・ヒーローの1人を連れてきた。


「ティーンエイジャーの頃、メディシンの完璧なシューゲイザー・ノイズのレコードをカセットテープで輸入していて、ブラッド・ラナーのサンドブラストでチェルノブイリのようなギターが絶対に好きだった」と彼は言う。


べックナーは最初、ブラッド・ラナーが1曲だけ参加してくれることを願って連絡を取ったが、メディシンのギタリストはアルバム全体にギター・レイヤーを加え、ヴォーカル・ハーモニーのアレンジも手伝うことになった。特に「Don't Worry Baby」の呪われた言葉のない合唱は、ラナーのトレードマークであるメディスン・ギターの荒々しさを通してボックナーの作曲を表現している。


「このレコードは自伝のようなもので、アトラス・ストラテジック・ミュージックの具体的なシンセの爆発、オペレーターズの瑞々しいシンセ、ハンサム・ファーズのノイズ・ギター、シュトックハウゼンからトム・ウェイツまで、あらゆるものから同時に影響を受けている」とボックナーは言う。


そして、低音域の「Holy is the Night」でレコードがフェードアウトすると、変異したスカイラインは消え去り、"疫病の後 "の青空に変わる。もはやSF大作ではなく、『Boeckner!』はジョン・カセベテス映画の焼け焦げたVHSコピーのような、ケムトレイルと核の放射性降下物が遠くに消えていくようなものへと変化していく。「朝日が昇るまでに、どれだけの痛みを与えられるだろう、ベイビー/聖なる夜は、平和を手に入れられるだろう」と彼はため息をつく。



この世界は、君と僕が一緒にいることで、どれだけの血を流せるだろう? すべての優れたSFがそうであるように、感情や痛みは作者にとってもリスナーにとっても同様に心に響くものであり、ジャンルは人間的な経験を補強するためにそこで花開く。そして、これまで以上に多くのことを明らかにすることで、ボックナーは音楽的な激しさを予想外のレベルまで高めると同時に、旅の終わりに安らぎを見出したいと願っている。-SUB POP

 

 


Boeckner 『Boeckner!』



カナダのダニエル・ベックナーはウルフ・パレードの活動で知られているが、サブ・ポップからソロデビューを果たす。

 

このアルバムで、ベックナーの名前は一躍コアなロックファンの間で知られることになるかもしれない。ベックナーの音楽はシンセロックの内的な熱狂性、ソフトロック、AOR,ときにはニューロマンティックの70年代のロンドンの音楽を反映させ、それらをシューゲイザー・ノイズによって包み込む。彼の音楽の中には異様な熱狂があるが、ソロ・アルバムでありながらランドール・ダンのプロデュースによりバンドアンサンブルの趣を持つ作品に仕上がった。

 

アルバムには勿体つけたような序章やエンディングは存在しない。一貫してニューウェイブ・パンク、DIYのアプローチが敷かれる。ベックナーにとって脚色や演出は無用で、彼は着の身着のままで、シンセロックの街道を走り始め、驚くべき早さで、アルバムの9曲を走り抜けていく。彼は、いちばん後ろを走りはじめたかと思うと、並のバンドやアーティストを追い抜き、ゴールまで辿り着く。その驚くべき姿勢には世間的に言われるものとは異なる本当のかっこよさがある。

 

ときに、人々は何かをするのには遅すぎると考えたり、周囲にそのことを漏らしたりする。しかしながら、何かの始まりが遅きに失することはないのだ。ダン・ベックナーは私達に教えてくれる。「出発」とは最善の時間に行われ、そしてそれは、何かが熟成したり円熟した時点に訪れる。それまでに多くの人々はなんらかの仕事に磨きをかけたり、みずからの仕事を洗練させる。多くの人は、どこかの時点で諦めてしまう。それは商業的に報われなかったからかもしれない。何らかの外的な環境で、仕事を続けることが難しくなったのかもしれない。それでも、ダニエル・ベックナーは少なくとも、ウルフ・パレードのメンバーとして、音楽的な感性を洗練させながら、ソロデビューの瞬間を今か今かと待ち望みつづけてきた。デビューアルバムというのは、アーティストが何者であるかを示すことが必須となるが、ダン・ベックナーのセルフタイトルの場合、ほとんどそこに躊躇や迷いは存在しない。驚くべきことに、彼は、自分が何をすべきなのかをすべて熟知しているかのように、ポピュラー・ソングを軽やかに歌う。

 

ニューウェイブ風のパルス状のシンセで始めるオープニング「Lose」のベックナーのすべてが示されている。イントロが始まる間もなく、ダン・ベックナーの熱狂的なボーカルが乗せられる。彼の音楽的な熱狂性は、平凡なミュージシャンであれば恥ずかしく思うようなものである。しかし、それは10代の頃、音楽ファンになった頃にすべてのミュージシャンが持っていたものであるはずなのに年を重ねていくごとに、最初の熱狂性を失っていく。本当に熱狂している人など、本当はほとんど存在しないのであり、多くの人は熱狂している”ふり”をしているだけなのだ。

 

外側からの目を気にしはじめ、さまざまな思想と価値観の[正当性]が積み上がっていくごとに、徐々に最初の熱狂は失われていく。しかし、本来、「音を子供のように楽しみ、そしてそれを純粋に表現する」という感覚は誰もが持っていたのに、ある年を境目として、誰一人として、そのことが出来なくなる。それは多くの人が勝利や栄光を得ようと躍起になり、最終的に全てを失うことを示す。デス・オア・グローリー・・・。敗北への恐怖が表現の腐敗へと続いている。

 

ベックナーの音楽が素晴らしいのは、恐怖を吹き飛ばす偉大な力が込められていることなのだ。

 

アルバムのオープナーを飾る「Lose」は、敗北への讃歌であり、負けることを恐れないこと、そして敗北により、勝利への最初の道筋が開かれることを示唆している。ときにベックナーのボーカルやシンセは、外れたり狂うことを恐れない。それは常道やスタンダードから外れるということ。しかし、「正しさ」と呼ばれるものは本当に存在するのか。もしくは、スターダムなるものは存在するのか。誰かが植え付けた、思い違いや誤謬を、それがさもありなんというように誰かが大々的に宣伝したものではないのか。それらの誤謬に誰かがぶら下がり、その旗に付き従うとき、「本来、存在しなかったものがある」ということになる。それがコモンセンス、一般常識のように広まっていく。しかし、考えてみると、そこに真実は存在するのだろうか? 

 

「Lose」

 

 

ダニエル・ベックナーの音楽は、少なくともそれらの常識から開放させてくれる力がある。そして推進力もある。もちろん、独立心もある。「Ghost In The Mirror」は、ドン・ヘンリー、アダムス、スプリングスティーンのようなアメリカンロックとソフト・ロックの中間にある音楽性を爽やかな雰囲気で包み込んだナンバー。80年代のUSロックの色合いを残しつつ、スペーシーなシンセサイザー、パーカッション効果により、スタンダードなロックソングへと昇華している。サビでのアンセミックなフレーズは、ベックナーのソングライティングがスタンダードなものであることを示している。そして鏡の中にいる幽霊を軽やかに笑い飛ばし、それを跡形なく消し去るのだ。「Wrong」はThe Policeの系譜にあるニューウェイブをベースにし、そこにグリッターロックやニューロマンティックの艶気を加えている。ダン・ベックナーのボーカルはやはりスペーシーなシンセに引き立てられるようにして、軽やかに宙を舞い始める。

 

「Don't Worry Baby」は、Animal Collective、LCD Soundsystemを彷彿とさせるシンセロックのアプローチを図っているが、サビでは80’sのNWOHMのメタルバンドに象徴されるスタジアムのアンセムナンバーに様変わりする。曲の中に満ちる奇妙なセンチメンタルな感覚は、Europeの「Final Countdown」のようであり、この時代のヘヴィ・メタルのグリッターロックの華やかさと清涼感のあるイメージと合致する。ベックナーは、T-Rexのマーク・ボランやDavid Bowieの艶気のあるシンガーのソングライティングを受け継ぎ、それらをノイズで包み込む。しかし、ノイズの要素は、アウトロにかけて驚くほど爽快なイメージに変化する。Def Leppardが80年代から90年代にかけて書いたハードロックソングを、なんのためらいもなくベックナーは書き、シンプルに歌い上げている。これらは並のミュージシャンではなしえないことで、ベックナーの音楽的な蓄積と経験により高水準のプロダクトに引き上げられる。

 

アルバム発売と同時にリリースされた「Dead Tourists」は、アーティストのマニアックな音楽の趣向性を反映させている。Silver Scooter、20/20といったバロックポップバンドの古典的な音楽性をイントロで踏襲し、レコード・フリークの時代の彼の若き姿を音楽という形で体現させる。アーティストはウェイツのような古典的なUSポピュラーのソングライティングに影響を受けているというが、ベックナーの場合はそれらはどちらかと言えば、ジャック・アントノフのバンド、Bleachersが志すような、シンセ・ポップ、ソフト・ロック、そして、AORの形で展開される。曲の進行には、80年代のUSポピュラー音楽のアンセミックなフレーズが取り入れられ、それが耳に残る。古いはずのものは言いしれない懐かしさになり、それらのバブリーな時代を彼はツアーする。MTVのネオンは街のネオンに変わり、それらはホラー映画のニッチさと結びつく。これらの特異な感性は、彼の文化的な感性の積み重ねにより発生し、それがシンプルな形でアウトプットされる。シューゲイズ・ギターは彼のヴォーカルの印象性を高める。そして、さらにそれを補佐するような形で、スペーシーなシンセ、グリッター・ロック風のコーラスが入る。 しかしこの80年代へのツアーの熱狂性はアウトロで唐突に破られる。 

 

 

 「Dead Tourists」

 

 

「Return To Life」はアナログなシンセ・ポップで、Talking Headsのデイヴィッド・バーンに象徴されるようなニューウェイブの気風が漂う。クラフトワーク風のデュッセルドルフのテクノ、それらをシンプルなロックソング、2000年代以前のマニアックなホラー映画のBGMと結びつける。これらはMisfits、WhitezombieといったB級のホラー映画に触発されたパンクやミクスチャーバンドの音楽をポップスの切り口で再解釈している。そしてダン・ベックナーのボーカル、チープなシンセの組み合わせは、アーティストによる米国のサブカルチャーへの最大の讃歌であり、また、ここにも、ナード、ルーザー、日陰者に対する密かな讃歌の意味が見いだせる。そして、それは90年代のレディオ・ヘッドのデビュー・アルバムの「Creep」の時代、あるいは2ndアルバムの「Black Star」の時代の奇妙な癒やしの情感に富んでいる。栄光を目指したり、スタンダードを目指すのではなく、それとは異なる道が存在すること、これらは数えきれないバンドやアーティストが実例を示してきた。ベックナーもその系譜にあり、ヒロイズム、マッチョイズム、もしくは善悪の二元論という誤謬から人々を守るのである。

 

どうしようもなくチープであるようでいて、次いで、どうしようもなくルーザーのようでいて、ダン・ベックナーの音楽は深い示唆に富み、また、世間的な一般常識とは異なる価値観を示し続け、大きな気づきを与えてくれる。一つの旗やキャッチコピーのもとに大多数の人々が追従するという、20世紀から続いてきたこの世界の構造は、いよいよ破綻をきたしはじめている。この音楽を聴くと、それらの構造はもう長くは持たないという気がする。そのレールから一歩ずつ距離を置き始めている人々は、日に日に、少しずつ増え始めているという気がする。

 

その目でよく見てみるが良い、ヨーロッパの農民の蜂起、アフリカの大陸、世界のいたるところで、主流派から多くの人が踵を返し始めている。「Euphoria」は、株式の用語で過剰なバブルのことを意味するが、ベックナーは古いのか新しいかよくわからないようなアブストラクトなポップで煙幕を張り、目をくらます。ベックナーは、親しみやすい曲を書くことに関して何の躊躇も迷いもない。「ダサい」という言葉、もしくは「敗北」という言葉を彼は恐れないがゆえ、真っ向から剣を取り、真っ向からポピュラーソングを書く。誰よりも親しみやすいものを。クローズの「Holy Is The Night」は驚くほど華麗なポップソング。誰もが書きたがらないものをベックナーは人知れず書き、それを人知れずレコーディングしていた。そう、Oneohtrix Pointnever(ダニエル・ロパティン)が録音を行っているすぐとなりのスタジオで。

 

 

 

86/100 
 
 

Weekend Track- 「Holy Is The Night」

 
 
Boecknerによるセルフタイトルアルバム『Boeckner!』は本日、SUBPOPからリリースされました。ストリーミングはこちら。 ご購入は全国のレコードショップ等

Homeshake




カナダ/トロントを拠点に活動するミュージシャン、ピーター・サガーによる長年のソロ・プロジェクト、HOMESHAKEが思い出を綴ったローファイアルバム『Wallet』をリリースする。


2023年の大半をトロントにあるピーターの自宅スタジオで作曲、レコーディングされた『CD WALLET』は、彼の故郷エドモントンを舞台にしたアルバム。成長期の思い出や、そこから数年後に戻ってきた時の感覚に触れている。


ピーターは、このアルバムが「若い頃の自分を印象づけるために、ヘヴィでストレートなインディーロック・スタイルで制作された」と説明する。ノスタルジアの感情や、過去を振り返るときに自分自身を見出す罠に取り組んでいる。


『CD WALLET』はまた、ピーターの初期のギター音楽への憧れを強調しているという。「目を覚ましてよ、おばあちゃん......、どうして、ちょっとお化粧しないの?」、そう家族に呼びかけた後、ピーターはシステム・オブ・ア・ダウンの「Chop Suey! 」を聴いて、口をポカンと開けたまま、『ギター・ワールド』誌の "Chop Suey!"のタブ譜を開いてみた。虫眼鏡で細かい字を読んでから、完全に唖然として仰向けになり、ギターは思ったより低いチューニングができることを知った。ドロップC。彼が今日まで使っているチューニングだ。これがアーティストとアルバムの誕生の始まりだ。


『CD WALLET』はHOMESHAKEの6枚目のフルアルバムで、ジョシュ・ボナティがマスタリングを担当した。2019年の『Helium』の "Early "は、2020年にHBOの『How To with John Wilson』の第5エピソードで取り上げられた。


2021年の『Under The Weather』に続き、HOMESHAKEは北米、ヨーロッパ、アジアで大規模なツアーを行った。


2022年、全6巻、126トラックのインストゥルメンタル・ミックステープ『Pareidolia Catalog』をリリースし、ブレイン・デッドとのコラボレーション・カセット・ボックスセットとTシャツを付属した。


同年、HOMESHAKEは、2017年のJoey Bada$$との "Love Is Only a Feeling "以来のコラボレーションのひとつであるEyedressの "Spaghetti "を共作、フィーチャリングしている。2024年にはさらなる新曲のリリースが予定されているほか、ライブバンドのメンバーであるグレッグ・ネイピア、マーク・ゲッツ、ブラッド・ルーグヘッドとの北米ヘッドラインツアーも発表される予定だ。



Homeshake 『CD Wallet』


 

マック・デマルコのバンドメイトとして活動していたピーター・サガーによるプロジェクトは、90年代のスロウコアバンド、CodeineとRed House Painterの再来と言って良い。上記バンドはオーバーグラウンドに押し上げられたグランジへの対抗勢力として台頭し、USインディーに大きな意義を与え続けている。

 

内省的なサウンドとコントラストを描く激情性の兼ね合いがスロウコアの醍醐味であったが、サガーは、90年代のスロウコアの憂愁と黄昏のすべてを受け継いでいる。また奇しくも、ロックの文脈としては、カレッジ・ロックの系譜にあるアルバムである。そこにデマルコのローファイとユニークなシンセのマテリアルを散りばめ、オリジナリティー溢れる作品へと仕上げた。

 

Homeshakeのサウンドはホームレコーディングに近いアナログな方式が採用され、そこにはカセットテープの音楽への親しみがあるように感じられる。そこに唯一無二のオリジナリティーを付け加えるのが、「ドロップC」のギターのチューニングである。例えば、ジミー・イート・ワールドの代表曲「Middle」で知られているようにドロップDのチューニングが90年代以降のロックシーンを風靡し、開放弦を作り、ギターサウンドに核心とヘヴィネスをもたらした。

 

ホーム・シェイクのプロジェクト名を冠して活動を行うピーター・サガーの場合は、システム・オブ・ア・ダウンに触発され、六弦のDをさらに一音下げにし、相対的に他のキーも下げる。弦はきつくチューニングすると高い音が出、ゆるくすると低い音になるが、彼のギターサウンドはゆるくなった弦のトーンの不安定さにその魅力が込められている。Homeshakeのギターサウンドは基本的にはマック・デマルコの最初期のローファイ性、それから近年のこのジャンルの象徴的なアーティスト群、コナン・モカシン、マイルド・ハイ・クラブ、アリエル・ピンク、そしてオスカーラングのデビュー当時のサイケ性を網羅している。しかし、上記の複数のアーティストのほとんどがR&Bを吸収しているのに対して、ピーター・サガーにはR&B色はほとんどない。純粋なオルトロック、カレッジロックのシフトが敷かれている。そして彼はクロスオーバーが起きる以前のオルタナティブロックへと照準を絞っている。ただ、その中には、同年代に発生したヒップホップのサンプリング的な編集方法があるのを見るかぎりでは、Dr.Dreに象徴されるオールドスクールのヒップホップの気風も反映されている。この点では、リーズのFar Caspianのようなローファイサウンドが全面的に敷き詰められているということが出来る。

 

しかし、ホームシェイクの場合は、フィル・ライノットに象徴されるアイルランド的な哀愁はほとんどない。むしろシアトルのアバディーンの80年代のサウンドを思わせるような他では求めがたいスノビズムがある。アンダーグランドに潜っているが、それは奇妙な反骨精神によって彩られる。表向きにアウトプットされる音楽はそのかぎりではないが、パンクの香りが漂うのである。このアルバムは、現在のアーティストが古き時代の自己を探訪するという意味が込められており、ピーター・サガーは、日記にも書かれず、あるいは写真にも見いだせなかった、もしくは誰の目にも止まらなかったかもしれない若い頃の自分をインディーロックサウンドを介して探し出し、それらのメランコリアの核心へと全9曲を通じて迫っていこうとするのである。



 

アルバム「CD Wallet」はシンプルに言えば、デジタルな音楽への徹底した対抗でもある。チューニングが狂ったようにしか聞こえないギターラインの執拗な反復と手作りのドラムキットを叩き、それをそのままアナログのラジオカセットに録音したようなローファイなサウンドがオープニング「Frayed」に聞き取れる。サガーは、デマルコを彷彿とさせるドリーミーなボーカルでギターラインを縁取る。アルバムの最初では、スノビズムやワイアードにしか思えないのだが、当初のアナログのデチューンのイメージはその音が何度も反復されると、不快なイメージとは正反対の心地よさが膨らんでいき、奇妙な説得力を持つようになる。その後、多重録音によりヘヴィネスを増したギターロックサウンドへ段階的に変遷を辿っていくと、Codeineのような激情系のノイズサウンドへ移行する。イントロでは驚くほど頼りなさげなサウンドは、一気に強力なヘヴィロックに変身する。かと思えば、そのヘヴィネスは永続せず、すぐさまサイレンスな展開へ踵を返す。アウトロのアップストロークのアルペジオは、Led Zeppelinの「Rain Song」のアウトロのような淡いエモーション、つまり奇妙な切なさの余韻をとどめているのである。 

 

「Frayed」

 

無機質なマシンビートで始まる二曲目の「Letting Go」も同じように、カレッジロックやナードロックの系譜にある。MTRの4トラックで作ったようなドラムのビートの安っぽさはビンテージな感覚を生み出す。夢遊的なボーカルは、ニルヴァーナのデモのような荒削りさがあり、Robyn Hitchcock(ロビン・ヒッチコック)やCleaners From The Venus(クリーナーズ・フロム・ザ・ヴィーナス)のカセットロックやカルト的なロックを思い起こさせるものがある。これらの要素を含めた曲は、スノビズムの範疇を出ないように思えるのだが、そのボーカルのラインとギター、そして、チープなマシンビートに聴覚を凝らすと、Benefitsのように催眠的な効果を発揮し、奇妙な説得力があるように思えてくる。ボーカルは明らかにマック・デマルコの系譜にあり、まったりとしており、そして彼の2014年のアルバム『Salad Days』の精細感を甦らせるのである。


「Smoke」でもヒップホップのリズムトラックの性質を受け継ぎ、スロウコア/サッドコアの系譜にある刺激的なロックソングを展開させる。他の楽器のパートの音域を相殺させるように中音域を限界まで押し上げたギターサウンドは相当過激であり、表向きのプロダクションとは正反対の印象を形作る。その上で、ホームシェイクは、カセットロックやローファイの真髄を知り尽くしたかのように、心地よいフレーズを丹念に組み上げていく。緻密な音作りに関しては、Far Caspian(ファー・カスピアン)、Connan Mockasin(コナン・モカシン)と同等かそれ以上である。そして、チューニングのずれたギターを積み重ね、同じようにピッチのずれたボーカルを乗せ、独特な音域のズレを発生させ、それらのエラーを次第に増強させていくのである。これらはデジタル主体のレコーディングに対する新しい考えを授けてくれる可能性がある。

 

同じようにホームシェイクは、アナログで発生するノイズを環境音のように解釈して、イントロではかすかにアンプリフィターから発生するノイズを見逃さずに録音に留めている。そのアンビエンスをイントロとして、鈍重かつ暗鬱な印象に彩られるスロウコアのヘヴィネスが展開される。オープナーと同様にシンプルなギターコードの反復の弾き語りのような形でこの曲は続いていき、レトロなシンセ、そしてその合間にヒップホップ的なドラムがしなるように鳴り響き、やがて最初のイントロの静謐な印象はシューゲイザーの轟音性にかき消される。そして過去の憂愁と内省的な感覚を抽象ではありながら鋭く捉え、リリックを紡いでいく。これらは現代的なローファイの先を行き、カニエ・ウェストの最初期のヒップホップと現代のローファイを繋げるような役割を果たしている。また言い換えれば、この曲のアプローチは、ローファイというジャンルが、ヒップホップとロックの中間に位置することを証し立てているのである。


本作の中盤の収録曲は、誰もが持つティーンネイジャーの外交的な活発さの裏側に隠された奇妙なノスタルジアとメランコリアの両方の時代へ舞い戻らせる喚起力がある。「Basement」でも基本的なソングライティングに大きな変更はない。リバーブやディレイを徹底して削ぎ落とした乾いたザラザラとした質感のあるギターを通じて、静謐さと激情の狭間を絶え間なく揺れ動くのである。やはりホームシェイクのボーカルは、十代の自己を癒やすかのように歌われ、それらの奇妙な傷つきやすさと内的な痛み、そして、それらの自己を包み込むようなセンチメンタルなボーカルが、どこまでも無限に続いていく。しかし、やがて、それらの夢想性と無限性は、Dinasour Jr.のJ Mascisのようなトレモロのギターの下降によってあっけなく破られる。

 

 

「CD Wallet」

 

 

アルバムのタイトル曲「CD Wallet」は、エリオット・スミスやスパークル・ハウスといった象徴的なインディーロックシンガーの死せる魂を現在に甦らせるかのようである。 スロウコアとサッドコアの悲しみと憂鬱を現代に復刻し、それはCodeineのようなエモーショナルな激情性に続いている。そしてディストーションサウンドが立ち上がった時、イントロやメロでの繊細なボーカルやそれとは対象的な力強さを帯びる。イントロでは繊細なインディーロックソングがにわかにハードコアのような苛烈な印象に変わる。これらの極端な抑揚の変化、気分の上昇と下降は、ティーンネイジャーの感受性の豊かさをリアルに捉え、内的な傷つきやすさを刻印している。ピーター・サガーは、平凡なアーティストであれば入り込むことをためらうような精神的な内郭へと一歩ずつ迫っていき、その内郭の最も奥深くにいる自己の魂を救い出すのである。

 

束の間の激情性を見せるが、その後、暗鬱なインディーロックソングが続き、アーティストは感情の奥処へと降りていく。「Penciled In」は、繊細なアルペジオ・ギターを中心としたポスト・ロック的なアプローチであるが、ピーター・サガーのボーカルには、マンチェスターのCarolineの賛美歌からの影響に近い聖なる感情をつかみ取ることが出来る。世間一般に蔓延する粗雑なエネルギーと対峙するかのように、それらの清廉な感覚を宿したボーカル、ヒップホップに近いドラムビート、どこまでも下降していくように感じられる傷つきやすいギターが多彩なタペストリーを作り出す。その上を舞うかのように、ピッチをずらしたボーカル、サイケデリックなシンセが混沌を作り出す。同じように「Mirror」でも、フィルターをかけたギターのアルペジオを中心とし、カレッジロックやスロウコアの黄昏と憂鬱をアーティストは探求している。

 

 

 アルバムのクローズを飾る「Listerine」は9分を超えるスロウコア/サッドコアの大作で、ロックの名作でもある。少なくとも、オルタナティヴ・ロックというジャンルの最高傑作の1つであることは疑いがない。内的な痛みを柔しく撫でるかのような繊細さ、対極的なチューブアンプから放たれるギターノイズ、これらは、ジミ・ヘンドリックスやジミー・ペイジ、あるいは、『ホワイト・アルバム』の時代のザ・ビートルズのギターのような調和的な響きを生み出す。

 

それらの轟音が途絶えたあと、アンビエント風のノイズのシークエンスが立ち現れる時、鳥肌が立つような感覚がある。基本的なロックのアプローチが続いた後、唐突に現れるこれらのノイズのシークエンスは、その後に続く展開の導入部分となり、アルバムの最初と同じように、シド・バレットのようなサイケ・ロックの無限性に繋がっている。しかし、苛烈なノイズロックの中にほの見えるのは、スロウコア、サッドコア、ストーナーにしか見られない、激しい重力と奇妙な癒やしの感覚なのである。アルバムの最後の最後では、最もヘヴィな局面を迎えた後、停止や沈滞、後退、前進、上昇をたえず繰り返しながら、驚くべきエンディングを迎える。ジャンルやアウトプットの方式こそ違えど、ロックとしてはVUの『ヴェルヴェット・アンダーグラウンド』、ザ・ビートルズの『ホワイト・アルバム』以来の傑作ではないかと推測される。

 

 

 

 

 

96/100

 


アルバムのご購入/ストリーミングはこちら

 

「Listerine」

 Weekly Music Feature 

 



Nils Frahm

 

ニルス・フラームは、ベルリンを拠点に活動するドイツのミュージシャン、作曲家、レコード・プロデューサー。

 

クラシックとエレクトロニック・ミュージックを融合させ、グランドピアノ、アップライトピアノ、ローランド・ジュノ60、ローズ・ピアノ、ドラムマシン、ムーグ・タウルスをミックスした型破りなピアノ・アプローチで知られる。

 

ソロ活動のほか、アンネ・ミュラー、オラファー・アルナルズ、F. S. ブルム、ウッドキッドといった著名な演奏家とのコラボレーションも発表している。フレデリック・グマイナー、セバスチャン・シングヴァルトとともにノンキーンとしてレコーディング、演奏活動を行っている。

 

フラームは早くから音楽に親しんできた。父のクラウス・フラームは写真家で、ECMレコードのジャケットデザインも手がけている。彼はハンブルグ近郊で育ち、そこでクラシックのピアニストや現代の作曲家のスタイルを学んだ。学校ではミキシング・ボードを使い、録音された音の質に強い関心を抱いていた。

 

フラームは、初期のピアノ・ソロ作品『Wintermusik』(2009年)と『The Bells』(2009年)で注目を集めたが、批評家から絶賛されたのは2011年にリリースした『Felt』だった。以来、彼の音楽をリリースし続けているErased Tapesからの初のスタジオ・アルバムである。このアルバムに続くソロ・シンセサイザーEP『Juno and by Screws』(2012年)は、フラームが親指の怪我から回復している間にレコーディングされ、彼の誕生日にファンに無料ダウンロードで提供された。『Juno』に続く『Juno Reworked』(2013年)は、ルーク・アボットとクリス・クラークをゲストに迎えてリワークした。アルバム『Spaces』(2013年)は、2年以上にわたる様々な会場でのライブ録音で構成されている。


2013年12月、フラームは初の音楽集『Sheets Eins』をマナーズ・マクデイドから出版した。2016年には続編となる『Sheets Zwei』がリリースされた。2014年、フラームはデイヴィッド・クラヴィンスが彼のために特別に設計・製作した新しいピアノ「Una Corda」を発表した。このピアノは重さ100kg以下で、一般的に使用される3本の弦ではなく、鍵盤1つにつき1本の弦が張られている。


オーバーダビングなしの即興シングル・テイクによるアルバム『Solo』(2015年)は、後に同じくデヴィッド・クラヴィンス製の高さ370cmの縦型ピアノ「Modell 370」でレコーディングされた。インパラ・アルバム・オブ・ザ・イヤーにノミネートされた19枚のうちの1枚である。シングル「More」の凝縮バージョンは、『アサシン クリード ユニティ』のgamescomトレーラーに登場した。


2015年、フラームはセバスチャン・シッパー監督による140分連続テイクのドイツ映画『ヴィクトリア』で初のオリジナル・スコアを作曲した。また、2015年10月に公開され絶賛されたJR監督の短編映画『ELLIS』でウッドキッドとコラボレーションした。


同年、ニルス・フラームは1年の88日目を祝う「ピアノの日」(標準的なピアノの鍵盤が88鍵であることに由来)を創設した。最初のプロジェクトは、デイヴィッド・クラヴィンスとともに「Modell 450」を製作することだった。これは「Modell 370」の後継機である。


2016年2月、フラームは『The Gamble』をリリースし、2016年8月にはその関連作『Oddments of the Gamble』をリリースした。Pitchforkはこのアルバムを「魅力的につぎはぎだらけで雑然としているが、テンポがよくダイナミック」と評した。アートワークはフラームの父親がプロデュースした。

 

フラームは、「私は、人間がある状況下でどのように反応するか、そして音楽が人々の感情に何をもたらすかに興味がある。音色によって人々の態度をどのように変えることができるのだろうか。私が良いコンサートをした後、人々は幸せそうに部屋を出ていく。これは世界に還元できることなんだ。人々が落ち込んだり、もうダメだと感じたりしたときに、少なくとも音楽を聴かせ、人々の態度を変えることで、そういうふうに思わせたくない......。それが僕の宗教なんだ」



 

ドイツのポストクラシカルの至宝、ニルス・フラームが、ソロピアノ曲の新作「Day」を発表する。2022年の夏、ベルリンの有名な複合施設ファンクハウスのスタジオを離れ、完全な孤独の中で録音されたこのアルバムは、3時間に及ぶ壮大なアンビエントの傑作「Music For Animals」以来となる。


「Day」は、過去10年間、フラームが最初にその名を知らしめたピアノ曲から徐々に離れていき、それでもなお、より楽器的に複雑で複雑なアレンジを施した独特のアプローチに移行していくのを見てきた人たちにとっては驚きかもしれない。


2021年、パンデミックの初期にアーカイヴの整理に費やしていた彼は、80分、23曲からなる「Old Friends New Friends」をリリース。「Music For Animals」の延長線上にあるアンビエント的な性質から判断すると、この作戦は成功したと言えようが、フラームは初心に帰らずにはいられない。「The Bells」、「Felt」、「Screws」といった高評価を得たアルバムを楽しんだ人々は、「Day」の慣れ親しんだ個人的なスタイルに満足するはずだ。「Day」には6曲が収録され、そのうち3曲が6分を超えるもので、フラームが2024年にリリースを予定している2枚のアルバムの第1弾となる。


しかし、その性質上、フラームはこのリリースについて歌ったり踊ったりはしない。その代わり、現在進行中のワールド・ツアーを再開する。すでにベルリンのファンクハウスでの15公演がソールドアウトし、アテネのアクロポリスでの公演も含まれている。2024年7月にロンドン・バービカンで開催される数回のソールドアウト公演を含め、世界各地での公演が続く。


このアルバムは、レコーディングされた時のように、静かで居心地の良い部屋で楽しむのが一番だ。周期的で静かなジャジーな「You Name It」では、ペダルのきしむ音がかすかに聞こえ、「Butter Notes」のアルペジオの緩和的な波紋では、外の通りで犬が吠える音が聞こえる。慈愛に満ちた「Tuesdays」と感情的に曖昧な「Towards Zero」は、ハロルド・バッドの初期の作品のような痛烈な粘りをもって余韻を残し、「Hands On」は、時に明るく、風通しの良い曲で、独自の意図的なペースを作り出している。


内密なムードが特徴的な「Day」は、フラームが現在、ピアノ、オルガン、キーボード、シンセ、さらにはグラス・ハーモニカまで駆使した手の込んだ祝祭的なコンサートで最もよく知られていることは間違いないが、シンプルさ、優しさ、ロマンスに影響を与える名手であることを証明している。

 

 


 『Day』/ Leiter-Verlag


    


フラームがエレクトロニック・プロデューサーとしての表情を持つ傍ら、鍵盤奏者としての傑出した才覚を持つことは、音楽ファンによく知られていることである。2009年頃、ドイツ・ロマン派に属するポスト・クラシカルのシングル「Wintermusik」を発表して以来、不慮の事故で指に怪我を負う等、いくつかの懸念すべき出来事も発生したが、結局のところ、2024年現在まで、(知るかぎりでは)フラームが鍵盤奏者であることを止めたことは一度もない。

 

そのなかで、鍵盤奏者としての性質をわずかに残しながら、意欲的なミニマル・テクノやエレクトロも制作してきた。BBC Promsへの出演を期に、英国等の音楽市場でもアーティストの知名度が上昇した経緯を見ると、フラームの一般的なイメージは「エレクトロニック・プロデューサー」ということになるのかもしれない。しかし、ミュージシャンとしての本質は、やはり鍵盤奏者にあるといわざるを得ない。結局、ミニマル・テクノやダニエル・ロパティンのような電子音楽の交響曲という要素は、鍵盤奏者としての性質の延長線上にあるということなのだ。

 

また、 ニルス・フラームは、ドイツのファンクハウス・ベルリンに個人スタジオを所有していることは詳しい方ならご承知かもしれない。しかし、かつては自宅の地下室に個人スタジオからファンクハウスベルリンに制作拠点を移したことは、こ過剰なプレッシャーを制作者に与えることに繋がった。そこから気をそらすため、フラームは時々、マヨルカ島にエネルギーの補填に行ったり、ベルリンの音楽仲間である現代のダブ・ミュージックの象徴的なプロデューサー、FS Blummとのコラボレーションを行っていた。つまり、これは推測するに、気分が詰まりがちな制作環境に別の気風をもたらそうとしたというのが所感である。

 

今回の最新アルバム『Day』は個人スタジオがあるファンクハウスから距離を置いている。このファンクハウスの個人スタジオは、『All Melody』のアルバムのアートワークにもなっている。なぜ制作拠点を変更したのかについては、東西分裂時代のドイツの閉塞感から逃れることと、作風を変化させることに狙いがあったのではないかと推測される。


フラームは、以前からドイツの新聞社、”De Morgen”の取材で明らかにしている通り、ワーカーホリック的な気質があったことを認めていた。しかし、そのことが本来の音楽的な瞑想性や深遠さを摩耗していることも明らかであった。おそらく、このままでは、音楽的な感性の源泉がどこかで枯渇する可能性もあるかもしれない。そのことを知ってのことか、ニルス・フラームは、2021年頃から、ライブの本数を100本ほどに徐々に減らしていき、パンデミックやロックダウンを契機に、彼のマネージャーと独立レーベル、”Leiter-Verlag”を設立し、その手始めに『Music For Animals』を発表した。これらの動向は、次の作品、そして、その次なる作品へ向けて、以前の活動スタイルから転換を図るための助走のような期間であったものと考えられる。

 

フラームは、活動初期のコンテンポラリークラシカル/ポスト・クラシカルの未発表音源を収録した2021年の『Old Friends New Friends』では、自身のピアノ曲を主体とする音楽性について、「ドイツ・ロマン派」的なものであるとし、いくらかそれを時代遅れなものとしていた。その後の『Music For Animals』はシンセサイザーによるアンビエント作品であったため、しばらくはピアノ作品を期待出来ないと私は考えていたのだったが、結局のところ、このアルバムで再び最初期の作風に回帰を果たしたということは、フラームの発言はある種のジョークのような意味だったのだろう。


しかし、原点回帰を果たしたからといえど、過去の時代の成功例にすがりつくようなアルバムではない。はじめに言っておくと、このアルバムはニルス・フラームの最高傑作の1つであり、ピアノ作品としては、グラミー賞を受賞したオーラヴル・アルナルズの『Some Kind Of Piece』に匹敵する。全編が一貫してピアノの録音で占められていて、あらかじめスコアや着想を制作者の頭の中でまとめておき、一気呵成に録音したようなライブ感のある作品となっている。


ここ数年の称賛された作品や、売れ行きが好調な作品を見るかぎりでは、そのほとんどが数ヶ月か、それ以上の期間がアルバムの音楽の背景に流れているのを感じさせるが、『Day』は、ほとんどそういった時間の感慨を覚えさせない。制作者によるライブ録音が始まり、それが35分ほどの簡潔な構成で終了する。多分、無駄な脚色や華美な演出は、このアーティストには不要なのかもしれない。フラームのアルバムは、ピアノの演奏、犬や鳥の鳴き声のサンプリング、そして、マイクの向こう側にかすかに聞こえる緊張感のある息遣いや間、それらが渾然一体となり、モダン・インテリアのようにスタイリッシュに洗練された音楽世界が構築されたのである。

 

 

オープニングを飾る「You Name It」は、2018年の『All Melody』に収録されていた「My Friend The Forest」の作風を彷彿とさせ、さらに2009年頃のポスト・クラシカルの形式に回帰している。ビル・エヴァンスのような洗練された演奏力があるため、少なくとも制作者が忌避していたようなアナクロニズムに堕することはほとんどない。 なおかつ、近年のエレクトロニックを主体とした曲や、アルバムに申し訳程度に収録されていたピアノ曲ともその印象が異なる。


演奏には瞑想性があり、まるでピアノの演奏を通じ、深遠な思索を行うかのようである。それは必ずしも「音楽のフィクションの物語」となるわけではないが、少なくとも、「音で言葉を語る」という、プロの音楽家としての水準を簡単にクリアしているように思える。


この曲は、氾濫する言葉から距離を置き、言葉の軽薄さから逃れさせる力を持っている。この曲を聞き、言葉に還ると、言葉というものの大切さに気づく契機となるかもしれない。フラームの演奏はアンドラーシュ・シフやグレン・グールドよりも寡黙であるが、しかし、そこには音楽を尊重する沈黙がある。これがこの音楽を聴いて、じっくりと聞きこませる力がある理由である。 

 

「Tuesday」

 

 

 

「Tuesday」も一曲目と同じように、ピアノハンマーの音響を生かしたディレイやサステインを強調したサウンド・デザインである。しかし、最初の一音の立ち上がり、つまりハンマーが鍵盤の蓋の向こうに上がる瞬間、感情性とロマンが溢れ出し、潤沢な時間が流れはじめる。曲には、イタリアのルチアーノ・ベリオの「Wasserklavier」のような悲しみもかんじられるが、 ロベルト・シューマンの「Des Abends(夕べに)」のようなドイツ・ロマン派の伝統性も含まれている。シューマンの曲は、夕暮れの哀愁に満ちた情感、ライン地方の景物の美しさからもたらされる自然味が最大の魅力だったが、この曲は同じような系譜にあるとても美しい曲である。


しかし、それは旋律進行の器楽的な巧みさというよりも、実際の演奏の気品や洗練された感覚からもたらされる。楽節としてはミニマル音楽の系譜にあるものの、その合間に取り入れられる休符、つまり沈黙の瞬間が曲そのものに安らぎを与える。その間には、ピアノの演奏時には聞こえなかった演奏者のかすかな息遣いやアコースティックピアノのハンマーの軋む音が聞き取れる。これは隙間を見出すと、微細な音を配そうという近年の音楽の流れとは対極にある。忙しない音の動きやリズムを過剰に強調するのは、音楽というものを信頼していない証でもある。フラームはそれを逆手に取り、あえてこういった間や休符の中にある安らぎを強調している。

 

「Butter Notes」は、ある意味ではこれまでとは打って変わって、古典派やバロック音楽への敬愛を示している。バッハの「コラール」や「平均律クラヴィーア」に見られるような構造的な音楽を対比的に配置し、特異な作風に昇華させている。この曲には、ベートーヴェンやシューベルトのソナタ形式の作品に対する親近感もあり、それはロマンティックな気風を持つ「B楽章」を元にしている。これらはシューベルトのピアノ・ソナタの主要作品や、ベートーヴェンの『月光』の系譜に位置づけられる。それらの古典的な作風を踏襲しつつも、低音を強調したダイナミックでモダンなサウンド・プロダクションに変容させる。その中には実験音楽の技法が導入され、ボウド・ピアノ(プリペイド・ピアノ)のデチューンさせたピアノ弦をベース音として取り入れるという前衛的な試行がなされている。既存のクラシックの楽曲に影響を受けながらも、アンビエンスを強調したりというように、モダンなサウンドが敷き詰められている。

 

 「Hands On」は、『All Melody』の時代から取り組んできたアンビエントとピアノミュージックの融合を次世代のエレクトロニックとして昇華させるというフラームらしい一曲となっている。この曲では、実際に鳴っている鍵盤の音と背後にあるハンマーの軋みという2つの音楽的な構造が同一線上にある2つの線へと分岐している。これらは「音楽によるメタ構造」ともいうべき作風を作り出す。Olafur Arnolds、Library Tapes、Goldmund,Akira Kosemura(小瀬村晶)といった最近のポスト・クラシカルの主要な演奏家は、この2つのプロダクションの融合に取り組んでいたが、この曲では2つのサウンドデザインをはっきり分離させることで、立体的な構造性を作り出す。また、前の曲と同様に、低音を強調したプロダクションは、ベーゼンドルファー(オーストリアのピアノで、現在はヤマハが買収)のような特殊な音響性を兼ね備えている。

 

 「Changes」でもプリペイド・ピアノの技法が取り入れられている。三味線や琵琶のような枯れた響きのある前衛的な音をモチーフとし、琵琶の演奏の技法が取り入れられている。これは武満徹がニューヨークで初演を行ったクラシックの交響曲「November Steps」にも取り入れられている。


この曲ではプリペイド・ピアノをウッドベースのように弾くことにより、こういった演奏が生み出されている。そして面白いことに、持続音が減退音に変化する瞬間、琵琶や三味線のようであった和風の音響性が、インドのシタールのようなエキゾチックな音色へと変わる。それはライブセットで実際に演奏楽器を変えるときのような、イマジネーションを膨らませるような効果がある。この曲は従来の作風に比べると、驚くほど明るく、清々しい感覚に彩られている。ピアノの演奏面での工夫もあり、バッハの「フランス組曲」、「イギリス組曲」に見られるような装飾音、スタッカートの技法を取りいれ、音の印象に変容をもたらしている。聞き方次第では、それ以前のスカルラッティのイタリアン・バロックに対する親しみとも読み解ける。

 

クローズ「Towards Zero」はこれまでフラームが書いてきた中で最高傑作の1つに挙げられる。ドイツ・ロマン派の音楽性に根ざしたイントロから瞑想的な旋律が紡がれる。スケールの中にはバッハの「コラール」の編曲を行ったブゾーニのような重厚さと敬虔な響きが含まれる。低音を強調し、ディレイとサステインに変化を与え、その中に鶏の声のサンプリングを配している。

 

これらの実験的なサウンドプロダクションについては、かつてシューマンが行った「Vogel als Prophet(予言の鳥)」におけるストーリーテリングのような音楽と、イタリアのレスピーギが「ローマの松」で世界で最初に行われたサンプリングの技法を複合させ、それを現在の視点から再解釈するという意義が求められる。そして、この曲にも、ライブパフォーマンスのような精細感のある録音形式が選ばれている。ここには息を飲むようなリアルな緊迫感、音のひとつひとつの立ち上がり、ノートが完全に消え入ろうとする瞬間に至るまで、制作過程の全てが収録されている。それは実際に鳴っている音だけではなく、空間の背後の音を掬い取ろうというのだろう。

 

ニルス・フラームが、アルバムのクローズ曲「Towards Zero」で試みようとしているのは、おそらく音を強調するということではなく、休符によって発生する空白を、ディレイ/リバーブ等を中心とするエフェクトで強調させ、その余白を徹底して増大させるということである。そして制作者の意図する「ゼロに向かう」という考えは、最終的に、坂本龍一の遺作と同じように、宇宙の根源的な核心へ接近していこうとする。一貫して、高水準のピアノ曲が示された後に訪れるのは、あっけない「沈黙」である。その敬虔な響きが徹底して強調され、アルバムは終わる。

 

また、最後の曲は、鳥の声のサンプリングが収録されているためか、新訳聖書のような文学性を思わせる。バイブルの中で、使徒ペテロがナザレのイエスを裏切るシーンと重なるものがあり、ミステリアスな印象を余韻という形で残す。特筆すべきは、カデンツァのトニカ(Ⅰ)で曲はおわらず、その途中で終了していることである。これはシューベルトが未発表のピアノ曲を遺稿として残し、未完に終わっていることを思い出させ、また、『ダヴィンチ・コード』のようにミステリアスな雰囲気に満ちている。果たして、音楽の後になんらかの続きが存在するのか? その答えは、次のアルバム以降に持ち越されるということになるのだろう。

 

 

 

96/100 

 

 

 

Weekend Track 「Towards Zero」

 

 

 

・Nils Frahm(ニルス・フラーム)の新作アルバム『Day』は本日よりLeiterから発売。ストリーミングやご購入はこちらから。

Colouring


「僕はかねてから音楽の中で自分の人生を正直に語るよりも、シナリオを作る側にいた」と、ジャック・ケンワーシーはベラ・ユニオンから発売されるセカンド・アルバム『Love To You, Mate』について語る。「自分の物語じゃないから、怖くなくなった。それは本来、共有すべきものなんだから」


ノッティンガムを拠点に活動するソングライター兼プロデューサーの人生は、デビュー・アルバム『Wake』のリリースを数ヵ月後に控えた2021年2月、義理の弟グレッグ・ベイカーがステージ4のガンと診断されたことで一変した。その後の人生は、一人の青年の人生を分断させることに執念を燃やしているように思えた。彼は、結婚したパートナー、ヘレンを支える柱になる必要があると特に自覚していたが、逆境に直面した家族が共に歩む道のりは、残酷でありながら美しいものであった。


「もちろん、私たちはとても怖かった」とケンワーシーは、アルバムのタイトル・トラックに刻まれた、病院で過ごした次のクリスマスについて回想している。「それでも、彼らはとても前向きで、優しくて、感動的な人々で、すべてを投げつけられて、信じられないような一体感と精神でそれに対処していた。私たちは皆、彼が私たちの人生にいてくれたことにとても感謝している」


Colouringは『Wake』以来ソロ・プロジェクトとして活動しており、このアルバムは00年代のポスト・ブリットポップの大御所たち(初期のコールドプレイ、エルボー)と並んでブルーナイルの影響を受けつつ、レディオヘッドやジェイムス・ブレイクからエレクトロニックとリズムのヒントを得ている。もともとはゴールドスミス在学中に4人の友人で結成されたバンドだったが、2019年に自然消滅した。バンドは2017年にEPをリリースした際に、ダーティーヒットの看板アーティスト、The 1975、ジャパニーズハウスとライブで共演した。特にこのとき、ケンワーシーはThe 1975のことを褒め讃え、学ぶべき点があったと語った。


2020年初頭、ケンワーシーの長年のコラボレーターであるジャンルカ・ブチェラーティ(アーロ・パークス)が、彼がプロジェクトを畳むという考えを一笑に付したおかげで踏ん切りがつき、ケンワーシーは普段しているように、栄養補給と逃避の手段として強迫的に作曲にのめりこむようになった。


グレッグが病気で倒れた頃、ジャックは「新しい音のパレット」を作っていた。「ただ書きたいことを書けばいい、何でも好きに言えばいい。問題が有れば後で歌詞を変えればいいんだから。その1年間、家族からのあるフレーズが彼の頭の中にこびりつくことになる。"どうしてこんなにリアルになったの?"とヘレンに言われたこともあった。「そして何かを書いているうちに、結果的にそういった感じの曲になってしまった」  激動の時代についてアルバムを作ろうという「本当の意図はなかった」ものの、「なんとなくそうなった」のだとか。



『Love To You,Mate』- Bella Union


Colouringこと、ジャック・ケンワーシーは元々は同名のバンドで活動していたが、2019年を境にソロ活動に転じている。彼はボン・イヴェールの次世代のポピュラーシンガーで、同時にエド・シーランのようなクリアなイメージを持つ歌唱力を持つ。彼が音楽的な影響に挙げるのは、ニール・ヤング、ジョニ・ミッチェルといった古典的なポピュラー、フォークシンガー。それに加えて、イヴェールのような編集的なプロダクションについては、エラード・ネグロとも共通項が見いだせる。ただケンワーシーの主要なソングライティングは、Jamie xxのようなエレクトロニックの影響下にあると思うが、それほど癖はない。つまり、カラーリングの曲は、どこまでも素直で、シーランのようであるのはもちろん、ルーシー・ブルーのような聞きやすさがある。

 

ケンワーシーは義理の弟の病の体験をもとにして、みずからの家庭の妻ヘレンとの関係、そしてそれらがどのような家族の関係を築き上げるのかを体験し、そこから逃げたりすることはなかった。誰かに押し付ける事もできたかもしれない。自分とは無関係と責任を放棄することもできただろう。それでも、結局、かれは、人間の生命の本質がどのように変わっていくのか、その核心に触れたことにより、実際にアウトプットされる音楽にも深みがもたらされた。がんになると、人間は驚くほど、その風貌が一変してしまうものだ。そして一般的に、その様子を見ると、自らの中のその人物の記憶がそもそも誤謬であったのではないかとすら思うこともある。


つまり、それは記憶の中にいる人物がだんだんと消し去られていくことを意味する。がんになった親戚がどのように元気だった頃に比べ、見る影もないほど窶れていく様子を見たことがあったけれど、それは悲しいことであるのと同時に、人間の生命の本質に迫るものである。つまり、どのような生命も永遠であるものはなく、必ずどこかで衰退がやってくるということなのだろう。それは生命だけにとどまらない、万物には、栄枯盛衰があり、栄えたものはどこかで衰える運命にある。世界には、不老不死や若返りを望む人々は多い。それは、有史以来、秦の始皇帝も望んでいたことだ。けれども、言ってみれば、それは生きることの本質から目を背けることである。そこで、人は気づく時が来る。どのような命も永遠ではないということ思うのだ。


カラーリングのアルバムは、しかし、そういった複雑な音楽的な背景があるのは事実なのに、そういった悲哀や憂鬱さを感じさせないのは驚異的である。もっと言えば、エド・シーランの曲のように、感情表現が純粋であり、淀みや濁りがほとんどない。アルバムの全体を通して、リスナーはカラーリングの音楽がさっぱりしていて、執着もなく、後腐れもないことを発見するはずだ。崇高とまでは言えまいが、ケンワーシーが現実とは異なる領域にある神々しさに触れられた要因は、彼が音楽を心から愛していること、それを単なる商業的なプロダクションとみなしていないこと、そして、2017年頃に彼自身が言った通り、「普遍的な愛がどこかにある」ということを信じて、それを探し求めたということである。ベラ・ユニオンのプレスリリースに書かれている通り、彼は音楽というもう一つの現実を持っていた。そして、ジャックはそれをみずからの音楽的な蓄積により、素晴らしいポピュラー・プロダクションを作り上げたのだ。

 

推測するに、ここ数年のジャック・ケンワーシーの私生活は、何らかの家族という関係に絡め取られていたものと思われる。それはときに、苦悩をもたらし、停滞を起こし、そして時には、耐えがたいほどのカオスを出来させたはずである。しかし、とくに素晴らしいと思うのは、彼はそれらのことを悔やんだり、恨みつらみで返すわけではなく、ひとつのプロセスとし、その出来事を体験し、咀嚼し、それらを最終的にクリアなポピュラー音楽として昇華させる。


アルバムの全体を聴くと分かるとおり、『Love To You, Mate』は最初から最後までひとつの直線が通っている。停滞もなければ、大きな目眩ましのような仕掛けもない。数年の出来事と経験をケンワーシーは噛み締め、どこまでも純粋なポピュラー音楽として歌おうとしている。彼の普遍的な愛の解釈に誤謬は存在しない。それは誰にでもあり、どこにでも存在する。つけくわえておくと、愛とは、偏愛とはまったく異なる。それは誰にでも注がれているものなのである。

 

結局のところ、そのすべてがアーティスト自身の言葉によって語られずとも、音楽そのものがその制作者の人生を反映していることがある。このアルバムからなんとなく伝わってきたのは、彼は学んだ本当の愛ーーそれは苦さや切なさを伴うーーを誰かと共有したかったのではないだろうか。そして、それはひとつの潜在的なストーリー、もうひとつのリアリティーとして続く。

 

「For You」はその序章であり、オープニングである。このアルバムの音楽は基本的にヒップホップのブレイクビーツを背景に、シーランを思わせるジャック・ケンワーシーの軽やかなボーカルが披露される。さらに、彼のボーカルに深みを与えているのが、ジェイムス・ブレイクのような最初期のネオソウルを介したポップスのアプローチである。オープナーは、驚くほど軽快に過ぎ去っていく。ピアノとギターのスニペットを導入することで、 深みをもたらすが、それは冗長さとか複雑さとは無縁である。どこまでもさっぱりとした簡潔なサウンドが貫かれる。

 

「I Don' t Want You To See You Like That」は ブレイクビーツやサンプリングを元にしたドラムのシャッフル・ビートを展開させる。オープナーと同じように、ジェイムス・ブレイクの影響下にあるネオソウル調のポップが続く。編集的なプロダクションはボン・イヴェールに近いものを感じるが、一方で、きちんとサビを用意し、シーランのようなアンセミックな展開を設けている。繊細なブリッジはピアノのアレンジやしなるドラム、北欧のエレクトロニカを思わせる叙情的なシンセにより美麗なイメージが引き上げられる。大げさなサビのパートを設けるのではなく、曲の始まりから終わりまで、なだらかな感情がゆったりと流れていくような感覚がある。

 

アルバムに内在するストーリーは、純粋なその時々の制作者のシンプルな反応が示されている。「How 'd It Get So Real」では戸惑いの感覚が織り交ぜられているが、しかし、その中でジャックは戸惑いながらも前に進む。冒頭の2曲と同じように、ブレイクビーツのビートを交えながら、なぜ、このようなことが起こったのか、というようなケンワーシーの戸惑いの声が聞こえて来そうである。それらが暗鬱になったり落胆したりしないのは、彼が未来に進もうとしているから。つまり、その瞬間、それはすべて背後に過ぎ去ったものとなる。この曲でも、サビの旋律の跳ね上がりの瞬間、言い知れないカタルシスを得ることが出来る。そして曲の中盤では、すでにそれらは彼の背後に過ぎ去ったものになる。そのとき、現実の中にある戸惑いや苦悩を乗り越えたことに気づく。そして、アウトロではやはり、ケンワーシーのコーラスとともに、ピアノの清涼感のあるフレーズが加わると、最初のイメージが一変していることに気づく。

 

 ポスト・ブリット・ポップの影響は続く「Lune」に反映されている。ここではコールドプレイを思わせる清涼感のある旋律に、ボン・イヴェールの編集的なプロデュースの手法を加え、モダンなUKポップスの理想像を描こうとする。シンガーの高音部のファルセットに近いメロディーが示された時、奇妙なカタルシスが得られる。続いて、ピアノのきらびやかなアレンジが夢想的な感覚を段階的に引き上げる。これらの独創的な高揚感は、フェードアウトに直結している。最近、意外とフェードアウトを用いるケースが少ないが、曲がまとまりづらくなったときのため、このプロデュースの手法を頭の片隅に置いておくべきかもしれない。実際、フェードアウトは感覚的な余韻を残させる効果があり、この曲では、その効果が最大限に発揮されている。 

 

 「Lune」

 

 

ジャック・ケンワーシーは、ジェイムス・ブレイク、トム・ヨークに近い作曲も行う。イギリスらしいアーティストと言えるが、彼はもうひとつの音楽的な引き出しを持っている。それがアイスランドのポップスで、続く「A Wish」ではアコースティックピアノを中心として、ポスト・クラシカル/モダン・コンテンポラリーの影響下にあるポピュラーミュージックを展開させる。


ピアノの演奏についてはニューヨークでモデルをした後に音楽家に転向したEydis Evensen(アイディス・イーヴェンセン)と、Asgeir(アウスゲイル)の中間にあるようなアプローチである。氷の結晶のように澄んだピアノに加え、ネオソウルの影響下にあるボーカルが清涼感を生み出す。


複雑な展開を避け、メロを1つのブリッジとしてすぐにサビに移行する。サビが終わると、イントロの静かなモチーフへと舞い戻る。最近、曲の構成が複雑化していることが多いが、音楽のシンプルさが重要であるのかをこの曲は教えてくれる。サビの段階では、エド・シーランに近い印象を覚えるが、ジャック・ケンワーシーの歌唱には驚くほど深みがある。それらを支えるのが祝福的な金管楽器のレガート、そして、ディレイを加えた編集的なプロダクションである。

 

素晴らしい曲が2曲続く。「This Light」は、エレクトロニックサウンドを基調としたポップで、ケンワーシーのボーカルはスポークンワードに近いボーカルを披露する。表向きの声にはゴールデン・ドレッグスのベンジャミン・ウッズのような人生の苦味を反映させた枯れた感じの渋さがあるが、サビでは、やはり祝福されたような高らかな感覚が生み出される。しかし、ある種、高揚感に近いテンションは、喧噪や狂乱には陥らず、すぐに静謐で落ち着いた展開へと戻る。ここにソングライターとしての円熟味、人間としての成長ともいうべき瞬間を見いだせる。最も理想的な音楽とは、狂乱を第一義に置くべきではなく、常に地に足がついた表現であるべきだ。そして、歌手の心のウェイヴを表現するように、ジャックのボーカルのメロディーの周りをシンセのアルペジエーターが取り巻き、彼のリードボーカルの感情性を高めていく。

 

タイトル曲「Love To You, Mate」は、ケンワーシーが古典的なポピュラー・バラードに挑戦したナンバーである。このトラックは、とくに義弟の病と家族の関係について書かれているようだが、それは先週のアイドルズの『Tangk』と同じように愛について歌ったもの。しかし、そのアプローチは対極にある。ジャックは一年の思い出、そして次のクリスマスへの思いをほろ苦い感覚を交え、回想するように歌う。しかし、彼は、それがどのようにほろ苦く、切なく、胸を掻きむしるようなものであろうとも、最終的には、それをシンプルな愛情で包み込もうとする。かつて、キース・ジャレットが『I Love You, Porgy』で、献身的に看病してくれた最愛の妻に対し、最大の感謝をジャズ・ピアノで示したように、ケンワーシーはポップ・バラードという形でそれらの思いに報いようとしている。その明るい気持ちが聞き手に温かい感情をもたらす。

 

「Coda」は、クラシック音楽の用語で「作曲家が最後に言い残したことを補足的に伝える」という意味がある。「A Wish」と同じように、アイスランドのポスト・クラシカルに根ざした流麗なピアノ曲のアルペジオを通して、ジャック・ケンワーシーは過去にある家族との思い出に美しい花を添える。花を添えるとは惜別であり、彼の一年間やそれ以上の期間との思い出に対する別れを意味する。この曲では簡潔でスムーズな展開を通して、歌手としての真骨頂が立ち現れる。とくに、ジャックのファルセットによる歌声は、ボーイ・ソプラノのようなクリアな領域に達する。この瞬間に真善美というべきなのか、最も美しい瞬間が訪れる。それは息を飲むような緊迫感を覚えるのと同時に、程よい力の抜けたようなリラックスした感覚が溢れ出す。


アンビエント風の実験的なインストゥルメンタル「small miracles」を挟んで、続く「For Life」では再び軽快なポップに還っていく。この曲では、アルバムの序盤と同様に、トラックにブレイクビーツの処理が施されているが、ケンワーシーのボーカルの性質はジェイムス・ブレイクというより、「KID A」の時代のトム・ヨークの影響下にある。独特なトーンを揺らすような歌唱法は、現代的なベッドルームポップ/インディーポップのアプローチと結びついて、ドイツの同ジャンルのアーティスト、クリス・ジェームスの主要曲のような軽やかさと疾走感をもたらす。


同じように、「Big Boots」の軽快なインディーポップソングで、アルバムは終わる。しかし、聞き終えた後、驚くほど後味が残らず、清々しい感じがある。それはまさしく、ジャック・ケンワーシーが過去の人生の苦みを噛み締めた上で、明るい未来に向けて進み始めている証拠である。

 

 

92/100

 

 

 「Coda」

 

先週のWEFは以下よりお読みください:

Royel Otis




 『Sofa Kings EP』で大成功を収めたロイエル・オーティスがデビュー・アルバム『Pratts & Pain』を本日リリースする。グラミー賞受賞者のダン・キャリー(Foals, Wet Leg)がプロデュースした本作は、サウス・ロンドンのプラッツ&ペイン・パブという居心地の良い場所で丹念に制作された。デュオは、歌詞を完成させ、アルバムの方向性を前進させるために、頻繁にそこに避難した。


 『プラッツ&ペイン』は、信頼と仲間意識によって育まれたロイエル・オーティスの音楽的進化の証である。音楽的には、このアルバムはインディーとサイケデリアをシームレスに融合させ、ファンを魅惑的な旅へと誘い、自発性を謳歌している。


 ロイエル・オーティスは、その核となる2人の絆に揺るぎはない。ロイエルが言うように、「私たちは互いの仲間や創造的相乗効果に喜びを感じている」という。「オーティスの直感と行動を信じることは第二の天性であり、私はそれを心から応援している。互いに支え合うことで、偉大さが生まれる」


 プロデューサーのダン・キャリーの有名なホーム・スタジオの角を曲がったところにあるサウス・ロンドンのパブ、「プラッツ&ペイン」は、ロイエル・オーティスの歴史において重要な位置を占めている。


 2023年初頭にキャリーとデビュー・アルバムを制作する際、幼なじみのオーティス・パヴロヴィッチとロイエル・マデルというオーストラリア出身のデュオは、歌詞を完成させ、最初のLPの方向性を決めるためにパブに出かけた。


「ダンがヴォーカルを録音してくれと頼むと、"30分だけ待ってくれ、プラッツ&ペインに行くから "と言って、パブで一杯やって、ショットを数杯飲んで、歌詞を書き上げたんだ」とロイエルは回想している。


 やがて、それが二人の間でちょっとした評判となり、彼らはこのレコードに『PRATTS & PAIN』というタイトルを名付けることになった。デビューアルバム全体を通して、ロイエル・オーティスはメロディアスでポップなインディーとウージーなサイケの間を揺れ動くが、ひとつのレーンに縛られている感じはほとんどない。ひとつのスタイルやムードが飽きられるとすぐに、サイケデリックな怪しさや不協和音のノイズへとハンドブレーキがかかり、聴く者を飽きさせることがない。2枚のEPの発表を経て、『PRATTS & PAIN』ではバンドの歴史のすべてが1枚のアルバムに集約されている。


 ロイエル・オーティスの曲を作るためのオープンな方程式は、『PRATTS & PAIN』にすべて書かれている。「Velvet」と「Big Ciggie」では、キャリーの11歳になる甥のアーチーがドラムで参加している。最初のシングル「Adored」では、完璧なインディー・ポップ・ヒットを完成させ、「Sonic Blue」では、この根底にあるエネルギーを保ち、鋭いラウド性に彩られたギターをトップに据えている。


 一方、「Velvet」はトーキング・ヘッズのユニークなエネルギーを持ち、「Molly」は不穏で深い雰囲気のスロー・ジャム。しかし、音楽がどのようなサウンド・テンプレートに基づいているにせよ、ロイエル・オーティスの核心は、相互信頼という基礎となるDNAに戻ってくる。ロイエルは言う。「一緒にいて楽しいし、難しいことはない。私はオーティスの考えを信頼している。



Royel Otis 『Pratts & Pain』 /  OWNESS PTY LTD



 ロイエル・オーティスは2019年にシドニーで結成された若手バンドであるが、すでに、ロンドンとマンチェスターのメディアを中心に注目を受けている。

 

 もちろん、オーストラリアという土地が英国人の移民が多いことを鑑みると、イギリスのリスナーがロイエル・オーティスの音楽にちょっとした親近感を見出すのは当然なのではないだろうか。そして彼らがロンドンでレコーディングし、そして同地のパブの名をタイトルに冠することについてもである。現在は夏のオーストラリアのミュージックシーンの盛り上がりを象徴づけるようなデュオであり、南半球にいる彼らが音楽を提供することは北半球に住む人にとって、春の雪解けを見届けるようなものである。

 

 さて、シドニーのデュオ、ロイエル・オーティスは3枚のEPを発表した後、『Sofa Kings』をリリースし、着々とファンベースを拡大させてきた。とりわけ、全般的な彼らの音楽の評価を高め、そして、ダン・キャリーをプロデューサーに起用するに至った経緯として「Murder on the Dance Floor」がある。このライブセッションは、ロイエル・オーティスがウェット・レッグに近い存在と見なされる要因となった。この曲のおかげでロイエル・オーティスがどれほどクールなバンドなのか、その評判が広まったのだ。 

 

 

 

 

 当時のファンの反応は「かなりクレイジーだった」とロイエル・オーティスはauducyの取材に対して次のように述べている。「私達はそれを始める前に一日リハーサルおこないました」とパブロヴィッチ。「ライブセッションを終えるのに一時間ありましたが、まあ、それが起こるということです」とマデルは付け加えた。

 

「私達はアイディアを検討していて、かなりストレスを感じていた」バンドの最初のアルバムのタイトル曲は、彼らの知名度を上昇させる要因となり、最初のヒットシングルになった。そして、このヒットシングルがどのように生まれたのかを解き明かした。


 ロイエル・オーティスはDMA'sと親しい関係にあるというが、そもそも「友達を利用しようと思った」と言い、「彼らにぴったりな曲を書いてみようと思った」と話している。このことはデュオがコミュニティ性を重視し、自分達の感覚をリアルな音楽としてアウトプットすることを証し立てる。もうひとつ、彼らの音楽を語る上で、日本の映画と漫画の影響があることも付け加えておきたい。ジブリ映画、「AKIRA」といった作品は彼らの音楽にSFと幻想的な要素をもたらしている。他にも韓国のポップカルチャーにも、ロイエル・オーティスの二人はちょっとした親しみを感じているという。

 

 ロイエル・オーティスの『Pratts & Pain』のサウンドは、ダンキャリーがプロデュースを手掛けたということもあってか、Wet Leg(ウェット・レッグ)のオルトポップとSF的な雰囲気を持つ未来志向のポスト・パンクのクロスオーバーに近い。しかし、そこにレコーディングの場所もあいまってか、英国的な匂いのするアルバムである。そして、実際にデュオがサイケ、ローファイ、ポスト・パンク、ネオソウル、プロトパンクという複数の影響を内包させながら、英国のフットボール・スタジアムで聞かれるようなチャントのコーラスを意識していることがわかる。アルバムの冒頭「Adored」は、Nilfur Yanyaの『Pailnless』に収録されていた「stabilise」の影響下にあり、ドライブ感とフックのあるポスト・パンクをよりスタイリッシュに洗練させている。

 

 また、ロイエル・オーティスは、ディスコサウンドとジャミロクワイからの影響を公言しているが、「Fried Rice」は、ダンサンブルなポスト・パンクをイギリス的なテンションで包み込んだかのような痛快なトラックだ。ワイト島のデュオのように脱力感のあるポップセンスと曲の運び方は同様であるのだが、そこにフットボールチームのチャントのようなテンションを付加しているのがかなり新鮮である。タイトルを「Fish & Chips」にしなかったのが惜しいが、少なくともロンドンのパブでギネスかペールエールのパイントを飲み、プレミアリーグの試合を観戦する時のような、熱狂と無気力さと陽気さの中間にある奇妙なワクワクした感覚がこの曲にはわだかまっている。

 

 サイケロック・サウンドからの影響はファンクの要素と合わさり、セッションの内的な熱狂性がパッケージされている。しなるようなギターのカッティングは70、80年代のミラーボールディスコやディスコファンクの要素と融合し、ノースロンドンのGirl Rayを思わせるダンサンブルなナンバーに昇華している。ただインディーポップの要素が強いガール・レイとは対象的にロイエル・オーティスのサウンドはギター・ポップやLAのローファイやサイケロックに傾倒している。それは例えば、Miami Horror(マイアミ・ホラー)のようなスタイリッシュなディスコサウンドという形で展開される。これはまさにウェスト・コーストサウンドの現代版として楽しめるかもしれない。

 

 ロイエル・オーティスのプロトパンクからの影響、Sonic Youthの変則チューニングのギターサウンドの影響は「Sonic Blue」に見いだせる。『Bad Moon Rising』の頃のニューヨークのアヴァン・ロック/プロトパンクを一般的に聞きやすく親しみやすく昇華させ、ドライブ感のあるポストパンクによって展開させる。


 このアプローチは、IDLESと大きな違いはないと思うが、シンセのマテリアルのキラキラした輝き、ボーカルの鮮烈な印象は「TANGK」に匹敵する。全体的にはロサンゼルスの双子のデュオ、The Gardenのような勢いに任せたような適当さと荒削りさがあるが、適度に力の抜けたサウンドはスカッとしたカタルシスをもたらす瞬間がある。疾走感のあるポスト・パンクは炭酸ソーダを飲み終えたときのような清々しい感じに満ちている。

 

 ロイエル・オーティスのサウンドは、その後も変幻自在に基底とする音楽性を少しずつ変化させていき、「Heading For The Door」では、ネオソウルの影響を絡めたインディーポップで聞き手にエンターテイメント性をもたらし、続いて「Velvet」では、70年代のウェストコーストロックをプレミアリーグのチャントのように変化させる。

 

 これらのサウンドがそれほど安っぽくならないのは、彼らがブルース・ロックを何らかの形で間接的に聴いているから。そしてそのイメージからは想像できないような渋さは、ローリング・ストーンズのようなホンキートンクに近くなり、最終的にはSham 69のフットボールのチャントを基調とするUKのオリジナルパンクの源流に至る。言うまでもなく、ライブステージではシンガロングを誘発するはず。これらのサウンドには現在のロンドンのバンドよりもイギリス的な本質が流れているかもしれない。それはもしかすると、デュオの隠れたイギリス的なルーツに迫っているとも言える。 

 

 

「Velvet」

 


 

 6曲目までを前半部とすると、アルバムの後半では、ややこれらの変幻自在なサウンドに変化が見える。

 

 いうなれば、パイントのギネスをしばらくテーブルの上に置いておいた時のような渋い味わいに変わる。「IHYSM」は勢いのあるポストパンクで鮮烈さを感じさせ、「Molly」でもBar Italia(バー・イタリア)の三人が好むようなダウナーなスロウバーナーとして楽しめる。「Daisy Chain」ではウェット・レッグのようなアンセミックなインディーポップとニューウェイブの合間を探り、Indigo De Souzaのデビュー当時の鮮烈さを思わせる。

 

 それらのダサさとかっこよさの絶妙なバランス感覚を持ち、アルバムのその後の収録曲をリードし続けている。ただ本来、ロックやパンクはそういったアンビバレントな感覚を探るものでもあるからそれほど悪いことではない。そのあと、ギリギリの綱渡りのようなスリリングな感覚で曲が進んでいき、「Sofa King」ではダンサンブルなビートに彩られたサイケデリック・ロック、「Glory to Glory」では、The ClashのようなUKのオリジナルパンクをインディーポップから再解釈している。曲のサビの部分にはフックがあり、これらのアンセミックな展開はライブでその真価を発揮しそう。

 

 このアルバムの最も興味深い点は、終盤になればなるほど音楽的な年代が遡っていくような感覚を覚えること。


「Always Always」ではBeach Fossilsがデビュー時に試みたビンテージロックの再現性を再考する。クローズ曲では、ロンドンのHorseyのロックとミュージカルを融合したようなシアトリカルなサウンドで終わる。 そしてまだ何か残っているという気がする。

 

 正直なところ、ロイエル・オーティスの二人が作り出すサウンドは、取り立てて圧倒的なオリジナリティーがあるというわけではないけれど、アルバムの収録曲の随所から、二人の才覚の煌めきと、押さえつけがたいようなポテンシャルも感じ取れる。それはおそらく両者の信頼関係からもたらされるものなのだろうか。しかし、まだ、このアルバムで彼らのポテンシャルの全てを推し量ることは難しいかもしれません。ただ、今週のアルバムの中では、一番真新しさと楽しさがある素敵なサウンドでした。

 

 


85/100




Royel Otis 『Pratts & Pain』はロイエル・オーティスの自主レーベル、OWNESS PTY LTDから発売中。ストリーミング/ご購入はこちら

 


 

Weekend Featured Track「Sonic Blue」





先週のWEFは以下よりお読みください:

Weekly Music Feature

‐The Telescopes


 

  イギリスのバンド、ザ・テレスコープスは1987年から活動している。バンドのラインナップは常に流動的で、レコーディングに参加するミュージシャンは1人だったり20人だったりする。この宇宙で不変なのは、ノーサンブリア生まれのバンド創設者で作曲家のスティーヴン・ローリーだ。


当初はチェリー・レコードと契約していたが、後にホワット・ゴーズ・オン・レコードに移籍し、インディ・チャートの上位に常連となった。ザ・テレスコープスの音楽には堅苦しい境界線はなく、様々なジャンルを網羅し、常にスティーブン・ローリーのインスピレーションに導かれながら独自の道を歩んでいる。


スティーヴン・ローリーが、13th Floor Elevators、The Velvet Underground、Suicideといったアメリカのアンダーグラウンド・アイコンへの愛情を注ぎ込む手段として1987年に結成して以来、バンドはノイズ、シューゲイザー、ブリットポップ、スペース・ロックの世界に身を置きながら、そのどれにも深入りすることなく活動してきた。むしろローリーは、それらすべてをつなぎ合わせて、完全にユニークなドリームコートのようなものを作り上げることを好んできた。


1992年にクリエイション・レコードからリリースされた彼らの名を冠した2枚目のLPは、その年にパルプやシャーラタンズが発表したレコードよりも、ブリットポップへの強力なサルボである。


10年の歳月をかけて制作された続編『サード・ウェイブ』では、ローリーはジャズとIDMに没頭し、Radioheadの「KID A」の後の世界におけるロック・バンドというフォーマットの無限の可能性を示すにふさわしい作品を作り上げた。


約10年前から、テレスコープスは、Tapete Recordsという新しい国際的なレーベル・パートナーを得ている。2021年にリリースされた前作『Songs Of Love And Revolution』は再びUKインディ・チャートにランクインし、ボーナス・エディションにはアントン・ニューコム、ロイド・コール、サード・アイ・ファウンデーションがリミックスを提供した。楽曲は時の試練に耐え、聴くたびに新しい発見がある。かつてイギリスの新聞は、ザ・テレスコープスを「舗道というより精神の革命」と書いた。この共通項は、30年以上に及ぶ影響力のある作品群を貫いている。ザ・テレスコープスは、世界中の様々なジャンルのアーティストに影響を与えている。


「Growing Eyes Becoming String」は、イギリスのノイズ・ロックのパイオニア、ザ・テレスコープスの16枚目のスタジオ・アルバムである。


元々は2013年に2回のセッションでレコーディングされ、1回目は厳しいベルリンの冬にブライアン・ジョネスタウン・マサカーのスタジオでファビアン・ルセーレと、2回目はリーズでテレスコープス初期のプロデューサー、リチャード・フォームビーと行われた。10年近く前、ハードドライブのクラッシュに見舞われたこのセッションは、失われたものと思われ、すぐに忘れ去られてしまった。デジタル・エーテルから奇跡的に救出され、結成メンバーのスティーヴン・ロウリーがパンデミックの中、自身のスタジオで仕上げたこのアルバムは、2024年2月にFuzz Clubからリリースされることが決定、2013年当時のザ・テレスコープスの別の一面が明らかになった。


当時の彼らのフィジカル・アウトプットのほとんどが実験的なノイズ・インプロヴィゼーションで構成されていた。それらが明らかな構造とはかけ離れたものであったのに対し、『Growing Eyes Becoming String』は、ロンドンの実験的ユニット、ワン・ユニーク・シグナルがバックを務めるザ・テレスコープスが、並行する存在として、より歌に基づいた音楽を実際に生み出したことを示している。アルバムに収録される全7曲には、長年のファンがザ・テレスコープスの音楽から連想するクオリティのトレードマークがすべて詰まっている。ソリッドなボーカル、メロディ、ハーモニー、ノイズ、不協和音、即興、実験、そして自然の視覚の領域を超えた旅。


「この2つのセッションの目的は、ブラインドで臨み、完全にその場にいることだった」とスティーヴン・ローリーは振り返っている。「先入観なんかは一切なくて、すべてが "W "だったのさ」



『Growing Eyes Becoming String』- Fuzz Club



  当初、イギリスのロックバンド、The Telescopes(テレスコープス)の音楽活動は1980年代に席巻したブリット・ポップの前夜の時代のミュージック・シーンに対する反応という形で始まった。フロントパーソンのスティーヴン・ローリーには才能があったが、まだ一般的に認められる時代ではなかった。「10代の頃に起こった悪いことや、80年代のチャートを支配した酷い音楽等に触発された。テレスコープスは、まわりのほとんどのものに対する反応だった」 

 

 その当時から、テレスコープスは流動的にメンバーを入れ替えて来た。最初のリリースの前にも、ラインナップ変更があった。しかし、それらは偶然の産物であり、意図的なものではなかった。状況によってメンバーを入れ替えたにすぎないという。80年代から、スティーヴン・ローリーが触発を受けた音楽は、「周りの暗闇を受け入れながら、光の中で創造されたもの」ばかりだった。 ニューヨークのプロトパンク/ローファイの始祖、The Velvet Undergroundは言うに及ばず、サイケデリック・ロックの先駆者、The 13th Elevators、アラン・ヴェガを擁する伝説的なノイズロック・バンド、Suicideなど、スティーヴン・ローリーの頭の中には、いつもカルト的だが、最も魅力的なアンダーグラウンドのバンドの音楽が存在した。

 

  もうひとつ、ローリーに薫陶を与えたのが、イギリス国内のダンスミュージックだった。「私達は、バーミンガムやノッティンガムで遊び始め、当時流行っていたファンジンの文化を通して、言葉が広まっていった。私達の最初のロンドンでのショーは誰もいなかった。ケンティッシュタウンのブル&ゲートでハイプをプレイした時、観客は20人しかいなかった。その当時、カムデンのファルコンでは、多くのノイズバンドが最初のギグを行っていた。”パーフェクトニードル”を発表したときには、ファルコンでのショーはいつも満員となり、凄まじい熱気だった」

 

  正確に言えば、バンドはその後、MBVなどを輩出した''Creation''と契約を結び、リリースを行った。クリエイションのレーベル創設者、アラン・マッギーが彼らのショーを見に来た時、あまりに強烈すぎて、彼はその場を去らなければならなかった。翌日、彼はそれが良いことであると考え、テレスコープスに連絡を取り、マスターテープとライセンスを寄与するように求めた。ローリーはそれに応じ、クリエイションとの契約に署名する。その後、彼は引っ越し、創造的な側面に夢中になり、スタジオに行く時間を増やした。しかし、ショーではバイオレンスがあった。唾を吐きかけられたり、ボトルを投げつけられることに、ローリーは辟易としていた。そんなわけで、インスピレーションに従い、レコードを制作することに彼は専心していた。

 

 

  セカンド・アルバムをリリースした後、ブリット・ポップの全盛期が訪れた。同時にそれはテレスコープスにほろ苦い思い出を与えるどころか、ミュージックシーンから彼らの姿を駆逐することを意味していた。ローリーは燃え尽き症候群となり、しばらく無期限の活動休止を余儀なくされることになった。それから何年が流れたのか、音楽はどのように変わっていったのか。それを定義づけることは難しい。少なくとも、ローリーはガラスの散らばっているような部屋で暮らし、財政的には恵まれなかったが、少なくとも、音楽的な熟成と作曲の才覚の醸成という幸運を与えた。ローリーは、誰も彼のことを目に止めない時代も曲を書き続けた。長い時を経て、2015年にドイツのレーベル、Tapete Recordsと契約したことがテレスコープスに再浮上の契機を与えたことは疑いがない。『Stone Tape』を皮切りにして、『Songs Of Love and Revolution』とアルバムを立て続けに発表した。この数年間で、テレスコープスはイギリス国内のインディーズチャートにランクインし、文字通り、30年の歳月を経て、復活を遂げたのだ。

 

  もうすでに、『Growing Eyes Becoming String』はレーベルのレコードの予約は発売日を前にソールドアウト、また、日本のコアなオルタナティヴロックファンの間で話題に上っている。それほど大々的な宣伝を行わないにもかかわらず、このアルバムは、それなりに売れているのだ。音楽を聞くと分かる通り、このアルバムは単なるカルト的なロックでもなければ、もちろんスノビズムかぶれでもない。Velvet Undeground、Stoogesの系譜にあるノイズ、サイケ、ブリット・ポップに対するおどろおどろしい情念、そして、Jesus and Mary Chainのような陶酔的な音楽性が痛烈に交差し、想像だにしないレベルのレコードが完成されたということがわかる。

 

 

   #1「Vanishing Lines」を聞くと分かる通り、テレスコープスのギターロックを基調とした全体的な音楽の枠組みの中には、70年代のサイケデリックロックや、ザ・ポップ・グループのような前衛主義、なおかつ、ニューヨーク/デトロイトのプロトパンクを形成するヴェルヴェット・アンダーグラウンド、ストゥージズ、スイサイド、スワンズといった北米のアンダーグランドのマニアックな音が絡み合い、ミニマルによる構成力を通じて、ラフなセッションが展開される。しかし、エクストリームなノイズは、ごくまれにメリー・チェインズのようなシューゲイズ/ドリーム・ポップの幻影を呼び覚まし、スティーヴン・ローリーのモリソンを彷彿とさせる瞑想的なボーカル、同時に、ドリーム・ポップのゴシック性が噛み合った時、独創的なギターサウンドや、ローファイ、ノイズに根ざした独創的なバンドサウンドが産み落とされる。

 

  本作の冒頭の曲の中には、シャーランタンズやパルプのような主流から一歩引いたブリットポップのグループのメロディー性が受け継がれている。そして、スティーブン・ローリーのボーカルは、最終的にシガレット・アフター・セックスのような夢想的で幻惑的なイメージを呼び覚ます。それは1980年代後半や90年代前半に、彼がブリット・ポップ・ムーブメントを遠巻きに見ていたこと、あるいは、商業的に報われなかったということ、そのことが、この時代の象徴的なミュージシャンやバンドよりもブリット・ポップの核心を突いた音楽を生み出す要因ともなったのである。ローリーの瞑想的なギター、そしてボーカルに引きずられるようにして、ローファイかつアヴァンギャルドなロックが、きわめて心地よく耳に鳴り響くのだ。

 

 「In The Hidden Fields」

 

 

 

  #2「In The Hidden Fields」には、スティーヴン・ローリーがこよなく愛する東海岸のプロトパンクに対するフリーク的な愛着が凝縮されている。The Stoogesの「1969」、「I wanna be your dog」を思わせる、ガレージ・ロック最初期の衝動性、プロトパンクを形成する粗さ、そういったものが渾然一体となり、数奇なロックソングが生み出されている。しかし、テレスコープスは現代のロサンゼルスで盛んなローファイの要素を打ち込み、それをミニマルな構成によりフィードバックノイズを意図的に発生させ、それらを最終的に、サイケデリックな領域に近づける。時代錯誤にも思えるローファイなロックは、驚嘆すべきことに、カルト的な響きの領域に留まらず、ロンドンのBar Italiaのような現代性、そして奇妙な若々しさすら兼ね備えている。

 

  プロトパンクやサイケロックの要素と併行して、この最新アルバムの中核をなしているのが、Melvins、Swansに代表される、ストーナー・ロックとドゥーム・メタルの中間にあるゴシック的なおどろおどろしさである。俗に言われるドゥーム・メタルのおどろおどろしい感じを最初に生み出したのは、Black Sabbathのオズボーンとアイオミであるが、そのサブジャンルとしてドゥーム、ブラック・メタル、スラッジ・メタル等のサブジャンルが生み出された。

 

  テレスコープスは、そういったメタル的なドゥーム性を受け継ぎ、#3「Dead Head Light」において、彼ららしいスタイルで昇華している。Swansの「Cops」を思わせるヘヴィーロックを構成する重要な要素ーー重苦しさ、閉塞感、内向き、暗鬱さ、鈍重さーーこういった感覚が複雑に絡み合い、考えられるかぎりにおいて、最も鈍重なヘヴィーロックが誕生している。フロントマンのローリーは、暗い曲を書くことについて、「今の世の中は暗いのに、どうして明るい曲を書く必要があるの」と発言しているが、それらの世の中にうごめく、おぞましい情念の煙霧は、ノイズという形でこの曲を取り巻き、聞き手をブラインドな世界へといざなっていく。それらの徹底的に不揃いであり、いかがわしく、どこまでも不調和なこの世の中を鋭く反映させたような音楽を牽引するのが、ロールを巧みに取り入れたラフなドラムのプレイである。 

 

 

 「We Carry Along」

 

 

 

  テレスコープスのドリームポップ/シューゲイズの音楽性は、アルバムの中盤の収録曲、#4「We Carry Along」に見いだせる。フィールド録音を取り入れて、バンドは本作のなかで最もシネマティックなサウンドを表現しようとしている。ダウナーなローリーのボーカルと、幻惑的な雰囲気のあるギターロックの兼ね合いは、かつてのヴェルヴェット・アンダーグラウンドのティンパニーを用いたスタイルでリズムが強化され、半音進行の移調により、トーンの微細な揺らめきをもたらす。スティーヴン・ローリーのボーカルは、本作の中で最もグランジ的なポジションを取っているが、それは、Soundgardenのクリス・コーネルのサイケデリックで瞑想的なサウンドに近い。この曲には、オルタナティヴ・メタルの名曲「Black Hole Sun」のような幻惑的な雰囲気が漂う。それらの抽象性は、コーネルが米国南部の砂漠かどこかを車でぼんやりドライブしていたとき、「Black Hole Sun」のサビのフレーズを思いついた、という例の有名なエピソードを甦らせる。「We Carry Along」には、ノイズ・ロックの要素も込められているが、同時にその暗鬱さの中には奇妙な癒やしが存在する。砂漠の蜃気楼の果てに砂上の楼閣が浮かび上がってきそうだ。それはフィールドレコーディングの雷雨の音により、とつぜん遮られる。


  アルバムのハイライトとも言える#5「Get Out of Me」は、彼らの主流のスタイルであるミニマルな構成のローファイ・ロックという形で展開される。小規模でのライブセッションをそのまま録音として収録したかに思えるこの曲は、テレスコープスの代名詞であるローリーのシニカルで冷笑的なボーカル、そして、Swansのように重苦しさすら感じられるスローチューンによって繰り広げられる。シンセのサイケデリックなフレーズ、Melvinsのバズ・オズボーンが好む苛烈なファズがギターロックという枠組みの範疇にあるドローン性を形成し、それらの幻惑的なサイケ・ロックの中にダウナーなボーカルが宙を舞う。最後には、地の底から響くようなうめき、悲鳴にもよく似た断末魔のような叫びを、それらのサイケロックの中に押し込めようとする。


 

  「世の中が暗いのに、なぜ明るいものを作る必要があるのか?」というローリーのソングライティングの方向性は、アルバムの終盤になっても普遍的なものであり、それがテレスコープスの魅力ともなっていることは瞭然である。しかし、どこまでも冷笑的で、シニカルなバンドサウンドが必ずしも冷酷かつ非情であるとも言いがたい。「What Your Love」では、すでに誰かがどこかに速書きのデモソングとして捨てたかもしれないMBVのドイツ時代の音楽性や、スコットランドのPrimal Screamのギターポップ、Mary ChainsやChapterhouseのシューゲイズの源流を成すノイズを交えたドリーム・ポップの音楽性を継承し、それらの音楽を現在の地点に呼び覚ます。


  アルバムの最後には、意味深長なタイトル曲代わりの「There is no shore(海岸はもうない)」が収録されている。テレスコープスは、本作の前半部と中盤部の収録曲と同じように、70年代の西海岸のサイケデリアとニューヨークのプロトパンクを下地にし、一貫して堂々たる覇気に充ちたヘヴィーロックを披露する。そして、ENVYの最高傑作『A Dead Sinking Story』の『Chains Wandering Deeply』を思わせる、ドゥーム・メタルの雰囲気に満ちたダークでダウナーなイントロから、へヴィーなリフとノイズと重なりあうようにして、亡霊的に歌われる「海岸はもうない、もうない……」というローリーのボーカルが、幻惑的な雰囲気を持って心に迫ってくる。この曲には、Borisのようなバンドの前衛音楽の実験性に近いニュアンスも見いだせるが、テレスコープスのスタイルは、どこまでもドゥーム・メタルのようにずしりと重く、暗い。

 

  最後に、それは幻惑という印象を越えて、秘儀的な領域に辿り着く。米国のプロトパンクやドイツのノイズを吸収しているが、秘儀的な音楽としては、どこまでも英国的なバンドである。表面的なイメージとは裏腹に、テレスコープスこそ、Crass、This Heat、Pink Floyd、Black Sabbath、こういった英国のアンダーグランドの系譜に位置づけられる。それは、サバスの「黒い安息日」の概念が生み出した「メタルの末裔」とも言える。アルバムの音楽から汲み取るべきものがあるとすれば、それは究極的に言えば、現代社会の資本主義のピラミッドから逃れられぬ人々がどれほど多いのかという、冷笑的でありつつも核心を捉えたメッセージなのである。

 

 

94/100
 

 

Weekend Featured Track- 「Get Out of Me」

 

 

 

The Telescopesの新作アルバム『Growing Eyes Becoming String』は、Fuzz Clubから本日発売。インポート盤の予約はこちら。LP/CDのバンドル、テストプレッシング等の販売もあり。



先週のWeekly Music Featureは以下より:

Maria W Horn『Panoptipkon』


以下の記事もあわせてお読み下さい:


THE VELVET UNDERGROUND(ヴェルヴェット・アンダーグランド)  NYアンダーグランドシーンの出発点、その軌跡

Maria W. Horn


 マリア・W・ホーン(1989)は、音に内在するスペクトルの特性を探求する作曲家。芸術活動に加え、スウェーデンのレーベル、XKatedralの共同設立者でもある。彼女の作品は、アナログ・シンセサイザーから合唱、弦楽器、パイプオルガン、様々な室内楽形式まで、様々な楽器を用いている。シンセティック・サウンドは、しばしばアコースティック楽器と組み合わされ、音色、チューニング、テクスチャーを正確にコントロールすることで楽器の音色的能力を拡張する。


 マリアは、建物や物体、地理的な地域に内在する記憶を探求するために、スペクトラリストのテクニックとその土地特有の音源を組み合わせている。


 最近の作曲では、物理的な空間から音響的な人工物を用い、作曲のための音楽的枠組みを創り上げている。これらの音響的痕跡を出発点として、マリアは複雑なハーモニック・パターンを織り成し、親密な儚さから灼けるような高密度のオーラル・モノリスへとゆっくりと変化していく。


 デビューアルバム『Kontrapoetik』(2018年)は、歴史的な調査であり、彼女の故郷であるスウェーデン北部のÅngermanlandの欺瞞に満ちた、穏やかな、しかし混乱した過去に取り組む一種の対悪魔祓いである。


 『Dies Irae』(2021年)は、ベルクスラーゲンの鉱山地帯にある空の機械ホールの共鳴周波数に由来し、『Vita Duvans Lament』(2020年)は、スウェーデンで唯一建設されたパノプティック監房の刑務所を音で発掘したものである。


ーー『Panoptikon』は、ルレオにある解体されたVita Duvanというパノプティック刑務所(白い鳩刑務所)でのインスタレーションのために2020年に作曲された。ボーカルとエレクトロニクスのための音楽による音の発掘である。今作は当初、マルチチャンネルのサウンドと光のインスタレーションとして発表され、監獄の独房に設置されたラウドスピーカーから受刑者の想像上の声が送信された。


アルバムのヴォーカルは、サラ・パークマン、サラ・フォルス、ダヴィッド・オーレン、ヴィルヘルム・ブロマンダー。


タイトルの『Omnia citra mortem』は法律用語であり、「死ぬまでのすべて」あるいは「死のこちら側のすべて」と訳せる。この作品では、囚人同士のコール・アンド・レスポンス構造が用いられており、まばらな声の断片から始まり、次第に声の網の目のように広がっていくーー


 

『Panoptipkon』 - XCathedral


 

 「パノプティコン」とは、そもそもフランスの哲学者のミシェル・フーコーが指摘しているように、「中央集権的な監獄のシステム」のことを指す。昨年、イギリスのジェネシスのボーカリスト、ピーター・ガブリエルがこの概念にまつわる曲をリリースしたことをご存知の方も少なくないはず。

 

 「パノプティコン」の定義を要約すると、建築構造の中央に塔のような建物があり、その周囲に官房が張り巡らされ、常に囚人たちがその中央の塔から監視されることを無意識に意識付けられることによって、いつしかその人々は、反乱を企てる気もなくなれば、もちろん、脱走する気も起きなくなるというわけである。そうして権力構造というのを盤石たらしめるというわけである。これは支配的な構造を作るために理に適った方法であるとフーコーは指摘している。

 

 パノプティコンという構造が罪人たちだけに用意された限定的なシステムであるとは考えない方が妥当かもしれない。フーコーは、パノプティコンの定義を「権力の自動化」であるとし、これらの考えが近代の学校教育に適用され、「規律や訓練」という概念に子供たちを嵌め込み、「学校という一種の権力に自発的に服従する主体を作り出してきた」と指摘する。また、東京大学教育科のある先生は、この考えが日本の教育にも無縁ではないのではないかと指摘している。「近代学校の権力の自動化というシステムも、その学校や建築構造に表れている」とした上で、このように続けている。


「わたしたちが小学校、中学、高校と過ごしてきたなかで、学校という建物は、いつもどこか堅苦しく、威圧的であったように思う。画一化された教室設計、整然と並べられた机、閉鎖的な職員室などがその原因となっているようだ。学校の建築自体が、秩序や規律といったものを無意識的に子供たちに植えつけてしまっているのではないか」


 このパノプティコンは、私たちの日常のいたるところに存在している。有史以来の社会における中央集権的な政治の基盤を形作る諸般の権力構造や支配構造に適用され、すなわち、人間の考えに資本的な概念を刷り込ませて、服従する対象者、あるいは対象物を設けることにより、被支配者は、その中央集権的な存在に対し、独立性を持つことはおろか、そこから逃れることさえできなくなるという次第である。これは、20世紀の世界全体として、社会主義/資本主義社会の中にある「監獄の構造」を浸透させることによって、それらの中央集権的な存在が支配下に置く被支配者たちを思いのまま手なづけ、その支配構造を強化してきた。これは、資本主義やそれと対極に位置する社会主義もまたその方向性こそ違えど、共通している事項なのである。

 

 その中央集権的な権力の基盤構造が揺らぐや、武力をちらつかせたり、動乱やショッキングな事件、時に、紛争を起こすことにより、20世紀の社会全体は、パノプティコンという巨大な社会の権力構造の中に築き上げられてきた。そして、ジョージ・オーウェルが指摘するように、その中央集権的な存在の正体がよくわからない、謎に包まれた存在であるということが肝要である。民衆はいつまでたっても、その中央集権を司る「絶対的な支配者」に一歩も近づくことも出来なければ、その存在すら明確に確認しえないということが、パノプティコンの重要な概念になっている。つまり、その存在がいてもいなくても、被支配者はその中央集権的な存在にいつも怯え、そして、時にはその存在に服従せざるを得ないという次第である。これは2000年代にレディオヘッドがいち早く音楽の中で「監視社会」という問題を提起していたし、JK・ローリングは「ヴォルデモート卿」という不可視の存在を作中に登場させたのは周知の通り。

 

 しかし、翻ってみると、長らく、このパノプティコンという建築構造がフーコーの哲学的なメタファーを表現するという役割にとどまるか、単なるフィクションのテーマに過ぎないと考えられてきた。しかし、パノプティコンの構造を持つ建築がスウェーデンにあり、実際、歴史的な遺構--アウシュビッツ収容所のような不気味な雰囲気を持つ、人類の歴史の暗所--として残されているという。現代音楽家のマリア・W・ホーンは、これまで歴史的な考察を交えて、ドローン・アンビエントやエレクトロニックという形を通じて、作曲活動を行ってきた。そして、最新作『パノプティコン』は、実際に同地にある中央集権的な構造を持つ監獄の遺構の中で録音されたというのである。

 

 そして録音場所のアコースティックな響きを上手く活用した作品が近年、ジャンルを問わず数多く見受けられることは何度か指摘している。一例では、ベルリンのファンクハウスの東西分裂時代のアンダーグラウンドな雰囲気を持つ録音や、イギリスの教会建築の中で録音された作品などである。これらの作品群は、たいてい、その録音された場所の空気感というべきものを吸収し、他では得難い特別な音楽の雰囲気を生み出す。それは、アビーロード・スタジオを使用するミュージシャンがどうしても、ビートルズの亡霊に悩まされるようなものであり、ピーター・ガブリエルの所有するスタジオでスターミュージシャンの音楽を意識せずにはいられないのと同様である。

 

 音楽的な出発として、空間が持つ空気感に充溢する奇妙な雰囲気を表現しようとしたのは、ハンガリーの作曲家、ゲオルグ・リゲティの「Atmospheres」が挙げられる。


独特な恐怖感と不気味さに充ちた現代音楽の傑作で、これはリゲティのユダヤ人としての記憶と、彼の親類が体験したアウシュビッツでの追体験が、不気味な質感を持って耳に生々しく迫るのである。それがどの程度、真実に根ざしたものなのかは別にしても、それらの記憶は確実に、作曲家の追体験という形で定着し、また生きる上での苦悩の元ともなったことは想像に難くない。

 



 ストックホルムを拠点に活動するマリア・W・ホーンの「Panoptikcon」も、基本的には同じ系譜にある独特な緊張感を持つアヴァンギャルドミュージックに位置づけられる。

 

スウェーデンにある監獄の遺構の空気感、その人類の歴史的な暗所の持つ負の部分を見つめ、それらを精妙なレクイエムのようなクワイアやアナログ・シンセサイザーを用いたドローンミュージック、エレクトロニックで浄化させようというのが、制作者の狙いや意図なのではなかったかと思われる。


これはまた、スウェーデンのカリ・マローンが制作した映画のサウンドトラックでのイタリアの給水塔のアンビエンスを用いた録音技術の概念性の継承でもある。「Panoptikon」はダークな雰囲気に浸されているが、同時に、その遺構物の上から、賛美歌のように精妙な光が差し込み、その暗部の最も暗い場所を聖なる楽音で包み込もうとする。この遺構こそ現代的に洗練された考えを持つスウェーデンという国家にとって、歴史の暗部であり、安易に触れることが難しいタブーでもあるのかもしれない。

 

 

 冒頭を飾る「Ominia Citra Mortem」は、四声の混声合唱、アナログシンセによって構成されている。オープニングの冒頭は、重低音のドローンで始まり、通奏低音を元にしてAlexander Knaifel(アレクサンダー・クナイフェル)、Valentin Silvestrov(ヴァレンティン・シルベストノフ)、Sofia Gubaidulina(ソフィア・グバイドゥーリナ)の作風によく見受けられるような、現代音楽の主要なコンポジションの1つである最初の重低音のドローンの通奏低音の後、パレストリーナ様式を始めとする教会旋法やポリフォニー構造に支えられた声楽の進行が加わる。

 

 しかし、マリア・W・ホーンの作風は、上記の現代作曲家の形式を受け継ぎながらも、シュトゥックハウゼンの電子音楽のトーン・クラスターの技法を用い、音色の揺らぎを駆使しながら、特異な音響性やそのスペシャリティーを追求している。フィリップ・グラスやライヒに象徴されるミニマル・ミュージックの構成が用いられているのは、他の現在の現代音楽と同様であるが、それは必ずしも反復という意味を持たず、反復の中にある矛盾的な変化が強調される。教会音楽の重要な形式であるユニゾンを用いた、四声によるクワイアの繰り返しの中に、スポークンワードを挟み、そして、最下部のドローンの重低音を意図的に消したりし、音の余白や空間を作り、クワイアの精妙な印象を際立たせる。これは数学的な足し算の手法ではなく、引き算の手法により、音の妙が構築されているところに、作曲家としての崇高性が宿っている。

 

 マリア・ホーンの生み出す表現の美の正体は、鈴木大拙に学んだジョン・ケージが提唱した禅(臨済宗)における「サイレンス」の観念を体現する「休符による音の空白」によって強調されることもある。と同時に、この曲の場合は、歴史的に触れられなかったタブーや社会の暗部に関するメタファーの役割が込められているように感じる。それらの空間のアンビエンスや亡霊的な合唱を、パノプティコン構造を持つ監獄のアコースティックな音響で増幅させる。それは何処かへ消しさられた人々への追悼を意味するのだろうし、その魂に対するレクイエムでもある。マリア・ホーンはコンポーザーとして、クワイアの最も崇高な印象を放った瞬間を見逃さず、声を消失させ、シンセによる重低音を再発生させ、エネルギーを徐々に、丹念に上昇させる。これらの声が途絶えた瞬間に、この曲の持つ凄みが現れ、そして圧倒的な感覚に打たれる。



 二曲目「Haec Est Regular Recti」は同様にアナログシンセの重低音により始まるが、重厚ではあるものの心苦しい雰囲気で始まった一曲目とは対象的に、開放的なメディエーションの作風に変化する。解釈の仕方によっては、ヨーロッパのチロル地方やその隣接地域のフォーク音楽の源流に近づきながら、同じように、混声のクワイアによって全体的なアンビエンスを作り出す。

 

 クワイアの印象が強かった全曲に比べると、シンセと合唱によるオーケストレーションのような印象がある。それはパイプオルガンの音色を持つシンセの演奏を1つのモチーフとしてコール・アンド・レスポンスやモード奏法のようなデイヴィスのモダン・ジャズの形式を取り入れ、オーケストラスコアとして組み上げていったかのようである。ひとつだけ確かなのは、マリア・ホーンにとっては、一見して分離されがちな、合唱、オルガン、シンセといった作曲のための手段は、現代音楽のオーケストレーションの一貫として解釈され、コンポジションに組み込まれているらしく、電子音楽でもなければ、ニュージャズでもない、ヨーロッパ民謡でもない、特異な印象のある楽音として昇華されるということなのだ。

 

 そして、同じくスウェーデンのCarmen Villan(カルメン・ヴィラン)がダブ・ステップやECMのニュージャズをドローン音楽に取り入れるのと同じように、必ずしも実験音楽の表現内にコンポジションの可能性を収めこもうとはしていない。むしろ、ひとつの表現を主体として、無限の可能性に向けて、音を無辺に放射していくかのようである。これは製作者が従来から、ピアノを用いたポスト・クラシカル、エレクトロニック、というように、ひとつのジャンルにこだわらず、多岐に渡る音楽を制作してきたことに理由がある。曲の終盤では、ダンスミュージックのビートに近づく場合があり、当初、メディエーションやヨーロッパの原始的なフォークミュージックが、現代的な質感を帯びる洗練された音楽へと変遷を辿っていく様子は、圧巻と言える。そして、アルバムの当初は、重苦しい印象だった音楽がループサウンドにより、崇高さと神聖さをあわせ持つエレクトロニック/IDMへと驚くべき変遷を辿っていくのである。

 




 アルバムの序盤の2曲は荘厳さと崇高さをあわせ持つが、タイトル曲「panoptikon」では低音部の重厚さを生かしたアンビエントが展開される。しかし、その静謐な印象の中に、トーン・クラスターの音色の変容の技法を散りばめ、従来にはなかったドローン音楽を追求していることがわかる。


 前の2曲では、パノプティコンという建築物が持つ独自の音響性を強調しているが、それと対比的に、タイトル曲では、DJセットのライブで聞かれるような現代的なエレクトロの音楽性が選ばれている。実験音楽の領域にありながら、その響きの中には、クラークやダニエル・ロパティンのような洗練されたアプローチを見出すこともできる。また、これは、現代音楽や実験音楽の範疇にある表現者とは異なる、DJとしてのマリア・ホーンの意外な姿を伺い知ることも出来よう。前2曲に比べ、五分というコンパクトな構成となっているが、シンセのトーンの変容の面白さ、それにときおり交わるノイズという部分にこのアルバムの真骨頂が垣間見える。


 アルバムは、声楽をもとにした合唱曲、エレクトロニック、アンビエント、そしてトーン・クラスター等、マリア・ホーンが持ちうる音楽的な蓄積が表れているが、その後、クローズ曲では、男女混声による声楽を基調とした柔らかい印象を持つ、二分ほどの簡潔なクワイアが収録されている。アルバムの最後を飾る「Langtans Vita Duva」 では、驚くべき音楽的な転換点を迎える。

 

 その純粋な響きの中には、西洋の賛美歌の伝統性の継承の意味が求められながらも、映画音楽やポピュラー音楽の色合いが僅かに加えられる。2つのコーラスのメロディーの進行の中には、ポピュラー音楽の旋律進行を持つ女性のボーカルと、それとは対比的に、賛美歌のような旋律進行を持つ男性のボーカルが交差し、柔らかなコントラストを形成する。つまり、これは『Panoptikon』が単に不可解な現代音楽ではなく、メディエーションに映画音楽と現地のポピュラー音楽を織り交ぜた新しい音楽の形式により構成されていることを表している。何より、マリア・ホーンが実験音楽を限られたファンに用意された閉鎖的な音楽と捉えず、それらを一般的に開けた表現法にするべく努めていることも真実の音楽を生み出す契機となったと考えられる。


 少なくとも、アルバム全体からは、パノプティコンの囚われからの解放というテーマにとどまらず、国家やその社会構造、ひいては、歴史の持つ負のイメージをどのように以後の時代に建設的に受け継いでいくのかという、表向きの暗鬱なイメージとは異なる、未来の社会に対する明るいメッセージを読み取ることもできる。しかし、これは国家や社会構造の持つ負の側面から目を背けるのではなく、その暗部を徹底して直視できたからこそ成し得た偉業なのである。

 


 



96/100

  

『Panopiticon』 はMaria・W・Hornのレーベル、XCathedralから2月2日から発売中。ご購入はこちら




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Selah Broderick & Peter Broderick





セラ・プロデリックの静謐なスポークンワード、ピーター・ブロデリックがもたらす真善美


 ある日、セラ・ブロデリックが、彼女の息子でミュージシャン兼作曲家のピーター・ブロデリックに、「詩を音楽にするのを手伝ってくれない?」と頼んだとき、ピーターは即座に「イエス」と答えた。ピーター・ブロデリックは、セラの美しく傷つきやすい言葉を聴くと、母のこのアルバムの制作を手伝うことに専念したのだ。


『Moon in the Monastery』を構成する8曲は、以後、2、3年かけてゆっくりと着実に作られた。ピーター・ブロデリックの膨大な楽器コレクションと、マルチ・インストゥルメンタリストとしての長年の経験(ヴァイオリン、ピアノ、パーカッションなど)を生かし、ブロデリック親子は試行錯誤のプロセスに着手し、それぞれの詩にふさわしい音楽の音色を辛抱強く探し求めた。


時には、ピーターが母親からフルートを吹いているところを録音してもらい、それをサンプリングの素材にすることもあった。例えば、オープニング曲『The Deer』は、オレゴンの田舎町の丘に日が沈むある晩、野生の鹿との神秘的な出会いを語る彼女の完璧な背景として、サンプリングされ、操作され、彫刻されたセラのフルートだけで構成されている。



ヒーリング・アートに30年以上携わってきたセラの詩は、彼女の職業生活の自然で個人的な延長線上にある。ヨガ、理学療法、マッサージ、ホスピスなど、さまざまな分野で経験を積んだセラは、自身の内面を癒す旅を続けながら、人々の癒しを助けることに人生の多くを捧げてきた。


彼女の文章は、極めて個人的なものから普遍的で親しみやすいものまで、時にはひとつのフレーズで表現される。彼女のペンは、感傷的というより探究心を感じさせる方法で、人間の経験の核心を掘り下げる。


アルバムの中盤、「Faith」という曲の中で彼女はこう言っている。「信仰...それは私の心をとらえ、刻み込み/そして溶けてなくなる/私がその瞬間ごとにそれを更新し続けることを求めそうになる/私がそれを手放し、再びそれを見つけたとき、おそらくそれは深まるのだろうか?」


7曲のスポークン・ワード・トラックの制作を終えたセラとピーターは、アルバムの最後を締めくくる瞑想的なサウンドスケープを作り上げた。


アルバムの8曲目、最後のトラックであるタイトル曲『Moon in the Monastery』は、セラの魅惑的なフルート演奏を再び際立たせ、前の7曲の内容を沈めるための穏やかで夢のような空間を提供している。



Selah Broderick & Peter Broderick 『Moon in the Monastery』/ Self Release




 オレゴン州の現代音楽家、ピーター・ブロデリックはこれまで、ロンドンの''Erased Tapes''から良質な音楽をリリースし続けて来た。ピアノによるささやかなポスト・クラシカルをはじめ、くつろいだボーカルトラック、フランスのオーケストラとのコラボレーションを行うなど、その作風は多岐に渡る。ブロデリックの作風は、アンビエント、コンテンポラリー・クラシカル、インディーフォーク、というように1つのジャンルに規定されることはほとんどない。

 

ニューアルバム『Moon in the Monasteryー修道院の月』は、40分ほどのコンパクトな作品にまとめ上げられている。その内訳は、7つのスポークンワードを基調とするバリエーションと、最後に収録されている20分の静謐で瞑想的な響きを持つ超大なエンディングで構成されている。


記憶に新しいのは、昨年、ピーター・ブロデリックはフランスのオーケストラ、"Ensemble O"と協力し、アーサー・ラッセルのスコアの再構成に取り組んでいる。本作の再構成の目論見というのは、米国のチェロ奏者/現代音楽の作曲家の隠れた魅力に脚光を当てることであったが、と同時に従来のブロデリックのリリースの中でも最も大掛かりな音楽的な試みとなった。

 

なおかつ、他のミュージシャンやバンドと同じように、1つの経験が別の作品の重要なインスピレーションになる場合がある。実際、このアルバムは、前作の『Give It To The Sky』と制作時期が重なっており、制作を併行して行ったことが、音楽そのものに何らかの働きかけをしたと推測できる。


とくに、ブロデリックは、2分、3分ほどのミニマル・ミュージックを制作してきたのだったが、この数年では、より映画のスコアのように壮大なスケールを持つ作曲も行っている。前作で「ヴァリエーション」の形式に挑戦したことに加え、「Tower Of Meaning X」では、15:31の楽曲制作に取り組んでいる。つまり、変奏曲と長いランタイムを持つ曲をどのようにして自らの持つイマジネーションを駆使して組み上げていくのか、そのヒントはすでに前作で示されていたのだった。

 

もうひとつ、ピーター・ブロデリックといえば、クラシックのポピュラー版ともいえるポスト・クラシカルというジャンルに新たな風を呼び込んだことで知られている。とくに、彼が以前発表した「Eyes Closed And Traveling」では、教会の尖塔などが持つ高い天井、及び、広い空間のアンビエンスを作風に取り入れ、Max Richterに代表されるピアノによるミニマル・ミュージックに前衛的な音楽性をもたらすことに成功した。これはまた、ロンドンのレーベル”Erased Tapes”の重要な音楽的なプロダクションとなり、ゴシック様式の教会等の建築構造が持つ特殊なアンビエンスを活用したプロダクションは実際、以降のロンドンのボーカルアートを得意とする日本人の音楽家、Hatis Noitの『Aura』(Reviewを読む)というアルバムで最終的な形となった。

 

『Moon in the Monastery』は、彼の母親との共作であり、瞑想的なセラのスポークンワード、フルートの演奏をもとにして、ピーター・ブロデリックがそれらの音楽的な表現と適合させるように、アンビエント風のシークエンスやパーカッション、ピアノ、バイオリンの演奏を巧みに織り交ぜている。アルバムのプロダクションの基幹をなすのは、セラ・ブロデリックの声とフルートの演奏である。ピーターは、それらを補佐するような形でアンビエント、ミニマル音楽、アフロ・ジャズ、ニュージャズ、エクゾチック・ジャズ、ニューエイジ、民族音楽というようにおどろくほど多種多様な音楽性を散りばめている。例えれば、それは舞台芸術のようでもあり、暗転した舞台に主役が登場し、その主役の語りとともに、その場を演出する音楽が流れていく。主役は一歩たりとも舞台中央から動くことはないが、しかし、まわりを取り巻く音楽によって、着実にその物語は変化し、そして流れていき、別の異なるシーンを呼び覚ます。

 

主役は、セラ・ブロデリックの声であり、そして彼女の紡ぐ物語にあることは疑いを入れる余地がないけれど、セラのナラティヴな試みは、飽くまで音楽の端緒にすぎず、ピーターはそれらの物語を発展させるプロデューサーのごとき役割を果たしている。


プレスリリースで説明されている通り、セラは、「オレゴンの田舎町の丘に日が沈むある晩、野生の鹿との神秘的な出会い」というシーンを、スポークンワードという形で紡ぐ。声のトーンは一定であり、昂じることもなければ、打ち沈むこともない。ある意味では、語られるものに対してきわめて従属的な役割を担いながら、言葉の持つ力によって、一連の物語を淡々と紡いでいくのだ。


シャーウッド・アンダソンの『ワインズバーグ・オハイオ』の米国の良き時代への懐古的なロマンチズムなのか、それとも、『ベルリン 天使の詩』で知られるペーター・ハントケの『反復』における旧ユーゴスラビア時代のスロヴェニアの感覚的な回想の手法に基づくスポークンワードなのか、はたまた、アーノルト・シェーンベルクの「グレの歌」の原始的なミュージカルにも似た前衛性なのか。いずれにしても、それは語られる対象物に関しての多大なる敬意が含まれ、それはまた、自己という得難い存在と相対する様々な現象に対する深い尊崇の念が抱かれていることに気がつく。

 

当初、セラ・ブロデリックは、オレゴンの、のどかな町並み、自然の景物が持つ神秘、動物との出会いといったものに意識を向けるが、それらの言葉の流れは、必ずしも、現象的な事物に即した詩にとどまることはない。日が、一日、そしてまた、一日と過ぎていくごとに、外的な現象に即しながら、内面の感覚が徐々に変化していく様子を「詩」という形で、克明にとどめている。


セラ・ブロデリックの内的な観察は真実である。それは、自然や事実に即しているともいうべきか、自分の感情に逆らわず、いつも忠実であるべく試みる。彼女は明るい正の感覚から、それとは正反対に、目をそむけたくなるような内面の負の感覚の微細な揺れ動きを、言葉としてアウトプットする。


その感覚は驚くほど明晰であり、感情を言葉にした記録のようであり、それとともに、現代詩やラップのような意味を帯びる瞬間もある。内的な感情が、刻一刻と変遷していく様子がスポークンワードから如実に伝わってくる。そして、それらの言葉、物語、感情の記録を引き立て芸術的な高みに引き上げているのが、他でもない、彼女の息子のピーター・ブロデリックである。彼は、アンビエントを基調とするシンセのシークエンスを母の声の背後に配置し、それらの枠組みを念入りに作り上げた上で、巧みなフルートの演奏を変幻自在に散りばめている。サンプリングの手法が取り入れられているのか、それとも、リアルタイムのレコーディングがおこなわれているのかまでは定かではないが、言葉と音楽は驚くほどスムーズに、緩やかに過ぎ去っていく。

 

ピーター・ブロデリックの作風としてはきわめて珍しいことであるが、アルバムの序盤の収録曲「I Am」では、民族音楽の影響が反映されている。


一例としては、''Gondwana Records''を主催するマンチェスターのトランペット奏者、Matthew Halsall(マシュー・ハルソール)が最新アルバム『An Ever Changing View』において示した、民族音楽とジャズの融合を、最終的にIDM(エレクトロニック)と結びつけた試みに近いものがある。


アフリカのカリンバの打楽器の色彩的な音階を散りばめることにより、当初、オレゴンの丘で始まったと思われる舞台がすぐさま立ち消えて、それとは全然別の見知らぬ土地に移ろい変わったような錯覚を覚える。


そして、カリンバの打楽器的な音響効果を与えることにより、セラ・ブロデリックのスポークンワードは、力強さと説得力を帯びる。それは、ニューエイジやヒーリングの範疇にある音楽手法とも取れるだろうし、ニュージャズやエキゾチック・ジャズの延長線上にある新しい試みであるとも解せる。 

 

 

 

少なくとも、ジャンルの中に収めるという考えはおろか、クロスオーバーという考えすら制作者の念頭にないように思えるが、それこそが本作の音楽を面白くしている要因でもある。その他にも旧来のブロデリックが得意とするアンビエントの手法は、序盤の収録曲で、コンテンポラリー・クラシック/ポスト・クラシカルという制作者のもうひとつの主要な音楽性と合致している。


ピーター・ブロデリックは、バイオリンのサンプリング/プリセットを元にして、縦方向でもなく、横方向でもない、斜めの方向の音符を重層的に散りばめながら、イタリアのバロックや中世ヨーロッパの宗教音楽をはじめとする「祈りの音楽」に頻々に見受けられる「敬虔な響き」を探求しようとしている。上記のヨーロッパの教会音楽は、押し並べて、演奏者の上に「崇高な神を置く」という考えに基づいているが、不思議なことに、「Mother」において、セラ・ブロデリックの語りの上を行くように、ヴァイオリンの響きがカウンターポイントの流れを緻密に構築しているのである。


同じように、Matthew Halsall(マシュー・ハルソール)が最新作で示したようなアフロジャズとオーガニックな響きを持つIDMの融合は、続く「Faith」にも見出すことができる。ここではセラのトランペットのような芳醇な響きを持つフルートの演奏、ジャズ的な音楽の影響を与えるスポークンワード、シンセのプリセットによるバイオリンのレガート、さらに、奥行きを感じさせるくつろいだアンビエントのシークエンスという、複合的な要素が綿密に折り重なることで、モダン・ラップのようなスタイリッシュな響きを持ち合わせることもある。


シンセのシークエンスが徐々にフルートの演奏を引き立てるかのように、雰囲気や空気感を巧みに演出し、次いで、最終的にはセラ・ブロデリックの伸びやかなフルートの演奏が音像の向こうに、ぼうっと浮かび上がてくる。アフロ・ジャズを基調とした彼女の演奏が神妙でミステリアスな響きを持つことは言うまでもないが、どころか、アウトロにかけて現実的な空間とは異なる何かしら神秘的な領域がその向こうからおぼろげに立ち上ってくるような感覚すらある。

 

アルバムの序盤は温和な響きを持つ音楽が主要な作風となっているが、中盤ではそれとは対象的に、Jan Garbarek(ヤン・ガルバレク)の名曲「Rites」を思わせるような独特なテンションを持つ音楽が展開される。

 

続く「Cut」では、映画音楽のオリジナルスコアの手法を用い、緊張感のある独特なアンビエンスを呼び覚ます。イントロのセンテンスが放たれるやいなや、空間の雰囲気はダークな緊迫感を帯びる。それは形而上の内的な痛みをひとつの起点にし、スポークンワードが流れていくごとに、自らの得がたい心の痛みの源泉へと迫ろうという、フロイト、ユング的な心理学上の試みとも解せる。それらはピーターによるノイズ、ドローン的なアルバムの序盤の収録曲とは全く対蹠的に、内的な歪みや亀裂、軋轢を表したかのような鋭いシークエンスによって強調される。 

 

Tim Hecker(ティム・ヘッカー)が『No Highs』(Reviewを読む)で示した「ダーク・ドローン」とも称すべき音楽の流れの上をセラ・ブロデリックの声が宙を舞い、その着地点を見失うかのように、どこかに跡形もなく消え果てる。そして、それらのドローンによる持続音が最も緊張感を帯びた瞬間、突如そのノイズは立ち消えてしまい、無音の空白の空間が出現する。そして、急転直下の曲展開は、続く「静寂」の導入部分、イントロダクション代わりとなっている。


「Silence」では、対象的に、神秘的なサウンドスケープが立ち上る。アンビエントの範疇にある曲であるが、セラの声は、旧来のアンビエントの最も前衛的な側面を表し、なおかつこの音楽の源泉に迫ろうとしている。2つの方向からのアプローチによる音楽がそのもの以上の崇高さがあり、心に潤いや癒やしをもたらす瞬間すらあるのは、セラ・ブロデリックの詩が自然に対する敬意に充ちていて、また、その中には感謝の念が余すところなく示されているからである。


続く「True Voice」では、精妙な感覚が立ち上り、声の表現を介して、その感覚がしばらく維持される。ピーター・ブロデリックの旧来のミニマリズムに根ざしたピアノの倍音を生かした演奏が曲の表情や印象を美麗にしている。これは『Das Bach Der Klange』において、現代音楽家のHerbert Henck(ヘルベルト・ヘンク)がもたらしたミニマル・ピアノの影響下にある演奏法ーー短い楽節の反復による倍音の強化ーーの範疇にある音楽手法と言えるかもしれない。


20分以上に及ぶ、アルバムのクローズ曲「Moon in the Monasteryー修道院の月」は、ニューエイジ/アンビエントの延長線上にある音楽的な手法が用いられている。一見すると、この曲は、さほど前衛的な試みではないように思える。しかし、ブロデリックは、パーカションの倍音の響きの前衛性を追求することで、終曲を単なる贋造物ではない、唯一無二の作風たらしめている。


その内側に、チベット、中近東の祈りが込められていることは、チベット・ボウル等の特殊な打楽器が取り入れられることを見れば瞭然である。なおかつ、クローズ曲は、ドローン・アンビエントの範疇にある、現代音楽/実験音楽としての最新の試みがなされていると推察される。しかし、その響きの中には真心があり、豊かな感情性が含まれている。取りも直さずそれは、音楽に対する畏敬なのであり、自然や文化全般、自らを取り巻く万物に対する敬意にほかならない。これらの他の事物に対する畏れの念は、最終的には、感謝や愛という、人間が持ちうる最高の美へと転化される。

 

音楽とは、そもそも内的な感情の表出にほかならないが、驚くべきことに、これらは先週紹介したPACKSとほとんど同じように、「平均的な空間以上の場所」に聞き手を導く力を具えている。抽象的なアンビエント、フルート、スポークンワード、鳥の声、ベル/パーカッションの倍音、微分音が重層的に連なる中、タイトルが示す通り、幻想的な情景がどこからともなく立ち上がってくる。その幻惑の先には、音楽そのものが持つ、最も神秘的で崇高な瞬間がもたらされる。それは一貫して、教会のミサの賛美歌のパイプ・オルガンのような響きを持つ、20分に及ぶ通奏低音と持続音の神聖な響きにより導かれる。極限まで引き伸ばされる重厚な持続音は、最終的に、単なる幻想や幻惑の領域を超越し、やがて「真善美」と呼ばれる宇宙の調和に到達する。

 

 



95/100






Selah Broderick & Peter Broderick 『Moon in the Monastery』は自主制作盤として発売中です。アルバムのご購入はこちら




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