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Weekly Music Feature: Lifeguard   -2025年の期待の新星がシカゴから登場-




Lifeguardは2025年度の最も有望なバンドであり、今後の活躍がとても楽しみな存在である。

 

アッシャー・ケース、アイザック・ローウェンスタイン、カイ・スレイターの若さ溢れるトリオ、Lifeguard(ライフガード)は高校生時代から一緒に音楽を制作してきた。 パンク、ダブ、パワーポップ、エクスペリメンタルなサウンドから触発を受け、それらを爆発的なインスピレーションでまとめ上げる。 メンバーのひとり、アッシャーは、同じくシカゴで活動するポストパンクバンド、FACSのブライアン・ケースの息子である。アッシャーは、父親の豊富なレコードコレクションを通じて、若い時代からミュージシャンとしてのセンスに磨きをかけてきた。また、父親のロックやパンクに対する理解、これはアーシャーのベーシストとしての素養を形作った。


つい2年前の夏、マタドールから発売されたライフガードのEPは、バンドの初期のスタジオでの探求を注意深く記録したものだった。しかし、ローウェンスタインのロック・ステディなバックビートに支えられた彼らの驚異的なライヴ・ショウは、より大きなモーメントが待ち受けていることを暗示していた。 デビュー作『Ripped and Torn』では、有刺鉄線のように刺々しいサウンドが、スレーターとケースの新しく豊かな2声のハーモニーとコラジステの歌詞を縁取っている。 プロデューサーのランディ・ランドール(ノー・エイジ)は、ハウス・パーティーやライヴの感覚とエネルギーを想起させる閉所恐怖症的なスクラップ感を表現している。


ライフガードのプロジェクトは単なるバンド以上の意味が求められる。総じて、何かを表現し、それらを一つの形にするためにこのプロジェクトは存在している。それはもしかすると、社会や学校、そして一般的な常識や固定概念から乖離しているほどに、重要な意味を持つようになる。ライフガードのプロジェクトは、自由、ノイズ、メロディーが直感的な形を見出す特異で親密な空間である。 「物理的なメリットは、私たち全員が一緒にやっていることなのかもしれない」とスレーターは説明する。 「つまり、音楽を作ることの即時性を生み出すことに尽きるんだ」

 

デビューアルバム『Ripped and Torn』について、アメリカの音楽評論家、デイヴィッド・キーナンさんは次のように評論している。

 

スコットランドの伝説的な同名のパンク・ファンジンからタイトルを取ったとか取らないとか.......。 あるいは、ロック・ライターのレスター・バングスが、ペレ・ユビュの創始者である故ピーター・ラフナーが "引き裂かれた感情の戦火の中で "死んだと主張した、引き裂かれたTシャツを指しているのかもしれない。 


あるいは、メロディック・ポストパンクと高速ハードコアを猛烈に不安定化させるこのトリオの手法を指しているのかもしれない。それは、ドレッド・フール&ザ・ディンのようなバンドがめったに思いつかないような方法による、荒々しい即興的な歌の形式をマジー・ガレージのメステティックスと再び結びつけるような、ゼロ年代の美学への恩義を示すものかもしれない。


いずれにせよ、ライフガードは、ガレージ・バンドのファースト・ウェーブのような絶対的な真摯さを自分たちの音楽に賭けている。 半分謡い、半分歌うヴォーカルは催眠術のようだ。 かれらの曲は説明されるのではなく、まるで祓われるかのように、ベースのアッシャー・ケース、アイザック・ローウェンスタインがほとんどリード楽器のように演奏するマシンガンのようなパーカッション、そしてカイ・スレーターが絶え間なく旋回するリズム・セクションに浴びせる火炎放射器のように激しいギターによって、メロディーは空中から直接引き抜かれていく。 


実際、このトリオは、古典的なミニマリズムによる脳をかき乱すような魔術的な魅力を介し、暗黙の重心(ヘヴィネス)を中心に構築する。 実験的な作品である "Music for Three Drums"(スティーブ・ライヒの『Music For 18 Musicians』を引用しているのは間違いない)、"Charlie's Vox "は、ライフガードのヴィジョンの広さを明らかにし、デッドC、クローム、スウェル・マップスのようなマージン・ウォーカーの前衛的な要素を取り入れた、コラージュされたDIY音楽である。


しかし、そもそも、曲の質が伴わなければ、これらすべては単なる思い上がりになるだろう。 タイトル曲の "Ripped & Torn "は、タイトルのもうひとつの意味を示唆している。 バンドが一丸となって、孤独な亡霊からの伝言のように歌われる歌に感情的な蹂躙を加えている。


 "Like You'll Lose "は、重厚なダブ/ダージ・ハイブリッドの上に、ドリーミーなオートマティック・ヴォーカルとスティーリーなファズを組み合わせ、さらに深みを増している。 「一方、"Under Your Reach "は、"Part Time Punks "の頃のザ・テレビジョン・パーソナリティーズのUK DIYを彷彿とさせるが、よりThis Heatに近づけるような、過激なサウンドを追求している。 


ノー・エイジのランディ・ランドールによるプロダクションは、最高にムーディー。 「T.L.A.」で彼らは本当に「調子のいい言葉が浮かんでくる」と歌っているのだろうか? もしそうだとしたら、ライフガードは、歌について歌い、演奏について演奏することができ、そのアプローチの貪欲さゆえに、私が多くの言及を投げかけているにもかかわらず、プレイヤー自身の相互作用の外には何も指し示さない音楽を作ることができる、稀有なグループの1つだということになる。


そして確かに、そんなことができると信じていること自体に甘さがある。 しかし、おそらく私がこの作品全体を通して追い求めているのは、ライフガードが彼らの音楽にもたらす開放性のクオリティなのだ。 この3人が中学/高校時代から一緒に演奏していることからも分かるように、彼らの音楽は若々しくて、重荷がなく、自分自身に忠実で、比較されることを厭わない。 


ライフガードは、アンダーグラウンド・ロックを人生と同じくらい真剣に演奏しているが、若さは音楽の質で、年齢によるものではないと確信させるほど、遊び心にあふれた熱意を擁している。 彼ら自身の引き裂かれた感情の火炎に巻き込まれるようなサウンドで、ライフガードは私をもう一度信じたいと思わせる。(''デヴィッド・キーナン「Ripped and Torn」について語る''より)



Lifeguard 『Ripped and Torn』 -Matador



 

ローリング・ストーン誌で特集が組まれているのを見るかぎり、アメリカ国内では彼らのデビューは好意的に受け入れられているらしい。ニューヨークにはレモン・ツイッグス、シカゴにはライフガードありというわけだ。米国のインディーズロックの有望株であることは間違いない。ライフガードの『Ripped and Torn』はデビュー作に相応しく、鮮烈な印象に縁取られている。そして、近年稀に見るほどの”正真正銘のDIYのロック/パンクアルバム”であることは疑いない。

 

インディーズミュージックは商業性を盛り込んだとたん、本来の魅力を失うことがある。しかし、このアルバムでは、ガレージロック、ニューウェイヴ、インダストリアルノイズ、ハードコアパンクを横断しながら、彼らにしか構築しえない強固な世界観を作り上げている。それは社会も常識も、また、固定概念すらおびやかすことは出来ない。それほどまでに彼らのサウンドは強固なのだ。そもそも、音楽が洗練された瞬間、パンクロックは本来の魅力を見失い、その鮮烈な印象が陰りを見せる。これをデイヴィッド・キーナンさんは「若々しさ」と言っているが、荒削りで完成されていない、完成形がどうなるかわからないという点にパンクの本質が存在する。それはそれぞれの生命のエナジーの放出ともいえ、模倣とはまったく無縁なのである。

 

『Dressed In Trench EP』ではライフガードの本領がまだ発揮されていなかった。正直なところをいうと、なぜマタドールがこのバンドと契約したのかわからなかった。しかし、そのいくつかのカルト的な7インチのシングルの中で、グレッグ・セイジ率いるWipersのカバーをやっていたと思う。Wipersは、カート・コバーンも聴いていたガレージパンクバンドで、アメリカの最初のパンクバンド/オルタナティヴロックの始まりとする考えもある。これを見て、彼らが相当なレコードフリークらしいということはわかっていた。それらのレコードフリークとしての無尽蔵の音楽的な蓄積が初めて見える形になったのが「Ripped and Torn』であろう。このデビューアルバムには、普通のバンドであれば恥ずかしくて出来ないような若々しい試みも行われている。

 

しかし、ロックとは形式にこだわらないこと、そして、先に誰かがやったことを覆すことに一番の価値がある。とくに、ライフガードの音がすごいと思ったのは、一般的な常識や流行のスタイルを度外視し、それらにカウンター的な姿勢を見せ、自分たちが面白いと思うことを徹底的にやり尽くすことである。そして、曲の歌詞で歌われる主張性ではなく、音楽そのものがステートメントになっている。彼らは基本的には体裁の良いことを言わないし、そういった音楽を演奏しない。けれど、そこに信頼を寄せるべき点があるというか、異様なほどの期待を持ってしまうのだ。

 

「A Tightwire」

 

 

 

ライフガードのデビューアルバムに関しては、年代を問わず新旧の音楽が絡み合うようにして成立している。アルバムの冒頭を飾る「1-A Tightwire」はUKパンクを下地にし、モッズロックの若々しい気風が漂う。ポール・ウェラー擁するThe Jamのアートパンク、そして、UKガレージロックの最重要バンド、The Boys(日本のミッシェルガンエレファントが影響を受けたという)の疾走感のあるロックソングを組み合わせた青々しく鮮烈な印象を持つパンクロックソングである。The Jamを彷彿とさせる鮮烈なアートパンクの嵐が吹き荒れる中、シカゴらしさが登場し、苛烈な不協和音を織りまぜたギター、ハードコアパンク風のシャウトがアンセミックに叫ばれる。間違いなくこのアルバムのハイライトとなるであろう素晴らしいオープニングソングだ。

 

本作では、デビューアルバムで示されるべき、若々しさが直情的に表現されている。曲作りに関しては、協和音(4/8のリズム)、不協和音(3/6のリズム)のセクションを交互に配置し、徐々に熱狂的なエナジーを増幅させる。彼らの曲がスタジオやライブハウスで生み出されることを伺わせるリアルなロックソングだ。各楽器の音作りやリズムの作り込みの凄まじさは、他の追随を許さない。

 

タイムラグを設けず、一曲目から続いている「2-It Will Get Worse」は、デモソング風の荒削りなガレージパンクソング。アルバムの冒頭の熱狂性を追加で盛り上げるような働きを成している。この曲にはアメリカの60年代後半の原初的なガレージロックの熱狂が反映されている。しかし、ボーカルはラモーンズのようにメロディアスであり、西海岸風の旋律捌きが見いだせる。パワーコード/オクターブのユニゾンを多用するパンキッシュなギター、そして、ギターのベースラインを描く通奏低音のベース、ドタバタしたドラムのプレイにも注目である。この曲はハイスクールバンドとして始まったライフガードのドキュメントのような役割を担う。ラモーンズの映画『Rock 'n Roll High School』のリアル版ともいえる若々しい感覚に満ち溢れている。

 

 

 

 「It Will Get Worse」

 

 

 

複数の収録曲には、インタリュードが設けられ、前衛的なノイズで縁取られている。ピックアップ/アンプから発生させたリアルなノイズが「3-Me and My Flashes」に収録されている。ライブの直前のサウンドチェックのような瞬間、それもまだ機材の扱いになれていなかったような時代のノイズを独立した曲のセクションの間に挿入し、ライブバンドとしてのDIYの気風を反映する。こういったアヴァンギャルドな試みは本作の後半でも再登場する。これらのノイズの要素は、キャッチーなパンクロックソングの中にあってアンダーグランドの匂いを強調させる。

 

「4-Under Your Reach」は、Replacements(リプレイスメンツ)の「Within Your Reach」を彷彿とさせる曲名だ。ダブという側面において、インスピレーションを受けているのかもしれない。しかし、全般的には、インダストリアルノイズの印象に縁取られ、Big Black/Shellacのようなアンダーグラウンドの雰囲気に満ちている。動きのあるベースでダブのイントロを作った後、スティーヴ・アルビニのような金属的なギターが加わり、ニューウェイヴの楽曲が組み上がっていく。

 

しかし、ライフガードの曲は複雑な楽曲構成から成立しているが、全体的には聴きやすさがある。それはなぜかといえば、こういった実験的で不協和音やノイズを強調させつつも、ボーカルのメロディー性を維持しており、ビーチ・ボーイズのような爽快なコーラスが聴きやすさをもたらすからだ。3人のメンバーを総動員するボーカル/チャントの洗練度は、テキサスのBeing Deadに比する。一方で、これはライフガードが”Bar Italiaの再来”であるとする不敵なメッセージなのだろう。そして、フラワー・ムーブメントの時代から受け継がれるシスコのサイケの要素が、独特な幻想性をもたらす。最終的には、DEVO/Rolling Stonesのような古典的なニューウェイヴ/サイケロックの要素と結びついて、カルト的であるが、奥深い楽曲が作り上げられる。ここには西海岸/東海岸の両方の文化に触発された中西部の雑多性がうかがえるような気がする。

 

 

「5-How to Say Deisar」はあまりにもかっこいい。Gang Of Four(ギャング・オブ・フォー)を彷彿とさせる不協和音のギターのイントロから炸裂し、ドラムのタムのジョン・ボーナム風の即興的な演奏が続く。これらは、ギター、ベースのパートを巻き込んで、カオティックハードコアへの流れを作り上げていく。無謀でしかない試みであるが、ギター、べース、ドラム、各パートの演奏技術が傑出しており、そして、ジョニー・サンダースを彷彿とさせる甲高いシャウトとベースラインがこれらの荒唐無稽なサウンドに落ち着きと規律をもたらす。「How to Say Deisar」は、言い換えれば、スタジオでの即興的な演奏で得られた偶発的な音のマテリアルを手がかりにして、それらをまとめたかのようである。全般的にはコラージュの要素があるにせよ、基本的にはスタジオのライブセッションから成立していることに変わりない。二者のボーカルの受け渡しや同音反復のベースラインが次のセクションの呼び水となり、騒擾(USハードコア)と憂鬱(UKニューウェイヴ)を変幻自在に行き来する。つまり、ハードコアパンクとニューウェイブの二つの曲をシークエンスとして直結させたという感じで、これは先例がない。

 

アルバムの序盤では、モッズロックやビーチ・ボーイズのような音楽性を絡めて、比較的、商業的な音楽性もはらんでいるが、中盤以降の収録曲ではアンダーグラウンドの音楽性が顕著になる。

 

ドラムの4カウントから始まる「6-(I Wanna) Break Out」はストップ・アンド・ゴーをギターで表現しながら、This Heat、Pere Ubu、Wireといったハードコアパンクが誕生する前夜のポストパンクを復刻している。録音に緊張感があり、バンドとして、一触即発のムードが漂う。またそこには、自分たちの音楽に信頼を置いている印象があり、驚異的なことをやっているという自負もある。トリオのエナジーがバチバチとぶつかりあうような独特な空気感は、ライフガード特有のものだろう。不協和音に対する耐性、そしてノイズのセンスはFACSにも全然引けを取らない。かりに老獪なポストパンクをテクニカルに体現させるのが、FACSであるとすれば、Lifeguardの場合は、それらをある種無謀にも思える若々しさと衝動的なエナジーで体現させる。

 

 

「(I Wanna) Break Out」はバンドのスナップショットを収めており、瞬間的な輝きを放ってやまない。ギターの不協和音、ボーカルのシャウトも強烈なのだが、ベースのアッシャーの演奏が圧倒的である。こういった不協和音がデビューアルバムでは幾度も登場し、奇しくも、それはFACSのノイズパンクと共鳴を繰り返しながら、「Post-Albini Sound(次世代のアルビニサウンド)」を象徴付けるかのように出現する。 続いて、「7-Like You'll Lose」は、そういったサウンドをベースにし、ストーンズのリバイバルソングを作るかのように、UKロックの幻想的な雰囲気を加えている。ライフガードの場合、ニューウェイヴの不協和音がサイケデリアと共鳴しながら、幻惑的なロックのイメージを増幅させ、アシッド・ハウスのような幻惑的なイメージに結びつく。これらのアーティスティックな感性こそ、ライフガードの最大の武器でもあるのだ。

 

「8-Music For 3 Drums」はタイトルこそ、スティーヴ・ライヒの名曲のオマージュであるが、見方を変えれば、''二人のスティーヴに対するリスペクト''とも言える。音楽的には、 Boredomsのツインドラムのノイズの実験性をミニマリズムと結びつけ、Melt Bananaのような荒唐無稽なカオティックハードコアへと昇華させている。電子音楽のパルス音を、こともあろうにドラムを中心に組み立てる。これぞ''アヴァンギャルドの中のアヴァンギャルド''と言えるだろう。アルバムの最終盤に登場する「9-Charlie's Vox」も同じように、これらの一連のインタリュードに属している。独立した曲と続けて聴くと、どのように曲のイメージが変化するかを確かめてみていただきたい。これらは少なくとも、ライフガードの不協和音の要素と合わせて、三人組としてのシンボリズムの役割を成している。もちろん、それは暗示的な意味合い、メタファーに過ぎない。真面目なのか、不真面目なのかわからないミステリアスな部分もこのバンドの魅力である。

 

UKのニューウェイヴ/ポストパンクの末裔とも言える曲が「10-France And」である。This Heat、Chromeような不協和音も目立つが、全体的な楽曲としては、本文の冒頭にも挙げたように、The Jamのようなアートスクールに通っていた学生がやるアートパンク、The Boysのような青春味あふれるガレージロック、そして、Minor Threat(マイナー・スレット)に影響を及ぼし、USハードコア・パンクのルーツともなったWireの『Pink Flag』に象徴される乾いた質感を持つパンクロック、さらには、Wipersのようなグランジ/メタルと地続きにあるガレージパンク、そういった年代を隔てない彼らの音楽的な好みを基礎として、現代的なロックバンドの性質が付け加えられて、ライフガードのオリジナリティ溢れる音楽が完成する。いや、それはまだ完成するどころか途上にあるのかもしれない。少なくともインディーズミュージックの意義を再訪するとともに、ロック/パンクというジャンルには無限の可能性が眠っていることを示唆するのである。 

 

一般的にデビューアルバムでは自分たちが何者なのかを示す必要があり、鮮烈なイメージが含まれるに越したことはない。鮮烈なイメージとは、世界に対して好奇心に満ちあふれているという意味であり、それがそのまま若さや青々しさに繋がる。同時に、爽快な印象を及ぼすのである。それこそまさしく虚無的な感性が氾濫する世界に対する”強烈なカウンター”になり、''大きな希望''にもなる。アルバムの終盤にも素晴らしい曲が収録されている。聞き逃し厳禁である。

 

タイトル曲「11-Ripped + Torn」はロックソングとしてまことに素晴らしい。初心者が最初にギターをケーブルでアンプと繋いで、音が出力された時のような初々しい感動に満ちている。おそらく、ライフガードにとってロックすることは当たり前ではないのだろう。彼らの音楽は、ローリング・ストーンズやビートルズの時代のように新しい驚異に満ちあふれている。これらのモッズ・ロックやアート・パンクに見出すことができる紳士的な初々しさは、Pink Floyd、The Whoの最初期の作品や、The JamのようなUKロックの名盤のアルバムでしか味わったおぼえがない。

 

アルバムのクローズ「12-T.L.A」では、アメリカの西海岸のパワーポップ/ジャングルポップのクラシックな音楽性を盛り込んでいる。ただ、方法論はレモン・ツイッグスと似ているとはいえ、やはりライフガードらしい繊細な感性と若々しい希望に満ちあふれている。このアルバムをゲットした人々はきっと、「ライフガードと出会ってよかった!!」と実感するにちがいない。

 

 

 

 

92/100 

 

 

「Rippeed + Torn」- Best Track

 

 

 

▪Lifeguardのデビューアルバム『Ripped and Torn』は本日、Matadorより発売されました。ストリーミングはこちら。 

Weekly Music Feature: Qasim Naqvi     ~パキスタンにルーツを持つ作曲家カシム・ナクヴィによる驚異的な音楽~



パキスタン系アメリカ人の作曲家カシム・ナクヴィは、著名なトリオ、''ドーン・オブ・ミディ''のドラマーとしてよく知られている。その他にも、ECMから新作をリリースしたWadada Leo Smithとも共同制作を行っていて、ジャンルを問わずミュージシャンとして研鑽を重ねてきた。彼は、映画、ダンス、演劇、国際的な室内アンサンブルのためのオリジナル音楽を創作している。 最近の作品は、アナログ・シンセサイザーやオーケストラ編成の音色を深く掘り下げている。


実験音楽や電子音楽を得意とするErased Tapesと契約して以来、彼は2つのモジュラー・シンセサイザーの組曲を制作している。2019年の高い評価を受けた『Teenages』は、エレクトロニクスが生き、呼吸し、自ら変異する音を捉えた作品であり、2020年の姉妹作『Beta』は、この種の楽器のための作曲に対するナクヴィの理解と楽器自体の成長を記録した一連の実験的作品である。


カシムの音楽はアートとも親和性がある。彼の音楽は主体的な音楽としても楽しめるが、空間を彩る環境音楽としての性質も併せ持つ。空間に馴染む音楽の名手とも言え、彼の音楽は、グッゲンハイム美術館、dOCUMENTA 13 + 14、MOMA、リバプール・ビエンナーレ、セントルイス美術館でのインスタレーションに登場している。 現代音楽家としても名高い。彼の室内楽曲や管弦楽曲は、yMusic Ensemble、The Now Ensemble、BBC Concert Orchestra、The Contemporary Music Ensemble of NYU、Stargaze、The Helsinki Chamber Choir、The Bienen Contemporary/Early Vocal Ensemble、Nimbus Dance Works、シカゴ交響楽団(CSO)のMusicNOW Seasonで演奏されている。


2021年、アナログ・シンセシス組曲『クロノロジー』が全世界でレコード・リリースされた。2016年にデジタルのみで構想された『クロノロジー』は、カシムにとって初めてのエレクトロニック・ミュージックのリリースだった。即興音楽とクラシック音楽の世界に身を置いてきたナクヴィにとって、初の電子音楽アルバムは、コンピュータの豊富な選択肢を置き去りにして、故障したシンセサイザー、--古いムーグ・モデルD--だけで制作されるのがふさわしいと思われた。


パキスタン系アメリカ人の作曲家カシム・ナクヴィのニューアルバム『Endling』は、2023年のBBC コンサート・オーケストラ作品『God Docks at Death Harbor』の前日譚として作曲された。この作品は、数百年後の未来を舞台に、強烈で美しい風景の中を43分間のオデッセイへと誘う。


ナクヴィ自身の言葉を借りれば、アルバムは、8つの楽曲を通して、地球上の最後の人間である''エンドリング''の物語を語っている。エンドリングはある種の最後のメンバーである。 エンドリングが死ぬと、その種は絶滅するというのがシナリオだ。カシム・ナクヴイが明らかにしたところによれば、ニューアルバムは複数の構想を経て仕上がったという。


「ある朝、妻が夢から覚めると、"God Docks at Death Harbor "というフレーズが頭に浮かんできたらしかった。ちょうどそのとき、私はBBCコンサート・オーケストラのために新作を書き始めたところだったが、彼女がこの言葉の夢について話してくれたことで、それはあっという間に音楽の構想に浸透していった。 彼女の言葉は私にとってほとんど詩であり、具体的なイメージを呼び起こしてくれることがある。 私は、人類がもはや存在しない、何百年も先の未来の地球を想像した。 私たちがいなくなったことで、世界は平和に回復していく。 これが作品の信条となった」


「それは、このトーンポエムを書いているとき、インスピレーションを得るために眺めることのできる風景画のようだった。 2023年春にロンドンで『God Docks at Death Harbor』が初演された後、この感覚は私の中に残り、新譜について考える時期になり、この物語を続けたいなと感じた。 私は前日譚を想像してみた。地球上で最後の人間であるエンドリングが、何世紀も未来の世界を旅する話。 朽ち果て、変異した世界は、自然と人工の奇妙なアマルガムになるという」


「私は、この音楽が、自然界に追い越され、吸収されつつある未来の崩れかけた風景の中を、この人間を追いかける章立てになっていることをイメージしていた。 God Docksのトーンポエムの伝統に従って、私はまず曲のタイトルを作り、音楽が形になっていくにつれて、その意味をより明確にしていった」


「これらのタイトルには、現在の感覚も込められている。 エンドリングは、多くの人々にとって大きな苦悩と苦痛に満ちた2024年に制作された。 その時間は、このレコードのフィクションに追いつくかもしれない道のりのよう。それ自体がディストピックを感じさせ、それは今も続いているんだ」


アルバムのハイライト曲「パワー・ダウン・ザ・ハート」では、主人公が人生の最後の瞬間にあるA.I.に出会う。 一種の最後の儀式として、この古代の人工意識は、何百年も観察してきた美、悲しみ、恐怖を描写する。Moor MotherのボーカルはAIテクノロジーを表すために取り入れられたが、それは人の手によるボコーダーの装置によって濾過され、アルバムの特異点を形成している。


「私は、音楽がこの存在の心の中に流れるように感じられるふうにしたかった。 私は音楽とこの物語をカマエ(Moor Mother)と共有し、彼女がこのA.I.の声を担当してくれないかと頼んでみた。Camaeの声のサウンドをこのレコードの世界に取り入れるため、私は、”Buchla 296t Spectral Processor”として知られる、古い機械設計で彼女のボーカルを処理した。 この特異なアナログ・イコライザーを駆使し、微妙なヴォコーディング・エフェクトを作り出したり、もっと極端なやり方では、彼女の声の特定の響きを強調したり弱めたりすることができた。 そして最終的な結果は、プログラムされた人間らしさを脱ぎ捨て、永遠にパワーダウンする一種の合成音声だった」


「要するに、『Endling』の音楽はすべて有機的なアプローチによって行われ、ARP Odyssey、Minimoog、モジュラー・シンセサイザーによって生成され作られたと言える。私にとって、モジュラー・シンセサイザーのやりがいと満足感のひとつは、複雑な音色を一から開発することに尽きる。このモジュール装置は、有機的に不安定であり、扱いをミスると故障しやすい。 さながら有機体のように感じられ、そして演奏者としてそのエネルギーの流れや電圧をコントロールすることができた。 大人になってから、私の創作活動は両極端な方向性に進んでいった。 私は即興音楽を通じて、純粋に自然発生的な方法で物事を創造することが大好きなんだ」


「このたぐいの音楽的コミュニケーションは、二度と再現できないような複雑で直感的なアイデアに直結することがある。 そして、もう一方には、オーケストラや室内楽グループのために作曲するのが大好きな私がいる。 これは私の思考の詳らかな青写真をスローダウンしたようなものなんだ。 モジュラー・シンセサイザーは、この2つの世界を見事に橋渡ししてくれることがわかった」


「私は、今回、この電圧制御のマシンを、珍しい楽器やモジュールで構成されたアンサンブルのように扱うことができ、そのアンサンブルのためにコンポジションを行った。 私は、このマシンの有機体に音楽を提示し、電圧の減衰(Decay)を通して、即興演奏家のようにライブで素材を編成することが出来たんだ。そしてアンサンブルのように、モジュラー・シンセサイザーの解釈は常に異なり、私が思い描く以上の非常に豊かなソノリティやパターンを生み出した」

 

「”Endling”に対するこれらの全般的なマシーン・アプローチは、(BBCの)オーケストラの前任者に対する比類なき賛辞であり、なおかつまた、このアルバムの未来とは異なる種類のオーケストラのように感じられる」ーーQasim Naqvi 

 


Qasim Naqvi  『Endling』- Erased Tapes




従来の音楽形態は、ポピュラー/ロックソングのように主体的なもの、サウンドトラック/環境音楽のように付属的なものというように、明確に分別されてきたように思える。しかし、パキスタンにルーツを持つ作曲家、カシム・ナクヴィの音楽はその境界を曖昧にさせ、一体化させる。

 

そして、今一つの音楽の持つ座標である能動性と受動性という二つの境界をあやふやにする。ナクヴィの音楽は、ある種のバーチャル/リアルな体験であり、それと同時に、近未来の到来を明確に予見している。彼の音楽は、高次関数のように、多次元の座標に、音階、リズム、声を配置し、その連関や定点を曖昧にしながら、音の流れが複数の方向に流れていく。このアルバムの音楽は、従来のポリフォニー音楽になかったであろう新しい着眼点をもたらしている。音楽のストラクチャーというのは、音階にせよ、リズムにせよ、ハーモニーにせよ、必ずしも一方方向に流れるとは限らない。これが二次元のスコアで考えているときの落とし穴となるのだ。

 

電子音楽による壮大なシンフォニアとも言える「Endling」は、SFをモチーフにした広大な着想から生まれている。ナクヴィの妻が話してくれた謎の言葉、「デス・ハーバーのゴッドドック」は、一般的な制作者であれば気にもとめなかったのではないか。しかし、制作者にとっては啓示のように思え、ある種の”ダヴィンチコード”のような不可解さを持ち、脳裏を掠め、音楽のシナリオの出発点となり、また、その最初の構想が荒唐無稽であるがゆえ、イマジネーションが際限なく広がっていった。


カシム・ナクヴィは、フィクションとノンフィクションが混ざり合う不可解なモチーフを、彼自身の豊富なイマジネーションをフルに活用して、電子音楽によってそれらの謎を解き明かしていこうと努めた。しかし、もちろん、MOOGなどモジュラーシンセというアナログな装置を中心に制作されたとはいえ、完全な古典主義への回帰を意味するわけではなかった。いや、それとは対象的に、先進的な趣旨に縁取られ、現代人の生き方と密接に関連する内容となった。


この音楽を聴き、どのような考えを思い浮かべるかは、それぞれの自由であろうと思うが、重要なのは、その考えを日頃の仕事や暮らしのヒントにすることも不可能ではないということである。つまり、アルバムの音楽は見えない複数のルートが同時に存在することを暗示させる。これらはSFのタイムラインやパラレルという概念とも密接に繋がっているのではないかと思う。

 

現今では、AIテクノロジーの著しい進化は、人間の暮らしに多大な利便性をもたらしたのは確かだったが、日常的な生活に浸透させ過ぎることに警鐘を鳴らす研究家もいる。 便利すぎるということ、それがそのまま新しい着想や発明の芽を摘みとることがある。それに加え、利便性には、人類が発展するための成長性や自律性を削ぎ落とす弊害も内在している。果たして地球の未来は、「猿の惑星」のようにAIやテクノロジーに翻弄されるディストピアになるのだろうか。


カシム・ナクヴィさんは、どうなるか不分明な未来の人間社会の進展を、現在の世界情勢や暮らしとリンクするような形で、人間の根源的な生命の意義と結びつけて、人類の理想的な存在とは何かを探求していく。しかし、例えば、優れた映像作品のように、それらは飽くまで提言にとどまり、ぞれぞれの聞き手が答えを見つけるというような趣旨の作品となっている。良い概念とは、性急な結論を出すのではなくて、自発的な考えを促すよう手助けをするものである。 


このアルバムには、宗教、人種、戦争、環境、自然と生物との共存、エネルギーや資源、そういった現代の世界に内在する複数の問題点を明らかにし、それらの着想を音楽で体現するという、現代のミュージシャンが率先して行うべき模範例が示されていると言えるかもしれない。それらは利己主義やポピュリズムが繁栄する現代社会に、ある種の規律や均衡をもたらそうとする。

 

 

同時に、このアルバムでは、アナログのシンセが積極的に制作に取り入れられている。アナログというのは、意図的に音を消すということが出来ない。信号を送るのは人の手であるが、音がどこで消えるのかを決定するのは人間ではない。時々、アナログ信号では、音を消すことができず、ずっと鳴り続けることもある。また、演奏者がまったく意図せぬ偶発的な音が発生する場合もある。それはそのまま、即興的な音楽の発生を促し、結末や結果がどうなるかわからない、というスリリングな雰囲気をもたらすことになる。例えば、音楽がすべて方程式のように進んでいき、何の意外性も偶然性も持たないとすれば、それではあまりに退屈すぎるのではないか。実際的に、このアルバムには、チャンス・オペレーションの次の段階が示されている。


音楽のライブ演奏の中で、観客の反応も含めて、どのような偶発的な要素が発生するのか。偶発的な要素により、何らかのケミストリーが発生するのか。それはミュージシャンとしての最高の楽しみのひとつであると思うが、カシム・ナクヴィは、この偶発的に生み出される要素を心から楽しんでいる印象を持つ。例えば、コンピューターやプログラムのエラーやバグのような瞬間もまた、ライブ演奏のような感じで演奏し、組み合わせたり設計したりしている。それは部分的には、意図しない何かを許容したり、抑制できない何かを認めるという、音楽制作をするまでは出来なかったことが出来るようになる瞬間である。そして、このアルバムでは、そういったコントロール出来ない部分から逸脱したときに、神秘的な音楽が出来することがある。そして、制作者は旧来、現代を問わず、テクノロジーを駆使し、それらを作り出していくのだ。

 

 

『Endling』は全般的に見ると、ドローン・ミュージックを中心に組み上げられている。 ドローンというのは、スウェーデンなどで盛んなアンビエントの次世代の音楽であり、ラモンテ・ヤング、タシ・ワダがバクパイプ構造を持つ音響性を活かし、持続音の知られざる魅力を探求し、前衛音楽を作り出した。音の通奏音の持続、あるいは減退の段階を通じて、音調(トーン)の変調や波のうねりを生み出し、最終的には多彩な音楽のウェイブの性質を示すというものである。

 

「1-Fires」はインタリュードのような形で始まり、カナダのエレクトロニック・プロデューサー、Tim Heckerが『No Highs』で試みたように、下降していくドローン音が導入部となっている。その最初のモチーフに対して、アナログシンセのリードやベースは、段階的に上昇するカウンターポイントを描き、SFや天文的な音楽の印象を取り入れ、スタンリー・キューブリックの映画「2001年 宇宙の旅」のような神秘的なオープニングのような序章の音楽を形作る。

 

「2-Beautification Technology」は対して、シュトゥックハウゼンが提唱した音の集合体を意味する「トーン・クラスター」の類型に属する。アルペジエーターを配した持続音を緻密に配列した上で、高次関数のように複数の座標を持つ数学的な電子音楽の構造を作り上げる。ミニマル音楽としても聴くことも可能であるが、オシレーターのような装置を用いて、徐々に全体的な音響をぼかしていき、移調させていくという独特な手法を発見することが出来る。この曲では、人の手ではコントロール出来ない、音の強弱を活かして、偶発的な音楽を発生させている。

 

 

 「Beautification Technology」

 

 


近代/現代の音楽として、その場に満ちる”空気感”とも呼ぶべきものを最初に表現したのは、おそらく、リゲティ・ジョルジュであった。ユダヤ人のホロコーストを題材に、不気味で恐ろしい空気感を表現したのだった。「3-The Glow」は、地上的な概念を表したというより、宇宙に偏在するダークマターやダークエネルギーといった、現在の物理化学では解明しえないエナジーを出現させたという印象である。一般的に言われるところでは、現行の物理の分子学や原子学では解明しえないエネルギーが、宇宙空間には90%以上も偏在するのだという。これはおそらく、ギリシャ哲学でほのめかされたエーテルのような、三次元空間には存在しない非物質のことを示唆するのではないか。そして、カシム・ナクヴィは、そういった非物質的な現象や目に映らない存在を認め、音楽を通じて、それらの神秘性に迫ろうとしている。音楽の正体は振動やバイブレーションである、ということをあらためて痛感させる特異なトラックである。

 

前曲を分岐点として、このアルバムの音楽はSFの性質を強めていく。SFのロマンとは、この世に解明出来ないことが存在すること、あるいは、その謎を探索したいという人間の原初的な欲求から生ずる。


続く「4-Power Down The Heart」は、そういった知的好奇心を駆り立てる何かが内在する。例えば、子供の頃は、すべて知らないものを無邪気な目で見ているが、大人になると知らないものですら、そういった純粋な目で見れなくなる。''多くの情報を知りすぎる''という楽園のアダムのような現象こそ、現代の人々にとって、退廃や堕落を意味するのだ。「Power Down the Heart」は、むしろ知らないことの素晴らしさや、知り得ないことに目を開かれることの喜びを表す。この曲では、Moor Motherをボーカリストとして招き、そして、AIの声をシンガーに仮託し体現させている。ムーア・マザーは最後に地球に残された種の意識体をボーカルで表現している。近未来を人類はどのように生きていくべきか、そういった提言をナクヴィは行う。

 

 

 

 「Power Down The Heart」

 

 

 

「5-Plastic Glacier」はどうだろうか。スコットランド/スペインのバクパイプの音響性をドローン音楽という側面から解釈し、それらをブライアン・イーノのアンビエントのバイブルになぞらえた一曲という感じがする。表向きには、ありふれた氾濫するフラットな音楽に過ぎないように思える。しかし、実際に聴いてみるとわかるように、他の曲とは印象が異なる。モジュラーシンセは、一つの音符を発音するたびに、異なる倍音を発生させ、次に同じ音階を発生したとしても、同じ音やトーンになるとは限らない。これらの偶発的な音楽性は、ハモンド・オルガンやパイプ・オルガンのような荘厳で奥行きのある音響性をもたらし、そして実際的に曲の中で、フーガにもよく似た追走の性質をもたらし、コラールにも似た美麗なハーモニーを形成するに至る。

 

 

アルバムのもう一つの注目曲でタイトル曲「6-Endling」は、アナログシンセによって、鳥の声や生物の声を生成し、澄明で精妙なエネルギーを持つシークエンスを敷き詰める。この曲は、地球から宇宙を俯瞰する人間とは対象的に、宇宙から地球を俯瞰するような超大な音楽的な印象に縁取られている。ドイツのAlva Notoを彷彿とさせる精妙なシンセの音色は、重厚な通奏低音の配置、そして、オクターブの倍音を構成する高音部といった多彩なハーモニーを形成する。持続音が連なっていくに過ぎないように思えるが、音楽の持つ景色が少しずつ変化していく。この曲でも、ドローン音楽に類する作曲の中で、偶発的な音響の発生が、計算しつくせない審美的な和音を作り上げる。音楽の持つ人智では図りしれない神秘的な一面をものの見事に発現させている。

 

 

全般的には、アナログの人工的なサウンドが際立っているが、「7-In The Distance」はかなりデジタルの質感が強いサウンドである。 しかし、よく聞くと、この曲も、アナログで制作されているらしく、ボリュームの抑制が効かない箇所が登場する。他のトラックでは封印していたノイズの側面が際立つ。しかしそれは、一貫して、精妙な振動数で構成されていためか、そのノイズの中には、数式の配列のような美しさが存在している。そして前の曲と同じように、十二音階から導き出される無数の倍音の持つ多彩性を組み合わせて、地球の多様な生物の性質を表現しているように思える。

 

近年、アジアの雅楽やガムランの微分音に興味が注がれることもあったが、西洋音階にも、微分音はおそらく存在している。それらは音符のタブルフラットやダブルシャープ、あるいはJSバッハやベートーヴェン、ショパンがスコアの中に暗号のように残した半音階進行の和声や対旋律、あるいはその残響や余韻という形で体現されてきた。

 

タイトル「In The Distance」から見ると、宇宙に関する主題に思えるが、おそらく''このアルバムの信条''と制作者が述べる''時間的な隔たり''をモチーフとし、未来から現在の地球の姿を俯瞰するという、かなり深遠な概念が込められている。第二次産業革命以降の人類は絶えず、テクノロジーの発展により、未来を造出してきた。他方、現代の人類としては、未来の理想を考えたさいに、今どのように工業や産業、テクノロジーを発展させていくべきか、という逆算的な視点が不可欠であることがわかる。

 

 

最も衝撃的な曲がアルバムの最後に控えている。結末がどのようになったのかは実際に聴いて確かめていただきたいと思う。しかし、ダークアンビエントともいうべき、この曲は、アルバムの中で最も衝撃的であり、緊張感に満ちていて、音楽の持つスリルを体現させている。今作は、EDM、IDMといったジャンルに希釈されることのない''独立した正真正銘の電子音楽''である。影響を受けた作品はあるかもしれないが、それが完全にオリジナルになっている点に敬意を表したい。映画的な音楽と言っては語弊があるかもしれないが、BBCのドキュメンタリー以上のハリウッド的なエンディングだ。音楽ファンとしては、本当の意味で、新しい形態が出てきた瞬間に感動を覚える。テクノロジーと同じである。それがつまり「Endling」の価値といえよう。このアルバムを聴くという、またとない幸運にあやかった少数のファンは、音楽の近未来の姿を垣間見ることになるだろう。

 

 

 

 

100/100

 

 

 

 


Qasim Naqvi(カシム・ナクヴィ)の新作アルバム『Endling』はErased Tapesから本日リリース。ストリーミングはこちらから。

Weekly Music Feature: Sophia Kennedy  ドイツの新しいウェイヴを体現するソングライターの登場

Sofia Kennedy ©︎Rosana Graf


ソフィア・ケネディのサード・アルバム『Squeeze Me』はヨーロッパの芸術運動の再燃を意味し、今日の世界情勢に際して、ポピュラーソングの現在と未来を問う。ドイツのポップカルチャーはボウイの三部作で終わったわけではない。現在の注目すべきポピュラー運動はベルリンに見つかる。


ケネディはボルチモア出身、現在はハンブルグ/ベルリンを拠点に活動する。この3世紀の世界は、ローマ帝国、大英帝国、アメリカという流れで覇権は推移してきたが、覇権が分散し多極化しつつある世界情勢の中、北米と欧州の二つの文化を知るハイブリッドなポピュラーソングを提示するシンガーソングライターが出てきたというのは、当然の帰結と言えるかもしれない。


幼い頃、ゲッティンゲンに引っ越したソフィア・ケネディは、家では英語を喋り、そして幼稚園ではドイツ語を学んだ。これらの二つの言語や文化観の中で養われた彼女の感性はアンビバレントになり、ヨーロッパ的な感性とアメリカ的な感性の間で揺れ動きながら、カラフルな性質を持つようになった。大学に通う頃にはハンブルグへ移り住んだ。その後、映画を学ぶようになったが、音楽が頭の中にはちらつく。以降はテレビや映画のサントラを手がけるようになった。


ソフィア・ケネディにとって、音楽とはアメリカを召喚するような働きをなし、遠ざかる故郷ボルチモアを呼び覚ます役割がある。ケネディにとって、英語は''耳になれない言語''になりつつある。しかし、歌をうたう時、そのルーツが他の誰よりもくっきりと浮かび上がる。「音楽を作るとき、私はいつも心の中でボルチモアに行くような気分になります。都市ではなくて、子供の頃に遠く離れて育った葛藤へと行きつく。私はもうほとんど英語をまともに話せませんが、歌うときの声にアメリカ訛りがあり、それがまだそこにある私の一部であるという感覚です」


「スクイーズ・ミー」はおもちゃ屋のカラフルな世界でのリクエスト。 デパートの暖かな明かりに照らされたそれは、おいしい誘惑のように見えるが、生気のないぬいぐるみやプラスチックの顔という魅力的な誘い文句の裏には何かが隠されているかもしれない。無邪気に見えるものが、いたずらっぽく歪む。「あなたは私を抱きしめているのか、強く抱きしめすぎているのか?」 これが、ケネディが10曲にわたって崇高かつ揺るぎない決意で追求する中心的な問いである。


グレート・アメリカン・ソングブックの華やかさ、エレクトロニックなテクスチャー、クラブランドの影響の間で輝くダンスを披露し、国際的な称賛を得たセルフタイトルのデビュー作(2017)に続き、ケネディはセカンド・アルバム『モンスターズ』(2021)をリリースし、超現実主義と超越について掘り下げた。


『Squeeze Me』では、ケネディと彼女の長年の音楽的コラボレーターで、共作者でもあるメンセ・リエンツ(Egoexpress、Die Vögel、Die Goldenen Zitronen)が、世界全体の現状に対するより幻滅的なコメントを描きだす。 対人関係の複雑さ、パワー・ダイナミクスへの疑問、自己決定への探求など、ケネディの長年のテーマが、アルバムを通して一貫した物語として展開される。


前作よりコンパクトになった『Squeeze Me』にはケネディのポップでキャッチーなメロディとサイケデリックな才能が溢れている。反復されるピアノのコード、煌びやかなシンセのベース、揺らめくクワイア、そして叫び声までもが、"Rodeo "のサウンドステージを作り上げる。アルバムのポップなハイライト"Imaginary Friend "と並び、"Rodeo "は差し迫った疑問を投げかけている。


「私たちはどこへ向かっているのだろう?」 ケネディはその答えを提示する代わりに、熱意に満ちた歌声で前進する。


終盤の"Hot Match"では、熱狂的な夢のように加速していき、モーターを煽るようなビートと燃え盛るタイヤで、立ちのぼる煙の向こうに駆け抜けていく。厳格さと美しさ、ユーモアとメランコリー、運命論と力強さ。『Squeeze Me』は、ソフィア・ケネディのすべてを反転させ、アルバム・ジャケットと呼応している。 それぞれの視点によって、彼女も世界も逆さまになるのだ。 


従来よりも集中し、ポップになった『Squeeze Me』は、ケネディにとって最もまとまりのあるアルバムである。一種の芸術的マニフェストとさえ言える。 多層的で、自信に満ちた声明であり、歌手の周囲や向こう側にあるあらゆる内外の危機があるにもかかわらず、それゆえに功を奏した。 『スクイーズ・ミー』は、外の世界を度外視するのではなく、私たちが何となく知っているようで、これまであまり垣間見たことのない、彼女独自の世界を通じて世界に対抗する。

 

 

Sophia Kennedy  『Squeeze Me』- City Slang


ベルリンといえば、デヴィッド・ボウイの『ベルリン三部作』が真っ先に思い浮かぶ。それまでロサンゼルスに住んでいたボウイは、この作品を期にベルリンで数年間を過ごし、刺激的な生活を送った。ベルリンはコスモポリタンの都市で、芸術文化の街。ボウイはかつて、「私は10代の頃、特にこの土地の芸術家や映画製作者の怒りに満ちた感情的な作品に夢中になっていた」のだった。

 

「ベルリンは、ディ・ブルッケ運動、マックス・ラインハルト、ブレヒト、そして『メトロポリス』、『カルガリ』の発祥の地であった。それは出来事を反映するのではなく、ある気分によって人生を映し出す芸術だった。当時の私にとっては、これが仕事の方向性になった。1974年にリリースされた『Autobahn』によって、私の関心はヨーロッパに戻った。電子楽器が多かったので、この分野は徹底的にもう少し調べてみないといけない。そう確信したのだった」


ボウイがもたらした「ベルリン三部作」は、この都市に、電子音楽の他、ポピュラー文化を強く意識付けることになった。もちろん、クラフトワークが”電子音楽のビートルズ”と呼ばれることがあるように、その音楽にポップネスを内包していたことを考えたとしてもである。18世紀の神聖ローマ帝国時代に崇高な音楽文化を誇り、大学教育などのリベラルアーツでも高い水準を持つドイツ。それは、その後の近代文明や現代文明の中で工業的な発展を重ねるうちに、音楽として、”芸術と商業的なポピュラリティを結びつける”というテーゼをもたざるをえなくなったのである。その突破口を切り拓いたのがクラフトワークとボウイであったのだと思う。

 

音楽というのは文化を醸成する都市や地域から生み出され、その暮らしの中で、いかなる作品を作り出すべきかという必然性から生じる。必然性を持たない音楽作品は、趣味の範疇を出ることは稀有である。ロンドンにはロンドンの、パリにはパリの、ニューヨークにはニューヨークの、ベルリンにはベルリンの、ケープタウンにはケープタウンの、東京には東京の音楽が作り出される必要があるのだ。そして、模倣性や重複性ではなく、差異やスペシャリティ(特性)により新しい芽がどこかに育まれる。もちろん、ドイツに関して言えば、都市性や工業性、市民の現代的なライフスタイルが合致し、新しい表現を生みだすための下地が形成されている。

 

日頃、生活をしていて、ふと思う疑問だったり、自己のアイデンティティにまつわる思いは、新しい音楽が発生するための大きなヒントやテーマになりえるのである。ドイツは、EUとの関係の中で、00年代前後を境に、ヨーロッパ全体のユーロビートやダンスミュージックの発展の影響を受け、音楽市場の拡大や、ライヴマーケットの成長期を経て、新しい音楽文化が花開く可能性を持っている。それは、ENJI(ベルリン)のようなビョークの次世代を担うシンガーの登場を見ても明らかだ。ハンブルグ/ベルリンのソフィア・ケネディーは、今後のポピュラー・ソングとは、どのようなものであるべきか、それを三作目のアルバム『Squeeze Me』で示唆している。

 

 

ソフィア・ケネディの音楽の表層を形成するのが、ファッショナブルでスタイリッシュなイメージ。これは間違いなく、制作者の日頃の生活や考えから汲み出されるものであり、他の人が真似しようとしても出来ない。アルバムの冒頭を飾る「Nose for a Mountain」を聴くとわかるように、シンセポップを基調とする親しみやすく軽妙な音楽的なアプローチの中に、セイント・ヴィンセントやビョークのようなファッショナブルな感覚が揺らめく。そして、その音楽性を背後から支えているのは、工業都市の音楽であるエレクトロニックである。これらの現代性や近代文明の工業性の発展の中で培われた音楽的な核心、それらは、現代的な宣伝広告やファッションの要素と結びついて、アートポップソングを作り上げるための素地となっている。




アルバムはその後、エレクトロポップに転じる。アヴァロン・エマーソンの系譜にあるDJライクなサウンドに、ソフィア・ケネディ独自のボーカルが乗せられる。スポークンワードでもなく、ソウルでもない、ダンスミュージックから汲み出された特異なボーカルスタイルが心地良いビートの底に揺らめく。ケネディのボーカルは、夢想的な感覚を生み出し、ある種の幻想性を呼び起こす。「Imginary Friend」というタイトルに相応しい。「Drive The Lorry」では、レトロなマシンビートを配して、チルウェイブとレゲエ/ラヴァースロックの中間にある独特な音楽性に転じる。現代のヨットロックやソフィスティポップに通じるようなアメリカの西海岸の音楽を呼び覚ます。これらのチルウェイブに属する音楽は、ホリー・クックにも近い感覚がある。しかし、ボーカルは依然としてスタイリッシュな印象があり、華やかな雰囲気に満ちている。

 

 

「Runner」は、EUらしいイメージに縁取られている。現代的なヨーロッパの文化性を音楽的に端的に表現したかのようである。例えば、2000年代以降のユーロビートの音楽性を継承し、それらを現代的なシンセポップに組み替えている。そしてスポークンワードの影響を受けたニュアンスに近いボーカルは、音階の抑揚をつけながら、トラックの背景となる反復的なシンセのパルスのビートと呼応するように、多彩なシークエンスを作り上げる。この曲は、フレーズごとに印象が様変わりし、音楽のカラフルな印象を強化している。緊張感に満ちたかと思えば、さわやかになり、また、ミステリアスにもなり、宇宙的にもなる。トラックの全体に、ヒップホップやブレイクビーツを反映させたリズムをループで配し、ドラムンベースのようなハネを強める。これは間違いなく、Wu-Luが最新EPでやっていたリズムの技法によく似ている。

 

しかし、ボーカルはそれらと対象的なコントラストを描く。ケネディのボーカルは、オペレッタからブリジット・フォンテーヌのようなアートポップの形態を活かし、迫力と上品さを兼ね備えた新鮮な音楽のインディオムを作り出している。ビートやリズムはかなり堅牢であるが、シンセのアルペジオは一貫してメロディアスで聴きやすさがある。もちろん、シンセだけではなく、ケネディーのボーカルも旋律をはっきりと意識している。表向きにはニューウェイブの一曲であるが、全般的にいえば、"ダンスミュージックのオペレッタ"ともいうべき優雅な印象をもたらすことがある。歌詞もシュールな印象がある。"I Can See in Through My Eyes"などを聴くと分かる通り。

 

 

 「Runner」

 

 

 

『Squeeze Me』は明確に言えば、ソウルアルバムではあるまい。ただ、部分的にR&Bやコーラス・グループからの影響が感じられる。 


「Rodeo」では、ディスコポップの影響が強まり、コーラスの箇所にブラックミュージックからの強いフィードバックが感じられる。シンセベースがファンクのビートを強調するが、ボーカルは内省的な雰囲気に満ちている。ボーカルとシンセ、リズムの組み合わせは、レトロなドリームポップ、懐古的なソフィスティポップともいうべき特異な空気感を持たせる。コーラスには異言語的な発音の響きを活かし、外国語の言葉遊びのようなユーモラスなニュアンスを強め、言語の訛りを長所として活かしている。

 

これらのエキセントリックな言語の響きの組み合わせは、これまであまり知られていなかった言語のユーモラスな性質を強めるだけではなく、ノスタルジックな感覚を呼び起こすことがある。それは、ドイツ語と英語の異文化圏のハイブリッドという歌手の人生観のフィードバックとも解釈出来る。


シンガーは、幼少期に聞いていたかもしれない音楽、そのわずかな記憶の糸を手繰り寄せて、独創的で抽象的な音楽空間を作り出す。そして、Broadcast(Warp)の制作していたような、抽象的であるが夢想的な感覚を、ものの見事に呼び覚ます。というか、これらの贔屓目のあるプロデュースを聴くかぎり、ソフィア・ケネディはWarpが結構好きなのではないかという疑惑すら生じる。

 

 

「Feed Me」は、フォーク風の楽曲で、ちょっと自虐的なニュアンスが込められている。このアルバムとしては珍しく、ベースとピアノが活躍し、ライブでぜひとも聞いてみたい一曲である。ジョン・レノンの「Imagine」を彷彿とさせる、ポピュラーソングの古典的な和声進行から、牧歌的で穏やかな感覚が汲み出される。スペーシーなSEの音響効果や叫びが途中で入ったりもするが、全般的には慈愛の雰囲気に満ちたポップソングとなっている。このアルバムでは、一番温かい雰囲気が感じられる。そして、過去の英語の訛りは、ドイツ語の訛りへと"反転"している。明確なタイトル曲がないアルバムだが、暗示的にタイトルのフレーズが歌われているのを見ると、隠れたタイトル曲である。この曲ではシンガーの複数の内面の感覚が様々な形で表されている。

 

 

最も心を揺さぶられる曲がある。それが七曲目に収録されている「Oakwood 21」である。ジャズの香りを添えた王道のバラードソングで、ケネディーのボーカルは静かなピアノと相まって、心に染み入る感じがある。アルペジオによるシンプルなピアノの伴奏の中で、同じように、シンプルなコールアンドレスポンスの手法で、ボーカルが歌われている。もしかすると、このような曲は、時代を超えた自分自身との繋がりを取り戻すための手立てであり、それは遠く離れてしまったアメリカへの親和性を我が手に取り戻すための回路のような働きをなす。この曲の中で、彼女はまるで、かつての自己やその思い出を抱擁するかのように、最もシンプルで美しいボーカルを披露する。

 

「Oakwood 21」は映画音楽のサウンドトラックやBGM(バック・グランド・ミュージック)のコンポジションの技法、もしくは舞台のミュージカルやオペラティックな劇伴音楽の効果を活かし、イントロのささやかなモチーフは信じがたいほど広大なスケールを持つバラードに成長する。これまでのアーティストの生き方を表すような素晴らしい一曲として聞き入らせてくれる。

 

 

 「Oakwood 21」

 

 

 

映像と音のイメージを直結させるという技法は、「Upstairs Cabaret」にも発見することが出来る。これは、フランスのドビュッシーが『Images』で、いち早く取り入れた画期的な作曲技法だった。また、一例では、アメリカの映画評論家のジェイムス・モナコ氏は、''映画音楽は映像の付加物である''と定義付けたが、''優れた映画音楽は映像を超越する瞬間がある''とも述べている。音楽が想像を超える神秘性を持ちうることはデヴィッド・リンチも認めていた。そういった音楽の神秘的な一面をインストゥルメンタルとして体現させたのがこの曲だ。映画音楽の持つ独特なムードやアトモスフィアの醍醐味を知り尽くしているから、こういった曲を作ることが出来るのだろう。

 

 

一般的には、ジェイムス・ジョイスやプルースト、マルケスの著作のように、連続した音楽作品のアルバムの中に、長期的な十年や二十年のような長い時間が流れが含まれることは歴史的に見てもきわめて稀である。


しかし、『Squeeze Me』は、推察するかぎりでは、短いミクロの単位を起点にし、より大きなマクロのシンガーの人生が断片的に反映されている気がする。つまり、一日の始まりから終わりまでを音楽的に網羅したと言える。そして、アルバムの曲の印象は、朝の爽快さや個人的な出来事から夜の雰囲気に移り変わる。アルバムの中盤では夕方になり、そして終盤では夜から真夜中になる。ある意味では、人生の一コマの流れが、この40分近い作品に凝縮されている。

 

夜のテーマを印象付ける「Closing Time」は、同名のアルバムを持つトム・ウェイツのように、淡く渋いバラードソングである。しかし、ウェイツが深夜過ぎのピザ屋での労働の気怠さや哀愁を反映していたのに対して、ケネディの場合は、音楽全体が着飾るようなスタイリッシュさ、ファッショナブルな感覚に縁取られている。夜になると、心楽しい空気感やエンターテイメントの雰囲気が強まる。これこそ、Berlinerとしての独特なライフスタイルを伺わせる。


最後に収録されている「Hot Match」は、アルバムの中で最もパワフルな印象に縁取られている。ニューウェイブ/ポストパンク的とも言えるだろうし、ブロンディのデボラ・ハリー的とも言える。この曲ではきっと、シンガーソングライターのこの上なくクールな一面を体験することが出来るはずだ。

 

 

88/100

 

 

 

Sophia Kennedy(ソフィア・ケネディー)の3rdアルバム『Squeeze Me』は本日(5/23)、City Slangから発売されました。 アルバムのストリーミングはこちら


Alexandra Savior

パートナーのドリュー・エリクソンとパンデミックの最中に始めた『Beneath the Lily Pad』は、過去半世紀にわたるアレクサンドラ・サヴィアーのありようを通じた幽玄な旅である。それはまた、自分が何者であるかを探る、果てしないアイデンティティの確立への道のりでもあった。

 

「自分自身と自分の音楽の、ソフトで、感情的で、フェミニンな面が弱いかなと何年も感じてきた後、自分が何者で、何を望んでいるのかを見極めるために、はてしない靄の中を彷徨っているような、ほとんど夢のような時間だった」


2020年のアルバム「The Archer」をリリースしたあと、次の作品をリリースするレーベルもないからと思っていたところへ、伝説的な名門レーベルからコンタクトがあった。それは彼女の果てなき逡巡からの脱出するための契機となった。


以前、Paper Rocksとのインタビューで彼女はいかに次のアルバムの見通しが立たないかを笑いを交えて話していた。


「私は長い間曲を書いてきましたが、アルバムの最終的な形をまだ頭の中で見つけていません。しかも、またリリースするレーベルがない(笑) 前のアルバムとは違う音楽となりそう。この一年が私たちを停滞の段階に導いたので、それは映画的ではなく、遅くて穏やかになるかもしれない。正直言うと、このアルバムがいつリリースされるかさえわかりません。レーベル契約がなければ、お金がありません。運が良ければ、今年末に発売されるかもしれませんね(笑)」


しかし、他者との関係、彼女を取り巻く世界の中で、アレクサンドラ・サヴィアーはそういったシュールレアリズムのような不確かな時間を生きながら、本能こそ自分の頭の中にあるどんな疑念よりも強力であることを学んだ。 「今回は音楽がどう受け止められるかをあんまり考えていなかった。 他の人がどう思うかではなく、ただ自分のために自分の好きなように作ることができた」


過去に自己が決めつけていた水準を越え、なんでも出来るという自信に満ち溢れた感覚、心理学的に言えば、エフィカシー(自己肯定感)の影響は、リスナーが最初に耳にする "Unforgivable "のように、アルバム全体に波及している。 「この曲は、私がエゴの外に生きることを学んだ最初の例のひとつ。誰か他の人(この場合はパートナーのドリュー)を心から信頼することにより、私と曲を私の頭の中でしっかり聴こえるようなところまで導いてくれたの」と彼女は言う。 この曲は、セラピストとのフェイス・タイム・セッションの後に生まれた。


人生は映画や物語のシナリオのように入り組んでいる。果たして、筋書き通りに進む、曲がりくねったり入り組んでいないものが人生と言えるのだろうか。そして、そのメガホンを取るのは、制作者である”自分自身”である。アルバムの奥深くでは、"The Mothership "や "Goodbye Old Friend "といったシングルがアレクサンドラ・サヴィアーの次章のページを埋め尽くしている。また、それは自己紹介以上の人生のシナリオを解き明かすような働きをなすのである。


前者は、彼女がメンタルヘルスと双極性障害の診断と闘う中、パートナーのドリュー・エリクソンとの絆と人間的な優しさを解き明かす。後者は、彼女自身がその終結に果たした役割を見つめ直すことで、人間関係の再構築を迫られた。 「All of the Girls」は、アレクサンドラが "ローズマリーの赤ちゃん "に夢中になっていた時期に生まれ、ソーシャルメディア上で他の女性と比較することが大流行した、きわめて破滅的な出来事から生まれた。 「Let Me Out」には過去のデモへのリンクもある。この曲は、彼女が最初のツアー以来、何らかの形で温めてきた。このアルバムのために再アプローチし、ストリップバックするのがようやく適切だと感じた。


このアルバムは、直線的な道筋をたどるとはかぎらない。言い換えれば、その音楽的なストーリーの弧は、アーティストが困難な時期から癒されるまでの期間をなぞるのではなく、単純には解き明かしがたい。そう、だからこそ音楽を作る必要があった。「人生とはそういう簡単なものではないし、私のメンタルヘルスの旅もけしてそうではなかったから」と彼女は述べている。 


「このアルバムのトラッキングには、複雑な過程をそのままのかたちで反映させたかったの。 人生には浮き沈みがつきものでしょう。生きていれば、物事は良くなることもあれば、落ち込むようなことだってあるでしょう。たぶん、それ以外の方法で、この物語を語ることは、私という人間や私がいる場所に対して誠実とはいえなかったでしょう」



『Beneath the Lilypad』は奔放な創造的自由から生み出された。「そのおかげで、アルバムの制作のプロセスを通じて、ミュージシャンとして、ソングライターとしての自分により自信が持つことができた」サヴィアーは述べている。

 

「私はこれまで自分にかなりのプレッシャーをかけてきた。 正直に言えば、"難しい "と思われることを気にするのはうんざりしている。 今回、私は、パートナーのドリュー・エリクソンと一緒に仕事をしていて、彼は私の頭の中にあるネガティブな声に耳を傾けないように、よく励ましてくれた。 そのおかげで曲に何を求めているかを主張することに不安を感じなかったし、音楽はその恩恵を大いに受けたでしょう。 できれば、その教訓を10年前に学んでいればよかった」


このアルバムはマン・レイやマヤ・デレンのようなシュールレアリズムの超現実主義的な映画作家へのオマージュとなっているという。サヴィアーはこのことについてくわしく説明している。


「マヤ・デレンの短編映画『At Land』には触発を受けることが多いわ。私にとっては、夢のシーンの中を歩いている女性を表しているんだけど、私の精神衛生上、ここ数年の多くは夢の中(あるいは悪夢の中)を歩いているような不思議な気分だった。 私の視点から、ダークで神秘的な要素を伝えたかったし、このようなことを追いかけることは、いつもその中で生き続ける助けになるの」


アウトサイド・ランドを含む今夏のフェスティバルを控えたサヴィアーは、クールな一世代前の才能として名を馳せてきた。最新の新曲ではノワール映画やヴィンテージのシュルレアリスム映画、そして予言的なイメージメーカーのマン・レイ、ジャン・コクトー、マヤ・デレンに敬意を表している。


アメリカの伝説的な名門レーベル、RCAから、次世代のラナ・デル・レイやミツキとして、とびきり個性的な実力派シンガーが登場する。その名はアレクサンドラ・サヴィアー。ポップ界のニュースターの誕生。

 

 


 Alexandra Savior 『Beneath The Lilypad』- RCA

 

 

 

『The Archer』を聴いたことのある音楽ファンは、このアルバムを聴いて、同じシンガーソングライターによる作品であるとは思わないかもしれない。それほどまでに『Beneath The Lilipad』はシンガーとしての劇的な転身ぶりを伺わせる。

 

ロサンゼルスの歌手、アレクサンドラ・サヴィアーは、まるでその人が生まれ変わったかのように、作風に大きな衝撃的な変化を及ぼした。前作までは、現代的な音楽という観念に振り回されていた。


今回は、古典的であると言われるのを恐れず、ポピュラースタンダード、ジャズ、そしてミュージカルの影響を交えて、リバイバル的なポピュラーソングの魅惑的な世界を構築している。しかし、『Beneath The Lilypad』を聞けばわかるとおり、フォロワー的ではない。ダークでアンビバレントな感情が、アレクサンドラ・サヴィアーのこよなく愛する20世紀のシュールレアリストの世界観と見事に結びついた。

 

このアルバムの中に内包される、モノクロの世界の反映、それはとりも直さず、シンガーの精神世界の反映の意味を持つ。サヴィアーは、その鏡をのぞきこみ、そして歌をうたうごとに自己が様々な姿に変身するかを見届ける。サヴィアーは気がつく、自分の意外な姿がどこかにあったということを。そして、音楽の世界をつなげるアーティストとファンとの関係が続くシナリオを完成させる。音楽ファンは、「アリス・イン・ワンダーランド」のような音楽世界をおそるおそる覗き込む。そして、恐ろしく不気味なように思える、その世界の中に足を踏み入れると、不思議なほど精妙で高らかな感覚を発見することが出来る。これは単なる音楽世界ではない。パートナーのドリューとの信頼関係の中で構築された”人間的な愛情の再発見”である。

 

アレクサンドラ・サヴィアーの音楽観は完成されている。20世紀のミュージカルのような音楽を下地に、カントリー、フォーク、ポピュラー、ジャズ、シャンソンのような音楽性が一緒くたとなっている。これは、サヴィアーの2020年以降の複雑な心理状態の写し身のようになっている。しかし、それが制作者の志向するソフトで感情的、そしてフェミニンという感覚が上手く音楽を中和させ、マイルドにしている。それほど音楽自体は重苦しくはならない。その証だてとしてオープニングを飾る「Unforgivable」は、カントリーをベースにしたポピュラースタンダードである。イントロの後の歌い出しは軽やかで、ボーカルの抑揚と平行して、華やかなホーンの演奏が音楽を陽気にしている。サビの最後の部分で曲のタイトルが歌われると、音楽の深い余韻が表れ、そしてコーラスが加わり、音楽全体がより華やかさを増していく。

 

 

 「Unforgivable」

 

 

映画的ではないと説明されているが、音楽的に言えば、そのかぎりではないかもしれない。アルバムの冒頭では、マカロニ・ウェスタンやヘンリー・マンシーニの音楽が登場する。例えば、「The Mothership」は西部劇の映画風のギターのイントロの後、 グロッケンシュピールのようなオーケストラの金管楽器を交えて、魅惑的なオーケストラポップの世界を敷衍させていく。普通、こういった曲は恐れ多い感じがし、わざとらしい歌い方になることが多いが、背景のトラックや演奏にまったく気後れしていないのが見事である。ただ現代的なイディオムがないわけではない。サビの部分では、2020年頃のポップネスを活かしてモダンな印象を形作る。

 

サヴィアーのペシミスティックな音楽性は続く「Goodbye, Old Friend」に見出される。ここではマンシーニのような映画音楽や、ロネッツのような最初のガールズグループのR&Bを吸収し、鋭い立ち上がりを見せるスネアのドラムの演奏を中心に、魅惑的なバラードを提供している。弦楽器の組み合わせが芳醇なハーモニーを形成し、過去の友人、そして自らに別れを告げるという内容だ。そこには過去の自己の姿を少し憐れむような視点で見る現在のシンガーの姿が見いだせる。時間的な経過を上手く反映させたコケティッシュな魅力を放つポップソングである。美麗なストリングスのハーモニーは、日本の歌謡曲にも比する独特な音響空間を作り上げる。

 

フレンチ・ポップやイエイエの系譜に属するヨーロッパ的な音楽が続く。「All Of The Girls」はフランソワーズ・アルディ、シルヴィ・バルタンのようなフランスのポップシンガーの音楽を復刻させる。しかもアメリカ的な方法によってである。

 

これらはクラシックとポップ、そしてジャズの次世代の音楽として、20世紀のフランスのヌーヴェル・ヴァーグの運動の一環として発生したのだったが、この曲は同時に、20世紀のシュールレアリストの巨匠のモノクロの世界観とぴたりと重なり合う。つまり、未だ女性的な権利が確立されていなかった時代への共感性のようなものが紡がれている。

 

そして、それは、悲しき女性のスターへの憧れ、という20世紀の女性の社会通念のメタファーのような働きを持つ。それらの古典性がチェンバロ(シンセ)の伴奏、そして弦楽器やピアノの録音によって紡がれ、短調のバラードソングという全体的なイメージを形作っていく。現代的な女性の地位、実はそれは、20世紀にはほとんど確立されていなかったのである。制作者は、その報われないような恋愛や感情をペシミスティックな音楽に上手く乗せている。現代的な自己主張のような行動は、男性側から見ると、ラディカルな印象を受けるかもしれない。しかし、考え方によってはそれらの未然の時代に対する強い反抗を意味しているのだ。

 

 

同じく、「Hark!」はマイナー調のフォークソングで、前の曲の流れを受け継いでいる。しかし、前の曲が心情的な悲しみを歌ったものであるとするなら、この曲はそこから少し立ち上がる瞬間を描いている。 こういった曲は、WW2の後、結構流行ったという印象があり、”ムード歌謡”のような雰囲気で始まり、その後、次第に幻想的な雰囲気が強くなっていく。妖精的な雰囲気を持つサヴィアー歌声は、ある意味では、この曲が作られた時点の制作者の姿と理想の姿との乖離を暗示していると思われるが、なぜか、心地よい空気感に満ちあふれている。陶然としているようで、どこか冷然としており、また冷たいようでいて、うっとりとした感覚がある。直線的ではないという音楽的な流れのようなものが、以上の二曲には分かりやすく表れている。

 

 

「Unforgivable」と並んで、「Venus」はハイライト曲である。同時にジャズ・スタンダードを意識した曲で、ジュディ・ガーランドから出発するディズニー音楽にも通じるものがある。他の曲に比べて、ヴォーカルの録音がクリアな音像を持つ。「RCAの録音のレガシーの精華」ともいうべき曲である。シンセとピアノを組み合わせ、その後、弦楽器のトレモロで夢想的な雰囲気を盛り上げるというガーランドの録音の系譜を受け継ぎ、ノラ・ジョーンズ以降のモダンジャズのエッセンスを盛り込み、古典的だが新鮮な味わいを持つ音楽が生み出された。


器楽的な効果も重視されている。メロウなムードを盛り上げるエレクトリック・ピアノ、そして雰囲気をゴージャスにするチェロやバイオリン(もしくはビオラ)のユニゾンが美麗な雰囲気を放つ。特に二番目の変奏は素晴らしく、ピアノがグロッケンシュピール、そして新しくデューク・エリントンやカウント・ベイシーに象徴されるビッグ・バンドを彷彿とさせるホーンが加わっている。

 

 

「Venus」

 



アルバムの終盤に至ると、表向きの曲の派手さは薄れるが、その一方で、音楽そのものの求心力が強まる。それは、サヴィアーの持つ音楽世界に惹き込まれたということである。ギターとサヴィアーのコケッティッシュな歌声はブルージーな印象を放つ。しかし、渋い曲であるが、メロディーメイカーとしての性質は依然として薄れず、強固な音楽性を維持している。

 

この曲もまたボーカルの録音、そしてミックス/マスタリングが傑出している。特に、大きな音像を持つウージーなギターが歌声の持つブルースの魅力を盛り上げていき、それは悲しみから勇壮さという印象へと移り変わっていく。この曲でも、ヘンリー・マンシーニのような哀愁のある音楽性が、アレクサンドラ・サヴィアーの持つ世界と混ざりあい、特異な音楽性を作り上げる。後半部では、大掛かりなストリングスのレガート/トレモロの演奏が、ウインドチャイムのアルペジオ、そしてサヴィアーの催眠的なボーカルの広がりと合わせて、その音楽の世界を完全にしていく。フィル・スペクター級のきわめてハイレベルな録音と楽器編成が敷かれている。

 

 

そして、表面的な印象はさておき、本当の凄さはアルバムの最終盤に訪れる。歌手としての圧巻の才能を感じさせることもある。「Old Oregon」は王道のピアノバラードのスタイルを踏襲し、メロとサビの箇所を行き来しながら、特にサビの箇所で精妙な感覚をボーカルで表現している。こういった曲を聞く限り、MAGAとは、それぞれの人々の心の中にしか存在しないと思わせるほどだ。しかし、少なくとも、カントリーやフォーク・ミュージックといった楽曲、つまり米国の遺産は、現代的な歌手に受け継がれ、それが新しい形式に生まれ変わったことを伺わせる。そしてこの曲でも、アルバム全体の一つのテーマやモチーフのような役目を果たす夢の中を歩いているような感覚が上手く音楽に浸透し、聞き手を同じような陶酔的な領域に誘う。もちろん、それは録音の水準の高さはもちろん、聞き惚れるような歌声があるから為しうる。

 

 

ビートルズの「Strawberry Fields Forever」に見出されるようなバロックポップは、チェンバロのような楽器と組み合わされ、独特な音響効果を形作る。タイトル曲「Beneath The Lilypad」は、明らかにイエイエとチェンバーポップの影響下にあり、同時に、ポピュラーソングのリバイバル運動の一環に属する。この曲では、悲しみと暗さの間を行き来しながら、感情の落とし所を探る、という局面が反映されている。それは制作者の浮き沈みの多い感情を映し出すように、上がったり下がったりを繰り返す。そして素晴らしいのは、音楽全体が感情や心情の流れを形作る機能を果たし、機械的になることはあまりない。機械的なものであれば、AIでも制作出来る。とすれば、人間にしか出来ないことをするのが今後のアーティストの急務ともいうべき点だろう。そしてこの曲の場合は、プロデューサーの遊び心が色濃く反映されていて面白い。

 

 

去年あたりに、西海岸のある有名シンガーが「今後の米国の商業音楽の主流はカントリーになるかもしれない」と言った。このアルバムを聴くと、それはある部分では当たったと言える。少なくとも、古い時代から良いものを学び、次の世代に活かすというのは、有益なことではないかと思う。 

 

「The Harvest is Thoughtless」は、カントリーとオーケストラ、ジャズの融合を通じて、ニール・ヤングの音楽的な土壌の豊かさを受け継いで、見事に現代的なイディオムに置き換えている。曲の間奏の弦楽器の演奏には、アジアのヨナ抜き音階も登場し、エキゾチズムが表現されることもある。何より、この曲はまだ他の地域の音楽が一般的に知られていなかった時代の未知の期待感に満ちあふれている。 それが壮大なスケールを持つクラシックのオーケストラで真摯に表現されるとあらば、さらっと聞き流すというわけにもいかない。それだけ念入りに音楽が作り込まれているので、心を惹きつけたり、しっかりと集中させる何かが存在するのである。そして、素人ではなしえないことをするのが、プロフェッショナルな人々の仕事なのだ。

 

「You Make It Easier」は、過去を見ながら未来を見つめるともいうべき、驚くべき希望に満ち溢れた一曲である。この曲では、オーケストラの編成を通じて繰り広げられるポピュラーソングの大まかな歴史の変遷が含まれている。このクローズ曲は、アメリカ音楽の偉大な遺産とその系譜の集大成とも言える。いかなる音楽も、外的な文化干渉なしには完成しえない。つまり、外的な干渉なしに確立された音楽は完全には完成されていない。という側面を見ると、アメリカの音楽が、外国の音楽文化との交流により、どのような結末を迎えつつあるかの道筋である。

 

同時に、このアルバムや、その制作者のアレクサンドラ・サヴィアーに関して言えば、シンガー”ソングライターとしてのアイデンティティの確立”という付属的なテイクバックがもたらされたというわけである。他地域の様々な文化の外的な干渉を受け、古典性と新規性の間を揺れ動きながら、2025年のアメリカの音楽は、重要な分岐点に差し掛かっていることを痛感する。

 

 

 

98/100

 

 

 

 

「Old Oregon」


Vernon Spring(ヴァーノン・スプリング)は、ノース・ロンドン出身のミュージシャン、サム・ベステのレコーディング・プロジェクト。

 

サム・ベステは幼い時代からジャズ、フォーク、現代音楽ネオソウルに親しみ、幅広い音楽的なバックグランドを持つ。さらに彼は元々バックミュージシャンとして活動していて、音楽的なセンスに磨きをかけてきた。その中には、エイミー・ワインハウスのライブステージを背後から支えたという功績がある。サム・ベステの音楽は、こういった世界的なスターの背後で培われた。

 

ベステが最も早く音楽に触れたのは、セロニアス・モンクからボブ・ディラン、ディアンジェロからルイジ・ノーノまで、多彩なレコード・コレクションを持つ父親の影響だった。 11歳のとき、偶然のピアノ・レッスンがベステを重要な方向へと導き、即興演奏への継続的な情熱を促し、彼の人生の軌跡を形作った。


かれのたゆまぬ努力と才能は、エイミー・ワインハウスの成功の軌道に乗せられ、彼女の出世作の大半をライブ・ピアニストとして伴奏した。 この2人のペアは、ガブリエルズ、ケンドリック・ラマーのプロデューサー、サウンウェーブ、ベス・オートン、カノ、ジョイ・クルークス、マシュー・ハーバート、MFドゥームなど、他の重要で多様なコラボレーションへの道を開いた。


20代半ばにアルト・ソウルの”Hejira”で何年も作曲とリリースを行った後、ベステは”Lima Limo”という集団とレーベルの結成に協力、支援的なコミュニティと刺激的な創造的基盤を提供した。その後、サム・ベステは表舞台に出る準備が整ったとばかりに、ソロ活動を始めた。 2019年までに、ザ・ヴァーノン・スプリングを名乗り、ソロ作品をリリースし始め、ジャズのバックグラウンドと現代的なエレクトロニック・プロダクションを融合させた歌声を展開した。 


『A Plane Over Woods』や『Earth, On A Good Day』を含む彼のデビューEPとその後のリリースは、エモーショナルなヴォーカルと繊細なエレクトロニクスを重ねた幽玄なピアノ・ワークから構成される特徴的なサウンドを確立した。2021年のデビュー・アルバム『A Plane Over Woods』はロングセラーを記録。その後、LPのみでリリースしたマーヴィン・ゲイの名作『What’s Going On』を独自に解釈したアルバム『What’s Going On』も高い評価を獲得した。


ニューアルバム『Under a Familiar Sun』は、アイスランドの著名な作曲家、ピアニスト、さらにKiasmosとしても活動するÓlafur Arnalds(オーラヴル・アーノルズ)が主宰するレーベル”OPIA Community”(EU)、RVNG Intl(US)、インパートメント(JP)の3レーベルからの共同リリースとなる。 これはヨーロッパ、北米、そして日本を超える新しいリリースの形態である。


最新作『Under a Familiar Sun』は、彼の芸術的進化の幅の広さと深みを物語る。作曲とプロセスに基づく長い実験期間を経て生まれ、これまでの即興的なプロダクションから、複雑なアプローチへの転換を果たした。

 

サムは、プロデューサーのIko Nicheと一緒に、彼自身の所有するレコーディングスタジオでアルバム制作を進行させるなかで、彼は音楽的な背景を包み隠さず披瀝している。ヒップホップの影響や、サンプリングを活用した前衛的な手法を取り入れながら、The Vernon Springらしいピアノ・コンポジションを全編にわたって貫き、前人未到のサウンドスケープを描き出す。


本作には、ソロプロデューサーの音楽を通じて、未知の世界の扉を開く、というコンセプトがある。その案内役をつとめるが、複数のコラボレーターである。また、それはベステの別の人を通じて新しい音楽を発見するというキャリアを象徴づけるものだといっても過言ではないはずである。アルバムの案内役、それは彼に近しいミュージシャンだけとは限らない。全く異分野のミュージシャン、ないしは、その表現者たちは、ベステの音楽に鮮やかな命を吹き込む。


「The Breadline」の詩でアルバム全体のコンセプトにインスピレーションを与えた作家のMax Porter(マックス・ポーター)直感的なアレンジが没入感のあるレイヤーと深みを加えたチェリストのKate Ellis(ケイト・エリス)、ブルックリンを拠点に活動するヴォーカリスト、プロデューサー、作家、天体物理学博士のadenが参加し、それぞれ魅惑的な表現で作品に命を吹き込んでいる。

 


The Vernon Spring 『Under a Familiar Sun』- OPIA Community(EU)/RVNG(US)/p*dis・ Impartment (JP)

 


 

サム・ベステのニューアルバム『Under a Familiar Sun』 が駆け出しの新進ミュージシャンが制作したものではないことは、それなりに多くの音楽を聴いてきた方であれば理解していただけるだろうと思う。そして、彼の音楽的な才能は、エイミー・ワインハウスのピアノ演奏者として活躍していたことからも分かる通り、共演者の音楽性を際立たせることにある。もちろん、ソロミュージシャンとしての独自性も加わり、説得力のあるアルバムが完成したと言えるだろう。

 

本作は、ヒップホップ、ネオソウル、ブレイクビーツを基調とした都会的な空気感を吸い込んだスタイリッシュなモダンクラシカルのアルバムである。もちろん、アンビエントの要素もあるが、Autechreの”ノンリズム”が騒がれていた時代のビートが希薄なダンス・ミュージックとはかけ離れている。サム・ベステの音楽やアウトプットには明確なリズムが示唆される。そして、控えめではあるが、微かなグルーヴも感じられる。エレクトロニカのブレイクビーツのリズムがワインハウスの次世代のネオソウルと絡み合い、新しいモダンクラシカルの形が登場したと言える。

 

次のモダンクラシックの主流となるのは、間違いなく、ダンスミュージックやネオソウルといったジャンルとの融合で、もちろんボーカルも入る可能性がある。最終的には、全般的なポピュラー、ダンス、フォーク、ジャズとの融合が、今後のモダンクラシカルの主眼となりそうだ。直感的なミュージシャンはすでにその気配を察知している。これはクラシック音楽がその時代の流行のジャンルを吸収し、発展してきたことを考えれば、当然の成り行きではないかと思う。

 

 

 『Under a Familiar Sun』は、ザ・スミスの未発表のアルバムのタイトルのようである。部分的には、イギリスの音楽の気配をどこかに留めている。ただ、これはイギリスの音楽というよりも、2000年以降のグローバリゼーションの時代を反映した”EUの音楽”とも言える。また、言い換えれば、なんでも簡単に気安く取り出せる”インターネット時代の音楽”とも呼べるかもしれない。そして、ヴァーノン・スプリングは持ち前の傑出したプロデュース技術を駆使しながら、変幻自在なビート、作風、そしてアンビエンスを用い、アルバムの意義を紐解こうとする。

 

アルバムとは、写真のファイルようなもので、各々の曲を聞くごとに、異なる情景やシーンが順繰りに繋がっていく。そして、こういった科学的には解明しがたい不思議なイメージの換気力は、例えば、そのアルバムをリアルタイムで聴いていた時点から、十年、二十年が経って、アルバムを聞き直したとき、その時代の出来事をぼんやりと思いださせることがある。そう、記憶の蘇生ともいうべき効果を発揮するのである。つまり、その瞬間、本来は、一方的であるはずの音楽制作やその演奏という営為が、コネクションとしての意義を与えられることになる。


そして、再三再四申し上げているように、アルバムは単なる曲の寄せ集めとはかぎらない。 制作者が込めた思い、それが別の形をとってぼんやり流れていく、そんな不思議な感覚なのである。そしてそれが聞き手側の感覚と共鳴したとき、感情的な交流のようなものが発生する。見ず知らずの人の考えを掴んだり、そしてどんな背景であるのかを断片的に理解するということである。

 

このアルバムは、音楽が、文学、映画、絵画といった他の媒体と連動するような形で成立し、それが人生の反映させる効果があることを思い出させる。彼の音楽には、幼い時代に音楽を聞き始めたころ、多感な時期に音楽に夢中になったころ、バックミュージシャンであったころ、それから、ソロアーティストとしての人生を選ぶことになったころ、そういった追憶が連なり、幾重もの層を作り上げている。ヴァーノン・スプリングの音楽的な観念の世界には、明確なジャンルの選り分けという括りのような概念は存在しないのかもしれない。言い換えれば、サム・ベステは、どのような音楽も、自分の友人や子供のように愛してきたことをうかがわせるのだ。



Photo: Saoirse Fitzpatrick


 

アルバムは、ブレイクビーツをネオソウルと結びつけた「Norton」で始まる。そして実際的にヴァーノン・スプリングの音楽がコラージュアートのように断片的なマテリアルを中心に組み上げられるのはそれなりの理由があり、それは記憶の代用としての機能を持つからである。その切れ切れの音源のリサンプリングは、彼の人生の歩みを映し出すように、音楽的なシーンが流れていく。


それはバックミュージシャンの時代から始まり、かなり広い年代の記憶を音楽という形で収めている。それが音楽的にはヒップホップのビートとピアノのリサンプリングというネオソウルのいち部分を形成する彼独自の手法で展開されることは言うまでもない。特に、オープニングの場合は、ネオソウルのコーラスワークという部分に最もきらめく瞬間がある。これはワインハウスに対する何らかの追憶のようなものが込められているといえる。

 

 

ムードたっぷりで始まり、アーバンなUKソウルというのをひとつの出入り口として、『Under a Familiar Sun』の音楽は異分野の表現形態と結び付けられる。「The Breadline」はジャズ/ソウル風のピアノがスポークンワードと合わさり、Benjamin Clementineのようなシアトリカルな音楽に変化する。


マックス・ポーターは、この曲に文学的な感性を付与し、音楽の領域を見事に押し広げる。この曲はロマンティックな変遷を辿り、その最後にはゴスペル風のコーラスで最も美しいモーメントを作り上げる。全般的には、音楽というものが、ひとりだけの力では成立しえないことを知っているからこそ、彼はこういった友愛的な音楽を作り上げることが出来るのかもしれない。

 

「Musutafa」は、OPIA Communityらしい独自のキャラクターを押し出されたUKソウルである。ヴァーノン・スプリングは、コラボレーターのIko Nicheと共同制作をしたとき、ヒップホップの魅力を体感するようになったというが、そういった異分野への興味がこの曲には反映されている。モダンクラシックのピアノ、サンプリング、先鋭的なエレクトロニクスの処理、そしてネオソウルの範疇にある美麗でソウルフルなボーカルという、スプリング独自の形が出来上がった。この曲では前曲に続き、現在のゴスペルがどのように変わったかを実感することができる。

 

プロデューサーとしての敏腕の才覚を伺わせる「Other Tongues」はアルバムのハイライトの一つ。この曲では、ミュージック・コンクレートの手法を用い、ジャズ・ボーカルの新しい境地を切り拓く。

 

同じようにゴスペルを基調にした曲であるが、トリップ・ホップの要素、ダークな質感を持ったネオソウルを踏襲し、UKソウルの新境地に達している。アトモスフェリックなサウンド、スポークンワードのサンプリングの導入、これらが一緒くたとなり、メインの演奏を構成し、ピアノで伴奏をする。ただ、この場合もピアノはアコースティックの本来の音を活かすのではなく、ケージやノーノ以降のデチューニングされたリサンプリングのピアノが録音の中で存在感を持つ。

 

それは2つのボーカルの録音の背後で、ソロ演奏として存在感を増したり、それとは対象的に存在感を薄めたりしながら、絵の具の色彩のように緻密で淡いハーモニクスを形成する。こういった曲を聴くと、どのようなジャンルも単体では存在しえないということがわかるかも知れない。

 

「Other Tongues」 

 

 

中盤の二曲は、 モダンクラシカルの象徴的なミュージシャン、Olafur Arnoldsの系譜にある曲として楽しめるに違いない。ただ、タイトル曲、「Fume」はいずれもミュージック・コンクレートの性質が強いが、タイプが少しだけ異なる。タイトル曲はポストクラシカル風の曲で、遊び心のあるピアノのパッセージを組み合わせて、前衛的なサウンドを作り出している。「Fume」はアンビエントとスタイリッシュなビートを背景に、ネオソウルを抽出したインスト曲である。

 

 

「In The Middle」はアルバムの中盤のハイライトである。弦楽器の微細なトレモロをイントロに配して、徐々に曲の雰囲気が盛り上がっていく。 重層的なストリングスとボーカルが精妙な空気感を放つ。ピアノの叙情的な伴奏を背景に、同じく琴線に触れるようなボーカルが乗せられる。


アンセミックに歌い上げられるタイトルを含む歌詞の箇所は、ポール・ガイガーのような前衛的な奏法を組み合わせることで曲にメリハリがもたらされる。コラールの輪唱がボーカルとピアノの交互に演奏され、別の音域に主要なモチーフが出現するという側面を見ると、プロデュースの形を取って現れた''新しいフーガ''とも呼ぶべき構成である。そして、サム・ベステのソングライティングは基本的に、ゴスペルやコラールにある神妙な雰囲気を感じ取ることが出来る。

 

ピアノがアコースティックでそのまま出力されることは稀有である。波形のモーフィング、ディレイ、リバーヴを駆使し、夢想的でアトモスフェリックな音像を作り出す。これは残響的なサウンドで、音響派の音楽に近い。そして落ち着いてはいるが、陶酔感に満ちた独特な雰囲気を作り出す。こういったアシッドハウス的な雰囲気については、好き嫌いが分かれる箇所かもしれない。


しかし、サム・ベステの紡ぎ出す演奏は、シンプルだけど深みがある。たとえ脚色的なサウンドであることを加味しても、本質的なコアが込められている。夜の雰囲気、そして祝福的な感覚は、UKネオソウルの核心と一致するものである。


前の曲と連曲の構成をなす「Esrever Ni Rehtaf」では、ミュージシャンの過去が暗示的に表され、子供の声のサンプリングとして出現する。これらは、現実性と物語性が陸続きにあることを伺わせ、リアリティの一端を語るための機能を果たす。そして、それはなぜか温かい雰囲気に縁取られている。ジャズ風の軽やかなパッセージ、ボーカルが組み合わされ、ネオソウルの新機軸が示される。

 

 

アルバムの終盤にはもう一つハイライトがある。「Counting Strings」は、ピアノの同音反復による通奏低音、木管楽器がイントロに配された、スタイリッシュな雰囲気を持つ曲である。ボーカルが入ると、この曲は、ダイナミックでゴージャスなネオソウルへと変化していく。他の曲はコラージュサウンドが行き過ぎ、まとまりがつかない部分もあるものの、この曲は非常に研ぎ澄まされている。前曲と同様に謎めいたシンガー、adenの歌唱の魅力を引き立てている。

 

 「Requiem for Reem」は、フレドリック・ショパンの『ノクターン』を彷彿とさせる。基本的には、夜想曲の雰囲気に近い。しかし、このノクターンの形式は、サム・ベステのプロデュースにより、現代的なエレクトロニクスと組み合わされ、アーバンな空気感に縁取られている。演奏の合間には、アンビエント風のシークエンスが配され、休符による静寂を電子音楽で表現している。レクイエムと題されているので、追悼曲と思われる。しかし、やはり美麗なピアノの演奏を引き立てているのは背景のシークエンスであり、全体には祝福的な音が敷き詰められている。アルバムの終曲は''ポスト・トム・ウェイツ''とも呼ぶべき祝祭的なピアノバラードである。



 

このアルバムは、後半部にハイライトが多いため、聞き逃さないようにしていただきたい。それはヴェーノン・スプリングのミュージシャンとしての人生を反映するかのように、ネオソウルを入り口とし、様々な音楽が無尽蔵に飛び交う。さまざまな人種が渦巻く多文化のイギリスの都市性を反映した音楽といえ、制作者の心にはそれらを許容して慈しむような感覚が溢れている。

 

ネオソウルから始まり、音楽全般が多彩な形で反映される。やはり、その手解きをするのが複数の秀逸なコラボレーターである。このアルバムには、白人の音楽もあり、黒人の音楽もある。そして古い音楽も、新しい音楽もある。掴み所がないようでいて、実は核心のようなものが存在する。

 

感覚的な音楽とも言え、アーティストは必ずしもそれらを明瞭な形で表現しようと思っていないらしい。これは、良い音楽には多くの言葉を費やす必要がないという考えのあらわれのように思える。ぼんやりと遠方に鳴り響く祝福的な楽の音、それは、ジャズ、ソウル、ヒップホップ、クラシックと様々な形をとって、アルバムの節々に立ち現れ、聞き手を飽きさせることがない。

 

 

85/100 

 

 

 「Requiem for Reem」

 

 

▪ The Vernon Spring(ザ・ヴァーノン・スプリング)のニューアルバム『Under a Familiar sun』は、OPIA Communityから(日本ではp*dis/インパートメントから)本日発売されました。各種ストリーミングはこちら




 【国内盤 リリースのご案内】


アーティスト:The Vernon Spring(ザ・ヴァーノン・スプリング)

タイトル:アンダー・ア・ファミリア・サン(Under a Familiar Sun)

品番: CD: PDIP-6612 / LP: PDIP-6613LP

価格:CD:2,500円(税抜)/LP:2,750円(税込)

LP: 5,000円(税抜) / 5,500円(税込)

発売日:2025年5月9日(金)

バーコード:CD: 4532813536125 / LP: 4532813536132

フォーマット:国内盤CD / LP / デジタル

ジャンル:ポスト・クラシカル・ジャズ / アンビエント


レーベル:p*dis

販売元・発売元:株式会社インパートメント


パッケージ仕様:ブラックヴァイナル+グロススポット加工ジャケット+プリントインナースリーヴ+帯トラックリスト


トラックリスト:


 1. Norton

2. The Breadline (feat. Max Porter)

3. Mustafa (feat. Iko Niche)

4. Other Tongues

5. Under a Familiar Sun

6. Fume

7. In The Middle

8. Fitz

9. Esrever Ni Rehtaf (feat. aden)

10. Counted Strings (feat. aden)

11. Requiem For Reem

12. Known

 

Enji

''彼女の夢のような歌声は、優しいピアノと重みのあるコントラバスにのって響き渡る''- ガーディアン紙


夕暮れ時のほんの一瞬、空が鮮やかな琥珀色に染まる。 ドラマチックな色彩の閃光、昼と夜の両方に属する瞬間。 モンゴル生まれでミュンヘンを拠点に活動するエンジのニューアルバム『Sonor』は、この鮮やかで儚い世界の中で書かれた。『Sonor』は、夕暮れがそうであるように、2つの世界の間に存在することの美しさを見出したアーティストによる、生命力と楽観主義に満ちたレコードである。 モンゴルとドイツ、伝統と革新、郷愁と未来への興奮。 『Sonor』は、個人的な成長、内省、そして変化というほろ苦い感情への認識を特徴とする音楽の旅である。


エンジの人生は、多様な文化の糸で織られたタペストリーである。 モンゴルのウランバートルに生まれた彼女は、若い頃からモンゴルの民族音楽の豊かな伝統に浸ってきた。 長い音節と自由なメロディが特徴のモンゴルの伝統的な歌唱スタイルである「urtiin duu(長い歌)」に早くから触れ、自分の文化的ルーツに対する深い感謝の念を持つようになった。

 

2014年、エンジはウランバートルのゲーテ・インスティトゥートのプログラムに参加し、彼女の音楽の旅は一変した。 ここでドイツ人ベーシスト、マーティン・ゼンカーの指導のもと、ジャズの世界に入門した。 彼女はジャズの即興性と感情の深みに共鳴し、ミュンヘン音楽演劇大学でジャズ歌唱の修士号を取得。 この転居が、母国モンゴルと新天地ドイツの両方の風景をナビゲートする、彼女の文化間生活の始まりとなった。


『Sonor』は、エンジの個人的な進化と、2つの文化的な世界の間で生きることに伴う複雑な感情の反映である。 このアルバムのテーマは、文化の狭間にある居場所のない感覚を中心に展開されるが、それは対立の原因としてではなく、成長と自己発見のための空間としてである。 エンジは、伝統的なモンゴルのルーツとの距離がいかに彼女のアイデンティティを形成してきたか、そして、故郷に戻ることがいかにこうした変化への意識を高めるかを探求している。


『Sonor』で、エンジはアーティストとしての進化を続け、彼女のサウンドをより流動的で親しみやすいものへと拡大した。 世界的に有名なジャズ・アーティストをバンドに迎え、定番の「Old Folks」を除いて全曲をモンゴル語で歌うなど、エンジの音楽的基盤は揺るぎないが、『Sonor』ではメロディーとストーリーテリングが明瞭になり音楽が多くの聴衆に開かれている。 単にスタイルの変化というだけでなく、芸術的な声の深化を反映したもので、深みを失うことなく親しみやすさを受け入れ、彼女の歌が普遍的なレベルで共鳴することを可能にした。


カラフルで楽観的であるにもかかわらず、このアルバムはほろ苦いノスタルジア、あるいはメランコリアに彩られている。 この二面性を最もよく表しているのが、モンゴル語で日没時の空の色を意味するトラック「Ulbal(ウルバル)」だろう。 鮮やかで美しい現象でありながら、昼間の終わりと夜への移行を意味する。 同様に、エンジの音楽は、新しい経験や成長の喜びをとらえる一方で、人生を歩むにつれ、以前の経験が身近なものではなくなっていくことを認めている。


『Sonor』では、モンゴルの伝統的な歌「Eejiinhee Hairaar」(「母の愛をこめて」)に新たな命を吹き込んだ。 彼女は、モンゴルの故郷で父親が自転車を修理しているときに、この曲をよく口ずさんでいたことを思い出す。 日常生活に溶け込んだ音楽、そして、何世代にもわたって受け継がれてきたメロディー、このイメージに''ソノールの精神''が凝縮されている。 エンジは単に伝統を再認識しているのではなく、故郷の感覚や、遠くから見て初めてその意義がわかる小さな喜びを抽出しているのだ。 親が口ずさむ親しみのある歌のように、彼女の音楽は、ひとつの場所に縛られることなく、私たちを形作る感情や記憶といった「帰属」の本質を捉えている。


「Much」のようなトラックは、はかない瞬間の哀愁を真にとらえ、希望に満ちたトーンで、エンジのヴォーカルは、リスナーにゆっくりと、過ぎゆく瞬間に感謝するよう促している。 「Ergelt」では、ノスタルジアと親しみの移り変わりについての瞑想である。''幸せいっぱいのまなざしが私を悲しませる/悲しみを口に出そうとしても言葉は出てこない/見慣れない、でもどこか知っている"


『Sonor』は、エンジの協力者たちの貢献によって、より豊かなものになっている。 エリアス・シュテメセダーはオーストリアのピアニスト、作曲家で、コンテンポラリー・ジャズや前衛音楽の分野で知られている。 シュテメセダーはこれまでに、前衛音楽の領域で活躍するジョン・ゾーンやクリスチャン・リリンガーなどのミュージシャンとコラボしている。 


ロベルト・ランドフェルマン(Robert Landfermann)は、ヨーロッパのジャズや即興音楽界で広く知られるドイツのコントラバス奏者だ。 彼の演奏の特徴は、技術的な妙技と深いリズム感。 


ジュリアン・サルトリウスはスイスのドラマーでパーカッショニスト。 彼の作品はジャズ、エレクトロニック、実験音楽など多岐にわたる。 一方、長年のコラボレーターであるポール・ブレンドルは、ドイツのジャズ・ギタリストで、クラシック・ジャズの影響と現代的な感覚を融合させた、温かみのある流麗なスタイルを持つ。


エンジのこれまでの作品は国際的な注目を集め、批評家からも高い評価を得ている。 2023年に発表したアルバム『Ulaan』は、英ガーディアン紙で「モンゴルの伝統音楽をエレガントかつパワフルにアレンジした」と絶賛され、文化的な枠組みの中で革新する彼女の能力を浮き彫りにした。


また、ジャズとモンゴル民謡のユニークな融合はワシントン・ポスト紙にも評価され、同紙は彼女の曲について "とても独創的で、とても自由で、それでいて地に足がついている "と書いている。 このバランス感覚はエンジの音楽の特徴であり、コンテンポラリー・ジャズ界で最も魅力的な声のひとつとなっている。


『Sonor』で、エンジはリスナーを彼女の体験の風景を旅する旅へと誘い、文化の架け橋となり、変化を受け入れ、私たちの人生を決定づける移り変わりの中に美を見出す。 彼女の音楽は、夕日のように、変化の瞬間は美しくもあり、痛烈でもあるということを思い出させてくれる。


モンゴルとドイツ、伝統と革新の間を行き来し続ける彼女の『Enji's Sonor』は、世界の狭間で生きることの豊かな体験と、多面的なアイデンティティを受け入れることから生まれる芸術の証である。 



Enji 『Soner』 - Squama



 
エンジは、モンゴルの首都、ウランバートルで育った。現在はミュンヘンをベースに活動している。労働者階級の娘として、彼女はモンゴルの草原に点在する、遊牧民の円形型の移動テントで暮らし、定住する地を持たぬ、ジプシー的な文化観の元で育った。このことは、彼女にイミグラントの性質を付与するとともに、多様な文化感を自らのものにする柔軟性を培った。なぜ遊牧するのかといえば、それは、外敵から身を守るためだ。日本のような島国とは異なり、これらの大陸の性質が季節風のモンスーンのような暮らしをモンゴル民族の宿命としたのだった。


しかし、こういった遊牧民のたくましい暮らしの中で、エンジは両親から音楽的な教育を受けてきた。それがモンゴルの民謡、そして舞踏の伝統であった。チンギスハーンの御代から、モンゴルはコーカサス地方との交流があり、いわば北アジアとコーカサスの折衝地として、ヨーロッパとアジアの境目として、エキゾチックな文化感を折り込む地方として栄えてきたのだった。その中で、エンジは、「オルティンドー」と呼ばれる遊牧民族の象徴的な歌唱法を学び、習得した。それは体系的なものではなく、体感的なものとして学習したと言えるかもしれない。
 
 
エンジは元々、ミュージシャンの道を歩んでいたわけではなかった。小学校教師を務めていたが、その後、2014年にドイツ人ベーシスト、マーティン・ツェンカーと出会ったことから音楽家としてのキャリアが始まった。それも彼がモンゴルに持ち込んだゲーテ・インスティトゥートのプログラムを通じてである。ゲーテ・インスティトゥートは、ドイツ政府が設立した教育プログラムで、ドイツ語教育の推進や、文化交流を行う目的で、ミュンヘンに本部を持ち、東京にも支部がある。音楽にかぎらず、様々な分野から講師を招き、質の高い教育を行っている。
 
 
エンジの音楽的な出発は共同制作で、モンゴルの伝統音楽の民謡の録音であった。2017年にアメリカのビリー・ハート、ドイツのサックス奏者ヨハネス・エンダー、イギリスのピアニスト、ポール・カービー、モンゴルを代表する作曲家、センビーン・ゴンチングソラーとの共演を録音した『Mongolian Songs』への参加を契機とし、ドイツ/ミュンヘンに移住し、2020年からミュンヘン音楽/舞台芸術大学のジャズ・ボーカルの修士課程を卒業した。その後、エンジはソロボーカリストに転身し、2020年代の初頭のパンデミックをきっかけに、深い内省をもとにした二作目のアルバム『Ursugal』を発表し、ソロキャリアとしての地位を不動のものにした。
 

エンジの音楽的なキャリアの中核にある舞台芸術及びボーカルアートの体系的な習得は、この三作目のアルバム『Sonor』を聴く上で、非常に重要な役割を果たしている。アルバムの最後に収録される1938年に初めて発表されたジャズ・スタンダード「Old Folks」をのぞけば、モンゴルの現地語を中心に歌われ、そしてモダンジャズのボーカリストの急峰としての存在感が随所に感じられる。そしてこのアルバムには、インタリュードの代わりを担う2つのスポークンワードの曲が収録されている。それらは、ウランバートルの時代の思い出を回想するという内容で、これは演劇的な意味を持ち、アルバムのストーリーテリングの要素を拡張させるものである。そして、それらがアーティストが持つジャズという文脈によって押し広げられていく。

 

例えば、「3-Unadag Dugui」、「9-Neke」でそれらのストーリーテリングの音楽を聴くことが出来るはず。これらはドイツのヴィム・ヴェンダース監督の傑作『ベルリン・天使の詩』にも出演したブルーノ・ガンツが自身のボーカルを収録したポエトリーリーディングのアルバムのように、あるいはニュージャージーのビートニクスの作家アレン・ギンスバーグの詩の朗読のように、声をモチーフとする芸術作品のような機能を果たす。そして、2つのインタリュードを起点とし、ジャズとモンゴルの伝統音楽の融合が敷衍していく。ある一つの記憶のシーンをきっかけに、見えなかった過去が少しずつ明らかになる。これは、映像作品のクローズとワイドを行き来するような意味を持つ。エンジの音楽は、制作者の過去の姿を遠近法で表現する。 そして、その機能を果たすために、ムーブメントの延長線上にある曲という単位が存在する。

 

 

このアルバムは、音楽の持つ物語る力が遺憾なく発揮された素晴らしい作品である。もちろん、それはエンジの得意とするジャズ・ボーカルという領域で繰り広げられ、サックス、ピアノ、ローズ・ピアノ、華麗なサックスフォンの演奏により、ジャズの持つ深遠な魅力が深められる。音楽を通して、どのようなことが語られるのかというと、ミュンヘンに在するシンガー、エンジが遠く離れたモンゴルのウランバートルを、そして、その遊牧民族として暮らしを懐かしむ、という内容である。映画のシナリオ的でもあり、文学的でもあり、演劇的でもある。


また、遠く離れた土地に対する望郷の念を歌い、それらを滑らかな音楽として組み上げるという面では、大河のような意味を持つジャズアルバムと言えるかもしれない。そして、そのポイントは、ヘルマン・ヘッセの「郷愁」のような、単なる若い時代への追憶や、その若さに対する慈しみに終始するわけではない、ということである。つまり、必ずしも、それらが美化されず、そのままボーカルでシンプルに表現されるに過ぎない。これは彼女が故郷に対する尽くせぬ思いをシンプルに歌い上げているだけなのだ。脚色や過度な演出的な表現というのはほとんどない。

 

『Sonor』には、自分の過去や現在の姿を過度に美化したり、脚色しようという意図は感じられない。まるで音楽が目の前をゆっくりと流れていき、それがそのままそこにあるだけである。それが素朴で親しみやすい音楽性を形作る。


その中には故郷にいる親族や共同体に対する慈しみが込められ、それがノスタルジアとメランコリアの合間にあるジャジーでアンニュイなボーカルの表現として発現するとき、本来の音楽の物語る力が発揮され、クヌルプとしての感情音楽の核心が出現する。 そして、現代のミュンヘンの暮らしと過去のウランバートルの暮らしを対比させ、それらを温かいハートウォーミングなジャズボーカルで包み込もうとする。その瞬間、聞き手のノスタルジアの換気力を呼び覚ます。

 

 

そして、このアルバムは基本的には、ポピュラーに属するジャズアルバムとして楽しむことが出来る。一度聴いて終わりのアルバムではなく、聴く度に異なる魅力を発見することが出来るだろう。しかし、ボーカルトラックに聴き応えをもたらす素晴らしいジャズのプレイヤーの共演も見逃すことができない。そして、舞踊的な要素がジャズに加わることにより、新鮮な風味が生み出されている。これらは、モンゴルの伝統音楽に組み込まれた異文化からの影響、つまり、コーカサス地方の音楽の要素が入り込んでいる。本作の冒頭を飾る「1−Hungun」は、これらの舞踊的な音楽性が、ウッドベースにより対旋律として配され、音楽に躍動感をもたらす。主旋律の役割を担うエンジのメランコリックでノスタルジックなボーカルも静かに聞きいらせるものがある。しかし、ジャズのスケールをせわしなく動くウッドベースがピアノと組み合わされ、サックスの巧みなパッセージ、異言語としてのモンゴル語のエキゾチズムが加わることで、エスニック・ジャズの次世代を担う素晴らしいジャズソングが誕生することになった。

 

先行シングル「2-Ulbar」は、ゆったりとしたテンポのジャズバラード。近年のジャズソングの中では傑出している。 ノラ・ジョーンズのポピュラーを意識したジャズであるが、やはりモンゴルの伝統音楽の要素がこの曲に心地よいエキゾチズムをもたらす。この曲では、モンゴルへの懐かしさが歌われるが、同じようなイメージを聞き手にも授けるのはなぜなのだろう。聞き手はエンジと同じように、遠く離れた故郷に温かな思いをはせるという気分にさせるのである。

 

イントロが大胆な印象を持つ「3-Ergelt」はエンジのボーカルが主体的な位置にある。ボーカルの持つメロディーも美しいが、その感覚を引き立てるギター、コントラバスの演奏にも注目だ。 この曲でのエンジの歌の良さというのは筆舌に尽くしがたい。まるで彼女の若い頃の遊牧的な生活がユーラシア大陸の勇壮なイメージを持ち、それらがヨーロッパの音楽の一つの集大成であるジャズと結びつく。その瞬間、言語や文化性を超えた本当のグローバルな音楽が出来上がる。エンジの華麗なビブラートを持つ歌は、自然の持つ荘厳なイメージすら織り込んでいる。


 

「Ergelt」

 

 

 

「4-Unadag Dugui」は、ドイツ語のストーリーテリングが披露され、シンガーの持つ過去が明らかとなる。そして、それは映像的なイメージを上手く拡張させる役割を果たす。また、ドイツということで、ECMのモダンジャズ風の曲も収録されている。「5−Ger Hol」は、2000年代以降にさりげなく流行ったエスニックジャズの系譜を踏まえた一曲である。イスラエル人のピアニスト、Anat Fortを思わせる上品なジャズピアノ、そしてエンジの物悲しくも力強さがあるボーカルは心に染みるような感動に溢れている。この曲では特にピアノがフィーチャーされ、JSバッハ風の品格に満ちたポリフォーニーのピアノが演奏され、静かに聞き入らせてくれる。

 

エンジは見事なほどに、ミュンヘンとウランバートルの追憶を行来しながら、現代と過去の文化観を兼ね備えた音楽を、このアルバムで提示している。そして、「6-Eejiinhee Hairaar」では、彼女のモンゴルへのたゆまぬ美しい愛情の奔流を感じ取ることが出来る。この曲ではモンゴルの民族音楽の二拍子の範疇にあるリズムを駆使し、コミカルでおどけたような可愛らしい音楽性を作り上げている。アジア圏にも似たような音楽があり、例えば、日本では、拍手で二拍のリズムを取る”囃子”という、祭りなどで演奏される民族音楽が、これに該当するだろう。この曲では、ローズピアノとコントラバスの演奏が活躍し、リズム的な効果を支え、それに負けないくらいの力強い歌声をエンジは披露している。そして、全く馴染みのないはずのモンゴル語、それがエンジの歌にかかると、この言語の持つ親しみやすさや美しさがあらわになる。この曲ではジャズと民謡の融合という、これまでにあまりなかった要素が追求され、それらが心あたたまるようなハートウォーミングなジャズソングに昇華されている。中盤のハイライト。

 

 

北欧のジャズからの影響を感じさせる曲もある。「7-Zuirmegleh」は、ノルウェージャズの巨匠、Jan Garbarek(ヤン・ガルバレク)のエレクトロニックジャズの最高傑作『In Praise of Dreams』 の電子音楽とジャズの融合の影響下に位置づけられる一曲である。また、同時に、ブリストルのトリップホップの雨がちな風景や憂愁を想起させる音楽性を織り交ぜ、新鮮な風味を持つジャズを提供している。これらは”Trip-Jazz”というべき、新しいタイプの音楽である。

 

ドラムはヒップホップ的なリズミカルなビートを刻み、ウッドベースは渋みのある低音を担い、マリンバやエレクトリック・ギター、そしてローズ・ピアノの演奏が錯綜しながら美麗なハーモニクスを描く。そして、電子音が和音の縁取りをし、単発的に鳴り響く中、エンジは、ベス・ギボンズを彷彿とさせるメランコリックな歌を歌い、古くはミシシッピ近郊のニューオリンズの文化であるジャズの夜の甘美的な雰囲気を体現させる。ただし、それは懐古的とはいえまい。アーバンでモダンな香りを放ち、ダンサンブルな音楽の印象を漂わせる。これらの空気感とも呼ぶべき音楽性は、現代的なミュンヘンの文化や生活がもたらした産物なのだろう。

 

アルバムは少しダークでアンニュイな雰囲気に縁取られた後、「8-Much」では、再び温和なハーモニーが明瞭になる。この曲では、ブルーノートのライブハウスで演奏されるような落ち着いたジャズの持つ、ゆったりとして、ゴージャスな雰囲気が掻き立てられる。それはしかし、とりも直さず、アンサンブルとしての卓越した音楽理論に対する理解、そして多彩な文化的な背景を持つエンジの神妙なボーカルがあってこそ実現したのである。エンジは、この曲において、明確なフレーズを歌いながらも、スキャットに触発された音程を暈す歌唱法により、ムードたっぷりに彼女自身の情感を舞台芸術さながらに表現し、ジャズの魅力を伝えている。これらはモンゴルの文化観にとどまらず、ジャズの伝統性を伝えるという彼女の天命を伺わせる。 とくに「Much」では共同制作者の演奏が素晴らしい。サックス奏者ヨハネス・エンダーによるソロは、伝統的なジャズの演奏に根ざしているが、イマジネーションをこの上なく掻き立てる。

 

こういった中、スポークンワードを主体とするジャズソング「9-Neke」では、どうあろうと伝えるべきイミグラントの性質が色濃くなる。ストリートで演奏されるジャズバンドのような演奏を背景に伝えられる言葉は、言語の持つ本物の力を思い出させるし、そして、彼女が生きてきた人生を走馬灯のように蘇らせる。言葉とは単なる意図を伝えるためだけに存在するものではなく、より深遠な意味を持つことがある。背景となるジャズの流れの中で、ミュンヘンという都市の渦中にある様々な人々の流れ、雑踏、そして交差する人生がストーリーテリング調の音楽によって繰り広げられていく。リズムという切り口を元に、音楽の持つ世界が奥行きを増して、未知なる世界を映し出す。ジェフ・パーカーのようなムードたっぷりのギターにも注目だ。

 

 

一番素晴らしいのがジャズ・スタンダード「10-Old Folks」のカバーソング。南北戦争の時代を懐かしむ古い老人を歌ったジャズ・バラードである。オリジナルは、ミルドレッド・ベイリー、ビング・クロスビーによって1938年に録音された。オールドタイプの渋いブルージャズだが、エンジの歌唱とバックバンドの貢献により、モダンでアーバンなジャズに生まれ変わっている。8分後半の壮大なジャズだが、音の運びが見事であり、アウトロは圧巻の迫力である。

 

『Sonor』の持つ音楽の世界はこれで終わりではない。クローズを飾る「11-Bayar Tai」ではインスト色の強い一曲でアウトロのような意味を持つ。ジャズ・ギターの心地よい響きは、本作の最後を飾るにふさわしい一曲。比類なきジャズボーカリストが国際都市ミュンヘンから登場した。

 

 

Best Track-「Old Folks」

 

 

 

94/100

 

 

 

Enjiのアルバム『Sonor』はSquama(日本盤はインパートメントから発売)から本日(5月2日)リリース。

 

『Sonor』収録曲:

 
1. Hungun

2. Ulbar

3. Ergelt

4. Unadag Dugui

5. Gerhol

6. Eejiinhee Hairaar

7. Zuirmegleh

8. Much

9. Neke

10. Old Folks

11. Bayar Tai


アーティスト:Enji(エンジ)

タイトル:ソノール(Sonor)

品番:AMIP-0376

価格:2,900円(税抜)/3,190円(税込)

発売日:2024年5月2日(金)

バーコード:4532813343761

フォーマット:国内流通盤CD

ジャンル:ワールド/ジャズ

レーベル:Squama

販売元:株式会社 インパートメント

発売元:Squama



▪更なる国内盤のリリース情報の詳細につきましてはインパートメントのサイトをご覧ください。

Sam Robbins  『So Much I Still Don't See』      〜45,000マイルの旅から生み出された良質なフォークミュージック〜

 

Sam Robbins


アメリカの国土の広さ、それは人生の旅という視点から見ると、人間性を大きく成長させることがある。それは今までとは違う自分に出会い、そして今までとは異なる広い視点を見つけるということだ。サム・ロビンスさんの場合は自分よりも大きな何かに出会い、そしていかに自分の考えが小さかったかということを、神妙なフォークミュージックに乗せて歌い上げている。


ニューイングランドを拠点に活動するシンガー・ソングライター、サム・ロビンスのニュー・アルバム『So Much I Still Don't See』は、年間45,000マイルをドライブし、ニューハンプシャー出身の20代の男である彼自身とは全く異なる背景や考え方を持つ多くの人々と出会ったことで生み出された。


サム・ロビンスのサード・アルバム『So Much I Still Don't See』は、シンガー・ソングライターとしての20代、年間45,000マイルに及ぶツアーとトルバドールとしてのキャリアの始まりという形成期の旅の証だ。 そして何よりも、ハードな旅と大冒険を通して集めた実体験の集大成なのだ。


リスナーにとっては、これらの大冒険がソフトで内省的なサウンドスケープを通して聴くことができる。 シンガー・ソングライターのセス・グリアーがプロデュースしたこのアルバムは、ソロのアコースティック・ギターとヴォーカルを中心に、ステージで生演奏されるのと同じようにライブ・トラックで惜しげもなく構成されている。 


マサチューセッツ州/スプリングフィールドにある古めかしい教会でレコーディングされた『So Much I Still Don't See』のサウンドの中心は、旅をして自分よりはるかに大きな世界を経験することで得られる謙虚さである。 アップライトベース、キーボード、オルガン、エレキギターのタッチで歌われるストーリーテリングだが、アルバムの核となるのは、ひとりの男と、数年前にナッシュビルに引っ越して1週間後に新調したばかりの使い古されたマーティン・ギターだ。


『So Much I Still Don't See』のサウンドは、ジェイムス・テイラー、ジム・クローチェ、ハリー・チャピンといったシンガー・ソングライターのレコーディングにインスパイアされている。 ニューハンプシャーで育ったロビンズは、週末になると父親と白い山へハイキングに出かけ、古いトラックには70年代のシンガー・ソングライターのCDボックスセットが積まれていた。 


この音楽はロビンズの魂に染み込み、幼少期の山の風景を体験することと相まって、この "オールド・ソウル・シンガー・ソングライター "は、これらのレコーディングと、それらが例証する直接的でソフトかつ厳格なソングライティング・ヴォイスによって形作られた。 


『So Much I Still Don't See』のストーリーテリングは、タイトル曲の冒頭を飾る「食料品店でグラディスの後ろに並んで立ち往生した/孫娘のために新しい人形を見せてくれて微笑む」といった歌詞に見られるように、小さな瞬間を通して構築されている、 


そして、オープニング・トラック「Piles of Sand」の "I'm standing in the sunlight in a public park in Tennessee/ and I know the soft earth below has always made room for me "や、チェット・アトキンスにインスパイアされたアップビートな「The Real Thing」の "The Hooters parking lots are all so bright "などの歌詞がある。 


2018年にNBCの『ザ・ヴォイス』に短期間出演したロビンスは、2019年にバークリー音楽大学を卒業し、すぐにナッシュビルに拠点を移した。 


ミュージック・シティでの波乱万丈の5年間を経て、2024年初めにボストン地域に戻った後に制作された最初のレコーディングが『So Much I Still Don't See』である。 週に5日、カントリー・ソングの共作に挑戦した後、ロビンズは路上ライブに活路を見出し、今では全米のリスニング・ルームやフェスティバルで年間200本以上のライブをこなしている。


長年のツアーを通してアコースティック・ギターの腕前を成長させたロビンスは、フィンガースタイル・ギターの多くのファンを獲得した。


『So Much I Still Don't See』は、彼の妻のミドルネームにちなんで名付けられたオリジナル・インストゥルメンタル・トラック「Rosie」を含む初のアルバムである。 この曲は、アルバムの中盤に位置する過渡期の曲で、あるメロディー・ラインを最後までたどり、そのラインを中心にコード・カラーを変化させながら流れていくという、画家のようなスタイルで書かれている。 


このインストゥルメンタル・ライティングへの進出は、ロビンスが単にヴォーカルの伴奏者としてだけでなく、米国のフィンガースタイル・ギター演奏における強力なボイスとして認知されつつあることを受けてのこと。


このツアーとその後のソングライティングの成長により、ロビンスはいくつかの賞を受賞し、フェスティバルに出演するようになった。2021年カーヴィル・フォーク・フェスティバルのニュー・フォーク・コンテスト優勝者、2022年ファルコン・リッジ・フォーク・フェスティバルの「Most Wanted to Return」アーティスト、その後、2023年と2024年には各フェスティバルのソロ・メインステージ出演者となった。 


ロビンズはミシガン州のウィートランド・フェスティバル、フォックス・ヴァレー・フォーク・ミュージック・アンド・ストーリーテリング・フェスティバルなど全米のフェスティバルにツアーを広げ、「同世代で最も有望な新人ソングライターのひとり」-マイク・デイヴィス(英Fateau Magazine誌)の称号を得た。


2023年初頭、サム・ロビンスは、16代ローマ皇帝が記した名著、マルクス・アウレリウスの『瞑想録』を贈られた。 ストイシズムの概念を中心としたこの本からのアイデアは、『So Much I Still Don't See』の楽曲に染み込んでいった。 このアルバムの多くは、過去1年間の旅を通してこの本を読んで発見したストイックな哲学によって見出された内なる平和を反映している。 


「All So Important」の軽快でアップビートなバディ・ホリー・サウンドは、この哲学を瞑想した歌詞と相性がよく、私たちは、皆、大きな宇宙の中の砂粒に過ぎないという感覚を表現している。 「ローマ帝国の支配者のブロンズの胸像、太陽が照らすあらゆる場所の皇帝/彼の名前は永遠に生き続けると思っていた/それでも、今は目を細めなければ読めなくなった」というような歌詞の後に、「It's all so, all so important」という皮肉なコーラスがシンプルに繰り返される。


『So Much I Still Don't See』の曲作りにもうひとつ影響を与えたのが、ロビンズが主催するグループ、ミュージック・セラピー・リトリートでの活動だ。 


この団体は、ソングライターと退役軍人のペアを組み、彼らがしばしば耳にすることのない感動的なストーリーを歌にする手助けをする。 この人生を変え、人生を肯定する体験は、ロビンス自身の作曲と音楽に、より深い感情とより深い物語を引き出し、幸運にも一緒に仕事をすることになった退役軍人の開かれた心と物語に触発された。


『So Much I Still Don't See』のラストは、全米ツアー中のシンガーソングライターであり、ロビンスの婚約者でもあるハレー・ニールとの静かで穏やかなひととき。 2人はバークリー音楽大学で出会った後、別々のキャリアを歩んできたが、ここぞというときに一緒になる。 最後の10曲目に収録されているビートルズのカバー「I Will」は、レコーディング最終日にスタジオの隅にあった安物のナイロン弦ギターでレコーディングされた。 短くて甘いラブソングは、内省的で温かみのあるアルバムのシンプルな仕上げであり、『So Much I Still Don't See』に貫流する真の精神である。冷静さとシンプルさ、そして、常に未来を見据えていることにスポットを当てている。 



「What a Little Love Can Do」



アルバムからの最初のシングル「What a Little Love Can Do」は、ある瞬間を切り取った曲だ。 ナッシュビルで起きた銃乱射事件のニュースを聞いた後、ロビンズは一人でギターを抱えていた。 ニューイングランドの故郷から遠く離れた赤い州の中心部に住んでいた彼は、その日の出来事によって、今まで見たこともないような亀裂がくっきりと浮かび上がった。 


その瞬間に現れた歌詞が、この曲の最初の歌詞である。"It's gonna be a long road when we look at where we started, one nation broken hearted, always running from ourselves"。 (長い道のりになりそうだ、私たちがどこから出発したかを見渡せば、ひとつの国が傷つき、いつも自分自身から逃げていたのだった)


その日のニュース、そして、それ以降の毎日のニュースの重苦しさは、この曲が作られた2023年以降も収まっていない。 


この歌詞から導かれたのは、流れ作業のような作曲作業だった。 ロビンズがツアーで全米を旅し、2年間で10万マイル以上を走り、何百ものショーをこなし、まったく異なる背景を持つ何千人もの人々と出会ったことから築かれた学びとつながりの物語。 


バーミンガムからデトロイト、ニューオリンズからロサンゼルス、ボストンからデンバーまで、この曲は知らず知らずのうちに、これらの冒険から学んだ教訓の集大成として書かれた。 お互いに物理的に一緒にいるとき、話したり、笑ったり、お互いを見ることができるときに見出される一体感の深さが、『What a Little Love Can Do』、そしてこのアルバム全体の核心となる。


この曲では、「閉め切った窓から光が射すのを見た/ケンタッキーの未舗装の道やニューヨークの月も」、「愛が目の前にあるときが一番意味があることを知っている/でも、周りを見渡しても、新聞には載っていない/スクリーンには映っていないけど、君の中には見えるんだ」といった歌詞に、この考えがはっきりと感じられる。


ヴァースとサビ前の歌詞は、モータウンにインスパイアされたシンプルなコーラスへと続く。 「君に手を伸ばそう、君に手を伸ばそう/小さな愛ができることを見せてあげよう、小さな愛ができることを見せてあげよう」 当初は、これは場当たり的なフレーズだったという。 しかし、この歌詞を中心に曲が構成されていくにつれ、この歌詞が曲全体を支えるピースであることが明らかになった。


「What a Little Love Can Do」のサウンド・ランドスケープは、アルバムの中でもユニークだ。セス・グリアーが優しく弾く、荒々しく柔らかいピアノの瞬間から始まる唯一の曲である。


この曲のピアノとアコースティック・ギターの織り成すハーモニーは、ロビンズのライヴとサウンド・センスを象徴している。 ギター、ピアノ、そしてサム自身の温かみのあるリード・ヴォーカルが一体となった 「What a Little Love Can Do」は、サード・アルバム『So Much I Still Don't See』への完璧なキックオフだ。



『So Much I Still Don't See』のセカンド・シングルでありオープニング・トラックである、きらびやかで内省的な「Piles of Sand」は、このアルバムのために書かれた最初の曲だった。 この曲はナッシュビルで書かれ、アルバムの多くと同様、シンプルで観察的な視点から出発している。


冒頭の「テネシーの公園で陽の光の中に立っている/その下にある柔らかい大地が、いつも私の居場所を作ってくれているのがわかる」という控えめな歌詞が曲の土台を作る。この曲は過ぎゆく時間と、私たちの人生のそれぞれの舞台となる小さな瞬間についての謙虚だが力強い瞑想へと花開く。



この曲は、『So Much I Still Don't See』に収録されている多くの曲と同様、ある瞬間のために書かれた。 ナッシュビルの川沿いの小道を歩いていて、刑務所の有刺鉄線の横を通り、向かいの高層マンションのために砂利がぶちまけられるのを見たり感じたりしたのは感動的な瞬間だった。


さらにロビンスは歩き、通りの向こうに高くそびえ立つ巨大な砂利の山を見た後、最初のコーラスの歌詞はすぐに書き留められた。 「山だと思ったけど、ただの砂の山だ!」  このセリフとリズムは、その日の午後に書かれた、ストイシズムに彩られた曲の残りの部分への踏み台となった。


アルバムのオープニング・トラックである "Piles of Sand "のサウンドは、一人の男とギターのシンプルなサウンドを中心に構成されており、アルバムの幕開けにふさわしい完璧なサウンドだ。 ジェームス・テイラーのライヴ・アルバム『One Man Band』にインスパイアされた、この曲には、ピアノの音だけがまばらに入っている。サム・ロビンスの見事なギター・ワークとフレッシュで明瞭なソングライティング・ヴォイスを披露するアルバムの重要な舞台となっている。


『So Much I Still Don't See』からの3枚目のシングル、チェット・アトキンスにインスパイアされたアップビートな "The Real Thing "は、アルバムの2曲目に収録されており、10曲からなるコレクション全体の様々なエネルギーの一例である。


 「The Real Thing」は、歌詞のグルーヴから始まった。ツアー中のアメリカのある都市を車で出発し、自宅から何千マイルも離れた場所で、12時間のドライブを前にして、インスピレーションの火花が散った。 「郊外の柔らかな灯りの下、滑らかなハイウェイを走っている/アップルビーズが角を曲がるたびに視界に飛び込んでくる」という最初の行のノリから、「The Real Thing 」の残りの部分は、アメリカの人里離れたホテルで一晩で書き上げられた。 



この曲は、アルバム全体に存在する実存的な問いかけを軽やかに表現している。 環境保護主義、世界における人間の居場所、作家の居場所についての質問に言及する「The Real Thing」は、ソフトでカッティング、詮索好きな「So Much I Still Don't See」へのアップビートなキックオフ曲である。 


サウンド的には、「The Real Thing」はロビンスがギターで影響を受けた偉大なフィンガースタイル・プレイヤー、チェット・アトキンスへのオマージュである。 


チェットの特徴である親指をトントンと鳴らす奏法により、サム・ロビンスは、この古典的なサウンドを生かしながら、彼独自のモダンなテイストを加えたサウンド・パレットを作り上げた。 歌詞の雰囲気、ようするに、埃っぽいハイウェイを疾走して、今いる場所以外のどこへでも行くという、いかにもアメリカ的な感覚を、西部劇風のド迫力のグルーヴが体現しているのだ。



「So Much I Still Don't See」





『So Much I Still Don't See』のタイトル・トラックは、白人としてニューハンプシャーで育ったロビンズの人生と生い立ちの瞬間を中心とした、澄んだ瞳と澄んだ声の曲だ。
 
 
歌詞のニュアンスとしては''世界には自分はまだ知らないことがたくさんあった''ということを感嘆を込めて歌っている。曲全体を通して歌われる「There's so much I still don't see(まだ見えないものがたくさんある)」という柔らかく、小康状態で瞑想的なリフレインが、テーマをひとつにまとめる結びとなっている。 


その物語は、テネシー州の食料品店で、年配の黒人女性が孫娘のために黒人のディズニー・プリンセスの人形を買うのを彼が目撃するという偶然の出会いから始まった。 


この偶然の出会いは、サム・ロビンスに、彼が幼少期に経験したメディアの表現をふと思い起こさせた。 白人男性はどこにでもいて、支配的なアイデンティティが表現されている。従って表現について深く考える機会がなかった。 このことは、次のヴァースの歌詞にはつきりとした形で表れている。「私は古典の中で育った、英雄と愛の物語/私が何になれるかを映し出す淡い海」



「So Much I Still Don't See」の最後のヴァースは、曲の残りの部分を通して聴かれる小さな物語を最も明確に表している。 


「マーティン・ルーサー・キング牧師を読み、南北戦争について学んだつもりだった/でもすべてが遠く感じられ、彼らと私をつなぐ100万の小さな糸を信じるのはとても難しかった/ああ、まだ見えないことがたくさんあるんだ」


中心的な歌詞の微妙なひねりは、ロビンスの作詞の特徴である。この曲のソフトでありながら鋭いメッセージに貢献している。 


明確な認識(気がつくこと)は変化への第一歩であり、「So Much I Still Don't See」は政治的な歌の静かな瞑想として書かれた。 ただこれは、説教じみた、不遜なマニフェストではない。 この曲は、明瞭で、柔らかく、内向きの曲であり、書き手と聴き手の内省のひとときを意味している。



「So Much I Still Don't See」のサウンドは、歌詞とメッセージの瞑想的な雰囲気を反映している。鳴り響くオープン・アコースティック・ギターのストリングス、うねるような暖かいコード、ロビンスの柔らかく誘うようなヴォーカルが、聴く者を曲の世界へ、そして曲とともに自分自身の物語や歴史へと導いていく。


 「So Much I Still Don't See」は、同名のアルバムのアンカーとして、そして、10曲の核となる曲として、ロビンスの明晰な眼差しと真摯でフレッシュなソングライティング・ヴォイスを端的に表している。
 

本作は、ジェイムズ・テイラー(James Taylor)、 ジャクソン・ブラウン(Jackson Browne)のような良質なシンガーソングライターの系譜にある渋い魅力に満ちた深遠なフォークソング集である。
 
 

▪️Sam Robbins  「So Much I Still Don't See」- Sam Robbins c/o Shamus Records
 
 

 
 
 


 



今世紀、アメリカのソロギタリスト/ウィリアム・タイラーほど、その豊穣なシーンに衝撃を与えたギタリストはいない。 Silver Jews、Lambchopでのベースメントの重要な活動を経て、彼はナッシュビルの名物的なミュージシャンになった。過去10年の幕開けに、カントリー育ちでクラシックに熱中した後、ポストモダンの実験、フィールドレコーディング、絶妙なメロディーの下に折り重なる静的な漂流物への熱意を露わにした好奇心旺盛なアルバムにより頭角を現した。 

 

ウィリアム・タイラーは、チェット・アトキンス、ギャヴィン・ブライヤーズ、電子音響の抽象化、エンドレスなブギーをとりわけ好きこのんだ。 彼の生産的なインストゥルメンタル・ミュージックの小さく大きな枠組みは、そうしたカソリックな嗜好にますます沿うようになり、新しいサウンドやテクスチャーを取り入れたり、新しい声や視点も重要視するようになった。


5年ぶりのソロ・アルバム『Time Indefinite』は、輝かしく、勇ましく、美しい。 このギターは、タイラーだけでなく、ある分野全体の可能性と到達点を再考させるアルバムの出発点となっている。ノイズとハーモニー、亡霊と夢、苦悩と希望が渦巻く『Time Indefinite』は、単なるギターアルバムではない。偉大なギタリストによる私たちの不安な時代を象徴する傑作。


2020年初頭、世界が未曾有の不安の淵に立たされていた頃、タイラーはロサンゼルスを離れ、人生の大半を過ごしたナッシュビルへと向かった。 ほとんどの機材(そして、その価値はあるにせよ、彼のレコードのすべて)はカリフォルニアに残り、早い帰郷を待っていた。 


こでタイラーは、パンデミック時代のあの果てしなく緊張した時代の憂鬱、神経、疑問と向き合いながら、携帯電話とカセットデッキでちょっとしたアイデアやテーマをレコーディングし始めた。



タイラーは、フォー・テットのキーラン・ヘブデンとレコードを作ることを初期に交渉していたという。これらの作品のいくつかは、彼らが一緒にやるかもしれないことの試験運転のように感じられた。 

 

コラボレーションが別の方向に進むにつれ、タイラーは他のサウンドを探った。 彼はすぐ長年の友人でありプロデューサーのジェイク・デイヴィスに、それらをつなぎ合わせ、不完全な部分をきれいにする手助けをしてくれるように頼んだ。

 

やがてロサンゼルスに戻り、アレックス・サマーズが仕上げに加わった。 デイヴィスとタイラーは逆に、ヒスノイズやぐらつきを受け入れ、最終的には意図せずして、あの時代とこの時代を反映した、不器用で、傷つきやすく、正直なレコードを制作することになった。


タイラーの音楽は当初から、彼の価値観を形成した古い観念や慣習を現代的な価値観に照らし出し、過去を呼び起こした。 2020年11月、家族でミズーリ州ジャクソンを訪れ、ダウンタウンにあった亡き祖父のオフィスを片付けたタイラーは、遺産の中に封印されたままの古めかしいテープマシンを見つける。 彼は、それをナッシュビルに持ち帰り、デイヴィスのところへ持ち寄り、彼らはそれを使い、未知の瞬間の眩暈を呼び起こすようなテープループを作り始めた。


『Time Indefinite』は、そのアンティークの破片をサンプリングしたものから始まる。 薄気味悪く、心配になるようなシグナル・フレア。


この作品は、まるで遊園地のお化け屋敷のように展開していくが、まだ生きている人々が息づいている。 それから10分も経たないうちに、タイラーは「Concern」の冒頭で、シンプルなフォーク・ワルツの下に太陽のように昇るストリングスとスティールという、彼のどの曲よりもゴージャスなメロディーを奏でてみせる。 それは肩に手を置いたような、輝きに満ちた音楽。私はここにいる。状況は厳しいが、私たちは努力している。まるでそのように物語るかのように。



苦悩と信念、そしてそれらをつなぐ小道の地図である。「Electric Lake "は、ラ・モンテ・ヤングを今世紀に呼び起こす恍惚としたドローンだが、その輝きの下には内的な痛みに溢れている。
 
 
「Howling "は絶対的な素晴らしさで、その穏やかなギターのなびきと響き渡るホーンと鍵盤の合唱は、ウィンダム・ヒルの栄光の日々を思い起こさせる。しかし、その背景には実際に吠え声があり、潜在的な心配がただ轟くのを待っているのだ。しなやかな 「Anima Hotel 」ではそうならなかったが、そう長くは続かないことは分かっている。
 
 
「これは精神病領域にあるレコードなんだ」とタイラーは恥ずかしげもなく話す。「心を失いながらも、それを望まず、戻ろうとする音楽なんだ」 しかし、彼がそれを語る必要はない。あなたはそれを感じ取ることができ、おそらくあなた自身の経験からそれに気づくことさえできるだろう。


タイラーのアルバムは、スピリチュアリティと哲学の間を行き来し、より偉大なアメリカの想像力の風景や伝説を呼び起こすように、音楽以外の参照や影響が重層的に折り重なっている。
 
 
『Time Indefinite』もその例にたがわず、ロス・マッケルウィーの深く個人的な映画を想起させる。1980年代半ば、彼は、シャーマンの南部進軍を題材にした映画を作り始めたが、それは家族、喪失、そして想像しうる最悪の事態に最良の本能が屈服したとき、私たちがとる行動についてのもつれた歴史へといざなう。
 
 
 
 
William Tyler 『Time Indefinite』 - Psychic Hotline




 
ウィリアム・タイラーの新作『Time Indefinite(不確定な時間)』は考えられる限りにおいて、この世の最も奇妙なレコードの一つである。タイトルも深遠だ。
 
 
タイラーの作り出す音楽は、実験音楽の領域に属すると思われる。しかし、この世のどの音楽にも似ていない。シンプルに言うと、どこからこういった音楽が出てくるのかさっぱりわからない。
 
 
部分的にはアンドレイ・タルコフスキーの映画のサントラのようでもあり、明確な音楽作品とも言えるのかどうかも定かではない。何らかの付属的な映画音楽のようでもある。そして、確かに『不確定な時間』は、思弁的ないしは哲学的な要素もあり、そしてナラティヴな試みが含まれてはいるが、同時に、それを「テーマ音楽」と称するのは適切とは言えないかもしれない。
 
 
『Time Indefinite』 は、アルバムのタイトルにあるように、我々の住む時間の中にある抽象的な空間性、そして、形而上にある概念を実験的な音楽として発露させたかのようである。一度聴いただけでは、その全容を把握するのがきわめて難しい、カオティックなアルバムとなっている。いってみれば、シュールレアリスムの音楽、それをタイラーは今作で発現させているのだ。それはダリ、ルドンを筆頭とするアートの巨匠のような不可思議な時間性を脳裏に呼び覚ます。
 
 
 
サウンドの形態としては、昨年、アメリカのブログサイトや小規模メディアを中心に賞賛を受けた、Cindy Leeの『Diamond Jubilee』に近い雰囲気が感じられる。テープループを執拗に繰り返し、ブライヤーズ、バシンスキーのようなアシッド的なアンビエンスを呼び覚ます。なおかつ音質を落としたサイケでローファイなサウンドという側面でも、シンディのアルバムに通じている。


しかし、このアルバムは、はっきりいえば、ポップでもフォークでもない。ダニエル・ロパティンの『Again』のように、音楽の集合体のような意味合いがある。恐ろしいほどの音楽的に緻密な構成力は、ブルータルリズム建築のような畏怖の感覚を呼び覚まし、音楽という素材を礎石とするポストモダニズムの音楽が徐々にブロックのように積み上がっていく。高みのようなものに目を凝らすと、目がくらんでくる。アメリカの音楽の土壌の奥深さに恐れおののくのだ。

 
 
かと思えば、ノイズの先鋭的な表現も含まれている。例えば、Merzbow(秋田昌美)を彷彿とさせる先鋭的なアナログノイズで始まる「Cabin Six」は、アルバムを聴くリスナーを拒絶するかのようだ。まるで、ドイツのNEU!が蘇り、意気揚々と逆再生とテープループを始めたかのようである。



それらの断続的なパルスは、基本的にはエレクトロニックの領域に属する。その後、ダークなドローンが展開される。時間も場所もない前衛音楽は、奇妙なモノクロ映画のような世界観と掛け合わさり、独特で強固な音楽世界を構築していく。そして、その抽象的な音楽は、カール・シュトックハウゼンのトーン・クラスターの技法と重なり合うように、前衛の前衛としての気風を放つ。音楽を理解するということの無謀さを脳裏に植え付けさせるような凄まじい音楽。
 
 
 
続く「Concern」は、カントリーをルーツにもつウィリアム・タイラーの南部的な音楽観が露わとなる。シンプルなアコースティックギターのアルペジオが背景となるアンビエント的なシークエンスと合わさり、無限の世界を押し広げていくアンビエントフォークとも言える一曲である。
 
 
 
オープニングを飾る「Cabin SIx」のデモーニッシュなイメージと相対する、エンジェリックなイマジネーションを敷衍させる。このアーティストらしさも満載で、テープディレイをかけたり、コラージュやアナログのデチューンを施したり、サイケな雰囲気も含まれている。続く「Star Of Hope」は、エイフェックス・ツイン、Stars of The Lidのダウンテンポのアンビエントという側面から既存のクワイア(賛美歌)を再解釈している。時々、トーンの変容を交え、遠方に鳴り響く賛美歌を表現する。タイラーはアコースティックギターを伴奏のように奏でるが、これらは最終的に、カンタータやオラトリオのようなクラシカルな音楽性へと接近していく。曲のアウトロでは、賛美歌を再構成し、電子音楽に拠るシンフォニーのような音楽性が強まる。
 
 
 
ハイライトが「Hawling at The Second Moon」である。ガット弦を用いたアコースティックギターにあえてエレクトロニック風のサウンド処理を施し、エレアコのような音の雰囲気を生み出す。そして、シンディ・リーのようなビンテージのアナログサウンド、70年代のレコードのようなレコーディングと、最新のデジタルレコーディングの技術を組み合わせ、不確定な時間というアルバムの表題のモチーフを展開させていく。全般的なカントリー/フォークのニュアンスとしては、Hayden Pedigo(ヘイデン・ペディゴ)に近い何かを感じ取ってもらえるかもしれない。
 
 
 
 
コラージュサウンドとして理解不能な領域に達したのが「A Dream, A Flood」である。グロッケンシュピールをリングモジュラー系統のシンセで出力し、アルペジエーターのように配した後、アナログディレイのディケイを用い、音を遅れて発生させ、ミニマル・ミュージックのように組み合わせる手法を見出せる。
 
 
晩年のスティーヴ・アルビニも、全体的なミックス/マスタリングの過程で、ノイズとミニマリズムを共存させていたが、それに類するような前衛主義である。今作ではそれらがエレクトロニックという土壌で展開され、プリペイドピアノの演奏を全体的なレイヤーとしてコラージュのように重ねたり、テープループを施したりすることで、理解不能なサウンドに到達している。最終的には、シュトックハウゼン、武満徹/湯浅譲二のテープ音楽に近い、実験主義の音楽に変遷していく。そしてこれらは、ミニマル/ドローンの次世代の音楽が含まれているという気がする。
 
 
 
その後、カントリーをベースとする牧歌的で幻惑的なギターミュージックへと回帰する。音楽的な枠組みがシュールレアリスティックであるため、印象主義のようなイメージを擁する。これはシカゴのアヴァンフォークの祖、ジム・オルークの作風にも近似するが、少なくとも、ウィリアム・テイラーは、無調音楽やセリエリズムではなく、調性音楽という側面から実験的なフォークミュージックを繰り広げる。しかし、同時に、トラックの背景となるアンビエントのシークエンスは、視覚的な要素ーーサウンドスケープーーを呼び起こし、制作者の亡き親族とのほのかな思い出を蘇らせる。それはある意味では、フォーク音楽における神聖さの肩代わりのような概念となる。アウトロでは、アンビエントふうのシークエンスが極限まで引き伸ばされ、「Electric Lake」の導入部となり、タイムラグをもうけず、そのまま、次曲に繋がっている。


制作者が、本作を''病理的なアルバム''と称する理由は、間違いなく、音の情報量の多さと過剰さに起因すると思われる。「Electric Lake」は、音楽がまるで洪水のように溢れ出し、カットアップコラージュのように敷き詰められたミュージック・コンクレートの技法が満載となっている。これはシュトックハウゼンのエレクトロニックの原点である「群の音楽」の現代的な解釈である。それはもちろん、音符の過剰さはたいてい、ノイズと隣接していることを思い出させる。


同時に、ジェイク・デイヴィスのプロデュースによるヒップホップのサンプリングの技法と組み合わされ、まったく前代未聞の前衛音楽がここに誕生した、といえるのである。しかし、その電子音楽による壮大なシンフォニーが終わると、弦楽器のトレモロだけが最後に謎めいて残る。この音楽には宇宙のカオスのようなものが凝縮されている。聞き手はその壮大さに目が眩む。

 
 
終盤でも、ウィリアム・タイラーの前衛主義が満載である。ニール・ヤングとギャヴィン・ブライヤーズの音楽を組み合わせたら、どうなるのか……。たぶんそんなことを考えるのは、この世には、彼を差し置いては他に誰もいないであろう。「The Hardest Land To Harvest」は、現代アメリカに対する概念的な表れという点では、バシンスキーの2000年代の作風を思い出させる。また、給水塔のような工業的なアンビエンスを感じさせるという点では、「第二次産業革命の遺構」としての実験音楽を制作した現代音楽家/コントラバス奏者のギャヴィン・ブライヤーズのライフワークである「The Sinking Of Titanic(タイタニック号の沈没)」を彷彿とさせる。
 
 
しかし、この曲は、サイケデリックなテイストこそあるが、その背景には、抽象音楽としての賛美歌が流れている。これらが、構成が存在せず、音階も希薄な音楽という形で展開されるという意味では、タイラーがブライアン・イーノの最盛期の音楽に肉薄したとも称せるかもしれない。
 
 
前衛主義の音楽にはどんな意味があるのか。それは、アートの領域でも繰り返される普遍的な問い。アートでは、取引される金銭的な価値により、評価が定まるが、音楽の場合はせいぜい、プレミア価格がつくかどうかくらいしか付加価値というのがもたらされない。もしくは支持者やファンがつくかどうかなど。しかし、新しい藝術表現はたいてい不気味な一角から出てくる。
 
 
このアルバムは、Stars of The Lidに対する敬愛や賞賛を意味するような印象的な楽曲「Held」で終わる。


『Time Indefinite』はまだ傑作かどうかは言い切れない。なぜなら価値というのはどうしても単一的な視点でしかもたらされない。単一的な価値を見るより、どのように音を楽しむかのほうが有意義であろう。そもそも音楽は良し悪しという二元論だけで語り尽くせるものではないのだ。


しかし、聞けども、聞けども、先が見えない、''音楽による無限の迷宮''のような作品である。聴く人によっては、ほとんど価値を見いだせないかもしれないし、その反面、大きな価値を見つける人もいるだろう。音楽の領域を未来に受け継ぐ内容であり、未知なる音楽の可能性を探求しているという点では、これまでとは違う価値観を見出すヒントを授けてくれるかもしれない。
 
 
 
 
 
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