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Weekly Music Feature


-Tara Jane O'Niel



タラ・ジェーン・オニール(TJO)はマルチ・インストゥルメンタリスト、作曲家、ビジュアル・アーティスト。自身の名義で、他のミュージシャン、アーティスト、ダンサー、映像作家とのコラボレーションで作曲、演奏活動を行っている。ソロ・アーティストとしては10枚のフルアルバムをリリースしている。  


オニールはロダン、ソノラ・パイン、その他いくつかのバンドの創立メンバーだった。パパ・M、スティーブ・ガン、ハンド・ハビッツ、ローワー・デンズ、マイケル・ハーリー、リトル・ウィングス、マリサ・アンダーソン、キャサリン・アーウィン、ミラ、マウント・イーリー、その他多くのアーティストとレコーディングやステージでコラボレーションしている。


1992年以来、世界中のクラブ、ギャラリー、DIYスペースや、ポンデュセンター、ホイットニー美術館、ハンマー、ブロードなどの会場でパフォーマンスを行っている。 ミュージシャンは、カルト・クラシック映画『Half-Cocked』に主演し、『His Lost Name』、『Great Speeches From a Dying World』などの長編映画の音楽を担当した。彼女のビジュアル・アート作品は、ロンドン、東京、LA、ニューヨーク、ポートランドなどで展示され、3冊のモノグラフが出版されている。


オニールのアルバム『The Cool Cloud of Okayness』は、セルフ・タイトルから7年(その間、魅力的なコラボレーション、トリビュート、レアもの、実験作がリリースされている)の小競り合いとシャッフルの中で書かれた。TJOがカリフォルニア州アッパー・オハイの自宅スタジオで録音した。トーマス火災で消失した自宅の灰の上に建てられたスタジオにて。


「The Cool Cloud of Okayness」の9曲の多くは、山火事と再建の間、ロックダウンと再開の間に開発された。TJOと彼女のパートナー(ダンサー、振付師、頻繁なコラボレーター)であるジェイミー・ジェームス・キッドと彼らの犬は、南カリフォルニアの高地砂漠とケンタッキー州ルイビルの深い郊外で嵐から避難した。


これらの土地で、キッドのダンスに即興でベース・ギターのフィギュアを発見し、パンデミックによる隔離の間に歌へと変化させ、それから、ドラマー/パーカッショニストのシェリダン・ライリー(Alvvaysのメンバー)、マルチ・インストゥルメンタリストのウォルト・マクレメンツ、そして、カップルでギタリストでもある、メグ・ダフィー(Hand Habitsのメンバー)のアンサンブルに持ち込んだ。彼らは演奏を構築し、嬉々として破壊し、それを再構築した。


このアンサンブルが共有するクィア・アイデンティティーには喜びがある。このアルバムもまた、安易なジャンルや定義に挑戦している。このレコードは彫刻であり、過ぎ去った時間と愛する人の肖像画である。スピリチュアルであり、サイケデリックでもある。TJOの巧みなプロダクションと揺るぎないベースが中心を支え、彼女の妖艶なギターと歌声がメッセージを伝える。


「The Cool Cloud of Okayness」は、時に約束のように、時にマントラのように神秘的に歌いあげる。''私たちは明るい、炎のように。喜びもまた、戦い方のひとつなのだ "と。


持続するリズムの中で、繰り返しはすべて挑戦のように感じられる。太陽の周りを何周するのか? 毎回何が変わるのか? 人はどれだけの喪失を受け入れることができるのだろうか? それらの悲しみは、延々と続くフィードバック・ループとなるが、耳を澄ませば希望が芽生え、小さな苗木が泥の中を突き進む音が聞こえてくる。「悲しみを変容させ、松明を運ぶ。松明は明るい」

 


--最初に矢を受けた場所には喜びの傷が残る。喜びは戦いの形なのだから、私たちはとても明るい。--


-Tara Jane 0'Neil- 「We Bright」

 



TJO   『The Cool Cloud of Okayness』


タラ・ジェーン・オニールの新作アルバムはかなり以前から制作され、2017年頃から七年をかけて制作された。カルフォルニアの山火事の悲劇から始まったオニールの音楽の長大な旅。


『The Cool Cloud of Okayness』は、異質であまり聴いたことがないタイプのアルバムで、唯一、プログレの代表格、YESの『Fragile』が近い印象を持つ作品として思い浮かべられるかもしれない。アルバムジャケットのシュールレアリスティックなイメージを入り口とし、ミステリアスな世界への扉が開かれる。


真実の世界。しかも、濃密な世界が無限に開けている。タラ・オニールの音楽的な引き出しは、クロスオーバーやジャンルレスという、一般的な言葉では言い尽くせないものがある。分けても素晴らしいと言いたいのは、オニールは、ノンバイナリーやトランスであることを自認しているが、それらを音楽及び歌詞で披瀝せず、表現に同化させる。これがプロパガンダ音楽とは異なり、純粋な音楽として耳に迫り、心に潤いを与える。主張、スタンス、アティテュードは控え目にしておき、タラ・オニールは音楽のパワーだけで、それらを力強く表現する。そして、これこそが本物のプロのミュージシャンだけに許された”特権”なのである。

 

アルバムの#1「The Cool Cloud of Okayness」はサイケデリックロックをベースにしているが、ハワイアンやボサノヴァのように緩やかな気風のフォーク音楽が繰り広げられる。心地良いギターとオニールの歌は、寄せては返す波のような美しさ。浜辺のヨットロックのような安らぎとカルフォルニアの海が夕景に染め上げられていくような淡い印象を浮かび上がらせる。この曲は、序章”オープニング”の意味をなす。

 

これは映画音楽の制作や、実際に俳優として映像作品に出演経験があるTJ・オニールが、音楽の映像的なモチーフを巧緻に反映させたとも解釈出来るかもしれない。#2「Seeing Glass」は、ノルウェーのジャズ・グループ、Jagga Jazzistの音楽を彷彿とさせる。シャッフル・ビートを多用したリズム、ミニマルミュージックを反映させたタラ・オニールのボーカルは、作曲の方法論に限定されることはなく、春のそよ風のような開放感、柔らかさ、爽やかさを併せ持つ。

 


 #1「The Cool Cloud of Okayness」

 

 

#3「Two Stone」ではさらに深度を増し、夢幻の世界へ入り込む。この曲では、Jagga JazzistやLars Horntvethがソロ作品で追求したようなエレクトロニックとジャズの融合があるが、バンドの場合は、それらにフュージョン、アフロビート、アフロジャズの要素を付け加えている。

 

アルバムの冒頭で、南国的な雰囲気で始まった音楽が、一瞬で長い距離を移動し、三曲目でアフリカのような雄大さ、そして、開放的な気風を持つ大陸的な音楽に変遷を辿っていく。しかし、アフロジャズの創成期のような原始的な音楽やリズムについては極力抑えておき、ラウンジ・ジャズのようなメロウさとスタイリッシュさを強調させている。それらのメロウさを上手い具合に引き立てているのが、金管楽器、パーカション、アンニュイなボーカル。オニールのボーカルは、ベス・ギボンズのようなアーティスティックなニュアンスに近づくときもある。 



#4「We Bright」では、クイアネスの人生を反映させ、「最初に矢を受けた場所には喜びの傷が残る。喜びは戦いの形なのだから、私たちはとても明るい」という秀逸な表現を通して、内的な痛みをシンガーは歌いこむ。ただ、そこにはアンニュイさや悲哀こそあれ、悲嘆や絶望には至らない。"悲しみは歓喜への入り口である"と、シンガーソングライターは通解しているのだ。続いて、オニールは、アフロジャズ/フュージョンのトラックに、抽象的な音像を持つコーラスとボーカルを交え、歌詞に見出されるように、''暗い場所から明るい場所に向かう過程''を表現する。ここでは、人生の中で受けた内的な傷や痛みが、その後、全然別の意味に成り代わることを暗示する。続く「Dash」は、インタリュードをギターとシンセで巧みに表現している。二方向からの音楽的なパッセージは結果的にアンビエントのような音像空間を生み出す。

 

#6「Glass Land」では、シカゴ/ルイヴィルに関するオニールの音楽的な蓄積が現れている。つまり、イントロではポストロックが展開され、ジム・オルークのGastre Del Sol、Rodan、Jone of Arcの彷彿とさせるセリエリズム(無調)を元にしたミステリアスな導入部を形作る。

 

しかし、その後、スノビズムやマニア性が束の間の煙のようにふっと立ち消えてしまい、Portisheadのベス・ギボンズを思わせるアンニュイなボーカル、現代のロンドンのジャズ・シーンに触発されたドラミングを反映させた異質な音楽が繰り広げられる。見晴るかすことの叶わぬ暗い海溝のような寂しさがあるが、他方、ペシミスティックな表現性に限定付けられることはなく、それよりもバリエーション豊かな感覚が織り交ぜられていることに驚きを覚える。

 

明るさ、暗さ、淡さ、喜び、安らぎ、ときめき、悲しさ、苦しさ、それを乗り越えようとすること。挫折しても再び起き上がり、どこかに向けて歩き出す。ほとんど数えきれないような人生の経験を基底にした感覚的なボーカルが多角的な印象をもって胸にリアルに迫ってくるのである。 

 

 

 #6「Glass Land」

 

#7「Curling」では、Jagga Jazzistのノルウェージャズと電子音楽の融合ーーニュージャズを元に、Pink Floyd/YESのような卓越した演奏力を擁するプログレを構築させる。 特にシンセサイザーがバンドのアンサンブルを牽引するという点では、リック・ウェイクマンの「こわれもの」、「危機」の神がかりの演奏を思わせる。タラ・オニールによるバンドは続いて、マスロックの音楽的な要素を加え、Don Cabarelloが『Amrican Don』で繰り広げたようなミニマル・ロックと電子音楽の融合を復刻させる。ただ、これらがBattlesのようなワイアードな音楽にならないのは、オニールのボーカルがポップネスを最重視しているからだろう。

 

後半部では、スピリチュアル・ジャズの音楽的な要素が強調される。「Fresh End」はアフロジャズとシカゴのポスト・ロック/ルイヴィルのマス・ロックの進化系であり、Don Cabarelloの『What Burns Never Returns』のアヴァンギャルド・ロックのスタイル、そして、Jagga Jazzistのエレクトロ・ジャズを、アフロビートの観点から解釈することによって、音楽の持つ未知の可能性を押し広げる。ベースラインのスタッカートの連続は、最終的にダンスミュージックのような熱狂性と強固なエナジーを生み出す。それは実際、アルバムを聞き始めた時点とは全く異なる場所にリスナーを連れてゆく。これを神秘性と呼ばずしてなんと呼ぶべきなのか??

 

『The Cool Cloud of Okayness』のクライマックスを飾る「Kaichan Kitchen」は圧巻であり、衝撃的なエンディングを迎える。サイケロック、サーフ、ヨットロックをアンビエントの観点から解釈し、ギター/シンセのみで、Mogwai/Sigur Rosに比する極大の音響空間を生み出す。天才的なシンガーソングライター、TJ・オニールに加えて、シェリダン・ライリー、メグ・ダフィー、秀逸なミュージシャンの共同制作による衝撃的なアルバムの登場。収録曲は、9曲とコンパクトな構成であるが、制作七年にわたる長い歳月が背景に貫流していて、感慨深い。

 



92/100
 


#7「Curling」

 

 

 

Tara Jane O’Niel(TJO)の新作アルバム『The Cool Cloud of Okayness』はOrindal Recordsより本日発売。

 

 Weekly Music Feature ‐ Demian Dorelli 

 


ロンドン出身で、ケンブリッジ大学出身のDemian Dorelliは、音楽と足並みを揃えて人生を歩んできた。


主にクラシックで音楽の素地を形成したデミアン・ドレリは、その後もジャズ・ミュージックやエレクトロニック・ミュージックへのアプローチを止めることなく、その制作経験を豊富にしていった。


彼はこれまでに、パシフィコ(2019年のアルバム『Bastasse il Cielo』から引用された曲「Canzone Fragile」)において、アラン・クラーク(Dire Straits)、シモーネ・パチェ(Blonde Redhead)といった名だたるアーティストとコラボレーションしている。


デミアン・ドレリはまた、ポンデローザ・ミュージック&アートから『Nick Drake's PINK MOON, a Journey on Piano』を発表している。このアルバムは、ピーター・ガブリエルのリアルワールド・スタジオでティム・オリバーと共にレコーディングされ、ドレリがピアノを弾きながら故ニック・ドレイクに敬意を表し、過去と現在の間で彼との対話を行う11曲で構成されている。


前作『My Window』はドレリのサイン入り2枚目のアルバムで、ポンデローザ・ミュージック・レコードからリリースされた。彼の長年の友人であるアルベルト・ファブリス(ルドヴィコ・エイナウディの長年の音楽協力者・プロデューサー、ドレッリの「ニックス・ドレイク ピンクムーン」というデビュー作品の時にすでにコントロール・ルームにいた)がプロデュースを手掛けた。


イタリアのレーベルのパンデローサは、このアルバムについて、「イタリア人ファッション写真家とイギリス人バレエダンサーの間に生まれたもう一人のドレッリ(わが国のクルーナー、ジョニーの人気と肩を並べることを望んでいる)は、非常に高いオリジナリティを持つピアノソロアルバムを作るという難題に成功している」と説明する。


デミアン・ドレリのピアノ音楽は、現在のポスト・クラシカルシーンの音楽とも共通点があるが、ピアノの演奏や作品から醸し出される気品については、Ludovico Einaudi、Max Richter,Hans Gunter Otte、John Adamsの作品を彷彿とさせる。デミアン・ドレリの紡ぎ出す旋律は、軽やかさと清々しさが混在する。まるで未知の扉を開き、開放的な世界へリスナーを導くかのようだ。


現代音楽のミニマリズムのコンポーザーとしての表情を持ちながらも、その範疇に収まらないのびのびとした創造性は、軽やかなタッチのピアノの演奏と、みずみずしい旋律の凛とした連なり、そして、それを支える低音部の迫力を通じて、聞き手にわかりやすい形で伝わってくる。


本日(4月19日)、ピアノ(デミアン・ドレリ)、チェロ(キャロライン・デール)、フレンチ・ホルン(エリサ・ジョヴァングランディ)のための長編作品を収録した、これまでの作風とは異なる3枚目のレコードが発売される。「A Romance of Many Dimensions(多次元のロマンス)」は、エドウィン・A・アボットによる1884年の小説「Flatland(平地)」の要素を刺激として取り入れつつ、タペストリー空間を自在に旅する7部のパートのエモーショナルな作品に仕上がっている。

 


 

『A Romance of So Many Dimensions』‐ Ponderosa Music Recordings Sri


 

 

英国のピアニスト/作曲家であるデミアン・ドレリは『My Window』において内的な世界と外的な世界をピアノの流麗な演奏を介し表現した。前作はモダンクラシックやミニマルミュージックの系譜に属する作品であったが、三作目のアルバムは必ずしも反復的なエクリチュールにとどまらず、モチーフを変奏させながら、発展性のあるコンポジションの技法が取り入れられている。

 

今回、ロンドンを拠点に活動するデミアン・ドレリは、デイヴィッド・ギルモア、ピーター・ガブリエル、オアシス、U2の作品にも参加している英国人チェリスト、キャロライン・デール、そして、イタリア人のフレンチ・ホルン演奏家で、カイロ・シンフォニー・オーケストラとの共演を行っているエリサ・ジョヴァングランディが参加し、壮大な世界観を持つ室内楽を提供する。

 

 

 

本作はデミアン・ドレリのピアノ・ソロを中心に組み上げられる。その中に、対旋律やフーガのような意味合いを持つフレンチ・ホルン、チェロのレガート、スタッカート、トレモロが多角的に導入される。表向きには、上記の二つのオーケストラ楽器が紹介されているのみであるが、終盤の収録曲には、ウッドベース(コントラバス)の演奏が入り、ジャズに近いニュアンスをもたらす場合もある。もちろん、ドレリの場合は、クラシックにとどまらず、ジャズやエレクトロニックといった幅広い音楽性に触発を受けていることからもわかるとおり、音楽の多彩性、及び、引き出しの多さが三作目のアルバムの重要なポイントを形成している。そして、このアルバムでは、涼やかな印象を持つピアノのモチーフを元に、アルペジオに近似する速いジャズ風のパッセージのバリエーションを通じて、ルドヴィコ・エイナウディを彷彿とさせるシネマティックな趣向を持つクラシックミュージックを作り上げる。考え方によっては、デミアン・ドレリのピアノソロが建築の礎石を築き、その次に二人の演奏家が建築に装飾を施していく。

 

前作に比べると、明らかに何かが変わったことがわかる。オープニングを飾る「Houses」はイントロの早めのピアノのパッセージの後、ドレリは華麗なモチーフの変奏を繰り返しながら、楽曲をスムーズに展開させていく。

 

ドレリのピアノは、安らかな気風を設けて、癒やしの質感を持つ緻密な楽節を作り上げる。楽曲の構成としては、米国の現代音楽家、アダムズの系譜にあるミニマリズムであるが、必ずしもドレリの場合は、”反復”という作曲技法が最重視されるわけではない。古典音楽の著名な作曲家がそうだったように、細かな変奏を繰り返しながら、休符をはさんで''間''を設け、チェリストの感覚的なレガートの演奏を織り交ぜ、贅沢な音の時の流れをリスナーに提供しようと試みる。これは、ジョン・アダムズが自分自身の音楽性や作風について、「ミニマリズムに飽きたミニマリスト」と表現したように、この音楽の次なるステップが示されているといえるかもしれない。 

 

 

 「Houses」

 

 

 

例えば、マックス・リヒター、ルドヴィコ・エイナウディ、オーラヴル・アルナルズ、アイディス・イーヴェンセン、昨年死去した坂本龍一、(Room 40のローレンス・イングリッシュとコラボレーションしている)小瀬村さんにしても同様であるが、近年の現代音楽家は音楽という表現を内輪向けにするのを良しとせず、クラシック音楽にポピュラリティをもたらそうと考えているらしい。クラシックをコンサートホールだけで演奏される限定的な音楽と捉えず、一般的なポピュラーミュージックの形で開放している。これは例えば、権威的な音楽家から軽薄とみなされる場合もあるにせよ、時代の変遷を考えると、当然の摂理といえ、クラシックに詳しくないリスナーに音の扉を開く意味がある。デミアン・ドレリの音楽についても同様で、彼の音楽はポピュラーやジャズのリスナーに対し、クラシックの扉を開く可能性を秘めているのだ。

 

デミアン・ドレリの音楽には、ドビュッシー以降の色彩的な和音の影響があり、朝の太陽の光のような清々しさがある。音楽に深みを与えているのが、キャロラインのチェロ、そして、エリサのフレンチ・ホルンの情感を生かした巧みな演奏である。特に、二曲目の「Theory Of Three」はマックス・リヒターの楽曲性を思わせ、曲の終わりに、ソロ・ピアノの演奏を止め、チェロとフレンチ・ホルンの演奏をフィーチャーすることで、一瞬の音の閃きを逃すことはない。

 

「Universal Color BB」はマックス・リヒターの系譜に位置する曲で、 ドビュッシーの「La cathédrale engloutie - 沈める寺」の縦構造の和音にジャズの和声法を付加している。これらの重厚かつ色彩的な和音を微妙に変化させながら、安らいだ音楽空間を作りだす。しかし、イントロではミニマリズムに属すると思われた曲風は中盤において、チェロとフレンチホルンの演奏、アラビア音楽のスケールを織り交ぜたジャズピアノのパッセージによって、ストーリー性のある音楽へと変遷を辿ってゆく。


この曲のエキゾチック・ジャズの影響も音楽的な魅力となっているのは明らかだが、特に、ホルンの芳醇な音の響きには目が覚めるような感覚があり、その合間のドレリのピアノは落ち着きと安らぎをもたらし、ルチアーノ・ベリオを思わせる現代音楽の範疇にあるピアノのパッセージ、フレドリック・ショパンやフランツ・リストのような音階の駆け上がりを通じて、現代音楽とロマン派の作風の中間に位置するアンビバレントな領域に差し掛かる。曲の最後では、Ketil Bjornstadが最高傑作『River』で表現したような音の流れーーウェイブを表現する。ここでは、音楽の深層にある異なる領域が立ち上ってくる神秘的な瞬間を捉えられる。

 

 

「Universal Color BB」

 

 

 

続く「Stranger from Spaceland」を聴いて、フランツ・リストの『Anees de pelerinage: Premiere anee: Suisse‐ 巡礼の年 スイス』に収録されている「Au Lac de Wallenstadt‐ ワレンシュタットの湖で」を思い浮かべたとしても不思議ではない。ただ、デミアン・ドレリの場合は、それを簡素化し、マックス・リヒターの系譜にあるミニマリズム構造に置き換える。ただ、単なる和音構造のミニマリズムで終わらない点にデミアンの音楽の魅力がある。ジャズピアノの即興的な遊びの要素を取り入れ、構成に水のような流れをもたらし、映画音楽のサントラに象徴される視覚性に富む音楽的な効果を促す。途中、やや激したパッセージに向かう瞬間もあるが、クライマックスでは、ジャズの和声法を交え、基本的なカデンツァを用い、落ち着いた終止形を作り上げる。 

 

「A Vision」はミニマリズムの要素をベースに、ジャズのライブセッションの醍醐味を付け加えている。短いパッセージを元にして、フレンチホルンが前面に登場したり、チェロが現れたりと、現代的なロンドンのロックに近い新しいミニマルミュージックの形を緻密に作りあげていく。反復的な構造を持ちながら、細部にわたって精妙な工芸品のように作り込まれているため、じっと聞き入らせる何かがある。これは例えば、Gondwanaのレーベルオーナーであるマシュー・ハルソールのモダン・ジャズに近い雰囲気がある。上記のジャズとクラシックとポピュラーの融合性は、古典音楽に近寄りがたさを感じるリスナーにとって最上の入り口となりえる。

 

 

 

その他にもこのアルバムではタイトルに象徴されるように多次元的な音楽とロマンスの気風が込められている。「The King’s Eyes」は現代的な葬送曲/レクイエムのような意義を持ち、例えば英国のエリザベス女王の葬送に見受けられる由緒ある葬送のための音楽と仮定づけたとしてもそれほど違和感はない。また、この曲に英国の古典文学の主題が最もわかりやすく反映されているとも考えられる。エリサ・ジョヴァングランディによるフレンチホルンの演奏は、Kid Downesがシンセで古楽のオルガンの音響性を追求したのと同じく、音楽本来の崇高な音響性をどこかに留めている。特に、フレンチホルンの神妙なソロの後に繰り広げられるドレリのピアノとデールのチェロは、さながら二つで一つの楽器の音響性を作るかのように合致している。これらの複数の方向からの音のハーモニクスは、音楽そのものが持つ奥深い領域に繋がっている。

 

前作では簡素なミニマリストのピアノ演奏家としての性質が押し出されていたが、三作目のアルバムは映画音楽さながらにドラマティックな雰囲気のある音楽が繰り広げられる。とくにクローズ「Thoughtland」は神秘主義的な音楽であり、モダンクラシックをジャズやエレクトロニックという複数のジャンルへ開放させる。イントロの和風のピアノのアルペジオの立ち上がりから、ベートーヴェンの後期のピアノソナタ、モダンジャズによく見受けられる単旋律のユニゾンによる強調、そして、ジャズの即興演奏に触発されたアルペジオ……、どこを見ても、どれをとっても''一級品''というよりほかない。その上、本曲は、ミニマリズムの最大の弊害である音楽の発展性を停滞させることはほぼなく、音階の運びが驚くほど伸びやかで、開放的で、創造性を維持している。ソロピアノの緻密な音階の連続は、”次にどの音がやってくるか”を明瞭に予期しているかのように、スムーズに次の楽節に移行してゆく。音楽そのものもまた、平面的になることはほとんどなく、次の楽節に移行する際に、多次元的な構造性を作り上げている。


クローズ「Thoughtland」では、古楽やイタリアン・バロックに加え、ドイツ/オーストリアの古典派やロマン派、以降のフォーレからラヴェル、プーランク、メシアンまで続くフランスの近代和声、作曲家が親しむジャズ、ポピュラー、エレクトロニックという多数のエクリチュールを用い、開放感のある音楽に昇華させる。


デミアンの手腕は真に見事である。もちろん、その中には、今回の録音に参加した、二人の傑出したコラボレーター、キャロライン・デール、それから、エリサ・ジョヴァングランディの多大なる貢献が含まれていることは言うまでもない。特に、抽象的なピアノの音像とジャズのパッセージ、フレンチホルンが生み出すハーモニーの美しさは、現代のモダンクラシックの最高峰に位置づけられる。アルバムのクライマックスで、音楽が物質的な場所を離れ、別次元に切り替わる瞬間がハイライトとなる。"モダンクラシックのニュースタンダード"の登場の予感。

 

 

 

 

100/100(Masterpiece)

 


Demian Dorelli(デミアン・ドレリ)の『Romance of The So Many Dimensions(ロマンス・オブ・ザ・ソーメニー・デメンションズ)』はPonderosa Music Recordingsから本日発売。楽曲のストリーミング/ご視聴、海外のヴァイナル盤の購入はこちらより

 


Best Track-「Thoughtland」

 Weekly Music Feature -- Leyla McCalla

 

©ANTI-


ハイチからの移民と活動家の間にニューヨークで生まれたレイラ・マッカラ(Leyla Mccalla)は、過去と現在からインスピレーションを得ている。


マッカラは、チェロ、テナー・バンジョー、ギターを見事に操り、多言語を操るシンガー・ソングライターとして、彼女のルーツと経験が融合した独特のサウンドを生み出す。ソロ活動に加え、マッカラは''Our Native Daughters''(リアノン・ギデンズ、エイミシスト・キア、アリソン・ラッセルと共に)の創設メンバーであり、グラミー賞を受賞した黒人ストリングス・バンド、キャロライナ・チョコレート・ドロップスの卒業生でもある。


マッカラの5枚目のスタジオ録音となるニュー・アルバム『サン・ウィズアウト・ザ・ヒート』(ANTIから4月12日発売)は、変容の痛みと緊張を抱えながらも、遊び心に溢れ、喜びに満ちている。『Sun Without the Heat』の10曲を通して、マッカラは、アフロビート、エチオピアの様式、ブラジルのトロピカリズム、アメリカのフォークやブルースなど、さまざまな形態のアフロ・ディアスポラ音楽に由来するメロディーとリズムで、重さと軽さのバランスを実現している。


 彼女の2022年のアルバム『Breaking the Thermometer』(ANTI-)は、デューク・パフォーマンスズの依頼による音楽、ダンス、演劇の複合的な作品のアルバム・コンパニオンである。命がけでハイチのクレヨル語のニュースを報道したラジオ・ハイチの勇敢なジャーナリストの物語を通して、『Breaking the Thermometer』は、自己と社会の解放を促進する自由で独立した報道の重要性を明らかにしている。


『Breaking the Thermometer』は、『The Guardian』、『Variety』、『Mojo』、『NPR Music』によって今年のベスト・アルバムのひとつに選ばれ、彼女の曲「Dodinin」は、バラク・オバマのお気に入りリストに入った。マッカラは、フォーク・アライアンス・インターナショナルから2022年度の''ピープルズ・ヴォイス・アワード''を受賞した。この賞は、創作活動に臆することなく社会変革を取り入れたアーティストに贈られる賞である。


次のプロジェクトを構想する中で、マッカラは音楽的な味覚を広げ、長年創作に影響を及ぼしてきたものを見直した。「私は音楽が緊急性を帯びているのが好きなの。でも、新しいアルバムは遊び心があって楽しいものにしたかった」


『サン・ウィズアウト・ザ・ヒート』でマッカラは、オクタヴィア・バトラー、アレクシス・ポーリン・ガンブス、アドリアン・マリー・ブラウンら黒人フェミニスト・アフロフューチャリストの著作から歌詞の霊感を得ている。これらの著者のように、マッカラはソングライティングを、信仰と希望を高め、コミュニティーの思考を促し、個人の変容を触媒する方法として見ている。「ソングライティングは、語るべき物語を語るための方法です。時には痛みを伴う話もある」


 このアルバムのタイトル曲は、奴隷解放宣言の6年前、1857年にフレデリック・ダグラスが奴隷制度廃止論者の白人群衆を前に行った演説を引用している。


彼の生々しい言葉がこの曲に響いている。「耕さずに作物が欲しいのか/雷を鳴らさずに雨が欲しいのか/轟音を鳴らさずに海が欲しいのか」 


ダグラスの主張は、マッカラがこの曲の中心的なメッセージに織り込んでいるように、変革的な行動にコミットすることなしには、解放と平等はあり得ないということだ。


「私たちは皆、太陽の暖かさを求めているが、誰もがその熱さを感じたいわけではない。両方が必要なの」

 

このスピーチと、スーザン・ラフォの著書『Liberated to the Bone』(2022年)に心を動かされたマッカラは、歌詞を付け加えてこの考えを全面的に主張する。"暑さなくして、太陽はない"。この歌は、社会変革のための継続的な取り組みと、私たちが今も背負っている闘いを思い起こさせる役割を果たす。"この傷はとても古い "とマッカラは私たちに思い起こさせる。


『サン・ウィズアウト・ザ・ヒート』は、ニューオーリンズのドックサイド・スタディーズで9日間の集中セッションでレコーディングされた。マリアム・クダスのプロデュースで、マッカラは長年のバンド・メンバーでありコラボレーターでもあるショーン・マイヤーズ(パーカッションとドラム)、ピート・オリンチウ(エレクトリック・ベースとピアノ)、ナウム・ズディベル(ギター)が参加した。クダスはシンセサイザー、オルガン、バッキング・ヴォーカルで参加している。


「いつもはスタジオに入ると、曲と骨組みがすでに出来上がっている」とマッカラは言う。「でもこのアルバムでは、リアルタイムで骨組みを作った。威圧的なプロセスだったけど、一緒に仕事をするミュージシャンたちに自分がどれだけ支えられているかを実感することができた」



その結果、個人的なものと普遍的なもの、悲しみと喜びを同時に抱えた超越的な曲のコレクションが生まれた。このアルバムを通して、マッカラは変容の要素と、闇から光へと向かうために必要な熱を探求している。


『Sun Without the Heat』はANTI- Recordsからリリースされる。マッカラは現在、リッチモンド大学のアーティスト・イン・レジデンスでもある。このアルバムに寄せられた賛辞は以下の通り。



「一度レイラにのめり込んだら、もう手離すことは難しい」-Iggy Pop、BBC Radio 6 Music


「高揚感と力強さ.このアルバムはまさしく彼女の音楽的遺産を祝福するものである」- UNCUT


「このアルバムの他、この夏、フェスティバルの観客の上を転がり落ちるような良い音はほとんどないだろう」 - The Guardian


「レイラ・マッカラは、恐怖なくして希望は持てないことを知っており、変身という行為自体がトラウマになりうることを決して度外視しない。この強烈なエッジ、そして彼女の信仰によるメッセージの背後にある利害関係の認識は、これらの曲を空虚なセンチメンタリズムのリスクを超えて押し上げ、「Sun Without the Heat」を真に高揚させる」- MOJO


「レイラ・マッカラのような方法で、音楽の名手が自分の声の予期せぬ可能性を探求するのを聞くのは、爽快なことだ...。ポストコロニアル、汎アフリカの経験の複雑なテクスチャーを彼女の憧れの詩的言語でなぞる」- NPR



Leyla McCalla『Sun Without the Heat』- ANTI-



 

カリブ海にあるハイチは、およそポスト・コロニアルの時代のおいて、植民地化、及び、占領という二つの悲劇的な運命にさらされてきた。クリストファー・コロンブスが15世紀にヨーロッパ人として最初にこの諸島を発見すると、以降の四半世紀はスペインによる侵略、以後はフランスの占領下に置かれた。ナポレオンの時代、アフリカの諸国を始め、カリブ海の群島まで皇帝の名は轟く。植民地という考えについては、二つの側面から解釈できる。つまり、先住民族の圧政による支配と土地の文化の掠奪である。何も、金銀財宝にとどまらない。侵略国家はいつもその国の文化を消去し、その国の風土を全く別の色で染め上げる。地球上のあらゆる国という国、そして島という島、土地と地域が近代化文明の中で、およそその国の資本主義化や現代化という名目上、別の国家への転身を義務付けられてきた。「Invadeー侵略」という行為の本質は事物的な掠奪にあるのではない。究極の目的は国家の文化性を破壊することなのだ。これは現代の社会通念であるグローバリズムやグローバリゼーションの考えに置換することもできる。

 

ハイチの音楽は、日本のFMラジオ局の”J-WAVE”の特集動画で紹介されている通り、明らかにスペインのフラメンコやサルサに近い。もしくはアルゼンチンのタンゴ、もしくはブラジルのサンバにも比する陽気な気風に彩られている。南米の気風がハイチの音楽には反映されているが、一方で、カリブ諸島、それよりも西に位置するハワイやグアムのような土地のトロピカルな音楽の浸透もある。いついかなる時代において、これらの複数の地域の音楽が混交し、別の土地に伝わったのかまでは明言しかねるが、中世ヨーロッパの繁栄の時代、それはもちろんエカテリーナの時代のロシヤ帝国の繁栄の時代とも重なりながら、カリブ海の地域に位置する幾つかの諸島では、国家間での文化の交換、やりとり、交易がなんらかの形で行われていたものと推測される。つまり、これらの文化性の混交がハイチの音楽の魅力ともなっているのである。

 

レイラ・マッカラの音楽が素晴らしいのは、歴史という側面を悲観視するのではなく、肯定的に捉えていることだろう。前時代の侵略や植民地支配の歴史を否定せず、それを肯定的に捉えた上で、どのような独自の音楽文化を次世代に伝えていくのかという点に表現性の核心が据えられている。これはまた、植民地国家としての自立性や自主性、アフリカの諸国と同じように「本質的な意味の独立」というテーマを交えながら、マッカラはそれを音楽という形を通じて勝利を手元にたぐりよせようと試みるのである。もちろん、ためしに、世界地図を目の前に広げてみてもらいたい。ハイチという土地の地政学を見ると、南アメリカとも繋がっている。マッカラの音楽は、アフリカ、アメリカ、カリブ、ヨーロッパというように、無数の地域の音楽がR&Bやジャズ、ワールドミュージック、そしてロックという複数の文脈を元に展開されていくのである。 言うなれば、音楽における数世紀の歴史がこのアルバムに凝縮されているのである。

 

 

アルバムの音楽の世界に踏み入ると、そこには驚嘆すべきユートピアが広がっている。オープニングを飾る「Open The Road」にはマッカラの開放的な音の響きを容易に見いだすことが出来る。この曲では、ハワイアンやアロハの音楽性を踏まえて、古典的なジャズやサルサを始めとするワールド・ミュージックのリズムとスケールを駆使して展開される。複雑な変拍子を背景に演奏されるマッカラのテクニカルなエレクトリック・ギターは、シカゴ/ルイヴィル/ピッツバーグのポスト・ロックのような形で体現される場合もある。しかしながら、音楽そのものが神経質になったり、強張ったりすることはほとんどない。レイラ・マッカラの20世紀はじめのR&Bシンガーのようなナチュラルなボーカルは、メロウな空気感を生み出し、リゾート地のコテージの向こうに広がるエメラルドの海、その果てに境界線を形作る雲ひとつない青空のような爽快さがある。マッカラは、ジャズに加え、Dick Daleのようなサーフミュージックの影響を絡めながら、トロピカルな気風を反映したギターリフにより、この曲を面白いようにリードしていく。

 

 続く「Scaled To Survive」でも”ロハス”な気風が続く。ハワイアン・ミュージックを反映させ、鳥の声をシンセのシークエンスで表現し、それをヒップホップのビートのように見立て、Buddy Hollyの「Everyday」のような古典的なロックンロールの影響を交えながら、蠱惑的なポピュラーソングを展開させる。レイラ・マッカラのボーカルは背景のサウンドプロダクションと絶妙に合致し、それは南国的な雰囲気にとどまらず、いわくいいがたい天国的な空気感を作り出す場合もある。ギターの演奏はミュージック・コンクレートのように配置される。その間にボーカルが入ると、トリニダード・ドバゴのカリプソ(レゲエのルーツ)のようなトロピカルな印象を形作る。 

 

 

三曲目「Take Me Away」は、端的に言えば、世界のカーニバルの音楽である。聞き方によっては、リオのサンバのようでもあり、スペインのサルサのようでもあり、また、フラメンコのような陽気さもある。また、アフロ・ビートからの影響を指摘するリスナーもいるかもしれない。しかし、この曲はどちらかと言えば、日本の「囃子」のような音楽性がギターロックの形で表現されていてとてもおもしろい。これらの囃子という民族音楽は、日本の地方のお祭りに見出され、大阪の岸和田のだんじりであったり、他にも東北のお祭り等で、神輿を担ぎながら、民衆が掛け声を掛けながら、やんややんやと騒ぎ立てながら町中を陽気に練り歩くのだ。リズムに関しては、ハイチの民族音楽の影響がありそうだが、実際にアウトプットされるサウンドは驚くほど自由で開放的である。このトラックに満ち溢れる崇高性や完璧性とは対極にある別の意味の音楽の楽しみは、タイトルにあるようにリスナーを別の場所に誘う力とイメージの換気力を兼ね備えている。しかし、音楽的にはカーニバルのような陽気さがあるが、マッカラのボーカルはR&Bのようにしっとりとしており、そして落ち着いた雰囲気に縁取られている。

 

マッカラのギターの演奏に関しては、どうやらジャズのスケールの反映がありそうだ。「So I'll Go」は、シカゴのジャズ協会の名誉会員であるジェフ・パーカーのようなロックとジャズの中間にある淡い感覚の音楽を体現している。これらは、TortoiseやRodanのようなポスト・ロック性にとどまらず、アーティストのアヴァンギャルド・ロックへの親和性も見出せる。この曲はおそらく、これまでにありそうでなかったタイプのロックソングで、ハイチ・トロピカルやハワイアン・ミュージックのようなリゾート地の音楽性が巧みに織り交ぜられている。それらが最終的に、ミニマルロックの要素と綿密に絡み合い、ワイアードな音楽性を作り出すのだ。ロック的な文脈に位置しながら、マッカラのボーカルスタイルには、Ernestine AndersonのようなジャズとR&Bの中間にあるブルージーな味わいがある。これらは、熟成に熟成を重ねたケンタッキーのバーボンのような苦味と渋さをもって、わたしたちの音楽的な味覚を捉えてやまない。


続く「Tree」は二部構成のアルバムの序章のような感じで始まる。古典的なR&Bに依拠したバラードだが、マッカラはそれを普遍的な歌声で奏でる。アコースティックギターでの弾き語りは、ブルージャズに近いニュアンスで展開されるが、その中には往年のR&Bシンガーのような開放的な感覚と奥行きのある歌声が披露される。イントロのモチーフが終わった後、サルサやタンゴ、フラメンコを彷彿とさせる南米的な気風を携えたポピュラーソングが続く。また、曲の進行ごとに、面白いように表情が変わり、稀にキューバの”Buena Vista Social Club”に象徴づけられるジャズのビックバンドの音楽に近づく瞬間もある。少なくとも、南米的な哀愁が感情的に織り交ぜられ、それが巧みなギターの演奏やボーカルのニュアンスの変化により、聴き応えのあるナンバーに昇華される。ここにも、JFKの時代、南米とアメリカの国家的な関係性に歪みが生じさせることになった政治的な事変が、ナラティヴなテーマとして機能している。それらは古き日へのララバイなのであり、それらの政治的な運命に翻弄された民衆への哀悼を意味する。

 

続くタイトル曲にも、それらの政治的なテーマが内在している。プレスリリースで銘記されている通りで、「耕さずに作物が欲しいのか/雷を鳴らさずに雨が欲しいのか/轟音を鳴らさずに海が欲しいのか」という勇敢なメッセージが織り交ぜられている。しかし、マッカラの本質的な音楽性は、平和や友愛という側面にあり、それらをハワイアン・ミュージックやフォーク・ソングを基調とするスタンダードな響きを持つポピュラーナンバーとして展開される。これらの歌詞を通し、サブテクスト(行間)のリリックが聞こえてきそうだ。混迷をきわめる世界情勢の中で何を重んじるべきか?   それは”もう一度、敵対した人々が手を取り合い、踊ることが出来る”ということなのだ。それは普遍的なメッセージなのであり、パブロ・ピカソが絵画の中に込めたメッセージとまったく同じ内容である。その後、アルバムの音楽は現世的な雰囲気を離れ、やや神秘的な音楽性へと舵を取る。「Tower」のイントロでは、中近東のガムランやインドネシアの音楽のような民族性に少しの親しみを示した後、そのモチーフをベースにしてハイチのアグレッシヴな響きのある民族音楽を展開させる。どこまでもそのリズムは高らかであり、そしてマッカラのボーカルも誇らしげだ。自国の文化を誇るのにどのような遠慮がいるのか。 

 

 「Sun Without the Heat」

 

 

こういった点を踏まえると、驚くほど曲のタイトルと制作者の考えがスムーズに合致していることに気づく。マッカラが伝えたいのは普遍的な愛であり、以外の何物でもない。それは性愛を越えた万物に注がれるべき本質的な光を意味する。これがゆえに、レフ・トルストイは、かつて「光あるうちに光の中を歩め」と言った。「Love We Had」は、ANTI-らしいシンプルなロックンロールナンバーで、世の中に愛を忘れた人々がたくさんいることの証明代わりである。しかし、それでも思い出してみてほしい。愛が存在せずにして何者も存在しえない。そして昨年、マッキンリー・ディクソンが語ったように、どのような人も、愛されているということなのである。それがワールド・ミュージックやサーフミュージックのような楽しげな響きで繰り広げられるとあらば、このトラックに耳を澄まさずにはいられないというのも道理なのである。

 

レイラ・マッカラは、みずからのハイチ出身という出自を踏まえ、歴史的なテーマや真摯なメッセージ性を内在させながらも、どこまでも純粋で親しみやすい音楽を作り出す。そして優れたミュージシャンというのは、自分から与えるということを厭わないものである。ぜひ、目をゆっくりとつぶり、「Giive A Break」に耳を澄ませ、思い出してほしい。自らの心がこの世に蔓延する本質とは対極に位置するーー憎しみ、恨み、悲しみーーこういったものに毒され、美しい心の鏡を曇らせていたということを。そして、じっくり思いを馳せてみてほしい、それとは対極にあるーー愛、安らぎ、優しさーーそういったものも人々の心のどこかに存在するということを。

 

アルバムの最後でも、マッカラの音楽的表現は、どこまでも透徹しており、一貫性があり、何も注文をつける点はない。講釈や評言を付け加えるのが無粋なくらい。「I Want To Believe」は、レイラ・マッカラのチェロの演奏を通じて繰り広げられる「自分を信じることができなくなった人々に捧げられるささやかな応援ソング」だ。この曲は普遍的な音楽の美しさをどこかに留めている。今年のポピュラーミュージックの名盤の登場といっても過言ではないかもしれない。



98/100
 
 

「I Want To Believe」

 



愛には100万通りのアプローチの仕方があり、100万通りの愛の体験の仕方があり、100万通りの愛が私たちの人生の道筋を形作り、私たちがその道筋をどう進むかを選んでいく。


Bnnyのジェシカ・ヴィシウスは、セカンドアルバムで、愛をその多くの目で正面から見つめ、自己認識とユーモアを携え、自分が何を見たかだけでなく、それが何を感じさせたかを描写している。

 

深いロマンチックな愛、息をのむような欲望、寛大な自己愛、その対極にある自己嫌悪、憤り、失望、これらすべてが、Bnnyの啓示的なセカンドアルバム『One Million Love Songs』に登場する。


デビュー作『Everything』は、Visciusのパートナーであるシカゴ出身のミュージシャン、Trey Gruberの死という悲劇に直面して書かれた。生々しく、実直なアルバム、曲はまるで個人的な風土のようにヴィシウスから発散されているようだった。Pitchofork誌は、『エヴリシング』を "隅々まで美しいレコード、心に傷を負った不眠症患者のための慰めの栄養 "と評した。


これらの曲は、そのパワーの一片すらも失ってはいない。アメリカとヨーロッパで毎晩ライブで演奏することで、新たな、そして違った種類の疲れが生まれた。自分の悲しみに常にアクセスするのは難しい。それを共有するのはさらに困難だ。「演奏していて、ワクワクするような曲、ハッピーな気分になれるような曲を作りたかったの」とヴィシウスは言う。「このアルバムは、喪失後の愛、年を重ねること、それから失恋しても楽しもうとすることについて歌っている」


『One Million Love Songs』は、アレンジャー/アーティストとして、ヴィシウスが大きく成長したことを示す、明るく充実した作品となっている。「Good Stuff 」は、エコー・アンド・ザ・バニーメンを思わせるソフトなスローコアとして始まる。この曲が目覚めるにつれ、ヴィシウスは90年代の陽気なコードと気楽な魅力を表現するにいたる。彼女の歌声はふくよかで豊かで、このセリフが意味する目眩と、その目眩がいかに愚かなものかという自覚の両方がある。


「Something Blue」は、立ち上がり、ため息をつき、緊張の中で静止する。「Changes」では、シーツを物干し竿にかけるように、シンプルな歌詞を素直なメロディーに乗せ、マジー・スターをチャネリングし、新しい人とすべてを始められることに気づいたときの、柔らかく、ゴワゴワした、新鮮な感覚を模倣している。「叫びたいくらい幸せ」と彼女は歌い、そして叫ぶのだ。


しかし、人間の感情が一辺倒なことはない。その人の中にさまざまな感覚がつねに捉え難く渦巻いているのだ。そして、どのような悲しみのなかにも喜びはある。「失恋も、物事を整理して、人生がいかに不条理で儚いものかを考えれば、楽しいものなのです」とヴィシウスは言う。


『ワン・ミリオン・ラヴ・ソングス』は、深い内省と彼女自身の自己破壊的傾向との格闘を促した別れをきっかけに書かれた。収録曲の多くは、愛が終わることを自然な出来事として受け入れている。「クレイジー・ベイビー」では、ヴィシウスはラブソングへのアプローチをこう語っている。


「愛の最初の瞬間の青々とした芽を捉えようとする試みは、同時に、その木が枯れ朽ちていくことも内包していることを示唆している。「”Sweet "は自己嫌悪に満ちており、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの3枚目のレコードのような、ほとんどブルージーな嘆きそのものである。"私はとても甘い "と彼女は歌い、その声は皮肉で毒々しく、"私を知りたくないの?"と歌う。


『One Million Love Songs』は、アッシュヴィルのドロップ・オブ・サンでレコーディングされ、アレックス・ファーラー(Wednesday、Indigo De Souza、Snail Mailの作品を手掛けた)と共にヴィシウスがプロデュースした。


ジャケットは、アレクサがアラスカでバックパック中にジェスを撮った写真。曖昧なイメージで、ヴィシウスがリラックスしてくつろいでいるようにも読め、完全に疲れ切って消耗しているようにも読める。このイメージは、ラブソングそのものと同じように、時を超越して存在する。


人生というのは水の流れにも喩えられる。私たちは常に、互いに惹かれたり離れたりするものなのであり、その動きは何百万、何千万もの複雑さを伴う。すべては過ぎ去ることを思い出しつつ、すべてを受け入れる。アルバムでヴィシウスが最後に歌う言葉が、"もう誰も私を愛してくれない "というのは示唆的である。それが完全に自由に聞こえることも、同様に示唆的である。



Bnny  『One Million Love Songs』‐ Fire Talk




ある作品を契機に、まったく別の人間が作ったかのようなレコードを制作するアーティストやバンドがいる。それは、人間的な成長がその音楽に乗り移ったとも解釈できるし、何かの出来事が、その人や音楽を変えたとも捉えられる。結果として現れるもの、その途中にある過程ですらも千差万別なので、これといった類型に置くことは難しい。どのような形でターニングポイントが到来するのかは分からない。方程式を作ることも不可能である。どこから、どのように、どのようなものがやってくるかは誰にも分からないのだ。でも、少なくとも、今回、シカゴから登場するジェシカ・ヴィシウスによるプロジェクト、Bnnyの最新作はそういった表現が相応しい。つまり、バントメイトの死の悲しみを糧にし、着実にアーティストは成長しているのである。


Bnnyの場合は、バンドメイトの死という内在的なテーマがある。同じようなレコードとしてシカゴのSmutの「How The Light Felt」やSay Sue Meの『The Last Thing Left』などがある。前者のアルバムはボーカリストが妹の死をテーマに取り上げており、それをほろ苦いインディーロックソングに昇華させた。しかし、いずれのレコードとも、一般的には暗いとされている敬遠されがちな出来事がテーマに置かれているのに、リスナーとしては癒やされる瞬間がある。そしてもちろん、それらの暗さの中には、不思議なほど明るく純粋なものが潜んでいたのだ。人は手軽に明るいものに手を伸ばすが、明るさにたどり着くためには、みずからの「最も暗い部分」に目を凝らさねばならない。つまり、暗さを、みずからの明るさによって照らし出すことに尽きるのである。軽やかさというのは暗いものを経た後に訪れる清々しさでもあるのだ。

 

『One Million Love Songs』は、まさに最も暗い部分を勇敢に凝視した結果として表れ出た産物だ。ジェスの掲げるテーマには、複雑な愛、傷つき、脱力、切なさ、暗さ、そういった数々の経験を経た後、アルバムジャケットに描かれるような清々しい開けた場所にたどり着いたことを表している。しかし、それは、身の回りにまとっていた、それまでの固定観念を脱ぎ捨なければならなかったことが暗に示されている。つまり、アルバムのジャケットは、LZの『House Of The Holy』の単なるオマージュでもなければ、セクシャルな意味が込められているわけでもない。

 

音楽が、そのデザインを何よりも深く表しているのは事実だが、形而下にある内的な深層心理が重要なメタファーとして機能しているのである。ためしに、アルバムを聴く前と聞いた後、アートワークを見比べてみてほしい。その印象がガラリと変化していることに気がつくはずなのである。



アルバムの構造としても、従来にはあまりなかったような独特な収録方法が採用されており、最後に収録されるはずのエンディング曲が、最初のオープニング(一曲目)に収録されている。つまり、クライマックスやエンディングとして機能するはずの曲が最初に収められていることにより、二度目に聴いたとき、まったく異なる意味合いが込められているのに気がつく。そして、楽曲の雰囲気もリスニングの回数ごとに微妙に変化するという奇妙なレコードである。これはつまり、カメレオンの保護色のような意味を持つ、これまで存在しなかった作品なのだ。

 

Bnnyの音楽は、基本的には、同レーベルのPACKSと同じように、オルタナティヴロックに根ざしている。しかし、PACKSの音楽が、どことなく斜に構えたようなものであると仮定づけるなら、Bnnyの場合はどこまでも純粋で直情的である。そしてその純粋さは稀に、傷つきやすさや脆さという側面を持つが、恐ろしいことに、ジェシカ・ヴィシウスは内面の暗さや脆さからまったく逃げないのである。脆弱性の対極にあるタフネス、これが、2ndアルバムの最大の凄みとなっている。オープニングはバーミンガムのデュオ、Broadcastの音楽性を彷彿とさせ、ドリーム・ポップを暗鬱な感覚を擁するオルタナティヴロックのスタイルに落とし込んでいる。

 

Bnnyの場合は、バロックポップやチェンバーポップの要素はほとんどない。Wednesday、Slow Pulp,Squirrel Flower(Ella Williams)といった現代的なオルトロックの文脈の系譜に属する。ただ、上記のバンドのいずれも、内面の痛みや脆さを鋭く直視しながらも、未来へと目が向けられているが、ジェシカ・ヴィシウスの場合は、それとは反対に過去や現在を見つめ、窮地から強引に抜け出そうとはしない。むしろ悲哀や停滞といった避けられがちな状況を受け入れ、それらを考えられる限りにおいて、最も甘く美しいドリーム・ポップソングに落とし込む。

 

オープナー「Missing」は、失われた愛や、この世を去ったバンドメイトの喪失にまつわる悲しみが元になっているが、ヴィシウスはその悲哀をじっくり噛みしめるように歌う。そしてこの脆弱性の対極にある”勇ましさ”が甘さを持つメロディー、ウィスパーボイスに近い抽象的な歌唱のニュアンスにより、深い共鳴をもたらす。それはペーソスの向こうにあるエンパシーである。そして、そのエンパシーを噛み締めた時、ほとんど涙ぐむような温かい感情性が滲む。

 

以後、アルバムは、深刻さと柔和さの中間を絶えずゆらめきながら、アンビバレントな音楽の世界を構築していく。「Good Stuff」は、ドリーム・ポップ風のイントロから、アンニュイな感覚のあるオルトロックソングに移行する。曲そのものは、上記に挙げたWednesdayや、Phoebe Goを始めとするベッドルームポップに近い軽やかなロックソングへと変遷していく。しかし、親しみやすい音楽性の中を揺らめくヴィシウスの声は、どこまでも切ない感覚に縁取られている。この曲にはポップネスに対する親しみもあるが、同時にナードなものに対する理解もある。そのどちらとも決めつけがたい曖昧でナイーブな感覚がシューゲイズ風の轟音の中に溶け込む。 

 

「Missing」 

 

 

序盤ではドリーム・ポップ/シューゲイズ風の音楽性が特徴となっているが、本作の魅力はロック性だけにとどまらない。続く「Crazy, Baby」は、オルト・フォークからの影響が反映され、エイドリアン・レンカーやビックシーフのように、ニューヨークのインディーフォークを参考にして、安らいだ感覚を持つポップソングに昇華させる。アメリカーナを織り交ぜたオルト・ロックという点では、Slow Pulpの音楽的な方向性や、バンドのボーカリストのエミリー・マッシーの声に近く、エモーショナルな感覚が漂う。加えて、グランジのような静と動を織り交ぜるという点では、Snail Mail、Soccer Mommyとも共通する何かが込められている。いわば、現代的なUSロックの系譜に属するナンバーとして、この曲を楽しむことができる。

 

過去の悲しみと葬り去られた愛、ヴィスシウスにとって、以前はそれは報われぬものという考えがあったかもしれない。けれども、悲しみや憂い、やるせないような切なさ、それらの複雑な気持ちが、どこかの地点で、全く別様に変化することがある。「Something Blue」は、再生であり、バンドメイトの死により失われたと思われた愛という感覚が、最も死の根源にちかづいた時、それまで思いもよらなかったような形で再生がなされることを意味している。音楽としては、深刻さとユニークな感覚が混在し、それらがコーラスワークにより強調される。曲の中盤では、シューゲイズに近い轟音性により、それらの微妙な感覚が引き上げられる。その次には、驚くべきことに、序盤での憂いや悲しみがそれとは対極にある喜びや楽しみに代わる。

 

Bnnyの音楽は、その後、パンクに近いアプローチを取る場合もある。「Something Blue」はニューヨークのプロトパンクの基礎を形成した、Television、Patti Smithのようにインテリジェンスを擁するインディーロックの形で再現される。しかし、比較的クラシカルな音楽性を選ぼうとも、Bnnyの音楽は、現代的なオルトロックに焦点が絞られているため、それほど古びた感覚をもたらすことはない。ボーカルは、心なしかグランジのような暗鬱さが主な印象を形作り、曲の終盤では、ほとんど内面の痛みや悲しみをありのまま吐露するかのような激しさを増していく。しかし、それはヘヴィ・ロックやメタルとは異なる”内面に響き渡る轟音”なのである。暗鬱でダウナーな感覚は一転し、続く「Sweet」で、アルバムジャケットに描かれるような開放的な感覚に変化する。それらはバディー・ホリーのような古典的なロックのスケールをもとにし、サーフロックやドゥワップのような米国の古典的なロックのスタイルへと接近する。

 

「アメリカーナ」は今、米国のシンガーが注目しているジャンルで、以降、「ポスト・アメリカーナ」とも称すべきジャンルも生まれそうな気配もある。少なくとも、このアルバムでは、オルトロックとの融合という簡素な形で表される。スティールギターを用いるのは一般的であるが、「Nothing Like」ではPavementのような浮遊感のある心地よいインディーロックソングが繰り広げられる。そして、エレクトリック・ギターの使用が多い序盤から中盤にかけての収録曲の中で、この曲ではアコースティックギターが登場し、緩やかな牧歌的なオルトフォークの世界観を形作る。深刻さとそれとは対極にある和らいだ感覚が交差するような感覚がある。

 

 

ロック、フォーク、また、それとは別にオルタナティヴな音楽性が目立つ中、シンプルで親しみやすいバラード・ソングも収録されている。「Rainbow」は、チューブアンプを通し、プリミティヴなギターがイントロで、スロウコアというフィルターを通して立ち上がる。それは遠方に揺らめく蜃気楼、もしくは、遠い日の夏の入道雲さながらに、ロックサウンドの向こうに立ち上り、ジェシカ・ヴィシウスはその蜃気楼にむけ、甘い歌をうたうのである。どことなくその音楽性の中には、ディラン、ヤングのようなフォークへの親しみが込められている。これらは古典的なものと現代的なものの間を微妙に揺らめきながら、感覚的な音楽がアウトプットされる。

 

中盤では比較的安らぎと柔和さが目立つが、いよいよアルバムの終盤にむけてロック的な性質を持つ楽曲が少しずつその激烈さを増す。

 

コクトー・ツインズやブロードキャストの系譜にある、いわゆる甘美的でどこまでも純粋にみずからの内的な世界に浸りきるかのような陶酔的な”ドリームポップ・ワールド”は、ニューヨークの”Asobi Seksu”のような叙情的なニュアンスを保ちながら、徐々にエクストリームな表現へ接近していく。クライマックスの始まりとなるのが「Chandes」であり、ドリーム・ポップとアメリカーナの合間にあるスイートな感覚を保ちながら、徐々に感情が引き上げられる。

 

曲の終盤では”メタリカ”のようにいくつかの季節が一巡りし、何かが変わったとが暗示される。続く「Get It Right」は前曲の流れを受け継ぎ、ポスト・ロック的な音楽性を織り交ぜ、劇的なドリームポップ・ワールドを構築していく。ジェシカ・ヴィスシウスのボーカルが、なだらかなメロディーの曲線を描きながら、背後のドラムとギターの轟音を支えにしながら、このアルバムで最もドラマティックな瞬間を迎える時、アルバムの最初の悲しみは、すでにどこかに消えさってしまったのだ。いわば、アーティストが悲しみの理由を突き止め、それを消化し、今から次なる瞬間へ、そして闇の向こうにある光が差す方に歩き始めたことを暗示している。

 

アルバムのクローズ「No One」は、エイドリアン・レンカーが手遊びで作ったデモトラックのような親しみやすさがある。(もちろん、そんな音源が存在するのかは分からない) 「No One」では、誰からも愛されぬことの嘆きが歌われているが、The Velvet Undergroungのセルフタイトルアルバムのように”ララバイ”に比する意味が込められている。それは、かつてのVUの「After Hours」のように”悲しみに対する受容”の意味合いが含まれている。悲しみが受容という段階を経たあと、ようやく人は次のステップへと歩き出せる。アルバムの最後のイメージは、驚くほどクリアで、さっぱりしている。後味をまったくのこさないで、音楽や録音の制作現場から軽やかに離れていること。これこそ、One Million Love Songs'の最大の醍醐味なのだ。しかし、それらの表現がものすごくシンプルなので、かえって琴線に深く響くものがある。

 

 

88/100



Weekend Track 「Get It Right」




Bnnyによる新作アルバム『One Million Love Songs』はFire Talkより本日(4/5)に発売。



先週のWMFはSAYA GRAY『QWENTY Ⅱ』。レビューはこちらからお読み下さい。

Weekly Music Feature

 

Saya Gray:


 

昨年、Dirty Hitからアルバム『QWERTY』をリリースしたSaya Gray(サヤ・グレー)はトロント生まれ。


グレイは、アレサ・フランクリン、エラ・フィッツジェラルドとも共演してきたカナダ人のトランペット奏者/作曲家/エンジニアのチャーリー・グレイを父に持ち、カナダの音楽学校「Discovery Through the Arts」を設立したマドカ・ムラタを母にもつ音楽一家に育つ。幼い頃から兄のルシアン・グレイとさまざまな楽器を習得した。グレーは10代の頃にバンド活動を始め、ジャマイカのペンテコステ教会でセッションに明け暮れた。その後、ベーシストとして世界中をツアーで回るようになり、ダニエル・シーザーやウィロー・スミスの音楽監督も務めている。


サヤ・グレーの母親は浜松出身の日本人。父はスコットランド系のカナダ人である。典型的な日本人家庭で育ったというシンガーは日本のポップスの影響を受けており、それは前作『19 Masters』でひとまず完成を見た。

 

デビュー当時の音楽性に関しては、「グランジーなベッドルームポップ」とも称されていたが、二作目となる『QWENTY』では無数の実験音楽の要素がポピュラー・ミュージック下に置かれている。ラップ/ネオソウルのブレイクビーツの手法、ミュージック・コンクレートの影響を交え、エクスペリメンタルポップの領域に歩みを進め、モダンクラシカル/コンテンポラリークラシカルの音楽性も付加されている。かと思えば、その後、Aphex Twin/Squarepusherの作風に象徴づけられる細分化されたドラムンベース/ドリルンベースのビートが反映される場合もある。それはCharli XCXを始めとする現代のポピュラリティの継承の意図も込められているように思える。

 

曲の中で音楽性そのものが落ち着きなく変化していく点については、海外のメディアからも高評価を受けたハイパーポップの新星、Yves Tumorの1stアルバムの作風を彷彿とさせるものがある。サヤ・グレイの音楽はジャンルの規定を拒絶するかのようであり、『Qwenty』のクローズ「Or Furikake」ではメタル/ノイズの要素を込めたハイパーポップに転じている。また作風に関しては、極めて広範なジャンルを擁する実験的な作風が主体となっている。一般受けはしないかもしれないが、ポピュラーミュージックシーンに新風を巻き起こしそうなシンガーソングライターである。

 

 

『Qwenty II』- Dirty Hit


Saya Grayは、Dirty Hitの新しい看板アーティストと見ても違和感がない。同レーベルからリリースされた前作『Qwenty』では、ドラムンベースのフューチャリズムの一貫であるドリルンベース等の音楽性を元にし、エクスペリメンタル・ポップの未来形であるハイパーポップのアプローチが敷かれていた。グレイの音楽は、単なるクロスオーバーという言葉では言い表せないものがある。それは文化性と民族性の混交、その中にディアスポラの概念を散りばめ、先鋭的な音楽性を組み上げる。ディアスポラといえば同レーベルのサワヤマが真っ先に思い浮かぶが、女性蔑視的な業界の気風が是正されないかぎり、しばらく新譜のリリースは見込めないとのこと。

 

おそらく、サヤ・グレイにとって、ロック、ネオソウル、ドラムンベース、そしてハイパーポップ等の音楽用語、それらのジャンルの呼称は、ほとんど意味をなさないように感じられる。グレイにとっての音楽とは、ひとつのイデアを作り出す概念の根幹なのであり、そのアウトプット方法は音楽というある種の言語を通じて繰り広げられる「アートパフォーマンス」の一貫である。また、クロスオーバーという概念を軽々と超越した多数のジャンルの「ハイブリッド」の形式は、アーティストの音楽的なアイコンの重要な根幹を担っている。連作のような意味を持つ『Ⅱ』は、前作をさらにエグく発展させたもので、呆れるほど多彩な音楽的なアプローチ、ブレイクビーツの先を行く「Future Beats(フューチャー・ビーツ)」とも称すべき革新性、そしてアーティストの重要なアイデンティティをなす日本的なカルチャーが取り入れられている。

 

 『Qwenty Ⅱ』は単なるレコーディングを商品化するという目的ではなく、スタジオを舞台にロック・オペラが繰り広げられるようなユニークさがある。一般的に、多くのアーティストやバンドは、レコーディングスタジオで、より良い録音をしようと試みるが、サヤ・グレイはそもそも録音というフィールドを踏み台にして、アーティストが独壇場の一人の独創的なオペラを組み上げる。

 

心浮き立つようなエンターテイメント性は、もうすでにオープニングを飾る「You, A Fool」の中に見出せる。イントロのハイハットの導入で「何が始まるのか?」と期待させると、キング・クリムゾンやRUSHの系譜にある古典的なプログレッシヴ・ロックがきわめてロック的な文脈を元に構築される。トラックに録音されるボーカルについても、真面目なのか、ふざけているのか分からない感じでリリックが紡がれる。このオープニングは息もつかせぬ展開があるとともに瞬間ごとに映像のシーンが切り替わるような感じで、音楽が変化していく。その中に、英語や日本のサブカルの「電波系」のサンプリングを散りばめ、カオティックな展開を増幅させる。

 

そのカオティックな展開の中に、さりげなくUFOのマイケル・シェンカーのようなハードロックに依拠した古臭いギターリフをテクニカルに織り交ぜ、聞き手を呆然とさせるのだ。展開はあるようでいて存在しない。ギターのリフが反復されたかと思えば、日本のアニメカルチャーのサンプリング、古典的なゴスペルやソウルのサンプリングがブレイクビーツのように織り交ぜつつ、トリッピーな展開を形作る。つまり、聞き手の興味がある一点に惹きつけられると、すぐさまそこから離れ、次の構造へと移行していく。まるで''Catch Me If You Can''とでもいうかのように、聞き手がある場所に手を伸ばそうとすると、サヤ・グレイはすでにそこにはいないのだ。

 

続く「2 2 Bootleg」はグレイの代名詞的なトラックで、イギリスのベースメントのクラブ・ミュージックのビートを元にして、アヴァン・ポップとネオソウルの中間にあるポイントを探る。ノイズ性が含まれているという点では、ハイパーポップの範疇にあるが、その中に部分的にドリルンベースの要素を元にノイズを織り交ぜる。例えば、フォーク音楽の中にドリルの要素を織り交ぜるという手法は、カナダというより、ロンドンのポップスやネオソウルの中に頻繁に見出される。グレイの場合は、pinkpantheressのように扇動的なエナジーを込めて展開させていく。このトラックには、クラブ・ミュージックの熱狂性、ロックソングの狂乱、ヒップホップのフロウの節回し、そういった多数のマテリアルが渾然一体となり、旧来にはないハイブリッド音楽が組み上げられていく。唖然とするのは、曲の中盤では、フォーク音楽とIDMの融合であるフォークトロニカまでを網羅している。しかし、このアルバムの最大の魅力は、マッドな質感を狙いながら「聞きやすさ」に焦点が置かれていること。つまり、複雑な要素が織り交ぜられた先鋭的なアプローチであるものの、曲そのものは親しみやすいポップスの範疇に収められている。

 

しかし、解釈の仕方によっては、メインストリームの対蹠地に位置するアウトサイダー的なソングライティングといえ、発揮される才覚に関しては、それと正反対に一つの枠組から逸脱している。矛盾撞着のようではあるが、グレイの音楽というのは、一般的なものと前衛的なもの、あるいは、王道と亜流がたえず混在する、不可解な空間をうごめくアブストラクト・ポップなのだ。これは、グレイがきわめて日本的な家庭で育ったという背景に要因があるかもしれない。つまり、日本の家庭に見受けられるような、きわめて保守的な気風の中で精神性が育まれたことへの反動や反骨、あるいは徹底したアンチの姿勢がこの音楽の中に強かに含まれているのだ。

 

 

 

 

何らかの概念に対するアンチであるという姿勢、外的なものに対して自主性があるということ。これは政治的なものや社会気風に対する子供だましの反駁よりも遥かにパンクであることを意味する。


音楽的には、その限りではないが、上述のパンクの気風はその後の収録曲においても、何らかの掴みをもたらし、音響的なものとは異なる「ヘヴィネス」の概念を体現する。そしてサヤ・グレイは、音楽そのものの多くが記号学のように聞かれているのではないかと思わせる考えを提示している。

 

例えば、K-Popならば、「K-Pop」、J-Popであれば、「J-Pop」、または、ロンドンのロックバンド、1975の音楽であれば「1975の音楽」というように、世界のリスナーの9割が音楽をある種の「記号」のように捉え、流れてくる音に脊髄反射を示すしかなく、それ以上の何かを掴むことが困難であることを暗示している。「A A BOUQUET FOR YOUR 180 FACE」は、そういった風潮を逆手に取って、アーバンフラメンコの音楽性をベースに、その基底にグリッチ・テクノの要素を散りばめ、それらの記号をあえて示し、標準化や一般化から抜け出す方法を示唆している。アーバンフラメンコのスパニッシュの気風を散りばめたチルアウト風の耳障りの良いポップとして昇華されているこの曲は、脊髄反射のようなありきたりのリスニングからの脱却や退避を意味し、流れてくる音楽の「核心」を捉えるための重要な手がかりを形成するのである。

 

二曲目で示されたワールド・ミュージックの要素は、その後の「DIPAD33/WIDFU」にも含まれている。ヨット・ロックやチル・アウトの曲風の中で、グレイはセンスよくブラジル音楽の要素を散りばめ、心地よいリスニング空間を提供する。 そしてボーカルのジェイムス・ブレイクの系譜にある現代的なネオソウルの作風を意識しながら、Sampha、Jayda Gのようなイギリスの最新鋭のヒップホップとモダンソウルのアーティストの起伏に富んだダイナミックな曲展開を踏襲し、ベースラインやギターノイズ、シンセの装飾的なフレーズ、抽象的なコーラス、スポークンワードのサンプル、メロウな雰囲気を持つエレピというように、あらゆる手法を駆使し、ダイナミックなポップネスを構築していく。メインストリームの範疇にあるトラックではあるものの、その中にはアーティスト特有のペーソスがさりげなく散りばめられている。これらの両極端のアンビヴァレンスな要素は、この曲をリスニングする時の最大の醍醐味ともなりえる。

 

 

例えば、Ninja TuneのJayda Gが前作で示したようなスポークンワードを用いたストリーテリングの要素、あるいはヒップホップのナラティヴな要素は続く「! EDIBLE THONG」のイントロのサンプリングの形で導入される。


前曲と同じように、この曲は、現在のロンドンで盛んなネオソウルの範疇にあり、Samphaのような抽象的なアンビエントに近い音像を用い、渋いトラックとして昇華している。アルバムの中では、最も美麗な瞬間が出現し、ピアノやディレイを掛けたアコースティックギターをサンプリングの一貫の要素として解釈することで生み出される。これらは例えば、WILCOとケイト・ルボンとの共同作業で生み出された、Bon Iverの次世代のレコーディングの手法であるミュージックコンクレートやカットアップ・コラージュのような前衛的な手法の系譜に位置づけられる。

 

他にも、続く「! MAVIS BEACON」ではアヴァン・ポップ(アヴァンギャルド・ポップ)の元祖であるBjorkの『Debut』で示されたハープのグリッサンドを駆使し、それらをジャズ的なニュアンスを通じてネオソウルやクラブ・ミュージック(EDM)の一貫であるポップスとして昇華している。 


しかし、アルバムの中盤の収録曲を通じて示されるのは、クールダウンのためのクラブ・ミュージックである。たとえば、クラブフロアのチルアウトのような音楽が流れる屋外のスペースでよく聞かれるようなリラックスしたEDMは、このトラックにおいてはブリストルのトリップホップのようなアンニュイな感覚と掛け合わさり、特異な作風が生み出される。ボコーダーを用いたシーランのような録音、そして、それは続いて、AIの影響を込めた現代テクノロジーにおけるポピュラー音楽の新たな解釈という異なる意味に変化し、最終的には、 Roisin Murphy、Avalon Emersonを始めとするDJやクラブフロアにゆかりを持つアーティストのアヴァンポップの音楽性の次なる可能性が示されたとも見ることが出来る。そして実際的に、先鋭的なものが示されつつも、一貫して曲の中ではポピュラリティが重点に置かれていることも注目に値する。

 

最も驚いたのはクローズ「RRRate MY KAWAII CAKE」である。サヤ・グレイはブラジルのサンバをアヴァン・ポップの切り口から解釈し、ユニークな曲風に変化させている。そして伝統性や革新性の双方をセンスよく捉え、それらを刺激的なトラックとしてアウトプットさせている。 ジャズ、和風の音階進行、ミニマリズム、ヒップホップ、ブレイクビーツ、ダブ、ネオソウル、グレイ特有の独特な跳ね上がるボーカルのフレージング、これらすべてが渾然一体となり、音楽による特異な音響構造を作り上げ、メインストリームにいる他のアーティストを圧倒する。全面的に迸るような才覚、押さえつけがたいほどの熱量が、クローズには立ち込め、それはまたソロアーティストとして備わるべき性質のすべてを持ち合わせていることを表している。

 

このアルバムでは、ポップスの前衛性や革新性が示され、音楽の持つ本当の面白さが体験出来る。アルバムのリスニングは、富士急ハイランドのスリリングなアトラクションのようなエンターテイメントの悦楽がある。つまり、音楽の理想的なリスニングとは、受動的なものではなく、ライブのように、どこまでも純粋な能動的体験であるべきなのである。無論、惜しくもCHAIが示しきれなかった「KAWAII」という概念は、実は本作の方がはるかにリアリティーがあるのだ。

 

*Danny Brownの『Quaranta』と同じようにクローズのアウトロがオープナーの導入部となっており、実はこのアルバムは円環構造となっている。

 

 



90/100

 

 

「RRRate MY KAWAII CAKE」

 

 

 

Weekly Music Feature   
 
 Adrianne Lenker  


 

エイドリアン・レンカー(アドリアーヌ)はビックシーフの活動と併行するようにして、2014年頃からソロ活動を行ってきた。当時は、4ADではなくSaddle Creekに所属し、バークリー音楽院の同窓で音楽的な盟友とも言えるバンドのバック・ミークとの共同リリースを行ってきた経緯がある。当時はマニアックなリリースが多く、ソングライティングの特徴としては、ドリーム・ポップに近い夢想的な感覚があった。近年、ビックシーフの活動が軌道に乗るにつれ、ニューヨークのモダンなフォークバンドのギタリスト/ボーカリストとしてのイメージが定着したのだった。近年では、日本のコアな音楽ファンで、ビックシーフの名を知らぬ人はほとんどいない。

 

昨年、盟友であるバック・ミークがアメリカーナ/フォークの快作をリリースしているが、少し遅れてエイドリアンも新作アルバムのリリースにこぎ着けることになった。しかし、アーティストが指摘している通り、これは本質的にビックシーフの延長線上、ないしはサイドラインにある活動に位置するわけで、バンドの停滞を意味するものではない、ということは事実なのである。またビックシーフに戻れば、前作とは一味異なる音楽が制作されることが期待出来るはず。

 

NYTの特集記事でも説明していた通り、アーティストは基本的に制作時に、携帯電話やデジタルデバイスから明確に距離を置いている。また、レンカーが振り返る通り、「このアルバムの制作に参加したミュージシャンにもほとんど携帯電話をいじっている人は見当たらなかった」という。つまり、音楽制作から気を散じさせるものが良いアルバムを作るための弊害や障壁となり得ることは、本作を聴くと瞭然である。当然のことながら、SNSでエゴサーチをしていても良い結果が出ることは少ない。これはケンドリック・ラマーが最新作でも話していたことでもある。

 

「Bright Future」は落ち着きがあり、喧噪からかなり遠いところで音楽が鳴り響いている、そしてアーティストや参加ミュージシャンの感覚は研ぎ澄まされており、精妙な感覚に縁取られている。戦後間もない頃のフォーク・ミュージックからコンテンポラリー、そして70年代のポップス、さらにはモダンクラシカルの範疇にあるピアノ曲まで広汎な音楽性をレンカーは踏襲している。例外的にエレクトロニカの方向性を選んだ曲もあるが、古典的なものから現代的なものまでを網羅しているだけでなく、それらをどこまでシンプルに磨き上げられるかという意図が込められている。なおかつそれは自伝的なモンタージュの技法でソングライティングが行われる。

 

レンカーは自宅を博物館のように変え、友人をそこに招いた。ダンボールで恐竜を作り、彼女の妹とメールでのメッセージをやりとりするためのメールボックスを作った。レンカーは、本当の家をつくろうとしたのだろうか。少なくとも、そういったファンタジックな世界観はこのアルバムのどこかで通奏低音のように響いている。「Real House」というものがなんなのか具体的にレンカーは知らないという。それでも彼女はそれがなんなのかをなんとなく分かっているのだ。

 

ニック・ハキムが演奏するアンティーク風のピアノの演奏に合わせ、ゴスペルの系譜にあるバラードをレンカーは歌う。そしてレンカーは、「わたしは、星が涼しい風で、夜の顔に涙のように輝く黒い空間の快活さにハミングをする子ども」と実際にうたいながらトム・ウェイツのファースト・アルバムのバラードのような孤独(独立した精神を孤独といい、かけ離れたことを孤独とは呼ばない)と連帯(独立した複数の精神が合一することを言う)の合間にある淡い感情を歌う。

 

アルバムの冒頭はどことなく夢想的な雰囲気に充ちている。しかし、それは確かに2014年頃の夢想的な雰囲気に基軸を置きつつも、その質感やアウトプットされるものはまったく違うものであることがわかる。地に足がついていて、そしてその地盤をしっかり踏みしめ、そしてその中に夢想的な感覚を織り交ぜる。”下を見ながら上を見る”、そんな表現が当てはまるほど、敬虔な音楽に対する思い、そして、みずからの生活に対する親しみや充実が感じられるのである。その後、アルバムはカントリーの古典へと繋がり、ハンク・ウィリアムズの時代へと立ち返る。2曲目「Sadness A Gift」はカントリー/フォーク歌手の望郷の思いを歌うという原点のスタイルを忠実になぞらえ、それを現代的な感性によって紡いでいる。ジョセフィン・ランスティーンのバイオリンの音色はケルティック民謡で使用されるフィドルのような開放的な響きを生み出し、この音楽の持つ原初的な爽快感や開けたイメージをはっきりと呼び起こす力がある。

 

 

「Fool」



 


先行シングル「Fool」はアルバムのプロデューサーが話していた通り、「音が喜びにあふれている」素晴らしいナンバーである。北欧のmumのエレクトロニカフォークトロニカの幻想性とミニマリズムのフォーク、そして電子音楽のマテリアルを組み合わせ、レンカーのバンドプロジェクト、ビックシーフに近い音楽性を追求している。レンカーは叙事詩とはいいがたいものの、アルバムの中に、「自伝的なモンタージュが表現されている」と言う。それはもしかすると、現在の自分から見た子供の頃の庭での遊びなのかもしれない。また、もしかすると、自然の中に、ユニークな小屋のようなものを作ったり、木の枝を持って自然の中を探索したり、その向こうに広がる無限の空や、その下にある雲を追いかけていた時代のことなのかもしれない。子供時代への回想、もしくは幻想は、本作の音楽の重要な起点となり、それらが現在のアーティストが持つフォークのコンセプトにより、面白いように遊びのある音楽的な空間を作り出す。


「No Machine」を聴いていると、NYTの記事のアーティストが木にぶら下がる姿が目の裏に浮かんでくる。フィンガーピックを用いた、しなやかで流れるようにスムーズなアルペジオのアコースティックギターの演奏を元にした古典的なフォーク音楽のアプローチを選んでいる。ギターはレンカーとマット・デイヴィッドソンの二人が演奏している。この曲の音楽には、サウンドスケープを呼び覚ますイメージの換気力がある。昨年、ジェス・ウィリアムソン(Jess Willamson)が指摘していた通り、フォーク/カントリーの原初的な音楽がトニカ、Ⅳ、Ⅴしか使用されないという基礎的なスケールを踏襲し、それらを草原の上を流れる風のような快活な音楽へと昇華させる。同じように、アルバム発売前に配信された「Free Treasure」では、古典的なフォーク音楽が続くが、ここでは、感覚的なルーツを辿ろうとしている。それはレンカーが幼い時代に母と遊んでいた時代の郷愁であり、普遍的な愛情という温かみのある感覚に支えられている。それは何も特別なものではなかったかもしれない。ちょっとした仕草、太陽の逆光を受けての母親の微笑み、そういった記憶のどこかにある慈しみがこの音楽に描写されている。

 

アルバムの中盤では、実験的な音楽の試みが取り入れられている。「Vampire Empire」はビックシーフの曲としてもリリースされているが、タップダンスのユニークなリズムと取り入れ、よりプリミティブな質感を持つアコースティックギターと掛け合わせ、ダンスのためのフォーク/カントリーを演出する。それは寂れたスペースに、にぎやかなマーチング・バンドがやってきて演奏するようなエンターテインメント性がある。この曲でレンカーはジョニー・キャッシュのようなワイルドなボーカルのスタイルを継承し、それらを軽快なムードとステップを持つフォーク音楽へと昇華させている。アナログ風の録音の音響効果を用い、ときにアンセミックなフレーズを織り交ぜる。アコースティックギターとボーカルの合間に取り入れられるジョセフィン・ランスティーンのバイオリンは、「Sadness As A Gift」と同じようにフィドルの織りなすセルティック民謡のような効果を及ぼす。これは原初的なアパラチアンフォーク等が英国やスコットランド/アイルランド圏からの移民によってもたらされたものであることを思い起こさせる。

 

これまでのエイドリアン・レンカーの楽曲は、基本的にはアメリカーナの範疇にあるものがほとんどだったが、今回のアルバムではモダンクラシカルの楽曲「Evol」が重要なポイントを形成している。ニック・ハキムのピアノの演奏はアルバムの中盤に、陰影や黄昏の瞬間を生み出し、それと呼応するように、レンカーはセンチメンタルなボーカルを披露する。 この曲はアルバムにバリエーションを及ぼし、カントリー/フォークとは別のクラシックの要素をもたらす。この曲が中盤の終わりに収録されていることが、終盤に向けての重要な導入部ともなっている。

 

その後、奥深いカントリー/フォークの世界を提示される。「Candleframe」はアーティストの繊細な感覚とロマンチシズムが小屋の中でゆらめく灯心の影のようにちらつき、親しみやすく落ち着いたディランやミッチェルのようなコンテンポラリーフォークの系譜にあるナンバーとして昇華されている。アコースティックギターの艷やかな響きとピアノの断片的なフレーズに合わせて、フォークバラードの理想的なスタイルを作り出している。その後、「Already Lost」では、バンジョーの演奏を取り入れ、ソロ作ではありながら、輪唱の部分を設けて、バンドアンサンブルのような響きを生み出している。やはりここでも素朴な感覚や自然味が重視されている。

 

アルバムの終盤の2曲は、 序盤から中盤にかけての音楽性を補強するような役割を担っている。「Cellphone Says」においても、心なしかアーティスト自身の回想的なモンタージュが断片的にフォーク・ミュージックの古典的なスタイルを通して描かれ、 「Donut Seam」でもゴスペルとフォークの中間にある音楽性を選び、それらを現代的なニーズに応えるような形で提示している。この2曲でも主張性はそれほど多くないものの、米国の文化の原点を探求するような意図も込められているように感じられる。それは実際的に現代的な価値観とは別の見方や考えがあることをエイドリアン・レンカーは教えてくれる。それはもちろん、癒やしの感覚に繋がる。

 

エイドリアン・レンカーは、アメリカーナの一貫であるカントリー/フォークの古典から、現代的なものに至るまで、米国の文化性や概念をあらためて俯瞰し、シンプルで親しみやすいソングライティングに昇華させる。プロフェッショナルな仕事であり、アルバム全体に斑がなく、12曲をスムーズに聴き通せる。しかし、音楽におけるリーダビリティの高さは、聴き応えという意外な局面をもたらす。『Bright Future』の中には、一度聴いただけでは分からない何かが含まれている。多分それこそがこのアルバムを何度か聞き直したいと思わせる理由なのかもしれない。

 

エイドリアン・レンカーは、ギタリスト/歌手/作詞家として、アルバムの序盤から中盤にかけて本当に素晴らしい実力を示しているが、アルバムのクローズでは、特に歌手として次なるステップに進もうとしていることがわかる。「Ruined」は、アンビエント風のイントロからNilssonの「Without You」を彷彿とさせる美しいバラードへと変遷をたどる。何より、クラシカルなタイプのバラードソングをためらいなく書けるということが、エイドリアン・レンカーの音楽家としての傑出した才能を証左している。ただ、本作だけで、そのすべてが示されたと見るのは少し早計となる。このアルバムでは次なる未知の段階への足がかりが暗示的に示されたに過ぎない。

 

 

 

94/100

 

 


「Ruined」


 

 

 

「Bright Future」



『ブライト・フューチャー』は、レンカーにとって2020年の『ソングス&インストゥルメンタルズ』以来となるアルバムで、フィリップ・ワインローブとの共同プロデュースに加え、ニック・ハキム、マット・デビッドソン、ジョセフィン・ルンステンらが参加している。


先にリリースされたシングル「Ruined」に続く「Sadness As A Gift」は、レンカーが最も親しみやすく温かみのある楽曲で、全く時代を超越しながらも、聴くたびに新鮮な驚きを与えてくれる。エイドリアンヌの生き生きとした声が、彼女の詩を高めている。ギター、ピアノ、ヴァイオリン、そしてすべての声によって完成された輪の中で彼女は歌う。"季節はあっという間に過ぎていく // この季節が続くと思っていたのに // その疑問は大きすぎたのかもしれない"


ブライト・フューチャーでは、フレーズの転回と韻の流れで知られるソングライター、エイドリアン・レンカーが、"You have my heart // I want it back. "とさらりと言う。アナログ的な正確さで記録されたこの作品は、コラボレーションの実験として始まったが、エイドリアン・レンカーのハートが未知の世界へ果敢に挑み、満タンになって戻ってきたことを証明するものとなった。


2022年の秋、ビッグ・シーフのバンド・メンバーは幸運に恵まれた。誰もが来ることができたのだ。私の大好きな人たち」である3人の音楽仲間は、多忙なツアースケジュールの合間を縫って、森に隠されたアナログ・スタジオ、ダブル・インフィニティで彼女に合流した。ハキム、デヴィッドソン、ランスティーンというミュージシャンたちは、エイドリアンヌには知られていたが、お互いに面識はなかった。

 

「結果がどうなるのか、まったく想像もつきませんでした」と彼女は振り返る。「結果は?」と彼女は言う。エイドリアンヌの音楽的リスクは、スタジオのファースト・アルバム『ブライト・フューチャー』となった。


ブライト・フューチャーの共同プロデューサー兼エンジニアのフィリップ・ワインローブがスタジオを準備した。彼はこれまでのソロアルバムでもエイドリアンのパートナーだったが、今回は新しい試みだった。エイドリアンヌはアルバムを作るつもりはなかった。その代わり、何の期待も持たずに曲を探求する。


オープンな結果であっても、フィルは最初から、最も純粋で技術的に正直なセッションを撮りたかった。結果、フィールド・レコーディングの自発的な泳ぎと思慮深いエンジニアリングの最良の資質が備わった。弦楽器の指先、ピアノのフェルトパッド、数歩下がったハーモニーなど、細部までこころゆくまで味わえる。エイドリアンヌの歌がありのままに、無防備に、そして軽やかに響く。

 

 

「Fool - Live (Music Hall of Williamsburg,Brooklyn)」




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BUCK MEEK  『HAUNTED MOUNTAIN』- NEW ALBUM REVIEW


先週のWEFは下記よりお読み下さい:




WEEKLY MUSIC FEATURE - BOECKNER 『BOECKNER!』- SUB POP

Boeckner

ダニエル・ベックナーは、心に溜まった夾雑物を理解し、その散らかったものを突き破って向こう側に潜り込むには''揺るぎない勇気''が必要であることを理解している。そしてボックナーの手にかかれば、その探求はポスト黙示録的なシンセとギターのヒロイズムによってもたらされる。


ウルフ・パレード、ハンサム・ファーズ、ディヴァイン・フィッツ、オペレーターズ、アトラス・ストラテジックとの活動を通して、カナダを代表するインディー・ロッカーは、''希望ほど喜ばしく、印象的で、生成的で、豊かな感情はない''と認識している。しかし、それには自分のやり方から抜け出す必要がある。その深い音楽的参考文献の集大成として、べックナーは自身の名前''ボックナー''で初のアルバムをリリースする。


「自分の中では、いろんな意味でまだバンクーバーでパンク・バンドをやっているつもりなんだ」とべックナーは笑う。「ティーンエイジャーの頃から始まって、僕の音楽人生は自分自身の音楽言語を発展させようとしてきた」


そう。ジャンルの探求がどこへ向かおうとも、パンクやDIYの空間で育ったべックナーには、コラボレーションの濃い血が流れている。『Boeckner!』は、親しみやすい要素の集まりで構成され、若い情熱と発見の同じスリルを引き出す。それは、夢と助手席の特別な誰かに後押しされ、テックノワールの街並みをジェット機で追いかけるようなものだ。


Boecknerは、この融合した言語をド迫力のオープニング・トラックとリード・シングル "Lose "で即座に紹介する。


オペレーターズとの2枚のレコードで培った焦げたスペースエイジのシンセと、ウルフ・パレードの拳を突き上げるようなギターに後押しされ、この曲は新世界へとまっしぐらに突き進む。"今、私は歩く幻影/レーダー基地での夜警 "とボックナーは歌い、まるで希望を失わないために時間との戦いに挑んでいるかのようだ。


その切迫感と情熱は、常にべックナーのトレードマークであり、彼自身のために書くことで、その感情をさらにスコープの中心に押し上げている。しかし、べックナーがこのアルバムの明確な原動力であるとはいえ、ソロ・デビューに協力者がいないわけではない。ニコラス・ケイジ主演のサイケデリック・ホラー映画『マンディ』のサウンドトラックに参加していた時にプロデューサーのランドール・ダンと出会い、べックナーはソロデビューに最適な相手を見つけたと確信した。


「私はずっと彼のファンで、特に彼がプロデュースした”Sunn0)))”のレコードはお気に入りだった。ランダルと仕事をすることで、抑えられていた音楽的衝動が解き放たれたんだ。プライベートでは楽しんでいるけれど、普段は自分がリリースする作品には織り込まないような、オカルト的なシンセや疑似メタル、クラウトロック、ヘヴィ・サイケの影響などだよね」


アルバムのハイライトである "Euphoria "は、オフキルターなダークネスを漂わせ、ヴィブラフォンのダッシュがシンセのうねるような波に翻弄されている。


「もう手遅れだ/時間は加速する/ゆりかごから墓場まで」とボックナーはまるでジギー・スターダストの核廃棄物のように叫び、グリッチしたエレクトロニクスがミックスから滴り落ちる。この曲のパーカッシブなドラムは、パール・ジャムのドラマーとしてだけでなく、ボウイやフィオナ・アップルとの仕事でも知られるマット・チェンバレンによるもので、アルバム全体を通してボックナーの力強いギターを後押ししている。


この強固な基盤のおかげで、ボックナーは感情的なイマジズムと、より地に足のついたストーリーテリングの間を思慮深く織り交ぜることができるようになった。このアルバムを通して、彼のイメージはSFにまで踏み込んでいるが、それは何よりもまず経験によって支えられている。  「初期のウルフ・パレードを除いて、私は常にフィクションの世界に身を置こうとしてきた。その典型例として、"Euphoria "の絶望的な到達点は、すべての行に感じられる」


べックナー、ダン、チェンバレンのトリオは、このアルバムのための一種のダーク・エンジンを形成し、チェンバレンは、各ドラム・トラックと同時にヴィンテージのアープ・シンセサイザーを起動させるという独創的なアプローチで、ボックナーがレコードの雰囲気を形作るのを助けた。その重層的な影が、アコースティック調の靄がかかったような「Dead Tourists」を彩っている。


この曲には、鋼鉄の目をした家畜、教会の教壇に並べられた死体、横転した高級車など、なんとも不気味で悪い予兆が散りばめられている。

 

この緊迫したフューチャリズムは、ダンのCircular Ruinスタジオに滞在していたベックナーの影響によるもので、薄暗いエレクトロニックなオーラが全トラックに歌い込まれている...。彼はよく、寝袋にポップ潜り込んで、シンセ・ラックの下で眠りにつき、小さな天窓からブルックリンの灯りを見上げ、隣でOneohtrix Point Neverの最新作をレコーディングしているダニエル・ロパティンのかすかな音が壁を通して聞こえてくる。


自身のロック・ルーツを掘り下げることに加え、べックナーは個人的なギター・ヒーローの1人を連れてきた。


「ティーンエイジャーの頃、メディシンの完璧なシューゲイザー・ノイズのレコードをカセットテープで輸入していて、ブラッド・ラナーのサンドブラストでチェルノブイリのようなギターが絶対に好きだった」と彼は言う。


べックナーは最初、ブラッド・ラナーが1曲だけ参加してくれることを願って連絡を取ったが、メディシンのギタリストはアルバム全体にギター・レイヤーを加え、ヴォーカル・ハーモニーのアレンジも手伝うことになった。特に「Don't Worry Baby」の呪われた言葉のない合唱は、ラナーのトレードマークであるメディスン・ギターの荒々しさを通してボックナーの作曲を表現している。


「このレコードは自伝のようなもので、アトラス・ストラテジック・ミュージックの具体的なシンセの爆発、オペレーターズの瑞々しいシンセ、ハンサム・ファーズのノイズ・ギター、シュトックハウゼンからトム・ウェイツまで、あらゆるものから同時に影響を受けている」とボックナーは言う。


そして、低音域の「Holy is the Night」でレコードがフェードアウトすると、変異したスカイラインは消え去り、"疫病の後 "の青空に変わる。もはやSF大作ではなく、『Boeckner!』はジョン・カセベテス映画の焼け焦げたVHSコピーのような、ケムトレイルと核の放射性降下物が遠くに消えていくようなものへと変化していく。「朝日が昇るまでに、どれだけの痛みを与えられるだろう、ベイビー/聖なる夜は、平和を手に入れられるだろう」と彼はため息をつく。



この世界は、君と僕が一緒にいることで、どれだけの血を流せるだろう? すべての優れたSFがそうであるように、感情や痛みは作者にとってもリスナーにとっても同様に心に響くものであり、ジャンルは人間的な経験を補強するためにそこで花開く。そして、これまで以上に多くのことを明らかにすることで、ボックナーは音楽的な激しさを予想外のレベルまで高めると同時に、旅の終わりに安らぎを見出したいと願っている。-SUB POP

 

 


Boeckner 『Boeckner!』



カナダのダニエル・ベックナーはウルフ・パレードの活動で知られているが、サブ・ポップからソロデビューを果たす。

 

このアルバムで、ベックナーの名前は一躍コアなロックファンの間で知られることになるかもしれない。ベックナーの音楽はシンセロックの内的な熱狂性、ソフトロック、AOR,ときにはニューロマンティックの70年代のロンドンの音楽を反映させ、それらをシューゲイザー・ノイズによって包み込む。彼の音楽の中には異様な熱狂があるが、ソロ・アルバムでありながらランドール・ダンのプロデュースによりバンドアンサンブルの趣を持つ作品に仕上がった。

 

アルバムには勿体つけたような序章やエンディングは存在しない。一貫してニューウェイブ・パンク、DIYのアプローチが敷かれる。ベックナーにとって脚色や演出は無用で、彼は着の身着のままで、シンセロックの街道を走り始め、驚くべき早さで、アルバムの9曲を走り抜けていく。彼は、いちばん後ろを走りはじめたかと思うと、並のバンドやアーティストを追い抜き、ゴールまで辿り着く。その驚くべき姿勢には世間的に言われるものとは異なる本当のかっこよさがある。

 

ときに、人々は何かをするのには遅すぎると考えたり、周囲にそのことを漏らしたりする。しかしながら、何かの始まりが遅きに失することはないのだ。ダン・ベックナーは私達に教えてくれる。「出発」とは最善の時間に行われ、そしてそれは、何かが熟成したり円熟した時点に訪れる。それまでに多くの人々はなんらかの仕事に磨きをかけたり、みずからの仕事を洗練させる。多くの人は、どこかの時点で諦めてしまう。それは商業的に報われなかったからかもしれない。何らかの外的な環境で、仕事を続けることが難しくなったのかもしれない。それでも、ダニエル・ベックナーは少なくとも、ウルフ・パレードのメンバーとして、音楽的な感性を洗練させながら、ソロデビューの瞬間を今か今かと待ち望みつづけてきた。デビューアルバムというのは、アーティストが何者であるかを示すことが必須となるが、ダン・ベックナーのセルフタイトルの場合、ほとんどそこに躊躇や迷いは存在しない。驚くべきことに、彼は、自分が何をすべきなのかをすべて熟知しているかのように、ポピュラー・ソングを軽やかに歌う。

 

ニューウェイブ風のパルス状のシンセで始めるオープニング「Lose」のベックナーのすべてが示されている。イントロが始まる間もなく、ダン・ベックナーの熱狂的なボーカルが乗せられる。彼の音楽的な熱狂性は、平凡なミュージシャンであれば恥ずかしく思うようなものである。しかし、それは10代の頃、音楽ファンになった頃にすべてのミュージシャンが持っていたものであるはずなのに年を重ねていくごとに、最初の熱狂性を失っていく。本当に熱狂している人など、本当はほとんど存在しないのであり、多くの人は熱狂している”ふり”をしているだけなのだ。

 

外側からの目を気にしはじめ、さまざまな思想と価値観の[正当性]が積み上がっていくごとに、徐々に最初の熱狂は失われていく。しかし、本来、「音を子供のように楽しみ、そしてそれを純粋に表現する」という感覚は誰もが持っていたのに、ある年を境目として、誰一人として、そのことが出来なくなる。それは多くの人が勝利や栄光を得ようと躍起になり、最終的に全てを失うことを示す。デス・オア・グローリー・・・。敗北への恐怖が表現の腐敗へと続いている。

 

ベックナーの音楽が素晴らしいのは、恐怖を吹き飛ばす偉大な力が込められていることなのだ。

 

アルバムのオープナーを飾る「Lose」は、敗北への讃歌であり、負けることを恐れないこと、そして敗北により、勝利への最初の道筋が開かれることを示唆している。ときにベックナーのボーカルやシンセは、外れたり狂うことを恐れない。それは常道やスタンダードから外れるということ。しかし、「正しさ」と呼ばれるものは本当に存在するのか。もしくは、スターダムなるものは存在するのか。誰かが植え付けた、思い違いや誤謬を、それがさもありなんというように誰かが大々的に宣伝したものではないのか。それらの誤謬に誰かがぶら下がり、その旗に付き従うとき、「本来、存在しなかったものがある」ということになる。それがコモンセンス、一般常識のように広まっていく。しかし、考えてみると、そこに真実は存在するのだろうか? 

 

「Lose」

 

 

ダニエル・ベックナーの音楽は、少なくともそれらの常識から開放させてくれる力がある。そして推進力もある。もちろん、独立心もある。「Ghost In The Mirror」は、ドン・ヘンリー、アダムス、スプリングスティーンのようなアメリカンロックとソフト・ロックの中間にある音楽性を爽やかな雰囲気で包み込んだナンバー。80年代のUSロックの色合いを残しつつ、スペーシーなシンセサイザー、パーカッション効果により、スタンダードなロックソングへと昇華している。サビでのアンセミックなフレーズは、ベックナーのソングライティングがスタンダードなものであることを示している。そして鏡の中にいる幽霊を軽やかに笑い飛ばし、それを跡形なく消し去るのだ。「Wrong」はThe Policeの系譜にあるニューウェイブをベースにし、そこにグリッターロックやニューロマンティックの艶気を加えている。ダン・ベックナーのボーカルはやはりスペーシーなシンセに引き立てられるようにして、軽やかに宙を舞い始める。

 

「Don't Worry Baby」は、Animal Collective、LCD Soundsystemを彷彿とさせるシンセロックのアプローチを図っているが、サビでは80’sのNWOHMのメタルバンドに象徴されるスタジアムのアンセムナンバーに様変わりする。曲の中に満ちる奇妙なセンチメンタルな感覚は、Europeの「Final Countdown」のようであり、この時代のヘヴィ・メタルのグリッターロックの華やかさと清涼感のあるイメージと合致する。ベックナーは、T-Rexのマーク・ボランやDavid Bowieの艶気のあるシンガーのソングライティングを受け継ぎ、それらをノイズで包み込む。しかし、ノイズの要素は、アウトロにかけて驚くほど爽快なイメージに変化する。Def Leppardが80年代から90年代にかけて書いたハードロックソングを、なんのためらいもなくベックナーは書き、シンプルに歌い上げている。これらは並のミュージシャンではなしえないことで、ベックナーの音楽的な蓄積と経験により高水準のプロダクトに引き上げられる。

 

アルバム発売と同時にリリースされた「Dead Tourists」は、アーティストのマニアックな音楽の趣向性を反映させている。Silver Scooter、20/20といったバロックポップバンドの古典的な音楽性をイントロで踏襲し、レコード・フリークの時代の彼の若き姿を音楽という形で体現させる。アーティストはウェイツのような古典的なUSポピュラーのソングライティングに影響を受けているというが、ベックナーの場合はそれらはどちらかと言えば、ジャック・アントノフのバンド、Bleachersが志すような、シンセ・ポップ、ソフト・ロック、そして、AORの形で展開される。曲の進行には、80年代のUSポピュラー音楽のアンセミックなフレーズが取り入れられ、それが耳に残る。古いはずのものは言いしれない懐かしさになり、それらのバブリーな時代を彼はツアーする。MTVのネオンは街のネオンに変わり、それらはホラー映画のニッチさと結びつく。これらの特異な感性は、彼の文化的な感性の積み重ねにより発生し、それがシンプルな形でアウトプットされる。シューゲイズ・ギターは彼のヴォーカルの印象性を高める。そして、さらにそれを補佐するような形で、スペーシーなシンセ、グリッター・ロック風のコーラスが入る。 しかしこの80年代へのツアーの熱狂性はアウトロで唐突に破られる。 

 

 

 「Dead Tourists」

 

 

「Return To Life」はアナログなシンセ・ポップで、Talking Headsのデイヴィッド・バーンに象徴されるようなニューウェイブの気風が漂う。クラフトワーク風のデュッセルドルフのテクノ、それらをシンプルなロックソング、2000年代以前のマニアックなホラー映画のBGMと結びつける。これらはMisfits、WhitezombieといったB級のホラー映画に触発されたパンクやミクスチャーバンドの音楽をポップスの切り口で再解釈している。そしてダン・ベックナーのボーカル、チープなシンセの組み合わせは、アーティストによる米国のサブカルチャーへの最大の讃歌であり、また、ここにも、ナード、ルーザー、日陰者に対する密かな讃歌の意味が見いだせる。そして、それは90年代のレディオ・ヘッドのデビュー・アルバムの「Creep」の時代、あるいは2ndアルバムの「Black Star」の時代の奇妙な癒やしの情感に富んでいる。栄光を目指したり、スタンダードを目指すのではなく、それとは異なる道が存在すること、これらは数えきれないバンドやアーティストが実例を示してきた。ベックナーもその系譜にあり、ヒロイズム、マッチョイズム、もしくは善悪の二元論という誤謬から人々を守るのである。

 

どうしようもなくチープであるようでいて、次いで、どうしようもなくルーザーのようでいて、ダン・ベックナーの音楽は深い示唆に富み、また、世間的な一般常識とは異なる価値観を示し続け、大きな気づきを与えてくれる。一つの旗やキャッチコピーのもとに大多数の人々が追従するという、20世紀から続いてきたこの世界の構造は、いよいよ破綻をきたしはじめている。この音楽を聴くと、それらの構造はもう長くは持たないという気がする。そのレールから一歩ずつ距離を置き始めている人々は、日に日に、少しずつ増え始めているという気がする。

 

その目でよく見てみるが良い、ヨーロッパの農民の蜂起、アフリカの大陸、世界のいたるところで、主流派から多くの人が踵を返し始めている。「Euphoria」は、株式の用語で過剰なバブルのことを意味するが、ベックナーは古いのか新しいかよくわからないようなアブストラクトなポップで煙幕を張り、目をくらます。ベックナーは、親しみやすい曲を書くことに関して何の躊躇も迷いもない。「ダサい」という言葉、もしくは「敗北」という言葉を彼は恐れないがゆえ、真っ向から剣を取り、真っ向からポピュラーソングを書く。誰よりも親しみやすいものを。クローズの「Holy Is The Night」は驚くほど華麗なポップソング。誰もが書きたがらないものをベックナーは人知れず書き、それを人知れずレコーディングしていた。そう、Oneohtrix Pointnever(ダニエル・ロパティン)が録音を行っているすぐとなりのスタジオで。

 

 

 

86/100 
 
 

Weekend Track- 「Holy Is The Night」

 
 
Boecknerによるセルフタイトルアルバム『Boeckner!』は本日、SUBPOPからリリースされました。ストリーミングはこちら。 ご購入は全国のレコードショップ等


先週のWEFは下記よりお読み下さい:



HOMESHAKE ローファイ&スロウコアの傑作 CD WALLET

Homeshake




カナダ/トロントを拠点に活動するミュージシャン、ピーター・サガーによる長年のソロ・プロジェクト、HOMESHAKEが思い出を綴ったローファイアルバム『Wallet』をリリースする。


2023年の大半をトロントにあるピーターの自宅スタジオで作曲、レコーディングされた『CD WALLET』は、彼の故郷エドモントンを舞台にしたアルバム。成長期の思い出や、そこから数年後に戻ってきた時の感覚に触れている。


ピーターは、このアルバムが「若い頃の自分を印象づけるために、ヘヴィでストレートなインディーロック・スタイルで制作された」と説明する。ノスタルジアの感情や、過去を振り返るときに自分自身を見出す罠に取り組んでいる。


『CD WALLET』はまた、ピーターの初期のギター音楽への憧れを強調しているという。「目を覚ましてよ、おばあちゃん......、どうして、ちょっとお化粧しないの?」、そう家族に呼びかけた後、ピーターはシステム・オブ・ア・ダウンの「Chop Suey! 」を聴いて、口をポカンと開けたまま、『ギター・ワールド』誌の "Chop Suey!"のタブ譜を開いてみた。虫眼鏡で細かい字を読んでから、完全に唖然として仰向けになり、ギターは思ったより低いチューニングができることを知った。ドロップC。彼が今日まで使っているチューニングだ。これがアーティストとアルバムの誕生の始まりだ。


『CD WALLET』はHOMESHAKEの6枚目のフルアルバムで、ジョシュ・ボナティがマスタリングを担当した。2019年の『Helium』の "Early "は、2020年にHBOの『How To with John Wilson』の第5エピソードで取り上げられた。


2021年の『Under The Weather』に続き、HOMESHAKEは北米、ヨーロッパ、アジアで大規模なツアーを行った。


2022年、全6巻、126トラックのインストゥルメンタル・ミックステープ『Pareidolia Catalog』をリリースし、ブレイン・デッドとのコラボレーション・カセット・ボックスセットとTシャツを付属した。


同年、HOMESHAKEは、2017年のJoey Bada$$との "Love Is Only a Feeling "以来のコラボレーションのひとつであるEyedressの "Spaghetti "を共作、フィーチャリングしている。2024年にはさらなる新曲のリリースが予定されているほか、ライブバンドのメンバーであるグレッグ・ネイピア、マーク・ゲッツ、ブラッド・ルーグヘッドとの北米ヘッドラインツアーも発表される予定だ。



Homeshake 『CD Wallet』


 

マック・デマルコのバンドメイトとして活動していたピーター・サガーによるプロジェクトは、90年代のスロウコアバンド、CodeineとRed House Painterの再来と言って良い。上記バンドはオーバーグラウンドに押し上げられたグランジへの対抗勢力として台頭し、USインディーに大きな意義を与え続けている。

 

内省的なサウンドとコントラストを描く激情性の兼ね合いがスロウコアの醍醐味であったが、サガーは、90年代のスロウコアの憂愁と黄昏のすべてを受け継いでいる。また奇しくも、ロックの文脈としては、カレッジ・ロックの系譜にあるアルバムである。そこにデマルコのローファイとユニークなシンセのマテリアルを散りばめ、オリジナリティー溢れる作品へと仕上げた。

 

Homeshakeのサウンドはホームレコーディングに近いアナログな方式が採用され、そこにはカセットテープの音楽への親しみがあるように感じられる。そこに唯一無二のオリジナリティーを付け加えるのが、「ドロップC」のギターのチューニングである。例えば、ジミー・イート・ワールドの代表曲「Middle」で知られているようにドロップDのチューニングが90年代以降のロックシーンを風靡し、開放弦を作り、ギターサウンドに核心とヘヴィネスをもたらした。

 

ホーム・シェイクのプロジェクト名を冠して活動を行うピーター・サガーの場合は、システム・オブ・ア・ダウンに触発され、六弦のDをさらに一音下げにし、相対的に他のキーも下げる。弦はきつくチューニングすると高い音が出、ゆるくすると低い音になるが、彼のギターサウンドはゆるくなった弦のトーンの不安定さにその魅力が込められている。Homeshakeのギターサウンドは基本的にはマック・デマルコの最初期のローファイ性、それから近年のこのジャンルの象徴的なアーティスト群、コナン・モカシン、マイルド・ハイ・クラブ、アリエル・ピンク、そしてオスカーラングのデビュー当時のサイケ性を網羅している。しかし、上記の複数のアーティストのほとんどがR&Bを吸収しているのに対して、ピーター・サガーにはR&B色はほとんどない。純粋なオルトロック、カレッジロックのシフトが敷かれている。そして彼はクロスオーバーが起きる以前のオルタナティブロックへと照準を絞っている。ただ、その中には、同年代に発生したヒップホップのサンプリング的な編集方法があるのを見るかぎりでは、Dr.Dreに象徴されるオールドスクールのヒップホップの気風も反映されている。この点では、リーズのFar Caspianのようなローファイサウンドが全面的に敷き詰められているということが出来る。

 

しかし、ホームシェイクの場合は、フィル・ライノットに象徴されるアイルランド的な哀愁はほとんどない。むしろシアトルのアバディーンの80年代のサウンドを思わせるような他では求めがたいスノビズムがある。アンダーグランドに潜っているが、それは奇妙な反骨精神によって彩られる。表向きにアウトプットされる音楽はそのかぎりではないが、パンクの香りが漂うのである。このアルバムは、現在のアーティストが古き時代の自己を探訪するという意味が込められており、ピーター・サガーは、日記にも書かれず、あるいは写真にも見いだせなかった、もしくは誰の目にも止まらなかったかもしれない若い頃の自分をインディーロックサウンドを介して探し出し、それらのメランコリアの核心へと全9曲を通じて迫っていこうとするのである。



 

アルバム「CD Wallet」はシンプルに言えば、デジタルな音楽への徹底した対抗でもある。チューニングが狂ったようにしか聞こえないギターラインの執拗な反復と手作りのドラムキットを叩き、それをそのままアナログのラジオカセットに録音したようなローファイなサウンドがオープニング「Frayed」に聞き取れる。サガーは、デマルコを彷彿とさせるドリーミーなボーカルでギターラインを縁取る。アルバムの最初では、スノビズムやワイアードにしか思えないのだが、当初のアナログのデチューンのイメージはその音が何度も反復されると、不快なイメージとは正反対の心地よさが膨らんでいき、奇妙な説得力を持つようになる。その後、多重録音によりヘヴィネスを増したギターロックサウンドへ段階的に変遷を辿っていくと、Codeineのような激情系のノイズサウンドへ移行する。イントロでは驚くほど頼りなさげなサウンドは、一気に強力なヘヴィロックに変身する。かと思えば、そのヘヴィネスは永続せず、すぐさまサイレンスな展開へ踵を返す。アウトロのアップストロークのアルペジオは、Led Zeppelinの「Rain Song」のアウトロのような淡いエモーション、つまり奇妙な切なさの余韻をとどめているのである。 

 

「Frayed」

 

無機質なマシンビートで始まる二曲目の「Letting Go」も同じように、カレッジロックやナードロックの系譜にある。MTRの4トラックで作ったようなドラムのビートの安っぽさはビンテージな感覚を生み出す。夢遊的なボーカルは、ニルヴァーナのデモのような荒削りさがあり、Robyn Hitchcock(ロビン・ヒッチコック)やCleaners From The Venus(クリーナーズ・フロム・ザ・ヴィーナス)のカセットロックやカルト的なロックを思い起こさせるものがある。これらの要素を含めた曲は、スノビズムの範疇を出ないように思えるのだが、そのボーカルのラインとギター、そして、チープなマシンビートに聴覚を凝らすと、Benefitsのように催眠的な効果を発揮し、奇妙な説得力があるように思えてくる。ボーカルは明らかにマック・デマルコの系譜にあり、まったりとしており、そして彼の2014年のアルバム『Salad Days』の精細感を甦らせるのである。


「Smoke」でもヒップホップのリズムトラックの性質を受け継ぎ、スロウコア/サッドコアの系譜にある刺激的なロックソングを展開させる。他の楽器のパートの音域を相殺させるように中音域を限界まで押し上げたギターサウンドは相当過激であり、表向きのプロダクションとは正反対の印象を形作る。その上で、ホームシェイクは、カセットロックやローファイの真髄を知り尽くしたかのように、心地よいフレーズを丹念に組み上げていく。緻密な音作りに関しては、Far Caspian(ファー・カスピアン)、Connan Mockasin(コナン・モカシン)と同等かそれ以上である。そして、チューニングのずれたギターを積み重ね、同じようにピッチのずれたボーカルを乗せ、独特な音域のズレを発生させ、それらのエラーを次第に増強させていくのである。これらはデジタル主体のレコーディングに対する新しい考えを授けてくれる可能性がある。

 

同じようにホームシェイクは、アナログで発生するノイズを環境音のように解釈して、イントロではかすかにアンプリフィターから発生するノイズを見逃さずに録音に留めている。そのアンビエンスをイントロとして、鈍重かつ暗鬱な印象に彩られるスロウコアのヘヴィネスが展開される。オープナーと同様にシンプルなギターコードの反復の弾き語りのような形でこの曲は続いていき、レトロなシンセ、そしてその合間にヒップホップ的なドラムがしなるように鳴り響き、やがて最初のイントロの静謐な印象はシューゲイザーの轟音性にかき消される。そして過去の憂愁と内省的な感覚を抽象ではありながら鋭く捉え、リリックを紡いでいく。これらは現代的なローファイの先を行き、カニエ・ウェストの最初期のヒップホップと現代のローファイを繋げるような役割を果たしている。また言い換えれば、この曲のアプローチは、ローファイというジャンルが、ヒップホップとロックの中間に位置することを証し立てているのである。


本作の中盤の収録曲は、誰もが持つティーンネイジャーの外交的な活発さの裏側に隠された奇妙なノスタルジアとメランコリアの両方の時代へ舞い戻らせる喚起力がある。「Basement」でも基本的なソングライティングに大きな変更はない。リバーブやディレイを徹底して削ぎ落とした乾いたザラザラとした質感のあるギターを通じて、静謐さと激情の狭間を絶え間なく揺れ動くのである。やはりホームシェイクのボーカルは、十代の自己を癒やすかのように歌われ、それらの奇妙な傷つきやすさと内的な痛み、そして、それらの自己を包み込むようなセンチメンタルなボーカルが、どこまでも無限に続いていく。しかし、やがて、それらの夢想性と無限性は、Dinasour Jr.のJ Mascisのようなトレモロのギターの下降によってあっけなく破られる。

 

 

「CD Wallet」

 

 

アルバムのタイトル曲「CD Wallet」は、エリオット・スミスやスパークル・ハウスといった象徴的なインディーロックシンガーの死せる魂を現在に甦らせるかのようである。 スロウコアとサッドコアの悲しみと憂鬱を現代に復刻し、それはCodeineのようなエモーショナルな激情性に続いている。そしてディストーションサウンドが立ち上がった時、イントロやメロでの繊細なボーカルやそれとは対象的な力強さを帯びる。イントロでは繊細なインディーロックソングがにわかにハードコアのような苛烈な印象に変わる。これらの極端な抑揚の変化、気分の上昇と下降は、ティーンネイジャーの感受性の豊かさをリアルに捉え、内的な傷つきやすさを刻印している。ピーター・サガーは、平凡なアーティストであれば入り込むことをためらうような精神的な内郭へと一歩ずつ迫っていき、その内郭の最も奥深くにいる自己の魂を救い出すのである。

 

束の間の激情性を見せるが、その後、暗鬱なインディーロックソングが続き、アーティストは感情の奥処へと降りていく。「Penciled In」は、繊細なアルペジオ・ギターを中心としたポスト・ロック的なアプローチであるが、ピーター・サガーのボーカルには、マンチェスターのCarolineの賛美歌からの影響に近い聖なる感情をつかみ取ることが出来る。世間一般に蔓延する粗雑なエネルギーと対峙するかのように、それらの清廉な感覚を宿したボーカル、ヒップホップに近いドラムビート、どこまでも下降していくように感じられる傷つきやすいギターが多彩なタペストリーを作り出す。その上を舞うかのように、ピッチをずらしたボーカル、サイケデリックなシンセが混沌を作り出す。同じように「Mirror」でも、フィルターをかけたギターのアルペジオを中心とし、カレッジロックやスロウコアの黄昏と憂鬱をアーティストは探求している。

 

 

 アルバムのクローズを飾る「Listerine」は9分を超えるスロウコア/サッドコアの大作で、ロックの名作でもある。少なくとも、オルタナティヴ・ロックというジャンルの最高傑作の1つであることは疑いがない。内的な痛みを柔しく撫でるかのような繊細さ、対極的なチューブアンプから放たれるギターノイズ、これらは、ジミ・ヘンドリックスやジミー・ペイジ、あるいは、『ホワイト・アルバム』の時代のザ・ビートルズのギターのような調和的な響きを生み出す。

 

それらの轟音が途絶えたあと、アンビエント風のノイズのシークエンスが立ち現れる時、鳥肌が立つような感覚がある。基本的なロックのアプローチが続いた後、唐突に現れるこれらのノイズのシークエンスは、その後に続く展開の導入部分となり、アルバムの最初と同じように、シド・バレットのようなサイケ・ロックの無限性に繋がっている。しかし、苛烈なノイズロックの中にほの見えるのは、スロウコア、サッドコア、ストーナーにしか見られない、激しい重力と奇妙な癒やしの感覚なのである。アルバムの最後の最後では、最もヘヴィな局面を迎えた後、停止や沈滞、後退、前進、上昇をたえず繰り返しながら、驚くべきエンディングを迎える。ジャンルやアウトプットの方式こそ違えど、ロックとしてはVUの『ヴェルヴェット・アンダーグラウンド』、ザ・ビートルズの『ホワイト・アルバム』以来の傑作ではないかと推測される。

 

 

 

 

 

96/100

 


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「Listerine」

 Weekly Music Feature 

 



Nils Frahm

 

ニルス・フラームは、ベルリンを拠点に活動するドイツのミュージシャン、作曲家、レコード・プロデューサー。

 

クラシックとエレクトロニック・ミュージックを融合させ、グランドピアノ、アップライトピアノ、ローランド・ジュノ60、ローズ・ピアノ、ドラムマシン、ムーグ・タウルスをミックスした型破りなピアノ・アプローチで知られる。

 

ソロ活動のほか、アンネ・ミュラー、オラファー・アルナルズ、F. S. ブルム、ウッドキッドといった著名な演奏家とのコラボレーションも発表している。フレデリック・グマイナー、セバスチャン・シングヴァルトとともにノンキーンとしてレコーディング、演奏活動を行っている。

 

フラームは早くから音楽に親しんできた。父のクラウス・フラームは写真家で、ECMレコードのジャケットデザインも手がけている。彼はハンブルグ近郊で育ち、そこでクラシックのピアニストや現代の作曲家のスタイルを学んだ。学校ではミキシング・ボードを使い、録音された音の質に強い関心を抱いていた。

 

フラームは、初期のピアノ・ソロ作品『Wintermusik』(2009年)と『The Bells』(2009年)で注目を集めたが、批評家から絶賛されたのは2011年にリリースした『Felt』だった。以来、彼の音楽をリリースし続けているErased Tapesからの初のスタジオ・アルバムである。このアルバムに続くソロ・シンセサイザーEP『Juno and by Screws』(2012年)は、フラームが親指の怪我から回復している間にレコーディングされ、彼の誕生日にファンに無料ダウンロードで提供された。『Juno』に続く『Juno Reworked』(2013年)は、ルーク・アボットとクリス・クラークをゲストに迎えてリワークした。アルバム『Spaces』(2013年)は、2年以上にわたる様々な会場でのライブ録音で構成されている。


2013年12月、フラームは初の音楽集『Sheets Eins』をマナーズ・マクデイドから出版した。2016年には続編となる『Sheets Zwei』がリリースされた。2014年、フラームはデイヴィッド・クラヴィンスが彼のために特別に設計・製作した新しいピアノ「Una Corda」を発表した。このピアノは重さ100kg以下で、一般的に使用される3本の弦ではなく、鍵盤1つにつき1本の弦が張られている。


オーバーダビングなしの即興シングル・テイクによるアルバム『Solo』(2015年)は、後に同じくデヴィッド・クラヴィンス製の高さ370cmの縦型ピアノ「Modell 370」でレコーディングされた。インパラ・アルバム・オブ・ザ・イヤーにノミネートされた19枚のうちの1枚である。シングル「More」の凝縮バージョンは、『アサシン クリード ユニティ』のgamescomトレーラーに登場した。


2015年、フラームはセバスチャン・シッパー監督による140分連続テイクのドイツ映画『ヴィクトリア』で初のオリジナル・スコアを作曲した。また、2015年10月に公開され絶賛されたJR監督の短編映画『ELLIS』でウッドキッドとコラボレーションした。


同年、ニルス・フラームは1年の88日目を祝う「ピアノの日」(標準的なピアノの鍵盤が88鍵であることに由来)を創設した。最初のプロジェクトは、デイヴィッド・クラヴィンスとともに「Modell 450」を製作することだった。これは「Modell 370」の後継機である。


2016年2月、フラームは『The Gamble』をリリースし、2016年8月にはその関連作『Oddments of the Gamble』をリリースした。Pitchforkはこのアルバムを「魅力的につぎはぎだらけで雑然としているが、テンポがよくダイナミック」と評した。アートワークはフラームの父親がプロデュースした。

 

フラームは、「私は、人間がある状況下でどのように反応するか、そして音楽が人々の感情に何をもたらすかに興味がある。音色によって人々の態度をどのように変えることができるのだろうか。私が良いコンサートをした後、人々は幸せそうに部屋を出ていく。これは世界に還元できることなんだ。人々が落ち込んだり、もうダメだと感じたりしたときに、少なくとも音楽を聴かせ、人々の態度を変えることで、そういうふうに思わせたくない......。それが僕の宗教なんだ」



 

ドイツのポストクラシカルの至宝、ニルス・フラームが、ソロピアノ曲の新作「Day」を発表する。2022年の夏、ベルリンの有名な複合施設ファンクハウスのスタジオを離れ、完全な孤独の中で録音されたこのアルバムは、3時間に及ぶ壮大なアンビエントの傑作「Music For Animals」以来となる。


「Day」は、過去10年間、フラームが最初にその名を知らしめたピアノ曲から徐々に離れていき、それでもなお、より楽器的に複雑で複雑なアレンジを施した独特のアプローチに移行していくのを見てきた人たちにとっては驚きかもしれない。


2021年、パンデミックの初期にアーカイヴの整理に費やしていた彼は、80分、23曲からなる「Old Friends New Friends」をリリース。「Music For Animals」の延長線上にあるアンビエント的な性質から判断すると、この作戦は成功したと言えようが、フラームは初心に帰らずにはいられない。「The Bells」、「Felt」、「Screws」といった高評価を得たアルバムを楽しんだ人々は、「Day」の慣れ親しんだ個人的なスタイルに満足するはずだ。「Day」には6曲が収録され、そのうち3曲が6分を超えるもので、フラームが2024年にリリースを予定している2枚のアルバムの第1弾となる。


しかし、その性質上、フラームはこのリリースについて歌ったり踊ったりはしない。その代わり、現在進行中のワールド・ツアーを再開する。すでにベルリンのファンクハウスでの15公演がソールドアウトし、アテネのアクロポリスでの公演も含まれている。2024年7月にロンドン・バービカンで開催される数回のソールドアウト公演を含め、世界各地での公演が続く。


このアルバムは、レコーディングされた時のように、静かで居心地の良い部屋で楽しむのが一番だ。周期的で静かなジャジーな「You Name It」では、ペダルのきしむ音がかすかに聞こえ、「Butter Notes」のアルペジオの緩和的な波紋では、外の通りで犬が吠える音が聞こえる。慈愛に満ちた「Tuesdays」と感情的に曖昧な「Towards Zero」は、ハロルド・バッドの初期の作品のような痛烈な粘りをもって余韻を残し、「Hands On」は、時に明るく、風通しの良い曲で、独自の意図的なペースを作り出している。


内密なムードが特徴的な「Day」は、フラームが現在、ピアノ、オルガン、キーボード、シンセ、さらにはグラス・ハーモニカまで駆使した手の込んだ祝祭的なコンサートで最もよく知られていることは間違いないが、シンプルさ、優しさ、ロマンスに影響を与える名手であることを証明している。

 

 


 『Day』/ Leiter-Verlag


    


フラームがエレクトロニック・プロデューサーとしての表情を持つ傍ら、鍵盤奏者としての傑出した才覚を持つことは、音楽ファンによく知られていることである。2009年頃、ドイツ・ロマン派に属するポスト・クラシカルのシングル「Wintermusik」を発表して以来、不慮の事故で指に怪我を負う等、いくつかの懸念すべき出来事も発生したが、結局のところ、2024年現在まで、(知るかぎりでは)フラームが鍵盤奏者であることを止めたことは一度もない。

 

そのなかで、鍵盤奏者としての性質をわずかに残しながら、意欲的なミニマル・テクノやエレクトロも制作してきた。BBC Promsへの出演を期に、英国等の音楽市場でもアーティストの知名度が上昇した経緯を見ると、フラームの一般的なイメージは「エレクトロニック・プロデューサー」ということになるのかもしれない。しかし、ミュージシャンとしての本質は、やはり鍵盤奏者にあるといわざるを得ない。結局、ミニマル・テクノやダニエル・ロパティンのような電子音楽の交響曲という要素は、鍵盤奏者としての性質の延長線上にあるということなのだ。

 

また、 ニルス・フラームは、ドイツのファンクハウス・ベルリンに個人スタジオを所有していることは詳しい方ならご承知かもしれない。しかし、かつては自宅の地下室に個人スタジオからファンクハウスベルリンに制作拠点を移したことは、こ過剰なプレッシャーを制作者に与えることに繋がった。そこから気をそらすため、フラームは時々、マヨルカ島にエネルギーの補填に行ったり、ベルリンの音楽仲間である現代のダブ・ミュージックの象徴的なプロデューサー、FS Blummとのコラボレーションを行っていた。つまり、これは推測するに、気分が詰まりがちな制作環境に別の気風をもたらそうとしたというのが所感である。

 

今回の最新アルバム『Day』は個人スタジオがあるファンクハウスから距離を置いている。このファンクハウスの個人スタジオは、『All Melody』のアルバムのアートワークにもなっている。なぜ制作拠点を変更したのかについては、東西分裂時代のドイツの閉塞感から逃れることと、作風を変化させることに狙いがあったのではないかと推測される。


フラームは、以前からドイツの新聞社、”De Morgen”の取材で明らかにしている通り、ワーカーホリック的な気質があったことを認めていた。しかし、そのことが本来の音楽的な瞑想性や深遠さを摩耗していることも明らかであった。おそらく、このままでは、音楽的な感性の源泉がどこかで枯渇する可能性もあるかもしれない。そのことを知ってのことか、ニルス・フラームは、2021年頃から、ライブの本数を100本ほどに徐々に減らしていき、パンデミックやロックダウンを契機に、彼のマネージャーと独立レーベル、”Leiter-Verlag”を設立し、その手始めに『Music For Animals』を発表した。これらの動向は、次の作品、そして、その次なる作品へ向けて、以前の活動スタイルから転換を図るための助走のような期間であったものと考えられる。

 

フラームは、活動初期のコンテンポラリークラシカル/ポスト・クラシカルの未発表音源を収録した2021年の『Old Friends New Friends』では、自身のピアノ曲を主体とする音楽性について、「ドイツ・ロマン派」的なものであるとし、いくらかそれを時代遅れなものとしていた。その後の『Music For Animals』はシンセサイザーによるアンビエント作品であったため、しばらくはピアノ作品を期待出来ないと私は考えていたのだったが、結局のところ、このアルバムで再び最初期の作風に回帰を果たしたということは、フラームの発言はある種のジョークのような意味だったのだろう。


しかし、原点回帰を果たしたからといえど、過去の時代の成功例にすがりつくようなアルバムではない。はじめに言っておくと、このアルバムはニルス・フラームの最高傑作の1つであり、ピアノ作品としては、グラミー賞を受賞したオーラヴル・アルナルズの『Some Kind Of Piece』に匹敵する。全編が一貫してピアノの録音で占められていて、あらかじめスコアや着想を制作者の頭の中でまとめておき、一気呵成に録音したようなライブ感のある作品となっている。


ここ数年の称賛された作品や、売れ行きが好調な作品を見るかぎりでは、そのほとんどが数ヶ月か、それ以上の期間がアルバムの音楽の背景に流れているのを感じさせるが、『Day』は、ほとんどそういった時間の感慨を覚えさせない。制作者によるライブ録音が始まり、それが35分ほどの簡潔な構成で終了する。多分、無駄な脚色や華美な演出は、このアーティストには不要なのかもしれない。フラームのアルバムは、ピアノの演奏、犬や鳥の鳴き声のサンプリング、そして、マイクの向こう側にかすかに聞こえる緊張感のある息遣いや間、それらが渾然一体となり、モダン・インテリアのようにスタイリッシュに洗練された音楽世界が構築されたのである。

 

 

オープニングを飾る「You Name It」は、2018年の『All Melody』に収録されていた「My Friend The Forest」の作風を彷彿とさせ、さらに2009年頃のポスト・クラシカルの形式に回帰している。ビル・エヴァンスのような洗練された演奏力があるため、少なくとも制作者が忌避していたようなアナクロニズムに堕することはほとんどない。 なおかつ、近年のエレクトロニックを主体とした曲や、アルバムに申し訳程度に収録されていたピアノ曲ともその印象が異なる。


演奏には瞑想性があり、まるでピアノの演奏を通じ、深遠な思索を行うかのようである。それは必ずしも「音楽のフィクションの物語」となるわけではないが、少なくとも、「音で言葉を語る」という、プロの音楽家としての水準を簡単にクリアしているように思える。


この曲は、氾濫する言葉から距離を置き、言葉の軽薄さから逃れさせる力を持っている。この曲を聞き、言葉に還ると、言葉というものの大切さに気づく契機となるかもしれない。フラームの演奏はアンドラーシュ・シフやグレン・グールドよりも寡黙であるが、しかし、そこには音楽を尊重する沈黙がある。これがこの音楽を聴いて、じっくりと聞きこませる力がある理由である。 

 

「Tuesday」

 

 

 

「Tuesday」も一曲目と同じように、ピアノハンマーの音響を生かしたディレイやサステインを強調したサウンド・デザインである。しかし、最初の一音の立ち上がり、つまりハンマーが鍵盤の蓋の向こうに上がる瞬間、感情性とロマンが溢れ出し、潤沢な時間が流れはじめる。曲には、イタリアのルチアーノ・ベリオの「Wasserklavier」のような悲しみもかんじられるが、 ロベルト・シューマンの「Des Abends(夕べに)」のようなドイツ・ロマン派の伝統性も含まれている。シューマンの曲は、夕暮れの哀愁に満ちた情感、ライン地方の景物の美しさからもたらされる自然味が最大の魅力だったが、この曲は同じような系譜にあるとても美しい曲である。


しかし、それは旋律進行の器楽的な巧みさというよりも、実際の演奏の気品や洗練された感覚からもたらされる。楽節としてはミニマル音楽の系譜にあるものの、その合間に取り入れられる休符、つまり沈黙の瞬間が曲そのものに安らぎを与える。その間には、ピアノの演奏時には聞こえなかった演奏者のかすかな息遣いやアコースティックピアノのハンマーの軋む音が聞き取れる。これは隙間を見出すと、微細な音を配そうという近年の音楽の流れとは対極にある。忙しない音の動きやリズムを過剰に強調するのは、音楽というものを信頼していない証でもある。フラームはそれを逆手に取り、あえてこういった間や休符の中にある安らぎを強調している。

 

「Butter Notes」は、ある意味ではこれまでとは打って変わって、古典派やバロック音楽への敬愛を示している。バッハの「コラール」や「平均律クラヴィーア」に見られるような構造的な音楽を対比的に配置し、特異な作風に昇華させている。この曲には、ベートーヴェンやシューベルトのソナタ形式の作品に対する親近感もあり、それはロマンティックな気風を持つ「B楽章」を元にしている。これらはシューベルトのピアノ・ソナタの主要作品や、ベートーヴェンの『月光』の系譜に位置づけられる。それらの古典的な作風を踏襲しつつも、低音を強調したダイナミックでモダンなサウンド・プロダクションに変容させる。その中には実験音楽の技法が導入され、ボウド・ピアノ(プリペイド・ピアノ)のデチューンさせたピアノ弦をベース音として取り入れるという前衛的な試行がなされている。既存のクラシックの楽曲に影響を受けながらも、アンビエンスを強調したりというように、モダンなサウンドが敷き詰められている。

 

 「Hands On」は、『All Melody』の時代から取り組んできたアンビエントとピアノミュージックの融合を次世代のエレクトロニックとして昇華させるというフラームらしい一曲となっている。この曲では、実際に鳴っている鍵盤の音と背後にあるハンマーの軋みという2つの音楽的な構造が同一線上にある2つの線へと分岐している。これらは「音楽によるメタ構造」ともいうべき作風を作り出す。Olafur Arnolds、Library Tapes、Goldmund,Akira Kosemura(小瀬村晶)といった最近のポスト・クラシカルの主要な演奏家は、この2つのプロダクションの融合に取り組んでいたが、この曲では2つのサウンドデザインをはっきり分離させることで、立体的な構造性を作り出す。また、前の曲と同様に、低音を強調したプロダクションは、ベーゼンドルファー(オーストリアのピアノで、現在はヤマハが買収)のような特殊な音響性を兼ね備えている。

 

 「Changes」でもプリペイド・ピアノの技法が取り入れられている。三味線や琵琶のような枯れた響きのある前衛的な音をモチーフとし、琵琶の演奏の技法が取り入れられている。これは武満徹がニューヨークで初演を行ったクラシックの交響曲「November Steps」にも取り入れられている。


この曲ではプリペイド・ピアノをウッドベースのように弾くことにより、こういった演奏が生み出されている。そして面白いことに、持続音が減退音に変化する瞬間、琵琶や三味線のようであった和風の音響性が、インドのシタールのようなエキゾチックな音色へと変わる。それはライブセットで実際に演奏楽器を変えるときのような、イマジネーションを膨らませるような効果がある。この曲は従来の作風に比べると、驚くほど明るく、清々しい感覚に彩られている。ピアノの演奏面での工夫もあり、バッハの「フランス組曲」、「イギリス組曲」に見られるような装飾音、スタッカートの技法を取りいれ、音の印象に変容をもたらしている。聞き方次第では、それ以前のスカルラッティのイタリアン・バロックに対する親しみとも読み解ける。

 

クローズ「Towards Zero」はこれまでフラームが書いてきた中で最高傑作の1つに挙げられる。ドイツ・ロマン派の音楽性に根ざしたイントロから瞑想的な旋律が紡がれる。スケールの中にはバッハの「コラール」の編曲を行ったブゾーニのような重厚さと敬虔な響きが含まれる。低音を強調し、ディレイとサステインに変化を与え、その中に鶏の声のサンプリングを配している。

 

これらの実験的なサウンドプロダクションについては、かつてシューマンが行った「Vogel als Prophet(予言の鳥)」におけるストーリーテリングのような音楽と、イタリアのレスピーギが「ローマの松」で世界で最初に行われたサンプリングの技法を複合させ、それを現在の視点から再解釈するという意義が求められる。そして、この曲にも、ライブパフォーマンスのような精細感のある録音形式が選ばれている。ここには息を飲むようなリアルな緊迫感、音のひとつひとつの立ち上がり、ノートが完全に消え入ろうとする瞬間に至るまで、制作過程の全てが収録されている。それは実際に鳴っている音だけではなく、空間の背後の音を掬い取ろうというのだろう。

 

ニルス・フラームが、アルバムのクローズ曲「Towards Zero」で試みようとしているのは、おそらく音を強調するということではなく、休符によって発生する空白を、ディレイ/リバーブ等を中心とするエフェクトで強調させ、その余白を徹底して増大させるということである。そして制作者の意図する「ゼロに向かう」という考えは、最終的に、坂本龍一の遺作と同じように、宇宙の根源的な核心へ接近していこうとする。一貫して、高水準のピアノ曲が示された後に訪れるのは、あっけない「沈黙」である。その敬虔な響きが徹底して強調され、アルバムは終わる。

 

また、最後の曲は、鳥の声のサンプリングが収録されているためか、新訳聖書のような文学性を思わせる。バイブルの中で、使徒ペテロがナザレのイエスを裏切るシーンと重なるものがあり、ミステリアスな印象を余韻という形で残す。特筆すべきは、カデンツァのトニカ(Ⅰ)で曲はおわらず、その途中で終了していることである。これはシューベルトが未発表のピアノ曲を遺稿として残し、未完に終わっていることを思い出させ、また、『ダヴィンチ・コード』のようにミステリアスな雰囲気に満ちている。果たして、音楽の後になんらかの続きが存在するのか? その答えは、次のアルバム以降に持ち越されるということになるのだろう。

 

 

 

96/100 

 

 

 

Weekend Track 「Towards Zero」

 

 

 

・Nils Frahm(ニルス・フラーム)の新作アルバム『Day』は本日よりLeiterから発売。ストリーミングやご購入はこちらから。