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 聞いてほしい、とエリザベス・ウィットモアはジュリアン・ベイカーとトーレスの新作を紹介する際にアメリカの現状を訴えかけている。


 私たちの何人かにとって、あるいはほとんどの人にとっても、今年は大変な年だった。 この原稿を書いている11月中旬のシカゴは、記録的な暖秋で、悪いニュースが続いている。 


 南部の田舎では家族や動物、家が流されてしまった。 山火事の季節は終わらない。 ある場所では水が多すぎるし、ある場所では水が足りない。 私の故郷のテキサス州では、幼少期を終えたばかりの妊娠中の人々が、医療を受けられず命を落としている。 そして、あなたやあなたの愛する人が不法移民であったり、トランス、クィア、貧困、黒人などということは数え上げればきりがない。


  時々、呪われた世界全体が、きっぱりと自滅する決意を固めたように感じることがある。 だから私は、ジュリアン・ベイカーが歌う、「これ以上悪くなることはない」という言葉を骨の髄まで自分のことのように感じる。 もしかしたらあなたもそれを感じているかもしれないし、絶賛されたアーティスト、ジュリアン・ベイカー&トレス(別名マッケンジー・スコット)によるこの待望のカントリー・アルバムの良い仲間を利用できるかもしれない。


 「Send A Prayer My Way」は何年も前から制作されていた。このアルバムは楽屋での意気投合から始まった。 2人の若いミュージシャンが、ここシカゴで愛されているリンカーン・ホールで初めて一緒にライヴをするところを想像してみてほしい。 2016年1月15日、外は底冷えするほど寒く、特に南部に住む2人組にとってはなおさら。 ライヴが終わり、クソみたいなことを言い合っているとき、一人のシンガーがもう一人に言った。"私たちはカントリー・アルバムを作るべきだよ"。 


 これはカントリー・ミュージックの世界では伝説的な原点であり、余裕のあるエレガントな歌詞と、彼らの音楽を愛する人々と苦悩を分かち合う勇気ですでに賞賛されている2人のアーティストのコラボレーションの始まりでもある。 


 それは不朽のカントリー・アルバムのように、歌い手と聴き手の双方を支え、鼓舞し、この世で孤独な人間など一人もいないこと、音楽は安定した伴侶であることを思い起こさせる作品作りの始まりでもある。'' なぜ泣いているの? '' 「No Desert Flower」で彼らは歌う。 ''少しくらいの雨なら平気さ/辛いことがあってもへこたれない/過ぎゆく歳月が僕を洗い流すことはない''。


 「Send A Prayer My Way」は、アウトローの伝統に則って書かれ、そして歌われた、とても素晴らしいカントリー・アルバムだ。 (最高のアウトロー・カントリーでは、法律も男も味方ではない。トレスとベイカーの音楽では、宗教の吹き溜まりも、娘のセクシュアリティを我慢できない母親もそうだ)。 これらの曲は、長い勤務を終え、疲れて家路につくとき、マリファナと静かな場所で足を休めたいと願う歌であり、ワゴン車から(またもや)落ちてしまい、今度こそ、車輪の下に引きずり込まれるのではないかと思う歌であり、間違った決断をすることだけが自分の知っている決断なのだと思う歌である。 ベイカーは、冒頭の「Dirt」でこう歌い、その数行後にはこんな美しさがある。''きれいになるために一生を費やす/ただ汚れの中で終わるために''

 

 

 Julien Baker & TORRES 『Send A Prayer My Way』 - Matador



 

 ジュリアン・ベイカー、トーレスはともにアメリカ国内では著名な歌手である。双方ともに、歌手としてだけではなく、ギタリストとしても活動している。近年、ベイカーは、ボーイ・ジーニアスのメンバーとして活動し、様々なイベントにも出演してきた。一方のトーレスは昨年、ソロ・アルバム『What an enormous room』を発表し、ポピュラーシンガーとして成功を収めた。この度、二人が挑戦したのは純正のカントリー・アルバム。聞けば分かる通り、ポピュラーに薄められたカントリーではなく、戦前の時代、つまり、20世紀中葉の本格的なカントリーソングの系譜にある曲も含まれている。ベイカー/トーレスは、ふたりとも若い年代のシンガーであるが、こういった古典的な作風に挑戦したのに大きな驚きを覚える。なぜなら、このアルバムの音楽の中には、両者がまだ生まれていない時代のものも含まれているからである。

 

 カントリー/フォークというのは、一般的な日本の音楽ファンは同じようなものと考えることが多いのではないかと思われる。 カントリーは田舎の音楽であって、フォークは民謡.......。いずれも、世俗的な音楽である。2つの音楽の共通点は、どちらもその土地の風土を音楽として織り込んでいる。ただ、この2つの音楽を漠然と一括りにするのは妥当ではないのかもしれない。とくに、カントリーを語る上では、この音楽がゴスペルやブルースと密接な関係を保ちながら発展してきたことを考えると、キリスト教の霊歌としての教会音楽と切り離すことが出来ない。

 

 元々、教会音楽と対象的な構造を持つものとして、世俗音楽というのがヨーロッパ社会には厳存してきた。そして、これこそが現代のフォークやカントリーのルーツであろう。結局、教会の祭礼で歌われる霊歌やカンタータを共同体の外に持ち出し、それを民衆化し大衆化した瞬間、ポピュラーの歴史が始まった。それ以降、ジャズやポピュラーという形で発展してきたのが、アメリカの音楽の系譜である。それからは、ポピュラーは徐々に均一化していった。そして、アメリカの音楽というのはキリスト教の概念を元に発展してきていることは忘れてはいけない。

 

 おそらく、この点が、単にアメリカの音楽をなぞらえただけでは同じものにならない理由なのだろう。仮に、一般的には、汎神論や一神論を否定する、つまり得難い存在の実在を完全に否定するとしても、概念のどこかに神が存在すること、これは完璧には否定出来ない。例えば、神様なんかいないぜ、と現代の人々の多くは考えるかもしれないが、神様という言葉が概念のどこかに出てきたとき、それはすでにその存在を認めているも同然なのである。もちろん、我が日本では、往古より、汎神論的な考えが優勢であり、山や空にも神様がいると考えてきた。

 

 今回、若いシンガー二人が取り組んだ「カントリー」というのは、日本の音楽ファンにとっては単なる符牒や意気投合のための共通点だったと考えるかもしれない。このアルバムを聴く人々の多くはそのように捉えるに違いない。しかし、そう考えるのは、あまりにも浅薄であり、理解に乏しい。少なくとも、驚きを覚えたのは、このアルバムを聴くとわかるように、ジュリアン・ベイカーにせよ、トーレスにせよ、カントリーを単なるツールのように考えていないらしいということである。つまり、カントリーという音楽を通して、二人のミュージシャンは、人生を考えたり、悩みを共有したり、ときには、喜びや安らぎを共有している。ようするに、個人的な感覚を別の人間が共有したその瞬間、ソロという役割が変化し、本当の意味での”コラボレーション”が実現するのである。ジュリアンとトーレスには、カントリーをツールにするような考えは微塵もかんじられない。しかも、カントリー音楽に神聖な感覚を見出そうとさえしている。ジュリアン・ベイカーに関しては、そういうイメージがなかったが、音楽に対して敬虔な気持ちすら読み取ることも出来る。そして、ぼんやりと目に浮かんできたのは、帽子を深く被って録音マイクの前に立つ歌手の姿……。良い音楽を作るためには、こういった厳粛で慎ましい感情を、自分の作り出す音楽に対して抱くことも、時には必要なのではないか。

 

 カントリーという音楽は、アメリカ国内では、WW2の戦前、戦後にかけて最盛期を迎えた。ハンク・ウィリアムズ、ジョン・デンバー、レッド・フォーリー、ジョニー・キャッシュなど、偉大な歌手を輩出した。これらの音楽は、共同体の中の文化を外に持ち出し、霊歌を一般化したり、世俗化するような意味があった。もうひとつは、音楽の持つ意義の変化が要因ではなかったか。戦争の前後の時代の国威発揚のような意味をもたらし、外地から望郷の念などをワイルドに歌うことが多かった。兵士に向けて歌われることもあり、また、従軍キャンプのようなパーティーでも演奏される機会が多かったはずである。そこでは、当然、離れていた恋人が一緒に踊りながら、カントリーに合わせて歌うこともあったはず。欧州では、ポルカやジーグ、メヌエットという、三拍子を中心とする舞踏音楽の形式があるが、これらの20世紀バージョンがアメリカの南部を中心に発展していった。これが、カントリーの正体だろう。アコースティックギターで軽快なリズムを刻み、ときに、ジャズのリズムの影響を受けてスイングする(拍を後ろにずらすシンコペーションの一種)のは、この音楽が本来は舞踏的だからなのだろう。

 

 カントリーは、男性中心の音楽として栄えてきたようなイメージがある。私自身もつい数分前まではそうとばかり思っていた。しかし、ロレッタ・リンというデュエットの名手がいる。ロレッタ・リンは、2022年に死去しているが、特に、男性のカントリーシンガーとのデュエットで、素晴らしく甘い雰囲気を添えた。そして、コンウェイ・トゥッティ、アーネスト・タブなどのデュエット曲を通じてリンが表現したのは、切ない純粋な恋心であった。そして、これもまた、どちらかといえば、ジャズのクラシックをボーカル化したような音楽でもあった。


 重要なのは、カントリーは、離れたところにいる恋人への恋慕や望郷の念など、何らかの対象物に対して、慎ましい気持ちを表現するものだった。それは、時々、大きな社会情勢に個人の命運が翻弄されることがあったのに加えて、恋人という欠かさざる存在や故郷の姿が自己よりも大きいことの表れでもあった。それが戦後にかけて反戦歌などが作られるようになり、政治的な趣旨の色合いを増すこともあった。例えば、ジョニー・キャッシュはそのアイコンだろう。いわば、カントリーという音楽そのものが神棚に祭り上げられるようになってしまった。これには確かに弊害もあった。本来は、世俗的な音楽や一般的な市民の感情を歌うものであったはずなのに、それとは対象的にエルヴィスのようなカリスマの象徴になっていってしまった。キャッシュはあまりにもこの音楽を神格化しすぎていて、それを贖罪の対象としたのだった。本来はカントリーというのは、世俗的な音楽であり、誰でも楽しめるように設計されている。もちろん、音楽にまったく詳しくないような人でも気楽に歌えるようになっているのである。

 

 ジュリアン・ベイカーとトーレスは、アルバムの録音の価値と並行し、文化的な側面からこの音楽に取り組もうとしている。「カントリーの民衆化」という元来の音楽の意義を蘇らせ、それを現代的な感性で包み込んでいる。このアルバムは、アメリカの長いカントリーの歴史を網羅するものであるのと同時に、現代的な感性からそれを再解釈し、聴きやすい音楽として出力している。

 

 

 ジュリアン・ベイカーとトーレスの声質は似ているようでいて似ていない。逆に言えば、似ていないようで似ている。モダンなポップソングを、両者ともに軽やかに歌うが、ソロアルバムより覇気がこもっている。ただ、それは気負いとはならず、音楽のリスニングに際して、敬虔な気持ちを授けてくれる。


 この録音には、二人のシンガーが実在していること、そして音楽を作ってくれたことに深く感謝したくなるものが込められている。二人の歌声には、心を落ち着かせるものがあり、それがアルバム全体に共鳴する内容だ。Ⅰ、Ⅴ、Ⅳ、Ⅵを中心とする基本的な和声構成を中心に、エレクトリックとアコースティックのギターの両方を巧みにボーカルの録音の間に織り交ぜ、時には心を落ち着かせ、また時には、切なさを呼び起こす素敵なカントリーソングが紡がれていく。

 

 

 現代におけるカントリーの精神とはどのようなものだろう。それはボブ・ディランの中期のような、やるせないような感覚である。クイア、移民、そして、混乱する国内経済(日本にもその影響は波及している)は、多くの国民に苦境をもたらしている。それは、上記のライターの記述を見ると明らかである。一般的な歌手は問題から目をそむけがちだが、この二人の歌手はそうではない。自分の環境やミュージシャンとしての生き方、現代アメリカの社会問題などに関心を向け、それらを自分たちが出来る形で、カントリーソングに乗せて歌う。ふたりとも有名な歌手なので、そういったイメージはなかったが、「1−Dirt」では人生の悲哀が歌われることがある。そして、それはパーソナルとグローバルの問題を結びつけるような役割を担っている。

 

 シンプルで精細なイメージをもたらすアルバムの冒頭を飾るこの曲は、アメリカに生きる市民の実情について考え合わせたとき、驚くほど音楽の印象が変化する。牧歌的な感覚の中に満ち渡る望郷の念というカントリーの原義に加え、哀愁にも似た淡い感覚を呼び覚ますのである。スムースなアコースティックギターの演奏、甘い雰囲気をもたらす一番の歌詞を歌うジュリアンのボーカル、メロウな雰囲気を持つハモンド・オルガン、フィドルの音色を想起させるヴァイオリン、ブルースのように渋いエレクトリック・ギターのソロ、そして、二番の歌詞をリードするトーレス、続いて、デュエットで歌われる二人のボーカル……。こういった両者の人生の関わりや友情を感じさせる素晴らしいカントリーソングがアルバムの音楽の手ほどきをする。

 

 オールドタイプのカントリーソング「2−The Only Marble I've Got Left」は、ジョン・デンバーやハンク・ウィリアムズを彷彿とさせ、スティールギターの音色で始まる。その瞬間、雄大な感覚を呼び起こし、カントリーに対する讃歌へと変わる。古典的な二拍子のリズムを基にして、トーレスのボーカルで始まり、音楽のワイルドなイメージを敷衍させる。そして望郷の念や恋慕の気持ちなど、カントリーソングの基本的な作法を活かし、本格的で精度の高い洗練された音楽構造を作り上げていく。サビの箇所では、「Daydream Believer」を想起させる心地よいフレーズを二人で歌い上げる。

 

  ここでは、未来に対する漠然とした希望、もしくは希望への道筋が歌われる。デュエットとしての相性も抜群で、アルトの音域を担うトーレス、そして、ソプラノの音域を担うジュリアンというように、音域の棲み分けが出来ている。さらに、両者の声質もデュエットとしての最大の効果を発揮し、甘美な感覚を呼び起こす。音楽というのは、実際の音を通して、どのようなインスピレーションを呼び起すのかが一番大切と思われる。それは、AIのようなテクノロジーを駆使しようとも普遍のテーマである。この点を、二人の秀逸な歌手は知り尽くしており、明るく穏やかなイメージを彼女たちのボーカルを通して、丹念に体現させていくのである。いわば”悪しき時代の星”となるため、ジュリアンとトーレスは肩を組むように歌を快活にうたうのだ。

 

 

 カントリーソングの中には、世俗的な人生観を歌うというのが通例である。 「3-Sugar In The Tank」はその好例だ。アコースティックギターのラフなストロークから始まり、Ⅲ-Ⅳのスケールを行き来しながら、スティールギターの対旋律を楔にして歌が始まる。ジュリアン・ベイカーのリードボーカルは、彼女のポピュラー性という側面を強調させ、くつろいだ感覚を付与する。その後、ドラムの演奏が心地よいリズムを刻み、休符を途中にはさみながら、軽快なカントリーソングが紡がれる。そして、この曲では、日頃の生活から汲み出される感情を、つややかに歌い上げている。近年の均一化したポピュラーという内在的な音楽性を古典的なカントリーと組み合わせているのが秀逸だ。現在、この曲のストリーミング再生数は、アルバムの中では最も高くなっている。アルバムの中で、最も聴きやすく、そして親しみやすい一曲でもある。また、この曲ではバンジョーの演奏も登場する。これが曲全体に遊び心を付け加えている。

 

 「4-Bottom of the a Bottle」は、デヴィッド・ボウイの最初期のフォーク・ソングを想起させるイントロではじまり、フィドル(弦楽器)の演奏を配したアメリカーナの雰囲気を強調させる。 この曲ではトーレスがリードボーカルを担い、精神的に円熟した感覚を思わせる。ポピュラーソングの普遍的な音楽は、トーレスの安定感のある重厚なボーカル、そして、ジュリアンの甘い雰囲気のある高いボーカルを中心として、明るい曲調から憂いのある曲調へと変遷を辿る。

 

 ”ⅥーⅣーⅤ(ーⅡ)”という、基本的な和声構成をアコースティックギターで演奏しながら、ドミナントのドミナント(Ⅴ-Ⅴ 短三和音)を効果的に用い、憂いの感覚を表現し、雄大なスティールギター、ペダルスティールと組み合わせて、切ない印象が呼び覚まされる。このシークエンスは劇的だ。

 

 その後、タイトルの歌詞が端的に歌われ、弦楽器の演奏を介して音楽が面白いように次にロールしていく。意外とシンプルなようでいて、和声の構成がきわめて卓越している。そして、強進行の和音を導入し、その後に休符を入れているから、その後の音楽に弾みがついて、リズミカルになる。いわば曲の流れが出てくる。


それ以降、トニック(主音)に戻り、シンガロングを誘う瞬間が訪れる。曲の始まりは、不安定な印象であるが、中盤にかけて安定感を持つようになる。この曲では、基本的な和音構成が安定しているからこそ、ポピュラーソングとしての安定感や均衡感を持つ。

 

 

 「Bottom of the a Bottle」

 

 

 「5-Downhill Both Ways」は段階的に半音ずつ降りていくスケールが導入されている。前の曲が和声的だとすれば、この曲は、対旋律的である。イントロから続くアコースティックギターを中心とする通奏低音を担う演奏にはスティールギターの伸びやかな対旋律をもたらし、そして、その後、アルペジオ(分散和音)が奏でられるアコースティックギターがもう一本追加される。

 

 この時点で、曲の大まかな伴奏が組み上げられる。この全般的な伴奏は、パット・メセニー/ライル・メイズの最初期のフュージョン・ジャズの一貫として登場したカントリーとジャズのクロスオーバーのようにリラックスした感覚をもたらす。ボーカルははじめからデュエット形式で歌われる。

 

 ジュリアン・ベイカーがソプラノの音域を歌い、そして、トーレスがアルトを歌っていると思われる。これらは、カウンターポイントの基礎である3度(短3度の場合もある)の音程の組み合わせを中心に構成され、心地良い音楽性が作り上げられる。簡単に聞こえるが、高度な音楽形式が繰り広げられる。いわばアメリカのポピュラーが単なる感覚や感性だけに依拠せず、音楽理論の基礎が定着していることに驚きを覚える。

 

 その中で、ピッチやトーンの微細なズレを活かし、いわばブルースのような渋いボーカルのテイストを生み出している。もちろん、両者の歌の素晴らしさを引き出す録音の水準の高さは言うまでもない。南部のカントリーを意識した軽やかなポピュラーソングで、良い雰囲気が漂う。さらにバンジョーの演奏も二度登場する。一回目は一番の後のソロ、そしてアウトロのソロ。感覚的に曲を作っているように思えるかもしれないが、ソングライティングは構成的である。

 

 舞楽的な音楽は「6-No Desert Flower」に見出だせる。歌だけを聴くと、四拍子に聞こえるが、ドラムは二拍を刻んでいくというように、変則的なリズムが取り入れられている。短調の曲の中で、哀愁を感じさせるボーカルをダブルで披露している。例えば、こういった曲は、ルー・リードがヴェルヴェットアンダーグラウンド時代に書いていたと思われるが、東欧の民謡を吸収した、新時代のカントリーとしての効力を持っていた。この曲では、バロック音楽のジーグ(Gigue)のような、古典音楽の要素がバラードタイプの音楽として新たに生まれ変わっている。同じように、スティールギターの演奏が組み合わされ、エキゾチックな雰囲気を醸し出す。

 

 一方、アルバムの中盤では70年代ごろのウェストコーストロックの色合いが強まる。ドゥービー・ブラザーズやイーグルスの最初期の西海岸のサウンドで、別名”バーバンク”とも呼ばれ、ハリウッドお抱えのロック音楽としてワーナーが押し出していた。

 

 そして、このアルバムの場合は、 「7-Tapes Runs Out」、「8-Off The Wagon」などの録音を通じて、アナログのコンソールを使用してクラシカルなフォーク・ソングを作り上げている。

 

 ジュリアンがリードボーカルを担うが、トーレスのコーラスが入ると、サザンロックの要素が強まる。ウェスト・コーストのロック音楽は、アメリカ南部のソウルやブルースの影響下にあるサウンドを織り交ぜていたのは周知の通りであるが、これらの南部と西海岸の中間にあるようなフォークロックに取り組んでいる。しかし、モダンな要素も同時に強調される。弦楽器の演奏はオーケストレーションのような壮大さを生み出す。

 

 ただ、ギミックの演出のような大仰な感じはほとんどない。曲の延長線上にあるアレンジメントである。一方の「Off The Wagon」ではライブツアーのワンシーンのような情景が映画さながらに切り取られる。前の曲と聴き比べると、続き物のような感じで楽しむことが出来る。後者の曲は、ジャクソン・ブラウンの『Running On Empty』の収録曲「The Road」をわずかに彷彿とさせる。このアルバムの中盤の2曲ではアメリカらしい雄大さと哀愁を味わうことが出来るはずだ。

 

 

 その後、アルバムはカントリーの古典性に回帰している。「9-Tuesday」は再び本格的なデュエットの形式が繰り広げられる。しかし、同じアルバムの収録曲のデュエットとして聴くと、両者の人間関係が少しずつ移ろい変わっているように感じられる。そして、制作者の人生の周囲を通り過ぎていく風景のように流れる。それは、実際のレコーディングにも反映され、収録曲の時系列としての並び方はさておき、アルバムを一緒に制作したことで、デュエットの歌がもたらす空気感や雰囲気にも一定の変化が生じている。つまり、このアルバムは、ジュリアンとトーレスという、二人のシンガーソングライターの人生が徐々に転変していく様子を捉えている。

 

 これは言ってみれば、音楽におけるドキュメンタリーのような意味合いが含まれているのではないか。そして、従来のジュリアン、トーレスという二人の歌手を知る人々にとっては、元来のイメージが先入観であったと気づくかもしれない。そこには誰よりも真摯な姿勢で録音や音楽に向き合おうとするふたりのミュージシャンの姿が、実際の音源を通して目にまざまざと浮かんでくるかのようである。それは音楽を聞いていても、クール、かっこいい、というイメージを抱かざるをえない。そして最後にはトーレスの得意とするスポークンワード風のボーカルが登場するのにも注目したい。

 

 「10-Showdown」はジュリアンがリードボーカルを担う。静かな雰囲気に満ちた美しいバラードソングで、そして内的な静けさという今までになかった気風が漂う。この数年、制作者が作ってきたポピュラーソングを改めて回顧するような内容になっている。しかし、例えば、2021年のソロアルバムと比べてみると、本格派のシンガーとしての威風堂々たる雰囲気を感じさせる。明言こそできないが、シンガーソングライターとしての進化の気配が伺えるのである。

 

 「11-Silvia」は異なる個性を持つシンガーソングライターの才能が見事に花開いた瞬間である。イントロは哀愁あふれるフレーズをトーレスが歌い、その後、デュエット形式に変わり、美麗なハーモニーを形成する。個人的な出来事をリリカルに歌う歌手は多いが、この曲のポイントは両者で共有される第三者への思い。そこには痛切な感覚が漂い、シンプルな「シルビア、私を忘れないで.......」というフレーズが深い慕情を持つに至る。きっと、トーレス、ジュリアンともに言葉の重さを痛感しているからこそ、こういった心に響く曲を書くことが出来た。カントリーと銘打たれた本格派のアルバムの中で、この曲はポピュラーソングとして異彩を放つ。ダークで気だるいような感覚からもたらされる最も美しい感情の結晶が生み出されたのである。

 

 

 聴き応え十分だし、マタドールのレコーディングの素晴らしさも美点で、惚れ惚れしてしまう。ジュリアン・ベイカーとトーレスの真摯な音楽に対する姿勢と、意外な一面を感じさせる素晴らしいアルバム。このアルバムが、アメリカの音楽市場に、どのような影響をもたらすのかは定かではない。しかし、良質なカントリーアルバムとして、後世にさりげなく語り継がれるでしょう。もちろん、少数派の人間としての意見やスターダムに押し上げられた歌手の気持ちをストレートに反映させているのも、ひとつの魅力となりえる。少しシリアスな内容に傾きかけたアルバムは、その後、穏やかで柔らかい雰囲気を持ってクライマックスを迎える。トーレスはジュリアンに語りかけ、ジュリアンがそれに答え、軽快なカントリーソングが展開される。 レコーディングや音楽として高水準にあるだけではなく、伝えたいことが明確なのである。

 



90/100

 

 

 

 

Best Track-「Sylvia」

 


▪Julien Baker & TORRESのニューアルバム『Send A Prayer My Way』はマタドールより本日発売。ストリーミング/購入はこちらより。日本国内では、beatink/ディスクユニオンで販売中。




ジョニが「痛みとは、誰かを愛するために支払う代償」と言うのは、彼女自身の深い経験に依るものだ。 このシンガー・ソングライターは、長年のパートナーであり、最も親しい音楽的コラボレーターとともにLAからロンドンに移り住んだが、しかし、突然、深く不安にさせるような別れに直面した。


彼女の印象的なニュー・アルバム『Things I Left Behind』は、その前と後の旅の記録であり、そのスナップショットが示唆するように、深く個人的で力強い感動を与えてくれる。 10曲の新曲で構成されたこのアルバムは、ファイスト、スパークルホース、ダニエル・ジョンストンなどの影響を受けながら、その不完全さを受け入れている。


ニューヨークとロサンゼルスの両方で、20代の大半を他のアーティストのためのソングライティングに費やしてきたジョニは、パンデミックによって共作セッションが不可能になったとき、自分の音楽に焦点を戻した。 ロンドンでは、ローラ・ヴィアーズ、アクアラング、オールド・シー・ブリゲード、ダン・クロールなどのツアーに参加し、成功の片鱗を見せた。


ルーク・シタル=シンとのツアー中、ついに事態は収束に向かった。 「以前の交際中、レコーディングのプロセスはとても不健康なものだった」


「私の音楽が良いのは、元彼のプロダクションと彼の極端な仕事のやり方によるものだと信じていた。 レコーディング・セッションのほとんどは涙で終わった。 影から抜け出すには時間がかかった。 ある晩、ルークと一緒にツアーをしていたとき、心が折れてしまって、自分がどれほど迷っているかを彼に話してみた。彼は、一緒にレコーディングしてみないかと言ってくれた」


彼らが最初に取り組んだ曲は「Still Young」で、アルバムの最後を飾る曲であり、後にLP『Things I Left Behind』となる作品のキッカケとなった瞬間だった。 この4分間の "Still Young "は、ジョニが放つ魅力、告白的な歌詞、疲れた心を、愛らしく説得力のあるポップ・ハートで昇華させたことを示している。


皮肉なことに、ルーク・シタル=シンと新しいレコーディングで一緒に仕事をし続けることを誓ったジョニは、ルークが住んでいたLAに戻って次の章を始めることになった。 「元カレと住んでいた場所に戻るのはシュールだった。 昔の生活について書いていたら、突然そこに戻ってきたの」


潜水艦乗りの娘であるジョニの幼少期は、アメリカ、ヨーロッパ、アジアを転々とした。 そして今、失恋と喪失の新鮮な鋭さを胸に、彼女はその感情を自由かつ鋭く、心の底から書き始めた。


アルバムのファーストシングルである「Avalanches」は、アルバムのトーンや感触を音で表現するのに適した入り口であると同時に、その鼓動の中心をテーマ的に要約している。 「この曲は、人間関係の終わりという痛みと傷心について歌っている。 "痛みとは、誰かを愛するために支払う代償"。 光り輝く3分弱の珠玉のこの曲は、夢のような空間を切り開く彼女のコツを象徴しており、常に何か半分埋もれたもの、水面下の暗い陰謀の波紋をほのめかしているようだ。


これはタイトル・トラック「Things I Left Behind」で前面に出てくるもので、成長することの多くがいかに人や場所やものを失うことに集中しているか、前進するにつれていかに自分自身の断片を置き去りにしてしまうかを魅惑的に語っている。 シャッフルするようなドラム・ビートに支えられながら、曲は永遠に前進を続け、ジョニの歌声は、微妙に渦巻くギターと様々な音色の変化に対して適切に魅力的に感じられ、この曲に妖艶なエッジを与えている。


他にも、「ストロベリー・レーン」では、明らかに痛ましいスライドドアのような瞬間が詳細に描かれている。 この曲は、ジョニが当初想像していたように彼女の関係が続き、2人が一緒に年をとり、すべてがうまくいく理想的な場所をフィクションとして垣間見せている。


しかし、ご存知の通り、人生にはそれなりの計画があることが多く、全体として見れば、『Things I Left Behind』は、そのようなものへの痛烈で喚起的な頌歌である。 揺れ動く始まりから、ジョニは片足を前に出し、自分自身に戻るだけでなく、アーティストとしても個人としても成長できる新しい道を見つける方法を見つけたのだ。


アルバムのエンディングを飾る "PS "は、このアルバムのために書かれた最後の曲でもあり、ジョニがある種の解決、ある種の勝利に辿り着けたと確信した瞬間でもあった。 「なぜか、物語が一区切りしたような気がして、私はふいにそこに安らぎのような感覚を見出したのです」とジョニは言う。 「もしあの日、すべてが変わるとわかっていたら、私はレコードを聴かせていただろうに。 私は戦わず、あなたを手放し、あなたを愛したことを喜んだだろうに」



Joni  『Things I Left Behind』- Keeled Scales


 

ニューヨーク、ロサンゼルス、アジア、そして現在はロンドンというように、音楽の主要な文化都市を渡り歩いてきたシンガーソングライター、Joniはデビューアルバム『Things I Left Behind』をテキサスのインディペンデントレーベル、キールド・スケールズからリリースした。

 

このレーベルはソロシンガーの発掘に特化しており、Why Bonnie、Meerna,Will Johnsonなど良質な才能を見出してきた。ポピュラー、ロック、フォークなど、音楽的には幅広く、それほど画一的ではないものの、ポピュラーシンガーの才能を上手く引き出すようなレコーディングを幾つも残している。Joniに関しても、ロックシンガーというよりもポピュラーシンガーの性質が色濃い。デビュー・アルバムということで、溌剌とした印象を持つインディーポップソングがオープニングを飾るが、その後は意外な音楽の変遷を辿る。まるでそれは、何らかの音楽的な壁に突き当たるごとに、少しずつその音楽性を変貌させてきたことを暗示するかのようである。

 

Joniの音楽活動は最近始まったというわけではなくて、2015年から断続的にシングルのみをリリースしてきた。デビュー・アルバムをリリースするまでに実に10年もの歳月を費やした。

 

アルバムは表向きには、ルーシー・ローズのようなインディーポップソングの印象が強い。しかし、同時に10年の月日が録音作品全体に音楽的な奥深さをもたらしている。このアルバムでロンドンのシンガーソングライターは、過去の自分を振り返り、回想するが、そこには深い憂いが漂う。旅の記憶というモチーフで制作された本作は、ジョニの人生の流れを反映させている。聞き手は映画さながらにシンガーの人生の転変のトランジションを垣間見ることになるだろう。

 

このアルバムは映画やアニメのシナリオなどにもよくあるように、 転変の多い人生を表している。映画などでは、そのなかで主人公は何らかの経過を通して、その停滞を打開しようとする。首尾よく行けば、ハッピーエンドとなるが、ところが、実際の人生はそのようにいかない場合もある。映画のエンディングのようにスカっとはせず、何らかの気持ちの落とし所がつかず、もやもやすることがある。それは心の中の凝りのようなものとしてわだかまりつづける。このアルバムは実際的に、その心残りのようなものを解消するための”魂の内在的な旅路”である。

 

楽しい思い出、悲しい思い出といった、いくつかの出来事を回想しながら、それらにさりげない別れを告げる。アルバムの音楽は一見すると、後ろ向きのように思える。しかしながら、いくつかの音楽を経て、それらがまったく最初のモチーフやテーマから印象が転化する瞬間がある。それを何らかの形で感じとれるかどうかが、アルバムの評価を分け隔てる。悲観的な考えを出発点とし、その出発点からどれだけ遠ざかることができるのか。そしてあるとき、後ろを振り返ったとき、まったく違う地点にいることに気がつく。それが人間の成長であり、同時に音楽の進化でもある。自分でも信じられない存在に生まれかわることも出来る。それがソロのシンガーソングライターの魅力なのであり、歌や音楽というのはそのための媒体の意味を持つ。

 

音楽が徐々に変遷を経ながら、曲がりくねったり、まっすぐになったり、伸びていったり、しぼんだり、一筋縄ではいかないのが、ジョニのポップソング。しかし、それが音楽性に説得力を付与し、派手ではないが、音楽に一貫性と聴きごたえをもたらす。そして全般的には過去の自分をオルゴールの子守唄のような音楽で包み込む。それは過去の自己や恋人の関係との決別を意味するが、同時に、悲しい経験や痛み、それらを容認したり許容する音楽でもある。これが同じような状況にある人々の心にシンパシーをもたらし、癒やされるような瞬間を生み出す。


このアルバムはスターへの憧れを示すというような一般的なポピュラーアルバムで取り上げられるようなものではなく、名も無いシンガーソングライターのささやかな日記のような内容である。にもかかわらず、その音楽は、一般性があり、そして普遍的な感覚に満ちている。もちろん、言語圏をえらばず、広く聞かれるべき要素をもたずにはいられないのである。

 

 

ジョニは、例えば、デル・レイ、ミツキやザウナーのように圧倒的なスター性に恵まれたシンガーではないかもしれない。 ところが、等身大のソングライティングとも称すべき彼女の作曲は、個人的な趣旨と内容に縁取られ、普遍的な魅力に満ちあふれている。アートワークに連動するように、歌手は孤独というレンズを通し、もちろんそれを恐れず、自己に向き合い、それらを幻想的な眼差しで捉えようとする。そして、ぼんやりとした霧の向こうに憧れと容認を見い出す。しかし、その核心は音楽の彼方に存在し、非常にかすかに鳴り響くにとどまっている。音楽的な方向性がロック、インディーポップにいたろうとも、その中には淡い静けさがある。

 

 

シンガーソングライターの音楽が最も輝かしい瞬間を得るのは、個人的な出来事を歌っているのに、それが一般的な意味を持つような場合である。個人性と一般性の並立は、矛盾しているように思えるが、音楽としては併存することが可能である。そして個人的な営みに思える音楽も、聞き手側との共感というルートを通して何らかの通じあうような瞬間がある。これがポップソングの最大の強みである。


そして意外なことに、それが一般的ではないように思える歌の方が共感性をもたらすことがある。これは例えば、旧来の日本の歌謡曲のヒット・ソングなどを聴けば痛感出来る。聞き手に対して、共感性を及ぼすのは、一般的なシチュエーションではないような出来事が歌われ、それが音楽というある種の装置を通して濾過され、普遍性を獲得する瞬間なのである。そしてこれが形骸化していく音楽とそうでない音楽の別れ目ともなりえる。

 

 

 『The Things I Left Behind』を制作するために、ジョニは数年を費やして音楽性に磨きをかけてきた。本作の冒頭を飾る「Your Girl」で、その成果ははっきりと見えている。現在の洋楽のトレンドでもあるドリームポップに属する甘美なメロディーを元にし、プロデューサーの魔法のようなサウンド処理を通じて心地よい音楽性を作り出す。


この曲は、リングモジュラーのシンセサイザーで作り出したオルゴールのようなアルペジオで始まり、ファンシーな歌声で甘いメロディーを歌い、独自のポピュラー・ワールドを構築していく。


ルーク・シタル=シンのプロデュースは、この曲にダンス・ポップ/シンセ・ポップの要素をもたらし、The Japanese Houseを彷彿とさせるようなモダンなポップソングの印象へと変遷していく。アルバムの中では、最近のイギリスのミュージックシーンの影響を感じさせる。続く「Strawberry Lane」は、ベッドルームポップのソングライティグをベースにして、ファンシーな風味のポップソングを書いている。

 

「Your Girl」

 

 

 

アルバムの序盤ではポップソングの”軽さ”という側面を強調し、それらが現代のミュージックシーンとどのように連動するのかを探る。その中で、ニューヨークのPorchesやロサンゼルスのローファイなどの影響を上手く活かし、「Avalanches」が作り出された。これらは現代のレコーディングシステムから見て、チープな感覚のある音質を強調させ、ローファイなポップソングを作り出す。全体的には、ドリーム・ポップの範疇にあるサウンドアプローチもギターの演奏が入ると、ロックの印象に様変わりし、ソングライターの動きの多い人生を上手く反映している。全てを語らずとも、その人間性の一端を感じさせる。それがこのポップソングの魅力なのだ。そしてスペーシーなシンセを導入し、この曲の持つ世界観はだんだんと広がりを増していく。

 

本作の音楽は、ジョニが暮らしてきたロンドン、ニューヨーク、ロサンゼルスをクロスオーバーするかのように進んでいく。ロンドン風の音楽が登場したかと思えば、ニューヨーク風の音楽が出てくる。タイトル曲はニューヨークの2010年代のベースメントのロックの影響を感じさせ、DIIV、Beach Fossilsの系譜にあるスタイリッシュなロックソングとしてたのしめる。こういった2010年代のインディーロックはストリートの雰囲気を吸収し、ロックソングをヒップホップの音楽と劇的に融合させて登場したが、それを改めておさらいするような内容である。新しい要素としては、これらを男性的な観点ではなく女性的な観点から再考していることだ。軽快なドラミングに支えられるようにしてジョニのボーカルが最も溌剌とした印象を持つ瞬間。

 

アルバムの前半部では一貫してインディーポップシンガーとしてのイメージを打ち出しているが、後半になると印象が一変する。また、プレスリリースでも示されるように音楽の旅というモチーフが明らかになる。明確には、場所や地域などはタイトルに付けられていないが、それらの体験のようなものを、人生の出来事を通して音楽的なジャンルに制限されずに体現させていく。


「Castle」では音楽の印象が一変し、アンティークなピアノの演奏を通したピアノバラードが登場する。伴奏となるピアノのシンプルなアルペジオをオルゴールのように見立て、ジョニは癒やしのポップソングを提供する。ポスト・クラシカルのような音楽とも連動しているが、ジョニの曲の場合はジャズボーカルの音楽の気配が強い。''ファーザー・ジョン・ミスティの女性版''とも言えるジャズの古典的なボーカルの雰囲気を受け継いで、それらをディズニー的な雰囲気を持つバラードに仕上げている。さらに、シンセサイザーによって作り出されたコントラバスのピチカートを伴奏に配することにより、この曲を現代的なジャズ・ボーカルへと接近させる。この瞬間、部分的にデル・レイ、ミツキのようなシンガーの持つ夢想的な領域へと近づく。

 

 

ジョニは次の曲でアコースティックギターを用いた、ささやかなフォークソングを披露している。「Birthday」は過去の誕生日を思い起こさせ、ケーキのろうそくを吹き消すというシーンをレコーディングにより実際に表現している。二曲目の「Strawberry Lane」のようなローファイな録音性を活かし、どこまでもパーソナルでささやかなフォークバラードを書いている。この曲はビートルズのデモソングのような気楽な雰囲気を生み出し、アルバムの癒やしの瞬間をもたらす。

 

こういった遊び心のある音楽性はシンガーソングライターのアルバムを聴くときに、近づきやすさをもたらすに違いない。フラットな感覚を持つ「Bucket List」が終盤の収録曲とのつなぎ目や連結のような役割を担う。エレアコの心地よいギターが、ジョニの持つ幻想的な音楽性と結びついて、アートワークに表されるような、牧歌的な音楽性が生み出されている。この曲では、歌手の浮き立つような気持ちが軽やかなアルペジオを配したギターソングにより表現される。

 

 

アルバムの終盤では、リバプールの同名の川の流域で流行った懐かしき「マージー・ビート」を登場させる。「The Tide」では、彼女のルーツともいえる港の舟歌のような音楽性に挑戦し、ブルースやパブロック、The La's、オアシスはもちろん、ビートルズの最初期の音楽性でもあるマージービートをゆったりとしたテンポで縁取っている。アルバムの序盤では、キュートなポップソングのイメージを打ち出しているが、シンガーの持つ渋い一面がこの曲以降で明らかに。


「The Tide」は、波の雄大さを港から見守るようなかっこよさを体現させている。このアルバムはロンドンに始まり、そして、ロサンゼルス、ニューヨークを経て、その後、リバプール経由でマンチェスターにたどり着く。遠い船旅を試みるようなこのアルバムは、インディーポップという音楽性を塗り替えるような意味合いが込められている。「Still Young」は、オアシス、リアム・ギャラガーのソロ、ビートルズの直系の一曲である。こういった曲は、今、女性のシンガーが積極的に歌う時代に到来しているのだろうか。ある意味、お約束ともいえる音楽も、ジョニのファンシーかつドリーミーな感覚に包まれると、優しげなキャラクターを持つようになる。

 

 

クローズを飾る「PS」は、ジョニがみずからに当てた手紙なのか。ギターのローファイなレコーディングを活かし、デモソングの延長線上にある、ささやかなバラードで本作は終わる。音楽の持つ世界を去るのが名残惜しいが、さっぱりとしている奇妙なアルバム。しかし、その音楽の余韻はとても心地良く、子守歌のような慈しみと温かいエモーションに満ち溢れている。

 

 

84/100 

 

 

「Still Young」

 

 

 

▪Joniのニューアルバム『The Things I Left Behind』はKeeled Scalesから本日より発売中です。ストリーミングはこちらから。

 


 

ニューヨークの四人組のインディーフォークバンド、フローリスト(Florist)は、エイドリアン・レンカー/バック・ミーク擁するBig Thiefと並んで同地のフォークシーンをリードする存在である。もちろん彼等はニューヨークのインディーズ音楽の最前線を紹介するグループ。

 

フローリストはエミリー・A・スプラグを中心に四人組のバンドとしてたえず緊密な人間関係を築いてきた。2017年にリリースされた2ndアルバム『If Blue Could Talk』の後、バンドは少しの休止期間を取ることに決めた。直後、エミリー・スプラグは母親の死の報告を受けたが、なかなかそのことを受け入れることが出来なかった。「どうやって生きるのか?」を考えるため、西海岸に移住。その間、エミリー・A・スプラグは『Emily Alone』をリリースしたが、これは実質的に”Florist”という名義でリリースされたソロアルバムとなった。しかし、このアルバムで、スプラグは、既に次のバンドのセルフタイトルの音楽性の萌芽のようなものを見出していた。バンドでの密接な関係とは対極にある個人的な孤立を探求した作品が重要なヒントとなった。



その後、エミリー・スプラグは、3年間、ロサンゼルスで孤独を味わい、自分のアイデンティティを探った。深い内面の探求が行われた後、彼女はよりバンドとして密接な関係を築き上げることが重要だと気がついた。それは、この人物にとっての数年間の疑問である「どうやって生きるのか」についての答えの端緒を見出したともいえるかも知れなかった。このときのことについてスプラグは、「ようやく家に帰る時期が来たと思いました。そして、複雑だから、辛いからという理由で、何かを敬遠するようなことはしたくない」と振り返っている。「だから、もう一人でいるのはやめようと思いました。もう1人でいるのは嫌だと思った」と話している。


彼女は2019年6月、フローリストの残りのメンバーであるリック・スパタロ、ジョニー・ベイカー、フェリックス・ウォルワースと再び会い、レコーディングに取り掛かった。セルフタイトルへの制作環境を彼女はメンバーとともに築き上げていく。バンドは、アメリカ合衆国の東部、ニューヨーク州を流れるハドソン渓谷の大きな丘の端にある古い家をフローリストは間借りし、その裏には畑と小川があった。

 

バンドのスプラグとスパタロは先に家に到着し、自然の中に完全に浸ることができる網戸付きの大きなポーチで機材をセットアップすることに決めた。これらの豊かな自然に包まれた静かな制作環境は、前作のセルフタイトルアルバム『Florist』に大きな影響を与え、彼らに大きなインスピレーションを授けた。フォークミュージックとネイチャーの融合というこのアルバムのに掲げられる主要な音楽性は、この制作段階の環境の影響を受けて生み出された。もちろん、アルバムの中に流れる音楽の温もりやたおやかさについてはいうまでもないことである。これらのハドソン川流域の景色は、このメンバーに音楽とは何たるかを思い出させたとも言えるだろう。 


『Jellywish』で、フローリストはリスナーをあらゆることに疑問を投げかけ、魔法、超現実主義、超自然的なものが日常生活の仲間である世界を想像するよう誘う。 "ジェリーウィッシュ"は、杓子定規で、制限的で、ひどく感じられる時代に、あえて可能性と想像力の領域を提示する。


このアルバムでFloristは明確な答えを提示することなく、人生の大きな問いを探求している。 その代わりに、バンドはおそらく最も難しい問いを投げかけている 。「染み付いた思考サイクルや、ありきたりな生き方から抜け出すことは可能なのだろうか? それこそが、真に幸福で、満たされ、自由になる唯一の方法なのかもしれない」


シンガー、ギタリスト、そして主要ソングライターであるエミリー・スプレイグは、このアルバムはわざと複雑にしてあると言う。 『本当に混沌としていて、混乱していて、多面的なものを優しく伝えようとしている』と彼女は説明する。 

 

「私たちの世界にインスパイアされたテクニカラーと、私たちの世界から脱出するためのファンタジー的な要素もある」


バンドはおよそ2年間ツアーを中心に活動しながら、苦しみや喜びをはじめとする様々な感覚が人々とどこかで繋がっているのを感じていた。そのことをエミリー・スプレイグは哲学や思想的な側面から解き明かそうとしている。もちろん、それは西海岸に住んでいた時代から続いていたものだった。我々は多くの経験をして学ぶ生き物なのであり、地球に生まれたからにはそのことを心に留めなければ。そしてどのような人も生きている限りは例外ではない。さらにフローリストは目に見えないものを大切にし続け、より良い世界を作るために音楽を作り続ける。


「セルフタイトルのレコードをリリースしてから数年間、私たち(人間は集合体として、多くの小さな行動、感情、反応によって互いに影響し合い、周りの世界に影響を与えている。 この曲は、私たちのそばにある目に見えない世界を信じ、その視点を使ってベールを突き破り、謙虚な現実の中で、共感、愛、他者との繋がりを生み出すための強力なツールを作ることを提案している」

 

「私たちの種としての力を引き出し、実際の善のための変化を生み出し、すべての人々の人生をより良く、平等にするため、私たちはあえて互いを大切にし、地球上の生命を大切にしないものに反対を唱えたい」



Florist 『Jellywish』- Double Double Whammy



フローリストと出会ったのは2022年のセルフタイトル『Florist』だった。結局、この時期と前後して、バーモントのLutaloという素晴らしいシンガーの音楽にも出会うことができたことに感謝したい。古くはパンクやロックのメッカとして栄えてきたニューヨークという土地が現在では様相が変化し、インディーズのフォーク音楽の重要な生産地であるということが掴めてきた。


あるミュージシャンの話によると、現在の同地には、CBGBのフォークシーン、マクシス・カンサス・シティのような固まったロックムーブメントというものは存在しないかもしれない。しかし、CBGBの創業者のクリスタルがカントリー・グラスのムーブメントを作ろうとした壮大な着想が花開いたのは、2020年代に入ってからだった。


しかも、それは、CBGBが閉店してずいぶん後になってからといえるかもしれない。元々、ニューヨークのパンクは、実はそのほとんどがカントリー・ミュージックを宣伝しようとするライブハウスから始まったせいもあり、テレビジョンを筆頭に、詩学などの文学性やインテリジェンスを感じさせる音楽性が含まれていたのである。同時に、ウォール街を象徴として発展してきた金融街であるニューヨークは、その時代ごとに音楽文化を様変わりさせてきた。

 

パティ・スミスにせよ、ラモーンズのような存在にせよ、また、バックストリートで屯していたヒップホップミュージシャン、あるいは2000年以降のミレニアム世代のフォークミュージックを象徴するビックシーフ、あるいはBODEGAのようなポスト世代のパンクバンドですら、彼等は20世紀の経済発展の象徴とも言えるニューヨークの街角で生活し、資本主義の価値観が蔓延する中で、それぞれが人間としてどのように生きるのかというテーマを探し求めてきた。 


なぜそこまでをするのか、と考える人もいるかもしれない。そして、それは摩天楼の世界があまりに強大であるがゆえ、個人やグループとして音楽を作るということが、異質なほど切実な意味を持つようになるからだ。音楽やそれに付随する何らかの芸術作品を制作し、ライブハウスやファンと交流すること、それは自分の存在を確認するためでもあった。これは専業か否かという問題ではなく、音楽そのものがもの凄く切実な意味を持っていた。そうでもしなければ、個人という存在すらかき消されてしまうことがある。これが資本主義社会の実態なのである。

 

今後の社会情勢がどのように移ろい変わっていくにしても、大局というのはそれほど大きくは変化しないのではないだろうか。近年、後期資本主義という概念を提唱する経済学者もいたかもしれないが、結局、これらは手を変え品を変えといった具合に、別のルートをぐるぐる回っていくのだろう。ある資本主義の形態に限界が来ると、次の資本形態に移行していく。確かにそうかもしれない。繰り返しが今後も続く事が予測される。しかし、人間はいつも制限的な社会の中で暮らさねばならないが、こういった外的な環境に左右されない普遍性というものが存在する。いつの時代もそれに人々は癒やされ、心を躍らせる。そして外側の風景などは移ろい変わっていくだけの、ただの風物のようなものであると気が付かずにはいられない。こんなことを言うのは、いま現在、世界でカオスをもたらす原因が再び発生しようとしているからである。

 

 

そして、政治は敵対意識や反抗意識を市民に植え付けるが、もし、世界の中に融和や協調という概念が生じるとすれば、それはやはりリベラルアーツを始めとする分野、それから音楽のようなものを通してと言わざるを得ない。最近では日本の大手銀行の社員研修で芸術鑑賞をするという話題があったが、''なぜ仕事に関係のないことをするのか''と疑念を抱く人もいるに違いない。そういうことをするのは、この世界には無数の道筋があるということを確認するためなのだ。それは、何らかの苦境に陥った時、安心や癒やしの瞬間をもたらす場合がある。もし、この世の中のすべての生産物が何らかの経済的な利益を生み出すため”だけ”に存在しているすれば、利益を生み出さないものは存在価値がないということになる。しかし、人生が順風満帆であるときにはわからないけれど、利益を生み出さなくとも意義を持つ生産物は限りなく存在する。そういうことを理解したとき、本当のものの価値を知ることになる。そして、同時に、この世界の多くのものが相対的な価値という杓子定規で計測されているに過ぎないことに気がつく。

 

 

フローリストの音楽は少なくとも、こういった相対的な価値に軸足を置いていない。 流行り廃りというのは確実に存在し、昨日までは絶対的な価値を持つとされていたものが、数年経つと、なんの価値も見出されないようになる事例がよくある。そして、これが相対的な価値を元にした世界のかなり残酷な一面なのである。


しかし、上記のようなことを踏まえた上で大切にすべきポイントがある。それは、好き、熱中する、もしくはワクワクする、というような独自の評価軸を人生の指針にするということである。誰かの意見やお墨付きをもらわなくとも、自分の感覚を重要視してゆっくりと歩いていくべきなのだ。そして、水かけ論のようになってしまうけれど、『Jerrywish』は四人組のフォークバンドの”好き”という感覚が重要視されている。彼等は音楽に心から夢中になっているし、そして、彼らは音楽の力を心から信じている。

 

 

現在の米国の社会情勢はカオスに陥っている印象である。考えの相違によって何らかの分断が起きていても不思議ではない。例えば、フォークミュージックの象徴であるニール・ヤングは、グラストンベリーに出演するため、アメリカを出国したあと、母国に帰れなくなるのではないかと懸念しているのだという。また、ノーベル賞受賞者のボブ・ディランは、近年は公の発言を控えている印象であるが、社会的な提言を言いたくて、うずうずしているかもしれない。


そして、フローリストに関して言えば、彼等の伝統的なフォーク音楽を受け継いで、それらを未来の世代に伝える重要な継承者のような存在である。そして、このアルバム『Jerrywish』では、幻想主義を交えながら、現実世界を俯瞰し、2020年代を生きるミュージシャンとして何を歌うべきかという点に照準が絞られている。


すべてが理想の通りにいったとはいえないかもしれないが、エミリー・ スプラグを中心とするバンドは、より良き社会を作り上げるため、軽やかなフォーク音楽に乗せて、建設的な提言を行っている。そしてそれは、ヤングやディランと同じように、社会を変えるような大きなパワーを持っている。また、本来は地球の人々が一つに繋がっているという理想主義的な概念を捉えられる。条件や環境、価値観の違いを乗り越えるという考え、それらはジョン・レノンに近いものである。同時にそれは、現実社会では容易には達成しがたいので、リベラルアーツや音楽という形で多くのクリエイターたちが提言してきた、ないしは伝えてきた内容でもあるのだ。

 

 

フローリストは、ニューヨークの山岳地帯のキャッツキルのプロジェクトとして知られている通り、自然主義者としての側面を持っている。それはアルバムの全体に通奏低音のように響きわたり、生き物全般を愛するという普遍的な博愛主義に縁取られている。アルバムはオーガニックな質感を持つアコースティックのフォークミュージックで始まり、「Levitate」はその序章となる。


「Levitate」は、音楽の助走のような役割を果たし、風車小屋の水の流れを補佐するかのように、アルバムの世界を少しずつ広げていく。


アルペジオを中心とする滑らかなフォークギターに合わせて、エミリー・スプラグは、心を和ませるような和平的な歌を歌い上げて、混乱した世界に規律をもたらす。こういった音楽は、世界と自分の生きている社会がどこかで繋がっていることを知らないと作れない。そしてまた、自分たちの音楽が聴き手にどんな影響を及ぼすのかを考えないと到達しえない。実際的に、スプラグはディランの影響下にある渋いボーカルを披露し、牧歌的な世界観を押し広げていく。

 

野原や牧草地のような情景を思わせる伸びやかな音楽で始まり、「Have Heaven」では、まるで小川の縁に堰き止めている小舟に乗り、実際に櫂を漕ぎながら、歌をうたうかのように雰囲気だ。ローファイなサウンド処理、マイクでドラムの近い音域を拾う指向性など、VUのような音楽作りを元に、どことなくシネマティックで幻想的なフォーク・ミュージックが構築される。音楽そのものが実際的な情景を呼び起こすのが素晴らしい点で、聞き手は映画「草原の実験」のように自由に発想をめぐらすことが出来る。バンドとしての音の運びもお見事としかいいようがなく、ロマンティックな感覚を滑らかなフォークミュージックによって表現している。ここでは、そよ風に揺られて、歌をつむぐような独特なサウンドスケープを呼び起こすことがある。そして印象的なフレーズ「私の中には天国がある」という、啓示的な歌詞を幻想的に歌う。 


 

「Have Heaven」

 

 

アルバムは一連なりの川の流れのように繋がっている。「Jellyfish」について、スプラグは次のように語る。


「Jellyfishはアルバムのタイトル曲であり、また、世界観を押し広げるための役割を担っている」


「この曲は、私たちの世界の神秘に驚嘆すると同時に、人間の手によってその多くが破壊されたことを嘆いている。 私たちの心と自然界との間に一本の線を引き、この曲とレコードの重要なテーマを確立している」


「この曲は、リスナーに対して、私たちは幸せと愛に値するというパワーセンターを思い出させることで終わっている。これは、以前の歌詞を反映している。"地球のすべてを破壊する "という歌詞は、物事がどのように見えるかについての考察である」 


制作者の言葉の通り、タイトル曲は人生の嘆きのなかで本質的な概念とはなんなのかを思い出させる。暗さと明るさの感情の合間を行き来するフォークミュージックをベースにし、少し遊び心のある水の音のサンプリングなどを介して、魅惑的な音楽が繰り広げられる。

 

 

「Started To Glow」は、具体的な曲名が思い浮かばないが、ビートルズの初期の楽曲を彷彿とさせる。柔らかいアコースティックギターのストロークが音楽的な開放感をもたらし、そしてソフトな感じのボーカルが乗せられる。 曲はどこまでも爽やかで、ピアノのユニゾンのフレーズを相まってどこまでも精妙かつ静謐である。ギターの開放弦を強調したコードの演奏は滑らかであるが、ボーカルも他のアンサンブルとの息の取り方をよく配慮していて、ボーカルとギターそれぞれが主役として入れ替わる。これが音楽の休符の重要性を示唆するにとどまらず、癒やしの瞬間をもたらす。時々、これらのフレーズの合間に入るアンビエント風のシンセも幻想的な雰囲気を与えている。録音全体にもさりげない工夫が凝らされ、テープディレイの処理が入ることも。これらは実験的な要素もあるが、全体的な音楽の聴きやすさが維持されている。

 

制作者のコメントでは「タイトル曲が暗め」ということであるが、「This Was A Gift」は、より物憂げなトーンに縁取られている。しかし、曲自体は内省的な雰囲気があるとしても、ドラムがそのメロディーをリズム的な側面から支えることで、曲全体の印象をダイナミックにしている。


「This Was A Gift」はドラムが傑出している。他の曲では、ジャズで使われるブラシの音色が登場することもあるが、この曲ではスティックでゆったりとしたリズムを作り出している。スネアにリバーブ/ディレイを施し、程よい広さの音像を作り上げ、空間的なアンビエンスを維持している。大切なのは、ドラムのフィルが曲の憂鬱なイメージをドラマティックにしていることだろう。つまり、パーカッションがボーカルの旋律の情感を上手く引き出そうと手助けしている。


ドラムがボーカルのフレーズとユニゾンを描き、三連符のように省略されて演奏されたりもする。バンドの演奏の連携がうまく取れていて、音楽自体が高い水準に達しているが、それを感じさせず、気楽に演奏しているのがクール。さらに、ローズピアノも登場し、アクセントをつけるため、きらめきのあるフレーズが導入される。どの楽器も乱雑に演奏されるのではなく、各々の楽器が器楽的に重要な役割を担い、しかもタイトにまとめ上げられているのが素晴らしい。

 

 

アルバムの前半ではモダンなフォークバンドとしての姿を見出だせる。一方で、中盤の収録曲において、Floristは古典的なコンテンポラリーフォークにも取り組んでいる。


「All The Same Light」ではボブ・ディラン風のフォークソングとして楽しめる。ただやはり、男性的な音楽であったフォーク音楽は時代が変わり、レッテルや性別を超えた中性的な音楽に代わりつつあるのを実感せざるをえない。これらは完全に女性のものになったとは言えないけれど、少なくとも、従来のカントリー/ブルーグラスのヒロイックな男性シンガーという枠組みだけではこの音楽を語りつくせないものがある。


フォーク音楽は、古くは男性的なロマンやアウトサイダーの心情を反映してきたが、類型的な表現から個人的な表現へと少しずつ変化してきている。そして、それらは西部劇的な英雄というイメージのあったフォーク歌手の従来の固定概念から脱却し、一般的な音楽へと変化しつつあるのかもしれない。これらはアメリカのフォークミュージックの源泉を再訪する意味がもとめられる。


「Sparkle Song」も同じタイプの曲として楽しめるはず。おそらくフローリストはアルバムの制作するときに、スムーズな流れを断ち切らないように、前の曲の雰囲気を重視した上で、その雰囲気を壊さないように曲を慎重に収録している。それは実際的に、アルバムの楽しむ際に、聴きやすさをもたらすにとどまらず、何度もリピートしたいという欲求すら生じさせるのである。

 

 

一作品として語る上で、アルバムの真の醍醐味や凄さは、終盤のいくつかの収録曲に見出せる。フローリストが掲げる全体的なモチーフやテーマも、聴きすすめていくうち、なんとなく直感的に掴めてくるようになるはず。例えば、絵画や文学も同様であるが、はじめは手探りで不思議な世界を垣間見ていくと、なんとなく全体像が掴めてくるという感じ。そして、このアルバムは、音楽の持つ世界にじっくりと浸らせてくれる懐深さがあるということも重要だろうか。


それがなんに依るものかは明言出来ないが、少なくとも、アルバムをハンドクラフトのように制作する根気強さ、音楽に対する普遍的な信頼感、さらには前述したようなニューヨークに綿々と受け継がれる文化的な感覚が、こういった奥深いフォークミュージックの世界を形作ったのかもしれない。曲単体では即効性がないように思えるかもしれないが、必ずしもそうではないことが分かる。フローリストの曲はフルレングスとして聴くと、その真価が掴めるようになる。いうなればフローリストの音楽は聴けば聴くほど、深〜い味わいが滲み出てくるのである。

 

「Moon, Sea , Devil」、「Our Hearts In A Room」はフローリストの代表曲となる可能性があるだけではなく、2020年代のインディーフォークミュージックの名曲であるため、この音楽のファンは出来るだけ聞き逃さないようにしていただきたい。


「Moon, Sea , Devil」は同地のビック・シーフとも共鳴するような音楽であるが、フローリストの曲はよりオープンで、オーガニックな雰囲気に満ちている。そして、フローリストの音楽は、このアルバム全体を通して泣かせる要素を出来るかぎり避けているが、パーソナルでセンチメンタルな心情をバンド全体で共有したとき、心を揺さぶられるような崇高な感覚が現れる。


そしてそれは、ソングライターの個人的な考えが、バンドメンバーと共有された素晴らしい瞬間であり、抽象的な概念が音楽という目に映らないかたちを通じて、しっかりと具象化された''奇跡の瞬間''なのである。

 

音楽の核心のようなコアが最後に出現する。そして、その音楽が持つコアに触れたとき、アルバムやバンドのイメージが変化する。『Jellywish』の最も感動的な瞬間ーーそれはギミック的なものとは対極にあるささやかな喜びと驚きと共に到来する。彼らが伝えたいこと……、たぶんそれは、なにかを心から純粋に愛することの尊さである。


「Our Hearts In A Room」は雄大な感じがし、フォークソングとして普遍的な光輝を放ってやまない。メインボーカルとコーラスが合わさる時、フローリストのフォークバンドとしての圧倒的な偉大さが明らかになる。そしてそういう感覚を普段は控えめにしているのがこのバンドの魅力。『Jellywish』は清涼感を持って終わる。音楽そのものがさっぱりしていて後味を残すことがない。

 

 

 

95/100

 

 

 

 Best Track- 「Our Hearts In A Room」

 

ベイエリアのSPDELLLINGがもたらす新しいロックソングのカタチ、R&Bとハードロック/メタルの融合



ベイエリアのエクスペリメンタル・ポップの名手クリスティア・カブラルが名乗るSPELLLINGは、先見の明を持つアーティストとして頭角を現し、ジャンルの境界を押し広げ、豊かな構想に満ちたアルバムと魅惑的なライブ・パフォーマンスで聴衆を魅了している。  


SPELLLINGは、2017年に絶賛されたデビューアルバム『Pantheon of Me』をリリースし、広く知られるようになった。 このアルバムでは、ソングライター、プロデューサー、マルチ・インストゥルメンタリストとしての彼女の天才的な才能があらわとなった。 2019年、カブラルはSacred Bonesと契約し、待望の2ndアルバム『Mazy Fly』をリリースし、彼女の芸術的ヴィジョンをさらに高め、音のパレットを広げた。 


2021年、彼女は画期的なプロジェクト『The Turning Wheel』をリリースし、31人のコラボレート・ミュージシャンによるアンサンブルをフィーチャーしたアルバムをオーケストレーション、セルフ・プロデュースし、アーティストとしてのキャリアを決定づける。このアルバムは満場一致の賞賛を受け、2021年のザ・ニードル・ドロップスの年間アルバム第1位を獲得。  SPELLLINGと彼女のバンド「The Mystery School」は、カブラルの特異なステージプレゼンス、バンドの素晴らしい音楽性、観客との精神的な交感による刺激的なライブパフォーマンスを広く知らしめることになった。


本日、待望の4thアルバム『Portrait of My Heart』が発売される。パーソナルな意味を持つ『Portrait of My Heart』は、SPELLLINGの親密さとの関係を探求、エネルギッシュなアレンジとエモーショナルな生々しさを唯一無二の歌声と融合させ、画期的なかソングライターとしての地位を確固たるものにするラブソングを届けている。 


SPELLLINGが進化を続け、新たな音楽的領域を開拓するにつれ、彼女は生涯一度のアーティストとしての地位を確固たるものにする。リスナーを別世界へと誘う美しいサウンドスケープを創り出す能力と、超越的なライブ・パフォーマンスにより、彼女の熱狂的なファンは後を絶たない。 リリースを重ねるたびに、SPELLLINGは私たちを彼女の世界への魅惑的な旅へと誘い、リスナーの心に忘れがたい足跡を残している。 


クリスティア・カブラルがSPELLLINGとしてリリースした4枚目のアルバムで、ベイエリアのアーティストは、高評価を得ている彼女のアヴァン・ポップ・プロジェクトを鏡のように変化させた。 カブラルが『Portrait of My Heart』で綴った歌詞は、愛、親密さ、不安、疎外感に取り組んでいる。従来の作品の多くに見られた寓話的なアプローチから、人間の心情を指し示すリアリスティックな内容に変化しています。 このアルバムのテーマに対する率直さはアレンジにも反映され、SPELLLINGのアルバムの中で最も鋭く直接的な作品となっている。 


初期のダーク・ミニマリズムから、2021年の『The Turning Wheel』の豪華なオーケストレーションが施されたプログレ・ポップ、それから新しい創造的精神の活力的な表現にいたるまで、カブラルはSPELLLINGが彼女が必要とするものなら何にでもなれることを幾度も証明してきた。推進力のあるドラム・グルーヴと "I don't belong here "のアンセミックなコーラスが印象的なタイトル・トラックは、このアルバムがエモーショナルな直球勝負に転じたことを強烈に体現しています。 メインのメロディが生まれた後、カブラルはこの曲をパフォーマーとしての不安を処理するツールとして使い、タイトでロック志向の構成を選びました。 この変化は、ワイアット・オーヴァーソン(ギター)、パトリック・シェリー(ドラムス)、ジュリオ・ザビエル・チェット(ベース)のコア・バンドによる、エネルギーと即時性を持つ幅広いシフトを反映させ、さらに彼らのコラボレーションがSPELLLINGサウンドの新たな輪郭を明らかにしている。 


クリスティア・カブラルは現在でも単独で作曲やデモを行なっているが、『Portrait of My Heart』の曲をバンドメンバーに披露することで、最終的に生き生きとした有機的な形を発見した。それは彼女の音楽の共有をもとに、一般的なロックソングを制作するという今作のコンセプトに表れ出た。 『The Turning Wheel』のミキシング・エンジニアを務めたドリュー・ヴァンデンバーグ、SZAのコラボレーターとして知られるロブ・バイゼル、イヴ・トゥモアの作品を手掛けたサイムンという3人のプロデューサーとの共同作業に象徴されるように。


主要なゲストの参加は、音楽性をより一層洗練させた。 チャズ・ベア(Toro y Moi)は「Mount Analogue」でSPELLLING名義で初のデュエットを披露、ターンスタイルのギタリスト、パット・マクローリーは「Alibi」のためにカブラルが書いたオリジナルのピアノ・デモを、レコードに収録されているクランチーでリフが効いたバージョンに変え、ズールのブラクストン・マーセラスは「Drain」にドロドロした重厚さを与えた。 各パートはアルバムにシームレスに組み込まれているにとどまらず、アルバムの世界の不可欠な一部のようになった。


多数の貢献者がいたことは事実ですが、結局、『Portrait of My Heart』はカブラル以外の誰のものでもありません。 「アウトサイダーとしての感情、過剰なまでの警戒心、親密な関係に無鉄砲に身を投じても、すぐに冷めてしまう性格など、これまでSPELLLINGとしては決して書きえなかった自分自身の内面について、大胆不敵に解き明そうとした」とカブランは説明している。

 

 

SPELLLING 『Portrait of My Heart』- Sacred Bones


 

 『Portrait Of My Heart』はジャズアルバムのタイトルのようですが、実際は、クリスティア・カブラルのハードロックやメタル、グランジ、プログレッシヴロックなど多彩な音楽趣味を反映させた痛快な作品です。ギター、ベース、ドラムという基本的なバンド編成で彼女は制作に臨んでいますが、レコーディングのボーカルにはアーティスト自身のロックやメタルへの熱狂が内在し、それがロックを始めた頃の十代半ばのミュージシャンのようなパッションを放っている。

 

上手いか下手かは関係なく、本作はシンガーのロックに対する熱狂に溢れ、それがバンド形式による録音、三者のプロデューサーの協力によって完成した。カブラルの熱意はバンド全体に浸透し、他のミュージシャンの心を少年のように変えてしまった。録音としてはカラオケのように聞こえる部分もあるものの、まさしくロックファンが待望する熱狂的な感覚やアーティストのロックスターへの憧れ、そういった感覚が合わさり、聞き応え十分の作品が作り出された。

 

SPELLLINGはシューゲイズのポスト世代のアーティストとして特集されることがあったのですが、最後に収録されている『Sometimes』のカバーを除き、シューゲイズの性質は希薄です。 もっとも、この音楽が全般的には英国のハードロックやエレクトロの派生ジャンルとして始まり、スコットランドのネオアコースティックやアートポップ、ドリームポップやゴシックロックと結びついて台頭したことを度外視すれば……。しかしながら、アーティストのマライア、ホイットニー・ヒューストンのようなR&Bやソウルの系譜に属するきらびやかなポップソングがバンドの多趣味なメタル/ハードロックの要素と結びつき、かなり斬新なサウンドが生み出されています。


また、その中には、ソングライターのグランジに対する愛情が漂うことにお気づきになられるかも知れません、Soundgardenのクリス・コーネルの「Black Hole Sun」を想起させる懐かしく渋いタイプのロックバラードも収録されている。音楽そのものはアンダーグランドの領域に近づく場合もあり、ノイズコアやグランドコアのようなマニアックな要素も織り交ぜられています。しかし、全般的には、ポピュラー/ロックミュージックのディレクションの印象が色濃い。四作目のアルバム『Portrait of My Heart』で、SPELLINGはロックソングの音楽に限界がないことを示し、そして未知なる魅力が残されていることを明らかにします。

 

 

アルバムはポスト世代のグランジに加えて、シューゲイズ/ドリーム・ポップのようなソングライティングと合致したタイトル曲「Portrait of My Heart」で始まります。曲はさほど真新しさはありませんが、宇宙的なサウンド処理がギターロックとボーカルの中に入ると、SF的な雰囲気を持つ近未来のプログレ風のポピュラーソングに昇華されます。また、例えば、ヒップホップで見受けられるドラムのフィルター処理や従来の作品で培ってきたストリングスのアレンジメントを交えて、ミニマルな構成でありながらアグレッシヴで躍動感を持つ素晴らしいロックソングを制作しています。


そして、カブラルは、ソウルミュージックからの影響を反映させつつ、叙情的なボーカルメロディーの流れを形作り、ロックともソウルともつかない独特なトラックを完成させている。オルタネイトなロックソングとしてはマンネリ化しつつある作曲性を彼女持ち前のモダンなソウルやヒップホップからの影響を元にし、新鮮味に溢れる音楽に組み替えている。これは異質なほど音楽の引き出しが多いことを伺わせるとともに、彼女の隠れたレコードコレクターとしての性格をあらわにします。それが最終的に、80年代の質感を持つハードロック/メタル風のポップソングにアウトプットされる。

 

SPELLLINGは、''ジャンル''という言葉が売り手側やプロモーション側の概念ということを思い出させてくれる。それと同時に、アーティストはジャンルを道標に音楽を作るべきではないということを示唆します。


二曲目「Keep It Alive」は、詳しい年代は不明ですが、80年代のMTV時代のポピュラーソングやロックソングを踏襲し、オーケストラのアレンジを通して普遍的な音楽とは何かを探ります。 歌手としての多彩なキャラクターも大きな魅力と言えるでしょう。この曲のイントロでは10代のロックシンガーのような純粋な感覚があったかと思えば、曲の途中からは大人なソウルシンガーの歌唱に変貌していく。曲のセクションごとにボーカリストとしてのキャラクターを変え、曲自体の雰囲気を変化させるというのはシンガーとしての才質に恵まれたといえるでしょう。


カブラルはカメレオンのようにボーカリストとしての性質を変化させ、少なからず驚きを与える。歌手としての音域の広さというのも、音楽全体にバリエーションをもたらしています。さらに音楽的にも注目すべき箇所が多い。例えば、明るい曲調と暗い曲調を揺れ動きながら、内面の感覚を見事にアウトプットしている。SPELLLINGの書くロックソングは遊園地のアトラクションのように飽きさせず、次から次に移ろい代わり、後の展開をほとんど読ませない。そして、聴くごとに意外な感覚に打たれ、音楽に熱中させる要因を形づくる。これはまさに、アーティスト自身がロックソングに夢中になっているからこそ成しうることなのでしょう。そしてさらに、その情熱は、聞き手をシンガーの持つフィールドに呼び入れる奇妙なカリスマ性へと変化していく。

 

序盤では「Alibi」がバンガーの性質が色濃い。アリーナ級のロックソングを現代的なアーティストはどのように処理すべきなのか。そのヒントがこの曲には隠されている気がします。 リズムギターの刻みとなるバッキングに対して、ポップセンスを重視したスタジアム級の一曲を書き上げています。


イントロの後の、Aメロ、Bメロでは、快活で明るいイメージとは対象的にナイーブな感覚を持つ音楽性と対比させ、秀逸なソングライティングの手腕を示しています。この曲ではソロシンガーとしての影響もあってか、バンドアンサンブルの入りのズレがありますが、間のとり方が合わない部分もあえてレコーディングに残されている。音を過剰に修正したりするのではなくて、各楽器のフィルの入り方のズレのような瞬間をあえて録音に残し、ライヴサウンドのような音楽の現実性を重視している。こういった欠点は微笑ましいどころか、音に対する興味を惹きつけることがある。音楽としても面白さが満載です。プログレのスペーシーなシンセが曲の雰囲気を盛り上げる。

 

「Waterfall」は、ホイットニー・ヒューストンの系譜にある古き良きポピュラーソングに傾倒している。簡素なギターロックソングとしても存分に楽しめますが、特にボーカルの音域の広さが凄まじく、コーラスの箇所では3オクターブ程度の音域を披露します。そして、少し古典的に思えるロックソングも、Indigo De Souzaのようなコーラスワーク、それから圧倒的な歌唱力を部分的に披露することで、曲全体に適度なアクセントを付与している。ストレートなロックソングを中心にこのアルバムの音楽は繰り広げられますが、他方、ソウルやポピュラーシンガーとしての資質が傑出しています。ボーカルを一気呵成にレコーディングしている感じなので、これが曲の流れを妨げず、スムーズにしている。つまり、録音が不自然にならない理由なのでしょう。また、曲自体がそれほど傑出していないにもかかわらず、聞きいらせる何かが存在するのです。

 

そんな中、MVにちなんで言うと、カブラルのR&Bシンガーとしての才覚がきらりと光る瞬間がある。SPELLLINGはハスキーで渋いアルトの音域の歌声と、それとは対象的な華やかなソプラノの音域の歌声を同時に歌いこなす天賦の才に恵まれています。


「Destiny Arrives」は、おそらくタイトルが示す通り、デスティニーズ・チャイルドのようなダンサンブルなR&B音楽を踏襲し、それらを現代的なトラックに仕上げています。この曲はバンガー的なロックソング、あるいはバラード調のソウルとしてたのしめるでしょう。ピアノ、ホーン、シンセのアルペジオなどを織り交ぜながら、曲の後半の感動的な瞬間を丹念に作り上げてゆく。もはや使い古されたと思われる作曲の形も活用の仕方を変えると、まったく新しい音楽に生まれ変わる場合がある。そんな事例をカブラン、そしてバンドのメンバーやプロデューサーは示唆しているわけです。


「Ammunition」は、しっとりとしたソウル風のバラードで聞き入らせるものがある。全体的なレコーディングは完璧とは言えないかもしれませんが、音楽的な構成はきわめて優れています。ここでは部分的な転調を交えながら、曲を明るくしたり暗くしたりという色彩的なパレットが敷き詰められている。そして最終的には、アウトロにかけて、この曲は直情的な感覚のメタルやロックソングへと移ろい変わっていく。つまり、この曲にはメタルとソウルという意外な組み合わせを捉えることができます。

 

 

 「Destiny Arrives」

 

 

 

 アルバムの中盤でも聞かせる曲が多い。バンドアンサンブルはR&Bの境界を越え、ファンク・グループとしての性質が強める瞬間がある。例えば、トロイモアとのロマンティックなデュエットが繰り広げられる「Mount Analogue」ではベースがブルースや古典的なファンクのスケールを演奏してスモーキーな音楽を形成している。これらのオーティス・レディングのような古典的なR&Bのスタイルは、SPELLLINGのボーカルが入るや否や、表向きの音楽のキャラクターが驚くほど豹変する。時代に埋もれてしまった女性コーラスグループのような音楽なのか、ないしはモダンソウルの質感を帯び、聞き手を古いとも新しいともいえない独特なフィールドに招き入れる。バックバンドの期待に応えるかのように、カブラルはしっとりした大人の雰囲気のある歌を披露している。さらに、マライア、マドンナ、ヒューストンのような80年代の普遍的なポピュラーを現代に蘇らせています。

 

そういった中で、グランジのニュアンスが登場する場合もある。「Drain」はタイトルはNirvanaのようですが、実際はSoundgardenを彷彿とさせる。ギターのリフもサウンドガーデンに忠実な内容となっています。そして、この曲はクリス・コーネルの哀愁ある雰囲気に満たされていて、バックバンドも見事にそれらのグランジサウンドに貢献しています。これは、カブラルという2020年代の歌手によって新しくアップデートされたポスト・グランジの代名詞のようなトラックと言えるかもしれません。


プロデュースのサウンド処理も前衛的なニュアンスがまれに登場します。音楽の土台はサウンドガーデンの「Black Hole Sun」ですが、曲の後半では、Yves Tumorのようなモダンでアヴァンなエクスペリメンタルポップ/ハイパーポップに変化していく。この曲ではグランジにひそむポップネスという魅力が強調されています。そして、実際的に聴きこませるための説得力が存在する。

 

「Satisfaction」はストーンズ/ディーヴォのタイトルのようですが、実際はヘヴィメタルのテイストが満載です。ギターの大きめの音像を強調し、グラインドコアのようなヘヴィネスを印象付けるが、それほどテンポは過剰なほど早くならない。実際的にはストーナーロックのようにずしりと重く、KYUSSのようなワイルドなロックサウンドを彷彿とさせる。たとえ、それがコスプレに過ぎぬとしても、歌手は直情的なメタルのフレーズの中で圧巻の熱量を示すことに成功している。曲の後半ではメタルのギターリフを起点に、BPMをガンガン早めて、最終的にはグラインド・コアのような響きに変わる。ナパーム・デスのようなスラッシーなディストーションギターが炸裂する。

 

感情的には暗いものから明るいものまで多面的な心情を交えながら、 アルバムは核心となる部分に近づいていく。「Love Ray Eyes」は現代的なロックソングとして見ると、古典的な領域に属しているため、新しい物好きにとっては古いように思えるかもしれません。しかし、不思議と聴きのがせない部分がある。ギターのミュートのバッキングにせよ、シンプルなリズムを刻むドラムにせよ、ボーカリストとの意思疎通がしっかりと取れている気がします。そしてバンドアンサンブルとしてはインスタントであるにしても、穏和な空気感が漂っているのが微笑ましい。ストレートであることを恐れない。この点に、『Portrait of My Heart』の面白さが感じられるかもしれません。また、それは同時に、クリスティア・カブラルの声明代わりでもあるのでしょう。


「Sometimes」はご存知の通り、My Bloody Valentineのカバーソング。シンセやギターの演奏自体が原曲に忠実でありながら、別の曲に生まれ変わっているのが素晴らしい。それはカブラルのポップシンガーとしての才覚が珠玉の名曲を生まれ変わらせたのか。もしくは、シンガーの類い稀な情熱が曲を変容させたのだろうか。いずれにしても、このアルバムを評する際にいちばん大切なのは、アーティストが音楽を心から楽しんでいて、それが受け手にしっかり伝わってくるということでしょう。ロックするというのは何なのかといえば、聞き手の心を揺さぶるほど狂乱しまくること。それが伝播した時に名曲が出てくる。多くのミュージシャンには音楽を心から楽しむということを忘れないでもらいたいですね。

 

 

 

 

86/100

 

 

 

「Alibi」

 

 

 

・SPELLLINGのニューアルバム『Portrait of My Heart』はSacred Bonesから発売中です。アルバムのストリーミングはこちら


*初掲載時にアーティスト名に誤りがございました。正しくはSPELLLINGです。訂正とお詫び申し上げます。

Vijay Iyer



このレコーディング・セッションは、昨年(2023年)に起きた残酷な事件に対する私たちの悲しみと憤り、そして人間の可能性に対する信頼によって行われた。 - Vijay Iyer(ヴィジャイ・アイヤー)

 

2016年の『A Cosmic Rhythm With Each Stroke』に続く、ヴィジャイ・アイヤーとワダダ・レオ・スミスのECMへの2作目のデュオ形式のレコードとなる『Defiant Life』は、人間の条件についての深い瞑想であり、それが伴う苦難と回復の行為の両方を反映している。しかし同時に、このデュオのユニークな芸術的関係と、それが生み出す音楽表現の無限の形を証明するものでもある。ヴィジャイとワダダが音楽で出会うとき、彼らは同時に複数のレベルでつながるからだ。

 

「出会った瞬間から演奏する瞬間まで、私たちが一緒に過ごす時間は、世界の状況について話したり、解放の歴史を学んだり、読書や歴史的文献を共有したりすることに費やされることが多かった」


アイヤーは、ライナーノートの中で、彼とスミスとのそのような会話を長々と書き起こし、このアルバムにインスピレーションを与えた個々のテーマと、特に「反抗的」という言葉について、より詳しく明らかにしている。

 

ワダダの「Floating River Requiem」は1961年に暗殺されたコンゴの首相パトリス・ルムンバに、ヴィジャイの「Kite」は2023年にガザで殺害されたパレスチナの作家・詩人レファート・アラレアに捧げられたものだ。このような思考と考察の枠組みの中で、この作品は生まれた。


Wadada Leo Smith


ヴィジャイとワダダはともにECMと幅広い歴史を共有しており、ワダダは1979年のリーダー作『Divine Love』で早くからこのレーベルに参加している。


さらにワダダは、ビル・フリゼルと共演したアンドリュー・シリルの『Lebroba』(2016年)や、1993年のソロ・アルバム『Kulture Jazz』にも参加している。スミスは過去のヒーローへのオマージュを捧げながらも、レトロな模倣に翻弄されることはない。(『ザ・ワイヤー』1993年)

 

ヴィジャイのECMでの活動は急速に拡大しており、リンダ・メイ・ハン・オー、タイショーン・ソーリーとの現在のトリオ(2021年『Uneasy』、2024年『Compassion』)、ステファン・クランプ、マーカス・ギルモアとの以前のトリオ(2015年『Break Stuff』)、そして好評を博したセクステット・プロジェクト『Far From Over』(2017年)などがある。

 

ピアニストは、2014年に弦楽四重奏、ピアノ、エレクトロニクスのための音楽で高い評価を得た録音『Mutations』をリリースし、ロスコー・ミッチェルの2010年のアルバム『Far Side』、すなわちクレイグ・タブーンとのデュオで『Transitory Poems』(2019年)に参加している。そのほかにも2014年にDVDとブルーレイでリリースされた、ヴィジャイと映像作家プラシャント・バルガヴァの鮮やかなマルチメディア・コラボレーション『Rites of Holi』も忘れてはならない。 


「私たちは、それぞれの言語と素材を使って仕事をしている」とヴィジェイは広範なライナーノートに記しています。共同制作の必然性というのは、楽曲ごとに異なる形で体現される。「Sumud」では不吉なことを言い、「Floating River Requiem」では祝祭的なオーラを放ち、「Elegy」では疑念を抱きながらも明るい兆しが見える。そして終結の「行列」では破滅的に美しい。


ワダダ・レオ・スミスは、ヴィジャイとの親密さと、音楽を単純に 「出現 」させるという2人の共通の能力について尋ねられ、「ユニークなことのひとつは、自分たちが何かを修正すること(つまり、音楽を完全に事前に決定すること)を許さないこと。私はそういうふうに思う」と述べる。


ワシントン・ポスト紙は、このデュオの前作について、「スミスとアイヤーの演奏が見事に交錯している。 二人はテンポ、サステイン、音符やフレーズの思慮深い選択の感覚を共有している。 アイヤーとワダダが共有するディテールへの愛情と、慎重なセンテンスとやりとりを構築する忍耐は、展開される各構成を独自の音圏に変え、ヴィジャイの "Kite"では、フェンダー・ローズとトランペットの深い叙情性となだめるような相互作用に現れている」と評しています。


『Difiant Life(ディファイアント・ライフ)』の包括的な人生についての瞑想であるとするならば、実際に表現されているのはそのセンス・オブ・ワンダーである。スイス・ ルガーノで録音されたこのアルバムは、レーベルのオーナー、マンフレート・アイヒャーがプロデュースした。



Vijay Iyer / Wadada Leo Smith 『Difiant Life』- ECM


 

これが最後かもしれない。私たち(パレスチナ市民)は、それ(爆撃にさらされて無差別に殺されるようなこと)に値しません。

 

私は、アカデミックです。恐らく、私が家の中で持っている中で、一番強いものは、このマーカーです。

 

でも、もしイスラエル兵が家々をめぐって私たちを襲撃し虐殺することがあれば、私はイスラエル兵の顔をめがけて、このマーカーを投げつけるでしょう。

 

たとえそれが(人生の)最後に私ができることであろうとも。これが(ガザで無差別爆撃にさらされている)多くの人々の感じていることです。私たちに、失うものなんてありません。

 

パレスチナの作家・詩人リファアト・アルアリイールによる最後の声明



ニューヨークの鍵盤奏者、ヴィジャイ・アイヤー、ミシシッピのトランペット奏者のワダダ・レオ・スミスの共同制作によるアルバム『Difiant Life』は二人の音楽家が持ち寄った主題を重ね合わせ、アヴァンギャルドジャズの傑作を作り上げた。


ご存知の通り、現在のパレスチナとイスラエルの紛争は黙字録の象徴となっている。歴史はそれを「イスラエルとパレスチナによる衝突」と詳述するかもしれないが、これはイスラエル側による国際法の違反であるとともにパレスチナに対する民族浄化であるということを明言しておきたい。そして、もうひとつの東欧の火種、ウクライナとロシアの戦争についても同様であり、この二つの代理戦争は、離れた地域の国家、もしくはある種の権力を操る勢力が企図する''身代わりの戦争''である。これはある地域を欲得のため力づくで平定しようとする勢力の企みなのです。

 

パレスチナの作家リファアト・アルアリイールさんは、2023年のガザで空爆が続く中で死去した。彼の痛切な死から人類が学ぶべきことは何なのか? その答えは今のところ簡単には出せませんが、少なくとも、アルアリイールさんは物語を作りつづけることの重要性を訴えかけていた。


それはなぜかというと、彼等は真実を伝えようとするが、いつも歴史は虚偽や嘘によって塗り固められていくからである。多くの歴史書、それは聖書のような書物であろうとも、体制側の都合の良いように書き換えられ改ざんされていく。これを未然に防ぐために、真実の物語を伝え続けることが大切なのだということを、リファアト・アルアリイールさんは仰っていたのです。

 

多くの人々は、フィクションや虚構を好む。ややもすると、それは現実から離れていればいるほど、一般的に支持されるし、なおかつ好まれやすいものです。それは現実を忘れられるし、そして現実をどこかに葬り去れるからである。しかし、扇動的な音楽、主題が欠落した音楽、真実から目を逸らさせるもの、これらは虚しさという退廃的な経路に繋がっていることに注意を払わなければいけません。そしてもし、音楽というメディアが、アイヤーさんのように、現実の物語を伝えることの後ろ盾になるのであれば、あるいはまた、もうひとりの演奏家レオ・スミスさんのように、コンゴのような一般的に知られていない国家の動向や現状を伝えるためのナラティヴな働きを成すとあらば、それほどまでに有益なことはこの世に存在しえないのです。

 

この両者のジャズによる真実の物語は、ピアノ、ローズ・ピアノ、そしてトランペット、アナログのシンセサイザー、そしてパーカッションによって繰り広げられる。つまり、音楽や演奏に拠る両者の対話によって繰り広げられる。作風としては、ファラオ・サンダースとフローティング・ポイントの変奏曲により作り上げられた『Promises』に近いが、ジャズとしての完成度はこちらの方がはるかに高い。複数の主題が的確な音楽的な表現によって描写され、息をつかせぬような緻密な構図に集約されているからである。

 

そして、モーツアルトの「幻想曲」、リストの「巡礼の年」、ドビュッシーの「イメージズ」、レスピーギの「ローマの松」、チャイコフスキーの「1812年」、リゲティの「アトモスフェール」など、古くから音楽という形態の重要な一部分を担う”描写音楽”というのが存在してきたが、『Difiant Life』は前衛的なジャズの形式による描写音楽とも言えるのではないでしょうか。


しかし、最大の問題や課題は、概念や感覚という目に映らない何かを形あるものとして顕現させることが困難を極めるということである。それは言い換えれば、伝えがたいものを伝えるという意味でもある。そういった本来は言語圏には属さない作品を制作するためには、音楽的な知識の豊富さ、実際的な高い演奏技術、それらを音符にまとめ上げるための高度な知性、さらには文化的な背景に培われた独自のセンス、これらのいかなる要素も欠かすことができません。


しかし、幸いにも、ヴィジャイ・アイヤー、ワダダ・レオ・スミスという、二人の稀有な音楽家(両者は実際的な演奏家だけではなく、作曲家としての性質を兼ね備えている)はその資質を持っている。つまり、音楽的に豊富な作品を作り上げるための素養を両者とも備えています。アルバムを聞くと、「ローマは一日にしてならず」という有名な言葉をありありと思い出させる。良質で素晴らしい音楽の背後には、気の遠くなるような長い時間が流れているのです。

 

2つのジャズ・プレイヤーの性質はどうか。ヴィジャイ・アイヤーは、古典的なものから現代的なものに至るまで、幅広いジャズのパッセージを華麗に演奏する音楽家であるが、同時に、オリヴィエ・メシアン、武満徹、細川俊夫といった現代音楽の演奏にも近いニュアンスを纏う。彼の演奏は気品があり、神経を落ち着かせるような力、パット・メセニーのグループで活動したライル・メイズのような瞑想性を併せ持つ。そして、このアルバムにおいて、アイヤーはアコースティックピアノとエレクトリック・ピアノを代わる代わる演奏し、曲のニュアンスをそのつど変化させる。そして、このアルバムに関して、アイヤーは指揮振りのような役割を担い、音楽の総合的なディレクションを司っているように感じられる。一方、ワダダ・レオ・スミスも素晴らしいトランペット奏者です。マイルス・デイヴィス、ジョン・ハッセル、エンリコ・ラヴァなど、”ポスト・マイルス”の系譜に属している。レオ・スミスのトランペットの演奏はまるで言葉を語るかのような趣があり、同時に実際的な言葉よりも深遠な力を持つ。特に注目したいのは、マイルス・デイヴィスが用いた象徴的な特殊奏法、「ハーマン・ミュート」も登場する。そして前衛的なブレスの演奏を用い、アトモスフェリックな性質を付与するのです。

 

 

 

『Survival(サヴァイヴァル)』と銘打たれたプレリュード(序章)で始まる。すでにガザの戦争の描写的なモチーフがイントロから明確に登場する。ジョン・ハッセルの系譜にあるトランペットの演奏が低音部を担うアイヤーのピアノの演奏と同時に登場する。モーツアルトの『幻想曲』のように不吉なモチーフが敷き詰められ、バリトンの音域にあるピアノの通奏低音、それと対比的なガザの人々の悲鳴のモチーフとなるレオ・スミスの前衛的なトランペットの奏法が登場します。まるでこの中東の戦争の発端となった当初の”病院の爆撃”を象徴付けるかのように、ピアノが爆撃の音の代わりのドローンの通奏低音、その向こうに取り巻く空爆の煙霧や人々の悲鳴の役割をトランペットが担う。その後のレオ・スミスの演奏は圧巻であり、さながら旧約の黙字録のラッパのように、複雑な音階やトリル、微細なニュアンスの変化、さらにはサステインを駆使して、それらの音楽の物語の端緒を徐々に繋げていこうとする。この曲では、シンプルに戦争の悲惨さが伝えられ、これは断じてフィクションではないということが分かる。

 

このアルバムの根幹を担うガザの主題のあとには、神秘的な印象を持つ現代音楽「Sumud」が続いています。この曲のイントロでは、レオ・スミスのトランペットの演奏がフィーチャーされている。シュトックハウゼンのトーン・クラスターの手法を用いたシンセサイザーの電子音楽が不吉に鳴り渡り、そしてそれに続いてスミスのトランペットの演奏が入る。アイヤーのシンセサイザーの演奏は、ドローン音楽の系譜にあり、この曲のアンビエント的なディレクションを象徴づけている。一方、レオ・スミスのトランペットの演奏はマイルス・デイヴィスの系譜にあり、カップ・ミュート、もしくはハーマン・ミュートを用いた前衛的な奏法が登場する。


これらは落ち着いた瞑想的な音色、そして、つんざくような高い音域を行来しながら、瞑想的な音色を紡ぎ出す。トランペットの演奏でありながら、テナー・サックスのような高い音域とテンションを持った素晴らしい演奏が楽しめるでしょう。そして、それらの演奏の合間に、ローズ・ピアノ、そして早いアルペジオのパッセージのピアノが登場し、音楽の世界がもう一つの未知なる領域へと繋がっている。


さらに、レオ・スミスはヨシ・ワダのようなバグパイプのドローンのような音色、そしてトランペットの原初的な演奏を披露している。それらの演奏が途絶えると、エレクトリック・ピアノが入れ替わりに登場する。曲の背景となるドローンの通奏低音の中で、瞑想的な音楽を拡張させていく。しかし、不吉な音楽は昂ずることなく、深妙な面持ちを持ちつつ進んでいく。アイヤーのシンセの演奏がライル・メイズのような瞑想的な音の連なりを作り上げていくのである。そして12分にも及ぶ大作であるが、ほとんど飽きさせるところがないのが本当に素晴らしい。

 

 

こうした音楽の中で都会的なジャズの趣を持つ曲が「Floating River Requiem」である。この曲は、変拍子を駆使した前衛的な音楽。アルバムの中では、ピアノとトランペットによる二重奏の形式が顕著で、聴きやすさがあります。この曲では、アコースティック・ピアノが用いられ、Jon Balkeの系譜にある実験音楽とモダンジャズの中間にある演奏法が取り入れられています。アイヤーはこの曲でオクターブやスタッカートを多用し、洗練された響きをもたらしている。対するレオ・スミスも、前衛的な演奏という側面においてアイヤーに引けを取らない。長いサステインを用いた息の長いトランペット、それを伴奏として支えるピアノという形式が用いられる。

 

この曲は表面的に見ると、前衛的に聞こえるかもしれませんが、コールアンドレスポンスの形式、そして、マイルス・デイヴィスとビル・エヴァンスによる名曲「Flamenco Sketches」のように、モーダルの形式を受け継ぐ、古典的なジャズの作曲法が取り入れられています。結局のところ、マイルス・デイヴィスは、ストラヴィンスキーのリズム的な革新性というのに触発され、そしてビーバップ、ハード・バップの先にある「モード奏法」という形式を思いついた。それはまた、ジャズのすべてがクラシックから始まったことへの原点回帰のようでもあり、バロック音楽以降のロマン派の時代に忘れ去られていた教会旋法やパレストリーナ旋法のような、横の音階(スケール/旋法という)の連なりを強調することを意味していた。これらを、JSバッハによる対旋律の音楽形式を用い、復刻したのがマイルス・デイヴィスであったわけです。「Floating River Requiem」はそういったジャズとクラシックの同根のルーツに回帰しています。

 

この曲の場合は、同音反復を徹底して強調するミニマリズムの要素とモーダルな動きをもたらすトランペットという音楽的な技法を交えた「ポスト・モード」の萌芽を捉えられる。それらは、結果的に、グスタフ・マーラーのように音楽を複雑化して増やすのでなく、簡素化して減らしていくというストラヴィンスキー、モーツァルトが目指していた音楽的なディレクションと重なる。 音楽の要素をどれほど増やしても、聴衆はそれを支持するとは限らない。それはいついかなる時代も、聴衆は美しく心を酔わせる音楽を聞くことを切望しているからである。そして、その期待に添うように、同音反復を続けた後、麗しいピアノのパッセージが最後に登場します。このアルバムの中の最もうっとりするような瞬間がこの曲のラストには含まれています。

 

 

「Elegy」とは哀歌を意味しますが、この曲は追悼曲のような意味合いが色濃い。しかし、哀切な響きがありながらも、必ずしもそれは悲嘆ばかりを意味していません。レオ・スミスによる神妙なトランペットのソロ演奏は、ドローン奏法を駆使したシンフォニックなシンセサイザーの弦楽器のテクスチャーと溶け合い、国家的な壮大さを持つアンセミックな曲に昇華されている。そして、その合間に現れる瓦礫や吹き抜けていく風のような描写的な音の向こうからアラビア風の趣を持つアイヤーのピアノの演奏が蜃気楼のごとくぼんやりと立ち上る。そして「哀歌」というモチーフを的確に表しながら、神妙なジャズの領域を押し広げていく。その中には同音反復を用いた繊細なフレーズも登場し、悪夢的な中東の戦火の中で生き抜こうとする人々の生命の神秘的なきらめきが立ち現れる。そして、その呼吸と同調するように、微細なスタッカートの特殊奏法を用いたトランペットの前衛的な演奏が呼応するかのごとく続いている。最終的に、それを引き継ぐような形で、主旋律とアルペジオを織り交ぜたアイヤーの淡麗なジャズ・ピアノが無限に続いてゆく。これらの哀歌の先にあるもの……、それは永遠の生命や魂の不滅である。これらの音楽は傑出したドキュメンタリーや映画と同じようなリアルな感覚を持って耳に迫ってくる。一度聴いただけでは探求しがたい音楽の最深部へのミステリアスな旅。

 

戦争、死、動乱という重厚なテーマを扱った作品は一般的に重苦しくなりがちですが、「Kite」はそういった気風の中に優しさという癒やしにも似た効果を付与する。 アイヤーによるエレクトリック・ピアノを用いた演奏は子守唄やオルゴールのように響く。他方、スミスのトランペットは、マイルス・デイヴィスやエンリコ・ラヴァの系譜にある旋律的に華麗な響きをもたらす。


この曲では、レオ・スミスのソリストとしての演奏の素晴らしさが際立っている。そして、今は亡きリファアト・アルアリイールが伝えようとした物語の重要性というのを、トランペットにより代弁しているように思える。それらはジャズの最も魅惑的な部分を表し、フュージョン・ジャズ、スピリチュアル・ジャズのような瞑想的な感覚を蘇らせる。この曲ではジャズの慈愛的な音楽性がチック・コリアの系譜にあるローズ・ピアノ、そして慎ましさと厳粛さ、美しさを兼ね備えた蠱惑的な響きを持つトランペットにより、モダン・ジャズの最高峰が形作られる。ムード、甘美さ、音に酔わせる力など、どれをとっても一級品です。ここで両者が伝えようとしたことは明言出来ません。しかし、ガザの作家の死を子守唄のような慈しみで包もうという美しい心意気が感じられる。それが音楽に優しげな響きがあるように思える要因でもある。

 

 

『Difiant Life』の終曲を飾る「Procession」では再びアルバムの冒頭曲「Prelude」のように緊張感を持つ前衛的なトランペットで始まります。そしてパーカッションのアンビエント的な音響性を活かして、ニュージャズの未来が示されています。それはまたマイルス・デイヴィス、ジョン・ハッセルのアンビエント・ジャズの系譜を受け継ぐものです。そして、この音楽には、素晴らしいことに、遠くに離れた人生を伝えるというメディアとしての伝達力が備わっている。また、まったく関連がないように思えるかもしれませんが、遠くに離れた人の考えを糧にすることや、それらの生活文化の一端を垣間見ること、そこらか何かを学びとること、それはすなわち、現在の私たちの卑近な世界を検分することと同意義なのではないかということに気がつく。

 

『Difiant Life』は、全体的に見ると、はじめと終わりが繋がった円環構造のように考えることも出来ますが、むしろ生命の神秘的な側面である''生々流転''のような意味が含まれているのではないかというように推測出来ます。生々流転というのは、様々な生命や意識がいつの時代も流動的に動きながら、無限の空間をうごめき、社会という共同体を形成していることを意味している。


アルバムの音楽の片々に見出だせるのは、レフ・トルストイが『人生論』で明らかにしたように、人間の肉体ではなく、魂にこそ生命の本質があるという考えです。無論、本稿では神秘主義やスピリチュアリズムを推奨するものではないと付言しておきたいですが、人間の本質が魂(スピリット)にあるとする考えは、ギリシア思想の時代から受け継がれる普遍的な概念でもある。現代文明に生きる人々は、デジタルの分野やAIなど技術的な側面においては、中世の人々よりも遥かに先に進んでいる。もちろん、工業や宇宙事業などについてもまったく同様でしょう。

 

しかし、進化の中で退化した側面もある。本作の音楽を聴いていますと、多くの人々は文明という概念と引き換えに何かを見失ってきたのではないだろうかと考えさせられます。現代主義ーー合理性や利便性ーーという目に見える価値観と引き換えにし、人類は別の利点を血眼になって追いかけるようになった。それは断じて進化などというべきではなく、退廃以外の何物でもなかった。その結果として表側に現れたのが現代の代理戦争や民族浄化であるとすれば、納得のいくことであるように思えます。また、ガザの作家リファアト・アルアリイールさんは「人の死は数ではない」とおっしゃっていました。人間や生物の命を軽視し、別の何かに挿げ替えようとする。それは考えられるかぎりおいて最も恥ずべき行為であると言わざるをえません。本作はまさしく、そういった現代社会の風潮に対する''反抗''を意味する。それはまた、パレスチナの作家の遺志や彼が伝えようとしたことを後世に受け継ぐ内容でもある。「Difiant Life」は、10年後、20年後も、ECMの象徴的な作品となりえるかもしれない。いや、ぜひそうなってほしい。アルバムのライヒを思わせるアートワークのモチーフを見れば瞭然と言えるでしょう。

 

 

 

100/100

 

 





Vijyar Iver/ Wadada Leo Smith『Difiant Life』ECMより本日発売。

 



アメリカのエージェントから送られてきたプレスリリースの中で最も注目しているのが、Fake Dad。しかし、週末のレビューで紹介するとは微塵も思っていなかった。フェイク・ダッドは、ロサンゼルスのインディーロックバンドで、MOMMA、Wet Legを彷彿とさせる素晴らしいデュオ。しかもロサンゼルスらしく良い具合に力が抜けていて、音楽がそれほどシリアスになりすぎない。現在、シリアスな世界に必要とされているのは脱力感あるサウンドです。


フェイク・ダッドことアンドレア・デ・ヴァローナとジョシュ・フォードは、ロサンゼルスを拠点に活動するニューヨーク育ちのインディー・ロック・ミーツ・ドリーム・ポップ・デュオです。 フェイク・ダッドは、ポップでキャッチーなフック、90年代にインスパイアされたクランチーなギター、グルーヴィーなベースライン、そして浮遊感のあるシンセサイザーを駆使し、酔わせるようなカラフルな音楽的フュージョンを創り出す。 独特のプロダクション・サウンドと特徴的なヴォーカルを持つ2人は、自分たちのアパートで作曲とレコーディングを行っている。


『Holly Wholesome And The Slut Machine』には、バンドが作り上げた、怒り狂ったハンバーガーをひっくり返すピエロ、星をめぐる騎士、仮面をかぶった睡眠麻痺の悪魔などなど、作り物の世界に生きるキャラクターたちの音楽物語が収められている。 アルバムを通して、アンドレアとジョシュは、恋愛パートナーとしての自分たちのアイデンティティやセクシュアリティなど、自分たちが生きてきた経験のリアルな側面をフィクションを使って解き明かしていることに気づいた。


この1年、フェイク・ダッドはポーザーに執着してきた。 特にロック・ミュージックのポーザーは、自分ではない誰かのふりをするアーティストが作る音楽には魅力がある。 取り分け、ロックの様々なサブジャンルにおいて、"フェイク "は少し汚い言葉かもしれない。 しかし、アンドレアとジョシュが、彼らの時代以前のお気に入りのアーティストを掘り下げていくうちに、キャラクターを演じることはロック音楽の遺産とかなり深く関わっていることが明らかになった。 


フェイク・ダッドという名前からは、彼らのジャンルを知る手がかりはほとんど得られないが、7曲入りのEPは、夏のエネルギーをにじませている。難なく歌えるし、紛れもなく感染させ、あらゆるドライブ旅行のプレイリストに入るメロディーを満載している。 しかし、その爽やかでポップなサウンドに惑わされてはいけない。歌詞は、想像されるようなのんきなものではなく、フェイク・ダッドは、怒り狂ったハンバーガーをひっくり返すピエロ、星を追う騎士、仮面をかぶった睡眠麻痺の悪魔など、作り物の世界に住むキャラクターを作り出している。


EP全体を通して90年代の雰囲気が漂っており、シンセとドライブ感のあるドラムとベースのバックボーンが融合し、ギターにさらなるパンチを与えている。 オルタナティヴ・ポップの黄金期を踏襲しながらも、モダンでダイナミックなミックスに仕上がっている。


アンドレアの歌声は各曲に難なく適応し、曲のムードに合わせてトーンや強弱を変化させる。窓を開けての夏のロングドライブのサウンドトラックを探している人も、単演奏が終わった後もずっと心に残る曲のセットを探している人にとって、「ホリー・ホールサム・アンド・ザ・スラット・マシーン」は最適なアルバム。 このバンドはノスタルジーと新鮮さのバランスの取り方を熟知している。



Fake Dad 『Holly Wholesome And The Slut Machine』 EP -  Father Figure Music

 



 

プロジェクト名だけではよくわからないかもしれないが、アルバム・ジャケットとかアーティスト写真を見れば、フェイク・ダッドの志すところはなんとなく理解出来る。フェイク・ダッドは、シリアスな世の中にウィットに富んだユーモアをもたらそとしている。


少なくとも、フェイク・ダッドは現在のアメリカ国内の情勢、彼等がツアーなどで体験した出来事に対して、もしくは音楽業界の問題に風刺や際どいユーモアをもたらす。

 

このアルバムはデュオにとってデビュー作のような意味を持ち、自己紹介がわりとしては平均的な水準以上のものを提示している。知る限りにおいて、彼等は少なくとも現実のシリアスな側面とは異なる斜に構えた方向からニッチな視点を押し出してしているが、それは少なくとも音楽にも見えやすい形で乗り移っている。


しかし、フェイク・ダッドがこういうワイアードなスタンスを取るようになったのには理由がありそうだ。音楽業界の奇妙な慣習や暗黙の了解に接したアンドレアとジョッシュは、これらの慣習をシニカルに風刺することにより、彼等らしいやり方を提示する。それはアルバムの最後を飾り、なおかつハイライトとなる「Machinery」における音楽業界へのカウンター的な位置取りが、爽快感のあるカタルシスを与えてくれるのである。暗黙の了解やルールに内在的に反抗するという姿勢は、クローズ曲だけではなく、アルバムの全体に通底しているように思える。


音楽業界に対する風刺的な姿勢がこういった''モンスター''を生み出したとはいえるが、Fake Dadの音楽は驚くほど軽くてポップ。また、その中には西海岸のパンクからの系譜も受け継がれ、Offspringの傑作『Americana』に見出だせる力の抜けたロックサウンドが顕著である。 それが現代的なベッドルームポップーー自主制作の音楽としてのポップーー、Wet Legのようなニューウェイブの要素、MOMMAのような現代的なインディーロックの要素と絡み合い、フェイク・ダッドらしい軽妙なロックソングが作り出される。そして、それらのロックソングを生み出すための土壌となるのが、アンドレア、ジョッシュというパートナーが作り出す幻想の世界なのだ。


ここでは、カルト的な意味を持つ様々なキャラクターがコメディー映画さながらに登場し、音楽のフィクションの要素を転回させる働きを成している。小説や映画と同じように、「この音楽はフィクションです」と断った上でロックソングが始まるが、リスナーはそれと相反するリアリズムを必ずといっていいほど把捉することになるだろう。『Holly Wholesome And The Slut』は、フィクションの要素を使用してリアリズムを描くという技法が取り入れられている。しかしながら、音楽は以外なほど軽快であり、ほとんど停滞するような瞬間はない。

 

彼等は、Fake Dadを知らないリスナーに対して、ポップバンガー「Cyrbaby」を挨拶代わりにお見舞いする。Wet Legのようなニューウェイブの範疇にあるエレクトロポップの要素、そして、インディーロックのシンプルな技法を用いて、軽快なロックソングを提供している。一見すると、少しチープに聞こえるが、病みつきになりそうな要素を持っている。複雑化したロックのイディオムに抵抗するという態度はまさしく、彼等がパンクのルーツを持つことの証とも成り得る。80年代のハードロック・ギタリストの演奏を徹底して下手にしたようなギター(実は上手い)、調子外れなボーカルなどなど、面白さが満載であり、それらはサーカスのような楽しさがある。これこそ、現代人が忘れ去ったユーモアの重要性をリスナーに教えさとしてくれる。そしてお膝元のハリウッドへの言及などを通して、揶揄的なユーモアを歌うのである。おそらく、この曲を聴き終えた後、気難しい表情をしている人々の顔がぱっと明るくなるだろう。

 

もう一つ見過ごせないのが、西海岸のミュージックシーンの重要な核心であるヨット・ロックの要素である。彼等は、マグダレナ・ベイなどのネオ・サイケデリアの要素と結びつけ、それらを軽快でゆったりとしたポップソングに落とし込んでいる。


「Odyssey To Venice」は想像上のイタリアへの旅を意味し、ディスコサウンドの系譜にあるエレクトロの要素とポピュラー性が組み合わされ、バブリーな感覚が引き出される。この曲では、人生を謳歌するという姿勢が軽妙な感覚を付与する。それはボヘミアン的な人生観を反映させたと言える。見方を変えれば、人生における遊びの感覚、物事を深刻に取らすぎないことへの賞賛が謳われている。イントロではチープな印象がサビにおけるゴージャスなアレンジによってポップバンガーへと変化する。曲の印象が驚くほど一変する瞬間は聞き逃すことが出来ない。

 

「WANTO」はデモテープのようなローファイな音質で始まる。 最初のイントロは、iPhoneのガレージバンドで録音したような音質だが、フィルター処理の後、劇的の音楽の印象が変化する。彼等の展開させるロックソングのイディオムの中には、DIIIV、DEHDといった現代的なドリームポップバンドーーネオシューゲイズに属するバンドの影響が含まれている。しかし、現代的なロックバンドの多くの場合と同様に、ギターサウンドは、轟音性ではなく、”合理性”に焦点が絞られている。つまり、拡大する音像ではなく、減退するシンプルな音像が重視されている。


これらは、現代のポップソングやTikTokのサウンドの影響があり、ギターワークが滑らかに聞こえるように洗練されているのである。これは、ロックソングの余剰性を一貫して削ぎ落としたもので、現代のロックの核心である洗練性や簡素性を印象づける。ボーカルに関しては、西海岸のヨット・ロックーーチルウェイブを反映させた軽いポップソングーーが反映されている。ちなみに、ロサンゼルスからは、ディスコ、チルウェイブ、それから、ポップとロックを組み合わせた”LAサウンド”が今後、雨後の筍のように、わらわらと出てくることが予想される。これらは、シリアスな音楽に対するカウンターの動きであり、バランサーのような意味がある。

 

 

「WANTO」

 

 

 

表向きに言っていることとやっていることが違うという人々がいるが、フェイク・ダッドはそういった二律背反的なロックソングを書く。そして、本当に意図するところがわからず、どうしても深読みしたり勘ぐったりしてしまうというものである。しかし、そういった中で、「So Simple!」 では、非常にわかりやすいロックソングを聞くことが出来る。エレクトロのベースがブンブンうなる中、ドラムのハイハット、シンバルのパンのLRの振りわけを駆使し、ドライブ感のあるロックソングが作り上げられる。ボーカルにも創意工夫が凝らされ、スポークンワードやラップのような形でラフに入っていき、全体的なロックソングのミックスに上手く溶け込んでいく。全体的にはアリス・クーパーの「School’s Out」のようなベタでクラシカルなロックソングの枠組みの中で、シニカルな風刺やモダンな感覚を持つボーカルのフレーズを披露していく。


しかし、これらは、技術や方法論にがんじがらめになったロックソングとは対象的に、ロックそのものの、わかりやすさ、親しみやすさという重要な要素を明瞭な形で思いださせてくれる。そして、もったいぶったようなメロからサビへの飛躍こそが、このロックバンドの魅力でもある。こういった曲は、現代のロックシーンから見ると、少し物足りないと思うかもしれないが、一方で聴いた後、頭がすっきりする。要するにロックのカタルシスを追い求めた曲なのだ。

 

「フェイク・ダッドの音楽は溌剌としていて軽快だ!!」 と、多くの耳の肥えた論者は評するかもしれないが、「Little Fake」と次曲は例外となるだろう。どのような人物にも複数の感情が渦巻くのと同じように、この曲では、ナイーブでダークな感情が露わとなる。しかし、一曲の単位で聴いたときと、アルバムの一曲として聴いたときに、まったく印象が変わる場合がある。


同じように、「Little Fake」は単体で聞くと、アンニュイで感傷性を感じさせる一曲であるのは事実なのだが、全体的なアルバムとして聴いたとき、琴線に触れるような趣を持つようになる。それは感傷的というか、陰影のある抽象的な印象を軽妙なサウンドの背景に滲ませるのである。この曲はグランジとその音楽性に含まれるポップネスに注目した新しいロックソングである。

  

「ON/OFF」 は、ライブツアーで体験した日常/非日常の経験における戸惑いの気持ちが感情的なポップスとして刻印されている。しかし、陰影のあるメロに対してサビはバンガー調である。こういったライブツアーに関する感情を日記のように織り交ぜた曲は先週のアニー・ディルッソの曲にも存在したが、鈍い感覚とそれとは対極的なハイな感覚というのを主題とし、音楽として象っているのはさすがと言える。


やはりグランジやポスト・グランジと地続きにあるが、バンガー的な性質が重視されている。しかし、メタ的な視点が込められている。過去の自分の姿を離れた場所から見て戸惑うという、ナイーブな感覚が含まれている。アンドレアとジョッシュの二人は、ロックソングを通して、怒りや悲しみといった感情の落とし所というか、納得すべき点を探っているようにも思える。アルバムの中では非常にセンチメンタルな印象があり、何らかの切ない気持ちを呼び起こす。

 

そういった紆余曲折が、この数年間の両者の実生活であったと見ても違和感はない。しかし、人生にまつわる悲しみや楽しさ、それらをひっくるめて肯定的に捉えようという心意気を感じる。それこそがフェイクダッドの素晴らしさなのだ。これが最終的に、道化的な印象を持つフェイク・ダッドという存在を生み出した。どのような存在も”土壌なくしては”実在しえないのだ。


現在のアメリカの姿や風潮を反映させた音楽は、他にもたくさん存在するが、フェイク・ダッドも必然的に登場したロックデュオである。クローズを飾るラフなインディーロックソング「Machinery」は、彼等のライブにおいて、代表的なアンセミックなナンバーとなりそう。今後、Bella Unionに所属する北欧のインディーロックバンド、Pom Pokoとのツアーによって、その実力が明らかになる。ぜひ、以降のライブツアーで大きな旋風を巻き起こしてもらいたいです。

 

 

 

 

85/100

 

 

 

「Machinery」 - Best Track

 

 

 

 



Annie DiRusso(アニー・ディルッソ)は散歩をしている時、着想が湧いてきた。ロラパルーザに出演するためにシカゴの街を散歩している時に天啓のようにアーティストの心をとらえたのだった。


「アルバム制作を始めてすぐにこのタイトルは決まっていました」と、ディルッソは語っています。彼女は大学に通うため、2017年からニューヨークからナッシュビルの街に引っ越しをした。


「私は免許を持っていないから、どこへでも歩いていく。運転可能な街であるナッシュビルで何年も無免許だったから、食料品店まで歩いて行ったりして、自分にとって歩きやすい街にしていたのよ」


シンガーソングライターは音楽を難しく捉えることをせず、等身大の自己像をロックソングによって描き出そうとしている。少なくとも、本作は驚くほど聞きやすくシンプルかつ軽快なインディーロックソング集だ。


「『スーパー・ペデストリアン』は、私という人物を表現していると思うし、『イッツ・グッド・トゥ・ビー・ホット・イン・ザ・サマー』は、このアルバムの趣旨をよりストレートに表現していると思う。ようするにデビューアルバムとしては、少し自己紹介のようなことをしたかったんだと思う」


アーティスト自身のレーベルから本日発売された『Super Pedestrian』には、ディルッソが2017年から2022年にかけてリリースした12枚のシングルと、高評価を得た2023年のEP『God, I Hate This Place』で探求したディストーションとメロディの融合をベースにした切ないロックソングが11曲収録されている。 これらのレコーディングはすべてプロデューサーのジェイソン・カミングスと共に行われ、新作は2023年にミネアポリスで行われたショーの後にディルッソが出会ったケイレブ・ライト(Hippo Campus、Raffaella、Samia)が指揮を執った。


「ジェイソンとの仕事は好きだったし、長い付き合いと仕事のやり方があった。けれど、今回のフルレングスのアルバムでは、自分のサウンドをどう広げられるか、何か違うことをやってみたいと思った。いろいろなプロデューサーと話をしたんだけど、ケイレブというアイディアに戻った」


アルバムは2024年2月と3月にノースカロライナ州アッシュヴィルのドロップ・オブ・サン・スタジオで録音された。 『スーパー・ペデストリアン』の公演では、彼女が歌とギターを担当し、マルチインストゥルメンタリストのイーデン・ジョエルがベース、キーボード、ドラム、追加ギターなどすべての楽器を演奏した。 今作には共作者のサミア(「Back in Town」)とラストン・ケリー(「Wearing Pants Again」)がゲスト・バッキング・ヴォーカルとして参加している。


また、ディルッソは年に5.6曲のペースで曲を書きあげる。それほど多作な制作者ではないと彼女は自負している。しかし、もし、このアルバムが飛躍作になるとするなら、それは彼女の人間としての成長、かつてのお気に入りのファッションがすでに似合わなくなったことを意味する。過去の自分にちょっとした寂しさを感じながら惜別を告げるというもの。しかし、アルバムの作品では、内面と向き合ったことにより、過去の自分との軋轢のようなものも生じていて、それはディストーションという形でこのアルバムの中に雷鳴のように鳴り渡る。しかし、それは心地よい響きを導く。シンガーソングライターが一歩前に進んだ証拠でもあるのだから。


「前回のツアーが終了したとき、私は23歳でした。あのツアーは本当に大好きだったけれど、18歳か19歳か20歳の頃に書いた曲を毎晩演奏していたし、その頃に着ていたような服を着ていました。ツアーから離れたことで、自分自身と向き合わなければならなかったと思う。だから、このアルバムは、もう少し地に足をつけたところから生まれたと思う。EPがもう少し体の外側から内側を見つめたものだったのに対して、もう少し体の内側から外側を見つめたものなの」



 Annie DiRusso  『Super Pedestrian』- Summer Soup Songs  (Self Label) 



 

アニー・デルッソの記念すべきデビュー・アルバム『Super Pedestrian』は、ウィリアム・サローヤンというアメリカの作家の名作『The Human Comedy(人間喜劇)』をふと思い起こさせる。それは人間の持つ美しさ、純朴さ、それからエバーグリーンな輝きをどこかにとどめているからである。そもそも、青春の輝きというのは、多くの人々の心に魅惑的に映る。そして多くの人々は、その宝石のようなものを血眼になって自分自身の内外に探し求めたりするが、容易には見つからない。それは、美しい青春というものが二度とは帰って来ず、ふと気づいた時に背後に遠ざかっているものだからだ。そして、興味深いことに、エバーグリーンと言う感覚は、その瞬間に感じるものではなく、ずいぶんと後になって、その時代の自分が青春の最中を生きていたことを思いかえすようになるのである。つまり、これは、土地に対する郷愁ではなく、過去の自分自身に対する郷愁を感じる瞬間である。それはどのような人も通ってきた道である。

 

文学的だというと少し大げさになるかもしれない。それでも、このアルバムに流れる音楽がソングライターの人生を雪の結晶のように澄明に映し出すのは事実である。その素朴な感覚は都市部から離れたナッシュビルという土地でしか作り得なかったものではないか。ニューヨークにいたら、こういうアルバムにはならなかっただろう。なぜなら、有名な都市部は、世界のクローバリゼーションに支配されており、異常なほどの画一性に染め上げられている。アニー・ディルッソは、自動車には乗れないかもしれないが、しかし、乗馬という特技を持っているのだから本当にすごい。


このアルバムには、現代のアメリカ人の多くが見失ったスピリットが偏在している。多くのアメリカ人は、グローバリゼーションの渦中に生きており、海の向こうの異質な文化や気風にプレッシャーを感じると、過敏な反応を起こすことがある。その反動として過激なアティテュードにあらわれたりもする。それは日本人にもありえることであるが、その中で最もアメリカらしい純粋さや純朴さをどこかの時代に忘れてきたのではないか。少なくとも、そういったアメリカの本当の魅力に触れた時、感動的な気分を覚えるのである。

 

このアルバムは最近のアメリカのインディーロックアルバムの中で”最もアメリカらしい”と言える。それはまた、海外の人間から見ると、アメリカの人々にしか出来ない音楽ということである。 最近のアメリカのミュージシャンは異常なほど海外の人々からの評判や目を気にする。まるで彼等は、アメリカがどう見られているのかを四六時中気にするかのようである。そして、奇妙なほど世界的な文化、外側からみた何かを提示しようと躍起になるのである。ところが、このアルバムはそのかぎりではない。終盤の収録曲に登場するヤンキースの伝説的なヒーロー、ディレク・ジーターへの賞賛は、ヘミングウェイ文学にも登場する地域性を明確に織り込んでいて、海外の人間にとってはものすごく心を惹かれるし、なぜか楽しそうに聞こえるのである。例えば、この曲には画一性とは異なる、その土地の人にしかなしえない表現が含まれている。近年、それは田舎性として見なされることもあるが、本当にそうなのか。海外の人間がディレク・ジーターを称賛したとしても、それは大して面白いものにはなりえないのである。

 

ライブツアーというのは、非現実的な生活空間に属することをつい忘れがちである。例えば、ミュージシャンがステージに上り、多数の観衆の前で演奏を披露する。その空間は、明らかにエンターテインメント業界が作り出した仮想現実である。素晴らしい瞬間であるに違いないが、同時に日常的な生活との乖離を生じさせる要因ともなる。こういった非現実的な生活、そして現実的な生活が続くことに戸惑いを覚えたり、精神のバランスを崩す人々は少なくないのである。どちらの自分が本物なのか。多くの人々は、そういったライブでの姿を本当の人物像であると思い込んでいる。けれども、こういった究極の問いの答えを見つける人は稀だと思う。アニー・ディルッソについてはシカゴのロラパルーザなど大型のライブステージの出演を経て、ナッシュビルに帰ってきた。喧騒の後の静けさ。ナッシュビルの自然の風景は何を彼女に語りかけたのだろうか。しかし、その時、ミュージシャンは本当の自分の戻ることが出来たのだ。 

 

アニー・ディルッソはライブツアーを一つの経験としてロックスターを目指すことも出来たはずである。 しかし、アルバムを聞くと分かる通り、音楽的な方向性はそれとは正反対にあり、むしろ自分自身に帰るための導線のようなものになっている。虚飾で音楽を塗り固める事もできたが、実際に出来上がった音楽は驚くほどに等身大だ。だからこそ聴きやすく親しみやすい。そして信頼出来るのは、音楽的な時流に翻弄されず、好きなものを追求しているという姿勢だ。 

 

それはアルバムのオープナー「Ovid」から出現し、心地よいインディーロックソングという形を通じて繰り広げられる。その中にはベッドルームポップ、グランジやカントリーといったこのアーティスト特有の表現が盛り込まれている。音楽から立ち上がるカントリーの雰囲気は、ルーシー・ダカス、スネイル・メイルの最初期のようなUSインディー性を発揮するのである。コード進行やボーカルも絶妙で、琴線に触れるような切ないメロディーとバンガーを作り出す。本作は、静かな環境で制作されたと思うが、鳴らされるロックは痛快なほどノイジーである。


また、USインディーロックを体現させる「Back In Town」は、ナッシュビルへの帰郷をテーマに、自分の過去の姿を対比的な「あなた」に仮託し、甘い感じのポップソングに昇華している。ローカルラジオで聞かれるようなカントリー風のポピュラーなロックソングを展開させる。ギター、ボーカルというシンプルな構成に導入される対旋律のシンセのレトロなフレーズが、このアルバムの内在的なモチーフである「過去の自分を回顧する」という内容をおもいおこさせる。それは制作者が述べている通り、着古した服に別れを告げるような寂しさも通底している。しかし、曲の印象は驚くほど、さっぱりしていて、軽妙な感覚を伝えようとしている。ナッシュビルと自分の人生を的確に連動させ、それらをカントリーで結びつけた「Leo」も秀逸である。これらはサッカー・マミーの最初期のようなベッドルームポップとカントリーの複合体としてのモダンなポップソングを踏襲し、それらをセンス十分のトラックに昇華している。

 

軽快なインディーポップ/インディーロックが続く中、グランジのようなオルトの範疇にあるギターの要素が押し出される瞬間がある。そして、これがナッシュビルへの郷愁という一つ目の主題に続く2つ目のモチーフのような形で作品中に出現し、それらがまるでバルザックの人物の再登場形式(別の作品に前に登場した人物が登場するという形式)のように、いくつかの曲の中に再登場する。


「Hungry」は、サビこそポップだが、全体的な曲のディレクションはギターロックの範疇にあり、ディストーションの効果が強調される。90年代初期のグランジのようなシアトル・サウンドの影響が含まれ、それらがノイズとなって曲そのものを支配している。 アンプからのフィードバックノイズを効果的に録音マイクで拾いながら、それらのノイズの要素をボーカルのポップネスと的確に対比させる。

 

USオルタナティブロックの流れを大きく変えたオリヴィア・ロドリゴの傑作アルバム『Gut』で示唆された「静と動の対比」というグランジのテーマの復刻をインディーポップの側面から見直した痛快なトラックとして十分楽しめる。ノイジーなロックと合わせてディルッソのバラードの才覚が続く「Leg」に発見出来る。


この曲はツアーを共にしたSamia、もしくはSoccer Mommy(サッカー・マミー)の最初期のポップネスの影響を感じさせる。繊細で内向的な音楽の気風は前曲と同様にグランジロックの反映により、ダークネスとセンチメンタルな感情の領域を揺れ動く。注目すべきは、ボーカルをいくつもダブのように多重録音し、アンセミックなフレーズの畝りを作り上げたりと、トラックをバンガーへと変化させるため、様々な工夫が凝らされている。そして音量的なダイナミクスと起伏を設け、変幻自在にラウドとサイレンスの間を行き来する。

 

前述したグランジの要素が鮮烈に曲の表側に押し出される「I Am The Deer」は、パール・ジャムのような方向性とはかなり異なるが、”ポスト・グランジ”の時代を予見するトラックである。 この曲では、ガレージ・ロックのようなラフでローファイな要素、Z世代のベッドルーム・ポップ、そして旧来のシアトルのグランジを結びつけ、新しいロックのイディオムを提示する。これは2020年代後半の女性ソングライターのロックソングの”モデル”ともなりえる一曲だ。


特に、グランジだけではなく、Pixiesの最初期のジョーイ・サンティアゴ、Weezerのリヴァース・クオモのようなオルタネイトなスケールがサビの箇所で登場し、それらがスタジアム・ロックのような形式で繰り広げられる。これは、制作者の若い時代のロックスターへの情熱が長い時を経て蘇ってきた形である。


特に、バッキング・ギターのミュート奏法が曲に心地よいリズム感をもたらし、メタリックでメロディアスな音楽性を形作り、Def Leppardのような古典的なソングライティングの魅力が現れる。この80年代のUKハードロックの手法は、LAのハードロックの台頭によって形骸化し、使い古されたかのように思えたが、まだまだ現代のロックソングに通用する求心力がある。

 

 「I Am The Deer」

 

 

 

序盤は必ずしもそうではないけれど、ローカルな魅力に焦点を絞った音楽が本作の中盤以降の核心を担う。カントリー/フォークの魅力を再訪した「Wearing Pants Again」は、アメリカーナに希釈されつつある音楽の持つ民族性へ接近する。これらは、失われたアメリカのスピリットをどこかにスタンドさながらに召喚させ、田舎地方にある原初的な美しさ、次いで幻想性という主題を発現させる。それはまるでフォークナーの傑作『8月の光』、もしくは傑作短編小説「乾いた9月」のアメリカ南部の空想的な側面と幻想性を音楽の片々に留め、ヨクナパトーファ、ないしは、シャーウッド・アンダソンの現実と仮想の間にある”架空のアメリカ”を作り出す。しかし、ここであらためて確認しておきたいのは、幻想という概念は、日常と地続きに存在する。これらのーー現実の底にある空想性ーーは、不思議なことに、アメリカの植民地時代の日本文学の最も重要な主題である”現実との対比的な構造”と分かちがたく結びついていたのだった。(遠藤周作の「沈黙」など) ということで、これらの奇妙な空想性は、密接に現代アメリカの側面と結びついているだけではなく、日本から見ても何らかの親近感が込められている。

 

 

さて、そうした真摯な音楽性もある中で、「Drek Jeter」はワイアードな響きを持ち、ロックソングとしての癒やしの瞬間をもたらす。ニューヨークのヤンキース・スタジアムのチャントの歓声は、ミスフィッツの『Static Age』の「TV Casualty」のような、USサブカルチャーの要素と結びつき、ゾンビみたいに変化する。「現代人のほとんどはゾンビ!!」と言った日本の映画監督が居たが、そういった同調圧力の感覚を表されていて、とりもなおさず、ソングライターがソンビのように変身してしまう瞬間なのである。これを聴いてどのように感じるかは人それぞれだが、奇妙な揶揄が滲んでいる気がする。さらに『テキサス・チェーンソー』のようなグロテスクとコメディーの要素が結びついて、史上最もアングラなパンクロックソングが誕生した。この曲には、シニカルな風刺が滲み、内輪向けの奇妙な悪ノリ、アメリカの表面上の明るさの裏側にある暗いユーモアが滲み出ている。それは乾いた笑いのようなものを呼び起こし、内的な崩壊やセクシャルな要素という、ソングライターの一時期の自己を反映させている。この曲は、着色料をふんだんに用いたチョコレートやキャンディーのような毒々しい風味を持つ。それとは対比的に軽快な印象を持つ「Good Ass Movie」では青春映画のような一面が現れる。

 

 

こういったアメリカの文化の多層性が織り交ぜられながら、時折、純粋になったかと思えば、毒気を持ち、また毒気をもったかと思えば、再びストリートになる。ある意味では外的な環境に押しつぶされそうになりながら、すれすれのところで持ちこたえるソングライターの姿、それは何か現代的な日本人の感覚にも共通するものがあり、スカッとしたカタルシスをもたらす。そして、きわめて多彩な側面をサイコロの目のように提示しながら、アルバムの終盤には圧巻とも呼ぶべき瞬間が用意されている。「Wet」は、今年聴いたUSインディーの中で最も魅力的に聞こえる。ポピュラー/ロックのシンプルさ、そして一般性が豊かな感性をもって紡がれる。この曲はベッドルームポップの次の音楽を予見し、2020年代の象徴的な音楽ともいえる。

 

タイトルだけで心を揺さぶられる曲というのは稀にしか実在しないが、クローズ「It's Good To Be Hot In The Summer」は例外である。制作者は”自己紹介のような意味を持つ”と説明しているが、タイトルだけで切ない気分になる。例えば、アメリカのインディーロックファンには避けて通れない、Atarisの「Boys Of Summer」、Saves The Dayの「Anywhere With You」を彷彿とさせるが、実際の音楽はそれ以上に素晴らしい。


叙情的なイントロのギターとボーカルに続いて、アニー・デルッソの人物像が明らかになる瞬間である。そして、この曲こそ、エバーグリーンな感覚が滲んでいる。心を揺さぶるような良質で美しいメロディー、さらにツアー生活とその後の人生を振り返るようなクロニクルであり、その向こうにはナッシュビルとニューヨークの二つの情景が重なり合い、感動的な瞬間を呼び起こす。このクローズ曲は圧巻で涙腺を刺激する。2025年のインディーロックの最高の一曲かもしれない。

 

 

10年後になって振り返った時、アーティストはこういった曲を書いたことを誇りに思うに違いない。

 

 

 

94/100

 

 

 「It's Good To Be Hot In The Summer」-Best Track

 

 

 

 



 

 今週紹介するのはカリフォルニア州サンタアナで育ち、現在はロサンゼルスに住むシンガーソングライターのミヤ・フォリックです。シンガーは2015年の『Strange Darling』と2017年の『Give It To Me EP』という2枚のEPで初めて称賛を集めた。フォリックの2018年テリブル・レコーズ/インタースコープから発売されたデビューアルバム『Premonitions』は、NPR、GQ、Pitchfork、The FADERなど多くの批評家から称賛を浴びたほか、NPRのタイニー・デスク・コンサートに出演し、ヘッドライン・ライヴを完売させ、以降、ミヤは世界中のフェスティバルに出演した。


 『Erotica Veronica(エロティカ・ヴェロニカ)』のアルバム・ジャケットは、ミヤ・フォリックがアンジェルス国有林の高いところにある泥の穴の縁に腰を下ろし、大地と原始の中間に化石化した熱病の夢のように手足を悠々と広げている姿をとらえている。 それは適切な肖像画とも言えるでしょう。ミヤは本能に突き動かされ、その複雑さに行き詰まるのではなく、成長の泥沼に引き込まれていく。 この図太い精神が、彼女に最新フル・アルバム『Erotica Veronica』(近日発売、Nettwerk Music Group)をセルフ・プロデュースさせたのだった。キャッチーな歌詞のセンス、鋭敏な音楽的職人技、そして彼女の特徴である跳躍するようなアクロバティックな歌声が飽和状態となっている。


 『エロチカ・ヴェロニカ』の前身であるデビュー作『Premonitions』と2ndアルバム『Roach』は、いずれも青春狂想曲として各メディアから高評価を得ている。 『エロティカ・ヴェロニカ』についても同じようなことを言いたくなる。結局のところ、この新しいアルバムは、快楽主義と恐怖の青春の淵で揺れ動きながら、性の探求に真っ向から突っ走る女性の姿を示している。 しかし、若者の野生の自由とは異なり、これらの放浪の精神は、生きた経験によってのみ得られる特別な知恵と深みに下支えされている。おそらく、『Premonitions』の魔女のような謎解きと、ローチが持っている苛烈なまでの正直さが、彼女を官能の世界へ深く飛び込む準備をさせたのでしょう。



 ミツキ、フェイ・ウェブスター、ジャパニーズ・ハウスとツアーし、長編映画『Cora Bora』の音楽を担当したこの数年の集大成であるこのアルバムは、ミヤのプライベートな世界への回帰である。 ハチミツのように甘くて、そして心の痛みのよう苦々しい、それぞれの薬効を交互に聴かせてくれる。 ミヤのパワーは、好奇心の輪郭の下に湧き上がり、このシンガーソングライターを大胆であると同時に心に染みる深遠な存在にしている。 『エロチカ・ベロニカ』は、彼女のサイコセクシュアル、サイコセンシュアルの傑作であり、自己実現と統合の万華鏡のような肖像画である。


このアルバムは、残酷で燃え尽きそうな多忙なツアーの後、1ヵ月半の間に書き上げられました。 ストレートなインディ・ロックのレコードを作ろうと決意したミヤは、アルバムの大半をギターで書き上げた。


 共同プロデューサー兼ドラマーとしてサム・KS(ユース・ラグーン、エンジェル・オルセン)を迎え、ギターにはメグ・ダフィー(ハンド・ハビッツ、パフューム・ジーニアス)、ウェイロン・レクター(ドミニク・ファイク、チャーリ・XCX)、グレッグ・ウールマン(パフューム・ジーニアス、SML)、ベースにはパット・ケリー(パフューム・ジーニアス、リーヴァイ・ターナー)といった、頻繁にコラボレートしているミュージシャンを起用した。 


 これらのミュージシャンの個人的なスタイルとスキルに寄り添いながら、フォリックはリアルなライブ・サウンドを捉えることを意図してスタジオに入った。 透明感のある音像は、このアルバムのテーマである猫のゆりかごにふさわしい。 リリックでは、相反する気分や感情が交差し、まるでミヤが自分自身の内側の迷路を通って活力を取り戻す道をたどっているかのようだ。


 タイトル曲『エロチカ』は、ミヤが息を弾ませながらロマンチックに歌っている。 "白昼の街角で女の子といちゃつきたいんだ/太陽に焼かれた彼女のひび割れた唇が見えるようだ。僕にちょっと寄り添っているように"。 この曲は、うららかな春の光に照らされたシダのように展開し、きらめくピアノの旋律が私たちを幻想へと誘う。 


しかし、多幸感あふれる春の空気の下で、私たちはこのレコードにつきまとうジレンマの匂いを嗅ぎ取らざるをえない。この告白の受け手には相手がいる。この曲とアルバムは、自分の欲望が文化が許す狭いチャンネルよりも複雑な場合、どうするのが正しいのだろうか、と問いかけているようだ。 


このアルバムのテーマは、自分自身と社会を巧みに結びつけている。最近のアメリカ国内のクイアに対するファシスト的な弾圧、そしてその迫害に関する痛みや慟哭を聞いたとしてもそれは偶然ではない。「このアルバムは、ヘテロ規範的な人間関係の構造の中で、あるいはそういった社会の中で、クィアであることについて歌っている」とミヤは説明する。 「私たちはお互いに、自由に探求し、自分自身の正しい道を見つけるための十分な余地を与えていないと思う」


 

Miya Folick 『Erotica Veronica』- Nettwerk Music Group 






 ミヤ・フォリックは、このアルバムにおいて、自身の精神的な危機を赤裸々に歌っており、それは奇異なことに、現代アメリカのファシズムに対するアンチテーゼの代用のような強烈な風刺やメッセージともなっている。アルバムの五曲目に収録されている「Fist」という曲を聞くと、見過ごせない歌詞が登場する。これは個人の実存が脅かされた時に発せられる内的な慟哭のような叫び、そして聞くだけで胸が痛くなるような叫びだ。これらは内在的に現代アメリカの社会問題を暗示させ、私達の心を捉えて離さない。時期的には新政権の時代に書かれた曲とは限らないのに、結果的には、偶然にも、現代アメリカの社会情勢と重なってしまったのである。
 
 
 現在、Deerhoofなど米国の有志のミュージシャンが、これらのマイノリティに対する、ある意味では圧政とも呼ぶべき悪法や動向に関して声を上げている。そして、ロサンゼルスのフォリックのアルバムも同様に、表側には噴出しないアメリカの内在的な問題が繊細に織り込まれている。しかし、それが例えば、クラシックなタイプのロックソングと融合したとき、このシンガーのダイナミックな実像が浮かび上がってくる。結局、そういった音楽には圧倒されるものがあるというか、何かしら頭を下げざるえない。つまり、深い敬意を表するしかなくなるのだ。
 
 
 本作が意義深いと思う理由は、ミヤ・フォリックの他に参加したスタジオ・ミュージシャンのほとんどがメインストリームのバックミュージシャンとして活躍する人々であるということ。このアルバムは、確かにソロ作ではあるのだけれど、複数の秀逸なスタジオ・ミュージシャンがいなくては完成されなかったものではないかと思う。特に、 メグ・フィーのギターは圧巻の瞬間を生み出し、全般的なポピュラー・ソングにロックの側面から強い影響を及ぼす。
 
 
 序盤は、旧来から培ってきたインディーポップのセンスが生かされ、聴きやすく軽やかなナンバーが並んでいる。アルバムの冒頭を飾る「Erotica」白昼の街角で女の子といちゃつきたいんだ/太陽に焼かれた彼女のひび割れた唇が見えるようだ。僕にちょっと寄り添っているように"。 この曲は、うららかな春の光に照らされたシダのように展開し、きらめくピアノの旋律が私たちを幻想へと誘う。 映画のサウンドトラックのような神秘的なイントロに続いて、軽快なインディーポップソングが続いていく。全体的なイメージとは正反対に軽快な滑り出しである。
 
 
 続く「La Da Da」も同様に爽やかな雰囲気を持つフォーク・ソングとなっている。心に染みるような切ない歌声をベースとしたメロの部分とは対象的に曲のタイトルを軽やかに歌う時、ロック的な性質が強調され、珠玉のポップソングが生み出される。それらの旋律をなぞるピアノもまたそれらの楽しい気分やイメージを上手く増長させる。まるでこの曲は草原のような開けた場所で歌うシンガーソングライターの姿を音楽として幻想的に体現させたかのようである。
 
 
 この数年、ミヤ・フォリックは旧譜においてインディーポップやオルトポップの作曲に磨きをかけてきたが、それらが見事に花開いた瞬間が先行シングルとして公開された「Alaska」である。「あなたを失うかもしれない "というセリフは二重表現になっています。カバー・アートのために日本語に訳したとき、「I am able to 」という動詞と、「It is possible [to lose you]」という動詞を使いましたとミヤ・フォリックは説明する。「この曲は、自分との関係が自分にとってどれだけ大切なものなのかについて。そして自分との関係をどれだけ大切にしているのか、折り合いをつけるための曲でもある。私の人生でこの人を失ったら悲しいけれど、私自身を失ったら同じように悲しい」 曲のベースとなるシンセのピアノの演奏とフォリックのボーカルは、人間関係を失うことへのおそれを歌っている。ギター、ドラム、シンセを中心とした曲は、2分40秒ごろから軽快な雰囲気に変化して、未来に向けて歩みだすような明るさがある。
 
 
 「Felicity」は打ち込みのサウンドとポピュラーソングが結びつき、良曲に昇華されている。LAのインディーポップソングの系譜をこの曲に見出すことが出来るはずである。この曲は、(多くの曲とは異なり)もともとアコースティック・ギターで書かれた曲ではなかった。その代わりにジャレッド・ソロモン(レミ・ウルフ、ドラ・ジャー、ローラ・ヤング)と共同でこの曲を書き、シンセと木管楽器を重ねた。ジル・ライアンのフルートは、ミヤのボーカルの軽快さの下で陽気に揺れ、祝福の感覚を与える。 「この曲は、あまり知られていないフェリシティという言葉の定義を指し示している。"自分の考えに適切な表現を見つけること"であり、ミヤは、"このアルバムの礎石である”と定義づける。 フェリシティが示唆するように、適切な表現は、私たちを愛する人たち、そして私たち自身とのより親密なつながりをもたらしてくれる。 


 「Fist」はセンチメンタルな雰囲気を持ち、胸を打つような素晴らしいポップソングとなっている。アルバムのハイライト曲の一つとなりそう。アコースティックの弾き語りで始まり、そして抑揚をつけながら、劇的なロックソングへと移行していく。この曲の冒頭では、切ない感覚を織り交ぜながら続く展開へと繋げていく。日常的な暮らしをテーマにしながら、ミヤ・フォリックは自分自身の存在する理由のようなものを探る。その中には自虐的を越え、かなりシリアスな表現も垣間見ることが出来るが、この時、感動的な瞬間が訪れる。曲の後半ではディストーションギターが轟音性を増すが、それらの轟音は途絶え、曲の最初のメロがアウトロで帰ってきて感動的な余韻を残す。まるで数年のアーティストの人生をかたどったかのようである。
 
 
 
 
「Fist」 
 
 
 
 
 
 
 「This Time Around」はタイムマシーンのように過去へ舞い戻る曲だという。 アコースティックギターをベースにしたポップソングで、気持ちを揺り動かす何かがある。この曲は、ミヤがタイムトラベルして、遠い昔の恋愛に耽溺していた自分の姿に戻るところから始まる。 ダルセットなボーカルが、諦念と虚弱さを描いた衝撃的な歌詞と厳しいコントラストを描いている。 この曲は過去の自分への子守唄のように感じられる。 ''携帯で読んだ手紙には、あなたをイかせるために、なぜ私が首を絞められなければならなかったのか教えてくれた''と歌うように、現在のミヤが、パズルのピースをするように、自分の苦しみを現在のジグソーパズルにどうはめ込むかを考えているのが聞こえてくる。このトラックにおいて過去の自分との折り合いをつける。アルバムの中で最も異色とも言えるのが続く「Prism Of Light」。80,90年代のニューウェイブやシンセポップの系譜を踏襲しているが、サビがアンセミックな響きを醸し出す。


 「ライブ録音を意識して作られた」という本作であるが、その影響が色濃く出た瞬間もある。「Hate Me」はグランジ的な主題であるが、実際の曲は暗さと明るさという対極の感情が表現されている。明確に言及するのは難しいものの、インディーロックという制作前の着想が上手く昇華された楽曲である。そこには、過去の戸惑いや苦悩、逡巡といった感情に別れを告げるような感覚が漂い、聞き手にカタルシスのような心地良い爽快感をもたらす。それはロックソングとして少数派であるがゆえ、強固な説得力を持つ。特に、ここでもバンドの盤石な演奏と同時にギタリストのメグ・ダフィが活躍し、絶妙なコード進行でボーカルの旋律の輪郭づけをしている。そして、曲自体は、なだらかな曲線を描くようにして上昇していき、高音域のボーカルが最後になって登場する。そして、この瞬間、何か上空を覆っていた雲間から光が差し込むような神々しさが立ちあらわれる。最後のヴァーズまで高い音域のボーカルを温存し、対極的なフレーズを作り出す。実際的に、バンガーを意識した見事なポップソングとして楽しめるはず。

 

 

真を穿った作曲性(ソングライティング)とも言うべきか、ミヤ・フォリックの音楽は非常にリアリティがあるような気がする。しかし、アルバムの休憩ともいうべき箇所があり、これが良い味を出している。アーティストの真面目な性格とは異なるフレンドリーな表情を見出すことも出来る。「Hypergiant」はヨットロックやチルアウト風の曲で、まさしく西海岸の音楽シーンに呼応した内容となっている。細野晴臣の「Honemoon」のような歌謡と洋楽の融合の雰囲気を感じることも出来る。シリアルな作風の中にあるオアシスのような存在である。しかし、その蜃気楼のような幻影は、まるで夏の陽炎のように遠ざかり、再びリアリティのある楽曲が立ち上がる。

 

 

しっとりしたバラードのように始まる「Love Wants Me Dead」も素晴らしい曲であり、アルバムの最後に深い余韻を残す。静かな立ち上がりから、徐々に胸を打つ感動的な音へと変化していくが、これらの一曲の中で何か内側に芽吹いた茎のようなものがすくすくと成長し、そしてこの曲は大輪の花を咲かせる。もしくはさなぎであった歌手が蝶になり大空に羽ばたいていく瞬間を見事に録音として把捉している。それはまた、失望や絶望のような感情から汲み出されるほんの束の間の人生の鮮やかな息吹の奔流のようでもある。そしてそのパワフルなエネルギーを感じ取った時、ポピュラーソングの本物の魅力が表側にあらわれる。この曲は、序盤のハイライト曲「Fist」と同じように、ダイナミックな変遷をたどり、そして劇的な瞬間を曲の最後で迎える。再三再四、言及しているが、このアルバムを傑作に近い内容にした理由は、ソングライターが何を制作したいのか明確にしていたこと、そして、それを手助けする秀逸なバックミュージシャンがいたからである。表向きの功績としてはミヤ・フォリックのものであるが、おそらく歌手はこのアルバムに参加した多くのミュージシャンに感謝しているに違いない。そしてその瞬間、まったくこの曲の意味が反転し、愛に溢れたものに変わるということなのである。

 
 
 本作の最後は、まるでその余韻に浸るかのように静かな印象を持つインディーフォーク・ソングで締めくくっている。最後の曲だけはデモソングのような音質を強調しているが、ボーカルは非常に美しい。そして、その美麗なボーカルの質感を上手く引き出すために、木管楽器が活躍する。アルバムの冒頭でほのめかされたシネマティックなサウンドにクローズで回帰するという円環構造である。これらの11曲は殆どむらがなく、そして続けて聞かせる集中性を保っている。そして大切なのは、音楽を制作する個人だけではなく、正確に言えば録音に携わった人々の思いが凝縮されていることである。一方ならぬ思い入れが入り込んでいるため、胸を打つ。聴いたかぎりでは、作品の構成が完璧であり、録音の水準も極めて高い。そして何より、人の手で何かひとつずつ丹念に音楽を作り上げているような気がして素晴らしいと思った。今年上半期の最高のポピュラーアルバム。個人的にも何度も聞き返したいと思っています。
 
 
 
 
 
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「Love Wants Me Dead」
 
 
 
 
*Miya Folickのニューアルバム『Erotica Veronica」はNettwerk Music Groupから本日発売。 アルバムのストリーミングはこちらから。