ラベル Weekly Recommendation の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル Weekly Recommendation の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
Weekly Music Feature - Sinai Vesselシナイ・ヴェッセル)

Sinai Vessel



このアルバムは啓示的なオルタナティブロックの響きに満ちている。導きなのか、それとも単なる惑乱なのか。それはおそらくこのアルバムに触れることが出来た幸運なリスナーの判断に委ねられるだろう。


天が開いて、神の前腕が雲から飛び出し、あなたのアバターのボディーに「SONGWRITER」という謎の文字を叩きつけるとする。そのとき、この職についているあなたはなんというだろう?


今まさに、”曲を書くこと”が天職なのか、単なる呪縛なのかが問われている。湖から剣を引き抜き、勝利の凱歌を揚げるか? それとも、皮膚が腫れ物に這わされ、背後の農作物が炎上するのか? 


果たして、曲作りやソングライティングの習慣は、ガーデニングのようにやりがいのあるものなのか? それとも、ビールを2本飲むたび、タバコを1本吸うような、薄汚い習慣なのだろうか? 


曲作りは仕事なのか? 聖なる義務? それとも、世の中流階級以上の荒くれにとって、たまにやりがいを感じさせる趣味なのだろうか? もし私が、言葉とメロディーのハイヤー・パワーによって定められた運命を受け入れるとしたら、一体どうやって医療費を払えば良いのか?


ノースカロライナ州アッシュヴィルのケレイヴ・コーデスによるプロジェクト、シナイ・ヴェッセルの4枚目のアルバムは、教会の地下のサポートグループでの告解のようでもあり、未来の叙事詩のようでもある。その言葉が、Tシャツにデカデカとプリントされたり、特に神経質な介助犬のベストに警告としてプリントされたりするのを想像してみると、なんだか愉快でもある。


チーフ・ソングライターのケイレブ・コーデスは、このアルバムの最初のトラックで "どうでもいいこと "と、 "何らかの理由があって "起こることの両方を歌っている。シナイ・ヴェッセル・プロジェクトには、素晴らしく、見事な、そして滑稽なソングス(滑稽というのが一番難しい)が含まれている。仮にその事実がなければ、この葛藤や矛盾は実体化することはなかった。


しかし、ケレイヴ・コーデスは、Tom WaitsやM. Wardといった米国の象徴的なシンガーソングライターと同じように、連作を書くように運命によって定められているらしい。彼にとってソングライティングとは、書いているのではなく書かざるを得ないものなのだ。「Birthday」の親密で小説的な畏敬の念を考えてみよう。または、「Dollar」の微妙な経済パニックは、市場の暴落という恐怖の下、道路から逸れた車のあざやかな水彩画をエレガントに描きだそうと試みる。「馬は、いつも私の心の中で果実を踏みつける。私の考えでは、10年間どうしようもないものを食べ続け、何度もおかわりをする」というのは、これまで聞いた中で最高の冒頭のセリフのひとつだ。なんてこと、もしかしたら彼は本当にこの技術に召されているのかもしれない!!


しかし、これらの予言的でもある鋭い一節をどんなふうに捉えたらいいのだろう? 長年のコラボレーターであるベネット・リトルジョン(Hovvdy、Claire Rousay)が、芸術的で巧みな共同プロデュースを手がけ、Sinai Vesselをあらゆるプリズムのフレーバーで描き出した。


ウェルチ・スタイルのしなるようなアコースティックな小曲、デス・キャブ・フォー・キューティのベストアルバムのタッチ、解体されたボサノヴァ、ワッフル・ハウスのジュークボックスを思わせるナッシュヴィルのストンパー(ジョディのニック・レヴィーンによる超プロ・ペダル・スティールがフィーチャーされている)、そして、最も驚くべきは、デフトーンズに隣接し、囁くように歌うヘヴィネスが、迷子の鳥のようにあなたの部屋に飛び込んでくるはずだ。


各々のソングライティングのスタイルのチャレンジは、レッキング・クルーのリズム・セクションによって成し遂げられた。リトルジョンのド迫力のベースとアンドリュー・スティーヴンスのドラム(シナイ・ヴェッセルの『Ground Aswim』で見事な演奏を披露した後、ここでは再びドラムを叩いている)が、アルバムのスウィングを着地させ、コーデスのベッドルームでレコーディングされたヴォーカルの親しみを、自信に満ちた広がりのある世界に根付かせる。


シナイ・ヴェッセルは、アトランタの写真家トレント・ウェインと異例のコンビを組んでいる。彼の不気味なフラッシュを多用したアルバムのハイコントラストのアートワークは、彼らの相乗効果から生み出された。シュールな道化師の特権的視点をもたらし、曲の冷徹なリアリズムとぴたりと合致している。そしてコーデスは、後期資本主義の恐ろしい空模様を巧みに描写し、ウェインは、その予兆である広々とした空っぽの高速道路と空っぽの店舗を捉えてみせる。


あなたは、リプレイスメンツの 「Treatment Bound」という曲をご存知だろうか? この曲は彼らの最も酔狂なアルバムのひとつで、リスナーに対する最後の「ファック・ユー」とでも言うべき愉快な曲。コーデスがグレープフルーツ・スプーンでニッチを切り開こうとし、ストリーミングの印税や信託資金の権力に真実を語りかけるかのような、DIY生活者のブラックユーモアに溢れている。その代わり、コーデスは、苦笑いをしながら、それらのリアリズムに首を振り、自分が見ているものが信じられないというように、代わりに「ファック・ミー」と言う。


私たちと友人が一緒に、必死に考え抜かれたノイズを商業生産のプラスチックの箱の底に押し込めることがどれほど馬鹿げているのだろうか。そして、「夕飯を食べるために歌う」という、現代のアメリカの中産階級の失われつつある天職の中で、シナイ・ヴェッセルはあり得ない奇跡を成し遂げてみせる。- Ben Sereten (Keeled Scales)



Sinai Vessel 『I Sing』/ Keeled Scales   -ナッシュヴィルのシンガーソングライターが掲げる小さな聖火-

  

今年は、主要な都市圏から離れたレーベルから良いアルバムが発売されることがある。Sinai Vissel(シナイ・ヴェッセル)の4作目のアルバム『I Sing』はテキサスのKeeled Scalesから本日発売された。

 

何の変哲もないような出来事を歌ったアルバムで、それは日常的な感覚の吐露のようでもあり、また、それらを音楽という形にとどめているに過ぎないのかもしれない。少なくとも、『I Sing』は、家の外の小鳥がさえずるかのように、ナッシュビルのソングライターがギターやドラム、シンセ、ベースという基本的なバンド編成を元にして、淡々と歌い、曲集にまとめたに過ぎない。もちろん、メガヒットはおろか、スマッシュヒットも記録しないかもしれない。マニアックなオルトロックアルバムであることはたしかだ。

 

しかし、それでも、このアルバムには、男性シンガーソングライターとしての魅力が詰め込まれており、ニッチなオルトロックファンの心をくすぐるものがある。シナイ・ヴィッセルの曲には、M.Wardの系譜にある渋さや憂いが内在している。男性シンガーの責務とは、一般的な苦悩を自らの問題と定義付け、説得力のある形で歌うことである。それが彼の得意とするオルタナティブ・ロックの領域の中で繰り広げられる。メインストリームから適度に距離を置いた感覚。彼は、それらのスターシステムを遠巻きに眺めるかのように、淡々と良質なロックソングを演奏している。分けても素晴らしいのは、彼はロックシンガーではなく、一般的な市民と同じように歌を紡いでいる。そして、Keeled Scalesの素朴ではあるが、夢想的な空気感を漂わせる録音の方針に溶け込んでいる。アーバンなオルトロックではなく、対極にあるローカルなオルトロック......。もっといえば、80、90年代のカレッジ・ロックの直系に位置する。R.E.M、The Replacementsの正当な後継者を挙げるとするなら、このシナイ・ヴィッセルしか思い浮かばない。

 

米国的な善良さは、グローバリゼーションに絡め取られ、失われたものとなった。ローカルな感覚、幹線道路のネオン・サイン、もしくは、ハンバーガーショップやアイスクリームショップの幻影......。これらは、今や古びたものと見なされるかもしれないが、アメリカの文化の大きな醍醐味でもあったのである。2010年代以降、そのほとんどが目のくらむような巨大な経済構造にかき消されてしまった。それにつれて、2000年代以降、多くのソングライターが、ローカルな感覚をどこかに置き忘れたてしまったか、捨ててしまったのだった。それと引き換えに、都会性をファッションのように身につけることにしたのだった。それは身を守るために必要だったのかもしれないが、ある意味では別の誰かを演じているに過ぎない。そしてシナイ・ヴィッセルは、巨大な資本構造から逃れることが出来た稀有な音楽家である。このアルバムは、テキサスのHoovdyを彷彿とさせる善良なインディーロックやポップソングという形を取っている。

 

そして、ケレイヴ・コーデスのソングライティングやボーカルには、他では得難いような深みがある。

 

エルヴィス・コステロ、ポール・ウェスターバーグ、ボブ・モールド、Pedro The Lionのデイヴィッド・ハザン、ビル・キャラハン、Wilcoのジェフ・トゥイーディーの系譜にある。つまり、この人々は、どこまでも実直であり、善良で、愛すべきシンガーソングライターなのである。


そして、基本的には、ケレイヴ・コーデスは、フォークやカントリーはもちろん、ブルースに重点を置くシンガーソングライターである。このブルースというジャンルが、大規模な綿畑の農場(プランテーション)の女性労働者や男性の鉄道員が労苦を和らげるために歌ったところから始まったことを考えると、シナイ・ヴィッセルのソングライターとしての性質は、現代的なワークソングの系譜に位置づけられるかもしれない。彼の歌には南部の熟成したバーボンのように、泥臭く、渋く、苦味がある。ある意味、軟派なものとは対極にあるダンディズムと憂いなのだ。


もちろん、現代的で親しみやすいロックソングのスタイルに昇華されていることは言うまでもない。彼のロックソングは、仕事後の心地よい疲労、華美なものとは対極にある善良な精神性により構築される。派手なところはほとんどない。それでも、それは日々、善良な暮らしを送り、善良な労働を繰り返している、同じような純朴な誰かの心に共鳴をもたらすに違いない。そう、彼のソングライティングは日常的な労働や素朴な暮らしの延長線上にあると言えるのだ。

 

アルバムの冒頭「#1 Doesn’t Matter」は、ボサノヴァを咀嚼した甘い感じのインディーロック/フォークソングで始まる。シナイ・ヴィッセルのボーカルは、Wilcoのジェフを思わせ、ノスタルジックな思いに駆られる。親しみやすいメロディー、乗りやすいリズム、シンプルだが心を揺さぶるハーモニーと良質なソングライティングが凝縮されている。ボサノヴァのリズムはほんの飾りのようなもの。しかし、週日の仕事の疲れを癒やすような、週末の最後にぴったりの良質なロックソングだ。この曲には、日々を真面目に生きるがゆえの落胆もある。それでもアコースティックギターの演奏の背後に、癒やしや優しげな表情が垣間見えることがある。曲の最後には、ハモンド・オルガンがコーデスの歌のブルージーなムードを上手い具合に引き立てる。

 

そっけないようで、素朴な感じのオルトロックソングが続く。彼は内面の奥深くを掘り下げるように、タイトル曲「 #2 I Sing」で、内的な憂いや悲しみを元に情感溢れるロックソングを紡いでいる。イントロは、ソフトな印象を持つが、コーデスの感情の高まりと合わせて、ギターそのものも激情性を帯び、フックのあるオルトロックソングに変遷していく。これらはHoovdyの楽曲と同じように、エモーショナルなロックへと繋がる瞬間がある。そして注目すべきなのは、都会性とは異なるローカルな感覚を持つギターロックが序盤の音楽性を決定づけていることだ。

 

「#3 How」は、Wilcoのソングライティングに近く、また、Youth Lagoonのように、南部の夢想的なオルトロック/ポップとしても聴くことができる。シナイ・ヴィッセルは、南部的な空気感、土地の持つ気風やスピリットのようなものを反映させて、砂煙が立ち上るような淡い感覚を作り出す。ヴィッセルはハスキーなボイスを活かし、オルタネイトなギターと乾いたドラムを背景にして、このソングライターにしか作りえない唯一無二のロックソングの世界を構築してゆく。表面的には派手さに乏しいように思えるかもしれない。しかし、本当にすごいロックソングとは、どこかしら素朴な感覚に縁取られているものである。曲の中でソングライターの感情と同期するかのように、ギターがうねり狂うようにして、高められたかと思えば、低くなる。低くなったかと思えば、高められる。最終的に、ヴィッセルは内側に溜め込んだ鬱屈や悲しみを外側に放出するかのように、ノイズを込めたダイナミックなロックソングを作り上げる。

 

「#4 Challenger」では内省的な感覚を包み隠さず吐露し、それらをオルトフォークの形に昇華させている。ビル・キャラハンの系譜に位置し、大きな曲の変遷はないけれども、曲のいたるところに良質なメロディーが散りばめられている。アコースティックギターとシンセサイザーの演奏をシンプルに組み合わせて、温和さと渋さの間を行き来する。やはり一貫して南部的なロマン、そして夢想的な感覚が織り交ぜられ、ワイルドな感覚を作り出すこともある。しかし、この曲に深みを与えているのは、ハスキーなボーカルで、それらが重さと軽さの間を揺らめいている。

 

「#5 Birthday」は、Bonnie Light Horsemanのような夢想的なオルトフォーク/カントリーとして聴くことができるだろうし、American Footballの最初期の系譜にあるエモとしても聴くことができるかもしれない。アメリカーナを内包するオルタナティヴ・フォークを基調にして、最近、安売りされるようになってしまったエモの原義を問いかける。彼は、一貫して、この曲の中で、ジョージア、テネシーといった南部への愛着や親しみを示しながら、幹線道路の砂埃の向こうに、幻想的な感覚や夢想的な思いを浮かび上がらせる。彼の歌は、やはり、ディランのようにそっけないが、ハモンド・オルガンの音色の通奏低音が背後のロマンチズムを引き立てている。 また、Belle And Sebastianの最初期の憂いのあるフォーク・ミュージックに近い感覚もある。

 

 

「Birthday」- Best Track

 

 

 

その後も温和なインディーロックソングが続く。考えようによっては、シナイ・ヴィッセルは失われつつある1990年代前後のカレッジ・ロックの系譜にある良質なメロディーや素朴さをこのアルバムで探し求めているように思える。先行シングルとして公開された「Laughing」は、前の曲で示されたロマンチズムをもとにして、アメリカーナやフォークミュージックの理想的な形を示す。ペダル・スティールの使用は、曲のムードや幻想的な雰囲気を引き立てるための役割を担う。そして曲の背景や構造を活かし、シナイ・ヴィッセルは心温まるような歌を紡いでいく。この曲も、Belle And Sebastianの「Tigersmilk」の時代の作風を巧緻に踏襲している。

 

ポール・ウェラー擁するThe Jamのようなフックのあるアートパンクソング「Country Mile」は、中盤のハイライトとなるかもしれない。ガレージ・ロックやプロト・パンクを下地にし、シナイ・ヴィッセルは、Televisonのようなインテリジェンスを感じさせるロックソングに昇華させている。荒削りなザラザラとしたギター、パンクのソングライティングの簡潔性を受け継いだ上で、コーデスは、Wilcoのように普遍的で良質なメロディーをさりげなく添える。そして素朴ではありながら、ワイルドさとドライブ感を併せ持つ良質なロックソングへと昇華させている。この曲の簡潔さとアグレッシヴな感覚は、シナイ・ヴィッセルのもう一つの武器ともなりえる。

 

 アルバムの終盤には、ウィルコと同じように、バロックポップを現代的なオルトロックソングに置き換えた曲がいくつか見いだせる。「#8 $2 Million」は、メロトロンをシンセサイザーで代用し、Beatles、R.E.M、Wilcoの系譜にあるカレッジ・ロックの醍醐味を復活させる。コーデスは、後期資本主義の中で生きざるを得ない現代人としての悲哀を織り交ぜ、それらを嘆くように歌っている。そして、これこそが多数の現代社会に生きる市井の人々の心に共鳴をもたらすのだ。その後、しなやかで、うるおいのあるフォークロックソング「#9 Dollar」が続く。曲ごとにややボーカルのスタイルを変更し、クレイヴ・コーデスは、ボブ・ディランのようなクールなボーカルを披露している。ローカルな感覚を示したアルバムの序盤とは正反対に、アーバンなフォーク。この曲には、都市のストリートを肩で風を切って歩くようなクールさが反映されている。2024年の「Liike A Rolling Stone」とも呼べるような興味深いナンバーと言えるか。

 

アルバムの序盤では、ウィルコやビル・キャラハンのようなソングライターからの影響が見いだせるが、他方、終盤ではBell and Sebastianの系譜にあるオルトフォークソングが色濃くなってくる。 これらのスコットランドのインディーズバンドの主要なフォークソングは、産業化や経済化が進む時代の中で、人間らしく生きようと試みる人々の矛盾性、そこから引き出される悲しみや憂いが音楽性の特徴となっていた。そして、シナイ・ヴィッセルは、その特徴を受け継いでいる。「#10 Window Blue」、「#11 Best Wetness」では、憂いのあるフォークミュージックの魅力を堪能できる。特に後者の曲に漂うほのかな切なさ、そして、淡いエモーションは、クレイヴ・コーデスのソングライターとしての高い能力を示している。それは M.Wardに匹敵する。 

 


「Best Wetness」- Best Track 

 

 

アルバムの終盤は、 大掛かりな仕掛けを作らず、素っ気無い感じで終わる。しかし、脚色的な音楽が目立つ中、こういった朴訥なアルバムもまた文化の重要な一部分を形成していると思う。そして、様々なタイプの曲を経た後、シナイ・ヴィッセルは、まるで南部の田舎の中に踏み込むかのように、自然味を感じさせるオーガニックなフォーク・ミュージックの世界を完成させる。

 

「Attack」は、ニューヨークのグループ、Floristが行ったように、虫の声のサンプリングを導入し、オルトフォークソングをアンビエントの音楽性と結びつけて、シネマティックな音楽を構築している。さらに、クローズ「Young Brother」では、アコースティックギターとドラムのシンバルのパーカッシヴな響きを活用して、夏の終わりの切ない雰囲気を携えて、このアルバムはエンディングを迎える。アルバムは、短いドキュメンタリー映像を観た後のような爽快な感覚に満ち溢れている。 それは、ハリウッド映画や大手の配給会社とは対極にあるインディペンデントの自主映画さながら。しかし、その素朴さこそ『I Sing』の最大の魅力というわけなのだ。

 

 

 

85/100 

 

 

「Doesn't Matter」 

 

 

 

* Sinal Vessel(シナイ・ヴィッセル)によるニューアルバム『I Sing』はKeeled Scalesから本日発売。ストリーミングや海外盤の購入はこちら

Weekly Music Feature:  Joep Beving(ユップ・ベヴィン)& Maarten Vos(マーテン・ボス)


Joep Beving & Maarten Vos

 

 

ピアニストのユップ・ベヴィンとチェリストのマーテン・ボスは、2019年の『Henosis』以来二度目のコラボレーションを実現させる。最初の共同作業は2人の音楽家が2018年にアムステルダムのライブで共演した後に実現しました。


新作アルバム『vision of contentment』は、マーテン・ボスもスタジオを構えるドイツの東西分裂時代の遺構で、第二次世界大戦まで旧ドイツの国営放送局であったベルリンのファンクハウス複合施設にあるLEITERスタジオでニルス・フラームがミックスした。

 

現在、ベルリン・ファンクハウスは、観光施設となっており、内部にはレコーディングスタジオとコンサートホールが完備されている。エイフェックス・ツインがイベント行ったり、あるいはニルス・フラームをはじめ、実験音楽をメインフィールドとする音楽家が録音を行ったり、オーケストラのコンサートが行われることもある。旧ドイツ時代の施設の名残りがあり、ロシアのビザンチン建築を継承した踊り場の階段のデザイン、1940年代の奇妙な機械設備が残されています。

 

ベヴィンは、これまで他のアーティストとアルバム全体をレコーディングしたことはありませんでしたが、ヴォスは定期的にそのような活動をしており、ジュリアナ・バーウィック、ニコラス・ゴダン(AIR)、アレックス・スモークといったアーティストとクレジットを共有しています。

 

「時折、音楽的なつながりを共有するアーティストに出くわすと、お互いにコラボレーションをしたいと思うようになる」とマーテン・ボスは説明します。


「異なる創造的アプローチを探求し、彼らのワークフローから学ぶことは刺激的で、私の成長に大きく貢献している」


もちろん、ユップ・ベヴィンにとって、それは当然のステップであり、遅きに失したと言っても過言ではありませんでした。「共同プロジェクトとしてゼロからアルバムを作ることは、マールテンと私が以前からやってみたかったことだった」


「私の契約(ドイツ・グラモフォンとのライセンスのこと)が終了したとき、私たちは音楽を作り始める機会を得た。私はいつも、リスナーが一時的に住めるような小さな世界を作ろうとしている。マーテンとニルスと一緒に仕事をすることは、これを達成するのに非常に役立っている。マーテンは音の彫刻家であり、ニルスはその...音の達人なんだ!」


ベヴィンとボスは、オランダのユトレヒト州にある小さな村、ビルトホーフェン郊外の森の中にひっそりと小屋”デ・ベレンパン”でアップライトピアノと一緒に過ごすため、レコーディング機材、様々なシンセ、チェロなどの荷物を解いた後、2023年7月に『vision of contentment』の大半を書き、レコーディングしました。


この友人たちは、ベヴィンのアムステルダムのスタジオとボスのファンクハウスですでに一緒に時間を過ごしており、そこからさらに2曲のアルバム・トラック作り出された。

 

時におびただしい数の作業から、ピアニストが言うところの「避けられないことを受け入れることに安らぎを見出す」という普遍的な賛辞が生まれました。

 

しかし、このアルバムはそれ以上のものを表現している。それは、彼らの友人であり、ベヴィンの場合はマネージャーであったマーク・ブルーネンへの驚愕すべき個人的トリビュートでもある。


ボスは「vision of contentment」の心に響くサウンドを「想像力豊かな探求を促す音の風景」であると考えており、デュオは「音楽的ガイド」としてモートン・フェルドマンを、そして「メンター」として、坂本龍一とアルヴァ・ノトを挙げています。一方、ベヴィンは、リスナーにシンプルな愛の感覚を残すつもりであると語り、「調和と理解の探求」を可能にし、「ファシストと恐怖に大いなるファック・ユー!!」を届けてくれるであろうことを願っていると付け加えています。


確かに、このアルバムは、私たちの住まう生の世界であれ、反対にある死の世界であれ、平穏という複数のアイデアに根ざしている。ベヴィン曰く、「嵐の後の朝、潮の満ち引きの評価、過ぎ去ったことの受け入れ、そして、新しい日の夜明け、新しい人生を意味している」という。


これらの繊細なブックエンドの間には、亡霊のような無調の「Penumbra」、くぐもったノスタルジックな「A night in Reno」、不定形で不穏な「Hades」など、半ダース(6曲)のトラックが収録されている。


一方、「The heron」の哀愁を帯びたチェロは、ほとんどありえないほど豪華なピアノの旋律に引き立てられるのみで、部屋の中にいる得体の知れないノイズのようなものによってすぐに明るくなる。さらに、「02:07」は、よく生きた人生がより良い場所へと旅立っていく瞬間を表し、タイトル曲の広々とした静かで壮大な9分間は、不在そのものを祝福しているかのようです。


ベヴィンとボスがビルトホーフェンにほど近い森の小屋に落ち着いた頃には、べヴィンのマネージャーで旧友のブルーネンは3年間がんと闘っている最中でした。しかし、彼の死が間近に迫っていたため、制作の進行に影を落としていたとしても、それは悲しみだけが要因ではなかった。「ここでの中心テーマは "ブルー・アワー"、黄昏時だったのです」とベヴィンは説明します。


「それはつまり、ある状態から別の状態への移行、そして暗さを受け入れること。友人のマークは自分の病気と差し迫った最期に対して驚くべき対処法を示していました。彼は自分の運命と平穏に過ごしていました」



『visions of contentment』 Leiter      


オランダの鬼才 ユップ・ベヴィン、マーテン・ボスによる耽美主義のクラシカル

 


オランダのピアニスト、ユップ・べヴィンは、現代のコンテンポラリー・クラシックを語る上では欠かすことが出来ない音楽家でしょう。べヴィンのピアノ曲は、Olafur Arnoldsの系譜にある”叙情的なミニマルミュージック”の系譜にあるものとなっていますが、彼の音楽的な興味は、ロマン派や、それ以降のジャズとの架け橋を形作ったフランスの近代和声に向けられています。

 

べヴィンのピアノ曲の基礎にはショパンのロマン派に対する親しみが込められ、それはポーランドの作曲家の「ノクターン」に近い。それに加え、音楽家のエスプリ(日本語でいう”粋”という概念)を求めるとするなら、エリック・サティのような無調に属する和音と、旧来の和声法の常識を覆すような前衛的な和音法の確立にある。これは、基音の11度、13度、15度といった、ジャズの和音の基本となったのは言うまでもありません。これらの7度以降の和音構造にラヴェルやドビュッシーが興味を抱いたのは、それらの和音が涼し気な印象を及ぼし、旧来のドイツ発祥の厳格な和声法を完全に払拭するものであったからなのです。

 

より端的に言えば、ユップ・べヴィンという作曲家が傑出しているのは、これらの前衛的な和声法と旧来のクラシックのロマン派の夜想曲のような神秘的な雰囲気を持つ楽曲構造を組み合わせているからでもある。

 

今回、ベヴィンのアルバムに新たに共同制作者として参加したマーテン・ボスは、チェロ奏者でありながら、アナログシンセサイザー奏者でもある。このコラボレーションは、チェロとピアノの合奏にとどまらず、シンセサイザーとピアノの融合が主眼となっている。それに加えて、ニルス・フラームが、ベルリン・ファンクハウスのスタジオで最終的なミックスを行っています。


聞けば分かる通り、この作品の制作に携わったニルス・フラームは音響効果をてきめんに施しており、単なる合奏曲ではなく、エレクトロニックやダブステップのような先鋭的なサウンドワークの意味を持つ作風として仕上げられています。全体的な録音の割合で言えば、べヴィンとボスが7、8割、フラームが2、3割くらい関与する内容となっている。もしかすると、1割ほどその割合は前後するかも知れない。つまり、このアルバムは、ユニットやデュオの作品とは言いづらい。むしろ、Leiter(ライター)主導の”トリオの作品”として聴くこともできるようなアルバムになっています。

 

 

ジブリ音楽を手掛けた日本の作曲家、池辺晋一郎氏は、音楽を制作する上で欠かさざるものが2つあると仰っていました。それは作曲の技法の一貫である「メチエ」、つまり、音楽的な蓄積や技法。もう一つが「イデア」であるという。それらはモチーフとか、ライトモチーフという形で作品に取り入れられ、最初に始まった音楽の動機を動かしたり、別の大きな楽節を繋げたり、より大きな枠組みで言えば、幾つかの章やセクションを繋げるような働きをなしています。

 

いわば制作者の頭の中に描かれた構想や着想が、音楽的な設計やデザインと組み合わされることにより、良質な作品が作り出される場合が多いのです。これらは何も、純正音楽だけに限った話ではないように思えます。たとえば、優れたエレクトロニック、優れたロック、優れたポピュラーというのは、イデアとメチエがぴったりと合わさるようにして生み出される。そのどちらかが優勢になっても、均衡の取れた作品にはならない時がある。加えて、現代の指揮者やエンジニアのような役割を担うのがレーベルの仕事であり、そして、プロデューサーの役割でもある。レーベルならば、そのレコード会社らしい音質や録音、一方、プロデューサーならば、そのエンジニアらしいマスタリング。こういった複合的な要素から、現代のレコーディングは成立しており、一人だけの力でそれらが完成することは、ほとんどあり得ないかもしれません。

 

ひるがえって、「visions of contestment」に関して言えば、ユップ・べヴィンの「マネージャーの死」というのが制作過程で一つのイデアとして組み込まれることになりました。それがすべてではないのかもしれませんが、人間の避けられぬ運命、目をそむけてしまうような暗さ、そして、それを肯定的に捉えること……。


これらのピアノ曲とチェロの演奏に、瞑想的な気風が含まれているとすれば、べヴィンにせよ、ボスにせよ、そういった考えを十分に汲み取り、暗さから目を背けず、安らかなものとして受け入れるという「治癒」が内包されているがゆえなのです。さらに言えば、今作はオランダの森の中で制作されたことによる中世的な雰囲気と、ベルリン・ファンクハウスの旧ドイツの機械産業を象徴づける近代的な気風が掛け合わされ、クラシックとエレクトロニックが融合した画期的なアルバムとして音楽ファンの記憶に残るかもしれません。

 

実際、レコーディングの過程で制作された楽曲が時系列順に収録されることは多くはないものの、アルバムは何らかの音楽的な流れーーMovement(ムーヴメント)ーーを形成しているのは事実のようです。それは、物語のようなフィクションではなく、現実にある時間の流れ、ある人の一生や、それに纏わる人々の複雑な感情の流れを、主な演奏家で制作者でもあるユップ・ベヴィンとマーテン・ボスがピアノやシンセ、チェロにより的確に捉え、そしてプロデューサーやエンジニアとして、時おり作曲家に近い形で関わるニルス・フラームという3つの人間関係を中心に構築されている。彼等のうち一人が音楽的な主役になったり、脇役に扮したり、それとは対象的に、舞台袖に控える黒子のような「影の人物」を演ずる場合がある。つまり、このアルバムでは、ほとんど''中心的な人物''というのを挙げることは無理難題のようにも思えるのです。

 

これは音楽という枠組みの内側で繰り広げられる劇伴音楽のようでもある。架空のものでありながら、真実であり、真実でありながら、架空でもある。そして、その演劇的な音楽の向こうから、第四の人物である"マーク・ブルーネン"という、ほとんどのリスナーが見知らぬ人物が登場する。しかし、そういったリヒャルト・ワーグナーの主要な歌劇のライトモチーフのような動きは、飽くまで「暗示」の範疇に留められている。つまり、音楽の基底にレクイエムのようなモチーフが立ち上ってきても、音楽的な立脚点に固執することなく、楽曲ごとに、ないしは曲の中のセクションごとに、そのモチーフが”黄昏時のように”ゆっくりと移ろい変わっていくのです。

 

どのような人生においても、一方方向で進む生き方が存在しえないように、このアルバムの音楽はストレートではなく、時おり曲がりくねったりすることがある。それらは、実際的に音楽的なモチーフやフレーズの中で示される場合もあるものの、特にサンプリングやシンセサイザー、ミックスの音響効果の側面(アンビエンスを活用したエフェクト)で顕著な形で出現する場合がある。

 

冒頭を飾る「on what must be」は前奏曲、つまり、インタリュードのような意味を持っています。ホーンセクションを模したシンセで始まり、葬送曲のように演奏された後、ベヴィンのショパンのノクターンのような曲風を踏襲したアコースティックピアノの演奏がはじまります。悲しみに充ちた演奏は、音楽の背景となる風の音のようなアンビエントのシークエンスによって強化され、音楽の雰囲気が作り出される。ユップ・べヴィンの作品の中で、これほど前衛的な試みが行われたことは、私の知るかぎりでは、それほど多くはなかったかもしれません。


続く「Penumbra」はシンプルに言えば、ベートーヴェンの「Moonlight」のミニマルミュージックとしての構造、そして音楽における雰囲気を受け継いで、ショパンのノクターンのような叙情的な気風溢れるピアノ曲として昇華しています。しかし、この曲は月の光に照らし出されるかのような神秘的な瞬間を収めていますが、それとは異なる亡霊的な雰囲気が微かに捉えられる。

 

これは、最終的なミックスを手掛けたニルス・フラームの貢献であるかも知れませんし、もしくは、サティの系譜にある古典的な和声法とは異なるベヴィンの不安定な和音の構造に要因が求められるかも知れません。そして私たちがふだん見ることのかなわない生と死の狭間--アストラルの領域--を彷徨うかのように、曲はミステリアスな雰囲気を漂わせ、ときおり、マーテン・ボスのチェロの微細なトレモロと淡麗なレガートの演奏を交えながら、奇妙なイメージを形づくる。

 

「A night in Reno」は、シンセサイザーによって時計の針の動きような緊張感のあるリズムを作り出し、サティの系譜にあるベヴィンのミニマリズムのピアノが続く。迫りくる友人の死をビートやピアノの旋律でかたどるかのように、悲しみや暗さに充ちたイメージを作り上げ、亡霊のようなイメージで縁取る。その後、チェロかギターが加わる。アウトロでは、ジョン・ケージの最初期の名曲「In a Landscape」に見受けられるような、ピアノの低音部とともに何かが消滅するようなSEの音響効果が登場し、いよいよ描写音楽としての迫力味を増していきます。



「Hades」-  Best Track

 



それに続く「Hades」は、この世とあの世の間をさまようかのような奇妙な印象を擁するピアノ曲で、オリヴィエ・メシアンや、坂本龍一、アルヴァ・ノトとのコラボレーションの系譜に位置づけられる。もちろん、前衛的なエレクトロニックとしても聴くこともできるでしょう。ニルス・フラームの代表曲「All Armed」で使用されたような前衛的なモジュラーシンセで始まり、その後、協和音と不協和音の双方を活かしたべヴィンのピアノの演奏、プリペイド・ピアノの要素を交えたモダン・クラシックとエレクトロニックの中間点に位置するような楽曲です。

 

 

アルバムの中盤では「The heron」が強い印象を擁する。曲のイントロには、足音が遠ざかるサンプリングが取り入れられている。つまり、友人が死にゆくというメタファー(暗喩)が込められ、モートン・フェルドマンがテキサスの礼拝堂のために制作した代表的な作品『Rothko Chapel』に見いだせるようなマーテン・ボスのチェロの主旋律の演奏で始まり、その後、ユップ・べヴィンによるエリック・サティの系譜に位置づけられる物悲しいピアノの演奏が続いています。 



これらは、べヴィンの音楽の核心にある簡潔性とロマン派の系譜にあるエモーションや憧れ、そして夢想を体現している。彼はまた従来の作品と同じように、それらを悲哀を込めて情感たっぷりに演奏しています。

 

「02:07」は、先行シングルとして公開され、前の曲の悲しみやペーソスといったイメージとは対極にある、やや明るい印象に縁取られている。友人の死の時刻がタイトルになっていますが、友人の死を悲しみではなく、明るく送り出すような意図が込められているのかもしれません。そして同時に、この曲には制作者の友人への追憶が含まれているという気がする。それは実際的に深みのある情感を聞き手にもたらす。曲の最後は次のタイトル曲の伏線となっています。

 

タイトル曲は、ブライアン・イーノの系譜にあるアンビエント風の一曲で、移ろい変わる魂の変遷のような神秘的な瞬間が体現されている。実際的には、アルバムの序盤から中盤で描き出された暗さや闇といった概念から、その対極にある明るさと光のような瞬間が切り取られています。そして全体的には霊的な瞬間をエレクトロニックから解釈したような作風になっている。

 

アルバムのクローズ「The boat」では、「Hades」におけるシンセのパルス音が再登場し、今作の中では最も神秘的な瞬間がエレクトロニックによって体現されている。アルバムの最後では端的なピアノ曲がロマンチックな雰囲気を帯びる。簡素なミニマルミュージックの系譜にあるささやかなピアノ曲は、ニルス・フラームのプロデュースにより美麗な印象が付与されています。


本作には、不世出の偉大な音楽家、モートン・フェルドマン、坂本龍一、アルヴァ・ノトに対するオマージュやリスペクトが示されているため、音楽の基底にそれらを探し求めるという醍醐味も見出せるかも知れません。また、友人の死の時刻をタイトルに据えたのは、坂本龍一さんの遺作『12』への敬意が含まれているからなのでしょうか。厳粛さと前衛性の融合が図られた一作。反復の構造が多いため、すぐ飽きるかと思いきや、底知れぬ魅力を湛えた耽美的なアルバム。

 

 

 

「02:07」 -Best Track

 


 


86/100



 

Joep Beving & Maarten Vosの新作アルバム『vision of contentment』はLeiterから本日発売されました。ストリーミング等はこちらから。 

Weekly Music Feature-Kassandra Jenkins  ~Life and the music behind it~


冗談で言うのではなく、『My Light, My Destroyer』の世界は夜空そのもののように広がっている。聞けば聞くほど深さを増していく正真正銘のポピュラーアルバムがDead Oceansから登場する。


カサンドラ・ジェンキンスの3作目となるフルアルバムは、ギター主体のインディー・ロック、ニューエイジ、ソフィスティポップ(AOR)、ジャズなど、これまで以上に幅広いサウンドパレットを駆使し、新たな境地に到達することを約束する。その中心にあるのは、彼女の宇宙を構成するクオークやクェーサーに対するジェンキンスの好奇心であり、彼女はフィールド・レコーディングと、とらえどころのない、ユーモラスで、破滅的で、告白的な詩的リリシズムを融合させている。


ジェンキンスは『My Light, My Destroyer』を、ここまでの道のりに困難がなかったわけではないという単純な真実を裏切る、安易な自信で満たしている。2021年にブレイクした『An Overview on Phenomenal Nature』を "意図した白鳥の歌 "と呼ぶ彼女は、ツアーや自身の音楽をリリースすることになれば、それをやめる覚悟はできていたと説明する。


「その時私は、自分が知っていること、つまり迷いを感じていることにチャンネルを合わせていた」とジェンキンスは振り返る。


「そのレコードが発売され、私が書いたものに人々が反応し始めたとき、辞めようと思っていた私の計画は、予想外の、心温まる、寛大な方法で頓挫した。準備ができていようといまいと、私は元気を取り戻した」


『An Overview』の2年間のツアーを終えてすぐに、ジェンキンスは次の作品のレコーディングに取りかかった。


「私は燃え尽きて枯渇しているところから来ていて、セッションの後の数ヶ月は、作ったばかりのレコードが好きではないことを受け入れるのに苦労した。だからやり直すことにした」と彼女は告白している。

 

彼女の最も親しい音楽仲間たちが再び集まり、プロデューサー、エンジニア、ミキサーのアンドリュー・ラッピン(L'Rain、Slauson Malone 1)がボードの後ろにいたため、ジェンキンズは以前のセッションを脇に置き、その灰から『My Light, My Destroyer』を作り始めた」


「初日にコントロール・ルームで聴き返したとき、レコード棚のスペースが開き始めたのがわかった。その火花がアルバムの残りの部分の青写真になり、その完成は新たな勢いに後押しされた」



『My Light, My Destroyer』が1年かけて制作されたとしても、この13曲の中にはジェンキンスのノートブックの中で何年も潜伏していたものもある。例えば、「Delphinium Blue」の洞窟のようなニューエイジ・ポップの種は、2018年までさかのぼる。


トム・ペティの欺瞞的なまでに爽やかなフォーク・ロックの古典主義、アニー・レノックスやニール・ヤングのようなソングライターの作品、彼女の "高校時代のCD財布"(レディオヘッドのザ・ベンズ、ブリーダーズ、PJハーヴェイ、ペイヴメント)、デヴィッド・ボウイの最後のジェスチャー『ブラック・スター』、そしてアン・カーソン、マギー・ネルソン、レベッカ・ソルニットのような作家、そして故デヴィッド・バーマンの常に存在する作品から影響を受けた歌詞など。


しかし、何よりも、そしてこれまでと同様に、ジェンキンスは彼女の周りの世界のおしゃべりの刺激からインスピレーションを得ている。


「世の中に出て、いろいろなことが混ざり合っているときが、一番エネルギーが湧いてくるの」と彼女は言う。


「ニューヨークに帰ってきて、親しい友人やコミュニティと一緒に地下鉄に乗ったり、ライブに行ったりしていると、人がたくさんいる部屋に流れる電気を感じたくなる。ニューヨークは果てしなく刺激的で、私はとても感受性が豊かなんだ」


フィールド・レコーディング、ファウンド・サウンド、そして電車の音や客室乗務員の声などの付帯音を巧みに織り交ぜ、彼女は聴く者を引き込む。フィクションよりも奇妙な瞬間に注目させる。


この没入感に彼女と一緒に貢献したのは、モダン・インディー・ロックの枠を超えた友人達である。『My Light, My Destroyer』は、前作のような孤独な作品というよりは、グループとしての作品である。


PalehoundのEl Kempner、HandHabitsのMeg Duffy、Isaac Eiger(元Strange Ranger)、Katie Von Schleicher、Zoë Brecher(Hushpuppy)、Daniel McDowell(Amen Dunes)、プロデューサー兼楽器奏者のJoshKaufman(JenkinsのAn Overview)、また、ジェンキンスの友人である映画監督/俳優/ジャーナリストのヘイリー・ベントン・ゲイツは、ジェンキンスが『An Overview』の「Hailey」に続くタイトルを思いつかなかったとき、半ば冗談でアルバムの瞑想的なコーダ「Hailey」のタイトルを提案した。



タイトルである「光」と「破壊」という概念は、一見、観念的に相反するもののように思えるかもしれないが、『マイ・ライト、マイ・デストロイヤー』は、まさに循環する二元性のテーマに取り憑かれている。

 

時間的には、このレコードは夜明けに始まり夜明けに終わる。「Petco」では、ジェンキンスの "大家ピンク "の壁が陥没しそうになる中、彼女は窓越しに "不潔で真実の愛に包まれた2羽の鳩 "を見つめる。


「Aurora, IL」は、鏡のような視点という点で、より遠くにズームアウトしている。この曲は、ジェンキンスが空を見上げるところから始まり、"快楽旅行中の宇宙最年長の男 "と入れ替わる。ウィリアム・シャトナー(カーク船長)自身を指している。

 

ホテルの部屋に置き去りにされたジェンキンスは、「私は空回りしていて、あのキャラクターを利用することで、地上に戻ってくるために、彼が持っているもの、つまり『オーバービュー効果』を少し摂取することができた」と説明する。


しかし、このようなワイドスクリーンの驚異の中にあっても、苦難という地上の懸念は残っている。伝説のポップ・グループ、ブルー・ナイルのシティ・ストリートのテクスチャーを彷彿とさせるみずみずしい「Only One」では、ジェンキンスがシジフォス自身、あるいは少なくとも、永遠に重荷を背負わされる神話の人物の棒人間の絵と対面している。


「グラウンドホッグ・デイ(聖濁節)のようなもので、何度も同じ状況に置かれ、そのループから抜け出す方法がわからない」


 「マッサージ店の窓ガラスの向こうで」(ジェンキンスがヒーリングの方法を調べることに興味を持っていることへのウィンク)シジフォスと路上で出会った彼女は、神話上の人物にこう尋ねる。


この歌詞についてジェンキンスは、これは「失恋と、失恋の世界観-自分以外のものを見ることができないこと、永続性の幻想に浸る必要性-をからかう」方法だと説明している。

 

この歌は彼女自身の問いかけに答えることはないが、ジェンキンズはこう続ける。「窓に掲げられたあの看板を見たずっと後、シジフォスは、たとえ燃えているときでも、私たちにはいつも周りの世界に美しさを見る選択肢があることを思い出させてくれました」




『My Light, My Destroyer』- Dead Oceans  

 

このサイトを始める前に、個人的に注目していたのが、オーストラリアのHiatus Kaiyoteと、ニューヨークのKassandra Jenkinsだった。こういった音楽メディアを開始するときによくあることとして、どういうふうに紹介すれば良いのか考えあぐねていた。適当な紹介をするくらいなら何もしないほうがましなのではないかというように。

 

結局、ほとんど連続して上記のリリースが続いたのは何かしら驚異と感慨深さすら感じられる。先行シングルは、それほど派手な印象ではなかったものの、Dead Oceansに移籍して第一作となるカサンドラ・ジェンキンスのアルバムは正真正銘の録音作品で、単なる曲の寄せ集めではない。これらの13曲はアーカイブでもなければ、ディスコグラフィーでもなく、はたまたアンソロジーでもない。


ジェンキンスは、制作期間は一年であるとしても、アルバムをおよそ6年の月日を掛けて完成させたのだったが、結局のところ、手間暇掛けて制作された作品というのは、何らかの形で心に響いてくるし、即時性という一般的な言葉では言い表すことの出来ない音楽の醍醐味が内在する。これは何によるものなのか? それは制作の背景に流れる時間の濃密さにあるのかも知れない。

 

例えば、リョサ、マルケスと並んで、南米で最重要視される文学者、短編小説の名手でもあるフリオ・コルタサルは、ある著作の中で、架空のジャズプレイヤーを題材に選び、「音楽の中に異なる時間が流れているのではないか」と暗に指摘したことがあった。これは、シュールレアリズムの観点からリアリズムを鋭く抉った文学であり、つまり、コルタサルは「音楽の演奏家や制作の背後に表現者の人生が反映されているのでは」というジャーナリスティックな指摘を文学で行った。これをプルーストやジョイス的な効果を交えて、コルタサルは描いたのだった。

 

カサンドラ・ジェンキンスの新作アルバムも同じく、濃密なポピュラーミュージックの世界が広がり、プルースト的な効果が付与されている。


ジェンキンスは、このアルバムにおいてニューヨークを起点に「音楽」という得難い概念を探訪しているが、Farter John Misty(ジョシュア・ティルマン)の最新作と同じように、米国の歴史の根幹を形成する一世紀の音楽が通底している。ブロードウェイのミュージカル、ジャズ、カーペンターズのような古典的なバロックポップ、ヤングのフォーク、ノーザンソウルを中心とするR&B、さらには、ニューヨークのベースメントのプロトパンクを形成するThe Velvet Underground、ルー・リードの音楽、80年代のソフィスティ・ポップ、現代のスポークンワード、アンビエントをベースとするニューエイジ、ローファイまでを隈なくポップネスに取り込む。

 

ジェンキンスは、音楽のフィールドを気楽な感じでぶらりと歩きはじめたかと思うと、それらの流れを横目で見やるように、ハートウォーミングな歌をやさしげに、さらりとうたいあげる。それらの背景となるおよそ一世紀に及ぶ音楽を出発点とし、現代のモダンポップへと近づいたり、あるいは、遠ざかったりする。音楽的な遠慮はほとんどない。そこにはポップシンガーではありながら、90年代や00年代のオルタナティヴ・ロックに対する親和性も示唆される。

 

 

「Devotion」- Best Track

 

 

 

『My Light, My Destroyer』が何より素晴らしいのは、ミュージシャンの人生の流れが色濃く反映されていること。次いで、平均的な録音の水準を難なくクリアしているのみならず、良質なポップ、ロックを惜しみなくリスナーに提供していることである。もちろん、ジャンルを防御壁にすることなく、普遍的なメロディーを探求し、琴線に触れる音楽を把握し、プロフェッショナルなレコーディングとして完成させていることである。さらに、長所を挙げると、アルバムの13曲を聞き終えた時、また、もう一度聞き直したいという欲求を抱くかもしれない。音楽に対する欲求……、それはアルバムの持つ独自の世界に再び触れてみたいという思いでもある。

 

ジェンキンスは、ブロードウェイの通りを歩き出すように、フォークギターを背景に、カレン・カーペンターズの歌唱法を彷彿とさせる「1- Devotion」を歌い始める。ニューヨークらしい音楽的な手法が織り交ぜられ、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの最初のアルバムのオープナー「Sunday Morning」で使用されたグロッケンシュピールのようなアレンジを取り入れ、良質なポップソングをハワイアン風のギターが取り巻く。さらに楽園的な雰囲気は、芳醇なホーンセクションにより高められて、完璧な瞬間を迎える。ジェンキンスは日の出の美しさをさらりと歌いながら音楽による小さく大きな「夢」を作り上げていく。

 

歌手は、たとえ、その背後に人生のほろ苦さがあるとしても、そのことを受け入れる懐深さを持っている。どのような人生もそうであるように、良い側面だけではなく、悪い側面を受け入れる勇気をシンガーは持っている。だから、ジェンキンスの歌声は円熟した精神性を感じさせる。ようするに、表現すべきものであったり、聞き手の感情へ訴えかける何かを持ち合わせているのだ。

 

 

「2- Clams Casino」は、ルー・リードの”Walk On The Wild Side"、あるいは「Pretty Woman」の主題歌を彷彿とさせるナンバーで、ジェンキンスは、ポピュラーシンガーの背後にあるロックシンガーとしての表情を伺わせる。


オープニングと同様にボーカルの叙情的で淡麗なメロディーを披露し、インディーロック風の親しみやすいギターが絡み、クランチな印象を持つギターソロも取り入れられ、聴き応えのあるオルタナティヴロックに昇華される。90年代の米国のオルトロックの音楽性を踏まえた上で、それらを聞きやすく艶気のあるポピュラーソングに落とし込むという点では、シャロン・ヴァン・エッテン/エンジェル・オルセンの系譜にあるトラックと言える。背後のギターロックに合わせて歌われるジェンキンスのボーカルは、感情的なゆらめきとウェイブの変化をもたらしている。

 

「3- Delphinium Blue」はソフィスティ・ポップ(AOR)の系譜にあるナンバーで、TOTO、Don Henleyの影響を元にし、それを現代的なエクスペリメンタル・ポップの形に組み替えている。ただ、実験的なポップとは言えども、構成は至ってシンプル、無駄な脚色が削ぎ落とされている。背景にはニューエイジ風のコーラスやシタールを彷彿とさせるシンセを取り入れ、部分的にスポークンワードを取り入れ、現行のポピュラーシーンに新たな表現性をもたらそうとしている。


ボーカル/スポークンワードの融合というスタイルは、ニューヨークのMaggie Rogers、ないしはTorresが先んじていることとはいえ、''新しいポピュラーミュージックの到来''を予感させる。そして、これらの多角的な要素は、情報過多にもならず、一つの枠組みの中に収まっている。つまり、良質なポピュラーソングの要素をしっかり兼ね備えているのである。


アルバムには幾つかのインタリュードが設けられ、それが言葉の持つ表現をマイルドにしている。言葉があまりにも過剰になると、音楽が過激になりすぎたり、飽和状態に至る場合がある。そういう時に必要となるのが、インストゥルメンタルやインタリュード、もしくは主張性を排した控えめな言葉、沈黙の瞬間で、音楽の印象を抽象化したり、弱めたり和らげる効果がある。これはアルバムの音楽の世界に奥行きを与えたり、広げたい時にも役立つかもしれない。

 

「4- Shatners Theme」では、エンリオ・モリコーネ風の口笛(Molly Lewisを思わせる)と虫の声のサンプリングを取り入れ、映像的な効果を及ぼし、言葉のシリアスさから開放する力を込める。それが次のボーカルトラックに繋がり、ジェンキンスのボーカルが耳に飛び込んでくる瞬間、対象的に強固なイメージを及ぼす。その印象的な効果が最大限に強められたところで、「5-Aurora IL」が続いている。イリノイの空にかかるオーロラを題材に選び、空想的な物語を描くこの曲では、神秘的な感覚と夢想的な感覚が綯い交ぜとなり、美しく陶然としたメロディーを描き出す。さらに曲の後半でギターソロが入ると、インディーロック風の言い知れない熱狂性を帯びてくる。これはおそらくキム・ディールのブリーダーズからの影響が色濃いのかもしれない。

 

続く「6- Betelgeuse」は、ブライアン・イーノとの共同制作で知られるハロルド・バッドのモダンクラシカルの影響を踏襲し、シネマティックな音楽効果で縁取っている。4曲目と同じように、ピアノのアルペジオ(分散和音)を中心に、スポークンワード、金管楽器のサンプリングを交え、ジャズ風の音楽に昇華させる。これらはアーティストのニューヨークの暮らしからもたらされる感覚だったり、日常的な会話からもたらされる空気感のようなものが反映されている。

 

日本語をタイトルに選んだ「7- Omakase(おまかせ)」では、モダンなインディーポップを楽しむことができる。しかし、マギー・ロジャースやトーレスのような現代的なニューヨークのポップスシンガーと同様に、ジャズ/クラシック風のアレンジを取り入れた涼やかなポピュラーソングの中で、ボーカルとスポークンワードを織り交ぜつつ、多彩なボーカル表現を探っている。現代のポピュラーシンガーは、歌だけではなく、スポークンワード(語り)を披露するのが主流となりつつある。いずれにせよ、この曲では前衛的な手法も取り入れられていて、聞きやすくて、良質なメロディーに焦点が絞られている。これはアルバムの全体に通底するテーマでもある。

 

 

わずか18秒のインタリュード「8- Music?」を挟んだ後、再び「9-Petco」でインディーロック/オルトロックのアプローチに回帰する。この曲は、Waxahatchee、Soccer Mommyのソングライティングを思わせるが、ジェンキンスは、それらを自らの独自のカラーで上手く染め上げている。取り立てて、上記のシンガーと大きく変わらないような曲のように思えるが、ときにオルタナティヴの巧みな旋律を描くギターや、夢想的なジェンキンスのボーカルが最初期のSnail Mailのようなローファイな感覚のある絶妙なインディーロックソングのハイライトを作り出す。つまり、論理的には言い表しづらいが、良い感じのウェイブを作り上げている。日常のありふれた感情を捉え、バンガー風のロックソングに仕上げたのは、バックバンドの貢献や彼女が親交を持つミュージシャンとの交流やアドヴァイス、そして会話からもたらされたものなのかもしれない。少なくとも、今年の米国のオルトロックソングの中では傑出した印象を受ける。

 

 

「Petco」- Best Track

 

 

 

アルバムのいくつかの収録曲では、ニューヨークだけではなく、西海岸や中西部の文化を反映させた音楽をアルバムの中で体現させているが、ジェンキンスはアメリカの人物であるにとどまらず、コスモポリタニズムを反映させ、音楽による旅程の範囲をヨーロッパまで広げることがある。

 

「10- Attente Telephonique」ではフレンチ・ポップの影響を織り交ぜ、モダンなエクスペリメンタルポップへと昇華させている。音楽の映像的な効果という側面は、セルジュ・ゲンスブールとジェーン・バーキンが最初にもたらしたもの。映画文化が最も華やりし20世紀のパリの街角の気風を反映させた音響効果は、最も現代的でスタイリッシュなポップスという形に繋がっている。


従来、ケイト・ル・ボンの系譜に位置づけられる実験的なポップスを制作し、その内奥を探求してきたジェンキンスであるが、一度複雑化したものを徹底的に簡素化する過程を、おそらくアルバムの制作で経ているに違いない。「Attente Telephonique」では、一度大掛かりになりすぎたものを小さくしたり縮小するというプロセスが反映されている。


しかし、興味深いことに、簡素化というのは、複雑化した後でなければ、到達しえない地点である。 すくなくとも、この曲では、フランス語のスポークンワードのサンプリングを織り交ぜ、ヨーロッパのテイストを漂わせる。なぜかはわからないが、これらの実験的な試みは、意外に他のボーカル曲と上手い具合に合致しており、アルバムの流れを阻害しないのである。驚くべきことに、ジェンキンスは、ニューヨークにいたかと思えば、次の瞬間にはパリにいる。ありえないことであるが、そういったプルーストやジョイス的な移動を音楽により体現させている。

 

 

アーティストが”VOGUE”に憧れているかどうかはわからない。ジェンキンスはファッション誌の表紙を飾ることを期待しているのだろうか。しかしアルバムの最後を聴くと、さもありなんといった感じだ。アルバムの最後は、ファッショナブルな印象を与えるポピュラーソングが続いている。

 

「11- Tape and Tissue」は、ウッドベースの演奏を取り入れて、ジャズポップを現代的な形に置き換えている。古典的な音楽の手法を踏まえようとも、音楽そのものがなぜか古臭くならない。それはアーティストがニューヨークの現代的な暮らしに順応しているからなのかもしれない。

 

また、音楽的にも、エクスペリメンタルポップの要素が取り入れられているが、その後すぐに古典的なポピュラーミュージックに回帰する。柔軟性があり、枠組みやジャンルを決めず、曲の中で臨機応変にふさわしい歌い方や音楽を選んでいる。このことが開放的な印象を及ぼす。聞いていて、緊張した感じとか、差し迫ったものはほとんどなく、安らぎすら覚えるのはふしぎである。


たぶん、これも先に言ったように、良いことも悪いことも引っくるめて受け入れるような、物事や出来事に対して少し距離を置いているような感じを覚える。これが歌にも説得力を付与する。ジェンキンスは自分自身の最良の側面だけではなく、それとは対象的に、着崩したようなルーズな弱点を示す。それが聞き手に親近感を与え、音楽そのものにもリアリティを及ぼすのだろう。

 

アルバムの三曲目に登場したソフィスティ・ポップ(AOR)は、続く「12- Only One」にも再登場する。この曲は、アルバムの中では唯一、R&Bの影響がわずかに感じられ、清涼感があり聞きやすい2020年代らしいポピュラーソングに昇華されている。ダンサンブルな側面はもちろんのこと、ソフィスティ・ポップの次世代の象徴であるThe 1975、Japanese Houseの系譜にあるポップソングは、あまり音楽に詳しくないリスナーにもカタルシスをもたらす可能性が高い。


この曲において、カサンドラ・ジェンキンスは、ロンドンのレーベル、Dirty Hitの代名詞ともいえる清涼感のあるポップスの文脈を、アメリカに最初に持ち込んだと言える。しかし、この曲はやはり「複雑化を経た後の簡素化」というジェンキンスの独自の音楽的な解釈が付け加えられている。そして、それは最初からシンプルであったものよりも深みを持ち合わせているのである。

 

最後の曲「13- Hayley」では、オーケストラストリングのアコースティックの演奏を交え、気品に満ちあふれた感覚をもって終了する。チェロの奥行きのあるレガートを中心とする演奏は、 高い旋律を描きながら、クライマックスで精妙でクリアな感覚を作り上げる。チェロにバイオリン/ヴィオラの演奏が組み合わされて、美麗なハーモニクスを描き、アルバムはあっけなく終わる。


"後腐れなく、シンプルに"というジェンキンスの生き方が『My Light, My Destroyer』には力強く反映されている気がする。そして、それは、アーティスト自身の他者には持ち得ない独自の流儀--スタイル--を意味する。こういった恬淡なアルバムの終わり方は、すごく爽やかな印象を残す。

 

 

 

95/100

 

 

「Tape and Tissue」 -  Best Track

 

 

 

*Kassandra Jenkins(カサンドラ・ジェンキンス)による新作アルバム『My Light, My Destroyer Destroyer』はDead Oceansから本日(7月12日)発売。


各種ストリーミングの視聴や商品のご購入はこちら(国内ではTower Records、HMV、Disc Union、Ultra Shibuyaなど) 又は全国のレコードショップの実店舗にてよろしくお願い申し上げます。

 

Kiasmos
Kiasmos ©︎Erased Tapes


本日、アイスランドの作曲家オラファー・アーナルズとフェロー諸島のミュージシャン、ヤヌス・ラズムセンによるデュオ、Kiasmosが待望のセカンド・アルバム『II』を引っ提げてカムバックを果たす。


キアスモスが2000年代後半に活動を開始したとき、パートタイムのスーパーグループが成層圏に突入することになるとは、本人たちも知る由もなかった。それは、近隣の島々(アイスランド)からやってきた2人の旧友が、それぞれが得意としていたピアノとエレクトロポップの音楽に対して殴り込みをかけ、ベルリン風のビートへの愛着を熱く分かち合うというものであった。しかし、2人のペアは、世界を席巻するライブ・アクトに成長し、その音楽は10年間を定義することに。


さて、エレクトロニック・ミュージック界で最もダイナミックなデュオの一組は、今更ながら次に何を企てているのだろう。彼らの新しいアートワークにそのヒントがありそうだ。キアスモスの特徴的なダイヤモンドのモチーフは、''炎に包まれたのち、灰の中から再び蘇る''というもの。


キアスモスは『II』によって、新しく生まれ変わり、復活を遂げる。2014年リリースされたセルフタイトルのデビュー作で、オーケストラのような華やかさと重さを感じさせないプロダクションでミニマル・テクノを再構築した。このアルバムは、わずか2週間で大部分を作り上げた。『II』の制作は、彼らの友情の試金石であると共に、素晴らしい音楽的な化学反応がいかに長い時間を経ても変わらずに存在しえるかを証明付けるものである。「当初、私たちは何のサウンドも確立していなかったので、作曲するのは簡単だった」とヤヌスは言う。


『II』では、奥深いアコースティックなテクスチャー、アトモスフェリックなアンビエンス、忙しないグルーヴ、野心的なストリングス・アレンジなど、キアスモスがサウンド・アーキテクトとして、どのように進化したかをはっきりと聴きとることができる。アルバムの各曲は、エレクトロニック、クラシック、レイヴの間を難なく行き来し、息つく暇もなく引き戻される小さな叙事詩を意味する。これは『Kiasmos』だが、さらにワイドスクリーンだ。「サウンドもプロダクションも大きくなった」とヤヌスは言う。「音楽は成熟しているけど、遊び心もある」


2020年から2021年にかけての失われた1年間、彼らはバリ島にあるオラファーのスタジオを訪れるなど、「II」の制作に熱心に取り組んだ。「私たちはそこで1ヶ月を過ごし、レコードに収録される数曲を書きました」とヤヌスは言う。2人はガムランなど伝統的なバリ島のパーカッションをサンプリングし、ヤヌスが録音した自然環境のフィールド・レコーディングを取り入れた。


キアスモスは、インストゥルメンタル・ミュージックで複雑な感情や喚起的なビジュアルを伝えることにかけては、うらやませるほどの才能を持っている。しかし今回は、プロデューサーとしての経験がより活かされている。アルバムの広がりは、オラファーがグラミー賞にノミネートされた作曲家として、さらに映画やテレビで著名なサウンドトラッカーとして活躍するまでの歳月と綿密にリンクしている。また、伝統的な4ビートからUKダンス・ミュージックの熱狂的なブロークン・ビートへと微妙にシフトチェンジし、BPMをより実験的に変化させている。


「エモーショナルなレイヴミュージックだ!」とオラファーは言う。Kiasmosの魔法は、ライブで起こりうるカタルシスの解放にも求められる。「''ダンスフロアで泣かせる''というアイデアをよく話すんだ。それが僕らの''非公式スローガン''になっている」「しかし、僕たちはまた、自分たちを含め、すべての人を飽きさせないことを望んでいる」とヤヌスは言う。もちろん、ささやくような静かなアトモスフィアから、ソックスを吹き飛ばすような爆発的なダンスビートへと移行するKiasmosの特徴的なスタイルは健在だ。彼らの不死鳥は灰の中から蘇り、飛び立つ準備が整っている。



Kiasmos  『II』-Erased Tapes

 

オラファー・アーナルズとヤヌス・ラスムセンの二人は、2014年から数年間の間隔を経て、スタジオ・アルバムを発表しつづけている。特に、オラファー・アーナルズに関してはソロミュージシャン、グラミー賞ノミネートの作曲家として様々なプロジェクトを手掛けているため、Kiasmosの活動だけに専念するというわけにもいかない。

 

前回は3年、今回は7年というスパンを置いても、キアスモスのサウンドは、普遍的で、相変わらず熱狂的なエレクトロサウンドが貫流している。


2014年からおよそ10年が経過したが、キアスモスのサウンドの核心には二人のダンスミュージックへの愛情、シンセサイザー奏者としての熱狂的な感覚が含まれている。いかなる傑出したミュージシャンであろうとも、10年という月日を経れば何かが変わらざるを得ないが、内的な変化や人間としての心変わりがあろうと、”Kiasmons"として制作現場に集えば、才覚を遺憾なく発揮し、誰よりもハイレベルのEDMを制作する。これぞプロフェッショナルな仕事なのだ。

 

今回、インドネシアのバリ島に制作拠点を移したキアスモスは、本人いわく”エモーショナルなレイヴ・ミュージック”を志向しているというが、実際的にはリゾート地の空気感を反映した清涼感のあるダンス・ミュージックの真髄が体現されている。基本的なハウスの4ビートを踏襲しながらも、リズムの構成の節々にフックを作り、それらを取っ掛かりにし、強固なうねるようなグルーヴを作り出す。

 

彼らのサウンドのアイデンティティでもあるEDMとしての熱狂性をビートの内側に擁しながらも、Bonobo(サイモン・グリーン)の『Migration』に見いだせるパーカッションやシンセリードの要素が圧倒的なエネルギーの中に静けさと涼し気な音響効果を及ぼす。全篇がボーカルなしのインストゥルメンタルで貫かれる『Ⅱ』は、あらゆるダンスミュージックの中でも最もコアな部分を抽出した作品と称せるかもしれない。


クラシカルなハウス/ディープハウスのビートを踏襲し、ベースラインのような変則的なリズム性を部分的に付け加え、独特なノリ、特異なウェイヴ、うねるようなグルーヴを呼び覚ます。もちろん、映画などのサウンドトラックも手掛けてきたオラファー・アルナルズは、作曲家としてだけではなく、プロデューサーとしても超一流だ。彼は熱狂的なアトモスフィアを刻印した覇気のあるダンスミュージックに、ストリングやピアノのアレンジを交え、アイスランドやフェロー諸島の雄大な自然の偉大さを思わせる美麗で澄み渡った音楽的な効果を付け加えている。

 

Kiasmosのプレイヤーとしての役割分担は明確である。しなやかなビートを作り出すリズムの土台を形作るラスムセン、それらにリードや演出的な効果を付加するアーノルズ。彼らは演奏の中で流動的にそれらの役割を変えながら、一つの形にとらわれない開放的なEDM(Electric Dance Music)を制作し、そしてダンス・フロアの熱狂をレコードの中で体現させようとしている。


アルバムのオープニングを飾る「#1 Grown」は、神秘的なシンセ・パッドを拡張させ、開放的で清涼感のあるアトモスフィアを作り出す。モジュラーシンセのビートが緻密に組み上げられていき、背景となる大気の空気感を反映させたシークエンス、そしてオラファーの代名詞である美麗なポスト・クラシカルのピアノの演奏を交えながら、連続した音のウェイブを作り出す。


基本的にミニマル・テクノをベースにしているが、Tychoの系譜にあるサウンド・デザインのような意味を持つシンセ・リードがトラックそのものの背景となるシークエンスにカラフルな音の印象を及ぼす。そして、オーケストラストリングやピアノの演奏を付け加えながら、単一の要素で始まったダンスミュージックは驚くほど多彩な印象に縁取られ、その世界観を広げていき、そして奥行きを増していく。反復的なミニマルの音の運びがアシッドビートのように何度もそれが執拗に繰り返されると、オラファー・アルナルズのカラフルなシンセリードの演出効果により、ダンスミュージックの祝福されたような瞬間をアルバムのオープニングで作り出す。

 

エモーショナルなレイヴの要素は「#2 Burst」に見いだせる。同曲は今年のダンス・ミュージックのハイライトとなりそう。今回、 ”伝統的な4ビートからUKのダンスミュージックを反映させた”ということで、Burialの最初期のダブステップやUKベースライン、ブレイクビーツの影響を交え、しなるようなビートを築き上げる。もちろんキアスモスとしての特性も忘れていない。


90年代、00年代から受け継がれるダンスミュージックの内省的な要素を反映させ、レイヴやアシッド・ハウスの外交的なスタイルに昇華させる手腕は天才的である。次のセクションの前に強拍を置き、それらを断続的に連ねながら、キアスモス特有のグルーヴを発生させ、連続的なエネルギーを上昇させ、青空に気球がゆっくりと舞い上がるかのようなサウンドスケープを呼び覚ます。 そしてフィルターを掛けながら、トーンを自在に変化させたり、映画音楽のようなストリングを交えたりと、ジャンルそのものを超え、音楽の合一へと近づく様は圧巻である。”泣かせるダンスミュージック”というのが何なのか、この曲を聞いたら明らかではないだろうか。

 


「Burst」-Best Track

 

 

音楽における旅を続けるかのように、「#3 Sailed」は映画音楽をテクノ/ブレイクビーツとして再解釈し、ドラマティックなイメージを呼び起こす。南国の海の波の音をリズムの観点から解釈し、Tychoのようなリード、民族楽器のフルートを模したシンセ、ガムランのようなインドネシアのリズムの特性を織り交ぜ、”エスニック・テクノ”という未曾有のジャンルを作り上げる。


これらは、2010年代後半にBonoboが試みていたエスニックなテクノにキアスモスの独自の解釈を付け加え、それらを洗練させたり改良させたりする。色彩的な音楽の要素は「#4 Laced」でも続き、Four Tetの系譜にあるサウンド・デザインのようなアウトプット、それから、ピアノやホーンのリサンプリングの要素を重層的に重ねながら、コラージュ的なテクノを構築する。曲の複合的なリズムはもちろん、キアスモスは一貫して旋律進行の側面を軽視することはない。


同曲の後半では、ダブステップやネオ・ソウルのトラック制作で頻繁に使用されるオーケストラ・ストリングやホーンのサンプリングの技法を凝らしながら、変幻自在で流動的なサウンドを作り出す。これらのサンプリングは裏拍を強調したアップビートと重なりあい、最終的にはアシッドハウスの範疇にあるコアなグルーヴを発生させる。

 

Erased Tapesのプレスリリースでは”BPMの変化に工夫が凝らされている”と書かれている。ところが意外なことに、本作の序盤ではBPMが驚くほど一定で、同じようなビートの感覚が重視されている。つまりテンポはほとんど変わらない。しかし、これは”リズムの魔術師”である二人の遊び心のようなもので、終盤にある仕掛けが施されている。


そして、少なくともBPMの観点から言えば、一定のテンポという概念を逆手に取り、その中に組み込まれる大まかな音符の分数の割当により、リズムの性質に変化を及ぼし、最終的にはリズムの構造性を変容させる手法が目立つ。変拍子は登場しないが、他方、トーンの変化ーーフィルターを調節し、音の聞こえ方を変化させることで、ビートに微細な変化を及ぼしている。これは、彼らのKEXPのライブ・パフォーマンスを見てもらえるとよく分かるように、ターンテーブルの出力の遅れを始めとする音の発生学をシンセプレイヤーとして体感的に捉えたものである。

 

続く「#5 Bound」はディープ・ハウスの4ビートに軸足を置きながら、シンセのモジュラー機能によってほんわかしたシーケンスを作り出し、最終的にはそれらを清涼感のあるレイヴの形へと繋げる。やはり一貫してBPMは一定であるが、トーンのシフトを調節しながら、出力を引き上げたり、正反対に引き下げたりしながら、ラウドとサイレンスを自由自在に行き来する。もちろん音程もそれに応じて、手動で上昇させたり、下降させながら、流動的なウェイブを作り出す。これらにエモーションを与える役割を果たすのが、曲の後半で演出的に導入される映画音楽の影響下にあるオーケストラストリングだ。これはとりも直さず、フロアのクールダウンの役割を果たしている。アウトロで演奏される内省的なローズピアノがほのかな余韻を残す。

 

 

前半では、キアスモスらしからぬトラックが多いように思える。しかし、「#6 Sworn」では両者が2014年頃から追求してきたアイスランド/フェロー諸島の持つ土地柄を反映させたテック・ハウスが展開される。


2017年に発表された「Blurred」のタイトル曲の系譜にあり、ピアノを元に深妙なイントロを作り出し、内的な熱狂性を込めたミニマルテクノを展開させる。しかし、アルナルズのシンセリードの演奏は、以前よりも円熟味を増し、彼が言うように「エモーショナルなレイヴ」の感覚を呼び起こす。


確かに、キアスモスらしい音の運び方であるものの、7年を経て、何かが変わったような気がする。オーケストラ・ストリングを含めたサウンドプロダクション、アンビエントのようなシークエンス、金属的なパーカッションのリズムセクション、シンセの音の破壊とマニュピレーションというように、以前よりも多角的な要素が散りばめられ、背後にはファンク・ソウルの影響もちらつき、最終的に二人の合奏やサウンドコントロール下にあるタイトな音楽を構築する。


思うのは、キアスモスは、2020年代のダンス・ミュージックだけではなく、90年代やミレニアム時代のテクノの醍醐味を体感的に知っているということである。もちろん、ダンスミュージックは、他のいかなるジャンルよりも感覚的なもので、リズムそのものに身を委ねられるか、体を揺らせるか、何より、音のイメージから読み取るべき何かが存在するというのが必須である。


「#7 Spun」は、Bonobo(サイモン・グリーン)の影響下にある、複合的なリズムを織り交ぜた4/8の構成のテックハウスで、複雑化の背景には、リズムの簡素化がある。要するに、どれほど音を積み重ねようとも、根底にあるリズムは単純明快で、無駄な脚色は徹底して削ぎ落とされている。


常に優れたデザインが簡素であるように、キアスモスのサウンドは一貫してシンプルなビートとリズムを重視している。これが俗に言うグルーヴ感を呼び起こし、アシッドハウスの質感を伴う”うねるようなウェイヴ”が出現する。ここにも、以前、サイモン・グリーンが語っていたように、”どれほど多くの機材を所有し、音の選択肢が広がろうとも、良い音楽を作れるわけではない”ことが示されている。グリーンは以前、''機材の多さを重視するミュージシャンに辟易している''と話していたが、良いダンスミュージックを制作するために必要なのは知恵と工夫である。


今回、キアスモスはエキゾチックな雰囲気を持つトラックを制作している。同じように、「#8 Flown」は、パーカッシヴな効果を活かしたBonoboの系譜にあるEDMとなっている。それらを太鼓のようなドラム、インドネシアのガムランに見出される民族音楽の金属的なパーカッションという形式を通じて、チルアウトの気風を反映させる。そして、ガムランの音の特徴というのは微分音にある。つまり複数の倍音の発生させることによって、涼し気な音響効果を及ぼすということ。


微分音というのは、平均律をさらに微分によって分割したもので、倍音の音響がいくつもの階層に分かたれていることを証明付けている。この音響学の性質をキアスモスは知ってか知らずか、金属的なパーカションを反復させ、太鼓のようなスネアの音、三味線やサントゥールのような民族楽器のサンプリング、そしてピアノやストリングのコラージュを散りばめることで、バリ島の制作現場の空気感を反映させたリゾート感たっぷりの魅惑的な音の世界に導くのである。

 

BPM(Tempo)の極端な変化という点は、アルバムの最終盤に出現する。アップビートのディープハウスによるトラック「Told」は、EDMの愉悦を体現させている。バスドラのキックを活かし、ラウドとサイレンスを巧みに交差させ、明るい印象に縁取られたダンスミュージックの究極系に近づく。曲の中盤に導入されるオーケストラストリングスは、ほんの飾りのようなもので、基本的にはトーン・シフトやフィルターの使用を介し、音の印象に変化を及ぼすというキアスモスのスタイルに変更はない。そして、アッパーなビート、ダウナーなビートという、2つの対比の観点から、メリハリのあるダンスビートを作り上げ、最も理想的なダンスミュージックが造出される。アウトロでは、制作現場の雰囲気を反映させたような楽園的なストリングスがフェードアウトしていく。この曲の後半には、音楽の最高の至福のひとときを体感できる。

 

グラミー賞ノミネートのピアニスト/作曲家としても活躍するオラファー・アルナルズであるが、もうひとつの制作者の表情が続く「Dazed」に見いだせる。お馴染みの蓋を開けたアップライトピアノのレコーディングは、モダンクラシカルの曲を期待するリスナーに対するミュージシャンのサービス精神の表出である。バリ島でフィールド録音したと思われる水の音のサンプルは、従来のアイスランドの気風を持つピアノ曲とは若干異なり、南国の気風に縁取られている。アップビートの後の涼しげなピアノ曲は、アルバムの重要なオアシスとなるにちがいない。


キアスモスは、エレクトロニックの文脈において、フローティング・ポインツのような大掛かりなトラックを制作する場合もある。


アルバムのクローズを飾る「Squared」は、ヨハン・ヨハンソンを彷彿とさせるモダンクラシカル風のオーケストラストリングスの立ち上がりから、ミニマルテクノ/ハウスへと移行していく。もしかすると、このクローズ曲には、富士銀行のアルバム・ジャケットで有名なMOGWAIへのオマージュが捧げられているかもしれない。特にリズムの側面では、マーチングのような行進のリズムが内包されている。そして、その向こうからぼんやりと立ちのぼってくる90年代のレトロなシンセリードは、エキサイティングであるにとどまらず、勇ましさすら感じとることができる。まさしく、ファンにとって待ってましたといわんばかりのダンスチューンである。 


キアスモスのバックカタログにある「Loop」の構造を踏まえ、同じようにミニマル・テクノ/ハウスの中間に位置するパワフルなEDMで『Ⅱ』は締めくくられる。オラファーによるトーンの操作も素晴らしく、ヤヌスのベースの抜き差しも聞き逃せない。リアルタイムで録音したからこその刺激的なキラーチューン。これ以上の理想的なEDMは今年登場しないかもしれない。アウトロの二人の個性がガッチリ組み合わされ、刺激的な音のハーモニクスを描く瞬間は圧倒的である。このアルバムではダンスミュージックの本当のかっこよさを痛感することができるはず。

 


 

95/100

 

 

 

「Squared」-Best Track



Kiasmosのニューアルバム『Ⅱ』はErased Tapes Records Ltd.から本日(7月5日)リリース。 ストリーミング等はこちら。商品のご購入は全国のレコードショップにてよろしくお願い申し上げます。

 Hiatus Kaiyote



オーストラリア/メルボルンを拠点に活動するフューチャーソウルグループ、Hiatus Kaiyote(ハイエイタス・カイヨーテ)はナオミ・ネイパーム・ザールフェルト(ボーカル、ギター)、ポール・ベンダー(ベース)、サイモン・マーヴィン(キーボード)とペリン・モス(ドラム、パーカッション)の4人からなる。


本日、 Brainfeeder(Ninja Tune)から発表された『Love Heart Cheat Code』は、4人のミュージシャンが極限で一緒に踊っている瞬間を収めたスナップショットであり、11曲の遊び心にあふれた高揚感のあるトラックが個性的な印象を放つ。しかし、音楽そのものの複雑さで名を馳せ、さらには最大主義を受け入れて目利きの批評家の称賛を浴び、グラミー賞に何度もノミネートされたバンドにとって、『Love Heart Cheat Code』で制作において最も大切なことは、音楽そのものの簡素化にあったという。


「私は最大主義者なんです。何でも複雑にしてしまう」とナオミは説明している。「それでも、人生でさまざまなことを経験すればするほど、リラックスして奔放になる。時には、深みがあり、人々の心に届き、そして何を伝えたいか? このアルバムは私達がそれを明確にした結果と感じている。曲が複雑さを必要としないのであれば、あえて複雑さを表現する必要はなかった」

今度のアルバム制作では、バンドの方向性は必ずしも直接的に達成されず、熟慮と漂流を経る必要があった。深夜から早朝まで続く念入りなジャム・セッションの中、4人は食卓のテーブルを共にし、機材や互いをいじくり回す過程において作り出されました。


このアルバムには、テイラー・"チップ"・クロフォード、ギタリストのトム・マーティン、フルート奏者のニコディモスなど、メルボルンを拠点に活動する秀逸なミュージシャンも参加している。マリオ・カルダートに関しては、ビースティ・ボーイズやセウ・ジョルジとの仕事はもはや伝説的です。


ハイエイタス・カイヨーテは、いつも自分たちが制作するアルバムを小宇宙、完全な生態系と見なしてきたという。『Love Heart Cheat Code』では、バンドは音楽と連動した強い視覚的世界を構想し、スリランカ出身でトロントを拠点に活動するマルチメディア・アーティストのラジニ・ペレラ(Rajni Perera)とコラボし、彼女の絵画をアルバムのアートワークとして使用した。


そして、イラストレーターのクロエ・ビオッカとグレイ・ゴーストがバンドとコラボレートし、ラジニの絵と対になるビジュアル・シンボルと関連する工芸品をプロジェクトの各トラックに制作した。


それらの工芸品は、Bauhausのように実際の製品、カスタム・ジュエリー、食用品へと姿を変え、インスピレーションに溢れていたり、幽霊が出そうなものまでさまざま。やがてこのことが、バンドが空想上の場所、''ラブハート・チートコード・スーパーマーケット''を構想するきっかけとなりました。


バンドは、これらの商品を作り、販売し、棚を積み上げ、通路を掃除する従業員である。現代社会のため、芸術媒体を「プロダクト」に作り変えるという非常に平凡な作業のプロセスの中で、バンドは、超越的で燦然と輝く音の魔法が凝縮されたアイテムや曲のひとつひとつに慰めを見出した。アルバムを通して、ハイエイタス・カイヨーテは、「知る」ことよりも「感じる」ことを強調している。彼らはDIYのクラフトの製造者であり、音楽に関してもそれは同様なのです。
 
 
 
 
『Love Heart Cheat Code』- Brainfeeder  フューチャーソウルの先にある革新性


オーストラリアのハイエイタス・カイヨーテは、ロンドンのNinja Tuneの傘下のBrainfeeder(フライング・ロータスのレーベル)に所属し、今作はリミックスや日本盤を除いて、4作目のオリジナルアルバムとなる。
 
 
 
2013年からリリースを重ねてきたハイエイタスは、デビューから十年以上が経過しているが、意外と寡作なグループとして知られている。現時点では、年間およそ100本以上のハードなライブスケジュールをこなす中、ライブバンドとして誰も到達しえない完璧主義や超越性を追求しようと試みる。
 
 
最新作では、2021年のアルバム『Mood Valiant』から引き継がれるハイエイタス・カイヨーテの唯一無二のアウトプットーーフューチャー・ソウル、フューチャー・ベース、チル・ステップーーというR&Bの次世代の音楽をとりまきながら、最大主義の刺激的なダンスミュージックを展開させる。
 
 
このアルバムを聴いていてつくづく思うのは、彼らは音楽的な表現において、縮こまったり、萎縮したり、置きに行くということがないということ。それはまた''既存の枠組みの中に収まり切らない無限性が含まれている''という意味でもある。だから、音楽がすごく生き生きとしていて、躍動感に満ち溢れている。バンドアンサンブルによってもたらされるエナジーは内側にふつふつ煮えたぎり、最終的に痛烈な熱量として外側に放出される。エナジーの最後の通過点にいるのが、ボーカル/ギターのナオミ・ザールフェルトだ。一切の遠慮会釈がないサウンドと言えるが、それはバランスの取れた録音技術の助力を得て、ハイクオリティに達し、かつてのプログレ・バンドやジョージ・クリントンのFankadelicのような傑出した水準の演奏技術に到達している。
 
 
本作のサウンドは、録音出力の配置(Panの振り方)に工夫が凝らされ、ライブステージの演奏位置、ボーカル、ドラムが音の位相の中心にあり、左右側にシンセやギター/ベースが置かれるという徹底ぶりに驚かされる。特にドラムのトラックの音質が素晴らしく、重低音を強調していないのに、スネア/タムの連打が怒涛の嵐のように吹き荒れ、微細なビートを刻むリムショットがバンドの演奏にタイトな印象をもたらす。例えるなら、ライブステージでハチャメチャなサウンドを展開させるバンドの背後で、卓越したドラムが、無尽蔵に溢れてくるサウンドを司令塔のように一つに取りまとめている。どれだけボーカルやギターが無謀にも思える実験的な試みをしようとも、全体的なサウンドが支離滅裂にならないのは、ビート/リズムを司るペリン・モスの安定感のあるドラムプレイが、一糸乱れぬアンサンブルの基礎を担っているからなのです。
 
 
ただ、もちろん、そういった音楽の革新性に重点を置いたサウンドだけを取りざたにするのはフェアではないかもしれません。前作『Mood Valiant』から受け継がれる音楽性の範疇にある、まったりとしてメロウなフューチャーソウル/フューチャーベースに、ブレイクビーツの手法を交え、カニエ・ウェストの最初期のようなブレイクビーツのサイケ・ソウル風のテイストを漂わせることもある。そういった面では、少し性質が異なるにせよ、北欧のLittle Dragon(リトル・ドラゴン)のようなカラフルで多彩なR&Bのテイストを込めたダンスチューンの系譜に属するかもしれません。


アルバムの序盤は、このレーベルらしい立ち上がりとなっていますが、中盤からだんだん凄みを増していき、クライマックスで圧巻のエンディングを迎える。バンドの演奏は超絶技巧の領域に達し、高水準の録音技術によって誰も到達しえぬ場所へとリスナーを導く。少なくとも、後半部の卓越性を見るかぎり、ハイエイタスの最高傑作が誕生したとも見ても違和感がなく、”フューチャーソウルは次なる音楽に近づいた”とも考えられる。一貫してエキセントリックな表現を経た後、最終的にコンセプチュアルなエンディングを迎える。そう、ハイエイタスは、異次元の地点、線、空間を飛び回り、想像しがたい着地点を見出す。

 
 
本作の冒頭を飾る「#1 Dream Boat」は、ピアノ、ハープ(グリッサンド)、ストリング等の演奏を織り交ぜ、ビョークの『Debut』の音楽性の系譜にあるミュージカルとしてのポピュラーミュージックを演出する。ナオミ・ザールフェルトのボーカルは、本作の冒頭にマジカルなイメージを添える。本作では、唯一、古典的なR&Bバラードを踏襲し、次の展開への期待感を盛り上げる。”この後、何が起こるのか?”と聞き手にワクワクさせるという、レコードプロダクションの基本が重視されている。


もちろん、演出的な効果は、ブラフや予定調和に終始することはありません。ナオミ・ザールフェルトの伸びやかなビブラートとホーンセクションを模したサイモン・マーヴィンのシンセの掛け合いにより、ドラマティックなイメージを呼び覚ます。


その後、フューチャーベースのリズムを活かした「#2 Telescope」が続いている。リズムとしてはダブステップにも近く、音楽のビートは複雑であるものの、一貫してシンプルな旋律とボーカルのフレーズが重視され、聞きにくくなることはほとんどなく、ビートやリズムが織りなすグルーヴを邪魔せぬように、ザールフェルトは軽快で小気味よいボーカルを披露している。「Telescope」を中心としたリリックを組み上げ、無駄な言葉が削ぎ落とされている。実際、アンセミックな展開を呼び起こし、シンガロングを誘発する。これらはハイエイタスが、リリックー言葉を「音楽の一貫」として解釈しているがゆえなのでしょう。
 
 
 
 
 「Telescope」
 
 
 
 
序盤は聞きやすく、メロウなネオソウルが多く、安らいだ雰囲気を楽しめる。それほどコアではない初心者のR&Bのリスナーにも聞きやすさがあると思われる。「# 3 Make Friends」は、アーバンなソウルとしても楽しめますが、注目しておきたいのは、70年代の変拍子を交えたクラシックなファンクソウルからのフィードバックです。


基本的には、今流行りのループ・サウンドをベースにしていますが、ゼクエンス進行(楽節の移調)に変奏を交えたカラフルな和音を持つ構造性を込め、シンプルな構成を擁する曲に変化とバリエーションをもたらす。


これが曲を聴いていて心地よいだけでなく、全然飽きが来ない理由なのでしょう。それと同様に、「#4 BMO Is Beatutiful」でも、ハイエイタスはクラシックなファンク・ソウルに回帰し、ファンカデリックやパーラメントの系譜にあるディープなブラックソウルに現代的なエレクトロニックの要素を付け加えている。カーティス・メイフィールド、ジェームス・ブラウンの系譜にあるファンクバンドのプレイはもちろん、ボーカルにも遊び心が込められているようです。
 
 
序盤の2曲は、難しく考えずに、シンプルにメロディを楽しんだり、ビートに身を委ねることができるはず。同じくファンクソウルの系譜にある「#5 Everything Is Beautiful」は、古典的なR&Bの系譜を踏襲していますが、イントロのスポークンワードからラフに演奏が始まり、裏拍を強調するスラップ奏法のベース、しなやかなドラムとフェーザーを掛けたカッティングギターが軽妙なグルーブを生み出す。ボーカルも比較的古典的なソウルシンガーの影響下にある深みのある泥臭い歌唱を披露し、グループとしては珍しくブルースのテイストを引き出す。さらにフルートの導入を見ると、アフロソウルからの影響もあり、心なしかエキゾチックな雰囲気が漂う。

 
アルバムの序盤で、R&Bの入門者の心をがっしりと掴んだ後、中盤にかけてディープなソウルを楽しむことができます。そして、しだいに音楽そのものが深みを増していくような印象は、劇的なクライマックスの伏線ともなっている。ツーステップの系譜にあるダブステップ風のリズムで始まる「#6 Dimitri」は、アフロビートの原始的なリズムと合わさり、フューチャー・ビートの範疇にあるエレクトロニックと結び付けられる。強拍が次の小節に引き伸ばされるシンコペーションを多用した曲の構造は、ボーカルのハネの部分に影響を及ぼし、旋律的には上昇も下降もない均衡の取れたザールフェルトの声にスタイリッシュでカラフルな印象を及ぼす。アコースティック・ドラムの演奏を録音後、ミックスやマスターの過程でエレクトロニックとして処理するという点も、Warp/Ninja Tuneが最近頻繁に活用している制作方法。ここにも、ロンドンの最前線のポップ/ダンスミュージックのフィードバックが反映されていると言えそうです。 
 
 
 
その後、ハイエイタス・カイヨーテのエレクトロニックポップバンドとしての性質を色濃く反映させた「#7 Longcat」において終盤の最初のハイライトを迎える。心地よいエレクトリックピアノ、ループサウンドとしてのシンセサイザー、多重録音を含めたボーカルアートの範疇にある声といった複数の要素が織り混ぜられ、それらがギターのミュージック・コンクレートと掛け合わされると、最初期のSquarepusher(スクエアプッシャー)のような未来志向の電子音楽ーーSFの雰囲気を擁するエレクトロニックの原型が作り出げられる。マニアックな要素にポピュラリティを付与するのが、フューチャーソウルの系譜にあるボーカル。90年代のWarpのテクノへのオマージュもあるにせよ、何よりそれらが聞きやすいR&Bとして昇華されているのが秀逸です。
 
 
 
 「Longcat」
 
 
 
 
以降、このアルバムは、メロウなアーバンソウル、チルウェイブ(チルステップ)、ローファイをシームレスにクロスオーバーしながら、アルバムのクライマックスへと向かっていきます。即効性のあるバンガー、それとは対極にある深みのある曲を織り交ぜながら、劇的なエンディングへ移行していく。



「#8 How To Meet Yourself」は、ニューヨークのシンガー、Yaya  Bey(ヤヤ・ベイ)の系譜にある真夜中の雰囲気を感じさせるアンニュイなソウルとして楽しめる。Ezra Collective(エズラ・コレクティヴ)のようにアフリカの変則的なリズムとジャズのスケールを巧みに織り交ぜ、アーバンソウルのメロウな空気感を作り出す。ピアノの演奏がコラージュの意図を含めて導入されますが、これらの遊び心のあるアレンジこそ、インプロバイゼーションの醍醐味でもある。この曲では、表向きには知られていなかったハイエイタスの上品な一面を捉えることができるでしょう。
 
 
「Longcat」、この後の「Cinnamon Temple」と合わせて聴き逃がせないのが、続くタイトル曲「Love Heart Cheat Code」となるでしょう。ハイエイタス・カイヨーテの最大の持ち味であるフューチャー・ソウルをサイケデリック風にアレンジし、前衛的なR&Bの領域へと脇目も振らず突き進んでゆく。ボーカルの"Love Heart Cheat Code"というフレーズに呼応する、セクションに入るドラム/サンプラーのサイケデリックなエレクトロニックの対比により、マイルス・デイヴィスの「モード奏法」をフューチャーソウルの形に置き換え、革新的な気風を添える。レビューの冒頭でも述べたように、これは、ハイエイタス・カイヨーテが、ボーカルを言葉ではなく、音楽の構成要素、"器楽的な音響効果"として考えているから成しえることなのかも知れません。
 
 
「#10 Cinnamon Temple」は''ポスト・バトルズ(Post- Battles)''とも称すべき必殺チューン。特に、ドラムのスネア/タムの連打の瞬間、そして、エレクトロニクスを交えたボーカルの多重録音にレーベルの録音技術のプライドが顕著に伺える。ボーカルアートと古典的なソウルの系譜にあるボーカルのスタイルを交えながら、Battles、Jaga Jazzistの系譜にある変拍子を強調したプログレッシヴロックサウンドへと昇華させる。
 
 
ハイレベルな演奏力とテクニカルな曲の構成を擁しながらも、分かりやすさと爽快感があるのは、サウンドのシンプル性を重視しており、エナジーを外側に向けて軽やかに放射しているがゆえなのでしょう。ここにも、ボーカルのアンセミックなフレーズをコラージュのように散りばめるという、ハイエイタスの独自の音楽の解釈が伺える。


そして、コンセプト・アルバムのような形で始まった本作は、クローズ曲「#11 White Rabbit」において、エキセントリックな印象を保ちながら、オーストラリアの民族的なルーツに回帰します。アルバムの冒頭と同じように、ミュージカルを模したシアトリカルな音楽効果を織り交ぜ、インダストリアル・メタルの要素を散りばめて、前衛的なノイズのポップネスーーハイパーポップ/エクスペリメンタルポップーーの最も刺激的なシークエンスを迎えます。
 
 
音の情報量が多いので、『Love Heart Cheat Code』は、ヘヴィーなレコードフリークであっても、簡単には聴き飛ばせず、一度聴いただけでは全容を把握することは難しいかもしれません。しかし、その反面、初見のリスナーでも親しめてしまうという不思議な魅力に溢れている。ある意味、ブラジルのニューメタルバンド、Sepulturaの傑作『Roots』と同じように、本作もまたオーストラリアのバンドにしか存在しない”スペシャリティ”から生み出されたものなのかもしれません。



 
 
 
 
 
 
92/100



 

 Best Track-「Cinnamon Temple」
 



Hiatus Kaiyote(ハイエイタス・カイヨーテ)による新作アルバム『Love Heart Cheat Code』はBrainfeederから本日発売。アルバムのストリーミング/購入はこちらから。(日本のリスナーは、Tower Records、HMV、Disc Unionで入手しよう‼︎)

Black Decelerant


Contuour(コンツアー)ことKarlu Lucas(カリ・ルーカス)とOmari Jazz(オマリ・ジャズ)のデュオ、Black Decelerant(ブラック・ディセラント)は、コンテンポラリーな音色とテクスチャーを通してスピリチュアルなジャズの伝統を探求し、黒人の存在と非存在、生と喪、拡大と限界、個人と集団といったテーマについての音の瞑想を育んでいる。セルフ・タイトルのデビュー・アルバム、そしてこのコラボレーションの核となる意図は、リスナーが静寂と慰めを見出すための空間を刺激すると同時に、"その瞬間 "を超える動きの基礎を提供することである。


『Black Decelerant』は、プロセスと直感に導かれたアルバムだ。2016年に出会って以来、ルーカスとジャズは、形のない音楽を政治的かつ詩的な方法で活用できるコラボレーション・アルバムを夢見ていた。彼らは最終的に、6ヶ月間に及ぶ遠隔セッション(それぞれサウスカロライナとオレゴンに在住)を経て、2020年にプロジェクトを立ち上げ、即興インストゥルメンタルとサンプル・ベースのプロダクションを通して、彼らの内と外の世界を反映したコミュニケーションを図った。


ルーカスは言う。「それは、私たちがその時期に感じていた実存的なストレスに対する救済策のようなものでした。特にアメリカでは、封鎖の真っ只中にいると同時に、迫り来るファシズムと反黒人主義について考えていました。レコードの制作はとても瞑想的で、私たちをグラウンディングさせる次元を提供してくれるように感じていました」


リアルタイムで互いに聴き合い、反応し合うセッションは、黒人の人間性、原初性、存在論、暴力や搾取から身を守るための累積的な技術としてのスローネスをめぐるアイデアを注ぎ込む器となった。このアルバムに収録された10曲の楽曲は、信号、天候、精神が織りなす広大で共鳴的な風景を構成しており、記憶の中に宙吊りにされ、時間の中で蒸留されている。


ブラック・ディセラント・マシンは、アーカイブの遺物や音響インパルスを、不調和なくして調和は存在しない、融合した音色のコラージュへと再調整する。レコードの広大な空間では、穏やかなメロディーの呪文の傍らで、変調された音のカデンツの嵐が上昇する。ピアノの鍵盤とベース・ラインは、トラック「2」と「8」で、ジャワッド・テイラーのトランペットの即興演奏を伴って、リリース全体を通して自由落下する。


このデュオは、アリア・ディーンの『Notes on Blacceleration』という論文を読んで、その名前にたどり着いた。


この論文は、資本主義の基本的な考え方として、黒人が存在するかしないかという文脈の中で加速主義を探求している。「Black Decelerant」は、このレコードが意図する効果と相まって、自分たちと、自分たちにインスピレーションを与えてくれるアーティストや思想家たちとの間に共有される政治性をほのめかしながら、音楽がスローダウンへの招待であることに言及している。


「その一部は、自然な状態以上のことをするよう求め、過労や疲労に積極的に向かわせる空間や、これらすべての後期資本主義的な考え方に挑戦することなんだ」とジャズは言う。「黒人の休息がないことは、様々な方法で挑戦されなければならないことなのです」


ルーカスとジャズが説明するように、このレコードは、資本主義や白人至上主義に付随する休息やケアについて、商品化されたり美徳とされたりするものからしばし離れ、心身の栄養となることを行おうとする自然な気持ちに寄り添うという、生き方への入り口であり鏡ともなりえるかもしれない。


『BlackDecelerant』は、音楽と哲学の祖先が築き上げた伝統の中で、強壮剤と日記の両方の役割を果たす。


『Black Decelerant』は2024年6月21日、レコード盤とデジタル盤でリリースされる。アルバムは、NYのレーベル''RVNG Intl.''が企画したコンテンポラリー・コラボレーションの新シリーズ『Reflections』の第2弾となる。

 

 

『Reflection Vol.2』 RVNG Intl.


先週は、ローテクなアンビエントをご紹介しましたが、今週はハイテクなアンビエント。もっと言えば、ブラック・ディセラントは、このコンテンポラリー・コラボレーションで、アンビエント・ジャズの前衛主義を追求している。


ルーカスとジャズは、モジュラーシンセ、そしてギター、ベースのリサンプリング、さらには、バイオリンなどの弦楽器をミュージック・コンクレートとして解釈することで、エレクトロニック・ジャズの未知の可能性をこのアルバムで体現させている。


ジャズやクラシック、あるいは賛美歌をアンビエントとして再構築するという手法は、昨年のローレル・ヘイローの『Atlas』にも見出された手法である。さらには、先々週にカナダのアンビエント・プロデューサー、Loscil(ロスシル)ご本人からコメントを頂いた際、アコースティックの楽器を録音した上で、それをリサンプリングするというエレクトロニックのコンポジションが存在するということを教示していただいた。つまり、最初の録音で終わらせず、2番目の録音、3つ目の録音というように、複数のミックスやマスターの音質の加工を介し、最近のアンビエント/エレクトロニックは制作されているという。ご多分に漏れず、ブラック・ディセラントも再構築やコラージュ、古典的に言えば、ミュージック・コンクレートを主体にした音楽性が際立つ。


ニューヨークのレーベル”RVNG”らしい実験的で先鋭的な作風。その基底にはプレスリリースでも述べられているように、「黒人としてのアイデンティティを追求する」という意義も含まれているという。黒人の人間性、原初性、存在論、暴力や搾取から身を守るための累積的な技術、これはデュオにとって「黒人としての休息」のような考えに直結していることは明らかである。今や、ロンドンのActressことダニエル・カニンガム、Loraine Jamesの例を見ても分かる通り、ブラックテクノが制作されるごとに、エレクトロニックは白人だけの音楽ではなくなっている。

 

このアルバムは複雑なエフェクトを何重にもめぐらし、メタ構造を作り出し、まるで表層の部分の内側に音楽が出現し、それを察知すると、その内側に異なる音楽があることが認識されるという、きわめて難解な電子音楽である。

 

それは音楽がひとつのリアルな体験であるとともに、「意識下の認識の証明」であることを示唆する。アルバムのタイトルは意味があってないようなもの。「曲のトラックリストの順番とは別の数字を付与する」という徹底ぶりで、考え次第では、始めから聞いてもよく、最後から逆に聞いてもよく、もちろん、曲をランダムにピックアップしても、それぞれに聞こえてくる音楽のイメージやインプレッションは異なるはず。つまり、ランダムに音楽を聴くことが要請されるようなアルバムである。ここにはブラック・ディセラントの創意工夫が凝らされており、アルバムが、その時々の聞き方で、全く別のリスニングが可能になることを示唆している。

 

そして、ブラック・ディセラントは単なるシンセのドローンだけではなく、LAのLorel Halo(ローレル・ヘイロー)のように、ミュージックコンクレートの観点からアンビエントを構築している。その中には、彼ら二人が相対する白人至上主義の世界に対する緊張感がドローンという形で昇華されている。これは例えば、Bartees Strangeがロックやソウルという形で「Murder of George Floyd」について取り上げたように、ルーカスとジャズによる白人主義による暴力への脅威、それらの恐れをダークな印象を持つ実験音楽/前衛音楽として構築したということを意味する。そしてそれは、AIやテクノロジーが進化した2024年においても、彼らが黒人として日々を生きる際に、何らかの脅威や恐れを日常生活の中で痛感していることを暗示しているのである。

 

アルバムの序盤の収録曲はアンビエント/テクノで構成されている。表向きに語られているジャズの文脈は前半部にはほとんど出現しない。「#1 three」は、ミックス/マスターでの複雑なサウンドエフェクトを施した前衛主義に縁取られている。それはときにカミソリのような鋭さを持ち、同じくニューヨークのプロデューサー、アントン・イリサリが探求していたような悪夢的な世界観を作り出す。その中に点描画のように、FM音源で制作されたと思われる音の断片や、シーケンス、同じく同地のEli Keszler(イーライ・ケスラー)のように打楽器のリサンプリングが挿入される。彼らは、巨大な壁画を前にし、アクション・ペインティングさながらに変幻自在にシンセを全体的な音の構図の中に散りばめる。すると、イントロでは単一主義のように思われていた音楽は、曲の移行と併行して多彩主義ともいうべき驚くべき変遷を辿っていくことになる。

 

ブラック・ディセラントのシンセの音作りには目を瞠るものがある。モジュラーシンセのLFOの波形を組み合わせたり、リングモジュラーをモーフィングのように操作することにより、フレッシュな音色を作り出す。

 

例えば、「#2 one」はテクノ側から解釈したアンビエントで、テープディレイのようなサウンド加工を施すことで、時間の流れに合わせてトーンを変化させていくことで、流動的なアンビエントを制作している。

 

これはまたブライアン・イーノとハロルド・バッドの『Ambient Music』の次世代の音楽ともいえる。それらの抽象的な音像の中に組みいれられるエレクトロニックピアノが、水の中を泳ぐような不可思議な音楽世界を構築する。これはまたルーカスとジャズによるウィリアム・バシンスキーの実質的なデビュー作「Water Music」に対するささやかなオマージュが示されているとも解釈できる。そして表面的なアンビエントの出力中にベースの対旋律を設けることで、ジャズの要素を付加する。これはまさしく、昨年のローレル・ヘイローの画期的な録音技術をヒントにし、よりコンパクトな構成を持つテクノ/アンビエントが作り出されたことを示唆している。

 

アルバムの音楽は全体的にあまり大きくは変わらないように思えるが、何らかの科学現象がそうであるように、聴覚では捉えづらい速度で何かがゆっくりと変化している。「#3 six」は、前の曲と同じような手法が選ばれ、モジュラーシンセ/リングモジューラをモーフィングすることによって、徐々に音楽に変容を及ぼしている。この音楽は、2000年代のドイツのグリッチや、以降の世代のCaribouのテクノとしてのグリッチの技法を受け継ぎ、それらをコンパクトな電子音楽として昇華させている。いわば2000年代以降のエレクトロニックの網羅ともいうべき曲。そして、イントロから中盤にかけては、アブストラクトな印象を持つアンビエントに、FM音源のレトロな質感を持つリードシンセのフレーズを点描画のように散りばめ、Caribou(ダン・スナイス)のデビューアルバム『Starting Breaking My Heart」の抽象的で不確かな世界へといざなうのだ。

 

一箇所、ラップのインタリュードが設けられている。「#4 Seven 1/2」は、昨年のNinja TuneのJayda Gがもたらした物語性のあるスポークンワードの手法を踏襲し、それらを古典的なヒップホップのサンプリングとして再生させたり、逆再生を重ねることでサイケな質感を作り出す。これは「黒人が存在するかしないか」という文脈の中で加速する世界主義に対するアンチテーゼなのか、それとも?? それはアルバムを通じて、もしくは、戻ってこの曲を聴き直したとき、異質な印象をもたらす。白人主義の底流にある黒人の声が浮かび上がってくるような気がする。

 

 

アルバムの中盤から終盤にかけて、最初にECMのマンフレッド・アイヒャーがレコーディングエンジニアとしてもたらした「New Jazz(Electronic Jazz)」の範疇にある要素が強調される。これはノルウェー・ジャズのグループ、Jaga Jazzist、そのメンバーであるLars Horntvethがクラリネット奏者としてミレニアム以降に探求していたものでもある。少なくともブラック・ディセラントが、エレクトロニックジャズの文脈に新たに働きかけるのは、複雑なループやディレイを幾つも重ね、リサンプリングを複数回施し、「元の原型がなくなるまでエフェクトをかける」というJPEGMAFIAと同じスタイル。前衛主義の先にある「音楽のポストモダニズム」とも称すべき手法は、トム・スキナーも別プロジェクトで同じような類の試みを行っていて、これらの動向と連動している。少なくとも、こういった実験性に関しては、度重なる模倣を重ねた結果、本質が薄められた淡白なサウンドに何らかのイノヴェーションをもたらすケースがある。

 

「#5  two」では、トランペットのリサンプリングというエレクトリック・ジャズではお馴染みの手法が導入されている。更に続く「#6  five」は同じように、アコースティックギターのリサンプリングを基にしてアンビエントが構築される。これらの2曲は、アンビエントとジャズ、ポストロックという3つの領域の間を揺れ動き、アンビバレントな表現性を織り込んでいる。しかし、一貫して無機質なように思える音楽性の中に、アコースティックギターの再構成がエモーショナルなテイストを漂わせることがある。これらは、その端緒を掴むと、表向きには近寄りがたいようにも思えるデュオの音楽の底に温かさが内在していることに気付かされる。なおかつこの曲では、ベースの演奏が強調され、抽象的な音像の向こうにジャズのテイストがぼんやりと浮かび上がる。しかし、本式のジャズと比べ、断片的な要素を示すにとどめている。また、これらは、別の音楽の中にあるジャズという入れ子構造(メタ構造)のような趣旨もうかがえる。 

 

 

「five」

 

 

 

シンセの出力にとどまらず、録音、そしてミュージック・コンクレートとしてもかなりのハイレベル。ただ、どうやらこの段階でもブレック・ディセラントは手の内を明かしたわけではないらしい。解釈次第では、徐々に音楽の持つ意義がより濃密になっていくような印象もある。「#7 nine」では、Caribou(ダン・スナイス)の2000年代初頭のテクノに焦点を絞り、それらにゲームサウンドにあるようなFMシンセのレトロな音色を散りばめ、アルバムの当初の最新鋭のエレクトロとしての意義を覆す。曲の過程の中で、エレクトリックベースの演奏と同期させ、ミニマル・ミュージックに接近し、Pharoah Sanders(ファラオ・サンダース)とFloating Points(フローティング・ポインツ)の『Promises』とは別軸にあるミニマリズムの未知の可能性が示される。


一見、散らかっていたように思える雑多な音楽性。それらは「#8 eight」においてタイトルが示すようにピタリとハマり、Aphex Twinの90年代のテクノやそれ以降のエレクトロニカと称されるmumのような電子音楽と結びつけられる。そして、モダンジャズの範疇にあるピアノのフレーズが最後に登場し、トランペットのリサンプリングとエフェクトで複雑な音響効果が加えられる。これにより、本作の終盤になって、ドラマティックなイメージを見事な形で呼び覚ます。

 

「#9 four」は、一曲目と呼応する形のトラックで、ドローン風のアンビエントでアルバムは締めくくられる。確かなことは言えないものの、この曲はもしかすると、別の曲(一曲目)の逆再生が部分的に取り入れられている気がする。アウトロではトーンシフターを駆使し、音の揺らめきをサイケに変化させ、テープディレイ(アナログディレイ)を掛けながらフェードアウトしていく。 



85/100




「two」

 

 

 

Black Decelerant - 『Reflection Vol.2』はRVNG Intl.から本日発売。アルバムの海外盤の詳細はこちら


イスタンブール出身のEkin Üzeltüzenci(エキン・ウゼルチュゼンチ)のソロ名義であるEkin Filはアンビエント・ブレイクでカットされたインダストリアル・ノイズの中を駆け抜け、夢見るような眼差しで物語を語ったりと、彼女の音楽はとてもパーソナルで、胸を打つほど繊細である。


これまでに、Ekin Fil(エキン・フィル)は、イスタンブール、ベルリン、ハンブルク、クレーフェルト、オッフェンバッハ、ケルン、ヴァレッタ(マルタ)、マインツ、ワルシャワ、ヴロツローの様々な会場でライブを行い、マルコム・ミドルトン(元アラブ・ストラップ)、グルーパー、マウンテンズなどの前座を務めた。2009年に、イスタンブールでGrouperのオープニングを務め、ジェフレ=カントゥ=レデスマのルート・ストラータや進化するアメリカ西海岸/アンビエント・フォーク・ドローン・シーンにエキン・ユゼルチュゼンチを引き合わせた。


フィルのドローン・ポップは、ドリームポップのアンビエンスという一瞥を裏切るような、重厚な情感という内的論理を基にしている。遠ざかる夢を音楽として汲み取るかのように、漠然とした音色と間遠い歌によって浮かび上がる。彼女の歌とソングライティングは、プルーストの回想をトリガーとし、デヴィッド・リンチの映画の忘れられたワンシーン、Cocteau Twins(コクトー・ツインズ)のElizabeth Flazer(エリザベス・フレイザー)の声の断片的なエーテルやエッセンスを巧みに織り交ぜている。深遠な何か。隠された何か。寂しく悲しき感覚への讃歌...。


カルフォルニアのアンダーグラウンドのプリント、ヘレン・スカーズデール・エージェンシーは、エキンの作曲家としての継続的な発展、成熟、成長を目の当たりにする喜びを味わってきた。彼女のおもむろに燃え上がるような意気消沈したバラードは、高低差のある周波数と明度と暗度の間を揺れ動き、悲しみを深遠な場所から引き上げる。失われた愛。壊れた世界への落胆。


『Sleepwalkers- 夢遊病者』は、ナルコレプシーや、睡眠と覚醒の間の不安定な存在の状態、あるいは廃墟のような建物を見たときに感じざるをえない朽ちかけたものに対する癒やされるような感覚といった、エキン・フィルの作品ではお馴染みのメタファーが取り入れられている。

 

その中には、いくつかの未来的な試行も、最新アルバムでは実験的に示されている。例えば、"Stone Cold "の重力を司るソフトなノイズであったり、野心的な "Gone Gone "のアンビエント・クロールを彩るスローモーションのセリエル音楽のように、Tim Hecker(ティム・ヘッカー)の系譜にある一連のコンセプチュアルな楽曲の構成を通じて、彼女は非凡な才覚を表している。



『Sleepwalkers』- The Helen Scandale Agency  ボーカルアートとシンセテクスチャーの極北

 

 これまでのエキン・フィルの旧来のカタログに関しては、ボーカル録音を取り入れた曲もあるにはあったが、それはどちらかといえば、アメリカの西海岸のベースメントで、リバイバルとして少し前から流行っているローファイ、要するにスラッカー・ロックの範疇に属するものだった。

 

つまり、それほどボーカルが前面に出てくることはなく、デモトラックやミックステープのような控えめな録音、「BGM」の範疇にとどまっていた。これは、制作者が敬愛するポートランドのGrouperの影響が色濃く、ボーカル録音は、一貫して補佐的な意味合いにとどまっていたとも言える。

 

しかし、この最新アルバムで、イスタンブールのエキン・フィルは、持ち味のモジュラーシンセで組み上げるアンビエントの複合的なテクスチャを基にし、ボーカルアートの画期的な領域へと歩みを進めようとしている。それらのボーカルのヒントとなったのが、プレスリリースにも挙げられている通り、エリザベス・フレイザーのドリーム・ポップの影響下にあるボーカルの形式である。また、ドリーム・ポップとアンビエントーーこれらのスタイルが相性が良いのは、ハロルド・バッドのコクトー・ツインズとのコラボレーションを見ると、一目瞭然である。

 

同時に、エキン・フィルのアルバムの録音は、re:stの代表作を見る限りでは、音質の粗さというのが難点だった。たとえローファイな感覚のあるコアな音楽の魅力を有するとしても、音楽の本来の魅力が、荒削りな録音によって帳消しになってしまうことがあった。つまり、低音がやや弱い、という懸念事項があった。要するに、これらの要素は、エキン・フィルの作品の印象を良くも悪くも薄めていたのである。しかし、最新作に関しては、弱点が克服されているにとどまらず、期待以上のイノベーションが示されている。何より、中東から音楽をメッセージのように発信しつづけることは、他の主要な地域の音楽よりも重要な意味が求められるかもしれない。今回のアルバムは、Loscil、Tim Hecker、Irissariの最新のアンビエントの系譜にあり、対旋律的な意味を持つ低音部が強調され、重厚な感覚が立ち表れている。音楽そのものの印象が強固で、インパクトのある作品となっている。5曲というEPのようなコンパクトな構成にまとめ上げられているが、聴き応えは十分で、一度聴いただけでその全容を捉えることは困難である。

 

ボーカルは、トルコの言語で歌われている。これらの固有の言語、あるいは、固有の音楽という二つの考えについては、2000年代以降、そのエキゾチズムという観点から大きな注目をあつめることがあったが、最早それは昔の話である。今日日の音楽ファンが、例えば、スペイン語やイタリア語、ないしはそれとは別のアフリカのような今まであまり知られていなかった地域の言語の音楽に親しむようになったのは、単なる物珍しさによるものだけではないだろう。

 

いわば世界全体がひとつのグローバリズム一色に染め上げられる中で、多くの人々が固有性に着目しているということを象徴づけている。また、それらの異言語や異文化がむしろ、グローバリゼーションを推進した国家や地域等の音楽に見受けられるのは皮肉というべきか。これは意外にもグローバリズムが限界に達した時、一極主義に反転することを意味している。また、このことは世界政府や一国主義の流れに、懐疑的な視線を向ける人々が一定数どこかに存在することの証ともなりえる。グローバリゼーションの中には「多様性」という考えが含まれているが、因果なことに、多様性というのは、「固有性の差異の集積」から生み出される。つまり、共同体やEUのような考えから導かれるのは、それと対極にある「スペシャリティー」でしかあり得ない。

 

 

 エキン・フィルの音楽は、Brian Eno(ブライアン・イーノ)の「Neroli」に象徴づけられるモジュラー・シンセによるアンビエントの構造、オシレーターの使用でもたらされるトーンの変化を用いた音楽という構造を持ち、本作に象徴づけられるように「音の流動性」に焦点が置かれている。 

 

例えば、このアルバムのオープニングを飾る「#1 Sonua Kader」は「Neroli」の系譜にある一曲で、あまり明かされなかったことであるにせよ、今作のエキン・フィルの作曲が意外にもブライアン・イーノの古典的なアンビエントの系譜に位置づけられることを示す。サウンドパレットを建築や機械設備の図面のように解釈し、マレット・シンセのような音色を用い、深いリバーブ/ディレイをかけることで、それらの音楽的な構図に抽象的かつ色彩的な点を散りばめている。

 

最初は、何の意味を持たなかった点が広がっていき、そして何らかの意味を持ちはじめ、瞑想的な音楽を生み出す。これは、エキン・フィルがブライアン・イーノの秘伝のメチエの間接的な継承者であることを意味している。


しかし、それらの技法は、「音の魔術師」であるエキン・フィルの手にかかるやいなや、全く別様の音楽に変化する。大気の風の音を模したようなドローンの抽象的なテクスチャをパレットに敷き詰め、それらにマレットやグロッケンシュピールのようなアナログシンセのパーカッシヴな旋律を配し、通奏低音の配置にボーカルを挿入する。それらはメレディス・モンク、エリザベス・フレイザー、ベス・ギボンズの先を行く「ボーカルアートとしての極北」を意味する。

 

今回のエキン・フィルのボーカルは歌ではなく、ほとんど「祈り」のような概念を意味しているように思える。これまでのアルバムのボーカル・トラックの系譜にあるドリーム・ポップやドローン・ポップの範疇にあるものだが、間遠く聞こえるボーカルはモザイクの尖塔を頂くモスクの下のムスリムの輪唱さながらに響き渡る。高音部には、シンセのテクスチャとボーカル、低音部に同じくモジュラーシンセによるベース音を対旋律として配置し、重厚な建築物のごとき崇高性を生み出す。


表向きには政治的なテーマが語られることはない。それでも、制作者は、前作でギリシャ地方の大規模火災をテーマにしており、今回も深読みが促される作風である。夢遊病患者とは、世界全体を意味しており、ヘルマン・ブロッホの小説「夢遊の人々」のように、政変に翻弄される無数の人々を象徴づけているのかもしれない。更に捉え方によっては、ドキュメンタリー風の映画、まさにデヴィッド・リンチのような社会への鋭い風刺や、何らかの一家言を持った音楽が貫流しているというふうに解釈することもできるかもしれない。

 

オープニングで示された夢想的な感覚は、続く「#2 Stone Cold」で強烈なノイズに突き破られる。それらのドリーミーな感覚はほとんど、現実的な感覚を持ち始める。しかし、嵐のように瞬間最大風速を持って吹き荒れるすさまじい風の向こうから、かすかに日の暈のような幻想が浮かんでくる。そして、それはやがてドゥーム・メタルのような感覚を持ち、聞き手を無限の惑乱にいざなう。瞑想的とも暗示的とも、洗脳的とも言える圧倒的なテクスチャーの中で、ほとんど情景的なものは浮かんでこない。それらは、オリーブの木が茂っていた古代のイスラエルのオリーブ山が今や殺伐として、閑散とした荒れ野となり、そして、二千年を経たつかの間の夢の中では、聖書に描かれている楽園的な幻想は、現代性によって消し去られたという事実を決定づけている。そして、抽象的なサウンドスケープを描く中で、徹底して、聞き苦しいもの、嫌悪感を誘うもの、そして遠ざけたいものを、巧みに、リアリズムを以て表現している。しかし、それらのサウンドスケープは変遷していき、その向こうからエキン・フィルの亡霊のような声が、はっきりと(ぼんやりと)浮かび上がる。これらの荒野の中にさまよう無数の霊、あるいは朽ち果てた不思議な感覚を彼女自身のボーカルアートとモジュラーシンセを用い表現する。

 

前曲のアウトロでは、日の暈のような感覚を思わせる明るいイメージが示されている。しかし、続く「#3 Reflection」では、同じように抽象的なドローンによるアンビエントテクスチャを描きながら、それらの魂の変遷を巧みに捉えようとする。一音一音の連なり、その連続性が生み出す複合的な音像がさらなる音の連続を呼び覚まし、これらの音の集積が、必ずしもドローンという範疇にあるものではないことを暗示している。なぜなら、音の運びのひとつひとつは、必ずしもスムーズに生み出されるわけではなく、シンセの出力に何らかのためらいがあり、どの音の出力をどの配列に挿入するのか、そういった制作者の迷いが反映されているのである。

 

しかし、それらの一瞬のためらいは、次の瞬間、音が発生した瞬間に迷妄に変わり、新しい要素が出現する。オスマン・トルコ、神聖ローマ、プロイセン、ワイマール、有史以来のヨーロッパの国家の繁栄と衰退をメタファーとして暗示するように、絶えず変遷を繰り返すかのような霊的な感覚を擁する、一般的には理解しがたい、ある意味では不条理な音楽の中で、エキン・フィルは一貫して、得難いものや捉えがたいものを、作曲性や音楽観の基底に体現させる。そして偶然に起きたこと、必然的に計画されていたこと、双方の要素を交え、異質な音楽を発生させる。音楽が必ずしもあらかじめ決められた設計や構図の中で動くわけではないことを示し、そして、それらの制作者自身の手ではコントロールしがたい箇所に芸術の神々が宿ることを表す。これらの前衛主義やこれまでに存在しなかった概念は、夢想的なボーカルにより和らげられる。

 

 

アンビエントの全体的な録音のテクスチャーー音楽作品の構成要素--の中で最も重要なものは、音の全体的な広がりや音像の持つ奥行きである。実際的に言えば、マスターで、どれくらいの音響効果を掛けるか、どのくらい規模の音像を持つ音楽にするのかという点は、多くの制作者が念頭に置かざるを得ない。最近のアンビエントのトレンドでは、極大の音像を持つ作風が増加傾向にある。オーケストラでいえば、どれくらいの規模のホールでスコアを演奏するのか、また、チャイコフスキーの管弦楽法のように、作品やスコアによってストリングやホーンの編成を増やすのか減らすのか(ときには制作時の意図に反して)という考えに近いものがある。

 

これらの概念は、新しい電子音楽ーエレクトロニックを考える際に度外視できないし、実験音楽を制作する上でも見過ごせない要素となるかもしれない。「#4 Sleepwalkers」では、マクロコスモスを象徴づける極大の音像が作り出され、それらを「Drone-Pop」として昇華し、チェルシー・ウルフの系譜にある新しいポピュラーの形式を探求する。それは、ゴシックやニューロマンティックの表現下にあるドリーム・ポップ、あるいは、その先を行く現代で最も前衛的な音楽であるドローン・ミュージックという、2つのスタイルのクロスオーバーを意味している。


これらの音楽形式は、Grouper(リズ・ハリス)が先駆者であるが、エキン・フィルは、薫陶を受けたミュージシャンの影響を糧にして先鋭的な音楽へと昇華させている。いわば「ノイズーポップ」という「心地よくないものー心地よいもの」という相容れない概念の融合については、従来にはない音楽の形式の誕生を予感させる。メレディス・モンクの旧ドイツ時代に録音されたデビューアルバム『Dolmen Music』を見てもわかる通り、新しい表現のほとんどは、メインストリームから生み出されることは非常に少なく、その多くは、アンダーグランドーー誰も知らない不気味な一角ーーから出発する。ある意味、それが音楽や芸術のサンクチュアリとも言えるのである。それらがメインストリームに持ち込まれ、持てはやされるようになった時、つまり一般的になった時には、すでにそれは形骸化しており、衰退が始まっているのである。


 旧来、エキン・フィルの作風は、古典的に傾きすぎる向きもあったが、アルバムの音楽は、ラスコーの壁画のような有史以来最も古い芸術形態から、それとは対極にあるモダニズムの形式を的確に織り交ぜながら、評価基準の一般化という概念から音楽そのものを開放させようとしている。また、このアルバムは、全般的には、ヒプノティックな感覚へと聞き手をいざない、静かな環境で聴いていてしばらく経つと、より懐深い感覚が立ち上ってくる。つまり、顕在意識とは異なる領域に感覚が移行していることを思い至らせる。それは日頃私達が感じている日常的な感覚とは別の領域への移ろい、言い換えれば「深層心理や潜在意識への旅」を意味する。

 

最後の曲「Gone Gone」では、このことが端的に体現されているのではないでしょうか。イリサリが最近制作している先鋭的なドローン、実験音楽の極北がクライマックスに集約されている。しかし、表面的に捉えられる抽象性とは対照的に、現代の世界情勢の歪みを刻印したような重厚な低音のベースが表面上のテクスチャーと蠱惑的な対比を描く。それらのリアリズムーー今日の世界の分離を徹底して実験音楽で表現しようとした崇高性ーーに関しては、他の追随を許さない。本作はいかなる類型にも属さず、孤絶や逸脱することを恐れていない。こういった勇敢な音楽が、女性プロデューサーの手から生み出されたということに対して称賛を送りたい。

 

 

100/100

 

 

Ekin Filによるニューアルバム『Sleepwalkers』はThe Helen Scandale Agencyから6月15日に発売。アルバムのストリーミングはこちらから。

 






 

Bonny Light Horseman

Bonny Light Horseman


Bonny Light Horseman(ボニー・ライト・ホースマン)のニューアルバム『Keep Me On Your Mind / See You Free(キープ・ミー・オン・ユア・マインド/シー・ユー・フリー)』は、人間性の祝福された混乱への頌歌である。


自信に満ち、寛大なこのアルバムは、あらゆる人間の感情や想定される欠点をさらけ出した、ありのままの提供物である。愛と喪失、希望と悲しみ、コミュニティと家族、変化と時間など、テーマは高く積み上げられている。ヒューマニスティックなタッチポイントのすべてにおいて、「Keep Me on Your Mind/See You Free」は、ある種の説明不可能な魔法から生み出されることになった。


2023年に5ヶ月かけて書かれたこのサード・アルバムは、バンドの中核をなすトリオ、アナイス・ミッチェル、エリック・D・ジョンソン、ジョシュ・カウフマンがこよなく敬愛してやまないコラボレーターのJT・ベイツ(ドラムス)、キャメロン・ラルストン(ベース)、レコーディング・エンジニアのベラ・ブラスコとともにアイリッシュ・パブに集まったときに始まった。

 

アナイス・ミッチェルは、オーナーのジョー・オリアリーとの間でかわされたある会話から、最初のレコーディング場所としてこのパブを提案した。彼女はこの場所について直感し、バンドメンバーの熱意に驚いていた。年季の入ったパブの中に一歩足を踏み入れるやいなや、トリオは何十年もかけて築かれたこの場所の感じられる共同体、家族のような感覚につながりを感じた。


そのパブとは、コーク州の小さな海岸沿いの村、バリーデホブにある100年以上の歴史を持つ水飲み場、リーヴィス・コーナー・ハウスと呼ばれる店で、そのエネルギーがボニー・ライト・ホースマンのクリエイティブ・エンジンの唯一の源ともなった。


パブのスペースの一角にあるアップライトピアノは、バンドの音楽のきしむ音を鎮静するための一種の精神的支点となり、アルバムのすべてのモチーフを体現するひとつの存在となった。この100年以上続く地元フォークの集いの場と、このアメリカン・フォークのトリオとの類似性は否定できない。


カウフマンは言う。「この場所には歴史が感じられるし、狭くて、あちこちにこぼれ落ちそうなものがぎっしり詰まっている。僕らのバンドのパブ版みたいだった。パブの壁に飾られてて、作業中のバンドを見守っていた絵がアルバム・ジャケットになった」


「レコーディングのほとんどの時間、その人と目を合わせていた」とジョンソンはアートワークについて語った。そして、もっと深い関連性があった。バンドがパブでのレコーディングを計画する前から、オーナーの妻はこの絵の女性をボニーと名付けていた。


リーバイス・コーナー・ハウスのような場所には魔法があるが、それを使うには適切な魔法使いが必要だ。ボニー・ライト・ホースマンの中心にあるのは、パワフルで優しい3人のアーティストの特異な組み合わせ。


彼らは最上級の言葉を巧みにかわすが、お互いを強化し、豊かにする方法と、それぞれが1人でいるよりもより良く、勇敢に、傷つきやすくする絆であると認めるのは早計かもしれない。このことは、最も優しい瞬間から最も非情にも思える慟哭に至るまで、お互いを完全に信頼して活動する彼らの声の力以上に確かなものは存在しないからである。結果、聴く者を慰め、揺り動かすだけでなく、動揺させ、打ちのめし、生まれ変わらせることができる力がある。


現実的なレベルでは、『Keep Me on Your Mind/See You Free』の "祝福された混乱 "は、群衆の愉快な騒ぎ声、笑い声、咳払いといったフィールド・レコーディングが、この特別な場所からのすべてを伝えるように、このホームへの忠実さに表れている。


しかし哲学的に言えば、"混乱 "というのはより深い感覚の証拠足りえる。それは、唯一の共同体験から生まれた不完全で魂の糧となる果実なのであり、良き仲間の精神によって参加者を変容させるものでもある。

 

ミッチェルは "ごちそう "という考え方を提唱し、友人たちとの夕食がどのようにコースや会話、時間を無理なく過ごすのか、肉体的にも精神的にも栄養価の高い食事であることを示す。「私の友人に、食卓から食器を取り出してはいけない、残骸の中に座るべき、と言う人がいます」と彼女は言う。


さらに、アナイス・ミッチェルはアルバムの制作について、「すべてを吐き出すという新しい段階があった」と語っている。

 

レコーディングからリリースへの進化において、これは2枚組LP-18曲を2枚のディスクにまとめることを意味した。それはまた、正確には異なるレコードではないにせよ、2つのタイトルを意味する。『Keep Me On Your Mind / See You Free』は、広大で心地よく、グループの魅惑的かつ芸術的なレイヤーを包括している。伝統的なフォークミュージックのサウンドと叙情的な精神がルーツであり、実験的で感情的に生々しいバンドのバージョンにより分岐している。


グループは曲の約半分をリーバイスのメインルームで録音した。彼らは2日間を単独で作業に費やした。3日目の夜には、オリアリーは何人かの熱心な住民を参加させた。このアルバムが完全なライヴアルバムというわけではない。その代わり、アイルランドのセッションの3日目は、観客が暗黙のうちにこの課題を理解していたため、エネルギーのセレンディピティ的な融合を表していた。観客は、バンドがアレンジについて話し、複数のヴァージョンの曲をレコーディングしたりするのに十分な猶予を与えた。「彼らのスポットのど真ん中でやっているのに、彼らは直感的に自分たちに求められていることを理解していた。それはまさにマジックでもあったんだ」


その後、バンドは精神的な故郷であるニューヨーク北部のドリームランド・レコーディング・スタジオ(ここでバンドは最初の2枚のアルバムを完成させた)に戻り、着手した作業を終えた。コラボレーターであるマイク・ルイスがベースとテナーサックスで参加した。アニー・ネロもアップライト・ベースを弾き、午後のひとときのハーモニーを歌うために立ち寄った。その日々は狂想曲的であると共に、癒しや安らぎに満ちていて、彼らは涙を流すように歌を歌った。


「I Know You Know(アイ・ノウ・ユー・ノウ)」の中心にある切ない迷いは、ほんの数分で明らかになった。制作における素早さは、すでに『Keep Me On Your Mind / See You Free』の大半を完成させており、創造性の「肩の上に立つ」ことができたからとトリオは言う。この曲は感情の荒廃を特異なポップ・センスと結びつけるバンドの能力を示しており、それはアルバム全体を通して一貫性がある。マンドリンに彩られた気持ちの良いアレンジとアンセミックなコーラスは、リフレインという要素がいかにリスナーの心を捉えるのかを裏付けている。「君を愛すれば愚か者、君を手放せば愚か者」とジョンソンは歌い、ミッチェルの歌声が彼とともに高鳴る。


解き放たれた人間関係をフォーク・ロックで描いた「Tumblin Down」もそのメロディーの複雑性においてよく似ている。イングマール・ベルイマンの『ある結婚の情景』の精神を歌にしたようなもので、表面は軽いが、内側には実存的な危機が織り込まれている。その一方、「When I Was Younger」は、原始的な叫びであり、母性、成熟、そして、折り目正しき社会が口に出して言わないことすべてをオープンに受け止めている点で革新的である。この曲では、ミッチェルとジョンソンの蜜のような声が出会い、溜め込んだ感情から形成された双頭の獣へと変貌する。


「Old Dutch(オールド・ダッチ)」は、カウフマンの故郷にある同名の歴史的な教会で録音されたボイスメモから生まれた。タイムスタンプが "Old Dutch "で、完璧すぎる。その合唱のリフレインは、それらの起源を反映している。また、このバンドが語る移り変わる愛の物語は、心が必然的に導かれる魅惑的なもの、つまり余韻の残る、しばしば非論理的な感情で締めくくられる。


『Keep Me On Your Mind / See You Free 』で、ボニー・ライト・ホースマンは独特の優美さを感じさせる。そして物事が完璧でないときこそ、人生は生き生きとしたものになるということを思い出させてくれる。長年にわたり、バンドは人生のオドメーターに多くのマイルを積み重ねてきた。それは、栄光と混沌に彩られたモダンなフォークソングに色濃く反映されている。ミッチェルは言う。「簡潔ではない、全然簡潔ではない。雑然としているけど、それでいいのよ」

 

 


「Keep Me On Your Mind/ See You Free」- jagujaguwar



 

今年のアメリカのシンガーソングライターやバンドの主要な作品の多くに見受けられる傾向として、米国人としての原点に立ち返ろうとしているということである。より詳細にいえば、アメリカ合衆国としての文化のルーツを見つめ直すということでもある。


これはある意味では、近年、たとえ、裁判等の審判の際に証言台に立つ人物が、神の名を唱えるのだとしても、キリスト教の意義が薄れてきていることの反証でもある。長らく、米国人にとっては、ひとつのドグマが浸透していたのだったが、近年の他宗教や、多民族主義、そして、様々なカルチャーや考えが複雑に混淆していることを考えると、もはや、米国が一宗教のもとに成立している国家とは考えづらいものがある。

 

また、元首としての存在感が薄れるにつれ、国家の持つ意義そのものが希薄になりつつあるように感じられる。そこで、急進的とはいわないまでも、なんらかの一家言を持つミュージシャンは、旧来の国家主義から距離を置いた考えを主体にせざるをえない。そして、あらためて音楽家たちは、「アメリカとは何か?」ということを音楽や芸術、全般的な表現形態を通じて追い求める。

 

チャールズ・ロイド、パール・ジャム、アンドリュー・バード、エイドリアン・レンカーの今年のアルバムを見ると分かる通り、ジャズ、ミュージカル、トラディショナルフォークやアメリカーナ、ロック、メタル、ポップ、エレクトロニック、実験音楽等、ミュージシャンの人生観によってそれぞれ探求するものがまったく異なるのだ。 

 

アナイス・ミッチェル、エリック・D・ジョンソン、ジョシュ・カウフマンからなるBonny Light Horseman(ボニー・ライト・ホースマン)も同じく、トラッド・フォークやアメリカーナという彼らのスタイルを通じて、アメリカのルーツに回帰している。バンドは基本的にはツインボーカル(トリプルボーカル?)のスタイルをとり、曲ごとにメインボーカリストが入れ替わる。

 

もちろん、トラッドなフォークミュージックの範疇にあるボーカルが披露されたかと思えば、ソウルフルなボーカル、ジャジーなボーカルというように、ボーカリストの人柄や性質ごとにその曲の雰囲気も変化する。

 

また、ブラック・ミュージックのコーラスグループやその後のドゥワップのグループのように、ミッチェル、ジョンソン、カウフマンの三者三様の麗しいハーモニーが生み出される。それはゴスペルに変化することもある。音楽を聴けば分かる通り、メンバーの異なる性質を持ち寄り、その個性を突き合わせ、最終的には淡麗なハーモニーを持つフォーク・ソングとして昇華される。

 

 

 『Keep Me On Your Mind』

 

 ・1−5

 

『Keep Me On Your Mind/ See You Free』は、一時間以上の尺を持つ(ダブル)アルバムという構成を持つ。基本的にはトラディショナルフォークやアメリカーナを中心に20曲が収録されている。手強い印象を覚える。

 

しかし、ミッチェルが「簡潔ではないアルバム」と指摘するにしても、意外なほどスムースに耳に馴染んでくるのが驚きである。そのことは、ビリー・ジョエルのバラードソングのように美麗で、ゴスペル、R&B、トラッドフォークを主体とした「#1 Keep On Your Mind」を聴けば、本作の素晴らしさが掴みやすいのではないだろうか。

 

アナイス・ミッチェルのボーカルを中心に繰り広げられる温和な雰囲気は、ギターによってメロウな雰囲気を帯び、それと対比的に歌われるD・ジョンソンのボーカルがソウルフルな空気感を作り出す。つまり、一曲目で、アルバムの世界に長く浸っていたいと思わせる何かがあることに気がつく。それは、彼らのボーカルや音楽に癒しがあり、そして、包み込むような温かみがあるからなのだ。これが作品そのものの完成度とはなんら関係なく、キャッチーで親しみやすい音楽に聞こえる理由なのである。

 

その後、このアルバムは、トラッドフォークの果てなき世界へと踏み入れる。次の「#2 Lover Take Easy」 を聴くと、なぜデビューアルバムが英国のインディーズ・チャートで上位にランクインしたかが分かる。


彼らの牧歌的な雰囲気に満ちたフォークソングはアイルランドやセルティック・フォークのように開放的な雰囲気を持ち、渋さを漂わせる。 淡麗なアコースティックギターとドラムを中心とした音楽に、息の取れたボーカルのハーモニー、サックスフォンの演奏を取り入れ、ジャズと結びつけ、それらをゴージャスな音楽性に昇華させる。


その後もアルバムの収録曲は、穏やかで安らかなトラッドフォークを中心に構成されている。「#3I Know Know」は、ディランの「風に吹かれて」を思わせるフォーク・ロックだが、ボニー・ライト・ホースマンの場合は、より古典的な音楽へと沈潜している。カントリーミュージックに依拠したD・ジョンソンの甘ったるい感じのボーカルがソウルフルな渋みを生み出す。アコースティックギターのしなやかなストロークは、エレクトリックギターの演奏と溶け合い、温和な空気感を作り出す。また、アナイス・ミッチェル、D・ジョンソンのダブル・ボーカルはどこまでも澄んだ雰囲気を作り出し、ノスタルジックな気分に浸らせる。

 

アルバムの冒頭にはサンプリングが導入される。「#4 grinch/funeral」は子供の話し声の短いインタリュード。「#5 Old Dutch」は安らいだピアノのパッセージとシンセのシークエンスが溶け合い、続く曲の展開に期待をもたせた後、ジャズ・ソウルの曲へと移行する。この曲はおそらくノラ・ジョーンズが得意とするようなバラード。そして、ボニー・ライト・ホースマンは、トラッドフォークを主体とした軽やかな曲調に繋げる。その後、ハーモニカの演奏が加わるが、一見、安っぽい感じのフレーズも、バンドの演奏が強固な土台を作り出しているので、むしろそういった音色としてのチープさはユニークな印象をもたらしている。

 

 

「Keep Me On Your Mind」

 




・6−10


大枠で見ると、本作はアメリカの音楽のルーツを総ざらいするような意義が求められるかもしれない。しかし、曲単位では、バンドメンバーの個人的な回想が織り交ぜられる。そしてそういった小さな積み重ねが、大掛かりな作品を構成していることが分かる。「#6 When I Was Younger」では、ビリー・ジョエル風のバラードがジャズの音楽性と結びついている。ミッチェルは、ピアノの演奏を背景に真心を込めて歌を紡ぐ。その後、立ち代わりに、ジョンソンがボーカルを披露する。その後、カウフマンのクランチなギターがワイルドな雰囲気を作り出す。ボーカルとギターの演奏にはやや泥臭さがあるが、背景となるバックバンドの演奏はアーバンな印象を与える。これらの対極にある音楽性が巧みなコーラスワークと相まって、味わい深さを作り出す。アウトロにかけてのギターのノイズ、そして両者のコーラスワークが哀愁を醸し出す。

 

その後、温和なトラディショナルフォークに立ち返る。「#7 Waiting And Waiting」ではナイロン弦のアコースティックギターが柔らかな印象を作り出す。後から加わるドラム、そしてコーラスも楽しげな空気感を生み出す。立ち代わりに歌われるボーカルがそれらの雰囲気を上手く引き立てる。明るく、希望に充ちた、晴れやかで純粋な音楽の世界を彼らは作り出す。そしてそれは、バンドメンバーの三者三様の個性を尊重した上で、それらの相違が生み出す調和からもたらされる。淡々とした音楽のように思えるが、彼らの作り出すハミングのハーモニーは平らかな気分を呼び起こすのだ。


それらの楽しげな雰囲気は以降も続いている。チャーミングなマンドリン/バンジョーの演奏を取り入れた「#8 Hare and Hound」は、ジョン・デンバーのようなカントリー/ウェスタンの古典の原点に立ち返り、モダンな印象を付け加えている。可愛らしいミッチェルのボーカルとワイルドなジョンソンのボーカルが、コールアンドレスポンスのような形で繰り広げられて、サビではカウフマンもボーカルに加わり、ジャズのビックバンドのような楽しげな音が作り出される。カウント・ベイシーが志した人間の生命力をそのまま音楽によって表現したかのようなとても素晴らしい曲だ。

 

 

一転して、「#9 Rock The Cradle」は落ち着いたバラードソングとして楽しめる。同じようにナイロン弦から生み出される繊細なアルペジオのギターをもとに、オルタナティヴなトラッドフォークを制作している。この曲には古典的な音楽を志すバンドのもう一つの表情が伺える。つまり、Superchunk(スーパーチャンク)のようなキャラクターを見いだすことができる。彼らのコーラスは「1,000 Pounds (Duck Kee Style)」のような穏やかさを思い起こさせる。


アウトロでは、パブの歓声のサンプリングが導入され、入れ子構造のような意味を持つことが分かる。また、このレコーディングの手法については、2023年のM. Wardのアルバム『Supernatural Thing』の「Story of An Artist」でも示されていた。続く「#10 Singing to The Mandlin」で、ダブルアルバムの第一部がひとまず終了する。


この曲は、もしかすると、ビックシーフやエイドリアン・レンカーの主要曲のような感じで緩く楽しめるかもしれない。トラディショナルな音楽性に重点を置くバンドのモダンなオルタナティヴフォークソングとして。

 

 

「Hare and Hound」

 




『See You Free』

 

・11-15


 第二部はしんみりとしながらも勇壮な雰囲気を持って始まる。D・ジョンソンのボーカルはまるで、大地に向けて歌われるかのようだ。「#11 The Clover」はアメリカーナの原点にあるアイルランド性を呼び覚ます。曲は荒野を駆け抜けていく一頭の馬、そしてそのたてがみさながらに爽快だ。

 

アコースティックギターをいくつも丹念に組み合わせて、その背後にマンドリン/バンジョーのユニゾンを重ね、ギターの重厚な音圧を生み出す。これらは、ギターが旋律のための楽器にとどまらず、リズム的な楽器でもあることを象徴付けている。背後のドラムは、概して、これらのギターや歌の補佐的な役割を果たすにとどまるが、曲の表向きのイメージを強化している。そして、ミッチェルのコーラスが加わると、この曲はにわかに力強さを帯びはじめ、そして、生き生きとしてくる。音楽そのものが躍動するような感覚が最後まで続く。アウトロではハモンドオルガンがアメリカーナのメロウでアンニュイな雰囲気を生み出す。


トラディショナルフォークと合わせて、ボニー・ライト・ホースマンはゴスペルのルーツに迫ることもある。「#12 Into The O」は、深みのあるゴスペルソングに昇華されている。三者のボーカルが織りなすハーモニーはブルージーで、メロウな雰囲気もある。ゴスペルの要素に加えて、ニール・ヤング&クレイジーホースを彷彿とさせる渋いアコースティックギターが曲全体の性格を決定づける。この曲は、1970年代のアメリカン・フォークの醍醐味を蘇らせている。アナログレコードでしか聴くことが叶わなかったあの懐古的な響きをである。

 

背後のボウド・ギター(弓のギター)のテクスチャーと大きめのサウンドホールを持つアコースティックギターのアルペジオが緻密に組み合わされて、最終的には、Temptations、Plattersを始めとする古典的なコーラス・グループのように巧みなボーカルのハーモニーが生まれ、熟成されたケンタッキーバーボンのようなソウルフルな苦味を作り出す。トラッドフォークとゴスペルに加えて、アルバムのもう一つの特徴にはソウル・ジャズからの影響が挙げられる。

 

「#13 Don't Know Why You Move Me」は、Norah Jones(ノラ・ジョーンズ)の系譜にあるメロウなバラードで、彼らはそれをフォークバンドという形で表現しようとしている。この曲では、アナイス・ミッチェルのやや溌剌とした印象を擁する主要なボーカルのスタイルとは異なるメロウでムードたっぷりの歌声を味わえる。バンドはゆったりしたドラムの演奏を背景にして、スライドギターやハーモニクスの技法を交えながら、ソウル・ジャズの醍醐味を探求する。

 

「#14 Speak to Me Muse」では、アナイス・ミッチェルは鳥のささやきのような柔らかく可愛らしいボーカルを披露し、ジョニ・ミッチェルのシンプルで親しみやすいバラードソングの直系にあるソングライティングを行っている。曲の中で繰り返される「All Right」という一節は何かしら琴線に触れ、サクスフォンの演奏がジャズの性質を強める。バンドによる「All Right」という誰にでも口ずさめる優しげなコーラスはゴスペルの教会音楽としての性質を帯びる。

 

少なくとも、ボニー・ライト・ホースマン、とくにアナイス・ミッチェルの歌声には、自然や音楽の恵みに捧げられた敬虔なる思いに満ちあふれている。しかし、このアルバムはシリアスになりかけると、すぐにバランスを図るために、彼らの記憶というモチーフの働きを持つ文学や映画のような試みが、サブリミナル効果のように取りいれられる。しかし、モチーフの基軸に最も近づいたとき、距離を置く。そして、それとは異なる安らぎのひとときが訪れる。「#15 Think of The Royalities,Lads」では第一部の冒頭の収録曲「Grinch/ Funeral」と同様に、語りのサンプリングのワンカットが繰り広げられる。そして、曲の中では、パブの和やかな会話が繰り広げられている。

 

 

 「Speak to Me Muse」

 



・16-20

 

「#16  Tumblin Down」はラフで巧みなドラムのタム回しで始まる。ボニー・ライト・ホースマンがライブバンドとしての性質が強いグループであることが分かる。ライブからそのまま音を持ち込んだかのような精細なアンサンブル、D・ジョンソンの歌声はニール・ヤングの系譜にある古典と現代を繋げる役割をなすフォークシンガーの系譜にあるが、彼の場合は甘ったるいようなボーカルのニュアンスを付け加えている。

 

この曲は、それほど大きな起伏もなければ、スケールやコードの著しい変化もない。しかし、ボーカルの節回しやジェフ・ベックを彷彿とさせるギタープレイ、それからハモンドオルガンのメロウな響きなど、多彩な要素を一つの音楽に中に織り交ぜることにより、上手くバリエーションをつけている。そして、楽節の単調さやリフレインの反復を恐れないことで、シンガロング性の強いボーカルフレーズを作り上げている。単一性と多様性の双方を使い分けることによって、こういった親しみやすい構成が出来上がるものと思われる。ここには、バンドの地道な活動の蓄積が顕著に反映されている。多くの一流のミュージシャンと同じように、彼らは近道をしようとせず、フォークバンドとしての高みに一歩ずつ上り詰めていったように思えてならない。


アルバムの序盤から中盤にかけて、語りのサンプリング等を織り交ぜながら、一般的にはトラディショナルフォークの楽しさや渋さ、メロウな側面というように、ポピュラーな側面に焦点を当ててきたボニー・ライト・ホースマンであるが、アルバムの終盤には瞑想的なトラッド・フォークが収録されている。これは例えば、米国の文化性の源流にある移民性、その象徴的な音楽であるアパラチアフォークにしか求めがたいような"祈りとしての音楽"を彼らは呼び覚ます。


そこには、必ずしもスピリチュアルな要素が重視されているというわけではないが、音楽から感じられるスピリットのようなものが含まれていることも事実である。そして彼らは、それらを最終的にポピュラーミュージックの範疇にある音楽としてアウトプットする。他の曲と同じように聞こえるかもしれないが、ブルースハープやミッチェルのボーカル、それからピアノの演奏が織りなす絶妙なハーモニーが楽曲の持つ枠組みとは対極にある崇高な感覚を呼び起こす。この曲は、アメリカン・ロックの原点に立ち返るような意味があるのかも知れない。

 

アルバムのクライマックスでは、米国のトラディショナル・フォークにとどまらず、アイルランド/スコットランドの系譜にある広やかな雰囲気のフォークミュージックも披露される。これらのアイルランドやスコットランド発祥のフォークミュージックは、バクパイプ等の演奏を含める舞踏音楽(儀式音楽)としての性質が殊に強いが、これらの特徴をボニー・ライト・ホースマンが上手く受け継いでいることは言うまでもない。

 

「#18 Over The Pass」は広々とした草原で、フォークバンドの演奏に合わせて円舞するような楽しさだ。つまり、音楽のシリアスな側面とは異なる”楽しさ”に焦点が当てられているのである。開放弦を強調したのびのびと演奏されるアコースティックギターのストローク、三連符を強調する軽快なドラムの演奏は、本曲、ひいてはアルバムの音楽に触れるリスナーに一方ならぬ喜びをもたらす。そして、以後の2曲も、バンドの志す音楽に変化はない。しかし、レビューの冒頭でも述べたように、ボニー・ライト・ホースマンは、やはり米国の文化や国家性の原点へと立ち返ろうとしている。

 

「#19 Your Arms(All The Time)」はジャズ・ポップスという形で、ミュージカル風の音楽へ向かい、トラディショナルフォークと結びつける。全く同じ調性で続く「#20 See You Free」は、フォークミュージックのコーダのようなもの。クローズ曲ではトラディショナルフォークやスタンダードジャズの要素に加えて、Aretha Franklin(アレサ・フランクリン)のアルバム『Lady Soul』に対するバンドのオマージュが捧げられる。ステレオタイプの曲が続くようでいて、その音楽の印象はそれぞれ違っている。それはボニー・ライト・ホースマンの音楽が、世界中の人々にたいする誰よりも深い理解と受容、そして弛まぬ愛情によって支えられているからなのである。


 

 「See You Free」

 

 

 

 

86/100

 


* Bonny Light Horsemanのニューアルバム『Keep Me On Your Mind / See You Free』はjagujaguwarから発売中です。