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どのような産業も一日にして成立しないということを考えると、先人たちのすさまじい努力の成果が明日の未来を形作る。
レコードやラジオ、それ以後はデジタルオーディオ、さらにストリーミングを通してファンは音楽を楽しむようになりました。日進月歩というべきなのか、今や物理的な箱はモバイルに変化し、様々な媒体が一体化する時代に変わったのが私達の時代。それでは、レコードやラジオなどが普及する以前、音楽はどのようにして広まったのでしょうか。現在のような専門的なメディアやストリーミングが存在しない時代、そこには音楽を愛する人達の試行錯誤があったのです。
今回ご紹介するのは、アメリカの音楽産業の下地がどのようにして発展していったのか、その大まかな過程や変遷です。しかし、現在でこそ、ストリーミングの配分などの問題点等も囁かれることが多い。ところが、音楽産業が確立される以前から、音楽家は自作の収益化などに問題を抱えることもあった。ヨーロッパの古典的な音楽形態の事例を挙げると、コンサートの収益や楽譜出版が主であったが、同時に音楽教師などを務めながら、家庭の生活を維持するというのが一般的でした。つまり、どのような時代も専業だけで身を立てられる人は一握りだったのではないかとも推測されます。一般的に言えば、音楽家の専業は稀有な事例で、兼業的な立場にあった。これは中世時代から音楽家の地位は他の職業に比べると、一部の国家公務員のような立場を除けば、それほど高くなかったことに由来する。しかし、現在は、全般的な産業が盤石となったため、ミリオンセラーを記録すると、一躍、専業的な道を選ぶことも可能になった。
話を戻しましょう。まだ、18世紀のアメリカでは、完全な音楽産業が確立されていたわけではなかった。明確に音楽産業が確立され始めたのが、ブロードウェイミュージカルがニューヨークで流行した時代で、また、これらはロンドン、パリ、ウィーンでは流行していた音楽劇が輸入され、ジョージ・M・コーハン、ガーシュウィン、ジェローム・カーン、リチャード・ロジャースという作曲家の系譜が受け継がれていく。 ブロードウェイをはじめとするミュージカルの原点となったのが、コーハンであり、彼の音楽劇「Little Johnny Jones」が最初に人気を獲得。以降は、アメリカ独自の芸術形態を獲得し、土着的とも言えるスタイルを確立した。そして上記の作曲家のおかげで、ミュージカルは世界でオペレッタを凌ぐほどの人気を獲得しました。
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ミュージカルを普及させたのは劇場に他なりませんが、また、それらが一般家庭に持ち込まれるための補助役となったのが音楽の楽譜出版業でした。多くの中産階級の家庭では、楽譜を購入し、スコアに合わせて歌ったり、ピアノを演奏したりというのが通例でした。おのずと、出版業者が楽譜を販売する役目を担った。その出版業者が密集していたのがニューヨークのマンハッタンです。特に、ニューヨークの五番街と六番街の間にある”West 28th Street”という区域がアメリカの音楽産業の先駆けの地域となった。今はその面影はほとんどなく、建物は別のテナントが入り、ごく一般的な町並みとなっています。唯一、ハリウッドのような感じで、金のプレートが道路に埋め込まれ、その伝統を伝えている。現在はマンハッタンのフラットアイロン地区。
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19世紀の時代、アメリカの音楽家は商業出版の壁に突き当たり、自分の制作した音楽をどのようにして世に残すかという課題を抱えていました。優れた功績が世に伝えられる作曲家ですら、貧困に陥ることがあった。これは著作権法が音楽を保護する時代ではなかったことも要因にある。こういったまだ産業が確立しなかった時代にスティーヴン・フォスターというミンストレルソングの立役者は、楽譜の販売により数百万ドルの売上を生み出したが、貧困の中で亡くなった。むしろ、こういった事例があったことで、1800年代にアーティストの作品を保護する法律が制定され、産業として整備され、次の段階に差し掛かった。それは音楽制作に携わる作詞家、作曲家の権利を守り、音楽出版社と足並みを揃えて、金銭的な協力関係を築くことにありました。
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しかし、音楽出版社だけに話のポイントを絞れば、それ以前にも全米各地に企業は点在していた。ニューヨーク、シカゴ、ニューオーリンズなどを中心として、フィラデルフィア、クリーヴランド、シンシナティ、デトロイト、そしてボストン、ボルチモア......。この地域の音楽出版社では、教会で使用される楽譜、音楽の教科書、家庭や学校の教材を販売していた。ただ、この時代はまだ音楽がある種の教育の分野にとどまり、エンターテイメント産業の領域にまで引き上げられることはなかった。商業的な音楽の分野について言えば、全米各地でヒット曲が生みだされると、その版権をニューヨークのような都市部の大手企業が購入する取り決めになっていました。著名な出版社には、T.B Harms& Co,、そしてM,WItmark & Sonsなどが挙げられます。楽譜の表紙を見ると、USポピュラーソングの原点がいかなるものであったかが判明するでしょう。当時のアメリカではミンストレルやワルツのような音楽が主流だったということが推測できます。
しかしながら、産業というのは、需要と供給のバランスによって成り立っている。例えば、車を売る会社がいくら大量生産しても、購入者がいなければ、その産業は成立しません。インフラを司る輸送用の大型トラックの生産が、明確に産業形態に位置づけられる理由は、人々の生活に不可欠だからです。同じように、楽器販売業者が音楽産業の発展に一役買った。それは意外なことにギターではなくて、アコースティックピアノでした。南北戦争が終了した後、アメリカでは毎年、25,000台のピアノが販売され、中産階級の家庭の嗜みとなった。1887年までに50万以上の若者がピアノを学習していました。
楽譜の出版の需要が高まるにつれ、出版社は事業拡大と市場規模を伸ばす必要に駆られることになった。1885年から1900年にかけてニューヨーク市は音楽と舞台の中心地になり、また音楽出版社が次々と立ち上がるようになりました。そして、国内の普及という側面と合わせて、海外市場への輸入や輸出という次なる段階へと差し掛かった。つまり音楽は、それまで国内だけで普及していましたが、20世紀に入ると、それらがグローバルな市場を獲得するに至ったのです。
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| 当時のティン・パン・アレーの音楽出版社 |
20世紀前後の作曲家のほとんどは独立した音楽家であることは少なく、出版社専属の社員のような形で職業的な音楽家を務めていました。
しかし、これらの時代の作曲が野放図になることはほとんどなかった。市場の動向を調査し、どういった曲が売れるのか、また、受けるのかを判断し、制作を行っていた。そして作曲が始まると、次の段階、つまり演奏者が試奏し、どのような反応があるのか聴衆のテストが行われていました。
現在でいうところのレコード会社は、自動車会社のテスト走行のような感じで、何度も新しい曲を実地にテストし、それが本当にリリースする必要があるのかを入念に判断したのでした。そして、それらの音楽が、例えば、ミュージカルのような曲であった場合、その後に、パフォーマーを精査し選出し、どのような演出が行われるべきかを随時企画していったのです。最終的には、その音楽を宣伝的に押し出していきました。これがアメリカのポピュラー音楽の原点であり、レコード企業の原点でもある。19世紀末には、おおよその産業形態の基礎が形成され、あとは多くの音楽が世に輩出され、ヒット商品として市場に出回る時期を待つだけとなった。
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映画"I'll See You In My Dreams"で描かれるソングプラガー |
当時の出版社には、歌の専門的な宣伝員がいた。各社には、''ソング・プラガー''という専属のピアニストがいて、楽譜を購入しようという客にその曲を歌って聞かせた。そのせいで、ニューヨークある街角には、各社の売り込みの音声が響き、朝から晩までビルの内外に響きわたった。これは音楽作品の出店とも言えるでしょう。こうした背景の中で、マンハッタンに音楽出版社がいくつも密集した「Tin Pan Alley」が台頭したのは当然の成り行きでした。この名前は、ニューヨークの新聞社、ニューヨーク・ヘラルドの記者を務めていたモンロー・ローゼンフェルドが、新しい音楽出版の取材に訪れたとき、思いついたというのが一般的な定説になっています。
ローゼンフェルド氏は、2003年のある日、ソングライターのハリー・フォン・ティルツァーの経営する社屋を訪れ、取材を終えて記事のタイトルを考えていました。人目をひくタイトルはないものか、と頭を抱えるローゼンフェルト……。すると、出版社のデモ室からティルツァーの演奏するピアノがふと聞こえてきた。それが大音声であったのを受けて、まるでブリキがパンを叩くような音がする路地という意味をこめて、彼は「Tin Pan Alley」という記事のタイトルを思いついた。一説では、ティルツァーが最初にこの言葉を言ったという説もあるようです。
ティン・パン・アレーは、何だか、身も蓋もないネーミングで名を馳せたのでしたが、実際的にアメリカのポピュラーソングやミュージカルの基礎、ひいては東海岸の音楽産業を形成しました。1910年代になると、作曲家の宝庫となり、これらの一角の出版社から名うての音楽が出てきました。11年には、アーヴィング・バーリン(Irving Berlin)が登場し、「アレクサンダーズ・ラグタイム・バンド」なるヒット曲を世に送り出しました。14年には、ジェローム・カーンが登場し、「They Didn't Believe Me(彼らは私を信じない)」でヒット。両者は、出版社の専属の作曲家であった。また、ティン・パン・アレーはミュージカル音楽の重要な発祥地となり、ルドルフ・フリムル、ジグムンド・ロングバーグなどが最初のブロードウェイを支えました。
続いて、若い頃に同じく出版社の前でピアノ演奏家を務めていたジョージ・ガーシュウィンが登場した。「ラプソディ・イン・ブルー」で世界的な知名度を後に獲得したガーシュウィンであったが、彼の最初のヒット曲は、1919年のジャズ曲「Swanee」でした。 その後、数々の名士が台頭した。シェルトン・ブルックス、ハリー・キャロル、ジェイムス・V・モナコ、アーヴィング・シーザーはほんの一例に過ぎません。
当時の音楽ファンにとって、音楽を楽しむ手段は、楽譜を家に持ち帰って、演奏して楽しむこと。次いで、レコードを聴くこと、劇場などに足を運んで生演奏を聴くことでした。そして、ティン・パン・アリーが隆盛をきわめるにしたがって、ポピュラー産業が整備されはじめました。
アメリカの最初のレコーディングのスター、レン・スペンサーは凄まじいパワーで曲を発表し、1891年から1910年まで65曲をヒットさせた。 ビリー・マレイは1903年から27年までに169曲をヒットさせ、有名な曲としては、MLB(メジャーリーグ)の試合でおなじみの「私を野球に連れていって」などがある。また、このティン・パン・アレー周辺からは、アル・ジョンソン(Al Johnson)が登場しました。彼はガーシュウィンの「Swanee」を歌ったが、その後はは俳優のようなポジションで大活躍をしました。ジョンソンは、1910年代にレビューやミュージカルを舞台に大スターにのぼりつめることに。このシーンでは、ロシア出身のソフィー・タッカーも活躍し、11年に「Some Of These Days」のヒットで注目され、「ヴォードヴィルの女王」と呼ばれるまでに。
ティン・パン・アレーは現在でいうところの''複合型マスメディア''の原点でしょう。このマンハッタンの一角にある各企業は他者と競いながら切磋琢磨し、数々のヒット・ソングを輩出し、ポピュラー産業の基盤を作り上げました。特に、音楽業界の中枢とも言えるマーケティングの手法は、ティン・パン・アレーに依るところが多いのではないでしょうか。企画、制作、販売という、音楽産業の基礎的な形態は、思えば、この時代に始まったのです。
しかし、どのような産業も次の新しい形態に生まれ変わるのが運命。ラジオやトーキー映画が普及し、音楽が巷に溢れると、楽譜出版は以前よりも需要が少なくなり、戦前の時代にはティン・パン・アレーは衰退しました。この時代、路地の企業文化が少しずつ新しい形態に取って代わられるようになっていました。













































