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・思考はどのような結果を形作るのか?

 

 人間はある思考に基づいてなんらかの行動を起こします。思考なくしては行動も存在する余地がありません。そういったことを考えると、思考の正当性によって行動が決定されますし、その後に何らかの行動を起こすことで従来とは異なる結果が現れるわけです。


 しかし、翻ってみると、思考は、価値観や倫理観、固定観念の蓄積から発生しています。思考とは、過去から未来に繋がる線を歩くということ。それは究極的に言えば、立体的な思考法はおろか直線的な思考法しかしえないことを意味する。すると、別の線上にある可能性を見落とす場合もある。例えば、外的な環境の変化だったり、他者の説得や直感的なヒントによって、外側から思考が変わる場合もありますが、結果的に何らかの発想の転換をもたらさないかぎり、従来の思考や行動を変えることはとても難しいでしょう。私達が、ときに自分でエキセントリックな方法であると考えるもの、それは意外に何らかの枠組みの中で動いているのに過ぎないかもしれません。


 かつて現代音楽家のジョン・ケージは「Chance Operation(チャンス・オペレーション)」という偶発的に発生する音楽の概念を生み出しました。ケージは、まだ彼が無名だった時期に、かつてモノクロ・テレビのアメリカのバラエティー番組に出演し、観客の笑いのなかで、即興の実験をしながら偶発的な音を発生させました。それはずいぶん滑稽な印象をもたらし、彼がコメディアンと考えた人もいたほどでした。その中には、ヤカンで湯を沸かす音を出すだけというのもあったのです。もちろん、その場の即興でケージの演奏はおこなわれました。そして、彼が取り組んだのは、音楽のイノベーションではなく、音楽を形成する仕組みや構造性を変化させたり破壊するということでした。これと同じような考えに基づいて作られたのが、ピーター・シュミットとブライアン・イーノによって考案された「Oblique Strategies (斜め上の戦略)」だった。ケージが実践的にその方法論を示したのに対して、ピーターとイーノの斜め上の戦略は、外側からの働きかけによって、別の結果を恣意的に発生させるという手法なのです。

 

 「Oblique Strategies−斜め上の戦略」は、音楽家を中心に、すでに実際の制作に取り入れられたことがありますが、例えば、音楽制作以外にも、実業家、経営者、他にも、政治家の方が戦略を立てる時にも有益となるかもしれません。


 オブリーク・ストラテジーズとは、あらかじめカードに考えを記しておき、何らかの制作をしていて、行き詰まりを感じた時、そのカードにかかれている短い警句を読み、新しい考えを取り入れ、それまでとは違う考えに気づき、そして行動を変化させ、最終的には従来とは異なる結果を生み出すという方式です。


 例えば、基本的に、何らかのアドバイスは人間がその間に介在するため、感情的な反発すら起こす虞れがありますが、この手法はカードによってもたらされるため、それほど大きな反発を起こす危険性がありません。なぜならカード自体は、善意でもなく、悪意でもなく、一つの考えを示したに過ぎないのです。


 では、この斜め上の戦略が、どのようにして生み出されたのかについて見ていきたいと思います。

 

 

・斜め上の戦略 思考の背後にある思考

 

デザイナーのピーター・シュミット

 このカードはどのようにして作られたのでしょう。1970年、ピーター・シュミットは、スタジオに溜まっていたすでに使用されなくなった版画に活版印刷した55文が記された「思考の背後にある思考」を作成し、これはのちにイーノが所有することになった。そもそもイーノは、1960年代からシュミットを知っていたようですが、彼自身も同様のプロジェクトを推進していた。1974年に彼は何枚かの竹製のカードに思考の背後にある思考について手書きをし、それを「Oblique Strategy」と名付けました。この2つのプロジェクトには重複期間があった。

 

 同年の後半、シュミットとイーノは、それらをひとつのカードのセットにまとめ、1975年に一般販売を開始しました。このセットは1980年初頭に、シュミットが急死するまでに3回の限定版の印刷が行われましたが、その後、カードセットは希少となり、プレミアがついた。

 

 16年後、ソフトウェアの先駆者であるピーター・ノートンはイーノを説得し、友人のクリスマスプレゼントとして第四版を制作しました。非売品として制作され、後にオークションに出回った。カードに関する世間的な評判は、その後も高まる一方で、イーノは2001年に新しいオブリーク戦略カードをセットで販売することに。 2013年5月には黒ではなくバーガンディー色の限定版が発売された。2012年には文書化され、書籍としても出版されています。

 

 これらのカードについて、ブライアン・イーノは次のように話しています。「これらのカードは、私達の別々の作業手順から進化しました。それは友情の間の多くの事例の一つに過ぎませんでした。私達はほとんどまったく同じ時期、ほとんどまったく同じ言葉で、作業のプロセスに到達したのです」


「数ヶ月、会わなかったこともあり、再会したり、手紙の交換をしたりするうちに、私達は同じような知的レベルにあることがわかった。これはその前にあった印象とはまったく異なるものでした」

 

 

 

・カードにはどのような言葉が記されているのか?


 オブリーク・ストラテジーズは、実際、現在もアマゾンやショップなどで販売されています。カードは箱の中に封入されていて、蓋を開くと、何らかの短い思考が書かれたカードが出てきます。そこにはあっと驚くようなことも書かれています。それでは、このカードには実際どのような言葉が書かれているのでしょうか。55のカードがあり、そこには現在の自分とは全然関係のなさそうなことまで書かれています。カードの言葉を下記に示していきたいと思います。

 

 

The List of Oblique Strategies:

 

・通常の楽器を放棄する

・アドバイスを受け入れる

・降着

・線には二つの側面がある

・地役権を許可する(地役権とは狭窄部の放棄です)

・セクションはありますか?  移行を検討する

 ・人々に自分のより良い判断に反して働くように依頼する

・自分の体に問いかけてみる

・いくつかの楽器をグループに集めてグループで扱います

・一貫性の原則と不一致の原則のバランスを取る

・汚れてください

・もっと深く呼吸してください

・橋を建てる - 建てる - 燃やす

・カスケード

・楽器の役割を変更する

・何も変更せず、完全な一貫性を維持して続行します

・子どもたちの声・話す・歌う

・クラスター分析

・さまざまなフェージング システムを検討する

・他の情報源を参照する - 期待できる - 期待できない

・メロディー要素をリズミカル要素に変換する

・勇気!

・重要なつながりを断ち切る

・飾る、飾る

・エリアを「安全」として定義し、アンカーとして使用する

・破壊する -何もない -最も重要なもの

・公理を破棄する

・欲望から切り離す

・使用しているレシピを見つけて放棄する

・時間を歪める

・できるだけ長い間、何もしないでください

・簡単なことだから恐れる必要はない

・決まり文句を恐れないでください

・自分の才能を発揮することを恐れないでください

・沈黙を破らないで

・あることを他のことよりも強調しないでください

・退屈なことをする

・食器を洗う

・言葉を変える必要があるでしょうか?

・穴は必要ですか?

・違いを強調する

・繰り返しを強調する

・欠点を強調する

・選択に直面したら、両方を行う (Dieter Roth 氏)

・録音を音響状況にフィードバックする

・すべてのビートを何かで埋める

・首をマッサージしてもらう

・ゴーストエコー

・ゲームを譲ってください

・最悪の衝動に道を譲る

・外側をゆっくりと一周してください

・隠された意図として自分の間違いを尊重する

・どうやってやればよかったのでしょう?

・エラーのないものを人間化する

・音楽が動く鎖や毛虫のように想像してください。

・音楽を一連の切り離されたイベントとして想像してください

・微小グラデーション

・意図 -信頼性 -高貴さ -謙虚さ

・不可能へ

・終わりましたか?

・何か足りないものはありますか?

・チューニングは適切ですか?

・ただ続けるだけ

・左チャンネル、右チャンネル、センターチャンネル

・完全な暗闇、または非常に広い部屋で、非常に静かに聞いてください。

・静かな声を聞いてください

・非常に小さな物体を見てください。その中心を見てください

・物事を行う順序に注目してください

・最も恥ずかしい部分を注意深く観察し、それを拡大する

・最小公倍数チェック -単拍 -単音 -単

・リフ

・ブランクを絶妙なフレームに収めて価値あるものにする

・やるべきことすべてを網羅したリストを作成し、最後に実行する

・リストにあるもの

・突然、破壊的で予測不可能な行動を起こす。組み込む

・特異なものを機械化する

・ミュートして続行

・各種類の要素は 1 つだけ

・(有機)機械

・あからさまに変化に抵抗する

・耳栓をしてください

・あの静かな夜を思い出してください

・曖昧さを取り除き、具体的な内容に変換する

・詳細を削除し、曖昧さに変換する

・繰り返しは変化の一形態である

・逆行する

・短絡

・彼の男らしさを向上させるには、それらを彼の膝に直接押し込みます

・ドアを閉めて外から聞いてください

・単純な引き算

・スペクトル解析

・休憩する

・明らかに重要でない要素から順に要素を取り除きます

・口にテープを貼ってください(Ritva Saarikko さんより)

・不一致の原則

・テープが音楽になった

・ラジオのことを考えてみましょう

・片付ける

・今のあなたを信じて

・ひっくり返してください

・背骨をひねる

・古いアイデアを使用する

・許容できない色を使用する

・ノートの使用量を減らす

・フィルターを使用する

・「資格のない」人材を利用する

・水

・あなたは今、本当に何を考えていますか? 組み込む

・状況の現実はどうなっているのでしょうか?

・前回はどんな間違いを犯しましたか?

・あなたの一番親しい友人ならどうしますか?

・やらないことは何ですか?

・異なる速度で作業する

・あなたはエンジニアです

・一度にドットは 1 つしか作成できません

・自分のアイデアを使うことを恥ずかしがる必要はありません

・[空白の白いカード]

 

 

 以上のカードの言葉が示している通り、これらのメッセージのようなものは、何らかの制作のために作られたため、音楽的な事項にまつわる思考が多い。

 

 その中には「録音を音響状況にフィードバックする」、「ステレオ・チャンネルのパンの振り方」から「フィルターを使用する」といった具体性のある音楽的な指示、「自分の才能を発揮するのを恐れないように」、「繰り返しは変化の一形態である」といった啓示的な内容まで、さらに制作における緊張感を解すため、「首をマッサージしてもらう」、「休憩する」、「長い間、何もしない」という実際的なアドバイスまで書かれています。これらのカードは、それまで考えもよらなかったような隠された思考に気づくきっかけを与えてくれるかもしれませんよ。

 

 

・斜め上の戦略が取り入れられた事例

 

 考え次第によっては、お遊びにも思えるオブリーク・ストラテジーズですが、こういったカードが実際のプロのミュージシャンの作品制作に使用された事例は一度や二度ではありません。

 例えば、コールド・プレイのアルバム『Viva La Vida Or Death And All His Friends』 はブライアン・イーノがプロデュースを手掛け、この作品の中でオブリーク・ストラテジーズが使用されているようです。他にも、フランスのロックバンド、フェニックスも2009年のアルバムでカードを使用した。さらに、MGMTは、『Congratulations』に収録されている「Brian Eno」の制作時に、スタジオにオブリーク・ストラテジーズのカードデッキを用意していたが、それを正しく使用出来たかは分からないという。他にもバウハウスも作曲時にこのカードを使用しています。

 最も有名な事例では、デヴィッド・ボウイのベルリン三部作(『Heroes』、『Low』、『Lodger』、1976年から79年にかけて制作)の中で、ブライアン・イーノがこのカードを使用しています。「Heroes」のインストのレコーディングに使用されただけでなく、「Lodger」ではより広範囲に使用された。ボウイの1995年のアルバム「Outside」で、再びイーノはこのカードを使用しています。

 アルバムの制作に関わったカルロス・アルマーは、このカードを使用するのが大好きらしく、後に「私が教えているスティーヴンス工科大学の舞台芸術センターの壁にはブライアン・イーノのオブリーク・ストラテジーズが飾ってある」と述べています。「もし、生徒たちがブロックに陥ったときは、私はその壁に向かって生徒たちを誘導する」という。
 
 もし、何かの考えに煮詰まった時、ライターズブロックに直面した時、別の考えがあることに気づくことはとても重要です。そこで、それまでとは異なる考え方や可能性があると気づくため、オブリーク・ストラテジーズは最適かもしれません。現在、このカードは、小売店などでも販売中です。



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1950年代、ビック・スリーと呼ばれる、ジェイムス・ブラウン、ジャッキー・ウイルソン、サム・クックが登場した後、新しいタイプのR&Bシンガーが登場した。ニューヨーク、ニューオーリンズ、ロサンゼルスを舞台に多数のシンガーが台頭する。ファッツ・ドミノ、ルース・ブラウン、ファイブ・キーズ、クローヴァーズがその代表格に挙げられる。この時代は、ビック・スリーを筆頭に、必ずといっていいほど、ゴスペル音楽をルーツに持っているシンガーばかりである。


近年、ヒップホップを中心に、ゴスペル音楽を現代的なサウンドの中に取り入れるようになったのは、考え方によっては、ブラックミュージックのルーツへの回帰の意味が込められている。そしてこの動向が、2020年代のトレンドとなってもそれほど不思議ではないように思える。

 

そもそも、「R&B(リズム&ブルース)」というのは、ビルボードが最初に命名したもので、「リズム性が強いブルース」という原義があり、第二次世界大戦後すぐに生まれた。その後、ソウルミュージックというワードが一般的に浸透していき、60−70年代の「R&B」を示す言葉として使用されるようになった。しかしながら、この年代の前には、R&Bではなく、「レイス・レコード」、「レイス・レーベル」という呼称が使われていたという。これはなぜかというと、戦前のコロンビアやRCA、ブルーバード、デッカなどのレーベルは、白人音楽と黒人音楽を並行してリリースしており、作品を規格番号で区別する必要があったからである。レーベルのカタログから「レイス・シリーズ」というのも登場した。現在の感覚から見ると、レイシズムに根ざした言葉ではあるが、コロンビア、RCAの両社は、戦後もしばらくこの方針を継続していた。

 

その後、1970年代に入ると、一般的に見ると、ブラック・ミュージックは商業化されていき、R&Bシンガーは軒並み大手のメジャー・レーベルと契約するようになる。 80年代になると、MTVやメディアの台頭により、ブラック・ミュージックの商業化に拍車がかかり、この音楽全体が商業化されていったという印象がある。しかし、それ以前の時代に、ブラックミュージック全体の普及に貢献したのは、全米各地に無数に点在するインディペンデント・レーベルであったのだ。

 

多くはメジャーレーベルの傘下という形であった。しかし独立したセクションを持つということは、比較的、攻めのリリースを行うことが出来、同時に、採算を度外視した趣味的なリリースを行えるというメリットがある。そして意外にも利益率を第二義に置くレーベルのリリースが主流になった時に、それが初めてひとつのムーブメントの形になる。メジャーレーベルではなく、独立レーベルがカルチャーを一般的に浸透させていったという点については、ヒップホップのミックステープやカセットテープのリリースと重なるものがある。

 

1950年代には、全米各地に無数の独立レーベルが誕生し、ブラックミュージックのリスニングの浸透に一役買った。R&Bの独立レーベルの動きは、実は最初に西海岸で発生した。モダン/RPM,スペシャルティ、インペリアル、アラディンは、この年代の最も有力なレーベルである。他にも、エクスクルーシブ、クラス、フラッシュなど無数の独立レーベルが乱立していった。

 

一方、東海岸でも同様の動きが湧き起こった。アトランティック・レコードがその先陣を切り、アトコ、コティリオンが続いた。 さらにメジャー傘下には無数のレーベルが設立された。サヴォイ、アポロ、ジュビリー、ヘラルド/エムバー、ラマ/ジー/ルーレット、レッド・ロビン/フュリーなど、マニアックなレーベルが登場した。続いて、シカゴでも同様の動きが起こり、前身のレーベル、アリストクラットに続いて、有名なチェス/チェッカー/アーゴが登場。リトル・リチャードでお馴染みのレーベルで、ロックンロールの普及に貢献した。

 

以上のレーベルは、音楽産業の盛んな地域で設立されたが、特筆すべきは、他地域でも同じようなブラックミュージックのレーベルが立ち上げられたこと。オハイオ/メンフィスでも有力なレーベルが登場した。特にオハイオのキング、メンフィスのサンは、R&Bファンであれば避けては通れない。その他、メンフィスといったレーベル、スタックス/ヴォルト、ハイが続いた。テキサス/ヒューストンでも同様に、デューク/ピーコックが設立、ナッシュビルでは、ナッシュボロ/エクセロなどが登場する。まさにR&Bの群雄割拠といった感じだ。

 

これらのレーベルは、新しいタイプのR&Bもリリースしたが、同時にそれ以前のゴスペル的な音楽やブルースの作品もリリースしている。この点については、それ以後と、以前の時代のブラック・ミュージックの流れを繋げるような役割を果たしたと見るべきかも知れない。

 

60年代に入ると、デトロイトからモータウンが登場し、のちのブラックミュージックの商業化への布石を作った。それ以降も独立レーベルの設立の動きは各地で続き、フィラデルフィア・インターナショナル、ニューヨークのカサブランカ、ニュージャージーのシュガー・ヒルといったレーベルが設立された。


70年代に入ると、ソウルミュージックをメジャーレーベルが牽引する。しかし、これは独立レーベルによる地道な普及活動が後に花開き、ジャクソン5、ライオネル・リッチー、マーヴィン・ゲイ、フランクリン、チャカ・カーンといった大御所のスターの登場への下地を作り上げていったことは言及しておくべきだろうか。


 

 多くのアーティストや音楽ファンにとって、ドルビーの没入型オーディオフォーマットは、ポッドキャスティングと同様、現代の音楽システムに必要不可欠なものとなっています。そして今、主要アーティストのリリースにより、ストリーミング時代におけるDolby Atmosの大きな可能性が見出され、このシステムはより広範囲に採用されつつあるのが現状です。では、Dolby Atmosとは一体何なのでしょう?

 

 ”イマーシブオーディオフォーマット”という言葉は一般の方には聞き慣れないかもしれません。これはアーティストが自分のビジョンを実現する音楽を作るための重要な機会を提供する、サウンドシステムの新たな構築方法の一つ。”Immersive”というのは、「没入感」という意味で、つまり「イマーシブ・オーディオ」とは「没入感の高いオーディオ」。一般的には、多くのスピーカーを配置し、ヘッドフォンの再生でも特殊な処理を行い、360度、全方位から音が聞こえるコンテンツを「イマーシブ・オーディオ」と呼びます。「立体音響」「3Dサラウンド」「Spacial Audio」など様々な呼称がありますが、基本的に全て同義語と考えて間違いないです。
 
 

 「イマーシブ・オーディオ」が、「立体音響」「3Dサラウンド」と呼ばれるケースがあるということは、つまり、「イマーシブ・オーディオ」とは、従来の「サラウンド」の一手法ということもできるでしょう。従来の「サラウンド」というと、5.1や7.1といった平面にスピーカーを配置した「2Dサラウンド」でしたが、「イマーシブ・オーディオ」すなわち「3Dサラウンド」は、上部にもスピーカーを配置し、空間に半球面や全球面を表現する立体的なサラウンド手法となります。

 

 180度の音響に限られていた従来のステレオシステムから360度から音響を楽しめるサラウンドシステムへの移行は、各々の家庭でも映画館のような豊潤な音響をお手軽に楽しめるようになりました。しかし、このサラウンドシステムは、音楽や映像の製作者の間ではお馴染みものでしたが、ひとつ難点を挙げると、どうしてもオーディオファイルとして書き出す際、ステレオ化してしまうということでした。しかし、近年、このドルビー・システムがアップル・ミュージックをはじめとするオーディオプラットフォームに取り入れられたことにより、リスナーは製作者が音源作製時に聴いているものとほとんど同じか、それに近い素晴らしい音質で音楽を聴くことが出来るようになったのです。

 

 近年、サブスクリプリョンでも導入されつつある、 Dolby Atmos Musicでは、ステレオでは不可能な3次元の音響空間に、個々のオーディオやオブジェクトを自由自在に配置することができる。さらに、ドルビー・アトモスのシステムは、4方向のスピーカーの機能を持つ5.1時代のサラウンドシステムの音響を可能性を押し広げ、より多くの音を鮮明に聞き取ることが出来るようになりました。ドルビー・アトモスの特性は、空間の天井の反響により、それまでの平面的な音響性を、球体の音響性へと拡張することにある。この革新性によって、音を聴いている場所から再生された音の波形は、聞き手のいる空間に届くまでに立体的な球体のような図形を描く。言い換えれば、このフォーマットが広まったことで、ファンはスタジオでアーティストのオリジナルなビジョンに合致した、これまでになくクリアな音で音楽を聴くことを可能にしたのです。


 ドルビー・アトモスのシステムは、何も音楽の需要者であるリスナーだけに利便性をもたらしたというわけではありません。音楽の供給者であるアーティストやプロデューサーにとってもこのシステムは比較的手軽に導入出来ます。例えば、一般的に親しまれているレコーディング・ソフトウェア、Logic Pro、ProTools、Nuendoなど、同じレコーディングのツールで動作するので、Dolby Atmosでの制作の利用自体はそれほどハードルが高くありません。つまり、アーティストは自分のレコーディングシステムを、共同制作者と簡単に共有できるほか、一度そのシステムを導入すれば、将来まで維持することが出来ると言う利点があるわけです。

 

 

 実際、ドルビーアトモスの録音システムは、著名なレコーディングスタジオに導入されはじめています。中でも、ロンドンの伝説的なレコーディングスタジオであるアビーロード、イーストコート、ディーンストリートは、プロデューサーとアーティストのために最先端のDolby Atmosミキシング施設を備え、サラウンド・サウンドの革命に貢献した。ポーキュパイン・ツリーのスティーブン・ウィルソンやマックス・リヒターなどの著名なアーティストは、自身のプロジェクトを通じて没入型オーディオ・フォーマットの威力を既に実感しています。

 

アビーロードスタジオのドルビーアトモスの導入事例

 また、このシステムは既存作品のリイシューの際に有効的に活用されています。以前にはステレオの指向性しか持たなかった録音に多くの指向性を与えることで、オリジナル作品よりも鮮明な音質を実現しています。ドルビーシステムが最初に業界内に浸透したのは、2017年に発表されたREMの『Automatic For The People』のリイシュー(再編集)でした。このオーディオ・フォーマットを発表して以来、ドルビーアトモスは音楽業界全体で受け入れられるようになったのです。

 

 プロデューサーのジャイルズ・マーティンによる新しいアトモス・ミックスでのビートルズの『リボルバー』をはじめとするクラシック・カタログだけでなく、数カ月のこのフォーマットでの主要リリースにはロビー・ウィリアムスの『No.1 XXV』、イージー・ライフの『Maybe In Another Life』、ホット・チップの『Freakout Release』等が含まれています。また、現在のダンスミュージックブームにより、Apple Musicのカタログをドルビーアトモスで聴くことができるようになった。


 Dolby Atmos Musicによって、アーティストは音楽をキャプチャし、個々のタイプのデバイスで可能な限り最高のリスニング体験を提供するため、拡張性のある完全没入型ミックスを作成出来る。つまりリスナーは、このシステムの導入により、意図されたとおりの音楽、製作者がレコーディングの際に聴いている音と同じクオリティーを楽しむことできるようになったのです。



 それでは、このドルビー・アトモスに関して、実際の音楽制作者はどのように考えているのでしょうか?

 

 例えば、U2やトーキング・ヘッズの名作を手掛けた伝説的なプロデューサー、そしてロキシー・ミュージックにキーボード奏者として在籍し、ソロ転向後にはハロルド・バッドやジョン・ハッセルと共同制作を行い、アンビエント・ミュージックを確立したことでも知られるイギリスのミュージシャン、ブライアン・イーノは、ドルビーとのインタビューで、新作アルバム『FOREVERANDEVERNOMORE』をアトモスで録音する際のアプローチについて次のように語っています。


 「私がレコードを作るのは、人々を何らかの形で変えたいと思うからです」とイーノは言います。「つまり、今までにない組み合わせの感情を与えたいんだ」さらに、作業プロセスについて、イーノは次のように語っている。「アトモスとの共同作業で私が心から興奮したのは、音を空間に、つまり適切な空間に配置することができるというアイデアです。このレコードをアトモスのためにミキシングし始めたとき、『私は目の前にある何かを見ている観客ではなく、何かの真ん中にいる訪問者なのだ』と思った。だから、この音楽システムを全面に出したいと思った」また、最新アルバム『FOREVERANDEVERNOMORE』についても、「このアルバムでは、ほとんど何もしていないのに、まったく違う場所にいて、その間に海が広がっているような感覚になることがあった。ステレオではそのような感覚は得られなかった。密度が高い時代と低い時代。レンジが変わったという感じです。ミニマリズムの選択肢が増えたんです」


 ドルビー・アトモスの革新的なシステムを手放しに称賛するのはブライアン・イーノにとどまりません。その他、2022年10月、電子音楽の伝説的存在であるフランスのジャン=ミシェル・ジャールは、ニューアルバム『Oxymore』をドルビー・アトモスでリリースしました。彼もまた、実際に音響の変化を体感したときの感動を以下のように述べています。「私は、この新しいシステムで自分の音を周囲にいつものように配置することから始めましたが、それはもちろん、あらかじめ予期していた結果を全く塗り替えてしまうものでした」とジャン=ミシェル・ジャールはドルビーに語っています。「このプロジェクトを本当に制作した最初の率直な反応というのは、いまだ開拓されていない土地のドアを開けるような感覚でした」そして彼は、さらに以下のように述べています。「ドルビー・アトモスが提供する技術では、自然な音の聴き方に戻ることができる。360度の音響の美しさは、たくさんの音、より多くの音を入れることができ、それらが存在するための十分なスペースがあるという事実なのです」

 

また、「”イマーシブ”と呼ばれる音響技術は、未来の音楽を創造するための大きな鍵となるでしょう。イマーシブ・サウンド、つまり没入型サウンドの最大のポイントは、新しいスタイル、新しいタイプのミュージシャン、サウンドエンジニア、プロデューサー、ミュージシャンにまったく新しいエコシステムを生み出すということ。レコーディングの初日からイマーシブを意識すれば、ミュージシャンにとって新しい銀河のように未知の可能性を秘めているのです」とも語っています。


 さらに、レコーディングアーティスト、プロデューサー、プログレッシヴ・ロックのミュージシャン、スティーブン・ウィルソンは、ビートルズのアビーロードの50周年記念リイシューを新しいフォーマットで聴いて圧倒された後、アトモス用に自分のスタジオを設計しました。「バック・ボーカルなど、いろいろなものを後ろのスピーカーで再生していた。最初の頃は、ちょっとギミック的なことをやっていました。でも、今はそれを抑えることにして、より効果的なもの、何度聴いても飽きないようなものを深く理解するようになりました。そうやって、失敗から学んできたんです」



 現在、ドルビー・アトモスの革新的なシステムは、音楽のデジタルプラットフォームや映画館だけではなく、より実用的な日常のシーンに導入されるようになり、私たちの生活に溶け込んでいます。スマートスピーカー、ストリーミング・プラットフォーム、スマートフォン、そして車内のオーディオシステムなど、多岐にわたる業界全体で包括的に採用されつつあります。今、このシステムに注目しているのが、自動車メーカーのメルセデス・ベンツです。同社はユニバーサル・ミュージックグループおよび、アップル・ミュージックと緊密に提携することによって、車載オーディオ体験の一環としてドルビー・アトモスのシステムを導入しています。


 Tidal、Amazon Music、Apple Musicなどのグローバルなストリーミング・プラットフォームは、近年、サブスクリプリョン加入者に追加料金を支払わせることなしに、アトモスのシステムを提供しています。これによって、多くの音楽ファンは、お気に入りのアーティストの音楽をレコーディングスタジオさながらに臨場感あふれるオーディオフォーマットで聴くことが出来るようになりました。また今後、ドルビー・アトモスを有効的に活用した複数の音楽がリリースされる予定です。例えば、Pinkの「Trustfall」、Sam Smithの「Gloria」、Ava Maxの「Diamonds & Dancefloors」、KSI (feat. Oliver Tree) の『Voices』、Maise Petersの「Body Better」、Tom Grennanの「Here」といったシングルのほか、Atmosを使用した楽曲が収録されています。

 

 音響技術の革新は日進月歩。高い能力を持つ技術者の試行錯誤により、20世紀のモノラルからステレオ、以後の時代では、5.1サラウンド、7.1サラウンドと目に見えるような形で大きく進化してきました。そして、最近注目を浴びつつある没入型の音楽システム、ドルビー・システムはリスナーのオーディオ体験を刷新し、音楽や製作者の環境をも変化させ、そして、私達の日常の世界の音楽の楽しみ方にも革新をもたらしつつある。これらの技術は現在も進化を続けていて、その終着点のようなものは見えません。既に空を車が飛び始めるような時代……、もしかすると今後、音楽は私達が予測もつかない形に変貌していくかもしれませんね。

ビリー・ホリデイの奇妙な果実 1937

--プロテストソングに見る人権の主張性--


Protest-Song(プロテスト・ソング)というのは、現行のミュージック・シーンにおいて流行りのジャンルとは言い難い。しかし、近年でも人権の主張のための曲は、それほど数は多くないが書かれているのは事実である。これらは時代的なバックグラウンドを他のどの音楽よりも色濃く反映している。代表的な例としては、Bartees Strangeが作曲した「Hold The Line」が挙げられる。この曲は、ミネアポリスの黒人男性の銃撃事件、ジョージ・フロイドの死に因んで書かれ、バーティーズが追悼デモに直面した際、自分に出来ることはないかと考えて生み出された。アーティストが黒人の権利が軽視されるという問題をメロウなR&Bとして抉り出している。


 

米国の世界的な人気を誇るラッパー、ケンドリック・ラマーもまた、『Mr. Morales & The Big Steppers』の「Mother I Sober」において、自分の母親の受けた黒人としての心の痛みに家族の視点から深く言及している。これらの二曲には、ブラックミュージックの本質を垣間みることが出来る。

 

勿論、上記のような曲は、古典的なブラック・ミュージックの本質的な部分であり、何も最近になって書かれるようになったわけではない。それ以前の時代、60年代には、マーヴィン・ゲイ、スティーヴィー・ワンダーといった面々がモータウンでヒットメイカーとしてキャリアを積んでいた時代も、黒人としての権利の主張が歌詞に織り込まれていたわけなのだが、その後のディスコ・ミュージックの台頭により、これらのメッセージ性は幾分希薄になっていかざるをえなかった。それは、ブラック・ミュージックそのものが商業性と同化していき、その本質が薄められていったのである。


 

その後の流れの反動として、このディスコの後の時代にニューヨークのブロンクス地区で台頭したラップ・ミュージックは、2000年代からトレンドとなり、それらは初期のブルースやR&Bと同じく、直接的、間接的に関わらず、スラングを交えつつ黒人としての主張性が込められた。もちろん、それ以前の19世紀から20世紀初頭にかけての最初期のブルースというジャンルを見ると、広大な綿畑ーープランテーションで支配層に使役される黒人労働者としてのやるせなさを込めた暗示的なスラングが多少なりとも含まれているけれど、これらはまだ後世の60年代のソウル・ミュージックのように、政治的な主張性が込められることは稀有な事例であった。


 

Billy Holiday

しかし、その黒人としての人権の主張を歌ったのが、20世紀初頭に登場した女性シンガー、上記写真のBille Holiday(ビリー・ホリデイ)だ。このアーティストは、本質的にはジャズに属する場合が多い歌手ではあるが、このアーティストの歌詞の中には、一連のプロテスト・ソングの本質(反戦、人権の主張、性差別)または、その源流が求められると言われている。特に、現代的な視点から注目しておきたいのが、このアーティストの代表曲「Strange Fruit(奇妙な果実)」という一曲だ。

 

ビリー・ホリデイが初めて録音した「奇妙な果実」は、20世紀前半のアメリカ南部で起こった黒人リンチ事件を歌ったものである。


 

この曲「奇妙な果実」は、教師/アベル・ミーアポールが詩として書き、1937年に発表された。ミールポールはアメリカ共産党に所属するユダヤ系白人であり、黒人リンチの凄惨な写真を見て、この歌を作った。1930年代、アメリカ南部ではリンチが高潮していた。控えめに見積もっても、1940年までの半世紀で約4000件のリンチが発生し、その大半は南部で、被害者の多くは黒人であった。


シンプルな歌詞の中に、大きな力が込められていて、曲が終わっても心に残る。美しい風景、花や果物の香りと、残酷に殴られた人間の血や骨が並置され、この曲に力強さと痛々しさを与えている。この曲は、アメリカの人種差別の残忍さを露呈しており、それ以上言葉を増やす余地はない。この曲の意味を理解したとき、人はそのイメージに衝撃を受け、怒り、嫌悪感を抱かざるをえない。


 

1939年にカフェ・ソサエティでこの曲を初演したBillie Holiday(ビリー・ホリデイ)は、この曲を歌うことで報復を恐れていたというが、そのイメージから父親を思い出し、この曲を歌い続け、後にライブの定番曲となった。あまりに強烈な歌なので、ショーの最後にはこの曲で締めくくるしかなく、バーテンダーはサービスを中止、部屋を暗くせばならない、という規則ができた。バーテンダーがサービスを止めて、部屋を暗くして、ビリー・ホリデイのパワフルな歌声でライブは終わるのである。このように、曲の成り立ちや歌詞の説得力が、演奏の仕方にも顕著な形で表れていた。


当時、政界を支配していたアメリカの反共産主義者や南部の人種差別主義者の間で悪評が立つことを恐れたレコード会社がほとんどであり、この曲のレコーディングは容易ではなかった。しかし、1939年にコモドール社によってようやく録音されると、たちまち有名になった。この曲は、知識人、芸術家、教師、ジャーナリストなど、社会の中でより政治的な意識の高い人たちの関心を集めた。その年の10月、『ニューヨーク・ポスト』紙のあるジャーナリストは、この曲を「南部の搾取された人々が声をあげるとしたら、その怒りの賛歌であり、またその怒りそのものだ」と評した。



政治的な抗議を音楽で表現することが少なかった1939年の当時、この曲はあまりに画期的だったため、ラジオではめったにオンエアされなかった。この時代、ルーズベルト政権だけでなく、民主党でも隔離主義者の南部ディキシーラットが主役だった時代。リンチの舞台となったアパルトヘイト制度を崩壊させるには大衆の運動が必要だった。

 

また、この歌は、プロテスト・ソングの元祖とも言われている。歌詞の内容は、暗喩が表立っているが、現代の音楽よりも遥かに痛烈だ。当代の合衆国の社会問題を浮き彫りにするとともに苛烈な情感が表現されている。以下の一節は、「奇妙な果実」で、最も有名な箇所であるが、この時代、女性歌手として、こういった南部の暴力を暴く曲をリリースすることがどれほど勇気が必要であったか・・・。それは現代社会を生きる我々にとっては想像を絶することなのである。


 


南の木は、奇妙な実をつける。

葉には、血、根には、血。

南部の風に揺れる黒い体

ポプラの木に、奇妙な果実がぶら下がっている。

勇壮な南部の牧歌的な情景。

膨らんだ目、ゆがんだ口。

甘く爽やかな木蓮の香り。

そして、突然の肉の焼ける匂い!

ここにカラスが摘み取る果実がある。

雨にも負けず 風にも負けず

太陽の光で腐り、木が倒れる。

ここには、奇妙で苦い作物がある。


 


ドイツ・ハンブルグに本社を置くモビリティサービス・プロバイダー、FREE NOWは、人々が音楽とどのような関係を築き、生活にどのような影響を与えているかについて、英国で行われた新しいレポートを共有しました。

 

この調査によると、参加した人々の85.7%が、音楽は日々の心の健康を保つために重要な要素であると考えていることが判明しました。さらに、今回の調査に参加した人のうち、音楽を聴く頻度が”週1回以下”という人はわずか2%で、65.2%が毎日音楽を聴いていると答えています。

 

また、83.6%の人が、映画鑑賞よりも音楽を聴き、57.8%の人が友人/家族との付き合いよりも音楽を優先していることが明らかとなっている。また、参加者の61.9%が「運動するよりも音楽を聴く」と回答し、74.1%が「運動するためには音楽が欠かせない」と回答する。この数字を受け、レポートは、音楽が "イギリス国内で最も人気のあるエンターテインメント "であると主張しています。


さらに、新しい音楽の発見方法について尋ねたところ、この調査に参加した人の60.1%がストリーミングサービスを音楽の発見ツールとして挙げています。その他、55.1%の人がラジオを、44.9%の人がソーシャルメディアを選択しています。また、36.7%の人が新しい音楽を直接(レコードショップ等で)発見すると回答しています。


このレポートに参加した人の66.8%が、独立した音楽会場のサポートが不可欠だと答え、独立した会場でライブを観たことがある人の33.6%が、そうした会場はもうほとんど存在しないと回答しています。


英国の都市で最も音楽シーンが充実している都市は、ロンドンがトップ、マンチェスター、リバプール、バーミンガム、グラスゴーと続いています。依然としてイギリス国内で最も音楽文化が盛んな土地はロンドンということになります。


Music Venue TrustのCEOであるMark Davyd氏は、このレポートについて、「この調査結果は、音楽が私たちのコミュニティで、人々にとって非常に個人的なレベルでいかに重要であるかを改めて示しています」と述べています。

 

この調査において、3分の2の人が、地元の草の根の音楽施設は、自分の町や都市にとって不可欠なものだと答えています。この見解は、音楽コミュニティがパンデミックの際に会場を支援し、Covidの危機によって会場が永久に閉鎖されないように直接行動を起こした実際的な方法にも反映されています。

 

欧州でのエネルギー供給の危機、さらにインフレーションによる物価高、それに次いで発生した生活費の抜き差しならない問題がパンデミック後のヨーロッパの人々の日常生活における影響を長引かせている。小麦をはじめとする原材料の高騰、さらにウクライナ侵攻の余波ともいえるエネルギー価格の急激な高騰、さらに市場における株価の変動等の影響により、日常必需品の供給が滞れば、自然と音楽が後回しになってしまうことはやむをえないことです。それらの差し迫った日常生活から切り離されて考えられがちな音楽文化もまたこういった時流の影響を被っており、2000年代頃まで文化そのものを活性化させてきたイギリス国内の草の根の音楽セクターは後回しにならざるをえなく、昨今において信じられないほど厳しい局面に立たされているといいます。

 

今回、ドイツハンブルグのFree Now社がイギリスで実施した、音楽をどのように聴くのかという一般調査は、これらの独立した会場がいかに重要であるか、そして、音楽文化を日常生活そのものであると考えるイギリス国内の人々にとってどれほど重要であるかを改めて示唆するものとなっています。

 


2021年には、イギリスとアメリカで、CDの総売上よりもレコード盤の方がより売上が高くなるいわゆる「逆転現象」が起こっています。

 

これは、コロナパンデミック下のロックダウンが、自宅での音楽鑑賞の時間を増加させたことがひとつの要因として挙げられていました。しかし、2022年に入って、様々な音楽イベントが解禁された現在においても、レコードの売上が堅調であることには変わりないため、一定のレコード愛好家がこのレコード産業を下支えしていることは疑いがありません。


最近のビニール盤は、デザインもすごくおしゃれで、手も凝んでいるし、見ているだけでも惚れ惚れするようなデザインも数多く見受けられます。そんな中で、2022年のイギリス国内のレコード市場において、最も存在感を見せているのが、イギリス・リーズ出身の四人組のポストパンクバンド、ヤード・アクトにほかなりません。

 

ヤード・アクトは、昨年から今年にかけて、いくつかのシングル盤をリリースした後、2022年に「The Overload」で華々しいデビューを飾った。イギリス国内での数々のライブアクトにとどまらず、現在、この四人組はツアーのため、ニューヨークに滞在し、さらに、ニューヨークのラフ・トレードにもメンバー揃って立ち寄っています。既に、テキサスのサウス・バイ・サウスウエスト、ジミー・ファロン司会の名物番組「The Tonight Show」にも出演を果たし、世界的な知名度を獲得し、さらにイギリスの大御所アーティストのプライマル・スクリームの前座にも抜擢されており、ヤード・アクトは、今年デビューしたバンドの中で、ひときわ強い存在感を示しています。

 

そして、2022年の現時点でイギリス国内でのレコードの最大の売上を記録しているのもヤード・アクトです。デビューレコードの「The Overload」は、2月のリリース以来、11,000部以上のヴァイナル盤の売上を記録しています。リーズ出身の四人組は、今年初めにイギリス国内のポップアーティスト、ティアーズ・フォー・フィアーズとのレコード盤売上においてデッドヒートを繰り広げた後、勝利を収め、レコードチャートの首位を獲得。今度の出来事について、ヤード・アクトは、「私達は、このことに非常に感謝しております。私達を信じ、一生懸命サポートしてくださったアイランドレコードのチームとクルーの全員を忘れません。ありがとう!!」というコメントを添えている。どうやら今後も、ヤード・アクトの快進撃はしばらく続きそうです。

 

さらに、レコード盤の売上チャートの2位に君臨するのが、1980年代から長きに渡って活躍してきた名バンド、ティアーズ・フォー・ティアーズの最新作「The Tipping Points」です。元々、ティアーズ・フォー・ティアーズは、1980年代のディスコ・ムーブメントに乗じて登場し、聴き応えのあるポピュラー音楽を生み出してきました。この17年ぶりの新作がレコード盤チャートの2位を獲得している事実は、このバンドがいまだ根強い人気を誇る証左とも言えます。その他にも、チャートの三位には、ブラック・カントリー、ニュー・ロードの二作目のアルバム「Ants From Up There」が位置し、ブリット・アワードにもノミネートされている彼らの国内での根強い人気を示すと共に、ポストパンク/ポストロック勢がイギリス国内で強い存在感を示していることの顕れです。さらに、新作としては、世界的に強い存在感を放つポップシンガー、チャーリー・XCXの最新作「Crush」、母国からアメリカに拠点を移して活動を続ける電子音楽家、ボノボの「Fragment」なども、2022年のレコードチャートで好調なセールスを記録しています。


また、追記として、以前から、ザ・フーの「The Who Sell Out」の2019年度の旧作アルバムの好調な売上を記録した事実を見ても分かる通り、複数の新鮮味あるスタジオアルバムに紛れ込むような形で、往年の名盤の作品が多くのセールスを挙げている事実も、最近のイギリス国内のレコード産業における動向の特徴といえるでしょう。

 

チャートでは、ニルヴァーナの「Nevermind」(1992)が14位にランクインしているほか、ピンク・フロイドの傑作「The Darkside of the Moon」(1973)が18位にランクインを果たしています。さらに、シェフィールドの偉大なロックバンド、アークティック・モンキーズの傑作「AM」(2013)も17位にランクインしています。イギリス国内において、2022年4月現在のレコードチャート上位陣の多くは、新進気鋭のロックバンド、ポップスシンガーが独占するものの、その一方で、ニルヴァーナ、ピンク・フロイド、デヴィッド・ボウイといったアーティストの旧盤もビッグセールスを記録していることも最近のレコード市場の顕著な特徴です。




・2022年度 4月現時点でのイギリス国内でのレコード売上チャート

 

1.Yard Act
THE OVERLOAD
2.Tears For Fears
THE TIPPING POINT
3.Black Country<New Road
ANTS FROM UP THERE
4,Fleetwood Mac
RUMOURS
5.WombatsFIX YOURSELF NOT THE WORLD
6.Charli XCX
CRASH
7.Red Orange County
WHO CARES
8.Don Brocco
AMAZING THINGS
9.BonoboFRAGMENTS
10.Frank Turner
FTHC
11.GhostIMPERA
12.Johnny Marr
FEVER DREAMS PTS 1-4
13.Amy Winehouse
BACK TO BLACK
14.NirvanaNEVERMIND
15.BastilleGIVE ME THE FUTURE
16.StereophonicsOOCHYA
17.Arctic Monkeys
AM
18.Pink Floyd
THE DARK SIDE OF THE MOON
19.Alt-JTHE DREAM
20.David Bowie
HUNKY DORY
21.MitskiLAUREL HELL
22.Ed Sheeran
=
23.Adele30
24.DavePSYCHODRAMA
25.CoralTHE CORAL
26.JamiroquaiTRAVELLING WITHOUT MOVING
27.Sea Girls
HOMESICK
28.David Bowie
LOW
29.Viola Beach
VIOLA BEACH
30.Franz Ferninand
HITS TO THE HEAD
31.Bob Marley&The WAilers
LEGEND
32.PlaceboNEVER LET ME GO
33.MArillionAN HOUR BEFORE IT'S DARK
34.Divine Comedy
CHARMED LIFE - THE BEST OF
35.Jamie T
PANIC PREVENTION
36.MysterinesREELING
37.NirvanaUNPLUGGED IN NEW YORK
38.Harry Styles
FINE LINE
39.Harry Styles
HARRY STYLES
40.David Bowie
THE RISE AND FALL OF ZIGGY STARDUST

 

・officialcharts.comより抜粋

 



USビルボード・チャートでは、これまで少なくともマーケティングの面で優位にあるメジャーレーベル一強の時代が続いていたが、最近、その流れが徐々に変わってきているように思える。

 

昨年までは、イギリスのシンガーソングライター、アデルのアルバム「30」が売れに売れていた。これは予測できたことであるが、依然として、メジャーアーティストの音楽市場における強い影響力を示していた。しかし、新たに年が変わり、2022年のアメリカのビルボードチャートに異変が生じている。

 

今年に入り、USビルボードチャートの上位にランクインしつづけている現在最もホットなアルバムは大まかにいうと以下の3作品である。

 

 

・モダンR&Bシーンを牽引するアメリカ国内で人気のアーティスト、The Weekndの「Dawn FM」  

 

 

・日系アメリカ人のシンガーソングライター、Mitskiの「Laurel Hell」  

 

 

・アメリカ国内のインディー・ロックバンド、Beach Houseの二枚組「Once Twice Melody」



 

上記の3つのアルバムは、USビルボード・チャートの主要部門、トップアルバムチャートで上位を独占している作品で、今、アメリカ国内で最も話題性のあるアルバムである。ザ・ウィークエンドの「Dawn FM」については、ユニバーサル・ミュージックがリリース元であるため、メジャーアーティストに属する。しかし、一方、他の2つのアーティストについては、インディペンデントレーベルに所属するアーティストであるのが驚きである。Mitskiは、ポップス、アンビエント、エレクトロまで、幅広いジャンルのリリースカタログを誇るデッド・オーシャンズに所属。Beach Houseにいたっては、1990年代からアメリカのインディーシーンを牽引してきた、いわばインディペンデントレーベルの体質が色濃いシアトルのサブ・ポップからのリリースである。  



Beach House at House of Blues San Diego on July 1 2012.jpg 新作アルバムが好調なセールスを記録しているボルティモアのインディーロックバンド、Beach House CC 表示-継承 2.0, リンク

 

つい最近、シンガーソングライターのMitskiがトップアルバムチャートの初登場五位(類型的な測定によると初登場一位)を獲得し、アメリカ国内で大きな話題を呼んだことは、既に以前の記事で述べた。

 

そして、このシンガーソングライターに続き、ビーチ・ハウスのトップチャート入りも近年の音楽市場の変化の予兆を表している。 

 

これまで、ビーチ・ハウスは、2006年からインディーアーティストとして、幾つかの良質なアルバムを発表してきた。NYのブルックリン周辺のWild Nothing、Black Marbleを始めとするリバイバルサウンドシーンの流れを受けたビンテージ感のあるロック・ミュージックを彼らは提示している。

 

上記のバンドと同じように、ビーチ・ハウスの音楽は、ディスコ、テクノサウンドにとどまらず、音楽性の中に、ドリーム・ポップやシューゲイズのような陶酔感のある旋律を擁している。もちろん、これまでのビーチ・ハウスの既存リリース作品は、オルタナティヴ・ロックの2010年代の流れを象徴づける作風であるため、国内外のコアな音楽ファンの目に止まることはあったにせよ、メインスターダムに躍り出るとまでは想像できなかった。事実、これまでの旧作リリースで、ビーチ・ハウスは、ビルボード200チャートに一度もランクインしたことはなかった。

 

ところが、彼らが2月下旬に発表した新作アルバム「Once Twice Melody」はリリース後、好調なセールスを記録し、USビルボード200チャートで見事、初登場12位にランクインを果たしてみせた。

 

これは、現代アメリカの音楽市場の潮流の変化を示しており、また、なおかつ、サブ・ポップ所属のアーティストとして、歴史的快挙を成し遂げたと言える。これまで、ニルヴァーナという前例があるが、大ヒット作「Nevermind」はサブ・ポップでなく、ゲフィンからのリリースであった。

 

もちろん、Mitskiに関して言えば、以前から、アメリカ国内の音楽メディアで大々的に取り上げられていた。前作のアルバムも、センセーショナルな話題を振りまいていた。また、彼女の引退宣言についても大きな話題性をもたらしたので、年が明けて、Dead Oceansからリリースされた「Laurel Hell」がアメリカ国内のビルボード・チャートでも健闘を見せることはある程度予測出来た。けれども、ビーチ・ハウスの新作がこれほどセールス面で大きな健闘を見せるとは、(インディーロックファンとしては嬉しいかぎりではあるものの)ほとんど誰も予測できなかったのではないか。

 

しかも、ビーチ・ハウスは、インディー・ロックバンドとしてメインストリームを席巻している。彼らの新作アルバムは 、トップ・アルバム・チャートで初登場一位を記録、累計20,300枚が販売されたとビルボードは報告している。フィジカル盤として、18,200、レコード盤として、14,500の売り上げを記録している。(他の形式では、CDは、2,900枚、カセットでは、800枚を売り上げている)


「Once Twice Melody」は、USビルボードのサブ部門のチャートでも好調な位置を占める。トップ・オルタナティヴ・アルバム、トップ・ロック・アルバムの部門でも一位を獲得し、テイストメイカー・アルバム、トップ・カレント・アルバムの部門でも一位に輝き、USビルボード・チャートの話題を攫っている。

 

また、昨今、ビーチ・ハウスと並んで、好調なセールスを記録しているのが、KhuangbinとLeon Bridgesのコラボレーションアルバム「Texas Moon」。発売元は、Mitskiと同じく、インディペンデントレーベルのデッド・オーシャンズである。「Texas Moon」は、ビンテージソウルの雰囲気をほのかに漂わせるノスタルジア満載のアルバムと言えようが、これまで、レコード盤の12,900枚を含む16,400枚を売り上げ、トップアルバムチャートで初登場2位にランクインしている。

 

今年に入り、インディアナポリスのデッド・オーシャンズ、さらに、シアトルのサブ・ポップがアメリカ国内の音楽市場において強い影響力を持ち始めている。これは、これまでマーケティングの面でいくらか不利であったインディペンデントレーベルが、デジタル、サブスクリプション主流の時代の後押しを受け、その流れを巧みに活用出来ていることを示している。加えて、youtubeなどを介してのストリーミング配信もアルバムセールスに良い影響を与えている。

 

また、アメリカ国内有数の老舗インディペンデントレーベル、ニューヨークのMatadorについては、近年、デッド・オーシャンズからリリースされたMitskiの「Laurel Hell」に比するビッグセールス作品を持たないものの、スネイル・メイル、ルーシー・ダカス、エムドゥー・モクター、ベル・アンド・セバスチャン、と、昨年から今年にかけて、魅力あふれるカタログを数多くリリースしており、ビルボード・チャート上位にランクインする機会を虎視眈々と伺っている。

 

さらに、近年、ビルボード・チャートを始めとする、メインストリームを席巻しているインディーアーティストの多くは、1970年代−1980年代の、ディスコ、ポップス、テクノ、ヴィンテージソウルを踏襲し、その音楽性にモダンな雰囲気を付け加えているという共通項が見いだせる。

 

これらの最新のアメリカの音楽市場の動向、ビルボード・チャートのセールス面での実態から伺える点は、昨今のメジャーレーベルとインディペンデントレーベルの力関係の顕著な変化である。

 

今後、この両者の音楽市場における力関係がどう推移していくのかまでは明言できかねるものの、少なくとも、上記のインディーアーティストの作品の好調なセールス、ビルボード・チャートの席巻から伺えるのは、今日の市場の売れ行きを左右する音楽ファンは、新奇ものを求めるのと同時に、古いレコードに対する偏愛のような、淡いノスタルジアを求めているのかもしれない。

  



マルゴ・ガリヤンさんが2021年の11月8日に84歳で亡くなられたという訃報については、アメリカ、ロサンゼルスの「Buzz Band LA」が最も早く報じたようです。

 

このマルゴ・ガリヤンというアメリカのシンガーソングライターは、それほど日本では知名度に乏しいように思われますが、かつてはビル・エヴァンスといったジャズ界の大御所から音楽の手ほどきを受けた女性シンガーソングライター、作詞家です。懐メロのような雰囲気を持ったポップの楽曲を書いており、84年の生涯において「Take A Picture」という一作品、それからピアノ音楽の変奏をリリースしただけという寡作さにも関わらず、伝説的な音楽家としてアメリカ国内ではみなされています。大まかではありますけれど、彼女の半生と唯一のスタジオ作品について触れていきましょう。

 

マルゴ・ガリヤンさんは、ニューヨーク州のクイーンズのファー・ ロッカウェー近郊のニューヨーク市に、1937年9月20日に生まれ。


彼女の両親は、コーネル大学在学中に出会っており、母親もピアノを専攻、父親もまた同じように、リベラルアーツに熱心な家庭であったようです。マルゴ・ガリアンは、そういった知的な両親のもとで育ち、若い頃から詩の創作に励むかたわら、ピアノ演奏に生きがいを見出した。当初は、当世のポピュラー音楽、クラシック音楽に慣れしたしんでいたマルゴ・ガリヤンは、大学に入ってからジャズ音楽に興味をもつようになりました。

 

その後、ボストン大学では、クラシカルピアノとジャズ・ピアノを専攻し、マックス・ローチ、ビル・エヴァンスといったミュージシャンを信奉していましたが、ご自身のピアノの演奏力に難を見出し、後にピアニストとしての夢を諦め、作曲、ソングライターの分野に転向なさっています。 


高校生の時代から既に、マルゴ・ガリヤンはソングライティングを始めており、ハーヴ・アイズマンの仲介によって楽曲をアトランティックレコードに送り、パフォーマーとして契約を結んで、パフォーマーとしてジェリー・ウェクスラー、アーメット・アーティガンのステージングに参加しています。しかし、その後、アトランティックレコード側は、マルゴ・ガリヤンのヴォーカルのビブラートのピッチのよれ方、歌声の不安定さに難点があると見、つまり、ヴォーカリストとしての資質に乏しいと見、パフォーマーから作曲家へと転向させ、再契約を結んでいます。


この時代、マルゴ・ガリヤンさんは、ご自身の歌声にすっかり自信をなくされていて、「私はあの時、うまく歌うことが出来なかったんです」と、その当時の事を後になって回想しています。しかし、むしろ、当時のアトランティックレコードのプロデューサーが彼女のヴォーカリストとしての潜在能力を完全に見誤っていたということも、後のリイシュー盤でのアメリカでのシンガーとしての再評価を見るにつけ、思う部分もなくはないのです。つまり、シンガーなのか、ソングライターなのか宙ぶらりんのままで、現役時代を終えて、家庭に入ってしまったのがこのアーティストなのです。

 

話を元に戻しましょう。大学時代に入り、クラシカル・ピアノ、ジャズ・ピアノの双方を、ボストン大学で学びながら、マルゴ・ガリヤンは、作曲家としての道を歩み始めています。ミュージシャンとしてのキャリアの最初期に、クリス・コナーというジャズ歌手に楽曲を提供しており、クリス・コナーは、1958年、ガリヤンの作曲した「Moon Ride」をレコーディングしている。


このジャズの作品がマルゴ・ガリヤンのソングライター、作詞家としての事実上のデビュー作と言えそうです。その四年後の1962年にも、クリス・コナーはガリヤンが作詞を手掛けた「Lonly Woman」という楽曲をレコーディングしています。その後、マルゴ・ガリヤンは、ハリー・ベルフォンテに幾つかの楽曲を提供しており、このソングライティングにおける仕事が最初期のミュージシャンとしてのマルゴ・ガリヤンのキャリアを形成していると言えるでしょう。


ボストン大学を卒業した後も、マルゴ・ガリヤンは、みずからのピアノの演奏、ジャズ音楽への知見を深めるため、1959年から、レノックス・スクール・オブ・ジャズに通い、演奏家、作曲家としての技術を向上させています。この時代の技術向上が、後のピアノ作品「The Chopsticks Varieations」というシンプルな現代音楽風の変奏曲で結実を見たことは明らかで、レノックス・スクール・オブ・ジャズで、マルゴ・ギャリアンは、錚々たるジャズ界の大御所と邂逅し、オーネット・コールマン、ドン・チェリー、ビル・エヴァンス、マックス・ローチ、ミルト・ジャクスン、ジム・ホール、ジョン・ルイス、ガンサー・シュラーからジャズ音楽の薫陶を受けています。これが後のミュージシャンとしての作曲性に大きな躍如となっているようです。

 

この時代に、マルゴ・ガリアンは、MJQ Musicと契約を結び、アーティストとしてサインしています。 また、彼女はこの時期、幸福な人生を謳歌しており、ジャズ・ミュージシャンであり、トローンボーン奏者兼ピアニストのボブ・ブルックマイヤーと結婚し、また、音楽の仕事においても、ジョン・ルイス、オーネット・コールマン、アリフ・マーディンといった錚々たるジャズマンに楽曲を提供しています。これらの楽曲で、ガリヤンは作曲だけではなく、作詞も手掛けており、作曲にとどまらず、作詞の分野においても並々ならぬ才覚を発揮しています。


その後、マルゴ・ガリヤンは、ボブ・ブルックマイヤーと離婚した後、ポピュラー音楽アーティストとしての道を歩み始めます。それまでクラシック、ジャズという2つの音楽と深いかかわり方をしてきたガリヤンはおそらく、この離婚後の時代に置いて、かなり落胆をしていたものと思われますが、そこで彼女の精神をすくい上げたのがポップス音楽でした。彼女の友人、デイヴ・フリッシュバーグがガリヤンにBeach BoysのPet Soundsに収録されている一曲「God Only Nows」を聴くように薦め、この時代、マルゴ・ガリヤンは、クラシック、ジャズという近代の音楽の先にある未来のサウンド、ポピュラー音楽に大きな可能性を感じていたようで、このビーチボーイズの「神のみぞ知る」を最初に聴いたときの大きな感動について後にこのように話している。

 

”ビーチ・ボーイズの音楽を聴いていることは、とても贅沢な時間でした。レコードを買って何百万回も再生したんです。”

 

 

この新しいビートルズのアメリカ版ともいえる、ビーチ・ボーイズのサーフサウンドに大きな感銘を受けたマルゴ・ガリヤンは、すぐさま、自分の楽曲製作に取り掛かり、ポップス曲「Think Of Rain」を椅子の上で素早く書きあげています。なぜ、ポップス曲を書くことを決断したかについては、ジャズシーンで起こっていることよりもはるかに、ポップスシーンで起こっていることのほうが魅力的であるという直感によるものでした。


そして、この最初の楽曲「Think Of The Rain」は、後にデモ曲集「27 Demos」として再編集され、Dertmoor Musicから発売され、アメリカの音楽シーンでマルゴ・ガリヤンの再評価の気運を高める要因ともなりました。この楽曲は、1967年当時、ボビー・シャーマン、ジャッキー・デシャノン、クロンディーヌ・ロンジェによって録音され、リリースされています。また、かのニルソンもこの楽曲をレコーディングしていますが、このニルソンバージョンについてはリリースされず、お蔵入りとなりました。

 

また、もうひとつマルゴ・ガリヤンの代名詞といえる「Sunday Morning」もそれから時を経ずに録音されており、この1967年12月にリリースされた作品は彼女の最初のヒット作となり、 ビルボード・チャートの30位にランクインしています。また、この楽曲は多くのアーティストによって歌われ、フランスの女優、マリー・ラフォレがフランス語版「Et Sijet' Aime」として発表し、そのほかにも、この「Sunday Morning」はカーメン・マクレエ、ジュリー・ロンドンによって名画「Sound Of Silence」1968のサウンドトラックの一貫としてリリースしています。

 

 

マルゴ・ガリヤンのアーティストとしての知名度を高めることになったのは、ベルレコードと契約して1968年に発表された、ポップスシンガーとしての唯一の作品「Take a Picture」のリリースでした。このスタジオ・アルバムは、いってみれば、日本の懐メロにもたとえられる軽快なポップサウンドによって彩られた名品の一つ。彼女のバックグラウンドであるジャズ、クラシック、ポップスを自由自在にクロスオーバーした作品と称せるでしょうか。当初、レコーディングにおいては、ジョン・サイモンが担当し、その後、ジョン・ヒルが入れ替わりでプロデューサーを務めています。また、スタジオ・ミュージシャンとしては、カーク・ハミルトン、フリ・ボドナー、ポール・グリフィン、バディ・サルツマンをゲスト・ミュージシャンに迎えて製作された作品であり、アメリカのポップス史の隠れた名盤に挙げられる作品でもあります。

 

 

「Take A Picture」 再発盤 2020

 

 

 

 

この作品は、マルゴ・ガリヤンというシンガーとしての資質が最初に認められた傑作でもあり、発表当初から、米ビルボード誌は諸手を挙げて、「Take A Picture」に高評価を与えており、「Take A Pictreはきわめて上質なサウンドであり、好調なセールスが約束された作品である」と最大の賛辞を送っています。しかしながら、結果的に言えば、このビルボードの目算は当たらなかった。このアルバムを最大の商機とみたリリース元のベル・レコードはすぐさま、マルゴ・ガリヤンのアメリカの大規模ツアー計画を打ち出し、大々的な宣伝を行う準備に入りました。いよいよ、スターミュージシャンとしての成功は目前と思われた矢先、このアメリカをシンガーとして巡回するツアーのベル・レコードからのオファー、ミュージシャンとしてのまたとない成功の機会をマルゴ・ガリヤンは拒絶し、この宣伝を兼ねたツアー自体は立ち消えになり、彼女はスターミュージシャンとしての座に上り詰めるチャンスをみすみす逃すことになります。

 

なぜ、こんなことが生じたのかといいますと、当時、マルゴ・ガリヤンが他のミュージシャンと結婚し、家庭を持っていたことがひとつ、そしてもうひとつは、ベル・レコード側のツアーに際しての提案の数々、あなたは、こういったステージ衣装を着るべきであり、また、あなたは、こういったパフォーマンスをステージで行うべきである、というような、ショービジネスを行う上での要請を、彼女はまっとうなことだと受け入れられなかったこと。この女性はレコード会社の操り人形になることだけは避けた、権力に自分の魂を従属させることだけを避けた、独立した女性であり、素晴らしい偉大な人物です。こういったことは、音楽業界でままあることなのかもしれませんが、その後、ツアースケージュールが立ち消えになったことにより、ベルレコードとの関係は悪化して、「Take A Picture」自体はリリースに至るものの、商業的にはそれほどの話題作とはならず、また、マルゴ・ガリアンとしての後発の作品がリリースされることもありませんでした。これがつまり、フレンチ・ポップスのシルヴィ・バルタンのようなスター性を擁していながら、このアーティストが世界的なポップスシンガーにならなかった要因といえそうです。その後、マルゴ・ガリヤンは、スターミュージシャンの道を閉ざし、平和な暮らしを選択し、ピアノの個人教師としての道を選んでいます。その後、クラシックの変奏曲「Chopstickes Variation」という練習曲のような作品をリリースしていますが、長いあいだ表舞台に姿を見せることはありませんでした。



完全にミュージックシーンから忘れ去られてしまったマルゴ・ガリヤンというシンガーソングライター。しかし、良い作品、良いアーティストというのは、たとえ、大々的な宣伝が行われなくとも、どこかの時代において、正当な評価が与えられるようです。2000年代に入ってから、アメリカのミュージック・シーンで、マルゴ・ガリヤンの再評価の気運が高まり、2014年には初期のデモを再編集した「27 Demos」、2016年には「29 Demos」が相次いでリリースされたのを機に、このアーティストの音楽性が再度脚光を浴びることになります。 

 

 

 

「27 Demos」2014

 

 

 

また、この二つのデモトラック集のリリースに続いて、2020年にも、モノラル盤のリマスター盤として再編集されたマルゴ・ガリヤンの唯一のスタジオ作「Take A Picture」がリリースされ、時代を越えた良質な作品として注目が集まりました。どの時代からそうしていたのか定かではないのものの、既にこの頃、マルゴ・ガリヤンは、表舞台のミュージック・シーンとは完全に距離を取っていて、故郷のニューヨークからLAに移住しており、ほとんどその所在については知られていなかったようです。

 

そして、不思議なことに、一番最初に、マルゴ・ガリヤンの訃報を伝えたのは、アメリカの主要メディアではありませんでした。先日、約一週間前に、ロサンゼルスの雑誌「Buzz Band LA」が先だってこのアーティストの突然の死を報じ、それに引き続いて、アメリカのメジャーなメディアがこのミュージシャンの訃報を相次いで伝えたというのが実情だったようです。


アーティストとして現役時代に表舞台で、そこまで大きな活躍したわけでないにもかかわらず、各メディアが世界的なスターミュージシャンのような取り上げ方をしたのはかなり異例と言えるものでした。おそらく、このような大きな報道がなされたことについては、この数奇なミュージシャン、マルゴ・ガリヤンが多くの裏方の作曲での偉大なる仕事を行い、アメリカの音楽シーンに貢献してきたという紛れもない事実、また、なおかつ、この隠れたポピュラー音楽史に燦然と輝く「Take A Picture」をこの世に残したことに対する、アメリカのメディアの最大の賛辞に他ならなかったのかもしれません。


 

 




References

 

Howold.co


https://www.howold.co/person/margo-guryan/biography 

 

 

1.時代と共に変遷する宅録(ベッドルームレコーディング)の様相 


既に、多くの音楽ファンがご存知の通り、近年ではヴォーカロイドを始め、DTMブームがここ日本でも到来。レコーディングスタジオではなく、自宅でデジタル・オーディオシステムを導入し、部屋をスタジオ代わりに録音からマスタリングまで完パケを行ってしまうミュージシャンが徐々に増えてきたような印象をうける。2000年代から一般家庭にもPCが普及したこともあって、レコーディングスタジオのブースにも全然引けを取らないようなプロフェッショナルな録音システムが自宅(ベッドルーム)で構築しやすい環境が整えられた。

Silver Apples en Barcelona, Sala Apolo La [2]


日本語では、”宅録”という用語が一般的には使用されるが、海外ではベッドルームレコーディングという用語がこれに当てはまるらしい。

2000年代以前は、一般的には、レコーディングスタジオのような専用ミキサー、録音機器、オーディオインターフェイスを自宅に導入しないかぎり、レコーディングを家ですることは容易ではなかった。例えば、MTRという8トラックのマルチトラックレコーダーを導入するか、もしくは、オーディオプレーヤーにマイクを接続し、ワントラックの仮歌を録音する手法くらいしか宅録を行う選択肢がなかった。二十一世紀までは、宅録といっても、普通のポップス・ロックの音楽を作曲するアマチュアミュージシャンは宅録を行う手段が選択肢としてかぎられていた。

しかし、近年では、デスクトップ上でソフトウェア、それから、PCのポートにオーディオインターフェイスとコンデンサーマイクを接続すれば、いとも簡単に、宅録、ホームレコーディングが出来るようになってしまった。この時代を流れを読んでいたのが、1990年代のレディオヘッドのトム・ヨークだった。彼は、すでに、2000年代のベッドルームレコーディングの流行を逸早く「OK Computer」というロック史の名作で告げしらせていた。また、この流れに続いて、続々と本来は、バンド形式のロック・ポップス、あるいは、少人数の形式で組み立てられる電子音楽を一人だけで完成させてしまうアーティストが、2000年代から2010年代にかけて台頭してくるようになった。

そのあたりの潮流がミュージックシーンとして明確な形になったのが、すでに取り上げた、ベッドルームポップという2000年代生まれの若いアーティスト、ミュージシャンたち。そして、これらのアーティストの楽曲の佇まいに伺えるのは、今や、この宅録というスタイルが2020年代の音楽のトレンドであり、以前のような印象をすっかり払拭して、宅録をすごく現代風のファッショナブルな行為に変えてしまったのである。



2.宅録の元祖アーティストは?


これについては、一概に、誰がこの宅録という形態を最初に始めたのかを定義づけるのは難しいように思える。オーバーグラウンド、つまり、有名なアーティストとしてはザ・ビートルズのポール・マッカートニーがいち早く自宅でのレコーディングシステムを導入して話題を呼んだ。その作品こそザ・ビートルズの解散後リリースされた「McCartney Ⅱ」だった。ザ・ビートルズの活動中から、様々なアート性の高い音楽、民族音楽、古典音楽、実験音楽、現代音楽に親しんできたポール・マッカートニーはこのソロ作において前衛性に舵を取り、感嘆すべきことに、#2「Temporary Secretary」では、クラフトヴェルクのような実験性の高い電子音楽のアプローチを導入しているのに驚く。


また、もうひとり、少し、意外にも思えるけれども、一般的にオーバーグラウンドでの宅録音楽の元祖と言われているのが、トッド・ラングレン。彼は、活動初期からホームレコーディングに慣れ親しんでおり、1974年に発表されたスタジオ・アルバム「Todd」では、ラングレンの自宅で録音が行われている、ベッドルームレコーディングを一番早く導入した画期的な作品である。


そして、サー・ポール・マッカートニー、トッド・ラングレン。この二人のアーティストが一般的には、最初のベッドルームレコーディングを行ったアーティストだと言われている。しかしながら、これはあくまでメジャーと契約するアーティスト、いわば、メインストリームにかぎっての話。インディーズシーンには、コアでマニアックな宅録を行うアーティストがこの1970年代前後に活動していた。



3.宅録ミュージシャンの元祖


Silver Apples 



アメリカではもうひとり、アラン・ヴェガというアメリカのインディーズシーンにおいて知らない人はいないロックアーティストが見いだされる。しかし、時代に先駆けて一番早くベッドルームレコーディングという音楽ジャンルを発明したのは、この「シルヴァー・アップルズ」というアメリカのシミオン・コックスとダニーテイラーの二人により結成された伝説的ユニットである。


特に、デビュー作「Silver Apples」のリリースは1968年、サー・マーカートニーやラングレンどころか、クラフトヴェルクよりも早く実験的なシンセ音楽を完成させているのは驚愕するよりほかない。自宅の一室に複雑な回線をなすアナログシンセサイザーを導入し、オシレーター等の信号を駆使している。


間違いなく、これは音楽上の発明のひとつだ。もちろん音楽性の完成度については現在の音楽に比するクオリティーは望むべくもない。しかし、ここで、シルヴァー・アップルズという音楽家、いや、音楽上の発明家がアナログ信号を使ってのシンセサイザーで組み立てているのは、現代で言うスーパーコンピュータの回路の複雑さにも比するもので、電子音楽の開発者のひとりとして挙げてもさしつかえないようにおもえる。


特に、シルヴァー・アップルズを生み出すシンセ音楽は、DTMの先駆けともいえ、アナログ信号というのがいかにデジタル信号と異なるのかを見出すヒントにもなるはず。アナログでの信号を介して音を出力すると、エフェクター等も同様、人為的なコントロールがきかないゆえに、音の揺らぎや自由性を楽しめる。デジタルの音量はある程度人の手で制御できるものの、アナログの音量はミニマルからマキシマムの単位まで無限大。一般的に、デジタル信号を通じて出力される音は冷たく、アナログ信号を通じて出力される音は温かみがあると言われている。


シルヴァー・アップルズの音楽性は、シンセサイザーの上に、ドラム、ヴォーカルを同期させるという革新的な手法を音楽史にもたらした。ドイツのクラフトヴェルク、ノイ!に比べると、それほど著名なアーティストではないようにおもえるが、それでも、シンセポップ、電子音楽のジャンルの発明家として歴史に残るべき偉大なミュージシャン、あるいはサウンド・プログラミングの最初の偉大な開発者である事には変わりない。



 

Suicide

 

ニューヨークのプロトパンクの立役者の一人、アラン・ヴェガ擁するツインユニット。スイサイド。この二人はドラマーがいないという欠点を、マーティン・レブのドラムマシーンの機械的なビート、そして、シンセサイザーのフレーズの新奇性により、その短所を長所に転じてみせた。このスイサイドは、1971年に結成され、イギーポップと共に、アメリカでの伝説的な「インディーズの帝王」とも称すべき存在である。スイサイドは、一度もメジャーレーベルと契約せぬまま、2016年のアラン・ヴェガの死去により、長い活動の幕を閉じた。


しかし、このスイサイドのデビュー作「Suicide」の鮮烈性は、未だ苛烈なものといえる。機械的で神経質なマシンビートのグルーブ、アラン・ヴェガのイギー・ポップにも比する狂気的なシャウト。彼等は、レディオ・ヘッドのOK Computerからおよそ二十数年前に、宅録のロックサウンドを実験的に取り入れようとしていた。もちろん、ステージ上で、ガラスをぶちまけたりといったスターリンの遠藤ミチロウも真っ青のステージングの過激性は、今やイギー・ポップとともに伝説化している。もちろん、ニューヨークシーンや世界のミュージックシーンへの後世の影響もさることながら、日本のパンクロックシーンのステージングにも大きな影響を及ぼしたものと思われる。


特に、ベッドルームレコーディングとしては、ファースト・アルバム「Suicide」1977の一曲目「Ghost Rider」二曲目の「Rocket USA」は必聴。無機質なマシンビートのカッコよさもさることながら、ここでの異様なテンションに彩られたアランヴェガのヴォーカルの変態性、この過激さというのは、後のどのロックバンドすらも足元にも及ばない。ここには、宅録の醍醐味ともいえる妖しげな雰囲気が漂いまくり、さらに、実にプリミティヴなニューヨークの1970年代の熱狂性を味わうことが出来る。もちろん、続いての「Cheree」もクラフトヴェルクの雰囲気に比する独特なテクノの元祖として聴き逃がせない名曲である。シンセサイザーひとつで、これほど多彩な音楽を生み出せると、未来の音楽への可能性をこの年代に示してみせたことはあまりにも大きな功績といえる。



 

Neu!

 

ドイツのデュッセルドルフは、1970年代、クラフト・ヴェルクを始め、今日の電子音楽の基礎を形作った数多くの実験性の高いバンド、グループが活躍した。ノイ!は、元クラフト・ヴェルクの雇われメンバー、クラウス・ディンガー 、ミヒャエル・ローターによって結成された西ドイツのユニットである。後世のミュージックシーンに与えた影響は計りしれないものがあり、セックス・ピストルズのジョニーロットンの歌唱法、音楽性、そしてレディオヘッドのトム・ヨークもこのノイ!を崇拝している。


ファースト・アルバム「Neu!」1972は、ニューヨークのシルヴァー・アップルズとともに世界で最も早く宅録サウンドを完成させてみせた記念碑的な作品。テクノ寄りの音楽性にロックサウンドを融合させてみせたという点では、シカゴ音響派のトータスに比する大きな功績を大衆音楽史に刻んでみせた。ここでの短い録音フレーズをループさせる手法というのは、当時としてはあまりに画期的であったように思え、楽曲自体の完成度も、クラフト・ヴェルクでの活動で鍛錬を積んでいたせいか、並外れて高い。


セカンド・アルバム「Neu! 2」1973では、テープの逆回転を活かしたより実験性の高いサウンドを追求し、今日のクラブミュージックで当たり前に行われている手法を導入したノイ!。三作目の「Neu! 75」1975では、アンビエントの先駆的なアプローチに挑み、「Seeland」「Leb' wohl」といった名曲を残している。


また、この三作目のスタジオ・アルバムの四曲目に収録されている「Hero」は、セックス・ピストルズの音楽性の元ネタとなっていることは音楽ファンの間では最早常識といえるはず。というか、実のところ、ジョニー・ロットンはこの歌い方を活動初期において、巧妙に、このノイ!をイミテートしてみせたに過ぎなかったのだ。クラフト・ヴェルクと共に、電子音楽とポップス/ロックを見事に融合させた西ドイツの伝説的ユニット。後世の音楽シーンやミュージシャンに与えた影響はあまりにも大きい。 

 

 

追記として、この1970年代のデュッセルドルフの電子音楽シーンのアーティストの楽曲を集めた

 

「ELECTRI_CITY「Elektronishe Musik aus Dusseldolf」

「ELECTRI_CITY2「Elektronishe Musik aus Dusseldolf」

 

という二作の豪華なコンピレーション・アルバムが発売されている。こちらもおすすめします。

 

 

Kraftwerk

 

既にテクノ、電子音楽グループとしては世界で最も知られている大御所、クラフトヴェルク。しかし、やはり、後世の宅録の見本となるような音楽性を形作ったと言う面では大きな功績をもたらした音楽のアートグループ。


デュッセルドルフの電子音楽シーンを牽引してきたのみならず、テクノ音楽の最初の立役者のグループとして語り継がれるべき存在。 後の電子音楽の礎を築き上げただけではなく、CANをはじめとするクラウト・ロックシーンの最重要アーティストとしても語られる場合もあり、Faustらとともに、インダストリアルというジャンルの源流を形作したと言う面では、ノイ!と別の側面で大きな革新を音楽シーンにもたらした。もちろん、グラミーの受賞、あるいは、ロックの殿堂入りを果たしているエレクトリックビートルズといわれる世界的な知名度を持つ芸術グループ。


特に、デビュー作の「Autobahn」は、現在でもテクノだけではなく、クラブミュージックに与えた影響はきわめて大きい。デビュー作「Autobahn」1974では、クラフトヴェルクの実験音楽の完成度の高さが目に見える形で現れている。


シンセサイザー音楽としての壮大なストーリー性を味わうことの出来る表題曲「Autobahn」は、22分後半にも及ぶ伝説的なエレクトリックシンフォニーといえる。現在、このオートバーンを車で走っていると、遠くにバイエルン・ミュンヘンの本拠地、アリアンツ・アレーナのドームが見えるらしい。


ここに、ドイツの電子音楽の後のシーンの礎が最初に組み立てられたといえるはず。さらに、未来性を感じさせるSFチックな雰囲気というのもたまらない。クラフトヴェルクのファースト・アルバム「Autobahn」は、やはりクラフトヴェルクの最良の名曲、電子音楽史だけではなく、ポップス史に残る感涙ものの名曲ばかり。




 


The Cleaners From Venus



そして、もうひとつ、時代は、1980−90年代とかなり後になってしまうけれども、イギリスに宅録のカセットテープ音楽をフォークロックとして体現させているのが、ザ・クリーナーズ・フロム・ヴィーナスである。


XTCの作品のプロデュース等も手掛けているマーティン・ニューウェルの宅録のロック・バンドだ。音楽流通の主流が、レコードからCD、そして、サブスクリプションと移ろい変わっていく間、常に、テープ形式で宅録のレコーディングを行ってきた気骨あるインディーロックミュージシャン。


特に、The Cleaners From Venusの音楽性は、近年の宅録アーティストのポップス性に近い雰囲気があり、知る人ぞ知るカルト的ミュージシャンではあるものの、ベッドルームポップの最初の体現者と見なしても違和感はないように思える。音楽性自体は、カセットテープの録音なのでチープな感じもあるけれども、むしろそのチープさが何となく通好みの雰囲気を醸し出している。


The Cleaners From Venusの音楽性としては、ザ・ビートルズの古き良き時代の英国のポップス・ロックを宅録のチープさで見事に彩ってみせたという印象。しかし、テープ音楽というデジタル性から遠ざかった粗がこのアーティストの音楽の雰囲気に現代とは異なるヴィンテージ感をもたらしている。


特に、スタジオ・アルバム「Number Thirteen」1990の「The Jangling Man」、「Living With Victoria Grey」1986に収録されている「Mercury Girl」は、宅録のインディーフォーク、インディーポップとして現代の音楽性を凌駕する雰囲気を漂わせた楽曲。こういった時代に、この古めかしい音楽を生み出していたのは驚き。


イギリスのオーバーグラウンドやインディーシーンの音楽の流行とは全然関係なく、宅録のテープ音楽を作り続けたことは素晴らしい功績。古典的な英国のポップスの伝統性、叙情性を引き継いだ素晴らしい宅録アーティストとして最後にご紹介しておきます。

 

 

 

 

今回は、宅録というアーティストの焦点を絞り、どのアーティストが先駆者なのかを探ってみました。もちろん、個人的な趣味を加味した上で選出したことを御理解下さい。また、クラフトヴェルクについては厳密にいえば、宅録アーティストではありません。けれども、後世の宅録やDTM世代に与えた影響が大きいため、ここで取り上げておきました。また、宅録とは別に、環境音楽、アンビエントのアーティストについてはあらためて別の機会に取り上げてみたいと思います。

 

Tシャツとロック音楽

 

 

 1.Tシャツの起源 

 

 

Tシャツの起源、発祥については諸説あるようだが、19世紀のヨーロッパにあると言われている。

 

第一次世界大戦中だというように書かれているサイトも散見されるけれども、これは少し見当違いである。少なくとも、シャツ生産専門企業として、ドイツのMerz .b.Schwanenが1911年に設立されているからである。

 

綿製のシャツ、いわゆるカットソーとしての生産で一般的に有名なのは、アメリカで、Hanes、Championといったブランド企業である。もしくは、フランスも古くから漁港の漁師が好んで着る襟ぐりの広い”バスクシャツ”を生産してきており、綿生産、及び綿工業の盛んな土地として挙げられる。しかし、服飾産業の歴史を語る中で、(個人的に知るかぎりで)と断っておきたいが、最も早くこの綿のシャツ生産を産業として確立させたのは、ドイツにあるシュヴァーベン地方だったように思われる。

 

この地方では、二十世紀以前まで主に農業が営まれていたらしいが、土地が痩せてきたために、弥縫策として綿織機を導入し、綿のシャツを生産するようになったという*1。 

 

その後、Peter Plotnichkiが1911年にシャツ生産の機械ラインを導入して企業として発足した。これは、現存する最も古いシャツ生産の企業ではないだろうかと推察される。

 

その後、第一次世界大戦中に、アメリカ軍がイギリスとフランスの兵士がTシャツを着ているのを見て、それを自軍の服飾の中に取り入れたという*2。 

 

肌触りがよく、風通しもよく、着やすくて、シンプルな見た目がかっこよく、そして、ピンきりではあるものの、薄い素材の割には、耐久性にもすぐれていることから、軍用の服装として取り入れられることになったのは自然な成り行きだったように思われる。

 

ただ、イタリア軍の綿シャツを一度着てみたことがあるが、これはちょっとという言う感じで、パサパサしているだけでなく、チクチクする粗目の素材で、かなり強烈な抵抗をおぼえる粗悪な質感である。おそらく、この時代、第一次世界大戦に取り入れられていたシャツというのも、これに似た類のものではなかったかろうかと思われる。

 

そして、第一次世界大戦後になると、アメリカでも、綿シャツの大量生産時代、つまり主要産業としての確立が始まったように思われる。この辺りに、ミリタリーウェアとしてのシャツの起源という意味で、第一次世界大戦中に発祥を求めるのなら、それは正解の範疇にあるといえるかもしれない。

 

 

2.誰がTシャツを流行させたか?

 

 

軍用の服装、いわゆるミリタリーウェアとしては普及しつつあったTシャツ。しかし、これが一般の人々のファッション中に取り入れられる時代は、第一次世界大戦から少し時を経なければならない。

 

どうも、第二次世界大戦中には、アメリカ国内では、兵士だけにとどまらず、一般の人たちにも普及していくようになったようだ*4。そして、このTシャツの大きな流行を後押しとなったのが50年代に入ってから、そして、それ相応のスターと呼ばれる世界的にも影響を持つあるムービースターが大々的な形で「これはカッコいいものだ!」と世間に宣伝したのだった。

 

このTシャツという存在を、世間にファッションとして流行らせた人物が、往年のムービースター、ジェームス・ディーンと言われている*3。 

 

 

 

 

ジェームス・ディーンが主演として演じてみせた「理由なき反抗」でのジャケットの内側に、インナーとして白いシンプルなカットソーつまりTシャツ姿、そしてデニム。

 

これが当時の人々の目にどのように映ったのか定かではないものの、カットソーにデニムというのは、現代にも通じる古典的でシンプルなファッションスタイルと言える。そのシンプルでありながら洗練された格好良さというのは、衝撃的なインパクトを一般の人たちに与えたのではないかと思われる。

 

これは、例えば、今でもブラットピット主演の「ファイトクラブ」のような時代負けしない普遍的なクールさを持つ作品といえるかもしれない。ディーンのジャケットの内側に、シンプルにカットソーをあわせ、そこにまた彼のトレードマークともいえるオールバックのヘアスタイル、これは現在の流行として引き継がれている古典的ファッションだ。

 

あまり映画フリークではないので、偉そうなことはいえなものの、そして、この作品「理由なき反抗」こそ、ディーンというムービースターの最も輝かしい生きた瞬間を写し撮った姿ではないかと思われる。そういえば、かつて明治期に映画製作を手掛けていた谷崎潤一郎は、映画俳優がスクリーンの中で永遠にその当時の最も美しい形で写り込んでいる。その瞬間に凝縮される不変の輝きこそ賞賛に足るものであるというようなニュアンスを作中において語っている。

 

同じように、ジェームス・ディーンがこの世を去っても、作品中の彼の輝きというのは不思議なくらい失われず、スクリーンの中で最も美しい時代の姿として刻印されている。これが、映画という媒体でしか味わえない醍醐味と思う。見てくれの悪そうなアウトローの雰囲気は、当時の一般の人の憧れとなったはず。また、ジェームス・ディーンは、二十代という若さで生涯を終えたという事実についても、彼のその後の映画での活躍を見られなかったという悔しさがある。27歳で死んだ伝説的なロックスターと同じように、映画愛好家にとどまらず一般の人たちにも、ディーンという存在に対し、一種の神格化めいた光輝を与え、そして、このTシャツの流行を普遍的なものにする要因となったかもしれない。

 

 

 3.ロックTシャツの誕生

 

 

一般的に、ロックTシャツが誕生したのは、ケルアックを始めとする文学のビート・ジェネレーションの世代の後と言われている。

 

カルフォルニアを中心に発展したこのビート運動は、文学の世界にとどまらず、ロック音楽の世界まで深い影響を及ぼした。特にUCLAの学生などは、このビートニクス作家を好んでいたと思われる。このビートニクスの元祖ともいえるのは、ヘルマン・ヘッセの「荒野のおおかみ」である。(この作品は、ステッペン・ウルフのバンド名のヒントにもなるが、内容は、内的な分裂性を題材にし、思索の世界の最深部に踏み込んでいった歴史的傑作である。サイケデリック文学の先駆けともいえる傑作の一つだ)

 

60年代後半になって登場したグレイトフル・デッド、バンドの取り巻きのファン、Deadheadsが音楽でのヒッピー・ムーブメントを牽引していった。 

 

 

Grateful Dead (1970).pngGrateful Dead Billboard, page 9, 5 December 1970 Public Domain, Link

 

 

グレイトフルデッドというバンドは、サイケデリック・ロックを一般的に普及させたロックバンドである。

 

すでにジャック・ケルアックの時代からはじまっていたビート運動を敏腕プロモーターとして後押ししたのが、ビル・グレアムという人物だった。

 

グレアムは、フィルモア・ウェスト、フィルモア・イースト、ウインターランドといった大掛かりなライブハウス経営に乗り出した人物で、米国でのライブハウス業の先駆者といえる。*5 アメリカの西海岸のカルフォルニアにとどまらず、東海岸のニューヨークのロック文化を活性化した敏腕プロモーター兼ライブハウス経営者である。

 

そして、ビル・グレアムが、60年代の終わりに、Tシャツアパレル製造会社を立ち上げ、初めてグレイトフル・デッドのロックTシャツの販売を開始した。*4 これが、つまりロックTシャツの元祖。

 

これがどれくらい売れたか、どれくらいの規模の広がりを見せたかは後の調査する必要がある。そして、少なくとも、このグレイトフル・デッドというロックバンドのTシャツのデザインには、サイケデリックアート界の巨匠、リック・グリフィンが絡んでいる。

 

ロックミュージックのアルバムアートワークという側面では、アンディ・ウォーホールばかり取りざたされる印象を受けるものの、リック・グリフィンは、ジミ・ヘンドリクス、グレイトフル・デッド、イーグルス、ジャクソン・ブラウンのアルバムジャケットを手掛けたアート界の巨匠である。

 

サイケデリックという概念を、全面的に突き出した、LSDによる幻覚作用をそのままに視覚的に刻印した感じのどきついデザイン性がリック・グリフィンの作品の特徴である。

 

昨今、グリフィンの再評価の機運が高まっているように思えてならない。ドクターマーチンのブーツに、グリフィンの手掛けたサイケデリックアートのモチーフをあしらった商品まで発売されていることから、ウォーホールほど有名でないものの、いまだ根強い人気があるアーティストである。つまり、グリフィンがこういったロックTシャツのデザインを手掛けたことも、ロックTシャツをさらに魅力的にし、アートとしての価値も高める要因となったように思われる。

 

また、このロックTシャツ生産販売というのは、音楽において、つまりレコードやライブパフォーマンスの収益とは別の産業の側面を生み出した。つまり、グッズ販売としての相乗効果も生み出されたというわけである。

 

現在、アニメーション等ではごくありふれた手法、作品における他のアーティストとのタイアップの概念というのは、リック・グリフィンの手掛けたロックTシャツのデザインが始原であったのではないだろうか?

 

 

4.バンドTシャツの普及

 

 

七十年代に入ってから、ロック、バンドTシャツの生産販売は一般的になっていったように思える。

 

ビートルズ、ローリング・ストーンズ、ジミ・ヘンドリックス、ザ・フーといった一般的なロックバンドのシャツも市場に出回るようになったのは、この70年代ではないかと推定される。それから、有名なロンドンパンク・ムーブメントにおいて、セックス・ピストルズを筆頭に魅力的なバンドTシャツの生産が数多く行われるように至ったというのが妥当な解釈なのかもしれない。

 

また、経済的な側面でもグッズ収入における金銭の流れというのは、グレイトフル・デッドの時代から比して、70,80,90年に差し掛かると、一大産業として確立されてもおかしくない額に上るようになったのではないだろうか。そして、バンドTシャツはサブカルという範疇にとどまるものの、一種の文化として確立されるに至った。カルチャーとしての拡がりはロックシーンにとどまらず、Run-DMCのようなヒップホップシーンにも波及していく。

 

八十年代に入り、レッド・ツェッペリンやブラック・サバスといったハードロック・バンドだけでなく、ヘヴィメタル・バンドのTシャツも出てくる。メタリカ、メガデス、アイアン・メイデン、ジューダス・プリーストというように、枚挙にいとまがない。実に名物的なバンドロゴやアルバムをモチーフにしたTシャツが大量に生産されるようになる。このあたりのロックバンドは、熱狂的なファンを一定数抱えており、現在もファンの総数は依然多いように思われる。

 

元来、ロンドンパンクスよりもどぎついキャラクターを持つバンドも多く、一般的な美学から見ると、悪魔的なバンドロゴ、アルバム・アートワークをバンドキャラクターとしているが、表面上の美という概念から離れた「醜悪美」のような概念を偏愛する人々は、一定数存在することは確かだろう。

 

 

Sonic Youth「Goo」
この70〜80年代のロックTシャツは、現在でも、よく古着屋で販売されており、ビンテージ品と呼ばれる。

これは、一部に熱狂的なコレクターがいるようだ。どうやら、中には、ウン十万!?という高値で取引される商品まであるというのだから驚くしかない。

 

 

現在、ロックTシャツとしては、ソニック・ユースのGoo、ヴェルヴェット・アンダークラウンドのデビュー作のアルバム・アートワークをあしらった商品が有名かと思われる。

 

終わりに

 

 

近年では、大掛かりなロックフェスにおいて、こういったアーティストのロゴ、アルバムアートワークにちなんだシャツというのが販売されるのはごくごく自然な事となった。

 

実は、これというのは、大まかな起源を辿てみれば、60年代後半に隆盛したヒッピー文化、グレイトフル・デッド、その取り巻きのデッドヘッズ、敏腕プロモーター、ビル・グラハムのもたらした考案の恩恵だった。

 

昨今、プロモーター、音楽、広告制作会社にとどまらず、インディーズ界隈のバンドにとっても、自分のバンドのロックTシャツをオリジナルに作製し、ライブ会場等で販売し、それをファンに購入してもらうというビジネル・スタイルは確立され、ロックバンド活動を維持する上できわめて重要な収入源となった。

 

また、アパレル業界の商品という側面から見ても、著名なロックバンドとデザイナーのタイアップ、コラボというのは、以前よりはるかに身近で接しやすいものとなったように思える。


 

参考


*1 OUTER LIMITS.CO  https://outerlimits.co.jp/pages/merz-b-schwanen

*2Rivaivals GALLERY.com http://revivalsgallery.com/?mode=f26

*3繊研新聞社 [今日はなんの日?] ジェームス・ディーンとTシャツと https://senken.co.jp/posts/rebelwithoutcause-tshirs

*4*5 Prisma creative products コラムNO.3 Tシャツと音楽の関係性について https://www.prismacreative.jp/columns/column03.html