【ドイツ/バロック音楽】 三十年戦争と小編成の音楽グループの流行がもたらした形式  カンタータとカノン 

・三十年戦争から生み出された新しいバロック音楽  カンタータとカノン


17世紀のドイツでは、アウグスブルクの和議の後、キリスト教新旧両派の諸侯の対立が激しく、ベーメンで生じた新教徒の反乱をきっかけに、全ドイツに広がり、西ヨーロッパの新教国、旧教国が介入し、三十年戦争が勃発した。この結果、ドイツは三分の二の人口を失った。このことは音楽の世界にも強い影響を及ぼした。


当時のドイツには、聖歌隊、市町村が雇う楽器奏者、町の楽師といった組合組織が存在したが、この戦争でいずれも縮小化を余儀なくされ、小規模の室内楽の形式が尊重されるに至った。音楽の出版も停滞し、手書きの楽譜に依存するよりほかなくなった。 ドイツの音楽は、各地域ごとに分立したが、これは地域ごとに独自の音楽が生み出される契機ともなったのである。

 

同時に、諸外国が三十年戦争に介入したことで、ドイツは外国文化の強い影響を受けることを余儀なくされた。これが音楽分野にも新しい活力を与え、イタリアやフランスの音楽が流入するようになった。 最初の音楽的な流入は、イタリアのオペラであり、これがドイツ語による歌劇シングシュピールを生み出す契機になった。


以降、およそ一世紀にわたって、ドイツは宗教音楽や世俗音楽を中心とする独自の音楽形式を構築しながら、イタリア音楽の影を追い続けた。それは当時のドイツが神聖ローマ帝国に属し、宗教的な関係と切り離せなかったことが要因にある。ドイツにとって、プロイセンのような独立国家が登場するまで、ローマが宗主国とも言える関係にあった。17世紀以降のほとんどの著名な作曲家は、ドイツの領内にある神聖ローマ帝国から出てきている。これは単なる偶然とは言いがたいものがある。

 

一般的に、ドイツ的な概念というものが存在し、それは、マイスター制度のように、職業的な分化が社会の枠組みに組み込まれ、そして、明確に社会における規律を尊重することである。おそらく、ドイツのクラシック音楽を聴く上で、規律や規則という要素を度外視することは難しいように思える。それはまた、ドイツ音楽が宗教音楽に端を発し、神なるものに仕える表現として音楽を位置づけていたことに拠る。これが規則的な音楽ーーダンスミュージックーーのようなイディオムに引き継がれていったのは自然な成り行きだったのである。そして、ドイツ・バロックの時代は、イタリアのオペラやフランスのマドリガーレのような優雅な音楽の影響こそあれ、ドイツ的な概念を醸成するための期間でもあった。それはまた、プロイセン以降の独立国家としての道筋を辿るドイツ国家の文化的な礎を組み上げるための時期でもあったのだ。

 

ドイツ音楽の父 ハインリヒ・シュッツ


最初にドイツ音楽として登場したのが、ハインリヒ・シュッツという作曲家である。この作曲家は、ドイツのバロック音楽が明確に宗教音楽に根ざし、グレゴリオ聖歌のような原初的な性質を受け継ぎ、歌詞をラテン語からドイツ語に組み替えた。グレゴリオ聖歌に依拠した曲が多く、独創性に乏しい部分もあるが、深遠な趣のある宗教曲を特徴とする。また、 他文化で発生した芸術形式を自国の内容に置き換えるというのは、どの国家の音楽も辿ってきた道筋であった。


ハインリヒ・シュッツは、イタリアの音楽を最初にドイツ国内に持ち込んだ人物でもある。二度にわたり、イタリアに留学し、モノディーや通奏低音の形式を、ドイツ音楽に組み込むことに成功した。さらに彼は、ドイツの教会音楽に協奏形式を追加した。これは協奏曲の先駆けでもある。シュッツには、「クリスマス・オラトリオ」、「ダヴィデ詩篇」などの代表作がある。

 

ドイツもフランスと同じ流れを辿り、イタリアのオペラを独自の形式に再構築する必要に駆られた。しかし、17世紀のドイツでは、ルター派がオペラのような華美な音楽を忌避したため、それに遠慮するような形で、宗教音楽をベースにした歌曲が隆盛をきわめる。ドイツのバロック音楽全般に通じる、厳格で荘厳なイメージは、結局のところ、音楽が神に仕える媒体としての機能を果たしたことによる。いくらか堅苦しいイメージは、やむを得ない側面もあったのだろう。

 

しかし、表面的な音楽が制限されたことに対して、その水面下にある音楽表現は驚くほど多彩になり、ドイツ音楽の新しい道筋を切り拓くことになった。 最初にドイツ音楽として出てきたのは「カンタータ」である。これらは宗教、及び、世俗に根ざした音楽とされ、オーケストラの演奏を交えて、歌曲が展開される。''宗教音楽的なオペラ''とも呼ぶべきものである。その後一世紀にわたり、JSバッハのような人物がその形式を発展させた。バッハは、ライプツィヒの教会音楽教師の時代からドレスデンの宮廷音楽家の時代まで、220曲ものカンタータを制作した。宗教的な性質を持つ曲から、農民やコーヒーを主題にした曲まで、幅広いカンタータを制作した。

 

カンタータは、以前の時代の宗教音楽のコラールの流れを汲み、プロテスタント音楽の賛美歌として発生したコラールを基本として、独唱や輪唱(カノン)形式を組み込んだアリア、そして、イタリア/オペラのモノローグのような形式を昇華したレスタティーヴォを交えた、構成的な音楽形式が出来上がった。これが最初のドイツ・バロック音楽の基礎を形成したと言えるだろう。

 

 

・オルガン音楽の隆盛

シュテファン大聖堂のパイプオルガン

宗教改革後のドイツのルター派の礼拝音楽は、礼拝のセクションごとの区切りや祈りの性質を高めるための演出音楽として機能した。そして、このことがオルガン音楽をドイツ国内に定着させる。


例えば、教会のパイプオルガンのような演奏を聴いて、私たちが壮大な感覚や厳粛なイメージを抱くのは、楽器自体が宗教音楽のために制作されたという深遠なルーツに思いを馳せるからである。オルガンは、絢爛な建築に組み込まれていて、教会組織の権威性を象徴付ける楽器でもある。こうした宗教音楽の流行の中で、多くの器楽演奏者や作曲家がドイツ国内に登場した。


そして、オランダ人のオルガニスト教育者であるスーヴェリンクの指導のもと、シャイトが活躍した。彼はイギリスのヴァージナル奏法を受け継ぎ、ドイツのオルガン音楽の基礎を築いた。以降、その流れを汲み、ブクステフーデは、教会で「夕べの音楽」というコンサートを開いた。これはドイツ国内の最初の公開コンサートと言われている。さらに、音楽的な形式としても以降のロマン派の出発点と言える趣旨でもある。これらの作曲家や演奏家らは、宗教音楽という厳格な作曲形式を踏襲しながらも、それぞれ異なる形のクリエイティビティを発揮していた。

 

ひとえにオルガン音楽とは言っても、北部と南部では異なる音楽が普及した。北ドイツでは、スーヴェリンクの教えをもとにした音楽、一方、南ドイツでは、イタリアのフレスコバルディの形式がフローベルガーを通じてもたらされた。これは以降の一世紀にも共通し、例えば、W・A・モーツァルトを中心とするドイツ南西部のマンハイム楽派は、イタリア的な優雅な響きがある。同国内でも、北部と南部では性質が異なり、別の雰囲気を持った音楽が流行したというのは非常に興味深い点ではないだろうか。これはひとえに、ドイツ国内の三十年戦争がもたらした一時的な地域の分立と、以後のプロイセン独立に向けた呼び水ともなっていたのである。私たちがドイツ・バロックに抱く、いかめしいイメージは、そのほんの一部分に過ぎないようだ。

 

 

・パッヘルベルのカノン  正典としてのクラシック音楽

パッヘルベル

南ドイツのオルガン学派を支えたパッヘルベルによる「カノン」は、クラシックに詳しくない人であっても、一度くらいは耳にしたことがあるのではないだろうか。正典とも言われるこの曲は、シンプルな構成で親しみやすい内容でありながら、以降のクラシック音楽の基本的な要素が凝縮されている。 


グラウンドベース、オスティナート、カノン(輪唱)という、最初の旋律の流れを別の楽器が追いかける追走形式は、フーガの前身となるドイツ独自の最初の音楽が登場した瞬間とも言えるだろう。同じフレーズが繰り返されるグラウンドベースという枠組みの中で、異なる旋律の流れが始まり、それらの旋律を別の楽器が追うようにして曲が流れていく。この曲に感じられる規律的な響き、それに劣らぬ優雅な響きは、今なお多くのファンに親しまれる要因でもある。

 

この楽曲にまつわる話はいくつかあり、当初、パッヘルベルは、JSバッハの長兄であるヨハン・クリストフ・バッハのために曲を書いたといわれ、彼の結婚式で演奏されたと指摘する学者もいる。正確な年代こそ不明であるが、1680年頃から1690年頃に制作されたと言われている。1700年頃に、パリの音楽出版社Le Clercが出版し、それ以前にも原稿のコピーが現存している。 

 

しかし、20世紀に入るまで、パッヘルベルのカノンはバッハの楽曲のように時代に埋もれていた。最初に再発見したのがドイツの音楽学者マックス・シーファートだ。1929年に、彼は楽譜をカノンとジーグの双方で出版した。また、1938年になると、パッヘルベルのカノンは、バイオリニストのヘルマン・ディーナーと彼の所属する音楽院によって最初のレコーディングがなされた。


その後、20世紀後半にかけて、カノンそのものの再評価の機運が高まった。1970年代以降、アメリカやドイツの楽団を中心に、カノンを取り上げる楽団が増加した。特に、フランス人指揮者のジャン=フランソワ・バイヤール氏が、カノンを率先して紹介した。彼は日本でも積極的に公演を行い、カノンをアジアに普及させた。1990年代の日本のポップ/ロックソングにも影響を及ぼし、カノン形式が組み込まれることがあった。パッヘルベルの楽曲は、驚くべきことに、最初に制作されてから300年を経て、文字通り”クラシック”となったのである。 

 

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