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John Adams


ジョン・クーリッジ・アダムス(John Coolidge Adams)は1947年生まれの米国の現代音楽家。1971年にハーバード大学でレオン・キルヒナーに学んだ後、カルフォルニアに移り、サンフランシスコ音楽院で教鞭と指揮者として活躍、以後、サンフランシスコ交響楽団の現代音楽部門の音楽顧問に就任する。1979年から1985年まで楽団の常勤作曲家に選出される。

 

その間、アダムスは『Harmonium(ハーモニウム)』、『Harmonielehre(和声学)』を始めとする代表的なスコアを残し、作曲家として有名になる。以後、ニュー・アルビオン、ECMといったレーベルに録音を提供し、ノンサッチ・レコードと契約する。1999年には『John Adams Ear Box』を発売した。


ジョン・アダムスの作風はミリマリストに位置づけられる。当初は、グラスやライヒ、ライリーの系譜に属すると見なされていたが、コンポジションの構成の中にオリヴィエ・メシアンやラヴェルに象徴される色彩的な和声法を取り入れることで知られる。


その作風は、新ロマン主義に属するという見方もあり、また、ミニマルの未来派であるポストミニマルに属するという解釈もある。彼の作風では調性が重視されることが多く、ジャズからの影響も指摘されている。

 

管弦楽『Fearful Symmetries」ではストラヴィンスキー、オネゲル、ビックバンドのスウィングの技法が取り入れられている。また、ライヒのようなコラージュの手法が採られることもある。

 

チャールズ・アイヴズに捧げられた『My Father Knew Charles Ives』でもコラージュの手法を選んでいる。1985年の歌劇『Nixon In China(中国のニクソン)』の晩餐会の場面を管弦楽にアレンジした『The Chairman Dances(ザ・チェアマン・ダンス)」は管弦楽の中では再演される機会が多い。

 

ジョン・アダムスの作曲家としての主な功績としては、2002年のアメリカ同時多発テロを題材に選んだ『On The Transmission of Souls』が名高い。この作品でアダムスはピリッツァー賞を受賞した。ロリン・マゼール指揮による初演は2005年度のグラミー賞の3部門を獲得した。



Phrygian Gates / China Gates  (1977)

 


 

ジョン・アダムスのピアノ・スコアの中で特異なイデアが取り入れられている作品がある。『Phyrygian Gate and China Gates』であり、二台のためのピアノ協奏曲で、マック・マクレイの委託作品で、サラ・ケイヒルのために書かれた。

 

この曲は1977年3月17日に、サンフランシスコのヘルマン・ホールで、ピアニスト、マック・マクレイにより初演された。和声法的にはラヴェル、メシアンの近代フランス和声の系譜に属している。

 

この2曲には画期的な作曲概念が取り入れられている。「Gates- 門」は、なんの予告もなしにモードが切り替わることを意味している。つまり、現実の中に別次元への門が開かれ、それがミルフィール構造のように移り変わっていく。


コンポジションの中に反復構造の意図が込められているのは事実だが、音階構造の移行がゼクエンツ進行の形を介して段階的に変化していく点に、この組曲の一番の面白さが求められる。つまり、ライリー、ライヒの作品とは少し異なり、ドイツのハンス・オッテ(Hans Otte)のポスト・ミニマルの系譜にあるコンポジションと言える。さて、ジョン・アダムスは、このピアノの組曲に関してどのように考えているのだろうか。


 



 

「Phrygian Gates(フリギアの門)」とその小さなコンパニオン作品である「China Gates(中国の門)」は作曲家としての私のキャリアの中で重要な時期の産物でした。

 

この作品は、1977−78年に新しい言語での最初の一貫した生命として登場したという事実のおかげで、私の「Opus One」となる可能性を秘めている。1970年代のいくつかの作品、アメリカンスタンダード、グラウンディング、いくつかのテープによる作曲は振り返ってみると独創的であるように見えますが、まだ自分自身の考えをまとめる手段を探している最中でした。


「Phrygian Gates」 はミニマリストの手段の強い影響を示していて、それは確かに反復的な構造の基づいています。しかし、アメリカのミニマリストにとどまらず、ハワード・スケンプトン、クリストファー・ホッブズ、ジョン・ホワイトのようにあまり知られていない英語圏の実践者は、この作品を制作する上で私の念頭に置かれていた。


1970年代はそもそも、ポスト・シェーンベルクの美学の過程がセリエリズムの原則にそれほど希望を見出さない作曲家によって新しい挑戦が始まった時代でした。これはまた、言い換えれば、新しい音楽における巨大なイデオロギーとの対立の時代だったのです。私はその頃、ジョン・ケージの方法に同様に暗い未来を見出していたが、それは合理主義と形式主義の原則に立脚しすぎているように私には思えたのです。


例えば、『易経』を参考にして作曲法を決定することは、『トーン・ロー』を参照して作曲することとそれほど違いがあるとは思えなかった。ミニマリズムというのは、確かに縮小された、ときには素朴なスタイルなのですが、私にこの束縛から抜け出す道を与えてくれたのです。調性、脈動、大きな建築構造の組み合わせは、当時の私にとって非常に有望であるように思えたのです。 

 

 

 「Phrygian Gates」

 


『Phrygian Gates』は、私がミニマリズムのこうした可能性にどのようにアプローチしたかを明確な形で示している。

 

また、逆説的ではあるが、私が当初からこのスタイルに内在する単純さを複雑化し、豊かにする方法を模索していたという事実も明らかにしている。よく言われる、”ミニマリズムに飽きたミニマリスト”という言葉は、別の作家が言ったものだが、あながち的外れではないでしょう。


『Phrygian Gates』は、調のサイクルの半分を22分かけて巡るもので、「平均律クラヴィーア曲集」のように段階的に転調するのではなく、5度の輪で転調していく。


リディアンモードとフリジアンモード(注: 2つとも教会旋法の方式)の矩形波が変調する構造になっている。曲が進むにつれて、リディアンに費やされる時間は徐々に短くなり、フリギアに費やされる時間は長くなる。

 

そのため、一番最初のAのリディアンの部分は曲の中で最も長く、その後、Aのフリジアンの非常に短いパッセージが続く。次のペア(Eのリディアンとフリジアン)では、リディアンの部分が少し短くなり、フリジアンの部分がそれに比例して長くなる。そして、コーダが続き、モードが次々と急速に混ざり合う。「ゲート」とは、エレクトロニクスから借用した用語で、モードが突然、何の前触れもなく変化する瞬間である。この音楽には「モード」はあるが、「変調」はない。


私にとって『Phrygian Gates』がいまだに興味深い理由を挙げるとするなら、その形状の地形と、波紋を思わせる鍵盤のアイデアの多様さである。

 

波が滑らかで静かなときもあれば、波が押し寄せてフィギュレーションが刺さるような場合もある。ほとんどの場合、それぞれの手を波のように動かし、もう一方の手と連続的に調和するパターンとフィギュレーションを生み出すように扱う。これらの波は、常に短い「ピング音」によって明瞭に表現され、小さな道しるべとなり、内部の小さな単位をおよそ「3-3-2-4」の比率で示す。


『Phrygian Gates』は一種の巨大構造であり、相当な肉体的持久力と、長い音のアーチを持続する能力を持ったピアニストが必要とされます。一方、『China Gates』は若いピアニストのために書かれたものです。演奏者のヴィルトゥオーゾ的な技術的効果に頼ることなく、同じ原理を利用している。

 

この曲もまた、2つのモーダルな(様式的な)世界の間を揺れ動くが、それは極めて繊細に行われている。この曲は、暗さ、明るさ、そしてその間に内在する影の細部に真摯に注意を払うことを求めるような曲であると私には感じられる。-John  Adams


「China Gates」

 


 

J.S.バッハによる「Goldberg-Variationen(ゴールドベルク練習曲集) BMV988」は19世紀以降、「ゴールドベルク変奏曲」という名で親しまれている。

 

ピアノの演奏では、古くはグレン・グールド、現在はアンドラーシュ・シフ、オラフソン等の録音が有名だが、2000年以降、複数の音楽家が、チェンバロ(ハープシコード)の演奏により、スコアの従来とは異なる魅力を引き出そうと試みている。

 

これはベートーベンの時代のフォルテ・ピアノの楽器も用い、その時代の音楽を再現させようという試みである。ハンマー・クラヴィーアとは異なり、18世紀の宮廷で響いた音楽とはかくなるものではなかっただろうか、というような歴史的な考察を交えながら、音楽を楽しむという趣が込められているのではないだろうか。時代検証や古い時代に対するロマンを音楽的な感性によって駆り立てようという試みは、もっと高く評価されてしかるべきではないだろうか。

 

では、このJ.S.バッハによるゴールドベルク練習曲集は、どのような経緯で作曲されたものだったのか。ウイーン原典版にはこうある。


ーーその愛好家の心の慰みのため、ポーランド国王兼ザクセン選帝侯の宮廷作曲家、楽長、ならびにライプツィヒ 音楽隊監督、ヨハン・セバスティアン・バッハが作曲した。ニュルンベルクのバルタザール・シュミートにより刊行ーー


この音楽は癒やしのために宮廷の王侯に捧げられた楽曲集らしいということがわかる。

 

 ゴールドベルクの楽譜彫版は、発行責任者であるシュミートが自ら行った。バッハはこれに先駆け、自費出版をしている。このことから、第四部を出版者に委任した際に、番号付けを断念したことが伺える。

 

初版の発行には、出版年が明記されず、この時代の楽譜出版では一般的であった出版番号(彫版番号とも)も記されていない。

 

つまり、ゴールドベルクの成立した年代は不明であるが、1つだけ手がかりがあり、表題のページの上にある「16番」という数字が明記されているため、1741年よりも前に作曲されたという可能性は少ないというのが一般的な説となっている。通説では、1740年にこの「ゴールドベルク練習曲集」が書かれたことが確実視されている。

 

バッハ研究の第一人者として有名で、伝記も出版しているヨハン・ニコラウス・フォルケルは、このスコアはバッハの年上の息子の申し立てに基づき、変奏曲がドレスデン宮廷のロシア大使であった帝国伯ヘルマン・カール・フォン・カイザーリンクの委嘱により、そのお屋敷のお抱えのチェンバロ奏者ヨハン・ゴートリープ・ゴールドベルクのために書かれたと記している。

 

ーーあるとき、伯爵はバッハに穏やかでいくらか快活な性格を持ち、眠れぬ夜に気分が晴れるようなクラヴィーア曲をお抱えのゴールドベルクのために書いてほしいと申し出た。変奏曲というものは、基本的に和声的な変化を付け加えることが少ないので、バッハ自身はやりがいのない仕事であると考えていたが、伯爵の希望を満たすためには変奏曲が最も望ましいと考えた。そしてバッハは完成品の報酬として、ルイ金貨が100枚詰められた金杯を受け取った。ーー

 

しかしながらこの一般的な通説に関しては疑問視されている箇所もある。まず、貴族からの委嘱作品には正式の献呈の辞をつけることが習慣付けられていたが、これが記されていないという点。そしてバッハがチェンバロ奏者ゴールドベルクのために書いた可能性が限りなく低いのではないかという指摘もある。つまり、1737年頃からバッハの弟子だったゴールドベルクは、この作品が作曲された年に12-13歳だったからである。さらに、ゴールドベルク変奏曲に先立って出版された『クラヴィーア練習曲集』の最初の三部のシリーズとなっており、それらの作品群には委嘱者が記されていない。


上記の点から、これらが委嘱作品と見なすには疑問点がいくつも発見出来る。しかしながら、それと同時に、ヨハン・フォルケルの報告が史実の核心に基づいて行われていることも事実である。1741年の11月、バッハは、ドレスデンのカイザーリンク邸に滞在し、そのときにかれは伯爵に手書きの献呈の辞を添え、その伯爵邸にて、このスコアを直接贈ったか、もしくは献呈をする約束をしたという可能性が浮かび上がってくるわけである。


ヴァイマール時代のオルガンのためのコーラス変奏曲以来、バッハは変奏曲を書くことに興味を示したことはほとんどなかったという。1740年代に対位法的な晩年の作風の時期に至ると、バッハはようやく、この変奏曲という作曲形式に興味をいだきはじめた。そしてこのゴールドベルク練習曲の多楽章を連ねた形式を、彼の卓越したコンポジションの手腕により、首尾一貫したツィクルスに高めようとしたというのが、この楽曲集のウイーン原典版の説明である。

 

このスコアの再演に関しては、ピアノによる演奏が有名だが、その他にもチェンバロ(ハープシコード)による再演を試みる演奏家もいる。

 

特に、傑出した再演をリリースしているのが、アメリカのチェンバロ演奏家であるロバート・スティーブン・ヒル(Robert Hill)、そして、ベルギーの演奏家であるフレデリック・ハース(Fredrick Haas)が挙げられる。前者は、チェンバロのライブ録音により、ダイナミックな音響性を重視したアルバム『Bach: Goldberg Variations』を2011年にリリースしている。

 

後者のフレデリック・ハースは、「Clavin Henri Hemsch 1751」というフランスの18世紀に制作されたアンティークのハープシコードで落ち着いた演奏をレコーディングで披露している。

 

双方ともに、ハープシコードの制作の年代に違いがあるため、演奏される楽器の調音が異なる。少なくとも、ピアノとは一味違うゴールドベルク変奏曲のパフォーマンスを楽しめる。前述したように、フォルテ・ピアノよりも拡張高い響きには洗練性と気品が漂い、崇高な音響性が生み出されている。

 

 

 

Robert Hill  『Bach: Goldberg Variations』 /   Music and Arts Program of America 2011



 

1993年5月18日にフライブルク、カウフハザールでロバート・ヒルのライブ録音。・アルバムにはライブ録音が持つ緊張感、それに負けぬ卓越したヒルの演奏、それに加え、その場に居合わせた観客の拍手も収録されている。アートワークのはフェルメールの絵画「音楽のレッスン」。

 

ハープシコードのきらびやかな音の響きを堪能出来、演奏の間にはチューニングピンや響板が軋む音が、演奏者の息遣いとともに精妙な音が録音されている。ゴールドベルクはそもそも、大作であるため、聞くのに根気を必要とするのは事実であるが、ロバート・ヒルの卓越した演奏力はそれらの間を超越し、緩急に富んだゴールドベルクの物語性を喚起させ、最後の「アリア」に至る時、またそれらのすべての音が鳴り止んだ時、観客の歓声とともに感動的な瞬間を呼び起こす。ハープシコードの演奏のゴールドベルク変奏曲のライブの決定版に位置づけられる。

 

 

 


 



 

Fredrick Haas 『Bach:  Goldberg Variations BMV 988」/ La Dolce Volta 2010




ベルギーの演奏家、フレデリック・ハースは、チェンバロやフォルテピアノのソリストとして、オーソニア・アンサンブルのリーダーとして活躍している。1997年よりブリュッセル王立音楽院チェンバロ科教授。ドイツ、イギリス、ベルギー、フランスで定期的にマスタークラスを開催している。

 

1751年製のアンリ・ヘムシュ製チェンバロを所有し、この楽器をゴールベルク変奏曲の演奏で使用している。一般的なハープシコードと調音が異なり、比較的落ち着いたゴールドベルクの贅沢な響きを追求している。

 

 


 

ーグルジエフの人生と考え

 

 

グルジェフは、コーカサス地方のアルメニア出身の神秘思想家で、20世紀最大のオカルティストとして知られている。神秘思想家としては、一般的にヘルメス主義の影響を受けているといわれ、イスラム神秘主義の「スーフィズム」の影響下にあるという説もある。彼はオカルティストとして絶大な影響力を誇った。

 

グルジェフは、ギリシャ系の父とあるルーマニア系の母のもとに生まれた。青年時代のグルジエフは、医師と牧師になるという夢を抱えていたが、その医術は、現代的に解釈すると、神秘主義的な治癒の方法に焦点が置かれていた。以後、彼は古文献を渉猟し、神秘主義者としての道のりを歩み始めた。彼の行動の手始めとなったのが、コーカサス地方をはじめとする放浪の旅である。


グルジエフは、アナトリア、エジプト、バビロニア、トルキスタン、チベット、コビ、北シベリア、東欧から小アジア、アラビアをくまなく歩いた。彼の探究心は、最終的に古代文明に行き着き、複数の秘技的な宗教集団と接触する。そのなかには、イスラム、キリストの神秘主義派、チベット密教、シベリアのシャーマニズムなど、多岐にわたるレリジョンが含まれている。

 

グルジェフは、複数の地域で秘技的な文化に接するが、最も強い触発を受けたのが、西アジアの北ヒマラヤにある「オルマン僧院」と言われている。ここにグルジェフは数ヶ月滞在し、イスラム神秘主義のひとつとされる「スーフィズム」を通じて、「大いなる知恵」を掴んだとされる。

 

しかし、グルジェフは意外にも、最初に実業家として名を揚げた。 20世紀初頭、チベットから戻った彼は、中央アジアのタシュケントで事業をはじめ、それを拡大させ、いつの間にか大金を手にしていた。彼が第一次世界大戦直前の社会的に混迷を極めていたロシアに姿を現した時、すでに彼は100万ルーブルもの資金を手にしていた。


この時代、彼は、実業家としての並々ならぬ才覚を発揮し、鉄道、道路のインフラ、レストラン、マーケット、映画館の経営に携わり、驚くべき大金をその手中に収めた。1ルーブルを現在の円のレートで換算すると、グルジエフは1,5億円以上もの収益を上げたということになる。 金銭価値は市場の相対的な評価に過ぎないので、現在ではさらに多額の価値があると推測される。

 

以降、ヨーロッパの貴族社会の人々や名士と交流を交わし、名声を獲得していったといわれている。そのなかで、新約聖書のなかで使徒が語ったように、ナザレのイエスがなした奇跡的な治療を施し、これがのちに、20世紀最大の神秘思想家として知られる要因になったと推測される。

 

グルジェフは、神秘主義の教団の首領として弟子たちをワークというかたちで先導するかたわら、アラビア、イスラム、スラブの民族音楽に触発された音楽家/舞踏家として芸術的に優れた才覚を発揮し、数年間で複数のスコアを遺している。なぜ、体系的な音楽教育を受けていないグルジェフが、音楽や舞踏という分野に活路を見出したのかは不明だが、これは秘技的な教団を率いる以前の放浪の時代に、音楽的な源泉が求められるのは明白だろう。彼は、それらをアカデミーで学ぶのではなく、生きた体験として学んだことは想像に難くない。グルジェフの音楽には、ヨーロッパ、南米、南アジアとも異なるエキゾチックな響きがある。その楽曲の演奏時には、Santur、Tmbuk、Duduk、Pkuなど、アラビア、イスラム圏の固有の楽器が複数使用される。

 

そして、グルジェフがアナトリア、エジプト、バビロニア、トルキスタン、チベット、コビ、北シベリア、東欧から小アジア、アラビアといった若い時代に旅をした地域のエキゾチズムが彼の音楽の根幹を成すことは、実際の音源を聴けば痛感できる。

 

彼の神秘主義の教えの中には、現代社会に通じる真実性が含まれていることがわかる。グルジェフは、「人類全体が目覚めておらず、眠ったままの隷属的存在」であるとし、そこから開放されることの重要性を訴えた。それを単なる神秘思想やオカルトと結びつけることは簡単だが、現代的な視点から見ると、スピリチュアリティに基づく思想だけを最重要視すべきではないように思える。

 

グルジェフは生前、弟子に対して、人類がなぜ戦争を幾度も繰り返すのかについて、そして戦争がなくならない理由について次のようなことを語っている。彼が話すのは1世紀前のことだが、しかし、2020年代の東欧やイスラエルで起きていることに深い関連性を見出すことができる。


ーー戦争を嫌う人々は、ほとんど世界が創造された当初からそうしようと努めてきたと思う。それでも、現在やっているような大きい規模の戦争は一度もなかった。戦争は減るどころか、時代とともに増えていて、しかもそれは普通の手段では止めることが出来ない。世界平和や平和会議に関する議論も、単に怠惰の結果であり、どころか欺瞞に過ぎない。 人間は、自分自身について考えるのも嫌でたまらず、いかにして他人に望むことをやらせることばかり考えている。

 

ーーもし、戦争をやめさせたいと考える人々の十分な数が集まれば、彼らはまず彼らに反対する人々に戦争を仕掛けることから始めるだろう。そして、彼らはそういうふうに戦うだろう。人間は今あるようにしかなれず、別様であることは出来ない。

 

ーー戦争には我々の知らない多くの原因が潜んでいる。 ある原因はひとりの人間の内側にあり、また別のものはその外側にある。そして戦争を止めるためには人間の内側から手をつけなければいけない。環境の奴隷であるかぎり、巨大な宇宙のちからという外的な影響をいかにして免れることができるのか? 人間はそもそも、まわりの外的な環境に操られているだけだ。もし、それらの物事から自由になれれば、そのときこそ人間は本来の意味で自由な状態になることができる。

 

ーー自由、開放、これがまず人間の生きる目的でなければならない。自由になること、隷属の状態から開放されること、これこそ人々が獲得すべき目標となるだろう。内面的にも外面的にも、奴隷状態にとどまるかぎり、その人は何者にもなることもできず、また、何もすることができない。内面的に奴隷であるかぎり、外面的にも奴隷状態から抜け出すことはできない。だから自由になるためには、人間の内的自由を獲得しないといけない。

 

ーー人間の内的な奴隷状態の第一の要因となるのは、その人自身の無知、なかんずく自分自身に対する無知である。自分自身を知らずして、みずからの内側にある機械的な動きとその機能を理解せずには、人間は本当の意味で自由になることも、自分自身を制御することもできない。それは単なる奴隷に過ぎないか、あるいは、外的な環境の翻弄される遊び道具にとどまるだろう。ーー  グルジェフ

 


 ーーグルジエフの音楽観 客観的な音楽と主観的な音楽の定義 東洋の発見

 


客観的な芸術と考えられるものに対する一般的な反応について語るのは難しい。それは、私たち誰もが経験したことのある普通の連想プロセスを超越しているように見える。私たちが知っている多くの音楽では、少なくともある文化圏の一般的な経験の範囲内では、特定の音の進行や質、それらの組み合わせや時間的な間隔が、他の人と共通する特定の感覚や感情を聴き手に呼び起こす。


この現象は、一見不可解であると同時に否定できない。この現象は、聴き手の中で活性化される共鳴から生じるに違いなく、さらに、音と記憶との関連性が曖昧だったり不明だったりしても、過去の経験との連想を引き起こすことが可能なのだ。全般的な芸術において、この振動(ヴァイヴ)の力は、その過程と結果を部分的にしか知らないまま使われている。アーティストの主観的な意識によって制限され、アーティストが発信するものは、同じように「主観的な反応」しか生み出せない。


従って、主観による表現の結果は偶然のものに過ぎず、「受け手によって正反対の効果をもたらすこともありうる」というのがグルジェフの主張である。「無意識的な創造的芸術は存在しえない」とまで彼は主張している。


逆に、客観的な音楽は、振動の法則を決定する数学、ピタゴラス派の標榜する黄金比による正確無比で完全な知に基づいており、それゆえ聴く人に特定の予測可能な結果をもたらす。グルジェフは、無宗教の人が修道院にやって来た時の例を挙げている。そこで歌われ演奏される音楽を聴いて、その人は宗教性をもたないにもかかわらず、なぜか「敬虔な祈り」を音楽の流れのなかに感じとることがある。この例では、人間を高い内的状態に導く能力が、「客観的な芸術の特性のひとつ」として定義付けられる。その効果は、人によって程度が異なるだけである。


音楽の持つ客観的な力学について、グルジェフは『ベルゼバブ物語』の中でもう一つの例を挙げている。彼は、特別なシステムに従って調律された普通のグランドピアノで、ある一連の音を繰り返し叩く驚くべき老練なダービッシュについて述べている。


ーーこれらの音はすぐに、聴衆の一人の足に、師匠が予言したとおりの場所にできものを生じさせる。その直後、別の音符の連打でその腫れ物はすぐさま消える。エリコの城壁が破壊されたという伝説は、単に奇跡的な出来事の想像上の物語ではない可能性を考えることはできないだろうか? もしかしたら、ヨシュアは音の振動の特異な性質と効力を知悉していたのかもしれないーー


このように、グルジェフの考えでは、心地よい楽音を楽しむだけでは、いかに深刻で高尚なものであろうと、科学として、芸術として、高次の知識として、そして、人間の成長と進化のために必要な糧としての音楽の究極的な理想には、少しも近づいていないことは明らかなのである。


グルジェフが、真理の体現という本来の神聖な目的を果たす芸術を発見したのは、主にアジアだった。東洋の古代芸術を彼は台本のようにすらすら読むことができた。それは好き嫌いのためではなく、「より深く理解するため」と彼は言った。


しかし、平均的なヨーロッパ人にとっては、ある程度の音楽的教養があっても、東洋音楽はエキゾチックであるが、最後には単調で理解しがたいものに思える。ベートーヴェンの交響曲やシューベルトのリート、あるいは単純な民謡の「内容」を受け取ることができるように思えるのと同じように、私たちはこの音楽のほとんどが「何について」書かれているのか理解できないのだ。


グルジェフは、オクターブ構造は普遍的であるが、東洋の音楽では、西洋人にとって奇妙な方法で分割されている可能性があることを想起させる。基音とオクターブとの間には、4つという少ない分割もあれば、48という多い分割もある。西洋的な考えでは、私たちの知覚は7音のダイアトニックスケールや、ピアノの鍵盤のように等距離にある12音の半音階構造によって制限される。


東洋の音楽は、微分音的な配置によって、私たちの「制限された音階」では到達しえない、かけ離れた感情を呼び起こすことができる、と言われている。にもかかわらず、私たちのほとんどは、それらが調律されていないような音楽というかたちでしか聴くことが出来ない。私達は、アジア人であっても、常日頃から西欧的な音楽の中で生き、それが一般的な概念であると捉えている。


他方、特別な感受性と開放性を持つヨーロッパ人が、東洋音楽のなかに熟考すべき深遠な何かが存在することを肯定しえる何かを発見する可能性が高いことは、紛れもない事実だろう。チベットの僧侶の深い三和音の詠唱、スーフィーのジークルの小声のクレッシェンド、日本の能楽の伴奏の滑舌のよい声音など、これらはすべて、感覚的な印象のみならず、未知なる感情を呼び起こす音楽形式に他ならない。当初の反応はしばらく新奇な感覚として後に残るかもしれない。それでも未だ疑問点は残る。ドミナントからトニックへの進行を追うように、知性により音楽の「構文」を追うことができなければ、その音楽は主観的に完全に受け入れられたのだろうか?


音楽を聴く行為というのは、聴覚により何かを把捉しているように見えて「他言語の構文」を追っているに過ぎない。そして、その語法が一般的なものと乖離するほど、その言語はより難解になり、一般的には受け入れ難いものとなる。

 

してみれば、各地域の文化の壁が、各々の音楽的な語法や言語的な特性を有するがゆえ、純粋な芸術という形で高次の知識を伝えることを阻害していると定義付けられる。しかし、もしかしたら、この真実を追求することが可能な道筋がどこかにみつかるかもしれない。グルジェフの客観的芸術の定義に近づけるような音楽的な事例を、西洋の遺産や伝統から探すのはどうだろう。アンブロジオ聖歌やグレゴリオ聖歌の純粋さと正確さについて思いを馳せるのはどうだろう?


あるいは、ノートルダム派の謎めいたオルガヌムや、15世紀のフランドルの巨匠、ヤコブ・オブレヒトが作曲した、「3」という数の順列を表現した数秘的な声楽ミサに注目すべきかもしれない。J.S.バッハが静謐で瞑想的な殻の中で対位法の難解な謎を探求したライプツィヒの合唱前奏曲や平均律のフーガの芸術を考えてみることはできないだろうか。あるいは、モーツァルトの五重奏曲の、シルクのように滑らかで欺瞞に満ちた表面の下に、音、音程、リズムの組み合わせが、言葉では説明できないような感情を人間の心に呼び起こす秘密が隠されているのではないだろうか?


これらの全般的な疑問は、芸術に関するグルジェフの考えを肯定し、彼自身が作曲した音楽と関連づけようとするとき、特に大きな意味を持つようになる。もちろん、グルジェフの音楽の目的そのものや、それが創作された状況さえも、音楽の捉え方に大きな影響を与える可能性があるということがわかる。



ーーロシアの作曲家、トーマス・デ・ハルトマンとの関わり



グルジェフとロシアの作曲家トーマス・デ・ハルトマンとの関わりはよく知られている。若いデ・ハルトマンは、精神的な教えを求めて1916年にグルジェフのもとを訪れ、彼の弟子となった。グルジェフは訓練された作曲家ではなかったため、デ・ハルトマンもグルジェフの音楽的思考を表現する理想的な補助役となった。


彼はまず、グルジェフの教えの不可欠な部分である聖なる舞曲(ムーヴメント)のために、グルジェフの音楽を調和させ、発展させ、完全に実現することから始めた。数年後、デ・ハルトマンは、ムーヴメントとは独立したグルジェフの音楽作品に同様の方法で協力した。驚くべきことに、これらの後者の作品は非常に数が多く、ほとんどすべてが1925年から1927年にかけて、グルジェフが数年前に研究所を設立したフランスのフォンテーヌブローのプリューレで作曲された。1927年、この音楽活動は終わりを告げ、グルジェフが再び作曲することはなかった。


ド・ハルトマンの貢献の重要性は極めて大きい。実際、デ・ハルトマンの献身的な協力がなければ、グルジェフの音楽的アイデアは私たちが知っているように生まれなかったのではないか、と考える人もいるだろう。しかし、グルジェフの音楽を綿密に研究し、特にデ・ハルトマンがグルジェフと関わる前、関わっていた時、関わっていた後の、グルジェフ自身の膨大な音楽作品と比較すれば、グルジェフの音楽の真の源泉はグルジェフ自身にあったことは明らかである。


もちろん、デ・ハルトマンには洗練された音楽的精神があり、この共同作業ではそれを見事に発揮した。しかし、グルジェフの目的に対する彼の感覚は鋭く、聡い音楽的本能を十分に保ちながら、この仕事のために自らの創造性を昇華させることができた。彼がグルジェフから指示されたメロディーをいかにして上品かつ適切に調和させ、発展させたとしても、本質的な音楽的衝動と、その音楽が呼び起こす独特の感情の質は、一人の人間から生まれたものであることは明らかである。デ・ハルトマンが作曲した各曲の草稿は、グルジェフによって聴かれ、グルジェフがその意図を実現できたと満足するまで、しばしば大幅に修正されることもあった。


デ・ハルトマンは、グルジェフとの作曲過程についての驚くべき記述からも明らかなように、この共同作業における自分の役割について、控えめであるどころか、どちらかと言えば自嘲的であった。デ・ハルトマンはグルジェフとの共同作業について次のように回想している。


ーーゲオルギイ・イワノヴィッチのすべての音楽の一般的なキャッチとメモは、通常、プリーレハウスの大きなサロンまたはスタディハウスのいずれかで、夕方に起こりました。私は演奏し始め、音楽用紙を持って階下に急いで降りなければならなかった。すべての人々がすぐに来て、音楽のディクテーションはいつもみんなの前にありました。


ーー書き留めるのは簡単ではありませんでした。彼が熱狂的なペースでメロディーを演奏するのを聞いたので、私は紙に一度に曲がりくねった音楽の反転、時には2つの音符の繰り返しを走り書きしなければならなかった。しかし、どんなリズムで? アクセントの作り方は? メロディーの流れは、時々止めたり、バーラインで分割したりできませんでした。そして、メロディーが構築されたハーモニーは東洋のハーモニーであり、私は徐々にそれを認識しただけだったのです。


ーー多くの場合、私を苦しめるために、彼は私が表記を終える前にメロディーを繰り返し始め、これらの繰り返しは微妙な違いを持つ新しいバリエーションであり、私を絶望に駆り立てました。もちろん、このプロセスは単なるディクテーションの問題ではなく、本質的なキャラクター、メロディーの非常にノヤウまたはカーネルを「キャッチして把握」するための個人的な練習でした。


ーーメロディーが与えられた後、ゲオルギイ・イヴァノヴィッチはピアノの蓋をタップしてベース伴奏を構築するリズムを演奏しました。その後、私は与えられたものをすぐに演奏し、私が行くにつれて調和を即興で演奏しなければなりませんでした。



Gurdjieff


グルジェフは、ロシア領のアルメニアとトルコの国境にある、豊かな民族と宗教が混在する中心地で生まれ、幼少期を過ごした。少年時代から人間存在の意味について深い疑問を抱いていた。彼は、彼を取り巻く光景や音、特に音楽に対して非常に敏感であった。


深く慕い、『驚くべき人々との出会い』の中で彼が感動的な章を書いている父親は、「アショク」という職業に就いており、彼の民族の古代の伝説の数々を歌や詩で語る吟遊詩人のような存在だった。


これがグルジェフの最も初期の音楽的印象と影響であった。その後、若い学生時代にロシア正教会の聖歌隊で歌った。それ以上の音楽的訓練はほとんど受けていない。しかし、少年時代やその後の旅で吸収した多様な土着の音楽に対する彼の並外れた感受性は、彼自身の作曲に顕著に反映されている。


民謡や舞踊、さまざまな聖職者の宗教的聖歌、エジプトや中央アジア、遠くはチベットの寺院や修道院で耳にした神聖な合唱曲など、ありとあらゆる音楽がグルジェフのスコアのなかには通奏低音のように響き渡る。彼自身の楽器演奏能力については、ギターや、片手で弾き、もう片方の手で空気を送り込む小さなハルモニウムの形をした鍵盤の演奏など、ささやかなものだったようだ。


彼の音楽にはアラビア、イスラム、スラブの独特な音楽性が発見できる。そこには讃美歌の影響があると指摘する識者もいる。現代音楽のシーンでは、グルジェフのアーティスト/ミュージシャンとして再評価の機運が高まっているという話もある。それらのスコアの再構成に取り組むのが、The Gurdjieff Ensemble(グルジエフ・アンサンブル)、そして、ジャズレーベル、ECMである。


The Gurdjieff Ensemble


ドイツの国家観としては、グルジエフの作品をリリースすることは勇気が必要だが、従来から「エスニック・ジャズ」というジャンルを手掛けてきたレーベルは、アラビア、イスラム圏の音楽の伝統性をより良く知るための最適な機会を提供している。The Gurdjieff Ensembleの功績は、グルジェフの音楽の隠れた魅力を発見したことに加えて、単なるオカルティストや神秘主義者の遊戯という領域を超越し、真に芸術的な表現に引き上げようとする挑戦心に求められる。

 

以前は、アラビア、イスラム圏の作曲家は、日の目を見る機会が少なく、軽視されることもあったが、以下に紹介する、グルジエフのスコアの再録のリリースなどの機会を通して、スラブ、アナトリア、イスラム、中央アジアを中心とする文化圏の音楽にも注目が集まることを期待したい。


 


 The Gurdjieff Ensemble & Levon Eskenian『Music of Georges I. Gurdjieff』



 

グルジェフ(1866年頃~1949年)の音楽を民族的なインスピレーション源に立ち返らせる、魅力的で非常に魅力的なプロジェクト。


これまでグルジェフの作品は、西洋ではトーマス・デ・ハルトマンのピアノ・トランスクリプションによって研究されてきた。アルメニアの作曲家レヴォン・エスケニアンは、印刷された音符を越え、グルジェフが旅の間に出会った音楽の伝統に目を向け、その観点から作曲を再編成した。


エスケニアンは、アルメニア音楽、ギリシャ音楽、アラビア音楽、クルド音楽、アッシリア音楽、ペルシャ音楽、コーカサス音楽のルーツに注目している。アルメニアを代表する奏者たちの協力を得て、エスケニアンは2008年にグルジェフ民族楽器アンサンブルを結成し、彼らとともにこの驚くべきアルバムを完成させた。


レヴォン・エスケニアンの楽器編成で私が最も魅力を感じるのは、静寂の荒野でほんのわずかな音への介入を行う際、不必要な "作曲 "や "巧みさ "を排した、極めて綿密で明快な作業アプローチである。グルジェフの音楽の核心には深い静寂があり、それは聖書のコヘレトの書の章、あるいは遠い国の深い静寂が語る真実と関係している。- ティグラン・マンスリアン 

 




Anja Lechner / Vasslis Tsabropoulos 『Chants, Hymns and Dances』



ドイツのチェリスト、アンニャ・レヒナーとギリシャのピアニスト、ヴァシリス・ツァブロプロスによる魅力的な新プロジェクト「聖歌、賛美歌、舞曲」は、「世界の十字路からの音楽」という副題が付けられるかもしれない。グルジェフの作品のなかでは最も室内楽的な響きを持つ。


東洋と西洋、作曲と編曲と即興、現代音楽と伝統音楽の境界線を曖昧にするプロジェクトだ。レパートリーの中心は、古代ビザンチンの賛美歌をインスピレーション源とするツァブロプーロスの作曲と、アルメニア生まれの哲学者・作曲家であるジョルジュ・イヴァノヴィッチ・グルジェフ(1877-1949年頃)の音楽で、コーカサス、中東、中央アジアの聖俗両方のメロディーとリズムを使用している。 ーECM

 


 

 

 

The Gurdjieff Ensemble & Levon Eskenion『Komstas』



  



アルメニアン・グルジェフ民族楽器アンサンブルは、G.I.グルジェフ/トーマス・デ・ハルトマンのピアノ曲を「民族誌的に正統な」アレンジで演奏するために、レヴォン・エスケニアンによって設立された。


ECMからのデビューアルバム『ミュージック・オブ・G.I.グルジェフ』は広く賞賛され、2012年にエジソン賞のアルバム・オブ・ザ・イヤーを受賞した。今、エスケニアンと彼の音楽家たちは、コミタス・ヴァルダペト(1869-1935)の音楽に注目している。

 

作曲家、民族音楽学者、編曲家、歌手、司祭であったコミタスは、アルメニアにおける現代音楽の創始者であり、コレクターとしての活動の中で、アルメニアの聖俗音楽を独自に結びつけるつながりを探求した。民俗楽器の演奏とインスピレーションに満ちた編曲に焦点を当てたこのアンサンブルは、201年2月にルガーノで録音されたこのプログラムで、コミタスの作曲の深いルーツに光を当てる。ーECM

 



 The Gurdieff Ensemble & Levon Eskenion  『Zartir』

 

 



 

昨年にECMから発売された『Zartir』は、グルジエフの音楽的な遺産を発掘するためのアルバムである。

 

レヴォン・エスケニアンによる注目のアンサンブルのサード・アルバムは、これまでで最も冒険的な作品となった。G.I.グルジェフの音楽を民族楽器のために再生させただけでなく、アシュグ・ジヴァニ、バグダサール・トビール、伝説的なサヤト・ノヴァなど、アルメニアの吟遊詩人やトルバドゥールの伝統の中にグルジェフを位置づけている。これと並行して、神聖な舞踊のための作品に重点を置いた『大いなる祈り』は、グルジェフ・アンサンブルとアルメニア国立室内合唱団との魅惑的なコラボレーションで頂点に達し、複数の宗教の儀式音楽を取り入れている。


アレンジャーのエスケニアンは、「『大いなる祈り』は単なる "作曲 "以上のものだと思います。グルジェフの作品の中で、私が出会った最も深遠で変容的な作品のひとつです」と語る。


『ザルティール』は2021年にエレバンで録音され、2022年11月にミュンヘンでマンフレート・アイヒャーとレヴォン・エスケニアンによってミキシングされ完成した。ーECM





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アメリカ・イリノイ州シカゴは現代の作曲家フィリップ・グラスにとってきわめて思い入れのある場所といえるでしょう。グラスは若い時代に、シカゴ大学に通い、数学と哲学を専攻し、教養を深め、後の作曲活動に活かしています。さらに彼は、この土地で、指揮者、フィリッツ・ライナーとシカゴ交響楽団と関わりを持ちながら、古典的な交響曲の作曲技法を学んだのです。

 

今回、 2月17日、シカゴ交響楽団(CSO)と指揮者リカルド・ムーティーは、このシカゴに深いかかわりを持つ作曲家の十一番目の交響曲をシンフォニーセンターで演奏し、大成功を収めました。


Phllip Glass Twitter


 

ソリストには、日本人ピアニスト、現在はロンドンを拠点に活動する内田光子が選ばれ、コンサートのプログラムにはグラスの交響曲11番、さらに、ピアニストとしては最難関のベートーベンのピアノ協奏曲第四番ハ長調が選ばれ、演奏後、客席は大きなスタンディングオベーションに包まれたようです。

 


シカゴの地元紙「サンタイムズ」は、先週の木曜の夜に行われたCSOの演奏を、これはクラシック音楽史の大きな出来事であり、「フィリップ・グラスはベートーベンの9つの交響曲を上回った、パフォーマンスは初演ではないものの、非常に画期的な出来事であった」と報じています。

 

今回のグラスの交響曲第十一番の演奏は、シカゴのグラスシンフォニーによる初演でした。 シカゴ交響楽団は1999年にもサブスクリプションシリーズでフィリップ・グラスのオーケストラ作品「ファサード」を演奏し、2007年から2008年にかけてMusic Nowというプログラムを組み、この作曲家の楽曲にスポットライトを当てた経緯があり、今回グラスの交響曲を演奏を行ったことにより、 CSOとグラスの関係性はより深まり、シカゴという土地とグラスの関係はより綿密になったと言えるでしょう。

 

「フィリップ・グラスの音楽をこれまで一度も取り上げてこなかった巨匠リカルド・ムティとシカゴ交響楽団が彼の十一番目の交響曲を演奏することは、ここ数十年来で最もグラスのクラシック作曲家としての地位が上昇したことを明示している」と、シカゴの地元紙サンタイムズは書いています。


グラスは、元々、スティーヴ・ライヒのように、ミニマリストという位置づけで現代音楽のシーンに登場した作曲家でしたが、長年の間、フィリップ・グラスに対する作曲家として与えられる評価は目覚ましいものでなく、正当な評価を受けてこなかった作曲家とも言えるかも知れません。

 

そもそも、フィリップ・グラスの作風の反復的な作曲技法の形式があまりに単純ないしはナイーブであるとみなされていたため、フィリップ・グラスは数十年に渡って古典音楽の世界の一部の演奏家から敬遠されてきた経緯があります。


また、グラスがキャリアの最初期から当時主流であった古典的な作風の確立を回避し、1968年からはロックバンドのように機能する大学のキャンパスや別の場所で演奏する独自の実験的なアンサンブルを形成したことについても、クラシックの世界の一部から嫌厭されてしまった要因ともなったようです。


これは、例えば、ミニマリストとしての作風を一定に維持しつつ、比較的、中世のグレゴリオ聖歌やスカルラッティのような古典音楽の影響を踏まえ、数々の交響曲を生み出してきたエストニアのアルヴォ・ペルトとはまったく事情が異なります。いわば、フィリップ・グラスは、シカゴという土地のカルチャーの影響を色濃く受けたため、クラシック音楽にとどまらず、この土地のロック音楽と無縁ではなかったことが、古典音楽の作曲家としてグラスの評価をきわめてむつかしいものにしていたのです。

 

しかしながら、今回のシカゴでのコンサートが大成功に終わったことにより、これまでの事情は一変したといえるでしょう。マエストロ、リカルド・ムーティがグラスの11番目の交響曲を取り上げたことにより、古典音楽シーンからも彼の評価が正当なものへと引き上げられました。フィリップ・グラスは今、85歳の誕生日を迎えたばかりで、今回、シカゴ交響楽団とムーティー、そして内田光子という3つの素晴らしい奏者による画期的な演奏が行われことにより、また、公演後、多くの観客によるスタンディングオベーションでグラスの交響曲が好評に終わったことにより、グラスの長年の間、音楽家としてのキャリアに立ちはだかっていた壁のようなものが全て取り払われたことで、グラスのクラシックシーンでの地位が確立されたと言えるでしょう。

 

また、今回のシカゴでのコンサートのプログラムには作曲家フィリップ・グラスからの手紙が組み込まれており、コンサートの聴衆に対して、彼はシカゴという土地が彼にとってどのような意味を持つのかを説明しています。


このプログラムに掲載されたグラスの手紙には、観客にたいする感謝の意が表され、そしてまた、シカゴという土地の関係性についても言及がなされていました。先にも書きましたとおり、グラスは1950年代にシカゴ大学に在籍し、指揮者フリッツ・ライナーとCSOと深い関係を持ち、キャリアの重要な素地を築き上げていったのです。


「この種の出来事は」とフィリップ・グラスはこの観客に向けての手紙において書いています。「若いミュージシャンにとって非常に重要なことだったのです。このシカゴ大学にいた時、私はおそらく他のどの時代よりも管弦楽法について深くまなんだ時代でした」

 

今回、CSOがフィリップ・グラスの交響曲第十一番を取り上げて、 音楽性の探求をはじめたのは彼のキャリアがシカゴから始まったことを考えてみれば当然のことだったはず。


「今回のムーティーのコンサートが八人の打楽器奏者、二人のハープ奏者、さらには、めったに聴くことのできない低音域のコントラバスを含む、広大で、爽快な三楽章の作品からこの交響曲は構成されています」と、サンタイムズは説明した上で、さらに以下の通りに書いて、この記念すべきコンサートについての記述を締めくくっています。

 

「交響曲第十一番では、特に最初のムーヴメントにおいて大成功を収め、フィリップ・グラスはそれらを新たな要素として提示しています」

 

「交響曲第十一番は、酔わせる、時には息を飲むような、まるで万華鏡のような重なり合う渦を作り出す。そして、構造は彼のキャリアの最初の重要な要素である反復構造に回帰を果たす。ムーティーは見事にすべての可動部と複雑な反復と語り合い、演奏者たちはトローンボーンをはじめとする金管楽器、ハープとパーカッションの演奏でグラスの独特な作曲技法を受け入れているのが伺えました。このコンサートはオーケストラが最初にグラスの演奏を行うのを目撃したときのように衝撃的な出来事でしたが、「アテネの廃墟」への序曲に続き、この日のハイライトは間違いなくプログラム構成の前半部にありました。ベートーベンのピアノ協奏曲第四番です。この曲目はめったに聴くことのかなわない小さな宝玉の如きの楽曲です」

 

「ピアニスト、内田光子はCSOの常連として多くの人に親しまれており、1986年オーケストラデビューを果たした作品を演奏するために戻ってきました。このベテランソリストに期待されるような、思慮深さのある、深遠なパフォーマンスを、リカルド・ムティとオーケストラとともに彼女は観客に提示しました。内田光子はゆっくりとしたテンポで演奏をし、特に第2楽章は効果的で、広々とし、内省的で、時には異世界にも思えるような演奏を観客に披露しました。内田は、演奏における詩情という側面に力を注いでおり、ピアノ協奏曲のスイープ、壮大さをいたずらに強調した演奏になることは決してありませんでした。しかし、彼女は必要に応じて、パワーとパンチの効いた演奏を提示したのです。それが驚くほど軽く、機敏なタッチの演奏であったことは言うまでも有りません」

 

「シンフォニーホールでの演奏後、コンサートの聴衆は、スタンディングオベーションを与え、グラスの交響曲の祝福を与え、またそれと同時に、内田光子の魅惑的なパフォーマンスと国際的なピアノ演奏の世界における実力を再確認したようです」

 

 

 

 

 

Simon Farintosh「APHEX TWIN FOR GUITAR」2021

 



カナダの西海岸のギタリスト、サイモン・ファリントッシュは、クラシカルギターの名プレイヤーとして知られ、これまで数多くの賞を受けている実力派のギタリスト。これまでに、フィリップ ・グラスのグラスワークスをクラシックギターでカバーしている。

 

少し遅まきの情報になってしまうが、そんな彼が今や押しも押されぬイギリスのビックアーティストといえるエイフェックス・ツインのアコースティックギターのカバー曲を収めたシングルEPを今年リリースしている。シングルリリースながら、全六曲が収録され、小さなアルバムとして楽しむ事ができる。 

 

 


 

 

 

 

TrackListing




1.Film

2. Apill 14th

3.Hy a Scullyas Lyf a Dhagrow

4.Kesson Daslef

5.Jynweythek Ylow

6.Alberto Balsam 



 

 

元々、これまでエイフェックス・ツインというアーティストは”ドリルンベース”を始めとする秀でた天才的リズムメイカー、トラックメイカーとして世界的な評価を受けているように思えるが、個人的には、リチャード・D・ジェイムスというアーティストは、「Come To Daddy」に挙げられる暴虐的なフレーズを表向きの印象とする楽曲からは及びもつかない、叙情的でありながら繊細で美しい旋律を紡ぎ出す秀逸な”メロディメイカー”としての表情も併せ持っている。

 

もちろん、リチャード・D・ジェイムスは、イギリスを代表する電子音楽家ではありながら、ケージをはじめとする現代音楽にたいする造詣も深い。そのあたりが自身のアルバムにおいてのプリペイドピアノの導入といった実験的なアプローチへと歩みを進ませ、彼のバリバリの電子音楽家とは異なる現代音楽的な趣向性を持たせる。音楽性の間口が広すぎるため、リチャード・D・ジェイムスの音楽性というのは、一見、無節操のようにも聴こえるかもしれないが、どのような音楽であれ、自分の音楽の中に柔軟性をもって取り入れてしまうのがリチャード・Dという鬼才の凄さなのである。

 

そして、彼の音楽家としての表情には、時に、まったく本来の姿から乖離したメロディメイカーとしての姿が見いだされる。

 

それは、「Apilil 14th」「aisatsana [102]」といった清かで涼やかな楽曲の中に見いだされる。彼の電子音楽家としての轟音性ーーノイズの対極性にあるこの意外な静寂性、これは初期の「アンビエント・ワークス」から現在まで引き継がれている側面といえる。しかし、これまではいまいち、その意外性のようなものが何であるのか分かりづらい面があった。

 

しかし、今回、サイモン・ファリトンリッシュという名プレイヤーのクラシックギターでのアプローチが明らかにしたのは、エイフェックス・ツインの音楽においての静寂性、そして心優しい抒情性というのがむしろ彼の音楽の本質であるという事実である。

 

この2021年リリースのEP作品には、エイフェックスの名曲「Film」「April 14th」「Alberto Balsam」といった代名詞的な楽曲を網羅しながら、ここで全面的に展開されていく音楽性のは、電子音楽としてのエイフェックスではなく、まったくそれとは乖離した古典音楽としての表情を持つ上品なエイフェックスである。ここでは、今までとは異なる表情がたっぷり味わえると思う。

 

 

 

一曲目の「Film」は、エイフェックスの原曲自体は、非常にエモーショナルな美しい楽曲だったが、ここで名プレイヤーのサイモン・ファリントッシュのナイロンギターのたおやかな爪弾きによって、見事に、現代の電子音楽が由緒ある古楽に様変わりしているのは驚愕!としか言うよりはほかない。


元々、エイフェックスの音楽にはコード感というのは希薄であるものの、ここで、このカナダの名クラシックギタリスト、サイモン・ファリントッシュ氏は、美しい和音をアルペジオと、そして、綺羅びやかな対旋律によって、うるわしく彩ってみせている。ここで、なんともいえないイタリア古楽のような雰囲気を持つ上質な楽曲に生まれ変わりを果たしている。

 

「Apiril 14th」もまた美しいカバー曲となっている。サイモン・ ファリントッシュのアルペジオというのも優雅な響きをなし、そして、時に、そこから清らかな水のようにこぼれ落ちるミュートのニュアンスというのはほとんど絶品というしかない。あっさりした感じのカバーではあるけれども落ち着いていて上品な曲に仕上がっている。 

 

もう一つ興味深いのが「Alberto Balsam」である。この曲もまた、エイフェックスの代名詞的な一曲であるが、ここではクラシカルギターだけではなく、原曲に忠実なリズムトラックが加わることでかなりゴージャスな仕上がりとなっている。ファリントッシュ氏のリズミカルな演奏にマシンビートとハイハットの彩りが加味され、心楽しいアレンジ作品となっている。ここではまたエイフェックス・ツインの原曲と異なる穏やかでノリの良い雰囲気を堪能できるだろうと思う。

 

このアルバムは、サイモン・ファリントッシュ氏のリュート的なクラシカルギターの流麗な演奏が、これまた、まるでイタリア古楽のような上質で芳醇な香りを漂わせている。

 

今まで見いだされていなかったリチャード・Dのメロディメイカーとしての魅力が存分に引き出された素晴らしい作品である。まだ一般の市場には出回っていない作品ではあるものの、隠れた名盤として挙げておきたい。

 

エイフェックス・ツインを全然知らないというリスナーも充分、楽しめるような楽曲のラインナップになっている。もちろん、エイフェックスのファンは、この電子音楽家の異なる魅力を見いだす手助けになるかもしれない。ジャケット、音、共に、とても美しい名カバー作品として推薦させていただきます。

 

 参考

 

disquiet.com https://disquiet.com/2021/02/03/simon-farintosh-aphex-twin-guitar/