ラベル Classic Music の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル Classic Music の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

イングリッシュ・バロックの世界 シェイクスピアと演劇 ヘンリー・パーセルのセミオペラの登場

 

・フランスとの交流 イギリス国教会との音楽の歩み

シェイクスピア

 

イタリアやフランスで沸き起こったルネサンス運動は、イギリスでも16世紀から17世紀にかけて隆盛をきわめた。元々、イギリス文化に関しては、単一民族で成立したものではない。10世紀にノルマン人が北フランスのコタンタン半島にノルマンディー公国を打ち立てた。6世紀ごろからノルマンディはイングランドに侵攻し、専有地を設けた。その後、1066年になると、ノルマンディー公国のウィリアムがイングランドを征服、やがてノルマン朝を樹立した。


このあと、およそ300年にもわたってイギリスは、北フランスとの文化的な交流を続けた。おのずと、宮廷文化の形式、教会文化を両国は共有することになった。また、それ以降、イギリスにはフランスの音楽が伝来し、12世紀から13世紀にかけてイギリスの音楽のほとんどはパリの影響下にあった。イギリス音楽はノートルダム楽派の影響を受け、発展し、やがてそれはフランスのブルゴーニュ楽派の成立を後押しした。

 

こうした中、イギリス音楽は第二期とも呼ぶべき発展の時代を迎えた。それが宗教音楽の時代である。イギリス国教会ではカトリック的な典礼の中で、音楽文化を育んできたが、ヘンリ8世の時代から従来のカトリック式の典礼を改革した。従来のラテン語での歌唱を取りやめ、音楽的にもカルヴァン派の手法を取り入れることになった。その中で、アンセムが登場し、合唱隊が活躍。エリザベス一世の時代には、バード、タリスといった宗教音楽の優れた作曲家が登場した。

 

いかにイギリス音楽の発展が公国や王族、そして宗教音楽によって支えられてきた側面があるとはいえども、16世紀から17世紀以降に差し掛かると、イタリアのオペラが登場し、イギリスンの音楽も変容せざるを得なくなった。そして、このイタリアやフランスでのオペラやバレエの発展を期に、イギリスのバロック音楽も歴史上において重要な分岐点を迎えたのだった。

 

 

・シェイクスピアと演劇、そしてオペラ 


その音楽発展を支えたのが、戯曲や演劇で有名なウィリアム・シェイクスピアである。現在ではシェイクスピアのオペラは総数300以上にものぼり、もはや定番化している。通称ロミジュリこと「ロミオとジュリエット」、 「マクベス」、「夏の夜の夢」など、グノー、ヴェルディ、ブリテンなど国内外の優れた作曲家らが、シェイクスピアの劇伴音楽に取り組んできた。


シェイクスピアの戯曲は、文章だけで読んでも味気なく、舞台上の人物たちの動き、口頭劇、そして時には音楽的な内容が伴わないと、物足りなさを覚える。言ってみれば、シェイクスピアが目指したのは、オペラそのものだったのではないかとさえ思える。

 

ウィリアム・シェイクスピアはゲーテ、セルバンデスと並ぶ世界的な文豪という一般的な評価を与えられている。実際的に、彼の戯曲を読んで見ればわかるが、その圧倒されるような文章量は、他の追随を許さない。しかし、他方、シェイクスピアは必ずしも文学者だけにとどまる人物ではなかった。演劇の世界に革命を起こし、そしてその中で、音楽的な要素をもたらし、従来のイギリスの演劇の世界に音楽をもたらしたマルチクリエイターでもあったのである。

 

そもそもシェイクスピアは劇の中で音楽を巧みに使用し、その技術が非常に長けていたと言われている。彼は音楽によって、物語そのものを際立たせたり、あるいは、ストーリーの変化を効果音(SE)で表現することによって、ワーグナーの歌劇のような音楽的な音響効果を付け加えた。


残念ながら、シェイクスピアの時代の演劇に使用された音楽の資料は残されていない。しかし、それらのほとんどはポピュラー音楽に近く、短い効果音のような音響にとどめられていた。一方で、その劇伴音楽の使用法はきわめて多彩な内容であった。例えば、宴会、夜会、行進、決闘など、演劇の象徴的なシーンで、演劇のイメージを強調するような効果音が使用されていた。しかも、それは台本のト書きにも記され、「オーボエ、トランペットなど静かな音楽」と音楽監督のような指示が明確に記載されていたのである。これはシェイクスピアが完全なオペラには至らないにせよ、フランスのバレエやイタリアのオペラを演劇に導入しようとしていた形跡でもある。


また、意外と重要視されないが、シェイクスピアの演劇には音楽が不可欠だった。彼の演劇では出演者の俳優が単独で歌唱を披露したり、 リュートがその歌の伴奏として演奏されることもあった。ポピュラー音楽としての歌曲が導入されることもあり、また、詩学としての効果を強調し、短い韻を踏んだ歌曲まで披露されることもあった。イギリスのスポークンワードのような形式は元をただせば、すでに16−17世紀のシェイクスピアの時代に始まっていたのである。 

 

 

・イギリスのオペラの貢献者、ヘンリー・パーセル 


どうも音楽史を概観すると、他国の文化をライバル視することがあり、それらを巧みに輸入した上で、自国の文化として組み替える動向がある。しかし、翻って、音楽文化の源流をなすイタリアですら、ブルゴーニュやフランドル地方の音楽とは無縁ではなく、何らかの関連性を持っている。このことを勘案すると、文化という概念が一国の生産の集積だけによって形成されるとは考えがたい。これらの文明のやりとりから生じる混交性ーーそれこそが民族が移動し、流動的な文化の側面を持つ、''ヨーロッパの歴史の実態''を形作ってきたとも言えるのである。その一方で、上記の二国に続くようにして、島国であるイギリスにもいよいよ国教会の音楽やカルヴァン派の宗教音楽に続く、イングリッシュオペラが17世紀に登場することになった。

 

それまでにも、イギリスは「シアター(劇場)」の文化が国内に定着していたというが、1642年、ピューリタン革命によって劇場が封鎖された。しばらく劇場の文化は遠ざかっていたが、それが王政復古の時代に入り、復活を遂げる。これがおのずと、優れた作曲家を輩出する機会を形作った。ヘンリー・パーセルは、宮廷の侍従の父親を持ち、幼い時代を英国王室の礼拝堂合唱団で過ごした''王室お抱えの人物''である。そして、フランスがルイ国王を称賛するためのバレエを推進してみせように、イギリスもまた、王政の基盤を支えるための芸術や、その制作を推進したのである。専らパーセルが取り組んだのが、「セミオペラ」と呼ばれる形式で、音楽的には、ブルゴーニュやフランドル学派のマドリガーレや、イタリアンバロックに近い、どことなく優雅な雰囲気を持つ内容である。専門家によれば「演劇とオペラのハイブリッド」だという。

 

ヘンリー・パーセルは、ロイヤル礼拝堂、ウェストミンスター大聖堂や、その他宗教音楽の作曲家として知られている。その一方で、オペラの発展に寄与し、1688年には、ギリシア悲劇的な色合いを持つオペラ「ディドとエネアス」を作曲した。これは最も古いオペラの一つと言われている。また、その他にも、「ディオクレシアン」、「アーサー王」、「ディモン・オブ・アテネ」、そして有名な「妖精の女王」など、音楽的な側面で、歌劇に大きな発展性をもたらした。

 

「セミ・オペラ」はイングリッシュ・オペラの異名を取り、 歌、踊り、器楽を交え、演劇的なエピソードや口語劇を組み合わせた。特に、セミ・オペラは、エンターテインメントの性質が強調され、演劇の中でのストーリーの変化、機械装置、飛行など、ダイナミックな演出効果が用いられ、1673年から1719年にかけて発展していった。一般的に、セミオペラの音響効果は、シーンの切り替わりや超自然的な変化の際に使用されることが多かった。しかし、パーセルは、「マスク(仮面劇)」としての側面で完結し、 いわば独立した音楽としての性質を強めたのである。そのため、プロットや演劇の動作と直接的にリンクすることはきわめて少なかった。

 

 

 ・シェイクスピア原作 ヘンリー・パーセル「妖精の女王」


こうした中、ヘンリー・パーセルはシェイクスピア原作を見事なセミオペラとして再編した。その音楽には、イタリアとフランスの古楽を受け継ぎ、演劇化するという意図が込められていた。


『Fairy Queen(妖精の女王』は当時一般的だったように、復古期の観客の好みに合わせるため、劇が改変された。ここでは、無名の改編者がシェイクスピア戯曲を編集し、独自の台詞や舞台指示を追加し、シェイクスピアの台詞の多くを削除し、一部を現代化、変更し、通常は各幕の終盤に向け音楽劇を挿入する機会を創出した。しかし、劇中に、多数の音楽を盛り込むため、物語の一部は簡略化され、複数の出来事の順序も変更された。1692年に初演された際、原作のシェイクスピア劇はまだ''認識''できたが、翌年の二度目の上演ではさらに音楽が追加され、劇のカットや再構成が進んだため、原作を知らない観客には物語を追うのが難しい部分も出ていた。  


1692年のこの作品の初演は費用がかさんだ。パーセルの同時代人が記すところによれば、『妖精の女王』は「シェイクスピア氏の喜劇を基にオペラとして制作された」という。 装飾の豪華さにおいては比類なく、特に歌手と舞踊家の衣装、舞台装置、機械仕掛け、装飾品は豪華に整えられ、舞台が演じられた。宮廷の人々も町の大衆もこれに大いに満足したというが、制作費が膨大だったため、劇団の利益はごくわずかであった。 初期費用の一部を帳消しため、翌年には「改訂・追加と数曲の新曲を追加して再演されたのは間違いない」と記されている。ここにもイタリアのオペラに匹敵する長大な作品を上映しようとする並々ならぬ熱意が感じられる。


タイトルは、1世紀前に書かれたスペンサーの『妖精の女王』から来ている。これはシェイクスピアの戯曲とほぼ同時期の作品。スペンサーの寓意叙事詩はエリザベス1世を称えるプロパガンダの重要な要素であり、彼女の血筋を伝説のアーサー王に結びつけ、処女王の美徳を神話化した。


『妖精の女王』の劇は五幕構成で、各幕の冒頭に器楽曲が置かれている。観客が着席する間、おのおの二曲ずつの第一楽章と第二楽章が演奏された。その後、トランペットのファンファーレで始まる序曲が劇の幕開けを告げる。幕間には場面転換中に演奏される器楽の幕間曲が配置されている。以下に紹介するのは現代的な演劇と歌劇を組み合わせたセミオペラらしいパフォーマンス。




▪️こちらの記事もおすすめです


【バロック音楽の世界】オペラの誕生  モンテヴェルディ、スカルラッティの台頭


▪️Reference(参考):


 ▪フランスのバロック音楽とヴェルサイユ宮殿文化


バロック音楽は、イタリアのローマで始まり、オペラという新しい音楽の形式を生み出した。その後、17世紀のバロック音楽は本格的な最盛期を迎える。多くの場合、バロック音楽は、イタリアの最初期のオペラ、フランスの宮廷音楽、そして以降のドイツの宗教音楽のことを示唆する。しかし、このバロックという音楽が富と権威を象徴する存在であったことは明確である。

 

実際、17世紀以降は宮殿の建設ラッシュが始まり、この流れはヨーロッパ全体に波及していった。この中でバロック建築という側面で、最も栄華をきわめたのがヴェルサイユである。豪華絢爛な建築、それは王権神授説にも見受けられるように、絶対王政の象徴でもあったのだが、当時の富と権力を象徴するためには建築が必要であり、また、その後には生活様式が必要であった。これらの一貫として、バロック音楽は発展していった。つまり、バロック音楽とは、権力を象徴するために存在し、また、自ずとそれは華やかにならざるを得なかったのである。

 

イタリアのオペラに続いて、フランスでも新しい音楽、バレエが登場した。その舞台となったのがヴェルサイユ宮殿である。そして、この宮殿はもっぱら、「バレ」の発展の一大拠点となった。バレとはフランス語で「バレエ」を意味し、17世紀のフランスの場合は、「コメディ・バレ」や「トラジティ・リリック(叙情悲劇)」と呼ばれた。前者は可笑しみのある音楽付きの芝居劇、そして後者は、ギリシア悲劇のリバイバルで、イタリアのオペラを踏襲している。

 

フランスとイタリアのバロック音楽には、明確な相違点がある。それは装飾音の過多であり、前打音やトリル(Tr)を音符の前に付加することで、華やかな音楽のイメージを押し出した。バロックという言葉には「極端な」とか「誇張的な」という意味があるが、脚色付けや音響的な効果のために発案されたものだろう。それらは国王の権威の暗示として内在せざるを得なかった。

 

こんなふうに考えると、音楽は絶えず社会的な側面を映し出す。これらの華美さは以降のドイツのバロック音楽に引き継がれ、18世紀の重要な音楽の構成を形成した。また、トリルや前打音といった華美さを印象づける音楽性は、バロック建築の装飾のイメージとぴたりと合致している。

 

・ヴェルサイユ宮殿の文化  音楽芸術の最盛期を迎える

ルイ13世の館を改築した当初のヴェルサイユの鳥瞰図

バロック建築というのは、17世紀中頃のローマで発生し、それ以降オーストリアのウイーンで花開いた。それ以降は、フランス、スペイン、フランドル、ドイツ地方でも最盛期を迎えた。これらのバロック建築の精髄といわれるのが、ご存知、ヴェルサイユ宮殿である。


豪華絢爛な建築デザインといえば、ヴェルサイユを基本にしたバロック建築群がどのような時代においても模範例となった。そもそも、ヴェルサイユ宮殿は、ルイ13世の狩猟用の小さな城館としてのルーツを持つ。しかし、17世紀初頭になると、ルイ14世の御代のフランスの絶対王政の象徴として大規模改修が行われ、バロック様式を前面に押し出した豪華絢爛な建築へと姿を変えた。 


ルイ14世 太陽神に扮してバレエの演劇に興じた

 

ルイ14世は芸術を庇護に置く王として知られ、その愛好家としての姿はある意味では度を越していた。王にとって芸術とは自らの権力を象徴し、なおかつ、 現実的な側面とは異なる奥深い人生観をもたらしたことは事実だろう。特に、この時代、ルイ14世は、バレなどの芝居で、自ら太陽神アポロンに扮し踊りを演じた。さらに宮廷楽団を創設し、大編成のお抱えの楽団を結成した。


当時のルイ14世をはじめとする国王の一日は各々の生活様式が儀式のように行われ、場面ごとに楽団の音楽が厳かに演奏された。ルイ14世の時代は、その生活の過剰な華美さもさることながら、自らの人生を芸術や舞台のような華やかさで縁取ろうとしたのである。 

 

鏡の回廊

 

特に、この中で最も重要なお役目を担ったのが王室礼拝堂楽団だ。このセクションは宮廷音楽家の中でも不可欠な立ち位置を担った。これは15名のオーケストラと90名の合唱団から構成され、特に礼拝堂でミサなどが行われるとき、音楽の演奏を担当した。このエピソードは、それ以前の宗教的な儀式の一部を音楽が司っていたことを推測させる。しかし、ローマカトリックの時代の儀式的な音楽に、フランスのバロック音楽を収めこむことは妥当とは言えないだろう。

 

特に、フランスのバロック音楽は、国王であるルイ14世の人生をよりドラマティックに仕立てることが多かったのである。例えば、宮廷室内音楽楽団は、「24人のヴァイオリニスト」、「ペティット・ヴィオロン(小さな楽団)」 という二つのセクションに分割されていた。


これらの楽団は、食事、祝宴、舞踏会など、ことあるごとに音楽を背後で演奏し、ルイ14世の人生をより華やかにした。また、定期的な演奏会のイベントも開催された。特に日曜日の午後、礼拝堂でミサが行われた後、ヴェルサイユ宮殿で最も有名な「鏡の回廊」で室内楽の演奏会が催された。 

 

現在でも豪華なシャンデリア、絢爛な天井画など、芸術的な遺産が残されているこの間では、多くの室内楽団の人々が居並び、日曜日の安息日に華やかな楽の音を演奏したことが想像される。現代に観光客は、この鏡の回廊を訪れるとき、その建築的なデザインや芸術の美しさや凄まじさに目を奪われるだけではない。中世の文化的な営為の残影をその五感で捉えるのである。

 

こうした音楽家の中で、クープラン、シャルパンティエ、そしてリュリといったバロック期の傑出した音楽家が登場した。すべてではないものの、これらの音楽家の幾人かはイタリアのフィレンェなどで音楽的な教育を受けた後、フランスに来てヴェルサイユ宮殿の文化を支えた。 

 

 

▪フランスのバロック音楽の重要な作曲家

 

・クープラン(Fracois Couperin)


バロック音楽の鍵盤奏者の名手、クープランは、パリに生まれ、若い頃から音楽家であった父親から音楽教育の手解きを受け、18歳の頃にサン・ジュルヴェ教会のオルガニストを務めた。


1690年には最初のオルガン曲集を出版し、名声を得ると、1693年にルイ14世によって王室礼拝堂のオルガニストに任命され、王室楽団に入団する。また、宮廷内の王族の人々にクラブサンを教え、教育者としても活躍した。王室楽団では、常任クラブサン奏者を務めたほか、さらに宮廷作曲家としても活躍した。室内楽にとどまらず、王室礼拝堂の宗教音楽も手掛けた。

 

クラブサン(チェンバロ)の曲集が有名で、クラブサン曲集を第一巻から四巻まで出版している。その他、鍵盤奏者としての教育的な著作も残している。1716年に出版された「クラブサン奏法」がその代表例である。クープランの鍵盤曲は、宗教的な性質を持つ曲もあるが、ジーグやメヌエットなど当時の宮廷音楽の舞踏的な性質を持つ楽曲や、そのほか、民謡的な性質を持つ楽曲まで広汎に及ぶ。クープランは華美な装飾音を伴う、バロック音楽の象徴的な作曲家である。

 

 

 

・リュリ(Jean-Baptiste Lully)



ルイ14世が愛好してやまない舞台音楽に大きな貢献を果たし、また、ヴェルサイユ文化を支えたリュリの存在も度外視出来ない。彼こそ、フランスのバレエ音楽の重要な先駆者といえる。


リュリはイタリアのフィレンツェ出身。14歳のときにパリにやってきた。彼は、ヴァイオリニストとして活躍しただけではなく、舞踏家としても知られている。1653年に弱冠二十歳にして国王とともにバレエを踊り、名声を獲得。その後、お抱えの音楽家として大出世した。宮廷入りしたリシュは、「ペティット・ヴィオロン」の楽団員として任命され、その後、1661年にはイタリアからフランスに帰化した。宮廷音楽家の中でも最も権威的な人物であり、宮廷すべての音楽を監督する総監督に命じられた。その翌年には王室の音楽教師にも就任した。

 

リュリは共同制作にも励んだ。劇作家のモリエールと協力し、舞台音楽の制作に専念した。当時建設中であったヴェルサイユの中庭で祝宴が開かれた1664年、コメディ・バレの作品「魔法の島の楽しみ」が上演。また、中庭での芝居は定期的に開かれ、オペラ「アルセスト」の版画も残されている。これらはギリシア悲劇、イタリアのオペラと並び、芝居文化の重要な系譜を形作った。また、モリエールとリュリはその後も頻繁に共同制作に取り組んだ。彼らが制作したコメディ・バレの総数は全11曲にも及ぶ。そしてそれらはヴェルサイユで上演された。


しかし、その後、コメディ・バレは国王の出演が断念され、またこの二人がたもとを分かったこともあり、ヴェルサイユ宮殿の文化の最盛期を担った後、急速に衰退していった。その後、ルイ14世とリュリはオペラに夢中になる。リュリは王立音楽アカデミーのオペラの上演者を買取り、フランスの舞台音楽に注力し始めた。


1673年から1686年には、ギリシア悲劇のリバイバルであるトラジェディ・リリックを作曲し、フランスのオペラの第一人者としての地位を不動のものとした。トラジェディ・リリックの多くは、ギリシア神話に基づく5幕構成の舞台作品であり、演者のセリフなどは母国語のフランス語で構成される。これらの他国の文化を取り入れ、独自の音楽として成立させようという試みは、イタリアのオペラと同様であり、その後のバロック以降の音楽の重要なテーマになった。

 

リュリの音楽の主な意図は特に、民謡的な舞踏音楽と芝居のような舞台音楽のクロスオーバーである。これらの作品からはメヌエット、ブーレといった後の古典派に強い影響を及ぼす音楽形式も出てきた。どのような文化も独立したものだけでは確立されず、他国家の文化を上手く取り入れて、それを発展させていくことが、このエピソードから汲み取っていただけるはずだ。

 

ところが、リュリは悲劇的な死を遂げる。1687年に、国王の病の回復を祝う演奏会で指揮者を務めたとき、指揮棒を誤って足に落とし、その傷口が元で死去。悲劇的なバレエの作者がその演奏会でなくなるというのは、まさにヴェルサイユ文化の舞台作品の中に生きる人物のようであり、また、ルイ14世の絶対王政の侍者としてのエピソードを明確に象徴づけている。リュリの碑文には、「ルイ大王とヨーロッパ中の支持を勝ち取った」との記述が残されている。

 


 ▪バロック音楽の時代背景 

ヴィラ・メディチ
 

16世紀までの古典音楽は、その多くが宗教音楽に終始していた。また、それと同時に、民衆のための音楽、イタリアのトレチェントやマドリガーレ、バラードなどの民謡や舞曲も登場した。そして、前回までのバロックの以前の音楽の歴史を概観した際、音楽という形式は、たえず社会の風潮を反映させ、さらに、ときには政治とも関連付けられることもあったといえるだろう。17世紀に入ると、フランスでは絶対王政が始まり、王による治世の時代が始まった。


ヴェルサイユ


同時に、17世紀は、フランスのヴェルサイユを中心とする宮廷文化が花開き、これらが芸術の本流を形成するようになった。ルイ13世は、反抗的な貴族やユグノーを弾圧し、絶対王政を確立する。しかし、社会学として、この絶対王政を見た時、やはり、暴政という点が問題となる。フランス革命を焚き付けたのが、どのような勢力であれ、これらの王政には、社会的な問題が付随した。問題となったのは、現在の資本主義の一つの課題でもある、富の不均衡である。民衆の怒りが、王政に向けられ、以降の革命に至ったのは当然の摂理だった。

 

 

民主主義政治の萌芽が各地で見える中、バロック音楽が登場した。バロックというのは「歪んだ真珠」を意味している。 ルネサンス期の芸術と異なるのは、個人的な情熱や感情を端的に表現することも可能になった。個人的な解釈としては、ヨーロッパにおけるバロック期とは、大きな組織や機構を中心に動いていた社会において、個人やそれらのグループが社会と同様のレベルの力を持つ、その発端を形成した重要な時代とも言えるかもしれない。

 

さこうした中で、登場したのがイタリアの歌曲(カンツォーネ)やオペラという新しい芸術だった。バロックと聞くと、短調を中心としたいかにも重苦しい音楽や古めかしい音楽を皆さんは想像するかも知れないが、バロック音楽の出発は、どう考えても、そして、どこからどう見ても、華やかなイメージに縁取られている。 イタリアのオペラは、ギリシア芸術の演劇を音楽と結びつけたもので、クロスオーバーやハイブリッドの先駆的な事例に該当する。オペラが登場したときの当時の衝撃はすさまじかった。そのメッカであるフィレンツェでは、「新しい音楽」が出てきたと言われた。 オペラは、フィレンツェで始まり、その後、イタリア各地で普及していき、さらに、フランス、そして演劇が盛んなイギリスにも大きな影響を及ぼしていった。

 

 

オペラの誕生 ギリシア悲劇の復興

カヴァリエーリ像 ミラノ

イタリアのオペラは、貴族のサロンに集まった音楽家や詩人のリバイバル運動の一環として始まった。16世紀末に、カメラータという文人サークルが作られ、そこにはガリレオ・ガリレイの父、ヴィンセンツォ・ガリレイ、作曲家のカッチーニ、フィレンツェの宮廷楽長をつとめたペーリなど著名人が在籍していた。彼らは、古代ギリシアの悲劇を、より魅力的な音楽劇にすべく、知恵を出し合い、それらを明確な作品として仕上げようと試みた。カメラータの面々は、歌詞の意味と言葉のリズムを重んじていたという点を踏まえ、それらをモノディーと呼ばれる形式へと組み替えた。これらは演劇でいうところの、モノローグの出発点ではないかと推測される。オペラが誕生する段階に当たって、それらの歌は、明確な音調を帯びるようになり、ストーリーやシーンと呼応するような形になったことは、それほど想像に難くありません。


メディチ家の邸宅群


こうした中で、オペラの普及に貢献したのが、メディチ家である。フィレンツェの大富豪の娘、マリア・デ・メディチが、フランス国王アンリⅣ世のための催しものとして、「エウリディーチェ」が上演。これが1600年のオペラの始まりでもあった。リヌッチーニが手掛けたイタリア語の台本に、ペーリとカッチーニが共同で作曲し、歌をつけた現存する最古のオペラ作品だ。カバリエーリがより本格的なオペラを発表し、『魂と肉体の劇』が同じ年に制作された。カヴァリエーリは、ローマの出身であり、バロック期の宗教音楽の先駆的な存在であった。


彼はオラトリオという独自の形式を確立した。後にJS バッハがこの形式を崇高な領域に引き上げてみせた。このオラトリオという形式は、演劇に焦点を置いた、一般的なオペラとは対極にある純正音楽を重んじる内容であった。舞台装置や衣装を使用せず、演奏会で披露されるケースが多かったという。

 

オペラの一般的な普及に一役買ったのが、モンテヴェルディだった。オペラの作曲家として名をはせた後、サンマルコ大聖堂の楽長をつとめた。現在でも演奏される機会があると思われるが、モンテヴェルディはマントヴァの公爵につかえていた人物であり、彼の作曲した『オルフェオ』はイタリアで有名になった。

 

その後、イタリアの作曲家、アレッサンドロ・スカルラッティが登場した。アレッサンドロは、ナポリのオペラの発展を後押しした重要人物でもある。これらは、後の時代に、さらに一般化され、民衆的な音楽に変化する過程で、カンツォーネと呼ばれるようになった。


もちろん、今でもヴェネチアでゴンドラに乗ると、船を漕ぐ人が歌をうたうことがある。これはバルカローレといい、ヴェネチアの民謡の一形式にもなった。ナポリのオペラの後代のクラシック音楽への貢献度は計り知れない。ソナタ形式の原型である「急ー緩ー急」の原初的なスタイルを確立したほか、「Sinfonia」という形式を出発させた。イタリアのシンフォニアは、のちのドイツ古典派の重要な作曲の一部分を担った。

 

その後、オペラはイタリアから各国に伝わったフランスやイギリスで独自の進化を遂げた。フランスでは、リュリが中心となり、バレ・ド・クール(宮廷バレ)にイタリアのオペラの要素を追加した。イギリスでは、マスクと呼ばれる、仮面劇を基本としたオペラが発展していく。18世紀以降は、それぞれ各地域のオペラの形式が細分化していき、セリアとブッファの2つの形式に分割された。


その後、母国語を生かしたローカルなオペラが登場した。また、イギリスではバラッド、フランスではコミック、ドイツでは、シングシュピールが登場した。シングシュピールの代表的な作品は、稀代の天才、クラシック音楽の至宝モーツァルトの『魔笛』が挙げられる。現在では、多様な形のオペラが存在しています。今回の記事がオペラを楽しむためのきっかけとなれば幸いです。

 





マルティン・ルター像 ドレスデン


ルネサンス時代の音楽を完成へと近づけたのは、プロテスタントの先駆者であるマルティン・ルターである。ザクセン地方に生まれ、聖アウグスチノ修道院の司祭を務め、神学の博士号を得て、ヴィッテンベルグ大学で教鞭を取っていたルターであるが、彼の神なるものを捉える思考に疑問が生じた。

 

そもそも、人間は善行によって救われるというのが旧来のカトリックの教えであったが、それは本当なのかと、ルターはこの考えに疑問を挟み、その先にある、神の恩恵によって人間は救われるという教義に置き換えようと試みた。当時のローマカトリックの教義は政治的な腐敗の一途を辿っていた。マインツ大司教レオ十世は、俗に免罪符と呼ばれる贖宥状をローマ教皇であったレオ10世の許可のもと発行し、この証明書があれば、現世の罪が軽減され、死後の苦しみが軽減される、というお触れ書きを出したのだった。実のところ、これらの免罪符は、ローマ・カトリックがサン・ピエトロ大聖堂の改修費用をかき集めるための手段でもあった。

 

マルティン・ルターは義憤を覚え、これをローマカトリックそのものの腐敗と見て、強烈な反抗を企てようとした。ルターは、抗議文として、「95ヶ条の論題」を掲げた。これによって、宗教改革の動きが広がった。

  


ルターは、この抗議文の活動がもとで、1521年にローマカトリックから破門を言い渡されたが、それが新しいプロテスタントの扉を開き、ドイツの宗教主義の隆盛の礎ともなった。プロテスタントとはプロテストの派生語であり、そもそもが権威に対する反抗的な意図が込められている。これは後に、マックス・エルンハルトなど、組織に属さないアウトサイダー的な神学者をドイツから発生させる素地ともなったのである。

 

また、マルティン・ルターは、音楽に最も魅せられた人物であった。彼は神学の専門家であるにとどまらず、音楽にも造詣が深かった。

 

ルターは、「音楽は神が与えしものの中で最も美しく、そして、栄光を表す賜物である」とさえ述べている。また、フランドル学派などの音楽に親しみ、ジョスカン・デ・プレの音楽に心酔していた。ルターは、フランドルの作曲家、ジョスカン・デ・プレに対して、「彼だけが音符を支配することが出来た」と讃えたほか、スイスの作曲家、ルートヴィヒ・ゼンフルには、「未だかつて預言者が音楽以外の芸術を使用したことはない」と書簡で伝えたほどであった。

 

上記のエピソードを見るかぎり、マルティン・ルターの思想の中には、音楽は高次の啓示そのものであるという、ベートーヴェンやJSバッハと同じたぐいの考えが含まれていたことを伺わせる。ルターの宗教改革の趣旨は、ローマカトリックの腐敗した政治的手法を糾弾するだけではなく、新約聖書の使徒パウロの「信仰義認論」に回帰するというものであった。それと同時に、宗教そのものが組織の発展や勢力(地政学)の拡大に根ざした権威主義と距離を置き、元来の教義に帰るべきという考えを示した。ルターの仕事の手始めは、ラテン語で書かれた聖書の翻訳作業であった。彼は、聖書をドイツ語に翻訳し、これらの教えをドイツ圏で普及させた。

 

ルターが宗教音楽の一貫であり、以降のバロック音楽の端緒にもなるコラールを作曲し、それを広めようとしたのには、相応の理由があった。新約聖書のなかで、使徒パウロは、書簡で次のように語る。「詩の賛美と霊の歌によって感謝し、神を礼賛する」という言葉、これこそがマルティン・ルターの音楽観の礎になり、また、コラールの成立に繋がった。神という得難い存在を賛美するために音楽は存在し、音楽は神に仕えるために存在するというのが、ルターの考えです。おのずと、音楽は、上にいる存在に対して、従属的な趣旨を持った。 

 

しかし、ルターは、ローマ・カトリックと決別した後も、折衷主義を標榜していた。以降のルター派の教会では、ラテン語を慣習的に残し、カトリックの伝統的な典礼主義も継続した。しぜん、グレゴリオ聖歌に端を発する単旋法の聖歌、そして多旋律のカトリック音楽を融合させたことが彼のコラールの作曲の原点となった。 また、彼はラテン語をドイツ語に翻訳し、宗教音楽を発展させていく中で、「替え歌」の形式を出発させた。これは、旧来の宗教曲に、ドイツ語の新しい歌詞をつけて歌う、「コントラファクトゥム(Kontrafaktur)」の形式の原点になった。15世紀の音楽史においては、替え歌ですら新しい音楽としての印象を保ったのである。

 

ルターは、ミサと呼ばれる教会の典礼のための音楽を多く残した。ヴェッテンベルクで賛美歌を作曲したほか、他の人々にも作曲を手伝わせながら、単旋律中心の宗教音楽を発展させていった。 このルター派の音楽が、コラールの出発となるが、後には、単旋律が多旋律に変化して、キルへェンリートと呼ばれるようになった。


ルター派の音楽は、一般的な民衆のために、旧来の宗教曲を敷衍させるという意図が込められていた。旧来では、カソリックの典礼音楽を一般的な会衆が歌うことは珍しかった。ルターはこれらの音楽を一般的に開放し、礼拝のための音楽を一般的に普及させようと努めた。初期のコラールでは、一般的な信徒が斉唱で楽器の伴奏を伴わずに歌った。これがアカペラの始まりである。


また、ルターは宗教音楽と世俗音楽の融合を試み、後にバッハが「コーヒー・カンタータ」で完成させる民衆音楽の基礎を形成した。ルターは作曲に際して、騎士道のための音楽である、マイスタージンガーの歌曲を、マニエリスムによって模倣し、 A-A-Bから構成されるバール形式を参考にした。ルターが「コラール集」を出版した後、彼の死後も、この形式は継承された。コラールは合唱曲やオルガン曲に編曲され、ルターの教会音楽にとって不可欠なものに。17世紀から18世紀になると、JSバッハがコラールを、崇高な領域に押し上げた。

 

ルター派の宗教音楽はルネサンス音楽の重要な分岐点だったが、さらに、他地域で、同じように宗教曲の形式が発展していった。スイスのジュネーヴでは、カルヴァン派が台頭するにつれ、厳格な禁欲主義に回帰した。カルヴァン派は、主に商工業者の間で定着し、ヨーロッパの都市生活の規律的な基礎になった。16世紀後半になると、スイス、フランス、ネーデルラント、さらに中世時代からローマカソリックと対立していたスコットランドにまで普及していった。


カルヴァン派の音楽は、ドイツ主義とは異なり、フランス主義の一貫として浸透していった。聖書の詩篇をフランス語に翻訳し、カトリックの典礼や音楽を用いず、大衆的な旋律を単旋律で付け加え、それを歌うというシンプルな内容であった。カルヴァン派を受け入れた各国でも同じ動きが起こり、各地で聖書を母国語に翻訳し、世俗的な旋律を付け加え、新しい解釈を行った。この時代から、宗教曲は世俗曲とクロスオーバーし、独自の音楽として浸透していく。

 


▪️【バラードのルーツ】 イタリアのトレチェント音楽とフランチェスコ・ランディーニ

▪バラードとは何か? 


バラード(バラッド)は、この1世紀半の音楽の通例として、物語をモチーフにした叙情的な音楽として世に広く普及してきた。ゆったりとしたテンポで、ギターやピアノの弾き語りの曲が多く、ときどき泣かせる表現を含んでいる。また、ジャズでもバラードは登場し、ジョン・コルトレーンがこの形式をジャズの領域で実現させ、「ジャズ・バラード」という語を定着させた。

 

近代音楽の観点から言えば、アメリカのフォークバラードやイギリスのブロードバラードなどがこれに該当します。この音楽のルーツは、中世ヨーロッパの自由形式の叙事詩のことを指し、中世の伝説やロマン主義の物語を中心とした文学の一形態でした。古くは、イタリアの騎士道小説の題材としても扱われ、ペトラルカ、ダンテ、ボッカチオなどがバラードの題材を好んだ。一方、フランスでは、寓話で有名なラ・フォンテーヌがバラードにまつわる詩を書いた。


さらに、他のヨーロッパ地方にもバラードは伝播し、ドイツでは、ゲーテ、シラー、ハイネ、メーリケ、イギリスではバーンズ、そして、フランスでは、ユーゴー、デュマ、ミュッセがバラードの形式の詩を好んだ。しかし、文学者が四行詩(ヨーロッパでは4行スタンザという)を題材に選ぶはるか昔に、バラードは民謡的な舞踏音楽として一般的に親しまれてきた経緯があった。

 

バラードの語源は、イタリア語の「Ballare」であり、「踊る」という意味が込められている。後に、「単数形: Ballata/ 複数形: Ballate」という語が普及していき、その後に「Ballad」という呼称が定着した。

 

この舞踏音楽は、その後、古典音楽が次第に高度になっていく中で、「Gigue(ジーグ)」、「Menuett(メヌエット)」「Scherzo(スケルツォ)」「Waltz(ワルツ)」など、音楽的な性質をそのつど変化させながら、舞踏音楽ーー原初的なバレエの形式ーーを確立させていく。バラードというのは、聡明な読者はお気づきになられると思われるが、舞踏の形式を示す「Ballet(バレエ)」の語源でもある。これは地方の訛りによって呼称が変化したと見るのが妥当です。


バラードの起源は思ったよりも古く、「Medieval Music(古楽)」として一般的に知られている。少なくとも13世紀ごろには存在したと言われており、リュートや縦笛を伴う器楽的な民謡として始まった。その後、舞踏の要素を伴うダンスミュージックとして17世紀まで発展を遂げた。以降はジャズやポップ、ロックまで極細の音楽ジャンルに浸透していくことになった。

 

初期のバラードは、歌を口頭で伝えるという形で、西ヨーロッパを中心に普及していった。また、それは、楽譜や文学や詩の出版のような形を伴わず、完全な”ストリート・ミュージック”として発展していった。多くの場合、吟遊詩人(トルヴァドール)がリュートを片手に傍らにいる人々のために歌う、ささやかな民謡音楽であった。


バラードは、最初にイタリア北部と中部で発生した。バラードは「自由詩」と一般的に呼ばれるが、その反面、厳格な形式が存在した。基本的な音楽形式は「A-b-b-a-A」から成り、最初のスタンザと最後のスタンザは、同一の文脈の構造を持っている。つまり、主題を示すモチーフやテーマが提示された後、別のスタンザを経て、最初の主題に回帰する。クラシック音楽の作曲を勉強した方であればお気づきになられるはずですが、これはソナチネやソナタの原点でもある。全体的な三部形式という西洋の古典音楽のルーツはバラードの形式に拠る所が大きいようです。 

 

 

 

▪イタリアのトレチェント音楽  14世紀のフィレンツェの古楽

現代のフィレンツェ

フランスのノートルダムやブルゴーニュ地方で音楽文化が盛んになった後、イタリアのフィレンツェに主要な音楽の舞台は移り変わっていく。14世紀のフランスとイタリアは、それぞれ政治的な状況に関して異なる道程を歩んでいた。フランスは王政が敷かれ、以降の君主制の礎を形作する期間であった。

 

他方、イタリアは、各都市国家が繁栄し、それぞれの都市国家が同盟関係を結び、政治的な安定化を図っていた。そしてまた、経済発展も目覚ましかった。イタリアでは、フランスの宗教的な音楽の発展とは異なり、独自の音楽形式が繁栄をきわめた。

 

14世紀のイタリア音楽は、「Trecento((トレチェント)」と呼ばれた。現在では、古楽やメディエイヴァルとして知られている。トレチェントはイタリア語で「300」を意味し、この年代の音楽にとどまらず文化全般を示す文脈で使用される。 


トレチェント音楽の中心となったのは、イタリア半島の北部から中部にかけての地域であった。北部のボローニャやトスカーナの宮廷では、フランス南部の世俗音楽の先駆者であるトルバドゥールの音楽が親しまれていた。その後、イタリアの音楽の担い手となるトルヴァトーレが生み出された。

 

14世紀のフィレンツェ周辺の音楽は大半が即興演奏(インプロ)を中心に発展し、現存する資料は希少だ。14世紀から16世紀にかけて文化の中心地であったフィレンツェでは、14世紀ごろのメディエイヴァルが多く残されている。15世紀初頭に模写されたスクアルチャルーピ写本(ロレンツォ・メディチ図書館に所蔵)には、二声から三声の世俗的な歌曲が約250曲も収録されている。

 

スクアルチャルーピ写本から(テトラクティス)ー Naxos

 

この写本にも見受けられるように、トレチェント音楽は、マドリガル、カッチャという二形式に加えて、バラータ(現在のバラード)の全三形式から成立していた。マドリガルは、田園的、牧歌的なものを歌った詩、そして、恋愛をモチーフにしたものなどさまざまな形式がある。詩の形は、三行+二行から成立している。最後の二行は、小結尾(Coda)が付け加えられる。ただし、その後の部分は、まったく別の音楽が装飾的に付け加えられこともあった。これらがその後、最終的に簡略化され、一般的な4行詩(スタンザ)になったと推察される。 

 

カッチャは、イタリア語で「狩り」を意味し、アレグロやロンドの原初的な形式であると類推される。いきいきとした民衆的で素朴な旋律が特徴であり、カノン(異なる地点から別の声部が同じ旋律を演奏する)が付加されることもあった。さらに、バラードの原型であるバラータ(Ballata)は、踊りの伴奏として成立し、当時は''叙情的な性格を持った歌唱曲/合唱曲であった''と現存する資料の数々が伝えている。 これらはまた、ソナタ形式の二楽章や、アダージョ/アンダンテの楽章の原型と見ることが出来る。これらの原初的なトレンチェントは、一般的な古楽として知られているように、リュート、縦笛、ボーカル/チャントを取り入れた牧歌的な民謡として出発した。その中の固有の性質である物語の要素や詩の形式については上述した通りです。



▪バラードの先駆者 フランチェスコ・ランディーニ

ランディーニがオルガネットを演奏する姿。スクアルチャルーピ写本に収められたミニチュア。15世紀


 

フランチェスコ・ランディーニは、フィレンツェ出身の作曲家。幼い頃に天然痘にかかり、失明した。イタリアのトレチェント出身の画家の父の教育を受け、音楽や詩、占星学を学んだ。ランディーニは以降、オルガニストとして出世し、イタリア全土やヨーロッパで著名な存在となった。友人には同じく作曲家のアンドレアス・ダ・フロレンティアがいた。1375年頃に、アンドレアスは、セルバイト家のオルガニストとしてランデイーニを雇う。当時の資料には、三日間の調律の間に、彼らが消費したワインの記録がある。(中世ヨーロッパにおいて、ワインは嗜好品ではなく高級品であった)  彼の音楽的な才能が世に認められただけではなく、彼は傑出した知識人でもあった。彼は失明したにもかかわらず、楽器の制作に携わり、また、フィレンツェ大聖堂の建設時に重要な助言を行った。彼の建築的な功績は、大聖堂の鐘楼に残されている。
 
 
ランディーニは、アルス・ノヴァの重要な音楽家であった。彼は三声のための多数のバラードと多数のマドリガルの楽曲を作曲した。ランディーニの仕事の多くは失われた。それでも、彼のスタイルは、いわゆる「ランディーニ・ケイデンス/ランディーニ・カデンツァ(ランディーニ終止)」によって当時の作曲家に大きな影響を及ぼした。終止形(ケイデンス)は当時の作曲家にとって一番の腕の見せ所であり、ある種の美学とも言えなくもない。これは楽節の終止箇所において、導音(Ⅶ)から主音(Ⅰ)ではなく、第六音(Ⅵ)を経過し主音に戻るという独自の様式美でもあった。その他、ランディーニ終止の変形であるブルゴーニュ終止やバロック期に多用されたピカルディ終止(ヨハン・セバスチャン・バッハが好んで使用した)などがある。
 
 
ランデイーニ終止の凡例

 
 
フランチェスコ・ランディーニの現存する作品の多くは散逸したままである。89曲の二重唱バラタ、42曲の三重唱バラタ、二重唱版と三重唱版の両方が現存する9曲で構成されている。バラーダに加えて、少数のマドリガルも現存している。一部の専門家は、ランディーニは自作の詩も執筆したという説を唱えている。彼の作品は、驚くべきことに、14世紀イタリアの現存作品全体の約4分の1を占める。 現存する作品の多くが世俗的な音楽とされている。彼の音楽形式は、フランスのギョーム・ド・マショーと同じように、アルス・ノヴァの一環として見られる場合が多い。

 

フランチェスコ・ランディーニ作曲のバラッタ「Ecco la Primavera(春よ、来たれ)」のオリジナル楽譜


古楽としてのバラードの特徴は、ノートルダム楽派の牧歌的な気風を明確な形で受け継いでいる。その音楽に静かに耳を傾ければおのずと、フィレンツェの荘厳な建築の美しさや緑豊かな自然、そして、トルバドゥールと呼ばれる吟遊詩人たちの姿が目の裏に浮かび上がってきそうだ。ランディーニが生きた中世ヨーロッパは、黒死病や天然痘等、疫病の多い時代であった。しかし、その中をたくましく生きる人間にとって、疫病は音楽や詩の持つ美しさには叶わなかった。

 

バラッドの著名な作曲家にはそのほか、彼の友人であるアンドレアス・ダ・フィレンェ、バルトリーノ・ダ・パドヴァ、ヨハネス・チコニア、ザカラ・ダ・テラモ、ピエール・デ・モリンスがいる。

 

彼らは、アントニオ・ヴィヴァルディに象徴されるイタリアン・バロックの扉を開いた重要な先駆者であった。''バラード''の出発は、先述したように、宗教音楽でもなく、宮廷音楽でもない。一般的な市民のための民謡であった。そのため、多くの作品の作曲者は、不詳となっています。これらが後にロマン派の重要な形式となったのはご承知の通りです。


 



ルネサンス音楽の系譜を探る

 

Palace of the Dukes of Burgundy(旧ブルゴーニュ公宮殿 ヴェルサイユ宮殿を設計したマンサールにより再建 現在は市役所と美術館)


ルネサンス期は芸術全般が大きく繁栄したことはほとんど常識でありますが、音楽芸術においても独自の形態が出てきた。14世紀まではローマ・カソリックとフランク王国が結びつきを強め、同盟化し、西ヨーロッパ全土を掌握する中、芸術全般はその権威下で発展していくことを余儀なくされていた。しかし、15世紀以降は、レオナルド・ダ・ヴィンチやシェークスピアが絵画や演劇の世界で活躍し、ボッカチオは騎士道精神を込めた文学世界で大いに活躍した。

 

これらの時代は”芸術至上主義”が台頭した。旧来、カソリック教会の元で権威的な作品を王族や国家のために制作することを強いられたが、それとは異なる独立した芸術形態が出て来た。これらはまだ、王国や教会という組織や機構の元で名声を獲得するに過ぎなかった。しかし、それらの作品には、その多くが宗教的なモチーフが用いられていたが、芸術そのものを第二義的な範疇から開放し、表現者がよりいっそう自由な精神を発露するという意図が明確に示されていた。

 

 

・ルネサンス期と芸術の発展  宗教性と人間性 

Da Vinci(ダ・ヴィンチ)肖像画
 

これらのルネサンス期の時代背景を形成したのは、旧世界の拡大、言い換えれば、”新世界の発見”である。15世紀に至ると、旧来の封建制度が崩壊し、貿易が盛んになる。おのずと都市経済が発展していく。そして、これらは”人間の個別意識”を市民にもたらし、彼らは人間の理性に配慮しなければならなくなった。世の芸術家たちは、ギリシアやローマの旧来の芸術主義を参照した上で、人間の根本的な価値を探り、そして、人間的な概念を作品に求めるようになった。

  

これが俗に言われる「ルネサンス(再生)」と呼ばれる概念の正体であった。人間全体の生活が格段に向上していく中、人間そのものが社会の中でどのように生きるべきか、多くの人々は芸術活動や思想、哲学を通して探ろうとした。それは旧来の組織の中で生きる人間性からの脱却を意味していたのである。例えば、レオナルド・ダヴィンチは、繁栄と侵略が繰り返されるイタリアのフィレンツェで活動し、その生涯を通じて、宗教画、壁画、彫刻、建築の設計などを通して、自然探求、人間の生々しい姿、そして宇宙的な生命の神秘までを描いた。シェイクスビアは、王族から平民に至るまでくまなくその生活を観察し、すべての階級を活写した戯曲を書き上げた。ダンテは、幻想的な視点から、地獄、煉獄、天国を捉え、悲劇や喜劇、政治的な風刺、詩学を散りばめた文学作品を残した。いずれの芸術家も、それはその時代の人間の本性や、宗教改革が進む中で、模範的な人生観を探求していったという点において共通している。

 

15世紀以降は、新大陸の発見の時代だった。ヴァスコ・ダ・ガマによるインド航路の発見、マルコ・ポーロのアメリカ大陸の発見など、ヨーロッパ社会が新天地を発見し、世界にはまだ未知の大陸が存在することを明示した。スペインやポルトガル勢力は南アメリカ大陸を侵略し、植民地化する。また、1588年、イギリスはスペインとの開戦で無敵艦隊を撃破、そして植民地化政策の中で、その後、アフリカ大陸まで領土を拡大する大英帝国の基礎をこの時代の礎を築いていった。


 

 

・宮廷音楽家の登場 ブルゴーニュ楽派 ルネサンス音楽の礎を築く

 

 Guillaume du Fay (ギヨーム・デュファイ)

 

こうした中、フランスとフランドル地方で音楽芸術が発展していく。フランスではブルゴーニュ楽派が発生し、フランドルではフランドル楽派が誕生する。これらは前バロック期に当たり、宗教音楽を完成させ、以降のバロック音楽の礎を築いた。フランスの中東部にあるブルゴーニュ公国では、首都ディジョンとブリュッセルで音楽文化が花開いた。この地方は、6世紀ごろゲルマン系の部族によって王国が成立し、その後フランク王国の領土となった。1363年から1477年までは、ブルゴーニュ家が支配し、公国となった。この時代のブルゴーニュ公国の領土は、フランスの一部、そしてオランダ、ベルギー、ルクセンブルクにまたがっていた。

 

公国の首都はディジョンに置かれ、その後、ブリュッセルに遷都され、フランスに匹敵するほどの勢力を持った。歴代の君主は芸術主義を重視し、これを保護したため、音楽文化が盛んになった。ブルゴーニュの音楽文化を担った礼拝堂楽団は、最盛期には28人の専門的な音楽家を抱えた。これは、フランス王室やアヴィニョンの礼拝堂楽団をしのぐほどの規模であった。その中で、ブルゴーニュ楽派は、宗教音楽を発展させる。中世のアルス・ノヴァという形式からルネサンス期の音楽形式へと移行させる。ブルゴーニュ楽派は、旧来のフランスの音楽を発展させ、その中で、イギリスの和声、そしてイタリアの旋律からの影響を受け、独自のルネサンス形式へと昇華させた。その中で、活躍した作曲家は、デュファイ、バンショワが挙げられる。

 

デュファイの音楽を聴いてみてほしい。リュートを用いた曲が多く、宗教音楽の印象は意外なほど薄い。特に、その音楽の中には、ケルト民謡などからの影響も見受けられ、民俗音楽も併存している。ブルゴーニュ楽派の音楽は、公国としての短期間での滅亡を度外視すると、平和の象徴とも言える音楽であり、ボヘミアンの性質が一際強い。権威主義の音楽とは対象的である。

 

デュファイは、ローマ教皇庁の礼拝堂楽団のメンバーとして活躍し、北フランスのカンブレでも活動した。その後、イタリアとブルゴーニュの両方で活動を行っていた。ブルゴーニュ音楽の専門的な特徴は、「フォーブルドン」と呼ばれる6度と3度の音程が連続する形式にある。これは後にイタリン・バロックの名手、スカルラッティがソナタで完成させている。音楽的な気風としては、どことなく田園の風景を思わせ、実際にこのソナタは「パストラル」と呼ばれたりもする。

 

3度と6度の連続する音程については、イギリス音楽からの影響があり、対位法の基本的な構成である。また、音楽の終止形にその土地の特性を込めるのが、当時の流行であった。ブルゴーニュ楽派では、旋律が導音(7音)から第6音に下降してから主音に向かうランディーニ終止が用いられた。ブルゴーニュ楽派では、ミサ曲、マニフィカト、モテットをはじめとする宗教曲も演奏されたが、同時に、世俗的な音楽への道を切り開いた。この時代からシャンソンやロンドなど、ポピュラー、ソナタや交響曲の三楽章などでお馴染みの世俗的な音楽も台頭するようになった。この15世紀の時代にポピュラー音楽は最初の萌芽を見せ始めたと言えるだろう。 

 

クラシック音楽というと、お硬いイメージを覚えるかもしれない。けれども、これらの音楽を見るとわかるように、世俗的な音楽と宗教的な音楽は互いに影響を及ぼして発展してきたことがわかる。世俗的な音楽と宗教な音楽はその後のバロック期を通じて、その融合性を強めていくことになった。

 

 

 Guillaume du Fay (ギヨーム・デュファイ)- 「saltarello」

 

 

 

 

・フランドル楽派  教会音楽家らがバロックの扉を開く

 

フランドル楽派と楽奏天使


一方、現在のベルギーの古い呼称でもあるフランドルについてはどうでしょう。フランドル楽派は、戦争の中で、ブルゴーニュ公国が滅亡した後に繁栄をきわめた。ブルゴーニュ公国が1474年から始まったフランスとの戦いの中で、公国のシャルル大公が戦死し、ブルゴーニュ公国はあっけなく終焉を迎えた。公国はフランスに併合され、 ネーデルラント地方(オランダ)は、フランスの王族から後にオーストリア地方の最大勢力であるハプスブルク家の領地へと譲渡された。

  

ブルゴーニュ公国が滅亡してから、ブルゴーニュ家に仕えていた音楽家たちは、国際的に活躍していたため、各地方の宮廷に使え、音楽の発展に貢献を続けた。以後、フランス北部やネーデルラント地方の出身の音楽家は、”フランドル楽派”の名称で親しまれた。この楽派の音楽家はパリの北部(現在のベルギー)に位置するカンブレの聖堂や教会で体系的な音楽教育を受けた。そして、その土地の宗教的な性質が強いことを受けて、教会の聖職に就くことが多く、聖歌隊のための作曲を行う。専門的な宗教音楽家は、12世紀から13世紀にかけてのノートルダム楽派が有名だが、この時代から音楽家としての職業性が強まり、専門職として一般化していく。

 

フランドル楽派は、過去のグレゴリオやノートルダムの原初的な音楽を発展させた。3声と4声のポリフォニックな旋律を導入させ、以降はそれ以上の声部の旋律をなす作品を制作していった。これらの複雑な対旋律が特徴のバロック音楽への扉をフランドル楽派が開いたのである。


旋律だけではなく、拍動も複雑化し、複合的なリズムを取り入れる。フランドル楽派の音楽は、ブルゴーニュ楽派のケルト音楽などの民俗音楽色の強い音楽形式とは対象的で、この時代において最も宗教音楽の性質が根強い。それはこの楽派に属する音楽家たちが、教会や聖堂の宗教活動の一貫として、これらの音楽を制作していたからである。彼らは、ミサ曲やモテット、儀式的な音楽を中心に制作し、それらは実際の修道士の仕事で演奏される場合が多かった。

 


Josquin Des Prez(ジョスカン・デ・プレ)

 

この時代に登場した中で傑出しているのは、ジョスカン・デ・プレ、そして、オケヘム、クレメンス・パパ、ラッソである。オケヘムは、モテットやミサ曲を中心に作曲し、重々しく厳粛な作風を確立した。一方、デ・プレは宗教音楽に根ざしながらも、イタリアのバロックのような優雅な旋律とハーモニーが特徴である。ジョスカンは、''ルネサンス期最高の作曲家''と呼ばれ、宗教作品のみならず世俗的な作品も数多く残した。彼の音楽は、通模倣形式と呼ばれるフーガの追走の形式の基礎をなし、以降のスカルラッティやバッハのバロック音楽の流れを形作った。

 


Josquin Des Prez(ジョスカン・デ・プレ)- 「Ave Maria」




 


先日開催されたバッハ・コンクール 2025は、13カ国から27人のピアニストが参加し、審査員と聴衆を魅了した。決勝の舞台となったライプツィヒ・ゲヴァントハウスで開催されたコンサートでは、ベスト3が対決した。コンクールは、21歳のチェコ人の演奏家ヤン・チェメイラが制した。

 

ヤン・チェメイラは優勝賞金20,000ユーロと史上初の聴衆賞2,000ユーロを獲得した。第2位もチェコの31歳のピアニスト、マレク・コザークに贈られた。第3位の5000ユーロはイスラエルのピアニスト、マリアムナ・シャーリングが受賞した。



各賞は、トマス・カントール(聖トーマス教会のカントル職)として27年間ライプツィヒで活躍したドイツの歴史的な作曲家ヨハン・セバスティアン・バッハの誕生日である3月21日に授与された。

 

セバスティアン・バッハの楽曲に加え、ドミトリー・ショスタコーヴィチの作品も、ライプツィヒの3つの評価ラウンドに参加した24人の参加者の必修プログラムの一部となった。50年前に亡くなったショスタコーヴィチは、1950年の第1回バッハ・コンクールの審査員だった。

 


ヨハン・セバスティアン・バッハ没後200年を記念して1950年に創設されたライプツィヒ・バッハ・コンクールは、2025年に75周年を迎える。

 

ドイツ分割後もしばらくの間、プレ選考会はドイツ全土で開催され、本選はライプツィヒで開催された。当時、審査員にはドミトリー・ショスタコーヴィチがいた。コンクールの雰囲気に触発されたショスタコーヴィチは、数年後、ピアノ部門の第1回優勝者であるタチアナ・ニコライエワに「24の前奏曲とフーガ」を献呈した。



現在、コンクールの形式は変わり、年に1度、単一部門で開催されるようになった。2025年、ピアノが王者となる。ライプツィヒでは、13カ国から27人の候補者が出場する。

 

決勝では、3人のファイナリストはそれぞれ、必修曲であるバッハの「半音階的幻想曲とフーガ ニ短調」と、好きな古典派、またはロマン派のピアノ協奏曲を演奏した。エンリコ・デランボイエ指揮MDR交響楽団の伴奏で実演を行った。

 

 

 


 

【ファイナリストと受賞者】



・ヤン・チェメイラ(チェコ共和国) - 第1位および聴衆賞 ★


演奏曲: ヨハン・ゼバスティアン・バッハ:半音階的幻想曲とフーガ ニ短調 BWV 903
F. メンデルスゾーン=バルトルディ:ピアノ協奏曲第1番 ト短調 Op.25



・マレク・コザーク(チェコ共和国)-第2位


演奏曲: ヨハン・ゼバスティアン・バッハ:半音階的幻想曲とフーガ ニ短調 BWV 903
エドヴァルド・グリーグ:ピアノ協奏曲 イ短調 作品1



・マリアムナ・シャーリング(イスラエル) - 第3位


演奏曲: ヨハン・ゼバスティアン・バッハ:半音階的幻想曲とフーガ ニ短調 BWV 903
ロベルト・シューマン:ピアノ協奏曲 イ短調 作品54
 

 

【Jan Čmejla(ヤン・チェメイラ)】 

 

ヤン・チェメイラ(21)はプラハ音楽院でエヴァ・ボグニョヴァーに師事し、その後マンハイムでヴォルフラム・シュミット・レオナルディに師事した。ボリス・ギルトブルク、ラン・ラン、ゴーティエ・カプソンのマスタークラスに参加。

 

エピーナル国際ピアノコンクール(2022年)、コンチェルティーノ・プラガ(2019年)、サンタ・チェチーリア・コンクール(2021年)で優勝。アメリカ、チェコ共和国、中国で演奏活動を行っている。



マレク・コザーク(31)はプラハ音楽アカデミーでイヴァン・クラーンスキーに師事。ブレーメン・ヨーロッパ・ピアノ・コンクール(2018年)とチューリッヒのジェザ・アンダ・コンクール(2021年)で優勝し、チェコ共和国、ドイツ、ポーランドで演奏活動を行っている。2024年にはプラハ放送交響楽団とチェコのピアノ協奏曲のCDを録音。


マリアムナ・シャーリング(23)は、モスクワのチャイコフスキー音楽院でチェコ・フィルハーモニー管弦楽団とともに学んだ。

 

Wiener Philharmoniker Photo: Dieter Nagl

 

ウィーンフィルハーモニー管弦楽団のニューイヤー・コンサート2025が元旦に開催されます。2025年の公演は、ウィーンフィルが「最もウィーン的」と紹介するシュトラウスのプログラムを中心に1月1日に演奏されます。デジタル配信が1月8日に全世界で開始されます。コンサートの映像は世界90ヵ国で放映され、NHKでも1月1日の午後7:00から放映予定です。

 

2025年のウィーンフィル・ニューイヤー・コンサートは、リッカルド・ムーティを指揮者に迎えて、ストラウス一世、二世を中心とするプログラムが組まれており、意外な曲目が含まれている。コンスタンツェ・ガイガーという一般的に知られていない女性作曲家を対外的に紹介します。1939年初演という由緒ある伝統を持つウィーンフィル・ニューイヤーコンサートはこれまで、カラヤン、アーノンクール、小沢征爾らを指揮者に迎え、新年の到来を祝う素晴らしいコンサートを開催してきた。放映を前に来年度の注目しておきたいポイントを以下にご紹介します。

 

 

世界的な指揮者 リッカルド・ムーティ

Riccard Muti


イタリアのナポリ出身のリッカルド・ムーティは世界最高峰の指揮者。2010年に第10代シカゴ交響楽団(CSO)音楽監督に就任しました。指揮者としての全盛期には、フィレンツェ五月音楽祭(1968-1980)、ロンドンのフィルハーモニア管弦楽団(1972-1982)、フィラデルフィア管弦楽団(1980-1992)、ミラノ・スカラ座(1986-2005)において、輝かしい実績が築かれました。


リッカルド・ムーティはザルツブルグ音楽祭の芸術監督を務めていたカラヤンの招聘により、1971年に同音楽祭でデビューしている。それ以来、ウィーンフィルとの友好的な関係を築き、現在に至るまで同音楽祭に欠かせない重要な指揮者となった。

 

同音楽祭で演奏するウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とは、深い信頼関係を築いており、数々の記念すべき名演奏を残している。若い音楽家の育成にも情熱を注いでいる。2004年にはケルビーニ・ユース・オーケストラを設立。2015年には若手指揮者にイタリア・オペラの正統を伝えるため「リッカルド・ムーティ・オペラ・アカデミー」を主宰。2011年に70歳の誕生日を迎えるに際し、 ウィーン・フィルの名誉団員の称号を授与。これまでに、イタリア共和国カヴァリエーレ・ディ・グラン・クローチェ、フランスのレジオンドヌール勲章ほか、数多くの国際的な栄誉を受け、2018年には第30回「高松宮殿下記念世界文化賞」を受賞しています。

 


ウィーン・フィル ニューイヤー・コンサートの長きにわたる歴史


 Herbert Von Krajan (1987)

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のニューイヤーコンサートは今や世界中で知られており、本楽団によるシュトラウスの楽曲の演奏は「ワルツ王」の時代、つまりウィーン・フィルの歴史の始まりまで遡るという印象を与えているかもしれませんが、史実は異なるという。実際、楽団員は長いこと、当時作曲された最も「ウィーン的」なシュトラウスの音楽を取り上げてきませんでした。それはシュトラウスの音楽が娯楽的であるという理由によるんだそうです。彼らは、「娯楽音楽」と関係することで、「フィルハーモニー・コンサート」により向上した社会的地位が脅かされると考えたようです。シュトラウス一家に対する、この姿勢は徐々にしか変わりませんでした。


この姿勢を変えた決定的なことは、フランツ・リスト、リヒャルト・ワーグナー、ヨハネス・ブラームスなどの偉大な作曲家が、この作曲家一族の二人を大変高く評価していたという事実に加え、ヨハン・シュトラウス二世と何度か会うことで、ウィーンフィルの楽団員がこの音楽の意義やヨーロッパ中を魅了していた作曲家の人柄を知る機会を得たということにありました。



作曲家ヨハン・シュトラウスとウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の長年にわたる友好的な関係


ウイーンフィルとシュトラウスの友好関係は長きにわたり深められてきました。ウイーンフィルの楽団員とヨハン・シュトラウスが出会って間も無く、シュトラウスの楽曲が初演されることとなりました。

 

1873年4月22日にウィーン楽友協会のホールで開催された宮廷歌劇場主催の舞踏会のためにシュトラウスはワルツ『ウィーン気質』を作曲し、ヴァイオリンを自ら演奏しながら指揮しました。1873年11月4日にはウィーン万国博覧会に参加した中国の委員会が開催したガラコンサートで父親やヨーゼフ・ランナーの楽曲、そして『美しく青きドナウ』の公演を行いました。


続いて、宮廷歌劇場のソワレにおいて(1877年12月11日)、シュトラウスは彼が作曲した《古きウィーンと新しきウィーンの回想》の初演を指揮しました。この曲は、残念ながら今は失われてしまった、彼のあるいは彼の父親の楽曲のテーマのメドレー集だと言われています。1894年10月14日にウィーン・フィルはシュトラウスの音楽家生活50周年を記念する祝賀演奏会に参加し、(その返礼として)シュトラウスは記念メダルおよび電報を送り、謝意を表明しました。


ヨハン・シュトラウス」その次の共演には悲しい結末が待ち受けていました。1899年5月22日にシュトラウスは宮廷歌劇場で『こうもり』の公演の最初で最後となる指揮を振りました。その時に風邪を引き、これが肺炎を誘発し、1899年6月3日に死去。


1979年10月にヴィリー・ボスコフスキーが健康上の理由で1980年のニューイヤーコンサートをやむを得ず降板した後、ウィーン・フィルは再び抜本的な改革を行いました。国際的な名声を博していた指揮者であるローリン・マゼールが選出、彼が、1996年までニューイヤーコンサートの指揮を振ることになった。その後は、毎年指揮者を替えることが決定されました。その始まりをヘルベルト・フォン・カラヤンが1987年の忘れがたいコンサートで華々しく飾りました。


その後、クラウディオ・アッバード、カルロス・クライバー、ズービン・メータ、リッカルド・ムーティ、ローリン・マゼール、小澤征爾、ニコラウス・アーノンクー、マリス・ヤンソンス、ジョージ・プレートル、ダニエル・バレンボイム、フランツ・ヴェルザー=メスト、グスターボ・ドゥダメル、クリスティアン・ティーレマン、アンドリス・ネルソンス(2020年)といった、主にウィーン・フィルの定期演奏会の指揮者がニューイヤーコンサートを指揮した。マエストロ、リッカルド・ムーティがニューイヤー・コンサートで指揮するのはこれで7度目となります。

 

 

ニューイヤー・コンサートのこぼれ話 

2021年のニューイヤーコンサート


ニューイヤー・コンサートは、ザルツブルグ音楽祭と並び、オーストラリアの音楽祭としては最大規模。ウィーン楽友協会の黄金ホールで開催されるということもあり、新年らしい華やかなムードを素晴らしいオーケストラの演奏と共に体験出来ます。しかし、このニューイヤーコンサート、実は、12月30日、大晦日、1月1日と、3日間にわたって開催されるのが恒例です。1月1日の演奏だけが世界的に配信され、生放送されるのが通例となっているんです。

 

また、このコンサートは、一般的な参加が可能ですが、コンサートのチケットは抽選式となっています。毎年のように熾烈なチケット争奪戦が繰り広げられ、世界から約50万人の抽選応募があり、当選するのはかなり難しいという話。抽選の申し込みは、通例では、2月1日から29日までとなっているようです。また、”チケットは一人2枚まで”というのが規則となっている。

 

2021年のウィーンフィルのニューイヤーコンサートは無観客で開催され、地元オーストリアのTV視聴率はなんと54%を記録し、歴史的な視聴率を獲得しました。同年のコンサートは、およそ120万人が視聴したと試算されています。また、この年のコンサートでは、楽団や指揮者の登場時は無音だったものの、第一部と二部の間にオンラインで視聴していた七万人の拍手をリモートで映像で届けるという荒業が取り入れられた。 

 

実は、この年、コンサートの指揮を振ったのが他でもない、リカルド・ムーティでした。彼は、ウィーンフィルと協力し、80年以上に及ぶ、同コンサートの伝統を守り抜くことに成功しました。

 

オーストリア日刊紙「クーリエ」は、この年のコンサートについて、次のように評しています。「芸術的にこれ以上望むものはない」「リッカルド・ムーティとウィーン・フィルは聴衆に特別な音楽的な饗宴をもたらしてくれた」。さらに、同国のクローネ紙も同様に「ウィーン・フィルは魅惑的な色彩感、そして洗練された音に包まれた」と手放しの称賛を送りました。

 

またとない豪華な共演、そして饗宴。様々な楽しみ方が出来るウィーン・フィル・ニューイヤー・コンサート。2025年の年始は、ご家族で生中継をご覧になってみてはいかがでしょうか。

クリスマスソングの集大成  J.S.Bachのクリスマス・オラトリオ  世俗と神聖を繋げるもの

 

オランダ・バッハ協会

  数日後にクリスマスが近づいてきた。クリスマスソングの定番曲というのはそれぞれ国によって異なる。イギリスではキャロル、フランスではノエルがある。そしてドイツ語圏はなんといっても、バッハの「クリスマス・オラトリオ」が定番である。J.S.バッハがクリスマス・カンタータ(合唱付きの器楽曲)を作曲したのは1734年のこと。この年の終わり頃に成立したクリスマス・オラトリオは6つの構成に分かれている。


 「クリスマス・オラトリオ」は、1734年のクリスマスから1735年の顕現節(1月6日)にかけて、年をまたいで、カンタータとして実際に演奏された。バッハは聖トーマス教会の聖歌隊を率い、同地の聖ニコライ教会と聖トーマス教会を往復し、オラトリオを演奏したという。この曲はレスタティーヴォ(現代風に言えば、スポークンワードで、ルター派の福音書のナビゲーターとしての独白的なセリフが合唱や器楽曲の間に現れる)が登場するのが特徴だ。

 

 合唱で始まり、シンフォニア、アリア、レスタティーヴォを交えながら、最後はコラール(福音書の引用)で終了し、総計64曲にも及ぶ。それでは、J.S.バッハはなぜ、このような前代未聞の大掛かりな作曲に挑戦したのだろう。それはバッハがライプツィヒのカントルという教会の教師職にあり、クリスマス、受難節、王侯の祭礼に際して、多くの作曲を行ったという点から話を始める必要がある。

 

 バッハの作曲の総数は、BWV(作品目録のことで、バッハ専用のアーカイヴのような意味がある)の番号で1100以上にのぼり、史上最も多作な作曲家として知られているが、その多くが依嘱的な作品か練習曲のための作品(インヴェンション等)である。つまり、バッハがこれだけ目の眩むような膨大な作品目録を残したのは、教会から作曲の依頼があり、そして教師として、教会音楽の教材を作る必要に駆られたからである。そしてバッハは、1100以上もの作品を制作したが、すべてが新曲ではなく、旧作の作り替えも含まれている。この時代は口うるさく言うメディアもいなかったため、バッハ一族(バッハの時代はなんと40人以上もの親族がいた)で楽曲の使い回しをしたり、自身の楽曲のパロディー(再利用)を心置きなく行ったことは、専門の研究者の間でもよく知られている。


ライプツィヒの聖トーマス教会


 1723年、バッハがライプツィヒの聖トーマス教会のカントル(Kantor)の職に応募したとき、 二人の有力なライバルがいた。当初、聖トーマス教会側はテレマンとグラウプナーに目星をつけていたが、両者に断られた結果、バッハがカントルに着任した。選定の難航があった理由は、ライプツィヒ市の派閥争いがあり、バッハが教会付属の高等教育を終えただけの人物であったことが大きい。当時のカントルは学歴が重視され、音楽教育の生徒に施すだけではなく、ラテン語の教理問答や文法の教育が必須だった。ことバッハに関しては、学生時代に修辞学を学んでいるが、前任者ヨハン・クーナウに比べると、アカデミズムの観点から不安があった。18世紀のライプツィヒには啓蒙主義の波が押し寄せ、音楽よりも実学を重んじる風潮が強まっていたのだ。

   

 1723年、カントルとライプツィヒ市の音楽監督に就任した後、40代のバッハには並外れた多忙な時期が到来した。カントルに就任したバッハの最初の任務は、音楽教師としての指導、そして、もうひとつは、ライプツィヒの市議会議員のような任務を同時にこなすことだった。これは中世ヨーロッパの教区制度というのに起因している。教会がその地域の自治や政治的な役割を担っていたのである。もちろん、これは音楽的な性質が強いことは言うまでもない。

 

 バッハの任務も同様で、ライプツィヒ市の教会の全般的な音楽を取り仕切るという役目があった。これは、もちろん、同地域の何らかの祭礼の時に、バッハ自身が音楽監督を務めたということである。特に、この時代、聖トーマス、聖ニコライの二つの教会の安息日や祝日のための音楽を、バッハは制作する必要に駆られた。これこそ、バッハの音楽が、カンタータ等の楽曲の形式に象徴されるように、祭礼的な意味や宗教儀式的な性質が色濃い理由と言えるのである。

 

 J. S.バッハの音楽というのは、気忙しい現代人にとって大掛かり過ぎるし、また、近寄りがたい面があると思うかもしれない。じつは私もその一人であることには違いないが、バッハの曲が、現代的な音楽の尺度からみると、膨大かつ長大にならざるを得ないのには理由がある。これは意外にも実務的な要因に拠る。特に祝日や祭礼のための音楽は、主にカンタータの形式で書かれ、20分から30分に及ぶ宗教曲が年間60曲ほど必要であったという。これらの曲の多くは、宗教的な神に対する捧げ物として書かれた一方、教会組織に対する捧げ物として制作された経緯があることを考慮に入れたい。バッハとても、もし「こういった曲を書いてほしい」という依嘱がなければ、これほどまでに膨大な総数を持つBWVを作らなかったことは明らかなのである。

 

 おどろくべきは、これらの楽曲のほとんどは制限がある中で書き上げられたという点である。つまり、バロック派以降のロマン派のような個人的な音楽を作ることは非常に少なく、職業的な作家としての作風を維持することを余儀なくされた。同時に、作品を量産しなければならないという重圧の中で多くの制約が存在した。 一つ目は、カンタータという形式の中にあるテキストは、安息日の礼拝の内容に準ずる必要があった。つまり、自由な形で神学的な歌詞を書きこむことは出来なかった。そして、二つ目は、同じカンタータの曲を毎年連続して演奏することもご法度だった。例えば、祝日等に演奏される楽曲が去年と同じ内容であることは一般的に倦厭されたのだ。


 そこで、何年かごとに演奏する曲を入れ替えながら、カンタータは演奏されるというのが通例だった。バッハは、このライプツィヒのカントルの教職にある年代に、およそ5年分のカンタータを書き溜めようと試みた。このほかにも、バッハは以降の時期に多忙な生活を送っている。カントルの職にありながら、音楽教育者としての責務を果たす。楽譜の転写、練習、実際的な演奏の手解きを生徒に施すかたわら、自身の作曲の目録を着実に組み上げていったのである。


 

第三部「天を統べたもう者よ」の情景 農夫の前に聖母と幼子が顕現する


 名曲というのは、そう簡単には出来上がらない。こうした多忙な環境の下で制作された不朽のクリスマス曲「クリスマス・オラトリオ」は、先述したように、パロディ(楽曲の再利用)が取り入れられた。1729年頃から、バッハは、テレマンが創設した学生の演奏団体「コレギウム・ムジウム」を引き継ぎ、ツィマーマンのコーヒー店(18世紀のドイツ最大のコーヒーショップ)の庭で室内楽やカンタータを演奏した。その後、いくつかの楽曲の再利用に取り組んだ。

 

 当該作品の合唱曲やアリアの多くが既存の世俗カンタータからの転用である。とくに、1733年にザクセン選帝侯のために書かれた表敬カンタータ(BWV213、214)が主体になっている。つまり、既存の音楽的な枠組みに福音書を引用した歌詞や合唱、レスタティーヴォを付け加えていった。


 ここには、バッハの再利用に対する容認的な考えと、自身の楽曲が埋もれてしまうことへの惜しさがあったという通説がある。その一方、作曲者の見地から見ると、旧来のテーマや題材を組み替えて洗練させ、崇高な作品に仕上げたいとの欲求も読み解けるかもしれない。そしてもうひとつ、通俗性の中に神聖な概念を見出すという作曲者の隠れたメッセージを読み解くことが出来る。さらに、バッハが作曲の狙いとして定めたのは、世俗と神聖という二つのかけ離れた主題をクロスオーバーしながら、それを繋げるというものであった。ここには、バッハの考える理想的な音楽ーークリスマス・オラトリオーーが限定的な特権階級にとどまらず、一般的に開かれるべきという思いを読み取れなくもない。これは、教会の教師職という立場が、そのような切実な思いを浮かび上がらせたと言える。次いで、楽曲の再利用に関しては、多くの作曲家にとって、楽曲は一度書き上げただけで完成ではなく、もし、編曲や改良の余地が残されていれば、それに迷わず取り組むというのが、作曲家としての責務であると考えていたのではないかと推測される。

 

 クリスマス・オラトリオは、一般的には教会の祭礼のために作曲された作品であることに違いない。しかし、作曲の最初の動機は教会の祭礼のためだったが、「誰に向けて奏でられるべきなのか?」という疑問を抱いたとき、もうひとつの見解が浮かび上がる。これは、バッハが聖トーマス教会の聖歌隊を率い、二つの教会を往復しながら、オラトリオを生演奏したというエピソードに関して、その演奏を誰が耳にするのかというポイントを探ればよく分かる。つまり、バッハは、このカンタータを神聖な存在のために捧げたのみならず、民衆のために捧げたのだ。それゆえ、現代のクリスマス・オラトリオもまた、民衆的な響き、神聖的な響きが幾重にも折り重なり、崇高なハーモニーを形作り、我々を魅了してやまない。それはおどろくべきことに、最初の演奏から300年近くが経過した現代の私達に鮮烈なイメージすらもたらすのである。


下記のクリスマス・オラトリオの演奏は数日前に公開されたオランダ・バッハ協会のもの。ぜひ年末にかけてじっくり聞いてみていただきたい。




 もし、図書館で調べ物をしていて、2世紀以上前の有名作曲家の楽譜を見つけたとしたら??   


 そんなロマンを感じさせる出来事が音楽の都ドイツのライプツィヒで起こった。今回、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの死後230年以上が経ち、新しい楽譜が発見された。モーツァルトが10代の頃に書いたと思われる、未発表曲がドイツの市立図書館で発見されたというのだ。


 ライプツィヒ市立図書館の公式の声明によると、「Ganz kleine Nachtmusik(ガンツ・クライネ・ナハトムジーク)」と呼ばれる12分に及ぶ曲は、1760年代半ばから後半に制作されたと見られ、弦楽三重奏のための7つの小楽章で構成されているという。さらにライプツィヒ市立図書館の発表によると、研究者がこの曲をライプツィヒの音楽図書館で発見したのは、いわゆる「ケッヘル」カタログの最新版を編集している時だったという。


ライプツィヒ市立図書館で発見されたモーツァルトの未発表曲の模写


 今回、ライプツィヒで発掘された手稿はモーツァルトが個人的に書いたものではなく、研究者によれば、1780年に作成されたオリジナルの楽譜の模写であると推察される。この曲は、今週木曜日(9月19日)にオーストリア・ザルツブルグで行われた最新版のカタログのお披露目で弦楽三重奏によって初演され、続いて、土曜日(9月21日)にライプツィヒ歌劇場で初演される予定。


 ザルツブルクの国際モーツァルテウム財団のウルリッヒ・ライジンガー氏は、この曲について声明を通じて次のように述べています。「この曲の着想はどうやらモーツァルトの妹から得たようなので、妹が兄の形見として、この作品を保管していたのではないかと想像したくなる」


 ケッヒェル・カタログは、この曲について、1769年12月、神童モーツァルトがまだ13歳であった頃に書かれたもので、「作者の帰属から、モーツァルトが初めてイタリアを旅行する前に書かれたものであることが示唆される」と述べています。

 

 2世紀余りが経過しても影響力を失わぬ音楽家であり、いつの時代もセンセーショナルであり続ける。それがヴォルフガング・モーツァルトの偉大さなのかもしれない。


こちらの記事もおすすめ: J.S. BACH - 『GOLDBERG-VARIATIONEN BMV 988』 チェンバロの高らかな音響の再発見 

 

John Adams


ジョン・クーリッジ・アダムス(John Coolidge Adams)は1947年生まれの米国の現代音楽家。1971年にハーバード大学でレオン・キルヒナーに学んだ後、カルフォルニアに移り、サンフランシスコ音楽院で教鞭と指揮者として活躍、以後、サンフランシスコ交響楽団の現代音楽部門の音楽顧問に就任する。1979年から1985年まで楽団の常勤作曲家に選出される。

 

その間、アダムスは『Harmonium(ハーモニウム)』、『Harmonielehre(和声学)』を始めとする代表的なスコアを残し、作曲家として有名になる。以後、ニュー・アルビオン、ECMといったレーベルに録音を提供し、ノンサッチ・レコードと契約する。1999年には『John Adams Ear Box』を発売した。


ジョン・アダムスの作風はミリマリストに位置づけられる。当初は、グラスやライヒ、ライリーの系譜に属すると見なされていたが、コンポジションの構成の中にオリヴィエ・メシアンやラヴェルに象徴される色彩的な和声法を取り入れることで知られる。


その作風は、新ロマン主義に属するという見方もあり、また、ミニマルの未来派であるポストミニマルに属するという解釈もある。彼の作風では調性が重視されることが多く、ジャズからの影響も指摘されている。

 

管弦楽『Fearful Symmetries」ではストラヴィンスキー、オネゲル、ビックバンドのスウィングの技法が取り入れられている。また、ライヒのようなコラージュの手法が採られることもある。

 

チャールズ・アイヴズに捧げられた『My Father Knew Charles Ives』でもコラージュの手法を選んでいる。1985年の歌劇『Nixon In China(中国のニクソン)』の晩餐会の場面を管弦楽にアレンジした『The Chairman Dances(ザ・チェアマン・ダンス)」は管弦楽の中では再演される機会が多い。

 

ジョン・アダムスの作曲家としての主な功績としては、2002年のアメリカ同時多発テロを題材に選んだ『On The Transmission of Souls』が名高い。この作品でアダムスはピリッツァー賞を受賞した。ロリン・マゼール指揮による初演は2005年度のグラミー賞の3部門を獲得した。



Phrygian Gates / China Gates  (1977)

 


 

ジョン・アダムスのピアノ・スコアの中で特異なイデアが取り入れられている作品がある。『Phyrygian Gate and China Gates』であり、二台のためのピアノ協奏曲で、マック・マクレイの委託作品で、サラ・ケイヒルのために書かれた。

 

この曲は1977年3月17日に、サンフランシスコのヘルマン・ホールで、ピアニスト、マック・マクレイにより初演された。和声法的にはラヴェル、メシアンの近代フランス和声の系譜に属している。

 

この2曲には画期的な作曲概念が取り入れられている。「Gates- 門」は、なんの予告もなしにモードが切り替わることを意味している。つまり、現実の中に別次元への門が開かれ、それがミルフィール構造のように移り変わっていく。


コンポジションの中に反復構造の意図が込められているのは事実だが、音階構造の移行がゼクエンツ進行の形を介して段階的に変化していく点に、この組曲の一番の面白さが求められる。つまり、ライリー、ライヒの作品とは少し異なり、ドイツのハンス・オッテ(Hans Otte)のポスト・ミニマルの系譜にあるコンポジションと言える。さて、ジョン・アダムスは、このピアノの組曲に関してどのように考えているのだろうか。


 



 

「Phrygian Gates(フリギアの門)」とその小さなコンパニオン作品である「China Gates(中国の門)」は作曲家としての私のキャリアの中で重要な時期の産物でした。

 

この作品は、1977−78年に新しい言語での最初の一貫した生命として登場したという事実のおかげで、私の「Opus One」となる可能性を秘めている。1970年代のいくつかの作品、アメリカンスタンダード、グラウンディング、いくつかのテープによる作曲は振り返ってみると独創的であるように見えますが、まだ自分自身の考えをまとめる手段を探している最中でした。


「Phrygian Gates」 はミニマリストの手段の強い影響を示していて、それは確かに反復的な構造の基づいています。しかし、アメリカのミニマリストにとどまらず、ハワード・スケンプトン、クリストファー・ホッブズ、ジョン・ホワイトのようにあまり知られていない英語圏の実践者は、この作品を制作する上で私の念頭に置かれていた。


1970年代はそもそも、ポスト・シェーンベルクの美学の過程がセリエリズムの原則にそれほど希望を見出さない作曲家によって新しい挑戦が始まった時代でした。これはまた、言い換えれば、新しい音楽における巨大なイデオロギーとの対立の時代だったのです。私はその頃、ジョン・ケージの方法に同様に暗い未来を見出していたが、それは合理主義と形式主義の原則に立脚しすぎているように私には思えたのです。


例えば、『易経』を参考にして作曲法を決定することは、『トーン・ロー』を参照して作曲することとそれほど違いがあるとは思えなかった。ミニマリズムというのは、確かに縮小された、ときには素朴なスタイルなのですが、私にこの束縛から抜け出す道を与えてくれたのです。調性、脈動、大きな建築構造の組み合わせは、当時の私にとって非常に有望であるように思えたのです。 

 

 

 「Phrygian Gates」

 


『Phrygian Gates』は、私がミニマリズムのこうした可能性にどのようにアプローチしたかを明確な形で示している。

 

また、逆説的ではあるが、私が当初からこのスタイルに内在する単純さを複雑化し、豊かにする方法を模索していたという事実も明らかにしている。よく言われる、”ミニマリズムに飽きたミニマリスト”という言葉は、別の作家が言ったものだが、あながち的外れではないでしょう。


『Phrygian Gates』は、調のサイクルの半分を22分かけて巡るもので、「平均律クラヴィーア曲集」のように段階的に転調するのではなく、5度の輪で転調していく。


リディアンモードとフリジアンモード(注: 2つとも教会旋法の方式)の矩形波が変調する構造になっている。曲が進むにつれて、リディアンに費やされる時間は徐々に短くなり、フリギアに費やされる時間は長くなる。

 

そのため、一番最初のAのリディアンの部分は曲の中で最も長く、その後、Aのフリジアンの非常に短いパッセージが続く。次のペア(Eのリディアンとフリジアン)では、リディアンの部分が少し短くなり、フリジアンの部分がそれに比例して長くなる。そして、コーダが続き、モードが次々と急速に混ざり合う。「ゲート」とは、エレクトロニクスから借用した用語で、モードが突然、何の前触れもなく変化する瞬間である。この音楽には「モード」はあるが、「変調」はない。


私にとって『Phrygian Gates』がいまだに興味深い理由を挙げるとするなら、その形状の地形と、波紋を思わせる鍵盤のアイデアの多様さである。

 

波が滑らかで静かなときもあれば、波が押し寄せてフィギュレーションが刺さるような場合もある。ほとんどの場合、それぞれの手を波のように動かし、もう一方の手と連続的に調和するパターンとフィギュレーションを生み出すように扱う。これらの波は、常に短い「ピング音」によって明瞭に表現され、小さな道しるべとなり、内部の小さな単位をおよそ「3-3-2-4」の比率で示す。


『Phrygian Gates』は一種の巨大構造であり、相当な肉体的持久力と、長い音のアーチを持続する能力を持ったピアニストが必要とされます。一方、『China Gates』は若いピアニストのために書かれたものです。演奏者のヴィルトゥオーゾ的な技術的効果に頼ることなく、同じ原理を利用している。

 

この曲もまた、2つのモーダルな(様式的な)世界の間を揺れ動くが、それは極めて繊細に行われている。この曲は、暗さ、明るさ、そしてその間に内在する影の細部に真摯に注意を払うことを求めるような曲であると私には感じられる。-John  Adams


「China Gates」

 


 

J.S.バッハによる「Goldberg-Variationen(ゴールドベルク練習曲集) BMV988」は19世紀以降、「ゴールドベルク変奏曲」という名で親しまれている。

 

ピアノの演奏では、古くはグレン・グールド、現在はアンドラーシュ・シフ、オラフソン等の録音が有名だが、2000年以降、複数の音楽家が、チェンバロ(ハープシコード)の演奏により、スコアの従来とは異なる魅力を引き出そうと試みている。

 

これはベートーベンの時代のフォルテ・ピアノの楽器も用い、その時代の音楽を再現させようという試みである。ハンマー・クラヴィーアとは異なり、18世紀の宮廷で響いた音楽とはかくなるものではなかっただろうか、というような歴史的な考察を交えながら、音楽を楽しむという趣が込められているのではないだろうか。時代検証や古い時代に対するロマンを音楽的な感性によって駆り立てようという試みは、もっと高く評価されてしかるべきではないだろうか。

 

では、このJ.S.バッハによるゴールドベルク練習曲集は、どのような経緯で作曲されたものだったのか。ウイーン原典版にはこうある。


ーーその愛好家の心の慰みのため、ポーランド国王兼ザクセン選帝侯の宮廷作曲家、楽長、ならびにライプツィヒ 音楽隊監督、ヨハン・セバスティアン・バッハが作曲した。ニュルンベルクのバルタザール・シュミートにより刊行ーー


この音楽は癒やしのために宮廷の王侯に捧げられた楽曲集らしいということがわかる。

 

 ゴールドベルクの楽譜彫版は、発行責任者であるシュミートが自ら行った。バッハはこれに先駆け、自費出版をしている。このことから、第四部を出版者に委任した際に、番号付けを断念したことが伺える。

 

初版の発行には、出版年が明記されず、この時代の楽譜出版では一般的であった出版番号(彫版番号とも)も記されていない。

 

つまり、ゴールドベルクの成立した年代は不明であるが、1つだけ手がかりがあり、表題のページの上にある「16番」という数字が明記されているため、1741年よりも前に作曲されたという可能性は少ないというのが一般的な説となっている。通説では、1740年にこの「ゴールドベルク練習曲集」が書かれたことが確実視されている。

 

バッハ研究の第一人者として有名で、伝記も出版しているヨハン・ニコラウス・フォルケルは、このスコアはバッハの年上の息子の申し立てに基づき、変奏曲がドレスデン宮廷のロシア大使であった帝国伯ヘルマン・カール・フォン・カイザーリンクの委嘱により、そのお屋敷のお抱えのチェンバロ奏者ヨハン・ゴートリープ・ゴールドベルクのために書かれたと記している。

 

ーーあるとき、伯爵はバッハに穏やかでいくらか快活な性格を持ち、眠れぬ夜に気分が晴れるようなクラヴィーア曲をお抱えのゴールドベルクのために書いてほしいと申し出た。変奏曲というものは、基本的に和声的な変化を付け加えることが少ないので、バッハ自身はやりがいのない仕事であると考えていたが、伯爵の希望を満たすためには変奏曲が最も望ましいと考えた。そしてバッハは完成品の報酬として、ルイ金貨が100枚詰められた金杯を受け取った。ーー

 

しかしながらこの一般的な通説に関しては疑問視されている箇所もある。まず、貴族からの委嘱作品には正式の献呈の辞をつけることが習慣付けられていたが、これが記されていないという点。そしてバッハがチェンバロ奏者ゴールドベルクのために書いた可能性が限りなく低いのではないかという指摘もある。つまり、1737年頃からバッハの弟子だったゴールドベルクは、この作品が作曲された年に12-13歳だったからである。さらに、ゴールドベルク変奏曲に先立って出版された『クラヴィーア練習曲集』の最初の三部のシリーズとなっており、それらの作品群には委嘱者が記されていない。


上記の点から、これらが委嘱作品と見なすには疑問点がいくつも発見出来る。しかしながら、それと同時に、ヨハン・フォルケルの報告が史実の核心に基づいて行われていることも事実である。1741年の11月、バッハは、ドレスデンのカイザーリンク邸に滞在し、そのときにかれは伯爵に手書きの献呈の辞を添え、その伯爵邸にて、このスコアを直接贈ったか、もしくは献呈をする約束をしたという可能性が浮かび上がってくるわけである。


ヴァイマール時代のオルガンのためのコーラス変奏曲以来、バッハは変奏曲を書くことに興味を示したことはほとんどなかったという。1740年代に対位法的な晩年の作風の時期に至ると、バッハはようやく、この変奏曲という作曲形式に興味をいだきはじめた。そしてこのゴールドベルク練習曲の多楽章を連ねた形式を、彼の卓越したコンポジションの手腕により、首尾一貫したツィクルスに高めようとしたというのが、この楽曲集のウイーン原典版の説明である。

 

このスコアの再演に関しては、ピアノによる演奏が有名だが、その他にもチェンバロ(ハープシコード)による再演を試みる演奏家もいる。

 

特に、傑出した再演をリリースしているのが、アメリカのチェンバロ演奏家であるロバート・スティーブン・ヒル(Robert Hill)、そして、ベルギーの演奏家であるフレデリック・ハース(Fredrick Haas)が挙げられる。前者は、チェンバロのライブ録音により、ダイナミックな音響性を重視したアルバム『Bach: Goldberg Variations』を2011年にリリースしている。

 

後者のフレデリック・ハースは、「Clavin Henri Hemsch 1751」というフランスの18世紀に制作されたアンティークのハープシコードで落ち着いた演奏をレコーディングで披露している。

 

双方ともに、ハープシコードの制作の年代に違いがあるため、演奏される楽器の調音が異なる。少なくとも、ピアノとは一味違うゴールドベルク変奏曲のパフォーマンスを楽しめる。前述したように、フォルテ・ピアノよりも格調高い響きには洗練性と気品が漂い、崇高な音響性が生み出されている。

 

 

 

Robert Hill  『Bach: Goldberg Variations』 /   Music and Arts Program of America 2011



 

1993年5月18日にフライブルク、カウフハザールでロバート・ヒルのライブ録音。・アルバムにはライブ録音が持つ緊張感、それに負けぬ卓越したヒルの演奏、それに加え、その場に居合わせた観客の拍手も収録されている。アートワークのはフェルメールの絵画「音楽のレッスン」。

 

ハープシコードのきらびやかな音の響きを堪能出来、演奏の間にはチューニングピンや響板が軋む音が、演奏者の息遣いとともに精妙な音が録音されている。ゴールドベルクはそもそも、大作であるため、聞くのに根気を必要とするのは事実であるが、ロバート・ヒルの卓越した演奏力はそれらの間を超越し、緩急に富んだゴールドベルクの物語性を喚起させ、最後の「アリア」に至る時、またそれらのすべての音が鳴り止んだ時、観客の歓声とともに感動的な瞬間を呼び起こす。ハープシコードの演奏のゴールドベルク変奏曲のライブの決定版に位置づけられる。

 

 

 


 



 

Fredrick Haas 『Bach:  Goldberg Variations BMV 988」/ La Dolce Volta 2010




ベルギーの演奏家、フレデリック・ハースは、チェンバロやフォルテピアノのソリストとして、オーソニア・アンサンブルのリーダーとして活躍している。1997年よりブリュッセル王立音楽院チェンバロ科教授。ドイツ、イギリス、ベルギー、フランスで定期的にマスタークラスを開催している。

 

1751年製のアンリ・ヘムシュ製チェンバロを所有し、この楽器をゴールベルク変奏曲の演奏で使用している。一般的なハープシコードと調音が異なり、比較的落ち着いたゴールドベルクの贅沢な響きを追求している。