Music Column: ブラックミュージックの権利獲得のための長い時代 その先駆的な女性シンガー、Mamie Smith

▪ブラックミュージックの権利獲得のための長い時代
 Mamie Smith(Queen of The Blues)


音楽とは、たしかに、理論、構成や旋律の要素、ハーモニー、楽器の演奏や歌の技術が不可欠である。しかし、同時に、その表向きの内容だけで成立している訳ではない。結局のところ、民族音楽であれば、その土地の習性や風土、儀式的な要素、伝統性など、様々な要素が混在している。リアルな音楽に触れる必要がある理由は、こういった要素が含まれているからである。

  

今回、コラムで取り上げるのは、ブラック・ミュージックがポピュラー化されるための始まりとなった「レイス・ミュージック(Race Music)」という内容である。この音楽に関しては、どうしても差別意識(レイシズム)という観念や概念を避けて通ることができないだろう。そもそも、ポピュラー音楽が産業として確立されようとしていた1920年代には、黒人音楽と白人音楽が明確に分割されていた。これは社会的に言及すれば、この両者の人種の生活空間も分かたれていたのである。白人音楽は、カントリーソングの前身であるヒルビリー、それに対して黒人音楽は、ブルース、ゴスペル、最初期のロックンロールを示唆した。これらはWW2の後にはすっかり個別のジャンルとして確立されていき、”Race Music”という呼称は衰退し、ビルボードが使用した”R&B”という呼称が一般的に浸透していったため、ほとんど使用されなくなった。

 

それと同時に、キング牧師の公民権運動の時代をきっかけにして、人権的な意識がアメリカに根付くと、ブラックミュージックは表向きには一般化されていった。その背景には、1980年代を通じて、ダンスミュージックやソウルが盛んになり、ブラックミュージックが一般的な市民権を獲得したことが挙げられる。しかし、その権利の獲得のための道筋は一筋縄ではいかなかった。ラジオから排斥されたり、また、市民権が得られない不毛の時代が長く続いた。サム・クックのような伝説的な存在が「Change Gonna Come(変革はやってくる!)」と歌ったのには理由があったのである。俺たちもそのうちキャデラックに乗れるぜと彼は密かな夢を描いていた。

 

当初、ブラックミュージックとホワイトミュージックは、音楽市場のジャンルとして分割されていたが、実際には、カントリー・ブルースや、ロックンロールを見ると、これらの人種的な隔壁を越えてクロスオーバーするようなケースは少なくなかった。正確に言えば、音楽でしか示せない概念やフレンドシップが存在したとも言える。ただし、少なくとも、音楽市場としては、そのかぎりではなかったことが分かる。1920年から1930年代にかけて、 レコード会社はアフリカ系アメリカ人の音楽をレイス・ミュージックとして売り出し、産業的に確立しようとした。

 

この独自音楽の出発は、どちらかと言えば、ブラックミュージックを個別で売り出したほうが音楽ファンにも伝わりやすいという、親切心やサービス精神ではないかと推測される。ブラックミュージックとホワイトミュージックの明確な違いというのは、その成り立ちに求められる。

 

ブラックミュージックは基本的に、アフリカの儀式的な音楽に最初のルーツがあり、これらは、複合的なリズム(対旋律法を用いた複数のリズム(二つ以上のリズムをかけ合わせる)、それから、教会音楽に象徴されるような黒人霊歌としてのメロディーの側面、あるいは、それ以降のジャズのコール・アンド・レスポンスに代表されるようなメインの歌手に手拍子で答えながら、合いの手を入れる「グリオ」という形式。(カリプソ) アフリカ系の人々がリズム感に長けているのは、これらの伝統性に根ざしている。リズム感が弱い自分としては羨ましい限りである。

 

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・レイス・ミュージックの進化  

Race Musicを年代別にチャート化

レイス・ミュージックは大まかに二つの段階に分けて進化していく。最初の段階は、ブルース、ジャズ、そしてゴスペルである。

 

レイス・ミュージックは、アフリカの伝統や民謡を伝えるために始まった。ブルースは、特にレイス・ミュージックとして最初に出発したジャンルであり、R&Bと並び、白人の伝統的なロックミュージシャンが最も敬愛する音楽といっても過言ではない。ブルース音楽は、アコースティックギター、歌、ブルース・ハープ、稀にピアノしか出てこない。音楽制作における最低限の費用効果で、ボーカルの声色やギタープレイの変化だけで驚くべき多彩な音楽性もたらす。

 

なおかつ、ブルースミュージックは民謡的な要素が強い。アメリカに移民したアフリカ系ミュージシャンたちは、自らの過去の遺産から何かを汲み出し、それらに敬意を以て歌を紡いだのである。当初、ブルースのミュージシャンは、アフリカ系アメリカ人が直面する困難を音楽に映し出していた。これらのミュージシャンの複数が宣教師のような職業にあったことを見るかぎり、ブルースというのは本物のストリート音楽で、伝道的な性質が強かったことを伺わせる。一方、基本的には室内楽として出発したゴスペル。日曜の礼拝で儀式的に歌われるが、これもまた単なる宗教音楽の役目を果たすにとどまらず、人種差別に対する抗議や表現形態の意味が込められていた。それはまたキリスト原理主義における信仰者の疑念を映し出していた。

 

以後、ゴスペルとブルースに端を発するレイス・ミュージックは一般的なリズム・アンド・ブルースに移行していった。2000年代にヒップホップが主流になるまで、R&Bの黄金期が続いたといえる。これらは伝道的な性質を持つ形式主義の音楽がさらにポピュラー化/民衆化した段階である。しかし、依然としてリズムという性質は失わずに、それらを急進的に打ち出していき、全般的なポップソングの基礎にもなった。しかし、これらは同時に権利獲得のための時代でもあった。1960年から70年代にかけてのスティーヴィー・ワンダーを中心とするニューソウル運動。これは黒人音楽が権利を獲得するための時代でもあった。

 

R&B以降に登場したロックンロールは、今やどのような人種も楽しむ一般的な音楽になっているが、最初は一つのブラックミュージックから出発している。特に、リズム・アンド・ブルースとカントリー・ミュージックの複合として誕生し、その後、世界的に人種を越えて親しまれるようになった。チャック・ベリーやリトル・リチャードといった大家がその先駆者である。これらはエルヴィス・プレスリーが登場する前夜の1950年代に盛んだった。また、当初は座って鑑賞するタイプの音楽が多かったが、50年代以降はダンスするための音楽の性質を強めていく。

 

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・レイスミュージックの業界的なアプローチ 南部の市場の開拓   レイスに対する「ヒルビリー」が登場



音楽業界がレイス・ミュージックを売り出したのは理由があった。アメリカでは、1914年に蓄音機の売上が大幅に増加、1919年になると、200万台の売上を記録した。しかし、翌年以降は、レコードの売上が少しずつ減少していった。なぜかといえば、ラジオが一般的な家庭に普及しはじめたからである。


1922年以降になると、ラジオの普及がレコードの売上を奪ったため、レコード会社は大慌てだった。20世紀の初頭、アメリカのレコード会社は、ニューヨーク、シカゴ、アトランタ、ロサンゼルスに点在していたが、レコード会社は南部地域の音楽市場を開拓し、ソウル専門のレーベルも設立されるようになった。ここから、テネシーのStax Recordsのようなレーベルが出てきた。

 

このレイス・ミュージックを爆発的に普及させたのが二人のスミスだった。そのうちの一人は、ハーレムの歌手、Mammie Smith(メイミー・スミス)であって、一般的に有名なBassie Smithより三年早く登場し、コロンビアレコードからレコードを発売した。最初の「ブルースの女王」と称される。 もうひとりのレイス・ミュージックの立役者べッシー・スミスは、「ブルースの女帝」と呼ばれている。どちらのほうがすごいのかは読者諸賢のご想像にお任せしたい。

 

メイミー・スミスは、コロンビアの子会社であるOkeh Recordsに所属し、「Crazy Blues」「It's All Right Here For You」など、シンボリックな楽曲を相次いでリリースした。音楽的には、ブギウギやジャグ、ジャズにも比する雰囲気が込められている。会社のレコード・プロデューサー、ラルフ・ピアが、ハーレムの人気歌手であったメイミー・スミスと白人の伴奏バンドに共同でレコーディングに起用した。コロンビアは、これをレイス・シリーズの第一弾として銘打った。ピアは、黒人新聞が黒人のことを''Race''と呼んでいたことから、この名を思いついたという。

 

ラルフ・ピアは、メイミー・スミスのレコードの売れ行きが南部を中心に好調であることから、レコード市場として南部の地域を開拓しようと思いついた。その後、テネシーを筆頭に、この地域は北部のデトロイトと並んで、重要なソウルミュージックの中心地になっていく。しかし、これらのレイス・シリーズの問題点は、黒人音楽が白人の管理下に留まっていたということである。これらは、キース・リチャーズがシカゴのある伝説的なブルースマンに最初に出会った時、レコード会社で下働きをしていてびっくりしたというエピソードを見ても明らかだろう。


また、こういった人種的な問題は、1980年代以降もくすぶり続け、その独立性を阻害していた。しかし、少なからず、ブルース、ジャグバンド、ジャズピアノ、ゴスペルの普及に役立った一面もあるだろう。

 

その後、南部ではレイス・ミュージックに対抗して白人音楽が登場した。ラルフ・ピアがアトランタの家具、レイスの音楽を中心に棚卸ししていたポーク・ブロックマンのところに出張した時、ブロックマンは白人フィドル奏者ジョン・カースンを紹介した。ジョンは1923年に、地元アトランタで黒人シンガーと一緒に録音したレコードをリリースし、500枚を売り上げた。これが俗に言われる''ヒルビリー・ミュージック''として売り出されるようになったきっかけだ。ヒルビリーは、山間部の男性的な音楽として知られているが、これらがカントリー/ウェスタンと連結していく。黒人音楽と白人音楽はどの時代もクロスオーバーする一面があったことがわかる。

 

冒頭で述べたように、音楽というのは、構成、旋律、拍動、ハーモニーだけを伝えるためだけのものではない。さりとて個人の感情や内面の吐露に終始するわけでもない。その人々が持つ伝統や文化、思想、ないしは、その人しかもちえない何か、独自の表現を伝えるためのものでもある。

 

その音楽は、今では”スタンダード”となったかもしれないが、それらは先人達が苦闘し、権利獲得のため闘争し、苦心して獲得してきたのである。ヒップホップも、J-POPも、K-POPも然りだろう。音楽及び芸術は、いかなるジャンルにおいても市民権を得るための”潜伏的な時期”が必要になってくる。今ごく普通に巷で聴かれている音楽も、マイノリティの時代があったと言えるはずだ。その音楽は誰がどんな思いを込めて作ってきたのか。そんな考えを巡らせながら、音楽を聴いたり、演奏してみると、きっとその音楽に対する見方が変わってくるに違いない。