フラメンコ/カフェ・カンタンテ  ダンスショーの中から生み出された音楽スタイル  その象徴的な歌手 ニーニャ・デ・ロス・ペイネス

▪︎フラメンコとカフェ・カンタンテ  ダンスショーの中から生み出された音楽スタイル  その象徴的な歌手 ニーニャ・デ・ロス・ペイネス


20世紀初頭の音楽文化は、カフェやレストラン、酒場におけるエンターテインメントとして一般市民に普及していった。多くの音楽は一般的な市民の暮らしの中で定着し、それらが一つの文化形態へと変化していく。


1989年に米西(アメリカとスペイン)戦争が起きた後、1910年代のスペインの多くの地域には平穏な日々が訪れていた。フランスやヨーロッパに歌謡ブームが到来した20世紀前半、スペインにも同じようなムーブメントが発生し、隆盛をきわめた。フラメンコは、当初、アンダルシアの伝統歌謡として受け継がれてきたのだったが、20世紀の始めになると、大衆性が加わるようになった。


▪︎カフェ・カンタンテがスペイン各都市に登場

 


フラメンコが1910年代から20年代にかけて流行したのはカフェ文化が普及したからでもある。セビリア、マドリッド、バルセロナにあった歌のカフェを意味する「カフェ・カンタンテ」では、フラメンコがアトラクションのように演奏され、ある種のショーエンターテイメントのように披露された。


当時のスペインの街では「クブレ」と呼ばれる都会的な流行歌が流行ったが、それでもなおフラメンコの人気は衰えなかった。これらのカフェ・カンタンテのダンサーに要求されるのは不思議な魔力であった。光の下のステージで踊るダンサーは、観客を独特な魔力により魅了せねばならなかった。

 

フラメンコの舞台となったカフェ・カンタンテには多くの場合、スペイン文化の独自性が取り入れられていた。古典的なアンダルシア様式の建物、広いホールの壁、鏡、闘牛のポスター、そしてテーブルが並び、部屋の中央には「タブラオ」と呼ばれる舞台が設えられ、ダンサーが情熱的に踊った。煙がけぶる室内、灯油やケロシンランプの薄明かりの中で客が乱闘や口論を繰り広げたこともあったという。


こうした舞台でダンスするという機会が、伝統音楽であったフラメンコのプロ歌手を登場させることになる。それらが大衆的な芸術の発生する基盤ともなった。フラメンコで最も重要視されるのは、ジプシー文化がどこかに内在するという点である。例えば、こういったバルセロナのカフェ・カンタンテのような飲食店では、ジプシーではない客たちがジプシーから芸術を習い、アンダルシアの民族歌謡を歌い、レパートリーを増やしていくというのが一つの嗜みだった。


 

▪︎フラメンコの最も著名な女性シンガーの登場

La Niña de los Peines

 

こうしたカフェ文化の中で育まれたフラメンコは、それまで、アントニオ・チャコン、マヌエル・トーレなど男性歌手を中心に発展していったが、1910年から20年代に差し掛かると、女性歌手を数多く輩出した。


今回、ご紹介するのは、パストーラ・パボン、通称(ニーニャ・デ・ロス・ペイネス)。この歌手は、門外不出ともいえる「カンテ」と呼ばれる技術を受け継いだ数少ない伝承者だった。パボンは20世紀の最も重要なフラメンコ歌手として世に膾炙されている。

 

セビリアのアンメダ・デ・エルキュレスで出生し、8歳の頃にセビリアの春祭りで歌を歌い始めた。ペイネスにとって歌を歌うことはアンダルシアの伝統を伝えること、あるいはその生活の一部でもあったのだろう。そして後に、マドリッドのカフェ・カンタンテのステージで歌っていた頃、「La Nina de los Peines」という芸名を名乗り始めた。このニックネームは、彼女が髪に櫛を差してステージで歌っていたことから、「櫛の娘」というあだ名がついたことに由来している。

 

ペイネスは子供の頃、読み書きすら学んだことがなく、大人になってからようやく手書きを習得した。家族が経済的に困窮すると、ペイネスは家計を支えるため、若くして、セビリアのベルナ・デ・チェフェリーノでプロとして歌を披露し始めた。その後、画家のモデルを務めた後、マドリッドやビルバオで日々を過ごす。


カフェ・カンタンテ

その後、彼女は、ヘレス、ビルバオ、マラガなど、各地のカンタンテ・カフェでステージに出演した。すでにその頃、スペイン国内でも、ペイネスの名前は広まりつつあり、ついに1910年に最初のレコーディングを行った。1920年代に入ると、大規模の劇場に出演するようになり、バルセロナの劇場テアトロ・ロメアに定期的に出演し始め、劇場側は最も高い報酬を彼女に支払った。まもなく、彼女はスペイン全土でのツアーを開始し、一躍国内での名声を獲得した。

 

パストーラ・パボンは19世紀の伝統的なフラメンコとオペラを繋ぐ存在として、半世紀にわたり活躍を続けた。彼女はカフェ・カンタンテが衰退してもなお、劇場やレコードに活路を見出し、国民的な歌手としてスペイン国内での評価を不動のものにした。歌手のボーカルの卓越性は多くの観客を魅了したが、もちろん、その才覚はカンタオール(歌手)としてだけにとどまらなかった。 


パストーラ・パボンはフラメンコに欠かせぬジプシー的なカンテの技量、そしてドゥエンテと呼ばれるダンサーとしての''独特な霊力''を兼ね備え、当時の観衆を魅了し続けた。


フラメンコとは果たして、民謡なのか、オペラなのか、それとも舞踊なのだろうか? パストーラ・パボンの歌を聴くかぎり、単一の表現とは言いがたい部分がある。先にも述べたように、フラメンコは、アンダルシアの伝統を示す複合的なパフォーミングアーツとして進化してきたのである。もし、パボンが先例に示したように、歌が何らかの文化の伝承であるとするなら、ボーカルの持つ意義は大きく変わってくるかも知れない。

 

 

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