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| イゴール・ストラヴィンスキーの肖像 |
イゴール・ストラヴィンスキーのバレエ曲『春の祭典-The Rite of Spring(仏: Le Sacre du printemps)』について触れるのは、もうすぐ春が来るからという単純な理由に過ぎない。今なお世界的な楽団や指揮者、バレエの演出家がその再現に手を焼く、難解なオーケストラの名曲だ。ストラヴィンスキーはロシアからアメリカに亡命した作曲家である。スターリン政権下で芸術が国家に対する捧げ物となり、表現における自由を求め、新天地アメリカでの活躍を夢見た。
フランスでバレエ文化が花開き、ルイ14世の御代の国家的な芸術として確立後、 20世紀の初頭になり、パリでバレエ音楽が再興した。新しい命を吹き込んだのがストラヴィンスキーだった。彼はそもそも、それ以前のロシア学派の音楽スタイルとは明確に異なるスタンスを選んだ。
チャイコフスキー、リムスキー・コルサコフ、ショスターコーヴィッチといったロシアの代表的な作曲家の多くは国民楽派の流れを汲んでいると言えるが、ストラヴィンスキーだけは「新古典派」に位置づけられ、異端的とみなされることが多い。その理由は、アマデウス・モーツァルトの前古典派の様式、および、JSバッハのバロック様式を明確に継承しているからである。
ストラヴィンスキーがグスタフ・マーラーなどを始めとする作曲家と明確に異なるのは、ロココ様式やギャラント様式のように全体的な音の構成を均一化したり簡略化するからで、なおかつ、主題や主旋律を驚くほどクリアに際立たせる中世の宮廷音楽に近いスタンスを選んでいるからである。また、ストラヴィンスキーはロココ/ギャラント様式に新しい芸術形式を付け加えた。
それが、ピカソなどに象徴される原始主義ーーフォービズム/プリミティズムーーである。フォービスムは絵画芸術の用語であり、1905年にパリで開催された展覧会「サロン・ドートンヌ」に出品された原色をふんだんに使用した強烈な色彩とタッチを持つ絵画の作品群を示唆していた。
マティス、ルオー、ゴーギャンなどがこの作風に該当し、現地の批評家ルイ・ヴォークセルが「まるで野獣(Fauve)の檻の中にいるかのようだ」と評したことに因む。ストラヴィンスキーの音楽がフォービスム派の絵画の印象と近似しているのは、音そのものが目の覚めるような色彩を擁するからである。それはまた音楽としての線やフォルムを際立たせるという作曲の技法を意味する。また、それがストラヴィンスキーの音楽をスタイリッシュにしている要因でもあろう。
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| ポール・ゴーギャン作 「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」(1897) |
20世紀は、多くの音楽家にとって「再生の時代」でもあった。音楽が何のために存在するか、その意義を書き換えねばならなかった。原始主義が絵画の芸術形式として確立される中、1913年5月29日、まだこけら落としが済んでまもない、パリのシャンゼリゼ劇場にどよめきが起こった。ストラヴィンスキーが「バレエ・リュス」のために書き下ろした『春の祭典ーーThe Rite of Spring』がスキャンダラスな観客の反応を巻き起こし、音楽の歴史の一大革命となったのである。
シャンゼリゼ劇場で『春の祭典』が初演されたとき、ストラヴィンスキーはそれほど有名ではなかった。興行主のディアギレフが彼を起用した理由は、それ以前の数年間で制作された『The Firebird(火の鳥)』、『Petrushuka(ペトリューシカ)』でスラブ民族の共鳴と深い信頼関係が培われていたからだった。新作バレエに取り組むに際して、ストラヴィンスキーは、考古学的な研究に触発され、''春の初めに処女が犠牲になる''という着想をもとにして、これらをバレエ音楽として完成させようと試みた。実際に、ストラヴィンスキーは、考古学者、画家、衣装デザイナーのニコラス・ロエリッヒに助力を仰ぎ、スラブの伝統や儀式をバレエ音楽に盛り込もうとした。
ディアギレフも作品を完成に導くため、総合演出プロデューサーとして尽力した。ディアギレフは、ワーグナーが『オペラ・ウント・ドラマ(Opera Unt Drama)』という著書で記した「Gesamtkunstwerk(総合芸術)」に独自の解釈を施そうとした。ディアギレフは、ストラヴィンスキーと考えを共有しようと試みた。つまり、それは19世紀に西洋社会全体を支配していた芸術全般を道徳観や習慣の枠組みから開放するという思惑であった。実は、この芸術概念はフロイトがみずからの著書で紹介し、1913年頃にヨーロッパに浸透していた。彼らはパブロ・ピカソのように、現代社会への暴力的な芸術の再生が新しい生命力を呼び起こすと信じてやまなかった。
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| 左(男性)からディアギレフ、ニジンスキー、ストラヴィンスキー、ロシアの人々と |
推測するに、ディアギレフが目指していたバレエの形式は、リヒャルト・ワーグナーが言う「総合芸術」の進化版だったのだろう。絵画に組み込まれているフォービスムの表現がキャンバスの枠組みを離れ、三次元の映像力により、最終的に鮮やかな生命を得るというものである。
『春の祭典』のバレエの動きに、コミカルなトーキー映画のような表現力が見いだせるのはこのためだろう。初演では、旧来の形式に則った優雅な動きは存在せず、ぎこちない、かくかくとした動きが特徴であった。不協和音の嵐、アフリカ発祥のポリリズムを模した複合的なリズムなどは、当時の一般的な観客にとってはあまりに前衛的で、ほとんど理解しがたいものだった。
会場の沈静化のための警官が動員され、聴衆のヤジが飛び交うといった好ましくない結果を招く。しかし、その中で、多くの観客は自分たちが歴史的な事件を目撃していることを理解していた。初演の状況について、フランスのアーティスト、ヴァレンタイ・グロス=ユゴーはこのように表現した。「劇場はほとんど地震が起こったようだった。会場全体が揺れているように思えた」
パリとロンドンでの公演後、ニジンスキーの振り付けの原版が長らく失われた。1913年9月、ニジンスキーは南米で興行を行った後、結婚をした。その後、ディアギレフは、ニジンスキーを解雇する。その七年後になり、ディアギレフは『春の祭典』を再演しようとしたが、振り付けを誰も覚えていなかった。しかし、これが後のバレエの再構成を活発化させる要因にもなった。
ご存知の通り、ニジンスキーの精神状態はその後悪化し、晩年を病院で過ごすことに。しかし、バレエ作品としての意義が薄れる中、『春の祭典』がようやく世に認められることになる。1914年、ロシア/サンクト・ペテルブルグで開かれたコンサートは、多くの批評家の賛同を獲得した。このときの演奏について、音楽史家のドナルド・ジェイ・グラウトは、こう評した。「20世紀で最も有名な作曲作品である。だが、それらが二度と以前のように再現できなくなった」
長らくの間、ニジンスキーの振り付けは忘れられていた。1971年、ジョフリー・バレエ団の創設者ロバート・ジョフリーが大学院生のミリセント・ホドソンと短い会話を交わした。彼らは、ニジンスキーの最初の振り付けを蘇らせられないものかと思案していた。ホドソンはおよそ16年をかけて、原版の手がかりを探し求めた。やがて、彼女は美術史家の夫とともに、古い写真、スケッチ、批評、衣装デザインなどを蒐集しはじめた。当時の初演を目撃したと思われる、あらゆる人々に聞き取り調査を行った。ホドソンはやがて、ニジンスキーの同僚マリー・ラムバートに出会い、実際に会って、インタビューを行ったが、そのときは手がかりらしきものは見つからなかった。しかし、ラムバートが死去した後、彼女のクローゼットの中にピアノ譜が見つかる。そこには、ピアノ譜の隅に、ニジンスキーの振り付けのメモ書きが残されていた。
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| 新たに再生するニジンスキーの振り付け |
その後、20世紀全般は、『春の祭典』のオーケストラの演奏やバレエの再構成の時代となった。音楽的にも、この音楽が真に理解されるのには、およそ一世紀を要したといえるだろう。
ニジンスキーの振り付けを再現し、それらに新しい解釈を付け加えながら、数々のパフォーマーが春の祭典の再構成に取り組んできた。レオニード・マシーンが1920年に古典性を確立すると、30年には、マーサー・グラハムが米国での公演を成功させる。モーリス・ベジャールは1959年に、自身の20世紀バレエ団においてニュースタンダードを確立した。ケネス・マクミランは、1962年にロイヤル・バレエ団向けに作品を作り、50年もの間、定番のプログラムとなった。
『春の祭典』に革新的なイメージをもたらしたのが、ピナ・バウシュで、今まで失われていた女性的な視点を付け加えた。彼女がウッパータル劇場のために用意した振り付けは、多くの人にとってセンセーショナルな印象を及ぼした。パウシュは、生贄となる少女の考えにも言及し、「生贄になるのがわかっていたらどのように踊るのか」という新しい解釈を施した。また、マーサ・グラハムは、90歳でこの作品に復帰し、自由で開放的な動きを披露した。ニューヨーク・タイムズは、「根源的で、部族の儀式のように基本的な感情を表現した」と評した。こういった数々のダンサーやパフォーマーによって、一世紀をかけて新しい解釈がなされてきた。
イーゴリ・ストラヴィンスキーが盟友ディアギレフと示そうとした概念は、芸術の動きを開放し、音楽に根源的な生命力を吹き込むというものであった。ストラヴィンスキーの音楽には、人生を生きる上での教訓が散りばめられているように思える。少なくとも、21世紀の私たちが『春の祭典』のコンサートを見たり聴く時、そこに音楽の偉大なパワーを感じ、生命力を感じる。それは枠組みに収まらず、生命力を奔流させるという、人間のあるべき姿が込められているように思えてならない。
現在も多くの世界的な楽団によって演奏されるバレエ音楽『春の祭典』。初演から100年余りを経ても、作品の再解釈は一向に終わる気配がない。今後のダンサーやパフォーマー、そして、指揮者や楽団の一つの命題とも言える、今なお進化し続ける奇妙なオーケストラの大作なのである。




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