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 John Coltrane 稀代のサクスフォン奏者  コルトレーンの代表作



ジョン・コルトレーンは、いかなる分野であれ、天才的な人物は驚くほど早く世を去ることがあるという、歴史的に惜しむべき事実を明確に反映している。他の人が気づいたときには、そういった人物は、普通の人々のはるか先を歩いているものだ。一般的な人々がその人を追いかけ始はじめた時、その人は踵を返し、別の道を歩み出す。そして一般の人々がそのことに注目するようになると、全然違うことを始める。だから、一般的な人々の理解に及ばない部分がある。


コルトレーンの十年のジャズの作曲法、及び、主要な演奏法には、古典的なものから、対象的に、まったく以前の形式とは異なる前衛的なものまで幅広いスタイルが含まれている。ハード・バップからモード奏法へのこだわりなど...。もちろん、前衛的な演奏法についても、アリス・コルトレーンと併せて称賛されて然るべきだが、サクスフォン奏者としては、ブルー・ジャズにこそ彼のプレイの醍醐味がある。ミュート奏法を用いたコルトレーンの演奏は、ブレスに神妙な味わいがあり、トランペットに近い深みのある音響性をもたらすことがある。


セロニアス・モンクとのコラボレーションでは、前衛的な奏法にも挑戦しているコルトレーン。それと同時に、彼はまた、スタンダードジャズの普及に多大なる貢献を果たした演奏家でもあった。特に、現代的なサクスフォニストとは異なり、彼の演奏の核心には、メロウなサックスというテーマを発見できる。コルトレーンは、無名の時代が長く、有名になったのは十年ほどであったという。それは、彼が従来のハード・バップから離れ、前衛的なジャズを探訪していたからである。ではなぜ、後世に名を馳せたかを推察してみると、彼の演奏は、それ以後、新しい形式を捉えつつも、「古典性の継承」という重要なサブテーマを掲げていたからである。もしかりに、コルトレーンの演奏法が前衛性だけに焦点を絞っていたとするなら、「ジャズの巨匠」と呼ばれるまでには至らなかったのではないだろうか.......。そして、いついかなる時代のコルトレーンの演奏についても、彼の演奏には慎み深さがある。要するに、音楽に対する一歩引いた感覚があり、音楽をいつも主体とし、多彩なサックスの演奏を披露するのである。

 

つまり、それがセロニアス・モンクやマイルス・デイヴィス、ビル・エヴァンスといった数々の名だたるプレイヤーとのコラボレーションでも重要な役割を果たす要因ともなった。もし、彼が存在感を出しすぎたり、プレイヤーとしての自分自身のキャラクター性を重要視するような演奏家であったなら、どうなっていただろう。もしかすると、数々の共同制作の名盤は秀作の域にとどまっていた可能性もあるかもしれない。コルトレーンは、前に出たり、後ろに退いたり、いつも柔軟性のあるスタンスを取っている。だから、彼の演奏は作品ごとにまったくその印象が異なる。古典的であるかと思えば、前衛的。前衛的かと思えば、古典的。そして、脇役かと思えば、主人公になる。主役になったかと思えば、名脇役にもなる。つまり、彼は10年に及ぶジャズの系譜において、自分の演奏者としての立ち位置を固定したことは一度もなかったのだ。

 

ジョン・コルトレーンの演奏はたいてい、レコーディングであれ、ライブであれ、その空間に鳴っている音楽に対して謙虚で慎ましい姿勢を堅持している。それが音楽としての心地良さをもたらし、このプレイヤーしか持ち得ない霊妙な感覚、そして、人々を陶酔させるジャズを構築したのである。

 

クラシックであれ、ジャズであれ、超一流の音楽家はプレイスタイルを持つようでいて持たない。いつも、彼らは苦心して築き上げたものを見放し、ときには壊してしまう。世に傑出した芸術家はたいてい、自分の築き上げたものが「砂上の楼閣」に過ぎぬか、「現実の影」に留まると認識しているのである。こういった「天才」と称される人々は、一つのやり方に固執することはほとんどなく、変幻自在な性質を持つことを特徴としている。しかしながら、同時に、 演奏や作曲性に関しては、その人物しか持ち得ないスペシャリティ(特性)が出現することがある。

 

その作品を見れば、制作者の人となりが手に取るように分かる。同じように、演奏についても表現者の人柄を鏡のごとく鮮明に映し出す。残酷なまでに.......。不世出のサクスフォニスト、ジョン・コルトレーンは、薬物問題に絡め取られることもありながら、紳士性を重んじ、何より敬虔なる人物であったと推察される。それがゆえ、ジャズの未来を塗り替えることが出来たのだ。また、だからこそ、彼の演奏は時代を越えて、多くの聞き手を魅了しつづけるのだろう。

 

 ・Vol.1を読む BILL EVANS   ビル・エヴァンスの名曲  クラッシックとジャズを繋げた名ピアニスト


 

・「Blue Train」/ Blue Note 1958

 

マイルス・デイヴィス・クインテットを1957年に離脱したジョン・コルトレーンがその翌年に発表したアルバム。3管編成で録音。タイトル曲には、モード奏法からのフィードバックも含まれている。コルトレーンは、この作品において、作曲全体の規律性を重視し、ジャズの概念を現代的に洗練させている。ただ、「Lady Bird」に代表付けられるように、従来の自由度の高いベースに支えられるハードバップに重点が置かれている。また、「I'm Old Fashioned」には、古典派への回帰という、以後の時代の重要な主題も発見できることにも着目したい。

 

 

 

・「Giant Steps」/ Atlantic  1960

 

 

「Love Supreme」、「Bluetrane」、「My Favorite Things」等、名盤に事欠かないコルトレーン。しかし、ジャズそのものの多彩さ、音楽の幅広さを楽しめるという点において「Giant Steps」を度外視することは難しい。このアルバムは「Blue Train」と並び、稀代のジャズの名盤として名高い。

 

本作は、中期に向けての変遷期に録音。チャーリー・パーカーのビバップの形式を元に、「コルトレーン・ジャズ」という代名詞を作り上げた作品でもある。演奏法を見ると、70年代のフリー・ジャズを予見したアルバムと称せる。ただ、ジョン・コルトレーンの演奏法が従来のスケールや和音に束縛されていないとしても、全体的な作曲はスタンダード・ジャズを意識している。これが自由で開放的な気風を感じさせるとともに、聞きやすい理由である。現在のブルーノートのライブハウスで聴けるようなジャズグループの演奏の基礎が集約され、ジャズ・ライブでお馴染みのコール・アンド・レスポンスの演奏も含まれている。世紀の傑作「Blue Train」と並んで、「ジャズの教科書」として見なされるのには、相応の理由があるわけなのだ。

 

 

 

・「Ballads」/ Impulse!  1963



コルトレーンがハード・バップ/ビバップから脱却を試みた作品。そして、次なる形式は「古典性への回帰」によって生み出されることに。現在のスタンダードジャズの基本的な形式の基礎は、このアルバムに全て凝縮されている。また、以降の時代の多くのサックス奏者の演奏法の礎を確立した作品でもある。「Ballads」では、ニューオリンズの「ブルー・ジャズ」の古典性に回帰しながら、モード奏法を異なる形に洗練させている。もちろん、遊び心もある。「All Or Nothing At All」では、アフリカのリズムを織り交ぜ、率先してアフロ・ジャズに取り組んでいる。彼の代表的なナンバー「Say It(Over and Over Again)」はジャズ・スタンダードとして名高い。


ジョン・コルトレーンは、新しい形式を生み出すために、古典に回帰する必要があることを明示している。これはデイヴィスが教会旋法からモード奏法を考案したことにヒントを得たと考えられる。(モード奏法は、ドリア、フリギア、リディア、ミクソリディアという旋法の基礎からもたらされた)さらに、現行の米国のミュージシャンが取り組む「古典性の継承」というテーマ、それはすでに1963年にジョン・コルトレーンが先んじて試みていたことであった。

 

 


【JAZZ AGE】 BILL EVANS   ビル・エヴァンスの名曲  クラッシックとジャズを繋げた名ピアニスト

 Jazz Age:  Vol.1  Bill Evans



 ジャズ・ピアニスト、ビル・エヴァンス(Bill Evans)は、1929年にニュージャージー州ブレインフィールドで生まれた。スラブ系の母親、そしてウェールズ系の父親の間に生まれた。彼の父親はエヴァンスに幼い頃から音楽を学習させた。

 

クラシック音楽からの影響が大きく、セルゲイ・ラフマニノフやイゴール・ストラヴィンスキーなど、ロシア系の古典音楽に親しんだ。かれがジャズに興味を持つようになったのは10代の頃。兄とともにジャズのアマチュアバンドで演奏するようになった。1946年にサウスイースタン大学に通い始め、音楽教育を専攻した。学生時代にはのちの重要なレパートリー「Very Early」を作曲した。

 

 1950年、大学を卒業すると、翌年には陸軍に入隊。朝鮮戦争の前線に赴く機会はなく、陸軍のジャズバンドで演奏するだけだった。 この頃の不本意な時期に、後に取りざたされる麻薬乱用を行うようになった。1954年に兵役を終え、折しもジャズシーンが華やかりしニューヨークで音楽活動を開始する。バックバンドとしての活動にとどまったが、作曲家のジョージ・ラッセルの録音に参加。その活動をきっかけにスカウトの目に止まり、リバーサイド・レーベルからデビュー・アルバム『New Jazz Conceptions』をリリースするが、売上はわずか800枚だった。

 

1958年にはマイルス・デイヴィスのバンドに加わり、録音とツアーを行った。彼はバンドで唯一白人であったこと、そして薬物乱用の問題、さらにはエヴァンス自身がソロ活動を志向していたこともあり、バンドを離れた。しかし、マイルス・デイヴィスの傑作『Kind of Blue』の録音に参加し、旧来盛んだったハードバップからモード奏法を駆使したスタイルでジャズに清新な息吹をもたらす。モード奏法はこのアルバムの「Flamenco Sketches」に見出すことができる。


1959年になると、ドラマーのポール・モチアン、ベースのスコット・ラファロをメンバーに迎え、ジャズトリオを結成。ジャズの系譜におけるトリオの流行は、この三人が先駆的な存在である。テーマのコード進行をピアノ、ベース、ドラムスがそれぞれ各自の独創的な即興演奏を行い、独特な演奏空間を演出した。後のモダンジャズのライブではこのソロがお約束となる。

 

ビル・エヴァンス・トリオで収録した『Portrait In Jazz- ポートレイト・イン・ジャズ』(1960)『Explorations- エクスプロレイションズ』(1961)『Waltz For Debby -ワルツ・フォー・デビイ』および、同日収録の『Sandy At The Village Vanguard- サンデイ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード』(1961)の4作は、「リバーサイド四部作」と呼ばれる。


しかし、『ワルツ・フォー・デビイ』および『サンデイ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード』の収録からわずか11日後、ベーシストのスコット・ラファロが1961年7月6日に25歳の若さで交通事故死する。エヴァンスはショックのあまりしばらく、ピアノに触れることすらできなくなり、レギュラー・トリオでの活動を休止することとなり、半年もの間、シーンから遠ざかった。


1966年にエヴァンスは、当時21歳だった若きエディ・ゴメス(Eddie Gomez)を新しいベーシストとしてメンバーに迎える。エディ・ゴメスは、スコット・ラファロの優れた後継者となり、以降、1978年に脱退するまでレギュラー・ベーシストとして活躍し、そのスタイルを発展させ続け、エヴァンスのサポートを務めた。


 1968年にマーティー・モレル(Marty Morell)がドラマーとしてトリオに加わり、家族のため1975年に抜けるまで活動した。モレル、そしてのちに加入したエディ・ゴメスによるトリオは歴代最長の活動期間に及んだ。従って現在に至ってもなお発掘され発売されるエヴァンスの音源は、ゴメス・モレル時代の音源が圧倒的に多い。

 

このメンバー(セカンド・トリオ)での演奏の質は、初期の録音でずっと後に発売されたライブ版『枯葉』(Jazzhouse)にも反映されている。『Waltz For Debby ~ Live In Copenhagen - ワルツ・フォー・デビイ〜ライヴ・イン・コペンハーゲン』(You're Gonna Hear From Me)、『Montreux II- モントルーII』、『Serenity- セレニティ』、『Live In Tokyo- ライヴ・イン・トーキョー』、『Since We Met - シンス・ウイ・メット』と、メンバー最後のアルバムである1974年にカナダで録音した『Blue In Green-ブルー・イン・グリーン』などがある。この時期、特に1973年から1974年頃までのエヴァンス・トリオは良し悪しは別として、ゴメスの演奏の比重が強い傾向にある。 


1976年にドラムをマーティー・モレルからエリオット・ジグモンド(Eliot Zigmund)に交代する。このメンバーでの録音として『Cross Currents- クロスカレンツ』、『I Will Say Goodbye- アイ・ウィル・セイ・グッドバイ』、『You Must Bilieve In Spring- ユー・マスト・ビリーヴ・イン・スプリング』が挙げられる。麻薬常習や長年の不摂生に加え、肝炎など複数の病気を患っていたエヴァンスの音楽は、破壊的内面や、一見派手ではあるが孤独な側面を見せるようになる。

 

ビル・エヴァンスの死後に追悼盤として発売された『You Must Believe In Spring- ユー・マスト・ビリーヴ・イン・スプリング』収録の「Suicide Is Painless(もしも、あの世にゆけたら)」は、映画『M*A*S*H』(1970年)及びTVシリーズ版『M*A*S*H』のテーマとして知られている。



Bill Evans' Masterpiece :

 

・Peace Piece(1959)/『Everybody Digs Bill Evans』

    

「ピース・ピース(Peace Piece)」は、1958年12月にビル・エヴァンスがアルバム『Everybody Digs Bill Evans-エブリバディ・ディグス・ビル・エヴァンス』のために録音した。

 

ソロ時代のエヴァンスの名曲で、モード奏法のルーツをうかがい知ることができる。他にも彼のウクライナのスラブ民族としてのルーツやクラシックからの影響、その他にもスクリアビンのような神秘和音をゼクエンス進行によって活用している。いわばクラシックのピアニストとしてのエヴァンスの作曲性を反映させている。もちろん、演奏に関しては以降のデイヴィスとのモダン・ジャズの作風の萌芽を見ることもできる。

 

レコーディング・セッションの最後に演奏された即興曲で、レナード・バーンスタインのミュージカル『On The Town- オン・ザ・タウン』の「Some Other Time- サム・アザー・タイム」のヴァージョンでエヴァンスがセッション中に使用していた。Cmaj7からG9sus4への進行をベースにしたスタンダードな曲。


翌年にマイルス・デイヴィスと録音したアルバム『Kind of  Blue-カインド・オブ・ブルー』に収録された「Flamenco Sketches- フラメンコ・スケッチ」のオープニングにもモチーフが再登場する。


「Peace Piece」



「Autumn Leaves」(1960)/ 『Portrait In Jazz』


マイルス・デイヴィスとのアルバム『Kind Of Blue』でのコラボレーションの成功から8ヵ月後、エヴァンスは新しいグループ、ビル・エヴァンス・トリオで『ジャズの肖像』の録音に挑み、以後のモダン・ジャズの潮流を変える契機をもたらす。

 

最も注目すべきは、ラファロのウッドベースが単なる伴奏のための楽器から、後のアルバム『Sunday at the Village Vanguard』ほどではないにせよ、ピアノとほぼ同等の地位に昇格したことだろう。

 

ビル・エヴァンスはラファロとの最初の出会いについて、「彼の創造性にはほんとうに驚かされた。彼の中にはたくさんの音楽があり、それをコントロールすることに問題があった。... 彼は確かに私を他の分野へと刺激したし、おそらく私は彼の熱意を抑える手助けをしたのだろう。それは素晴らしいことで、後にエゴを抑えて共通の結果を得るために努力した甲斐があった」

 

ポール・モチアンはビル・エヴァンスのデビュー・アルバム『New Jazz Conceptions』や、トニー・スコット、ジョージ・ラッセルなどが率いるグループでエヴァンスとレコーディングしたことがあった。


エヴァンスの伝記作家であるキース・シャドウィックは、この時期のモチアンは標準的なバップの定型を避ける傾向があり、「代わりに他の2人のミュージシャンから実際に聞こえてくるものに反応」していたと述べ、それが「エヴァンスの最初のワーキング・トリオのユニークなクオリティに少なからず貢献した」と指摘している。

 

”枯葉”という邦題で有名な「Autumn Leaves」は、戦後のシャンソンの名曲だ。1945年にジョゼフ・コズマが作曲し、後にジャック・プレヴェールが詞を付けた。ミディアム・スローテンポの短調で歌われるバラード。6/8拍子の長いヴァース(序奏)と、4拍子のコーラス部分から構成される。 またジャズの素材として多くのミュージシャンにカバーされ、数え切れないほどの録音が存在することでも知られる。 1955年の全米ビルボード・チャートで1位のベストセラーとなった。「Autumn Leaves」はジャズのスタンダードとなり、最も多くレコーディングされた曲のひとつ。


ビル・エヴァンスの録音はポール・モチアンとスコット・ラファロとのジャズトリオの全盛期の気風を反映させている。シャンソンの定番を当時盛んであったハードビーバップ風にアレンジした。リバーサイド四部作のうちの一つ『Portrait In Jazz』には2つのテイクが収録されている。

 

 「Autumn Leaves」





「Waltz For Debby」 「Porgie(I Loves You Porgie)」(1961)/ 『Waltz For Debby』



ビル・エヴァンス・トリオとして活動していたベーシストのスコット・ラファロが不慮の自動車事故により死去する10日前、ニューヨークのヴィレッジ・ヴァンガードでのライヴをリバーサイドレコードが収録していたことは、ほとんど奇跡的と言える。

 

1961年、エヴァンスのトリオはヴィレッジ・ヴァンガードに頻繁に出演していた。この年の6月のライブのレコーディングは、ビル・エヴァンスのライブ・アルバム『Sunday At The Village Vaunguard』としてラファロの死後に発売された。これはベーシストの追悼盤の意味を持つ。

 

後に発売された『Waltz For Debby』は追悼盤に比べると、音に艶があり、バランスの良いレコーディングとなっている。特に、このアルバムに収録されている「Porgie(I Loves You Porgie)はジョージ・ガーシュウィンのカバーで、後にキース・ジャレットがカバーしている。「Waltz For Debby」はヴィレッジ・ヴァンガードでのライブで披露されたビル・エヴァンスの定番曲である。

 

 

「Waltz For Debby」

 

 

 「Porgie (I Loves You Porgie)」

   

 

 


「We Will Meet Again」(1977) /『We Must Believe In Spring』


 

1980年、ビル・エヴァンスは、同タイトルのアルバムを名に冠した遺作を発表した。このラストアルバムのバージョンは、ピアノ・ソロで、曲の後半では、妻との別れ、彼の晩年の孤独と哀愁を込めた切ない感覚をジャズ・ピアノで収めている。

 

そして、一方、彼の死後に追悼盤としてリリースされた『We Must Believe In Spring』の収録バージョンでは、ジャズトリオとしての白熱した瞬間を録音の形で残している。


エディ・ゴメスのウッドベースとエヴァンスのピアノの演奏の兼ね合いは、後のニューヨークのモダンジャズの流れを形作ったといえるだろう。曲のタイトルからも分かる通り、エヴァンスはやや硬派の人物であったことが伺い知れる。この曲には泣けるジャズピアノの要素が満載である。涙ぐませるもの……、それはいつも白熱した感情性から生み出されるものなのである。

 

最後のスタジオ録音が残した奇跡的な演奏を収録しているが、「We Will Meet Again」では気迫あふれるトリオの演奏が聞ける。生前のエヴァンスがジャズトリオという形式を最も重視していたことが伺える。また、最後のスタジオ録音の中での演奏で、エヴァンスは彼の音楽的な出発となったクラシックピアノからの影響を込めている。


ジャズとクラシックを繋げる演奏家としての役割は、JSバッハの作品の再演で知られるキース・ジャレットへと受け継がれていった。またエヴァンスは、現在のジャズのライブでお馴染みの各々のプレイヤーが即興演奏を曲で披露するという最初の形式を確立させた人物でもある。

 

 

 「We Will Meet Again」

AORの名盤をピックアップ





AORとは?? 


AOR/ソフト・ロックとは、タワーレコードによると、”大人向けのロック”と説明されています。AORはよく言われるように、''Adult Oriented Rock''の省略形で、直訳すると、大人を方向づけるロックという意味がある。つまり、少し着飾ったオシャレなロックと定義づけられます。一方、このジャンルの補足的な意味で使用されるSoft Rockに関しても、その名の通り、ソフトなロックを意味し、ロックンロール性を薄めたポップ寄りのロックという意味でラベリングされることがある。これらは厳格にハードロックやメタルが隆盛だった80年代頃のロック運動の対極にある聞きやすい音楽を提供しようとするニューウェイブの後のシーンを象徴していました。


2000年初頭に同レコード・ショップが配布していたフリーペーパーでも同様の趣旨の説明がなされていた記憶があります。シンセサイザーの演奏を押し出したサウンドは、T~Rexのグリッターロックや、70年代後半のニューウェイブ/テクノとも共通項がありそうです。音楽的に言及すれば、現在のシンセポップに該当し、軽めの音やビートが特徴です。これはハードロックやメタルが徐々に先鋭化していく時代、それに対するカウンターの動きであったと定義付けられます。

 

この音楽運動は80年代前後に隆盛をきわめ、白人を中心とするロックカルチャーのメインストリームを形成し、MTVの全盛期の華やかりし商業音楽のイメージを決定づけました。もっとも象徴的なところでは、デュラン・デュラン、カルチャー・クラブ、TOTO、JAPAN等がその代表例となるでしょう。確かにこのシーンで活躍したのは白人のグループが多い。しかし、AORやソフトロックが白人音楽というのは極論かもしれません。少なくとも、1978年頃にはブラック・ミュージックの一貫として、クインシー・ジョーンズの1976年の傑作『Mello Madness(メロー・マッドネス)』など、以降のソフト・ロックによく似たジャンルが登場していたからです。

 

同様に、スティーヴィーやマーヴィンの音楽が併行して、これらの白人音楽になんらかの影響を及ぼした可能性があると指摘したとしても、的外れとはならないはず。さらに詳細な指摘をしておけば、AOR/ソフト・ロックに該当するバンドが英国のニューウェイブに傾倒していた可能性があるとしても、このジャンルのグループの音楽にはソウルフルな香りが漂っていました。


分けても、スティング擁するPOLICE(ポリス)の初期から中期の作品や、ポール・ウェラー擁するThe Style Councilのデビュー・アルバムを聴くと、より分かりやすいのではないでしょうか?  昨今でも、白人のアーティストが黒人のスポークンワードやフロウのスタイルをポップの歌唱法の中に取り入れる(Torres、Maggie Rogersの楽曲を参照)場合もあるように、どんな時代においても、人種的な垣根を越えて、お互いに音楽的な影響を分かち合ったと見るべきなのでしょうか。

 

これらの音楽は後に、シンセ・ポップやアヴァン・ポップという形で2010年代や以降の20年代に受け継がれていきますが、その本質的な意義は変わっていないようです。 AORの音楽はよく「アーバン」とか「メロウ」という作風が代表例として挙げられますが、これはブラックミュージックの1970年代後半の象徴的なアーティストが、時代に先んじて試作していた音楽でもありました。


そう考えてみますと、AOR/ソフト・ロックというジャンルの正体は、ローリング・ストーンズやエリック・クラブトンがブラック・ミュージックをロックの文脈にセンスよく取り入れたように、80年代のロックの流れに、以前のR&Bやソウルのニュアンスを取り入れて、それらを以前のグリッターロックやニューウェイブと関連付けたと見るのが妥当なのかもしれません。

 

少なくとも、2024年の音楽を楽しむ上で、AORを抑えておけば、現代の音楽に対する理解も深まるに違いありません! 2020年代以降の音楽では、多かれ少なかれ、この音楽ジャンルの要素を取り入れる事例は稀有ではありません。それは実験的なロックやポップスとは対蹠地にある”親しみやすいポピュラー音楽”という形で、現在も多数のリスナーに親しまれているのです。



*下記に取り上げる9つの名盤はこのジャンルの入門編に過ぎません。ぜひ皆さまの''オンリーワン''のアルバムを探す一助となれば幸いです。



・AORの名盤



Tears For Fears  『Songs From The Big Chair』 1985



『Songs From The Big Chair』は、英国のバンド、Tears For Fears(ティアーズ・フォー・フィアーズ)のセカンドアルバムで、1985年2月25日にマーキュリー・レコードからリリースされました。

 

前作のダークで内省的なシンセポップから脱却し、メインストリームな軽妙なギターを基調としたポップロックサウンド、洗練されたプロダクション・バリュー、多様なスタイルの影響を特徴としています。ローランド・オルザバルとイアン・スタンリーの歌詞は、社会的、政治的なテーマを表現しています。


このアルバムは、ユニットは全英で2位、全米で1位を獲得し、一躍スターダムに躍り出ました。収録曲「Everyone Wants To Rule The World」は普遍的な魅力がある。後にデラックスバージョン、及びスーパーデラックスバージョンが再発されています。



「Everyone Wants To Rule The World」

 

 

 

 

The Cars 『Heartbeat City』1984




リック・オケイセック擁するカーズの1984年の代表作『Heartbeat City』はAOR/ソフト・ロックを知るのに最適な一枚。米国の同バンドのリリースしたアルバムの中で最も商業的成功を収めています。ポップなアルバムとして知られていますが、たまにシニカルな陰影のある歌詞も織り交ぜられる。

 


ロックな印象を押し出した前々作『Panorama』、前作『Shake It Up』に比べると、全体的にポップでキャッチーな仕上がりになっています。『ラジオ&レコーズ』の年間アルバムチャートでは1位を獲得しています。「Drive」「Hello Again」「Magic」「You Might Think」がトップ20に入るなど、シングル・カットでヒットを連発しました。アメリカのチャートで最高3位、イギリスでは25位を獲得。後に本作で、カーズはロックの殿堂入りを果たした。爽やかなアルバムではないでしょうか。



「Drive」




The Police 『Synchronicity』 1983

 



スティング擁するポリスは当初、レゲエやダブサウンドを絡めた気鋭のロックバンドとしてニューウェイブの真っ只中に登場したが、年代と併行してよりポップなバンドに変化していきました。5作目のアルバムは彼らの実験的な音楽とポピュラー性が劇的に融合しています。その後の活動休止を見ると、バンドとしてかなり危ういところでバランスを保っている緊張感のある作品です。

 

『シンクロニシティ』は、1983年6月にA&Mレコードから発売されました。バンドで最も成功を収めたともいえる本作には、ヒットシングル「Every Breath You Take」、「King of Pain」、「Wrapped Around Your Finger」、「Synchronicity II」が収録。アルバムのタイトルと曲の多くは、アーサー・ケストラーの著書『偶然の根源』(1972年)にインスパイアされている。


1984年のグラミー賞では、アルバム・オブ・ザ・イヤーを含む計5部門にノミネート、3部門を受賞しました。リリース当時、そして、シンクロニシティ・ツアーの後、ポリスの人気は最高潮に達した。BBCとガーディアン紙によれば、彼らは間違いなく「世界最大のバンド」だったとか!?




「Every Breath You Take」

 

 

 

 

TOTO 『Ⅳ』 1982

 


 

 

『Toto IV』は、1982年3月にコロムビア・レコードから発売されたアメリカのロックバンドTotoの4枚目のスタジオアルバムです。「Rosanna」を始め、シンセの演奏を押し出したポピュラーアルバムですが、異文化へのロマンが表明されていて、それはアルバムのクローズ「Africa」で明らかになります。

 

リードシングルの「Rosanna」はビルボードホット100チャートで5週間2位を記録し、アルバムの3枚目のシングル「Africa」はホット100チャートで首位を獲得し、グループにとって最初で唯一のナンバー1ヒットとなりました。アルバム・オブ・ザ・イヤー、プロデューサー・オブ・ザ・イヤー、レコード・オブ・ザ・イヤーを含む3つのグラミー賞を受賞しました。

 

発売直後、アメリカのビルボード200アルバムチャートで4位を記録。また、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、オランダ、イタリア、ノルウェー、イギリス、日本を含む他の国々でもトップ10入りしました。


今作は、ベーシストのデヴィッド・ハンゲイトが2014年に復帰するまで(2015年のアルバム『TOTO XIV』のリリースで)、オリジナル・ベーシストをフィーチャーした最後のアルバム。リード・ヴォーカリストのボビー・キンボールが1998年にカムバックするまで(『TOTO XIV』のリリースで)、オリジナル・リード・ヴォーカルをフィーチャーした最後のアルバムでもありました。

 


「Africa」

 

 

 

 

Daryl Hall &  John Oates 『Private Eyes』 1981



 

AOR/ソフト・ロックの中でも、R&Bに根ざしたアルバムがあります。それが意外なことにダリル・ホール & ジョン・オーツの1981年の『Private Eyes』です。この年のデュオのアルバムには、1980年代前後のアーバン・コンテンポラリーからの影響が大きく、ファンクやソウルに触発を受けながら、それらを親しみやすく軽快なシンセ・ポップとしてアウトプットしていますよ。

 

『プライベート・アイズ』(Private Eyes)は、1981年9月1日にRCAからリリースされたホール&オーツの10枚目のスタジオアルバム。


アルバムには、2枚のナンバーワン・シングル、タイトル曲と "I Can't Go for That (No Can Do)"、トップ10シングル "Did It in a Minute "が収録。「I Can't Go for That (No Can Do)」はR&Bチャートでも1週間首位を獲得。この曲は現在でも古びていない。2020年代の商業音楽にも共鳴する何かがある!?

 

 「I Can't Go for That (No Can Do)」

 

 

 

Christpher Cross 『Christpher Cross』 1979

 



クリストファー・クロスは、テキサス/アントニオ出身のシンガーソングライター/ギタリスト、フラミンゴをトレードマークにしています。知る人ぞ知るロックギタリストで、この音楽家を畏れるファンは多いはず。

 

本作はクリストファー・クロスのデビュー・アルバムで、1979年半ばにレコーディングされ12月にリリースされました。どうやらこのアルバムは、3M デジタル・レコーディング・システム (3M Digital Recording System) を活用した初期のデジタル・レコーディング・アルバムのひとつのようです。


1981年のグラミー賞では、ピンク・フロイドの『The Wall』を抑えて最優秀アルバム賞を受賞し、1970年代末から1980年代初めにかけての最も影響力のあったソフトロックのアルバムのひとつと評されています。『Christpher Cross』は、アルバム・オブ・ザ・イヤー、レコード・オブ・ザ・イヤー、ソング・オブ・ザ・イヤー、最優秀新人賞を含む5部門でグラミー賞を受賞した。この驚異的な記録は2020年のビリー・アイリッシュの時まで破られることがなかったそうです。


 

「Ride Like The Wind」

 

 

The Aran Persons Project 『Eye In The Sky』 1982

 



『Eye In The Sky』は、1982年5月にアリスタ・レコードからリリースされたイギリスのロックバンド、The Aran Persons Project(アラン・パーソンズ・プロジェクト)の6枚目のスタジオアルバム。アルバムジャケットはファラオの目!?

 

1983年の第25回グラミー賞で、『Eye In The Sky』はグラミー賞の最優秀エンジニア・アルバム賞にノミネートされました。2019年、このアルバムは第61回グラミー賞で最優秀イマーシヴ・オーディオ・アルバム賞を受賞しています。

 

『Eye In The Sky』には、最大のヒット曲であるタイトル曲が収録。リード・ヴォーカルはエリック・ウルフソン。アルバム自体も大成功を収め、多くの国でトップ10入りを果たしました。


このアルバムにはインストゥルメンタル曲「Sirius」が収録されており、北米中の多くの大学やプロのスポーツ・アリーナの定番曲となっています。このなんとも勇ましい感じの曲は、1990年代にシカゴ・ブルズが優勝した際に、スターティング・ラインナップを紹介するために使用されました。



もう1つのインスト曲「Mammagamma」は、1980年代半ばにニュージーランドのTVNZとBBCウェールズでスヌーカー中継のために個別に使用され、1989年から1990年にかけてアイルランドのトニー・フェントンの深夜2FM番組で「My Favourite Five」特集として使用された。また、このインストゥルメンタルはイタリアのIvecoのインダストリアル・ビデオでも使用されたのだとか。


「Eye In The Sky」

 

 

 

 

Don Henley 『Actual Miles: Henley’s Greatest Hits』 1995

 



 

『Actual Miles:Henley’s Greatest Hits』は、1995年にリリースされたアメリカのシンガー・ソングライター、ドン・ヘンリーによる初のコンピレーション・アルバムです。

 

このコンピレーションは1980年代を通した3枚のソロ・アルバムのヘンリーのヒット曲を網羅しています。3曲の新曲、「The Garden of Allah」、「You Don't Know Me at All」、ヘンリーによる「Everybody Knows」のカヴァーが収録。この作品集はチャート最高48位を記録、プラチナに達した。「The Garden of Allah」はメインストリーム・ロック・トラックス・チャートで16位を記録。

 

ジャケットの写真には、葉巻を吸う中古車セールスマンのドン・ヘンリーがジョーク混じりに描かれています。デザインの由来は1995年の『Late Show』出演後、デヴィッド・レターマンに質問されたドン自身が語っています。写真とタイトルについて「レコード業界に対する微妙な風刺」と説明しています。 アメリカの黄金時代を思わせるワイルドなジャケットも素晴らしいのでは??

 

 

 「The Boys Of Summer」

 

 

 

The Go-Betweens 『16 Lovers Lane』

 


The Go-Betweensは1977年にクイーンズランド州ブリスベンで結成されたオーストラリアのインディー・ロックバンド。

 

シンガー・ソングライターでギタリストのロバート・フォースターとグラント・マクレナンが共同で結成し、バンドを率いた。1980年にドラマーのリンディ・モリソンが加入し、後にベース・ギタリストのロバート・ヴィッカーズ、マルチ・インストゥルメンタリストのアマンダ・ブラウンとラインナップを広げていく。ヴィッカーズは1987年にジョン・ウィルスティードと交代した。その2年後。フォースターとマクレナンは2000年にバンドを再結成した。フォースターとマクレナンは2000年にバンドを再結成した。マクレナンは2006年5月6日に心臓発作で亡くなり、ゴー・ビトゥイーンズは再び解散した。

 

2010年、彼らの出身地であるブリスベンの有料橋が、彼らにちなんでゴー・ビトウィーンズ・ブリッジと改名された。1988年、『16 Lovers Lane』からのファースト・シングル「Streets of Your Town」は、オーストラリアのケント・ミュージック・レポート・チャートとイギリスのUKシングル・チャートの両方でトップ100入り。

 

シングル 「Was There Anything I Could Do?」は、アメリカのビルボード・モダン・ロック・チャートで16位のヒットを記録した。2001年5月、1983年の『Before Hollywood』に収録された「Cattle and Cane」が、オーストラリア演奏権協会(APRA)により、オーストラリアの歴代トップ30曲に選ばれた。2008年、スペシャル・ブロードキャスティング・サービス(SBS)TVの『The Great Australian Albums』シリーズで『16 Lovers Lane』が取り上げられた。


上記に紹介してきたバンドやアーティストに比べると、現在はそれほど知名度に恵まれているかは不明であるThe Go Betweensであるものの、男女混合のボーカルはティアーズフォーフィアーズの清涼感のあるポップスに匹敵する。

 

特に、名盤と名高い1988年のアルバム『16 Lovers Lane』ではバンドとしての試行錯誤の痕跡が見出される。彼らはこのアルバムで、ネオ・アコースティック、シンセ・ポップ、そしてMTV全盛期のダンス・ポップ等、その当時のトレンドの音楽を咀嚼しながら、The Go Betweensとしての独自の音楽的な表現性を追求している。16曲の収録曲は1980年代後半の時代を巧みに反映させており、どことなく浮足立ったような空気感を味わうことができる。

 

いわば1980年代は、アナログの時代からデジタルの時代へと移り変わる最後の年代であったことは確かなのであるが、上記のバンドやアーティストと同様に人間が次の時代に移行する過渡期を親しみやすいポピュラーミュージックという形で表現したことに関しては、再評価されるべき点もあるかもしれない。特に、そういった試行錯誤の中で生み出されたヒット曲「The Streets of Your Own」は、ティアーズ・フォー・フィアーズの名曲に比肩すると見ても違和感がない。ギター・ポップとシンセ・ポップを組み合わせたスタイルは時代を先取りするもので、現代のミュージック・シーンの音楽とも共鳴するものが含まれているように感じられる。

 

「The Streets of Your Own」

 

 

 

A0R/ソフト・ロックをどう楽しむ??

 

近年では、ケイト・ブッシュのStranger Thingsに使用された楽曲の再ヒット等の事例を見るかぎり、1980年代のポピュラー・ソングが再び大きな人気を獲得する可能性はまだ残されているように思える。

 

特に、現代の2020年代のミュージックシーンの動向を見るかぎり、「ソフィスティポップ」とも称されることがあるAOR/ソフト・ロックの再評価の機運は高まっていると言えるのではないだろうか。例えば、ロックアーティスト、ないしは現代的なポピュラーアーティストに関しても、先行の音楽を何らかの形で受け継ぎ、モダンなスタイルにアップデートしているからである。またお気に入りのアーティストとの音楽性の共通点を探してみるという楽しみもある。

 

音楽は、つい現行のものだけをチェックしがちだが、もちろん、クラシカルな作品にも味わい深さがあることは明らかなのではないだろか。ぜひ上記のAOR,ソフト・ロックのエッセンシャル・ガイドをご参考にしていただき、あなたなりのスペシャルワンの名盤を探してみて下さい。

 

 

UKパンクの最初のムーブメント 75年から78年までに何が起こっていたのか

 

パンクのイメージでいえば、その始まりはロンドンにあるような印象を抱くかもしれない。しかし、結局のところはボストンやニューヨークで始まったプロトパンクが海を越えてイギリスのロンドンに渡り、マルコム・マクラーレンやピストルズのメンバーとともに一大的なムーブメントを作りあげていったと見るのが妥当である。結局、当初はインディーズレーベルから始まったロンドンのムーブメントだったが、多くのパンクバンドが70年の後半にかけてメジャーと契約したことにより、最初のムーブメントは終息し、ニューウェイブやポスト・パンクに引き継がれていく。しかし、アンダーグラウンドでは、スパイキーヘアやレザージャケットに象徴されるようなハードコアパンクバンドがその後も、このムーブメントのうねりを支えていった。

 

ロンドンを中心とする1970年代中盤のムーブメントは、三大パンクバンド、つまり、セックス・ピストルズとダムド、クラッシュを差し引いて語ることは難しい。それに加えて、ジェネレーションXとジャムを加えて五大バンドと呼ばれることもあるという。しかし、この熱狂は都市圏における近代文明から現代文明へと移り変わる瞬間における若者たちの内的な軋みや激しい感情性が織り込まれていたことは着目すべきだろう。それはノイジーなサウンド、そしてシャウトや政治的な皮肉や揶揄という形で反映されていたのだった。ここに多くの人がパンクそのものに対して反体制のイメージを抱く場合があるが、それは実際のところロンドンの若者の直感的なものを孕んでいた。

 

つまり、70年代のハードロックが産業的に強大化していくのに対して、若者たちはスミスが登場するサッチャリズムの以前の時代において、アートスクールの奨学金をもらったり、失業保険をもらって生活していたという実情があった。(当時の失業率は10%前後だったという。)これがハードロック・バンドのドラッグの産業性への貢献に対する反感という形に直結していった。つまり、ピストルズのライドンがデビューアルバムで歌った「未来はない」という歌詞には、その当時の若者の代弁的な声が反映され、決して反体制でもなければ反国家主義でもなかった。これはライドンが後に彼が英国王室を嫌悪していたわけではなく、むしろ英国という国家を愛していると率直に述べ、しばらくの誤解を解こうとしていたことを見れば瞭然だった。つまり、彼は若者の声を代弁していたに過ぎなかった。


今でもそうだが、ロンドンの若者たちの音楽にはニューヨークのCBGBに出演していたパンクの先駆者、テレヴィジョンやラモーンズ、パティ・スミスといった伝説的なアーティストたちと同じようにファッションによってみずからのポリシーを解き明かすというものがあった。レザージャケットやクロムハーツのようなネックレス、そして破れたカットソー等、それらの象徴的なアイテムはいわば、当時の20代前後の若者たちのステートメント代わりとなっていたのである。

 

英国の最初のパンクムーブメントは厳密に言えば、75年に始まった。つまりロンドンのセント・マーティンズ・スクール・オブ・アートでコンサートを開いたときである。この最初のギグは15分ほどで電源を切られたため終了となった。しかし、後のバンドの音楽性やスティーヴ・ジョーンズのソロ・アルバムを見ると分かる通り、ピストルズの本質はパンクではなく、ロックンロールにある。それは彼らがスモール・フェイセズやモダン・ラヴァーズのジョナサン・ リッチマンのカバーを行っていたことに主な理由があるようだ。76年、ピストルズはオリジナル曲を増やしていき、取り巻きも増え始めた。このローディーのような存在が、「ブロムリー軍団」とストーンズのヘルズ・エンジェルズのような親衛隊を作っていったのは自然な成り行きだった。この親衛隊の中にはスージー・スーもいたし、そしてビリー・アイドルもいた。

 

同年代に登場したクラッシュに関しては、すでに76年頃に活動を始めていた。クラッシュを名乗る以前に、ワン・オー・ワナーズ(101'ers)というバンド名で活動を始めており、主にパブをメインにギグを行っていた。結局、ストラマーはピストルズのライブに強い衝撃を受けて、「White Riot」に象徴づけられるデビュー・アルバムの性急なパンク・ロックソングを書こうと決意したのだった。またベーシストのポール・シモノンも最初に見たギグはセックス・ピストルズだったと語っており、やはりその影響は計り知れなかったことを後の時代になって明かしている。

 

一般的にはこのバンドにダムドが加わるべきなのかもしれないが、当時のミュージックシーンの革新性やパンクというジャンルの影響度を観る限り、ピート・シェリー擁するBUZZCOCKSの方が重要視される。当時、マンチェスターに住んでいたピート・シェリーとハワード・ディヴォートは音楽誌、「ニューミュージカルエクスプレス」(NME)に掲載されたライブレポートを読み、その後すぐにBUZZCOCKSを結成した。これは1976年2月のことだった。バズコックスは現代的な産業文明に疑問を呈し、「Fast Cars」では車に対する嫌悪感を顕にしている。そして音楽的にも後のメロディックパンクの与えた影響度は度外視出来ない。特に、パンクにポピュラーなメロディー性をもたらしたのはこのバンドが最初だったのである。これはのちのLeatherfaceやSnuffといったメロディックパンク/ハードコアバンドに受け継がれていくことになる。

 

UKパンクのムーブメントはアンダーグラウンドではその後も、『PUNKS NOT DEAD』と息巻く連中もいたし、そしてその後も続いていくのだが、 結局のところ、オリジナルパンクは、75年に始まり、77年から78年に終焉を迎えたと見るべきだろうか。その間には、ダムド、クラッシュ、スージーアンドバンシーズがデビューし、パンクバンドが多数音楽誌で紹介されるようになった。76年にはダムドが「New Rose」をリリース、同年に、セックス・ピストルズは「Anarchy In The UK」でEMIからデビューした。彼らは最初のテレビ出演で、放送禁止用語を連発し、これが話題となり、パンクそのものがセンセーショナル性を持つに至った。

 

最初のパンクのウェイブが終了した理由は、よく言われるようにパンクバンドがメジャーレーベルと契約を結び最初の意義を失ったからである。76年の8月には「メロディーメイカー」がすでにニューウェイブの動きを察知し、XTC、エルヴィス・コステロといった他のパンクバンドとは異なる魅力を擁するロックバンドを紹介していった。これがイギー・ポップのような世界的なロックスターが現在もなおエルヴィス・コステロに一目を置く理由となっている。

 

以後、ニューウェイブはマンチェスター等のシーンと関連性を持ちながら、ポスト・パンクというジャンルが優勢になっていく。厳密に言えば、最初のパンクの動きは1978年頃にニューウェイブ/ポスト・パンクのムーブメントに切り替わったと見るのが一般的である。その後は、76年のセックス・ピストルズとバズコックスのマンチェスターの伝説的なギグ(観客は30人ほどだったと言われている)を目撃した中に、80年代の象徴的なミュージシャンがいた。

 

それがつまり、80年代の音楽シーンを牽引するJoy Divisionのイアン・カーティス、New Orderを立ち上げるピーター・フック、そして80年代の英国のミュージック・シーンを牽引するザ・スミスのモリッシーだったのである。これは信じがたい話であるが、本当のことなのだ。

 

 

UKパンクの名盤ガイド 

 

ここでは、UKパンクの最初のムーブメントを支えたバンドの名盤を中心に取り上げていきます。基本的には、70年代から90年代のオールドスクールのスタンダードな必聴アルバムに加えて、多少オルタナネイトなアルバムもいくつか取り上げていきます。ぜひ、これからUKのパンクロックを聴いてみたいという方の参考になれば幸いです。

 

 

SEX PISTOLS 『Never Mind The Bullocks』  

 


 

結局、「ベタ」とも言うべきアルバムではあるものの、パンクというジャンルを普及させたのは、このアルバムとそれに付随するシングルカットだ。マルコム・マクラーレン主導のもと、同名のブティックに集まるヴィシャスやライドンを始めとする若者たちを中心に結成。センセーショナルな宣伝方法が大きな話題を呼び、一躍英国内にパンクロックの名を知らしめることになる。

 

パンクの象徴的なアルバムではありながら、ギタリストのスティーヴ・ジョーンズのロックンロール性に重点が置かれている。(後のソロ・アルバムではよりロック性が強い)それに加え、ドイツのNEU!に触発されたジョン・ライドンのハイトーンのボーカルは、のちのP.I.Lにも受け継がれていくことになる。しかし、このアルバムの最大の魅力は、パンクではなくポピュラリティーにある。ノイジーな音楽を、どのアルバムよりも親しみやすい音楽性に置き換えたクリス・トーマスのプロデュースの手腕は圧巻である。「Anarchy In The UK」、「God Save The Queen」といったパンクのアンセムは当然のことながら、「Holiday In The Sun」、「EMI」のシニカルな歌詞やメッセージ性は、今なお普遍的な英国のパンクの魅力の一端を担っている。





 The Clash 『London Calling」

 


パブリック・スクール出身のジョー・ストラマー、彼の父親は外交官であり、若い時代から政治的な活動にも余念がなかった。パンクのノイジーさや性急さという点を重視すると、やはりビューアルバムが最適であるが、このアルバムが名盤扱いされるのには重要な理由がある。つまり、パンクロックというジャンルは、スタンプで押したような音楽なのではなく、そのバリエーションに最大の魅力があるからである。後には、ジョニー・キャッシュのようなフォーク音楽にも傾倒することになるジョー・ストラマーであるが、このアルバムではクラッシュとしてスカ、ダブ、ジャズ、フォーク、ロックと多角的な音楽性を織り交ぜている。


『Sandanista』は少しパンク性が薄れてしまうが、このアルバムはそういった音楽的なバリエーションとパンク性が絶妙な均衡を保つ。「Spanish Bombs」では政治的な意見を交えて、時代性を反映させ、痛快極まりないポピュラー・ソングを書いている。またロンドンのリアルな空気感を表したタイトル曲から、最後のボブ・ディラン風のナンバー「Train In Vain」に至るまで、パンクを越えてロックの伝説的な名曲が収録。

 

 

 

The Damned 『The Damned』

 



ニューヨークからもたらされたパンクというジャンルに英国独自のオリジナリティーを加えようとしたのがDamned。Mott The Hoople、New York Dollsにあこがれていたブライアン・ジェイムズを中心に結成された。

 

少数規模のライブハウスの熱狂を余すところなく凝縮されたセルフタイトルがやはり入門盤に挙げられる。ピストルズと同様にロック性が強く、それにビートルズのようなメロディーをどのように乗せるのかというチャレンジを挑んだ本作は今なおUKパンクの原初的な魅力を形作る。アルバムは10時間で制作されたという噂も。少なくとも本作にはパンクの性急な勢いがある。それは「Neat Neat Neat」や「New Rose」といった代表的なナンバーを見ると瞭然である。

 

 

 


Buzzcocks 『Singles Going Steady』



ピート・シェリー擁するBuzzcocksの名盤はオリジナル・バージョンとしては『Another Music In Different Kitchen』が有名であるが、このアルバムだけを聴くだけでこのバンドやシェリーのボーカルの本当の凄さは分からない。つまり、最初期のメロディック・パンクというジャンルの基礎を作り上げただけではなく、のちの70年代後半からのニューウェイブやポスト・パンク、そしてシンセ・ポップまですべてを網羅していたのが、このマンチェスターのバンド、バズコックスの本質だった。ベスト盤とも称すべき『Singles Going Steady』には、このバンドがどのような音楽的な変遷を辿っていったのか、そして、パンクの10年の歴史が魅力的にパッケージされている。


現代的な産業への嫌悪を歌った性急なパンクアンセム「Fast Cars」、同じくニューウェイブの幕開けを告げる「Orgasm Addict」、メロディック・パンクの最初のヒットソング「I Don't Mind」といった彼らの代表的なナンバーの数々は、今なお燦然とした光を放っている。それに加えて、人懐っこいようなピート・シェリーの名ボーカルは後のポスト・パンクやニューウェイブと混ざり合い、「Promises」といった象徴的なパンクロックソングとして昇華される。他にも、このバンドのポピュラリティーが力強く反映された「Why Can't Touch It」も聞き逃す事はできない。ここでは、オリジナル盤のバージョンを取り上げる。 

 


 

 

 Generation X 『Generation X』

 

ご存知、ビリー・アイドル擁するGeneration Xは、パンクの息吹をどこかにとどめながらも痛快な8ビートのロックンロール性で良く知られる。それ以前にアイドルはピストルズの親衛隊のメンバーをしており、伝説的なバンド、ロンドンS.Sに在籍していたトニー・ジェイムズらによって結成。ダンサンブルなビートを織り込んだロック性がこのデビューアルバムの最大の魅力だが、もう一つの意外な魅力としてパンキッシュなバラードソングが挙げられる。

 

特に「Kiss Me Deadly」はパンクバンドとしては珍しく恋愛ソングで、切ないエモーションを何処かに留めている。同じようにパンキッシュなバラードとしては、このアルバムには収録されていないが、「English Dream」もおすすめ。どことなく切なくエモーショナルな響きを擁している。

 

 

 

GBH 『City Baby Attacked By Rats』

 

GBHは、ちょっと前に、東京の新宿アンチノック(GAUZEなどが企画”消毒GIG”を行う)で来日公演を行っている。紛れもなく、UKに最初にハードコアというジャンルを持ち込んだバンドである。しかし、WIREのようなニューウェイブのサウンドをやりたかったというわけではなく、メタルを演奏しようとしたら、あまりに下手すぎて、こういったハードコアが出来上がったという。つまり、メタルバンドのようにテクニカルなギターやブラストビートは演奏できないが、それらの性急さをロックサウンドに織り交ぜようとしたら、ハードコアが出来上がったというのである。


しかし、彼らにとって演奏の下手さは、欠点とはならない。このアルバムでは、のちのUKハードコアを牽引する性急なビート、苛烈なシャウトなど、このジャンルの代名詞的なサウンドが凝縮されている。「Time Bomb」を聴くためだけに買っても損はない伝説的なアルバムである。要チェック。

 

 

 

 

Stiff Little Fingers 『Inflammable Material』

 

スティッフ・リトル・フィンガーズは、アイルランド/ベルファスト出身のパンクバンド。彼らは77年にクラッシュのギグに触発され、バンドを結成した。当初は自主レーベルからリリースしていたが、最初期のシングルがBBCのDJのジョン・ピールの目に止まり、ラフ・トレードと契約した。

 

レコードストア、ラフ・トレードは最初、レゲエやガレージロックを専門とするレーベルとして始まった経緯があるが、スティッフ・リトル・フィンガーズは間違いなくこのレーベルの原初の音楽を体現し、そして知名度を普及させた貢献者である。UKチャート上位にシングルを送り込んだ功績もある。


ガレージ・ロック風の荒削りなパンク性にシャウトに近いボーカル、しかし、まとまりのないサウンドではあるものの、その中にキラリと光るものがある。UKパンクの原初的な魅力を探るのには最適なアルバムの一つである。ジョン・ピールに見初められた「Suspect Device」はUKパンクの原点に位置する。





The Undertones 『The Undertones』




上記のバンドと同様に、工業都市の北アイルランドからもう一つ魅力的なバンドが登場した。BBCのジョン・ピールが最も気に入ったバンド、ザ・アンダートーンズだ。ジョンピールの石碑にはアンダートーンズの名曲のタイトルが刻まれている。バンドはパンクの最盛期からニューウェイブの時期、1975から83年まで活動した。


苛烈なパンクやファッションが目立つ中、ザ・アンダートーンズの魅力というのは、素朴な感覚と、そして親しみやすいメロディー性にある。それほどパンクという感じでもないけれども、その中には、やはり若い感性とパンク性が宿っている。このアルバムに収録されている「Teenage Kicks」はパンクの感性と、エバーグリーンな感覚を見事に合致させた伝説的な名曲の一つである。 

 

 

 

 Discharge 『Hear Nothing See Nothing Say Nothing』

 


 

1977年にストークで結成されたUKハードコアの大御所。現在も奇妙なカルト的な性質を帯びたバンドがイギリスが登場するのは、Joy Divisionの影響もあるかもしれないが、やはりDischargeの影響が大きいのかもしれない。80年頃からシングルをリリースし、このデビュー作で一躍英国のハードコアシーンのトップに上り詰めた。

 

このアルバムのハードコアには、ワシントンDCのバンドのような性急なビート、そして、がなりたてるようなボーカルがあり、これは日本のジャパコアのバンドとの共通点も多い。ただ、Crassのような前衛性を孕んでいるのは事実であり、それがギターやパーカッションのノイズ、そして、音楽的なストーリー性の中で展開される。政治的な主張もセックス・ピストルズよりもはるかに過激であり、UKハードコアの重要なターニングポイントを形成した。このバンドの音楽は後にグラインドコアの素地を形成する。ノイズミュージックやメタルとも切り離すことが出来ない最重要アルバム。

 

 

 

 

Leatherface 『Mush』

 


 

UKパンクの中で最もクールなのは、間違いなくこのレザーフェイスである。サンダーランドでフランキー・スタッブスを中心に結成されたレザーフェイスは、UKのメロディック・パンクの素地をSnuffとともに形成した超最重要バンドであり、聞き逃すことは厳禁である。


特にBBCのジョン・ピールが入れ込み、バンドは何度も「Peel Session」に招かれている。このライブは後にフィジカル盤としても発売されている。バンド名は、おそらくホラー映画「悪魔のいけにえ」にちなみ、そしてアルバムのジャケットもホラー的なテイストが漂うものが多い。

 

ウイスキーやタバコで潰したようなしわがれた声を腹の底から振り絞るようにして紡ぐスタッブス、そしてメロディック・パンクの原点にある叙情的なギターライン等がこのバンドの主要なサウンドである。最初期の名作は『Minx』が挙げられるが、バンドの象徴的なパンクサウンドは『Mush』で完成されたといえるか。2000年代のメロディックパンクの疾走感にあるビート、そしてシンガロング性はすべてこのアルバムが発売された92年に最初の原点が求められるといっても過言ではない。

 

「I Want The Moon」、そして苛烈なパンクのアティチュードを込めた「I Don't Wanna Be The One You Say」等メッセージ性のあるパンクロックソングが多い。他にもニューウェイブサウンドとの融合を、造船や鉱山で知られるサンダーランドの都市性と融合させた「Dead Industrial Atmosphere」、POLICEのパンクカバー「Message In The Bottle」等名曲に事欠かない。


Leatherfaceには無数のフォロワーがいる。日本のメロディックパンクにも影響を及ぼしたほか、アメリカでもフォロワーを生み出し、Jawbreaker,Hot Water Music、Samiamなど秀逸なメロディーメイカーを持つバンドへ、そのDNAが受け継がれていく。

 



70年代のニューウェイヴ/ポストパンク関連のディスクガイドはこちらをご覧ください。

 

Donny Hathaway

 

現代のラップ/ヒップホップやネオソウルが政治的な主張、よりミクロな視点で見るなら、内的な問題の主張という内在的なテーマがあるように、R&Bミュージックが政治的な主張を持たぬ時代を見つけるほうが困難かもしれない。そもそもR&Bに関しては、公民権運動やブラックパンサー党の活動等の前の時代からブラックミュージックという音楽に乗せてミュージシャンが何らかの主張を交えるということは、それほどめずらしくはなかった。それは基本的に社会的な主張が許されなかった時代であるからこそ、有意義なメッセージを発信することが出来たのである。

 

R&Bは80年代に入ると、政治的な主張性における首座を、アイス・キューブを筆頭とするギャングスタ・ラップ勢に象徴される西海岸のグループに譲り、白人のロックやAORとの融合を試みた通称”ブラコン”(ブラック・コンテンポラリー)というジャンルが主流派となっていった。現地名ではUrban Contemporary(アーバン・コンテンポラリー)とも呼ばれている。


R&Bで「アーバンなサウンド」とよく評されるのは、このジャンルの余波を受けた評論用語と思われる。モータウン・サウンド等に象徴されるノーザン・ソウル、そして公民権運動に象徴されるニューソウルと呼ばれる、60年代と70年代にかけての動きの後に、黒人としての主張性が薄められ、ポピュラーなサウンドが主流となっていったのが80年代のR&Bであったらしい。

 

その時代、R&Bは死語になりつつあったが、このジャンルを節目に復活する。80年代のR&Bは日本では「ブラコン(ブラック・コンテンポラリーの略)」という名称で親しまれたのは有名で、スティービー・ワンダー、マイケル・ジャクソン、クインシー・ジョーンズ、マーヴィン・ゲイ、ダイアナ・ロスを始めとするミュージシャンがその代表的なアーティストに挙げられる。

 

上記のミュージシャンに共通するのは、それ以前の時代にジャクソン5としてニューソウルの運動の中心的な存在であったジャクソンを除いては、ポピュラー音楽との融合というテーマを持っていたことである。それは後にAORやソフト・ロックと合わさり、より軽やかなR&Bという形でメインストリームを席巻する。これらをプロモーションとして後押ししたのはMTVで、この放送局は24時間流行りの音楽をオンエアし続けていた。

 

やがて、R&Bはワンダーをはじめグラミー賞に多数のシンガーを送り出し、文字通り、スターシステムの中に組み込まれていったのは周知の通り。以後、R&Bはチャカ・カーンに代表されるようにプロデュース的なサウンドに発展し、また、90年代に入ると、ヒップホップとクロスオーバーが隆盛となる。その合間の世代にはDR. Dreなどの象徴的なミュージシャンも登場した。

 

2020年代のソウル・ミュージックを見ると、AORやジャズの影響を交えたR&Bが登場している。黒人のミュージシャンのみならず白人のアーティストにも好意的に受け入れられ、その影響を絡めたネオソウルというジャンルが2020年代のメインストリームを形成している。70、80年代のR&Bと現代のネオソウルは上辺だけ解釈してみると全然違うように聞こえるかも知れないが、実はそうではない。ブラックコンテンポラリーと現在のネオソウルの相違点を挙げるなら、現代的なポップス、テクノ、ハウスといったクラブミュージックの影響が含まれているか否かの違いしかない。そして、現代的なポップスとは、すでにハサウェイやチャカ・カーンが代表曲「Feel For You」で明示していたプロデュース的な視点を持つサウンドなのである。

 

リバイバルが発生するのは、何もロックやパンクだけにはとどまらない。スタイリッシュでアーバン、比較的、ライトな印象のあるブラック・ミュージックのジャンルが、2020年代中盤のR&Bに重要なエフェクトを及ぼす可能性は少なくない。ジェシー・ウェアをはじめとするアーティストにディスコサウンドの影響がハウスやテクノとともに含まれているのと同様である。

 

今回、ご紹介するブラック・コンテンポラリーの入門編とアーティストは、その最初期のウェイブを形成した先駆者で、80年代のR&Bシーンの音楽市場の土壌を形成した。以下のガイドは、アーバンなソウルとはどんな感じなのか、その答えを掴むための最良のヒントになるはずである。よりコアなブラコンのディスクガイドに関しては専門的な書籍を当たってみていただきたい。

 

 

Stevie Wonder  『Song In The Key Life』 1976




ブラックコンテンポラリーの先駆者として名高いのがご存知、スティービー・ワンダーである。モータウン時代はもとより、70年代のニューソウル運動を率い、現在でも大きな影響力を持つ。70年代のブラック・ミュージックの思想的な側面を削ぎ落とし、それらをライトで親しみやすい音楽にしたことが、ブラック・コンテンポラリーの最大の功績と言われている。

 

スティーヴィー・ワンダーといえば、ソウルバラードの達人であり、ピアノの弾き語りのイメージが強いが、このアルバムではファンクやホーンをフィーチャーしたご機嫌なファンクソウルサウンドが主体である。それはハサウェイと同じようにフュージョンジャズの音楽を取り入れている。代表曲「Sir Duke」はご機嫌なホーンのフィーチャーがマイルドなワンダーと声と見事な合致を果たしている。「I Wish」ではのちにジャクスンが80年代に試みたブラコンの商業的なイメージの萌芽を見出せる。80年代のメインストリームのR&Bの素地を作ったアルバムと見ても良さそうだ。

 

 

 


Donny Hathaway 『Extension Of a Man』 1973

 

 

ブラック・コンテンポラリーという趣旨に沿った推薦盤としては、『Robert Flick Feat. Donny Hathaway」が真っ先に挙げられることが多いのだが、ダニー・ハサウェイはやはりこのアルバムで、クロスオーバーの先駆的なアルバム。映画のような壮大なストリングスを交えたオープニング、ジャズやニューソウルの影響を交えた「Someday We'll All Be Free」はソウルミュージックの歴史的な名曲とも言えるだろう。


ファンク、フュージョン・ジャズの影響はもとより、このアルバムには、ブラジル音楽等の影響も取り入れられている。その合間に導入される現在のサンプリングやミュージックコンクレートのような手法を見る限り、現代の多くのアルバムは、今作の足元にも及ばない。発想力の豊かさ、卓越した演奏力、圧倒的な歌唱力、どれをとっても一級品であり、現在のデジタルの音質にも引けを取らない作品。ハサウェイの最高傑作と目されるのも頷けるR&Bの大作である。

 

 

 

 

Quincy Jones 『The Dude』 1981


アメリカのミュージシャン、プロデューサーのクインシー・ジョーンズによる1981年のスタジオ・アルバム。ジョーンズは多くのスタジオ・ミュージシャンを起用した。元々、トランペット奏者であったクインシーはジャズ、ソウル、ポップス、ロックと多角的な音楽性をもたらした。70年代には盛んだったクロスオーバーを洗練された音楽性へと昇華させたのがクインシーだ。元々プロデューサーとして活躍していたクインシーこそ、ブラコンの仕掛け人であるという。


『The Dude』はディスコサウンドの影響を残しながら、ポピュラー音楽寄りのアプローチをみせている。「Ai No Corrida」はどれくらいラジオやテレビでオンエアされたか計測不可能である。クインシーはこのアルバムを通じて、ロックやファンクを視点にして、グルーブ感のあるダンサンブルなソウルを追求している。AOR/ソフト・ロックに近いバラード「Velas」も必聴だ。

 

リード・シングル「Ai No Corrida」のダンス・エアプレイが多く、トップ40で28位、UKシングル・チャートで14位を記録。イギリスで11位を記録した「Razzamatazz」(パティ・オースティンがヴォーカル)も収録。同国におけるジョーンズのソロ最大のヒット曲となった。ルバム・オブ・ザ・イヤーを含むグラミー賞12部門にノミネートされ、第24回グラミー賞では3部門を受賞した。


 

 


 

Marvin Gaye 『Midnights』 1982


それまでモータウンの看板アーティストであった、マーヴィン・ゲイは、レーベルとの関係が悪化し、制作費を捻出できなったことから、いわゆるバンド主体のアプローチとは別のシンセ主体の音楽性へと突き進んだ。マーヴィンは、その後、CBSからの提案を受け入れ、コロムビアから三作のアルバムのリリースの契約を交わした。モータウンとの距離を置いたことが良い影響を及ぼし、ノーザン・ソウルから距離を置いたアーバンなソウルを生み出す契機となった。

 

享楽的ともいえるアーバンソウルの音楽には以前のマーヴィンのソウルから見ると、軽薄なニュアンスすら感じられるかもしれないが、レーベルとの契約の間で揺れ動いていたのを見ると、致し方無い部分もある。それ以前に対人のアルバムを制作したために、ファン離れを起こしていたマーヴィンはファンを取り戻すために、メインストリームの音楽を録音しようとした。前作『In Our Lifetime』のように内面に目を向けるのではなく、商業的なサウンドを追求することにした理由について、「今を逃すわけにはいかない。ヒットが必要なんだ」と語っていた。


 

 


Michael Jackson  『Off The Wall』 1971


 

 1979年の最大のベストセラーであり、ブラックコンテンポラリーの象徴的なアルバムと言われている。ソウルミュージックの評論家の中には、『Thriller』よりも高い評価を与える方もいるが、まったくの同意である。というか、マイケル・ジャクソンの最高傑作はこのアルバム。

 
『オフ・ザ・ウォール』(Off The Wall)は、1979年に発売されたマイケル・ジャクソンの5作目のオリジナル・アルバム。『ローリング・ストーン誌が選ぶオールタイム・ベストアルバム500』(2020年版)に於いて、36位にランクイン。


1979年、初めてクインシー・ジョーンズをプロデューサーに迎えて制作された。エピック・レコードからは初、モータウン・レコード時代を含めた通算では5作目のソロ・アルバム。



それまでのマイケルのソロ・アルバムは、制作サイドが主導して作られたもので、マイケルは用意された曲を歌うだけだったが、本作ではクインシーが主導権を持っていたものの、マイケルの自作曲やアイデアも随所に入れられている。ロッド・テンパートン、ポール・マッカートニー、スティーヴィー・ワンダーからの楽曲提供、バックの演奏もクインシーの息のかかった一流ミュージシャンを起用するなど、アルバムのクオリティがそれまでと比べて格段に洗練された。このアルバムから真の意味でのマイケルのソロ活動が始まったと言って良く、「『オフ・ザ・ウォール』こそ、マイケルの本当の意味でのファースト・アルバム」と言う人もいる。 




 


Whitney Houston 『Whitney Houston』 1985

 


なぜ、このアルバムを入れるのかというと、R&Bやポピュラー音楽としての影響力はもとより、現在のシンセ・ポップというジャンルにかなり深い影響を及ぼしている可能性があるということ。ホイットニー・ヒューストンは80年代の最高の歌手の一人であるが、このアルバムは基本的にはポピュラーアルバムで、ディープなソウルファンには物足りなさもあるかも知れない。


ただ、ポップスにソウルの要素をさりげなくまぶすというセンスの良さについては、現代のミュージシャンにとってヒントになりえる。アーバンソウルの都会的な雰囲気や、同年代に、ジョージ・ベンソンが試みた近未来志向のポップスという要素も散りばめられている。80年代の懐メロという印象があるかもしれないが、ケイト・ブッシュの再ヒットなどを見る限り、むしろ、現在こそ、ホイットニー・ヒューストンの再評価の機運が高まる可能性も予想される。

 

AOR/ソフト・ロック志向のR&Bポップスの名盤という意味では、ホイットニーは現代のリスナーの耳に馴染むようなアーティストと言えるのではないか。なぜなら現代のミュージックシーンはAORが重要視されているからである。ファルセットの美しさに関しては不世出のシンガーである。人を酔わせるメロディーとはいかなるものなのか、その模範的な事例がここにある。


 



Diana Ross 『Diana』 1980

 

 


 

シュープリームスを離脱後、ダイアナ・ロスはソロアーティストとして「Ain't Know Mountain High Enough」等、複数のヒット作に恵まれた。70年代には低迷期があったというダイアナ・ロスであるが、ナイル・ロジャースがプロデュースした『Diana』で第二の全盛期を迎える。反ディスコの気風の中、制作されたというが、その実、ファンクやディスコの影響も取り入れられている。それがロスの持つスタイリッシュかつアーバンな雰囲気と一致した一作だ。

 

 TV Oneの『Unsung』のエピソードでナイル・ロジャースは、曲の大半はロスとの直接の会話の後に作られたと語った。彼女はロジャースとバーナード・エドワーズに、自分のキャリアを "ひっくり返したい"、"もう一度楽しみたい "と言ったと伝えられている。結果、ロジャースとエドワーズは 「Upside Down」と 「Have Fun (Again)」を書いた。

 

クラブでダイアナ・ロスの格好をした何人かのドラッグ・クイーンに出くわしたロジャースは、「I'm Coming Out」を書いた。My Old Piano」だけが、彼らの通常の曲作りのプロセスから生まれた。「Upside Down」は全米チャート首位を獲得し、「I’m Coming Out」も5位以内にチャートインした。ロスの80年代のキャリアを決定づける傑作と言っても良いかもしれない。


 

 

Chaka Khan 『I Feel For You』 1984


 

 

今聴いても新鮮な感覚を持って耳に迫るチャカ・カーンの『I Feel For You』。カーンはルーファスのフィーチャリング・シンガーとして、70年代にヒットを飛ばしていた。ダニー・ハサウェイと同じようにゴスペルにルーツを持ちながらも、それをあまり表に出さず、叫ぶようなボーカルを特徴とするカーンのボーカルスタイルは70年代の女性シンガーに多大な影響を与えた。『I Feel For You』はプリンスのカバーで、スティーヴィー・ワンダーのハーモニカをフィーチャーしている。チャカ・カーンにとっての最大のヒット・ソングとなった。現在のプロデュース的な視点を交えたポップスに傾倒したR&Bのアルバムとして楽しむことが出来る。


現在、チャカ・カーンはローリングストーンのインタビューに答え、ツアーの引退を表明し、ガーデニングをしながら悠々自適の生活を送っている。単発のライブに関しては行う可能性があるという。





George Benson 『While The City Sleeps』 1986

 


ジョージ・ベンソンはソウル・ジャズのオルガン奏者、ジャック・マクダフとのバンドを経たギタリストで、76年にはフュージョンの先駆けのような曲「Breezin」を制作した。だが、この年代にはスティービー・ワンダーとダニー・ハサウェイの影響を受け始め、ブラックコンテンポラリーの道に入っていくことになる。

 

1986年のアルバム『While The City Sleeps』は驚くほどライトなポップで、アーティストのイメージを覆す。AOR/ソフト・ロックに、ベンソンが傾倒したことを裏付ける作品である。その中にはこのジャンルの中にある近未来的なシンセ・ポップの影響も伺い知ることが出来る。ジョージ・ベンソンというと、渋いソウルというイメージがあるが、それらのイメージを払拭するような作品である。この年代、前のニューソウルの時代から活躍していたシンガーの中で、最も時代に敏感な感覚を持つミュージシャンはこぞって、ロックやポップスとのクロスオーバーを図っていたことがわかる。今聴いても洗練されたポピュラー・アルバムと言えるのだ。 


 

 



Lionel Ritchie 『Dancing On The Ceiling』 1986



 

コモドアーズのメンバーでもあり、後にソロアーティストとして、そしてパラディ・ソウルの象徴的なシンガーに挙げられるライオネル・リッチー。彼の全盛期を知らない私のようなリスナーにとっては、ジャクソンやスティーヴィーと共演した「We Are The World」のイメージの人という感じだ。どうやら、リッチーが歌手としての実力に恵まれながらも、いまいちコアなソウルファンからの評価が芳しくないのは、白人の音楽市場に特化したことが理由であるらしい。


ダニー・ハサウェイのような黒人としてのアイデンティティ云々という要素は乏しいが、現在、メロウなポップスやAORというジャンルが取りざたされるのを見ると、今、まさに聴くべきアーティストなのではないかというのが印象である。確かにヒット曲でさえもその曲調はいくらか古びてしまったが、今なお彼の卓越した歌唱力、メロウな音の運びは現代的なリスナーにも親しまれる可能性を秘めている。『Can’t Slow Down』とともにリッチーの代表作に挙げられる。

 





Prince  『1999』  1982

 


 

プリンスといえば真っ先に『Purple Rain』のヒットにより、スターミュージシャンの仲間入りを果たした。ノーザンとサザン、サウスで別れていたR&Bの勢力図をスライ・ザ・ファミリーとともに塗り替えた。彼は10代の頃からすでにバンドにおいて、ダンスソウルの音楽性、そしてマルチインストゥルメンタリストとしての演奏力に磨きを掛けてきたが、その後のレコード契約、ひいてはスターミュージシャンとしての道のりはある意味では、付加物のようなものだったと思われる。


革新的とされたファンク・ソウルやシンセサイザーをフィーチャーしたスタイルは、それ以前の80年代にすでに行われていたものだったというが、彼のサウンドはエキセントリックかつエポックメイキングであるにとどまらず、現在のハイパーポップやエクスペリメンタルポップというジャンルの先駆者である。つまり、R&Bというのはプリンスにとって1つの装置のようなもので、その影響をもとに、様々な要素を取り入れ、それらの実験的でカラフルなイメージを持つポップスとして組み上げていった。

 

『1999』は今聴いても新鮮なアルバム。解釈によってはロジャー・プリンスの全盛期をかたどったアルバムと言えるだろうが、ボーカルから立ち上るスター性や独特な艶気はシアトリカルな要素を込めた「総合芸術としてのライブエンターテイメント」の始まりではなかったかと思われる。



Weekly Music Feature


Hinako Omori


大森日向子 ©︎Luca Beiley


大森日向子にとって、シンセサイザーは潜在意識への入り口である。ロンドンを拠点に活動するアーティスト、プロデューサー、作曲家である彼女は、「シンセは、無菌的で厳かなものではありません」と話す。

 

「ストレスを感じると、シンセのチューニングが狂ってしまうことがあった。一度、シンセの調子が悪いのかと思って修理に出したことがあるんだけど、問題なかった。だから、私が座って何かを書くとき、出てくるものは何でも、その瞬間の私の気持ちに関係している。音楽は本当に私の感情の地図になる」


大絶賛されたデビュー作『a journey...』(2022年、Houndstooth)が、その癒しのサウンドで他者を癒すことをテーマにしていたとすれば、大森の次のアルバムは思いがけず、自分自身を癒すものとなった。stillness,softness...』の歌詞を振り返ると、「自分自身の中にある行き詰まりを発見し、それと平穏な感覚を得るための内なる旅でした」と彼女は言う。


大森はとりわけ、シャドウ・セルフ、つまり私たちが隠している自分自身の暗い部分、そして自由になるためにはそれらと和解する必要があるという考えに心を奪われた。「自分自身との関係は一貫しており、それが癒されれば、そこから素晴らしいものが生まれるのです」と彼女は付け加えた。


2022年のデビューアルバム「a journey...」で絶賛されて以来、大森日菜子はクラシック、エレクトロニック、アンビエントの境界線を曖昧にし、イギリスで最も魅力的なブレイクスルー・ミュージシャンの一人となった。

 

日本古来の森林浴の儀式にインスパイアされたコンセプト・アルバム「a journey...」は、自然に根ざしたみずみずしいテクスチャーで、Pitchforkに「驚くべき」と評され、BBC 6Musicでもヘビーローテーションされた。以後、ベス・オートン、アンナ・メレディス、青葉市子のサポートや、BBCラジオ3の『Unclassified』で60人編成のオーケストラと共演、今年末にはロサンゼルスのハリウッド・ボウルで、はフローティング・ポインツのアンサンブルに加わり、故ファロア・サンダースとのコラボ・アルバム『Promises』を演奏する。


「stillness、softness...」は、大森のアナログ・シンセの世界ーー、すなわち、彼女のProphet '08、Moog Voyager、そしてバイノーラルで3Dシミュレートされたサウンドを生み出すアナログ・ハイブリッド・シンセサイザー、UDO Super 6ーーの新たな音域を探求している。このアルバムは、彼女の前作よりもダークで広がりがあり、ノワールのようにシアトリカル。デビュー作がインストゥルメンタル中心だったのに対して、本作ではヴォーカルが前面に出ており、「より傷つきやすくなっている」と彼女は説明している。夢と現実、孤独、自分自身との再会、そして最終的には自分自身の中に強さを見出すというテーマについて、彼女は口を開いている。


大森は「静けさ、柔らかさ...」を「実験のコラージュ」と呼び、それを「パズルのように」つなぎ合わせ、それぞれの曲が思い出の部屋を表している。最終的にはシームレスで、13のヴィネットが互いに出たり入ったりする連続的なサイクルとなっている。「とてもDIYだったわ」と彼女は笑う。「誰も起こしたくなかったから、マイクに向かってささやいたの」


大森は日本で生まれたが、ロンドン南部で育ち、サリー大学でサウンド・エンジニアリングを学習した。彼女がマシン・ミュージックに興味を持ち始めたのは、それ以前の大学時代、アナログ・シンセサイザーを授業で紹介した教師のおかげだった。「好奇心に火がつきました」と大森は説明する。


「クラシック・ピアノを習って育った私が、初めてシンセサイザーに出会った瞬間、完全に引き込まれました。シンセサイザーでは、サウンドを真に造形することができる。それまで考えたこともなかったような、無限の表現の可能性が広がった」


大学卒業後、大森はEOB、ジェイムス・ベイ、KTタンストール、ジョージア、カエ・テンペストといったインディーズ・ミュージシャンやアリーナ・アクトのツアー・バンドに参加した。「これらの経験から多くのことを学びました」と大森は言う。「素晴らしいアーティストたちとの仕事がなかったら、今のようなことをする自信はなかったと思います」 


彼女の自信はまだ発展途上だというが、それは本作が物語っている部分でもある。タイトルは "静寂、柔らかさ... " だけど、このアルバムは成長するために自分自身を不快にさせることをテーマにしている。「それは隠していたいこと、恥ずかしいと思うことを受け入れるということなのです」と彼女は言う。


アルバム全体を通して、大森はこれまでで最も親しみやすく、作曲家、アーティスト、アレンジャー、ヴォーカリスト、そしてシンセサイザーの名手としての彼女の真価が発揮された1枚となっている。このアルバムは、タイトル・トラックで締めくくられ、ひとつのサイクルを完成させている。


「自分の中にある平和な状態を呼び起こすような曲にしたかった」と大森。「毛布のようなもので、とても穏やかで、心を落ち着かせるものだと思っています」。その柔らかさこそが究極の強さなのであり、自分自身と他者への愛と思いやりをもって人生を導いてくれるものなのだ」と彼女は言う。




「stillness、softness...」/Houndstooth

 

大森日向子は既に知られているように、日本/横浜出身のミュージシャンであり、サウスロンドンに移住しています。


厳密に言えば、海外の人物といえますが、実は、聞くところによれば、休暇の際にはよく日本に遊びにくるらしく、そんなときは本屋巡りをしたりするという。ロンドン在住であるものの、少なからず日本に対して愛着を持っていることは疑いのないことでしょう。知る限りでは、大森日向子は元々はシンセ奏者としてロンドンのシーンに登場し、2019年にデビューEP『Auraelia』を発表、続いて、2022年には『A Journey...』をリリースした。早くからPitchforkはこのアーティストを高く評価し、ピッチフォーク・フェスティバル・ロンドンでのライブアクトを行っています。

 

エクスペリメンタルポップというジャンルがイギリスや海外の音楽産業の主要な地域で盛んなのは事実で、このジャンルは基本的に、最終的にはポピュラー・ミュージックとしてアウトプットされるのが常ではあるものの、その中にはほとんど無数と言って良いくらい数多くの音楽性が内包されています。エレクトロニックはもちろん、ラップやソウル、考えられるすべての音楽が含まれている。リズムも複雑な場合が多く、予想出来ないようなダイナミックな展開やフレーズの運行となる場合が多い。このジャンルで、メタルやノイズの要素が入ってくると、ハイパーポップというジャンルになる。ロンドンのSawayamaや日本の春ねむりなどが該当します。

 

先行シングルを聴いた感じではそれほど鮮烈なイメージもなかったものの、実際にアルバムを紐解いてみると、凄まじさを通りこして呆然となったのが昨夜深夜すぎでした。私の場合は並行してデ・ラ・ソウルやビースティー・ボーイズのプロデューサーと作品をリリースを手掛けているラップアーティストとのやりとりをしながらの試聴となりましたが、私の頭の中は完全にカオスとなっていて、現在の状況的なものがこのアルバムを前にして、そのすべてが本来の意味を失い、そして、すぐさま色褪せていく。そんな気がしたものでした。少なくとも、そういった衝撃的な感覚を授けてくれるアルバムにはめったに出会うことが出来ません。このアルバム「stillness,softness…」の重要な特徴は、今週始めに紹介したロンドンのロックバンド、Me Rexのアルバムで使用されていた曲間にあるコンマ数秒のタイムラグを消し、一連の長大なエレクトロニックの叙事詩のような感じで、13のヴィネットが展開されていくということなのです。

 

アルバムには、独特な空気感が漂っています。それは近年のポピュラー音楽としては類稀なドゥームとゴシックの要素がエレクトロニックとポップスの中に織り交ぜられているとも解釈出来る。前者は本来、メタルの要素であり、後者は、ポスト・パンクの要素。それらを大森日向子は、ポップネスという観点から見直しています。このアルバムに触れたリスナーはおしなべてその異様な感覚の打たれることは必須となりますが、その世界観の序章となるのが、オープニングを飾る「both directions?」です。ここでは従来からアーティストみずからの得意とするアナログ・シンセのインストゥルメンタルで始まる。シンプルな音色が選択されていますが、音色をまるで感情の波のように操り、アルバムの持つ世界を強固にリードしていく。アンビエント風のトラックですが、そこには暗鬱さの中に奇妙な癒やしが反映されています。聞き手は現実的な世界を離れて、本作の持つミステリアスな音像空間に魅了されずにはいられないのです。

 

続いて、劇的なボーカル・トラックがそのインタリュードに続く。#2「ember」は、アンビエント/ダウンテンポ風のイントロを起点として、 テリー・ライリーのようなシンセサイザーのミニマルの要素を緻密に組み合わせながら、強大なウェイブを徐々に作りあげ、最終的には、ダイナミックなエクスペリメンタル・ポップへと移行していく。 シンセサイザーのアルペジエーターを元にして、Floating Pointsが去年発表していた壮大な宇宙的な感覚を擁するエレクトロニックを親しみやすいメロディーと融合させて、それらの感情の波を掻い潜るように大森は艶やかさのあるボーカルを披露しています。描出される世界観は壮大さを感じさせますが、一方で、それを繊細な感覚と融合させ、ポピュラー・ミュージックの最前線を示している。それらの表現性を強調するのが、大森の透き通るような歌声であり、ビブラートでありハミングなのです。これらの音楽性は、よく聴き込んで見るとわかるが、奇妙な癒やしの感覚に充ちています。

 

このアルバムには創造性のきらめきが随所に散りばめられていることがわかる。そしてその1つ目のポイントは、シンセサイザーのアルペジエーターの導入にある。シンセに関しては、私自身は専門性に乏しいものの、#3「stalactities」では繊細な音の粒子のようなものが明瞭となり、曲の後半では、音そのものがダイヤモンドのように光り出すような錯覚を覚えるに違いありません。不用意にスピリチュアルな性質について言及するのは避けるべきかとも思いますが、少なくとも、シンセの音色の細やかな音の組み合わせは、精妙な感覚を有しています。これらの感覚は当初、微小なものであるのにも関わらず、曲の後半では、その光が拡大していき、最初に覆っていた暗闇をそのまばゆいばかりの光が覆い尽くしていくかのような神秘性に充ちている。

 

 「cyanotype memories」

  

 

 

続く「cyanotype memories」は、アルバムの序盤に訪れるハイライトとなるでしょう。実際に前曲の内在的なテーマがその真価を見せる。イントロの前衛的なシンセの音の配置の後、ロンドンの最前線のポピュラー・ミュージックの影響を反映させたダイナミックなフレーズへと移行していく。そして、アルバム序盤のゴシックともドゥームとも付かないアンニュイな感覚から離れ、温かみのあるポップスへとその音楽性は変化する。エレクトロニックとポップスを融合させた上で、大森はそれらをライリーを彷彿とさせるミニマリズムとして処理し、微細なマテリアルは次第に断続的なウェイブを作り、そしてそのウェイブを徐々に上昇させていき、曲の後半では、ほのかな温かみを帯びる切ないフレーズやボーカルラインが出現します。トラック制作の道のりをアーティストとともに歩み、ともに体感するような感覚は、聞き手の心に深く共鳴を与え、曲の最後のアンセミックな瞬間へと引き上げていくかのような感覚に充ちている。この曲にはシンガーソングライターとしての蓄積された経験が深く反映されていると言えます。 

 

 

 

#5「in limbo」では、テリー・ライリー(現在、日本/山梨に移住 お寺で少人数のワークショップを開催することもある)のシンセのミニマルな技法を癒やしに満ちたエレクトロニックに昇華しています。そこにはアーティストの最初期のクラシックへの親和性も見られ、バッハの『平均律クラヴィーア』の前奏曲に見受けられるミニマルな要素を現代の音楽家としてどのように解釈するかというテーマも見出される。平均律は元は音楽的な教育のために書かれた曲であるのですが、以前聞いたところによると、音楽大学を目指す学習者の癒やしのような意味を持つという。本来は、教材として制作されたものでありながら、音楽としての最高の楽しみが用意されている平均律と同じように、シンセの分散和音の連なりは正調の響きを有しています。素晴らしいと思うのは、自身のボーカルを加えることにより、その衒学性を衒うのではなく、音楽を一般的に開けたものにしていることです。前衛的なエレクトロニックと古典的なポップネスの融合は、前曲と同じように、聞き手に癒やしに充ちた感覚を与える。それはミニマルな構成が連なることで、アンビエントというジャンルに直結しているから。そして、それはループ的なサウンドではありながら、バリエーションの技法を駆使することにより、曲の後半でイントロとはまったく異なる広々とした空へ舞い上がるような開けた展開へとつながっています。

 

 

#6「epigraph…」では、アンビエントのトラックへと移行し、アルバムの序盤のゴシック/ドゥーム調のサウンドへと回帰する。考えようによっては、オープナーのヴァリエーションの意味を持っています。しかし、抽象的なアンビエントの中に導入されるボーカルのコラージュは、James Blakeの初期の作品に登場するボーカルのデモーニッシュな響きのイメージと重なる瞬間がある。そして最終的に、ミニマルな構成はアンビエントから、Sara Davachiの描くようなゴシック的なドローンを込めたシンセサイザー・ミュージックへと変遷を辿っていく。しかし、他曲と同じように制作者はスタイリッシュかつ聴きやすい曲に仕上げており、またアルバム全体として見たときに、オープニングと同様に効果的なエフェクトを及ぼしていることがわかるはずです。 

 

 

「foundation」



しかし、一瞬、目の前に現れたデモーニッシュなイメージは消えさり、#7「foundation」では、それと立ち代わりにギリシャ神話で描かれるような神話的な美しい世界が立ち現れる。安らいだボーカルを生かしたアンビエントですが、ボーカルラインの美麗さとシンセサイザーの演奏の巧みさは化学反応を起こし、エンジェリックな瞬間、あるいはそのイメージを呼び起こす。音楽的にはダウンテンポに近い抽象的なビートを好む印象のある制作者ではありながら、この曲では珍しくダブステップの複雑なリズム構成を取り入れ、それを最終的にエクスペリメンタルポップとして昇華しています。しかし、ここには、マンチェスターのAndy Stottと彼のピアノ教師であるAlison Skidmoreとのコラボレーション「Faith In Strangers」に見られるようなワイアードな和らぎと安らぎにあふれている。そして、それらの清涼感とアンニュイさを併せ持つ大森の歌声は、イントロからまったく想像も出来ない神々しさのある領域へとたどりつく。そして、それはダンスミュージックという制作者の得意とする形で昇華されている。背後のビートを強調しながら、ドライブ感のある展開へと導くソングライティングの素晴らしさはもちろん、ポップスとしてのメロディーの運びは、聞き手に至福の瞬間をもたらすに違いありません。

 

アルバムのイメージは曲ごとに変わり、レビュアーが、これと決めつけることを避けるかのようです。そしてゴシックやドゥームの要素とともに、ある種の面妖な雰囲気はこの後にも受け継がれる。続く、#8「in full bloom」では、アーティストのルーツであるクラシックの要素を元に、シンセサイザーとピアノの音色を組み合わせ、親しみやすいポピュラー音楽へと移行する。しかし、昨晩聴いて不思議だったのは、ミニマルな構成の中に、奇妙な哀感や切なさが漂っている。それはもしかすると、大森自身のボーカルがシンセと一体となり、ひとつの感情表現という形で完成されているがゆえなのかもしれません。途中、感情的な切なさは最高潮に達し、その後、意外にもその感覚はフラットなものに変化し、比較的落ち着いた感じでアウトロに続いていく。

 

 

前の曲もベストトラックのひとつですが、続く「a structure」はベストトラックを超えて壮絶としか言いようがありません。ここではファラオ・サンダースやフローティング・ポインツとの制作、そして青葉市子のライブサポートなどの経験が色濃く反映されている。ミニマル・ミュージックとしての集大成は、Final Fantasyのオープニングのテーマ曲を彷彿とさせるチップチューンの要素を絶妙に散りばめつつ、それをOneohtrix Point NeverやFloating Pointsの楽曲を思わせる壮大な電子音楽の交響曲という形に繋がっていく。本来、それは固定観念に過ぎないのだけれど、ジャンルという枠組みを制作者は取り払い、その中にポップス、クラシック、エレクトロニック・ダンス・ミュージック、それらすべてを混合し、本来、音楽には境目や境界が存在しないことを示し、多様性という概念の本質に迫っていく。特に、アウトロにかけての独創的な音の運びに、シンセサイザー奏者として、彼女がいかに傑出しているかが表されているのです。

 

アヴァンギャルドなエレクトロニックのアプローチを収めた「astral」については、シンセサイザーの音色としては説明しがたい部分もあります。これらのシンセサイザーの演奏が、それがソフトウェアによるのか、もしくはハードウェアによるのかまでは言及出来ません。しかし、Tone 2の「Gladiator 2」の音色を彷彿とさせる、近未来的なエレクトロニックの要素を散りばめ、従来のダンス・ミュージックやエレクトロニックというジャンルに革命を起こそうとしています。アンビエントのような抽象的な音像を主要な特徴としており、その中には奇妙なクールな雰囲気が漂っている。これはこのアーティストにしか出し得ない「味」とでも称すべきでしょう。

 

 

これらの深く濃密なテーマが織り交ぜられたアルバムは、いよいよほとんど序盤の収録曲からは想像もできない領域に差し掛かり、さらに深化していき、ある意味では真実性を反映した終盤部へと続いていきます。「an ode to your heart」では驚くべきことに、日本の環境音楽の先駆者、吉村弘が奏でたようなアンビエントの原初的な魅力に迫り、いよいよ「epilogue...」にたどり着く。ホメーロスの「イーリアス」、ダンテ・アリギエーリの「神曲」のような長大な叙事詩、そういった古典的かつ普遍性のある作品に触れた際にしか感じとることが難しい、圧倒されるような感覚は、エピローグで、クライマックスを迎える。海のゆらめきのようにやさしさのあるシンセサイザーのウェイブが、大森の歌声と重なり、それがワンネスになる時、心休まるような温かな瞬間が呼び覚まされる。その感覚は、クローズで、タイトル曲であり、コーダの役割を持つ「stillness,softness…」においても続きます。海の上で揺られるようなオーガニックな感覚は、アルバムのミステリアスな側面に対する重要なカウンターポイントを形成しています。

 

 

100/100

 

 

Hinako Omori(大森日向子)のニューアルバム「stillness,softness…」は、Houdstoothより発売中です。