【Sex Pistols】 ''God Save The Queen''の誕生 パンクムーブメントの仕掛け人 マルコム・マクラーレン



近年、イギリスでパンクが再燃しており、現在もそれはポスト・パンクという形で若者を中心に親しまれていることは確かだろう。

 

そしてパンクのロングタイムの人気を象徴づける記事がある。2022年6月5日のNMEの記事では、こう報じられている。ーーセックス・ピストルズの「God Save The Queen」がロングラン・ヒットを記録し、イギリス国内で最も売れたシングルとしてプラチナ・ジュビリーに認定ーーと。

 

「ゴッド・ザ・セイヴズ・ザ・クイーン」は、今もなお老若男女にしたしまれている永遠のアンセムで、パンク人気を象徴づけるアイコンの一つであるということ。


また、アーカイブ的にも、ピストルズは現在も一定の興味を惹きつけるものであることは明確だ。


ダニー・ボイルが1970年代のロンドンで生まれたパンクロック・カルチャーと、セックス・ピストルズの軌跡を追う映像シリーズ「Pistol」に着手しはじめ、映像ドラマの側面からロンドンの最初のパンクバンド、ひいてはパンク・カルチャー全体に脚光を当てようとしている。この映像は、ギタリストのスティーヴ・ジョーンズの自伝を元に制作されることになった。しかし、この映像内での楽曲使用の件で、フロントマンのジョン・ライドンとの間に法廷闘争が発生し、物議を醸した。

 

Malcom Mclaren

 

1970年代に台頭したUKパンクを単なる音楽だけの観点から捉えることは困難をきわめる。レザージャケット、カラフルなスパイキーヘア、時には後のゴシックの象徴的なファッションを形成する中性的に化粧を施したスタイル、これらはそれ以前のニューヨーク・ドールズ、VU、リチャード・ヘル、ラモーンズが出演していたマックス・カンザス・シティ、CBGB,そしてマーサー・アーツ・センターといったライブハウス文化がロンドンに渡り、そして、そのカルチャーがマルコム・マクラーレンという仕掛け人によって、パンクという形で宣伝されるに至った。

 

マクラーレンは元々はファッションデザイナーとして活動していて、ブティック、”SEX”に出入りしていた若者を掴まえ、後にこのバンドをプロデュースし、Pistolsというロンドンパンクの先駆者を生み出すことになる。これは以前に、彼がニューヨーク・ドールズのプロデュースを手掛けており、それをロンドンでより大掛かりに、そしてセンセーショナルに宣伝し、一大ムーブメントに仕立てようという彼なりの目論見があったのだ。シド・&ナンシーに代表されるファンションは既にジョニー・サンダース擁するNew York Dollsの頃のグラム・ファッションで完成されたつつあった。それをより、洗練させ、ある意味では彼らをファッションモデルのような形で飾り立てることで、パンクという概念を出発させることに繋がった。

 


マルコム・マクラーレンが一大ムーブメントを仕掛けるためのお膳立ては整っていた。1970年代のイギリスでは、英国病と呼ばれる病理が蔓延していた。大まかには、国を挙げてセカンダリー・バンキングへ傾注した1960年代以降のイギリスにおいて、充実した社会保障制度や基幹産業の国有化等の政策が実施され、社会保障負担の増加、国民の勤労意欲低下、既得権益の発生、及び、その他の経済・社会的な問題を発生させた現象を意味する。 この時代を描いた作品としてユアン・マクレガー主演の映画「Train Spotting」が挙げられる。イギリス国内の社会不安の増大により勤労意欲が低下した若者たちのリアルな姿が脚色を交えて描かれた作品だ。


 当時、労働者階級とアッパー・ミドル以上の階級との格差は増大し、その社会構造の間に奇妙な歪みが生み出されていたことは想像に難くない。悪い経済が蔓延していたのみならず、レコード産業も衰退していた。それ以前のRoling Stones、Led Zeppelin、Pink Floydのレコード産業の栄華が過去の遺物となりつつあり、音楽産業自体が下火になっていたのがこの70年代の中頃である。

 

さらに、アートスクールの奨学金や失業保険の手当を受けて生活しているような若者たちにとって、Zepのハードロックやピンク・フロイドのプログレッシブロックは端的に言えば、リアリティを欠いたものだった。そのメインストリーム・ミュージックに根ざした音楽の風潮の変化がもたらされたのが75年のこと。「俺はピンクフロイドが嫌い」というTシャツを来たある若者が「I'm Eighteen」のオーディションを受け、合格する。これがロンドンのパンクバンドが出発した瞬間だ。

 

 

最初のシングル「Anarchy In The UK」の発売 グレン・マトロックの解雇


パンクの誕生を伺わせる当時の英国の新聞各社の報道

Sex Pistolsの最初のショーは1975年11月6日に行われた。ショーは主にカバーを中心に構成されていた。それからいくつかのギグを続け、ピストルズは、ブロムリー・コンティンジェントとして知られるファンベースを獲得する。続いて、1976年、バンドは、パブロックの代表格、Eddie & The Hot Rodsの最大のショーのサポートを務める。既にその頃から、バンドの攻撃性と興奮は多くの観客を魅了していた。唯一の懸念だったバンドの演奏力は見れるものとなり、そしてスティ-ヴ・ジョーンズの演奏力も上昇した。特にこの時代、ピストルズの面々は多くの熱狂的なファンに熱量のあるショーを期待されており、信念やインスピレーションを欠いた気のないパフォーマンスをしようものなら、ファンが暴徒化する場合もあったという。結局それらの取り巻きのフーリガン的な行動により、セックス・ピストルズに暴力的なイメージが付きまとうことになった。また、このイメージはのちのスキンズやハードコアパンクのスタイルの源流を形成することになった。

 

同年の6月4日、バンドはマンチェスターで伝説的なギグを開催する。ここには、ピート・シェリー、ハワード・デヴォート(Buzzcocks)、バーナード・サムナー、イアン・カーティス、ピーター・フック(Joy Divison)のメンバーが観客の中にいた。その日の観客は40人前後だったとも言われている。


ライブギグで一定の支持を獲得した後、1976年7月20日にパンクの古典となる「Anarchy In The UK」をEMIからリリースする。社会風刺的な歌詞は当時のロックファンにとって真新しいもので、米国と英国のパンクの相違を象徴していた。さらに続いて、9月1日、バンドはテレビに初めて出演する。パンクブームの発起人の一人でありマンチェスターのファクトリー・レコードの主宰者でもある、トニー・ウィルソンのテレビ番組に出演し、スタジオでこのデビュー・シングルを初披露する。その5日後、ビル・グランディが司会をするテレビ番組にも出演し、バンシーズのスージー・スーに軽率な発言を行い、批判を呼ぶ。これはグランティとスティーヴ・ジョーンズとの間に会話をもたらし、その当時の国内のメディアの意義を根底から揺るがすものでもあった。また、12月のテレビ出演時には、四文字言葉を連発し、センセーショナルな話題をもたらした。






1977年、イギリス国内最大の音楽メディアのNME宛てに一通の電報が届いた。 Sex Pistolsのマネージャーのマクラーレンから、「グレン・マトロックが解雇された」との一報だ。デビュー当時はピストルズの音楽性の一端をになっていたマトロックの解雇は、大いに注目に値するものだった。


彼の後任にはすぐさまシド・ヴィシャスが内定するが、そもそも、当時のヴィシャスはベースを演奏することが出来ず、ガールフレンドのナンシー・スパンゲンとの交友があってか、麻薬漬けの日々を送っていた。

 

これが後にどのような形で、このバンドの終焉となるかは周知のとおりだが、当時、彼の革ジャンとTシャツ、ブーツというルックス、そして日常における破天荒きわまりない行動が「パンク」であるとされ、マクラーレンはバンドへの加入を促した。パンクのファッションとの深い関連は、特にヴィシャルがもたらしたものであると考えるのが妥当ではないだろうか。

 

 

「God Save The Queen」のセンセーショナルな宣伝 ジョン・ライドンが曲に込めた真意とは?



Sex Pistolsのデビュー・シングルの宣伝 20世紀には飛行機から広告をまく手法があったが、それに近いゲリラ的な宣伝方法の一つ


セックス・ピストルズのデビュー・シングルがA&Mからリリースされたのは1977年のことだ。このリリース日は、エリザベス女王のシルバー・ジュビリーの祝典と時を同じくしていた。ピストルズの四人は、報道カメラマンを呼んで、船の上で「God Save The Queen」のリリース記念パーティーを開催するが、後に社会問題に発展する。この宣伝方法が、すべてがマルコム・マクラーレンによってしかけられたものであるとしても、オリジナル・バージョンのシングルのアートワークは過激きわまりないもので、女王の顔に彼らのトレードマークである安全ピンを差したデザインだった。最初のバージョンは、すぐに発禁処分になり、後にアートワークは差し替えられるが、このシングルのリリースが知れ渡ると、英国内で論争を巻き起こすことになった。当然のことながら、ピストルズは、レーベルとの契約後、わずか6日でA&Mとの契約を打ち切られる。次いで、レコードの25,000枚が廃棄処分となる。現存する希少なオリジナルバージョンは現在でもコレクターの間で価値のあるレコードとしてみなされている。


A&Mとの契約解消後、PistolsはすぐにVerginと契約を結ぶ。その後、「God Save The Queen」はピクチャースリーブ付きで発売された。

 

既にBBCでは放送禁止となっていたにも関わらず、この曲はNMEチャートで一位を獲得した。結局イギリスの公式チャートでも2位まで上昇するが、長らくチャート集計側が意図的にトップから遠ざけていたという噂もあるようだ。 

 

この年、複数の魅力的なロンドンパンクバンドがデビューし、その中にはクラッシュ、ストラングラーズ、ジャムがいた。彼らはヒットチャートの上位を獲得し、パンク人気を全国区に引き上げる役割を果たした。


 


「God Save The Queen」では、国家概念を擬人的に捉える古典的な詩の手法が取り入れられていて、「イングランドは叫んでいる、未来はない」というフレーズが最後の部分で歌われるが、それは実際、のちのサッチャー政権時代ザ・スミスの楽曲のように、他のどのロックよりも社会不安のリアリティを直視し、それをシンプルに言い当てたものだった。多くの若者たちは英国への愛と不信が混在したシニカルな歌詞と歌に大きな共感を覚えたことは想像に難くない。しかし、ジョン・ライドンはこのデビューシングルについて、ピアーズ・モーガンに次のように語った。これは長年のライドンの英国王室へ嫌悪感があるという誤解を解くための発言として念頭にとどめておいた方が良さそうだ。


特にジュビリーのために書いたというわけではないんです。それが私の思考回路そのものだった。わたしたちがそのボートパーティーをする数ヶ月前。歌詞の内容は反王党主義に近いものですが、もちろんそれと同時に非人間的なものでもありません。

 

私はぜひともこのことを言っておかねばならないんです。私が人間として王室に対して完全に死していると決めつけてはいないのです。そうは思っていません。女王が生き残り、上手くやっていくことを本当に誇りに思っているんです。

 

また女王に喝采を送りたい。私はそのことについて不機嫌ではありません。この制度を支持するために税金を支払うというのなら、そのことについては何らかの意見を差し挟む必要もありそうですが・・・。

 

また、ピアーズ・モーガンが「君はつまり、君主制の終わりを見たくない・・・」と尋ねると、さらにライドンは以下のように述べている。

 

私はそもそもページェントリーが大好きです。私はまたサッカーファンですが、どうしてそうせずにいられるのでしょう? 

 

私はロイヤル・ウェディングを見るのが好きなんです。なぜならスピットファイアやB-52等が宮殿の上空を飛行するのが本当に楽しいから。そういったことに感情的になる場合もありますが。

 

しかし、私は国家を愛しており、また国民を愛しています。そして、それに関することも愛している。でも、そこに問題がある。私にはこのことを言う権利があると思います。だから私は、女王陛下万歳、と書きました。信じてほしい、あれは私が書いたんです。他の人ではありません。これは私が完全に有能な視点を表現したものだったのです。

 

 

1977年10月28日にデビュー・アルバム『Never Mind The Bollocks」がVirginから発売された。米国では2週遅れで発売となった。ほとんどの曲は、グレン・マトロックとジョニー・ロットンにより書かれており、他のメンバーは補佐的な形で意見を交えている。マトロック脱退後、アルバムのために2曲「Holiday In The Sun」、「Bodies」 を書き加えられた。グレン・マトロックは76年にEMIからリリースされた「Anarchy In The UK」のうち一曲で演奏している。


アルバムの最初のタイトルは、「God Save Sex Pistols」であった。1977年半ばに「Ballocks」という単語が追加された。しかし、「Ballocks」というタイトルが1899年に施行された「わいせつ広告法」に該当するとし、レコード・ショップのオーナーの多くは、ショーウィンドウで宣伝をした際には罰金及び逮捕の処分があると警察から忠告を受けた。実際、警察はノッティンガムにあるVirginの店舗の捜査に踏み切り、オーナーを逮捕する。しかし、これもヴァージンとマクラーレンにとって恰好の宣伝の機会となり、彼らは”アルバムが長持ちする”という判断を下した。


 


 

デビューアルバム『Never Mind The Bollocks』に込められた意味、一般的な発売日を迎えるまで

 

「Never Mind The Bollocks』発売当初のVirgin Records

 

結果的に、現行のアルバムのタイトルが普及している理由は、「Bollocks」という睾丸を意味する単語が一般的に普及するナンセンスな用語に該当すると、ノッティンガム大学のイングリッシュ教授は証人として指摘した上、さらに、この言葉が古英語で「聖職者」を意味すると法廷で証言し、擁護したことによる。この裁判を受け持った判事は、Bollocksという単語の使用を許可するとともに、バンド、レーベルの発売権における全ての宣伝、及び活動を容認する結果となった。

 

ヴァージン・レコードとの契約後も、マルコム・マクラーレンはアルバムの宣伝とパンクの普及活動に余念がなかった。マクラーレンは米国を含む各国で交渉を続行した。


1977年10月10日には、ワーナーとの契約を締結する。つまり、このアルバムに2つの配色が用意されているのは、これが要因のようである。イエローバージョンはヴァージンのデザインで、ピンクがかったデザインはワーナーのリリースとなっている。

 


フランスでは、マルコム・マクラーレンがバークレーと粘り強い交渉を続け、アルバムは12曲から一曲をカットし、全11曲でリリースされることが決定した。加えてアルバムは一週早く発売されることが決定し、これによって、Virgin Recordsは英語でのリリースを10月28日に前倒しした。最初の50,000部には11トラックのバージョンが収録されていた。このバージョンにはのちにレア・トラックとして発売される「Submission」の7インチとポスターが付属していた。

 

Virginにとって最後の問題となったのは海賊版「Spunk」のリリースの懸念事項だ。このアルバムにはデモとスタジオレコーディングが収録されていた。また録音自体はグレン・マトロックが在籍時に制作されたもので、オリジナル版よりもプリミティヴな音質が味わえるとされている。 さらにこの音源はマクラーレンが録音のマスターテープを漏洩したとも言われている。しかし、マクラーレン本人はそれを否定している。



 

このブートレッグのアルバムは、1977年の9月から10月にかけて発売され、オリジナル版がリリースされる数週間前にリークされていた。しかし、このことに関してはレーベル側は良い宣伝とみなしていた。「Spunk」は、デンマーク・ストリートのリハーサル・スタジオ、ロンドンのランズダウン、ウェセックス・スタジオ、ロンドンのグーズベリー/エデン・スタジオと、複数のスペースで録音された。このリリースは、1996年になって、オリジナル版の追加ディスクとして再発されている。

 

デビュー・アルバム「Never Mind The Bollocks』は発売後まもなくゴールド・ディスクを獲得し、ヒットチャートの一位に輝いた。しかし、これらの曲のほとんどが既発曲であったことがセックス・ピストルズの限界性を示していたという意見もある。

 

最初に「New Wave」という言葉がメロディー・メイカー誌に掲載された1978年、Sex Pistolsはアメリカツアーを終えたのちに解散した。その後、The Clash、The Damedといったレジェンドたちは息の長い活躍をするが、一方、Buzzcocksをはじめニューウェイブに属する清新なバンドの台頭が控えていた。その後の年代には、オリジナル世代のバンドが主流となり、メジャーレーベルと契約し、オリジナルパンクが形骸化するようになるにつれ、ポストパンクが主流となっていく。

 

その中には、このバンドの黎明期のライブを見届けたイアン・カーティス擁するJoy Divisonも1979年にデビューを果たし、国内のミュージックシーンを席巻していく。また同時進行で、ファクトリー、クラブハシエンダを中心とするクラブ・ミュージック文化もマンチェスターを中心に沸き起ころうとしていた。一般的には、英国の最初のオリジナル・パンクのウェイヴは、1977年に始まり、ほとんど一年でそのムーブメントは終焉を迎えたと見るのが妥当かもしれない。

 

しかし、その後には、1978年から沸き起こるニューウェイヴ/ポストパンク、また、オリジナル世代のコアなファッションを受け継いだ、Discharge、The ExploitedをはじめとするUKハードコアパンクのバンドが登場したことは周知の通りだ。これらのバンドは、最初期のオリジナルパンクとはその音楽性を異にするが、政治風刺を込めたメッセージや、レザー・ジャケット、スパイキー・ヘアというファッション性においてオリジナル世代のDNAを受け継ぎ、文化性を確立していく。


そのニューウェイヴ/ポストパンクと呼ばれるムーブメントの最前線には、Public Image Ltd.もいた。ジョン・ライドンは、80年代もニューウェイブ・ムーブメントを牽引する役目を担った。その過程では、Sex Pistolsのアンセムに勝るとも劣らない「Rise」という名曲も誕生したのだった。