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2010年代半ばに南アフリカで誕生したAmapianoは、現在、ヨーロッパでも注目されるようになった。最近では、BBCでも特集が組まれたほどです。この音楽は、南アフリカのDJ文化の中で育まれ、10年代の変わり目にブームを巻き起こし、音楽業界を席巻し、この国で最も速いスピードでジャンルが確立された。多くの愛されるジャンルからインスパイアされたスタイルを持ちながら、全く新しい現象を生み出しているアマピアノは、この3年間ですっかり世界で有名になったのです。


一説では、このAmapianoというジャンルは、2012年頃に初めて生まれ、南アフリカの北東部にあるハウテン州のタウンシップで、最初にブームになったのだそう。しかし、現在のところ、アマピアノの正確な誕生地については、さまざまなタウンシップが主張しているため、まだまだ議論の余地がありそうです。少なくとも、ヨハネスブルグの東に位置する町、カトレホン、ソウェト、アレクサンドラ、ヴォスロラスといった場所でサウンドが流通し、アマピアノは独自の発展を遂げていきました。Amapianoに見られる、Bacardi music(「Atteridgevilleの故DJ Spokoが創設したハウス、クワイト、エレクトロニックの要素を吹き込んだハウス・ミュージックのサブジャンル」)の要素は、この面白いジャンルがプレトリア(南アフリカ共和国ハウテン州北西部のツワネ市都市圏にある地区)で生まれた可能性を示唆するものとなるでしょう。


もうひとつ原点が曖昧なのは、その名前の由来です。”Amapiano”は、イシズールー語、イシクソサ語、イシンデベレ語で「ピアノ」を意味するという。このジャンルの初期のピアノ/オルガンのソロやリックに直接インスパイアされた名前だという説もあるようです。Amapianoは、ディープハウス、ジャズ、ラウンジミュージックをミックスしたものと言え、初期のサウンドに大きな影響を与えました。シンセ、エアリーなパッド、そして、「ログドラム」として有名なワイドなパーカッシブベースラインが特徴です。このベースラインは、このジャンルを際立たせ、Amapianoの真髄とも言えるサウンドを生み出すのに欠かせない特徴の一つです。このログドラムというスタイルを最初に生み出した人物は、TRPこと、MDUというアーティストです。


Kabza De Small

 

「正直、何が起こったのかわからないんだ」このジャンルのパイオニアであるKabza De Smallは、「彼がどうやってログドラムを作ったのかわからない」とコメントしている。「アマピアノの音楽は昔からあったが、ログドラムの音を考え出したのは彼だ。この子たちは実験が好きなんだ。いつも新しいプラグインをチェックしてる。だから、Mduがそれを理解したとき、彼はそれを実行に移したんだよ」


このジャンルはすぐにメインストリームになった。2017年と2018年頃、アマピアノはハウテン州の州境の外でも人気を博すようになる。その頃、南アフリカらしいもうひとつのジャンル、iGqomが最盛期を迎えていた。iGqomは、Amapianoと同時期にクワズールー・ナタール州のダーバンで生まれ、2014年から2017/18年にかけて一気に全国的に知名度が上がった。その後、アマピアノはiGqomを追い越して国内の音楽シーンのメインストリームに上り詰めた。


アマピアノは、2020年代、そして、ミレニアル世代とZ世代の若い若者のカルチャーを定義する著名なジャンルとなった。南アフリカにおけるダンスミュージックの人気は、常に若い世代に与える影響によって測られてきた。80年代のバブルガム・ミュージックから、バブルガム/タウンシップ・ポップ、クワイト、バカルディ、ソウル、アフロハウスなど、サブジャンルはメインストリームに入り込み、一度に何十年も支配してきた。


「アマピアノは、南アフリカの若者の表現であり、逃避行である。アマピアノは、南アフリカの若者たちの表現であり、逃避行だ。若者たちが日常的に経験している苦労や楽しみを表現している」と、アマピアノで有名なDJ/プロデューサーデュオ、Major League DJzは語っています。「音楽、ダンス、スタイルは、彼らが南アフリカの若者の純粋なエッセンスを見る人に見せるための方法でもあるのさ」


Major League DJs


Major League DJsは、このジャンルの成功と国際的な普及に貢献した第一人者として数えられる。2020年のパンデミック時に流行した彼らの人気曲「Balcony Mix」は、Youtubeで数百万回再生され、Amapianoに海外市場を開拓した。今年、彼らは、(Nickelodeon Kids Choice Awards 2022)ニコロデオン・キッズ・チョイス・アワード2022にノミネートされたことで話題を呼んだ。


そしてもうひとつ、アマピアノというジャンルを語る上では、DJストーキーの存在を抜きにしては語れない。彼は、ミックステープやDJセットを通じて、この音楽を広めたDJの一人として知られています。さらに、Kabza De Small、DJ Maphorisa、Njelicなど、多くのDJがこのジャンルを国内で成長させ、アメリカやヨーロッパで国際的なライブを行い、そのサウンドを国外に普及させることに大きな貢献を果たしてきたのだった。

 

その後、アマピアノのオリジナルサウンドとは対照的に、このジャンルのメインストリームでは、不可欠な要素となっているボーカルを取り入れるようになりました。結果、このジャンルには新しいタイプのボーカリストが誕生し、その歌声を生かした楽曲がスマッシュヒットとなった。Samthing Soweto、Sha Sha、Daliwonga、Boohle、Sir Trillなど、多くのシンガーが公共電波に乗ったヴォーカリストとして認知され、着実にキャリアを積みあげていったのです。


このジャンルのもう一つの重要な要素はダンスです。ダンスは、南アフリカのカルチャーやナイトライフの大きな部分を占めています。iGqomのibheng、Kwaitoのisipantsulaのように、Amapianoの曲は曲よりも大きなダンスを生み出し、ソーシャルメディアのプラットフォームで挑戦することもある。


Amapiano is a lifestyle(アマピアノはライフスタイル)」というフレーズは、若者への影響を説明するのに役立っている。アマピアノのライフスタイルは、さまざまなスタイルと影響を融合したものです。


南アフリカのポップ・カルチャーの現状は、ヒップホップ・ファッションとハウスミュージックの文化が混在しており、Amapianoは、おそらくその中間点に位置しています。Amapianoは、多くの流動性を含み、常に進化し、各アーティストが新しいものを取り入れながら、日々、進化しつづけているため、一つの方法でこれというように表現することは難しいようです。今後、またこのジャンルから新たな派生ジャンルが生まれるかも知れません。この10年はまだ初期段階にあり、今後2〜3年の間にアマピアノがどこまで進化するかはまだわかりません。しかし、このジャンルは、生活やメディアの範囲を変え、いつまでも衰退する気配がないようです。

 

PVA Via Ninja Tune Official Profile
 

 サウスロンドンのトリオ、PVAが今年10月にデビューアルバム「Blush」をNinja Tuneよりリリースする。


PVAは、Ella HarrisとJosh Baxter(ボーカル、シンセ、ギター、プロダクション)、Louis Satchell(ドラム、パーカッション)で構成されている。

 

デビュー・アルバムとなる『Blush』は、アシッドハウス、ディスコ、エーテル系シンセサイザー、ポストパンクを組み合わせた個性的な作品となっている。


この新作アルバムは、Big Dadaからリリースされた2020年のEP『Toner』のフォローアップとなる。10月14日のリリースに先立ち、『BLUSH』のプレオーダーが開始されています。ここで、このサウスロンドンの新星、PVAの経歴、このデビュー作完成までの大まかな経緯を以下にご紹介します。

 

 

 ニンジャ・チューンからリリースされるサウスロンドンのバンド、PVAの素晴らしいデビューアルバム『BLUSH』は、エレクトロニックミュージックの鼓動と人生を肯定するライブギグのエネルギーを巧みに統合し、これまで語られてきた以上のトリオの姿を明らかにするものとなるだろう。



エラ・ハリスとジョシュ・バクスター(リード・ボーカル、シンセ、ギター、プロダクションを担当)、そしてドラマーとパーカッショニストのルイス・サッチェルによる11曲は、アシッド、ディスコ、強烈なシンセ、ダンスフロア、クィアコード・シュプレヒゲサングのポストパンクで構成されている。



この緊密なトリオは、ハリスとバクスターが2017年に一緒に「カントリー・フレンド・テクノ」と名づけたものを作り始めたことから始まった。最初の曲のひとつは、ハリスが自分の夢を新しいバンドメイトに口述したことから生まれ、最初のライヴは、ニュークロスのThe Five Bells pubで行われたNarcissistic Exhibitionismという伝説の一夜であり、彼らが出会ってからわずか2週間後に開催された。このショーはエラ・ハリスのキュレーションによるもので、2階は絵画、彫刻、写真、1階はバンドがフィーチャーされていた。彼女は、PVAをヘッドライナーとしてブッキングした。

 


 この初期の段階を経て、彼らはライブショーに新しい次元をもたらすためにルイス・サッチェルを採用した。このように、より硬派なライブを行うことで、PVAはロンドンのギグファンの間でカルト的な評判を確立した。その時点ではライブをおこなことが彼らの唯一の選択肢であった。トリオは、Squid、black midi、Black Country、New Roadと並んで、南ロンドンの熱狂的なインディー・シーンにおける最重要アーティストとしての地位を確立する。その後、「SXSW」、「Pitchfork Music Festival」、「Green Man」に出演し、Shame、Dry Cleaning、Goat Girlと共に国内ツアーを行うようになった。だが、初期の段階から、従来のバンド編成の枠を超えた存在であることは明らかだった。ブリクストンのスウェットボックス「The Windmill」と、デプトフォードの地下クラブ「Bunker」で早朝からDJをする彼らを一晩で2回も見ることも珍しいことではなかったという。



彼らは、2019年末、Speedy Wundergroundからデビュー・シングル「Divine Intervention」をリリースし、その1年後には、Young FathersやKae Tempestといった同様に、イギリス国内の象徴的なアーティストが所属する”Ninja Tune”からデビューEP「Toner」をリリースしている。このEPには、ムラ・マサの「Talks」のリミックスが収録されており、2022年のグラミー賞のベスト・リミックス・レコーディング部門にもノミネートされた。



デビュー・アルバムでは、ライブ・サーキットのエネルギーをそのままに、テクスチャーとハートに満ちたホリスティックな世界を構築する。『BLUSH』は、重厚なパンチを放つインダストリアル・サイズのビート、パンク・スピリット、エラ・ハリスの詩的な歌詞による静かな瞑想の瞬間に溢れている。Portishead、PC Music、Laurie Anderson、カルト的なレイブポップデュオ”The Pom-Poms”などの影響を簡単にリンクさせながら、全編を通して疲れを知らずに疾走している。



ドラムのルイス・サッチェルは、「僕たちは人々を驚かせたかったし、ギグで自分たちの音を伝える以上のことをしたかったんだ」と説明する。

 

「このアルバムは、精神的な問題に関連することもあるけど、アルバムを作る上での日常的な不安もあるんだ。不安定な道のりだったけど、いつも自分たちを奮い立たせているんだ」

 

期待に応えようとするグループの音であり、トリオは新しい可能性の世界を開くアルバムを提供する。

 

音楽が簡単にカテゴライズされないことは、PVAにとってごくごく普通のことで意図することではないかもしれないが、『BLUSH』はバンドの世界の他の要素をこれまで以上に明確にしている。過去2年間、エラ・ハリスは、”Lime Zoda”としてソロ活動を行い、2冊の詩集を執筆したが、その多くはPVAのデビュー・アルバム『BLUSH』の歌詞のベースとして使用されたものである。


 デビューアルバムのオープニングを華々しく飾る「Untethered」は、「制限的で閉鎖的なストレートな関係の中にいること」について歌われているという。

 

「基本的には、男らしさに対する本当にイライラした怒りと、そのヘテロ規範的な状況から自分を解放して世界を探求することができないことへの憤りを表現している 」とバンドのエラ・ハリスは説明している。一方、「Untethered」は、そのような解放を達成したことから生まれた祝福の瞬間ともいえる。


この曲には、静止していることが不可能になるような流動的なエネルギーに満ちていて、ここに表現されているーー移行、喜び、ネガティブな状況のリフレーミングーーというテーマは、このデビュー作『BLUSH』全体に通底するものである。 エラ・ハリスはロックダウンの期間、数多くのセラピーを受け、人生の多くの大きな状況に折り合いをつけた。

 

「私は自分自身をより幸せに感じていて、それは曲にとっても本当に重要なことでした」と彼女は言います。



これは、もうひとりのメンバーであるジョシュ・バクスターも同じ思いを共有している。「僕は、エラを通して、様々な形で自分のクィアネスをのびのびと表現することができる」彼は「Bunker」とインダストリアル・バンガー「The Individual」の両方のトラックでボーカルを担当しており、これは、アイデンティティと自分自身の中に見えるキャラクターを扱った曲となっている。

 

「このアルバムは、私たちが人間としてどのような存在であるかを探求しているんだ」とジョシュ・バクスターは言う。

 

「僕たちは皆、個人的な成長をしてきたし、このアルバムは僕たちがもっと自分らしくいられるように、そしてそれに心地よくなれるようにということを歌っているんだ」


 

 サウスロンドンは、ラップを始め、パンク、インディーロック、エレクトロニック、おそらくイギリスの中でも最も活発なシーンが形作られており、多くの若い才覚あふれるアーティストがシーンへの登場の機会を虎視眈々と伺っている。まさしく、どれほどディグしようとも探し尽くすことは難しい才能の宝庫のような場所、サウスロンドンからデビューアルバムをリリースするトリオ、PVAにぜひとも着目したいところである。


ニンジャチューンからリリースされるデビュー・アルバム『BLUSH』は、ロックダウン中に書かれている。たしかに、この苦難多き時代は、ステージでのライブで自分たちのサウンドの限界を見いだそうとするバンドにとり大きな試練の時であった。だが、逆境は、PVAを凌駕しない。PVAは、逆境を常に凌駕する存在である。それは、抜きん出た才覚を有する彼らにとって、サウスロンドンの最深部から劇的なデビューを果たすため、”爪を研ぐ期間”---自分たちのソングライティングを磨きそれを強化するための期間ーーに過ぎなかったと言える。


 






PVA 『Blush』

 

 
 
Label: Ninja Tune
 
Release:  2022年10月14日 
 


Tracklist:

1. Untethered
2. Kim
3. Hero Man
4. Interlude
5. Bunker
6. Comfort Eating
7. The Individual
8. Bad Dad
9. Transit
10. Seven (feat. Tony Njoku)
11. Soap

 

Pre-order:

https://linktr.ee/pva_ 


Yasuaki Shimizu Credit: Fabian Monheim

 静岡県島田市に生まれた清水靖晃は、幼少時代から聴覚的なものに魅了されていた。サックスなどの楽器を習い、さまざまなジャンルの音楽に親しんだほか、録音や無線通信にも夢中になった。特に昆虫に興味を持ち、昆虫が発する音とモールス信号の類似性を見出しました。清水は、幼少期から身の回りのあらゆるものが音楽的であるという意識を育み、それが創作活動のすべてに反映されてきた。


しかし、昆虫の鳴き声の録音で有名になったというよりも、清水が70年代に日本中で広く知られるようになったのは、サックスの腕前によるものだった。その後、ソロ活動、マライア・バンド、サキソフォネット・プロジェクトを立ち上げる。また、映画やCMの作曲家としても活躍し、SEIKO、HONDA、シャープなどのサウンド・アイデンティティとなる楽曲を制作している。エレクトロニクス、クラシック、ジャズ、フィールド・レコーディング、サウンドトラックなど、ジャンル、空間、フォーマットを問わず、その革新的で前衛的な音楽性はかねてより一貫している。

 


1978年から1984年にかけて、清水は14枚のソロアルバムをリリースし、同時に日本のシンセグループ、マライアやサウンドトラックを率いて、魅力的な作品を発表した。この時代は清水がクリエイティブの頂点にあった時期であることは間違いないが、アルバム『Kiren』は存在すると信じられていたものの、2022年にPalto Flatsからリリースされるまで日の目を見ることはなかった。その期待に応え、彼の実験的で妖しい芸術性の中にある独特の宝石のようなアルバムに仕上がっています。


このPalto Flatsからリリースされた『Kiren』のライナーノーツを元に、作家、DJ、プロデューサーであるChee Shimizuさんが、このアルバムがどのように生まれたかを以下のように紹介しています。


試行錯誤の末、1982年にアルバム『Kakashi』を発表し、1983年にはマライアの最後のアルバム『うたかたの日々』を完成させる。その直後、古いアメリカのスタンダードをカバーしたアルバム『L'Automne À Pékin』や、ラテンアメリカの音楽を探求したアルバム『Latin』を発表している。キレン』(1984年)も合わせると、わずか3年の間に5枚の画期的なアルバムを録音したことになる。


「ラテン」と「キレン」は、ほぼ同時期に同じスタジオで録音されたが、どちらもレコード会社のプロジェクトではなかった。清水と、彼の偉大な協力者であった故・生田アキ氏との自由な共同作業の中から生まれたのである。「ラテン」自体は1991年まで日の目を見ることはなかったが、この2枚のアルバムは、「カカシ」「うたかたの日々」で見せた確信をさらに追求し、別のステージに移る直前の、彼の最もエネルギッシュな作品と言えるかもしれない。確信とはどういうことか。清水自身の以下の言葉である程度説明できるかもしれない。"その時、子供の頃から興味を持っていた様々な要素が、自分の中で集まって一つの有機物になっていることを認識できました”


 清水靖晃は、幼い頃から、ジャズ、ラテン、ハワイアン、シャンソン、クラシックなど、さまざまな音楽を聴いてきたという。日本では、こうした西洋の音楽が輸入され、独自に発展しながら、邦楽のような大衆音楽の中に組み込まれてきた歴史がある。 清水は、「これ」と決めたものはなく、できる限りいろいろな音楽を幅広く聴いていた。 

 

洋楽だけでなく、祭囃子(ばやし)や民謡、そしてそれらをベースにした現代的(情緒的)な演歌など、日本の古い音楽にも足を運んだ。 このような幅広い音楽を聴きながら、それぞれの音楽が持つ文化的な意味について考えていた。 また、幼い頃から無線通信や録音技術に興味を持ち、虫の声を録音してモールス信号と似ていることに気づいた。 このように、音楽や音に対する好奇心は、ある種の "遊び "を通して育まれてきた。 そのことが、その後の実験的な音楽づくりにつながっているのだろう。 

 





清水は『キレン』を「自分というイメージの中のダンス」と呼んでいる。 それはどのようなダンスなのだろうか。

 

これは、何らかの民族的なコンテンポラリーダンスなのか、それとも純粋に想像上の祭りの踊りなのか。 「キレン」の中の少なくとも2曲、「あした」と「かげろふ」は、特定の民族に由来しない原始的なリズムで自由自在にドライブしている。 マライアのアルバム「うたかたの日々」に収録されている「そこから」という曲は、清水靖晃がギタリストの土方隆行と故郷の祭りばやしについて語り合い、そのリズムをポリリズムとして導入したものであった。 清水にとって、リズムはダンスと同じであり、音楽をやる上で非常に重要なファクターともなっている。 

 


 90年代後半から、J.S.バッハのチェロ組曲が清水さんの音楽づくりの大きな要素になっているが、ここでもリズムが重要な役割を担っている。

 

2007年の代表作『ペンタトニカ』に至るまで、ペンタトニックスケールと、それが生み出すスケールやハーモニクスとメロディーの関係は、近年、清水にとって不可欠なテーマになっている。 ペンタトニックスケールは、西洋音楽の音階が「7音」であるのに対し、1オクターブの音域が「5音」である。 

 

日本の音楽には、歴史的に、2つの音を取り除いた「よなぬき音階」と「にろぬき音階」という2つのペンタトニック音階が存在する。 ”よなぬき”(Ⅳ、Ⅶ抜き)、については、全音階の四度と七度が音階(スケール)の中に登場しないことからこの名で呼ばれる。同じように、”にろぬき”(Ⅱ、Ⅵ抜き)についても、全音階における二度と六度が旋律の運行の中に登場しない。これらの独特な音の運びは、西洋の教会旋法(パレストリーナ旋法等)に近く、古くから、民謡、唱歌、歌謡曲、演歌に使われ、日本人の情緒性に深く関わって来た。 また日本音楽は、以上の音楽形式よりはるかに古来から伝わる「能」、「舞楽」、「雅楽」、「田楽」といった舞踊に付随する伝統音楽に代表されるように、自然の中にある音と人間の心の機微(侘び、寂びーWabi-Sabi)を結びあわせたものとし、古来から東アジアの中で独自の発展を遂げてきたわけである。


この「よなぬき音階」や、「にろ抜き音階」については、アフリカや東アジア諸国の音楽にもほとんど同じ音階が使われている。 「カカシ」の「美しき天女」は、もともとは明治時代の唱歌として作曲されたもので、西洋音階とは異なる日本固有の「よなぬき」の音階が使われている。 清水靖晃の作曲した『キレン』は、ペンタトニック音階を使った曲が多く、特に「にろぬき」という音階は彼の音楽に独特な感受性を与えている。 この作品において、現代の中にほとんど途絶えた日本音楽の旋法を彼は取り入れている。清水は、アルバム制作時に、基本的に何を作るか全く考えずにスタジオに入る。 レコーディングの過程でさまざまな実験が行われる。 『キレン』の制作過程でも、清水と生田は思いつくままにさまざまなアイデアを試していたという。



 

英・ロンドンを拠点に活動するインディー・バンド、Goat Girlを立ち上げたナイマ・ボックは、2018年のデビュー・アルバムを最後にこのバンドに別れを告げることになった。「不満を感じていた」とThe Lexingtonのライヴの数日前にボックは説明していた。ツアーを行うのが辛く、「これ以上、音楽をキャリアとして追求したくない」と思うほどだったという。「制作は続けるけど、リリースはしたくないと思ってたんです」。時折、ライブでソロ演奏を続けていたが、バンドから、ソロアーティストへの移行は容易くはなかった。当時、「バンドから完全に一人になることは、私にとって筆舌に尽くしがたいほど孤独を感じた」と言う。ナイマ・ボックは、ミュージシャンになることを半ばあきらめていた。まったく違う人生へと歩みを進め、そのあと、考古学の学位を取得し、庭師として働き始め、他のことに集中するようになったのだ。

 

 


当時、ナイマ・ボックは知る由もなかった。ジョエル・バートンというミュージシャンが、驚くほど似たようなキャリアを積んでいたことを。また、ジョエル・バートンも、ナイマがゴート・ガールに不満を抱いていたように、自分の在籍するバンド、ビューファインダーに強い不満を抱いていた。ビューファインダーは、所謂「サウス・ロンドン・シーン」と呼ばれるインディー・ロック・アクトに囲い込まれていた。「サウスロンドンのパブでナイマ・ボックと一緒にお酒を飲みながら、「自分がやりたいことだと思えないまま、ギターの曲を演奏していた。僕は偽者のような気がして、"僕は本当はインディーズバンドのギター少年じゃないんだ! ジャズに夢中なんだ!"って。僕はジャズに夢中なんだ!"って話していた。「会社を退いた後、アカデミアに入り、クラシック・ピアノの手ほどきを受けた。バッハのカノンに惚れ込んで、オーケストラ音楽、クラシック音楽、実験音楽、即興音楽に深入りした。そこには、インディー・ギター・シーンにはない、学びたいものばかりが見いだされた」とジョエル・バートンは語るのだ。


実はナイマ・ボックは、その時代から、ジョエル・バートンと面識があった。彼の最後のライブでViewfinderのサポートアクトをボックはつとめており、そこで初めてジョエル・バートンはボックのミュージシャンとしての才能を見出したのであった。「ソングライターとしての彼女にとても惹かれた。音楽で何ができるかを考えた。バンドの脱退後、『もっといろいろなことに関わり、多くの人と演奏すればするほど、もっと多くのことを学べる』と考えていた時期に、共通の友人でDIYレーベルMemorials Of Distinctionを運営する、Josh Cohen(ジョッシュ・コーエン)に連絡を取った。当時、彼が手掛けた多くの探索的プロジェクトの1つで、そのほとんどは短期的な実験だった。しかし、ボックについては、"いつの間にか創造的な投資をしていた "のである。


「ジョエル・バートンと一緒に仕事をするようになって、また新たに音楽にのめり込む理由ができた」とボックは自信満々に語る。ナイマ・ボックの強みはソングライティングにあり、彼女はボーカルのメロディーを書く天性の才能と、それを伝える魅惑的な声を持っている。つまり、両者の関係は、互いを支え合うことにある。バートンは、クラシック、アンビエント、抽象的なインストゥルメンタルなど、従来の「歌」の概念とは全く逆の音楽を学んでいたが、彼はその枠組みを何らかの形で昇華することを本心から望んでいた。「私がやっていたのは拡散的なものだったが、ナイマ・ボックは固定された、つまり、形式化された曲を書く能力を持っていて、制作を行う際にとても良いアンカーとして機能しました」とバートンは語る。「クラシックやミニマリズムの音楽はあまり聴いたことがなかったので、自分では思いつかないようなさまざまな側面があることに興味を持ちました」と、ナイマ・ボックは付け加える。彼女は、このプロジェクトに連名で名前をつけることも考えたという。「私のアルバムだけという感じはしない」と言うのだ。結果的には、ライナーノーツにはジョエル・バートンの名は印刷されているが、表向きのリリース情報としては、ナイマ・ボックのソロアルバムということになっている。

 

 


デビュー・アルバム「Gian Palm」の制作が行われた当初、コロナウイルスによるロックダウンが彼らが仕事を始めてから数ヵ月後に始まった。WHOのパンデミック宣言である。それは、それぞれのプレイベートな生活に少なからずの混乱をもたらしたが、同時に、彼らがこのコラボレーションに何を求めているかを考えるための時間と空間をも与えた。それは作品に深化をもたらし、より思索的な要素を与えたともいえる。「ロックダウンの最初の頃は本当に苦しかった。でも、そのほとんどを一緒に音楽を作って過ごすことで、この本当に夢のような状況があり、それがとても分離されていたんだ」とジョエル・バートンは語る。一方、ナイマ・ボックは次のように続けた。「ロックダウンがなければ、ロックダウンがなければ、これほど濃密な作業時間はなかったでしょうし、それが作品の完成度に大きな違いをもたらしたんです」


 

 

 

サブ・ポップからの記念すべきデビュー・アルバム「Giant Palm」の最大の強み、また聴きどころは、表現性の多様さや豊かさである。アルバムには、ブラジル音楽、ギリシャの音楽、ボックの身近な環境にあるイギリスのポップス、インディーロック、フォーク、トラッド、実に多彩な表現性が見いだされる。このいささか収拾のつかなくなりそうな幅広い音楽のアプローチを巧みに取りまとめたのが、ソングライティングを手掛けたナイマをプロデューサー的な役割を司り、抑制し、ボックの肩を常に支え続けたジョエル・バートンであった。バートンは語る。「当時のロックダウン中、誰も働いていなくて、友達もみんな近くにいたから、『できるだけ、野心的にやろうじゃないか』と思ったんだ」と。さらにナイマ・ボックも同じことを話している。「みんなアルバム制作を喜んでやってくれたし、その強い制作意欲がアルバムのサウンドにも活かされている。その意欲は、今でもジャイアント・プラム全体に感じられる。いかに偶発的で装飾的であろうとも、すべてのそのレコーディングの際に行われた演奏の背後に強い狙いがある」というのだ。


イギリス/ロンドンのレキシントンでのライブが特別なものだったのは、このような共通する意識の源泉があったからであり、また、同時にこれはナイマ・ボックにとって意欲的な挑戦でもあった。昨年、夏に行われた9日間のレコーディング・セッションで、ナイマ・ボックは、才能ある友人やミュージシャンたちが、当時、彼女自身が価値を見いだせずにいた曲に、なぜこれほどまでに大きな力を注ごうというのか、まったく理解しがたいと感じていたことを苦々しく告白している。「自分の曲に対する自信のレベルがとても低かったんです。あの年は、素晴らしい夏だったのだけれど、一方、その時期に私が個人的に経験していたことは、言ってみれば、自分を切り開いて、知らない大勢の人の前で自分の内側にあるものを床にこぼし出す(観客の前に晒しだす)ような苦痛めいたものだったんです。特に、9日間のレコーディングの間、私は、人間として本当に弱さを感じていました。何年も自分の中にあった曲なのだから、自分の世界、そして、私たちの世界、つまり、自分とバートンの世界に留めておくことができたのに、いよいよそれを、大勢の人の前にはっきりとした作品という形で置かなければならなくなったんです」


ライブステージに臨むに当たり、みずからの弱さに直面したことは結果的に有益な効果をもたらした。「曲をもう少し理解するのに役立ったし、その弱さを壊さず、”強み”として持つことができた」とボックは言う。ボックとバートンが音楽的に補完し合っていることはとても重要なのだが、それ以上に重要なのは、彼女の音楽に対する彼の熱意が、それらの精神的な障壁の解消に大いに役立ったことともいえる。「もし、ジョエルと一緒に仕事をしていなかったら、このようなことはできなかったかもしれない」とボックは付け加える。バートンからすると、「彼女は、本当に素晴らしい曲を持っていて、一緒に仕事をするのが楽しみな人でした。この感情的なことについては、最近少し話したことがありますが、スタジオにいるときは、やるべきことがたくさんあって、空回りしていました。ただ、曲自体は素晴らしいのだし、それをやり遂げるのはごく当たり前のことだと思ったんだ」


そして、彼らはそれを完璧にやり遂げた。「ギター2本、ベース1本、ドラム1本でやっても良かったんだけど、曲の限界を保ちつつ、サウンドをどこまで押し出せるかに興味があったんだ」とバートンは言う。彼らは、『Giant Palm』の各トラックがそれ自体で自己完結したプロジェクトのように感じられるほど、それらに熱中して取り組んだ。「ある曲は独自の意味合いを持ち、次の曲は全く違うものになる」とバートンは言う。例えば、'Campervan'の縛られないワルツ、'Toll'の広がりあるプログレ、'Dim Dum'のアンビエンスは大きなコントラストを描いている。

 

デビューアルバム「Giant Palm」は、アントニオ・カルロス・ジョビンのボサノヴァ・スタンダード・ナンバーをカバーした「O Morro」でフィナーレが締めくくられるが、このことについて、ナイマ・ボックがブラジルとギリシャの血を引いており、その後、家族とイギリスのサウスロンドンに引っ越すまでの幼少期をブラジルやギリシャで過ごしたことを考え合わすと、また、事実、最初期の先行シングルの発表時にナイマ・ボックがブラジルのサンパウロの海岸での思い出についてしとやかに回想していたことを考え合わすと、多くのリスナーが直感的に『Giant Palm』のサウンドアプローチを単なる彼女の「ルーツ音楽への回帰」であるとか「賛辞」の意味を読み取りたくなるかもしれない、(そして、以前、私もそうとばかり考えていた)しかし、意外にも「ルーツへの回帰」というのは、2人が完全に否定するものなのである。さらに、二人はこのアルバムのコンセプトに逆の意味、ルーツからの脱却の意図が込められているとも話す。

 

「結局のところ、私は、ブラジルではなく、イギリスで育ったので、あまりブラジルの音楽について強調したくないのです」とボックは言う。同様に、ナイマ・ボックがトラッド音楽の集団であるBroadside Hacksに所属していることを強調しすぎるのも大きな間違いとなるかもしれない。シャーリー・コリンズなどのヴォーカリストに影響を受けてはいるが、「このアルバムは、私のフォークミュージックへの愛と情熱とは別物だと思う」とボックは説明する。フォーク音楽やブラジル音楽は、このアルバムに多大な影響を与えたものの一部ではあるが、それは全てではない。「他の多くのものが関連しているのと同じように、彼らも関連している。しかし、他の多くのものが関連しているように、彼らも大き関連しているんだ」とバートンは言うのだ。 

 

 

 

 

 ラテン、ボサノバ、フォーク、トラッド何か一つの要素を取り出して作品の台座の最も高い場所に配することは、言い換えれば、単一の音楽を神棚に祭り上げる行為は、他でもない、二人のミュージシャンが彼らの音の世界を構築するために設定したレベルに対して失礼に当たることでもある。ナイマ・ボックの個人的な生活、キャリアと関連づけるなら、『Giant Palm』に表現されている音楽は、むしろガーデニングと考古学の影響があるといえる。「音楽でハイになるのはとても簡単なのだけれど、他のことはすべて文字通り、そして、精神的に落ち込むのに役立つ」と彼女は意味深に言い放つ。「ディグスは、長い間学校に行っていなかったので、私の知性を刺激するのに役立ちましたし、一つの場所にいながらどこへでも旅行もできるものでした」


結局、『Giant Palm』を定義しているのは、何らかの発掘作業の過程で誰かが見つけるかもしれない静寂と探索の同じ組み合わせである。それは一面でもなければ、単一の要素ではない。多角的な音楽、表現、概念が全て「Giant Palm」には込められている。たとえ、すべての曲が独自の世界の内側だけに存在するとしても、このレコードを聴き込むと、それぞれの曲に座りこみ、暫時その場に居続けることを余儀なくされー聞き手もまたこの音楽の持つ奥深い世界の中にいざなわれていくのだ。「聞き手を音楽の世界に引き込む奇妙な力」こそ両者の生み出した「Giant Palm」に見えるように、優れて傑出した音楽に絶対不可欠な重要な要素となる。その集中性は、この2020年代の二人の音楽へのたゆまざる熱中、制作パートナーとしての結束が生み出したものなのだ。まさにナイマ・ボックの音楽がこれほどまで魅力溢れるのは、ボック、バートンをはじめ、デビューアルバムに参加した多くのミュージシャンの類まれなる能力だけでなく、丹念なアルバム制作がもたらした感情の波が曲の核心にあるエモーションを最大限に増幅させているという事実をはっきりと物語っているのである。

 

 

 

Naima Bock  『Giant Palm』 Debut LP



Label: SUB POP

 

Relase: 2022年7月1日


 Tracklist

 

 

1.Giant Pulm

2.Toll

3.Every Morning

4.Dim Dum

5.Working

6.Natural

7.Canpervan

8.Enter The House

9.Instrument

10.O Morro

 



Listen/Download Official

 

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Pale Blue Eyes(PBE) Photo Credit: Sopie Jouvernaar

Pale Blue Eyesは、デビュー・アルバムを今年9月2日にFull Time Hobbyからリリースすると発表した。このバンドは既に英国のラジオBBC 6でヘビーローテンションが組まれている。おそらく伝説的なDJ,ジョン・ピールが存命であったなら、間違いなく肩入れしたであろう三人組のインディーロックバンド、Pale Blue Eyesとは一体、何者なのか。少なくとも、彼らはイングランドの田舎地方のトットネス出身の世界的な知名度を持たないロックバンドである。しかし、今後、彼らが強い存在感を英国内のミュージックシーンで持つようになる可能性は高い。ヤードアクトに続くニュースターとなるのか。そこまでは明言しかねるものの、彼らは、今後が楽しみなトリオだ。彼等は他のロックバンドとは一風変わったバックグランドを持ち、さらに音楽の他にも様々な活動を行っている。彼等の魅力今回、読者諸賢にご紹介していきたいと思う。

 

 

Chapter 1  大学の研究時代 メンバーの完成

 

2021年から発表されているシングルは、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのサイケデリア、ステレオラブのキャッチーなグルーブを擁した楽曲として、イギリス国内のリスナーに好意的に受け入れられ、さらには英国の音楽メディアのClashにも取り上げられている。さらに、これらのシングルは、既に、BBC Music 6のオンエアのレギュラーを獲得し、ヘビーローテーションが組まれているという。

 

おのずとPale Blue Eysのデビュー・アルバム「Souvier」への期待も高まっている。彼らに注目するリスナーはまず目に狂いがない。彼らは正しい感性を持っている頼もしいリスナーたちなのだ。彼らの卓越したモダニストポップミュージックは、アイスランド、KLFランド、英国電子音楽の本拠地であるスティールシティを経由して、デボン、シェフィールドから発信されている。



ペイル・ブルー・アイズが所有する専用の「ペンキット・ミル・スタジオ」は、デビューアルバム「Souveir」のレコーディングにおいて重要な役割を担っている。PBEの所有スタジオは、ダートムーアの南に位置しており、頭上をハシビロコウが飛び交うデボンの緑の中にある。スープ工場、音楽フェスティバル、温室、映画館、お騒がせな企業イベントのバー営業、樹木医のアシスタントなど、バンドメンバーは、スタジオを作るために銀行ローンまで組んで、賃金の出るところでほとんどがむしゃらに働いた。すべては満足のいく作品をバンドとして作りあげるためだ。

 

PBEのデビュー・アルバム『Souvenirs』の中核は、シェフィールドのルーシー・ボードと南デヴォンのマット・ボードによって書かれ、録音されたものだ。マット・ボードとルーシー・ボードは、美術大学で出会ってから数年後の2018年に結婚している。つまり、彼らは夫婦なのだ。


「私たちが若かった頃、シェフィールドやプリマスの間に合わせのDIYの場所から、ウェールズのロックフィールドのようなレジデンシャル・スタジオまで、様々なスタジオで録音しました

 

とフロントマンのルーシーは言う。

 

ロックフィールドは、私たちにとって天国のような場所でしたが、2、3日しか滞在できない場所だったんです。僕らの夢は、もっとスタジオで時間をかけて、"時間 "に追われることなく曲を作り、自分たちでプロデュースする方法を学ぶことだった」



やがて、数年間の労働における苦労の末、バンド専用のPBEスタジオは完成した。このスタジオにすべての機材が到着した。それはレコーディングを行うには十分だった。Moog Little Phatty、Prophet 12、Roland Space Echo。Moon Funeral Fuzz、Big Skyリバーブ。スタジオにあるすべての機材と並んで、外部にみ重要な資源があった。中には、後にMoonlandingzやEccentronic Research CouncilのメンバーとなるAdrian Flanaganが監督したプロジェクトも含まれていた。

 

ルーシー・ボードは、その後、フラナガンのMoonlandingzの共同設立者であるディーン・ホーナーとも知り合うことになる。Róisín Murphy、I Monster、Human League、Add N To (X)などのアーティストとのスタジオ経験を持つディーン・ホーナーは、Pale Blue Eyesを語る上で重要な役割を担うようになった。彼は、アルバム「Souvenirs」のミキシングとマスタリングを担当し、レコード制作のアドバイザーも務めていた。つまり、プロデューサーに近い役割を担っていた。

 

ルーシー・ボードの大学を修了するときに書いた学位論文のタイトルは、音楽とは無縁ではない。既にこの頃から彼女の決意は固まっていたのだ。彼女自身のサウスヨークシャーのシンセサイザー革新への関心を明確にしている。「1973年から1978年までのシェフィールドのオルタナティブ・ミュージック・シーンに関する調査、特に、キャバレー・ヴォルテールについて」である。



ルーシーが故郷のハイファイ遺産を調査する一方で、マットの音楽的探究心はさらに遠くへ旅することになった。20代に入り、マット・ボードは、アイスランドで作っていたシガー・ロスの音に魅了された。ポストロックの代名詞の音楽は、世界の中でもっとも刺激的だったからそれもうなずけるような話だ。マット・ボードは、音楽修士課程で勉強している間に、何人かのアイスランド人に出会った。彼は学業に励むかたわら、スープ工場で働いて貯めたお金で、アイスランドに行き、しばらく過ごすことにした。首都、レイキャビク郊外にあるシガー・ロスのスンドラウジン・スタジオを訪れることになった。マットは、Sigur RósのスタジオエンジニアであるBirgir Jón Birgissonと共に、いくつかの形成的なレコーディングをすることになった。この最初期のアイスランドのポストロックシーンへの深い関わりは、このバンドに強い骨格のようなものをもたらしている。



ペイル・ブルー・アイズのストーリーを最後に完成させたのが、マベーシストのオーブリー・シンプソンだ。マットとルーシーとサウス・デヴォンの「Sea Change Festival」で出会い、3人目のバンドメンバーとして加入を果たす。オーブリー・シンプソンは、アメリカのR&Bのメインカルチャーを形作った名門レーベル「モータウンレコード」の大ファンで、同レーベルの専属ベーシスト、ジェームス・ジェマーソンに傾倒している。そのプレイにも強く影響されているという。

 

オーブリー・シンプソンは上記二人のシンセサイザーロック、そしてポストロックの要素に加え、ジャミングのようなジャズの要素を加える重要なメンバーである。彼は、様々なジャズ系アンサンブルで演奏しており、彼の父親が、Metronomy(イギリスのロックバンド、2022年には新作「Small World」を発表している」のJoe Mountと一緒にドラムを叩いていたという事実は、オーブリーの若さを物語っているようです。Pale Blue Eyesのオーブリーとマットは実は共通点があり、南デヴォンのマーケットタウンであるトットネスとその周辺で育った。トットネスは、環境保護とエンターテインメントの分野でイニシアティブをとり、社会文化のホットスポットとなっている場所である。

 

彼ら二人を引き合わせたフェスティバルは、Gruff Rhys、Aldous Harding、The Comet Is Coming、Peggy Seegerなどのアーティストを、人口8000人の半農村に招いたアート&ミュージック・スペクタクルであり、近年では、Sea Changeフェスティバルに象徴される知名度を獲得している。Sea Changは、マットが数年前から働いている「Drift Records」の人々によって制作されたもので、素晴らしいショップだ。ペイル・ブルー・アイズは、これらのトットネスの現地のネットワークの活動に強い触発を受け、彼ら自身もまたトットネスにおける持続可能な地域開発計画を支援するようになった。さらに彼らは、最近、ブライアン・イーノによる音と光のインスタレーションとともに、野心的な「Atmosプロジェクト」に音楽を提供している。既に、MetronomyやEnoを初め、デビュー前から大御所との関連性が強いバンドなのだ。


Pale Blue Eyesのデビュー・アルバムは、おそらく鮮烈な印象をイングランドのシーンにあたえるものになるはずだ。上記のようなシンセサイザー、インディーロックポストロック、ジャズ音楽に関する様々な要素が盛り込まれており、それが専用スタジオで何度も綿密に組み上げられていったため、付け焼き刃ではない洗練されたものとなっている。甘いシンセサイザーラインとメトロノミックなギターリフは、「デボン・クリーム・アデリカ」と呼ばれるように、アルバムにトランスポーター的な心を揺さぶる雰囲気を与えている。Globeのメロディアスなベースから、MotionlessやUnder Northern Skyのメタル調の明るいギターパートに移り、テレヴィジョンやエコー&ザ・バニーメンのWill Sergeantを思わせるようなサウンドが展開される。

 

ドイル/ベルリンのオールナイトテーブルテニスバーにちなんで名付けられたDr Pongのポップなフリークアウトは、アルバムがより広がりのあるゾーンに突入させる。ゴージャスなSFバラード/セットピースのChelseaは、美しい音楽である。歌詞はルーシーとマットがロンドンの下品で高級なパーティでバーの運営に雇われることになった夜に根ざしているという矛盾をはらんだ作品でもある。一見して浮世離れしているような印象もあるアルバムの主題にポピュラー性をもたラス理由は、実はこういったナイトライフの現実性に根ざしているから強い説得力を持つ。

 

 

Chapter 2  アルバムのタイトルの理由



PBEのデビューアルバムが「Souvenirs」と名付けられたのは、ルーシー・ボードが説明するように、「この曲には、数年分の思い出や経験、つまり、変化や個人的な悲しみの時期が凝縮されています。曲は私たちのはけ口であり、今となってはすべての時代の記念品となっている」という理由がある。

 

人生は縄目のように幸不幸が訪れると言われる。勿論、アルバムの制作中、順風満帆な出来事ばかり起きたというわけではない。Pale Blue Eyesがアルバム制作に取り組んでいたとき、不幸にもマット・ボードの父親が亡くなった。つまり、このアルバムは、彼の最愛の父親、故ダニー・ボードに捧げられている。

 

マット・ボードは、今でも父親との思い出が尽きない。「夏の朝、窓やドアを開けて大音量でCocteau Twinsのアルバムをかけている父親の音で目が覚めたとき」などを思い出として挙げる。 PBEは、マットの古い実家に隣接してスタジオを建設し、マットの母親の長期にわたる病気を助けるため、そこにいることができるようにした。このアルバムには、死や落胆した時期についての考察が含まれ、前作シングル「TV Flicker」は、その主題からすると驚くべきことかもしれないが、ラジオのプレイリストに登録されて、大ヒットとなった。しかし、ペイル・ブルー・アイズはネガティヴな側面を取り上げるバンドではない、彼らは、ポジティブな面を強調し、爽快感、美しさ、喜びで脈打つアルバムを作ることにより、困難な時代を打開しようとする。

 

このシングルは、Joe Meek風の不気味な縁日のメリーゴーランドから始まる。この曲は、ミークがプロデュースした1961年の全英1位曲Johnny Remember Meと同様、人間の死とその後遺症に根ざした、執拗で不吉なトラックです。


ドラマーのルーシー・ボードはこの曲についてこう語っている。「突然の家族との死別の時の感情や回想、不安でいっぱいの頭の中の空間へのスナップショット、思考のスイッチを切ることができず、ぼんやりテレビを見つめているような、そんな幽霊のような痕跡でいっぱいだと感じる。



一方、シンガー/ギタリストのマット・ボードは、この曲のダークでエモーショナルな内面を明かしている。「父の死後、私は時々チカチカするテレビの前で眠りに落ちていた。音や背景の台詞を聞きながら眠りにつくと落ち着くし、眠れるんだ」

 

「TV Flicker」の音楽と歌詞は、1970年代の冷戦時代の装飾品、つまり黙示録的な隠れ家、失われた核シェルターへ通じるハッチといった曖昧なイメージを想起させるのかもしれない。




 

 

 chapter 3  アルバムの完成 ジミー・コーティという立役者

 

このアルバム「Souvier」は、マットがアルバムのテーマを挙げたときに明らかになったように、ある種の選択的なポジティブさに満ちている。「良い時間を受け入れ、逃避し、周りがクソになっている時に至福の瞬間に身を任せる...損失や悲しみを処理し理解し、前進するための手段として音楽を使う...、平凡と戦いつづけ、夢をあきらめない...。良い夜の純粋な喜び、バンドやアートワークや素晴らしい映画に感動する瞬間...、今ある時間を最大限に活用する...」と、マットがアルバムのテーマを挙げていることからも明らかである。 特に、Little GemとGlobeは、楽観主義、ガーデニング、学生シェアハウスでの享楽的な日々など、ポジティブな雰囲気が漂っている。



Pale Blue Eysがアルバム「Souvier」を完成させたとき、レーベルであるFull Time Hobbyから多くの励ましがあった。レーベルとの契約に先立ち、PBEは、1枚の限定版シングルをリリースした。このシングルは、南デヴォンの先進的な3つの企業、ニューライオンブルワリー、マッシュルーム生産者のグローサイクル、グリーンヒューネラルカンパニーから資金提供やスポンサーを受けたものだった。

 

特に、グリーン・フューネラル・カンパニーは、ミューミューの葬儀屋であるカレンダー、フィリップス、コーティ&ドラモンド・アンダーテイカーズとも関係がある。Jimmy CautyとBill Drummondは、もちろん、The KLFやThe Justified Ancients of MuMuとの仕事でも知られている。

 

このJimmy Cauty(ジミー・コーティ)とPBE(Pale Blue Eyes)の繋がりは、一種のセレンディピティ(幸運の偶然)的な循環性を持っている。

 

ジミー・コーティは、イングランドの田舎地方のトットネスで育った。今、アートと音楽の分野で驚くべき偉業を成し遂げた彼は、偶然、自分を育ててくれた町に戻り、遠く離れた葬儀会社とつながりを持つようになった。その土地で、新しい音楽グループが生まれ、そのグループもまた、ジミー・コーティに少なからず関係していた。JAMMsから現在のEstateまで、ジミーは一貫して驚くべきアート、デザインを生み出した。新しいポップ・グループがこのような発明品と肩を並べるのは、本当に大変なことなのだが、これまで同様、Pale Blue Eyesは希望を持って旅をしているのだ。


彼らが、先日リリースしたばかりの新曲「Star Vehicle」は、Stereolabのポップな瞬間や、Flaming LipsのImperialのような側面を思い起こさせるような輝かしい復帰作となる。


「PBEのシンガー/ギタリストであるマット・ボードは、「この曲は希望に満ち溢れた高揚感のある曲」と話す。

 

「この曲は、未来を夢見ること、困難な時代を共に乗り切ること、どこか遠くへ行くことを空想しているようなものなんだ。

 

アートカレッジにいた頃、田舎にあるThe Rat & Emuという学生バーがあったんだけど、そこで過ごした日々を描いている。頭上の星がとても明るく見えたのを覚えている」

 

おそらく、この曲の宇宙への憧れは、そこからきている。田舎地方の空の無限の美しさに寄り添い、「Star Vehicle」はその中に静かな喜びを秘めている。

 

 





Pale Blue Eyes 

 

1st Album「Douvier」

 


Label: Full Time Hobby

Release: 2022年9月2日 

 

Pre-order:


https://fulltimehobby.co.uk/release/pale-blue-eyes/souvenirs

 

 

 

Pale Blue Eyes   ーBiographyー


Pale Blue Eyesは、イギリス南西部のデボンの田舎町に拠点を置く若いエレクトロモダニスト・ギターグループ。彼らの地平線まで広がるポップさと説得力のあるリズムは、Neu!、The Cure、そして、バニーメンのWill Sergeantの最もラガフレネティックな時のヒントを取り入れている。


Pale Blue Eyesは昨年、ダートムーア南部にある緑豊かなPenquit Millにレコーディング・スタジオを完成させた。The Moonlandingz, Róisín Murphy, I Monster, Human League, International Teachers of PopのDean Honerがミックスを担当した。2022年にリリース予定のデビュー・アルバム「Souveir」のレコーディング時には、頭上をウグイスが舞っていました。




近年、これまで主要な音楽として取り沙汰されてこなかった地域の音楽がメインストリームに引き上げられようとしています。今回、新たにUS、シアトルのサブ・ポップとのサインを交わし、新作リリースを行った女性シンガーソングライターのプロジェクト、Σtellaに関しても、これまで注目を受けてこなかった地中海の地域の音楽を背負って立つミュージシャンに挙げられる。

 

先日、6月17日に最新アルバム『Up and Away』をサブ・ポップからリリースしたΣtella(ステラ)は、20世紀半ばのギリシャ音楽にスポットライトを当てている。ギリシャ国内ではそれ相応に知名度を持つシンガーとして活躍してきた彼女ではあるが、新たにサブ・ポップと契約を結び、制作を行うことにどのような意味があったのか。これは、アテネを拠点とする彼女の青春時代の一部であった音楽の再発見の意味が込められている。そして、それは世界の主流の音楽とは異なるものの、ギリシャの音楽を世界的な位置として再確認することでもあるのだ。


「今では、若い頃から聴いている音楽は、ある意味うんざりしている」と、Σtellaは語っています。

 

しかし、多くの音楽リスナーがそうであるように、子供時代に聴いた曲は、それは時を経て全く異なる意義をたずさえて舞い戻ってくる。つまり、数年後に違う形で不思議な形で深く心に響くものとなる場合がある。シンガーソングライター、Σtellaは、最新作において、1960年代に活躍したギリシャの著名な歌手、グリゴリス・ビチコチス、ツェニ・ヴァヌーの音楽に回帰しようとしているのだ。それらは、彼女が幼年時代の日常の暮らしに溢れていたアテネのポピュラー音楽である。しかし、アーティストは当初、それらをどのように解釈するのかに戸惑いを覚えていた。


「聴いたことがあり、頭の中にしっかり入っているけれど、それを形あるものとして再現したり、鑑賞したりする方法が今まで見つからなかったことが関係しているのかもしれません。 
最近、よく、親やその友人の影響で、おそらく、10歳の頃に聴いていたであろう曲を見つけることがあります。今、改めて聴いてみると、ああ、これは名盤だな!!って。でも、そうやって改めて聴いて深い理解をするのにはかなり長い時間が必要だったんです」 


2015年にセルフタイトルのデビュー作をリリースして以来、Σtellaはシンセサイザー調のインディー・ポップでギリシャ国内でその評判を高め、一定の人気を獲得するに至った。しかし、彼女は、その先を見据えている。世界的にギリシャのポピュラー音楽の重要性を示すチャンスを見出そうとしているのだ。そこで、最新アルバム『Up and Away』では、彼女は音楽の方向性を変え、ギリシャの楽器を取り入れ、時に非常にファンキーで少しサイケデリックなものを生み出し、クラシックなサウンドにモダンなひねりを加えている。これは国内のアーティストとしてではなく、世界的なアーティストとしての歩みをはじめたことの証だてともなりえるはずだ。


『Up and Away』の制作が開始されたのは2018年のこと。Σtellaが2020年に発表した前作スタジオ・アルバム『The Break』の制作を終えた直後、彼女は、テキサス州を拠点とするバンド、Khruangbinの音楽をよく聴いていたが、彼ら自身もグローバル・ファンクやサイケデリック・ミュージックから影響を受けている。その後、中東のイランの音楽に興味を見出し、ギリシャに滞在していたプロデューサーのトム・カルヴァート(通称レディーニョ)と出会いを果たしたのだった。

 

「それはまるで星が一直線に並んだようだった」とΣtellaは言う。「最初にトムがインストゥルメンタルを送ってくれたんだけど、それがすごく気に入ったんです。ヴィンテージなサウンドが好きだったんです」


Σtella


アルバムの中には、国際意識を持つアーティストであるがゆえ、ギリシャ的な概念に対する戸惑い、またその中に潜むような形で表現されているプライドのようなものがないまぜとなっている。特に、アルバムでは、ギリシャの伝統的な楽器がとりいれられていることに注目しておきたい。リュートの仲間であるブズーキの奏者のクリストス・スコンドラス、ギリシャや中東で使われている琴に似た楽器カヌンの奏者のソフィア・ラボプールーを迎え、徐々にプロダクションを完成させていった。この制作背景について、「この2人のミュージシャンとのコラボレーションは、アルバムに多くの色を与え、サウンドに大きな変化をもたらした」とΣtellaは語り、そして深い思いをこめて語っている。「二人と一緒に仕事ができて、本当に感謝しているんです!!」


「Up and Away」において、ギリシャの伝統楽器のひとつ、ブズーキ奏者のスコンドラスと一緒に仕事を行うことは、このアルバムにギリシャらしいキャラクター性を加味するだけでなく、その他にも、自己のギリシャ人としてのアイデンティティを探求するという重要な意味が込められていた。それは、音楽の探求にとどまらず、自己の深い探求のような意味が込められている。Σtellaは、二人のプロフェッショナルな演奏者の助けを借り、彼女の人格の形成期に聴いた音楽を反映した雰囲気を徐々に作り上げていくことになる。「両親の古いレコードやブズーキをたくさん聴いて育ったのを思い出した」と彼女は言います。「ブズーキは、私の頭の中に音として深く刻まれているんです。過去のアルバムでも、ギターを弾いてブズーキの持つ音色に少しでも近づけようとしていたけど、実際にブズーキを録音する勇気は今までなかったんだ」と語る。


また、「私はギリシャ人だから、私にとっては、ずっと見てきて、ずっと聴いてきた楽器を選ぶのもなんだか変な感じですよね」と付け加える。「しかし、それでもカルバートとのコラボレーションで、それが可能になったという。「私はいつも、イギリス人が私にブズーキをアルバムに入れるように説得したのはおかしいと思う、と言っているんです」とΣtellaはおかしみを交えて言う。


Σtellaは、楽器がプロセスに持ち込まれる前に『Up and Away』のメロディーを作り上げた。「キリシアの民族楽器であるブズーキを使ったギリシャの伝統的な音楽で起こるようなことが起こった。ブズーキはボーカルのメロディーを追いかけるようなものです。50年代や60年代のギリシャの古い曲で、ブズーキがよく使われているものでは、かなり普遍的な意味が込められているんです」


しかし、作品自体の構想、青春時代のアテネを再現すると決めたまでは良かったが、アルバムの制作は、遅々として進まず、アルバムの制作の進捗状況をどうにか早めるため、Σtellaとカルヴァートは、彼女がギリシャに、彼がイギリスにいる間、リモートで共同作業をしていた。紆余曲折あって、ようやくアルバムの制作を終え完成と思われたその矢先、COVID-19によるパンデミックが蔓延し、Σtellaは、The BreakをリリースしたArbutusが次の作品を扱えないことを知った。


「当初はとてもショックでした」と彼女は言う。しかし、Σtellaは、この挫折に突き当たった時、あまり動揺しないことを決意し、新しいレーベルを探すため、人々に働きかけを始めたという。そんなときに、思いも寄らない転機が訪れる。他でもない、アメリカの名門レーベルサブ・ポップからの契約の話、貴方のレコードをリリースしたいという申し出がもたらされたのだった。

 

「たしか、2ヶ月くらいかかったと思います。毎日、レーベルに、毎日、関係者にメールしていました。


2020年5月、彼女は、楽曲のパブリッシャーであったSub Pop、シアトルに拠点を置くレーベルが『Up and Away』のリリースについて話し合いたいという連絡を受けたんです」


アルバムのタイトル曲「Up and Away」では、Σtella自身がギリシャの音楽の歴史を描いたアニメーションビデオを監督している。イラストはYokanimaが、アニメーションは、YokanimaとGeorge Kontosが担当する。一般の人にはそれほど馴染みのないギリシャ音楽に興味を持つ契機になりえると思われる。


 

 

このタイトルトラックのミュージックビデオは、戦争について描かれており、ギリシャのミュージシャン2人がライブを終え、街でナチスの兵士に遭遇し、競技場から逃げ出す様子を叙事詩的に描き出している。このアニメーション調のストーリーテリングについては、第二次世界大戦中の実話にインスパイアされている。ミュージックビデオにも表現されている通り、アルバム全体には幻想的な雰囲気が漂っているが、その中には、確かに現実性のような何かが浮かび上がってくる。このアルバムには、表向きの音楽性の奥底に、彼女のアテネの青春時代の美しい思い出が色濃く反映されているのだ。それがアルバム全体にロマンチックな彩りを加えている。


アルバム「Up and Away」のもうひとつのハイライトは、Σtellaが地中海のシーンのファンクの熱を上げながら、ミュージシャンとしての大きな野心を歌った「Another Nation」となる。 この曲について、ステラは複雑な心境を交えて話している。そこには、国際人としての立ち居位置、さらには、ギリシャを誰よりも敬愛するアーティストとしての姿がその狭間で残映のように揺らいでいる。国際的なアーティストとして活動するのか、ギリシャ国内のアーティストとして活動するのか、どちらを取るべきか、まだ彼女は決めかねている。「新しい曲を書いているとき、私は、何らかの形で、ギリシャを離れることを強く望んでいたんです」と付け加えた上で、最後にステラは、このアルバムの制作秘話について、以下のように締めくくっている。

 

「この曲は、生まれた国を離れるというアイデアに対する私の何らかのエキサイティングな気持ちを込めて歌っていると思うんです。

 

 それでも、完全に、国家を心から離れるというのではなく、私が愛するギリシャに心を置いた上で、さらに、このアルバムで音楽的にもっとグローバルな対話をして、より大きな、美麗な絵画の一部にしようと試みたんです」

 

 

アメリカのインディーズシーンを代表するシアトルの名門レーベル、サブ・ポップと新たに契約を結んで今月に発表されたばかりの「Up and Away」において、彼女はまさに以上のことを完全に体現しようとしている。

 

この作品で、Σtellaは、ギリシアにしか見出し得ないもの、また、その他の地域に見いだされるもの、その双方を、ユニークな形で描き出そうと試みる。それは、先にも述べたように、アテネの青春時代の思い出と相まって美麗なロマンスに彩られている。「Up and Away」は、世界の主流の音楽とは一線を画する、このアーティストらしいユニーク性が見いだされるアルバムでもあるのだ。

 



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Two Door Cinema Club


Two Door Cinema Clubは、アイルランドのエレクトロポップ/インディーロックバンド。 アレックス・トリンブル、ケヴ・ベアード、サム・ハリデーの3人からなるドラムレスの3ピース・バンドで、既にオートクラッツ、デルフィック、フォールズなど、UKのダンスロックシーンの著名なバンドの前座を任されている。これから世界的な活躍が予想されるスリーピースである。

 

彼らは、5枚目のスタジオ・アルバム「Keep On Smiling」を9月2日にリリースする発表。このニュースと共に彼らはファースト・シングル「Wonderful Life」を発表、同時にミュージックビデオも公開しています。

 

5枚目のスタジオ・アルバム『Keep On Smiling』の曲作りとレコーディングに完全に没頭するための時間と空間を与えられたバンドは、クリエイティヴなプロセスに、より自由で、より協力的なアプローチを採用した。

 

ロックダウン中もロックダウン後も、バンド自身がアルバムの作曲とプロデュースを行い、Jacknife Lee(BLOC PARTY、THE KILLERS、Taylor Swift)とDan Grech Marguerat(HALSEY、LANA DEL REY、George Ezra)が追加のプロダクションを担当した。

 

アルバムのアートワークは、80年代にインスパイアされた鮮やかなスタイルとポップ・カルチャーのリファレンスで高い評価を博すイギリスのアーティスト、Alan Fearsによるもので、Fears特有のカラフルでシアトリカル、そして、しばしユーモラスで本質的にポジティヴな絵は、アルバムのテーマを視覚的に包み込むのに最適となる。

 

 

Preview Single 「Wonderful Life」 

 


 



Two Door Cinema Club  『Keep On Smiling』

 



Tracklist

 
1. Messenger AD
2. Blue Light
3. Everybody’s Cool
4. Lucky
5. Little Piggy
6. Millionaire
7. High
8. Wonderful Life
9. Feeling Strange
10. Won’t Do Nothing
11. Messenger HD
12. Disappearer


Jean-Michel Basquiat 

 

1960年に、ブルックリンで生まれたジャン・ミシェル・バスキアは、思春期をニューヨークとプエルトリコの間で過ごした。

 

1970年半ば、ニューヨークに戻ったミシェル・バスキアは、当時、ニューヨークの地下鉄を中心に栄華をきわめていたグラフィティアーティストの最初期の運動に加わっていました。彼は、このとき、グラフィティ・アーティストのアルディアスと運命的な出会いを果たし、ほかのタグ付を行っていたアーティストに混じり、二人は、SAMOと名を冠してコラボレーションを始めた。

 

ミシェル・バスキアは、ストリートアートのスタイルにこだわった芸術家である。ニューヨークの個展で作品を公にする前に、キースヘリング、マドンナ、デビー・ハリーなどのアーティストが名をはせたニューヨークのダウンタウンの熱狂的なクラブシーンに参加していた。1980年、ミシェル・バスキアの作品は、ダウンタウンのアートシーンを正当化するものとみなされ、タイムズスクエアショーで最初に公のものとなった。

 

画家バスキアの名がメインストリームに押し上げられる以前、LAのブロード博物館の創設者は、この画家のことを知っていたといいます。彼らは、ニューヨークを訪問した際に、バスキアとコンタクトを取ろうとし、彼のスタジオに出向き、後にバスキアをロサンゼルスに招きいれた張本人でもある。

 

1980年代は、アメリカの文化、ヒップホップ文化、黒人文化の観点から非常に興味深い時期にあたると、南カルフォルニア大学の元DJ兼映画メディアを専門とするトッド・ボイド教授は話しています。「1980年は、ホイットニー・ヒューストン、マイケル・ジョーダン、エディー・マーフィーらの黒人の芸能人がスーパースターになった。変革の十年であった」と指摘している。また、ボイド氏によれば、ミシェル・バスキアは、上記のスーパースターと同レベルの水準にあった存在であるという。「バスキアの芸術について話すことは大事なことですが、それは彼の芸術と彼の芸術における全体的な文化的な影響について話すこととは別のことです」

 

 

ボイド氏は、1983年にバスキアがプロデュースしたランメルジー、K−ロップのヒップホップシングル「ビートバップ」、そして彼の絵画作品である「ホーンプレーヤー」を、ヒップホップとビバップとして知られる即興スタイルのジャズ(フリージャズ)との関連性が見いだされる点であるとしています。 

 

「ホーン・プレーヤーズ」は、ミシェル・バスキアのヒーローであるチャーリー「ザバード」パーカーとディジーガレスピーを題材として描かれていて、これらは、第二次世界大戦後に人気を博した音楽ジャンル「ビバップ」の先駆者の二人であると、ボイド氏は指摘しているのです。一見、バスキアとビバップにはさほど関連性はないと思われますが、これはどういうことなのでしょう?

 

無題 頭蓋骨
 

 「ビバップとヒップホップの間には円滑な線を描くことが出来ます」と、ボイド氏は指摘します。「ミシェル・バスキアは、実際にはこれら2つの世界を緊密ににつないでいるんです。1980年代のアーティストの出現は、ヒップホップ文化の広がりと呼応するものでした。MTVに登場した初期のラップミュージックビデオ「Rapture」という曲のブロンディのミュージックビデオにバスキアは出演しているのです」

 

 

さらに、バスキアは、まず間違いなく、自分の芸術と、ビバップ時代の音楽の台頭に自己投影をしていた、とボイド氏は指摘しています。「ビバップのミュージシャンはスタンダードからの逸脱を意味していました。彼らは芸術として自分たちの音楽を真剣に受け止められることを期待していた人々です。ビバップのミュージシャンは、エンターテイナーであるという概念をはなから拒絶しているのです」、さらに、ボイド氏は、かのバスキアも前の時代のビバップシーンのミュージシャンたちと同じような苦境に陥ったと指摘している。「たとえば、バスキアの芸術の初期の常連が、絵画を家具の色彩と一致させたという逸話が残っている。ミシェル・バスキアの「不快な自由」1982年の作品では「非売品」という文字が大文字で書かれており、さらに、バスキアという芸術家が真剣に受け止められ、みずからのアートを単なる商品として見られないことを望んでいた」のだという。それをバスキアは、絵画の中の大文字のフォントに込めていたというのである。

 

「Horn Players」では、両方のアーティストの名前(グラフィティの専門用語ではタグと呼ばれる)が取り消され、線付きのテキストで描かれている。ボイド氏はこれを、ビバップジャズミュージシャンが有名なジャズ・スタンダードを認識できないように方法と比較検討を行っている。「ビバップミュージシャンは」と、ボイド氏はさらに説明しています。「しばしばアメリカの伝統的な歌集を踏襲しつつ、そこから脱構築しようと試みていた。このたぐいの即興、この取り消し線、また、この脱構築は、鑑賞者がバスキアの絵に明らかに見出すものであり、そこに、ジャズ、そして、ジャズからの影響がはっきりと感じられるのです」


  

Horn Prayers


さらに、ビバップジャズ、ヒップホップ、アメリカの20世紀の主要なブラックミュージックの影響は、バスキアが自身のレコード・レーベルでプロデュースし、さらにリリースを手掛けた"RammeleeandK-Rob1983"から発売されたヒップホップシングル「Beat Bop」のカバアートにも表れているという。


ボイド氏は、取り消し線のついたテキストを、レコードでスクラッチするヒップホップDJのテクニックと同一視しており、この事について、以下のように説明しています。「ヒップホップというのは、基本的に、ほかの音楽を利用し、新しい音楽を作成するジャンルである。古いものが是非とも必要であり、それをリミックスという形で新しいものを作りなおす技法なのです。つまり、その手法をミシェル・バスキアは絵画の領域で表現しようとしていたのです」

 

Saba

Sabaは、ステージの前に詰めかけた1000人のファンのスマホ画面のまぶしさの中で、あたたかな思い出に圧倒されていた。27歳のラッパーは、先月、シカゴのアラゴン・ボールルームのステージでバンドのメンバーを紹介しながら、「あのとき、俺たちは16歳だった、図書館で」と叫び、10年後に地元でヘッドライナーを務めるきっかけとなった10代のスタジオセッションを回想したのだった。


2010年代初頭、Sabaは、シカゴのオープンマイクや図書館でラップの練習を重ね続け、最終的には祖母の家にセルフスタジオを建設した。

 

彼は、ウェストサイドの放置された地区オースティンから現れ、ボーン・サグス-N-ハーモニーや、同じウェストサイダーのクルーシャル・コンフリクトやトゥイスタの影響を受けた鮮やかな文章、感性豊かな文学性と舌鋒鋭いスタイルによって、才能あるシカゴの若いミュージシャンたち(リル・ダーク、ノネーム、ミック・ジェンキンス、チーフ・キーフ)の中で際立つ存在だった。


2018年、Sabaは、ピッチフォークのベスト・ニュー・ミュージック、コンプレックス、ビルボード、NPRの年末リストといったホットな評価を獲得し、従兄弟でコラボレーターのジョン・ウォルトへの追悼を描いたアルバム『ケア・フォー・ミー』のリリース後に観客動員数を伸ばした。パンデミック発生時には、Zoomコールで16小節を16分で書き上げるなどのクリエイティブな訓練により新しいサウンドを求め、「アンチCare For Me」と表現する新しい音楽に取り組み、その地味なトーンと自伝的ディテールによって定義されるのをあくまで拒否した。


2月にリリースされた最新アルバム『Few Good Things』では、サバは、自分の成功を愛する人と分かち合うことを祝福する一方で、若い黒人成人期に蓄積した責任や不安を認識している。例えば、いかにもシカゴドリルらしいトラック "Survivor's Guilt" で 、"I'm the one who paid my sister tuition, I should probably go to the meetings" と、ラップしているように・・・。One Way or Every N***a With a Budget "では、彼のカリフォルニアの新居がセキュリティのために一方通行になっていることのほろ苦さをラップで上手く表現しているのだ。


アルバムのジャケットには、祖父のカールが登場し、自身の母親がシカゴの家を購入した際のエピソードをナレーションで語っている。ライブの直前、エレベーターに乗り込み、親族に囲まれた個室へ向かいながら言う。

 

「正直なところ、チケットの半分は家族連れの客だろう。「従兄弟やおじいちゃん、おばあちゃん、みんなに会えるんだ」


Sabaのキャリアは、愛する人たちと一緒に権利を維持することで発展してきた。兄のジョセフ・チリアムズは、『Few Good Things』のほぼすべての曲を共同作曲しており、近所の友人たちによるラップグループ、自称「ボーイバンド」のPivot Gangの共同設立者でもある。メンバーChilliams、MFnMelo、Frsh Watersはツアー中、交代でSabaのオープニングを務めており、シカゴ公演では全員がステージに上がり、Pivotのポゼッション曲である "Soldier "を披露した。


Few Good Thingsのプロダクションは、ネオソウル、シカゴドリル、Pファンク、ポップなどのサウンドを取り込んでいるが、大半の曲はSabaがPivotの同胞であるDaoudとdaidaePIVOTと共に制作したものである。遠隔地での共同作業や10時間にも及ぶスタジオでの作業を経て、Sabaは彼らの仕事を心から信頼している。「プロデューサーと交わさなければならない多くの会話は、すでに長い間一緒に仕事をしているため、必要ないのです」と彼はあっけらかんに言いはなつ。


ステージでは、オースティンとディビジョンにあるルート91のバス停のレプリカに囲まれ、トレードマークの青と白のCTAの標識が置かれていた。このバス停は、彼が10代の頃、東のダウンタウンへ向かうためによく通った。「バックホームツアーにふさわしいと思ったし、その一部を持ち帰りたかったんだ」とSabaは言う。

 

「都市から都市へと演奏し、人々がそれを評価するのを見るのは本当に素晴らしいことだ」


サバは、シカゴで何度も演奏しており、フェスティバルのラインナップや、彼の従兄弟を記念して設立された地元の非営利団体のために毎年開催されるJohn Walt Dayのイベントの一部となっていることが多い。アラゴンでの公演は、「他の都市で見られるのと同じショーをすることができた」と、初めての機会であり、シカゴの住民に彼の個人的なビジョンを提示するものだったという。"地元シカゴの観客に受け入れられているのを実感できて、本当に嬉しかったよ!」


Pivot GangとR&BシンガーのtheMINDに加え、Sabaは、この上なく豪華なスペシャルゲストを呼び寄せてみせた。シカゴラップシーンの象徴である、チャンス・ザ・ラッパーは、鮮やかなピンクの3段帽子をかぶって登場。

 

2人は、チャンス・ザ・ラッパーの2013年の名作ミックステープ『Acid Rap』からのコラボレーションを初めて一緒に披露した。

 

「Everybody's Something "のレコードを演奏するのは特別なことだと思ったんだ、特に僕のアーティストとしての旅の大きな部分を占めているから」とサバ。「そうだ。多くの人が私のことを初めて知ったのは、この曲からだったんだ。ディラ系のルーズなビートに乗せ、街角の子供たちや警官のノルマについて語るこの詩は、最近の作品にぴったりで、観客はどの小節も一緒にフレンドリーに口ずさんでいたんだ」


インディペンデント・アーティストとして10年間成長してきたSabaは、自分も何か話したいと思っていた。

 

ライブステージの曲の合間に、「ヘイ、リル・ブロウなんて柄でもないからやめてくれないか!」と宣言した。Pivot Gangはとても謙虚な姿勢で、"ああ、彼らは自分たちの世界、自分たちのレーンにいるんだ "と思われているのさ」と彼は後で苦々しく説明した。「そして、それが、僕が公の場で言いたかったことだ。あなたたちがそれを受け入れるかどうかは別として、僕たちは、ここにいて、これをやっているんだ。これは僕らのホームタウン・ショーで、シカゴで、これはとても重要なことだ」


Back Homeのツアーが終了した後、Sabaは、シカゴのヒップホップ・アイコンであるNo I.D.とのミックステープ制作に既に取り掛かっており、また将来的にはJohn Walt Foundationへの寄付を計画しているとのことだが、これはまだ未定である。


Few Good Thingsのテーマ通り、Sabaは地元でのショーを最大限に活用し、歌のフックと節回しの詩でステージを支配し、10年前にKendrick Lamarがgood kid, maad cityをツアーしたように、自伝と都市史を融合させた。

 

Sabaは、今後も多くの素晴らしいステージをこなすと思われるが、アラゴンではシンプルかつストイックなステージに徹した。「これは私の人生の中で最高の瞬間だ」とだけ、彼は最後にシンプルに付け加えた。

 

 

  レディオヘッドのボーカルは、この年、旅客機の窓から見えるフランスの牧歌的な風景を無性に眺めていた。

 

彼は、しかしながら、ユーロスターの眼下に広がる羊や農場を見ていない、そこにあるものがたちどころにふっと消え、そのまま暗いトンネルに入り、深い深い海の底にいることを痛感している。不思議な感覚である。それでも、かつて『The Bends』というアルバムを書いた男、そして次の世界的なアルバムを書くであろう男にとって、これはとても重要なことでもあった。


ユーロスターに同乗したある音楽メディアの取材記者が、トム・ヨークに尋ねる。

 

「あなたは閉所恐怖症なのか?」

 

「そうだ」


さらにその後、沈黙を重ねた末に、彼はあっけらかんと「そうです」と答えた。実は、最近ますますそうなってきているんだ」。


数日間のツアーで、トム・ヨークが様々な恐怖症に悩まされていないときでさえ、彼はその閉所恐怖症の症状が一段と強烈であることを教えられた。ヨークは、まるで粉々になった小さな王子のような動きをしたかとおもえば、突然、爆発するような、切り詰めた笑い方をしていた。髪は短く、黒く、とげとげしい。ヨークの怠け眼は垂れ下がり、それは欠点であると同時に、彼の砕けた魅力でもある。子供の頃、よくそのことでからかわれたという。そのためか、時折、彼は、自分を傲慢な嫌な奴と勘違いする人がいるのが気になる。


時に、欠点は長所となり、このミュージシャンの強い強迫観念は反感を生み、恐怖は彼の音楽、ひいては、レディオヘッドの生み出す音楽にインスピレーションを与える。トム・ヨークは飛行機が嫌いで、もちろん車も大嫌いだから、電車にばかり乗っている。それがこのアーティストの日常的な習慣である。

 

ある日、記者が、不思議に思い、この男に尋ねる。

 

「なぜ、あなたは車の衝突をテーマにした曲をたくさん書いているのか?」


「それは、地球上で最も危険な交通手段のひとつである自動車で、住みたくもない家を出て、行きたくもない仕事に向かうために、人々はあまりにも早起きしていると思うからだ。僕は、それに全然慣れることができない」


もちろん、ミュージシャンという仕事柄、移動の多いヨークは、常に車に乗っていなければならない。レディオヘッドの最新シングル "Karma Police "のビデオを撮影するため、リモコン・ドライバー付きの車に乗り込んだこともある。そして、後部座席に座ってリップシンクをしていると、何かがまかり間違って、不意に、一酸化炭素のガスが車内に流れ込んできた。ヨークは恐怖を感じる。そして、気が遠くなるような感覚を覚えながら、"ああ、これが僕の人生だ... "と思う。


レディオヘッドは、現在活動している中で最もお堅い偏執狂的なアートロックバンドに数えられるかもしれない。でも、そのようなバンドであっても、彼らはかなり幸運な人たちだ。ヨーク、ベーシストのコリン・グリーンウッド、ギタリストのジョニー・グリーンウッドとエド・オブライエン、そしてドラマーのフィル・セルウェイからなるこのグループは、自分が無価値であることを歌った大ヒット曲でそのキャリアをスタートさせた。


特に、この曲がスラックロックのアンセムとなり、バンドが最後の恋人の名前のタトゥーを入れるように後悔するようなタイムリーなヒットとなった後、彼らは「クリープ」、そして、1992年のアルバム「Pablo Honey」が受け入れられるかどうかさえ確信が持てなかった。しかし、そのアルバムはグランジの最盛期の世代に、じわじわと熱烈なリスナーを惹きつけることに成功する。

 

1995年、彼らはより優れた、より奇妙な、セカンド・アルバム(The Bends)、ピンク・フロイドの最高級アルバム・カバーを思わせる、非常にクールなビデオの数々を制作したのである。前作のアルバムがピクシーズの後継者としてのオルタナティヴロックだと仮定すると、このアルバム「The Bends」は何かが前作とは違った。「Fake Plastic Tree」に代表されるように、後のレディオヘッドの内省的で、孤独で、繊細かつデリケートな音楽の素地がこの作品で完成されていた。ロック評論家たちがこぞって、Radioheadを褒め称えたのは、何も偶然ではなかったのだ。


2ndアルバムの異例のリアクションについてトム・ヨークは当時、話している。「音楽が人々にとってどのような意味を持つのか、私は驚きました」

 

「私たちは斬新なバンドから、NMEやMelody Makerの "Musicians wanted "欄で誰もが引用するバンドになった。”クリープ”のようなヒットの後では、バンドは普通、生き残れない。死んでしまうこともある。でも、そうはならなかった」。

 


そのあと、レディオヘッドは、1年半にわたって『The Bends』のツアーを行った。バンドの故郷であるオックスフォードに戻ったヨークには、新たな不安材料でいっぱいだった。彼はいつも自分の頭の中にある怖いものをよく知っていたが、国際的なツアーは、彼に全く新しいインスピレーションを与えるホブゴブリンの世界を授けてくれた。今、彼は、あらゆる種類の恐ろしいことについて歌を書かなければならないことを知っていた。家庭内暴力、政治家、車、ベーコン等。


だから、ヨークとレディオヘッドは、世界の醜悪さを題材にとった大掛かりなアルバム制作に取りくむ必要があった。ヨークは、ことさら騒いで、悩み、知り合いに迷惑をかけたが、最終的にそれらはすべておおきな価値があった。なぜなら、『OK Computer』は壮大かつ繊細で心にしみる深い情感にあふれるレコードだからだ。グリーンウッドの紡ぎ出す緻密なギターフレーズとフリークアウトしたノイズ、ビートルズ風のジョークが入ったポピュラーな曲、そして、実際に曲になるまでに何分もかかるナンバーに満ちており、謎に満ちている。この作品については何も説明されず、すべてが暗示の領域に留まっている。それはリスナーに想像力、喚起力をさずけるものである。「OK Computer」は恐怖とシニシズムに満ち、皮肉や自意識はない。どうやら、ヨークを快くさせるのは、かなり美しく、心から不気味なものを作るというアイデアだけのようだ。

 




  「OK Computerを聴くと、多くの人は、気分が悪くなると思う」と、当時、トム・ヨークは話している。「吐き気は、私たちが作ろうとしていたことの一部だった。The Bendsは、いわば慰めのレコードだった。でも、この作品は悲しかった。その理由がよくわからなかったんだ」

 

「嘔吐」、まさにサルトルのような得難い気味悪さ、そしてそ内省的な質感がこの作品には込められている。他のロックアルバムとは何かが決定的に違う。つまり、それが歴史に残るレコードでもある。何か聞き手に考えさせ、何かを働きかけ、受動的でなく、能動的に何かをさせるような自発的な主旨が込められている。またサウンドは古典的な響きがありながらも、コンピューターの黎明期のように未来的な響きが込められていた。いまだロボットが出現する以前の時代、人類はロボットに憧れていた。イエスやピンク・フロイドのような壮大なテーマを擁しながら、そこにはそれ以前のレコーディングで体現しえなかったコンピュータープログラミングの技術が明らかに取り入れられていた。あろうことか、Windows 98が登場する前の年に・・・。なぜそれが出来たのかは、彼らはジョブズの生み出したアップル・コンピューターのファンだったからだ。「OK Computer」はまさに、人類の未来への希望、そして、そのイノヴェーションの難しさを表したアルバムである。これはロック史における一つの「事件」だった。


アルバムはビルボードチャートで21位でデビューしたが、ヨークにとって幸運なことに、多くの人が「OK Computer」の意味を熱心に説明してくれた。Addicted to Noiseのオンラインの特派員は、OK Computerは、フィリップ・K・ディックの「V.A.L.I.S.」に基づいていると指摘したが、あいにく、ヨークはその本を読んでいなかった。他の批評家は、アルバムのタイトルと、奇妙なファーストシングルの「ParAnoid Android」のような曲に飛びつき、アルバムはレディオヘッドのテクノロジーに対する恐怖についてと決めつけたが、彼らはヨークとジョニーが、実は熱心な「Macファン」だということを知らない。トム・ヨーク自身は、「パラノイド・アンドロイド」はローマ帝国の滅亡をテーマにしていると主張する以外、あまり詳しい説明をしなかった。


バンドは、ロサンゼルスとニューヨークで行われたソールドアウトの話題のコンサートで、アルバムのほとんどの曲を披露した。


出席者は、リヴ・タイラー、マドンナ、マリリン・マンソン、コートニー・ラブ、R.E.M.のマイケル・スタイプとマイク・ミルズ、ビースティ・ボーイズのマイクD、謎の無名のスーパーモデル3人、そして、リアム・ギャラガーであったようだ。リアムギャラガーは、このページで、レディオヘッドは「ファッキング・スタンデント」、もっとわかりやすく言えば、大卒だと指摘する必要があると感じたようだ。少なくとも、それはほとんど真実だった。 

 


一方、バンドの長年のサポーターであるMTVは、「Paranoid Android」の不穏なアニメーション・ビデオをバズ・クリップに選出した。


6月、ヨークは "Street Spirit (Fade Out) "の監督ジョナサン・グレイザーとロンドンから3時間離れた人気のない道で会い、OKコンピュータのセカンドシングル "Karma Police" のオーウェル風の冷たいビデオを撮っている。9月下旬、"Karma Police "は音楽チャンネルでヘビーローテーションでデビューしたが、ビデオには、数年前にBeavis and Butt-headが大問題になったのと同じ「炎上」の要素があるという事実がある。つまりMTVにとって、レディオヘッドは法の上に立つ存在なのだ。真実はもっと奇妙だ。MTVの人たちは、Radioheadのビデオが好きなのだ。


MTVの音楽担当副社長ルイス・ラージェントは、「彼らのビデオはどれも魅力的だ」と説明する。

 

「レディオヘッドのビデオはどれも興味深いものだ。例えば、『The Bends』のなかの「Just」のビデオでは、男が死ぬシーンがありますが、そのような謎があるからこそ、何度でも見ることができるのです。けれども、Paranoid Android "は100回観ても、全部はわからないはずだ」


グレイザーは、「カルマポリス」が報復をテーマにしていると考えているが、それが重要かどうかはわからないという。「レディオヘッドはサブテキスト、アンダーバーについて全て知っている」と彼は言っています。「Thomは、私が映画について考えるのと同じように、音楽について考えているんだ、彼はそれが対話だと考えている。だからビデオで、彼はコーラスを歌っているんだ。


実際、レディオヘッドが、『OK Computer』をレコーディングしたとき、ヨークは、各曲を12種類の脳の内側からのルポルタージュのように聴かせようとしていたんだ。このレコードは、真実かもしれないフィクションの集まりです。それは、ここ数年のオルタナティヴ・ロックだけでなく、私たちの告白の文化全体からレディオヘッドを際立たせている要因のひとつだった」

 


「正直に言うと、私は、果てしない自己顕示欲に耐えられないんだ」とヨークは話している。「正直というのは、ある意味でたらめな性質なんだ。そうなんだ。これが、正直であり、これが正直だ。正直であることを公言するよりも、不正直であることに正直である方がより健全だろう?」


良くも悪くも、レディオヘッドは、ほとんどのギターバンドがまだハードコア・パンクやアメリカン・インディー・ロックの遺産に苦しんでいる時期に登場し、したがって、ほとんどのラップスターと同様に「リアルさ」を気にしていた。しかし、Radioheadは気取ることを恐れていない。彼らが壮大で広範なロック音楽を作るのは、彼らの曲が、例えば、Pavementのように素朴さがあり、Tortoiseのように前衛的に見えることがあっても、より確実にPink Floydの壮大なパラノイア、Queenのバロックの壮大さを思い起こさせることができると信じているからである。これらの上記のバンドのように、Radioheadは自分たちが空を飛べるような魔力を持っていると、本気で信じている。彼らは、ロックスターのように振る舞うには至っていなかったけれども、『OK Computer』は間違いなく、ロックスターのアルバム、ロック史の傑作である。

 

 


  バンドは1996年の夏、リンゴ小屋を改造したリハーサルスタジオでアルバムの最初の部分を録音し始めた。9月、レディオヘッドは、女優ジェーン・シーモアの邸宅、セント・キャサリンズ・コートを借り、すべての機材を運び込み、そこで、レコーディングを開始した。物事はうまくいった。


「天国と地獄だった」とトム・ヨークは言う。「最初の2週間は、基本的にアルバム全体をレコーディングしたんだ。地獄はそのあとだった。あの家は......」ヨークは、間を置いて、言った。

 

「圧迫感があった。最初は私たちに興味津々だった。それから、私たちに飽きた。そして、物事を難しくするようになった。スタジオのテープ・マシーンのスイッチを入れたり切ったり、巻き戻したりするようになったんだ」


「ああ、素晴らしい体験だったよ。それに、バースの郊外の谷間にあったんだ、人里離れたところにね。だから、音楽を止めても、そこには静寂が広がっていた。窓を開けても、何もない。鳥のさえずりさえ聞こえない、まったく不自然な静寂。すごく恐ろしかった。眠れなかったよ」。


レディオヘッドは、1997年2月に「OK Computer」のレコーディングとマスタリングを終了した。出来上がったレコードから少し距離を置いた後、彼らは再びマスターテープに接してみると、そのレコードの真の凄さに驚かされた。「11時間目に、自分たちが何をしたのか気づいたとき、自分たちがかなり反乱を起こすようなものを作ってしまったという事実に疑問を持った 」とヨークは認めている。


レコード・レーベル側のスタッフ、つまり、キャピトル・レコード の人たちも最初はトム・ヨークと同じように感じていた。

 

「OK Computer 」には、"Creep "はもちろん、シングルらしい音はひとつもなかったから。キャピトルの社長ゲーリー・ガーシュは、レディオヘッドについて聞かれると、こんなことまで言っている。「彼らが世界最大のバンドになるまで、我々は少しも、手を緩めるつもりはない 」と。


Radioheadのツアー最終日、バンドは、英国、ブライトンの海辺のアリーナで演奏を行っている。The Bends "のアンセム的なコードから "Karma Police "のエレガントな精神分裂症まで、繊細でスペイシーなサイケデリアと悲鳴にも似たギターが飛び交う瞬間の間、バンドは常にライブ毎に変化し続けた。より大きなモンスターロックバンドに変身していく階段を一つずつ登りつづけていた。トム・ヨークは、キュービズムのキリスト像のように両手を広げ、時折、観客に度重なるリクエストをしていた。「左右に動くのはやめてくれないか、人が倒れるから、これはサッカーの試合じゃない!!」、さらに、「クラウド・サーフィンもやめてくれ!!」


並み居るオーディエンスは、トム・ヨークのマイク越しの呼びかけに快く応えた。観客の多くは、メガネをかけた少年と少女だった。俗に言われる"Stoodents "達だ。図書館のかわいいカップルは、Radioheadがスローな曲を演奏するたびに抱き合っていたが、話しかけようとすると、彼らはただ緊張して堅苦しく笑うだけで、それほどうまく話すことができないことがわかった。


ライブショーの後、満月の下、ビーチに立ち、バックステージで出会ったレディオヘッドファンとともに、大西洋に石を投げながら、偶発的に笑っている人間がいた。実は、そのうちの一人がマイケル・スタイプであり、ブライトン公演は彼が先週観た3回目のレディオヘッドのライブだった。ある音楽メディアの記者は、彼を見つけるなり、声を掛けた。ライブはどうだったのか。マイケル・スタイプは最初、難しい表情をしていたが、やがてその表情を少しばかり緩めた。


「ええ。彼らは金曜日の夜、レディングで演奏したのです。バンドは金曜日にライブに負けるわけにはいかないのです」

 

「でも、今日の彼らは、本当に素晴らしかった。2年前、一緒にツアーをしたとき、彼らは毎晩のように”Creep”を演奏していた。でも、今、彼らはあの曲をファンから取り戻し、本当に美しいものに仕上げてくれた」


マイケル・スタイプが言っていたのは、コンコルドのような音がするギターを使ったあの曲のことである。レディオヘッドを、それほどパッとしない駆け出しのインディーバンドだと思わせた大ヒット曲である。もちろん、これはただの悪口ではない。そして、彼の言う通り、レディオヘッドは素晴らしいライブパフォーマンスを行った。トム・ヨークは、そのステージの合間に少しばかりアドリブも披露した。正確には、あのブライトンのライブステージにおいて、トム・ヨークは、コーラスの言葉を "I'm a weirdo" から "I'm a winner" に変更した。風変わりな人物から世界の勝者へ・・・。それは、この男の数年前からの本質、未来の姿を浮き彫りにするものだった。数年後、トム・ヨークは、世界的な勝者となり、強い影響力を持つようになった。

 

「OK Computer」は、多くのフォロワーを生み出すに至った。しかしいまだに彼らの高みに到達できたアーティストはいない。今後もこのアルバムの高みに到達できるミュージシャンは数少なく、それは、フランスの文学者アンドレ・ジッドのいう「狭き門」に入るようなものだ。限られた本当の芸術家だけが到達できる神々しい領域で生み出された神聖な雰囲気を持つ伝説的なアルバム「OK Computer」は、ヨーロッパの各国のアルバムチャートで1位を獲得したほか、複数のゴールド、プラチナムディスクの認定を受け、さらに、世界の音楽メディアの多くがこのアルバムに文句なしの満点評価を与えた。彼のもとには多くの名声が雨あられと降ってきた。

 

それでもなお妥当な評価が足りないといわんばかりに、「OK Computer」のセンセーショナルな騒ぎは終わらなかった。奇しくも、翌年は、「WINDOWS’98」が生み出される記念すべきコンピューターイヤー、あるいは、ITイノベーションの幕開けの年に当たった。世界が変わろうとしている時代、この数奇なアルバムはやがて、大きな社会現象のように新旧問わず幅広いリスナーに浸透し、「OK Computer」は、音楽的な価値にとどまらない、世紀の大傑作としての評価が一般的に確立されていった。それと同時に、レディオヘッドがミュージシャンとしてだけでなく、政治的な発言力を持つにいたり、英国内の最も著名なグループのひとつに引き上げられていった。

 

今、思い返せば、「OK Computer」は、何かしら熱に浮かされたような不思議な現象であったともいえる。しかし、人々はそれを明らかに望んでいた。リスナーが切望するものを、彼らは、リスナーにそのまま与えた。1997年の「OK Computer」の時代の後、レディオヘッドは、音楽を知らない人でさえ一度くらいはその名を耳にしたことがある、世界最大のモンスターロックバンドに上り詰めた。「OK Computer」がリリースされた1997年は、ロック史の転換期に当たり、また、世界的な転換期ともなった。彼らが巻き起こした凄まじいムーブメント、ビッグセンセーション。まさに、それは1990年代を通しての大きな「事件」でもあったのだ。



・「OK Computer」 Amazon Link


 ロンドンを拠点に活動する日本人の声楽アーティスト、ハチス・ノイトは新作アルバムのリリースを先日発表。


Photo: Özge C


今回、さらに、先行シングル「Angelus Novos」を公開しています。このタイトルは、ラテン語で「新しい天使」を意味し、ドイツの哲学者ヴァルター・ベンヤミンのエッセイ「天使」に登場する芸術家パウル・クレーのモノプリントから引用されています。ハチス・ノイトは、前作シングルに引き続き力強いボーカルが生かされたニューシングルについて以下のように説明しています。


この曲を書いた時、(ベンヤミンの著作に登場する)歴史の荒れ狂う風にさからって飛んでいる天使のイメージを思い出しました。それは個人的、及び社会的闘争の双方に関して非常に深い共鳴を覚えました。この曲を癒やしの空間として完結させたかったので、エンディングは親密であり内向的な雰囲気を重視しました。

 

ハチス・ノイトは、教会をはじめとする天上の高い空間性を利用し、天使のような声楽の表現を行うことで知られていますが、ここに彼女は喉音の低い音域をかぶせています。「歴史の荒い風に逆らって飛ぶ」かのような緊張感をこの独特な歌唱法によって体現し、「新たな天使」を表現していきます。やがて、胸郭を押し広げ、戦争の叫びにも似た何かを表現しようと試みる。

 

これらのノイトの声の表現は、美しく、また畏怖があり、さらに、強い説得力が込められています。ハチス・ノイトのオペラティックでなボーカルはすぐに明瞭となり、やがて、ボーカルのレイヤーを重ね合わすことにより、重厚な音響空間を生み出します。これらの重層的な声の組み合わせによって、ノイトは人間の生活における鮮やかな印象を聞き手の脳裏に喚起させていく。人生の無数の複雑におりなす綾により、私たちの足が地にしっかり繋がれていることを思い至らせる。

 

今回のシングルリリースに併せて、以前、教会内の建物の中で撮影を行ったライブ映像とは別の新たなMVが公開されています。AIの生成技術が取り入れられた革新的な映像であり、それは、視覚的な体験を押し広げる意味を持つ。斬新かつ前衛的なミュージックビデオを以下で御覧ください。

 



6月24日にErased Tapesからリリースされる新作アルバム「Aura」は先行予約が始まっています。

 

言葉で私達が感じる全てを説明することは出来ません。私達が生まれたばかりで、母親が私達を腕に抱き、頬に肌を感じている時に感じる感覚を表現するにはどうすればよいのでしょうか。

 

私達は、彼女の温かさ、温もり、愛情をはっきりと感じますが、それを完璧に言葉で表現するのは難しい。音楽は、その感覚、感情、愛の記憶を翻訳できる言語なのです。

 

                               ハチス・ノイト



ハチスノイト自身の声のみで制作された2014年のアルバム「Universal Quiet」では、 クラシカル、民俗音楽、ウィスパー、ポエトリー・リーディングなどを昇華し、独自の歌唱解釈を構築した歌手・音楽家ハチスノイト。その後、ロンドンに拠点を移した声楽家が新作アルバムをペンギン・カフェ・オーケストラ、ニルス・フラーム、キアスモスなどのリリースで知られるロンドンのインディペンデントレーベル”Erased Tapes”から、2022年6月24日にリリースします。


ハチスノイトは、この日本の十年の時代の流れを自身の声、そして、フィールドレコーディングによって訪ねる。それは2011年の東日本大震災からパンデミックまでの時代が一つの作品の中で声楽という形で表現されています。これは、日本や世界の十年の歴史を描いた声楽における貴重な証言とも言えます。

 

ハチスノイトが声楽に目覚めたのは、16歳のとき。ネパールにあるブッダの生誕地をさしてトレッキングを行っていた時、ある朝、尼寺に滞在していたハチスノイトは、お堂でお経を詠唱するある尼僧と出会いを果たす。その声の原始的な力強さに、ノイトは心打たれた。人類、自然、そして宇宙の本質に目覚めることにより、声楽の本質に思い至る。「声」は、人間にとって最古の直感的なものであり、そして、特別な楽器のひとつであると、彼女は気がついたのです。


アルバムのタイトル曲「Aura」では、彼女の生まれ故郷の北海道・知床の森で道に迷った際の心象風景を垣間見ることが出来ます。「日が暮れていく森の中、自分の死がとても近いところにあるような気がしました。自分が一個人であるというよりかは、自然の中に溶け込んで、それと一体になっていくような。そこで見出した畏怖と安らぎの感覚は、私の音楽制作の原点となりました」

 

新作アルバムは、長い時間をかけ、制作が行われています。この中で唯一、彼女の声以外の音が使用された「Inori」では、福島の原発から、わずか1キロという近距離にある海辺でフィールドレコーディングされた海の音を聴くことが出来ます。福島の帰還困難区域が解除された時、死者の追悼式に招待されたハチスノイトが、地元の人に故郷に戻れるように、と切実な祈りを込めて捧げられたものです。これは、2011年の震災時、津波で失われた命に捧げられたものであり、また、その声は、同時に、福島の地元の人達が故郷に持つ多くの美しい思い出に捧げられたものでもあります。

 

アルバムタイトル「Aura」は、御存知、ドイツの哲学者、ヴォルター・ベンヤミンの著作に触発され名付けられています。 パンデミックのロックダウンをハチスノイトは、日本ではなく、ロンドンで体験しました。彼女は、ライブにおいて、実際に、観客とひとつの空間を共にすること、ライブで起きる一度きりの体験の貴重さを痛感したと言います。パンデミックは、ハチスノイトに内面を見つめ直す契機を与え、人生の喜びと豊かさを思い起こさせるきっかけを与えたのです。

 

その後、ドイツ・ベルリンのスタジオで行われたレコーディングで、彼女はわずか8時間で全てのボーカル録音を終えています。その後、ロックダウンに入り、地元のイーストロンドンでミックス作業を行うことになった。

 

「パンデミックの間、私は、本当に苦労をしました。歌手として、私は、コンピューターでの作業があまり得意ではありません。私は物理的な空間でライブパフォーマンスを行うほうがずっと好きです。人と一緒に居て、同じ空間を共有し、その瞬間のエネルギーを感じことは、毎回、私にインスピレーションを与えてくれます。私にとってアートとは、その共有された瞬間です」

 

さらに、このパンデミックの経験は、ハチスノイトに、より深い内省的な感慨を与えました。しかし、反面、その重圧によって新作アルバム「Aura」で生み出されたのは、世界で起きていることに対する救済、さらに、人生の喜びと豊かさをもたらすという能動的な表現でした。

 

制作には、新たなコラボレーターとして、アイスランドのビョーク、M.I.A、さらに、FKA Twigsなどの作品のエンジニアを務めたマルタ・サロニが招かれています。地元のイーストロンドンの小さな教会に、レコーディングされた音源を持ち込み、建築が持つ反響音(リバーヴ)を含めて再録音をおこなう「リアンビング」という斬新な手法が導入されたことにより、デジタル形式のサウンドエフェクトでは得難い、豊かな響きを感じさせるアルバムが生み出されました。


「プロデューサーのロバートがこのアイディアを思いついた時」と、ハチスノイトは述べています。「まるで、奇跡のようでした。オーガニックな空間の反響により、すべての音にあざやかな命が吹き込まれたのです」

 

チケットがソールドアウトとなったサウスロンドンバンクセンターでのロンドン・コンテンポラリー・オーケストラとの共演、ミラノ・ファッション・ウィークでのパフォーマンスや、ヨーロッパ各地でのフェスティヴァル出演、 そして、ハチスノイト自身が敬愛するデヴィッド・リンチ監督に招かれて出演したマンチェスター国際フェスティヴァルのライブなどをはじめ、ヨーロッパを中心に精力的に活動するハチスノイト。近年、The Bugとのコラボレートを行い、ヨンシー&アレックスへのコーラス、ルボニール・メルニクの作品にも参加する、大いに注目すべきアーティストです。



Hatis Noit 「Aura」

 


 

Label:Erased Tapes

Release:6/24 2022

 

Tracklist

 

1.Aura

2.Thar

3.Himbrimi

4.A Caso

5.Jomon

6.Angelus Novos

6.Inori

7.Sir Etak



Hatis Noitの「Aura」の詳細につきましては、Erased Tapesの公式ホームページをご覧ください。


https://www.erasedtapes.com/release/eratp152-hatis-noit-aura

 

 


ドイツの”Leiter-verlag”は、ニルス・フラームの最初期のレコーディングを収録した「Electric Piano」「Strichefisch」「Durton」のリリースを昨日発表しました。これらの作品に収録されている曲の多くは何年もの間、入手困難であったのもの、リリースすらされておらず、ストリーミングサービスにも登場したことがない楽曲が収録されている文字通り「幻の音源」となります。


「Electric Piano」は、2008年にダウンロード版としてリリースされた8曲が収録、さらに「Strichefisch」には、2005年の最初のプレス以来初めてとなるビニール盤としてのリリース、さらに三作目の「Durton」は2006年のデジタルバージョンのみでリリースされていた「My First EP」収録の楽曲とそれ以前に録音された幻の5曲の音源を新たに組み合わせています。

 

 

「当時、私達が南ベルリンで使用していたスタジオは、どちらかといえばあまり意に介することもないような小さなリハーサル室とも呼ぶべき場所でした」と、Leiter-verlagを主宰するニルス・フラームはある時代について回想しています。これは、おそらく、ニルス・フラームが若い時代に、ドイツハンブルグの郵便局で勤務していた直後の時代、また、プロミュージシャンとしての地位を確立する以前の、駆け出しの時代について語られたきわめて貴重な証言となります。

 

私は、今でもよく、「Electric Piano」の最初の着想が出来上がりつつあった、ある夜のことを思い出すことがあるんです。その小さなリハーサル室には、いたる場所に安い掃除用品が乱雑に転がっており、部屋には自然光が全く差し込まず、また、じめじめと湿気ていて、また、少し悪臭が漂っていました。朝の四時のことだったと思います」と、フラームは回想しています。「5時に最初のベースラインのアイディアを家に持ち帰ったんです。新しいアイディアが出てきたおかげで、すこぶる気分の良い一日でした。しかし、私は家にかえって、最初に制作されたそのベースラインをもう一度聴いて見た時、それがそれほど良いものとは思えず、また、その曲についての自信も持てなくなってきたので、それほど広汎なリリースを行わなかった経緯があるんです。

 

また、この回想について、Leiterのスタッフは、このアーティストの自作に対する懐疑心があまりに強すぎたと説明しています。しかし、その自作品に向けられる厳しい眼差しと批評性こそがニルス・フラームというアーティストの芸術性、及び、創造性を今日まで成長させ続けたのも事実でしょう。

 

おそらく、ニルス・フラームの当時の判断は、不必要で懐疑的なものでした。彼の判断は、謂わば、リハーサル室の化学物質の煙によって曇らされていたのです。このアルバム「Electric Piano」は、彼の将来への明確な道標を指し示しており、7つの繊細かつ優雅な構成を特徴としています。「今、私は、この作品の魅力を再発見したのです」と、ニルス・フラームは最初期の作品について肯定的に捉え直しています。現在の彼の音楽性の盤石さが、過去の作品をより前向きに解釈しなおす機会を与えたのです。

 

 

今回、リリースされる運びとなった三枚のアルバムについては、これまで熱心で長年のファンにしか知られていないフラームの最初期の作品の時代を垣間見ることが出来ます。彼は、2011年の「Felt」翌年の「Screw」でミュージシャンとしての最初の成功を手にしました。両作のどちらも、フラームが若い時代から学んでいたソロピアノでの演奏を特徴としています。しかし、楽器の経験は、彼の初期のレコーディングキャリアにそれほど大きな役割を及ぼしませんでした。

 

「私は最初の着想を捉えたとしても、それを大きな形で膨らませていくことが出来なかったんです」と、フラームは厳しい批評を最初期の自己に与えています。「例えば、バンドで友だちと遊んだりするときには、キーボードやフェンダーローズといった複数の種類の楽器を使うと、アイディアを膨らすことは容易くなります。そして、当時のピアノの演奏については、私にとって多くの学びの機会を与えた一方で、なんだかそれらの楽器のように遊びで演奏するという気があまり起こらなかったんです」

 

その代わりに、19歳の頃のフラームは、彼の友人のFredric Gmeiner(Nonkeenで演奏している)と共に演奏を始めました。ニルス・フラームが幼少期を過ごしたドイツ・ハンブルグの自宅にある仮設スタジオで音楽を作れるように、ラップトップをセットアップしようと試みたのです。(ニルス・フラームの父親は、ECM Recordsの専属カメラマンとして古い時代から活躍している)

 

To  Rococo Rot,Murcof,Mouse On Marsのような20世紀後半の作品に大きな触発を受けたニルス・フラームは、その後、クラシックではなく、自宅にある仮説のスタジオで、長い期間にわたって、エレクトロニックの制作に没頭しました。特に、この時代、イギリスのプロデューサーであるマシュー・ハーバートの出会いに、ニルス・フラームは深い感銘を受けたようです。

 

「彼が、実際に生きているのを見た時、私は、正直、大きな驚きを覚えました」フラームは回想する。

 

「コンピューターやサンプラーについて、当時、私は、ほとんど知識をもっていなかったため、彼は、私に薫陶を与え、より良くしたいと思ったことでしょう。これらの作品はすべて基本的に、私が新しい可能性を追求し、音楽的な実験を行った形跡のようなものと言えます」 



モダンクラシカルとしての最初のキャリアを築き上げたEP「Wintermusik」がリリースされるはるか以前のこと、2002年から2005年にかけて録音され、友人であるArne Romerが設立したレーベル”Atelier Musik”から最初にリリースされた「Durton」と「Streichefisch」は、ニルス・フラームがより、幅広い2013年の「Space」に向けての音楽性の指針を築き上げた画期的な作品となりました。それにもかかわらず、フラームは、他の共同制作者から多くの理解を得られることはありませんでした。彼の作品は、あまりにも時代の先を行き過ぎていたのです。

 

「ハーバートという人物が、私に対してこんなふうにいったことがあります」とニルス・フラームは、当時のことを苦々しく回想しています。

 

「フラーム。君は、上手くサンプリングすることは出来ない、また、君は、プリセットされた音色を使いこなすことが出来ないんだ」そんなふうに辛辣に言われてしまったため、長らく、私は、それらの音楽上の実験を試みることは出来なかったんです」


 

ご存知のように、今では、フラームほどサンプリングやプリセットを巧みに駆使するアーティストを見出すのはそれほど容易なことではありません。彼は「screws」をはじめとする作品で先鋭的なエレクトロニックの独自の作風をうみだしているのです。



しかし、難作として生み出された上記の作品とはきわめて対照的に、「Electric Piano」は、ニルス・フラームがハンブルグからベルリンに移住した直後のたった一夜で制作され、即興演奏、インプロヴァイゼーションが行われた伝説的な作品です。それは、自信を失いかけていたフラームが再び、制作エンジニアのレーマーの励ましによって、自信を取り戻し、最初のミュージシャンとしての一歩を踏み出させ、さらに、ハンブルグからベルリンへの移住によって、なんらかの重苦しい呪縛から解き放たれたかのように、キーボードの演奏、及び、プリセットの音色も独力で自在に使いこなしていることを、「Electric Piano」の作品全体を通じて多くのリスナーは発見することになるでしょう。


「Electric Piano」と他の2つの初期作品「Durton」と「Streichefisch」は、現在、LPおよびCDの2つの形式で購入することが可能です。さらに、すべてのプラットフォームで再生出来ます。

 

 

 Molly Lewis


 かなり古い時代の話になってしまいますが、1920年代のニューヨークのブロードウェイミュージカルには、口ぶえを使って演奏するウィルトラー音楽というのが存在していましたが、いつしかその口ぶえの音楽は、エンリコ・モリコーネ、そしてマカロニ・ウエスタンの始祖、アレッサンドロ・アレッサンドローニの時代を最後に忘れ去られてしまったようです。

 

 そんな古い時代のノワールサウンドに再び明るい光を投げかけようとしている現代の音楽家がいます。それがオーストラリア出身のモリー・ルイスです。若い時代をオーストラリアで過ごし、1920年代のブロードウェイミュージカルのサウンドトラックを幼少期に父親から与えられたことが、モリー・ルイスに音楽への深い興味を与えました。幼い時代から、モリー・ルイスは何時間でも口ぶえを吹いているのを彼女の父親は慈しみの眼差しを持って見守っていました。

 

 その後、モリー・ルイスは、両親と妹と共に家族そろってアメリカに移住し、映画産業に近づくため、ロサンゼルスで映画芸術について学び、その後、ハリウッドに定住。その後、モリー・ルイスは、口ぶえ、ウィストラー演奏家として活動をはじめます。

 

 ニューヨークのガレージロックバンド、ヤー・ヤー・ヤーズ、ロサンゼルスのマック・デマルコ、そして、ヒップホッパーのDr.Dreのライブにウィストラー奏者として出演することにより、これらのアーティストと親交を深めるかたわら、ウィストラー奏者としての多くのミュージシャンから認められるようになります。近年、モリー・ルイスは度々、カフェ・モリーというユニークなイベントをゼブロン、ナチュラルヒストリーミュージアムで開催。このイベントには、マック・デマルコ、John C Riley、カレン・Oがゲストとしてサプライズ出演し、大きな話題を呼んでいます。

 

 ウィストラー奏者としての最初にモリー・ルイスの名を浸透させたのが、2005年のドキュメンタリー「Picker Up」という番組でした。この番組において、モリー・ルイスは素晴らしい口笛の演奏を披露するとともに、ルイスバーグ国際ウィストラーコンクールが紹介され、一躍モリー・ルイスは世界的に希少なウィストラー演奏家として知られるようになる。

 

 また、モリー・ルイスは、国際コンクールにおいて優勝経験があり、2015年、ロサンゼルスで開催されたマスターズ・オブ・ホイッスルコンクールのライブバンド伴奏部門で受賞を果たしています。その後、2021年に、米インディアナ州のインディーレーベル、JaguJaguwarとの契約に署名し、EP「The Fogotten Edge」をリリースして、初めてソロアーティストとしてのデビューを飾っています。

 

 

 モリー・ルイスは、自身の口ぶえの演奏を「人間のテルミン」と言うニュアンスで話していらっしゃいますが、ウィストラーという表現、現代としては忘れされてしまった演奏技術において、 口笛を吹くことの意義について、以下のように語っています。

 

なぜ口笛を私が吹くのかといえば、それはコミュニケーションをするということに尽きるでしょう。その他にも、私にとって口ぶえを吹くということは、創造すること、身振りをすることと同じようなものです。つまり、悲しみと喜びという2つの原初的な感情を最もよく表現するのにぴったりなのがこの口笛という楽器なんです。 


 

 インタビュー中にも、相槌や言葉の代わりに口ぶえを、朗らかに、たおやかに吹くモリー・ルイス。彼女にとって、口ぶえというのは、ごく一般の人々が言語の伝達表現をするのに等しい役割を持っています。そして、年々、言葉ばかりが現代の人間は発達し、言葉の持つ意義、そして、ニュアンスが先鋭的になっていくように感じられますけれども、必ずしもそうであるべきではないんだということを諭されるようです。モリー・ルイスの音楽は、直截的な言語だけが、必ずしも人間の伝達の手段ではない。その他にも、様々な感情表現がある、ということを私達に教唆してくれているのかもしれません。

 

 

 

 

Molly Lewis

 

 

 

 

 

 

 「The Fogotten Edge」 EP jagujaguwar 2021 

 


 Molly Lewis「The Fogotten Edge」

 


Tracklisting

 

1.Oceanic Feeling

2.Island Spell

3.Balcony for Two

4.The Fogotten Edge

5.Satin Curtains

6.Wind's Lament

 

 

 Listen on 「The Fogotten Edge」:

 

https://songwhip.com/mollylewis2/the-forgotten-edge

 

 

 今年7月にアメリカのインディーレーベル"Jagujaguwar"と契約してリリースされたシングル「Fogotten Edge」。作品中のサウンドに漂うノスタルジア、そして、口笛の持つこれまでに見いだされなかった魅力を伸びやかに表現した作品として、一躍各方面のメディアで注目を浴び、ザ・ガーディアン、ニューヨーク・タイムズをはじめ著名なメディアによりこの作品は紹介されています。この最初のミニアルバム「The Fogotten Edge」ロサンゼルスのハリウッド近くに住むモリールイスが、そのノワール的な雰囲気の一角に因んでアルバムタイトルが名付けられたようです。

 

 既に、モリールイスが話している通り、この最初の作品に収録されている、口笛、サックス、オーケストラヒット、シロフォンといった珍しい楽器を取り入れた複数の楽曲は、もちろん、言うまでもなく、古い時代のフィルム・ノワールサウンドをモダンエイジに復刻させようという意図で生み出されており、それはルイス自身のエンリコ・モリコーネやアレッサンドロ・アレッサンドローニの映画音楽に対する深い敬愛に満ちています。ハリウッドで映画製作を専門に学んだ人間だからこそ生み出せる内奥まで理解の及んだ映画音楽の表現は、映画を愛する人はもちろんですが、そして、そういった往古の映画音楽を知らぬ現代の人にも大きな安らぎを与えてくれるでしょう。

 

 この作品において、モリー・ルイスの紡ぎ出す口笛の表現というのは一貫して伸びやかであり、ほのかな清々しさによって彩られています。そして、なんといってもデビュー作ではありながら、綿密に世界観が確立された作品といえるでしょう。アルバム全体を通して紡がれていくのはノワール的な世界。それはまったく、現代とは切り離されたような時間概念を聞き手にもたらし、その中に浸らさせてくれることでしょう。ここで表現されているノワールの世界、それはなんとも聞く人に、陶然としたノスタルジア、哀愁、古い時代へのロマンを喚起させる。それはモリー・ルイスの映画にたいする深い愛情、慈しみの眼差しがほんのりとした温かみをもって注がれているからでしょう。

 

 口笛、ウィストラー、という忘れ去られたかのように思える人間の感情表現、そして、フィルム・ノワールというもうひとつの忘れ去られた表現、この2つの表現を芸術の要素を交え、2020年代において復権を告げようとする画期的な作品といえそうです。まだ一作目のリリースではありながら、異質な才覚を感じさせるデビュー作品です。





「Ocean Feelings」 Single  jagujaguwar  2021 

 

 

Molly Lewis 「Oceanic Feeling」  

 

 

Tracklisting

 

1.Oceanic Feeling

 

 こちらはEP「The Fogotten Edge」に先駆けて発表されたシングル作。この楽曲はアルバムにも収録されています。そして、最初のモリー・ルイスのリリースともなったデビューシングル。リリースされるまもなく、複数の海外のメディアが取り上げたという点ではEPと変わりはないでしょう。

 

 この最初の作品で既にモリー・ルイスは独自のモリコーネサウンドを完全に確立しており、全くブレることのないフィルム・ノワールの世界観を再現させています。この音楽を聴いて唸るしかなかったのは、これほど強固な世界観を音楽として完成させるというのがどれほど大変なことなのか痛感しているからです。

 

 もちろん、このデビュー作でのモリー・ルイスの口ぶえの芸術表現というのは、彼女の話している通りで、オーケストラ楽器、テルミンのような独特な響きを持ち、聞き手を陶然とした境地に導いてくれるはず。

 

 そして、その口ぶえの音は、子供のような伸びのびとした表現でありながら、そこには深い幻想的なロマンチズムの説得性が込められている点にも着目したいところです。