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2010年代半ばに南アフリカで誕生したAmapianoは、現在、ヨーロッパでも注目されるようになった。最近では、BBCでも特集が組まれたほどです。この音楽は、南アフリカのDJ文化の中で育まれ、10年代の変わり目にブームを巻き起こし、音楽業界を席巻し、この国で最も速いスピードでジャンルが確立された。多くの愛されるジャンルからインスパイアされたスタイルを持ちながら、全く新しい現象を生み出しているアマピアノは、この3年間ですっかり世界で有名になったのです。


一説では、このAmapianoというジャンルは、2012年頃に初めて生まれ、南アフリカの北東部にあるハウテン州のタウンシップで、最初にブームになったのだそう。しかし、現在のところ、アマピアノの正確な誕生地については、さまざまなタウンシップが主張しているため、まだまだ議論の余地がありそうです。少なくとも、ヨハネスブルグの東に位置する町、カトレホン、ソウェト、アレクサンドラ、ヴォスロラスといった場所でサウンドが流通し、アマピアノは独自の発展を遂げていきました。Amapianoに見られる、Bacardi music(「Atteridgevilleの故DJ Spokoが創設したハウス、クワイト、エレクトロニックの要素を吹き込んだハウス・ミュージックのサブジャンル」)の要素は、この面白いジャンルがプレトリア(南アフリカ共和国ハウテン州北西部のツワネ市都市圏にある地区)で生まれた可能性を示唆するものとなるでしょう。


もうひとつ原点が曖昧なのは、その名前の由来です。”Amapiano”は、イシズールー語、イシクソサ語、イシンデベレ語で「ピアノ」を意味するという。このジャンルの初期のピアノ/オルガンのソロやリックに直接インスパイアされた名前だという説もあるようです。Amapianoは、ディープハウス、ジャズ、ラウンジミュージックをミックスしたものと言え、初期のサウンドに大きな影響を与えました。シンセ、エアリーなパッド、そして、「ログドラム」として有名なワイドなパーカッシブベースラインが特徴です。このベースラインは、このジャンルを際立たせ、Amapianoの真髄とも言えるサウンドを生み出すのに欠かせない特徴の一つです。このログドラムというスタイルを最初に生み出した人物は、TRPこと、MDUというアーティストです。


Kabza De Small

 

「正直、何が起こったのかわからないんだ」このジャンルのパイオニアであるKabza De Smallは、「彼がどうやってログドラムを作ったのかわからない」とコメントしている。「アマピアノの音楽は昔からあったが、ログドラムの音を考え出したのは彼だ。この子たちは実験が好きなんだ。いつも新しいプラグインをチェックしてる。だから、Mduがそれを理解したとき、彼はそれを実行に移したんだよ」


このジャンルはすぐにメインストリームになった。2017年と2018年頃、アマピアノはハウテン州の州境の外でも人気を博すようになる。その頃、南アフリカらしいもうひとつのジャンル、iGqomが最盛期を迎えていた。iGqomは、Amapianoと同時期にクワズールー・ナタール州のダーバンで生まれ、2014年から2017/18年にかけて一気に全国的に知名度が上がった。その後、アマピアノはiGqomを追い越して国内の音楽シーンのメインストリームに上り詰めた。


アマピアノは、2020年代、そして、ミレニアル世代とZ世代の若い若者のカルチャーを定義する著名なジャンルとなった。南アフリカにおけるダンスミュージックの人気は、常に若い世代に与える影響によって測られてきた。80年代のバブルガム・ミュージックから、バブルガム/タウンシップ・ポップ、クワイト、バカルディ、ソウル、アフロハウスなど、サブジャンルはメインストリームに入り込み、一度に何十年も支配してきた。


「アマピアノは、南アフリカの若者の表現であり、逃避行である。アマピアノは、南アフリカの若者たちの表現であり、逃避行だ。若者たちが日常的に経験している苦労や楽しみを表現している」と、アマピアノで有名なDJ/プロデューサーデュオ、Major League DJzは語っています。「音楽、ダンス、スタイルは、彼らが南アフリカの若者の純粋なエッセンスを見る人に見せるための方法でもあるのさ」


Major League DJs


Major League DJsは、このジャンルの成功と国際的な普及に貢献した第一人者として数えられる。2020年のパンデミック時に流行した彼らの人気曲「Balcony Mix」は、Youtubeで数百万回再生され、Amapianoに海外市場を開拓した。今年、彼らは、(Nickelodeon Kids Choice Awards 2022)ニコロデオン・キッズ・チョイス・アワード2022にノミネートされたことで話題を呼んだ。


そしてもうひとつ、アマピアノというジャンルを語る上では、DJストーキーの存在を抜きにしては語れない。彼は、ミックステープやDJセットを通じて、この音楽を広めたDJの一人として知られています。さらに、Kabza De Small、DJ Maphorisa、Njelicなど、多くのDJがこのジャンルを国内で成長させ、アメリカやヨーロッパで国際的なライブを行い、そのサウンドを国外に普及させることに大きな貢献を果たしてきたのだった。

 

その後、アマピアノのオリジナルサウンドとは対照的に、このジャンルのメインストリームでは、不可欠な要素となっているボーカルを取り入れるようになりました。結果、このジャンルには新しいタイプのボーカリストが誕生し、その歌声を生かした楽曲がスマッシュヒットとなった。Samthing Soweto、Sha Sha、Daliwonga、Boohle、Sir Trillなど、多くのシンガーが公共電波に乗ったヴォーカリストとして認知され、着実にキャリアを積みあげていったのです。


このジャンルのもう一つの重要な要素はダンスです。ダンスは、南アフリカのカルチャーやナイトライフの大きな部分を占めています。iGqomのibheng、Kwaitoのisipantsulaのように、Amapianoの曲は曲よりも大きなダンスを生み出し、ソーシャルメディアのプラットフォームで挑戦することもある。


Amapiano is a lifestyle(アマピアノはライフスタイル)」というフレーズは、若者への影響を説明するのに役立っている。アマピアノのライフスタイルは、さまざまなスタイルと影響を融合したものです。


南アフリカのポップ・カルチャーの現状は、ヒップホップ・ファッションとハウスミュージックの文化が混在しており、Amapianoは、おそらくその中間点に位置しています。Amapianoは、多くの流動性を含み、常に進化し、各アーティストが新しいものを取り入れながら、日々、進化しつづけているため、一つの方法でこれというように表現することは難しいようです。今後、またこのジャンルから新たな派生ジャンルが生まれるかも知れません。この10年はまだ初期段階にあり、今後2〜3年の間にアマピアノがどこまで進化するかはまだわかりません。しかし、このジャンルは、生活やメディアの範囲を変え、いつまでも衰退する気配がないようです。

 




 

このレコードショップ「Other Music」をよく知る The NationalのMatt Berninger(マシュー・バーニンガー)は、アメリカ、メキシコ、カナダ、南アフリカ、日本でも公開されるこのドキュメンタリー映画「Other Music」の中で、「私はレコードショップのキュレーターが好きだ」と語っている。

 

"全てを調べ上げ、小さな"カード"に100の言葉を書き、それが陳列棚に貼り付けられたままであることを入念に確認する情熱的な人たち"と彼はこのレコードショップの店員を手放しで賞賛している。1995年から2016年まで営業していたニューヨークの名物レコードショップ、『アザー・ミュージック』におけるそれらの小さなカードにまつわる記憶は、多くのことを意味していた。ザ・ナショナルのマシュー・バーニンガーは、"マーキュリー・ラウンジでの最初のライヴや、レコードショップ、アザー・ミュージックで初めてカードをもらったとき、「俺のバンドは本物だ」という感じだった "と、感慨深く回想しているのだ。


2016年春、レコードショップ、Other Musicが長い歴史を経て、6月25日に閉店することを正式に発表したとき、それはニューヨークのひとつの時代の終わりを告げるものだった。映像作家のPuloma BasuとRobert Hatch-Millerは、この店の最後の週を映像ドキュメンタリーとして克明に記録していた。

 

ニューヨークきっての名物レコード店の閉店。それから、約4年が経過し、遂にドキュメンタリーフィルム「Other Music」が世界のスクリーンで上映されることになった。

 

このドキュメンタリーは、レコードショップの文化、NYCの過ぎ去った時代、特に、W.4thストリートの小店舗へのささやかなラブレターになっている。デペッシュ・モードのマーティン・ゴアは、「1平方メートルあたり、私が行ったことのある世界中のどのレコード店よりも興味深い価値があっただろう」と感慨深く語っている。


『Other Music』には、ニューヨークにゆかりのあるバンド、ミュージシャンが数多く参加している。

 

Le TigreのJD Samson、James Chance、InterpolのDaniel Kessler、Yeah Yeah YeahsのBrian Chase、Vampire WeekendのEzra Koenig、Magnetic FieldsのStephin Merritt、TV on the RadioのTunde Adebimpe、MogwaiのStuart Braithwaite、Dean Wareham(Galaxie500/Luna)、そして、俳優Jason SchwartzmanとBenicio Del Toroをはじめ、このドキュメンタリーフィルムの中で、多数のアーティストがインタビューを受けている。

 

しかし、映像の多くは、オーナーのクリス・ヴァンダールーやジョシュ・マデル、そして、何年も店に残った多くの店員たち、スタッフに賛辞がわりとして捧げられている。およそ21年の歴史の中で、アザーミュージックで過ごした人なら、一度は「そうそう、あの人だ!」と言うかも知れない。


そのスタッフの中には、アニマル・コレクティヴのノア・レノックス(パンダ・ベア)とデヴィッド・ポートナー(エイヴィー・テア)のように、自分たちのグループが有名になる以前の駆け出しだった頃この店で働き、例えば、アンチポップ・コンソーティアムのビーンズは、自分の好きな音楽を客に押し付けることをためらわなかったという。

 

「お客さんが何に夢中になっていると言っても、"新しいアンティポップ・コンソーティアムをチェックしたかい?"と言うんだ」とジョッシュ・マデルは、回想している。インターポールやヴァンパイア・ウィークエンドは、契約する前にこの店で初期のEPを販売していた。その中でも最も注目すべきは、ウィリアム・バシンスキーが挙げられるだろう。彼は、9.11に触発された『The Disintegration Loops』が、その成功の多くをOther Musicに負っていることを語っている。


この映画は、ヴァンダールー、マデル、ジェフ・ギブソンの3人がブリーカーのキムズ・アンダーグラウンドで働いていたとき、自分たちの店を開くことを決意し、ニューヨーク最大のレコード店の1つであるタワーレコードの向かいに、アザーミュージックをオープンする(これは結果的に彼らの素晴らしい行動だった)、9月11日とその直後に起こったニューヨークのロックルネッサンス、そして、この店が短期間で参入したMP3とストリーミング・サービス時代、さらに、それが結局閉店への大きな一歩となるまで、店の歴史全体を追っていくという内容である。映画のクライマックスは、レコード店の営業最終日と、オノ・ヨーコ、ヨ・ラ・テンゴ、ビル・キャラハンなどが出演する「Other Music Forever」コンサートのためにバワリー・ボールルームへ向かう祝賀「セカンドライン」パレード(マタナ・ロバーツ、ジェイミー・ブランチ、アダム・シャッツなど)を取り上げている。


「アザー・ミュージック」のドキュメンタリーは、本来ならば、2020年のレコード・ストア・デイ(4/18)のタイミングに合わせて公開される予定だったが、コロナウィルスの影響でRSDが6月20日に延期され、映画館が軒並み閉店してしまったため、4月17日から20日まで短期間のデジタルリリースとなり、レンタル料の売り上げはコロナウィルスの流行で財政難にある世界中の地元の独立系レコード店に寄付されたという。


「アザー・ミュージック」のドキュメンタリー・フィルムの予告編は下記よりお楽しみください。


日本では、9月10日からイメージフォーラムほかで放映され、その後、全国で順次公開されます。日本人としては、現地のレーベルにゆかりを持つ小山田圭吾、坂本慎太郎らが出演しています。詳細はこちらからどうぞ。


   

Jean-Michel Basquiat 

 

1960年に、ブルックリンで生まれたジャン・ミシェル・バスキアは、思春期をニューヨークとプエルトリコの間で過ごした。

 

1970年半ば、ニューヨークに戻ったミシェル・バスキアは、当時、ニューヨークの地下鉄を中心に栄華をきわめていたグラフィティアーティストの最初期の運動に加わっていました。彼は、このとき、グラフィティ・アーティストのアルディアスと運命的な出会いを果たし、ほかのタグ付を行っていたアーティストに混じり、二人は、SAMOと名を冠してコラボレーションを始めた。

 

ミシェル・バスキアは、ストリートアートのスタイルにこだわった芸術家である。ニューヨークの個展で作品を公にする前に、キースヘリング、マドンナ、デビー・ハリーなどのアーティストが名をはせたニューヨークのダウンタウンの熱狂的なクラブシーンに参加していた。1980年、ミシェル・バスキアの作品は、ダウンタウンのアートシーンを正当化するものとみなされ、タイムズスクエアショーで最初に公のものとなった。

 

画家バスキアの名がメインストリームに押し上げられる以前、LAのブロード博物館の創設者は、この画家のことを知っていたといいます。彼らは、ニューヨークを訪問した際に、バスキアとコンタクトを取ろうとし、彼のスタジオに出向き、後にバスキアをロサンゼルスに招きいれた張本人でもある。

 

1980年代は、アメリカの文化、ヒップホップ文化、黒人文化の観点から非常に興味深い時期にあたると、南カルフォルニア大学の元DJ兼映画メディアを専門とするトッド・ボイド教授は話しています。「1980年は、ホイットニー・ヒューストン、マイケル・ジョーダン、エディー・マーフィーらの黒人の芸能人がスーパースターになった。変革の十年であった」と指摘している。また、ボイド氏によれば、ミシェル・バスキアは、上記のスーパースターと同レベルの水準にあった存在であるという。「バスキアの芸術について話すことは大事なことですが、それは彼の芸術と彼の芸術における全体的な文化的な影響について話すこととは別のことです」

 

 

ボイド氏は、1983年にバスキアがプロデュースしたランメルジー、K−ロップのヒップホップシングル「ビートバップ」、そして彼の絵画作品である「ホーンプレーヤー」を、ヒップホップとビバップとして知られる即興スタイルのジャズ(フリージャズ)との関連性が見いだされる点であるとしています。 

 

「ホーン・プレーヤーズ」は、ミシェル・バスキアのヒーローであるチャーリー「ザバード」パーカーとディジーガレスピーを題材として描かれていて、これらは、第二次世界大戦後に人気を博した音楽ジャンル「ビバップ」の先駆者の二人であると、ボイド氏は指摘しているのです。一見、バスキアとビバップにはさほど関連性はないと思われますが、これはどういうことなのでしょう?

 

無題 頭蓋骨
 

 「ビバップとヒップホップの間には円滑な線を描くことが出来ます」と、ボイド氏は指摘します。「ミシェル・バスキアは、実際にはこれら2つの世界を緊密ににつないでいるんです。1980年代のアーティストの出現は、ヒップホップ文化の広がりと呼応するものでした。MTVに登場した初期のラップミュージックビデオ「Rapture」という曲のブロンディのミュージックビデオにバスキアは出演しているのです」

 

 

さらに、バスキアは、まず間違いなく、自分の芸術と、ビバップ時代の音楽の台頭に自己投影をしていた、とボイド氏は指摘しています。「ビバップのミュージシャンはスタンダードからの逸脱を意味していました。彼らは芸術として自分たちの音楽を真剣に受け止められることを期待していた人々です。ビバップのミュージシャンは、エンターテイナーであるという概念をはなから拒絶しているのです」、さらに、ボイド氏は、かのバスキアも前の時代のビバップシーンのミュージシャンたちと同じような苦境に陥ったと指摘している。「たとえば、バスキアの芸術の初期の常連が、絵画を家具の色彩と一致させたという逸話が残っている。ミシェル・バスキアの「不快な自由」1982年の作品では「非売品」という文字が大文字で書かれており、さらに、バスキアという芸術家が真剣に受け止められ、みずからのアートを単なる商品として見られないことを望んでいた」のだという。それをバスキアは、絵画の中の大文字のフォントに込めていたというのである。

 

「Horn Players」では、両方のアーティストの名前(グラフィティの専門用語ではタグと呼ばれる)が取り消され、線付きのテキストで描かれている。ボイド氏はこれを、ビバップジャズミュージシャンが有名なジャズ・スタンダードを認識できないように方法と比較検討を行っている。「ビバップミュージシャンは」と、ボイド氏はさらに説明しています。「しばしばアメリカの伝統的な歌集を踏襲しつつ、そこから脱構築しようと試みていた。このたぐいの即興、この取り消し線、また、この脱構築は、鑑賞者がバスキアの絵に明らかに見出すものであり、そこに、ジャズ、そして、ジャズからの影響がはっきりと感じられるのです」


  

Horn Prayers


さらに、ビバップジャズ、ヒップホップ、アメリカの20世紀の主要なブラックミュージックの影響は、バスキアが自身のレコード・レーベルでプロデュースし、さらにリリースを手掛けた"RammeleeandK-Rob1983"から発売されたヒップホップシングル「Beat Bop」のカバアートにも表れているという。


ボイド氏は、取り消し線のついたテキストを、レコードでスクラッチするヒップホップDJのテクニックと同一視しており、この事について、以下のように説明しています。「ヒップホップというのは、基本的に、ほかの音楽を利用し、新しい音楽を作成するジャンルである。古いものが是非とも必要であり、それをリミックスという形で新しいものを作りなおす技法なのです。つまり、その手法をミシェル・バスキアは絵画の領域で表現しようとしていたのです」

 

 

音楽は、常に、芸術的な優雅さが欠かせないのと同じく、常に、物理学、数学的思考がなければならない。

 

そして、この考えに非常に近い考えを持っていたのが、世に傑出した相対性理論を証明したかのアルベルト・アインシュタイン氏です。アインシュタインは、これまで歴史上多くのパイオニアにインスピレーションを与えてきましたが、彼自身の概念的思考の発展において、音楽というのは、非常に特別な役割を果たしていました。その生涯において、ヴァイオリン、ピアノ、更に、晩年、エレキギターを演奏していたともいわれるアインシュタインの音楽へのたゆまざる愛情は、単なる物好きなどでなくて、彼の世界観や宇宙観を形成する永続的な情熱だったのです。


幼い頃から音楽に親しんでいたアルベルト・アインシュタインは、「もし、科学に人生を捧げていなかったら、音楽家になりたかった」と後に語っています。「もし、物理学者でなかったら、おそらく音楽家になっていただろう。私は、よく音楽の中で考える。白昼夢も音楽で見ている。私は自分の人生を音楽の観点から見ています...私は人生のほとんどの喜びを音楽から得ているのです」


アルベルトの母親パウリーネ・コッホは、音楽家であり、幼い時代の彼に音楽の勉強をするように促しましたが、5歳の時、将来のノーベル賞受賞者は動じなかったそうです。13歳の時、モーツァルトのヴァイオリン・ソナタに出会い、独学でヴァイオリンを弾くようになり、音楽に目覚めたのでした。


アルベルト・アインシュタインは生前、モーツァルトへの深い愛着を持ち続けていたが、ベートーベンの曲は演奏が得意だったにもかかわらず、それほど感動することはなかったという。高校時代、アインシュタインは、実際にベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタを演奏し、試験官から「この少年は音楽に対する情熱が素晴らしく、その演奏に洞察力がある」と称賛された。


アインシュタインは、モーツァルトに加え、バッハの熱狂的な大ファンとして知られていて、「2つのヴァイオリンのための協奏曲」をよく演奏していました。アルベルト・アインシュタインがヴァイオリンの才能に恵まれていたことをご存じの方は多いはずですが、2番目の妻エルザは、物理学者と恋に落ちたのは、彼の弾くモーツァルトの演奏が崇高だったからだと明かしています。


また、アルベルト・アインシュタインは、モーツァルト、バッハの他に、ヴィヴァルディ、シューベルト、スカルラッティ、アルカンジェロ・コレッリなどをはじめとするドイツ、オーストリア、イタリアの古典派やロマン派の作曲家を好んで演奏していた。

 

しかし、彼は、リヒャルト・ワーグナーを倦厭しており、以下のような有名な言葉を遺している。「言うまでもなく、リヒャルト・ワーグナーの創意工夫には感心しますが、彼の建築的構造の欠如はほとんど退廃的としか思えません。さらに、「私にとって、ワーグナーの音楽的性格は、何とも言えず不快なものであり、ほとんどの場合、嫌悪感を持ってしか聴くことができません」と述べています。しかし、これらの問題には、ドイツ生まれのユダヤ人としてのアインシュタインの民族性における音楽的志向、つまり、ワーグナーとナチの密接な関係が少なからず潜んでいるように思えます。


相対性理論、重力波といった難解な理論的テーマ、それを解き明かすためのアルベルトの長期間にわたる物理学的構想は、彼の音楽的構造への深い理解に左右されているとさえ主張する専門学者も中にはいます。たとえ、そのような主張が突飛なものであったと仮定するにしても、彼が仕事のプロセスに音楽を取り入れ、しばしば音楽を通して障害を乗り越えていたことは間違いありません。


アルベルト・アインシュタインは、相対性理論を証明した最初の科学者としても知られていますが、その点の功績を取り上げられると、彼は、生前、「誰よりも長く、一つの問題に集中して取り組んできただけである」と説明しています。しかしながら、その間には、様々な難問をくぐりぬけねばならなかったはずであり、彼はこの問題解決へのアプローチと独自の作業プロセスについて一家言もっており、生前、次のように語っています。「しかし、即興ーインプロヴァイゼーションで、何かを成し遂げようとしているとき、セバスティアン・バッハの明快な構成力が是非とも必要になるのです」以上のアルベルトの言葉は、セバスティアン・バッハのインヴェンション、平均律、イギリス、フランス組曲といったピアノ曲の構造性、マタイ受難曲を始めとする論理的な構造をなす、長大な宗教曲や交響曲が、いかに彼の物理的思考に強いインピレーションを与え、さらに、重力波や相対性理論といった人類の難問を解き明かすための大きな助力となっていたのか伺えるのです。


ご存知の通り、アルベルト・アインシュタインは、原子爆弾の開発に携わった人物ではあるものの、それ以外にも他の人物にはなしえない物理学、数学に大きなイノヴェーションもたらした偉人でもある。モーツアルトやバッハといった上記のような先見の明のある人たちの作品を通して、それらの構造的な音楽の内奥に長きにわたり接することにより、その物理学的な構造の中にある核心のようなものを捉え、さらには、未知の領域に踏み出すための適切なインスピレーションを得、まったく驚くべきことに、宇宙に関する我々の理論を180°変えてしまった。つまり、未来における物理の常識を覆してしまった。かれは、最も有名な「相対性理論」の中で、光の伝達する速度について、難解な数式を介して解き明かしてみせた偉大な人物でもありますが、しかしまた、音楽の関係性を通じて、科学と芸術の融合の想像を絶する進歩、前例のない創造的な発見をもたらすことを証明したわけです。もちろん、以上のエピソードから、もし、アルベルトが生涯にわたり、バッハやモーツアルトの音楽に深い親しみを覚えていなかったら、と最後につけくわえておかなければなりません。数々の偉大な物理学の証明もなければ、数々の発明品もこの世に生まれでることはなかったはずなのです。

 

 

1.マンチェスターの狂乱の時代

 

1980年代から1990年代初頭にかけて、英国の音楽シーンは、マンチェスターを中心に形成された。古くは、産業革命の時代から工業生産を旗印に経済的な発展を遂げたマンチェスターに主要なミュージックシーン、若者たちの文化が新しく育まれた。

 

このマンチェスターのミュージックシーンは、別名「Madchester」ともいわれ、1980年代の花開き、若者たちの地下パーティー、ドラックなどを介して、ダンスロックムーブメントが英国内に浸透していった。 時代は決して明るくなかった。当時のマンチェスターの若者たちはブラックマンデーという経済的に暗い時代を生きていた。

 

「鉄の女」の異名をとる新資本主義を掲げて政権運営を行ったマーガレット・サッチャー政権下での不況、あるいは、英国内の失業率の上昇という社会背景において、「音楽」という得難い何かに当時の英国内の若者たちは慰みを見出そうとしていた。それは日本の平成時代の先行きの不安という概念に囚われた日本の若者と重なるものがある。1980年代、大きな旋風を起こした「Madchester」は、イギリス国内の大学でも研究対象となっている文化のひとつであるけれども、決して健康的な文化というようには言いがたい。これは何かしら、熱に浮かされたような狂乱的なムーブメントであり、NYの1970年代のVUやThe Fugsといったバンドに象徴されるような退廃的な雰囲気を持つ文化のひとつでもあった。

 

これらのマッドチェスター・シーンの中から、ハッピー・マンデーズ、インスパイラル・カーペッツ、ナチスの喜び組の名にちなむジョイ・デイヴィジョン、さらには、ストーン・ローゼズといったUKのロックシーンでも際立ったロックバンドが輩出された。上記のバンドは、ザ・スミスも同じように、真夜中の闇の中を漂うかのようなアンニュイさを音楽性の特徴としていた。これらのサウンドは、どういった他の芸術形式よりも、深く現実性に根ざしており、若者たちの生活の真実を色濃く反映していた。

 

もちろん、この流れを引き継いで、オアシス、ヴァーヴ、ブラー、レディオ・ヘッドが登場する。後の時代には、アークティック・モンキーズ、カサビアンらが、登場の機会を伺っていた。これらのメインストリームの合間を縫い、アンダーグラウンドシーンでは、トリッキー、ポーティスヘッドをはじめとする暗鬱なトリップ・ホップ、「ブリストルサウンド」が生み出されたのだ。

 

これらのロックバンドは、 特に前の時代のビートルズ、Led Zeppelinといった偉大なロックバンド、その後のクラッシュやオリジナル世代のポスト・パンクが出てきた後、ロックという音楽が完全に行き詰まりを見せていた時代に、クラブミュージックのサウンドを新たにロックに取り入れることにより、1980年代から1990年代初頭にかけて新時代を象徴する音楽を生み出してみせた。それはもちろん、のちのオアシスを始めとするブリット・ポップに引き継がれていった。

 

最初のマンチェスターサウンドは、スペインのイビサ島における真夜中のクラブパーティーの文化をマンチェスターに持ち帰った地元のDJたちが、フロアでクールな音楽をかけ、それが若者たちにもクラブ文化として浸透していき、さらに、マンチェスターの若者たちは、それを既存のロックミュージックと融合させたというのが通説となっている。いってみれば、ロック音楽が行き詰まりを見せていた時代、ダンス・ミュージックとロックの融合をはかることにより、英国のロック音楽は新たな息吹を吹き込まれたのだ。現在の、英国内の主要なロック音楽、ポピュラー音楽にとって欠かさざる点であり、それは一種のイギリスらしい音楽文化として引き継がれているようにも思える。これらの文化は若者たちの生活に退廃性をもたらすと同時に、カルチャーを生み出す基盤となった。当時の社会背景を知るのに最適なのが「24 Hours Party Peole」という2002年の映画である。このドキュメンタリーの要素が込められた映画には、ハッピー・マンデーズやジョイ・デイヴィジョンがストーリー中に登場する。


これらのマンチェスターのミュージックシーンは、少なくとも、その最初期においては、地元のクラブから始まった。そして、そのクラブ文化の浸透、さらには後発のダンスロックと呼ばれるムーブメントを後押ししたのがマンチェスターのインディペンデントレーベルの「Factory Record」であった。

 

 

2.トニー・ウィルソン、パンクロックを引き継いだ新時代の音楽

 

 

1980年代のマンチェスターサウンドを最初に形づくり、それを英国全土に浸透させた先駆者はほぼ間違いなくファクトリーレコードの主宰者のトニー・ウィルソンだ。 サルフォードで生まれで、ケンブリッジ大学で教育を受けた後、インディペンデントレコード「Factory Records」をマンチェスターに設立する。 

 

トニー・ウィルソン (中央)

 

一説によると、ウィルソンは、大学で学んだ後、他の卒業生のようにエリートコースを歩まず、自分の惚れ込んだ音楽を紹介したり、それをある種の文化として広めていくことに喜びを見出していたという。 

 

1970年代から、トニー・ウィルソンは、最初期からパンク・ロックムーブメントを擁護した数少ない支持者であり、英国内のカルチャーを紹介するテレビ番組「So It Goes」の司会役を務めていた。このテレビ番組内で、BBCのラジオパーソナリティー、ジョン・ピールのような役割を果たし、ザ・クラッシュ、スージー&バンシーズ、バズコックスといったロンドンパンク、ニューウェイヴシーンの代表的なバンドを世に紹介し、彼らをメインストリームに送り出していった。

 

トニー・ウィルソンは誰よりもパンクロックの魅力について知悉していた人物だ。1979年6月4日、彼は伝説的なパンクロックショーに参加していた。ハワード・デイヴォート、そして後にバズコックスを結成するピート・シェリーが主催したロンドンのレッサーフリートレードホールの伝説的なコンサートに居合わせ、最初のパンクロックムーブメントの熱狂を間近で見届けていた。 

  

この日のショーには、地元の駆け出しのパンクロックバンド、The Sex Pistolsが出演していた。この日のロンドンのショーは、わずか40人程度の動員であったにもかかわらず、のちの1970年代にかけての、ロンドンパンクムーヴメントの先駆けとなった重要な分岐点となったライブとして、ポピュラー音楽の歴史に今も印象深く刻みこまれている。つまり、この日のショーの価値は、そこに居合わせた人数でなくて、誰がそこで何をやっていたのかに象徴されていたのだ。

 

セックス・ピストルズ、バズコックスの後の世界的な活躍は言わずもがなで、さらに、この日のライブのPAを務めていたマーティン・ハネットは、後に、ハッピー・マンデーズを結成し、さらにストーン・ローゼズの独特なサウンドを生み出した人物だ。

 

マーティン・ハネット (右)


さらに、このライブには、イアン・カーティス、バーナード、ピーターの三人が参加している。すでに多くの方がご存知の通り、彼らは、Joy Divisionを結成し、イアンの死後、ニュー・オーダーを結成し、UKエレクトロ・サウンドを完成へと導いた。

 

きわめつけは、将来のマンチェスター、英国内の最も有名なミュージシャンとなるスミス・スティーヴン・モリッシー、The Fallを結成するマーク・E・スミスも、この日のライブに居合わせていた。つまり、この日のロンドンのレッサーフリートレードホールライブショーには、後の10年における英国のミュージックシーンを担う人物が一同に会していたのである。

 

 

3.Factory Recordsの発足 イベントからの発展

 

その後、これがマンチェスター郊外のモスサイドにあるラッセルクラブで開催されたイベント、ファクトリーナイトの始まりにつながった。

 

トニー・ウィルソン、地元の俳優であるアラン・エラズマス、プロモーターのアラン・ワイズが上演し、夜には、ドゥルッティ・コラム、ジョイ・デイヴィジョン、キャバレー・ヴォルテール、ティラー・ボーイズなどのバンドにように、ライブパフォーマンスが行われるようになった。

 

最初のイベントのポスターは、ファクトリーが作製した全カタログ番号を提供する、というレーベルポリシーに従い、その後、「FAC」としてカタログ化される。彼は、ポスターを届けピーター・サヴィルによってデザインされた。

 

Fac Dance 2: Factory Records 12inch Mixes & Rarities 1980-1987

 

イベントの開催に伴い、ファクトリー・レコードは、レーベルとしての役割を担うようになる。 トニー・ウィルソン、アラン・エラズマス、ジョイ・デイヴィジョンのマネージャー、ロブ・グレットン、プロデューサーのマーティン・ハネットにより設立されたファクトリーレコードの最初のリリースは、主催するイベントに出演したアーティストの曲のコレクションであった。

 

しかし、その後、ファクトリーがレコード会社としての運営に問題を抱えたのは、アーティストとの正式な契約を交わさなかったことによる。 レーベルが作製した唯一の法的な文書は、彼らが一緒に仕事をしたアーティストが、彼らの音楽、芸術的な方向性に対する所有権を持っていることを示す声明だけであった。

 

 

4.ジョイ・ディビジョン その後のマンチェスターシーンに与えた強い影響 


これらの最初のファクトリーイベントから出発し、1980年代以降のマンチェスターサウンドを最初に定義づけたのは、イアン・カーティスを擁するジョイ・デイヴィジョンにほかならない。

 

当時から、イアン・カーティスは市役所に勤務しながら、ロックアーティストとしての歩みを始めた。だが、ライブやレコーディングにおける過労の連続が、彼の生涯に、また、その後のマンチェスターの音楽に仄暗い影を引いたことは事実である。このバンドは、最初のファクトリーレコードの代名詞のような存在、そして、のちのマンチェスターサウンドの最初の立役者となった。彼らは、1979年4月にストックポートのストロベリースタジオで、デビュー・アルバム「Unknown Pleatures」のレコーディングを開始する。  

 

Joy Division 「Unknown Pleasures」1979

 

ジョイ・デイヴィジョンの無機質なサウンドを生み出したのが、最初のファクトリーのイベントにPAを担当していたマーティン・ハネットであった。彼は、このお世辞にも演奏が上手くなかったバンドの演奏力を鍛えた人物でもあり、彼の狂気はファクトリー伝説の一貫の語り草になっている。レコーディング中、ドラムキットは解体され、スタジオの屋上で組み立てなおされた。さらに、イアン・カーティスは、ヴォーカルトラックを、マイクではなく、電話回線で録音をおこなった。

 

そして、「Unknown Pleasure」は、ドイツのクラウト・ロックの影響があってのことか、金属的なSEの音が組み込まれている。これらの独特な金属音は、建物地下にあるトイレで捉えられたボトルの音をSEとして、ハーネットが録音したものだ。このデビューアルバムのインダストリアルな音楽性は、アート・リンゼイ、ブライアン・イーノの「NO New York」に触発された可能性もある。「Unknown Pleasures」のレコーディングが行われたのは、このアルバムのリリースされた一年後のことだ。もちろん、上記のことは憶測に過ぎないと言い添えてておきたいが、少なくとも、後にストーン・ローゼズのサウンドの生みの親であるハーネットが志向したのは、既存のロンドン・パンクの流れに決別を告げる新時代のマンチェスターサウンド、テクノやハウス、そういった電子音楽と以前のパンクを融合したものであったことはたしかである。

 

「Unknown Pleasures」は、少なくとも、前進のワルシャワ時代から、地元のローファイなパンクバンドでしかなかったジョイ・デイヴィジョンのUKの音楽シーンにおける地位を決定づけた。のみならず、その後の10年間のマンチェスターサウンドを予見した歴史的傑作といえるだろう。パンクロックに強い影響をうけたハーネットのエンジニアとしてのすぐれた技術は、70年代後半のマンチェスターの若者たちの生活を反映した無機質で暗鬱な音楽を生み出した。

 

「Unknown Pleasures」はリリース後の2週間で、元のプレス量の半数の10,000枚を売げた。ところが、さらに、10,000枚を追加生産するのに6ヶ月要したため、ファンへの供給が間に合わず、UKチャートで大成功をおさめられなかった。翌年、二枚目のアルバム「Closer」が、多くの英国内のレコードショップに並ぶ頃、既にフロントマンのイアン・カーティスは公務員とミュージシャンという二重生活によるプレッシャー、彼自身の癲癇の持病による苦悩の末に、この世を去っていた。もちろん、その後、残りのメンバーはかのニュー・オーダーを結成する。

 

Joy Division 「Closer」 1980

 

ジョイ・デイヴィジョンのその後のマンチェスターの音楽シーンに与えた影響は計り知れないものがある。彼らは、79年から80年代初頭にかけて、ニューウェイヴの道を切り開いた。彼らの二番目の最後のアルバムとなった「Closer」は、UKチャートの6位を獲得し、大きな知名度を得ることになった。

 

その後、数十年にもわたり、ジョイ・デイヴィジョンの曲は、数え切れない再発盤がリリースされ、マンチェスター、UKのポピュラー音楽の記念碑的な分岐点を形作ったとみなされている。これほどまで革新的であり、ま後に強い影響を及ぼしたロックバンドは類を見ないといっても過言ではあるまい。

 

 

4.イアン・カーティスの「Ceremony」の遺産   ニューオーダーの結成 


当初のところ、イアン・カーティスという重要な天才的なヴォーカリスト、フロントマンを失ったJoy Divisionの他のメンバーは、バンドを続ける意向はなかったという。それはやはりイアン・カーティスの代役をつとめられる人物は世界にひとりもいないからである。それでも、ファンからの再結成へのラブコールもあったはずで、そういった次の音楽への期待をバーナード・サムナーをはじめとする残りのメンバーは裏切ることは出来なかった。

 

New Order 「Movement」 1981

 

 

ほどなく、ヴォーカリストを探していたジョイ・デイヴィジョンは、ギタリストだったバーナード・サムナーが歌うことによって新生した。彼らは、New Orderとして新たな船出をすることを告げ、UKのミュージックシーンでひときわ強い存在感を見せる。 イアン・カーティスとともに最後に録音された遺産「Ceremony」を1stシングルとしてリリース、ミュージックシーンに鮮烈な印象を残した。さらに1980年7月、キーボード、ギターとして、ジリアン・ギルバートがニュー・オーダーに参加、その後、デビュー・アルバム「Movement」をリリース。 これはまさにファンが待望していた、ジョイ・デイヴィジョンのまだ見ぬ夢の続きのような意味を持っていた。

 

New Orderがジョイ・デイヴィジョンの影から完全に脱却を試みたのは「Blue Monday」からあった。彼らは、ポスト・パンクの代名詞的なサウンドから抜け出て、マンチェスターサウンドの下地を作った。この12インチシングルは、バンドがよく聴いていたイタリアのディスコ音楽のクラブミュージックに触発されたものだ。

 

「Blue Monday」のジャケットアートワークを手掛けたPeter Savilleのデザインは複雑であったので製作コストがかさみ、この12インチレコードの販売元のFactory Recordsはレコードをコピーするために赤字を計上した。「Blue Monday」は、ファクトリーレコード発足史上、最も売れたアルバムとなった。続いて、1983年の「Power Corrupution and Lies」は、UKチャートで四位を記録し、ついに、後のUKミュージックシーンでの確固たる地位を築き上げた。  

 

 

New Order 「Blue Monday」

 

 

5.ハシエンダとマッドチェスター  アシッド・ハウスの席巻


彼らの成功が何につながったのか言及せずに、ニュー・オーダーについて語り尽くすことは許されまい。FAC51(別名ハシエンダ)と呼ばれるクラブの扉は、1982年5月に開かれた。ロブ・グレットンの発案のマンチェスターのクラブは、ファクトリー・レコード、ニュー・オーダーによって共同で資金提供され開店した。当初、このクラブの経営に携わっていたマーティン・ハネットは、運営の費用が450,000という額に上ると知った時、(ファクトリーレコードのレコーディング予算から差し引かれた)まもなく、ファクトリーレーベルと決別した。 
 
 
ハシエンダ(The Haçienda)では、The Smith,The Stone Roses,Madonnaなどのビックアーティストのライブアクトを主催したにもかかわらず、フロアが満員になることは少なく、当時としては平均的なクラブに過ぎなかったという。ところが、この状況は、1986年に新しい音楽、アシッド・ハウスのムーヴメントがマンチェスターを席巻したときガラリと一変した。
 
 
アシッド・ハウスは、旧来のクラブミュージックとは異なるサウンドである。Roland808,303ドラムマシンにより、反復的なリズムとベースラインを生み出したのが画期的だ。ダンスフロアを見下ろすブースから、クラブ全体を制御できる。こういったハシエンダ特有のシステムにより、デイブ・ハスラム、ボビー・ラングレー、マイク・ピカリングといった、多くの並み居るDJが、この新しい音楽シーンを盛り上げていった。そして、これらのハシエンダの最初期のDJたちは、スペインのイビサ島のパーティー文化をマンチェスターに取り入れた人物たちであり、この最初のアシッド・ハウスシーンが、それに続くレイヴミュージックへと受け継がれていった。
 
 
ハシエンダの当時の場内の様子 Machester Historian

 
 

その後、マンチェスターには、レイヴカルチャーが到来する。80年代後半から90年代初頭にかけて「Madchester」シーンが隆盛をきわめる。しかし、これらの音楽シーンの立役者であったハシエンダは、その後、シーンを崩壊させた張本人でもある。その後のレイヴ・カルチャーは、常にドラッグと深いかかわりを持っていた。このクラブで開催されていた狂乱的なパーティー(イビサに触発されたパーティー)には、ドラッグ問題が根深くかかわリ治安が悪化、誰もがドリンクを注文しなかったため、長期的なクラブの経営としては大損益へつながった。
 
 
1990年代に入って、マッドチェスター時代が終わりを告げる。オアシス、ブラーが先陣を切ってUKロックシーンの色を塗り替えてみせたからである。マッドチェスターからブリット・ポップの時代に移り変わるにつれ、麻薬犯罪が蔓延し、街からクラブへ、それらが持ち込まれたため、ハシエンダは店舗内の治安の維持が困難になった。経営面においても、ハシエンダはむつかしい局面に立たされていた。その結果、1997年6月に、マンチェスターサウンドの立役者、クラブ・ハシエンダは閉店となった。建物は後に、2002年にマンションに変わっているという。
 

 

6.ハッピー・マンデーズ もうひとつのマンチェスターサウンドの立役者

 

ニュー・オーダーと共にファクトリーレコードの栄光を築き上げた立役者として、忘れてはならないのが、ハッピー・マンデーズだ。
 
 
ハッピー・マンデーズは、1987年、デビュー・アルバム「Squirrel And G-Man 24 Hour Party People Plastic Face Carnt Smile(White Out)」を引っさげて、英国のミュージックシーンに華々しく登場した。
 
 
Happy Mondays「Squirrel And G-Man 24 Hour Party People Plastic Face Carnt Smile(White Out)」
 
 
その一年後、マーティン・ハネットがプロデューサーをつとめた「Bummed」をリリース、マッドチェスターシーンの主要な役割を担った。彼らのデビュー作は、2002年になって、ドキュメンタリー風映画「24 Hours People」の題材になっている。
 
 
ハッピー・マンデーズは、2ndアルバム以後、ファクトリーのメンバーでなくなり、レーベルのアーティストとして、数多くのアルバムを制作した。マンデーズの初期の録音セッションは、ドラッグを燃料としていたことは事実であり、これはドラッグの幻覚作用による産物ともいえる。さらに、プロデューサーのハネットにさえ、ドラッグが配布されていたというのだから驚きである。 彼は、この時代、ビートルズでいうジョン・スペクターのような役割を担っていたとも言える。
 

 
1989年の「Madchester Rave On EP」、さらに、三作目「Pill’n Thrills And Bellyaches」のリリースで、ハッピー・マンデーズは、ファクトリーレコードと共に世界の頂点に立った後、マンデーズはバルバドスに詰め込まれ、四枚目のアルバム 「・・・Yes Please」を制作した。 この島に滞在したのは、主に、ショーン・ライダーをヘロインから遠ざける意図があった。ここで、マンデーズの破天荒なエピソードがある。バンドは、ヘロインが利用できないため、 バンドは、クラック・コカインに夢中になり、ベズは、車をクラッシュさせたあとに腕を骨折した。当時は、これらのドラッグが高値で取引されており、マンデーズのメンバーは、家具、それどころか、スタジオ設備まで売り払ったというのだから、呆れてものがいえないわけである・・・。
 
 
Happy Mondays 「・・・yes Please」
 
 
彼らがUKに帰ると、ショーン・ライダーはマスターテープを人質にとり、ウィルソンに支払いを要求した。アルバムを聴いてみたトニー・ウィルソンは、ショーンがアルバムの歌を録音しておらず、どころか、歌詞を書いてさえいなかったことに気がついた。彼らのバルバトス島での努力は、こうして完全なる徒労に終わった。次のアルバムが完成してリリースされた1992年、マッドチェスター・シーンは既に終わりを迎えようとしていた。まさに、ハッピー・マンデーズは、マッドチェスターと共に始まり、マッドチェスターと運命をともにした儚さのあるバンドであった。
 
 
 

7.ファクトリー・レコードの終焉 


 
この期間、トニー・ウィルソンは、ファクトリーが驚くべき速さで資金を失っていることに気が付き、(ラフ・トレードとは異なり、彼らは、ニューオーダーを含むこのレーベルのほとんどのバンドのライセンス契約を正式に交わしていなかった)その後、ファクトリー・レコードは1992年11月22日に破産宣告をおこなった。マッドチェスターシーンが終了し、ブリット・ポップが始まった。それに伴い、ファクトリーレコードもミュージックシーン形成の役目を終えた。
 
 
レーベルとしての幕引きを迎えた後、ファクトリーレコードは文化施設として知られるようになった。
 
 
およそ14年のレーベル運営の後、何世代にもわたり、ファクトリーは数え切れないほどの伝説的な物語を残した。市民の純粋な誇りと音楽の信頼に基づいて運営され、音楽業界に革新をもたらし、その後のマンチェスターの音楽、ひいては、英国のポピュラー音楽に強い影響をおよぼした。
 
 
ファクトリー・レコードのレーベルオーナー、グラナダテレビ、また、BBCのジャーナリストとして活躍したトニー・ウィルソンは、2007年にマンチェスターで亡くなり、同地のサザン墓地に眠っている。彼は、生前、以下のように、神話的な暗喩を交えた言葉を遺していることを最後に付け加えておきたい。
 
 
「私は、一言だけ、後世に伝えておきたい。

 

ーイカロスー

 

もし、あなたが、それを人生で手にいれれば、もちろん、一番、素晴らしいことです。でも、たとえ、そうでなくても、また、それはそれで素晴らしいことなのです」
 
 

 

 

 今日では、音声を録音し、それを記録として残していくという方法はごく自然な技術となりました。現代では、私達は何らかの音声を、スマートフォンに内蔵されたマイクロフォンを通して簡単に録音出来るようになりましたが、もちろん、20世紀以前はそうではありませんでした。音声記録を何らかのデータとして残すためには、様々な発明者の科学に対する探求が必要だったことは確かなのです。

 

現代のレコードプレイヤー、ターンテーブルの歴史は19世紀の求められます。一般的に、レコードプレイヤーの前身ともいえる蓄音機を発明したのはかのエジソンというのが通説になっていますが、エジソンの以前に、音声記録を残した発明家がいたことを皆さんはご存でしょうか??

 

 

 

1.フォノグラフの発明、 エドワード・レオン・スコット

 

 

1857年に録音の過程を最初に実現したのは、フランスの発明家、エドワード・レオン・スコットでした。

 

フランスの印刷業者、発明家でもあるエドワード・レオン・スコット 彼は、エジソンよりも前に蓄音機の原型を発明している

 

このシステムは、「フォノトグラフ」と称され、人間の聴覚の解剖的な知見から生み出されたものでした。

 

そして、これはマイクロフォンの原型を形作ったとも言える画期的な発明でした。ホーンを用いて音を収集し、スタイラスに取り付けられた弾性膜を通過させるというのがこのフォノトグラフの仕組みでした。

 

 


フォノトグラフ


 

この初歩的な装置は、音波を何らかの用紙にエッチングすることにより、音を記録することを可能にしました。もちろん、ここに、現在のビニールレコードのような針をディスクの上に落とし、記録された音声を再生するというシステムの原型が見いだされることにお気づきでしょうか。でも、このフォノトグラフには一つ難点がありました。音波を視覚化することが出来ず、記録された音を取り出す、つまり、再生装置としての効果を生み出すことが出来なかったのです。

 

その後、音の記録というフォノトグラフの最初の発明に基づいて、二人の発明家がこの装置に音を再生する機能を付加します。それが、フランスの発明家、また詩人でもあるシャルル・クロス、アメリカの大発明家トーマス・エジソンの二人でした。これらの音の再生機能の発明はほぼ同時期に実現しました。


シャルル・クロスは、最初のスコットのフォノトグラフの発明から音を再生する手段を提案しました。

 

これは実際、相当な先見の明があったらしく、フォノトグラフを金属ディスク状の追跡可能な溝に変換することをシャルル・クロスは可能にした。この大発見をした彼はまもなく、1877年4月に、科学論文を書き、フランス科学アカデミーに送っている。それはなんと、驚くべきことに、奇遇にも、エジソンが音を記録し、再生する機械を生み出すことが出来るという結論を見出す数週間前のことだったのです。



2.シャルル・クロス、トーマス・エジソン 音の再生装置の発明


一方、一般的に蓄音機の生みの親とされているトーマス・エジソン。彼は、同年にシャルル・クロスのフォノグラフの進化した装置とは異なる蓄音機を生み出そうとしていた。もちろん、彼の発明は画期的なものでした。

 

 


 

エジソンの生み出したレコードプレイヤーのコンセプトは、当初、手回しで回す事ができるスズ箔で包まれたシリンダーに基づいて構成されていました。

 

彼の考え出したメカニズムは、いわば、レコードプレイヤーのホーンの部分に音を取り入れると、ダイヤフラムと取り付けられた針が振動し、ホイールに窪みが出来るのです。これは、「音の振動と針の共振」という2つの科学の原理を踏まえて、その物理的な理論を応用し、2つの異なる空間をつなぎあわせることに成功した非常に画期的な科学の発見であったように思えます。 


トーマス・エジソンの発明家としての大躍進は、ダイヤフラム、針を、受信機に取り付け、電話を録音しようとした時に起こりました。

 

当初、フランスで生み出されたフォノトグラフのように、針が紙にグラフのようなしるしを付け、それを記録化するという技術をエジソンは考案、さらに、記録する用紙をティンフォイルで覆われたシリンダーと交換しました。これは、それまでのフォノトグラフの原理の過程を逆になぞらえてみることで、初めて発明品として大成功をおさめた。エジソンは、最初に、録音したばかりの自分の言葉が返ってきたのを聴いた時、一方ならぬ喜び方をしたのだといいます。

 

シャルル・クロス、トーマス・エジソン、両者の音声再生装置の発明は、ほぼ同時期に生み出されています。

 

その相違点を挙げるとするなら、数週間、発見が、遅れたか早かったかという事実でしかありません。音の再生するプロセスについてもほとんど同じものでした。エジソンは、製品としての構造化を計画していた一方、シャルル・クロスには、製品や構造化としてのアイディアはなかった。違いと言えば、只、それだけに過ぎませんでした。

 

この発明が公にされるや否や、世界の人々は、エジソンの生み出した蓄音機に夢中になって、シャルル・クロスについては、フランス国内をのぞいてはそれほど有名にはなりませんでした。

 

 

Charles Cros 彼は、発明家でもあり、詩人でもある

 

トーマス・エジソンの生み出したレコードプレイヤーの原型は、すぐにアメリカの裕福な家庭の娯楽として取り入れられたことは、エジソンの名が偉大な発明家として後世に伝わるようになったことを考えてみたら、それほど想像に難くないはずです。つまり、シャルル・クロワは、純粋な発明家としての能力は、エジソンよりも秀でていたかもしれません。にもかかわらず、音声再生機能を備えた製品を、事業として展開していく能力は、エジソンのほうに分があったため、後世の発明家としての知名度に、天と地ほどの大きな差異が生じたとも言えるのです。

 

事実、最初期に、一般家庭に販売された蓄音機には、トーマス・エジソンの名がクレジットされていました。一方の最初のフォノグラフの発明者のエドワード・レオン・スコット、また、シャルル・クロスについては、2008年になって最初の再生が行われるまでは、科学分野に通じている専門家をのぞいては、ほとんど一般的には知られずに忘れ去られていたことは奇妙に思えます。

 

 

3.エジソンの後継者  グラハム・ベルとエミール・ベルリナーの争い


 
トーマス・エジソンは驚くべきことに、その後、蓄音機の開発から身を引いて、白熱電球の発明に夢中になります。
 
 
それは、ひとつ、一般的に言われるのは、蓄音機の発明には、それほど科学者としての名声が期待できなかったというのがあり、また、彼自身の飽くなき探究心、次なる発明への浮き立つ気持ちが彼を電球の発明へと駆り立てていったとも言えるのです。しかし、この蓄音機の開発の座をエジソンがあっけなく手放した時、それと立ち代わりに新たな技術革新をもたらす発明家が出現した。そのうちのひとりが、かの有名なアレクサンダー・グラハム・ベルでした。
 
 
スコットランド生まれのグラハム・ベル 彼は、実用的な電話の発明者として知られているが、最初期のレコードプレイヤーの開発にも従事していた。

 
 
 
グラハム・ベルが当時在籍していたワシントンDCのジョージタウン、ボルタ研究所は、エジソンの最初の蓄音の技術を、さらに改良、推進させる計画を立てていました。主に、このボルタ研究所の設立者であるグラハム・ベルは、シリンダーを装置の中に組み込むのでなく、鋭利な針の代用として、ティンフォイルとフローティングスタイラスの代わりに、ワックスを用いたのです。
 
 
ワックスを用いたことにより、後の二十世紀の発明のひとつであるビニールレコードに代表されるような高音質、すぐれた音質と耐久性を実現し、「Graphophone」という名前で新たな発明として公表されました。
 
 
 
コロンビア製のグラフォフォン この発明により高音質による音声再生が可能になった


また、ベルの研究チームは、その後、エジソンの発明にさらなる改良を加え、時計のゼンマイじかけを用いた再生機能、ワックスシリンダーを回転させるための電気モーター装置を新たに開発しました。


その後、いくつかの会社間で、製品開発を巡って多くの競争が起こったことは想像に固くありません。

 

このグラフフォンの開発を手掛けた「America Graphophone」は、ボルタ研究所のデバイスとその後のワックスシリンダーを用いたレコードの制作を促進するために新設されました。一方、ベルの在籍する研究所は、業務提携の面で協力を図るため、トーマス・エジソンに開発の協力を要請しましたが、エジソンはこの申し出を断りました。ベルは、その後、独力で蓄音機の改良を行うことを心に決め、個体のワックスシリンダーを新たに用いた技術革新を行ったのです。

 

結果としては、 どちらの開発も、音声再生装置として大きな商業的な成功をおさめることは出来ませんでした。彼らにもたらされる可能性もあった賞賛や注目は、1877年にドイツ系アメリカ人の発明家、エミール・ベルリナーが特許を取得した新しい蓄音機へと注がれるようになった。ベルリナーが開発した蓄音技術は、フランスのチャールズ・クロスに近いもので、ワックスシリンダーではなく、フラットディスクに録音をエッチングする手法が取り入れられました。ベルリナーが、フラットディスクを用いた技術を選択したことによって、今日のレコードの再生技術の基盤が形づくられ、現代レコード生産への扉が一挙に開かれたとも言えるのです。

 

レコードプレイヤーの最初期の設計では、蜜の蝋が使用され、薄い層でコーティングされた亜鉛のディスクが使用されていました。 さらに、1890年代に入り、エミール・ベルリナーは、ドイツの玩具メーカーと協力し、最初に5インチのゴムディスクを導入しました。最終的に、ベルリナーの在籍していた”America Graphophone Cmpany”は、その後、シェラックディスクを完成させ、1930年代まで、録音技術をはじめとする音楽業界を支配し続けていたのです。

 

 

4.レコードの大量生産技術はどのように生み出されたのか?



エミール・ベルリナーの発明がなぜ科学技術の発展においてきわめて画期的だったのかは、彼の生み出した製品が、その後のレコードの大量生産技術に直につながっていったからなのです。

 

Google Atrs &Cultureより   エミール・ベルリナーとレコードプレイヤー

 

エミール・ベルリナーは、音波をディスクに外向きに記録し、電気めっきを使用し、マスターコピーを作成した最初の人物でした。

 

もちろん、レコーディングを体験した事がある方なら理解していただけるでしょう。これは、音の元になる記録を残す「マスターテープ」の最初の発明でもありました。つまり、ベルリナーがマスターコピーという手法を生み出したことによって、もし、技術的にそれが許されるのならば、百枚、千枚、いや、それどころか、無数のレコードのコピーを生み出すことも出来るようになりました。

 

これらのマスターコピーという独自の技術を活用すれば、レコーディングを行ったアーティストは、一つのトラックの録音を何度でも再現出来て、さらに、商業的な価値としても大きな影響を及ぼせるようになりました。もちろん、ベルリナーがこのコピー技術を生み出すまでは、アーティストは複数のコピー製品を生み出すため、一曲をその回数分だけ演奏する必要があったのです。

 

発明家エミール・ベルリナーが生み出したフラットディスクの技術には、明確な利点が存在しました。それは、端的に言えば、成形やスタンピングにより音の再生を簡単に実現できるという点です。そして、それ以前に開発がなされていたシリンダー技術についても、製品化という面では、大きな成功は収められなかったにしても、トーマス・エジソンによって金の成形プロセスが導入された1901年から、その翌年にかけて、シリンダー技術が取り入れられた。

 

このことから、製品化としては失敗したものの、その後のレコードプレイヤーの技術革新に大きな貢献をもたらしたことはほぼ疑いありません。その後、ベルリナーの生み出したレコードプレイヤーは、一般的に製品として販売されるにいたり、1901年、Victor Taking Maschine Companyにより、世界で初めて、10インチレコードが生み出され、一般向けに販売されるようになりました。

 

Victor Taking Maschineから発売された10インチレコード


一方、他のレコードプレイヤー生産を行う会社も、これらの発明に対して手を拱いていたわけではありません。

 

コロンビアレコードは、市場に新たに参入し、ライセンスに基づいて最初のディスクを製造していきました。コロンビアは、いくつか新たな方法を考案し、1908年までに、両面のシェラックレコードの製造過程を完成させています。しかし、この間、まだ、現在のレコードプレイヤーのような標準の再生速度には至らず、初期のディスク再生速度は、60-130BPMの範囲内にとどまっていました。 



4.ラジオの登場 モダンレコードの誕生

 

1920年代初頭のラジオの出現は、レコード業界に新たな課題を突きつけることになりました。音楽が電波を介して無料で放送されるようになったため、レコードは新たな領域へ進むことを余儀なくされたのです。ラジオの音質は、電気的なサウンドピックアップの出現によって大幅に向上します。

 

当時、蓄音機を家庭に導入できるのは、中産階級以上にかぎられていたため、再生速度を78BPM(1925年頃)に標準化し、純粋に機械的な録音方法でなく、電気的な録音方法を採用することには役立ったものの、マーケットでの採用が定着するまでには長い長い道のりが必要でした。


1930年代に、ラジオコマーシャルのレコード素材として、ようやくビニール(ビニライト)が導入されました。当時、この素材を使った家庭用ディスクは、ほとんど生産されていませんでした。しかし、興味深いことに、第二次世界大戦中に、米軍兵に発行された78rpmVディスクには、輸送中の破損が大幅に減少したため、現代の規格の一つ、ビニール素材が使用されていたのです。

 

最後に、信頼性が高く商業的に実現可能な再生システムの開発に関する多くの研究が行われた結果、1948年6月18日、ロングプレイング(LP)33 1/3rpmのマイクログルーブレコードアルバムがコロンビア社によって発表されました。それに次いで、コロンビア社は、ビニール製の7インチの45RPMシングルをリリースします。これが現在のレコードの標準基準となったわけです。

 

1955年に最初に全トランジスタ蓄音機モデルを導入したのは、ラジオ会社のPhilcoでした。


この製品は持ち運び可能で、バッテリーで駆動し、内蔵アンプリフターとスピーカーが売りの製品でした。さらに、米国では59,95ドルで売りに出されたため、限られた階級だけではなく、幅広い層にレコードプレイヤーが普及していくことになりました。 この後の時代からレコードプレイヤー、ターンテーブルは富裕層だけでなく、一般の家庭にも導入されていくようになったのです。


このお手頃な価格でレコードプレイヤーが売り出されたことは、音楽業界全体にも良い影響を与え、ポピュラー・ミュージックの台頭を後押ししました。その後、1960年代までに、レコードのスタックを再生する安価なポータブルレコードプレイヤー、レコードチェンジャーが相次いで開発されたおかげで、プレイヤー機器の値段はさらに安価になり、十代の若者たちがより手軽に音楽に親しめるようになりました。もちろん、これらの持ち運び可能のプレイヤーの出現により、アメリカのNYのブロンクス区ではじまった「DJ文化」が花開いたのは言うまでもありません。



5.現代までのレコードプレイヤーの歩み


1980年代までに、ほとんどの家庭には、いくつかの種類のビニール再生システムが普及するようになり、現代のレコードプレイヤーとして市場に流通しているモデルが主流となっていきました。

 

 

Panasonic製のレコードプレイヤー「Technics SP-10」1970年代に生産

 

 

これらは、セパレート(ターンテーブル、ラジオ、アンプ、カセットデッキ)で作られたHi−Fiシステムそのものでした。この一世紀において、レコード形式は基本的なシリンダーとティンフォイルで作製された原始的なシステムから、多くの人が利用できるHI-FI技術へと移行していきました。

 

さらに、時代は流れていき、10年が経過するにつれて、デジタル技術とコンパクト・ディスクの台頭により、ビニール、ターンテーブルの売上は一時的に徐々に減少に転じました。しかし、多くのファンはレコードを手放すことはありませんでした。御存知のとおり、多くの点で、DJのターンテーブルは、90年代から00年代の時代にかけて、フォーマットを存続させるのに役立ちました。

 

もちろん、ダンスフロアでのDJのターンテーブルはその間も途絶えず、また、2000年代から、アメリカでは、ヒップホップ、イギリスではUKガラージの人気が高まったため、DJのクールなプレイやスクラッチの技術により、レコードプレイヤー文化は完全に衰退せず、しぶとく生き残りつづけたのです。


そして、さらに、意外なことに、今日では、ビニールレコードとターンテーブルの需要が1980年代より高まっているようです。サブスクリプションサービスを通して、スマートフォンでお手軽に音楽と接することが出来る現代のデジタル時代においてもレコード人気が衰える兆しは見えません。なぜなら、本格的に音を楽しむことが出来るリスニング体験を求める音楽ファンにとっては、デジタルよりもレコードプレイヤーの方がはるかに馴染みやすいからなのです。

 

音楽の生みの親であるレコードプレイヤーは、現在も、多くの音楽ファンにより愛好されていますし、未来へと引き継がれていくべき重要な文化そのものです。レコードという音楽文化の悠久の歴史、人類の近代文明を象徴するカルチャー。それはまた、エドワード・レコン・スコット、トーマス・エジソン、グラハム・ベルといった偉大な発明家たちの音のたゆまぬ探求の足跡でもあったのです。

 

 

1.リミナルスペースに表れる概念

 

 

昨年から、特に海外のサブカルチャーとして、「リミナル・スペース」というのがひそかに流行しているという。これは、例えば、駅構内の地下道、駐車場のスペースの一角、もしくは、打ち捨てられた廃墟じみた建物の一角など、本来、無機質な建築の空間に奇妙な魅惑を見出すというものである。


 

いくらかニッチな趣味ではあるものの、こういった空間に、写真愛好家の人々がフォーカスを当て、それを被写体として収める文化的な活動がひそかに愛好家の間で流行っているのだという。このいうなれば、ニッチな趣味「リミナル・スペース」は、海外版2ちゃんねるの「4chan」で最初に取りざたされたもので、じわじわと海外の愛好家たちの間で親しまれている趣味なのだそうだ。

 

一時期、廃墟探索というのが、日本でもサブカルの領域ではあるけれども、ひそかに愛好家たちの間で取りざたされていたわけだし、「廃墟」というテーマを掲げた写真集も各出版社から刊行されていたのを思い出す。

 

これも、上記のリミナルスペースと同様、既に閉園した遊園地、長らく打ち捨てられ、所有権利者も解体費用を捻出するのを諦めた小大の工業施設、あるいは商業施設の景観にノスタルジアを見出すというものである。

 

確かにそういった現代の遺構のような建築物は、その虚ろな空間に接した際に郷愁にも似た感覚を覚えることがある。なんだか不気味のようにも思える空虚な空間に不思議な感覚を見出す、それはいわく言い難い、安らぎとか落ち着きにも近い奇妙な感覚である。我々が、なぜ、そういった本来、社会生産から切り離され、本来の役割を失った建築物に、そういった安らぎにも似た感覚を覚えるのかといえば、それはある種の無機物が目の前に明瞭に存在することを確認することにより、それと対比的に、自己という実在性を強めるからにほかならない。

 

廃墟、古い遺構、人気のない工業施設の一角は、その対象物そのものは生きているという感覚からは程遠い、だから、我々はその対象物と接した際に、謂わば、それと対比的に自分が生きているという感覚が鋭くなり、自己の実在性が強められ、その思いをじっくり噛みしめさえする。さながら、現実と異次元の狭間が目の前に不意に生じたかのような錯覚を、カメラのレンズを向ける人たち、また、その場にたたずんでいる人は見いださずにはいられないのである。

 

つまり、定義としていえば、リミナル・スペースとは、当たり前の日常の現実空間の中に生じた奇妙な異空間ともいえる。そして、これはどちらかといえば、たとえば、工業施設のような人工的な建築物中に、こういった概念が見出される場合が多い。つい昨日までごく当たり前に目の前に存在していたなんでもないような空間、それは昨日までは、面白みのない無機質な空間という印象だったかもしれない。しかし、今日それに接した際にまるでその対象物の印象が変わり、ミステリアスな異空間が眼の前に広がっている事実を我々は発見するのである。

 

 

 

2.パンデミックがもたらした異空間

 

 

 

2020年からの世界的なパンデミックは、世界各地にこういった「リミナルスベース」を生じさせた。それがむしろ商業生産の盛んな先進国であればあるほど、こういった奇妙な異空間が至る場所に生じることになった。

 

感染者数の増大により、多くの先進国の政府は、本来の社会生産活動を制限し、一般市民を家の中にとどまるように促した。そして、感染者数の増大に歯止めをかけようと試みた。それらのことがどのような社会的作用をもたらしたのかといえば、むしろ経済活動の停止に依る人類の進化の鈍化であった。人々は、停滞し、その場に留まることにより、20世紀からすすめてきた資本主義という手法を今一度見直さねばならなくなった。社会的な議論が世界各地で熱心になされた、生産活動に舵取りをするべきか、はたまた人間の生活安全を取るべきか。様々な活発な議論がインターネットでも交わされた。しかし、もっともらしい結論はいまだ出ていない。すべての国家、政府は、これらの2つの概念を天秤にかけ、バランスというか均衡を保ちながら、政策を打ち出し、そして市民の信頼を獲得しようとしている。それは現在の2022年においても変わらない。政府は国民の顔色を伺いながら、のらりくらりと政治を行っている。

 

そして、この2020年に起こったパンデミックという出来事は、一般市民に与えた影響にとどまらず、街の景観の変化にも顕著に顕れた。あらためて思い出してみていただきたいのは、我々が日頃当たり前に見ていた社会的な空間中に何の前触れもなく突如として空白が生じ、そこに、いわば「リミナル・スペース」と呼ばれる異空間が生じたのだ。営業の自粛を迫られ人気のとだえた所業施設、それまで、客がビールジョッキを片手に賑わっていた居酒屋ののれんじまい、また、それまで数多くの人々がすれ違っていた駅前通りの水を打ったかのような閑散、都道府県を跨ぐことを禁止された結果として生じた多くの車の通行を失った国道、それから、殷賑をきわめていた何らかの市場や商店街のような空間に、一種の不可思議な空隙が生じた。また、今、一度考えてみてほしい、これらの無数の空間に当たり前に存在していた多くの人たちの消失、そこには、突如として、これまでに存在した現実空間の中に、不可思議な異空間、リミナル・スペースが生じたように、多くの人々は感じたにちがいないのである。

 


 


2020年、東京でも緊急事態宣言が発令されたが、それは少なくとも大都市圏だけではなく、いくらか私の住んでいる郊外にも少なからずの影響を与え、「異空間」、言いかえればリミナルスペースが生じた。今では、そういった発令がなされたとしても、多くの人は日常活動くらいは普通に行うと思われるが、このパンデミックが始まった時はそうではなかったのだ。人々は目に見えないウイルスの影におびえ、日々接する情報をそれらにしぼっていったのである。

 

2020年の当初、多くの人々がこの出来事がなぜ起こったのかも理解できず、さらにどういったことが起こっているのかも見分けづらくなっていた。ここで、後世の人類のための情報として伝えておきたいのは、この時、我々は目の前におこっている現象よりも、あるていどインターネットやテレビを介して提供される、なんらかの情報、なんらかの報道を通じて出来事に対する理解を深め、目の前に起こっている現象に対処していく以外の方法はほとんどなかった。このことは、それまでの社会の様相を一変させた。つまり、2019年以前と2020年以後の世界はまるきり一変してしまったのだ。

 

たとえば、もし、この目に見えないウイルスの脅威に怯えを覚えていた人にとっては、外出を自発的に諦めるという行動の選択にもつながった。報道では率先してショッキングな映像が選ばれ、それはたとえば最初の武漢市場の奇妙な映像に象徴的にあらわれていた。あの時、今でも思い出すのだが、私が非日常の日常の中でつくづく感じ、恐怖すらおぼえ、一番おそれたのは、ウイルスの存在ではなかった。それは、これまで当たり前であった日常の平穏が脅かされるのではないかという感覚、どうあっても変化を余儀なくされることに対する異質な恐れ、それはまた現実空間でいうなら、日常の空間の中に不意に生じた奇妙な「リミナル・スペース」を意味したのだ。

 

 

日常的に生きている当たり前の空間がおびやかされ、そこには、「AKIRA」、または「新世紀エヴァンゲリオン」に登場するような不思議なSFチックな空間が生じ、バス停の電光掲示板に映っていた緊急自体宣言発令の文字、あるいは、外出をお控えくださいといった奇妙なデジタルの文字群が不意をついて眼の前に立ち上ってきた。


その時、何らかの不思議な感覚をおぼえ、これは現実に起こったことなのだろうかとも考えた。今、なんとなく思い返すのは、あのとき、私は、現実空間に居ながら、ある種の異空間にやってきたようないいしれない実感をおぼえていた。それは、見渡すかぎりいちめん、本来の生産活動、経済活動の気配が途絶え、2019年以前の世界の空気感を失い、巨大なリミナルスペースに身をおいたか、迷い込んだかのような錯覚に陥った。いや、そうあらざるをえなかったのだ。

 

 

 

 3.リミナル・スペースの探索

 

 

2021年あたりから、2ちゃんねるの海外版「4 chan」で、これらのリミナルスペースという概念が話題に上がるようになった。

 

2021年になると、その前年とはまるで世界の様相が変わり、表向きには生産活動や経済活動にシフトチェンジを図るようになった。内向きな方向性から外向きな方向性にいわばベクトルを転じたことは、社会構造として健全といえるかもしれないが、また、一方で社会内に生きている一般市民の心を置き去りにしたともいえる。人々は、2019年のロックダウンに生じた空白のようなものを脳裏から拭い去ることは出来なかった。その中で、直接的な因果関係を結びつけるのは少し暴論なのかもしれないが、この「リミナル・スペース」という新たな2020年代の概念が出てきた。人々は、あらためて、日常化した商業施設、工業施設内の異空間を探し求める。それは、一種の2019年に起きた出来事を再認識するようなものといえるかもしれない。

 

この「リミナルスペース」は、そもそも人類学者ターナーによって提言された言葉であるらしく、「日常生活の規範から逸脱し,境界状態にある人間の不確定な状況をさす言葉」である。さらに言えば、このリミナルスペースは「Threshold」を語源に持ち、感覚的なニュアンスを交えて、海外の人はこの言葉、概念を使用するようになっている。また、このスレッショルドという語は、「閾値」を意味し、音楽のリミックス、特にマスタリング作業の段階で使われる要素で、「スレッショルド」という値を増減させることによって音のコンプレッション、圧縮率を調整し、作品として再生されたときの音の圧縮率、音圧をコントロールするのである。

 

ある人は、「リミナル・スペース」、現実の空間に生じた異空間を五感、またはそれ以上の感覚で捉え、それにあきたらない人は、カメラを介し被写体としておさめ、認識下にある数値化できないそれぞれの閾値を用いて現実性をコントロールしようとする。

 

もちろん、言うまでもなく、それらの景物に建築学における配列、規則性、黄金比といった興味を、その中に見出す人も少なからず存在するものと思われるが、それよりも、昨年からこの概念が趣味として、海外のファンの間で広がりを見せるようになったのは、近年の世界の劇的な変化、世相のようなものを反映しているようにも思える。

 

リミナルスペースと呼ばれる異質な空間、人々はその中に、いくらかの恐れや不安とともに反面、奇妙なノスタルジア、安らぎを見出す。

 

それは先述したように、自分が現在、今という瞬間に生きていることを対比的に確認するための認識作業ともいえる。リミナルスペースは、一般的なカルチャーとは呼べないものの、特に、今日の社会、世界情勢を見渡した時、何らかの重要なテーマが反映されているように思えてならない。こういった概念に興味を抱くのは、多くの人々が、日々生きる現実の中に「異空間」を見出しているからにほかならない。今後の世界がどう進展していくかはわからない。いずれにせよ、いまだ2022年の人類は、リミナルスペースと呼ばれる現実空間と異空間の狭間をあてどなく彷徨いつづけているのだ。

 

 

New York City Pride March 2013: Harry Belafonte"New York City Pride March 2013: Harry Belafonte" by FreeVerse Photography is licensed under CC PDM 1.0






1.カリプソの始まり

 

 

カリプソは、トリニダード・トバゴで始まり、西インド諸島全体に広がったアフロカリビアン音楽だ。西アフリカの「Kaiso」の親戚ともいえるカリプソ音楽は、コールアンドレスポンス形式が採られ、そして、カリプソリズムとして知られている2/4ビートに基づいた明るい曲調が特徴だ。

 

カリプソは、ソカ、メント、ベンナ、スパウジ、スカ、チャツネ、エクステンポなど多くのサブジャンルを生み出した。これらのスタイルの中心人物は、セージとストーリーテラーとして登場するグリオというリードシンガーにある。

 

これはアフリカの儀式音楽グリオに伝統形式を受け継いだものだ。今日のグリオは、英語でうたわれ、日常の苦難を記録し、正義性を主張する。

 

これらの音楽は、最初、農場にいる黒人たちがコミュニケーションを取るために生み出されたものである。雇い主である白人から、トリニダード・トバゴの労働者たちは仕事に従事する際、一般的な私語を禁じられていたため、彼らはこのグリオの形式から受け継いだ明るいカリプソを歌い始めた。

 


 

2.カリプソの歴史

 

 

カリプソ音楽は、18世紀のトリニダードでアフリカの奴隷のコミュニティ内に最初に登場した。

 

この音楽の形式は、西アフリカの伝統音楽の「Kaiso」が進化したものと一般には定義づけられ、歌詞の中に風刺的な意味が込められていた。つまり「Double Meaning」をそれとなく言語のニュアンスの中に滲ませていたのだった。

 

要は、俗にプランテーションを呼ばれるトリニダード国内の大規模農場で労働に従事する黒人たちは、雇い主の白人たちに解せないような言葉で、何らかのやりとりをする必要があり、一種の暗号のようなやりとりを仲間内で行ったのが「カリプソ音楽」の始まりであるといえる。

 

二十世紀のトリニダード・トバゴの黒人たちは、日頃、労働に従事している間、雇い主の白人たちをからかったり、揶揄したりするためのスラングを当初、カリプソの歌詞の中で頻繁に用いていたのである。気慰みのために、白人を嘲笑するようなスラングを、彼らに気取られぬように歌詞の中に込めていたのだった。

 

後の時代になると、 カリプソ音楽は、音楽としても、言語としても、徐々に洗練されていくようになり、フランス語(詳しく言えば、アンティル諸島の固有のクレオール言語)、英語、スペイン語、そして、アフリカの言語の影響を組み合わせた形式を発展させていった。アンティル諸島から移民してきたフランス人は、カーニバルの伝統性をトリニダードの島々に文化としてもたらし、トリニダード・ドバゴが国家として1834年に奴隷制を廃止してからというもの、元奴隷であった黒人たちは、カーニバルのためのミュージシャンとして注目されるようになった。その後、島内には、専用のカリプソテントがいくつも設営されていき、カリプソの単独公演が行われるようになっていく。つまり、このカリプソ音楽は、祝祭の雰囲気の強い形式であり、それは後世のボブ・マーリー、ジミー・クリフのレゲエの雰囲気に引き継がれている要素でもある。


カリプソ音楽が初めてレコードとして録音されたのは、1890年代からカリプソバンドとして活動していたLovey's String Bandがニューヨークで録音した音源である。このトリニダード・ドバゴのバンドは、1912年にジャズバンドとしてこの音源の録音を行った。後にこのバンドは五年後に、ジャズバンドとしてレコードをリリースしている。Lovey's String Bandの音源は、現在ワシントンDCのアメリカ議会図書館「Library of Congrass」に録音が保管されているようだ。

 

カリプソ音楽のミュージシャンとして最初のスターとしては、Julian Whitrose、Roaring Lion、Anttila The Hun、Load Invader(のちに「ラムとコカ・コーラ」がアンドリュー・シスターズによってカバーされている)が挙げられる。その後、1950年代に差し掛かると、Lord Kitchener,Mighty Sparrowといったミュージシャンが台頭してくるようになった。


 

3.カリプソの音楽的特徴

 

カリプソ音楽は、カリビアンミュージックの多くの形式と同様、西アフリカの儀式音楽のリズムの伝統性に加えて、スペイン、フランス、イギリス、その他ヨーロッパ諸国の言語を融合させている。カリプソの主要な要素は以下のようなものが挙げられる。
 


・フォーク音楽としての起源 

 

一般的に人気の高いカリプソ音楽はその多くがトリニダードのフォーク音楽を引き継いだものである。
 
 
 
 

・英語、フランス語(クレオール言語)を融合した独特な歌詞


 
 
元々は、カリプソの歌手がフランス語の一であるアンティル諸島のクレオール語で歌っていたが、英語がトリニダード・トバゴ国内の主要言語に成り代わるにつれ、ほとんどの歌詞が英語へと移行していった。
 
 

・グリオが歌うリードボーカル

 

グリオは、アフリカの儀式音楽の形式内で、ストーリーテリングを行う役割を持つリードシンガーである。
 
 
コールレスポンスを行う複数のシンガーと掛け合いながら、明るい曲調の楽曲が進行していく。これは、ベラフォンテの「バナナボート」を聴けば特徴がよくつかめる。初期のカリプソはグリオが語る民話を特徴としていた。

 

 

・スティール・パンの使用

 

スティール・パン(Steel Pan)は、トリニダード・トバゴ発祥のドラム缶から生み出された民族打楽器である。外側から内側にかけてなだらかに傾斜を描き、中心部は凹んでいる。ゴムを巻いた撥(Stick)でたたき、出音する。叩くポイントによって出される音色が様変わりする面白い楽器で、音響的にカラフルな効果を与える。 トリニダード・トバゴ国内のカリプソで使用されるスティールパンは、単一の楽器としてではなく、複数組み合わされて使用される事が多い。

 

 

 

 

カリプソ音楽の有名アーティスト

 

 

・Road Invadar

 

 

トリニダード・トバゴ国内で最初に名声を得たミュージシャン。初期のカリプソニアンであり、渋い声とフォーク色の強い音楽性が特徴である。 

 

 

 

 

 

・Lord Kitchener

 

 

ロード・ キッチナーは、1930年代に十代でキャリアをスタートさせ、2000年代になくなるまでレコーディングを続けた。有名な曲は1962年に録音された「London Is The Place For Me」が挙げられる。 

 

 

 

 

 

・Harry Belafonte

 

 

ハリー・ベラフォンテはトリニダード・トバゴ人ではなく、ジャマイカ出身のアメリカ人である。

 

彼の音楽は、多くの文化性を吸収している。ジャマイカのフォークをアレンジした1956年の「Day-O」(Banana Boat)はカリプソの最初の大ヒット曲となった。ベラフォンテの後期の作品では、歌詞の中で社会正義を強調している。これは後世のカリプソを奏でる音楽家にとって重要な主題となった。 

 

 


 

 

 

・Growling Tiger

 

 

ネビル・マルカノは、別名、グロウリング・タイガーとして知られている。カリプソのジャンルに最初に明確な政治性をもたらした。

 

彼は、トリニダード・トバゴの国家観について歌い続け、イギリスからの独立を後押しした。上記のベラフォンテ、及び、マルカノがもたらした思想性の強い要素は、後のボブ・マーレーのエチオピア皇帝を信奉する「ラスタファリ運動」に引き継がれていく。 

 

 

 

 

 

・Calypso Rose

 

 

元来、カリプソ音楽は男性のための音楽であったが、初めて、カリプソ音楽を女性にも普及させた重要なアーティスト、カリプソ・ローズは、1970年代にかけて活躍をした。「Gimme More Tempo」 、「Come Leh We Jam」といった名曲を残し、音楽ファンと批評家から高い評価を受けた。



ストリートアートの始まりは? 落書きと芸術について


近年、UKのバンクシーのアート形態を見ても分かる通り、一般的な人々の間では、ヴァンダリズムが芸術なのか、それとも、ただの不法行為の戯れに過ぎないのか、という点で意見が分かれるように思える。

 

しかし、芸術と戯れ、その両側面を意義を持つのがこの芸術形態の本質である。ヴァンダリズムという形式はその始まりを見ると、正真正銘のアウトサイダー・アートといえる。

 

元は、「ヴァンダリズムー落書き」と呼ばれるアート形式、グラフィティアートは、1970年代のニューヨークのヒップホップ文化とともに、地下鉄構内の列車の側面に、あるいは構内の壁に、「タグ付け」と呼ばれる自分の名を記すスタイルが流行した後に一般的な芸術として認められるようになった。

 

1970年代、NYのブロンクス区のヒップホップアーティストが「グラフィティ」というアート形態を確立させ、最初のNYのグラフィティシーンの中には、後に、現代アーティストとして有名になる27歳という若さで、オーバードーズによりこの世を去ったジャン・ミシェル・バスキアもいた。ミッシェル・バスキアは、他のヒップホップシーンの最初のアーティストたちに混ざり、NYの地下鉄構内で「タグ付け」を行っていた。

 

その後、白人アーティストたちがこのヴァンダリズムカルチャーを広めていき、NYの壁という壁はカラフルなスプレーだらけとなり、混沌とした様相を呈するようになった。1970年代当時のニューヨーク市長は、これ以上、市の景観が損うわけにはいかないという理由で、このグラフィティアートを一掃するための法案を議会に提出したのだ。その後、長い間、グラフィティというアートスタイルは、若者の戯れとしか見なされなかったように思える。

 

ところが、英国のアウトサイダー・アート界に彗星のごとくあらわれたバンクシーにより、このグラフィティアートは美術界で再注目を受けるようになったように思える。町中の公共施設になんらかのメッセージやイラストを書き記すというバンクシーのアートスタイルは、実のところは、この1960年代から1970年代のバスキアをはじめとするヒップホップカルチャーと共に育まれたアートスタイルを巧妙に模倣し発展させたものでしかない。そのことはおそらく、多くの謎に包まれているバンクシー本人が最もよく理解しているはずである。それ以上の付加価値をつけて街の風営法すらをも度外視させているのは美術界、 オークションでバンクシー作品価値を極限まで釣り上げようとする美術収集家の欲望である。その欲望を逆手にとり、自分の芸術にたいする価値を実際より大きくみせようとするパブロ・ピカソに学んだスタイル、資本主義にたいする強烈なブラックユーモアがバンクシーの作風の核心には込められている。

 

そこで、現代になって漸く芸術形態として確立されるに至ったヒップホップカルチャーの一貫として若者の間に広まっていったグラフィティアートというのは、どのようなルーツを持つのか。本来、このグラフィティと呼ばれるアート形態はニューヨークで生じたものでなく、フィラデルフィアの青年矯正院で過ごしていた黒人青年が始めたものだ。


彼は、[コーンブレッド]の異名をとり、のちに死亡説が新聞紙面で報じられ、自分が死んだという一報を自ら目撃し、公共施設のタグ付けにより自分がまだ生きているということを示した、そんな奇妙なエピソードを持つ。

 

コーンブレッドは、黒人アーティストの第一人者であり、人種上のマイノリティとして生きる上での自分の不確かな存在性、アメリカという図りしれない規模を持つ社会において、みずからのアイデンティティを明確に示す方法、スプレー等で公共施設の壁等に自分のニックネームを記すグラフィティの「タグ付け」という技法を時代に先んじて取り入れた芸術家でもある。


「Tag」という概念は、後に、ウェブで用いられる表記法ともなるが、今回、このコーンブレッドなるアーティストから始まったグラフィティアートが60年代から70年代を通して、どのようにアメリカのカウンターカルチャーとして広まっていったのだろうか、その概要を簡単に記していきたい。

 

 

 

1.コネチカットの少年矯正施設ではじまったグラフィティアート  「コーンブレッド」

 

 

グラフィティアートは、これまで音楽、映画、テレビ、ファインアート、ホビー玩具やファッションに至るまで、現代の大衆文化に深い影響を及ぼしてきた。巨大な壁画、ファッションショー、実物大のアートショー、様々な形式で表現される現代のグラフィティのアート形式は、フィラデルフィアの少年矯正施設に1960年代にある黒人の少年が最初にそのスタイルを確立した。

 

1965年、現代グラフィティアーティストとして知られているドリー・”コーンブレッド”・マクレイは、当時、フィラデルフィアの青少年育成センター(YDC)に収容されていた12歳の問題児だった。

 

ドリー・マクレイは、コーンブレッドをひときわ愛し、YDCで提供される食事を作る料理人にコーンブレッドを食べたい、ことあるごとにせがんだという。マクレイ少年は幼い頃から愛しい祖母と一緒にコーンミールいりのパン、コーンブレッドを食べてきたため、その思い出があるからか、YDCの料理人に何度もそのコーンブレッドを食べたいとせがんだのだ。あまりに少年がせがむとき、料理人は彼のことを愛着を込めて「コーンブレッド!!」と言って叱りつけたという。

 

「Cornbread」は、たちまちマクレイ少年のユニークなニックネームに成り代わった。コーンブレッドは内向的な気質を持つ少年であったようで、当時、フィラデルフィアの矯正施設で蔓延していたドラッグの使用、暴力沙汰に他の子どもたちのように参加するのを避けていた。そこで代わりに、マクレイ少年は、それまで、ギャングの名や、シンボルマークで覆われていた施設の壁に独自のニックーネームをスプレー缶で記すことに没頭し、施設内での多くの呆れるような時間を要した。それはまさに、彼が自分自身の有りか、存在意義を確認するために行った行為である。

 


Cornbread

 

コーンブレッドはその後、YDCのほぼすべての表面に、新しく手に入れたスプレー缶で落書きを始め、昼夜問わずタグ付を行う場所を探し求めていた。それはまさに、マクレイ少年はこの施設内において、自分の存在の在り処を確認するための場所を探し求めていたということでもある。やがて、それから、コーンブレッドは、YDCの場所を問わず、ビジターホール、チャウホール、教会、バスルーム、およそ考えられる場所すべてにタグ付けを行い、「Cornbreaad」と記しはじめたため、施設職員のソーシャルワーカーは彼が精神障害に苦しんでいるのだと決めつけた。

 

マクレイ少年はYDCから釈放された後、少年院時代に始めた芸術形式をより洗練させていこうと試みた。彼はフィラデルフィアの街を訪れ、複数の友人と協力し、街じゅうにタグ付を行った。 


この後、コーンブレッドの謎めいたグラフィティの一貫であるタグ付は、フィラデルフィアの人々に少なからずの影響を与えるようになっていく。

 

町中の若者の間でこのタグ付が流行り始め、街の壁は様々な名前と番号が記され、銘々のアーティストはより注目を集めようと躍起になったという。


当時、フィラデルフィアでは、コーンブレッドの名は一般的に浸透し、地元紙がコーンブレッドはギャングに銃殺されたと誤って報じた際に、上記したように、彼は、街じゅうにタグ付けを行うことにより、自分が生きていることを証明した。「自分の名前を生き返られられるのは自分しかいないと分かっていた」と、フィラデルフィアウィークリーのインタビューにもあっけらかんと答えた。

 

 



コーンブレッドは1960年代を通して、グラフィティアートの第一人者としての地位を確立した後、ゲリラ的なパフォーマンスを行い、センセーショナルな話題をもたらした。コーンブレッドは、フィラデルフィア動物園の中に忍び込み、柵を飛び越え、象の檻の両側に「コーンブレッドドライヴ」を描き出した。このゲリラアートには、フィラデルフィアの船の乗組員も半ば遊びで参加していたという。

 

このゲリラスタイルのパフォーマンスは、後のバンクシーなどの現代アーティストに引き継がれている一種の現代アートのパフォーマンスの原初というようにもいえるかもしれない。その後、コーンブレッドは、刑務所で服役するが、しかし、このごく限られた空間でさえ、彼の評判をとどめるものはなかった。

 

その後、彼は、ロジャー・ガストマンのグラフィティアートを取材したドキュメンタリー作品に登場し、刑務所の警備員が自分のところにサインを求めてくる、自分の名はイエス・キリストのように響いていると証言している。

 

 

 

2.NYストリートアートの立役者 「Taki 183」

 


コーンブレッドがグラフィティの祖であることは疑いないが、この形式は一般的なアートとしては認められたというわけでなかった。北米の一地域で知られるニッチなアウトサイダーアートでしかなかったのだ。

 

そして、この芸術形態を、一般的にカルチャーとして広めていったのがTaki 183なる人物だった。彼は、コーンブレッドがフィラデルフィアの街の至る場所でストリートアートを広めていったのと同時期、ニューヨークでグラフィティという芸術形態を最初に普及させた重要人物である。

 

後に、バスキアといったアーティストも参加することになる公共施設の落書きに最初に取り組んだのはニューヨークの子どもたちだった。これは、上記のコーンブレッドと同じように、子供の戯れとしてこのグラフィティが始まったことを示唆している。それらのニューヨークの子どもたちの中に、ワシントンハイツ出身の自称「退屈なティーンネイジャー」を気取ったTaki183が出現した。彼は1969年にギリシャ名であるデトメリウスの変形「Taki」を組み合わせて、革新的なタグ付を確立した。「183」という番号は彼が住んでいた家の番地に因んでいる。

 



 

 

実のところ、Takiは名前と番号という後のヒップホップアートの符号の一つになるスタイルの最初の確立者ではなかった。それ以前にも、自分のニックネームと何らかの番号を組み合わせたタグ付けはニューヨークで存在していたというが、Takiは、「タグ付け」という行為を、最初のプロフェッショナルな仕事に変えた人物で、コーンブレッドが徹底して自分のニックネームにこだわったのとは異なり、Taki 183は、自分の住んでいる家の近所の番地の番号にこだわりを見せたアーティストである。後にComplexというカルチャーマガジンが「ニューヨークの偉大な50人の現代アーティスト」で彼を取り上げていることからも分かる通り、NYのストリートアート界で有名なアーティストとなった。

 

Taki 183はコーンブレッドが黒のスプレーを用いて、モノトーンのヴァンダリズム様式を生み出したのに対し、それとは異なるカラフルな色彩を用いた前衛的なスプレーペイントを世に広めた人物である。

 

しかし、上記のコーンブレッドと同じように、当時、スプレーペイントはアートとは認められておらず、当然ながら違法行為であった。警官に見つかれば、コーンブレドのように収監される可能性があった。

 

そこで、タキは自分の羽織っているジャケットに穴を開け、その中にスプレー缶やマジックマーカーを忍ばせ、ニューヨーク市の至る壁、街灯、消火栓、地下鉄の車両のタグ付を行い始めたが、現代のバンクシーと同様、人目につかない時間、場所を選び、相当、慎重にこのグラフィティ行為をおこなっていたようである。 

 

彼はコーンブレッドと同じように、すぐにこの奇妙な戯れに夢中になった。このグラフィティを行い始めた当時についてタキは、Street Art NYCのインタビューで以下のように回想している。

 

 

「私は自分の名を上げる感覚が好きだった。一度、落書きを始めたらなかなかやめられなかったんだ」

 


Taki 183は、自転車で移動をし、メッセンジャーとしての役割を担っていた。彼はニューヨークのアッパーサイドからダウンタウンに至るまで、自転車で移動し、グラフィティーアートを広め続けた。その後、彼の欲望はつのり、タグ付けにより街を征服しようとする野望を抱えるようになる。

 

この街の征服というTakiの欲求が一般的なメディアで取り上げられるようになった。最初にグラフィティをアートとして報じたのは、The New York Timesだった。ニューヨーク・タイムズは1971年に発行された紙面で、このグラフィティアートの特集を組み、1970年初頭のNYグラフィティシーンを世界に先んじて紹介し、その記事内で、とびきり風変わりなアーティスト、Taki183を取り上げた。ニューヨーク・タイムズで紹介されたことにより、彼の名は、一躍グラフィティーシーンの重要人物としてアメリカの全国区に知れ渡るようになっていった。

 

ヴァンダリズムで有名となった最初のニューヨーカーTaki 183は、コーンブレッドと同じように、実際のタグ付け行為を続けることにより、その後のニューヨークのストリートアートに対して強い影響を与えた。



3.1970年代、NYブロンクス区でのグラフィティの爆発的な流行

 


最初、Taki183が広めたグラフィティというアートスタイルが1970年代のNYをヒップホップと連れ立って席巻するのにはさほどの時を要さなかった。その一連の流れの中に、かのバスキアが登場したというのは既に述べておいた。そして、このアートスタイルが浸透していったのは1970年代初頭で、この年代にはブロンクスのドウィット・クリントン高校を中心にグラフィティコミュニティが形成されていく。都合の良いことに、クリントン高校は、都市交通局の操車場からさほど離れていない場所にあり、この操車場はその日の操業を終えた地下鉄車両が止められている場所、つまり、グラフィティをするのにうってつけの場所でもあったのだ。

 

クリントン高校に在学する若者たちは、この場所を介して、グラフィティを始めた。クラロイン社、ラストリューム社、レッド・デヴィル社のスプレー缶、フロウマスターインキ、さらに当時としては新しいテクノロジーであったフェルトペンを用いて、都市交通局の操車場に停車している地下鉄車両に、わいせつな言葉、へぼい文句を乱雑に書き連ねていった。


クリントン高校に在学する生徒、その仲間たちは、画家や美学生が用いるような専門の道具を使い、地下鉄車両を汚すという意図でなく、コーンブレッドやTakiと同じように、ゲリアアートを描き続けていたのである。これらの生徒は原初のNYのストリートアートの始祖、Taki183と同じようにタグ付けを行っていたことも同様である。

 

もちろん、これらは不法行為でもあったので、彼らはニックネームを用いることにより、巧妙に自分たちの身元をかくしおおせた。 クリントン高校のロニー・ウッドは「フェーズ2」という奇妙なタグを用い、グラフィックアーティストとして人気を博した。当時、「フェーズ2」は、ニューヨーク市内を走る地下鉄の車両の突然出現し、ニューヨーク市でも大きな噂を集めるようになった。

 

最初のNYの学生アーティスト、痩せて浅黒い肌をしたロニー・ウッドは、アフリカ系アメリカ人だった。しかし、事実としては、NYの初期のグラフィティシーンで活躍したのは、その多くがプエルトリコ系か白人である場合が多かった。平均的なニューヨーク市民にとって、人種的な背景というのはそれほど重要視されず、むしろ、そのアート性の強い個性の方が重視されていた。もちろん、グラフィティというのは、暇を持て余した人間、どことなく危なかっしい生活背景を持つ若者の仕業であると誰もが理解していた。実際、当時、グラフィティアートがカルチャーとして普及していくにつれて、多くのニューヨーク市民にとって、市の公共機関にグラフィティがあっという間に埋め尽くされていく様子のは奇異な感覚をもたらし、彼らが隣にあるニュージャージ州、或いは、フロリダ州に転居する原因を作ったこともたしかなことだった。


この後、1970年代にかけて、ニューヨークの地下鉄車両と駅は、交通手段であるほかに、グラフィティアーティストにとっての自由気ままに使用できるキャンバスのひとつに成り代わっていった。

 





学生アーティストたちの奇妙な欲求、創造性を最大限に発揮したいという思い、そして、ニューヨーク市民を震え上がらせたい、といういたずら心はいやまさっていき、ニューヨーク五区のグラフィティアーティストたちは、あらゆる公共機関にタグ付けをこぞって行い、壁を汚し、車両の端から端に至るまで、カラフルな文字を描き出した。

 

当時は、文字のフォントよりも、読みやすさそのものがアーティストの間では重視されていたようである、アーティストたちは、漫画的な文字で自分のスラングネームの「タグ」を書き連ねた。NYのグラフィティシーンが全盛期になると、ほとんどの地下鉄車両が、こういったヴァンダリズムによってカラフルな装飾にまみれていった。



4,ニューヨーク市のグラフィティアートに対する反発、それに対するグラフィティアーティストたちの反発

 


もちろん、ニューヨーク市としては、1970年代を通して、地下鉄をはじめとするあらゆる公共機関がヴァンダリズム行為によってサイケデリックになっていく様子を黙認していたわけではなかった。

 

アート形態としては多くの市民に支持されていたが、当時のニューヨーク市長、ジョン・リンゼイがついに、これらのグラフィティを一掃し、街の美化のために動き出した。 彼は側近であるエドワード・コッチに働きかけ、この若者たちのストリートアートをニューヨーク市の大きな都市問題としてみなし、目にするかぎりのヴァンダリズム行為を取り締まる主旨の法案を制定した。落書きを取り締まることは、無法状態に陥りつつあるニューヨーク市内の景観において、政治家が制御を取り戻した、という市民の信頼を得るためにも行われる必要があったのだ。

 

グラフィティの一掃運動が始まるや否や、アーティストたちも黙認するわけにはいかなくなった。彼らはすぐに抗議運動を開始し、地下鉄のシステムマップと共有する知識を活用し、落書きを増大させていった。

 

芸術というのは常になんらかの脅威に際して新たな発展を遂げる。それはどことなく人類の進歩にも似ているのだ。この市から突きつけられた脅威に際して、グラフィティアーティストたちは、既存の形式を捨て、新たな表現法を確立する。1970年代のグラフィティは新たな進化を遂げ、マジックマーカーという原始的な描写法から、エアゾールを用いた描写法に移行していく。グラフィティアートの作家たちは、新しく、レタリングスタイルを生み出し、星や王冠、花、眼球などのイラストをタグと一緒に用いて、さらにグラフィティアートの完成度を洗練させていく。この時代の作品には、アートとしてみた上で、歴史的な傑作もいくつか誕生する。もはや、最初の子供の落書きのスタイルでしかなかったグラフィティは、一つの芸術として認められるに至る。

 




この時代の象徴的な作家としては、Superkool223という人物が挙げられる。彼は、スプレーノズルが大きほど文字を素早く描き出せることを発見し、グラフィティアートの最初の傑作を生み出している。

 

そのほかにもTracy 168の作品は、ジョン・トラボルタの出演作のオープニングにも使用されるようになった。もちろん、それに加えて、上記の名前を名乗らない「フェーズ2」の作品も一般的に知られていくようになった。





 

フェーズ2を名乗るブロンクス出身のロニー・ウッドは、エアロゾルライティングが主流の、現在のグラフィティの礎「バブルスタイル」を最初に生み出した重要なアーティストである。

 

これは「ソフティ」とも呼ばれる太くてマシュマロのような文字のフォントを用い、1970年代当時の多くのグラフィティアートの中心的な形式となった。フェーズ2は、インターロッキングタイプと呼ばれる矢印の継いた文字、スパイク、目、星などのアイコンを最初に使用したことで知られている。

 




これらのアーティストの台頭した後、ニューヨークのブロンクスで隆盛をきわめてたオールドスクールヒップホップカルチャーと共に、グラフィティは進化していった。ヒップホップの流行とこれらのアート形式は深く関わりあいながら、ひとつの文化として長い時間をかけて確立されていったのは多くの方がすでにご存知のことだろうと思われる。


以後、グラフィティは、アメリカだけではなく、他の国々の若者のカルチャーとして浸透していく。彼らの始めたゲリラアートは子どもの戯れからはじまり、次第に洗練されていき、やがてモダンアートへ継承され、現代のバンクシーを始め、数多くの現代アーティストたちの重要なスタイルの一つとなっている。