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アパラチアとはニューヨーク州からミシシッピやアラバマ州まで、その稜線を伸ばす山岳地帯である。その地域は約二十万平方マイルを網羅している。古くは、イングランド、スコットランド/アイルランドの移民が多く住んでいて、ニューイングランドの文化性を最初期のアメリカの建国において築き上げて来た。この民族は、日本の北海道の奥地にいたアイヌ民族によく似た生活を送り、口伝の伝統性、自給自足の生活、そして民間伝承を特徴としていた。後には「アパラチアン・トレイル」という区域が設けられ、山岳登山者にも親しまれる場所となった。

 

アパラチア山脈の地域の産業は、農業の他、石炭の採掘が盛んだった。山岳地帯で冬はひときわ寒い。真冬は大雪が降る。家の中を温めるため、石炭と石油は必須であった。男性は石炭を採掘するため山の奥深くに踏み入った。彼らが日中を仕事に費やし、木造りの小屋の灯芯の油が途絶えようとする頃、山に仕事に行っていた男が石炭と埃にまみれて戻って来る。その間、女性たちは農業や紡績等の仕事を行い、家族が帰ってくるのを待っていたのは想像にかたくない。

 

アパラチアの文化を見るときにフォーク音楽という要素を欠かすことは出来ない。なぜならアパラチアは鉱業と音楽によって、その文化性を構築してきたからである。フォークとは平たく言えば、民謡のことで、その地域で親しまれる流行歌と言える。アパラチアはカントリーとブルーグラスの発祥の土地であり、もちろん、アメリカーナの出発の土地でもある。スコットランドやニューイングランドの移民は、はてない太洋の向こう、遠く離れた故郷のイギリスの望洋の念をアコースティックギターに乗せて歌ったのだろうか。アパラチアの家族の中には、必ずといっていいほど、楽器演奏者がいた。多くの鉱業や農業を営む家族は非常に貧しかった。高級なピアノを買うほどのお金はない。そこで、彼らは、スコットランドから持ってきたフィドルやバンジョー、あるいは、ダルシマーを演奏したのだった。山の枝を伐り、薪とし、それを小屋の向こうで燃やし、薪の周りに円居し、フォーク音楽を演奏した。この地域からはドリー・パートン、パッツィ・クライン、ロレッタ・リンを始めとする偉大な音楽家が輩出された。

 

こういった山岳地帯の生活の中でアパラチアン・フォークは育まれたわけだが、この音楽用語は20世紀初頭に少数の学者のグループによって名付けられた人工的なカテゴリーだった。アパラチアの民族性は音楽だけではなく、民間伝承や産業を切り離して語ることは難しい。それに加えて、民族的にもアフリカ系が住んでいた。単一主義の地域ではなく、出発からして多民族の地帯だ。しかし、この地域の音楽が、後世のフォーク/カントリーの一部を形成しているのは事実のようである。スコットランド民謡の伝承という要素がアパラチア音楽の素地の一側面を形成しているのも明確なのだ。

 

 

アパラチア音楽に求められる民俗性

 



19世紀から始まり、1920年代まで続いたアパラチア音楽に関する初期研究は、すべてアイルランド等で盛んだった「バラード」という形式、及び、他の類に属する新しい当世の流行歌や歌謡曲の再発見である「バラード・ハンティング」、「ソングキャッチ」という側面に焦点が絞られていた。ジェームス・チャイルドの「イギリスとスコットランドの人気バラード(1898)」という書籍を元に音楽研究が進んだ。実際、この本に書かれていた記述によって、アパラチアの音楽とイギリス諸島の民謡の中に歴史的なつながりを見出す契機をもたらしたのだった。

 

アパラチア音楽の最初期の評価は、モチーフの価値観や興味よりも、作家の個別の価値観や興味に基軸が置かれていた。例えば、1928年に米国議会図書館にフォーク・ソングアーカイブを設立したロバート・ウィンスロー・ゴードン氏は、イギリスの歌との直接的な関係によって定義付けられるアパラチアのフォーク音楽こそが「純正なもの」であり、「本物」であるとしている。ロバート・ゴードン氏は、「アパラチアを、アフリカ系アメリカ人やユダヤ系アメリカ人に代わるアメリカ人」として指摘した上で、次のように言及している。


「個人的には、私達の本当のアメリカ人のフォークを復活させ、知らせるためのプロジェクト全体が今日率先して行うべき価値のあることだと信じています。真のアメリカニズムの見方ーー、それはまさに私達の過去、開拓者、アメリカの作った人々の魂そのものです。現代のブロードウェイ、ジャズだけではないのです」ロバート氏の言葉には、現代性を見た上で、「過去の民族性が、現在にどのような形で反映されているのか」を最も重視すべきということが痛感出来る。

 

ただ、音楽専門家の意見とは異なる民俗学の研究者の視点が入ったとき、アパラチア音楽の研究は別の意義を与えられることになった。英国の伝統に関する視点は必ずしも絶対的なものではなかったのだ。ション・ローマックスとアラン・ ローマックスを筆頭にする民族学者、活動家の一派は、アパラチアの住民の民族性を調査するため、1930年代から40年代にかけて、時事的な曲や流行歌を蒐集した。このとき、必ずしもニューイングランド系の移民のみでこの音楽が演奏されるわけではなく、非白人のアパラチア人が演奏していたものもあったことが明るみに出るようになった。

 

稀少な事例であるが、ジェームズ・ムーニーによる「チェロキーの神話」、アフリカ系アメリカ人の鉄道バラード「ジョン・ヘンリー」の物語を明らかにした1920年のルイ・チャペルの未発表曲等が発見されると、必ずしもアパラチア音楽が白人のために限定された音楽とは言い難くなった。つまり、この点は20世紀前後のブルースの原点にあるプランテーションソングや鉄道員の歌と連動して、これらのアパラチア音楽が形成されていったことを伺わせるのである。

 

 

Dulcimerという謎の多い楽器


さらにアパラチア地帯には、スコットランド/アイルランド系の移民だけが生活していたわけではないことが歴史的な研究で明らかになっている。

 

他にもドイツ系、フランス系ユグノー、東ヨーロッパ人等多様な民族がこの山岳地帯に定住している。他にも20世紀初頭、アフリカ系アメリカ人がアパラチアの人工の約12パーセントを占めていたとの調査もある。さらにこれらのグループは、密接な関係を持ち、孤立していたわけではなかったことが判明している。アパラチア音楽のアイコンとなっている楽器「マウンテン・ダルシマー」は、ドイツのシャイトルトの系譜に当たる楽器と言われている。この点から、スコットランド人に留まらず、ドイツ人もヨーロッパ固有の楽器をこのアパラチア地域にもたらしたことを意味している。

 

さらに、ダルシマーという楽器は、フォルテ・ピアノの音響の元になったもので、フィレンツェのメディチ家が楽器製作者の”バルトメオ・クリストフォリ”に制作させた。クリストフォリはダルシマーをヒントに、いくつかの段階を経て、ピアノという楽器を製作した。ダルシマーは、アメリカーナの楽器のスティールギターの元祖であるとともに、驚くべきことに、イスラム圏の「ウード」にも似ており、日本の和楽器の「琵琶」にも良く似ている。つまり、この楽器はヨーロッパにとどまらず、イスラム、アジアとも何らかの関連性があることも推測される。

 

ブルーグラスやカントリーでお馴染みの楽器、バンジョーやマンドリン、ストリングスバンドが取り入れられたのはかなり早い時期で、1840年代であった。この時代にはミンストレル・ショーと呼ばれる演芸が行われ、アパラチア音楽が一般的に普及していく契機を作った。ジョーン・ベッカーは、「バラードや伝統的なゴスペルのような賛美歌だけではなく、登山家はその時代、伝統的なアングロサクソンの歌をうたっていた」と述べている。「もちろん、バラードや伝統的な歌にとどまらず、現代的な話題を題材にした新しいバラードも楽しんでいたのです。彼らは郵送で購入したギター、バンジョー、マンドリンと並べて手作りのフィドルも演奏していた」

 

20世紀の初頭、アパラチア音楽とは何を意味していたのか。1927年の夏、ラルフ・ピアという人物がビクター・レコードのためにブリストル(テネシーとバージニアの間にある)で行ったこの音楽のアーカイブ録音が存在する。録音の演奏者と曲のレパートリーを決定する上で、ラルフ・ピアは実際の演奏者に現代的な曲を避けるように指示している。しかし、なかなか実際に演奏出来るミュージシャンが見つからず、アパラチア音楽の録音は暗礁に乗り上げかけた。

 

しかし、そこには明るい兆しもあった。テネブ・ランブラーズは当時、ジミー・ロジャースというミシシッピの若手歌手を加入させたばかりで、レコーディング前に「自分たちが持っている曲よりも古く、田舎風の曲を探さなければいけない」と言われていた。バンドは解散してしまったものの、ロジャースは初のレコーディングを行い、カントリー・ミュージックの最初のスターとなった。

 

その時代と並んで、ゴスペルスタイルの歌をうたうカーター・ファミリー・プロテスト、同じくゴスペルシンガー、ブラインド・アルフレッド・リード、さらに、ホーリネス教会の牧師であったアーネスト・フィリップス、BFシェルトン、フィドル奏者でセッションにアフリカ系アメリカ人として最初に参加したエル・ワトソンなどが、そのサークルに加わることになる。上記の演奏家や歌手は、フォーク音楽の出発が、紡績の糸から組み上げられていることを示した。

 

 

アパラチア音楽の本質とは何か




アパラチア民族が山岳での農業、紡績、あるいは鉱業を営む傍ら、これらの音楽にどのような意義を与えていたのか。あるいは意義を与えられたのか。それは少なくとも、生活に密着した音楽的な表現を生み出すことであり、また、日頃の生活に潤いを与えるために音楽を歌ったことは、19世紀の綿花を生産するプランテーション農場で黒人の女性たちが歌った「プランテーション・ソング」、鉄道員によるワイルドな気風を持つ労働歌である「レイルロード・ソング」と同様である。そして、アパラチア音楽の場合は、単一の民族ではなく多民族で構成され、複数の楽器、フィドル、ダルシマーといったヨーロッパ、イギリス諸島の固有の楽器が持ち込まれ、独自の進化ーーアパラチアン・フォークーーというスタイルが生み出されることになった。これらの基礎を作り上げた中には、アフリカ系アメリカ人もいたことは付記しておくべきか。

 

また、著名な研究家であるウィリアム・フォスターは、アパラチア音楽の本質について次のように述べている。「アパラチア音楽が”アメリカ文化の特徴的で信頼すべき変種である”という意見は、依然として少数派の意見であると考える人がいるかもしれません。しかし、それは音楽が重要でなくなったからではなく、時代が進むごとに音楽用語として廃れつつあったからなのです。少なくとも、アパラチア地方の音楽は単一のものではなく、20世紀の音楽の創造におけるもうひとつの多角的な側面を示しています」 

 

「少なくとも、ブルース、ジャズ、ブルーグラス、ホンキートンク、カントリー、ゴスペル、ポップスにアパラチア音楽の影響は顕著に反映されています。これらの音楽のスタイルは、それ以外の地域の固有の音楽と同じように、アパラチアの文化性を担っている。アパラチアの音楽はアメリカの物語とよく似ています」とフォスター氏は語る。「アメリカでは、ミュージシャンはカテゴリーや系統の純度をあまり気にすることはありません。彼らはそれ以前の音楽を新しい翻案の素材として見なし、自らに適したスタイルや形式を熱心に掘り下げて来たのです」



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毎年3月17日に行われるセント・パトリックス・デーは、パレードやお守り、そして緑のカラーに染まる。今年も世界各地でアイルランドの守護聖人のイベントが開催された。

 

人々は、目の覚めるような緑の民族的な衣装や山高帽を身にまとい、大きなパトリックの人形を制作し、街を練り歩き、バクパイプを演奏しながら、このお祭りを盛大に祝うのが通例である。このセント・パトリックのイベントは宗教的な祝日として始まったが、後にアイルランド文化の祭典となりました。このイベントは実は例年、原宿でも行われ、ひそかなパレードが開催されるのが通例となっている。このパレードはアイルランド系の多いボストン、サンフランシスコ、シカゴでも開催されることも。特にシカゴの運河が緑色に染まるのを見たことがある方はいるだろうか。


聖パトリックはアイルランドの守護聖人と一般的に言われているが、常にアイルランドに住んでいたわけではないようです。パトリックは、4世紀にイギリスで生まれ、アイルランドに来たのは16歳の時でした。到着後、パトリックはキリスト教に興味を持ち、他の人々にこの宗教について伝道を行うに至った。彼は、この国の住民の多くをキリスト教徒に改宗させたと言われており、現在では、パトリックが亡くなったとされる日に聖パトリック・デーが祝われている。


米国の移民はイギリスだけではなく、アイルランド系もいる。ボストンのアイルランド系アメリカ人は、1737年に最初の祝賀行事を開催しました。新しく設立されたチャリタブル・アイリッシュ・ソサエティ(Charitable Irish Society)主催の晩餐会は、3世紀近く経った今でも毎年恒例となっている。1762年、ニューヨーク市は最初のパレードを開催し、これが世界最大かつ最古のセント・パトリックス・デイ・パレードとなった。


ジョージア州サバンナの海岸沿いの街は、1812年までさかのぼり、南部のセント・パトリックス・デーの首都としての地位を確立している。1962年以来、川を緑色に染めていることで有名なシカゴは、1843年以来パレードを行っている。


これらのアメリカの都市では現在も、アイルランドから蛇を寓意的に追い出した人物に捧げる最大級の祝祭が行われている。この祝日のアイルランド系アメリカ人のルーツは、コンビーフやキャベツのような、伝統的なセント・パトリックス・デイの食べ物にあり、これが本来はアイルランド料理ではない豚肉をアイルランドの人々が好む理由になっている。それでは、聖パトリックとは何者なのか、お祭りに欠かすことの出来ないティップスについて詳しく見ていきましょう。

 


・聖パトリック

 


聖パトリックは紀元386年頃、ローマ帝国時代のイギリス、おそらく現在のウェールズ地方で生まれた。16歳の時に奴隷としてアイルランドに連れて行かれ、6年間監禁された。その後、アイルランドの人々にキリスト教を広めるために逃亡し、再びアイルランドに戻ってきた。


パトリックは生前、司祭となり、461年3月17日に亡くなるまで、エメラルドの島中に学校、教会、修道院を設立した。しかし、アイルランドの守護聖人であり国家的使徒であるパトリックが、カトリック教会によって聖人に列せられたことがないことに驚く人もいる。400年代には正式な列聖手続きがなかったからだ。パトリックを "聖人 "と呼ぶようになったのは、パトリックの人望が厚かったためであろう。


この色合いが祝日と結びつくようになったのは、1798年のアイルランドの反乱以降である。古代のアイルランド国旗を飾っていた青が、セント・パトリックス・デイと最初に結びついた。しかし、反乱軍は赤を身にまとったイギリス軍と区別するために緑を着用し、それ以来、この色はアイルランドとアイルランド人を世界中に示すようになった。



・シャムロック


 

アイルランドの国花であるシャムロックも3月17日の象徴となる。聖パトリックが三位一体を説明するために三つ葉のシャムロックを使ったという伝説があるが、それを証明する歴史的証拠はない。しかし、シャムロックは17世紀後半から18世紀初頭にかけてエメラルドの島のシンボルとして使われてきた。


セント・パトリックス・デーを、今日のように盛大に祝うようになったのは、アイルランド系アメリカ人の発案によるところが大きいが、本国のアイルランド人も同様に、セント・パトリックス・デーを祝うようになった。1903年、アイルランドでは聖パトリック・デーが祝日となり、宗教的な祝祭が世俗的な領域に拡大された。同年、ウォーターフォードでパレードが始まった。今日、アイルランドで最も早いパレードは、日の出前にディングルで始まることで有名。町の人々や観光客が参加する。そして、1931年に最初のセント・パディーズ・デーのパレードが行われたダブリンでは、パーティーは4日間のフェスティバルに成長した。



・なぜバグパイプを吹くのか



世界各地で開催されるアイルランドのお祭り、セント・パトリックス・デイとスコットランドのケルトやバグパイプがなぜ関係するのかについては、ケルト文化や伝統を祝うためという有力な説があるようだ。特にケルト文化性を呼び起こすために演奏されると見るのが妥当だろう。

 

アイルランドとスコットランドは、ともにケルト民族に強いルーツを持ち、両国の間には共通の文化的歴史がある。特に、セント・パトリックス・デーを広く祝っているアメリカのような国のディアスポラ・コミュニティーの文脈では特に意義深い。アイルランドとスコットランドの伝統が融合した祝祭は、両国の密接な歴史的・文化的結びつきを反映しているのかもしれない。


数世紀前、アイルランド人はグレート・アイリッシュ・ウォーパイプと呼ばれるスコットランドのバグパイプによく似た楽器を演奏していた。このバグパイプはその後、反乱を誘発するとしてアイルランドでは禁止され、アイルランド人はより静かで屋内でも演奏できるウイリアン・パイプと呼ばれる座奏式のバグパイプに移行した。バグパイプはアイルランドの遺産として忘れ去られることなく、アイルランドの海を渡って長い間パイピングの伝統の一部となっている。


2つ目は、北アイルランドの一部にはイギリス人によって移植されたスコットランド人が住んでいたことだ。これらのスコットランド人は祖国とのつながりを保ち、地元の人々と混じり合いながら、キルト、スコティッシュ・バグパイプ、その他のスコットランドの伝統をアイルランドに持ち込んだ。


新大陸に移住したスコットランド系アイルランド人の一部は、初期のアメリカ合衆国に大きな文化的影響を与え、訛りの一因となり、スコットランド文化とアイルランド文化の両方の要素を開拓地にもたらした。その後のアイルランド系移民の波は、これらのスコットランド系アイルランド人によってすでに築かれたアメリカ系アイルランド人のアイデンティティを目の当たりにし、自分たちがこの傘の下にうまく収まることを発見した。アイルランド系移民とスコットランド系移民は非常に武骨な伝統を持ち、初期の軍隊や法執行機関の隊列に貢献した。



セント・パトリックス・デーは世界中に広がり、イギリス、カナダ、アルゼンチン、オーストラリア、ニュージーランド、日本などでも祝われている。音楽的には、ボストンのパンクバンドがバクパイプの演奏を取り入れたり、ケルト文化に対する敬意を示すのは、ボストンの街の文化の中に、そして彼らのバンドの中にケルトの源流が求められるからではないかと推測される。


アイリッシュパンク/セルティックパンクについてはこちらをご覧ください。

 


ブラック・ミュージックの系譜を説明するに際して、ダンスの要素を差し引いて語ることはとても難しい。そもそも、ダンスは音楽と連動するようにして文化の中核を担ってきた経緯があるからである。ロックにしても、ソウルにしても、ハウスにしても、音楽には常に踊りが付随して文化発展を辿った経緯がある。アクションのない黒人音楽、それは無味乾燥なもので、ひどくつまらないものになるだろう。例えば、50年代には、ロックンロールという踊りがあったし、ツイスト、ポップコーン、ブギー、チキン、バンプ、ゴーゴー、ハウス、とその後の数十年をかけて、ダンスカルチャーの系譜を作り上げてきた。これらはスタジオの中にある音楽を一般のストリート・カルチャーに開放する力を持っていた。だから音楽家や取り巻きに留まることなく、多数の人々に支持され、インディーベースでも支持層を拡大してきたのだった。

 

ブラックミュージックは、移民系の有色人種や、そこに部分的に関わる白人のダンスカルチャーの一端を担っている。厳密に言えば、その後のヒップホップですらも、文学的な試みや個人的な告白や暴露、人種的なステートメントとは別に、ダンスの要素が不可欠となっている。ブラックミュージックは、音楽からダンスが離れすぎてもいけないし、それとは反対にダンスから音楽が離れすぎてもいけない。そして、ストリートのダンスとスタジオの音楽の融合がブラックミュージックのヒストリーの核心を構成している点を踏まえると、動きが少なく踊れることができないブラックミュージックはお世辞にもヒップとはいいがたい。そして主流の系譜からは外れており、それはオルタネイティヴに属すると言えるのだ。

 

今年開催されるパリ・オリンピックでも注目の競技となる、ブレイキングのルーツは、基本的には1970年まで遡る。 一般的にはブレイクダンスと言われることもあるが、これは主流メディアのプロモーションの後、ネーミングの変更を余儀なくされた。


ブレイクダンスというワードは、カルチャーの奥深くを知るものにとってそれほど良い響きとはならず、そもそもこの用語は、卑下の意味をもたらすこともある。そのため、複数のオリジネーター、RUN DMCを中心とするアーティストは、ブレイキングという言葉を用いることを推奨している。ただし、こういう話を持ち上げると、文化そのものの持つ面白さが薄れる場合があるため、この話は飽くまでブレイキンの原理主義的な話として捉えておいてもらいたいのだ。



DJ Cool Harc


オールドスクールヒップホップの重要なファクターとなる、「b-boy」、「b−girl」というワードは、そもそも「Break-ブレイク」という語の省略から生じている。このジャンルを最初に発生させたのは、ブロンクス地区で活躍していた「DJ Kool Herc」というのが通説だ。彼は、ジャマイカからの移民で、地元の公園でDJをしていた。彼の音楽活動の出発点はレゲエだったのだ。


音楽を公園で流すというのがヒップホップの最初の出発だったが、これが後にもっと自分でも音楽を制作したいという創作的な欲求が沸き起こったのは当然のことであり、それがそのまま原初的な「サンプリング」の形になった。それは機材や楽器を購入する資金がないという切実な状況から、エコな方法を取るに至ったのである。クール・ハークは、ブレイキングという言葉に関して、「興奮させる」、「精力的に活動する」という意味が込められていると語る。ブレイキングが躍動的で、この音楽が生命力を掻き立てる理由というのは、こういった原点を見ると、よりわかりやすいと思う。


それでは、ブレイキングのダンススタイルはどう作られていったのか。「b-boy」の多くの要素は、1970年以前の他のカルチャーの影響下にある。このダンスの先駆者として名高い、Rock Steady Crue(ロック・ステディー・クルー)のクレイジー・レッグスは、「b-boy」の出発は、ジェイムス・ブラウンの影響下にあるとしている。


クール・ハークを始めとする、ブロンクス地区に拠点を置くDJは、ダンスレコードのリズムのセクションを引用し、それを連続してループさせ、延長させた。電子音楽をはじめとする他の音楽のジャンルでも取り入れられることがある、音が一瞬で次の空間に飛ぶようなトリッピーな感じを表した「ブレイクビーツ」という語は、そもそもサンプリングの一形式を意味する。これは他のサウンドの引用や再解釈を元にして、それらをどのように発展させていくのかという、DJの創意工夫から始まったのだった。もちろん、下手なサウンドを組み上げればブーイングとなり、センス良くサウンドを構築すれば称賛される。いわば、DJとしての腕の見せ所でもあったのである。

 

そもそも、ブレイクビーツというジャンルも単なるサンプリングの一形式を示すだけにとどまらず、ダンス形態の一を意味する。推測にすぎないが、ブロンクス地区の公園で、レゲエやその他のソウル、そして続いて、サンプリングを披露するうちに、誰かが踊り始め、それがクールとなれば、他の誰かがそれを模倣し、より洗練された形にしていったのだろう。そして一般的には、犯罪沙汰や暴力沙汰に生命エネルギーを注ぎがちな若い青年に、クール・ハークを中心とするリーダー的な存在の人物が、ダンスによってエネルギーを使用するように呼びかけたというのが妥当な見方である。


本来、ブレイクビーツもダンサーが休憩のとき、即興を披露出来るスペースを提供するために生み出されたものだった。この動きは、創造性、スキル、音楽との同期という形を通じ、ダンスクルーの間に繰り広げられるコンペティションに繋がった。これらの最初のブレーカーは、バトルのような様相を呈することもあり、ここに対人でのバトルという競技のルーツを見ることが出来る。


そして、この最初の文化をもたらしたのは、移民を中心とするグループだった。最初の創成期のグループ、Sal Soul、Rockwell Associationといったグループのダンスクルーはほとんどがヒスパニック系で構成されていた。驚くべきは、最初のb-boyの九割がプエルトリコ系で占められていたという。



もうひとつ、ジェイムス・ブラウンの影響とは別に「uprock-アップロック」と呼ばれるダンススタイルの吸収も度外視することは出来ない。音楽のリズムを通じて、互いのダンサーの動きを模倣するという面白い形式である。


これらの動きには、相手を挑発するような意図もあるため、一般的に攻撃的なダンスであると見なされている。このトップロックの系譜にあるスタイルを導入するブレーカーによって採用されたことをのぞいては、このスタイルが後のブレイキングのような注目を浴びることはほとんどなかった。 


また、それ以降のブレイキング・ダンスは、ストリートカルチャーの気風が強まり、アーバンなストリートダンスとしてストリートで一般的に普及していく。音楽的には、ヒップホップの進化と並行して、ソウル、ロック、ファンクのビートに合わせて、パフォーマンスされることが多かった。音楽的な参考例としては、ジミー・キャスターによる「It's Just Begun」などがある。

 

ブレイキングの踊りの特徴としては、躍動的なアクションが強い印象を放つ。頭を床につけて、クルクル回転する動きをしたり、足と頭のポジションを一瞬で変化させるアクロバティックな動きは、このダンススタイルの視覚的な魅力でもある。こういったスタイルは70年代ごろに一般的になった。


もちろん、今ほど複雑な動きではないにせよ、ターン、フットシャッフル、スピン、フリースタイルといった90年代以降、ヒップホップが最もヒップとされる時代のダンススタイルと直結している。これらがb−boyのダンスに導入される場合は、対戦相手は、同じようなアップロックの動きで反応し、より短く、細かな動きで応えてみせた。

 

女性もまたこのストリートダンスに参加したが、通常は二人の男性が向かい合って踊ることが多かった。ブレイキングの原理主義的な形態の1つである「アップロック」の根底にある哲学は、「バーン」と呼ばれる手の細かな動きとジェスチャーに求められる。この模倣的な手の動きには意味があり、ディスることによって、相手を弱体化させるという意味が込められているという。


当初のブロンクスのダンサーは、こういった挑発的、あるいは扇動的な動きを取り入れながら、ラップバトルのような形で、ストリートダンスを普及させた。ダンスバトルにおける勝者がどのように決められたのかと言えば、音楽とダンスの動きを、巧みに連動させ、同期させることが上手いダンサーが選ばれた。そこには、模倣的な表現に対する攻撃や挑発の意味が込められており、ここにヒップホップの先駆者たちの皮肉と自負が込められている。つまり、彼らは、このヒップホップカルチャーが模倣的であることを自覚した上で、独創性をなによりも重視し、オリジナリティがないものはダサいという認識を持っていたのだ。これが、現代のヒップな音楽を見極める上での重要な鍵になっているのは明らかである。

 

以後、ロッキングとアップロッキングが発展していくにつれ、「ジャーク」と呼ばれる動きと「バーン」と呼ばれる動きが融合され、ダンサーの戦いをエミュレートしていくことになった。ブロンクスの市中のダンサーは、その後、ストリートダンスを洗練させるため新しいジェスチャーを加えた。


1980年代に入り、ギャングスタは新しい形式のダンスを披露するようになる。彼らが街の片隅で友達とぶらぶら歩きながらストリートで踊ることは一般的になった。ブレイキングダンスはこのようにしてストリートの文化として市民権を得るに至ったのである。



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イパネマの海岸


ボサノヴァは1950年代のブラジルを発祥とする音楽で、リオデジャネイロのビーチに隣接するコパカバーナとイパネマの2つの地区の中流階級の学生とミュージシャンのグループにより始まった。


このジャンルは、アントニオ・カルロス・ジョビンとヴィニシウス・デ・モラレスが作曲し、後にはジョアン・ジルベルトが演奏した「チェガ・デ・サウダージ」のレコーディングにより一躍世界的に有名になった。


もちろん、知名度で言えば、「イパネマの娘」も世界的な知名度を持つヒット・ソング。くつろいだアコースティックギターの演奏、甘いボーカル、パーカッションの心地良い響きなど、心を和ませる音楽は、今も世界のファンに親しまれている。

 

 

ボサはサンバとともにブラジルを象徴する音楽でありつづけたのだったが、同時にその誕生は、政治的な意味と文化的な表現が融合されて完成されたものだった。これはスカやレゲエの前身であるカリプソが当初、トリニダード・トバゴの軍事的な意味を持つ政府お抱えの音楽としてキャンペーンされたのと同様である。1956年から61年にかけてのジュセリーノ・クビチェック政権は、ボサノバの文化的な運動の発生を見るや、政権としてこの音楽を宣伝し、バックアップしたのだった。クビチェック政権がもたらした成果はいくつもある。ブラジルの国家の近代性の立ち上げ、全般的な産業の確立、それから自国での石油の生産と供給の権限である。もちろん、ブラジリア市建設の主導権を握り、国家の独立性の重要な立役者となった。


芸術運動は、そもそも経済産業の余剰物であり、経済産業の一部にはなっても、根幹となることは稀である。果たして、政治的、経済的の基礎的な安定なくして、国家の文化事業を生み出すことが可能だろうか? 


つまり、これこそが経済的に安定した国家から優れた音楽が登場する理由なのだ。幸運にも、50年代後半のブラジルは、上記の条件を満たしていたこともあり、比較的経済的に恵まれた若者の気分に余裕が出来た。つまり、余剰の部分が後の世界的な文化を生み出すことに繋がった。当時のリオデジャネイロが生み出したのは、何も音楽だけではない。リオは、その当時の世界の中心地である、パリやニューヨークに向けて、最新のファッショントレンドを発信した。

 

そして、この大統領政権時代には、無数の文化が世界に向けて輸出され、それらがブラジルの固有のカルチャーとなったのである。文学的な活動、また、そこから生まれた詩、シネマ・ノボ、自由劇場、新式の建築、ボサノヴァが世界に向けて発信された。ボサノバは、ブラジル音楽の歴史で重要な役割を果たし、サンバの音楽から熱狂的な打楽器の要素を取り除き、対象的に静かで落ち着いたサウンドに変化させ、米国のジャズやフランク・シナトラのジャズ・ボーカルの影響をもとに、それらを最終的にジャジーなムードを漂わせる大衆音楽へと昇華させたのだった。

 

 

Antnio Carlos Jobin


当初、リオの海岸の街で生み出されたブラジルのジャズとも言えルコのジャンルは、アントニオ・カルロス・ジョビンによって磨きがかけられた。 ジョビンはリオデジャネイロのチジュッカ地区に生まれたが、14歳の頃からピアノをはじめた。音楽で、生計を立てたいと若い時代から考えていたが、家族を養うため、建築学の道に進むことを決意した。


しかし、建築学校に入学後、どうしても夢を捨てきれず、ラジオやナイトクラブでピアノ演奏家として働いていた。その後、ハダメス・ジナタリによって才覚を見出され、コンチネンタル・レコードに入社し、譜面起こしや編曲の仕事に携わった。カルロス・ジョビンの音楽にプロデューサー的な視点があるのは、これらの若い時代の経験によるものだ。その時代から、幼馴染のニュートン・メンドゥーサと一緒に音楽活動を始め、これが後に、「想いあふれて(Chega De Saudade)」で完成を見た。このレコードが世界で最初のボサノバ・ソングと言われている。

 

 

 

アントニオ・カルロス・ジョビンの音楽には、幼少期からのクラシック音楽の薫陶、クロード・ドビュッシーのフランスの近代印象派に加え、ブラジルの作曲家、ヴィラロボスの影響があった。それに彼は米国のジャズの要素を加えて、ボサノバの代名詞となるサウンドを構築していく。歌詞についても、音楽と密接な関係があり、ブラジルのルートリズムに根ざしている。

 

「イパネマの娘」 はカルロス・ジョビンが1962年に録音したボサノバソングで、このジャンルの最大のヒット作である。この曲はヴァイニシウス・モライスが作詞を手掛けた。ビートルズの「ハード・デイズ・ナイト」に続いて、世界で最もカバーされた曲でもある。


イパネマとはリオの南部の海岸筋にある地区を指し、現在では名高いサーフィン・スポットとして知られている。海岸にある半島には遊歩道があり、素晴らしい夕暮れの景観を楽しめる。


イパネマ地区の近隣には、 緑の多い通り、ファッション・ブティック、ダイニング・レストランなどがずらりと並ぶ。現在でも、ボサノバのアコースティック演奏を楽しめる、くつろいだスペースもある。

 

 

Marcus Vinícius da Cruz e Mello Moraes


この曲は音楽家として知られるようになっていたジョビンと外交官/ジャーナリストのモライスが共作した。1957年頃から二人は、コンビを組んで活動を行っていた。両者はボサノバの最初のムーブメントを牽引した。

 

「イパネマの娘」の曲の誕生にまつわる面白いストーリーがあるので、ここでひとつ紹介しておこう。当時、ジョビンとモライスを始めとするボサノバのアーティストは、リオのイパネマ海岸近くにあるバー「ヴェローソ(ガロータ・デ・イパネマ)」に通い、酒を飲んでいたという。そこへ、エロイーザという少女が現れ、母親のタバコを買いに来た。10代後半の女、比較的背が高く、近隣でも有名であった。好色家の二人は、この女性にインスピレーションを得た。その場で即興で作られた曲という説もあるが、実際は作詞作曲ともに、二人の自宅で制作された。

 

1962年、この曲は正式にお披露目となった。そのお披露目には、ジョビン・ジルベルト、モライスとボサノヴァのスターが共演した。しかし、懸念すべき事項があった。この曲が初演されたのは、リオのナイトクラブ「オ・ボン・グルメ」で8月2日から45日間にわたって開催されたショーだった。外務省から「外交官がナイトクラブに出演するなど言語道断である!」との通告を受けたモライスは、報酬は貰わないと決めた上でステージに出演し、クラブに来客した友人の飲食代を肩代わりした。しかし、モライスは終始酒に酔い続け、飲み代がかさみ、あげくはナイトクラブのショーの後には出演者の料金まで受け持つことになったという。


 

『Getz / Gilberto』1964


後に、「イパネマの娘」は、スタン・ゲッツ、カルロス・ジョビン、ジョアン・ジルベルト、アストラッド・ジルベルトのバージョンで世界的に有名になった。1964年のアルバム『GETZ / GILBERT』は、ボサノバ・ブームの火付け役となった。本作は、ビルボード誌のアルバム・チャートで2位に達する大ヒット作となり、「イパネマの娘」もシングルとして全米5位に達した。


そして、グラミー賞では、アルバムが2部門(最優秀アルバム賞、最優秀エンジニア賞)を受賞し、「デサフィナード」が最優秀インストゥルメンタル・ジャズ・パフォーマンス賞を受賞、「イパネマの娘」が最優秀レコード賞を受賞した。本作の音楽は本来のボサ・ノヴァとは別物であると主張する声も多かったが、結果的には、アメリカにおけるボサ・ノヴァ・ブームを決定づけた。

 

「イパネマの娘」のリリース後、ブラジルと米国を中心に大ヒットを記録し、続いて、日本、フランス、イタリアで知られるようになり、世界的なヒット・ソングとなった。

 

スタン・ゲッツやチャーリー・バードといった米国のジャズ演奏家がボサをカバーしたのをきっかけに、米国にもこのジャンルが一般的に浸透した。優れたジャズ演奏家がボサノバを発見したことで、音楽的にも磨きがかけられた。シンコペーションが取り入れられ、洗練された響きを持つようになった。

 

 


 

1950年代、ビック・スリーと呼ばれる、ジェイムス・ブラウン、ジャッキー・ウイルソン、サム・クックが登場した後、新しいタイプのR&Bシンガーが登場した。ニューヨーク、ニューオーリンズ、ロサンゼルスを舞台に多数のシンガーが台頭する。ファッツ・ドミノ、ルース・ブラウン、ファイブ・キーズ、クローヴァーズがその代表格に挙げられる。この時代は、ビック・スリーを筆頭に、必ずといっていいほど、ゴスペル音楽をルーツに持っているシンガーばかりである。


近年、ヒップホップを中心に、ゴスペル音楽を現代的なサウンドの中に取り入れるようになったのは、考え方によっては、ブラックミュージックのルーツへの回帰の意味が込められている。そしてこの動向が、2020年代のトレンドとなってもそれほど不思議ではないように思える。

 

そもそも、「R&B(リズム&ブルース)」というのは、ビルボードが最初に命名したもので、「リズム性が強いブルース」という原義があり、第二次世界大戦後すぐに生まれた。その後、ソウルミュージックというワードが一般的に浸透していき、60−70年代の「R&B」を示す言葉として使用されるようになった。しかしながら、この年代の前には、R&Bではなく、「レイス・レコード」、「レイス・レーベル」という呼称が使われていたという。これはなぜかというと、戦前のコロンビアやRCA、ブルーバード、デッカなどのレーベルは、白人音楽と黒人音楽を並行してリリースしており、作品を規格番号で区別する必要があったからである。レーベルのカタログから「レイス・シリーズ」というのも登場した。現在の感覚から見ると、レイシズムに根ざした言葉ではあるが、コロンビア、RCAの両社は、戦後もしばらくこの方針を継続していた。

 

その後、1970年代に入ると、一般的に見ると、ブラック・ミュージックは商業化されていき、R&Bシンガーは軒並み大手のメジャー・レーベルと契約するようになる。 80年代になると、MTVやメディアの台頭により、ブラック・ミュージックの商業化に拍車がかかり、この音楽全体が商業化されていったという印象がある。しかし、それ以前の時代に、ブラックミュージック全体の普及に貢献したのは、全米各地に無数に点在するインディペンデント・レーベルであったのだ。

 

多くはメジャーレーベルの傘下という形であった。しかし独立したセクションを持つということは、比較的、攻めのリリースを行うことが出来、同時に、採算を度外視した趣味的なリリースを行えるというメリットがある。そして意外にも利益率を第二義に置くレーベルのリリースが主流になった時に、それが初めてひとつのムーブメントの形になる。メジャーレーベルではなく、独立レーベルがカルチャーを一般的に浸透させていったという点については、ヒップホップのミックステープやカセットテープのリリースと重なるものがある。

 

1950年代には、全米各地に無数の独立レーベルが誕生し、ブラックミュージックのリスニングの浸透に一役買った。R&Bの独立レーベルの動きは、実は最初に西海岸で発生した。モダン/RPM,スペシャルティ、インペリアル、アラディンは、この年代の最も有力なレーベルである。他にも、エクスクルーシブ、クラス、フラッシュなど無数の独立レーベルが乱立していった。

 

一方、東海岸でも同様の動きが湧き起こった。アトランティック・レコードがその先陣を切り、アトコ、コティリオンが続いた。 さらにメジャー傘下には無数のレーベルが設立された。サヴォイ、アポロ、ジュビリー、ヘラルド/エムバー、ラマ/ジー/ルーレット、レッド・ロビン/フュリーなど、マニアックなレーベルが登場した。続いて、シカゴでも同様の動きが起こり、前身のレーベル、アリストクラットに続いて、有名なチェス/チェッカー/アーゴが登場。リトル・リチャードでお馴染みのレーベルで、ロックンロールの普及に貢献した。

 

以上のレーベルは、音楽産業の盛んな地域で設立されたが、特筆すべきは、他地域でも同じようなブラックミュージックのレーベルが立ち上げられたこと。オハイオ/メンフィスでも有力なレーベルが登場した。特にオハイオのキング、メンフィスのサンは、R&Bファンであれば避けては通れない。その他、メンフィスといったレーベル、スタックス/ヴォルト、ハイが続いた。テキサス/ヒューストンでも同様に、デューク/ピーコックが設立、ナッシュビルでは、ナッシュボロ/エクセロなどが登場する。まさにR&Bの群雄割拠といった感じだ。

 

これらのレーベルは、新しいタイプのR&Bもリリースしたが、同時にそれ以前のゴスペル的な音楽やブルースの作品もリリースしている。この点については、それ以後と、以前の時代のブラック・ミュージックの流れを繋げるような役割を果たしたと見るべきかも知れない。

 

60年代に入ると、デトロイトからモータウンが登場し、のちのブラックミュージックの商業化への布石を作った。それ以降も独立レーベルの設立の動きは各地で続き、フィラデルフィア・インターナショナル、ニューヨークのカサブランカ、ニュージャージーのシュガー・ヒルといったレーベルが設立された。


70年代に入ると、ソウルミュージックをメジャーレーベルが牽引する。しかし、これは独立レーベルによる地道な普及活動が後に花開き、ジャクソン5、ライオネル・リッチー、マーヴィン・ゲイ、フランクリン、チャカ・カーンといった大御所のスターの登場への下地を作り上げていったことは言及しておくべきだろうか。


バウハウス  ‐ウォルター・グロピウスがもたらした新しい概念  Art Into Industry-

 

 

20世紀以前の芸術運動は、ロマン主義が主流だったが、以後の時代になると、前衛主義が出てくる。シュールレアリズムは、最初にロマン的表現に対する反動の意味を持ち、芸術運動の一角を担った。これはクラシックなどの音楽や文学の流れと非常に密接な関わりを持っている。


アンドレ・ブルトンが提唱したシュールレアリズムの影響は、表面的な芸術性にとどまらず、深層意識にある目に映らない概念性をテーマに置くように芸術運動全般に促す。この動きと関連して、ドイツのヘルマン・ヘッセも戦後、以前のロマン主義の表現に見切りを付け、文学活動の一環として象徴主義/シンボリズムの影響を取り入れるようになった。以後のドイツ/オーストリア圏の作家はこぞって、これらの意識下の領域に属する奇妙な表現性を追求していく。すべての表現媒体はすべてどこかで繋がっており、互いに影響を及ぼさずにはいられないのである。

 

フランスのシュールレアリズムの動きと時を同じくして、ドイツから合理主義的なアートの潮流が出現する。つまり、それが今回ご紹介するバウハウスを中心とする「前衛主義」である。中世のヨーロッパの芸術活動は基本的に、宗教画と併行して、市井に生きる人々(時代の流れとともに、貴族や特権階級から一般的な階級へと画家の興味やテーマは移行していく)をモデルやテーマにしていた。(フランスの近代抽象主義、モンパルナスの画家の作品を参照のこと)しかし、芸術運動はいつも新しいなにかに塗り替えられ、古いものは一新され、それらの常識は以後通用しなくなった。ワシリー・カンディンスキーを筆頭に、東欧圏の芸術家は、図形、あるいは幾何学的なフォルムを作風の中に大胆に取り入れ、WW2の以前の時代に新たな気風を呼び込んだ。東欧圏の芸術家たちは、より図形的でパターン的なアートの手法をもたらした。


一般的に見ると、中世絵画は、画商やパトロンのために美しいものや崇高なものを描くのが主流だったが、前衛主義の画家たちは、美という概念のコモンセンスを覆し、実用性と革新性を追求していく。これはフランスのマルセル・デュシャンの芸術主義とも無関係ではないが、前衛主義のアーティストたちは、絵画を「デザイン的なもの」として解釈しようと試みる。その中で出てきたのが「バウハウス宣言」という大々的なキャッチコピーである。これらの合理主義に根ざした概念は建築学にも受け継がれ、ル・コルビジュエの建築に深い影響を及ぼすに至る。

 

 

Bauhaus  社会階級の壁を乗り越える新たなマイスター制度

 



バウハウスは、20世紀初頭、ドイツの芸術専門学校として創設された。ウォルター・グロピウスにより設立されたこの学校を中心として、最終的には建築とデザインに対するユニークなアプローチを特徴とする現代美術運動へと発展していく。1919年、ウォルター・グロピウスは、リベラルアーツの分野を一つの屋根の下に統合するというコンセプトを込め、バウハウス(正式名称: Staalitches Bauhaus)を設立した。バウハウスの学生からは、ヨーゼフ・アルバース、ワシリー・カンディンスキー、パウル・クレーなど多くの偉大な芸術家が輩出された。この芸術学校は、ワイマール(1919-1925)、デッセウ(1925-1932)、ベルリン(1932-1933)と3つの都市に開校した。専門学校のマークとしてもシンボリックなデザインが取り入れられ、これがバウハウスの主要なイメージを形作っていることは言うまでもない。

 

バウハウスの創設者のウォルター・グロピウスは、バウハウスのコンセプトについて次のように説明している。「建築家、彫刻家、画家。私達は、手作業に戻らねばなりません。・・・したがって、社会階級を分断し、職人(マイスター)と芸術家(アーティスト)の間に乗り越えられない障壁を立てようとする世の中の傲慢さから開放するべく、職人による兄弟愛を確立していきたいのです」

 

グロピウスの言葉には、ドイツ/オーストリアのギムナジウムにおけるエリート教育、及び職人のマイスター制度という2つの障壁を取り払うという意図が込められている。(ギムナジウムに関しては、ヘッセの「車輪の下」を参照のこと)厳然とした年代による職業差別を彼は取り払うべく努めた。建築、彫刻、絵、芸術、といったリベラルアーツ全般を通じてである。さらに、時代背景も考慮せねばならない。ブルジョワ社会の階級にある人々のみが手工業作品を楽しめる時代において、それらの特権性を一般的な人々にも開放するという意図が込められていた。第一次世界大戦後、デザイン、構成の解決策を求め、多様な社会規範と文化的な革新性が生み出された。この文化運動の延長線上にバウハウスは位置し、芸術運動の一環を司ることになる。

 

 

バウハウスの芸術運動の変遷

 


1. ハンドクラフトによる工業製品の製作


 

 


 

 

バウハウスは、1919年から1933年のナチス・ドイツの摘発による閉鎖に至るまで、いくつかの芸術様式を変化させた。

 

創設の意図にしたがい、当初は産業革命の後の時代のイギリスに端を発する機械産業からの脱却、及び、その産業の手工業化、職人の手作業における信頼性の回復や、職人の能力をアートと同等のレベルまで引き上げ、そして、その製品を販売することに主眼が置かれていた。つまり、機械的な製品ではなく、ハンドクラフトの製品の制作者を育て上げ、それをアートと同等の水準に引き上げていくという点に、バウハウスのエデュケーション(教育)は注力されていたのである。

 

そして、ウォルター・グロピウスの目的は、ハンドクラフト(手工業)の製品を「一般の人々に手頃な価格で提供する」というものだった。


当初、バウハウスでは、農業などで使用される運搬車のような目途を持つ「クレードル」のデザインなど、手工業デザインの制作を推進していた。以後の時代において、図形的、幾何学的なアートやデザインが頻繁に用いられるのは、当初、バウハウスの学習者が手工業デザインの製品を制作していたことに理由が求められる。


正当なエデュケーション(教育)とは、学習者を型に収めることではなく、学習を然るべき機関で修了後、能動的な行動を取れるよう促すものである。このことがバウハウスの最初期の教育方法に一貫しており、一般的な教育機関とは意を異にする事項である。その他、バウハウスでは、展覧会のポスターなども制作しており、最初期の作品としては、他の目的のために制作されたアート/デザインが多いことが分かる。

 

この年代の中で、学生は、手工業製品にとどまらず、金属加工、キャビネット、織物、陶器、タイポグラフィ、壁画などの他の用途のために制作された製品を生み出した。現在のDIYの発祥とも言うべき動きだ。これらの製品は基本的に手工業になされるインダストリーという概念に下支えされていた。

 

 

2.最初の変革期 「Art into Industry」


 



1919年に始まったバウハウスであるが、1923年になると、当初の手法が専門機関として財政的に採算が取れないことが分かった。

 

この年、バウハウスはドラスティックな転換を図り、芸術主義とも称すべき方向へと歩みを進める。芸術的には、ロシアの構成主義と、新造形主義を取り入れ、新しいアイディアを生み出すという内容であり、方法論としては、「本質の研究」と「機能性の分析」に照準が定められていた。その中で、バウハウスは「Art into Industry」というスローガンを掲げた。この動向に関連して、1925年にバウハウスはワイマールからデッセウへと移転している。この建物には、モダニズム建築の要素が取り入れられた。非対称の風車計画、ガラスのカーテンウォール、スチールフレームなど現代建築にも使用されるデザインが取り入れられている。

 

この年代でも前年代のハンドクラフト主義を受け継ぎつつ、実用性の高い製品づくりを行うようになっている。グロピウスは、デッセルの建築内のスペースを有効的に活用し、スタジオ、教室、そして管理スペースに分割した。同時に、1924年から28年にかけて、マルセル・ブロイヤーが提唱した、椅子などの物質は、徹底して軽量化され、「最終的に非物質化する」という考えに基づき、斬新なデザインの家具や工業デザインの製品が制作されることになった。

 

同時に、この流れに準じて、テキスタイルとタイポグラフィーがバウハウスでは盛んになっていった。デザイナーで織物工でもあるギュンター・シュテルツルの教えのもと、学生は、色彩理論、デザインにおける技術的な手法を学習しつつ、抽象的な意匠を持つ製品の制作に取り組むようになる。シュテルツルは、セロハン、ガラス繊維、金属など、ありふれた素材の使用を推奨し、更に、前衛的な製品を生み出すよう学生に精励した。特に学生が制作したテキスタイルに関しては、バウハウスの建築壁画や建物内のインテリアとして使用されるに至った。その中では、「Architype Bayer」という上掲写真の幾何学的なフォントが生み出されることになった。

 

 

 

 

3. ナショナリズムの台頭 バウハウスの終焉と亡命

 


 

多くの芸術活動は、その先鋭的な本質ではなく、外的な要因ーーとりわけ政治的な影響ーーにより堰き止められる場合が多い。ある表現者は、その弾圧を忌避するため亡命を余儀なくされる。ナショナリズムによる弾圧の動きは、既に1928年頃に始まっていた。創設者のグロピウスは、すでに学校を辞任し、建築家のハンネス・マイヤーが実質的なディレクターとなっていた。マイヤーは、大量生産に重点を起き、形式主義の趣があると思われるカリキュラムを削除し、広告と写真芸術における清新な息吹をもたらす。しかし、その頃、すでにバウハウスはナショナリズムからの圧力を受け始め、ほどなくマイヤーも1930年にディレクターを辞任する。

 

以後、ディレクターのポジションはファン・デル・ローエなる人物が引き継いだ。ローエは当時有名な建築家であり、第一次世界大戦後の未来的な建築様式の手法を示そうとしていた。この年代から、バウハウスによる当初のハンドクラフト/手工業的な生産方法は徐々に減少していった。

 

1932年、デッサウで行われた地方選挙において、ナショナリズムが主要政党に成り代わったことは、そのままバウハウスの終焉を意味していた。全体主義とナショナリズムの荒波が、バウハウスにも押し寄せようとしていた。学生の多くは、ナチス警察により逮捕され、尋問を受けた。1933年、バウハウスは閉鎖と解散を決定する。以後、ナチスの占領により、1945年のスターリングラードの戦いまで、全体主義とナショナリズムの動きが途絶えることはなかった。


しかし、バウハウスの主要人物の以後の最も剣呑な年代において、亡命という手段をやむなく選び、その教えを携えて海外に逃れて行く。彼らの多くは、米国への移住を決め、各地に散らばることになった。以後、ブロイヤーとグロピウスは、ハーバード大学で教鞭をとっている。また、その中には、イエール大学で教鞭をとった人物もいる。ファン・デル・ローエはイリノイ州に移住し、イリノイ工科大学で教えた。バウハウスの流儀は、以後、コルビジュエの建築という分野で継承された。もちろん、現在もどこかでそれらの教えが引き継がれているに違いない。




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Reference:

 

 

DDR(ドイツ民主共和国: 通称 東ドイツ)の時代の名残でもあるベルリン・ファンクハウスは、シュプレー川のほとり、工業地帯の一角にあり、現在は気鋭の若手音楽家の登竜門となっている。ファンクハウスは、第二次世界大戦間もない1951年に創設され、当初は東ドイツのラジオステーションとしての機能を担っていた。建築物内は複数のセクションで隔てられ、「ブロックA」などの名称で親しまれていた。ファンクハウスの設立当初は、4つの放送スタジオ、レコーディングルーム、および12の総数からなるスイッチングルームを完備していた。

 

フランツ・エールリッヒにより建築されたこのレンガ構造のアーキテクチャーは、現在では、ポピュラー音楽、実験音楽を問わず、多岐にわたるジャンルを主戦場とする音楽家たちがレコーディングするスペースとなっている。ファンクハウスの施設内には、大型のホールがあり、またミックスやマスタリングを行うレコーディングブースを付属している。この場所はアンダーグランドとメインストリームを架橋する役割を果たし、ベルリンのカルチャーの重要なファクターとなっている。ソビエトの統治下に発足した施設は、ラジオ放送局としての役目のみを司っていたわけではない。東ドイツ時代には、このファンクハウスには、音響エンジニア、ラジオアナウンサー、秘書、美容師などがこの放送都市に勤務していたという。その数、5000人。

 

ベルリン・ファンクハウスは、第二次世界大戦後のドイツの最も野心的な文化形成の礎の一つと見ても違和感がない。1952年にエールリッヒによる建築が始まると、56年まで建設が続いた。エールリッヒは徐々にセクションを追加していき、翌年には、ブロックBの建設に着手する。豪華絢爛なルネッサンスの建築様式を継承し、ホワイエにスラブの大理石を用い、複合体施設と称される土台の建築物を完成させる。以後、1960年にはさらに増設が進められ、ブロックEからTまで内部構造は膨れ上がった。当初の建築の設計の予想図から増設が繰り返され、原初的な設計図とは異なる建築が完成された事例は、サグラダ・ファミリアがある。だが、ファンクハウスの場合は、内部と外部構造の双方を増築するのではなく、内部構造を徐々に増強していく。



エールリッヒは、ドイツの機能的な美とモダニズムを基調とする”バウハウス”のデザイン、そして当時のソビエト建築を融合させ、唯一無二のアーキテクチャーを建造した。ソビエト連邦による統治と監視を否定的に捉えるのではなく、その様式を踏まえ、未曾有の建築様式を作り出した。それは、 複合施設としての意義を持つ、この施設の使用目的と合致している。しかし、これらの建築様式の中でもっとも性質が強く反映されたのが、他でもないソビエトの建築だった。旧(ソビエト)帝国首相官邸の大理石が階段に敷き詰められ、床壁はロシアの原生木材が使用された。後に音響施設として使用されることになる施設の一部には、音の反響性を意識し、階段には木材、石、カーペットといった素材を用い、最も音が生きる構造性が選ばれている。外壁のデザインを見ても、エカテリーナ朝の豪奢なデザインが用いられているのは瞭然である。

 

しかし、エールリッヒは少なくとも、これらの施設を単なる政治的なイデアを持つ建築物にとどめておくことを良しとしなかった。それはこの複合施設が「音楽」のために建築されたことにある。建築家と音響技師が共同で作業に当たり、複合施設としてあらゆる需要に応えるためにスタジオを完備する一大建築へと組み上げていったのだ。当初建築された空間の中には、小規模のレコーディング施設、そして現在も主要な音楽家がレコーディングの際に使用するメインホールなどがある。これはソビエトの統治下の時代を過ぎても、文化的な価値を誇る建造物を構築しようというエールリッヒの意図を読み解くことが出来る。建築は完成すれば終わりではなく、それがどのような用途で使われるのか、なおかつ時代の変遷を経て統治体制が変わろうとも普遍的な価値を持つ建築であることが最重要である。そのことをエールリッヒの建築は教唆してくれる。だから、現在もファンクハウスのメインホールやレコーディングブースは、WW2の時代のアンダーグラウンドの名残を遺しているが、多くの演奏家に親しまれる空間でもある。そして実際、現在は、ベルリン放送をはじめとする主要なラジオがオンエアされるにとどまらず、ジャンルを問わず、音楽的な遺産を作るための重要拠点になっている。ポピュラー・アーティスト、ジャズ・アンサンブル、実験音楽、交響楽団、合唱団などが録音に使用している。

 

 

現代では、自由闊達な気風を持ち、クリエイティビティを発揮する場所となっているファンクハウスではあるが、施設が完成した当初は、政治的なプロパガンダのために使用される場合もあったという。高官や政治家がファンクハウスで行われる会合に出席し、そして検閲や諜報活動を行う拠点ともなっていた。外壁を堅固なレンガ造りで覆われ、外側に話が漏洩する虞が少ない秘匿性の高い環境は、外交的に機密に処すべき情報を扱うのに最適だった。現在でも、ファンクハウスが、奇妙な構造性の名残を遺しており、第二次世界大戦後のきわめて異質な雰囲気が漂うのは、この理由によるものだ。1950年代の東ドイツの暗澹たる閉塞感と現代の開放的な文化の空気感が交わり、独特な気風を生み出している。つまり、ベルリン・ファンクハウスの建築物はドイツにとって大きな遺産なのであり、そして国家の歩みを反映したものでもある。

 

1989年のベルリンの壁の崩壊後、 ベルリン・ファンクハウスは当初の音楽的な複合施設としての意義を失うことを余儀なくされた。1991年にラジオ局は廃止され、その後、ラジオ番組の録音に使用されるにとどまった。ファンクハウスは以後、空き家同然となり、ドイツ政府上院が敷地を売却し、土地所有者は頻繁に変わった。その中には、イスラエルの投資家も含まれていた。機運が変わったのは、2015年。ウーヴェ・ファビッチ氏がこの複合施設を買収し、以後、ファンクハウスはドイツの文化施設としての道のりを再び歩み始めた。元銀行員で、文化経済学者でもあるウーヴェ・ファビッチ氏は、なぜ、この複合施設を買収したかについて、ベルリン新聞の取材に対して語っている。「私はここに世界最大級の音楽センターを建設したいと思っている」 


その発言に違わず、所有権を持つファビッチ氏は、この施設を積極的にアーティストのレコーディングやイベントに貸し出している。昨今、制作会社や音楽やテレビの制作を専門とする私立大学等、200にも及ぶテナントがこの施設を利用し、文化的な発展に貢献している。安価に施設をレンタルすることで、利用のハードルを低くしている。これが大掛かりな交響楽団やジャズ・アンサンブルにとどまらず、実験音楽家がファンクハウスを利用出来る理由でもある。





ベルリン・ファンクハウスを重要な活動拠点に位置づける音楽家は数しれない。ダニエル・バレンボイム、ケント・ナガノといったオーケストラのマエストロはもちろんのこと、ポリスのスティング、エイフェックス・ツイン、ラムスタイン、デペッシュ・モードなどミュージックシーンの大御所が多数レコーディングやイベントのため、ファンクハウスを来訪している。


その中で、BBC Promsのパフォーマンスでお馴染みのドイツの作曲家/プロデューサー、ニルス・フラームは、ベルリン・ファンクハウスにスタジオを構えている。ファンクハウスの主要な施設である「大ホール1」は、一般的に世界最大のレコーディングスタジオであると見なされている。世界中のミュージシャンがこのホールの持つ音響の素晴らしさ、美しさを絶賛してやまない。

 

ベルリンのファンクハウスは市内中心部に近い場所に位置し、アクセスもしやすい。現在では、レコーディングや制作、コンサート、フェスティバル、クラブイベント、ライブパフォーマンスなど多岐にわたる用途で使用される。施設内のガイド付きツアーも開催されることもある。東ドイツのミルヒバールでは、コーヒーや伝統的なドイツ料理、ベルリンの人気店ゾーラのピザをたのしむことが出来る。ドイツ観光の際は、ぜひチェックしておきたいスポットの一つ。




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LIMINAL SPACE-リミナルスペース- 現実空間と異空間の狭間

Club Chinois
 

いわずもがな、ヨーロッパは全般的にクラブカルチャーが盛んな土地である。どうやらそれは、スペインのクラブカルチャーが1980年代から現在まで続いてきたことに要因があるようだ。南洋のサンゴ礁が輝く諸島のようなエメラルドの海、白亜石のような白っぽい建築素材でできた家々、ギリシャのエーゲ海のサントリニ島、ミコノス島、ロードス島に見られるカラフルな塗料を施した建築群、そして、もちろん、カラフルなビーチ・パラソルが目立つ寛いだ砂浜。こういったギリシャやイタリアで見られるような個性的な景観は、南ヨーロッパの国土の最大の美点だろう。

 

そして、西ヨーロッパのパーティー・サーキットが世界的に有名なのには理由がある。雰囲気はアメリカよりもはるかにリラックスしていて、バカンス寄りだ。飲み物は豊富で、特に強力なリキュールを使っている。パーティーは遅く始まり、遅く終わる。フランス、スペイン、イタリアのクラブでは、Alors On DanseやDragostea Din Teiがいまだに愛されていることに驚くだろう。


ヨーロッパは文化の奥深さにより知られていると言うとき、それはルネッサンスの芸術や建築と同様にナイト・ライフにも該当する。フィレンツェはウフィツィ美術館とメディチ家の貢献で知られているが、ナイトクラブでも知られている。そしてパリでは、昼間はオルセー美術館のマネやドガの絵画、ルーヴル美術館のエジプト・コレクションを見ることに挑戦する。しかし、夜には、午前2時の地下鉄に乗り遅れたら、電車が再開する午前6時まで外にいることも出来る。


スペインのナイトライフは、マドリードからマヨルカまで、その種類はさまざま。アシュトン・カッチャーと同じウェスト・ハリウッドのクラブに入ろうとするようなL.A.のクラブ遊びとは違うらしい。髪を下ろして、Ai Se Eu Te Pego(ノッサ!ノッサ!)の大合唱に参加するような、のんびりしたパーティーだ。スペインのパーティー文化は、音楽を感じ、魅惑的な雰囲気に身を任せるというもの。アメリカでは、たとえラスベガスやマイアミであってもそのノリは通じない。


スペインのパーティーの聖地といえば、イビサ島だ。バレアレス諸島の一部であるイビサは、バレンシア沖、パルマとメノルカの南に位置する。イビサは、パーティーの主要地として国際的に高い評価を得ているが、その客観的価値はすぐに変わることはないだろう。2000年代初頭のベニー・ベナシやベースハンターのヴァイブスから、最近のデュア・リパのヒット曲まで、ハウスミュージックとポップスのリミックスが君臨する場所だ。イボシム(Ibosim)のようなイビサのクラフトビール、島の有名な蒸留酒ヒエルバ(Hierbas)、アブサン(Absinthe)のような古典的なヨーロッパのパーティー・リキュールなど、ドリンクもビーチと同様に文化の一部だ。


では、イビサがアルコールと音楽に酔いしれる快楽主義的な評判を実際に高めたのはいつなのだろう? ヨーロッパのみならず、世界の真のパーティーの首都となったのはいつなのだろうか?


当然、イビサのパーティー・カルチャーは、60年代から70年代にかけて、ヒッピー、クリエーター、アーティストたちが、社会への適合性(そして現実の仕事)から逃れてきたことに端を発している。このような考え方に由来しないパーティー・カルチャーがあるだろうか? イビサ島には、よりのんびりとしたアーティスティックな文化の先例がすでにあった(それは30年代にスペイン本土を出発した人々まで遡る)ので、70年代にこの文化がさらに定着しても驚くには値しなかった。


一般の人々は、イビサをエレクトロニック・ハウス・ミュージックのシーンとしか見ていないかもしれないが、イビサのサウンドはもっと多面的で複雑だ。70年代に形成されたほとんどの音楽シーンと同様に、ロックンロールはイビサの初期のパーティーの歴史の大きな部分を占めている。実際、BBC Travelによると、エリック・クラプトンは、77年にジョージ・ハリスンと一緒にこの島に現れ、フレディ・マーキュリーは、41歳の誕生日をイビサで迎え、Wham!は今や象徴的なホテルとなったパイクスでクラブ・トロピカーナのビデオをレコーディングしたという。


この頃、イビサ島で最も古いクラブが2つオープンした。70年代のパチャ、そして80年代のアムネシア。この2つのクラブは、70年代と80年代のアンセムに加え、低音を効かせたハウス・ミュージックやデヴィッド・ゲッタなどのゲストDJシリーズを歓迎する環境を作り上げた。80年代から90年代にかけて、クラブはPachaとAmnesiaの2店舗をお手本とし、イビサのパーティーシーンは、セレブリティ主催のパーティーナイトや、必ず訪れるべきクラブハウスを軸に成長していった。


Club Eden

音楽は、イビサの文化の大きな部分を占めているおり、90年代から2000年代初頭にかけてライブコンサートや音楽フェスティバルが開催された。そしてパーティーを中心とする文化の成長を促進した。70年代のロック・スターが誇りに思うような才能を歓迎し、イビサは、音楽面でも様々なジャンルのミュージシャンを受け入れるように。その後の年代には、ロック・ミュージックが盛んになった。たとえば、Ibiza Rocks Festivalでは、アークティック・モンキーズやザ・リバティーンズがホスト役を務め、「I Bet That You Look Good on the Dance Floor」を口ずさむオーディエンスが、ハウス・ミュージックの先駆者たちと仲良くプレイできることを証明している。


イビサ島の魅力は、ただ純粋に楽しみ、朝まで飲み明かすだけの場所ではないこと。イビサが世界中の人々を惹きつけてやまない理由もそこにある。テクノ、ボーホー、ロックンロール、どのような雰囲気に惹かれるかに関わらず、イビサ島は奥深いカルチャーの魅力があるようです。


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近年、イギリスでパンクが再燃しており、現在もそれはポスト・パンクという形で若者を中心に親しまれていることは確かだろう。

 

そしてパンクのロングタイムの人気を象徴づける記事がある。2022年6月5日のNMEの記事では、こう報じられている。ーーセックス・ピストルズの「God Save The Queen」がロングラン・ヒットを記録し、イギリス国内で最も売れたシングルとしてプラチナ・ジュビリーに認定ーーと。

 

「ゴッド・ザ・セイヴズ・ザ・クイーン」は、今もなお老若男女にしたしまれている永遠のアンセムで、パンク人気を象徴づけるアイコンの一つであるということ。


また、アーカイブ的にも、ピストルズは現在も一定の興味を惹きつけるものであることは明確だ。


ダニー・ボイルが1970年代のロンドンで生まれたパンクロック・カルチャーと、セックス・ピストルズの軌跡を追う映像シリーズ「Pistol」に着手しはじめ、映像ドラマの側面からロンドンの最初のパンクバンド、ひいてはパンク・カルチャー全体に脚光を当てようとしている。この映像は、ギタリストのスティーヴ・ジョーンズの自伝を元に制作されることになった。しかし、この映像内での楽曲使用の件で、フロントマンのジョン・ライドンとの間に法廷闘争が発生し、物議を醸した。

 

Malcom Mclaren

 

1970年代に台頭したUKパンクを単なる音楽だけの観点から捉えることは困難をきわめる。レザージャケット、カラフルなスパイキーヘア、時には後のゴシックの象徴的なファッションを形成する中性的に化粧を施したスタイル、これらはそれ以前のニューヨーク・ドールズ、VU、リチャード・ヘル、ラモーンズが出演していたマックス・カンザス・シティ、CBGB,そしてマーサー・アーツ・センターといったライブハウス文化がロンドンに渡り、そして、そのカルチャーがマルコム・マクラーレンという仕掛け人によって、パンクという形で宣伝されるに至った。

 

マクラーレンは元々はファッションデザイナーとして活動していて、ブティック、”SEX”に出入りしていた若者を掴まえ、後にこのバンドをプロデュースし、Pistolsというロンドンパンクの先駆者を生み出すことになる。これは以前に、彼がニューヨーク・ドールズのプロデュースを手掛けており、それをロンドンでより大掛かりに、そしてセンセーショナルに宣伝し、一大ムーブメントに仕立てようという彼なりの目論見があったのだ。シド・&ナンシーに代表されるファンションは既にジョニー・サンダース擁するNew York Dollsの頃のグラム・ファッションで完成されたつつあった。それをより、洗練させ、ある意味では彼らをファッションモデルのような形で飾り立てることで、パンクという概念を出発させることに繋がった。

 


マルコム・マクラーレンが一大ムーブメントを仕掛けるためのお膳立ては整っていた。1970年代のイギリスでは、英国病と呼ばれる病理が蔓延していた。大まかには、国を挙げてセカンダリー・バンキングへ傾注した1960年代以降のイギリスにおいて、充実した社会保障制度や基幹産業の国有化等の政策が実施され、社会保障負担の増加、国民の勤労意欲低下、既得権益の発生、及び、その他の経済・社会的な問題を発生させた現象を意味する。 この時代を描いた作品としてユアン・マクレガー主演の映画「Train Spotting」が挙げられる。イギリス国内の社会不安の増大により勤労意欲が低下した若者たちのリアルな姿が脚色を交えて描かれた作品だ。


 当時、労働者階級とアッパー・ミドル以上の階級との格差は増大し、その社会構造の間に奇妙な歪みが生み出されていたことは想像に難くない。悪い経済が蔓延していたのみならず、レコード産業も衰退していた。それ以前のRoling Stones、Led Zeppelin、Pink Floydのレコード産業の栄華が過去の遺物となりつつあり、音楽産業自体が下火になっていたのがこの70年代の中頃である。

 

さらに、アートスクールの奨学金や失業保険の手当を受けて生活しているような若者たちにとって、Zepのハードロックやピンク・フロイドのプログレッシブロックは端的に言えば、リアリティを欠いたものだった。そのメインストリーム・ミュージックに根ざした音楽の風潮の変化がもたらされたのが75年のこと。「俺はピンクフロイドが嫌い」というTシャツを来たある若者が「I'm Eighteen」のオーディションを受け、合格する。これがロンドンのパンクバンドが出発した瞬間だ。

 

 

最初のシングル「Anarchy In The UK」の発売 グレン・マトロックの解雇


パンクの誕生を伺わせる当時の英国の新聞各社の報道

Sex Pistolsの最初のショーは1975年11月6日に行われた。ショーは主にカバーを中心に構成されていた。それからいくつかのギグを続け、ピストルズは、ブロムリー・コンティンジェントとして知られるファンベースを獲得する。続いて、1976年、バンドは、パブロックの代表格、Eddie & The Hot Rodsの最大のショーのサポートを務める。既にその頃から、バンドの攻撃性と興奮は多くの観客を魅了していた。唯一の懸念だったバンドの演奏力は見れるものとなり、そしてスティ-ヴ・ジョーンズの演奏力も上昇した。特にこの時代、ピストルズの面々は多くの熱狂的なファンに熱量のあるショーを期待されており、信念やインスピレーションを欠いた気のないパフォーマンスをしようものなら、ファンが暴徒化する場合もあったという。結局それらの取り巻きのフーリガン的な行動により、セックス・ピストルズに暴力的なイメージが付きまとうことになった。また、このイメージはのちのスキンズやハードコアパンクのスタイルの源流を形成することになった。

 

同年の6月4日、バンドはマンチェスターで伝説的なギグを開催する。ここには、ピート・シェリー、ハワード・デヴォート(Buzzcocks)、バーナード・サムナー、イアン・カーティス、ピーター・フック(Joy Divison)のメンバーが観客の中にいた。その日の観客は40人前後だったとも言われている。


ライブギグで一定の支持を獲得した後、1976年7月20日にパンクの古典となる「Anarchy In The UK」をEMIからリリースする。社会風刺的な歌詞は当時のロックファンにとって真新しいもので、米国と英国のパンクの相違を象徴していた。さらに続いて、9月1日、バンドはテレビに初めて出演する。パンクブームの発起人の一人でありマンチェスターのファクトリー・レコードの主宰者でもある、トニー・ウィルソンのテレビ番組に出演し、スタジオでこのデビュー・シングルを初披露する。その5日後、ビル・グランディが司会をするテレビ番組にも出演し、バンシーズのスージー・スーに軽率な発言を行い、批判を呼ぶ。これはグランティとスティーヴ・ジョーンズとの間に会話をもたらし、その当時の国内のメディアの意義を根底から揺るがすものでもあった。また、12月のテレビ出演時には、四文字言葉を連発し、センセーショナルな話題をもたらした。






1977年、イギリス国内最大の音楽メディアのNME宛てに一通の電報が届いた。 Sex Pistolsのマネージャーのマクラーレンから、「グレン・マトロックが解雇された」との一報だ。デビュー当時はピストルズの音楽性の一端をになっていたマトロックの解雇は、大いに注目に値するものだった。


彼の後任にはすぐさまシド・ヴィシャスが内定するが、そもそも、当時のヴィシャスはベースを演奏することが出来ず、ガールフレンドのナンシー・スパンゲンとの交友があってか、麻薬漬けの日々を送っていた。

 

これが後にどのような形で、このバンドの終焉となるかは周知のとおりだが、当時、彼の革ジャンとTシャツ、ブーツというルックス、そして日常における破天荒きわまりない行動が「パンク」であるとされ、マクラーレンはバンドへの加入を促した。パンクのファッションとの深い関連は、特にヴィシャルがもたらしたものであると考えるのが妥当ではないだろうか。

 

 

「God Save The Queen」のセンセーショナルな宣伝 ジョン・ライドンが曲に込めた真意とは?



Sex Pistolsのデビュー・シングルの宣伝 20世紀には飛行機から広告をまく手法があったが、それに近いゲリラ的な宣伝方法の一つ


セックス・ピストルズのデビュー・シングルがA&Mからリリースされたのは1977年のことだ。このリリース日は、エリザベス女王のシルバー・ジュビリーの祝典と時を同じくしていた。ピストルズの四人は、報道カメラマンを呼んで、船の上で「God Save The Queen」のリリース記念パーティーを開催するが、後に社会問題に発展する。この宣伝方法が、すべてがマルコム・マクラーレンによってしかけられたものであるとしても、オリジナル・バージョンのシングルのアートワークは過激きわまりないもので、女王の顔に彼らのトレードマークである安全ピンを差したデザインだった。最初のバージョンは、すぐに発禁処分になり、後にアートワークは差し替えられるが、このシングルのリリースが知れ渡ると、英国内で論争を巻き起こすことになった。当然のことながら、ピストルズは、レーベルとの契約後、わずか6日でA&Mとの契約を打ち切られる。次いで、レコードの25,000枚が廃棄処分となる。現存する希少なオリジナルバージョンは現在でもコレクターの間で価値のあるレコードとしてみなされている。


A&Mとの契約解消後、PistolsはすぐにVerginと契約を結ぶ。その後、「God Save The Queen」はピクチャースリーブ付きで発売された。

 

既にBBCでは放送禁止となっていたにも関わらず、この曲はNMEチャートで一位を獲得した。結局イギリスの公式チャートでも2位まで上昇するが、長らくチャート集計側が意図的にトップから遠ざけていたという噂もあるようだ。 

 

この年、複数の魅力的なロンドンパンクバンドがデビューし、その中にはクラッシュ、ストラングラーズ、ジャムがいた。彼らはヒットチャートの上位を獲得し、パンク人気を全国区に引き上げる役割を果たした。


 


「God Save The Queen」では、国家概念を擬人的に捉える古典的な詩の手法が取り入れられていて、「イングランドは叫んでいる、未来はない」というフレーズが最後の部分で歌われるが、それは実際、のちのサッチャー政権時代ザ・スミスの楽曲のように、他のどのロックよりも社会不安のリアリティを直視し、それをシンプルに言い当てたものだった。多くの若者たちは英国への愛と不信が混在したシニカルな歌詞と歌に大きな共感を覚えたことは想像に難くない。しかし、ジョン・ライドンはこのデビューシングルについて、ピアーズ・モーガンに次のように語った。これは長年のライドンの英国王室へ嫌悪感があるという誤解を解くための発言として念頭にとどめておいた方が良さそうだ。


特にジュビリーのために書いたというわけではないんです。それが私の思考回路そのものだった。わたしたちがそのボートパーティーをする数ヶ月前。歌詞の内容は反王党主義に近いものですが、もちろんそれと同時に非人間的なものでもありません。

 

私はぜひともこのことを言っておかねばならないんです。私が人間として王室に対して完全に死していると決めつけてはいないのです。そうは思っていません。女王が生き残り、上手くやっていくことを本当に誇りに思っているんです。

 

また女王に喝采を送りたい。私はそのことについて不機嫌ではありません。この制度を支持するために税金を支払うというのなら、そのことについては何らかの意見を差し挟む必要もありそうですが・・・。

 

また、ピアーズ・モーガンが「君はつまり、君主制の終わりを見たくない・・・」と尋ねると、さらにライドンは以下のように述べている。

 

私はそもそもページェントリーが大好きです。私はまたサッカーファンですが、どうしてそうせずにいられるのでしょう? 

 

私はロイヤル・ウェディングを見るのが好きなんです。なぜならスピットファイアやB-52等が宮殿の上空を飛行するのが本当に楽しいから。そういったことに感情的になる場合もありますが。

 

しかし、私は国家を愛しており、また国民を愛しています。そして、それに関することも愛している。でも、そこに問題がある。私にはこのことを言う権利があると思います。だから私は、女王陛下万歳、と書きました。信じてほしい、あれは私が書いたんです。他の人ではありません。これは私が完全に有能な視点を表現したものだったのです。

 

 

1977年10月28日にデビュー・アルバム『Never Mind The Bollocks」がVirginから発売された。米国では2週遅れで発売となった。ほとんどの曲は、グレン・マトロックとジョニー・ロットンにより書かれており、他のメンバーは補佐的な形で意見を交えている。マトロック脱退後、アルバムのために2曲「Holiday In The Sun」、「Bodies」 を書き加えられた。グレン・マトロックは76年にEMIからリリースされた「Anarchy In The UK」のうち一曲で演奏している。


アルバムの最初のタイトルは、「God Save Sex Pistols」であった。1977年半ばに「Ballocks」という単語が追加された。しかし、「Ballocks」というタイトルが1899年に施行された「わいせつ広告法」に該当するとし、レコード・ショップのオーナーの多くは、ショーウィンドウで宣伝をした際には罰金及び逮捕の処分があると警察から忠告を受けた。実際、警察はノッティンガムにあるVirginの店舗の捜査に踏み切り、オーナーを逮捕する。しかし、これもヴァージンとマクラーレンにとって恰好の宣伝の機会となり、彼らは”アルバムが長持ちする”という判断を下した。


 


 

デビューアルバム『Never Mind The Bollocks』に込められた意味、一般的な発売日を迎えるまで

 

「Never Mind The Bollocks』発売当初のVirgin Records

 

結果的に、現行のアルバムのタイトルが普及している理由は、「Bollocks」という睾丸を意味する単語が一般的に普及するナンセンスな用語に該当すると、ノッティンガム大学のイングリッシュ教授は証人として指摘した上、さらに、この言葉が古英語で「聖職者」を意味すると法廷で証言し、擁護したことによる。この裁判を受け持った判事は、Bollocksという単語の使用を許可するとともに、バンド、レーベルの発売権における全ての宣伝、及び活動を容認する結果となった。

 

ヴァージン・レコードとの契約後も、マルコム・マクラーレンはアルバムの宣伝とパンクの普及活動に余念がなかった。マクラーレンは米国を含む各国で交渉を続行した。


1977年10月10日には、ワーナーとの契約を締結する。つまり、このアルバムに2つの配色が用意されているのは、これが要因のようである。イエローバージョンはヴァージンのデザインで、ピンクがかったデザインはワーナーのリリースとなっている。

 


フランスでは、マルコム・マクラーレンがバークレーと粘り強い交渉を続け、アルバムは12曲から一曲をカットし、全11曲でリリースされることが決定した。加えてアルバムは一週早く発売されることが決定し、これによって、Virgin Recordsは英語でのリリースを10月28日に前倒しした。最初の50,000部には11トラックのバージョンが収録されていた。このバージョンにはのちにレア・トラックとして発売される「Submission」の7インチとポスターが付属していた。

 

Virginにとって最後の問題となったのは海賊版「Spunk」のリリースの懸念事項だ。このアルバムにはデモとスタジオレコーディングが収録されていた。また録音自体はグレン・マトロックが在籍時に制作されたもので、オリジナル版よりもプリミティヴな音質が味わえるとされている。 さらにこの音源はマクラーレンが録音のマスターテープを漏洩したとも言われている。しかし、マクラーレン本人はそれを否定している。



 

このブートレッグのアルバムは、1977年の9月から10月にかけて発売され、オリジナル版がリリースされる数週間前にリークされていた。しかし、このことに関してはレーベル側は良い宣伝とみなしていた。「Spunk」は、デンマーク・ストリートのリハーサル・スタジオ、ロンドンのランズダウン、ウェセックス・スタジオ、ロンドンのグーズベリー/エデン・スタジオと、複数のスペースで録音された。このリリースは、1996年になって、オリジナル版の追加ディスクとして再発されている。

 

デビュー・アルバム「Never Mind The Bollocks』は発売後まもなくゴールド・ディスクを獲得し、ヒットチャートの一位に輝いた。しかし、これらの曲のほとんどが既発曲であったことがセックス・ピストルズの限界性を示していたという意見もある。

 

最初に「New Wave」という言葉がメロディー・メイカー誌に掲載された1978年、Sex Pistolsはアメリカツアーを終えたのちに解散した。その後、The Clash、The Damedといったレジェンドたちは息の長い活躍をするが、一方、Buzzcocksをはじめニューウェイブに属する清新なバンドの台頭が控えていた。その後の年代には、オリジナル世代のバンドが主流となり、メジャーレーベルと契約し、オリジナルパンクが形骸化するようになるにつれ、ポストパンクが主流となっていく。

 

その中には、このバンドの黎明期のライブを見届けたイアン・カーティス擁するJoy Divisonも1979年にデビューを果たし、国内のミュージックシーンを席巻していく。また同時進行で、ファクトリー、クラブハシエンダを中心とするクラブ・ミュージック文化もマンチェスターを中心に沸き起ころうとしていた。一般的には、英国の最初のオリジナル・パンクのウェイヴは、1977年に始まり、ほとんど一年でそのムーブメントは終焉を迎えたと見るのが妥当かもしれない。

 

しかし、その後には、1978年から沸き起こるニューウェイヴ/ポストパンク、また、オリジナル世代のコアなファッションを受け継いだ、Discharge、The ExploitedをはじめとするUKハードコアパンクのバンドが登場したことは周知の通りだ。これらのバンドは、最初期のオリジナルパンクとはその音楽性を異にするが、政治風刺を込めたメッセージや、レザー・ジャケット、スパイキー・ヘアというファッション性においてオリジナル世代のDNAを受け継ぎ、文化性を確立していく。


そのニューウェイヴ/ポストパンクと呼ばれるムーブメントの最前線には、Public Image Ltd.もいた。ジョン・ライドンは、80年代もニューウェイブ・ムーブメントを牽引する役目を担った。その過程では、Sex Pistolsのアンセムに勝るとも劣らない「Rise」という名曲も誕生したのだった。


 

Morton Feldman

モートン・フェルドマンの「ロスコ・チャペル」は、ヴィオラ独唱、アルト独唱、ソプラノ独唱、混声合唱、チェレスタ、バスドラム、チャイム、ゴング、テナードラム、ティンパニ、ヴィブラフォン、ウッドブロックで構成される打楽器のためのスコアです。この曲は合唱を中心にした現代音楽の一つで、今でも米国の楽団や合唱団などが様々な解釈を行い、再演に挑んでいます。


米国の現代音楽家であるモートン・フェルドマン(1926-1987)は、1971年、テキサス州ヒューストンにあるメニル財団から一般に贈られた同名の建物のために、「ロスコ・チャペル」を作曲した。そもそもロスコ・チャペルは、メニル財団がアメリカの抽象表現主義の画家マーク・ロスコ(1903-1970)に依頼した14枚の巨大キャンバスを収蔵・展示するために設計されました。



ロスコもフェルドマンも、絵画では自意識過剰なモダニズム(ポップ・アートなど)、音楽では12音のアカデミックなシリアリズムという、一般的な、あるいは少なくとも最も話題になっている芸術傾向を受け入れることを避けていました。しかし、ロスコの絵画やフェルドマンの音楽が持つ挑戦的な(あるいは無神的な)性質は、多くの人に、20世紀半ばの芸術が「皇帝の新しい服」に過ぎなかったのか、という問いに直面させることになる。


ロスコ礼拝堂は、ドミニクとジョン・ド・メニル夫妻が構想し、資金を提供した多くの文化プロジェクトの一つである。


ドミニクはパリに生まれ、シュルンベルジェ社(Schlumberger Limited)の石油製品製造設備の資産を受け継いだ。ソルボンヌ大学で数学と物理学を学び、映画製作に興味を持ったドミニクはベルリンに渡り、『ブルーエンジェル』の撮影中、ジョセフ・フォン・スタンバーグの脚本助手として働きました。というのも、トーキー映画の黎明期には、「台詞の置き換え」ができなかったから(『ブルーエンジェル』は1929年末から1930年初頭にかけて撮影され、ドイツ初の長編トーキー映画となった)。そのため、すべてのシーンをドイツ語と英語の2回に分けて撮影する必要があった。


1944年、フランスが崩壊し、ナチスに占領されると、ドミニクは銀行家の夫ジョンとともにアメリカに移住し、テキサス州ヒューストンに定住しました。ドミニクはカトリックに改宗しており、夫とは精神性と芸術のクロスオーバーに強い関心を抱いていた。その代表的な例が、宗教を超えた礼拝堂とそこに飾られたマーク・ロスコの絵画、そして、その空間にインスピレーションを受け、そこで聴くことを意図して依頼したモートン・フェルドマンの音楽作品である。これはまた一般的に現在では盛んなインスタレーションの先駆けと指摘される場合もある。なぜなら、そこには空間と音の融合という二つの芸術形式の混淆が見出せるからである。


    


1947年、ハリー・トルーマン大統領は、国務省が巡回展のために購入したあるモダニズム絵画を見たとき、「これがアートなら、私はホッテントットだ」とコメントしたというエピソードが残っています。ホッテントットとは今や廃れてしまった侮蔑的な意味で用いられる呼称であった。1947年といえば、ニューヨークのジャクソン・ポロックが「ドリップ」技法の実験を始めた時期だが、この展示会にポロックのドリップキャンバスが含まれていたとは思えない。しかし、国務省の新しい絵画がどんなものであれ、トルーマンの印象には残らなかったし、この作品をアートとは考えなかったのだ。


"ごく普通の人 "は、視覚芸術を評価する基準として、むしろ保守的かつ伝統的な(あるいは常識的な)基準を持っている。しかし、ハリー・トルーマンの基準と、イタリア・ルネッサンス期の王子やオランダ黄金期(1570-1650年頃)の商人の基準には、大きな共通点があるように思えるのです。


作品が高品質な素材で作られ、ひときわ高価な素材で強化(価値付け)される。もちろん、水彩画ではなく油絵(あるいは木炭によるスケッチ)がゴールドスタンダードである。油絵は精巧な金箔のフレームがなければ、想定される観客や購入者には裸のように見えるだろう。


もちろん、これらの要因によって、芸術を支援するパトロンが支払っているものが何なのかというパンドラの瓶が開いてしまいますが、この議論ではそれほど重要ではありません。事実、視覚芸術には階層があり、世界中のほとんどの大規模な美術館でそれを見ることができます。


観客にとって意味のある、実在するものを忠実に表現している、部屋、人、馬、犬、風景、友人のグループに属する表現芸術は、長い間、西洋の美術品のコレクター、たとえ、経済的に不自由な大学生であっても、かつては部屋の壁にそれらを飾りたがったものです。例えば、ゴッホの「星月夜」や「ひまわり」が何百万回も複製品として売られているのは、「人々が共感できる(あるいは投影できる)ものを表しているから」なのです。


米ヒューストンにあるロスコ礼拝堂の巨大な暗黒のキャンバスは、マルセル・デシャンの次の世代の空間芸術に位置づけられますが、特にスペインのカトリシズムを思い起こさせる。この点で、特にフランシスコ・デズルブランが思い浮かぶ。彼のシンボル満載の静物画「Still Life with Lemons, Oranges and a Rose」は、モーテン・ローリセンの鎮魂歌「Lux Æterna」に影響を与えた。

 



ポール・マッカートニーは、ビートルズ全盛期に35mmフィルムで撮影した写真を、『1964』という本の中で特集する予定です。「1964: Eyes of the Storm」と題されたビートルズ・ファンお待ちかねの新刊書籍が出版されます。


6月13日にLiveright社から発売される『1964: Eyes of the Storm』は、マッカートニーが1963年末から1964年初めにかけて撮影した275枚の写真を収録。これは、ちょうどビートルズが米国で大流行した時期でした。リバプール、ロンドン、パリ、ニューヨーク、ワシントンDC、マイアミで撮影された写真は、ポール、ジョン、ジョージ、リンゴが自分たちが嵐の目のなかにあることに気づいた「パンデモニウム」を伝えています。


「個人的な遺物や家族の宝物を再発見した人は、瞬時に記憶や感情が溢れ出し、時の靄の中に埋もれていた連想を呼び起こす」と、ポール・マッカートニーは声明の中で書いています。   


「この写真は1964年2月までの3ヶ月間に撮影されたもので、まさに私が体験した瞬間を捉えている。まさに、まるで、過去に戻ったかのような素晴らしい感覚です。リバプールとロンドンに始まり、パリ(ジョンと僕は3年前に普通のヒッチハイカーだった)、そして僕らが最も重要だと考えていたグループとしての最初のアメリカへの訪問まで、6都市でのビートルズの写真ジャーナル、僕自身の最初の大旅行の記録がここにある」


『1964: Eyes of the Storm』には、ポール・マッカートニーによる序文と、ハーバード大学の歴史学者でニューヨーカーのエッセイストであるジル・レポアによる紹介文「Beatleland」が収録されています。本の予告編は以下からご覧いただけます。


さらに、ポール・マッカートニーの娘メアリー・マッカートニーは、世界で最も有名な音楽的ランドマークのひとつであるアビーロード・スタジオについての新しいドキュメンタリー『If These Walls Could Sing』で、その歴史を掘り下げています。また、元ビートルズは、最近、カントリーアイコンのドリー・パートンと組んで、ロックのカバーアルバム『Rock Star』を発表しています。



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1950年代、60年代のジャズは、ビバップ/ハード・バップが主流となり、この音楽形式が様式化しつつあった。その動向に対して出てきたムーブメントがフリー・ジャズだ。以前のラグタイムなどから引き継がれていたジャズのキャラクター性を形作る既存の調性やテンポをフリー・ジャズは否定しようとした。

 

この音楽が初めて70年代にジャズシーンに出てきた時、革新的な音楽に比較的寛容であったかのマイルス・デイヴィスですら、フリージャズに理解を示そうとはしなかったという。形式の破壊を意図する音楽は既にそれ以前の古典音楽において、無調音楽が出てきているが、ジャズも同じようにそれらの形式的なものを刷新する一派が出てきた。しかし、ジャズそのものが自由な精神に裏付けられた音楽と定義づけるのであれば、フリー・ジャズほどその革新を捉えている音楽は存在しない。

 

フリージャズは、その字義どおり、ジャズを形式や様式から開放する動きといえるが、最初期は、スイングを発展させたシャッフルに近いリズムと、調性音楽の否定に照準が絞られていた。これらは、ブルースに影響を受けたという指摘もあるが、 音楽的にはアフリカの民族音楽のように西洋音楽には存在しない前衛的なリズムを生み出すべく、複数のジャズ演奏者は苦心していたに違いない。このフリージャズの代表的な演奏家の作品を大まかに紹介していきましょう。

 

 

・Ornette Coleman(オーネット・コールマン)

 


 

テキサス出身のサックス奏者、Ornette Coleman(オーネット・コールマン)が 1959年に発表した「The Shape Of Jazz To Come」は、フリージャズの台頭を告げた作品であり、コールマンの代表作品に挙げられる場合もある。

 

もともと、オーネット・コールマンは独学で演奏を習得した音楽家であるため、カルテットでの演奏自体も即興性の強いが、「The Shape Of Jazz To Come」に見られる調性の否定、そして、それ以前のビバップ/ハード・バップの規則的なリズムの否定など、革新的な要素に富んでいる。

 

この作品の発表当時の反応は様々で、批評家からかなりの批判を受けた。その時代の価値観とはかけ離れた革新的の強い作品はおおよそこういった憂き目に晒される場合が多い。批判者の中には、マイルス・デイヴィスとチャールス・ミンガスも含まれていた。しかし、のちのフリージャズに比べると、古典的なジャズの性格を力強く反映している作品であることも事実である。 


 

 

 

 ・Eric Dolphy(エリック・ドルフィー)

 


Eric Dolphy(エリック・ドルフィー)はフルートの他にも、クラリネットとピッコロ・フルートを演奏した。当初は、ビバップ・ジャズの継承者として登場したが、のちにアヴァンギャルド・ジャズに興味を持つようになった。ドルフィーのフルートは、クラシックの影響を反映した卓越した演奏力と幅広いトーンを持つのが特徴である。36歳の若さで惜しくも死去したものの、生前、ジョン・コルトレーン、ミンガス、オリバー・ネルソンの録音に参加している。

 

オーネット・コールマンの最初のフリー・ジャズの発表から、およそ五年後に発表されたのが、フルート奏者、エリック・ドルフィーの1964年のアルバム『Out To Launch』である。一般的にはブルーノートの1960年代のカタログの中で、もっとも先進的なレコードと称される場合も。しかし、アルバムの冒頭は、ビバップの王道を行くような楽曲に回帰している。しかし、二曲目からは一転してアヴァンギャルドなリズムと無調に近いスケールが展開される。 



 

 

 

・John Coltrane(ジョン・コルトレーン) 



ジョン・コルトレーンはテナー・サックス奏者として、マイルス・デイヴィスのバンドの参加だけでなく、バンドリーダーとしても活躍している。後に、アリス・コルトレーンと結婚した。もちろん、「ブルートレイン」、「カインド・オブ・ブルー」、「マイルストーン」など数多くの傑作を残している。時代により、ビバップ、モード、ジャイアント・ステップスとその音楽性も変化しているが、フリー・ジャズの傑作としては1971年の「Ascent」が挙げられる。

 

この作品では、古典ジャズの巨人として挙げられるジョン・コルトレーンのサックス奏者としての意外な一面を堪能できる。コルトレーンらしからぬ前衛性の高い演奏が行われており、そして基本的なスケールを度外視したアバンギャルドな音楽性は今なお刺激的であり続ける。ビバップやモード奏法など、基本的な演奏法を踏まえ、それらを否定してみせることは、このプレイヤーが固定概念に縛られていない証拠でもある。バックバンドもかなり豪華で、マッコイ・タイナー、ジミー・ギャリソン、エルヴィン・ジョーンズが参加している。ジャズにおける冒険ともいうべき傑作の一つで、コルトレーンはサックスの演奏における革新性に挑んでいる。 





・Alice Coltrane(アリス・コルトレーン)

 

 

Alice Coltrane(アリス・コルトレーン)はラッキー・トンプソン、ケニー・クラーク、テリー・ギブスのカルテットの演奏者として活躍し、スウィング・ジャズに取り組んできた。コルトレーンと出会った後は、互いに良い影響を与え合い、スピリチュアルな響きを追求する。夫の死後は、バンドリーダーとしても活躍した。ファラオ・サンダースとの共作もリリースしている。

 

1971年に発表した五作目のアルバム「Universal Conscousness」は、フリージャズの未知の領域をオルガンの演奏によって開拓した作品である。スピリチュアルな音響は、時に、サイケデリックな領域に踏み入れる場合もあり。コルトレーンの演奏のエネルギッシュさが引き出された一作で、一見すると無謀な試みにも見えるが、モード・ジャズ、即興演奏、そして、構造化された構成要素を組み合わせて制作されている。エキゾチック・ジャズの元祖ともいうべき作品で、エジプトやガンジスといった土地の歴史文化の神秘性が余すところなく込められている。 


 

 

 ・Sun Ra(The Arkestra)


 


 

 ラグタイム、ニューオリンズのジャズサウンド、ビバップ、モード・ジャズ、フュージョン、と能う限りのジャンルに挑戦してきたサン・ラ。奇想天外なアバンギャルド・サウンドを通じて宇宙的な世界観を生み出した。アフロ・フューチャリズムのパイオニアとも見なされる場合もある。その他にも、ブラジル音楽や民族音楽等、多岐にわたるジャンルを融合した。電子キーボードをいち早く導入し、The Arkestraを結成し、前衛的な音楽活動を行ったことでも知られる。


Sun Raのフリージャズの音源としては、The Arkestraのライブアルバム「It’s After The End Of The World」が挙げられる。1970年にドナウエッシンゲンとベルリンで録音された音源で、即興演奏そのもののスリリングさ、そしてエネルギッシュな演奏を楽しむ事ができる。

 

 

 

・Barre Phillips(バール・フィリップス)

 



フリー・ジャズの開拓史の中にあり、ブルーノートや他の名門レーベルと共にこのジャンルに脚光を当ててきたのが、マンフレッド・アイヒャーが主宰するドイツのECMである。そして、このレーベルのフリー・ジャズの作品の中で聴き逃がせないのが、伝説的なコントラバス/ウッドベース奏者、Barre Phillips(バール・フィリップス)の1976年の「Mountainscapes」である。バール・フィリップスは、カルフォルニア出身で、1960年でプロミュージシャンとしてデビューする。62年からニューヨーク渡り、その後、70年代にはヨーロッパに移住した。ジャズの即興演奏の推進者として活躍し、さらに2014年には、European Improvisation Centerを設立している。

 

「Mountainscapes」は、サックスの奇矯なサウンドにも惹かれるものがあるが、フィリップスのコントラバスの対旋律の前衛性はこの時代の主流のスタンダードなジャズとは相容れないもので、その存在感は他の追随を許さない。フリー・ジャズ史にあって、ベースの演奏の迫力が最も引き出された傑作である。フリー・ジャズとはいかなる音楽なのか、つまり、その答えはほとんど「Mountainscapes」に示されている。ダイアトニック・コードの否定、リズムの細分化、そして破壊、既成概念に対する反駁とはかくも勇気が入ることであるということが痛感出来る。


変奏形式のアルバムであるが、熱狂性と沈静の双方の要素を兼ね備えたメリハリあるサウンドを味わうことが出来る。特に、ウッドベースとサックスの白熱したセッションが最大の魅力であるが、このアルバムでのサックスは日本の伝統楽器である笙に近い音響性が追究されている。 


 

 

 

上記の様々な演奏家の音源を聴いてみるとよく理解できるが、これらの芸術家たちはリズムの変形やダイアトニック・スケールの否定等、ジャズの古典的な要素をあえて否定してみせることで、様式化したジャズの演奏や作曲に新しい活路を見出そうと模索していた。そして、これがジャズミュージックが陳腐になることを防いだにとどまらず、後の時代に一般化される”クロスオーバー”の概念の基礎を構築する。コールマン、コルトレーン、サン・ラ・バール・フィリップスといった上記のジャズの巨人たちの偉大なチャレンジ精神は、実際、現在もジャズが最新鋭の音楽でありつづけることに多大な貢献を果たしており、この事は大いに賛美されるべきだ。



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