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イパネマの海岸


ボサノバは1950年代のブラジルを発祥とする音楽で、リオデジャネイロのビーチに隣接するコパカバーナとイパネマの2つの地区の中流階級の学生とミュージシャンのグループにより始まった。


このジャンルは、アントニオ・カルロス・ジョビンとヴィニシウス・デ・モラレスが作曲し、後にはジョアン・ジルベルトが演奏した「チェガ・デ・サウダージ」のレコーディングにより一躍世界的に有名になった。


もちろん、知名度で言えば、「イパネマの娘」も世界的な知名度を持つヒット・ソング。くつろいだアコースティックギターの演奏、甘いボーカル、パーカッションの心地良い響きなど、心を和ませる音楽は、今も世界のファンに親しまれている。

 

 

ボサノバはサンバとともにブラジルを象徴する音楽でありつづけたのだったが、同時にその誕生は、政治的な意味と文化的な表現が融合されて完成されたものだった。これはスカやレゲエの前身であるカリプソが当初、トリニダード・トバゴの軍事的な意味を持つ政府お抱えの音楽としてキャンペーンされたのと同様である。1956年から61年にかけてのジュセリーノ・クビチェック政権は、ボサノバの文化的な運動の発生を見るや、政権としてこの音楽を宣伝し、バックアップしたのだった。クビチェック政権がもたらした成果はいくつもある。ブラジルの国家の近代性の立ち上げ、全般的な産業の確立、それから自国での石油の生産と供給の権限である。もちろん、ブラジリア市建設の主導権を握り、国家の独立性の重要な立役者となった。


芸術運動は、そもそも経済産業の余剰物であり、経済産業の一部にはなっても、根幹となることは稀である。果たして、政治的、経済的の基礎的な安定なくして、国家の文化事業を生み出すことが可能だろうか? 


つまり、これこそが経済的に安定した国家から優れた音楽が登場する理由なのだ。幸運にも、50年代後半のブラジルは、上記の条件を満たしていたこともあり、比較的経済的に恵まれた若者の気分に余裕が出来た。つまり、余剰の部分が後の世界的な文化を生み出すことに繋がった。当時のリオデジャネイロが生み出したのは、何も音楽だけではない。リオは、その当時の世界の中心地である、パリやニューヨークに向けて、最新のファッショントレンドを発信した。

 

そして、この大統領政権時代には、無数の文化が世界に向けて輸出され、それらがブラジルの固有のカルチャーとなったのである。文学的な活動、また、そこから生まれた詩、シネマ・ノボ、自由劇場、新式の建築、ボサノバが世界に向けて発信された。ボサノバは、ブラジル音楽の歴史で重要な役割を果たし、サンバの音楽から熱狂的な打楽器の要素を取り除き、対象的に静かで落ち着いたサウンドに変化させ、米国のジャズやフランク・シナトラのジャズ・ボーカルの影響をもとに、それらを最終的にジャジーなムードを漂わせる大衆音楽へと昇華させたのだった。

 

 

Antnio Carlos Jobin


当初、リオの海岸の街で生み出されたブラジルのジャズとも言えるボサノバは、アントニオ・カルロス・ジョビンによって磨きがかけられた。 ジョビンはリオデジャネイロのチジュッカ地区に生まれたが、14歳の頃からピアノをはじめた。音楽で、生計を立てたいと若い時代から考えていたが、家族を養うため、建築学の道に進むことを決意した。


しかし、建築学校に入学後、どうしても夢を捨てきれず、ラジオやナイトクラブでピアノ演奏家として働いていた。その後、ハダメス・ジナタリによって才覚を見出され、コンチネンタル・レコードに入社し、譜面起こしや編曲の仕事に携わった。カルロス・ジョビンの音楽にプロデューサー的な視点があるのは、これらの若い時代の経験によるものだ。その時代から、幼馴染のニュートン・メンドゥーサと一緒に音楽活動を始め、これが後に、「想いあふれて(Chega De Saudade)」で完成を見た。このレコードが世界で最初のボサノバ・ソングと言われている。

 

 

 

アントニオ・カルロス・ジョビンの音楽には、幼少期からのクラシック音楽の薫陶、クロード・ドビュッシーのフランスの近代印象派に加え、ブラジルの作曲家、ヴィラロボスの影響があった。それに彼は米国のジャズの要素を加えて、ボサノバの代名詞となるサウンドを構築していく。歌詞についても、音楽と密接な関係があり、ブラジルのルートリズムに根ざしている。

 

「イパネマの娘」 はカルロス・ジョビンが1962年に録音したボサノバソングで、このジャンルの最大のヒット作である。この曲はヴァイニシウス・モライスが作詞を手掛けた。ビートルズの「ハード・デイズ・ナイト」に続いて、世界で最もカバーされた曲でもある。


イパネマとはリオの南部の海岸筋にある地区を指し、現在では名高いサーフィン・スポットとして知られている。海岸にある半島には遊歩道があり、素晴らしい夕暮れの景観を楽しめる。


イパネマ地区の近隣には、 緑の多い通り、ファッション・ブティック、ダイニング・レストランなどがずらりと並ぶ。現在でも、ボサノバのアコースティック演奏を楽しめる、くつろいだスペースもある。

 

 

Marcus Vinícius da Cruz e Mello Moraes


この曲は音楽家として知られるようになっていたジョビンと外交官/ジャーナリストのモライスが共作した。1957年頃から二人は、コンビを組んで活動を行っていた。両者はボサノバの最初のムーブメントを牽引した。

 

「イパネマの娘」の曲の誕生にまつわる面白いストーリーがあるので、ここでひとつ紹介しておこう。当時、ジョビンとモライスを始めとするボサノバのアーティストは、リオのイパネマ海岸近くにあるバー「ヴェローソ(ガロータ・デ・イパネマ)」に通い、酒を飲んでいたという。そこへ、エロイーザという少女が現れ、母親のタバコを買いに来た。10代後半の女、比較的背が高く、近隣でも有名であった。好色家の二人は、この女性にインスピレーションを得た。その場で即興で作られた曲という説もあるが、実際は作詞作曲ともに、二人の自宅で制作された。

 

1962年、この曲は正式にお披露目となった。そのお披露目には、ジョビン・ジルベルト、モライスとボサノバーのスターが共演した。しかし、懸念すべき事項があった。この曲が初演されたのは、リオのナイトクラブ「オ・ボン・グルメ」で8月2日から45日間にわたって開催されたショーだった。外務省から「外交官がナイトクラブに出演するなど言語道断である!」との通告を受けたモライスは、報酬は貰わないと決めた上でステージに出演し、クラブに来客した友人の飲食代を肩代わりした。しかし、モライスは終始酒に酔い続け、飲み代がかさみ、あげくはナイトクラブのショーの後には出演者の料金まで受け持つことになったという。


 

『Getz / Gilberto』1964


後に、「イパネマの娘」は、スタン・ゲッツ、カルロス・ジョビン、ジョアン・ジルベルト、アストラッド・ジルベルトのバージョンで世界的に有名になった。1964年のアルバム『GETZ / GILBERT』は、ボサノバ・ブームの火付け役となった。本作は、ビルボード誌のアルバム・チャートで2位に達する大ヒット作となり、「イパネマの娘」もシングルとして全米5位に達した。


そして、グラミー賞では、アルバムが2部門(最優秀アルバム賞、最優秀エンジニア賞)を受賞し、「デサフィナード」が最優秀インストゥルメンタル・ジャズ・パフォーマンス賞を受賞、「イパネマの娘」が最優秀レコード賞を受賞した。本作の音楽は本来のボサ・ノヴァとは別物であると主張する声も多かったが、結果的には、アメリカにおけるボサ・ノヴァ・ブームを決定づけた。

 

「イパネマの娘」のリリース後、ブラジルと米国を中心に大ヒットを記録し、続いて、日本、フランス、イタリアで知られるようになり、世界的なヒット・ソングとなった。

 

スタン・ゲッツやチャーリー・バードといった米国のジャズ演奏家がボサをカバーしたのをきっかけに、米国にもこのジャンルが一般的に浸透した。優れたジャズ演奏家がボサノバを発見したことで、音楽的にも磨きがかけられた。シンコペーションが取り入れられ、洗練された響きを持つようになった。

 

 


 

1950年代、ビック・スリーと呼ばれる、ジェイムス・ブラウン、ジャッキー・ウイルソン、サム・クックが登場した後、新しいタイプのR&Bシンガーが登場した。ニューヨーク、ニューオーリンズ、ロサンゼルスを舞台に多数のシンガーが台頭する。ファッツ・ドミノ、ルース・ブラウン、ファイブ・キーズ、クローヴァーズがその代表格に挙げられる。この時代は、ビック・スリーを筆頭に、必ずといっていいほど、ゴスペル音楽をルーツに持っているシンガーばかりである。


近年、ヒップホップを中心に、ゴスペル音楽を現代的なサウンドの中に取り入れるようになったのは、考え方によっては、ブラックミュージックのルーツへの回帰の意味が込められている。そしてこの動向が、2020年代のトレンドとなってもそれほど不思議ではないように思える。

 

そもそも、「R&B(リズム&ブルース)」というのは、ビルボードが最初に命名したもので、「リズム性が強いブルース」という原義があり、第二次世界大戦後すぐに生まれた。その後、ソウルミュージックというワードが一般的に浸透していき、60−70年代の「R&B」を示す言葉として使用されるようになった。しかしながら、この年代の前には、R&Bではなく、「レイス・レコード」、「レイス・レーベル」という呼称が使われていたという。これはなぜかというと、戦前のコロンビアやRCA、ブルーバード、デッカなどのレーベルは、白人音楽と黒人音楽を並行してリリースしており、作品を規格番号で区別する必要があったからである。レーベルのカタログから「レイス・シリーズ」というのも登場した。現在の感覚から見ると、レイシズムに根ざした言葉ではあるが、コロンビア、RCAの両社は、戦後もしばらくこの方針を継続していた。

 

その後、1970年代に入ると、一般的に見ると、ブラック・ミュージックは商業化されていき、R&Bシンガーは軒並み大手のメジャー・レーベルと契約するようになる。 80年代になると、MTVやメディアの台頭により、ブラック・ミュージックの商業化に拍車がかかり、この音楽全体が商業化されていったという印象がある。しかし、それ以前の時代に、ブラックミュージック全体の普及に貢献したのは、全米各地に無数に点在するインディペンデント・レーベルであったのだ。

 

多くはメジャーレーベルの傘下という形であった。しかし独立したセクションを持つということは、比較的、攻めのリリースを行うことが出来、同時に、採算を度外視した趣味的なリリースを行えるというメリットがある。そして意外にも利益率を第二義に置くレーベルのリリースが主流になった時に、それが初めてひとつのムーブメントの形になる。メジャーレーベルではなく、独立レーベルがカルチャーを一般的に浸透させていったという点については、ヒップホップのミックステープやカセットテープのリリースと重なるものがある。

 

1950年代には、全米各地に無数の独立レーベルが誕生し、ブラックミュージックのリスニングの浸透に一役買った。R&Bの独立レーベルの動きは、実は最初に西海岸で発生した。モダン/RPM,スペシャルティ、インペリアル、アラディンは、この年代の最も有力なレーベルである。他にも、エクスクルーシブ、クラス、フラッシュなど無数の独立レーベルが乱立していった。

 

一方、東海岸でも同様の動きが湧き起こった。アトランティック・レコードがその先陣を切り、アトコ、コティリオンが続いた。 さらにメジャー傘下には無数のレーベルが設立された。サヴォイ、アポロ、ジュビリー、ヘラルド/エムバー、ラマ/ジー/ルーレット、レッド・ロビン/フュリーなど、マニアックなレーベルが登場した。続いて、シカゴでも同様の動きが起こり、前身のレーベル、アリストクラットに続いて、有名なチェス/チェッカー/アーゴが登場。リトル・リチャードでお馴染みのレーベルで、ロックンロールの普及に貢献した。

 

以上のレーベルは、音楽産業の盛んな地域で設立されたが、特筆すべきは、他地域でも同じようなブラックミュージックのレーベルが立ち上げられたこと。オハイオ/メンフィスでも有力なレーベルが登場した。特にオハイオのキング、メンフィスのサンは、R&Bファンであれば避けては通れない。その他、メンフィスといったレーベル、スタックス/ヴォルト、ハイが続いた。テキサス/ヒューストンでも同様に、デューク/ピーコックが設立、ナッシュビルでは、ナッシュボロ/エクセロなどが登場する。まさにR&Bの群雄割拠といった感じだ。

 

これらのレーベルは、新しいタイプのR&Bもリリースしたが、同時にそれ以前のゴスペル的な音楽やブルースの作品もリリースしている。この点については、それ以後と、以前の時代のブラック・ミュージックの流れを繋げるような役割を果たしたと見るべきかも知れない。

 

60年代に入ると、デトロイトからモータウンが登場し、のちのブラックミュージックの商業化への布石を作った。それ以降も独立レーベルの設立の動きは各地で続き、フィラデルフィア・インターナショナル、ニューヨークのカサブランカ、ニュージャージーのシュガー・ヒルといったレーベルが設立された。


70年代に入ると、ソウルミュージックをメジャーレーベルが牽引する。しかし、これは独立レーベルによる地道な普及活動が後に花開き、ジャクソン5、ライオネル・リッチー、マーヴィン・ゲイ、フランクリン、チャカ・カーンといった大御所のスターの登場への下地を作り上げていったことは言及しておくべきだろうか。


バウハウス  ‐ウォルター・グロピウスがもたらした新しい概念  Art Into Industry-

 

 

20世紀以前の芸術運動は、ロマン主義が主流だったが、以後の時代になると、前衛主義が出てくる。シュールレアリズムは、最初にロマン的表現に対する反動の意味を持ち、芸術運動の一角を担った。これはクラシックなどの音楽や文学の流れと非常に密接な関わりを持っている。


アンドレ・ブルトンが提唱したシュールレアリズムの影響は、表面的な芸術性にとどまらず、深層意識にある目に映らない概念性をテーマに置くように芸術運動全般に促す。この動きと関連して、ドイツのヘルマン・ヘッセも戦後、以前のロマン主義の表現に見切りを付け、文学活動の一環として象徴主義/シンボリズムの影響を取り入れるようになった。以後のドイツ/オーストリア圏の作家はこぞって、これらの意識下の領域に属する奇妙な表現性を追求していく。すべての表現媒体はすべてどこかで繋がっており、互いに影響を及ぼさずにはいられないのである。

 

フランスのシュールレアリズムの動きと時を同じくして、ドイツから合理主義的なアートの潮流が出現する。つまり、それが今回ご紹介するバウハウスを中心とする「前衛主義」である。中世のヨーロッパの芸術活動は基本的に、宗教画と併行して、市井に生きる人々(時代の流れとともに、貴族や特権階級から一般的な階級へと画家の興味やテーマは移行していく)をモデルやテーマにしていた。(フランスの近代抽象主義、モンパルナスの画家の作品を参照のこと)しかし、芸術運動はいつも新しいなにかに塗り替えられ、古いものは一新され、それらの常識は以後通用しなくなった。ワシリー・カンディンスキーを筆頭に、東欧圏の芸術家は、図形、あるいは幾何学的なフォルムを作風の中に大胆に取り入れ、WW2の以前の時代に新たな気風を呼び込んだ。東欧圏の芸術家たちは、より図形的でパターン的なアートの手法をもたらした。


一般的に見ると、中世絵画は、画商やパトロンのために美しいものや崇高なものを描くのが主流だったが、前衛主義の画家たちは、美という概念のコモンセンスを覆し、実用性と革新性を追求していく。これはフランスのマルセル・デュシャンの芸術主義とも無関係ではないが、前衛主義のアーティストたちは、絵画を「デザイン的なもの」として解釈しようと試みる。その中で出てきたのが「バウハウス宣言」という大々的なキャッチコピーである。これらの合理主義に根ざした概念は建築学にも受け継がれ、ル・コルビジュエの建築に深い影響を及ぼすに至る。

 

 

Bauhaus  社会階級の壁を乗り越える新たなマイスター制度

 



バウハウスは、20世紀初頭、ドイツの芸術専門学校として創設された。ウォルター・グロピウスにより設立されたこの学校を中心として、最終的には建築とデザインに対するユニークなアプローチを特徴とする現代美術運動へと発展していく。1919年、ウォルター・グロピウスは、リベラルアーツの分野を一つの屋根の下に統合するというコンセプトを込め、バウハウス(正式名称: Staalitches Bauhaus)を設立した。バウハウスの学生からは、ヨーゼフ・アルバース、ワシリー・カンディンスキー、パウル・クレーなど多くの偉大な芸術家が輩出された。この芸術学校は、ワイマール(1919-1925)、デッセウ(1925-1932)、ベルリン(1932-1933)と3つの都市に開校した。専門学校のマークとしてもシンボリックなデザインが取り入れられ、これがバウハウスの主要なイメージを形作っていることは言うまでもない。

 

バウハウスの創設者のウォルター・グロピウスは、バウハウスのコンセプトについて次のように説明している。「建築家、彫刻家、画家。私達は、手作業に戻らねばなりません。・・・したがって、社会階級を分断し、職人(マイスター)と芸術家(アーティスト)の間に乗り越えられない障壁を立てようとする世の中の傲慢さから開放するべく、職人による兄弟愛を確立していきたいのです」

 

グロピウスの言葉には、ドイツ/オーストリアのギムナジウムにおけるエリート教育、及び職人のマイスター制度という2つの障壁を取り払うという意図が込められている。(ギムナジウムに関しては、ヘッセの「車輪の下」を参照のこと)厳然とした年代による職業差別を彼は取り払うべく努めた。建築、彫刻、絵、芸術、といったリベラルアーツ全般を通じてである。さらに、時代背景も考慮せねばならない。ブルジョワ社会の階級にある人々のみが手工業作品を楽しめる時代において、それらの特権性を一般的な人々にも開放するという意図が込められていた。第一次世界大戦後、デザイン、構成の解決策を求め、多様な社会規範と文化的な革新性が生み出された。この文化運動の延長線上にバウハウスは位置し、芸術運動の一環を司ることになる。

 

 

バウハウスの芸術運動の変遷

 


1. ハンドクラフトによる工業製品の製作


 

 


 

 

バウハウスは、1919年から1933年のナチス・ドイツの摘発による閉鎖に至るまで、いくつかの芸術様式を変化させた。

 

創設の意図にしたがい、当初は産業革命の後の時代のイギリスに端を発する機械産業からの脱却、及び、その産業の手工業化、職人の手作業における信頼性の回復や、職人の能力をアートと同等のレベルまで引き上げ、そして、その製品を販売することに主眼が置かれていた。つまり、機械的な製品ではなく、ハンドクラフトの製品の制作者を育て上げ、それをアートと同等の水準に引き上げていくという点に、バウハウスのエデュケーション(教育)は注力されていたのである。

 

そして、ウォルター・グロピウスの目的は、ハンドクラフト(手工業)の製品を「一般の人々に手頃な価格で提供する」というものだった。


当初、バウハウスでは、農業などで使用される運搬車のような目途を持つ「クレードル」のデザインなど、手工業デザインの制作を推進していた。以後の時代において、図形的、幾何学的なアートやデザインが頻繁に用いられるのは、当初、バウハウスの学習者が手工業デザインの製品を制作していたことに理由が求められる。


正当なエデュケーション(教育)とは、学習者を型に収めることではなく、学習を然るべき機関で修了後、能動的な行動を取れるよう促すものである。このことがバウハウスの最初期の教育方法に一貫しており、一般的な教育機関とは意を異にする事項である。その他、バウハウスでは、展覧会のポスターなども制作しており、最初期の作品としては、他の目的のために制作されたアート/デザインが多いことが分かる。

 

この年代の中で、学生は、手工業製品にとどまらず、金属加工、キャビネット、織物、陶器、タイポグラフィ、壁画などの他の用途のために制作された製品を生み出した。現在のDIYの発祥とも言うべき動きだ。これらの製品は基本的に手工業になされるインダストリーという概念に下支えされていた。

 

 

2.最初の変革期 「Art into Industry」


 



1919年に始まったバウハウスであるが、1923年になると、当初の手法が専門機関として財政的に採算が取れないことが分かった。

 

この年、バウハウスはドラスティックな転換を図り、芸術主義とも称すべき方向へと歩みを進める。芸術的には、ロシアの構成主義と、新造形主義を取り入れ、新しいアイディアを生み出すという内容であり、方法論としては、「本質の研究」と「機能性の分析」に照準が定められていた。その中で、バウハウスは「Art into Industry」というスローガンを掲げた。この動向に関連して、1925年にバウハウスはワイマールからデッセウへと移転している。この建物には、モダニズム建築の要素が取り入れられた。非対称の風車計画、ガラスのカーテンウォール、スチールフレームなど現代建築にも使用されるデザインが取り入れられている。

 

この年代でも前年代のハンドクラフト主義を受け継ぎつつ、実用性の高い製品づくりを行うようになっている。グロピウスは、デッセルの建築内のスペースを有効的に活用し、スタジオ、教室、そして管理スペースに分割した。同時に、1924年から28年にかけて、マルセル・ブロイヤーが提唱した、椅子などの物質は、徹底して軽量化され、「最終的に非物質化する」という考えに基づき、斬新なデザインの家具や工業デザインの製品が制作されることになった。

 

同時に、この流れに準じて、テキスタイルとタイポグラフィーがバウハウスでは盛んになっていった。デザイナーで織物工でもあるギュンター・シュテルツルの教えのもと、学生は、色彩理論、デザインにおける技術的な手法を学習しつつ、抽象的な意匠を持つ製品の制作に取り組むようになる。シュテルツルは、セロハン、ガラス繊維、金属など、ありふれた素材の使用を推奨し、更に、前衛的な製品を生み出すよう学生に精励した。特に学生が制作したテキスタイルに関しては、バウハウスの建築壁画や建物内のインテリアとして使用されるに至った。その中では、「Architype Bayer」という上掲写真の幾何学的なフォントが生み出されることになった。

 

 

 

 

3. ナショナリズムの台頭 バウハウスの終焉と亡命

 


 

多くの芸術活動は、その先鋭的な本質ではなく、外的な要因ーーとりわけ政治的な影響ーーにより堰き止められる場合が多い。ある表現者は、その弾圧を忌避するため亡命を余儀なくされる。ナショナリズムによる弾圧の動きは、既に1928年頃に始まっていた。創設者のグロピウスは、すでに学校を辞任し、建築家のハンネス・マイヤーが実質的なディレクターとなっていた。マイヤーは、大量生産に重点を起き、形式主義の趣があると思われるカリキュラムを削除し、広告と写真芸術における清新な息吹をもたらす。しかし、その頃、すでにバウハウスはナショナリズムからの圧力を受け始め、ほどなくマイヤーも1930年にディレクターを辞任する。

 

以後、ディレクターのポジションはファン・デル・ローエなる人物が引き継いだ。ローエは当時有名な建築家であり、第一次世界大戦後の未来的な建築様式の手法を示そうとしていた。この年代から、バウハウスによる当初のハンドクラフト/手工業的な生産方法は徐々に減少していった。

 

1932年、デッサウで行われた地方選挙において、ナショナリズムが主要政党に成り代わったことは、そのままバウハウスの終焉を意味していた。全体主義とナショナリズムの荒波が、バウハウスにも押し寄せようとしていた。学生の多くは、ナチス警察により逮捕され、尋問を受けた。1933年、バウハウスは閉鎖と解散を決定する。以後、ナチスの占領により、1945年のスターリングラードの戦いまで、全体主義とナショナリズムの動きが途絶えることはなかった。


しかし、バウハウスの主要人物の以後の最も剣呑な年代において、亡命という手段をやむなく選び、その教えを携えて海外に逃れて行く。彼らの多くは、米国への移住を決め、各地に散らばることになった。以後、ブロイヤーとグロピウスは、ハーバード大学で教鞭をとっている。また、その中には、イエール大学で教鞭をとった人物もいる。ファン・デル・ローエはイリノイ州に移住し、イリノイ工科大学で教えた。バウハウスの流儀は、以後、コルビジュエの建築という分野で継承された。もちろん、現在もどこかでそれらの教えが引き継がれているに違いない。




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Reference:

 

 

DDR(ドイツ民主共和国: 通称 東ドイツ)の時代の名残でもあるベルリン・ファンクハウスは、シュプレー川のほとり、工業地帯の一角にあり、現在は気鋭の若手音楽家の登竜門となっている。ファンクハウスは、第二次世界大戦間もない1951年に創設され、当初は東ドイツのラジオステーションとしての機能を担っていた。建築物内は複数のセクションで隔てられ、「ブロックA」などの名称で親しまれていた。ファンクハウスの設立当初は、4つの放送スタジオ、レコーディングルーム、および12の総数からなるスイッチングルームを完備していた。

 

フランツ・エールリッヒにより建築されたこのレンガ構造のアーキテクチャーは、現在では、ポピュラー音楽、実験音楽を問わず、多岐にわたるジャンルを主戦場とする音楽家たちがレコーディングするスペースとなっている。ファンクハウスの施設内には、大型のホールがあり、またミックスやマスタリングを行うレコーディングブースを付属している。この場所はアンダーグランドとメインストリームを架橋する役割を果たし、ベルリンのカルチャーの重要なファクターとなっている。ソビエトの統治下に発足した施設は、ラジオ放送局としての役目のみを司っていたわけではない。東ドイツ時代には、このファンクハウスには、音響エンジニア、ラジオアナウンサー、秘書、美容師などがこの放送都市に勤務していたという。その数、5000人。

 

ベルリン・ファンクハウスは、第二次世界大戦後のドイツの最も野心的な文化形成の礎の一つと見ても違和感がない。1952年にエールリッヒによる建築が始まると、56年まで建設が続いた。エールリッヒは徐々にセクションを追加していき、翌年には、ブロックBの建設に着手する。豪華絢爛なルネッサンスの建築様式を継承し、ホワイエにスラブの大理石を用い、複合体施設と称される土台の建築物を完成させる。以後、1960年にはさらに増設が進められ、ブロックEからTまで内部構造は膨れ上がった。当初の建築の設計の予想図から増設が繰り返され、原初的な設計図とは異なる建築が完成された事例は、サグラダ・ファミリアがある。だが、ファンクハウスの場合は、内部と外部構造の双方を増築するのではなく、内部構造を徐々に増強していく。



エールリッヒは、ドイツの機能的な美とモダニズムを基調とする”バウハウス”のデザイン、そして当時のソビエト建築を融合させ、唯一無二のアーキテクチャーを建造した。ソビエト連邦による統治と監視を否定的に捉えるのではなく、その様式を踏まえ、未曾有の建築様式を作り出した。それは、 複合施設としての意義を持つ、この施設の使用目的と合致している。しかし、これらの建築様式の中でもっとも性質が強く反映されたのが、他でもないソビエトの建築だった。旧(ソビエト)帝国首相官邸の大理石が階段に敷き詰められ、床壁はロシアの原生木材が使用された。後に音響施設として使用されることになる施設の一部には、音の反響性を意識し、階段には木材、石、カーペットといった素材を用い、最も音が生きる構造性が選ばれている。外壁のデザインを見ても、エカテリーナ朝の豪奢なデザインが用いられているのは瞭然である。

 

しかし、エールリッヒは少なくとも、これらの施設を単なる政治的なイデアを持つ建築物にとどめておくことを良しとしなかった。それはこの複合施設が「音楽」のために建築されたことにある。建築家と音響技師が共同で作業に当たり、複合施設としてあらゆる需要に応えるためにスタジオを完備する一大建築へと組み上げていったのだ。当初建築された空間の中には、小規模のレコーディング施設、そして現在も主要な音楽家がレコーディングの際に使用するメインホールなどがある。これはソビエトの統治下の時代を過ぎても、文化的な価値を誇る建造物を構築しようというエールリッヒの意図を読み解くことが出来る。建築は完成すれば終わりではなく、それがどのような用途で使われるのか、なおかつ時代の変遷を経て統治体制が変わろうとも普遍的な価値を持つ建築であることが最重要である。そのことをエールリッヒの建築は教唆してくれる。だから、現在もファンクハウスのメインホールやレコーディングブースは、WW2の時代のアンダーグラウンドの名残を遺しているが、多くの演奏家に親しまれる空間でもある。そして実際、現在は、ベルリン放送をはじめとする主要なラジオがオンエアされるにとどまらず、ジャンルを問わず、音楽的な遺産を作るための重要拠点になっている。ポピュラー・アーティスト、ジャズ・アンサンブル、実験音楽、交響楽団、合唱団などが録音に使用している。

 

 

現代では、自由闊達な気風を持ち、クリエイティビティを発揮する場所となっているファンクハウスではあるが、施設が完成した当初は、政治的なプロパガンダのために使用される場合もあったという。高官や政治家がファンクハウスで行われる会合に出席し、そして検閲や諜報活動を行う拠点ともなっていた。外壁を堅固なレンガ造りで覆われ、外側に話が漏洩する虞が少ない秘匿性の高い環境は、外交的に機密に処すべき情報を扱うのに最適だった。現在でも、ファンクハウスが、奇妙な構造性の名残を遺しており、第二次世界大戦後のきわめて異質な雰囲気が漂うのは、この理由によるものだ。1950年代の東ドイツの暗澹たる閉塞感と現代の開放的な文化の空気感が交わり、独特な気風を生み出している。つまり、ベルリン・ファンクハウスの建築物はドイツにとって大きな遺産なのであり、そして国家の歩みを反映したものでもある。

 

1989年のベルリンの壁の崩壊後、 ベルリン・ファンクハウスは当初の音楽的な複合施設としての意義を失うことを余儀なくされた。1991年にラジオ局は廃止され、その後、ラジオ番組の録音に使用されるにとどまった。ファンクハウスは以後、空き家同然となり、ドイツ政府上院が敷地を売却し、土地所有者は頻繁に変わった。その中には、イスラエルの投資家も含まれていた。機運が変わったのは、2015年。ウーヴェ・ファビッチ氏がこの複合施設を買収し、以後、ファンクハウスはドイツの文化施設としての道のりを再び歩み始めた。元銀行員で、文化経済学者でもあるウーヴェ・ファビッチ氏は、なぜ、この複合施設を買収したかについて、ベルリン新聞の取材に対して語っている。「私はここに世界最大級の音楽センターを建設したいと思っている」 


その発言に違わず、所有権を持つファビッチ氏は、この施設を積極的にアーティストのレコーディングやイベントに貸し出している。昨今、制作会社や音楽やテレビの制作を専門とする私立大学等、200にも及ぶテナントがこの施設を利用し、文化的な発展に貢献している。安価に施設をレンタルすることで、利用のハードルを低くしている。これが大掛かりな交響楽団やジャズ・アンサンブルにとどまらず、実験音楽家がファンクハウスを利用出来る理由でもある。





ベルリン・ファンクハウスを重要な活動拠点に位置づける音楽家は数しれない。ダニエル・バレンボイム、ケント・ナガノといったオーケストラのマエストロはもちろんのこと、ポリスのスティング、エイフェックス・ツイン、ラムスタイン、デペッシュ・モードなどミュージックシーンの大御所が多数レコーディングやイベントのため、ファンクハウスを来訪している。


その中で、BBC Promsのパフォーマンスでお馴染みのドイツの作曲家/プロデューサー、ニルス・フラームは、ベルリン・ファンクハウスにスタジオを構えている。ファンクハウスの主要な施設である「大ホール1」は、一般的に世界最大のレコーディングスタジオであると見なされている。世界中のミュージシャンがこのホールの持つ音響の素晴らしさ、美しさを絶賛してやまない。

 

ベルリンのファンクハウスは市内中心部に近い場所に位置し、アクセスもしやすい。現在では、レコーディングや制作、コンサート、フェスティバル、クラブイベント、ライブパフォーマンスなど多岐にわたる用途で使用される。施設内のガイド付きツアーも開催されることもある。東ドイツのミルヒバールでは、コーヒーや伝統的なドイツ料理、ベルリンの人気店ゾーラのピザをたのしむことが出来る。ドイツ観光の際は、ぜひチェックしておきたいスポットの一つ。




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LIMINAL SPACE-リミナルスペース- 現実空間と異空間の狭間

Club Chinois
 

いわずもがな、ヨーロッパは全般的にクラブカルチャーが盛んな土地である。どうやらそれは、スペインのクラブカルチャーが1980年代から現在まで続いてきたことに要因があるようだ。南洋のサンゴ礁が輝く諸島のようなエメラルドの海、白亜石のような白っぽい建築素材でできた家々、ギリシャのエーゲ海のサントリニ島、ミコノス島、ロードス島に見られるカラフルな塗料を施した建築群、そして、もちろん、カラフルなビーチ・パラソルが目立つ寛いだ砂浜。こういったギリシャやイタリアで見られるような個性的な景観は、南ヨーロッパの国土の最大の美点だろう。

 

そして、西ヨーロッパのパーティー・サーキットが世界的に有名なのには理由がある。雰囲気はアメリカよりもはるかにリラックスしていて、バカンス寄りだ。飲み物は豊富で、特に強力なリキュールを使っている。パーティーは遅く始まり、遅く終わる。フランス、スペイン、イタリアのクラブでは、Alors On DanseやDragostea Din Teiがいまだに愛されていることに驚くだろう。


ヨーロッパは文化の奥深さにより知られていると言うとき、それはルネッサンスの芸術や建築と同様にナイト・ライフにも該当する。フィレンツェはウフィツィ美術館とメディチ家の貢献で知られているが、ナイトクラブでも知られている。そしてパリでは、昼間はオルセー美術館のマネやドガの絵画、ルーヴル美術館のエジプト・コレクションを見ることに挑戦する。しかし、夜には、午前2時の地下鉄に乗り遅れたら、電車が再開する午前6時まで外にいることも出来る。


スペインのナイトライフは、マドリードからマヨルカまで、その種類はさまざま。アシュトン・カッチャーと同じウェスト・ハリウッドのクラブに入ろうとするようなL.A.のクラブ遊びとは違うらしい。髪を下ろして、Ai Se Eu Te Pego(ノッサ!ノッサ!)の大合唱に参加するような、のんびりしたパーティーだ。スペインのパーティー文化は、音楽を感じ、魅惑的な雰囲気に身を任せるというもの。アメリカでは、たとえラスベガスやマイアミであってもそのノリは通じない。


スペインのパーティーの聖地といえば、イビサ島だ。バレアレス諸島の一部であるイビサは、バレンシア沖、パルマとメノルカの南に位置する。イビサは、パーティーの主要地として国際的に高い評価を得ているが、その客観的価値はすぐに変わることはないだろう。2000年代初頭のベニー・ベナシやベースハンターのヴァイブスから、最近のデュア・リパのヒット曲まで、ハウスミュージックとポップスのリミックスが君臨する場所だ。イボシム(Ibosim)のようなイビサのクラフトビール、島の有名な蒸留酒ヒエルバ(Hierbas)、アブサン(Absinthe)のような古典的なヨーロッパのパーティー・リキュールなど、ドリンクもビーチと同様に文化の一部だ。


では、イビサがアルコールと音楽に酔いしれる快楽主義的な評判を実際に高めたのはいつなのだろう? ヨーロッパのみならず、世界の真のパーティーの首都となったのはいつなのだろうか?


当然、イビサのパーティー・カルチャーは、60年代から70年代にかけて、ヒッピー、クリエーター、アーティストたちが、社会への適合性(そして現実の仕事)から逃れてきたことに端を発している。このような考え方に由来しないパーティー・カルチャーがあるだろうか? イビサ島には、よりのんびりとしたアーティスティックな文化の先例がすでにあった(それは30年代にスペイン本土を出発した人々まで遡る)ので、70年代にこの文化がさらに定着しても驚くには値しなかった。


一般の人々は、イビサをエレクトロニック・ハウス・ミュージックのシーンとしか見ていないかもしれないが、イビサのサウンドはもっと多面的で複雑だ。70年代に形成されたほとんどの音楽シーンと同様に、ロックンロールはイビサの初期のパーティーの歴史の大きな部分を占めている。実際、BBC Travelによると、エリック・クラプトンは、77年にジョージ・ハリスンと一緒にこの島に現れ、フレディ・マーキュリーは、41歳の誕生日をイビサで迎え、Wham!は今や象徴的なホテルとなったパイクスでクラブ・トロピカーナのビデオをレコーディングしたという。


この頃、イビサ島で最も古いクラブが2つオープンした。70年代のパチャ、そして80年代のアムネシア。この2つのクラブは、70年代と80年代のアンセムに加え、低音を効かせたハウス・ミュージックやデヴィッド・ゲッタなどのゲストDJシリーズを歓迎する環境を作り上げた。80年代から90年代にかけて、クラブはPachaとAmnesiaの2店舗をお手本とし、イビサのパーティーシーンは、セレブリティ主催のパーティーナイトや、必ず訪れるべきクラブハウスを軸に成長していった。


Club Eden

音楽は、イビサの文化の大きな部分を占めているおり、90年代から2000年代初頭にかけてライブコンサートや音楽フェスティバルが開催された。そしてパーティーを中心とする文化の成長を促進した。70年代のロック・スターが誇りに思うような才能を歓迎し、イビサは、音楽面でも様々なジャンルのミュージシャンを受け入れるように。その後の年代には、ロック・ミュージックが盛んになった。たとえば、Ibiza Rocks Festivalでは、アークティック・モンキーズやザ・リバティーンズがホスト役を務め、「I Bet That You Look Good on the Dance Floor」を口ずさむオーディエンスが、ハウス・ミュージックの先駆者たちと仲良くプレイできることを証明している。


イビサ島の魅力は、ただ純粋に楽しみ、朝まで飲み明かすだけの場所ではないこと。イビサが世界中の人々を惹きつけてやまない理由もそこにある。テクノ、ボーホー、ロックンロール、どのような雰囲気に惹かれるかに関わらず、イビサ島は奥深いカルチャーの魅力があるようです。


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南アフリカで誕生した新たなミュージックシーンの息吹 ーAMAPIANOー


近年、イギリスでパンクが再燃しており、現在もそれはポスト・パンクという形で若者を中心に親しまれていることは確かだろう。

 

そしてパンクのロングタイムの人気を象徴づける記事がある。2022年6月5日のNMEの記事では、こう報じられている。ーーセックス・ピストルズの「God Save The Queen」がロングラン・ヒットを記録し、イギリス国内で最も売れたシングルとしてプラチナ・ジュビリーに認定ーーと。

 

「ゴッド・ザ・セイヴズ・ザ・クイーン」は、今もなお老若男女にしたしまれている永遠のアンセムで、パンク人気を象徴づけるアイコンの一つであるということ。


また、アーカイブ的にも、ピストルズは現在も一定の興味を惹きつけるものであることは明確だ。


ダニー・ボイルが1970年代のロンドンで生まれたパンクロック・カルチャーと、セックス・ピストルズの軌跡を追う映像シリーズ「Pistol」に着手しはじめ、映像ドラマの側面からロンドンの最初のパンクバンド、ひいてはパンク・カルチャー全体に脚光を当てようとしている。この映像は、ギタリストのスティーヴ・ジョーンズの自伝を元に制作されることになった。しかし、この映像内での楽曲使用の件で、フロントマンのジョン・ライドンとの間に法廷闘争が発生し、物議を醸した。

 

Malcom Mclaren

 

1970年代に台頭したUKパンクを単なる音楽だけの観点から捉えることは困難をきわめる。レザージャケット、カラフルなスパイキーヘア、時には後のゴシックの象徴的なファッションを形成する中性的に化粧を施したスタイル、これらはそれ以前のニューヨーク・ドールズ、VU、リチャード・ヘル、ラモーンズが出演していたマックス・カンザス・シティ、CBGB,そしてマーサー・アーツ・センターといったライブハウス文化がロンドンに渡り、そして、そのカルチャーがマルコム・マクラーレンという仕掛け人によって、パンクという形で宣伝されるに至った。

 

マクラーレンは元々はファッションデザイナーとして活動していて、ブティック、”SEX”に出入りしていた若者を掴まえ、後にこのバンドをプロデュースし、Pistolsというロンドンパンクの先駆者を生み出すことになる。これは以前に、彼がニューヨーク・ドールズのプロデュースを手掛けており、それをロンドンでより大掛かりに、そしてセンセーショナルに宣伝し、一大ムーブメントに仕立てようという彼なりの目論見があったのだ。シド・&ナンシーに代表されるファンションは既にジョニー・サンダース擁するNew York Dollsの頃のグラム・ファッションで完成されたつつあった。それをより、洗練させ、ある意味では彼らをファッションモデルのような形で飾り立てることで、パンクという概念を出発させることに繋がった。

 


マルコム・マクラーレンが一大ムーブメントを仕掛けるためのお膳立ては整っていた。1970年代のイギリスでは、英国病と呼ばれる病理が蔓延していた。大まかには、国を挙げてセカンダリー・バンキングへ傾注した1960年代以降のイギリスにおいて、充実した社会保障制度や基幹産業の国有化等の政策が実施され、社会保障負担の増加、国民の勤労意欲低下、既得権益の発生、及び、その他の経済・社会的な問題を発生させた現象を意味する。 この時代を描いた作品としてユアン・マクレガー主演の映画「Train Spotting」が挙げられる。イギリス国内の社会不安の増大により勤労意欲が低下した若者たちのリアルな姿が脚色を交えて描かれた作品だ。


 当時、労働者階級とアッパー・ミドル以上の階級との格差は増大し、その社会構造の間に奇妙な歪みが生み出されていたことは想像に難くない。悪い経済が蔓延していたのみならず、レコード産業も衰退していた。それ以前のRoling Stones、Led Zeppelin、Pink Floydのレコード産業の栄華が過去の遺物となりつつあり、音楽産業自体が下火になっていたのがこの70年代の中頃である。

 

さらに、アートスクールの奨学金や失業保険の手当を受けて生活しているような若者たちにとって、Zepのハードロックやピンク・フロイドのプログレッシブロックは端的に言えば、リアリティを欠いたものだった。そのメインストリーム・ミュージックに根ざした音楽の風潮の変化がもたらされたのが75年のこと。「俺はピンクフロイドが嫌い」というTシャツを来たある若者が「I'm Eighteen」のオーディションを受け、合格する。これがロンドンのパンクバンドが出発した瞬間だ。

 

 

最初のシングル「Anarchy In The UK」の発売 グレン・マトロックの解雇


パンクの誕生を伺わせる当時の英国の新聞各社の報道

Sex Pistolsの最初のショーは1975年11月6日に行われた。ショーは主にカバーを中心に構成されていた。それからいくつかのギグを続け、ピストルズは、ブロムリー・コンティンジェントとして知られるファンベースを獲得する。続いて、1976年、バンドは、パブロックの代表格、Eddie & The Hot Rodsの最大のショーのサポートを務める。既にその頃から、バンドの攻撃性と興奮は多くの観客を魅了していた。唯一の懸念だったバンドの演奏力は見れるものとなり、そしてスティ-ヴ・ジョーンズの演奏力も上昇した。特にこの時代、ピストルズの面々は多くの熱狂的なファンに熱量のあるショーを期待されており、信念やインスピレーションを欠いた気のないパフォーマンスをしようものなら、ファンが暴徒化する場合もあったという。結局それらの取り巻きのフーリガン的な行動により、セックス・ピストルズに暴力的なイメージが付きまとうことになった。また、このイメージはのちのスキンズやハードコアパンクのスタイルの源流を形成することになった。

 

同年の6月4日、バンドはマンチェスターで伝説的なギグを開催する。ここには、ピート・シェリー、ハワード・デヴォート(Buzzcocks)、バーナード・サムナー、イアン・カーティス、ピーター・フック(Joy Divison)のメンバーが観客の中にいた。その日の観客は40人前後だったとも言われている。


ライブギグで一定の支持を獲得した後、1976年7月20日にパンクの古典となる「Anarchy In The UK」をEMIからリリースする。社会風刺的な歌詞は当時のロックファンにとって真新しいもので、米国と英国のパンクの相違を象徴していた。さらに続いて、9月1日、バンドはテレビに初めて出演する。パンクブームの発起人の一人でありマンチェスターのファクトリー・レコードの主宰者でもある、トニー・ウィルソンのテレビ番組に出演し、スタジオでこのデビュー・シングルを初披露する。その5日後、ビル・グランディが司会をするテレビ番組にも出演し、バンシーズのスージー・スーに軽率な発言を行い、批判を呼ぶ。これはグランティとスティーヴ・ジョーンズとの間に会話をもたらし、その当時の国内のメディアの意義を根底から揺るがすものでもあった。また、12月のテレビ出演時には、四文字言葉を連発し、センセーショナルな話題をもたらした。






1977年、イギリス国内最大の音楽メディアのNME宛てに一通の電報が届いた。 Sex Pistolsのマネージャーのマクラーレンから、「グレン・マトロックが解雇された」との一報だ。デビュー当時はピストルズの音楽性の一端をになっていたマトロックの解雇は、大いに注目に値するものだった。


彼の後任にはすぐさまシド・ヴィシャスが内定するが、そもそも、当時のヴィシャスはベースを演奏することが出来ず、ガールフレンドのナンシー・スパンゲンとの交友があってか、麻薬漬けの日々を送っていた。

 

これが後にどのような形で、このバンドの終焉となるかは周知のとおりだが、当時、彼の革ジャンとTシャツ、ブーツというルックス、そして日常における破天荒きわまりない行動が「パンク」であるとされ、マクラーレンはバンドへの加入を促した。パンクのファッションとの深い関連は、特にヴィシャルがもたらしたものであると考えるのが妥当ではないだろうか。

 

 

「God Save The Queen」のセンセーショナルな宣伝 ジョン・ライドンが曲に込めた真意とは?



Sex Pistolsのデビュー・シングルの宣伝 20世紀には飛行機から広告をまく手法があったが、それに近いゲリラ的な宣伝方法の一つ


セックス・ピストルズのデビュー・シングルがA&Mからリリースされたのは1977年のことだ。このリリース日は、エリザベス女王のシルバー・ジュビリーの祝典と時を同じくしていた。ピストルズの四人は、報道カメラマンを呼んで、船の上で「God Save The Queen」のリリース記念パーティーを開催するが、後に社会問題に発展する。この宣伝方法が、すべてがマルコム・マクラーレンによってしかけられたものであるとしても、オリジナル・バージョンのシングルのアートワークは過激きわまりないもので、女王の顔に彼らのトレードマークである安全ピンを差したデザインだった。最初のバージョンは、すぐに発禁処分になり、後にアートワークは差し替えられるが、このシングルのリリースが知れ渡ると、英国内で論争を巻き起こすことになった。当然のことながら、ピストルズは、レーベルとの契約後、わずか6日でA&Mとの契約を打ち切られる。次いで、レコードの25,000枚が廃棄処分となる。現存する希少なオリジナルバージョンは現在でもコレクターの間で価値のあるレコードとしてみなされている。


A&Mとの契約解消後、PistolsはすぐにVerginと契約を結ぶ。その後、「God Save The Queen」はピクチャースリーブ付きで発売された。

 

既にBBCでは放送禁止となっていたにも関わらず、この曲はNMEチャートで一位を獲得した。結局イギリスの公式チャートでも2位まで上昇するが、長らくチャート集計側が意図的にトップから遠ざけていたという噂もあるようだ。 

 

この年、複数の魅力的なロンドンパンクバンドがデビューし、その中にはクラッシュ、ストラングラーズ、ジャムがいた。彼らはヒットチャートの上位を獲得し、パンク人気を全国区に引き上げる役割を果たした。


 


「God Save The Queen」では、国家概念を擬人的に捉える古典的な詩の手法が取り入れられていて、「イングランドは叫んでいる、未来はない」というフレーズが最後の部分で歌われるが、それは実際、のちのサッチャー政権時代ザ・スミスの楽曲のように、他のどのロックよりも社会不安のリアリティを直視し、それをシンプルに言い当てたものだった。多くの若者たちは英国への愛と不信が混在したシニカルな歌詞と歌に大きな共感を覚えたことは想像に難くない。しかし、ジョン・ライドンはこのデビューシングルについて、ピアーズ・モーガンに次のように語った。これは長年のライドンの英国王室へ嫌悪感があるという誤解を解くための発言として念頭にとどめておいた方が良さそうだ。


特にジュビリーのために書いたというわけではないんです。それが私の思考回路そのものだった。わたしたちがそのボートパーティーをする数ヶ月前。歌詞の内容は反王党主義に近いものですが、もちろんそれと同時に非人間的なものでもありません。

 

私はぜひともこのことを言っておかねばならないんです。私が人間として王室に対して完全に死していると決めつけてはいないのです。そうは思っていません。女王が生き残り、上手くやっていくことを本当に誇りに思っているんです。

 

また女王に喝采を送りたい。私はそのことについて不機嫌ではありません。この制度を支持するために税金を支払うというのなら、そのことについては何らかの意見を差し挟む必要もありそうですが・・・。

 

また、ピアーズ・モーガンが「君はつまり、君主制の終わりを見たくない・・・」と尋ねると、さらにライドンは以下のように述べている。

 

私はそもそもページェントリーが大好きです。私はまたサッカーファンですが、どうしてそうせずにいられるのでしょう? 

 

私はロイヤル・ウェディングを見るのが好きなんです。なぜならスピットファイアやB-52等が宮殿の上空を飛行するのが本当に楽しいから。そういったことに感情的になる場合もありますが。

 

しかし、私は国家を愛しており、また国民を愛しています。そして、それに関することも愛している。でも、そこに問題がある。私にはこのことを言う権利があると思います。だから私は、女王陛下万歳、と書きました。信じてほしい、あれは私が書いたんです。他の人ではありません。これは私が完全に有能な視点を表現したものだったのです。

 

 

1977年10月28日にデビュー・アルバム『Never Mind The Bollocks」がVirginから発売された。米国では2週遅れで発売となった。ほとんどの曲は、グレン・マトロックとジョニー・ロットンにより書かれており、他のメンバーは補佐的な形で意見を交えている。マトロック脱退後、アルバムのために2曲「Holiday In The Sun」、「Bodies」 を書き加えられた。グレン・マトロックは76年にEMIからリリースされた「Anarchy In The UK」のうち一曲で演奏している。


アルバムの最初のタイトルは、「God Save Sex Pistols」であった。1977年半ばに「Ballocks」という単語が追加された。しかし、「Ballocks」というタイトルが1899年に施行された「わいせつ広告法」に該当するとし、レコード・ショップのオーナーの多くは、ショーウィンドウで宣伝をした際には罰金及び逮捕の処分があると警察から忠告を受けた。実際、警察はノッティンガムにあるVirginの店舗の捜査に踏み切り、オーナーを逮捕する。しかし、これもヴァージンとマクラーレンにとって恰好の宣伝の機会となり、彼らは”アルバムが長持ちする”という判断を下した。


 


 

デビューアルバム『Never Mind The Bollocks』に込められた意味、一般的な発売日を迎えるまで

 

「Never Mind The Bollocks』発売当初のVirgin Records

 

結果的に、現行のアルバムのタイトルが普及している理由は、「Bollocks」という睾丸を意味する単語が一般的に普及するナンセンスな用語に該当すると、ノッティンガム大学のイングリッシュ教授は証人として指摘した上、さらに、この言葉が古英語で「聖職者」を意味すると法廷で証言し、擁護したことによる。この裁判を受け持った判事は、Bollocksという単語の使用を許可するとともに、バンド、レーベルの発売権における全ての宣伝、及び活動を容認する結果となった。

 

ヴァージン・レコードとの契約後も、マルコム・マクラーレンはアルバムの宣伝とパンクの普及活動に余念がなかった。マクラーレンは米国を含む各国で交渉を続行した。


1977年10月10日には、ワーナーとの契約を締結する。つまり、このアルバムに2つの配色が用意されているのは、これが要因のようである。イエローバージョンはヴァージンのデザインで、ピンクがかったデザインはワーナーのリリースとなっている。

 


フランスでは、マルコム・マクラーレンがバークレーと粘り強い交渉を続け、アルバムは12曲から一曲をカットし、全11曲でリリースされることが決定した。加えてアルバムは一週早く発売されることが決定し、これによって、Virgin Recordsは英語でのリリースを10月28日に前倒しした。最初の50,000部には11トラックのバージョンが収録されていた。このバージョンにはのちにレア・トラックとして発売される「Submission」の7インチとポスターが付属していた。

 

Virginにとって最後の問題となったのは海賊版「Spunk」のリリースの懸念事項だ。このアルバムにはデモとスタジオレコーディングが収録されていた。また録音自体はグレン・マトロックが在籍時に制作されたもので、オリジナル版よりもプリミティヴな音質が味わえるとされている。 さらにこの音源はマクラーレンが録音のマスターテープを漏洩したとも言われている。しかし、マクラーレン本人はそれを否定している。



 

このブートレッグのアルバムは、1977年の9月から10月にかけて発売され、オリジナル版がリリースされる数週間前にリークされていた。しかし、このことに関してはレーベル側は良い宣伝とみなしていた。「Spunk」は、デンマーク・ストリートのリハーサル・スタジオ、ロンドンのランズダウン、ウェセックス・スタジオ、ロンドンのグーズベリー/エデン・スタジオと、複数のスペースで録音された。このリリースは、1996年になって、オリジナル版の追加ディスクとして再発されている。

 

デビュー・アルバム「Never Mind The Bollocks』は発売後まもなくゴールド・ディスクを獲得し、ヒットチャートの一位に輝いた。しかし、これらの曲のほとんどが既発曲であったことがセックス・ピストルズの限界性を示していたという意見もある。

 

最初に「New Wave」という言葉がメロディー・メイカー誌に掲載された1978年、Sex Pistolsはアメリカツアーを終えたのちに解散した。その後、The Clash、The Damedといったレジェンドたちは息の長い活躍をするが、一方、Buzzcocksをはじめニューウェイブに属する清新なバンドの台頭が控えていた。その後の年代には、オリジナル世代のバンドが主流となり、メジャーレーベルと契約し、オリジナルパンクが形骸化するようになるにつれ、ポストパンクが主流となっていく。

 

その中には、このバンドの黎明期のライブを見届けたイアン・カーティス擁するJoy Divisonも1979年にデビューを果たし、国内のミュージックシーンを席巻していく。また同時進行で、ファクトリー、クラブハシエンダを中心とするクラブ・ミュージック文化もマンチェスターを中心に沸き起ころうとしていた。一般的には、英国の最初のオリジナル・パンクのウェイヴは、1977年に始まり、ほとんど一年でそのムーブメントは終焉を迎えたと見るのが妥当かもしれない。

 

しかし、その後には、1978年から沸き起こるニューウェイヴ/ポストパンク、また、オリジナル世代のコアなファッションを受け継いだ、Discharge、The ExploitedをはじめとするUKハードコアパンクのバンドが登場したことは周知の通りだ。これらのバンドは、最初期のオリジナルパンクとはその音楽性を異にするが、政治風刺を込めたメッセージや、レザー・ジャケット、スパイキー・ヘアというファッション性においてオリジナル世代のDNAを受け継ぎ、文化性を確立していく。


そのニューウェイヴ/ポストパンクと呼ばれるムーブメントの最前線には、Public Image Ltd.もいた。ジョン・ライドンは、80年代もニューウェイブ・ムーブメントを牽引する役目を担った。その過程では、Sex Pistolsのアンセムに勝るとも劣らない「Rise」という名曲も誕生したのだった。


 

Morton Feldman

モートン・フェルドマンの「ロスコ・チャペル」は、ヴィオラ独唱、アルト独唱、ソプラノ独唱、混声合唱、チェレスタ、バスドラム、チャイム、ゴング、テナードラム、ティンパニ、ヴィブラフォン、ウッドブロックで構成される打楽器のためのスコアです。この曲は合唱を中心にした現代音楽の一つで、今でも米国の楽団や合唱団などが様々な解釈を行い、再演に挑んでいます。


米国の現代音楽家であるモートン・フェルドマン(1926-1987)は、1971年、テキサス州ヒューストンにあるメニル財団から一般に贈られた同名の建物のために、「ロスコ・チャペル」を作曲した。そもそもロスコ・チャペルは、メニル財団がアメリカの抽象表現主義の画家マーク・ロスコ(1903-1970)に依頼した14枚の巨大キャンバスを収蔵・展示するために設計されました。



ロスコもフェルドマンも、絵画では自意識過剰なモダニズム(ポップ・アートなど)、音楽では12音のアカデミックなシリアリズムという、一般的な、あるいは少なくとも最も話題になっている芸術傾向を受け入れることを避けていました。しかし、ロスコの絵画やフェルドマンの音楽が持つ挑戦的な(あるいは無神的な)性質は、多くの人に、20世紀半ばの芸術が「皇帝の新しい服」に過ぎなかったのか、という問いに直面させることになる。


ロスコ礼拝堂は、ドミニクとジョン・ド・メニル夫妻が構想し、資金を提供した多くの文化プロジェクトの一つである。


ドミニクはパリに生まれ、シュルンベルジェ社(Schlumberger Limited)の石油製品製造設備の資産を受け継いだ。ソルボンヌ大学で数学と物理学を学び、映画製作に興味を持ったドミニクはベルリンに渡り、『ブルーエンジェル』の撮影中、ジョセフ・フォン・スタンバーグの脚本助手として働きました。というのも、トーキー映画の黎明期には、「台詞の置き換え」ができなかったから(『ブルーエンジェル』は1929年末から1930年初頭にかけて撮影され、ドイツ初の長編トーキー映画となった)。そのため、すべてのシーンをドイツ語と英語の2回に分けて撮影する必要があった。


1944年、フランスが崩壊し、ナチスに占領されると、ドミニクは銀行家の夫ジョンとともにアメリカに移住し、テキサス州ヒューストンに定住しました。ドミニクはカトリックに改宗しており、夫とは精神性と芸術のクロスオーバーに強い関心を抱いていた。その代表的な例が、宗教を超えた礼拝堂とそこに飾られたマーク・ロスコの絵画、そして、その空間にインスピレーションを受け、そこで聴くことを意図して依頼したモートン・フェルドマンの音楽作品である。これはまた一般的に現在では盛んなインスタレーションの先駆けと指摘される場合もある。なぜなら、そこには空間と音の融合という二つの芸術形式の混淆が見出せるからである。


    


1947年、ハリー・トルーマン大統領は、国務省が巡回展のために購入したあるモダニズム絵画を見たとき、「これがアートなら、私はホッテントットだ」とコメントしたというエピソードが残っています。ホッテントットとは今や廃れてしまった侮蔑的な意味で用いられる呼称であった。1947年といえば、ニューヨークのジャクソン・ポロックが「ドリップ」技法の実験を始めた時期だが、この展示会にポロックのドリップキャンバスが含まれていたとは思えない。しかし、国務省の新しい絵画がどんなものであれ、トルーマンの印象には残らなかったし、この作品をアートとは考えなかったのだ。


"ごく普通の人 "は、視覚芸術を評価する基準として、むしろ保守的かつ伝統的な(あるいは常識的な)基準を持っている。しかし、ハリー・トルーマンの基準と、イタリア・ルネッサンス期の王子やオランダ黄金期(1570-1650年頃)の商人の基準には、大きな共通点があるように思えるのです。


作品が高品質な素材で作られ、ひときわ高価な素材で強化(価値付け)される。もちろん、水彩画ではなく油絵(あるいは木炭によるスケッチ)がゴールドスタンダードである。油絵は精巧な金箔のフレームがなければ、想定される観客や購入者には裸のように見えるだろう。


もちろん、これらの要因によって、芸術を支援するパトロンが支払っているものが何なのかというパンドラの瓶が開いてしまいますが、この議論ではそれほど重要ではありません。事実、視覚芸術には階層があり、世界中のほとんどの大規模な美術館でそれを見ることができます。


観客にとって意味のある、実在するものを忠実に表現している、部屋、人、馬、犬、風景、友人のグループに属する表現芸術は、長い間、西洋の美術品のコレクター、たとえ、経済的に不自由な大学生であっても、かつては部屋の壁にそれらを飾りたがったものです。例えば、ゴッホの「星月夜」や「ひまわり」が何百万回も複製品として売られているのは、「人々が共感できる(あるいは投影できる)ものを表しているから」なのです。


米ヒューストンにあるロスコ礼拝堂の巨大な暗黒のキャンバスは、マルセル・デシャンの次の世代の空間芸術に位置づけられますが、特にスペインのカトリシズムを思い起こさせる。この点で、特にフランシスコ・デズルブランが思い浮かぶ。彼のシンボル満載の静物画「Still Life with Lemons, Oranges and a Rose」は、モーテン・ローリセンの鎮魂歌「Lux Æterna」に影響を与えた。

 



ポール・マッカートニーは、ビートルズ全盛期に35mmフィルムで撮影した写真を、『1964』という本の中で特集する予定です。「1964: Eyes of the Storm」と題されたビートルズ・ファンお待ちかねの新刊書籍が出版されます。


6月13日にLiveright社から発売される『1964: Eyes of the Storm』は、マッカートニーが1963年末から1964年初めにかけて撮影した275枚の写真を収録。これは、ちょうどビートルズが米国で大流行した時期でした。リバプール、ロンドン、パリ、ニューヨーク、ワシントンDC、マイアミで撮影された写真は、ポール、ジョン、ジョージ、リンゴが自分たちが嵐の目のなかにあることに気づいた「パンデモニウム」を伝えています。


「個人的な遺物や家族の宝物を再発見した人は、瞬時に記憶や感情が溢れ出し、時の靄の中に埋もれていた連想を呼び起こす」と、ポール・マッカートニーは声明の中で書いています。   


「この写真は1964年2月までの3ヶ月間に撮影されたもので、まさに私が体験した瞬間を捉えている。まさに、まるで、過去に戻ったかのような素晴らしい感覚です。リバプールとロンドンに始まり、パリ(ジョンと僕は3年前に普通のヒッチハイカーだった)、そして僕らが最も重要だと考えていたグループとしての最初のアメリカへの訪問まで、6都市でのビートルズの写真ジャーナル、僕自身の最初の大旅行の記録がここにある」


『1964: Eyes of the Storm』には、ポール・マッカートニーによる序文と、ハーバード大学の歴史学者でニューヨーカーのエッセイストであるジル・レポアによる紹介文「Beatleland」が収録されています。本の予告編は以下からご覧いただけます。


さらに、ポール・マッカートニーの娘メアリー・マッカートニーは、世界で最も有名な音楽的ランドマークのひとつであるアビーロード・スタジオについての新しいドキュメンタリー『If These Walls Could Sing』で、その歴史を掘り下げています。また、元ビートルズは、最近、カントリーアイコンのドリー・パートンと組んで、ロックのカバーアルバム『Rock Star』を発表しています。



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1950年代、60年代のジャズは、ビバップ/ハード・バップが主流となり、この音楽形式が様式化しつつあった。その動向に対して出てきたムーブメントがフリー・ジャズだ。以前のラグタイムなどから引き継がれていたジャズのキャラクター性を形作る既存の調性やテンポをフリー・ジャズは否定しようとした。

 

この音楽が初めて70年代にジャズシーンに出てきた時、革新的な音楽に比較的寛容であったかのマイルス・デイヴィスですら、フリージャズに理解を示そうとはしなかったという。形式の破壊を意図する音楽は既にそれ以前の古典音楽において、無調音楽が出てきているが、ジャズも同じようにそれらの形式的なものを刷新する一派が出てきた。しかし、ジャズそのものが自由な精神に裏付けられた音楽と定義づけるのであれば、フリー・ジャズほどその革新を捉えている音楽は存在しない。

 

フリージャズは、その字義どおり、ジャズを形式や様式から開放する動きといえるが、最初期は、スイングを発展させたシャッフルに近いリズムと、調性音楽の否定に照準が絞られていた。これらは、ブルースに影響を受けたという指摘もあるが、 音楽的にはアフリカの民族音楽のように西洋音楽には存在しない前衛的なリズムを生み出すべく、複数のジャズ演奏者は苦心していたに違いない。このフリージャズの代表的な演奏家の作品を大まかに紹介していきましょう。

 

 

・Ornette Coleman(オーネット・コールマン)

 


 

テキサス出身のサックス奏者、Ornette Coleman(オーネット・コールマン)が 1959年に発表した「The Shape Of Jazz To Come」は、フリージャズの台頭を告げた作品であり、コールマンの代表作品に挙げられる場合もある。

 

もともと、オーネット・コールマンは独学で演奏を習得した音楽家であるため、カルテットでの演奏自体も即興性の強いが、「The Shape Of Jazz To Come」に見られる調性の否定、そして、それ以前のビバップ/ハード・バップの規則的なリズムの否定など、革新的な要素に富んでいる。

 

この作品の発表当時の反応は様々で、批評家からかなりの批判を受けた。その時代の価値観とはかけ離れた革新的の強い作品はおおよそこういった憂き目に晒される場合が多い。批判者の中には、マイルス・デイヴィスとチャールス・ミンガスも含まれていた。しかし、のちのフリージャズに比べると、古典的なジャズの性格を力強く反映している作品であることも事実である。 


 

 

 

 ・Eric Dolphy(エリック・ドルフィー)

 


Eric Dolphy(エリック・ドルフィー)はフルートの他にも、クラリネットとピッコロ・フルートを演奏した。当初は、ビバップ・ジャズの継承者として登場したが、のちにアヴァンギャルド・ジャズに興味を持つようになった。ドルフィーのフルートは、クラシックの影響を反映した卓越した演奏力と幅広いトーンを持つのが特徴である。36歳の若さで惜しくも死去したものの、生前、ジョン・コルトレーン、ミンガス、オリバー・ネルソンの録音に参加している。

 

オーネット・コールマンの最初のフリー・ジャズの発表から、およそ五年後に発表されたのが、フルート奏者、エリック・ドルフィーの1964年のアルバム『Out To Launch』である。一般的にはブルーノートの1960年代のカタログの中で、もっとも先進的なレコードと称される場合も。しかし、アルバムの冒頭は、ビバップの王道を行くような楽曲に回帰している。しかし、二曲目からは一転してアヴァンギャルドなリズムと無調に近いスケールが展開される。 



 

 

 

・John Coltrane(ジョン・コルトレーン) 



ジョン・コルトレーンはテナー・サックス奏者として、マイルス・デイヴィスのバンドの参加だけでなく、バンドリーダーとしても活躍している。後に、アリス・コルトレーンと結婚した。もちろん、「ブルートレイン」、「カインド・オブ・ブルー」、「マイルストーン」など数多くの傑作を残している。時代により、ビバップ、モード、ジャイアント・ステップスとその音楽性も変化しているが、フリー・ジャズの傑作としては1971年の「Ascent」が挙げられる。

 

この作品では、古典ジャズの巨人として挙げられるジョン・コルトレーンのサックス奏者としての意外な一面を堪能できる。コルトレーンらしからぬ前衛性の高い演奏が行われており、そして基本的なスケールを度外視したアバンギャルドな音楽性は今なお刺激的であり続ける。ビバップやモード奏法など、基本的な演奏法を踏まえ、それらを否定してみせることは、このプレイヤーが固定概念に縛られていない証拠でもある。バックバンドもかなり豪華で、マッコイ・タイナー、ジミー・ギャリソン、エルヴィン・ジョーンズが参加している。ジャズにおける冒険ともいうべき傑作の一つで、コルトレーンはサックスの演奏における革新性に挑んでいる。 





・Alice Coltrane(アリス・コルトレーン)

 

 

Alice Coltrane(アリス・コルトレーン)はラッキー・トンプソン、ケニー・クラーク、テリー・ギブスのカルテットの演奏者として活躍し、スウィング・ジャズに取り組んできた。コルトレーンと出会った後は、互いに良い影響を与え合い、スピリチュアルな響きを追求する。夫の死後は、バンドリーダーとしても活躍した。ファラオ・サンダースとの共作もリリースしている。

 

1971年に発表した五作目のアルバム「Universal Conscousness」は、フリージャズの未知の領域をオルガンの演奏によって開拓した作品である。スピリチュアルな音響は、時に、サイケデリックな領域に踏み入れる場合もあり。コルトレーンの演奏のエネルギッシュさが引き出された一作で、一見すると無謀な試みにも見えるが、モード・ジャズ、即興演奏、そして、構造化された構成要素を組み合わせて制作されている。エキゾチック・ジャズの元祖ともいうべき作品で、エジプトやガンジスといった土地の歴史文化の神秘性が余すところなく込められている。 


 

 

 ・Sun Ra(The Arkestra)


 


 

 ラグタイム、ニューオリンズのジャズサウンド、ビバップ、モード・ジャズ、フュージョン、と能う限りのジャンルに挑戦してきたサン・ラ。奇想天外なアバンギャルド・サウンドを通じて宇宙的な世界観を生み出した。アフロ・フューチャリズムのパイオニアとも見なされる場合もある。その他にも、ブラジル音楽や民族音楽等、多岐にわたるジャンルを融合した。電子キーボードをいち早く導入し、The Arkestraを結成し、前衛的な音楽活動を行ったことでも知られる。


Sun Raのフリージャズの音源としては、The Arkestraのライブアルバム「It’s After The End Of The World」が挙げられる。1970年にドナウエッシンゲンとベルリンで録音された音源で、即興演奏そのもののスリリングさ、そしてエネルギッシュな演奏を楽しむ事ができる。

 

 

 

・Barre Phillips(バール・フィリップス)

 



フリー・ジャズの開拓史の中にあり、ブルーノートや他の名門レーベルと共にこのジャンルに脚光を当ててきたのが、マンフレッド・アイヒャーが主宰するドイツのECMである。そして、このレーベルのフリー・ジャズの作品の中で聴き逃がせないのが、伝説的なコントラバス/ウッドベース奏者、Barre Phillips(バール・フィリップス)の1976年の「Mountainscapes」である。バール・フィリップスは、カルフォルニア出身で、1960年でプロミュージシャンとしてデビューする。62年からニューヨーク渡り、その後、70年代にはヨーロッパに移住した。ジャズの即興演奏の推進者として活躍し、さらに2014年には、European Improvisation Centerを設立している。

 

「Mountainscapes」は、サックスの奇矯なサウンドにも惹かれるものがあるが、フィリップスのコントラバスの対旋律の前衛性はこの時代の主流のスタンダードなジャズとは相容れないもので、その存在感は他の追随を許さない。フリー・ジャズ史にあって、ベースの演奏の迫力が最も引き出された傑作である。フリー・ジャズとはいかなる音楽なのか、つまり、その答えはほとんど「Mountainscapes」に示されている。ダイアトニック・コードの否定、リズムの細分化、そして破壊、既成概念に対する反駁とはかくも勇気が入ることであるということが痛感出来る。


変奏形式のアルバムであるが、熱狂性と沈静の双方の要素を兼ね備えたメリハリあるサウンドを味わうことが出来る。特に、ウッドベースとサックスの白熱したセッションが最大の魅力であるが、このアルバムでのサックスは日本の伝統楽器である笙に近い音響性が追究されている。 


 

 

 

上記の様々な演奏家の音源を聴いてみるとよく理解できるが、これらの芸術家たちはリズムの変形やダイアトニック・スケールの否定等、ジャズの古典的な要素をあえて否定してみせることで、様式化したジャズの演奏や作曲に新しい活路を見出そうと模索していた。そして、これがジャズミュージックが陳腐になることを防いだにとどまらず、後の時代に一般化される”クロスオーバー”の概念の基礎を構築する。コールマン、コルトレーン、サン・ラ・バール・フィリップスといった上記のジャズの巨人たちの偉大なチャレンジ精神は、実際、現在もジャズが最新鋭の音楽でありつづけることに多大な貢献を果たしており、この事は大いに賛美されるべきだ。



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Fillmore East


これは例えば、ロック・ミュージックだけの話に限らないが、ライブ・レコーディングというのは、スタジオのレコーディングとは違い、実に不可解な音源でもある。つまり、観客と演奏者のエネルギーの交換が確実にそのレコーディングに刻印されているのだ。MC5のライブなどを見て分かる通り、ライブ・レコーディングの名盤には、必ずといっていいほど熱気がある。そして、マイクパフォーマンスを通じての観客とのコール・アンド・レスポンスなどのやり取りから、その劇的な瞬間に居合わす人々の息吹が録音を通じてはっきりと感じられる。仮に、バンドのその日の演奏が卓越していたとしても、その場の観客の熱気がなければ、それはセッションになってしまい、ライブ・レコーディングの名盤たり得ないのだ。そして、それとは正反対に、観客の熱気の後押しがバンドのライブ録音を名作にしてしまう場合もある。これは、実際の演奏者として体験したことがあり、本当に不思議でならないことだった。


 
これまでの伝説的なライブ・レコーディングとして、オールマン・ブラザーズ・バンドの「Fillmore East」がある。この録音は、ニューヨークのフィルモア・イーストで録音され、バンドの知名度を押し上げたにとどまらず、このバンドの代表的な録音ともなっている。実際に聴いて貰えれば分かるが、サザン・ロックの代表格の演奏はきわめて渋く、全編がブルージーな雰囲気に充ちた作品となっている。そして、マスタリングが良かった可能性もあるが、近年のライブ音源にも引けを取らない音質の良さとなっている。このフィルモア・イーストでは他にも伝説的なライブ録音が多数現存し、レッド・ツェッペリン、ジョニー・ウィンター、フランク・ザッパ、グレイトフル・デッド、ジェファーソン・エアプレイン等のライブ・レコーディングがある。また、伝説的なフォークバンド、The Fugsの録音もある。この中ではオールマン・ブラザーズとZEP,ジョニー・ウィンターの録音はロックファンとして聞き逃すことは厳禁である。


 

これらの伝説的な音源を生み出したニューヨークのフィルモア・イーストであるが、このライブハウスがオープンしたのは、1968年のこと。施設を開設したのは、世界的なプロモーターの先駆者、ユダヤ人のBill Graham(ビル・グラハム)。彼は、フィルモアイースト&ウェストを開業したにとどまらず、その後、67年にはモンタレー・ポップ・フェスティバル、そして69年にジミ・ヘンドリックのライブでお馴染みのウッドストックをプロモーションしている。グラハムは後に「ロック・フェスティバルはあまりに金のかかるピクニックだ」という名言を残している。


 
1968年と言えば、公民権運動を行っていたキング牧師が暗殺された年に当たる。そういった白人と黒人との人種間の緊張した時代背景は、このライブ施設の収益にまったく影響を及ぼさなかったわけではない。事実、系列施設であるサンフランシスコのフィルモア・オーディトリアムでは、売上自体が低迷していたという。しかし、伝説的なプロモーター、ビル・グラハムはこのウエスト・ヴィレッジの劇場を、その天才的な手腕により、伝説的なロックの聖地と変えてしまうのである。フィルモア・イーストは、1926年に、Yeddish Theter(イディッシュ劇場)として開業した場所だが、ビル・グラハムが、その施設を後にライブハウスとして改築し、伝説的なロックバンドを数多く出演させた。開業当時の収容人数は、わずか2600名だった。
 
 
この場所は、もともと、コモドール劇場の本拠地であり、2階の劇場街に沿って建てられていた。イディッシュ・シアターが多く立ち並び、ユダヤ・コミュニティーの中心地として知られていたアベニューである。また、この施設は、当初、映画館代わりの施設としてマンハッタンに登場し、1930年代までに、ライブのイディッシュ・ドラマとコメディーを舞台で上映し、劇場自体は左翼グループの収益のために貸し出されていたという。この建物の隣にあったレストラン”Rater’s Second Avenue”は、観劇を見に来た客、それから舞台俳優が足繁く通った場所であった。その後の時代、イディッシュ語の共同体(コミューン)が衰退するにつれ、この場所は映画、その他、エンターテインメント公演の重要拠点となり、レビー・ブルース、ティモシー・リアリー、アレン・ギンズバーグの公演の本拠地となった。つまり、ここは、ビート・ジェネレーションの時代の活動家や詩人らの文化的な土壌を形作った場所でもあったのだ。


 
そうした文化的な背景を踏まえ、ビル・グラハムは、この場所をロックの聖地に見立てようとした。多少の修復作業が必要だった。彼はまもなく、ビル・グラハムのフィルモア・イーストという看板を作り、フィルモア・ストリートとギアリー・ブルバードの交差点に因んで、この施設をオープンさせた。フィルモア・イーストの開業後まもなく、ビル・グラハムは、 系列施設であるサンフランシスコのオーディオトリウムのスピン・オフ・コンサートをこのイースト・ヴィレッジのライブハウスで開演しはじめた。グラハムは、週に数回、3組のバンドが出演する2回のショー・コンサートを行い、熱狂的な聴衆を獲得していく。フィルモア・イーストが「ロックンロールの教会」と称されるようになるまでそれほどの時を要さなかった。徐々に、ザ・フー、クリーム、ドアーズといった時代を象徴するようなロックバンドのコンサートが開催されていく。

 

The Allman Brothers Band


政治的な背景として、人種間に不穏な空気が流れる中、こういったロック・コンサートに足を運ぶ人々が増えていったというのは首肯できる。その後の時代のラブ&ピースの時代ではないが、多くの聴衆が、その当時の政治的な気風とは別に爽快な気分にさせる音楽や熱狂を求めていたことはそれほど想像に難くない。エルトン・ジョン、ジャニス・ジョップリン、オーティス・レディング、ジョン・レノン、フランク・ザッパ、クロスビー・スティルス、ナッシュ&ヤングといった伝説的なアーティストとバンドがマンハッタンの夜を美しく彩った。その過程で、フィルモア・イーストのライブレコーディングが行われた。これらの録音は1960年代後半から70年代初頭にかけてのマンハッタンの文化の隆盛を象徴付けているとも言えるだろう。
 

これらのロックンロールの聖地としての栄華の時代は開業からわずか3年であっけなく終焉を迎えた。音楽産業の構造変化と成長、さらにコンサート事業の急激な変化、小規模なコンサートからウッドストックを筆頭に野外の大規模なコンサートが主流になるにつれ、これらの小規模のキャパシティでは、費用対効果の期待が持てなくなった。1971年6月27日、プロモーター、ビル・グラハムは、フィルモア・イーストの閉場を決定する。最後のコンサートは、特別な招待客だけを招いて行われたといい、このコンサートホールを象徴するアーティスト、オールマン・ブラザーズ・バンド、アルバート・キング、マウンテン、ビーチ・ボーイズの公演で有終の美を飾った。
 
 

Fillmore Eastの跡地


 1980年になると、フィルモア・イーストの跡地は、セイントと呼ばれるプライベート・ナイトクラブに建て替えられ、1996年には6番街にあった建物の劇場部分が取り壊され、居住用の建物に改築された。以後、ロビー部分だけは残されていたが、建物の大部分はエミグラント銀行の支店として残された。建物の外には、街灯柱のモザイクが記念碑として現存するようだ。

 

NYの1970年代からのパンク・ムーブメントを牽引し、現地のロックシーンの礎を築き上げたライブハウス、CBGBーOMFUG。

 

正式名称は、Country,Bluegrass,Blues,and other music for uplifting grourmandizersである。CBGBは、ニューヨーク・シティのウェスト・ヴィレッジのバワリー街に1970年代にオープンした伝説的なライブハウスで現在は閉店している。


創業者は、ヒリー・クリスタル。第二次世界大戦下、アメリカ海兵軍曹を務めた屈強な人物である。

 

元海軍の兵士というキャリアがあったため、ヒリー・クリスタルは、デッド・ボーイズ、ウェイン・カウンティをはじめとする、過激で手がつけられないパンク・ロッカーたち、ライブハウスの外をうろつく街のアウトロー、そして、一般的にローリング・ストーンズのローディとしてよく知られる「ヘルズ・エンジェルズ」のニューヨーク支部に属する無法者、あるいアウトサイダーとは対極にあるニューヨーク警察を一つにまとめ上げるほどの求心力を持ち合わせていた。

 

しかし、ヒリー・クリスタルは、他の当時のアメリカのライブハウスの経営者のようにギャラ交渉をしようとするバンドマンの目の前にショットガンを突きつけるような手荒な真似はしなかった。驚くべきことだが、こういったことは、当時それほど珍しいことではなかったようである。

 

CBGBをオープンする以前、創業者ヒリー・クリスタルは、「バワリー街」に”ヒリーズ”というバーのようなスペースを経営している。

 

このバワリー街というのは、ニューヨーク・シティの最も旧い街のひとつだ。最初、新世界のビリオネア、億万長者たちが密集して住んでいた区域だった。ところがその後、この地域は没落していき、独立戦争後、イギリス軍がやってくると、貧民街に成り代わった。ストリップショー、質屋をはじめとする欲望の歓楽街がこの地域に進駐してきたイギリスの兵士のために作られていったのである。バワリー街は、彼がCGBGの経営を始めた当時、頗る治安の良くない悪名高き区域として有名で、海外の旅行ガイドにも危険区域と紹介されるほどだった。そのゲトゥーにも似たバワリー街の界隈を夜な夜な徘徊する人々はかつて"バワリー浮浪者"と呼ばれていた。

 

ヒリー・クリントンの最初のホンキートンク・バーの経営は立ち行かず、それほど時を経ずに”ヒリーズ”は閉店してしまう。それから、彼は、同地域にこのCBGBを開業し、妻と共に経営を始める。上階の三フロアにはパレスホテル。しかし、この地域の治安の問題が付き物だった。常にこの地域では荒くれ者がうろつき回り、ライブハウスのセキリティーに問題を抱えていたのだ。

 

ヒリーズ街は、常に、浮浪者、重度のアルコール中毒者、荒くれ、そういった人間たちがこの界隈を根城にしており、夜9時以降は一般の人々にとっては、おいそれと出歩ることは難しい危険地帯であった。そもそもヒリー・クリスタルは、これらのハグレモノたちに居場所を確保するためにこういったライブスペースを提案した側面もあったようだ。

 

しかし、これについては、ヘルズ・エンジェルズのNY支部の面々、そして、ニューヨーク警察が協力し、このライブハウス近辺、及びバワリー街の治安を支えていた。ライブハウス内での喧嘩、暴力沙汰が発生した際は、ヘルズ・エンジェルズの面々がその当事者たちに二、三瞥をくれるだけで充分だったという。常に、酒瓶やガラスが床に散らばるもっともデンジャラスなこのラーブスペースは、アウトローと警察組織の協力によって安全が担保されていたのである。


最初は、ヒリー・クリスタルは、カントリー音楽で、一山当てるつもりだった。夜に四バンドを出演させた後、オールナイト開けの「モーニング・カントリー」というイベントを打ち、朝一番のカントリーを中心とした企画を展開していく。カントリーのライブに来場するのは真面目な客が多く、チャージのドリンクを頼まず、無料でライブを聞きにくるため、利益が上がらなかった。その後、CBGBには、ロックバンドが出演するようになる。後、ヒリー・クリスタルは「カントリーが流行ると思っていたが、それはここでの話ではなかった」と言葉を残している。

 

CBGBは、70年代、80年代と、ニューヨークのアンダーグランドロックシーンの源流を、マックスカンサス・シティと共に形成していった。CBGBには、Soho Newsや、テリー・オーク、アンディ・ウォーホールの伝で出演するようになったテレヴィジョンを始め、下積み時代のラモーンズ、ブロンディ、パティ・スミス、デッド・ボーイズ、ランナウェイズ、リチャード・ヘル等、のちのニューヨークのパンクロック・シーンを支える重要なアーティストが多数出演していた。

 

そして、ここからウェイブが起こったことに関して、ヒリー・クリスタルは、当時、これらのパンクの祖が一人も自分たちをミュージシャンとは考えていなかったことが重要だったと語っている。

 

特に、このCBGBのオープン当時の貴重な証言を行っているのが、ラモーンズのジョーイだ。生前、ジョーイ・ラモーンは、このように、CBGBの最初期の記憶について回想している。

 

「俺たちのライブは、当初の10分から20分にまで拡大していった。知っている歌は全部やった。たくさん歌はあっても、すごく短くて速いから、どんどんぶっ飛んでっちまう。それと時々、歌が上手くいかなかったりすると、途中でやめて最初からやりなおしたり、互いに怒鳴りあったりなんかしていた。

 

どうやって、CBGBに俺たちが出演するようになったのかいまいちよく覚えていない。『Village Voice』に載ってたのかもしれない。あそこでプレイしたことだけは今でも覚えている。初めて俺たちが演奏した後、ヒリーが俺たちにこう言ったんだ。

 

「お前たちを気に入るやつはひとりもいないだろうが、俺がバックアップしてやる」って。今でも覚えている、おがくずを敷いた床、地雷なんかを避けるみたいにして、糞をよけてあるかなければならなかったこと。どうだったろう? でも、俺たちは、あの場所が本当に好きだった。雰囲気が良かったし、音響も最高で、とても居心地がいいんだ。

 

俺たちがあそこで演奏し始めた頃、テレヴィジョンもいたし、パティ・スミスは詩人として出演していたし、レニー・ケイも一緒だ。それと、スティレットーズと名乗っていたブロンディもいた。俺たちは、あの当時、他のバンドを励まそうとしていた。ここで、シーンとか、ムーブメントとかいったものが作りだせそうな気がしていたんだよ」

 

 

Ramones Live at CBGB 1974

 

 

 

後に、CBGBは、数々の名バンドをミュージック・シーンに送り込み、その殆どは世界的な名声を得るに至った。そして、このライブハウスが営業するかぎり、ニューヨークのアンダーグランドのシーンを支え続けた。後にはニューヨークハードコアの重要拠点となり、 Agnostic Frontも出演している。2000年代からCBGBは、経営難に陥った末、多くのファンに惜しまれつつ、2006年に閉店した。


当時のニューヨークのアンダーグラウンドシーンの生々しい息吹を知るための手がかりとして、最初期のCBGBでの貴重なライブ音源『Live At CBGB's:The Home Of Underground Rock』がある。これは、LP盤として1976年にAtlanticから発売されたアルバムである。


このコンピレーションには、Tuff Darts,The Shirts,Manster,The Miamis,Mink Deville,The Laughing Dogs,といった伝説的なNYのバンドのライブが録音されている。この作品は現在もCD化されていない幻の音源のひとつ。


ビリー・ホリデイの奇妙な果実 1937

--プロテストソングに見る人権の主張性--


Protest-Song(プロテスト・ソング)というのは、現行のミュージック・シーンにおいて流行りのジャンルとは言い難い。しかし、近年でも人権の主張のための曲は、それほど数は多くないが書かれているのは事実である。これらは時代的なバックグラウンドを他のどの音楽よりも色濃く反映している。代表的な例としては、Bartees Strangeが作曲した「Hold The Line」が挙げられる。この曲は、ミネアポリスの黒人男性の銃撃事件、ジョージ・フロイドの死に因んで書かれ、バーティーズが追悼デモに直面した際、自分に出来ることはないかと考えて生み出された。アーティストが黒人の権利が軽視されるという問題をメロウなR&Bとして抉り出している。


 

米国の世界的な人気を誇るラッパー、ケンドリック・ラマーもまた、『Mr. Morales & The Big Steppers』の「Mother I Sober」において、自分の母親の受けた黒人としての心の痛みに家族の視点から深く言及している。これらの二曲には、ブラックミュージックの本質を垣間みることが出来る。

 

勿論、上記のような曲は、古典的なブラック・ミュージックの本質的な部分であり、何も最近になって書かれるようになったわけではない。それ以前の時代、60年代には、マーヴィン・ゲイ、スティーヴィー・ワンダーといった面々がモータウンでヒットメイカーとしてキャリアを積んでいた時代も、黒人としての権利の主張が歌詞に織り込まれていたわけなのだが、その後のディスコ・ミュージックの台頭により、これらのメッセージ性は幾分希薄になっていかざるをえなかった。それは、ブラック・ミュージックそのものが商業性と同化していき、その本質が薄められていったのである。


 

その後の流れの反動として、このディスコの後の時代にニューヨークのブロンクス地区で台頭したラップ・ミュージックは、2000年代からトレンドとなり、それらは初期のブルースやR&Bと同じく、直接的、間接的に関わらず、スラングを交えつつ黒人としての主張性が込められた。もちろん、それ以前の19世紀から20世紀初頭にかけての最初期のブルースというジャンルを見ると、広大な綿畑ーープランテーションで支配層に使役される黒人労働者としてのやるせなさを込めた暗示的なスラングが多少なりとも含まれているけれど、これらはまだ後世の60年代のソウル・ミュージックのように、政治的な主張性が込められることは稀有な事例であった。


 

Billy Holiday

しかし、その黒人としての人権の主張を歌ったのが、20世紀初頭に登場した女性シンガー、上記写真のBille Holiday(ビリー・ホリデイ)だ。このアーティストは、本質的にはジャズに属する場合が多い歌手ではあるが、このアーティストの歌詞の中には、一連のプロテスト・ソングの本質(反戦、人権の主張、性差別)または、その源流が求められると言われている。特に、現代的な視点から注目しておきたいのが、このアーティストの代表曲「Strange Fruit(奇妙な果実)」という一曲だ。

 

ビリー・ホリデイが初めて録音した「奇妙な果実」は、20世紀前半のアメリカ南部で起こった黒人リンチ事件を歌ったものである。


 

この曲「奇妙な果実」は、教師/アベル・ミーアポールが詩として書き、1937年に発表された。ミールポールはアメリカ共産党に所属するユダヤ系白人であり、黒人リンチの凄惨な写真を見て、この歌を作った。1930年代、アメリカ南部ではリンチが高潮していた。控えめに見積もっても、1940年までの半世紀で約4000件のリンチが発生し、その大半は南部で、被害者の多くは黒人であった。


シンプルな歌詞の中に、大きな力が込められていて、曲が終わっても心に残る。美しい風景、花や果物の香りと、残酷に殴られた人間の血や骨が並置され、この曲に力強さと痛々しさを与えている。この曲は、アメリカの人種差別の残忍さを露呈しており、それ以上言葉を増やす余地はない。この曲の意味を理解したとき、人はそのイメージに衝撃を受け、怒り、嫌悪感を抱かざるをえない。


 

1939年にカフェ・ソサエティでこの曲を初演したBillie Holiday(ビリー・ホリデイ)は、この曲を歌うことで報復を恐れていたというが、そのイメージから父親を思い出し、この曲を歌い続け、後にライブの定番曲となった。あまりに強烈な歌なので、ショーの最後にはこの曲で締めくくるしかなく、バーテンダーはサービスを中止、部屋を暗くせばならない、という規則ができた。バーテンダーがサービスを止めて、部屋を暗くして、ビリー・ホリデイのパワフルな歌声でライブは終わるのである。このように、曲の成り立ちや歌詞の説得力が、演奏の仕方にも顕著な形で表れていた。


当時、政界を支配していたアメリカの反共産主義者や南部の人種差別主義者の間で悪評が立つことを恐れたレコード会社がほとんどであり、この曲のレコーディングは容易ではなかった。しかし、1939年にコモドール社によってようやく録音されると、たちまち有名になった。この曲は、知識人、芸術家、教師、ジャーナリストなど、社会の中でより政治的な意識の高い人たちの関心を集めた。その年の10月、『ニューヨーク・ポスト』紙のあるジャーナリストは、この曲を「南部の搾取された人々が声をあげるとしたら、その怒りの賛歌であり、またその怒りそのものだ」と評した。



政治的な抗議を音楽で表現することが少なかった1939年の当時、この曲はあまりに画期的だったため、ラジオではめったにオンエアされなかった。この時代、ルーズベルト政権だけでなく、民主党でも隔離主義者の南部ディキシーラットが主役だった時代。リンチの舞台となったアパルトヘイト制度を崩壊させるには大衆の運動が必要だった。

 

また、この歌は、プロテスト・ソングの元祖とも言われている。歌詞の内容は、暗喩が表立っているが、現代の音楽よりも遥かに痛烈だ。当代の合衆国の社会問題を浮き彫りにするとともに苛烈な情感が表現されている。以下の一節は、「奇妙な果実」で、最も有名な箇所であるが、この時代、女性歌手として、こういった南部の暴力を暴く曲をリリースすることがどれほど勇気が必要であったか・・・。それは現代社会を生きる我々にとっては想像を絶することなのである。


 


南の木は、奇妙な実をつける。

葉には、血、根には、血。

南部の風に揺れる黒い体

ポプラの木に、奇妙な果実がぶら下がっている。

勇壮な南部の牧歌的な情景。

膨らんだ目、ゆがんだ口。

甘く爽やかな木蓮の香り。

そして、突然の肉の焼ける匂い!

ここにカラスが摘み取る果実がある。

雨にも負けず 風にも負けず

太陽の光で腐り、木が倒れる。

ここには、奇妙で苦い作物がある。


 

Woody Gathrie 「The Machine Kills Fasicts」はガスリーの人生観を表す


 

 ウディ・ガスリーは、1940年に発表した「This Land is Your Land」という歌で知られるアメリカのシンガーである。

 

オクラホマ生まれのガスリーは、1930年代から放浪生活を送るようになり、アーティストとしての活動を始める。労働階級への讃歌、プロテスト・ソングーーいわゆる反戦歌の始祖ーーであり、ボブ・ディランの考えや音楽的な価値観にも強い影響を与えた。フォークミュージックの父とも称されることがあることからも分かる通り、米国のポピュラー・ミュージック史においては、ジョニー・キャッシュ、ボブ・ディランと並んで最重要人物に挙げられる。その忌憚ない政治的な発言とともに、ウディー・ガスリーの音楽性はその後のコンテンポラリーフォークの素地を形成した。

  

 

RCAと契約を交わしたのち、1940年に発表された「「This Land is Your Land(この国は君のものだ)」という歌は、無数の政治集会、デモ、さらには近年、オバマ大統領就任式でも歌われた。アーヴィング・バーリンの「ゴッド・ブレス・アメリカ」に対抗して書かれたこの曲は、土地や財産の私有ではなく公有に敬意を表し、社会の平等を求める破壊的なメッセージを持っていることが、時に忘れ去られることがある。

 

ウディ・ガスリーは、1910年代にオクラホマの田舎で育った貧困と、ニューヨークを除く全米で2番目に大きなソーナー社会党によって、その世界観をより強固にした急進派であった。彼の音楽は、労働者階級の闘争を称え、抑圧的な制度や権威を非難するものであった。彼は、世界産業労働者会議(IWW)に影響を与えたジョー・ヒルの遺志を継ぎ、共産党が推進し、反ファシズム、反リンチ、産業別組合会議(CIO)を中心に形成された1930年代の大衆戦線で活動した。




1.第二次世界大戦と広島への原爆投下


1930年代を通して、ウディはアメリカの第二次世界大戦への参加に反対し、フランクリン・ルーズベルトを二枚舌の戦争屋として非難する反戦歌を数多く書き、演奏した。ヒトラーが1939年のモロトフ・リッベントロップ不可侵条約を破り、ナポレオンの愚行を再現するかのようにロシアを攻撃し、ロシアが西側連合国と協力してファシズムと戦うと、彼の見解は1941年以降に変わった。


真珠湾攻撃後、アメリカが参戦すると、ウディは孤立主義者とアメリカ・ファーストを非難する「リンドバーグ」のような曲を書き始めたが、別の曲では、「あらゆる側の」すべての兵士に「ヘルメットを脱ぎ、銃のベルトを外して、ライフルを置いて、いや、誰も殺すつもりはない、と言ってほしい」というひそかな願いを表現している。


1945年9月7日、ガスリー上等兵は、陸軍週刊誌『ヤンク』から得た情報をもとに、「どんな爆弾だ」と題する歌を書いた。そこにはこう書かれていた。


「ティベッツ、キャロンネルソン、フェレビーの3人が、エノラ・ゲイと呼ばれるB-29を飛ばした。



B-29は晴れた夏の日にグアムを離陸し、広島湾に爆弾を投下した。


ボブ・シュマード、メガネをかけろ!あれを見よ!下界では火山が噴火しているようだ。


私たちは窓から顔を出して、この大芝居を見ましたよ。広島はいい町だ。いい町だ! なくなってしまうのは残念だ」


ガスリーはこう続けた。


「空全体が揺さぶられ、4万フィートの高さにまで雲が発生した。


熱線は太陽をしのぐほど明るく、私たちは互いに "ああ、どんな爆弾なんだ "と尋ね合った」


続いて歌われた「Talkin' Atom Bomb」という曲は、こう警告している。


「閃光と大火災がやってくるとき、もしあなたの電話が使えず、あなたの列車の線路が壊れているならば。


高速道路がなくなり、トンネルがすべて塞がり、あなたと家族全員が9マイル先でノックアウトされたら、病院を見つけるのは少し難しい...。


この大きな爆弾の爆発から身を守る唯一の方法は、大きな爆弾を非合法化することだ、それも迅速に。


配達人が私企業や公有地について話そうが何しようが関係ない。


この新しい爆弾の炎をかわせると思っているなんて、頭がおかしくなったのかと思うくらいだ」



この言葉は、核軍拡競争を口語で力強く批判している。ウディの歌は、広島への原爆投下に抗議する最初の歌の一つであり、原爆科学者や平和主義批判者による原爆反対の運動を先取りしていた。「炎が忍び寄るとき、煙が立ち昇るとき、私たちは眠っているように遊ぼう、世界が燃えている間は」と唄っている。


1946年7月、ウディは、中国の内戦で蒋介石を支持するアメリカに抗議する歌を書いた。ウディは蒋氏に「あなたが殺害した一般労働者の正確な数を覚えていますか、記録はありますか、紙はありますか、死者や負傷者の数は......」と問いかけている。


血の一滴一滴が私の記憶の中で輝いている、借りた銃で、借りた金で(アメリカの援助について)・・・すべての農民を数え、すべての組合員を数え、すべての学生を数え、すべての急進派を数え・・・・・・。


 


2.朝鮮戦争を語るウディ


 ウディの社会正義の活動の中で、これまで歴史家に無視されてきたことの一つに、アメリカの朝鮮戦争に対する彼の熱烈な反対がある。


オクラホマ州タルサのウディ・ガスリー・アーカイヴで発見された10曲以上の歌は、ウディがベトナム戦争に対する新左翼の批判を先取りするような言葉で朝鮮戦争を批判していることを示している。ウディは、アメリカ政府の同盟者の腐敗、軍部とペンタゴンの上層部の欺瞞、そしてアメリカの兵器が韓国人に与えた犠牲を非難している。


「バイバイ、ビッグ・ブラス」(1952年)では、自分が朝鮮半島に送られ、出会った中国兵を殺すのではなく、キャンプファイヤーのそばに座って話をするというシナリオを夢想していた。この曲や他の多くの曲で、彼はベトナム戦争中のフィル・オックスやピート・シーガーの役割を先取りしている。


ウディは、ポール・ロベソンのような共産党系の少数のアーティストとともに、同時代の多くのアーティストが沈黙を守っていた時代に、戦争反対を訴えたのである。例えば、ウィーバーズは、朝鮮戦争勃発時に「おやすみアイリーン」や「ツェナ、ツェナ」がビルボードチャートの上位を占めたが、戦争については沈黙を守っていた。それでも、『反撃』と『レッドチャンネル』に共産主義者として掲載され、ブッキングを失いテレビ番組がなくなりレコード契約も解除された。


ビルボードチャートで9位まで上昇したジミー・オズボーンの「神よアメリカをお守りください」やジーン・オートリーのダグラス・マッカーサーへの賛辞「Old Soldiers Never Die」など、この時代のヒット曲は、戦争支持と愛国心をテーマに、宗教的情念を織り交ぜて宣伝した。ウィルフ・カーターのヒット曲「Goodbye Maria, I'm Off to Korea」は、"自由のための新たな戦いに勝利するのはオールド・グローリー次第で、昔と同じ物語 "だと指摘した。アール・ナンのマッカーサーへの賛辞は、次のような台詞で終わっていた。これは、反抗的な態度を理由にマッカーサーを解雇したハリー・トルーマン大統領に向けられた辛辣な言葉であった。


ウディは、冷戦の保守的な文化の中で異彩を放っていた。作曲家のエリー・ジークマイスターが呼んだ「錆びた声のホーマー」は、1930年代の過激主義を燃え立たせていた反対派の底流の一部だった 。


ガスリーの朝鮮戦争への批判は、ウォブリー(IWW)やスメドリー・バトラー(後に反戦パンフレット『戦争とはラケット』16を制作した四大将軍)といった不況時代の過激派の言葉で組み立てられたものであった。朝鮮戦争に対する彼の見解は、彼のアイドルであったジョー・ヒル(IWWのソングライター)の見解とも一致する。


彼は、戦争を資本主義システムの破壊的な現れと考えていたが、資本主義のボスに対して赤い旗の下で行われた戦争は容認していた(ヒルの歌「私は今まで兵士になるべき」にあるように)。


1952 年 11 月の「韓国バイバイ」では、「(米国が)爆撃するのは嫌だ、火薬は関係ない、 平和が私の叫びだ」として、申し訳ないことをしたと書いている。同様に「I Don't Want Korea」では、韓国はいらないし、「空からのプレゼントとして、韓国を私の奴隷にすることもない」と宣言している。


ウディの伝記作家エド・クレイは、この時期の彼の著作は極論であり、以前の質には及ばないと考えている。しかし、ウディは当時、朝鮮の人々の人間性を認め、尊重する数少ない人物であり、北朝鮮の人口の10分の1が死亡し、国連の復興機関によれば、朝鮮を歴史上最も荒廃した土地にした戦争に反対を表明する数少ない人物でもあった。


ウディは「韓国流砂」(1951年4月)の中で、「死んだ数百万人の血の洪水!韓国流砂!」と嘆いている。朝鮮の流砂。

 

いくつかの歌は、韓国軍と米軍・国連軍による漢江橋の破壊と、それに伴う難民の溺死について言及し、「漢江は長すぎる、漢江は長すぎる、バーンの下に沿って下に、バーンの下に沿って下に、漢江は長すぎる」とウディは書いている。続いて「Han River Mud」では、ウディは "It's a bloody, bloody flood, of Sweet Han River mud. "と書いている。「私には泥が血まみれに見える」


「三十八度線」では、ウディは「三十八度線を越えて行進することはない、敵と握手するため以外には」と宣言している。「あらかじめ銃を捨てておく」と。


1952年12月の「Korea Ain't My Home」では、ウディは「Korea ain't my home, since we've got germ warfare, this whole world's not my home, Nobody is living here」と書いている。韓国は私を家に送ってくれ、家に送ってくれ、そもそも私は韓国の人間ではないのだ」


「Stagger Lee」では、ウディは韓国の指導者を蒋介石と同様の言葉で批判し、「ミスター・リー、ディジー・オールド・シグマン・リー、お前は俺をバカにできない!」と書いている。その他にも、ウディは「ウォール街のGIジョー」が「ウォール街のジープと一緒に泥沼にはまり込んでしまった」とも歌っている。


国防長官ロバート・ロベット(戦争の重要な立役者)は、国防企業を顧客とするウォール街の投資会社に勤務し、トルーマン内閣の他の閣僚は、その会社の役員を務めていた。朝鮮戦争によって、国防予算は 1949 年の 130 億ドルから 1953 年には 540 億ドル(2016 年のドル換算で 5000 億ドル以上)と 4 倍に膨れ上がった。

 

一方、マクドネル、ダグラス、ゼネラルエレクトリック、ボーイング、 クライスラー、ユナイテッド・エアクラフトは戦争の結果、記録的利益を上げ、ロッキードジョージアは米国南東部で最大の従業員となった。


1952 年 11 月に書かれたウディの歌「Korean War Tank」は、暴力に訴える原始的な行為を揶揄している。さらに、ウディは「漢江の女」(1952 年 11 月)では、次のように歌っている。


「狙ったわけじゃない、意図したわけでもない、あのいまいましいゼリー爆弾を落としに来たんじゃないんだ!」。

 

「漢江の女よ、言っておくが、俺が落としたんじゃない、俺がやったんじゃない、俺のような人間が落としたんじゃない、ほんの一握りのクソ野郎、血まみれのハイエナどもだ。向こうでやれ」


ウディの憤りは、ナパームが進路上のあらゆるものを焼却し、ある海兵隊員が表現したように「揚げたポテトチップス」のように人々の皮膚を焼くことができるという事実から生まれた。リチャード・ピート伍長は、自分の部隊のメンバーが味方の攻撃でやられた日のことを決して忘れていないと語った。


「アーガイル(イギリス兵)が石油ゼリーまみれで火の中を走り回っているのを見たとき、ひどかった。ある将校は生きたまま皮を剥がされ、死ぬまでに20分かかった」。ナパームが体に付着し、焼き付いた兵士たちは、ひどい悲鳴をあげていた」


「ハン・リバー・ウーマン」は、1965 年にマルビナ・レイノルズが歌った「ナパーム」に力強く表現された、ベトナム戦争中のナパームに対する大衆の大きな反発の予兆であった。この歌は、「ルーシー・ベインズ(ジョンソン - LBJ の娘)、あのナパーム弾を見たことある?ナパームで撃たれた赤ん坊を見たことがあるか?引き剥がそうとすると、なぜか肉も一緒に出てくる......ナパームにはいろんな名前がついているんだ......。そして、彼らは空からそれを投下し、人々は燃えて死ぬのだ」


おそらく最も雄弁な反戦バラード「トーキング・コリアンブルース」で、ウディは「戦争全体がゲームのように見える、まるで子供たちがやっているおかしな小さなゲームのように。もし我々が兵士や船や飛行機を送らなければ、赤軍が商品と国民を獲得するのは同じだ」と唄っている。


ガスリーはこのように問いかける。


「なぜマックは数千人が刈り取られるのを見たいんだ?


赤軍が次のラウンドで勝ち残ることを知らないのか。我々は南部に物資を送り、彼らは北部の人たちにそれを配る。


この前の中国人の配達の時、彼の頭はどこにあった?数千の兵隊と飛行機は南が北に渡さないようにするために使う価値はない


蜂が自分の花や巣に近づかないようにするために、一人の人間の命を使う価値はない。


韓国の赤軍はどちらにしてもクリスマスパッケージを手に入れる。


赤軍に入るか、赤軍のメッセンジャー・ボーイになるかだ」


ガスリーは、この戦争を、アメリカの努力もむなしく、社会の総動員を伴う国家解放の闘いだと理解していた。ガスリーはこの歌の中でこう続ける。


「マッカーサー元帥が故郷から遠く離れたところで何をしているのか、私は時々不思議に思う。


彼はあそこが好きではないのだろう、なぜ子犬のテントを畳んで家に戻ってこないのだろう、そして彼の精神神経症のGIたちを連れて帰ってくるのだろう。


GIボーイズがあそこを嫌がるのはよく分かっているんだ」


その時代からFBIは彼を監視していたというが、ピート・シーガーのように、下院非米活動委員会(HUAC)に連行されることもなく、ポール・ロベソンのように、パスポートを剥奪されることもなく、ウディ・ガスリーは非人間的な活動を続けた。彼は、大きな決断を下す男たちの非人間性を嘲笑し続けた。「Hey General Mackymacker」(1952年)の中でウディはこう書いている。


「ホッ、ホッ、ミスター・ラヴビット(国防長官ロバート・ロベットのこと)、あの吹雪は確かに苛烈だった(寒い冬のことだ)。


荷造りをしている姿は見えないが、俺たちを死ぬために行進させたのか? 歩いているのか、それとも走っているのか?


おい、シンマン・リー君、何が悪かったんだ? プジョンから追い出された時、南ピョンヤンに戻った時、まだ散歩していたのか? それとも走っていたのか?


おい、ディグジー・マッキマッカー、クリスマスは歩いて帰ると言ったが、どのクリスマスとは言っていないぞ。歩いて帰るのか、それとも走って帰るのか、知りたいんだ。


マッカーサーが提唱したように)共産主義者を原子爆弾で攻撃し、彼らが我々を原子爆弾で 攻撃すれば、誰も走らないだろう」



3.ベトナム戦争でウディが残したもの


 核兵器による不安と、自ら危険を顧みず勝利を宣言して国民を欺いた指導者によって特攻隊に送られた米兵への憂慮を表現している「Hey HeyGeneral Mackymacker」は、同じようなテーマを持つ多くのベトナム反戦歌への道筋をつけた。

 

例えば、カントリー・ジョー&ザ・フィッシュの「I Feel Like I'm Fixin' to Die Rag」(1965年)は、ウォール街の暴利に言及し(「さあウォール街、遅れをとるなわこれは戦争オゴリだ、ここに儲かる金はいくらでもある、軍にその商売道具を供給すればの話・・・」)、この曲は、軍の幹部とその血に飢えた反共産主義をあざ笑ったものである。ある一節にはさらにこうある。「さあ、将軍たちよ、急ごう。ついにビッグチャンスが来たのだ」と。この曲のコーラス(「and its' one two three, what are we fighting for?)は、ウディが以前に韓国で歌ったベトナム戦争での人命の不条理、無目的、浪費を指摘するものであった。


フィル・オックスの「アイ・エイント・マーチング・エニモア」(1965年)は、ウディ・ガスリーと同じように、「戦争に導くのはいつも年寄り、死ぬのはいつも若者」と宣言している。この曲は「トーキン・アトム・ボム」のように、「日本の空で最後の任務を果たし、強大なキノコの轟音を響かせ、街が燃えるのを見て、私は学んだ、もうマーチングしないことを」と続く。 

 

ピート・シーガーが1967年に発表した有名な歌「Waist Deep in the Big Muddy」は、1942年にミシシッピ川が深すぎるという軍曹や兵士の警告にもかかわらず、隊長に命じられて川を下る米兵の小隊を中心に構成されている。

 

大尉は、ベトナムを連想させるように、聞く耳を持たず、突き進み、兵士たちはどんどん水の中に沈んでいく。シーガーは、「私たちに必要なのは、ほんの少しの決意だ。私たちはビッグ・マディーに首まで浸かり、大馬鹿者が進め」と言う。そして、その結末は、最終節に描かれている。「突然、月が曇ってきて、ゴボゴボという叫び声が聞こえた。数秒後、隊長のヘルメットだけが浮いていた。軍曹が『お前たち、こっちを向け!』と言った。これからは私が責任者だ。

 

ここでシーガーは、兵士が指揮官の後を継いで、不当な戦争による大規模な破壊から名誉ある撤退を図るという、ウッディの反権威主義的ファンタジーのバリエーションを提供していたのである。


朝鮮戦争は、ベトナム戦争と多くの共通点があるが、マッカーシズムや第二次世界大戦後の抑圧的な環境の中で、大規模な反戦運動は展開されず、アメリカ軍指導者に対するアメリカの信頼が醸成されていった。ウディ・ガスリーの戦争への反省は、結果として、シーガー、ジョーン・バエズ、フィル・オックス、カントリー・ジョーのベトナム戦争への反撃の歌のように、世代や運動の戦意となることはなく、実際、彼がどの程度公に歌ったかを示すものはほとんどない。


しかし、ウディは、戦争に反対する活動家の一人であり、1960年代の反戦運動の種をまいたと思われる。
 
 
社会学者のC.ライト・ミルズは、「子供や女性や男性を石油ゼリーで焼く」米国の戦闘機(韓国)によって行われた機械化・非人間化された虐殺に嫌悪感を示した同時代の人である。 「共産主義者の作家、ハワード・ファストは、反戦詩「朝鮮戦争の子守唄」を書き、韓国の子供たちに目を閉じ、「燃えるガソリン、とても純粋で穏やかな炎で燃える穏やかでジェリー状のガソリン」を忘れ、「周りに落ちて肉を引き裂き、地面を引き裂く爆弾の破裂音を聞かず、半分狂った男の腹から聞こえる痛みの叫び声を聞かない」よう呼び掛けた。韓国は抑圧から救い出され、「自由世界」は不況から救われた。脳や骨のかけら、痛みの叫び、苦悶のうめき、人肉の焼ける臭さ、生々しい裂傷は何でもない、それがあなたを自由にするのだから」とファストは辛辣に言い切った。
 

ウディと共にピープルズ・ソングスの一員であった歌手であり公民権運動の指導者であるポール・ロベソンは、朝鮮戦争をアメリカ史上「最も恥ずべき戦争」と呼び、マディソン・スクエア・ガーデンでの集会で、「アメリカの場所はラファイエット、フランス革命の英雄たち、トゥサイン、コジオスコ、ボリバルの側だった--ヨーロッパのクイーズ、アジアのチェン、バオダイ、シンマンリーではない」と宣言している。『フリーダム』紙の1952年1月号でポール・ロベソンはこう書いている。
 

「この戦争で10万人のアメリカ人の死者、負傷者、行方不明者が出た。それ以上に100万人の韓国人を殺し、傷つけ、家をなくした。米軍は、侵略的で帝国主義的な軍隊がそうであるように、獣のように行動してきた。38 度線の北と南で、彼らは朝鮮人を侮蔑的に見、汚らわしい名前で呼び、女を犯し、老女や子供を支配し、捕虜を背中から撃ってきた」

ガスリーもまた、あらゆる戦争を野蛮なものだと考えていた。1952 年 11 月に書かれた「バイバイ、ビッグ・ブラス」では、ガスリーは自分が軍隊に再入隊し、 「誰もこの旅に出ることを私に尋ねなかった」にもかかわらず、新兵訓練を受けた後に「戦争支配者」によって「昔の朝鮮に忍び込む」ことを思い描いている。
 
 
お偉いさんは「雷のように怒鳴り、罵り、帽章と銃を渡され、手榴弾の詰まったベルトを留められ、命令される、少し遊んでこい」。ウディは、さらにこう続けている。「戦争になったら武器を持てと言われた/いいよ、貸してくれるならすぐにでも持つよ、でも保証はできないよ」
 

ここでウディ・ガスリーは、韓国や中国側への共感と、彼らの大義名分に対する認識を表明している。


私は韓国で、ジャングルや山々をパトロールしていました。


武器を地面に下ろし、焚き火をし、ここで話をした。


ビル・スミスは私の名前、彼の名前はホー・トン。私たちはお互いに恋人の写真を見せ合いました。


ウディはさらにこう語る。


「レッドスター・ホー・ツンに武器を渡して、草屋根の小屋まで運んだ。


すると、国連軍の砲兵師団が、日が暮れるまでその小屋を砲撃したんだ。


お偉いさん方は野戦ガラス越しに私を見ていた。9ドル小屋に100万発の弾丸が撃ち込まれた。


ホー・ツンと俺は、ただ横になっていた。赤い星の軍隊が俺を追跡しているその時に


そのピクニックには国連軍の兵士は一人も残っちゃいなかった。男も、大砲も、ライフルも、戦車もなく、7千人の赤軍派が踊りながらラフィンをしていた。


私がどうやって荷物を運ぶか見せると、私は赤い星とその制服を手に取り、彼らは言った:あなたは一生ヒーローであり続けるだろう。


その日のうちにロックハウスを建て直し、今は子供と妻と一緒にここに住んでいる。私の周りに咲く花に、こんにちは。


平和のために植える種に、こんにちは。グッバイ!  さよなら!  このビッグ・ブラス野郎! 俺はもうどこにもいかねえぞ!」

 

これはウディ・ガスリーが最も反抗的であり反体制的であったときのものだ。彼は、原爆の影響を報告した、最初の国際特派員であるとともに、後に朝鮮戦争での米軍の残虐行為やインドシナ戦争での米軍とその同盟国を暴露しながら韓国人や中国人を人間らしくしたオーストラリアのジャーナリスト、ウィルフレッド・バーチェットと歌で対比をなしている。


ウディのバラードは、アメリカの朝鮮戦争を非難し、平和主義、反権威主義、反物質主義を掲げた1960年代のカウンター・カルチャー運動を先取りしたものであり、アメリカ社会を形成していた。1930年代、ウディは、オクラホマからカリフォルニアまで、ピケットラインやバーや酒場で演奏する浮浪者の生活を実際に経験し、そのコミュニティの疎外された人々を哀れんでいる。1960年代のカルフォルニアのヒッピーは、共同体主義や自然回帰運動に倣い、農村に共同生活を営み、財産を共有し、有機食品を栽培し、性的束縛から解放されてシンプルかつ平和に暮らす文化を発展させた。


ウディの末息子アーロは、ベトナム戦争の徴兵に反対するヒッピーソング「アリスのレストラン」を書いた。

 

これは、軍の心理学者に殺意があると言ったことよりも、主人公アリスの住む教会のゴミを誤って捨ててしまい、ポイ捨てで逮捕されて徴兵を免れた自分の体験に基づいて、無表情に書いたものだ。これは、政府の優先順位が歪んでいることの典型であった。アーロは3歳の時にハディ・"リード・ベリー"・レッドベターのアパートで初めてギターを弾き、高校時代には父親のために慈善興行を行い、子供時代には多くの反核、公民権、反戦のデモに参加した。アリスのレストラン」で、彼はこう歌っている。

 

「この皮肉は、アーロがベトナムでの暴力と殺戮に強い嫌悪感を抱いていたことと同様に、韓国に対する父親の見解と呼応している。アーロが兵役を拒否された後、入隊手続きを担当した軍曹は、「小僧、我々はお前のような奴は嫌いだ、お前の指紋をワシントンに送ってやる」と言った。


1969年11月15日、ウディの息子であるアーロは、ワシントンD.C.で行われたベトナム戦争反対モラトリアムで、25万人の観衆を前にして、ウディ・ガスリーの歌、「I've Got to Know」を歌い上げた。この曲は、朝鮮戦争が始まって2ヵ月後に初めて発表された。それはこう問いかけた。

 

なぜ、あなたの軍艦は、私の海を走るのですか? 

 

なぜ、私の空から死の灰が降ってくるのか? 

 

なぜ、あなたの船は食べ物や衣類を運んでこない? 

 

私は知らなければならない、ぜひとも知らなければならないのだ」

 

ピート・シーガーは、作家・スタッズ・ターケルとカルヴィン・トリリンに、”「I've Got to Know」は、ゴスペル曲「Farther Along」に対するウディの返答であり、天国の約束は地上で経験するこの世の不公平と窮乏に対する十分な報酬だと聴く者を慰めている”と語っている。


この歌は、ウディとアーロがモラトリアムで語った「親父がここに来れば、本当に喜ぶだろう」という思いが込められている。ウディと末息子のアーロは、モラトリアムの観衆に対して、「老人がここにいれば本当に喜ぶだろうし、彼の魂はそこにいる子供たちの中にあるはずだ」と語っている。