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アフリカの中世の音楽は西アフリカを中心に王族のための音楽や、祭礼のための音楽は存在したが、その多くは、口承により、その系譜が引き継がれていた。音楽という分野がアフリカで明文化されるようになったのは、ヨーロッパ文化が流入して以降である。明確に言えば、17世紀ということになるが、伝統音楽とキリスト教圏の宗教的な音楽が融合し、ゴスペルは発生した。それらが結局、アメリカ大陸にわたり、50年代以降のソウルミュージックのベースとなった。しかし、アフリカの賛美歌そのものは明らかに、西洋に教化された音楽に過ぎなかった。
アフリカの教会は、キリスト教とアフリカの伝統的な信仰との融合により独自の発展を遂げた。当初は、アフリカにはメソジストが普及していたが、ヨルバ族(ナイジェリア、ベナン、トーゴ)の間で急速な進化を遂げる。ペンテコステ派の教えを維持し、神学的な教えが幕屋で説かれることがあった。これらは民衆の間に規律をもたらし、長らく、アフリカの治安の一部分を担ってきた。
AIC(アフリカの独立教会)は、旧来のメゾジスト派からの分離を目指すために発生し、ナイジェリアのヨルバ族を中心に発展していった。カソリックがプロテスタント、西方教会、東方教会と分離していったのと同様である。これらはまたアフリカのヨーロッパ化からの脱却を意味していた。当初は、現地の現地人の牧師によるコミュニティとして発展を遂げていったが、その中には、アフリカの独立化の概念が盛り込まれていた。これらは、アフリカ神学の起源となり、アフリカ化、ローカリゼーション、先住民化など、固有の概念が思想の中に織り込まれる。また、同時に、それらの一般的な普及に一役買ったのが、教会の賛美歌やゴスペルであった。
しかし、ゴスペルという形態が独自の発展を遂げる以前に、アフリカの多くの地域は、西洋化され、キリスト教に教化され支配されていたことは事実である。アフリカ大陸が西洋文化の驚異に直面したとき、彼らは、賛美歌や軍楽のような形式を音楽の中に取り入れようとした。そして、それらがアフリカの各地域で本格的に音楽として確立されたのは、19世紀後半のことである。
しかし、多くの場合と同様、アフリカでの賛美歌の普及には大きな障壁が立ちはだかった。つまり、ラテン語や英語をどのように翻訳するのか、もしくは翻訳せず、原語のまま歌うのかという点であった。明確にこれは旋律と歌詞が一致しないという点で、少なからず弊害となっていた。
そこで、17世紀以降の初期の宣教師たちは アフリカの独自のトーンを度外視し、アフリカの現地語に翻訳した歌詞を西洋的な宗教音楽に当てはめた。結果として、アフリカ人は当初、歌詞の意味を知らされず、賛美歌を儀式的に歌っていた。しかし、歌詞の意味がわからないことやアフリカのリズムにそぐわないことこそ、この大陸で独自の音楽形式を発生させる要因になった。
当初、アフリカでは西洋の宣教師により、土着的な踊りや太鼓(ウォータードラム)などの使用や演奏が禁じられていた。これはアフリカの独立的な動きを封じるためと見るほかない。しかし、皮肉なことに、ベルギーの司祭、グイド・ハーゼンが『ミサ・ルバ」を作曲し、従来の慣習を打ち破る。1950年代に入り、コンゴのルバ族の伝統的な旋律とリズムを使用し、西洋的な和声をつけて作曲を行った。これはまた、アフリカの西洋化からの脱却を意味していた。
アフリカの各国の独立化が進んでいく中で、こういった伝統的な文化を取り戻そうという動きが各地で発生したのは、当然の帰結といえるだろう。1959年に入ると、ダンザニアでも同じ動きが起こった。ステファン・ムブンという人物が、世界ではじめてスワヒリ語の歌詞でミサ曲を作曲した。伴奏には、オルガンやキーボードなど、西洋的な楽器も使用されたが、同時に、太鼓やガラガラのようなアフリカの伝統楽器も使用された。それ以降、アフリカ独立教会では、 ガーナなどを中心に、独自の宗教音楽を発展させていくことになる。今も、AICはアフリカ各地に存在し、西洋とアフリカの思想を合体させた独自の共同体として存続を続けている。





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