Fela Kuti(フェラ・クティ)、ナイジェリアの独立、アフロビートと政治活動に裏打ちされた自由獲得への道のり

Fela Kuti M.O.Pの時代


 フェラ・クティは俗にアフロビートの祖と称される。そしてナイジェリアのミュージックシーンの開拓者でもある。


このアフロビートというジャンルはガーナの伝統音楽のハイランドにくわえ、ヨルバ族のポリリズムを基調とし、R&B、ロンドンのクラブミュージック、アメリカのジャズ、その時代のトレンドをクロスオーバーした結果、アフリカ独自の音楽が確立された。イギリスからの独立後の自由主義者としてのの道筋は一筋縄ではいかなった。


まさに彼の人生は、闘争と拷問、あるいは、権力における被虐にたいする強烈な反駁や抵抗を意味する。しかし、このような、いかなる激しい弾圧にも屈することのない力強い反抗の源泉はどこにあったのか。そのことは以下のアフロ・ビートの祖、フェラ・クティの生涯に全て記されている。




 フェラ・アニクラポ・クティ(旧ランソメ・クティ)は1938年、ナイジェリア南西部のアベオクタで生まれた。彼の家族はヨルバ族のエグバ族に属していた。また、アベオクタはエルバ族の聖地とも呼ばれる。父は、祖父と同じくプロテスタント教会の牧師を務める傍ら、地元の文法学校の校長でもあった。母親は、教師であったが、後に政治家として大きな影響力を持つようになった。


10代の頃、フェラ・クティはこの地域の伝統的な祝祭に出席するために何マイルも走った。先祖代々の本物のアフリカ文化を守るべきと感じていたのだ。1958年、両親は彼を留学のためにロンドンに送ったが、フェラは2人の兄や姉のように医学の道はなく、トリニティ音楽院に入学することを選び、その後5年間をそこで過ごすことになった。


在学中にレミというナイジェリア人女性と結婚、3人の子どもをもうけた。余暇には、フェラはロンドン在住のナイジェリア人のミュージシャンと”クーラ・ロビトス”というハイライフ・バンドで演奏していた。その中には、西洋音楽が主流だった当時、首都ラゴスのアフリカ音楽界にフェラを紹介し、影響を与えたJ.K.ブレマも含まれていた。


国家として独立から3年後の1963年、フェラ・クティは、ナイジェリアの首都に戻った。まもなく彼は、イギリスから帰国したミュージシャンたちとともにバンドの前座を務め、ハイライフとジャズを演奏するようになった。


その後の数年間、彼らはラゴスで定期的に公演を行い、1969年、ビアフラ戦争(ナイジェリアのイボ人を主体とした東部州がビアフラ共和国として分離・独立を宣言したことにより起こった戦争。ナイジェリア内戦とも。 ビアフラが包囲され食料・物資の供給が遮断されたため、飢餓が国際的な問題となった)のさなか、フェラはクーラ・ロビトスを連れてアメリカに行くことを決意する。


ロサンゼルスでは、グループ名を「フェラ・ランソメ・クティ・アンド・ナイジェリア70」と改名した。

 

Nigeria '70

 

この時代、のちの政治的な活動を行うに至る契機となる運命的な邂逅があった。ちょうど演奏していたLAのクラブで、ブラックパンサー(1960年代後半から1970年代にかけてアメリカで黒人民族主義運動・黒人解放闘争を展開していた急進的な政治組織)と親交のあったアフリカ系アメリカ人の少女、サンドラ・イソドールに出会う。彼女は、マルコムXやエルドリッジ・クリーバーなど、黒人活動家や思想家の思想や著作を紹介し、フェラはその中で世界中の黒人の間に存在する連帯性を意識するようになる。また、ナイジェリアの植民地支配のもとでアフリカ人の権利のために戦い(ソビエトの最高国家賞であるレーニン賞を授賞した)母親の姿、そして、彼女がイギリスと独立交渉をしていたガーナの国家元首クワメ・ンクルマが提唱した、”汎アフリカ主義”を支持していたことも、この洞察を通して、より明確に理解できるようになった。


ロサンゼルスでは彼が求めていた独自の音楽スタイルを作り出すためのインスピレーションを得、それを”Afro-beat(アフロ・ビート)と”名付けた。これは先にも述べたように、ガーナの伝統音楽ハイランドとヨルバ族のポリリズムを融合し、それをR&Bやジャズと融合させたアフリカ独自の音楽である。バンドはアメリカを離れる以前に新曲をいくつかレコーディングした。

 



 帰国後、フェラ・クティは再びグループ名を「フェラ・ランソメ・クティ&アフリカ70」に変更した。

 

ロサンゼルスでのレコーディングは、一連のシングルとしてリリースされた。この新しいアフリカ音楽は当時の首都ラゴスで大成功を収め、フェラは、エンパイア・ホテル内にアフロ・シュラインというクラブをオープンすることになる。当時、彼はまだトランペットを吹いており、サックスとピアノを演奏していなかった。彼は、ナイジェリア全土や近隣諸国で理解されるように、ヨルバ語ではなく現地語と英語が入り混じったピジン・イングリッシュで歌うようになった。彼の歌は、アフリカの人々の多くが共感できるような日常的な社会情勢を描いていた。

 

Fela Kuti & Africa 70


その後、国家としてのアイデンティティの快復の責務をフェラ・クティは民衆の前で司った。黒人主義やアフリカ主義をテーマに、アフリカの伝統的な宗教への回帰を促す彼の歌を聴くために、ナイジェリア中の若者が集まってきた。その後、彼は権力者に対して風刺と皮肉を込め、軍政と民政の両方が犯した不始末、無能、窃盗、汚職、恵まれない人々の疎外を非難するようになる。この時のエピソードがブラック・プレジデントとの異名を与えた。民衆は政治的な建前をいう為政者ではなく、心に訴えかける先導者を必要としていた。その役割を彼が負っていた。


しかし、この行動はボブ・マーリーのラスタファリ運動と同じように、いくらかカルト的な様相を呈して来た。1974年、オルタナティブな社会への夢を追い求め、彼は自宅の周りにフェンスを建て、独立国家であることを宣言。実質的には、ナイジェリア国内の独立レーベルとして設立され、彼の家族やバンドメンバー、レコーディングスタジオとして当初は使用されていた。これが俗に言う「カラクタ共和国」である。このような仰々しい名をつけたのは、フェラ・クティは自由主義の国家を心から望んでいたのかもしれない。しかし、国家的にそのことは不可能であったため、こういった行動に打って出た。この反抗的な行動は、保守派のブルジョア層には不評だったものの、フェラの姿勢に感化された人々が増え、やがて近隣一帯に広まっていった。警察当局は、フェラ・クティの「国家の中の国家」の思想の潜在的な力を恐れ、警戒を強めた。



この後、フェラ・クティは、苦難多き時代を過ごした。痛烈な糾弾の結果、大麻所持や誘拐など言われない理由での不当逮捕、投獄、当局の手による殴打、数え切れないほどの苦渋を味っている。しかし、クティは権力者と激しく対立するたびに、その行動はより率直さを増していき、「ランサム」は奴隷名であるという理由で姓を「アニクラポ」(「死を袋に入れた者」)に変更する。フェラ・クティの評判はさらに広がり、彼のレコードは何百万枚と売れた。特に、まだ10代の若者たちが家族を捨てて移住してきたことに批判が高まり、カラクタ共和国の人口は増加した。




 1977年、ミュージシャンとしての最盛期を迎える。この年、首都のラゴスで開催されたFestival for Black Arts and Culture(FESTAC)で、フェラ・クティは自国の軍隊を痛烈に風刺した「Zombie」を歌い、これがアフリカ全土で大ヒット曲となり、おのずとナイジェリア軍の怒りが彼と彼の支持者に向けられた。フェラが「Unknown Soldier」の歌詞で語っているように、1000人の兵士が「Kalakuta Republic」を襲い、彼の家を焼き払い、その住人を全員を殴打した。この時、彼の母親が1階の窓から投げ落とされ、その傷が原因で死去したことも歌われている。その後、クティは、ホームレスとなり、一行は、クロスロード・ホテルに移り住む。

 

Fela Kuti 「Zombie」の時代


その1年後、フェラ・・クティは、ライブ・ツアーの手配のために、アクラ(ガーナの首都)へ向かった。帰国後、”カラクタ共和国”の破壊から1周年を記念し、クティは、ダンサーやシンガーの27人の女性と集団結婚式を挙げ、全員に”アニクラポ・クティ”という名前をつける。結婚式の後、一行はコンサートが予定されていたアクラへ向かう。予想されていたことだが、満員のアクラのスタジアムで、フェラが「Zombie」を演奏すると、暴動が起きた。グループ全員が逮捕され、2日間拘束された後、ラゴス行きの飛行機に乗せられ、ガーナへの帰国を禁じられた。


ラゴスに戻ったフェラとその一行は、住むあてもなく、レコード会社、DECCAの事務所に不法占拠、そこで2ヶ月近くを過ごした。ほどなく、フェラは70人のメンバーからなるアフリカ70とともにベルリン・フェスティバルに招待された。このとき、フェラは70人のメンバーとともにベルリン・フェスティバルに招かれたが、公演後、ほとんどのミュージシャンが逃げ出す。このように挫折の連続であったが、フェラはラゴスに戻り、ミュージシャンを続けることを決意する。


アフロ・ビートの先駆者と彼の側近たちは、イケジャのJ・K・ブレマの家、新しいカラクタ共和国に住むことになった。そこでフェラは、自らのパート「ムーヴメント・オブ・ザ・ピープル」(M.O.P.)を結成する。1979年の大統領選挙では、民政復帰を目指す大統領候補として名乗りを上げるが、しかし、落選する。4年後の選挙で、フェラは再び大統領選に立候補したが、警察が選挙運動を妨害し、クティとその支持者の多くが投獄され、殴打され、再び自宅を荒らされた。


クーデターによりナイジェリアが再び軍事政権に戻ると、フェラの大統領就任の希望は打ち砕かれた。1984年、ブハリ将軍が政権を握ると、フェラはでっち上げの通貨密輸の罪で5年の刑期のうち20ヶ月を服役することになった。ババンギダ将軍の麾下、判事が「前政権の圧力でこのような厳しい判決を下した」と告白したため釈放された。裁判官は罷免され、晴れて自由の身となる。




 次の10年間で、フェラ・クティは最大80人の側近(現在では、エジプト80と呼ばれている)を連れて、ヨーロッパとアメリカを何度か訪問する。

 

これらのツアーは、世間と批評家から多大な賞賛を受け、アフリカの独特なリズムと生活文化が世界的に受け入れられる下地を形成した。フェラ・アニクラポ=クティは、自身を汎アフリカ主義者として知られるクワメ・ンクルマの霊的息子であると考え、植民地主義や新植民地主義を激しく批判する。その後20年以上にわたって、彼はナイジェリアをはじめアフリカやディアスポラで、独立後の時代に幻滅した大勢の人々の代弁者として著名となった。


1997年8月のフェラ・クティの死は、多くの国民により悲しみを持って悼まれた。また、その日、奇しくも米国のビートニクの作家、『裸のランチ』で有名なウィリアム・バロウズが同日に亡くなっている。この時、ナイジェリア国内のクティの葬儀に参列した100万人以上の人々の中には、彼の政治的意見に賛同しない人々も含まれた。その頃、彼は、政府とも和解しており、同国政府から遺族に送られた無数の弔電については彼が偉大な人物であることを何よりも雄弁に物語っている。クティの死因は、一般的にエイズによる心不全とされているが、当局による数え切れない暴行を受けた結果、免疫が弱って不治のウイルスが入り込んだという説もある。


フェラ・クティの生涯は、苦難多きもので、様々な出来事が縄目のごとく折り重なっていることは以上のエピソードを見ても理解していただけたはずである。そして、クティの生涯については幸不幸といった二元的な見方でその人生を決めつけることは困難である。しかし、そのような二元論のみで語られる人生はフィクションにしか存在しない。現実とは、常に不可解なものであり、容易に解きほぐしがたものなのだ。クティの力強い信念と勇気に裏打ちされた行動については、ヨーロッパの統治からのアフリカ全体の独立、そして、ナイジェリアの自由主義的な国家構造の洗練化と大いに重なる側面がある。そして、彼が今生に残した功績は数しれず、アフロ・ビートというアフリカ固有のジャンルの確立、ヒット曲「Zombie」を生み出し、生涯を通じて彼の人生に触れた何百万人もの人々から無条件の愛と尊敬の眼差しを与えられた。


フェラ・クティのカリスマ性と破天荒なエピソードは、歴代のミュージシャンの中でも群を抜いており、ジャマイカのボブ・マーリーに匹敵するものがある。フェラ・クティは大統領にはなれなかったが、”ブラック・プレジデント”の異名を取るにふさわしい人物だ。マルコムXに影響された人物として、いくらか過激な舌鋒を有することで知られているが、少なくとも汎アフリカ主義を掲げ、植民地からの独立後、ナイジェリアという国家において自由主義獲得の道筋を作った重要人物としてその名は歴史に刻まれるべきで、当然、後世にも、その名は語り継がれるべきだろう。彼の死後も、その影響はとどまることはなく、ナイジェリアのタファ・バレワ広場に置かれた彼の遺影に敬意を表する大勢の人々によって、「アダミ・エダ(祭司長)」という伝説的な地位を与えられた。"彼は、永遠に生きる!"と、の賛辞がクティに捧げられている。