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20世紀初頭は、レコード産業が大きく発展した時代であり、1903年にはイタリアで初のミリオンセラーが登場した。エンリコ・カルーゾのピアノ伴奏つきの歌曲「ヴィステラ・ラ・ジウバ」は100万枚以上の売上を記録した。最初のミリオンレコードともいわれている。
また、エジソンによる円筒型のレコード蓄音機が1877年に発明されて以降、世界各地のレコード会社はレコードを流通させようと尽力した。そんな頃、グラモフォン、RCA、オデオン、ポリドールなど大手レコード会社が登場する。20世紀初頭というのは、音楽がライブ/コンサートから録音へと移り変わっていった時期であった。そんな中、多くのレコード会社は、それまであまり陽の目を見なかった地域へと目を向けた。アルゼンチンのタンゴもまたその一貫として台頭した。この音楽はアメリカのジャズやミュージカルと連動するようにして発展した。
▪オルケスタ・ティピカの成立
アルゼンチン・タンゴの普及に貢献したのが、現地の演奏グループである。これらは「オルケスタ・ティピカ(Orquesta Tipica)」と言われている。 彼らの存在なくして、ピアソラは存在しなかっただろう。ゴースト・オーケストラの異名をとるこの演奏グループは、ほとんどが表側に出ることなく、また、ライブも行うこともない、レコーディングの専門集団として活躍した。タンゴは19世紀に始まり、単体のギターで演奏されることが多かった。いわば、タンゴの始まりは、どちらかと言えば、ブルースやフォークミュージックのような形で発生した。しかしもちろん、それだけでは終わらず、ニューオリンズのジャズやブラジルのショーロと連動するようにして、ビッグバンドの形式が主流となり、楽器の編成自体も大掛かりになっていった。以降は、室内楽団やそれよりも大きな編成のオーケストラ集団を中心にタンゴは発展していった。
当初、アルゼンチンのタンゴはアコースティックギター単体で演奏されることが多かったが、その後、トリオ編成に変わり、バイオリンとフルートが加わり、小編成の室内楽となった。そして、20世紀以降は、トリオ編成にバンドネオン(アコーディオン)が追加された。タンゴは、ブラジル音楽のように口頭で伝達される音楽ではなく、クラシックのように楽譜を通じて継承された音楽である。そのことを考えると、クラシックやビッグバンドに近い発展の道筋を辿ったというのも頷ける話だろう。
どのような音楽の分野も傑出した人物が現れなければ、目覚ましい発展を遂げることは困難である。と考えると、タンゴが大きな節目を迎えた瞬間が1899年であった。バンドネオン奏者/作曲家/指揮者のフアン・パチョ・マグリオという人物が登場する。彼は実際の演奏ではバンドネオンを担当し、ギタリスト、バイオリンというジャズトリオのような編成を形作った。
バンドネオンの最初のレコーディングは1912年に行われた。マグリオがタンゴ「ラ・ソナムブラ」を演奏した際に録音が行われた。以降、この音楽は徐々に楽器編成を増やしていく。
1917年、ロベルト・フィルポがピアノを導入。同年、フランシスコ・カナロがコントラバスを導入した。こうして、ピアノ、バイオリン、バンドネオン、ベースといったカルテットの編成が確立された、さらにその数年後には、チェロが導入され、さらに本格的な室内楽の編成になった。
・タンゴの最初期の巨匠 ビセンテ・グレコ
1911年、タンゴの最初の巨匠ビセンテ・グレコが登場した。彼は自身の楽団を「オルケスタ・ティピカ・リオージャ」と名付けた。この名称を省略して、オルケスタ・ティピカの名が一般的に定着した。この楽団は、アルゼンチンでも名物的な存在となり、1960年代以降、ビートルズのようなポピュラー音楽が国内で主流になるまで隆盛をきわめた。オルケスタ・ティピカの楽器編成は、1920年代から30年代になると、六重奏楽団へと進化した。ロサリオのカーニバルなどでは、こうしたアンサンブルが大編成オーケストラとして活躍した。
面白いことに、オルケスタ・ティピカは、''典型的な楽団''という意味である。それは演奏者が変わっても、同じような演奏ができる”組織的な集団”とも言える。 しかし、問題は、著名な演奏家やスターが登場しなかった時期が多く、唯一、作曲家だけが名を残している。もしかすると、これが、20世紀中期にかけて、音楽としての成長が鈍化した原因なのではないだろうか。しかし、1940年代にかけて、アルゼンチンではタンゴが街の隅々まで入り込み、文化の中心となったのは事実のようである。当時、100以上ものオーケストラが活動し、ラジオ劇場、カフェ、スポーツクラブ、社交クラブで演奏を行った。首都ブエノスアイレス、郊外にはこの音楽が氾濫し、ビクターやオデオンがアルゼンチ・ンタンゴの録音を続々と世に送り出した。
オルケスタ・ティピカを率いた著名なアーティストには、エドゥアルド・アローラス(Eduardo Arolas)、ロベルト・フィルポ(Robert Firpo)、、Adolfo Carabelli(アドルフォ・カラベリ)、フランシスコ・カナロ(Francisco Canaro)らがいる。彼らはタンゴの歴史の中でも度外視することのできない巨匠たちである。 録音も残されている場合もあるので参考にしてみて下さい。
・アストル・ピアソラとオーケストラ・ティピカ
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さて、そんな中、アストル・ピアソラのような傑出した作曲家が出てきたのは自然な成り行きだった。元々、ピアソラはバンドネオン奏者として活躍していたが、フランスのパリに留学して以降はこの音楽をクラシック界に持ち込み、ガーシュウィンに比肩する偉大な作曲家になった。
なんでも、ピアソラの曲は、どのように演奏してもピアソラらしくなり、典型的なタンゴの曲になるという。演奏者やオーケストラに左右されないというのだ。しかし、その典型的なタンゴの印象ですら、20世紀以降に始まったオルケスタ・ティピカ(典型的な楽団)の流れを汲んでいると見ればどうか。ピアソラのタンゴの文脈には相応の狙いが存在し、海の向こうにいる聴衆に対し、わかりやすいタンゴの”典型的なイメージ”を活かそうとしたとも考えられる。しかし同時に、一般的に言われるように、ピアソラは文化の伝承者であるとともに革新者でもあった。
ピアソラは、オルケスタ・ティピカに大きな変革をもたらし、五重奏や六重奏の形式を確立させる。そして彼はまた、タンゴを娯楽のための踊りから演奏を中心とする芸術の領域へと近づけた。生前のピアソラは言った。『タンゴは踊るためだけではなく、聴くためにある』というように。これこそ音楽的に優れた側面が存在すると、ピアソラ自身が考えていた証でもあろう。
アストル・ピアソラの音楽は世界的に演奏される機会が多いが、彼はむしろ生前よりも死後になって、真価が認められた人物である。特に、ピアソラの死後、タンゴは舞踏と音楽の芸術的な側面で急速に再評価され、世界で興行を行うバレエ団のレパートリーには、ピアソラの曲が組み込まれていた。それ以降、タンゴは主流地域のポピュラーやロックに押されるようにして行き場を失い、四半世紀に及ぶ暗黒期を迎えた。しかし、そのような不遇時代にあろうとも、いくつかの楽団が辛抱強く活動を続け、70年代や80年代まではオーケストラが活動を継続していた。しかし同時に、アルゼンチンの若者の海外の音楽へと移り変わっていかざるを得なかった。
以後、オルケスタ・ティピカが衰退期を迎えたのは様々な要因がある。例えば、若い聴衆の好みの変化、ダンスへの熱意の喪失、中心街のカフェがコンフィテリア(喫茶店)へと変わっていったことなど。これらの町並みの変化や趣味趣向の変遷の中で、オルケスタ・ティピカは演奏する機会を失うようになったのは致し方のないことである。そして、60年代に入ると、リバプールから最大の文化が流入した。アルゼンチンの聴衆は、海外の音楽に夢中になり、ビートルズをはじめとするロック、バラード、それからボレロが主流派になっていった。こうした海外のポピュラー文化を広めるために、「エル・クラブ・デル・クラン」が登場した。
しかし、タンゴが再興したのは存外にも海外からの興味からであった。パリはタンゴに注目し、これらをダンスの方面から再編しようと試みた。すると、1980年代に入り、ブエノスアイレスに、キャバレー「トロトワール」が開場し、また、歴史的なダンス、歌、舞台、アートを上映する「タンゴ・アルヘンティーノ」が登場した。それ以降、タンゴは根強い人気を海外でも維持しています。日本でも意外なことに、オルケスタ・ティピカが現在も活動している。




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