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エディット・ピアフのようなジャズボーカルの巨匠はもはやスタンダードとも言うべき存在となっている。しかし、クインシー・ジョーンズがフランスへ行き、作曲家としての修練を積んだのと同じように、エディット・ピアフですらヨーロッパ音楽の影響を作風に巧みに取り入れ、新しい定番へと組み替えた。それがミュゼットだった。
バル・ミュゼット(Bal Musette)という音楽は、フランス/パリを発祥とするダンス音楽の一種であり、それ以前に流行したワルツを派生させた形式である。ワルツと明確に異なる点は、労働者に親しまれ、ダンスホールやカフェといった場所で人気を博したことだろう。いわば宮廷音楽がポピュラー化した瞬間である。 さらに言えば、ミュゼットは、一般市民が演奏するダンスミュージックなのだが、この音楽は例えば、パリの旅行番組などのBGMなどで頻繁に登場することが多い。また、20世紀前半の映画のサウンドトラックにもこういった音楽が流れていた。
▪ミュゼットーーバクパイプとしてのルーツ
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ミュゼットという言葉は、中世から使用されていたダブルリード楽器「ミュゼット・ド・クール」に由来する。バクパイプのように、動物の皮がついていて、トランペットの始まりのように生々しい楽器と言えるが、スコットランド、スペイン、そしてフランスの民族舞踊には欠かせない楽器でもある。
この楽器は17世紀から18世紀にかけてのフランスの宮廷で使用されていた。あまりバグパイプはクラシック音楽の楽器とは見なされないが、ミュゼットだけは例外である。オペラやバレエの一幕「パストラーレ」というシーンで演奏されることがあった。バレエ愛好家のルイ14世の時代、メヌエットやガヴォットのような組曲の形式にミュゼットは組み込まれることがあった。クラシックでのミュゼットは踊りのことではなく、器楽的なパグパイプの性格を模した小品のことを意味していた。
ところが、この宮廷音楽が2世紀を経て、ポピュラーやジャズの性格を付け加えて復活した。19世紀のパリでは、ミュゼットはフランス南西部にあるオーべルニュ地方にある「キャプレット」という楽器のことを言うようになる。その後、ミュゼット音楽は、バスティーユ、ベルヴィル(セーヌ)、メニルモンタン(パリ)などの地域で、オーベルニュ出身の人々によって始まり、第二次世界大戦頃まで流行した。
ミュゼットは、イタリアからの移民労働者やロマがもたらしたブルターニュ地方の舞曲、そして、ジプシーのリズム、イタリアのワルツが加わり、民衆の音楽として完成した。オーヴェルニュ地方の労働者は、19世紀後半にパリのような首都に流れ込み、炭やワインを販売するバーや店舗を開き、小さなダンスホールなどを開店し、首都の生産活動の一部を司るようになった。
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リヨンに隣接するオーベルニュ地方の人々は19世紀後半からパリに移住し、水運び、カフェの経営、炭焼きなどの仕事に就いた。彼らはパリ11区に集まり、都会生活の中で、故郷の風土を再現させようと試みた。こういった中で、ミュゼットが誕生し、主に石炭商の経営するカフェで演奏された。楽器的な特徴としては、小型のバクパイプの音色に合わせて踊ることが多かった。スコットランドの民謡、マズルカ、農民の民謡などを組み合わせた音楽だった。当初開かれた舞踏会は荒っぽい雰囲気があった。
その後、他地域の人々にも紹介された。20世紀に入り、別の移民集団がミュゼットにアレンジを加えた。パリに住むイタリア人が、一般的とは言えないバクパイプをより演奏しやすくするため、アコーディオンに組み替えることになった。ダイアトニック・アコーディオン、そしてクロマティック・アコーディオンが登場し、最初のパクパイプに取って代わられるようになった。
この時期、並んで登場したのが、ジャバ(Java)と呼ばれる音楽で、ワルツ起源とする舞踏音楽であった。テンポはゆっくりとしていて、アウトサイダーの雰囲気に満ちていた。これもまた音楽そのものが20世紀に入り、大衆化した事例でもある。この音楽の舞踏会は、 男女が混在して、労働者、職人、使用人、若者たちが参加し、心楽しい雰囲気に満たされた。特に郊外を中心に、新しいワルツは人気を博し、サン・アントワーヌ、ワッペ通りなどを中心に、社会的な交流の場所と化したのだった。
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| Emile Vacher |
第一次世界大戦以降になると、ミュゼットは最盛期を迎えた。特に後世の音楽を捉える上で大切なのは、このジャンルをもとに、フォックストロット、パソ・ドブレなどが派生音楽として登場したことだ。ダンスの面では、タンゴのような情熱的な動きが加わり、バスティーユ広場近辺やパリのダンスホールなどでは、荒々しい動きが加わるようになる。1930年代に入ると、この音楽はジャズのスイング、そしてジプシー音楽が加わり、1950年代ごろまで民間に浸透していく。
ジャズは当初、クラブのオーナーに歓迎されなかったが、実際の演奏者が取り入れ、ミュゼットとジャズを入れ替えて演奏するのが1940年代の主流となり、パリのダンスホールを中心とするナイトミュージックとして栄えていった。
1950年代に入っても、ミュゼットはフランス国内で人気のサウンドで、多くのスター、ガス・ヴィスール、トニー・ムレナ、ジョー・ブリヴァットといったスターがアメリカに渡った。これらのメンバーはグレン・ミラーのような著名なミュージシャンと共演し、ジャズに新鮮な気風を呼び込んだ。
それ以降、ロックやポピュラーのフランス国内の普及によって、商業音楽としてのミュゼットは衰退していったが、地方の結婚式やお祝いのようなイベントなどでは普通に演奏され続けた。この音楽で有名なエミール・ヴァッシュ(Emile Vacher)は、パリ南部5区に父親とダンスホールを開いた。
ヴァッシュは楽譜を読めなかった。しかし音感の良さを頼りにし、独自の音楽スタイルーーアコーディオン音楽ーーを確立。彼の音楽もまた、古い民族舞踊、イタリアの歌謡(カンツォーネ)のような音楽を下地に、一般大衆の音楽として成立した。ミュゼットの音楽的な特徴は6/8のような性急なテンポで構成され、20世紀のフランス市民の熱狂を体現するものであった。この音楽は、当初は舞踏音楽として出発したが、後に下町の音楽として親しまれるようになった。
Emile Vacher 「Mado」




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