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 聞いてほしい、とエリザベス・ウィットモアはジュリアン・ベイカーとトーレスの新作を紹介する際にアメリカの現状を訴えかけている。


 私たちの何人かにとって、あるいはほとんどの人にとっても、今年は大変な年だった。 この原稿を書いている11月中旬のシカゴは、記録的な暖秋で、悪いニュースが続いている。 


 南部の田舎では家族や動物、家が流されてしまった。 山火事の季節は終わらない。 ある場所では水が多すぎるし、ある場所では水が足りない。 私の故郷のテキサス州では、幼少期を終えたばかりの妊娠中の人々が、医療を受けられず命を落としている。 そして、あなたやあなたの愛する人が不法移民であったり、トランス、クィア、貧困、黒人などということは数え上げればきりがない。


  時々、呪われた世界全体が、きっぱりと自滅する決意を固めたように感じることがある。 だから私は、ジュリアン・ベイカーが歌う、「これ以上悪くなることはない」という言葉を骨の髄まで自分のことのように感じる。 もしかしたらあなたもそれを感じているかもしれないし、絶賛されたアーティスト、ジュリアン・ベイカー&トレス(別名マッケンジー・スコット)によるこの待望のカントリー・アルバムの良い仲間を利用できるかもしれない。


 「Send A Prayer My Way」は何年も前から制作されていた。このアルバムは楽屋での意気投合から始まった。 2人の若いミュージシャンが、ここシカゴで愛されているリンカーン・ホールで初めて一緒にライヴをするところを想像してみてほしい。 2016年1月15日、外は底冷えするほど寒く、特に南部に住む2人組にとってはなおさら。 ライヴが終わり、クソみたいなことを言い合っているとき、一人のシンガーがもう一人に言った。"私たちはカントリー・アルバムを作るべきだよ"。 


 これはカントリー・ミュージックの世界では伝説的な原点であり、余裕のあるエレガントな歌詞と、彼らの音楽を愛する人々と苦悩を分かち合う勇気ですでに賞賛されている2人のアーティストのコラボレーションの始まりでもある。 


 それは不朽のカントリー・アルバムのように、歌い手と聴き手の双方を支え、鼓舞し、この世で孤独な人間など一人もいないこと、音楽は安定した伴侶であることを思い起こさせる作品作りの始まりでもある。'' なぜ泣いているの? '' 「No Desert Flower」で彼らは歌う。 ''少しくらいの雨なら平気さ/辛いことがあってもへこたれない/過ぎゆく歳月が僕を洗い流すことはない''。


 「Send A Prayer My Way」は、アウトローの伝統に則って書かれ、そして歌われた、とても素晴らしいカントリー・アルバムだ。 (最高のアウトロー・カントリーでは、法律も男も味方ではない。トレスとベイカーの音楽では、宗教の吹き溜まりも、娘のセクシュアリティを我慢できない母親もそうだ)。 これらの曲は、長い勤務を終え、疲れて家路につくとき、マリファナと静かな場所で足を休めたいと願う歌であり、ワゴン車から(またもや)落ちてしまい、今度こそ、車輪の下に引きずり込まれるのではないかと思う歌であり、間違った決断をすることだけが自分の知っている決断なのだと思う歌である。 ベイカーは、冒頭の「Dirt」でこう歌い、その数行後にはこんな美しさがある。''きれいになるために一生を費やす/ただ汚れの中で終わるために''

 

 

 Julien Baker & TORRES 『Send A Prayer My Way』 - Matador



 

 ジュリアン・ベイカー、トーレスはともにアメリカ国内では著名な歌手である。双方ともに、歌手としてだけではなく、ギタリストとしても活動している。近年、ベイカーは、ボーイ・ジーニアスのメンバーとして活動し、様々なイベントにも出演してきた。一方のトーレスは昨年、ソロ・アルバム『What an enormous room』を発表し、ポピュラーシンガーとして成功を収めた。この度、二人が挑戦したのは純正のカントリー・アルバム。聞けば分かる通り、ポピュラーに薄められたカントリーではなく、戦前の時代、つまり、20世紀中葉の本格的なカントリーソングの系譜にある曲も含まれている。ベイカー/トーレスは、ふたりとも若い年代のシンガーであるが、こういった古典的な作風に挑戦したのに大きな驚きを覚える。なぜなら、このアルバムの音楽の中には、両者がまだ生まれていない時代のものも含まれているからである。

 

 カントリー/フォークというのは、一般的な日本の音楽ファンは同じようなものと考えることが多いのではないかと思われる。 カントリーは田舎の音楽であって、フォークは民謡.......。いずれも、世俗的な音楽である。2つの音楽の共通点は、どちらもその土地の風土を音楽として織り込んでいる。ただ、この2つの音楽を漠然と一括りにするのは妥当ではないのかもしれない。とくに、カントリーを語る上では、この音楽がゴスペルやブルースと密接な関係を保ちながら発展してきたことを考えると、キリスト教の霊歌としての教会音楽と切り離すことが出来ない。

 

 元々、教会音楽と対象的な構造を持つものとして、世俗音楽というのがヨーロッパ社会には厳存してきた。そして、これこそが現代のフォークやカントリーのルーツであろう。結局、教会の祭礼で歌われる霊歌やカンタータを共同体の外に持ち出し、それを民衆化し大衆化した瞬間、ポピュラーの歴史が始まった。それ以降、ジャズやポピュラーという形で発展してきたのが、アメリカの音楽の系譜である。それからは、ポピュラーは徐々に均一化していった。そして、アメリカの音楽というのはキリスト教の概念を元に発展してきていることは忘れてはいけない。

 

 おそらく、この点が、単にアメリカの音楽をなぞらえただけでは同じものにならない理由なのだろう。仮に、一般的には、汎神論や一神論を否定する、つまり得難い存在の実在を完全に否定するとしても、概念のどこかに神が存在すること、これは完璧には否定出来ない。例えば、神様なんかいないぜ、と現代の人々の多くは考えるかもしれないが、神様という言葉が概念のどこかに出てきたとき、それはすでにその存在を認めているも同然なのである。もちろん、我が日本では、往古より、汎神論的な考えが優勢であり、山や空にも神様がいると考えてきた。

 

 今回、若いシンガー二人が取り組んだ「カントリー」というのは、日本の音楽ファンにとっては単なる符牒や意気投合のための共通点だったと考えるかもしれない。このアルバムを聴く人々の多くはそのように捉えるに違いない。しかし、そう考えるのは、あまりにも浅薄であり、理解に乏しい。少なくとも、驚きを覚えたのは、このアルバムを聴くとわかるように、ジュリアン・ベイカーにせよ、トーレスにせよ、カントリーを単なるツールのように考えていないらしいということである。つまり、カントリーという音楽を通して、二人のミュージシャンは、人生を考えたり、悩みを共有したり、ときには、喜びや安らぎを共有している。ようするに、個人的な感覚を別の人間が共有したその瞬間、ソロという役割が変化し、本当の意味での”コラボレーション”が実現するのである。ジュリアンとトーレスには、カントリーをツールにするような考えは微塵もかんじられない。しかも、カントリー音楽に神聖な感覚を見出そうとさえしている。ジュリアン・ベイカーに関しては、そういうイメージがなかったが、音楽に対して敬虔な気持ちすら読み取ることも出来る。そして、ぼんやりと目に浮かんできたのは、帽子を深く被って録音マイクの前に立つ歌手の姿……。良い音楽を作るためには、こういった厳粛で慎ましい感情を、自分の作り出す音楽に対して抱くことも、時には必要なのではないか。

 

 カントリーという音楽は、アメリカ国内では、WW2の戦前、戦後にかけて最盛期を迎えた。ハンク・ウィリアムズ、ジョン・デンバー、レッド・フォーリー、ジョニー・キャッシュなど、偉大な歌手を輩出した。これらの音楽は、共同体の中の文化を外に持ち出し、霊歌を一般化したり、世俗化するような意味があった。もうひとつは、音楽の持つ意義の変化が要因ではなかったか。戦争の前後の時代の国威発揚のような意味をもたらし、外地から望郷の念などをワイルドに歌うことが多かった。兵士に向けて歌われることもあり、また、従軍キャンプのようなパーティーでも演奏される機会が多かったはずである。そこでは、当然、離れていた恋人が一緒に踊りながら、カントリーに合わせて歌うこともあったはず。欧州では、ポルカやジーグ、メヌエットという、三拍子を中心とする舞踏音楽の形式があるが、これらの20世紀バージョンがアメリカの南部を中心に発展していった。これが、カントリーの正体だろう。アコースティックギターで軽快なリズムを刻み、ときに、ジャズのリズムの影響を受けてスイングする(拍を後ろにずらすシンコペーションの一種)のは、この音楽が本来は舞踏的だからなのだろう。

 

 カントリーは、男性中心の音楽として栄えてきたようなイメージがある。私自身もつい数分前まではそうとばかり思っていた。しかし、ロレッタ・リンというデュエットの名手がいる。ロレッタ・リンは、2022年に死去しているが、特に、男性のカントリーシンガーとのデュエットで、素晴らしく甘い雰囲気を添えた。そして、コンウェイ・トゥッティ、アーネスト・タブなどのデュエット曲を通じてリンが表現したのは、切ない純粋な恋心であった。そして、これもまた、どちらかといえば、ジャズのクラシックをボーカル化したような音楽でもあった。


 重要なのは、カントリーは、離れたところにいる恋人への恋慕や望郷の念など、何らかの対象物に対して、慎ましい気持ちを表現するものだった。それは、時々、大きな社会情勢に個人の命運が翻弄されることがあったのに加えて、恋人という欠かさざる存在や故郷の姿が自己よりも大きいことの表れでもあった。それが戦後にかけて反戦歌などが作られるようになり、政治的な趣旨の色合いを増すこともあった。例えば、ジョニー・キャッシュはそのアイコンだろう。いわば、カントリーという音楽そのものが神棚に祭り上げられるようになってしまった。これには確かに弊害もあった。本来は、世俗的な音楽や一般的な市民の感情を歌うものであったはずなのに、それとは対象的にエルヴィスのようなカリスマの象徴になっていってしまった。キャッシュはあまりにもこの音楽を神格化しすぎていて、それを贖罪の対象としたのだった。本来はカントリーというのは、世俗的な音楽であり、誰でも楽しめるように設計されている。もちろん、音楽にまったく詳しくないような人でも気楽に歌えるようになっているのである。

 

 ジュリアン・ベイカーとトーレスは、アルバムの録音の価値と並行し、文化的な側面からこの音楽に取り組もうとしている。「カントリーの民衆化」という元来の音楽の意義を蘇らせ、それを現代的な感性で包み込んでいる。このアルバムは、アメリカの長いカントリーの歴史を網羅するものであるのと同時に、現代的な感性からそれを再解釈し、聴きやすい音楽として出力している。

 

 

 ジュリアン・ベイカーとトーレスの声質は似ているようでいて似ていない。逆に言えば、似ていないようで似ている。モダンなポップソングを、両者ともに軽やかに歌うが、ソロアルバムより覇気がこもっている。ただ、それは気負いとはならず、音楽のリスニングに際して、敬虔な気持ちを授けてくれる。


 この録音には、二人のシンガーが実在していること、そして音楽を作ってくれたことに深く感謝したくなるものが込められている。二人の歌声には、心を落ち着かせるものがあり、それがアルバム全体に共鳴する内容だ。Ⅰ、Ⅴ、Ⅳ、Ⅵを中心とする基本的な和声構成を中心に、エレクトリックとアコースティックのギターの両方を巧みにボーカルの録音の間に織り交ぜ、時には心を落ち着かせ、また時には、切なさを呼び起こす素敵なカントリーソングが紡がれていく。

 

 

 現代におけるカントリーの精神とはどのようなものだろう。それはボブ・ディランの中期のような、やるせないような感覚である。クイア、移民、そして、混乱する国内経済(日本にもその影響は波及している)は、多くの国民に苦境をもたらしている。それは、上記のライターの記述を見ると明らかである。一般的な歌手は問題から目をそむけがちだが、この二人の歌手はそうではない。自分の環境やミュージシャンとしての生き方、現代アメリカの社会問題などに関心を向け、それらを自分たちが出来る形で、カントリーソングに乗せて歌う。ふたりとも有名な歌手なので、そういったイメージはなかったが、「1−Dirt」では人生の悲哀が歌われることがある。そして、それはパーソナルとグローバルの問題を結びつけるような役割を担っている。

 

 シンプルで精細なイメージをもたらすアルバムの冒頭を飾るこの曲は、アメリカに生きる市民の実情について考え合わせたとき、驚くほど音楽の印象が変化する。牧歌的な感覚の中に満ち渡る望郷の念というカントリーの原義に加え、哀愁にも似た淡い感覚を呼び覚ますのである。スムースなアコースティックギターの演奏、甘い雰囲気をもたらす一番の歌詞を歌うジュリアンのボーカル、メロウな雰囲気を持つハモンド・オルガン、フィドルの音色を想起させるヴァイオリン、ブルースのように渋いエレクトリック・ギターのソロ、そして、二番の歌詞をリードするトーレス、続いて、デュエットで歌われる二人のボーカル……。こういった両者の人生の関わりや友情を感じさせる素晴らしいカントリーソングがアルバムの音楽の手ほどきをする。

 

 オールドタイプのカントリーソング「2−The Only Marble I've Got Left」は、ジョン・デンバーやハンク・ウィリアムズを彷彿とさせ、スティールギターの音色で始まる。その瞬間、雄大な感覚を呼び起こし、カントリーに対する讃歌へと変わる。古典的な二拍子のリズムを基にして、トーレスのボーカルで始まり、音楽のワイルドなイメージを敷衍させる。そして望郷の念や恋慕の気持ちなど、カントリーソングの基本的な作法を活かし、本格的で精度の高い洗練された音楽構造を作り上げていく。サビの箇所では、「Daydream Believer」を想起させる心地よいフレーズを二人で歌い上げる。

 

  ここでは、未来に対する漠然とした希望、もしくは希望への道筋が歌われる。デュエットとしての相性も抜群で、アルトの音域を担うトーレス、そして、ソプラノの音域を担うジュリアンというように、音域の棲み分けが出来ている。さらに、両者の声質もデュエットとしての最大の効果を発揮し、甘美な感覚を呼び起こす。音楽というのは、実際の音を通して、どのようなインスピレーションを呼び起すのかが一番大切と思われる。それは、AIのようなテクノロジーを駆使しようとも普遍のテーマである。この点を、二人の秀逸な歌手は知り尽くしており、明るく穏やかなイメージを彼女たちのボーカルを通して、丹念に体現させていくのである。いわば”悪しき時代の星”となるため、ジュリアンとトーレスは肩を組むように歌を快活にうたうのだ。

 

 

 カントリーソングの中には、世俗的な人生観を歌うというのが通例である。 「3-Sugar In The Tank」はその好例だ。アコースティックギターのラフなストロークから始まり、Ⅲ-Ⅳのスケールを行き来しながら、スティールギターの対旋律を楔にして歌が始まる。ジュリアン・ベイカーのリードボーカルは、彼女のポピュラー性という側面を強調させ、くつろいだ感覚を付与する。その後、ドラムの演奏が心地よいリズムを刻み、休符を途中にはさみながら、軽快なカントリーソングが紡がれる。そして、この曲では、日頃の生活から汲み出される感情を、つややかに歌い上げている。近年の均一化したポピュラーという内在的な音楽性を古典的なカントリーと組み合わせているのが秀逸だ。現在、この曲のストリーミング再生数は、アルバムの中では最も高くなっている。アルバムの中で、最も聴きやすく、そして親しみやすい一曲でもある。また、この曲ではバンジョーの演奏も登場する。これが曲全体に遊び心を付け加えている。

 

 「4-Bottom of the a Bottle」は、デヴィッド・ボウイの最初期のフォーク・ソングを想起させるイントロではじまり、フィドル(弦楽器)の演奏を配したアメリカーナの雰囲気を強調させる。 この曲ではトーレスがリードボーカルを担い、精神的に円熟した感覚を思わせる。ポピュラーソングの普遍的な音楽は、トーレスの安定感のある重厚なボーカル、そして、ジュリアンの甘い雰囲気のある高いボーカルを中心として、明るい曲調から憂いのある曲調へと変遷を辿る。

 

 ”ⅥーⅣーⅤ(ーⅡ)”という、基本的な和声構成をアコースティックギターで演奏しながら、ドミナントのドミナント(Ⅴ-Ⅴ 短三和音)を効果的に用い、憂いの感覚を表現し、雄大なスティールギター、ペダルスティールと組み合わせて、切ない印象が呼び覚まされる。このシークエンスは劇的だ。

 

 その後、タイトルの歌詞が端的に歌われ、弦楽器の演奏を介して音楽が面白いように次にロールしていく。意外とシンプルなようでいて、和声の構成がきわめて卓越している。そして、強進行の和音を導入し、その後に休符を入れているから、その後の音楽に弾みがついて、リズミカルになる。いわば曲の流れが出てくる。


それ以降、トニック(主音)に戻り、シンガロングを誘う瞬間が訪れる。曲の始まりは、不安定な印象であるが、中盤にかけて安定感を持つようになる。この曲では、基本的な和音構成が安定しているからこそ、ポピュラーソングとしての安定感や均衡感を持つ。

 

 

 「Bottom of the a Bottle」

 

 

 「5-Downhill Both Ways」は段階的に半音ずつ降りていくスケールが導入されている。前の曲が和声的だとすれば、この曲は、対旋律的である。イントロから続くアコースティックギターを中心とする通奏低音を担う演奏にはスティールギターの伸びやかな対旋律をもたらし、そして、その後、アルペジオ(分散和音)が奏でられるアコースティックギターがもう一本追加される。

 

 この時点で、曲の大まかな伴奏が組み上げられる。この全般的な伴奏は、パット・メセニー/ライル・メイズの最初期のフュージョン・ジャズの一貫として登場したカントリーとジャズのクロスオーバーのようにリラックスした感覚をもたらす。ボーカルははじめからデュエット形式で歌われる。

 

 ジュリアン・ベイカーがソプラノの音域を歌い、そして、トーレスがアルトを歌っていると思われる。これらは、カウンターポイントの基礎である3度(短3度の場合もある)の音程の組み合わせを中心に構成され、心地良い音楽性が作り上げられる。簡単に聞こえるが、高度な音楽形式が繰り広げられる。いわばアメリカのポピュラーが単なる感覚や感性だけに依拠せず、音楽理論の基礎が定着していることに驚きを覚える。

 

 その中で、ピッチやトーンの微細なズレを活かし、いわばブルースのような渋いボーカルのテイストを生み出している。もちろん、両者の歌の素晴らしさを引き出す録音の水準の高さは言うまでもない。南部のカントリーを意識した軽やかなポピュラーソングで、良い雰囲気が漂う。さらにバンジョーの演奏も二度登場する。一回目は一番の後のソロ、そしてアウトロのソロ。感覚的に曲を作っているように思えるかもしれないが、ソングライティングは構成的である。

 

 舞楽的な音楽は「6-No Desert Flower」に見出だせる。歌だけを聴くと、四拍子に聞こえるが、ドラムは二拍を刻んでいくというように、変則的なリズムが取り入れられている。短調の曲の中で、哀愁を感じさせるボーカルをダブルで披露している。例えば、こういった曲は、ルー・リードがヴェルヴェットアンダーグラウンド時代に書いていたと思われるが、東欧の民謡を吸収した、新時代のカントリーとしての効力を持っていた。この曲では、バロック音楽のジーグ(Gigue)のような、古典音楽の要素がバラードタイプの音楽として新たに生まれ変わっている。同じように、スティールギターの演奏が組み合わされ、エキゾチックな雰囲気を醸し出す。

 

 一方、アルバムの中盤では70年代ごろのウェストコーストロックの色合いが強まる。ドゥービー・ブラザーズやイーグルスの最初期の西海岸のサウンドで、別名”バーバンク”とも呼ばれ、ハリウッドお抱えのロック音楽としてワーナーが押し出していた。

 

 そして、このアルバムの場合は、 「7-Tapes Runs Out」、「8-Off The Wagon」などの録音を通じて、アナログのコンソールを使用してクラシカルなフォーク・ソングを作り上げている。

 

 ジュリアンがリードボーカルを担うが、トーレスのコーラスが入ると、サザンロックの要素が強まる。ウェスト・コーストのロック音楽は、アメリカ南部のソウルやブルースの影響下にあるサウンドを織り交ぜていたのは周知の通りであるが、これらの南部と西海岸の中間にあるようなフォークロックに取り組んでいる。しかし、モダンな要素も同時に強調される。弦楽器の演奏はオーケストレーションのような壮大さを生み出す。

 

 ただ、ギミックの演出のような大仰な感じはほとんどない。曲の延長線上にあるアレンジメントである。一方の「Off The Wagon」ではライブツアーのワンシーンのような情景が映画さながらに切り取られる。前の曲と聴き比べると、続き物のような感じで楽しむことが出来る。後者の曲は、ジャクソン・ブラウンの『Running On Empty』の収録曲「The Road」をわずかに彷彿とさせる。このアルバムの中盤の2曲ではアメリカらしい雄大さと哀愁を味わうことが出来るはずだ。

 

 

 その後、アルバムはカントリーの古典性に回帰している。「9-Tuesday」は再び本格的なデュエットの形式が繰り広げられる。しかし、同じアルバムの収録曲のデュエットとして聴くと、両者の人間関係が少しずつ移ろい変わっているように感じられる。そして、制作者の人生の周囲を通り過ぎていく風景のように流れる。それは、実際のレコーディングにも反映され、収録曲の時系列としての並び方はさておき、アルバムを一緒に制作したことで、デュエットの歌がもたらす空気感や雰囲気にも一定の変化が生じている。つまり、このアルバムは、ジュリアンとトーレスという、二人のシンガーソングライターの人生が徐々に転変していく様子を捉えている。

 

 これは言ってみれば、音楽におけるドキュメンタリーのような意味合いが含まれているのではないか。そして、従来のジュリアン、トーレスという二人の歌手を知る人々にとっては、元来のイメージが先入観であったと気づくかもしれない。そこには誰よりも真摯な姿勢で録音や音楽に向き合おうとするふたりのミュージシャンの姿が、実際の音源を通して目にまざまざと浮かんでくるかのようである。それは音楽を聞いていても、クール、かっこいい、というイメージを抱かざるをえない。そして最後にはトーレスの得意とするスポークンワード風のボーカルが登場するのにも注目したい。

 

 「10-Showdown」はジュリアンがリードボーカルを担う。静かな雰囲気に満ちた美しいバラードソングで、そして内的な静けさという今までになかった気風が漂う。この数年、制作者が作ってきたポピュラーソングを改めて回顧するような内容になっている。しかし、例えば、2021年のソロアルバムと比べてみると、本格派のシンガーとしての威風堂々たる雰囲気を感じさせる。明言こそできないが、シンガーソングライターとしての進化の気配が伺えるのである。

 

 「11-Silvia」は異なる個性を持つシンガーソングライターの才能が見事に花開いた瞬間である。イントロは哀愁あふれるフレーズをトーレスが歌い、その後、デュエット形式に変わり、美麗なハーモニーを形成する。個人的な出来事をリリカルに歌う歌手は多いが、この曲のポイントは両者で共有される第三者への思い。そこには痛切な感覚が漂い、シンプルな「シルビア、私を忘れないで.......」というフレーズが深い慕情を持つに至る。きっと、トーレス、ジュリアンともに言葉の重さを痛感しているからこそ、こういった心に響く曲を書くことが出来た。カントリーと銘打たれた本格派のアルバムの中で、この曲はポピュラーソングとして異彩を放つ。ダークで気だるいような感覚からもたらされる最も美しい感情の結晶が生み出されたのである。

 

 

 聴き応え十分だし、マタドールのレコーディングの素晴らしさも美点で、惚れ惚れしてしまう。ジュリアン・ベイカーとトーレスの真摯な音楽に対する姿勢と、意外な一面を感じさせる素晴らしいアルバム。このアルバムが、アメリカの音楽市場に、どのような影響をもたらすのかは定かではない。しかし、良質なカントリーアルバムとして、後世にさりげなく語り継がれるでしょう。もちろん、少数派の人間としての意見やスターダムに押し上げられた歌手の気持ちをストレートに反映させているのも、ひとつの魅力となりえる。少しシリアスな内容に傾きかけたアルバムは、その後、穏やかで柔らかい雰囲気を持ってクライマックスを迎える。トーレスはジュリアンに語りかけ、ジュリアンがそれに答え、軽快なカントリーソングが展開される。 レコーディングや音楽として高水準にあるだけではなく、伝えたいことが明確なのである。

 



90/100

 

 

 

 

Best Track-「Sylvia」

 


▪Julien Baker & TORRESのニューアルバム『Send A Prayer My Way』はマタドールより本日発売。ストリーミング/購入はこちらより。日本国内では、beatink/ディスクユニオンで販売中。



1969年、ニューヨークの歴史的なフィルモア・イーストでのコンサートは、その最初のツアーの初期の瞬間をとらえたもので、2枚組のライヴ・アルバムとして10月25日にリリースされる。


『Live At The Fillmore East, 1969』は、Rhino.comからビニール盤(2LP)とCDで発売される。同日、一部の小売店のみで特別クリア・ビニール・エディションが発売される。Helplessly Hoping」の未発表ライヴ・ヴァージョンが本日デジタル配信開始。試聴はこちらから。


Crosby Stills Nash & Young(クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング)は、1969年8月のウッドストック・フェスティバルで2度目のパフォーマンスを行ったことで有名だ。その後彼らは1970年のアルバム『Déjà Vu』の制作に取り掛かった。数十年後、1969年9月にニューヨークのフィルモア・イーストで行われたカルテットによる4度目のライヴのマルチトラック録音が発見された。LP『Live At The Fillmore East』として来月発売されることになった。


クロスビー、スティルス、ナッシュ、ヤングは、この未発表ライヴの制作に大きく関わった。スティルスとヤングは、ロサンゼルスのサンセット・サウンド・スタジオで、ジョン・ハンロンと共にオリジナルの8トラック・コンサート録音をコンパイル、ミックスした。このオーディオは、最高のオーディオ忠実度を提供するために、レコード・リリース用にAAAラッカー・カットされている。


ヤングは最近こう語っている。「私たちはテープを持っていて、とてもリアルに聞こえる。ミキシングはサンセット・サウンドで行ったんだ。制作中はずっとアナログなんだ。アナログ。デジタルは一切なし、アナログ・オリジナルだ。


ウッドストックからわずか1ヵ月後にレコーディングされた9月20日のコンサートは、フィルモア・イーストでの2日間で4回目のライヴで、アコースティックとエレクトリックの両方のセットが披露された。

 

「アコースティック・ショーは自分たちでやったけど、ダラス(・テイラー、ドラムス)とグレッグ(・リーヴス、ベース)の機材と大きなショーができたから、とにかくやってみたんだ。僕らに欠けていた繊細さは、熱意で補ったんだ」


ニール・ヤングとスティーヴン・スティルスは、来月LAで『Harvest Moon』のベネフィットを一緒に演奏する予定で、サンセット・サウンド・スタジオでジョン・ハンロンと共に『Live At The Fillmore East』をミックスした。

 

プレスリリースの中で、ニール・ヤングはこう語っている。「サンセット・サウンドのアナログ・エコー・チェンバーでミックスしたんだ。制作中はずっとアナログだったんだ」このアルバムには、バンドのアコースティック・セットとエレクトリック・セットが収録されており、後のグループのレコードに収録される曲や、メンバーの別のプロジェクトの曲も収録されている。

 

 

 



Crosby Stills Nash & Young 『Live At Fillmore East. 1969』


Live At The Fillmore East, 1969

 

LP Tracklist


Acoustic Set

Side One

1. “Suite: Judy Blue Eyes”


2. “Blackbird”


3. “Helplessly Hoping”


4. “Guinnevere”


5. “Lady Of The Island”


Side Two

6. “Go Back Home”


7. “On The Way Home”


8. “4 + 20”


9. “Our House”


10. “I’ve Loved Her So Long”


11. “You Don’t Have To Cry”


Electric Set

Side One

1. “Long Time Gone”


2. “Wooden Ships”


3. “Bluebird Revisited”


4. “Sea Of Madness”


Side Two

5. “Down By The River”


6. “Find The Cost Of Freedom”


CD Tracklist


Acoustic Set

1. “Suite: Judy Blue Eyes”


2. “Blackbird”


3. “Helplessly Hoping”


4. “Guinnevere”


5. “Lady Of The Island”


6. “Go Back Home”


7. “On The Way Home”


8. “4 + 20”


9. “Our House”


10. “I’ve Loved Her So Long”


11. “You Don’t Have To Cry”


Electric Set

12. “Long Time Gone”


13. “Wooden Ships”


14. “Bluebird Revisited”


15. “Sea Of Madness”


16. “Down By The River”


17. “Find The Cost Of Freedom”

 


アメリカのフォークシンガー、Cass McCombsがサプライズアルバム『Seed Cake On Leap Year』をDominoからリリースした。本作はアーティストの初期の未発表曲を収録。渋さと円熟味を兼ね備えたアルバムで、シンガーソングライターの若い時代の音楽的な魅力を再訪出来る。

 

1999年から2000年にかけてキャス・マコームスがバークレーに住んでいた頃、サンフランシスコのフルトン924番地にあるジェイソン・クイーバーのアパートで録音された初期の未発表曲集『Seed Cake On Leap Year』。1990年代後半のサンフランシスコのベイエリアには、Papercuts、Casiotone for the Painfully Alone、Chris Cohen's Curtains、Mt.Egyptなど、特別なアーティストのコミュニティが存在した。最大限の誠実さと親密さがモットーで、音楽は親しい友人とだけ共有されることが多かった。グラフィティ・ライター、スケーター、60年代の古株たちは、決して遠い存在ではなく、心の片隅にもいなかった。


常に前へ、前へと進むというマインドセットを貫いたマッコムスのキャリアにおいて、この時期は短いながらも実りの多い時期であった。『Seed Cake On Leap Year』の驚くべき点は、これらの楽曲がいかに生き生きと生々しく、洞察と驚きに満ち、まだ来ていないものすべてと対話しながら残されているか、ということ。

 

 

 

 

Cass McCombs  『Seed Cake On Leap Year』


Tracklist:

1I’ve Played This Song Before

2Anchor Child

3Baby

4Gum Tree

5Wasted Again

1If I Was A Stranger

2You’re So Satanic

3Always In Transit

4What Else Can A Poor Boy Do

5Northern Train


 

Nick Cave

 

ニック・ケイヴ&ザ・バッド・シーズ(Nick Cave &The Bad Seeds)が、近日発売のアルバム『Wild God』から新曲「Long Dark Night」を発表した。前作「Frogs」とタイトル曲に続く新曲だ。以下よりチェックしてほしい。


この新曲は、ウォーレン・エリスと共同制作を行ってきたケイヴらしい映画的なコンセプトが音楽の中に織り交ぜられている。

 

「スペインの16世紀の詩人、十字架の聖ヨハネの「魂の闇夜」からインスピレーションを得ている」ニック・ケイヴは声明で説明している。

 

「『長い闇夜』は、これまで書かれた中で最も偉大で力強い転換の詩のひとつにインスパイアされた。最終的には、美しいカントリー・チューン。この曲は、"Wild God "の甘い伴侶のように感じられるんだ」

 

ニック・ケイヴ&ザ・バッド・シーズによる新作アルバム『Wild God』は8月30日に発売されます。


「Long Dark Night」

Bob Dylan's 431-song, 27-CD box set to be released September 20; includes 1974 arena tour

©Barry Feinstein
フォーク・ロックの伝説、ボブ・ディランは、1974年のバンドとのアリーナ・ツアーを収めた27枚組の巨大ボックス・セットを発表した。

 

9月20日発売予定の『Bob Dylan - The 1974 Live Recordings』には、なんと431曲(うち417曲は未発表曲、133曲はオリジナルの16トラック・テープから新たにミックス)が収録され、ジャーナリストのエリザベス・ネルソンによるライナーノーツも付いている。日本の大手レコードショップでも販売される。

 

本日の発表では、1974年2月9日(土)にシアトルでライヴ録音された「Forever Young」のヴァージョンがリリースされる。試聴は以下から。


CDボックス・セットに加え、サード・マン・レコードは、ディランとザ・バンドのライヴ・アルバム『Before The Flood』のオリジナル・トラックリストに収録されていない1974年ツアーの全曲のヴァージョンを収録した3xLPレコード・ボックス・セット『The 1974 Live Recordings - The Missing Songs From Before The Flood』をリリースする。このセットは、サード・マンのサブスクリプション・シリーズ、ヴォールトを通じてのみ入手可能である。

 


「Forever Young」

 Lankum - Live In Dublin

Lankum-『Live In Dublin』

 

Label: Rough Trade

Release: 2024年6月21日

 


Review

 

 

昨年、ダブリンの四人組のフォークバンドLankumは、Rough Tradeから4作目のアルバム『False Lankum』を発表し、イギリス/アイルランド圏の最優秀アルバムを選ぶマーキュリー賞にノミネートされた。

 

昨年のアルバムに続いて発売されたライブ・アルバム『Live In Dublin』は、2023年のダブリン市街地にあるヴィッカー・ストリートでの三夜のソールドアウト公演の模様を収録。音源を聴くと分かるように、ライブパフォーマンスにこそ、Lankumの真価が垣間見える。ティンパニ(タム)、フィドル、ヴァイオリン、アイリッシュ・フルート、アコーディオン、キーボード、エレクトロニクス、ダラのボーカルを中心に構成される重厚感のあるコーラスワークは、ドローンのように響き渡る弦楽器の重低音に支えられるようにして、ダブリンの3つの夜の濃密な公演を生々しく活写している。

 

ダラ・リンチ、イアン・リンチ、コーマック・マクディアマーダ、ラディ・ビートの四人組は、故郷のライブのステージで他のいかなる会場よりも大胆な演奏をしている。もちろん、ステージでのMCに関しても遠慮会釈がなかったという。具体的な言及は控えておくが、アイルランドのルーツを誰よりも誇らしく思う四人組の勇姿が、この音源を通して手に取るように伝わって来る。

 

本作はあらためてバンドとしての結束力を顕著な形で示す内容である。弦楽器、ボーカル、リコーダー、パーカッション、別々に分離した場所から発せられる異なる音は、Lankumの手にかかると、一体感を帯び、リアリティのある音楽に組み上げられる。


ダブリンの四人組は、『False Lankum』において、中世のアイルランドの儀式音楽の古いスコアをもとにして親しみやすいフォークを制作した。が、彼らの音楽は必ずしもクラシックの範疇にとどまるわけではない。


彼らは、エレクトロニクス、ドローンという前衛主義の手法を通じて、新しい音楽をダブリンから出発させる。これは実は、かつてオノ・ヨーコのコミュニティに属していた日本の音楽家”YoshiWada”がニューヨークで自作のバクパイプを制作し、ドローンという音楽の技法を生み出した経緯、要するに、ドローン音楽がスコットランドのバグパイプから出発していると考えると、フォークバンドが通奏低音を活かしたパフォーマンスをすることは当然のことなのである。

 

ライブはポストパンクバンドのようなSEから始まる。本作の序盤は古典的なスタイルを図るアイルランドのフォークミュージックが続いている。


「The Wild River」が弦楽器の短いフレーズを何度も反復させ、ベース音を作り、哀愁のあるフレーズをダラ・リンチが紡ぐ。他のメンバーのコーラスワークが入ると、彼らにしか作り得ないスペシャリティが生み出され、短調のスケールを中心に構成されるアイルランドフォーク音楽の核心に迫る。


このアルバムのイントロには彼らの儀式音楽の性質が現れるが、その後、比較的聴きやすいフォークミュージック「The Young People」が続いている。アコースティックギター、フィドルの演奏とエレクトロニクスを織り交ぜ、古典的なニュアンスにモダンな印象を添えている。(イアン・リンチの)ボーカルは渋さと温かさがあり、ホームタウンへのノスタルジアを醸し出す。

 

「The Rocky to Road to Dublin」はイギリスの会場では演奏されたなかったらしく、アイルランドのルーツが最も色濃いナンバーだ。ボーカルの同音反復の多いフレーズと対比的に導入される弦楽器のドローンと組み合わされ、重厚な音響性が作り出される。男女混合のダブルボーカルは一貫して抑制が効いているが、同じ楽節や音階を積み重ねることによって、内側から放たれる熱狂的なエナジーを作り出す。ボーカルの合間に入る観客の歓声も、その場のボルテージを引き上げる。Lankumは、この曲で、音楽研究家がこれまであまり注目してこなかったフォークの「ドローン(通奏低音)」という要素をライブパフォーマンスという形で引き出そうとしている。そしてスタジオ・アルバムより、このグループの音楽の迫力がリアルに伝わってくるのが驚き。

 

Lankumは、一般的にはフォークバンドとして紹介されることが多いが、「The Pride Of Petravore」を聴くと、モダンな実験音楽を得意とするグループであることが分かる。特に、この曲ではダークなドローンを最新のエレクトロニクスで作り出し、ボウド・ギターを使用して前衛主義としての一面を見せる。


この曲は、間違いなく重要なハイライトとなり、また、Lankumは硬化しかけたイギリス圏の実験音楽シーンに容赦ない一石を投じている。 前衛的なエレクトロニクスとアイリッシュ・フルートの演奏の融合に続く、古典的なフォークミュージックへの移行は、バンドの可能性を拡大させると共に、表現形式をコンテンポラリー・クラシックへと敷衍させていることを示唆している。

 

アルバムは中盤のスリリングな展開を経て、その後、クールダウンともいうべき静謐なフォーク・ミュージックが続いている。「On A Monday Morning」はアコースティックギターの緩やかな弾き語りで、このライブアルバムの中では最も繊細かつ悲哀に充ちたフォークナンバーである。

 

あいにくのところ、アイルランドの歴史に関する知識を持ち合わせていないが、この曲は、同地の長きにわたる侵略の歴史、もしくはその悲しみへの悼みとも言うべきなのだろうか。しかし、その出発点となる悲しみとしてのフォークは、その後、明るく開けたような、やや爽快な音楽の印象に変わる。これは、背後に過ぎ去った過去を治癒するような神秘的な力が込められている。


「Go Dig My Grave」は『False Lankum』の収録曲で、バンジョーのような楽器の音響性を活かし、忘れられた時代、ないしは航海時代の中世ヨーロッパへのロマンチズムを示している。中世ヨーロッパの葬礼のための儀式音楽の再構成であるが、ライブになると、「土の音楽」ではなく、その先にある「海の音楽」に変わる。一貫して、弦のドローンの迫力ある音楽形式により構成されているが、このことはおそらく、中世のアイルランドの音楽が、海上交易を通じて、アルフォンソ国王が治世するスペイン王朝はもとより、イスラムやアラブ圏の文化と一連なりであったことを象徴づけている。


スコットランドとアイルランドの文化の中庸としてのフォークミュージック、セルティックの影響下にある「Hunting The Wren」も、ライブ・アルバムの重要なポイントを形成しているようだ。蛇腹楽器のアコーディオンの演奏を取り入れつつ、パブカルチャーを反映させたように感じられる。


ただ、ランカムの全般的な音楽はやはり単なる消費文化とは一線を画していて、中世から何世紀にもわたって継承される国民性や、その土地の持つ独特なスペシャリティがしたたかに反映されている。また、そこには、南欧のスペイン圏のジプシー音楽の持つ流浪(永住する土地を持たない民族)の息吹が内含されているようにも感じられる。


何らかの歴史が反映されているがゆえなのか、音楽そのものが概して安価にならず、淡い深みと哀愁を漂わせている。続く「Fugue」は、「The Pride Of Petravore」と同様、ドローン音楽としても圧巻である。ダブリンのフォークバンドの意外な一面を楽しめる。更にクローズ「Beer Cleek」では、舞踏音楽(ダンスミュージック)としてのアイルランド・フォークの醍醐味を堪能出来る。

 


88/100

 

 

Best Track - 「The Pride Of Petravore」