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Weekly Music Feature- GoGo Penguin

 


GoGo Peguinはイギリス、マンチェスター出身のインストゥルメンタル・トリオ。クリス・イリングワース(ピアノ)、ロブ・ターナー(ドラムス)、ニック・ブラッカ(ベース)という夢のようなラインナップに落ち着いたのは2013年のことだった。

 

それ以来、インスピレーションやオリジナリティの豊富さに対してことごとく称賛と絶賛を浴びてきた。 ジャズ、クラシック、エレクトロニックなどの影響と革新への渇望を融合させた彼らは、マーキュリー・プライズ・アルバム・オブ・ザ・イヤー(2014年)を受賞し、レコード、ライブでも成功を収めている。


ゴーゴー・ペンギンの音楽はカテゴライズを拒んできた。 彼らのサウンドには、スウェーデンのエスビョルン・スヴェンソン・トリオ(通称 EST)や、スティーヴ・ライヒ、ジョン・アダムス、さらにはエリック・サティのような、ミニマル・クラシックの作曲家のような、ジャズにおける昨日の発展の痕跡が見て取れるだろう。 エイフェックス・ツインやカール・クレイグのインナーゾーン・オーケストラといった希薄なテクノから、ヨーロッパ・ハウスのエモーショナルなメロディとクレッシェンド、そしてジャズを取り入れたドラムンベースを網羅している。 


2014年のアルバム『v2.0』で栄誉あるマーキュリー賞にノミネートされた後、クリス、ニック、ロブの3人は、多忙なツアーと両立させながら作曲とレコーディングを進めた2枚のアルバムで音楽的な絆を固め、懸命に働いた。 4枚目のアルバム『GoGo Penguin』(『Man Made Object』、『A Humdrum Star』に続き、伝説のレーベル、ブルーノートからリリースされた3枚目)では、ジェットコースターから飛び降り、2019年の活動時間の大半を自分たちの音楽の限界に挑戦した。


クリス・イリングワースはピアニスト、作曲家であり、マンチェスターのアコースティック・エレクトロニカ・バンド、ゴーゴー・ペンギンの創設メンバー。 ロイヤル・ノーザン・カレッジ・オブ・ミュージックで学び、2007年にBMus(優等学位)とPostgraduate Diploma in Performanceを取得。 幼い頃からクラシックからインダストリアルまで幅広い音楽を愛し、特にエレクトロニカとエスビョルン・スヴェンソン・トリオのジャンルを超えたユニークな音楽に惹かれてきた。 


12歳で初めてピアノ/ベース/ドラムのトリオを結成し、同時期にエレクトロニック・ミュージックの実験を始め、アコースティックピアノと並行してアタリSTとローランドMC307で作曲を行った。 長年、クラシック・ピアニストとして活動してきたが、他のミュージシャンとのコラボレーションやバンドでの演奏において本領を遺憾なく発揮している。クリスは、GoGo Penguinでは5枚のアルバム、1枚のスタジオEP、2枚のライブEPに参加している。 2019年、クリスはロビン・リチャーズ(Dutch Uncles)と映画「The Earth Asleep」のスコアで共演した。


ニック・ブラッカはベーシスト兼作曲家でリーズ音楽大学で学び、ジャズ研究の優等学士号を取得している。GoGo Penguinに参加する以前、ニックはマンチェスターのシーンで需要の多いベーシストとして、イギリスとヨーロッパで定期的に演奏して、エレクトロニック・プロデューサーでDJのAimのライブ・ベーシストとして活躍。 "クロスオーバー "ベーシストとしての評価を得てきた彼は、パワフルでグルーヴを重視したスタイルのコントラバス演奏で知られ、楽器の限界を押し広げている。 GoGo Penguinでは、4枚のアルバム、1枚のEP、2枚のライブEPに参加している。


バンドのセカンド・アルバム『v2.0』は2014年のマーキュリー・ミュージック・プライズの最終候補に残った。 2015年、バンドはゴッドフリー・レジオ監督のカルト・クラシック映画「Koyaanisqatsi」のオルタナティブ・スコアを作曲し、ヨーロッパと北米で映画とともにライブを行った。 2021年、ゴーゴー・ペンギンはフランスのインディペンデント映画「メメント・モリ」のサウンドトラックを作曲した。


ニュー・アルバム『Necessary Fictions』はモジュラー・シンセ、ムーグ・グランドマザー、エレクトリック・ベースをこれまで以上にサウンドに取り入れ、アコースティック楽器からドラムを前面に押し出したエレクトロニカへと華麗に滑空する。内部探索に関するアルバムであり、「現時点で私たちが考える私たちの不可欠な本物の資質」を見つけるために深く掘り下げていると説明する。


イリングワースは、彼らはすでに将来について考えており、次に何を作るかについて自信と興奮を持っていると説明している。それはこのアルバムを聞けば火を見るより明らかだ。「スタジオで作っている間、たくさん笑っていたことに気づいていました。そして今、それについて考えるだけで笑っています。そういった明るいエネルギーが人々に伝わることを願っています」



 『Necessary Fictions」 - XXIM/Sony Music


 

ジャズの大まかな歴史は、そのまま”音楽における冒険と革新”に求められるのではないだろうか。ニューヨークのジョージ・ガーシュウィン、アメリカ南部のビッグ・バンドに始まり、ビバップ、モード、フリージャズ、エレクトロ・ジャズ、さらにはエスニック・ジャズ、スピリチュアル・ジャズ/アンビエント・ジャズ等、例を挙げればきりがないが、常に先人のジャズプレイヤーは、各々のタレントをいかんなく発揮することで、音楽の未知なる境地を切り拓いてきた。 


そのクロスオーバーは、近年ではジャズに留まることなく、ヒップホップ/ネオソウルにまで及ぶ。そもそもジャズという音楽形態は、他のジャンルとの融合によって進化しつづけてきたとも言えよう。ジャズの萌芽は、明らかに、フランスの印象主義の作曲家、ラヴェル、ドビュッシー、ストラヴィンスキー、そして彼らをアカデミズムの側面で導いたガブリエル・フォーレに、ジャズの和声法の原点が見いだせる。また、ジャズのコールアンドレスポンスやモードなどのcompositionに見受けられるように、ポリフォニックな音の構成がジャズの基礎になってきた。

 

結局、音楽の始まりが、教会旋法やグレゴリオ聖歌に見いだせるポリフォニーのストラクチャーから誕生したように、和声法の基礎である縦方向の音の構成ではなく、横や斜め方向の音の構成が複数の楽器や多声部旋律により成立したという経緯がある。最初の集大成は、JSバッハとモーツァルトであり、現代のジャズのポリフォニックな響きの原点は、二人の大家の器楽曲に見いだせるはずだ。


そもそも、横の音の流れ、専門的に言えば、和声の分散和音を繋げる役割を司る経過音が滑らかに流れていかなければ、音楽的な優美さが希薄になるのは明白である。より一般的に言えば、もし、ヘヴィメタルに美しく陶酔させるようなギターソロがなければ無味乾燥に陥ってしまうのと同じなのだ。作曲や楽曲構成の基本として言えば、跳躍する音階は非常に例外的で、歌にしても、器楽的な効果にしても、ここぞというときにとっておかないとあまり効果がない。

 

ゴーゴー・ペンギンはペンギン・カフェ・オーケストラを連想させるプロジェクト名であるが、実際的にはアート志向の音楽という共通点は求められるにせよ、クロスオーバージャズを旗印に活動する三人組である。


トリオの演奏力はきわめて高く、どのような音楽を演奏で実現するのか明確に見定め、各々が他者の意図を見事に汲み取り、上記のポリフォニックな音の構成により、イマジネーション豊かな音楽が構築される。鍵盤奏者、ウッドベース(コントラバス)、ドラムという必要最低限のアンサンブルであるが、室内楽アンサンブルのような洗練された質の高い演奏力を誇る。しかも、クリス、ロブ、ニックの三者の演奏者は、器楽的な特性を十分に把握した上で、 それぞれの個性的な音を強調させたり、また、それとは対象的に弱めたりしながら、聞き応えのあるアンサンブルを築き上げる。

 

『Necessary Fictions』は、まるで彼らのライブレコーディングを垣間見るかのようにリアルに聞こえ、そして、現代的なレコーディングの主流であるツギハギだらけのパッチワーク作品とは異なる。録音のシークエンスは断続的で、48分という分厚い構成であるが、一気呵成に聞かせてくれる頼もしい作品だ。このアルバムは、テクノ、ジャズ、ロック、どのようなジャンルのファンですら唸らせるものがある。そして、シンセ(ピアノ)、ベース、ドラムが全編で心地良い響きをもたらしている。ゴーゴー・ペンギンは、客観的あるいは批評的な視点を持っていて、それが余計な音を徹底的に削ぎ落とすというミニマリズムの本質へと繋がっている。ミニマリズムの本質とは、音の飽和にあるのではなく、音の簡素化や省略化にもとめられるというワケなのだ。

 

アルバムのもう一つのトレードマークになっているのが、マンチェスターの実在の構造物をあしらったアートワークである。無機質であるが、機能的、デザインとしてもきわめて洗練されたアルバムジャケットは、ゴーゴー・ペンギンのジャズ、あるいは、テクノのイディオムと共鳴するような働きをなしている。また、そこにはドイツ/ドゥッセルドルフのような電子音楽の重要拠点と同じように、工業都市であるマンチェスターの現在と未来を暗示しているのである。


また、マンチェスター国際フェスティバルの開催を見ても分かるとおり、この由緒ある赤レンガの目立つ素晴らしい港湾都市は、新たなアート形態の発信地になっている。音と映像を融合させたイベントも開催され、リベラルアーツを手厚く支援する土壌が整備されている。例えば、Gondwanaのマシュー・ハルソールは、当該都市の象徴的なミュージシャンである。この動きを中心として、近年になく、マンチェスターはジャズが賑わいを見せているという印象である。

 

 

『Necessary Fictions』は、シンプルにいうと、テクノ、ハウス、ジャズ、ロック、クラシックをクロスオーバーしている。ただ、本作の聴きどころは、ジャンルの確認にあるわけではなく、クロスオーバー・ジャズの一般化にあるわけでもない。伝統的なジャズ・トリオにより生み出される複合的なリズム、ポリフォニックな音の構成の巧緻さ、それから次に何が起こるか全く予測できないスリリングな響きにある。そしてそれは、精細感のあるリアルな音のうねりーーアシッド的なグルーヴーーを生成するのである。アルバムの冒頭からそういった個性が溢れ出す。

 

「1-Umbra」は、ミニマル・テクノを下地にし、シンセベース/シンセリード、ウッドベース、ドラムという三つの楽器がそれぞれ異なる拍子のリズムを刻み、複合的な変拍子を作り出している。


アルバムの序盤では、スティーヴ・ライヒのリズムの革新性やアダムスの旋律的な実験性を受け継いだミニマル・ジャズが繰り広げられる。この曲では、ウッドベースが同じ分散和音を演奏し、そのベース音に対し、パルス音やアルペジエーターのようなシンセの演奏を組み合わせることにより、音の調和や印象が少しずつ変化していく。これらは、Four Tet、Ketttelが好んで使用するようなピアノとシンセの中間にある音色が活用され、それらがシーケンサーのようなリズムのクラスターを作り上げることにより、緻密で入り組んだストラクチャーが生み出される。


一分台からドラムのフィルが入り、アンサンブルやインプロバイゼーションの性質が強まる。しかし、一番面白いのは、強拍や弱拍がドラムの演奏の強弱によって変化するように感じられることだろう。そして、再生時間ごとに異なる和声を作り上げ、レディオヘッドのエジプト音楽のようなエキゾチックなスケールを描きながら、曲の後半に向かっていく。音のアグレッシブな動きや構成の積み重ねは、アイスランドのKiasmosに近い趣向である。これらの音のブロックを建築物のように、ゴーゴー・ペンギンは強固なアンサンブルによって、辛抱強く組み立てていく。



「Umbra」

 

 


「2-Followfield Loops」もまたミニマル・テクノをベースに構築されている。ヨーロッパのダンスミュージックに触発され、全般的に見ると、Kiasmosのタイプの曲を選択し、エモーショナルなテクノを制作している。シンセでミニマルなフレーズを反復させるという点では、一曲目と同様であるが、この曲では、ウッドベースが和声的な構成を補佐している。流れるようにスムーズなシンセピアノの演奏に対して、カラフルな表情付けをしているのがコントラバスである。 


そして、ピアノの音色を途中からアコースティックに変えたりというように、楽曲のストラクチャーの中で、器楽的な効果を変化させながら、音楽の印象を少しずつ変化させていく。驚くべきことに、これらはコンピューター・グラフィックにおける色彩的なグラデーションの変化のような印象を及ぼす。同時に、音楽としては、理数的な構成であるため、涼し気な音響効果をもたらす。これらは感情と理知のバランスが整っているからこそ生じうる冷却効果なのである。


スケールという観点から見ると、エイフェックス・ツインが頻繁に使用するスケールが利用されている。これらは、ロック的な音楽を電子音楽からどのように再構築するかの一つの過程でもあった。そして、ゴーゴー・ペンギンの場合、生のドラムとコントラバスの演奏を通じて、プログレッシヴロック/ポストロックの性質を強める。ドラムやコンバスの演奏により、曲の持つ強度が強まったり、弱められたりと、音楽的なグラデーションが多彩に散りばめられている。

 

 

「3-Forgive The Damages(Feat. Daudi Matsiko) 」はインスト曲だけでは寂しいという方におすすめ。ウガンダ出身のフォークアーティストをゲストボーカルに招聘している。フォーク、ネオソウル風のバラードソングは、Samphaの楽曲に近い素晴らしさがある。この曲のダウディのボーカルは心に染みるものがある。無論、曲の後半で登場するコーラスも美麗なハーモニーを形成していて、胸を打ち、痛ましい魂を治癒するような効果をもつ。ボーカルがウッドベースやシンセピアノの演奏と呼応するような形で、ロックの印象を擁する曲へ徐々に変化していく。ロック的な効果を担うのがドラムの演奏で、曲全体にダイナミズムを付与している。リリック的には、"何もしない時間を大切に"という重要なリリックが織り交ぜられているようだ。これらの鋭い客観的な批評精神は、ゴーゴー・ペンギンの音楽に緩やかさと奥行きをもたらしている。


 

 「Forgive The Damages(Feat. Daudi Matsiko) 」

 

 

さらに、アルバムの中盤以降はモジュラー・シンセの演奏を上手く活用した楽曲が多くなる。これらはイギリス/EUのダンスミュージックの集大成のような意味合いが込められている。また、ジャズとダンス・ミュージックの融合の可能性を探求している。


「4-What We Are And What We Are Mean To Be」は、ディープ・ハウスの打ち込みの重厚感のあるキック音で始まり、ジャズトリオの伝統を活かし、多彩な音楽的な変遷を描く。ウッドベースがソロの立場を担い、次にピアノ、さらにドラムへと、ソロの受け渡しが行われる。ニックのベースの演奏は背景となるアンビエントのシークエンスと重なり、エレクトロジャズの先鋒とも言える曲が作り上げられる。Kiasmos、Jaga Jazzist、Tychoを彷彿とさせる、見事な音の運びにより、圧巻の演奏が繰り広げられる。 曲の中盤以降は、オランダのKettelの系統にあるプリズムのように澄んだシンセピアノの音色を中心に、プログレッシヴ・ジャズのアンサンブルが綿密に構築される。物語の基本である起承転結のように、音楽そのものが次のシークエンスへとスムーズに転回していく効果については、このジャズトリオの演奏力の賜物と言えるかもしれない。

 

「5- Background Hiss Reminds Me of Rain」は短いムーブメントで、電子音楽に拠る間奏曲である。エイフェックス・ツインの『Ambient Works』の系譜にあるトラックである。この曲では、改めてモジュラーシンセの流動的な音のうねりを活かし、それらを雨音を模したサンプリングーーホワイトノイズーーとリンクさせている。クールダウンのための休止を挟んだ後、滑らかなシンセピアノのパッセージが華麗に始まる。「6-The Turn With」は前曲のオマージュを受け継ぎ、エイフェックス・ツインの電子音楽をモダンジャズの側面から再構築しようという意図である。


この曲ではジャズのスケールが頻繁に使用される。ポリフォニックな動きを見せるウッドベースに対し、モノフォニックという側面で良い効果を与えている。特に鍵盤奏者のクリスは色彩的な和声を構築し、音楽に清涼感をもたらす。ドラムの裏拍を重視した演奏も旋律的な曲にグルーヴを与えている。ダンサンブルな曲としてはもちろんだが、メロディアスな曲としても楽しめる。その点では、IDM/EDMの中間に位置づけられ、その境界を曖昧にする一曲。インドアでも、アウトドアでもシチュエーションを選ばずに楽しめる楽曲となっている。


前曲で予兆的に登場したアシッドハウス/ディープハウス、ドラムンベースやダブステップの要素を、ジャズの生演奏から再構築するという視点は、本作の終盤の曲を聞く際に見過ごせない。それは音楽のどの箇所を捉えるのかという側面で大きな変化が生じ、聴き方すら変わってくるからである。


例えば、「7-Living Bricks In Dead Morter」は、スネア/タムのディレイ等のダブ的な効果をドラムの生演奏で再現し、ダイナミズムを作り出す。この曲のドラムは、チューニングや叩き方の細かなニュアンスにより、音の印象が著しく変化することを改めて意識付ける。また、アンビエントや実験音楽の祖であるエリック・サティの『ジムノペティ』のような近代のフランス楽派のセンス溢れる和声法(主音【トニック】に対する11、13、15度以降の音階を重ねる和声法、ジャズ和声の基礎となった)を用い、クラシックとジャズ、ミニマル・テクノの中間点を作り、同心円を描くような多彩なニュアンスを持つ音楽が繰り広げられる。この曲は、次の曲「Naga Ghost」と並んで、エレクトロニックの歴代の名曲と見ても、それほど違和感がないかもしれない。

 

「8-Naga Ghost」は、ダブステップやドラムンベース、フューチャーベースのカリブ音楽に根ざした裏拍のリズムを活かし、未来志向のエレクトロニックを構築している。ドラムは、リムショットのような演奏をもとに、跳ねるようなリズムを生み出し、それらがミニマル・テクノの範疇にあるシンセピアノと呼応する形で続いている。こういった曲は、ノルウェージャズのようなエレクトロニックとジャズのクロスオーバーと共鳴している。また、その一方、ジャズの持つ本質的な意義が、時代とともに変容しつつあるのではないかと思わせる。つまり、古典的なジャズというのは、今やポピュラーの領域に入りつつあり、ジャズそのものが、ヒップホップと同じように、別の形態の音楽に変わりつつあるのを感じるのである。もちろん、伝統的なジャズを伝えるミュージシャンもなくてはならない存在であることを確認した上で。

 

 

クロスオーバーの総仕上げとなるのがクラシック音楽である。「9-Luminous Giants」において、コラボレーター、マンチェスターコレクティヴ、そしてバイオリニスト、Rakhi Singh(ラヒ・シン)が音楽にドラマティックな息吹を吹き込む。ロック調の楽曲にストリングスを加えるというのは、テクノやジャズを軽々と越え、ポストロックとしても親しまれているのは周知の通りだ。


こういった曲を聞くかぎり、どのような単体のジャンルの音楽も完全に独立したものとはなり得ず、音楽の中心に傾倒し、音楽における一体化という概念に吸収されつつあるというのが実情である。「音楽のクラウド化」という表現が相応しい。この曲の場合、ダンスミュージックの楽曲に、バイオリンのレガートが伸びやかさという側面で華麗な印象を添えている。また、これは、ポスト・クラシカル/モダン・クラシカルの動向とも連動して制作された楽曲であろう。 

 

先にも述べたように、ジャズという音楽形態は、いつも冒険と革新と隣り合わせであり、前例のないものとの邂逅でもある。また、翻って言えば、それらの性質なくしてジャズは成立しえない。模倣に終始するのではなく、先人の知恵を活かして、次に何を生み出すというのか。間違いなく、これは現代のミュージシャンや音楽の分野における至上命題となるだろう。このアルバムの場合でも、''新しいものへの飽くなき挑戦''というテーマが掲げられている。それはアルバムの終盤においても変わらず、主軸を定めることなく、ゴーゴー・ペンギンの音楽のバリエーションを象徴付けるかのように、音楽そのものが幅広くなり、そして広汎になり、大きく素早く転回していく。

 

 

「10-Float」では、2000年以降のグリッチ/ミニマル・テクノの音楽性を踏まえ、Max/Abletonで生成したようなサウンド・デザインの要素が強調付けられる。''その音楽が、どこでどのように聞かれるのか?''という重要な命題に対するチャレンジである。そしてその飽くなき冒険心は、このアルバムの最後の最後まで貫かれ、さらにその中枢を形成するコアを作り上げる。


「11-State Of Fruit」では、ジャズ・アンサンブルとしての真骨頂を、音源という形で収めている。この曲では、Killing Jokeの時代から受け継がれる、英国の音楽の重要な主題である"リズムの革新性"をアンサンブルの観点から探求していく。シンセピアノの色彩的なアルペジオ、対旋律としての役割を持つウッドベース、それらに力学的な効果を与えるドラム。全てが完璧な構成である。


こういった一貫して聴き応えのある曲を集中性を維持して提供した上で、音楽の核心を示すのが、ゴーゴー・ペンギンの卓越性である。


「12-Silence Speaks」は、1990年代-2000年代初頭のエレクトロニックと同じように、 未来への期待や希望をほのかに感じさせる。この曲を聴いていて漠然とおぼえる謂れのないワクワク感。これこそエレクトロニックの醍醐味である。そして曲の中盤からは、ジャズ・アンサンブルの性質が再度強まり、映画的でドラマティックなエンディングが続く。これはトリオの中にシネマミュージックに精通した作曲家がいるからこそ成しうる試みなのだろう。(『メメント・モリ』のサウンドトラックを参照しよう)


この曲を聴いていてつくづく思うのは、音楽家のテクノロジーへの憧憬が未来への漠然とした明るい希望を示唆している。そこには、「人類とテクノロジーの共存」という次世代のテーマが明確に内包されていると推測する。それは主従関係で築き上げられるのではなく、人類とテクノロジーが、自然との調和のごとく、私達の世界に併立しているということである。アルバムのクローズ「Silence Speaks」は、本当に賞賛すべき曲で、シンセサイザーにとどまらず、ギター、ピアノ、ベース、ドラム、そういったすべての楽器を最初に触った瞬間のような輝かしい感動に満ちあふれている。


驚異的なことを、さも当たり前のようにこなすのがプロフェッショナリティであるとするなら、それはゴーゴー・ペンギンのためにある定義だろう。彼らの音楽は卓越したスポーツのプレーのようで、また、高度な知性に裏打ちされたアート形態のようでもある。本作は、音楽の持つ奥深さを体感するのにうってつけの作品となっている。音楽というリベラルアーツの一形態そのものが、本来は高度な知性主義によって成立していることをご理解していただけると思う。

 

 

  

94/100 

 

 

 

「Silence Speaks」

 

 

▪GoGo Penguinのニューアルバム『Necessary Fictions』はXXIM/Sony Musicから本日発売。アルバムのストリーミングはこちら

 

ニューカッスルのルース・リヨンは、社会規範に挑戦し、自己受容とエンパワーメントへの旅に火をつけながら、弱さの中の強さと不完全さの魅力を讃える。フィオナ・アップル、オルダス・ハーディング、レジーナ・スペクターなどの影響を受けた彼女のソウルフルなボーカルと、ウィットに富みながらも生々しいリリックが奏でるオフビートなアンチフォークが、すべてを解きほぐす。


リヨンはノース・ヨークシャーで育ち、ファッション・デザインを学ぶためにニューカッスル/アポン・タインに移り住んだ。その間、カルト的人気を誇るフォーク・ロック・バンド、ホーリー・モリ&ザ・クラッカーズの前座を務め、イギリスとヨーロッパを精力的にツアーした。


2020年、グラスハウスのアーティスト・イン・レジデンスに招かれ、ソロ活動を開始。その後すぐにロックダウンが訪れ、彼女は遮蔽物に囲まれながら、ベッドルームでゆっくりと新しい音楽的アイデンティティを築いていった。前作『Direct Debit To Vogue』(2022年)では、PJハーヴェイ、オルダス・ハーディング、ディス・イズ・ザ・キットを手掛けたブリストルのプロデューサー、ジョン・パリッシュとコラボレートした。


もうひとつの重要なインスピレーションは、リヨンが2022年3月のSXSW TXでアメリカデビューを果たしたときにもたらされた。彼女は、オーストラリアとアメリカの障害者アーティスト、イライザ・ハルとラチとともにパネルに登壇し、ショーケースでパフォーマンスを披露した。ここで彼女は、コミュニティとアクセシビリティに関するまったく新しい視点を聞き、仲間のアーティストたちが自らの経験を語るパフォーマンスを目の当たりにして、深く感動した。「私にとっては、ほとんどスピリチュアルなことのようでした。帰ってきて、このキャリアは自分自身よりもずっと大きなものだと気づいた。自分には、このキャリアをできる限り押し進め、できる限り正直になる義務があると思う」


帰国後、彼女はこのことを一気に書き上げ、自分の本物の声への新たなコミットメントとともに『Direct Debit To Vogue』を完成させた。彼女は言う。「腹にパンチを入れるような音楽の感覚を呼び起こしたかった」


リリース以来、リヨンはPRS Women Make Musicなどから賞賛を受け、BBC Radio 1と6 Musicからオンエアされ、グレート・エスケープ、ラティテュード・フェスティバル、シークレット・ガーデン・パーティー、グリーンベルト、グラストンベリーにも招待されている。2025年リリースのデビュー・アルバムを再びジョン・パリッシュとレコーディングし、アビー・ロードでBBCの独占ライブ・セッションを収録した。


長年にわたり、リヨンはニューカッスルの音楽シーンの重要かつ活発なメンバーとしての地位を確立してきた。「ニューカッスルにはあまり産業がないため、成功するにはロンドンに移らなければならないように感じることもある。しかし、私は、私たちが北部で成功し、良い芸術を作ることができるように、それを作ろうとしているミュージシャンを本当に誇りに思っています」


デビュー・アルバム『ポエム&ノンフィクション』は、繊細さと力強さのバランスを保った芸術性で、深く喚起させる物語と力強い瞑想を織り成すパワフルなライターの道標。 障害を持つ女性としての体験と、生涯にわたる他者意識によって鍛えられた彼女は、存在の美しい混乱を探求し、社会規範に挑戦し、自己受容、エンパワーメント、そしておそらく最も重要な希望への旅に火をつける。「これらの歌に込められた生々しい正直さに自分でも驚いている、これらの物語が癒しと成長を促してくれることを願っています」


高名なプロデューサー、ジョン・パリッシュ(pjハーヴェイ、オルダス・ハーディング)と仕事をし、エイドリアン・レンカー、フィオナ・アップル、ムーンドッグといったアーティストの影響を受けたこの曲は、詩的なニュアンスに富み、若い人生を力強く生きた型破りな洞察力に満ちている。抽象的、原型的、そして赤裸々な真実の間を揺れ動きながら、表面下の意味を掬い出す。


ニューヨーク・シティ・ホールでのダニー・アワード受賞、ブライトンのグレート・エスケープ・インターナショナル・ショーケース、グラストンベリー・フェスティバルなど、世界各地でコンサートを行い、pplモメンタメンタントグラグラントを受賞、パワーにも選出された。



『Poems & Non-Fiction』のリードシングルは、寓話的なオマージュであり、単に『Books』と呼ばれている。 "ベッドのそばに本の山があるの "と歌う彼女は、"フォントや色に感心するけど、私は読まないわ "と告白する。


複雑な構造レベルではあるが、音楽自体が見事に実現されている一方、その巧みなメタファーには現地の評論家も息を巻くほど。 「私と本との関係は難しい。 読書は本当に疲れるものだけど、本は大好き。でも、詩はもっと直感的な体験で、書かれた言葉にもっと親しみやすい方法として好きなんだ。 私は詩をたくさん書くけれど、旅行もたくさんするし、海で泳ぐのも好きだし、ガーデニングも好きだし、鳥や自然も好き。これらの断片を集めて、リズムやメロディーを考え出し、それにどんな詩が合うかを考える。 かなりカオスなプロセスになってしまう」


アルバムのプロデュースはジョン・パリッシュ(PJハーヴェイ、オルダス・ハーディング)。 「ジョンは世界一忍耐強い男で、決してノーとは言わない! アルバムには奇妙な音がたくさん入っているけど、それはジョンが私にいろいろと試させてくれた。 彼は私の音楽的解釈者のようなもの。 作曲は、話すことではなかなかできない自己表現の方法として使っている。 しゃべるのは好きなのだけど、しゃべりすぎると大きなノイズのようになってしまうことがあるので」


「このアルバムは2023年にレコーディングしたんだけど、1年かけて自分のことをどれだけ詰め込めるか考えたの。 抽象的だけど、正直で本物。 抽象的な表現を使っているのは、聴き手の解釈の余地を残しておきたかったから。 私のこと、私の人生、私の人生経験を知る必要はないし、もちろん、私の友人である必要もない。 ただ、私が望むのは、私のことを少しでも知ってもらうことです。人々が自分の物語や感情を織り込んで、自分に語りかける部分とつながることができるように、十分な余白を残しておきたかった。聴く人に何かを語りかけてくれることを願っています。 私は、個人的で抽象的で、何かを感じさせてくれる音楽の方が好きなんです」




Ruth Lyon 『Poems & Non Fiction』 -Pink Lane



ルース・リヨンによる記念すべきデビュー・アルバム『Poem & Non Fiction』は、大人のためのポップスといえる。このアルバムで、ニューキャッスルのSSWは、表側には出せないため息のような感覚を、アンニュイなポピュラーソングにより発露している。BBC Radioからプッシュを受けるルース・リヨン。世界的にはシンガーソングライターとしての全容は明らかになっていない。しかし、幸運にもグラストンベリーフェスティバルで彼女の姿を目撃した方もいるはずだ。


デビューアルバムは、PJハーヴェイ、フィオナ・アップル、オルダス・ハーディングの系統に属する女性シンガーらしい、本音を巧妙に隠したアルバムである。リヨンは上記の著名なシンガーと同様、メインストリームではなく、そしてアンダーグラウンドでもない、その中間層の音楽を探求している。

 

正直言えば、少し地味なポピュラーアルバムかもしれないと思った。ただ、どちらかといえば、聴けば聴くほどに、その本質がにじみ出てくる。リヨンは人間的な感覚を渋いポップソングで体現させる。アルバムは、全般的にマイナー調の曲が多く、そのボーカルはほのかなペーソスを感じさせる。そして、時々、ヨーロッパのテイストを漂わせるフォークロックを聞かせてくれるという点では、ラフ・トレードに所属するフランスのシンガー、This Is The Kit(それは時々、実験的な音楽性に近づく場合もある)を思い出す方もいらっしゃるかもしれない。ルース・リヨンはリリックに関して、ストレートな言葉を避け、出来る限り抽象的な言葉を選んでいる。それが言葉に奥行きをもたせることは言うまでもない。

 

アルバムの冒頭曲「Artist」はピアノの演奏で始まり、ソフトな歌声が続いている。ビリー・ジョエルの系譜にある標準的なピアノバラード。曲の背景に薄いビートを反復させ、ドラム、ギターや アコーディオンのような音色を絡めながら、ルース・リヨンの歌声が浮かび上がってくる。しかし、その中には理想的な自己像と対象的に、現実的な自己像の間に揺れ動きながら、その理想的な姿に恋い焦がれるようなアーティストの姿を見いだせる。それらは儚く、切ないような感覚を表現する。ただ意図してそうしているわけではないと思う。二つのボーカルを登場させ、それらの自己のアイデンティティの暗喩的な存在として音楽の中をゆらゆら揺れ動いていく。まるで外的な環境に左右される自己像をバラードソングとして体現させたかのようである。

 

承前という言葉がふさわしく、『Poem& Non Fiction」は前の曲の作風を受け継いだ「Wickerman」が続く。同じようなタイプの曲で籠もった音色を生かしたピアノ、そしてアンサンブルの性質が強いドラムを中心に構成される。しかし、この曲の方がブルージーな味わいを感じさせる。人生の渋みといっては少し語弊があるかもしれない。ところが、この曲全般に漂う、孤独感や疎外感といった感覚は、イギリスの若い人々に共鳴するエモーションがあるのではないかと思う。ルース・リヨンのソングライティングは、まるでモラトリアムのような感覚を持って空間をさまよい、しばらくすると、その長いため息のようなものがいつの間にか消えている。彼女の歌声はブルース風のギターによって、そのムードがよりリアリティ溢れるものになる。そして、この曲でも、メインとコーラスという二つの声が二つの内的な声の反映となっている。

 

 

「Books」は、私は詳しくないが、ケイト・ブッシュの往年の楽曲に近いという評判。シンガーのやるせない思い、そして嫉妬の感情が淡くゆらめく。 ルース・リヨンは、この曲において、日常的な生活を日記のように描き、その中で内側の悶々とした思いを、憂いのあるフォークロックに乗せて歌いあげる。曲の途中に薄くアレンジで導入されるストリングス、それはシンガーの内側に隠された涙、そして、憂いのムードを引き上げるような働きをなす。そして一般的な人々に対するジェラシーのような感覚が自然な形であふれでてくるのである。


一方、続く「Perfect」は、そういった憂いの領域から抜け出し、軽快な心境に至る道筋をつなげる。簡潔な3分のポップソングは、ゆったりとしたアルバムの冒頭の二曲とはきわめて対象的に、シンセポップのような軽快な軽やかさを持ち、聴覚をとらえる。

 

 

 「Perfect」

 

 

 

ルース・リヨンは、バロックポップの曲を書くこともある。「Hill」は、歌詞が秀逸であり、聖なる亡霊が登場する。実際的な現実性を描いたものなのか、それとも、純粋な幻想性を盛り込んだものなのか。この曲は、ベス・ギボンズのソングライティングのように情景的な音楽を孕んでいる。エレクトリック・ピアノも用いて、バロックポップのゆったりとしたリズムを作り出した上で、その構成の中でフォーク・ロックともブルースとも付かないアンニュイなUKポップソングを歌い上げる。古典的なイギリスの詩からの影響は、幻想性と現実性の合間を揺れ動き、文学的な枠組みを作り出す。丘の幽霊というモチーフはまさしく英国文学の重要な主題の一と言えるだろう。

 

ニューヨークの伝説的なミュージシャン、Moondogの系統にある曲もある。20世紀初頭のアウトサイダージャズ、そしてジプシー音楽のようなストリートミュージックの発祥を、現代的なポップソングとして再訪している。「Confetti」は明確なイントロを設け、一度休符を挟んでから曲が始まる。その後、サックスフォンのソロを挟み、リヨンは音程をぼかし、スポークンワードに近い淡々とした歌を歌う。しかし、卒のない感じがスムース・ジャズのような音楽性を作り出し、肩で風を切って歩くようなかっこいい感覚を生み出す。金管楽器のハーモニーがジャズの雰囲気を作り出すという点では、ビッグバンドふうのジャズバラードとして聴くことが出来るはずである。


続く「Caesar」は「Hill」と同じようにバロックポップタイプだが、この曲はよりイエイエに近いボーカルスタイルが選ばれ、どちらかといえばセルジュ・ゲンスブールの往年のソングライティングを彷彿とさせる。

 

このアルバムは、まるで日めくりカレンダーのように、収録曲がある日の出来事の反映となっているような気がする。そして結局、曲を書いたのは、だいぶ後になってからだと思われる。いわば''後日談''のような音楽になっている。 アルバムの冒頭では、やや淡白なソングライティングになってしまっているが、中盤から後半に至ると、音楽的なムードがかなり深い領域に達する。


「November」ではインドのシタール、あるいは、ドイツのZitherのようなフォルテピアノの制作のヒントになったヨーロッパの古典的な音色を活かす。その時、持ち前のマイナー調を中心とする憂いのあるソングライティングが変質し、単なる暗鬱とは異なる硬質な感情性が音楽に転移していく。いわば映画のサントラのムードを持つ雰囲気たっぷりの音楽へと変化するのである。この曲は、他の曲に比べて力強さがあり、本作のハイライトとも呼ぶべきだ。ビートルズの最初期のマイナー調の曲、あるいはフロイドの「Echoes」の楽曲に近づく。

 

現時点のソングライティングの問題は、音楽全体の曲風がステレオタイプに陥る場合があるということである。しかし、それすらも見方を変えれば、現在のアーティストのスペシャリティとも言えるかもしれない。その音楽的な性質の連続は、アシッドハウスのごとき全般的な循環性を生み出す。もちろん、それはEDMではなく、ポピュラーソングとしての話であるが......。


「Cover」は、フィオナ・アップル、ハーヴェイのようなシンガーの音楽性を彷彿とさせ、やはりムーンドッグタイプの金管楽器の室内楽のような趣を持つアレンジメントがリズミカルな効果を及ぼしている。他の曲と同じタイプであるが、アウトロの部分で聞かせるものがあり、瞑想的な感覚に至る。ジョン・レノンのソロアルバムのバラードソングと同じような典型的な終止形を用いて、深い感覚を呼び覚ますのである。

 

アルバムの中で最も悲しく、しかし、最も心を揺さぶられるのが「Weather」である。まるでこの曲は、絶望の淵にいるアーティスト(仮託された他者のことを歌う場合もあるかもしれない)と天候がリンクするように、まるで終わりのない深い霧や靄の中を歩くような茫漠とした感覚が歌われる。


哀感のあるエレクトリック・ピアノの演奏、その悲しみを引き立てるようなストリングス(Violinのレガートを中心にCelloのピチカートも入る)、しかし、そういった悲しみに飲まれまいとするシンガーの歌声が、都会の雑踏で知られざる生活を送るシンガーソングライターの写し身になっている。それがシンガー自身が述べているように、リアリティがあるがゆえ、心を揺さぶるものがある。しかし、その悲しみと涙を飲み干すように、アルバムのクローズでは再び活力を取り直す。「Seasons」ではまたひとつ季節が一巡りし、再びゆっくりと前に進んでいく人間のたくましさが歌われる。

 

 

 

82/100

 

 

「Books」

 

 

  

▪Ruth Lyonのニューアルバム『Poem & Non Fiction』はPink Laneから本日発売。ストリーミングはこちらから。

 

Weekly Music Feature: Lifeguard   -2025年の期待の新星がシカゴから登場-




Lifeguardは2025年度の最も有望なバンドであり、今後の活躍がとても楽しみな存在である。

 

アッシャー・ケース、アイザック・ローウェンスタイン、カイ・スレイターの若さ溢れるトリオ、Lifeguard(ライフガード)は高校生時代から一緒に音楽を制作してきた。 パンク、ダブ、パワーポップ、エクスペリメンタルなサウンドから触発を受け、それらを爆発的なインスピレーションでまとめ上げる。 メンバーのひとり、アッシャーは、同じくシカゴで活動するポストパンクバンド、FACSのブライアン・ケースの息子である。アッシャーは、父親の豊富なレコードコレクションを通じて、若い時代からミュージシャンとしてのセンスに磨きをかけてきた。また、父親のロックやパンクに対する理解、これはアーシャーのベーシストとしての素養を形作った。


つい2年前の夏、マタドールから発売されたライフガードのEPは、バンドの初期のスタジオでの探求を注意深く記録したものだった。しかし、ローウェンスタインのロック・ステディなバックビートに支えられた彼らの驚異的なライヴ・ショウは、より大きなモーメントが待ち受けていることを暗示していた。 デビュー作『Ripped and Torn』では、有刺鉄線のように刺々しいサウンドが、スレーターとケースの新しく豊かな2声のハーモニーとコラジステの歌詞を縁取っている。 プロデューサーのランディ・ランドール(ノー・エイジ)は、ハウス・パーティーやライヴの感覚とエネルギーを想起させる閉所恐怖症的なスクラップ感を表現している。


ライフガードのプロジェクトは単なるバンド以上の意味が求められる。総じて、何かを表現し、それらを一つの形にするためにこのプロジェクトは存在している。それはもしかすると、社会や学校、そして一般的な常識や固定概念から乖離しているほどに、重要な意味を持つようになる。ライフガードのプロジェクトは、自由、ノイズ、メロディーが直感的な形を見出す特異で親密な空間である。 「物理的なメリットは、私たち全員が一緒にやっていることなのかもしれない」とスレーターは説明する。 「つまり、音楽を作ることの即時性を生み出すことに尽きるんだ」

 

デビューアルバム『Ripped and Torn』について、アメリカの音楽評論家、デイヴィッド・キーナンさんは次のように評論している。

 

スコットランドの伝説的な同名のパンク・ファンジンからタイトルを取ったとか取らないとか.......。 あるいは、ロック・ライターのレスター・バングスが、ペレ・ユビュの創始者である故ピーター・ラフナーが "引き裂かれた感情の戦火の中で "死んだと主張した、引き裂かれたTシャツを指しているのかもしれない。 


あるいは、メロディック・ポストパンクと高速ハードコアを猛烈に不安定化させるこのトリオの手法を指しているのかもしれない。それは、ドレッド・フール&ザ・ディンのようなバンドがめったに思いつかないような方法による、荒々しい即興的な歌の形式をマジー・ガレージのメステティックスと再び結びつけるような、ゼロ年代の美学への恩義を示すものかもしれない。


いずれにせよ、ライフガードは、ガレージ・バンドのファースト・ウェーブのような絶対的な真摯さを自分たちの音楽に賭けている。 半分謡い、半分歌うヴォーカルは催眠術のようだ。 かれらの曲は説明されるのではなく、まるで祓われるかのように、ベースのアッシャー・ケース、アイザック・ローウェンスタインがほとんどリード楽器のように演奏するマシンガンのようなパーカッション、そしてカイ・スレーターが絶え間なく旋回するリズム・セクションに浴びせる火炎放射器のように激しいギターによって、メロディーは空中から直接引き抜かれていく。 


実際、このトリオは、古典的なミニマリズムによる脳をかき乱すような魔術的な魅力を介し、暗黙の重心(ヘヴィネス)を中心に構築する。 実験的な作品である "Music for Three Drums"(スティーブ・ライヒの『Music For 18 Musicians』を引用しているのは間違いない)、"Charlie's Vox "は、ライフガードのヴィジョンの広さを明らかにし、デッドC、クローム、スウェル・マップスのようなマージン・ウォーカーの前衛的な要素を取り入れた、コラージュされたDIY音楽である。


しかし、そもそも、曲の質が伴わなければ、これらすべては単なる思い上がりになるだろう。 タイトル曲の "Ripped & Torn "は、タイトルのもうひとつの意味を示唆している。 バンドが一丸となって、孤独な亡霊からの伝言のように歌われる歌に感情的な蹂躙を加えている。


 "Like You'll Lose "は、重厚なダブ/ダージ・ハイブリッドの上に、ドリーミーなオートマティック・ヴォーカルとスティーリーなファズを組み合わせ、さらに深みを増している。 「一方、"Under Your Reach "は、"Part Time Punks "の頃のザ・テレビジョン・パーソナリティーズのUK DIYを彷彿とさせるが、よりThis Heatに近づけるような、過激なサウンドを追求している。 


ノー・エイジのランディ・ランドールによるプロダクションは、最高にムーディー。 「T.L.A.」で彼らは本当に「調子のいい言葉が浮かんでくる」と歌っているのだろうか? もしそうだとしたら、ライフガードは、歌について歌い、演奏について演奏することができ、そのアプローチの貪欲さゆえに、私が多くの言及を投げかけているにもかかわらず、プレイヤー自身の相互作用の外には何も指し示さない音楽を作ることができる、稀有なグループの1つだということになる。


そして確かに、そんなことができると信じていること自体に甘さがある。 しかし、おそらく私がこの作品全体を通して追い求めているのは、ライフガードが彼らの音楽にもたらす開放性のクオリティなのだ。 この3人が中学/高校時代から一緒に演奏していることからも分かるように、彼らの音楽は若々しくて、重荷がなく、自分自身に忠実で、比較されることを厭わない。 


ライフガードは、アンダーグラウンド・ロックを人生と同じくらい真剣に演奏しているが、若さは音楽の質で、年齢によるものではないと確信させるほど、遊び心にあふれた熱意を擁している。 彼ら自身の引き裂かれた感情の火炎に巻き込まれるようなサウンドで、ライフガードは私をもう一度信じたいと思わせる。(''デヴィッド・キーナン「Ripped and Torn」について語る''より)



Lifeguard 『Ripped and Torn』 -Matador



 

ローリング・ストーン誌で特集が組まれているのを見るかぎり、アメリカ国内では彼らのデビューは好意的に受け入れられているらしい。米国のインディーズロックの有望株であることは間違いない。ライフガードの『Ripped and Torn』はデビュー作に相応しく、鮮烈な印象に縁取られている。そして、近年稀に見るほどの”正真正銘のDIYのロック/パンクアルバム”であることは疑いない。

 

インディーズミュージックは商業性を盛り込んだとたん、本来の魅力を失うことがある。しかし、このアルバムでは、ガレージロック、ニューウェイヴ、インダストリアルノイズ、ハードコアパンクを横断しながら、彼らにしか構築しえない強固な世界観を作り上げている。それは社会も常識も、また、固定概念すらおびやかすことは出来ない。それほどまでに彼らのサウンドは強固なのだ。そもそも、音楽が洗練された瞬間、パンクロックは本来の魅力を見失い、その鮮烈な印象が陰りを見せる。これをデイヴィッド・キーナンさんは「若々しさ」と言っているが、荒削りで完成されていない、完成形がどうなるかわからないという点にパンクの本質が存在する。それはそれぞれの生命のエナジーの放出ともいえ、模倣とはまったく無縁なのである。

 

『Dressed In Trench EP』ではライフガードの本領がまだ発揮されていなかった。正直なところをいうと、なぜマタドールがこのバンドと契約したのかわからなかった。しかし、そのいくつかのカルト的な7インチのシングルの中で、グレッグ・セイジ率いるWipersのカバーをやっていたと思う。Wipersは、カート・コバーンも聴いていたガレージパンクバンドで、アメリカの最初のパンクバンド/オルタナティヴロックの始まりとする考えもある。これを見て、彼らが相当なレコードフリークらしいということはわかっていた。それらのレコードフリークとしての無尽蔵の音楽的な蓄積が初めて見える形になったのが「Ripped and Torn』であろう。このデビューアルバムには、普通のバンドであれば恥ずかしくて出来ないような若々しい試みも行われている。

 

しかし、ロックとは形式にこだわらないこと、そして、先に誰かがやったことを覆すことに一番の価値がある。とくに、ライフガードの音がすごいと思ったのは、一般的な常識や流行のスタイルを度外視し、それらにカウンター的な姿勢を見せ、自分たちが面白いと思うことを徹底的にやり尽くすことである。そして、曲の歌詞で歌われる主張性ではなく、音楽そのものがステートメントになっている。彼らは基本的には体裁の良いことを言わないし、そういった音楽を演奏しない。けれど、そこに信頼を寄せるべき点があるというか、異様なほどの期待を持ってしまうのだ。

 

「A Tightwire」

 

 

 

ライフガードのデビューアルバムに関しては、年代を問わず新旧の音楽が絡み合うようにして成立している。アルバムの冒頭を飾る「1-A Tightwire」はUKパンクを下地にし、モッズロックの若々しい気風が漂う。ポール・ウェラー擁するThe Jamのアートパンク、そして、UKガレージロックの最重要バンド、The Boys(日本のミッシェルガンエレファントが影響を受けたという)の疾走感のあるロックソングを組み合わせた青々しく鮮烈な印象を持つパンクロックソングである。The Jamを彷彿とさせる鮮烈なアートパンクの嵐が吹き荒れる中、シカゴらしさが登場し、苛烈な不協和音を織りまぜたギター、ハードコアパンク風のシャウトがアンセミックに叫ばれる。間違いなくこのアルバムのハイライトとなるであろう素晴らしいオープニングソングだ。

 

本作では、デビューアルバムで示されるべき、若々しさが直情的に表現されている。曲作りに関しては、協和音(4/8のリズム)、不協和音(3/6のリズム)のセクションを交互に配置し、徐々に熱狂的なエナジーを増幅させる。彼らの曲がスタジオやライブハウスで生み出されることを伺わせるリアルなロックソングだ。各楽器の音作りやリズムの作り込みの凄まじさは、他の追随を許さない。

 

タイムラグを設けず、一曲目から続いている「2-It Will Get Worse」は、デモソング風の荒削りなガレージパンクソング。アルバムの冒頭の熱狂性を追加で盛り上げるような働きを成している。この曲にはアメリカの60年代後半の原初的なガレージロックの熱狂が反映されている。しかし、ボーカルはラモーンズのようにメロディアスであり、西海岸風の旋律捌きが見いだせる。パワーコード/オクターブのユニゾンを多用するパンキッシュなギター、そして、ギターのベースラインを描く通奏低音のベース、ドタバタしたドラムのプレイにも注目である。この曲はハイスクールバンドとして始まったライフガードのドキュメントのような役割を担う。ラモーンズの映画『Rock 'n Roll High School』のリアル版ともいえる若々しい感覚に満ち溢れている。

 

 

 

 「It Will Get Worse」

 

 

 

複数の収録曲には、インタリュードが設けられ、前衛的なノイズで縁取られている。ピックアップ/アンプから発生させたリアルなノイズが「3-Me and My Flashes」に収録されている。ライブの直前のサウンドチェックのような瞬間、それもまだ機材の扱いになれていなかったような時代のノイズを独立した曲のセクションの間に挿入し、ライブバンドとしてのDIYの気風を反映する。こういったアヴァンギャルドな試みは本作の後半でも再登場する。これらのノイズの要素は、キャッチーなパンクロックソングの中にあってアンダーグランドの匂いを強調させる。

 

「4-Under Your Reach」は、Replacements(リプレイスメンツ)の「Within Your Reach」を彷彿とさせる曲名だ。ダブという側面において、インスピレーションを受けているのかもしれない。しかし、全般的には、インダストリアルノイズの印象に縁取られ、Big Black/Shellacのようなアンダーグラウンドの雰囲気に満ちている。動きのあるベースでダブのイントロを作った後、スティーヴ・アルビニのような金属的なギターが加わり、ニューウェイヴの楽曲が組み上がっていく。

 

しかし、ライフガードの曲は複雑な楽曲構成から成立しているが、全体的には聴きやすさがある。それはなぜかといえば、こういった実験的で不協和音やノイズを強調させつつも、ボーカルのメロディー性を維持しており、ビーチ・ボーイズのような爽快なコーラスが聴きやすさをもたらすからだ。3人のメンバーを総動員するボーカル/チャントの洗練度は、テキサスのBeing Deadに比する。一方で、これはライフガードが”Bar Italiaの再来”であるとする不敵なメッセージなのだろう。そして、フラワー・ムーブメントの時代から受け継がれるシスコのサイケの要素が、独特な幻想性をもたらす。最終的には、DEVO/Rolling Stonesのような古典的なニューウェイヴ/サイケロックの要素と結びついて、カルト的であるが、奥深い楽曲が作り上げられる。ここには西海岸/東海岸の両方の文化に触発された中西部の雑多性がうかがえるような気がする。

 

 

「5-How to Say Deisar」はあまりにもかっこいい。Gang Of Four(ギャング・オブ・フォー)を彷彿とさせる不協和音のギターのイントロから炸裂し、ドラムのタムのジョン・ボーナム風の即興的な演奏が続く。これらは、ギター、ベースのパートを巻き込んで、カオティックハードコアへの流れを作り上げていく。無謀でしかない試みであるが、ギター、べース、ドラム、各パートの演奏技術が傑出しており、そして、ジョニー・サンダースを彷彿とさせる甲高いシャウトとベースラインがこれらの荒唐無稽なサウンドに落ち着きと規律をもたらす。「How to Say Deisar」は、言い換えれば、スタジオでの即興的な演奏で得られた偶発的な音のマテリアルを手がかりにして、それらをまとめたかのようである。全般的にはコラージュの要素があるにせよ、基本的にはスタジオのライブセッションから成立していることに変わりない。二者のボーカルの受け渡しや同音反復のベースラインが次のセクションの呼び水となり、騒擾(USハードコア)と憂鬱(UKニューウェイヴ)を変幻自在に行き来する。つまり、ハードコアパンクとニューウェイブの二つの曲をシークエンスとして直結させたという感じで、これは先例がない。

 

アルバムの序盤では、モッズロックやビーチ・ボーイズのような音楽性を絡めて、比較的、商業的な音楽性もはらんでいるが、中盤以降の収録曲ではアンダーグラウンドの音楽性が顕著になる。

 

ドラムの4カウントから始まる「6-(I Wanna) Break Out」はストップ・アンド・ゴーをギターで表現しながら、This Heat、Pere Ubu、Wireといったハードコアパンクが誕生する前夜のポストパンクを復刻している。録音に緊張感があり、バンドとして、一触即発のムードが漂う。またそこには、自分たちの音楽に信頼を置いている印象があり、驚異的なことをやっているという自負もある。トリオのエナジーがバチバチとぶつかりあうような独特な空気感は、ライフガード特有のものだろう。不協和音に対する耐性、そしてノイズのセンスはFACSにも全然引けを取らない。かりに老獪なポストパンクをテクニカルに体現させるのが、FACSであるとすれば、Lifeguardの場合は、それらをある種無謀にも思える若々しさと衝動的なエナジーで体現させる。

 

 

「(I Wanna) Break Out」はバンドのスナップショットを収めており、瞬間的な輝きを放ってやまない。ギターの不協和音、ボーカルのシャウトも強烈なのだが、ベースのアッシャーの演奏が圧倒的である。こういった不協和音がデビューアルバムでは幾度も登場し、奇しくも、それはFACSのノイズパンクと共鳴を繰り返しながら、「Post-Albini Sound(次世代のアルビニサウンド)」を象徴付けるかのように出現する。 続いて、「7-Like You'll Lose」は、そういったサウンドをベースにし、ストーンズのリバイバルソングを作るかのように、UKロックの幻想的な雰囲気を加えている。ライフガードの場合、ニューウェイヴの不協和音がサイケデリアと共鳴しながら、幻惑的なロックのイメージを増幅させ、アシッド・ハウスのような幻惑的なイメージに結びつく。これらのアーティスティックな感性こそ、ライフガードの最大の武器でもあるのだ。

 

「8-Music For 3 Drums」はタイトルこそ、スティーヴ・ライヒの名曲のオマージュであるが、見方を変えれば、''二人のスティーヴに対するリスペクト''とも言える。音楽的には、 Boredomsのツインドラムのノイズの実験性をミニマリズムと結びつけ、Melt Bananaのような荒唐無稽なカオティックハードコアへと昇華させている。電子音楽のパルス音を、こともあろうにドラムを中心に組み立てる。これぞ''アヴァンギャルドの中のアヴァンギャルド''と言えるだろう。アルバムの最終盤に登場する「9-Charlie's Vox」も同じように、これらの一連のインタリュードに属している。独立した曲と続けて聴くと、どのように曲のイメージが変化するかを確かめてみていただきたい。これらは少なくとも、ライフガードの不協和音の要素と合わせて、三人組としてのシンボリズムの役割を成している。もちろん、それは暗示的な意味合い、メタファーに過ぎない。真面目なのか、不真面目なのかわからないミステリアスな部分もこのバンドの魅力である。

 

UKのニューウェイヴ/ポストパンクの末裔とも言える曲が「10-France And」である。This Heat、Chromeような不協和音も目立つが、全体的な楽曲としては、本文の冒頭にも挙げたように、The Jamのようなアートスクールに通っていた学生がやるアートパンク、The Boysのような青春味あふれるガレージロック、そして、Minor Threat(マイナー・スレット)に影響を及ぼし、USハードコア・パンクのルーツともなったWireの『Pink Flag』に象徴される乾いた質感を持つパンクロック、さらには、Wipersのようなグランジ/メタルと地続きにあるガレージパンク、そういった年代を隔てない彼らの音楽的な好みを基礎として、現代的なロックバンドの性質が付け加えられて、ライフガードのオリジナリティ溢れる音楽が完成する。いや、それはまだ完成するどころか途上にあるのかもしれない。少なくともインディーズミュージックの意義を再訪するとともに、ロック/パンクというジャンルには無限の可能性が眠っていることを示唆するのである。 

 

一般的にデビューアルバムでは自分たちが何者なのかを示す必要があり、鮮烈なイメージが含まれるに越したことはない。鮮烈なイメージとは、世界に対して好奇心に満ちあふれているという意味であり、それがそのまま若さや青々しさに繋がる。同時に、爽快な印象を及ぼすのである。それこそまさしく虚無的な感性が氾濫する世界に対する”強烈なカウンター”になり、''大きな希望''にもなる。アルバムの終盤にも素晴らしい曲が収録されている。聞き逃し厳禁である。

 

タイトル曲「11-Ripped + Torn」はロックソングとしてまことに素晴らしい。初心者が最初にギターをケーブルでアンプと繋いで、音が出力された時のような初々しい感動に満ちている。おそらく、ライフガードにとってロックすることは当たり前ではないのだろう。彼らの音楽は、ローリング・ストーンズやビートルズの時代のように新しい驚異に満ちあふれている。これらのモッズ・ロックやアート・パンクに見出すことができる紳士的な初々しさは、Pink Floyd、The Whoの最初期の作品や、The JamのようなUKロックの名盤のアルバムでしか味わったおぼえがない。

 

アルバムのクローズ「12-T.L.A」では、アメリカの西海岸のパワーポップ/ジャングルポップのクラシックな音楽性を盛り込んでいる。ただ、方法論はレモン・ツイッグスと似ているとはいえ、やはりライフガードらしい繊細な感性と若々しい希望に満ちあふれている。このアルバムをゲットした人々はきっと、「ライフガードと出会ってよかった!!」と実感するにちがいない。

 

 

 

 

92/100 

 

 

「Rippeed + Torn」- Best Track

 

 

 

▪Lifeguardのデビューアルバム『Ripped and Torn』は本日、Matadorより発売されました。

Weekly Music Feature: Qasim Naqvi     ~パキスタンにルーツを持つ作曲家カシム・ナクヴィによる驚異的な音楽~



パキスタン系アメリカ人の作曲家カシム・ナクヴィは、著名なトリオ、''ドーン・オブ・ミディ''のドラマーとしてよく知られている。その他にも、ECMから新作をリリースしたWadada Leo Smithとも共同制作を行っていて、ジャンルを問わずミュージシャンとして研鑽を重ねてきた。彼は、映画、ダンス、演劇、国際的な室内アンサンブルのためのオリジナル音楽を創作している。 最近の作品は、アナログ・シンセサイザーやオーケストラ編成の音色を深く掘り下げている。


実験音楽や電子音楽を得意とするErased Tapesと契約して以来、彼は2つのモジュラー・シンセサイザーの組曲を制作している。2019年の高い評価を受けた『Teenages』は、エレクトロニクスが生き、呼吸し、自ら変異する音を捉えた作品であり、2020年の姉妹作『Beta』は、この種の楽器のための作曲に対するナクヴィの理解と楽器自体の成長を記録した一連の実験的作品である。


カシムの音楽はアートとも親和性がある。彼の音楽は主体的な音楽としても楽しめるが、空間を彩る環境音楽としての性質も併せ持つ。空間に馴染む音楽の名手とも言え、彼の音楽は、グッゲンハイム美術館、dOCUMENTA 13 + 14、MOMA、リバプール・ビエンナーレ、セントルイス美術館でのインスタレーションに登場している。 現代音楽家としても名高い。彼の室内楽曲や管弦楽曲は、yMusic Ensemble、The Now Ensemble、BBC Concert Orchestra、The Contemporary Music Ensemble of NYU、Stargaze、The Helsinki Chamber Choir、The Bienen Contemporary/Early Vocal Ensemble、Nimbus Dance Works、シカゴ交響楽団(CSO)のMusicNOW Seasonで演奏されている。


2021年、アナログ・シンセシス組曲『クロノロジー』が全世界でレコード・リリースされた。2016年にデジタルのみで構想された『クロノロジー』は、カシムにとって初めてのエレクトロニック・ミュージックのリリースだった。即興音楽とクラシック音楽の世界に身を置いてきたナクヴィにとって、初の電子音楽アルバムは、コンピュータの豊富な選択肢を置き去りにして、故障したシンセサイザー、--古いムーグ・モデルD--だけで制作されるのがふさわしいと思われた。


パキスタン系アメリカ人の作曲家カシム・ナクヴィのニューアルバム『Endling』は、2023年のBBC コンサート・オーケストラ作品『God Docks at Death Harbor』の前日譚として作曲された。この作品は、数百年後の未来を舞台に、強烈で美しい風景の中を43分間のオデッセイへと誘う。


ナクヴィ自身の言葉を借りれば、アルバムは、8つの楽曲を通して、地球上の最後の人間である''エンドリング''の物語を語っている。エンドリングはある種の最後のメンバーである。 エンドリングが死ぬと、その種は絶滅するというのがシナリオだ。カシム・ナクヴイが明らかにしたところによれば、ニューアルバムは複数の構想を経て仕上がったという。


「ある朝、妻が夢から覚めると、"God Docks at Death Harbor "というフレーズが頭に浮かんできたらしかった。ちょうどそのとき、私はBBCコンサート・オーケストラのために新作を書き始めたところだったが、彼女がこの言葉の夢について話してくれたことで、それはあっという間に音楽の構想に浸透していった。 彼女の言葉は私にとってほとんど詩であり、具体的なイメージを呼び起こしてくれることがある。 私は、人類がもはや存在しない、何百年も先の未来の地球を想像した。 私たちがいなくなったことで、世界は平和に回復していく。 これが作品の信条となった」


「それは、このトーンポエムを書いているとき、インスピレーションを得るために眺めることのできる風景画のようだった。 2023年春にロンドンで『God Docks at Death Harbor』が初演された後、この感覚は私の中に残り、新譜について考える時期になり、この物語を続けたいなと感じた。 私は前日譚を想像してみた。地球上で最後の人間であるエンドリングが、何世紀も未来の世界を旅する話。 朽ち果て、変異した世界は、自然と人工の奇妙なアマルガムになるという」


「私は、この音楽が、自然界に追い越され、吸収されつつある未来の崩れかけた風景の中を、この人間を追いかける章立てになっていることをイメージしていた。 God Docksのトーンポエムの伝統に従って、私はまず曲のタイトルを作り、音楽が形になっていくにつれて、その意味をより明確にしていった」


「これらのタイトルには、現在の感覚も込められている。 エンドリングは、多くの人々にとって大きな苦悩と苦痛に満ちた2024年に制作された。 その時間は、このレコードのフィクションに追いつくかもしれない道のりのよう。それ自体がディストピックを感じさせ、それは今も続いているんだ」


アルバムのハイライト曲「パワー・ダウン・ザ・ハート」では、主人公が人生の最後の瞬間にあるA.I.に出会う。 一種の最後の儀式として、この古代の人工意識は、何百年も観察してきた美、悲しみ、恐怖を描写する。Moor MotherのボーカルはAIテクノロジーを表すために取り入れられたが、それは人の手によるボコーダーの装置によって濾過され、アルバムの特異点を形成している。


「私は、音楽がこの存在の心の中に流れるように感じられるふうにしたかった。 私は音楽とこの物語をカマエ(Moor Mother)と共有し、彼女がこのA.I.の声を担当してくれないかと頼んでみた。Camaeの声のサウンドをこのレコードの世界に取り入れるため、私は、”Buchla 296t Spectral Processor”として知られる、古い機械設計で彼女のボーカルを処理した。 この特異なアナログ・イコライザーを駆使し、微妙なヴォコーディング・エフェクトを作り出したり、もっと極端なやり方では、彼女の声の特定の響きを強調したり弱めたりすることができた。 そして最終的な結果は、プログラムされた人間らしさを脱ぎ捨て、永遠にパワーダウンする一種の合成音声だった」


「要するに、『Endling』の音楽はすべて有機的なアプローチによって行われ、ARP Odyssey、Minimoog、モジュラー・シンセサイザーによって生成され作られたと言える。私にとって、モジュラー・シンセサイザーのやりがいと満足感のひとつは、複雑な音色を一から開発することに尽きる。このモジュール装置は、有機的に不安定であり、扱いをミスると故障しやすい。 さながら有機体のように感じられ、そして演奏者としてそのエネルギーの流れや電圧をコントロールすることができた。 大人になってから、私の創作活動は両極端な方向性に進んでいった。 私は即興音楽を通じて、純粋に自然発生的な方法で物事を創造することが大好きなんだ」


「このたぐいの音楽的コミュニケーションは、二度と再現できないような複雑で直感的なアイデアに直結することがある。 そして、もう一方には、オーケストラや室内楽グループのために作曲するのが大好きな私がいる。 これは私の思考の詳らかな青写真をスローダウンしたようなものなんだ。 モジュラー・シンセサイザーは、この2つの世界を見事に橋渡ししてくれることがわかった」


「私は、今回、この電圧制御のマシンを、珍しい楽器やモジュールで構成されたアンサンブルのように扱うことができ、そのアンサンブルのためにコンポジションを行った。 私は、このマシンの有機体に音楽を提示し、電圧の減衰(Decay)を通して、即興演奏家のようにライブで素材を編成することが出来たんだ。そしてアンサンブルのように、モジュラー・シンセサイザーの解釈は常に異なり、私が思い描く以上の非常に豊かなソノリティやパターンを生み出した」

 

「”Endling”に対するこれらの全般的なマシーン・アプローチは、(BBCの)オーケストラの前任者に対する比類なき賛辞であり、なおかつまた、このアルバムの未来とは異なる種類のオーケストラのように感じられる」ーーQasim Naqvi 

 


Qasim Naqvi  『Endling』- Erased Tapes




従来の音楽形態は、ポピュラー/ロックソングのように主体的なもの、サウンドトラック/環境音楽のように付属的なものというように、明確に分別されてきたように思える。しかし、パキスタンにルーツを持つ作曲家、カシム・ナクヴィの音楽はその境界を曖昧にさせ、一体化させる。

 

そして、今一つの音楽の持つ座標である能動性と受動性という二つの境界をあやふやにする。ナクヴィの音楽は、ある種のバーチャル/リアルな体験であり、それと同時に、近未来の到来を明確に予見している。彼の音楽は、高次関数のように、多次元の座標に、音階、リズム、声を配置し、その連関や定点を曖昧にしながら、音の流れが複数の方向に流れていく。このアルバムの音楽は、従来のポリフォニー音楽になかったであろう新しい着眼点をもたらしている。音楽のストラクチャーというのは、音階にせよ、リズムにせよ、ハーモニーにせよ、必ずしも一方方向に流れるとは限らない。これが二次元のスコアで考えているときの落とし穴となるのだ。

 

電子音楽による壮大なシンフォニアとも言える「Endling」は、SFをモチーフにした広大な着想から生まれている。ナクヴィの妻が話してくれた謎の言葉、「デス・ハーバーのゴッドドック」は、一般的な制作者であれば気にもとめなかったのではないか。しかし、制作者にとっては啓示のように思え、ある種の”ダヴィンチコード”のような不可解さを持ち、脳裏を掠め、音楽のシナリオの出発点となり、また、その最初の構想が荒唐無稽であるがゆえ、イマジネーションが際限なく広がっていった。


カシム・ナクヴィは、フィクションとノンフィクションが混ざり合う不可解なモチーフを、彼自身の豊富なイマジネーションをフルに活用して、電子音楽によってそれらの謎を解き明かしていこうと努めた。しかし、もちろん、MOOGなどモジュラーシンセというアナログな装置を中心に制作されたとはいえ、完全な古典主義への回帰を意味するわけではなかった。いや、それとは対象的に、先進的な趣旨に縁取られ、現代人の生き方と密接に関連する内容となった。


この音楽を聴き、どのような考えを思い浮かべるかは、それぞれの自由であろうと思うが、重要なのは、その考えを日頃の仕事や暮らしのヒントにすることも不可能ではないということである。つまり、アルバムの音楽は見えない複数のルートが同時に存在することを暗示させる。これらはSFのタイムラインやパラレルという概念とも密接に繋がっているのではないかと思う。

 

現今では、AIテクノロジーの著しい進化は、人間の暮らしに多大な利便性をもたらしたのは確かだったが、日常的な生活に浸透させ過ぎることに警鐘を鳴らす研究家もいる。 便利すぎるということ、それがそのまま新しい着想や発明の芽を摘みとることがある。それに加え、利便性には、人類が発展するための成長性や自律性を削ぎ落とす弊害も内在している。果たして地球の未来は、「猿の惑星」のようにAIやテクノロジーに翻弄されるディストピアになるのだろうか。


カシム・ナクヴィさんは、どうなるか不分明な未来の人間社会の進展を、現在の世界情勢や暮らしとリンクするような形で、人間の根源的な生命の意義と結びつけて、人類の理想的な存在とは何かを探求していく。しかし、例えば、優れた映像作品のように、それらは飽くまで提言にとどまり、ぞれぞれの聞き手が答えを見つけるというような趣旨の作品となっている。良い概念とは、性急な結論を出すのではなくて、自発的な考えを促すよう手助けをするものである。 


このアルバムには、宗教、人種、戦争、環境、自然と生物との共存、エネルギーや資源、そういった現代の世界に内在する複数の問題点を明らかにし、それらの着想を音楽で体現するという、現代のミュージシャンが率先して行うべき模範例が示されていると言えるかもしれない。それらは利己主義やポピュリズムが繁栄する現代社会に、ある種の規律や均衡をもたらそうとする。

 

 

同時に、このアルバムでは、アナログのシンセが積極的に制作に取り入れられている。アナログというのは、意図的に音を消すということが出来ない。信号を送るのは人の手であるが、音がどこで消えるのかを決定するのは人間ではない。時々、アナログ信号では、音を消すことができず、ずっと鳴り続けることもある。また、演奏者がまったく意図せぬ偶発的な音が発生する場合もある。それはそのまま、即興的な音楽の発生を促し、結末や結果がどうなるかわからない、というスリリングな雰囲気をもたらすことになる。例えば、音楽がすべて方程式のように進んでいき、何の意外性も偶然性も持たないとすれば、それではあまりに退屈すぎるのではないか。実際的に、このアルバムには、チャンス・オペレーションの次の段階が示されている。


音楽のライブ演奏の中で、観客の反応も含めて、どのような偶発的な要素が発生するのか。偶発的な要素により、何らかのケミストリーが発生するのか。それはミュージシャンとしての最高の楽しみのひとつであると思うが、カシム・ナクヴィは、この偶発的に生み出される要素を心から楽しんでいる印象を持つ。例えば、コンピューターやプログラムのエラーやバグのような瞬間もまた、ライブ演奏のような感じで演奏し、組み合わせたり設計したりしている。それは部分的には、意図しない何かを許容したり、抑制できない何かを認めるという、音楽制作をするまでは出来なかったことが出来るようになる瞬間である。そして、このアルバムでは、そういったコントロール出来ない部分から逸脱したときに、神秘的な音楽が出来することがある。そして、制作者は旧来、現代を問わず、テクノロジーを駆使し、それらを作り出していくのだ。

 

 

『Endling』は全般的に見ると、ドローン・ミュージックを中心に組み上げられている。 ドローンというのは、スウェーデンなどで盛んなアンビエントの次世代の音楽であり、ラモンテ・ヤング、タシ・ワダがバクパイプ構造を持つ音響性を活かし、持続音の知られざる魅力を探求し、前衛音楽を作り出した。音の通奏音の持続、あるいは減退の段階を通じて、音調(トーン)の変調や波のうねりを生み出し、最終的には多彩な音楽のウェイブの性質を示すというものである。

 

「1-Fires」はインタリュードのような形で始まり、カナダのエレクトロニック・プロデューサー、Tim Heckerが『No Highs』で試みたように、下降していくドローン音が導入部となっている。その最初のモチーフに対して、アナログシンセのリードやベースは、段階的に上昇するカウンターポイントを描き、SFや天文的な音楽の印象を取り入れ、スタンリー・キューブリックの映画「2001年 宇宙の旅」のような神秘的なオープニングのような序章の音楽を形作る。

 

「2-Beautification Technology」は対して、シュトゥックハウゼンが提唱した音の集合体を意味する「トーン・クラスター」の類型に属する。アルペジエーターを配した持続音を緻密に配列した上で、高次関数のように複数の座標を持つ数学的な電子音楽の構造を作り上げる。ミニマル音楽としても聴くことも可能であるが、オシレーターのような装置を用いて、徐々に全体的な音響をぼかしていき、移調させていくという独特な手法を発見することが出来る。この曲では、人の手ではコントロール出来ない、音の強弱を活かして、偶発的な音楽を発生させている。

 

 

 「Beautification Technology」

 

 


近代/現代の音楽として、その場に満ちる”空気感”とも呼ぶべきものを最初に表現したのは、おそらく、リゲティ・ジョルジュであった。ユダヤ人のホロコーストを題材に、不気味で恐ろしい空気感を表現したのだった。「3-The Glow」は、地上的な概念を表したというより、宇宙に偏在するダークマターやダークエネルギーといった、現在の物理化学では解明しえないエナジーを出現させたという印象である。一般的に言われるところでは、現行の物理の分子学や原子学では解明しえないエネルギーが、宇宙空間には90%以上も偏在するのだという。これはおそらく、ギリシャ哲学でほのめかされたエーテルのような、三次元空間には存在しない非物質のことを示唆するのではないか。そして、カシム・ナクヴィは、そういった非物質的な現象や目に映らない存在を認め、音楽を通じて、それらの神秘性に迫ろうとしている。音楽の正体は振動やバイブレーションである、ということをあらためて痛感させる特異なトラックである。

 

前曲を分岐点として、このアルバムの音楽はSFの性質を強めていく。SFのロマンとは、この世に解明出来ないことが存在すること、あるいは、その謎を探索したいという人間の原初的な欲求から生ずる。


続く「4-Power Down The Heart」は、そういった知的好奇心を駆り立てる何かが内在する。例えば、子供の頃は、すべて知らないものを無邪気な目で見ているが、大人になると知らないものですら、そういった純粋な目で見れなくなる。''多くの情報を知りすぎる''という楽園のアダムのような現象こそ、現代の人々にとって、退廃や堕落を意味するのだ。「Power Down the Heart」は、むしろ知らないことの素晴らしさや、知り得ないことに目を開かれることの喜びを表す。この曲では、Moor Motherをボーカリストとして招き、そして、AIの声をシンガーに仮託し体現させている。ムーア・マザーは最後に地球に残された種の意識体をボーカルで表現している。近未来を人類はどのように生きていくべきか、そういった提言をナクヴィは行う。

 

 

 

 「Power Down The Heart」

 

 

 

「5-Plastic Glacier」はどうだろうか。スコットランド/スペインのバクパイプの音響性をドローン音楽という側面から解釈し、それらをブライアン・イーノのアンビエントのバイブルになぞらえた一曲という感じがする。表向きには、ありふれた氾濫するフラットな音楽に過ぎないように思える。しかし、実際に聴いてみるとわかるように、他の曲とは印象が異なる。モジュラーシンセは、一つの音符を発音するたびに、異なる倍音を発生させ、次に同じ音階を発生したとしても、同じ音やトーンになるとは限らない。これらの偶発的な音楽性は、ハモンド・オルガンやパイプ・オルガンのような荘厳で奥行きのある音響性をもたらし、そして実際的に曲の中で、フーガにもよく似た追走の性質をもたらし、コラールにも似た美麗なハーモニーを形成するに至る。

 

 

アルバムのもう一つの注目曲でタイトル曲「6-Endling」は、アナログシンセによって、鳥の声や生物の声を生成し、澄明で精妙なエネルギーを持つシークエンスを敷き詰める。この曲は、地球から宇宙を俯瞰する人間とは対象的に、宇宙から地球を俯瞰するような超大な音楽的な印象に縁取られている。ドイツのAlva Notoを彷彿とさせる精妙なシンセの音色は、重厚な通奏低音の配置、そして、オクターブの倍音を構成する高音部といった多彩なハーモニーを形成する。持続音が連なっていくに過ぎないように思えるが、音楽の持つ景色が少しずつ変化していく。この曲でも、ドローン音楽に類する作曲の中で、偶発的な音響の発生が、計算しつくせない審美的な和音を作り上げる。音楽の持つ人智では図りしれない神秘的な一面をものの見事に発現させている。

 

 

全般的には、アナログの人工的なサウンドが際立っているが、「7-In The Distance」はかなりデジタルの質感が強いサウンドである。 しかし、よく聞くと、この曲も、アナログで制作されているらしく、ボリュームの抑制が効かない箇所が登場する。他のトラックでは封印していたノイズの側面が際立つ。しかしそれは、一貫して、精妙な振動数で構成されていためか、そのノイズの中には、数式の配列のような美しさが存在している。そして前の曲と同じように、十二音階から導き出される無数の倍音の持つ多彩性を組み合わせて、地球の多様な生物の性質を表現しているように思える。

 

近年、アジアの雅楽やガムランの微分音に興味が注がれることもあったが、西洋音階にも、微分音はおそらく存在している。それらは音符のタブルフラットやダブルシャープ、あるいはJSバッハやベートーヴェン、ショパンがスコアの中に暗号のように残した半音階進行の和声や対旋律、あるいはその残響や余韻という形で体現されてきた。

 

タイトル「In The Distance」から見ると、宇宙に関する主題に思えるが、おそらく''このアルバムの信条''と制作者が述べる''時間的な隔たり''をモチーフとし、未来から現在の地球の姿を俯瞰するという、かなり深遠な概念が込められている。第二次産業革命以降の人類は絶えず、テクノロジーの発展により、未来を造出してきた。他方、現代の人類としては、未来の理想を考えたさいに、今どのように工業や産業、テクノロジーを発展させていくべきか、という逆算的な視点が不可欠であることがわかる。

 

 

最も衝撃的な曲がアルバムの最後に控えている。結末がどのようになったのかは実際に聴いて確かめていただきたいと思う。しかし、ダークアンビエントともいうべき、この曲は、アルバムの中で最も衝撃的であり、緊張感に満ちていて、音楽の持つスリルを体現させている。今作は、EDM、IDMといったジャンルに希釈されることのない''独立した正真正銘の電子音楽''である。影響を受けた作品はあるかもしれないが、それが完全にオリジナルになっている点に敬意を表したい。映画的な音楽と言っては語弊があるかもしれないが、BBCのドキュメンタリー以上のハリウッド的なエンディングだ。音楽ファンとしては、本当の意味で、新しい形態が出てきた瞬間に感動を覚える。テクノロジーと同じである。それがつまり「Endling」の価値といえよう。このアルバムを聴くという、またとない幸運にあやかった少数のファンは、音楽の近未来の姿を垣間見ることになるだろう。

 

 

 

 

100/100

 

 

 

 


Qasim Naqvi(カシム・ナクヴィ)の新作アルバム『Endling』はErased Tapesから本日リリース。

Weekly Music Feature: Sophia Kennedy  ドイツの新しいウェイヴを体現するソングライターの登場

Sofia Kennedy ©︎Rosana Graf


ソフィア・ケネディのサード・アルバム『Squeeze Me』はヨーロッパの芸術運動の再燃を意味し、今日の世界情勢に際して、ポピュラーソングの現在と未来を問う。ドイツのポップカルチャーはボウイの三部作で終わったわけではない。現在の注目すべきポピュラー運動はベルリンに見つかる。


ケネディはボルチモア出身、現在はハンブルグ/ベルリンを拠点に活動する。この3世紀の世界は、ローマ帝国、大英帝国、アメリカという流れで覇権は推移してきたが、覇権が分散し多極化しつつある世界情勢の中、北米と欧州の二つの文化を知るハイブリッドなポピュラーソングを提示するシンガーソングライターが出てきたというのは、当然の帰結と言えるかもしれない。


幼い頃、ゲッティンゲンに引っ越したソフィア・ケネディは、家では英語を喋り、そして幼稚園ではドイツ語を学んだ。これらの二つの言語や文化観の中で養われた彼女の感性はアンビバレントになり、ヨーロッパ的な感性とアメリカ的な感性の間で揺れ動きながら、カラフルな性質を持つようになった。大学に通う頃にはハンブルグへ移り住んだ。その後、映画を学ぶようになったが、音楽が頭の中にはちらつく。以降はテレビや映画のサントラを手がけるようになった。


ソフィア・ケネディにとって、音楽とはアメリカを召喚するような働きをなし、遠ざかる故郷ボルチモアを呼び覚ます役割がある。ケネディにとって、英語は''耳になれない言語''になりつつある。しかし、歌をうたう時、そのルーツが他の誰よりもくっきりと浮かび上がる。「音楽を作るとき、私はいつも心の中でボルチモアに行くような気分になります。都市ではなくて、子供の頃に遠く離れて育った葛藤へと行きつく。私はもうほとんど英語をまともに話せませんが、歌うときの声にアメリカ訛りがあり、それがまだそこにある私の一部であるという感覚です」


「スクイーズ・ミー」はおもちゃ屋のカラフルな世界でのリクエスト。 デパートの暖かな明かりに照らされたそれは、おいしい誘惑のように見えるが、生気のないぬいぐるみやプラスチックの顔という魅力的な誘い文句の裏には何かが隠されているかもしれない。無邪気に見えるものが、いたずらっぽく歪む。「あなたは私を抱きしめているのか、強く抱きしめすぎているのか?」 これが、ケネディが10曲にわたって崇高かつ揺るぎない決意で追求する中心的な問いである。


グレート・アメリカン・ソングブックの華やかさ、エレクトロニックなテクスチャー、クラブランドの影響の間で輝くダンスを披露し、国際的な称賛を得たセルフタイトルのデビュー作(2017)に続き、ケネディはセカンド・アルバム『モンスターズ』(2021)をリリースし、超現実主義と超越について掘り下げた。


『Squeeze Me』では、ケネディと彼女の長年の音楽的コラボレーターで、共作者でもあるメンセ・リエンツ(Egoexpress、Die Vögel、Die Goldenen Zitronen)が、世界全体の現状に対するより幻滅的なコメントを描きだす。 対人関係の複雑さ、パワー・ダイナミクスへの疑問、自己決定への探求など、ケネディの長年のテーマが、アルバムを通して一貫した物語として展開される。


前作よりコンパクトになった『Squeeze Me』にはケネディのポップでキャッチーなメロディとサイケデリックな才能が溢れている。反復されるピアノのコード、煌びやかなシンセのベース、揺らめくクワイア、そして叫び声までもが、"Rodeo "のサウンドステージを作り上げる。アルバムのポップなハイライト"Imaginary Friend "と並び、"Rodeo "は差し迫った疑問を投げかけている。


「私たちはどこへ向かっているのだろう?」 ケネディはその答えを提示する代わりに、熱意に満ちた歌声で前進する。


終盤の"Hot Match"では、熱狂的な夢のように加速していき、モーターを煽るようなビートと燃え盛るタイヤで、立ちのぼる煙の向こうに駆け抜けていく。厳格さと美しさ、ユーモアとメランコリー、運命論と力強さ。『Squeeze Me』は、ソフィア・ケネディのすべてを反転させ、アルバム・ジャケットと呼応している。 それぞれの視点によって、彼女も世界も逆さまになるのだ。 


従来よりも集中し、ポップになった『Squeeze Me』は、ケネディにとって最もまとまりのあるアルバムである。一種の芸術的マニフェストとさえ言える。 多層的で、自信に満ちた声明であり、歌手の周囲や向こう側にあるあらゆる内外の危機があるにもかかわらず、それゆえに功を奏した。 『スクイーズ・ミー』は、外の世界を度外視するのではなく、私たちが何となく知っているようで、これまであまり垣間見たことのない、彼女独自の世界を通じて世界に対抗する。

 

 

Sophia Kennedy  『Squeeze Me』- City Slang


ベルリンといえば、デヴィッド・ボウイの『ベルリン三部作』が真っ先に思い浮かぶ。それまでロサンゼルスに住んでいたボウイは、この作品を期にベルリンで数年間を過ごし、刺激的な生活を送った。ベルリンはコスモポリタンの都市で、芸術文化の街。ボウイはかつて、「私は10代の頃、特にこの土地の芸術家や映画製作者の怒りに満ちた感情的な作品に夢中になっていた」のだった。

 

「ベルリンは、ディ・ブルッケ運動、マックス・ラインハルト、ブレヒト、そして『メトロポリス』、『カルガリ』の発祥の地であった。それは出来事を反映するのではなく、ある気分によって人生を映し出す芸術だった。当時の私にとっては、これが仕事の方向性になった。1974年にリリースされた『Autobahn』によって、私の関心はヨーロッパに戻った。電子楽器が多かったので、この分野は徹底的にもう少し調べてみないといけない。そう確信したのだった」


ボウイがもたらした「ベルリン三部作」は、この都市に、電子音楽の他、ポピュラー文化を強く意識付けることになった。もちろん、クラフトワークが”電子音楽のビートルズ”と呼ばれることがあるように、その音楽にポップネスを内包していたことを考えたとしてもである。18世紀の神聖ローマ帝国時代に崇高な音楽文化を誇り、大学教育などのリベラルアーツでも高い水準を持つドイツ。それは、その後の近代文明や現代文明の中で工業的な発展を重ねるうちに、音楽として、”芸術と商業的なポピュラリティを結びつける”というテーゼをもたざるをえなくなったのである。その突破口を切り拓いたのがクラフトワークとボウイであったのだと思う。

 

音楽というのは文化を醸成する都市や地域から生み出され、その暮らしの中で、いかなる作品を作り出すべきかという必然性から生じる。必然性を持たない音楽作品は、趣味の範疇を出ることは稀有である。ロンドンにはロンドンの、パリにはパリの、ニューヨークにはニューヨークの、ベルリンにはベルリンの、ケープタウンにはケープタウンの、東京には東京の音楽が作り出される必要があるのだ。そして、模倣性や重複性ではなく、差異やスペシャリティ(特性)により新しい芽がどこかに育まれる。もちろん、ドイツに関して言えば、都市性や工業性、市民の現代的なライフスタイルが合致し、新しい表現を生みだすための下地が形成されている。

 

日頃、生活をしていて、ふと思う疑問だったり、自己のアイデンティティにまつわる思いは、新しい音楽が発生するための大きなヒントやテーマになりえるのである。ドイツは、EUとの関係の中で、00年代前後を境に、ヨーロッパ全体のユーロビートやダンスミュージックの発展の影響を受け、音楽市場の拡大や、ライヴマーケットの成長期を経て、新しい音楽文化が花開く可能性を持っている。それは、ENJI(ベルリン)のようなビョークの次世代を担うシンガーの登場を見ても明らかだ。ハンブルグ/ベルリンのソフィア・ケネディーは、今後のポピュラー・ソングとは、どのようなものであるべきか、それを三作目のアルバム『Squeeze Me』で示唆している。

 

 

ソフィア・ケネディの音楽の表層を形成するのが、ファッショナブルでスタイリッシュなイメージ。これは間違いなく、制作者の日頃の生活や考えから汲み出されるものであり、他の人が真似しようとしても出来ない。アルバムの冒頭を飾る「Nose for a Mountain」を聴くとわかるように、シンセポップを基調とする親しみやすく軽妙な音楽的なアプローチの中に、セイント・ヴィンセントやビョークのようなファッショナブルな感覚が揺らめく。そして、その音楽性を背後から支えているのは、工業都市の音楽であるエレクトロニックである。これらの現代性や近代文明の工業性の発展の中で培われた音楽的な核心、それらは、現代的な宣伝広告やファッションの要素と結びついて、アートポップソングを作り上げるための素地となっている。




アルバムはその後、エレクトロポップに転じる。アヴァロン・エマーソンの系譜にあるDJライクなサウンドに、ソフィア・ケネディ独自のボーカルが乗せられる。スポークンワードでもなく、ソウルでもない、ダンスミュージックから汲み出された特異なボーカルスタイルが心地良いビートの底に揺らめく。ケネディのボーカルは、夢想的な感覚を生み出し、ある種の幻想性を呼び起こす。「Imginary Friend」というタイトルに相応しい。「Drive The Lorry」では、レトロなマシンビートを配して、チルウェイブとレゲエ/ラヴァースロックの中間にある独特な音楽性に転じる。現代のヨットロックやソフィスティポップに通じるようなアメリカの西海岸の音楽を呼び覚ます。これらのチルウェイブに属する音楽は、ホリー・クックにも近い感覚がある。しかし、ボーカルは依然としてスタイリッシュな印象があり、華やかな雰囲気に満ちている。

 

 

「Runner」は、EUらしいイメージに縁取られている。現代的なヨーロッパの文化性を音楽的に端的に表現したかのようである。例えば、2000年代以降のユーロビートの音楽性を継承し、それらを現代的なシンセポップに組み替えている。そしてスポークンワードの影響を受けたニュアンスに近いボーカルは、音階の抑揚をつけながら、トラックの背景となる反復的なシンセのパルスのビートと呼応するように、多彩なシークエンスを作り上げる。この曲は、フレーズごとに印象が様変わりし、音楽のカラフルな印象を強化している。緊張感に満ちたかと思えば、さわやかになり、また、ミステリアスにもなり、宇宙的にもなる。トラックの全体に、ヒップホップやブレイクビーツを反映させたリズムをループで配し、ドラムンベースのようなハネを強める。これは間違いなく、Wu-Luが最新EPでやっていたリズムの技法によく似ている。

 

しかし、ボーカルはそれらと対象的なコントラストを描く。ケネディのボーカルは、オペレッタからブリジット・フォンテーヌのようなアートポップの形態を活かし、迫力と上品さを兼ね備えた新鮮な音楽のインディオムを作り出している。ビートやリズムはかなり堅牢であるが、シンセのアルペジオは一貫してメロディアスで聴きやすさがある。もちろん、シンセだけではなく、ケネディーのボーカルも旋律をはっきりと意識している。表向きにはニューウェイブの一曲であるが、全般的にいえば、"ダンスミュージックのオペレッタ"ともいうべき優雅な印象をもたらすことがある。歌詞もシュールな印象がある。"I Can See in Through My Eyes"などを聴くと分かる通り。

 

 

 「Runner」

 

 

 

『Squeeze Me』は明確に言えば、ソウルアルバムではあるまい。ただ、部分的にR&Bやコーラス・グループからの影響が感じられる。 


「Rodeo」では、ディスコポップの影響が強まり、コーラスの箇所にブラックミュージックからの強いフィードバックが感じられる。シンセベースがファンクのビートを強調するが、ボーカルは内省的な雰囲気に満ちている。ボーカルとシンセ、リズムの組み合わせは、レトロなドリームポップ、懐古的なソフィスティポップともいうべき特異な空気感を持たせる。コーラスには異言語的な発音の響きを活かし、外国語の言葉遊びのようなユーモラスなニュアンスを強め、言語の訛りを長所として活かしている。

 

これらのエキセントリックな言語の響きの組み合わせは、これまであまり知られていなかった言語のユーモラスな性質を強めるだけではなく、ノスタルジックな感覚を呼び起こすことがある。それは、ドイツ語と英語の異文化圏のハイブリッドという歌手の人生観のフィードバックとも解釈出来る。


シンガーは、幼少期に聞いていたかもしれない音楽、そのわずかな記憶の糸を手繰り寄せて、独創的で抽象的な音楽空間を作り出す。そして、Broadcast(Warp)の制作していたような、抽象的であるが夢想的な感覚を、ものの見事に呼び覚ます。というか、これらの贔屓目のあるプロデュースを聴くかぎり、ソフィア・ケネディはWarpが結構好きなのではないかという疑惑すら生じる。

 

 

「Feed Me」は、フォーク風の楽曲で、ちょっと自虐的なニュアンスが込められている。このアルバムとしては珍しく、ベースとピアノが活躍し、ライブでぜひとも聞いてみたい一曲である。ジョン・レノンの「Imagine」を彷彿とさせる、ポピュラーソングの古典的な和声進行から、牧歌的で穏やかな感覚が汲み出される。スペーシーなSEの音響効果や叫びが途中で入ったりもするが、全般的には慈愛の雰囲気に満ちたポップソングとなっている。このアルバムでは、一番温かい雰囲気が感じられる。そして、過去の英語の訛りは、ドイツ語の訛りへと"反転"している。明確なタイトル曲がないアルバムだが、暗示的にタイトルのフレーズが歌われているのを見ると、隠れたタイトル曲である。この曲ではシンガーの複数の内面の感覚が様々な形で表されている。

 

 

最も心を揺さぶられる曲がある。それが七曲目に収録されている「Oakwood 21」である。ジャズの香りを添えた王道のバラードソングで、ケネディーのボーカルは静かなピアノと相まって、心に染み入る感じがある。アルペジオによるシンプルなピアノの伴奏の中で、同じように、シンプルなコールアンドレスポンスの手法で、ボーカルが歌われている。もしかすると、このような曲は、時代を超えた自分自身との繋がりを取り戻すための手立てであり、それは遠く離れてしまったアメリカへの親和性を我が手に取り戻すための回路のような働きをなす。この曲の中で、彼女はまるで、かつての自己やその思い出を抱擁するかのように、最もシンプルで美しいボーカルを披露する。

 

「Oakwood 21」は映画音楽のサウンドトラックやBGM(バック・グランド・ミュージック)のコンポジションの技法、もしくは舞台のミュージカルやオペラティックな劇伴音楽の効果を活かし、イントロのささやかなモチーフは信じがたいほど広大なスケールを持つバラードに成長する。これまでのアーティストの生き方を表すような素晴らしい一曲として聞き入らせてくれる。

 

 

 「Oakwood 21」

 

 

 

映像と音のイメージを直結させるという技法は、「Upstairs Cabaret」にも発見することが出来る。これは、フランスのドビュッシーが『Images』で、いち早く取り入れた画期的な作曲技法だった。また、一例では、アメリカの映画評論家のジェイムス・モナコ氏は、''映画音楽は映像の付加物である''と定義付けたが、''優れた映画音楽は映像を超越する瞬間がある''とも述べている。音楽が想像を超える神秘性を持ちうることはデヴィッド・リンチも認めていた。そういった音楽の神秘的な一面をインストゥルメンタルとして体現させたのがこの曲だ。映画音楽の持つ独特なムードやアトモスフィアの醍醐味を知り尽くしているから、こういった曲を作ることが出来るのだろう。

 

 

一般的には、ジェイムス・ジョイスやプルースト、マルケスの著作のように、連続した音楽作品のアルバムの中に、長期的な十年や二十年のような長い時間が流れが含まれることは歴史的に見てもきわめて稀である。


しかし、『Squeeze Me』は、推察するかぎりでは、短いミクロの単位を起点にし、より大きなマクロのシンガーの人生が断片的に反映されている気がする。つまり、一日の始まりから終わりまでを音楽的に網羅したと言える。そして、アルバムの曲の印象は、朝の爽快さや個人的な出来事から夜の雰囲気に移り変わる。アルバムの中盤では夕方になり、そして終盤では夜から真夜中になる。ある意味では、人生の一コマの流れが、この40分近い作品に凝縮されている。

 

夜のテーマを印象付ける「Closing Time」は、同名のアルバムを持つトム・ウェイツのように、淡く渋いバラードソングである。しかし、ウェイツが深夜過ぎのピザ屋での労働の気怠さや哀愁を反映していたのに対して、ケネディの場合は、音楽全体が着飾るようなスタイリッシュさ、ファッショナブルな感覚に縁取られている。夜になると、心楽しい空気感やエンターテイメントの雰囲気が強まる。これこそ、Berlinerとしての独特なライフスタイルを伺わせる。


最後に収録されている「Hot Match」は、アルバムの中で最もパワフルな印象に縁取られている。ニューウェイブ/ポストパンク的とも言えるだろうし、ブロンディのデボラ・ハリー的とも言える。この曲ではきっと、シンガーソングライターのこの上なくクールな一面を体験することが出来るはずだ。

 

 

88/100

 

 

 

Sophia Kennedy(ソフィア・ケネディー)の3rdアルバム『Squeeze Me』は本日(5/23)、City Slangから発売されました。 アルバムのストリーミングはこちら


Alexandra Savior

パートナーのドリュー・エリクソンとパンデミックの最中に始めた『Beneath the Lily Pad』は、過去半世紀にわたるアレクサンドラ・サヴィアーのありようを通じた幽玄な旅である。それはまた、自分が何者であるかを探る、果てしないアイデンティティの確立への道のりでもあった。

 

「自分自身と自分の音楽の、ソフトで、感情的で、フェミニンな面が弱いかなと何年も感じてきた後、自分が何者で、何を望んでいるのかを見極めるために、はてしない靄の中を彷徨っているような、ほとんど夢のような時間だった」


2020年のアルバム「The Archer」をリリースしたあと、次の作品をリリースするレーベルもないからと思っていたところへ、伝説的な名門レーベルからコンタクトがあった。それは彼女の果てなき逡巡からの脱出するための契機となった。


以前、Paper Rocksとのインタビューで彼女はいかに次のアルバムの見通しが立たないかを笑いを交えて話していた。


「私は長い間曲を書いてきましたが、アルバムの最終的な形をまだ頭の中で見つけていません。しかも、またリリースするレーベルがない(笑) 前のアルバムとは違う音楽となりそう。この一年が私たちを停滞の段階に導いたので、それは映画的ではなく、遅くて穏やかになるかもしれない。正直言うと、このアルバムがいつリリースされるかさえわかりません。レーベル契約がなければ、お金がありません。運が良ければ、今年末に発売されるかもしれませんね(笑)」


しかし、他者との関係、彼女を取り巻く世界の中で、アレクサンドラ・サヴィアーはそういったシュールレアリズムのような不確かな時間を生きながら、本能こそ自分の頭の中にあるどんな疑念よりも強力であることを学んだ。 「今回は音楽がどう受け止められるかをあんまり考えていなかった。 他の人がどう思うかではなく、ただ自分のために自分の好きなように作ることができた」


過去に自己が決めつけていた水準を越え、なんでも出来るという自信に満ち溢れた感覚、心理学的に言えば、エフィカシー(自己肯定感)の影響は、リスナーが最初に耳にする "Unforgivable "のように、アルバム全体に波及している。 「この曲は、私がエゴの外に生きることを学んだ最初の例のひとつ。誰か他の人(この場合はパートナーのドリュー)を心から信頼することにより、私と曲を私の頭の中でしっかり聴こえるようなところまで導いてくれたの」と彼女は言う。 この曲は、セラピストとのフェイス・タイム・セッションの後に生まれた。


人生は映画や物語のシナリオのように入り組んでいる。果たして、筋書き通りに進む、曲がりくねったり入り組んでいないものが人生と言えるのだろうか。そして、そのメガホンを取るのは、制作者である”自分自身”である。アルバムの奥深くでは、"The Mothership "や "Goodbye Old Friend "といったシングルがアレクサンドラ・サヴィアーの次章のページを埋め尽くしている。また、それは自己紹介以上の人生のシナリオを解き明かすような働きをなすのである。


前者は、彼女がメンタルヘルスと双極性障害の診断と闘う中、パートナーのドリュー・エリクソンとの絆と人間的な優しさを解き明かす。後者は、彼女自身がその終結に果たした役割を見つめ直すことで、人間関係の再構築を迫られた。 「All of the Girls」は、アレクサンドラが "ローズマリーの赤ちゃん "に夢中になっていた時期に生まれ、ソーシャルメディア上で他の女性と比較することが大流行した、きわめて破滅的な出来事から生まれた。 「Let Me Out」には過去のデモへのリンクもある。この曲は、彼女が最初のツアー以来、何らかの形で温めてきた。このアルバムのために再アプローチし、ストリップバックするのがようやく適切だと感じた。


このアルバムは、直線的な道筋をたどるとはかぎらない。言い換えれば、その音楽的なストーリーの弧は、アーティストが困難な時期から癒されるまでの期間をなぞるのではなく、単純には解き明かしがたい。そう、だからこそ音楽を作る必要があった。「人生とはそういう簡単なものではないし、私のメンタルヘルスの旅もけしてそうではなかったから」と彼女は述べている。 


「このアルバムのトラッキングには、複雑な過程をそのままのかたちで反映させたかったの。 人生には浮き沈みがつきものでしょう。生きていれば、物事は良くなることもあれば、落ち込むようなことだってあるでしょう。たぶん、それ以外の方法で、この物語を語ることは、私という人間や私がいる場所に対して誠実とはいえなかったでしょう」



『Beneath the Lilypad』は奔放な創造的自由から生み出された。「そのおかげで、アルバムの制作のプロセスを通じて、ミュージシャンとして、ソングライターとしての自分により自信が持つことができた」サヴィアーは述べている。

 

「私はこれまで自分にかなりのプレッシャーをかけてきた。 正直に言えば、"難しい "と思われることを気にするのはうんざりしている。 今回、私は、パートナーのドリュー・エリクソンと一緒に仕事をしていて、彼は私の頭の中にあるネガティブな声に耳を傾けないように、よく励ましてくれた。 そのおかげで曲に何を求めているかを主張することに不安を感じなかったし、音楽はその恩恵を大いに受けたでしょう。 できれば、その教訓を10年前に学んでいればよかった」


このアルバムはマン・レイやマヤ・デレンのようなシュールレアリズムの超現実主義的な映画作家へのオマージュとなっているという。サヴィアーはこのことについてくわしく説明している。


「マヤ・デレンの短編映画『At Land』には触発を受けることが多いわ。私にとっては、夢のシーンの中を歩いている女性を表しているんだけど、私の精神衛生上、ここ数年の多くは夢の中(あるいは悪夢の中)を歩いているような不思議な気分だった。 私の視点から、ダークで神秘的な要素を伝えたかったし、このようなことを追いかけることは、いつもその中で生き続ける助けになるの」


アウトサイド・ランドを含む今夏のフェスティバルを控えたサヴィアーは、クールな一世代前の才能として名を馳せてきた。最新の新曲ではノワール映画やヴィンテージのシュルレアリスム映画、そして予言的なイメージメーカーのマン・レイ、ジャン・コクトー、マヤ・デレンに敬意を表している。


アメリカの伝説的な名門レーベル、RCAから、次世代のラナ・デル・レイやミツキとして、とびきり個性的な実力派シンガーが登場する。その名はアレクサンドラ・サヴィアー。ポップ界のニュースターの誕生。

 

 


 Alexandra Savior 『Beneath The Lilypad』- RCA

 

 

 

『The Archer』を聴いたことのある音楽ファンは、このアルバムを聴いて、同じシンガーソングライターによる作品であるとは思わないかもしれない。それほどまでに『Beneath The Lilipad』はシンガーとしての劇的な転身ぶりを伺わせる。

 

ロサンゼルスの歌手、アレクサンドラ・サヴィアーは、まるでその人が生まれ変わったかのように、作風に大きな衝撃的な変化を及ぼした。前作までは、現代的な音楽という観念に振り回されていた。


今回は、古典的であると言われるのを恐れず、ポピュラースタンダード、ジャズ、そしてミュージカルの影響を交えて、リバイバル的なポピュラーソングの魅惑的な世界を構築している。しかし、『Beneath The Lilypad』を聞けばわかるとおり、フォロワー的ではない。ダークでアンビバレントな感情が、アレクサンドラ・サヴィアーのこよなく愛する20世紀のシュールレアリストの世界観と見事に結びついた。

 

このアルバムの中に内包される、モノクロの世界の反映、それはとりも直さず、シンガーの精神世界の反映の意味を持つ。サヴィアーは、その鏡をのぞきこみ、そして歌をうたうごとに自己が様々な姿に変身するかを見届ける。サヴィアーは気がつく、自分の意外な姿がどこかにあったということを。そして、音楽の世界をつなげるアーティストとファンとの関係が続くシナリオを完成させる。音楽ファンは、「アリス・イン・ワンダーランド」のような音楽世界をおそるおそる覗き込む。そして、恐ろしく不気味なように思える、その世界の中に足を踏み入れると、不思議なほど精妙で高らかな感覚を発見することが出来る。これは単なる音楽世界ではない。パートナーのドリューとの信頼関係の中で構築された”人間的な愛情の再発見”である。

 

アレクサンドラ・サヴィアーの音楽観は完成されている。20世紀のミュージカルのような音楽を下地に、カントリー、フォーク、ポピュラー、ジャズ、シャンソンのような音楽性が一緒くたとなっている。これは、サヴィアーの2020年以降の複雑な心理状態の写し身のようになっている。しかし、それが制作者の志向するソフトで感情的、そしてフェミニンという感覚が上手く音楽を中和させ、マイルドにしている。それほど音楽自体は重苦しくはならない。その証だてとしてオープニングを飾る「Unforgivable」は、カントリーをベースにしたポピュラースタンダードである。イントロの後の歌い出しは軽やかで、ボーカルの抑揚と平行して、華やかなホーンの演奏が音楽を陽気にしている。サビの最後の部分で曲のタイトルが歌われると、音楽の深い余韻が表れ、そしてコーラスが加わり、音楽全体がより華やかさを増していく。

 

 

 「Unforgivable」

 

 

映画的ではないと説明されているが、音楽的に言えば、そのかぎりではないかもしれない。アルバムの冒頭では、マカロニ・ウェスタンやヘンリー・マンシーニの音楽が登場する。例えば、「The Mothership」は西部劇の映画風のギターのイントロの後、 グロッケンシュピールのようなオーケストラの金管楽器を交えて、魅惑的なオーケストラポップの世界を敷衍させていく。普通、こういった曲は恐れ多い感じがし、わざとらしい歌い方になることが多いが、背景のトラックや演奏にまったく気後れしていないのが見事である。ただ現代的なイディオムがないわけではない。サビの部分では、2020年頃のポップネスを活かしてモダンな印象を形作る。

 

サヴィアーのペシミスティックな音楽性は続く「Goodbye, Old Friend」に見出される。ここではマンシーニのような映画音楽や、ロネッツのような最初のガールズグループのR&Bを吸収し、鋭い立ち上がりを見せるスネアのドラムの演奏を中心に、魅惑的なバラードを提供している。弦楽器の組み合わせが芳醇なハーモニーを形成し、過去の友人、そして自らに別れを告げるという内容だ。そこには過去の自己の姿を少し憐れむような視点で見る現在のシンガーの姿が見いだせる。時間的な経過を上手く反映させたコケティッシュな魅力を放つポップソングである。美麗なストリングスのハーモニーは、日本の歌謡曲にも比する独特な音響空間を作り上げる。

 

フレンチ・ポップやイエイエの系譜に属するヨーロッパ的な音楽が続く。「All Of The Girls」はフランソワーズ・アルディ、シルヴィ・バルタンのようなフランスのポップシンガーの音楽を復刻させる。しかもアメリカ的な方法によってである。

 

これらはクラシックとポップ、そしてジャズの次世代の音楽として、20世紀のフランスのヌーヴェル・ヴァーグの運動の一環として発生したのだったが、この曲は同時に、20世紀のシュールレアリストの巨匠のモノクロの世界観とぴたりと重なり合う。つまり、未だ女性的な権利が確立されていなかった時代への共感性のようなものが紡がれている。

 

そして、それは、悲しき女性のスターへの憧れ、という20世紀の女性の社会通念のメタファーのような働きを持つ。それらの古典性がチェンバロ(シンセ)の伴奏、そして弦楽器やピアノの録音によって紡がれ、短調のバラードソングという全体的なイメージを形作っていく。現代的な女性の地位、実はそれは、20世紀にはほとんど確立されていなかったのである。制作者は、その報われないような恋愛や感情をペシミスティックな音楽に上手く乗せている。現代的な自己主張のような行動は、男性側から見ると、ラディカルな印象を受けるかもしれない。しかし、考え方によってはそれらの未然の時代に対する強い反抗を意味しているのだ。

 

 

同じく、「Hark!」はマイナー調のフォークソングで、前の曲の流れを受け継いでいる。しかし、前の曲が心情的な悲しみを歌ったものであるとするなら、この曲はそこから少し立ち上がる瞬間を描いている。 こういった曲は、WW2の後、結構流行ったという印象があり、”ムード歌謡”のような雰囲気で始まり、その後、次第に幻想的な雰囲気が強くなっていく。妖精的な雰囲気を持つサヴィアー歌声は、ある意味では、この曲が作られた時点の制作者の姿と理想の姿との乖離を暗示していると思われるが、なぜか、心地よい空気感に満ちあふれている。陶然としているようで、どこか冷然としており、また冷たいようでいて、うっとりとした感覚がある。直線的ではないという音楽的な流れのようなものが、以上の二曲には分かりやすく表れている。

 

 

「Unforgivable」と並んで、「Venus」はハイライト曲である。同時にジャズ・スタンダードを意識した曲で、ジュディ・ガーランドから出発するディズニー音楽にも通じるものがある。他の曲に比べて、ヴォーカルの録音がクリアな音像を持つ。「RCAの録音のレガシーの精華」ともいうべき曲である。シンセとピアノを組み合わせ、その後、弦楽器のトレモロで夢想的な雰囲気を盛り上げるというガーランドの録音の系譜を受け継ぎ、ノラ・ジョーンズ以降のモダンジャズのエッセンスを盛り込み、古典的だが新鮮な味わいを持つ音楽が生み出された。


器楽的な効果も重視されている。メロウなムードを盛り上げるエレクトリック・ピアノ、そして雰囲気をゴージャスにするチェロやバイオリン(もしくはビオラ)のユニゾンが美麗な雰囲気を放つ。特に二番目の変奏は素晴らしく、ピアノがグロッケンシュピール、そして新しくデューク・エリントンやカウント・ベイシーに象徴されるビッグ・バンドを彷彿とさせるホーンが加わっている。

 

 

「Venus」

 



アルバムの終盤に至ると、表向きの曲の派手さは薄れるが、その一方で、音楽そのものの求心力が強まる。それは、サヴィアーの持つ音楽世界に惹き込まれたということである。ギターとサヴィアーのコケッティッシュな歌声はブルージーな印象を放つ。しかし、渋い曲であるが、メロディーメイカーとしての性質は依然として薄れず、強固な音楽性を維持している。

 

この曲もまたボーカルの録音、そしてミックス/マスタリングが傑出している。特に、大きな音像を持つウージーなギターが歌声の持つブルースの魅力を盛り上げていき、それは悲しみから勇壮さという印象へと移り変わっていく。この曲でも、ヘンリー・マンシーニのような哀愁のある音楽性が、アレクサンドラ・サヴィアーの持つ世界と混ざりあい、特異な音楽性を作り上げる。後半部では、大掛かりなストリングスのレガート/トレモロの演奏が、ウインドチャイムのアルペジオ、そしてサヴィアーの催眠的なボーカルの広がりと合わせて、その音楽の世界を完全にしていく。フィル・スペクター級のきわめてハイレベルな録音と楽器編成が敷かれている。

 

 

そして、表面的な印象はさておき、本当の凄さはアルバムの最終盤に訪れる。歌手としての圧巻の才能を感じさせることもある。「Old Oregon」は王道のピアノバラードのスタイルを踏襲し、メロとサビの箇所を行き来しながら、特にサビの箇所で精妙な感覚をボーカルで表現している。こういった曲を聞く限り、MAGAとは、それぞれの人々の心の中にしか存在しないと思わせるほどだ。しかし、少なくとも、カントリーやフォーク・ミュージックといった楽曲、つまり米国の遺産は、現代的な歌手に受け継がれ、それが新しい形式に生まれ変わったことを伺わせる。そしてこの曲でも、アルバム全体の一つのテーマやモチーフのような役目を果たす夢の中を歩いているような感覚が上手く音楽に浸透し、聞き手を同じような陶酔的な領域に誘う。もちろん、それは録音の水準の高さはもちろん、聞き惚れるような歌声があるから為しうる。

 

 

ビートルズの「Strawberry Fields Forever」に見出されるようなバロックポップは、チェンバロのような楽器と組み合わされ、独特な音響効果を形作る。タイトル曲「Beneath The Lilypad」は、明らかにイエイエとチェンバーポップの影響下にあり、同時に、ポピュラーソングのリバイバル運動の一環に属する。この曲では、悲しみと暗さの間を行き来しながら、感情の落とし所を探る、という局面が反映されている。それは制作者の浮き沈みの多い感情を映し出すように、上がったり下がったりを繰り返す。そして素晴らしいのは、音楽全体が感情や心情の流れを形作る機能を果たし、機械的になることはあまりない。機械的なものであれば、AIでも制作出来る。とすれば、人間にしか出来ないことをするのが今後のアーティストの急務ともいうべき点だろう。そしてこの曲の場合は、プロデューサーの遊び心が色濃く反映されていて面白い。

 

 

去年あたりに、西海岸のある有名シンガーが「今後の米国の商業音楽の主流はカントリーになるかもしれない」と言った。このアルバムを聴くと、それはある部分では当たったと言える。少なくとも、古い時代から良いものを学び、次の世代に活かすというのは、有益なことではないかと思う。 

 

「The Harvest is Thoughtless」は、カントリーとオーケストラ、ジャズの融合を通じて、ニール・ヤングの音楽的な土壌の豊かさを受け継いで、見事に現代的なイディオムに置き換えている。曲の間奏の弦楽器の演奏には、アジアのヨナ抜き音階も登場し、エキゾチズムが表現されることもある。何より、この曲はまだ他の地域の音楽が一般的に知られていなかった時代の未知の期待感に満ちあふれている。 それが壮大なスケールを持つクラシックのオーケストラで真摯に表現されるとあらば、さらっと聞き流すというわけにもいかない。それだけ念入りに音楽が作り込まれているので、心を惹きつけたり、しっかりと集中させる何かが存在するのである。そして、素人ではなしえないことをするのが、プロフェッショナルな人々の仕事なのだ。

 

「You Make It Easier」は、過去を見ながら未来を見つめるともいうべき、驚くべき希望に満ち溢れた一曲である。この曲では、オーケストラの編成を通じて繰り広げられるポピュラーソングの大まかな歴史の変遷が含まれている。このクローズ曲は、アメリカ音楽の偉大な遺産とその系譜の集大成とも言える。いかなる音楽も、外的な文化干渉なしには完成しえない。つまり、外的な干渉なしに確立された音楽は完全には完成されていない。という側面を見ると、アメリカの音楽が、外国の音楽文化との交流により、どのような結末を迎えつつあるかの道筋である。

 

同時に、このアルバムや、その制作者のアレクサンドラ・サヴィアーに関して言えば、シンガー”ソングライターとしてのアイデンティティの確立”という付属的なテイクバックがもたらされたというわけである。他地域の様々な文化の外的な干渉を受け、古典性と新規性の間を揺れ動きながら、2025年のアメリカの音楽は、重要な分岐点に差し掛かっていることを痛感する。

 

 

 

98/100

 

 

 

 

「Old Oregon」