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GoGo Peguinはイギリス、マンチェスター出身のインストゥルメンタル・トリオ。クリス・イリングワース(ピアノ)、ロブ・ターナー(ドラムス)、ニック・ブラッカ(ベース)という夢のようなラインナップに落ち着いたのは2013年のことだった。
それ以来、インスピレーションやオリジナリティの豊富さに対してことごとく称賛と絶賛を浴びてきた。 ジャズ、クラシック、エレクトロニックなどの影響と革新への渇望を融合させた彼らは、マーキュリー・プライズ・アルバム・オブ・ザ・イヤー(2014年)を受賞し、レコード、ライブでも成功を収めている。
ゴーゴー・ペンギンの音楽はカテゴライズを拒んできた。 彼らのサウンドには、スウェーデンのエスビョルン・スヴェンソン・トリオ(通称 EST)や、スティーヴ・ライヒ、ジョン・アダムス、さらにはエリック・サティのような、ミニマル・クラシックの作曲家のような、ジャズにおける昨日の発展の痕跡が見て取れるだろう。 エイフェックス・ツインやカール・クレイグのインナーゾーン・オーケストラといった希薄なテクノから、ヨーロッパ・ハウスのエモーショナルなメロディとクレッシェンド、そしてジャズを取り入れたドラムンベースを網羅している。
2014年のアルバム『v2.0』で栄誉あるマーキュリー賞にノミネートされた後、クリス、ニック、ロブの3人は、多忙なツアーと両立させながら作曲とレコーディングを進めた2枚のアルバムで音楽的な絆を固め、懸命に働いた。 4枚目のアルバム『GoGo Penguin』(『Man Made Object』、『A Humdrum Star』に続き、伝説のレーベル、ブルーノートからリリースされた3枚目)では、ジェットコースターから飛び降り、2019年の活動時間の大半を自分たちの音楽の限界に挑戦した。
クリス・イリングワースはピアニスト、作曲家であり、マンチェスターのアコースティック・エレクトロニカ・バンド、ゴーゴー・ペンギンの創設メンバー。 ロイヤル・ノーザン・カレッジ・オブ・ミュージックで学び、2007年にBMus(優等学位)とPostgraduate Diploma in Performanceを取得。 幼い頃からクラシックからインダストリアルまで幅広い音楽を愛し、特にエレクトロニカとエスビョルン・スヴェンソン・トリオのジャンルを超えたユニークな音楽に惹かれてきた。
12歳で初めてピアノ/ベース/ドラムのトリオを結成し、同時期にエレクトロニック・ミュージックの実験を始め、アコースティックピアノと並行してアタリSTとローランドMC307で作曲を行った。 長年、クラシック・ピアニストとして活動してきたが、他のミュージシャンとのコラボレーションやバンドでの演奏において本領を遺憾なく発揮している。クリスは、GoGo Penguinでは5枚のアルバム、1枚のスタジオEP、2枚のライブEPに参加している。 2019年、クリスはロビン・リチャーズ(Dutch Uncles)と映画「The Earth Asleep」のスコアで共演した。
ニック・ブラッカはベーシスト兼作曲家でリーズ音楽大学で学び、ジャズ研究の優等学士号を取得している。GoGo Penguinに参加する以前、ニックはマンチェスターのシーンで需要の多いベーシストとして、イギリスとヨーロッパで定期的に演奏して、エレクトロニック・プロデューサーでDJのAimのライブ・ベーシストとして活躍。 "クロスオーバー "ベーシストとしての評価を得てきた彼は、パワフルでグルーヴを重視したスタイルのコントラバス演奏で知られ、楽器の限界を押し広げている。 GoGo Penguinでは、4枚のアルバム、1枚のEP、2枚のライブEPに参加している。
バンドのセカンド・アルバム『v2.0』は2014年のマーキュリー・ミュージック・プライズの最終候補に残った。 2015年、バンドはゴッドフリー・レジオ監督のカルト・クラシック映画「Koyaanisqatsi」のオルタナティブ・スコアを作曲し、ヨーロッパと北米で映画とともにライブを行った。 2021年、ゴーゴー・ペンギンはフランスのインディペンデント映画「メメント・モリ」のサウンドトラックを作曲した。
ニュー・アルバム『Necessary Fictions』はモジュラー・シンセ、ムーグ・グランドマザー、エレクトリック・ベースをこれまで以上にサウンドに取り入れ、アコースティック楽器からドラムを前面に押し出したエレクトロニカへと華麗に滑空する。内部探索に関するアルバムであり、「現時点で私たちが考える私たちの不可欠な本物の資質」を見つけるために深く掘り下げていると説明する。
イリングワースは、彼らはすでに将来について考えており、次に何を作るかについて自信と興奮を持っていると説明している。それはこのアルバムを聞けば火を見るより明らかだ。「スタジオで作っている間、たくさん笑っていたことに気づいていました。そして今、それについて考えるだけで笑っています。そういった明るいエネルギーが人々に伝わることを願っています」
『Necessary Fictions」 - XXIM/Sony Music
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ジャズの大まかな歴史は、そのまま”音楽における冒険と革新”に求められるのではないだろうか。ニューヨークのジョージ・ガーシュウィン、アメリカ南部のビッグ・バンドに始まり、ビバップ、モード、フリージャズ、エレクトロ・ジャズ、さらにはエスニック・ジャズ、スピリチュアル・ジャズ/アンビエント・ジャズ等、例を挙げればきりがないが、常に先人のジャズプレイヤーは、各々のタレントをいかんなく発揮することで、音楽の未知なる境地を切り拓いてきた。
そのクロスオーバーは、近年ではジャズに留まることなく、ヒップホップ/ネオソウルにまで及ぶ。そもそもジャズという音楽形態は、他のジャンルとの融合によって進化しつづけてきたとも言えよう。ジャズの萌芽は、明らかに、フランスの印象主義の作曲家、ラヴェル、ドビュッシー、ストラヴィンスキー、そして彼らをアカデミズムの側面で導いたガブリエル・フォーレに、ジャズの和声法の原点が見いだせる。また、ジャズのコールアンドレスポンスやモードなどのcompositionに見受けられるように、ポリフォニックな音の構成がジャズの基礎になってきた。
結局、音楽の始まりが、教会旋法やグレゴリオ聖歌に見いだせるポリフォニーのストラクチャーから誕生したように、和声法の基礎である縦方向の音の構成ではなく、横や斜め方向の音の構成が複数の楽器や多声部旋律により成立したという経緯がある。最初の集大成は、JSバッハとモーツァルトであり、現代のジャズのポリフォニックな響きの原点は、二人の大家の器楽曲に見いだせるはずだ。
そもそも、横の音の流れ、専門的に言えば、和声の分散和音を繋げる役割を司る経過音が滑らかに流れていかなければ、音楽的な優美さが希薄になるのは明白である。より一般的に言えば、もし、ヘヴィメタルに美しく陶酔させるようなギターソロがなければ無味乾燥に陥ってしまうのと同じなのだ。作曲や楽曲構成の基本として言えば、跳躍する音階は非常に例外的で、歌にしても、器楽的な効果にしても、ここぞというときにとっておかないとあまり効果がない。
ゴーゴー・ペンギンはペンギン・カフェ・オーケストラを連想させるプロジェクト名であるが、実際的にはアート志向の音楽という共通点は求められるにせよ、クロスオーバージャズを旗印に活動する三人組である。
トリオの演奏力はきわめて高く、どのような音楽を演奏で実現するのか明確に見定め、各々が他者の意図を見事に汲み取り、上記のポリフォニックな音の構成により、イマジネーション豊かな音楽が構築される。鍵盤奏者、ウッドベース(コントラバス)、ドラムという必要最低限のアンサンブルであるが、室内楽アンサンブルのような洗練された質の高い演奏力を誇る。しかも、クリス、ロブ、ニックの三者の演奏者は、器楽的な特性を十分に把握した上で、 それぞれの個性的な音を強調させたり、また、それとは対象的に弱めたりしながら、聞き応えのあるアンサンブルを築き上げる。
『Necessary Fictions』は、まるで彼らのライブレコーディングを垣間見るかのようにリアルに聞こえ、そして、現代的なレコーディングの主流であるツギハギだらけのパッチワーク作品とは異なる。録音のシークエンスは断続的で、48分という分厚い構成であるが、一気呵成に聞かせてくれる頼もしい作品だ。このアルバムは、テクノ、ジャズ、ロック、どのようなジャンルのファンですら唸らせるものがある。そして、シンセ(ピアノ)、ベース、ドラムが全編で心地良い響きをもたらしている。ゴーゴー・ペンギンは、客観的あるいは批評的な視点を持っていて、それが余計な音を徹底的に削ぎ落とすというミニマリズムの本質へと繋がっている。ミニマリズムの本質とは、音の飽和にあるのではなく、音の簡素化や省略化にもとめられるというワケなのだ。
アルバムのもう一つのトレードマークになっているのが、マンチェスターの実在の構造物をあしらったアートワークである。無機質であるが、機能的、デザインとしてもきわめて洗練されたアルバムジャケットは、ゴーゴー・ペンギンのジャズ、あるいは、テクノのイディオムと共鳴するような働きをなしている。また、そこにはドイツ/ドゥッセルドルフのような電子音楽の重要拠点と同じように、工業都市であるマンチェスターの現在と未来を暗示しているのである。
また、マンチェスター国際フェスティバルの開催を見ても分かるとおり、この由緒ある赤レンガの目立つ素晴らしい港湾都市は、新たなアート形態の発信地になっている。音と映像を融合させたイベントも開催され、リベラルアーツを手厚く支援する土壌が整備されている。例えば、Gondwanaのマシュー・ハルソールは、当該都市の象徴的なミュージシャンである。この動きを中心として、近年になく、マンチェスターはジャズが賑わいを見せているという印象である。
『Necessary Fictions』は、シンプルにいうと、テクノ、ハウス、ジャズ、ロック、クラシックをクロスオーバーしている。ただ、本作の聴きどころは、ジャンルの確認にあるわけではなく、クロスオーバー・ジャズの一般化にあるわけでもない。伝統的なジャズ・トリオにより生み出される複合的なリズム、ポリフォニックな音の構成の巧緻さ、それから次に何が起こるか全く予測できないスリリングな響きにある。そしてそれは、精細感のあるリアルな音のうねりーーアシッド的なグルーヴーーを生成するのである。アルバムの冒頭からそういった個性が溢れ出す。
「1-Umbra」は、ミニマル・テクノを下地にし、シンセベース/シンセリード、ウッドベース、ドラムという三つの楽器がそれぞれ異なる拍子のリズムを刻み、複合的な変拍子を作り出している。
アルバムの序盤では、スティーヴ・ライヒのリズムの革新性やアダムスの旋律的な実験性を受け継いだミニマル・ジャズが繰り広げられる。この曲では、ウッドベースが同じ分散和音を演奏し、そのベース音に対し、パルス音やアルペジエーターのようなシンセの演奏を組み合わせることにより、音の調和や印象が少しずつ変化していく。これらは、Four Tet、Ketttelが好んで使用するようなピアノとシンセの中間にある音色が活用され、それらがシーケンサーのようなリズムのクラスターを作り上げることにより、緻密で入り組んだストラクチャーが生み出される。
一分台からドラムのフィルが入り、アンサンブルやインプロバイゼーションの性質が強まる。しかし、一番面白いのは、強拍や弱拍がドラムの演奏の強弱によって変化するように感じられることだろう。そして、再生時間ごとに異なる和声を作り上げ、レディオヘッドのエジプト音楽のようなエキゾチックなスケールを描きながら、曲の後半に向かっていく。音のアグレッシブな動きや構成の積み重ねは、アイスランドのKiasmosに近い趣向である。これらの音のブロックを建築物のように、ゴーゴー・ペンギンは強固なアンサンブルによって、辛抱強く組み立てていく。
「Umbra」
「2-Followfield Loops」もまたミニマル・テクノをベースに構築されている。ヨーロッパのダンスミュージックに触発され、全般的に見ると、Kiasmosのタイプの曲を選択し、エモーショナルなテクノを制作している。シンセでミニマルなフレーズを反復させるという点では、一曲目と同様であるが、この曲では、ウッドベースが和声的な構成を補佐している。流れるようにスムーズなシンセピアノの演奏に対して、カラフルな表情付けをしているのがコントラバスである。
そして、ピアノの音色を途中からアコースティックに変えたりというように、楽曲のストラクチャーの中で、器楽的な効果を変化させながら、音楽の印象を少しずつ変化させていく。驚くべきことに、これらはコンピューター・グラフィックにおける色彩的なグラデーションの変化のような印象を及ぼす。同時に、音楽としては、理数的な構成であるため、涼し気な音響効果をもたらす。これらは感情と理知のバランスが整っているからこそ生じうる冷却効果なのである。
スケールという観点から見ると、エイフェックス・ツインが頻繁に使用するスケールが利用されている。これらは、ロック的な音楽を電子音楽からどのように再構築するかの一つの過程でもあった。そして、ゴーゴー・ペンギンの場合、生のドラムとコントラバスの演奏を通じて、プログレッシヴロック/ポストロックの性質を強める。ドラムやコンバスの演奏により、曲の持つ強度が強まったり、弱められたりと、音楽的なグラデーションが多彩に散りばめられている。
「3-Forgive The Damages(Feat. Daudi Matsiko) 」はインスト曲だけでは寂しいという方におすすめ。ウガンダ出身のフォークアーティストをゲストボーカルに招聘している。フォーク、ネオソウル風のバラードソングは、Samphaの楽曲に近い素晴らしさがある。この曲のダウディのボーカルは心に染みるものがある。無論、曲の後半で登場するコーラスも美麗なハーモニーを形成していて、胸を打ち、痛ましい魂を治癒するような効果をもつ。ボーカルがウッドベースやシンセピアノの演奏と呼応するような形で、ロックの印象を擁する曲へ徐々に変化していく。ロック的な効果を担うのがドラムの演奏で、曲全体にダイナミズムを付与している。リリック的には、"何もしない時間を大切に"という重要なリリックが織り交ぜられているようだ。これらの鋭い客観的な批評精神は、ゴーゴー・ペンギンの音楽に緩やかさと奥行きをもたらしている。
「Forgive The Damages(Feat. Daudi Matsiko) 」
さらに、アルバムの中盤以降はモジュラー・シンセの演奏を上手く活用した楽曲が多くなる。これらはイギリス/EUのダンスミュージックの集大成のような意味合いが込められている。また、ジャズとダンス・ミュージックの融合の可能性を探求している。
「4-What We Are And What We Are Mean To Be」は、ディープ・ハウスの打ち込みの重厚感のあるキック音で始まり、ジャズトリオの伝統を活かし、多彩な音楽的な変遷を描く。ウッドベースがソロの立場を担い、次にピアノ、さらにドラムへと、ソロの受け渡しが行われる。ニックのベースの演奏は背景となるアンビエントのシークエンスと重なり、エレクトロジャズの先鋒とも言える曲が作り上げられる。Kiasmos、Jaga Jazzist、Tychoを彷彿とさせる、見事な音の運びにより、圧巻の演奏が繰り広げられる。 曲の中盤以降は、オランダのKettelの系統にあるプリズムのように澄んだシンセピアノの音色を中心に、プログレッシヴ・ジャズのアンサンブルが綿密に構築される。物語の基本である起承転結のように、音楽そのものが次のシークエンスへとスムーズに転回していく効果については、このジャズトリオの演奏力の賜物と言えるかもしれない。
「5- Background Hiss Reminds Me of Rain」は短いムーブメントで、電子音楽に拠る間奏曲である。エイフェックス・ツインの『Ambient Works』の系譜にあるトラックである。この曲では、改めてモジュラーシンセの流動的な音のうねりを活かし、それらを雨音を模したサンプリングーーホワイトノイズーーとリンクさせている。クールダウンのための休止を挟んだ後、滑らかなシンセピアノのパッセージが華麗に始まる。「6-The Turn With」は前曲のオマージュを受け継ぎ、エイフェックス・ツインの電子音楽をモダンジャズの側面から再構築しようという意図である。
この曲ではジャズのスケールが頻繁に使用される。ポリフォニックな動きを見せるウッドベースに対し、モノフォニックという側面で良い効果を与えている。特に鍵盤奏者のクリスは色彩的な和声を構築し、音楽に清涼感をもたらす。ドラムの裏拍を重視した演奏も旋律的な曲にグルーヴを与えている。ダンサンブルな曲としてはもちろんだが、メロディアスな曲としても楽しめる。その点では、IDM/EDMの中間に位置づけられ、その境界を曖昧にする一曲。インドアでも、アウトドアでもシチュエーションを選ばずに楽しめる楽曲となっている。
前曲で予兆的に登場したアシッドハウス/ディープハウス、ドラムンベースやダブステップの要素を、ジャズの生演奏から再構築するという視点は、本作の終盤の曲を聞く際に見過ごせない。それは音楽のどの箇所を捉えるのかという側面で大きな変化が生じ、聴き方すら変わってくるからである。
例えば、「7-Living Bricks In Dead Morter」は、スネア/タムのディレイ等のダブ的な効果をドラムの生演奏で再現し、ダイナミズムを作り出す。この曲のドラムは、チューニングや叩き方の細かなニュアンスにより、音の印象が著しく変化することを改めて意識付ける。また、アンビエントや実験音楽の祖であるエリック・サティの『ジムノペティ』のような近代のフランス楽派のセンス溢れる和声法(主音【トニック】に対する11、13、15度以降の音階を重ねる和声法、ジャズ和声の基礎となった)を用い、クラシックとジャズ、ミニマル・テクノの中間点を作り、同心円を描くような多彩なニュアンスを持つ音楽が繰り広げられる。この曲は、次の曲「Naga Ghost」と並んで、エレクトロニックの歴代の名曲と見ても、それほど違和感がないかもしれない。
「8-Naga Ghost」は、ダブステップやドラムンベース、フューチャーベースのカリブ音楽に根ざした裏拍のリズムを活かし、未来志向のエレクトロニックを構築している。ドラムは、リムショットのような演奏をもとに、跳ねるようなリズムを生み出し、それらがミニマル・テクノの範疇にあるシンセピアノと呼応する形で続いている。こういった曲は、ノルウェージャズのようなエレクトロニックとジャズのクロスオーバーと共鳴している。また、その一方、ジャズの持つ本質的な意義が、時代とともに変容しつつあるのではないかと思わせる。つまり、古典的なジャズというのは、今やポピュラーの領域に入りつつあり、ジャズそのものが、ヒップホップと同じように、別の形態の音楽に変わりつつあるのを感じるのである。もちろん、伝統的なジャズを伝えるミュージシャンもなくてはならない存在であることを確認した上で。
クロスオーバーの総仕上げとなるのがクラシック音楽である。「9-Luminous Giants」において、コラボレーター、マンチェスターコレクティヴ、そしてバイオリニスト、Rakhi Singh(ラヒ・シン)が音楽にドラマティックな息吹を吹き込む。ロック調の楽曲にストリングスを加えるというのは、テクノやジャズを軽々と越え、ポストロックとしても親しまれているのは周知の通りだ。
こういった曲を聞くかぎり、どのような単体のジャンルの音楽も完全に独立したものとはなり得ず、音楽の中心に傾倒し、音楽における一体化という概念に吸収されつつあるというのが実情である。「音楽のクラウド化」という表現が相応しい。この曲の場合、ダンスミュージックの楽曲に、バイオリンのレガートが伸びやかさという側面で華麗な印象を添えている。また、これは、ポスト・クラシカル/モダン・クラシカルの動向とも連動して制作された楽曲であろう。
先にも述べたように、ジャズという音楽形態は、いつも冒険と革新と隣り合わせであり、前例のないものとの邂逅でもある。また、翻って言えば、それらの性質なくしてジャズは成立しえない。模倣に終始するのではなく、先人の知恵を活かして、次に何を生み出すというのか。間違いなく、これは現代のミュージシャンや音楽の分野における至上命題となるだろう。このアルバムの場合でも、''新しいものへの飽くなき挑戦''というテーマが掲げられている。それはアルバムの終盤においても変わらず、主軸を定めることなく、ゴーゴー・ペンギンの音楽のバリエーションを象徴付けるかのように、音楽そのものが幅広くなり、そして広汎になり、大きく素早く転回していく。
「10-Float」では、2000年以降のグリッチ/ミニマル・テクノの音楽性を踏まえ、Max/Abletonで生成したようなサウンド・デザインの要素が強調付けられる。''その音楽が、どこでどのように聞かれるのか?''という重要な命題に対するチャレンジである。そしてその飽くなき冒険心は、このアルバムの最後の最後まで貫かれ、さらにその中枢を形成するコアを作り上げる。
「11-State Of Fruit」では、ジャズ・アンサンブルとしての真骨頂を、音源という形で収めている。この曲では、Killing Jokeの時代から受け継がれる、英国の音楽の重要な主題である"リズムの革新性"をアンサンブルの観点から探求していく。シンセピアノの色彩的なアルペジオ、対旋律としての役割を持つウッドベース、それらに力学的な効果を与えるドラム。全てが完璧な構成である。
こういった一貫して聴き応えのある曲を集中性を維持して提供した上で、音楽の核心を示すのが、ゴーゴー・ペンギンの卓越性である。
「12-Silence Speaks」は、1990年代-2000年代初頭のエレクトロニックと同じように、 未来への期待や希望をほのかに感じさせる。この曲を聴いていて漠然とおぼえる謂れのないワクワク感。これこそエレクトロニックの醍醐味である。そして曲の中盤からは、ジャズ・アンサンブルの性質が再度強まり、映画的でドラマティックなエンディングが続く。これはトリオの中にシネマミュージックに精通した作曲家がいるからこそ成しうる試みなのだろう。(『メメント・モリ』のサウンドトラックを参照しよう)
この曲を聴いていてつくづく思うのは、音楽家のテクノロジーへの憧憬が未来への漠然とした明るい希望を示唆している。そこには、「人類とテクノロジーの共存」という次世代のテーマが明確に内包されていると推測する。それは主従関係で築き上げられるのではなく、人類とテクノロジーが、自然との調和のごとく、私達の世界に併立しているということである。アルバムのクローズ「Silence Speaks」は、本当に賞賛すべき曲で、シンセサイザーにとどまらず、ギター、ピアノ、ベース、ドラム、そういったすべての楽器を最初に触った瞬間のような輝かしい感動に満ちあふれている。
驚異的なことを、さも当たり前のようにこなすのがプロフェッショナリティであるとするなら、それはゴーゴー・ペンギンのためにある定義だろう。彼らの音楽は卓越したスポーツのプレーのようで、また、高度な知性に裏打ちされたアート形態のようでもある。本作は、音楽の持つ奥深さを体感するのにうってつけの作品となっている。音楽というリベラルアーツの一形態そのものが、本来は高度な知性主義によって成立していることをご理解していただけると思う。
94/100
「Silence Speaks」