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 Phoebe Rings 『Aseurai』

 

Label: Carpark(日本国内ではP-Vineより発売)

Release: 2025年6月6日

 

 

Review

 

フィービー・リングスは2019年ニュージーランド/オークランドで活動を開始した。当初はジャズスクール出身のリード・シンガー兼キーボーディストのチェ・クリスタルのソロプロジェクトとしてスタートした。現在はサイモン・カヴァナー-ヴィンセント(ギター)、ベン・ロック(ベース)、アレックス・フリーア(ドラム)を加えた4人編成のポップバンドとして活動している。


フィービーリングスのデビューアルバムは、西海岸のソフィスティポップに呼応するようなサウンドで、AOR、ジャズ/ボサノヴァが盛り込まれている。これらにレーベルの紹介の通り、ドリームポップの幻想的な感覚が掛け合わされ、聴きやすく軽やかなポピュラーワールドが構築される。

 

例えば、ソフィスティポップというと、マグダレナ・ベイのようなサウンドを思い浮かべる人もいるかもしれませんが、フィービー・リングスのサウンドはよりスタンダードで、それほどエキセントリックな感覚はなく、万人向けといえるのではないでしょうか。フラットでジャジーなポップソングとして気軽に聴き、楽しむことが出来る。フィービー・リングスのメンバーは元々ニュージランド国内の大学でジャズを専攻していたことからもわかる通り、ジャズのスケールも含まれている。

 

 

ボーカルのクリスタル・チョイの声は韓国の少し前のポップス、もしくは日本のシティポップに近い雰囲気を持つ。 ただ、必ずしも回顧的なサウンドの一辺倒にはならず、現代的なサウンドも盛り込まれている。そして、シンセサイザーの演奏もこのバンドの最大の持ち味ですが、その一方、ファンク/R&Bの軽妙なリズムをもたらすベン・ロックの存在は大きい。バンドの全体的なサウンドを底上げし、聴き応えある内容としている。さらに最後にメンバーに加入したドラムのアレックスも楽曲全体に軽快なリズムをもたらしている。しなやかなドラムはライブステージの見どころになるでしょう。 

 

ジャジーなサウンドは本作の始めから炸裂している。韓国語のタイトル曲「Aseurai」は空気のような意味で、アンビエンスに近いニュアンスを持つ。大きな存在感はないけれど、そこになくてはならない存在という意である。この韓国語の文脈に呼応するような形でアンニュイで、メロウなR&Bタイプのシンセ・ポップソングが展開される。エレクトリック・ピアノの静かな弾き語りで始まり、そして、 音階的なボーカルがドラム、ベースと組み合わされ、アンサンブルとしての性質を強める。金管楽器のように鳴り渡るエレピ、ベース、ドラム、そしてボーカルが高低の音域に散らばめられ、きらめくような心地よいシンセ・ポップ・ワールドを構築していく。また、ソフィスティポップの一環である渋谷系(Shibuya- Kei)のサウンドも反映されており、ムーグシンセのようにユニークなふわふわしたサウンドがこの曲に深みをもたらしている。転調の巧みさ、そしてファンキーなベースがこれらのサウンドにハネやノリを与えている。

 

クリック(メトロノーム)で始まる「Not A Necessary」は、ボサノヴァとドリーム・ポップを結びつけたサウンド。前曲「Aseurai」のメロウな雰囲気を受け継ぎ、 アンニュイな陽気さを体現している。メロトロンの音色が登場したり、トリッピーなシンセの音色が織り交ぜられ、色彩的な感覚を持つ(多彩な音階が散りばめられている)。これらのカラフルなポップソングは西海岸の70年代のバーバンクサウンドと合致し、現代と古典の間をスムースに横断している。これらのサウンドは現時点のフィービーリングスの代名詞ともいえ、海岸のポップサウンドの象徴にもなっている。ニュージーランドのベイサイドの陽気さをポップソングに盛り込む。この曲の後半では、アンサンブルが白熱して、クリスタル・チョイのボーカルは神秘性を持つにいたる。

 

70年代に流行ったフュージョンジャズからの影響も含まれる。そしてフィービーリングスの持ち味は男女のツインボーカルである。四曲目の「Get Up」では、ファンクサウンドをベースに細野晴臣やYMOライクなテクノ・ポップが繰り広げられる。こういった曲はアルバム単位で音楽のバリエーションを付与し、なおかつまたダンサンブルな音楽的な印象をもたらしている。この曲のボーカルはラップからの影響を元に、それらをシンセポップと結びつけている。対して、アルバムの中で最もドリームポップの空気感が強まるのが、五曲目の「Playground Song」です。ボサノヴァ、フォーク、ヨットロック、インディーポップをクロスオーバーし、ボーカルにスキャットやジャズのスケールや音階を付加している。また、ヴィンセントのウージーなギターもメロウなムードを生み出します。この曲では、ボサノヴァの典型的なリズムやフルートを組み合わせ、アフロジャズとトロピカルを結びつけるような空気感が強調される。楽園的なムードを漂わせるうっとりしたサウンドで、海岸筋の夕焼けのロマンティックなムードを表現する。

 

 

1970年代の米国のファンクやR&Bからの影響を現代的なポップサウンドとして昇華させた「Fading Star」もアルバムのハイライトとなる。この曲では、ファンカデリックやEW&Fといったファンク/ディスコが、現代的なバンドの手に掛かると、どのように変化するのかがよく見えてくる。 この曲ではベースのグルーブにも注目したいですが、ギターの裏拍を重視したシンコペーションが心地よいリズム感を生み出す。ジャズに始まり、その後全般的なポップに舵を取ったフィービーリングスのアンサンブルとしての試行錯誤が明確な形になった瞬間と言える。

 

アルバムの後半では、クリスタル・チョイの鍵盤奏者としての閃きが、これらのポピュラーソングを縦横無尽に駆け巡る。シンセの音色の幅広さが楽曲の表情付けに反映され、カラフルな質感を持つインディーポップソングが繰り広げられる。まるでチョイはシンセの鍵盤を叩くと、玉手箱のように代わる代わる異なる音色を紡ぎ出す。それは哀感を持つものから喜びを体現するものまで幅広い。これらの音楽的な引き出しの多さは「Drifting」にも見いだせる。シティポップに近い音楽としても楽しめるに違いない。しかし、やはりというべきか、フィービー・リングスの音楽をより現代的にしているのがジャズバンドの性質である。さらに、トリッピーなシンセの音色はパーカッシヴな力学を及ぼすこともある。これらの驚きに満ち溢れたキラキラしたポップソングは果たしてライブステージでどんなふうに聞こえるのでしょうか。

 

 

アルバムの後半では、シンセポップによるバラードソング「Blue Butterfly」も聴き逃がせません。この曲では、よりドラマティックなバラードを書こうという意識が明確化された瞬間である。


本作はレディオヘッドのオマージュのように聞こえる「Goodnight」で締めくくられる。バロックポップをエレクトリック・ピアノの弾き語りを通じて体現したこの曲は、中盤で美麗なハーモニーを描きながら、アルバムはエンディングへと向かっていく。次作では、音楽に拠るストーリーテリングの性質がより大きな成果になって帰ってくるかもしれません。韓国のポップや日本のシティポップを盛り込んだドリーミーなポップソング「Aseurai」、ヨットロック/ソフィステイポップソング「Playground Song」をフィービーリングスの入門曲としておすすめします。

 

 

82/100

 

 

 

「Playground Sound」  

Hayden Pedigo  『I'll Be Waving As You Drive Away』

 

Label: Mexican Summer

Release: 2025年6月6日


Listen/Stream

 


Review 

 

テキサスのギタリスト、ヘイデン・ペディゴ(Hayden Pedigo)は、基本的にはフィンガースタイルのアコースティックギターを奏でる。ペディゴのギターの演奏力は卓越しています。ヤスミン・ウィリアムズと併んで、アメリカの現代アコースティックギタリストの中でも最高峰に位置します。


2023年以来のニューアルバムは前作に続いて、『The Motor Trilogy(モーター三部作)』の一環として制作された。三部作の最終作品です。前作『The Happiest Times  I Ever Ignored』 のレビューは時間の関係で飛ばしてしまいました。一般的には今作の方が聴きやすいアルバムだろうと思います。

 

ジェニー・ルイス、デヴェンドラ・バンハート、ヒス・ゴールデン・メッセンジャーらとの2年間にわたるノンストップ・ツアーを経て、制作された最終作には、「本当に人間的な何かがある」とヘイデンは公言する。「フェイスペイントもせず、青い肌もなく、表のキャラクターはキャラクターではない。私は観客に、実際に私に会ってほしい、私が誰なのかを知ってほしいと伝えようとしている」「このレコードの中には、たくさんのレコードが埋もれている...。ラップ・アルバムのように、たくさんのマイクロ・サンプリングが行われている」と彼は結論づける。

 

どうやらヘイデン・ペディゴは、幻想的な情景をギターミュージックで表現したかったようです。その中にはサイケデリックなギターミュージックを制作したいという目論見もあったという。しかしながら、全般的には広大な雰囲気を持つカントリー・ミュージックが複数のギターの録音を通じて体現されているといえるかもしれません。


このアルバムにはアメリカーナというジャンルが、ワールドミュージックの一環として聞かれることを推奨させる何かが存在している。ペディゴはギタリストとして傑出していることはもちろんですが、作曲家としても非凡なセンスに恵まれたようです。彼はアメリカ的な概念を実際の経験を通じて作曲の中に織り交ぜ、それらを的確に印象的な音楽として落とし込む力を持つ。


アルバムの音楽には、イメージの換気力があり、なおかつ聞き手が自由に想像をふくらませるための懐深さもある。そして、今回のカントリーやフォークといったスタンダードな音楽に補足として加えられたのが、レッド・ツェッペリン、キング・クリムゾンなどのUKハードロック、プログレッシヴ・ロックバンドの持つサイケデリアの要素でした。


レッド・ツェッペリンといえば、基本的なハードロックサウンドにインドのカシミール地方のエキゾチックな民族音楽の影響を付け加え、それをバンドのベンチマークのように見立てたことがありました。その影響は、例えば、このアルバムの冒頭に収録されている「Long Pond Lily」に発見することができるでしょう。


ギターはパット・メセニー的なカントリージャズと呼応するようにし、緩やかで広大な音楽的な世界を構築している。イントロはカントリーであった印象が徐々に情景的な変遷を描きつつ、民族音楽のエキゾチズムや彼自身のプレイを通じ、曲のテンポを緩やかにしていき、休符を設けた後、再び、トロットのような軽快なリズムを通じて、この曲は駆け足のように早まると、山岳地帯や草原のような純朴な風景を思わせる雄大なイメージを持つ素晴らしい音楽へと変わっていきます。


エレクトリックギターを積極的に取り入れた前曲とは対象的に、二曲目「All The Way Across」はアコースティックギターの華麗なアルペジオがイントロに配されている。これらの色彩的な和声に関しては前の曲と同じように、パット・メセニーの最初期のカントリージャズを彷彿とさせる。 しかしながら、今回のアルバムは依然として、かのギタリストの牧歌的なイメージを維持していますが、他楽器のボイシングや対旋律に音楽的な面白さが込められています。


例えば、ギターの演奏にちょっとしたピアノのユニゾンを重ねるだけで驚くほど楽曲の印象は様変わりし、どことなくきらびやかでエレガントな雰囲気が漂いはじめる。そしてもちろん、そのピアノの演奏に関しては、ヘイデン・ペディゴの演奏の叙情性を引き出すような働きを担っている。


この曲を聴くとわかる通り、ペディゴは”ギターの魔術師”とも呼ぶべき演奏力を披露しています。変幻自在にテンポを操り、そして休符やアクセントやクレッシェンド/デクレッシェンドをギターの細かなニュアンスの違いだけで表現します。


実際に、音符を弾けているだけにとどまらず、ギターひとつで音楽的な世界観を完結させるという作曲の魅力については、他の一般的なギタリストの演奏では容易に味わい難いものがある。


この三部作を部分的に聴いてきた者の印象として、ヘイデン・ペディゴはアルバムの制作を通して、ギタリストとしての腕を磨いただけにとどまらず、ソングライターとしても著しく成長しているように思えました。


そんな中、感覚的で、心理的な奥深い領域に入り込んだ曲もある。「Smoked」はペディゴとして珍しくマイナー調の一曲で、おそらく彼があまり書いてこなかったタイプの楽曲といえる。哀感のあるフレーズをモチーフにして、副次的なテーマであるサイケデリアと結びつけています。これらの幻惑的な感覚は、ボーカルをあしらったシンセにより神秘的な音楽性を獲得するに至る。


推察するところ、深妙な感覚を擁する音楽を制作したいという作曲家の意図が的確に顕われた楽曲なのでしょうか。そしてそれらは、現代アメリカの音楽において、懐古的な印象を持つ音楽を制作するミュージシャンとは対象的に、彼はサイケデリックな側面からアメリカ人の理想主義を描き出す。


つまり、ペディゴの音楽は、現代アメリカの切実かつ切迫した社会性を鏡のように照合したとき、鋭い説得力を持つにいたる。彼の平和な幻想性こそ、一般的な人々を癒やすパワーがある。これらの幻想性は、ボーカルのようなインストゥルメンタル、そして慟哭のように響き渡る弦楽器の長く伸びやかなレガートにより、今までになく心を揺さぶられるような神妙な瞬間を迎えます。

 

 

さて、もう一つのこのアルバムの魅力は、彼の旧来から培われたカントリー/フォークの牧歌的な感覚、そして広大な国土の情景を反映させたかのような音楽性にある。アルバムのタイトルと呼応するように、さながらツアー時の窓から見えるそれぞれの土地の風景の変化をそのままサウンドトラックにしたような雰囲気を持つ「Houndtooth」こそ、ヘイデン・ペディゴの代名詞とも呼ぶべき楽曲です。


いくつもアルペジオのシークエンスをギターによって丹念に重ねていくだけなのに、これほどまでに音楽的な印象が変化していくのは驚愕である。特に、和声進行が巧みな曲で、自在に短調と長調の平行和音を行き来しながら、その中で、弦楽器とギターがユニゾンを描きます。ボーカルがないのに少し物足りなさを覚えるリスナーですら、これらの和声的な構成が、音楽的な枠組みの中で、どれほど大きな役割を担っているのかを確認できるでしょう。


ヘイデン・ペディゴのギタープレイが最も輝かしい印象を持つのは、ミュート(詳しくはハーモニクスと呼ぶ)、ほとんど音が消え入るような澄んだ響きを放つピアニッシモ、ないしはプリズムさながらに美しいフィンガー・ピッキングの調和的な響きののち、不意に水を打ったような密かな静寂が訪れるような瞬間にある。


「Hermes」では、ギターミュージックのサイレンスの美しさの結晶が、それと対象的なダイナミックなストロークによるアコースティックギターとコントラストを描く時、アルバムのハイライトが訪れます。

 

このアルバムでは、先に述べたように、ギターの演奏はもちろん、弦楽器が大活躍しています。それらは「Small Torch」のように、ギターの繊細な響きを持つアルペジオとユニゾンを描く時、楽曲の印象が驚くほど壮大になり、アメリカのカントリーミュージックらしい勇ましい印象に縁取られる。


ペディゴは、本作について「微量投与のサイケデリック・アルバム」と面白おかしく振り返っていますが、これは彼らしいリップサービスなのではないかと推測されます。本作には、格式高い音楽が通底しており、それはヘイデンによるギターミュージックの様式美とも呼ぶべきもの。本作の最後を飾るタイトル曲でも、ペディゴのカントリーの幻想性は無限回廊のように続く。彼の音楽はきっと、忙しない日常にささやかな治癒と平穏をもたらしてくれることでしょう。

 

 

84/100 

 

 

 

「I'll Be Waving As You Drive Away」

 Caroline 『Caroline 2』

Label: Rough Trade

Release: 2025年5月30日 

 


 

Review

 

当初は、即興演奏を中心に息の続くかぎり演奏を続けるプロジェクトとして始まったロンドンの8人組、キャロライン。『Caroline 2』は、ミニマルミュージック、クラシック、ロック、フォーク、エモというように、きわめて多角的な音楽を盛り込んでおり、先の読めない意外性に富んだアルバムとなっている。


『1』が純粋なミニマリズムに根ざしたロックアルバムと仮定付けるなら、『2』はミニマリズムに飽きたミニマリストという呼称がぴったりかもしれない。バンドは意図的に反復性に陥ることを避け、曲の中で変則的かつ重層的な構成を試したりしている。

 

『2』は音楽的な系譜で見れば、メジャーとインディーズの双方の空気感を吸い込んだ独特なアルバムである。こういったアルバムは、”アメリカのインディーズ”そのものを意味していたが、最近こういったニッチな感じのアルトロックは米国からあまり出てこなくなった。その要因として、音楽の持つ地域性が失われ、すべてがグローバリズムの中に取り込まれてしまったからなのか。


今や、どのような辺境の地で音楽を制作していたとしても、"世界のリスナー"という、いるのかいないのかわからないポルターガイストを、なんとなく頭の隅で意識してしまうものである。そういった意味では評定は差し引いたとしても、こういった正真正銘のインディーズアルバムが出てきたことは喜ばしくもある。ラフ・トレードは、マタドール、4ADと並んで、ベガーズグループの傘下にあり、メジャーの傘下くらいしかこういったアルバムは出せない。昔であれば、クリエーションくらいしかこういったアルバムはつくらなかっただろう。

 

『2』はアメリカン・フットボールやペイヴメントのような1990年代のインディー性を吸収し、エモの空気感を吸い込んでいる。例えば、アメリカンフットボールの『LP 1』は大学卒業直前の学生のモラトリアムを表現し、シカゴの独立したシーンを記録するために録音を行った。他方、『2』は人生全般のモラトリアムを感じさせる。瞬間的な感情を反映した音の連なりがたえず明滅しながら消えたり現れたりする。それは人間の実存の証明ではあるまいか。


『2』は、ライブセッションを通じて繰り広げられる8人組のメッセージであり、それはシンプルであるように思える。やりたいことがあれば迷わずやろうということ。そして、それは後腐れない人生を送るためにはぜひ必要だろう。音楽やアートの持つ意味は考えても際限がないが、それが楽しみとあらばやってみるしかない。人生の持つ根源的な意味と直結している。現代のような高度な資本主義社会において、意味/無意味という二つのアートの狭間でキャロラインのメンバーを揺れ動き、実験的なロック/フォークミュージックを作り上げる。これは"資本主義に対する抵抗"ともいえ、大きな価値のある行為なのではないか。

 

 

ファースト・アルバムでの空間性を意識した録音手法と同じように、録音の側面において、複数の前衛主義が貫かれている。二つの別の部屋で演奏し、異なるアンビエンスを作り出す録音方式の他、「Total euphoria」を中心に相当な数のギターを重ね取りし、ボーカルも複数の録音が入っている。ボーイ・ジーニアスと同じようなボーカルの手法だが、キャロラインの場合、スタンダードな曲を書くことあまりない。以前に比べ、レディオヘッド(トム・ヨーク)風の繊細なボーカルスタイルを捉えることも出来、全般的なポストモダニズム建築のような脱構築派の音楽性が際立っている。


キャロラインのロック/フォークソングは、ブルータリズム建築のようにごつごつしているが、その中には賛美歌のような趣を持つ優雅で甘美なクワイアが入り、独唱を中心に組み立てられていく。ブルックリンのシンガー、ポラチェクをフィーチャーした「Tell Me I Never Knew That」は、『OK Computer』のソングライティングを踏襲し、それらをフォーク・ミュージックに置き換え、さらに賛美歌のような精妙なクワイアを追加している。聴き方によれば、UKロックであり、クラシックでもあり、さらに民謡でもある。イギリスの音楽の様々な側面を多面体のように映し出す。聞き手は各々の価値感により、別の音楽の側面を聴いたり体感することになるだろう。

 

前作と同じように、コーラスワークの美しさ、そしてフィドル(ヴァイオリン)やチェロのような弦楽器の使用、ケルト民謡からの影響等、キャロラインらしさが満載である。しかし、こういった中で、なぜかエモの影響を織り交ぜた楽曲が印象に残る。「Song 2」はアメリカン・フットボールをより前衛的にした感じだ。「When I Get Home」ですら、エモとして聴いてみると、アメリカン・フットボールの『LP1』のデモトラックのように聞こえて来る。もし、相違点があるとすれば、キャロラインの音楽は遅れてやってきた人生の青春期の感覚に浸されている。90年代のエモのオリジネーターと共鳴する点があるとすれば、音が感覚派であること、8人組それぞれのエモーションが、それぞれの楽器を介して緩やかに流れていくという感触である。

 

また、音量的なラウドとサイレンスを巧みに行き来し、「U R UR ONLY  ACHING」ではコレクティブのセッションとして盛り上がる瞬間を捉えられる。ボーカルにオートチューンをかけたり、突然音がフェードアウトしたりと、実験的な要素が満載だが、この曲はキャロラインの本来の魅力が出てきたかどうかはわからない。セッションがスパークする直前で踵を返すような感じがあり、前衛的な領域には足を踏み入れていない。そのため、曲全般がどっちつかずな印象を与える場合もある。 他方、アルバムの発売直前にリリースされたツインのリードボーカルを擁する「Coldplay Cover」はキャロラインらしい美麗なボーカルを楽しむことが出来るはずだ。アルバムの終盤でも、実験的な気風は衰えず、様々な音楽的なマテリアルが混在している。

 

 

ポストロック風のアプローチも登場する。「Two Riders From Down」ではマスロックに傾倒している。アルバムは以降、フォークミュージックに近づき、クライマックスを飾る「Beautiful Ending」では、ノイズ、フォーク、ロックをシームレスに行き来している。ただ、問題点は、楽曲の流れが淡々としていて、アルバムの最後に至っても、クライマックスが来たという実感がわかないことだろう。全般的にはデビューアルバムのような、鮮烈で感動的で壮大な感覚、そして器楽的な精密な構成力は薄れている。また、インプロヴァイゼーションは、次に何が起こるか分からず、驚くべき化学反応が起こる点に面白さがある。しかし、『Caroline 2』は、大所帯のグループとしての驚くようなケミストリーが発生するまでには至らず、全般的には、音楽が枠組みの中に収まりきり、心なしか予定調和の印象が目立った。これはプロデュース的な側面に重点を置いたのが主な理由かもしれない。キャロラインは現在、商業音楽と前衛音楽の間で迷い、揺れ動いているという気がした。個人的にはキャロラインのニューアルバムにはひとかたならぬ期待を込めていたが、この点だけが少し残念だった。


*キャロラインは来日公演が決定している。ぜひ伝説的なモーメントを目撃してほしい。

 

 

 

78/100 

 

 

 「Tell Me I Never Knew That」

Yeule  『Evangelic Girl Is A Gun』 

 

Label: Ninja Tune

Release: 2025年5月30日

 


 

 

Review

 

Yeuleの存在が一般的に知られるところとなったのは2023年のアルバム『Softcars』だったが、Nat Cmielは2012年頃から活動している。前作アルバムはハイパーポップの性質が強かったが、今作ではメロディーメイカーとしての真価を発揮している。トリップ・ホップ、ダンス・ポップ、ハイパーポップ、J-POP/アジアのガチャポップを中心に多角的な音楽性を探っている。

 

邦楽に関しては影響のほどは定かではないにせよ、2000年代以降のポップソングの影響がボーカルのメロディーラインの節々に感じ取ることが出来る。もちろん、Yeuleのプロジェクト名は、FF(Final Fantasy)から来ているし、ゲーム音楽やアニメ、アングラ/サブカルチャーへの親和性も深い。そう、日本政府の主導した「クール・ジャパン政策」は確かに海外に普及していたのだ。

 

Yeuleは、UA,Charaといった平成時代のボーカリストのタイプに近い。印象論として、2010年代以降の日本のポップスは、その前の音楽的な完成度の高さや洗練度を、一部のアーティストを除いて、引き継ぐことが出来なかった。ある意味では、平成時代以降の音楽は、どこかで断絶しているような印象すらある。これは実をいうと、日本の音楽産業が下火になった時代と呼応するような形である。5年前の音楽は聴いたことがあるけれど、10年以上前の音楽は聞かない。結局のところ、一般的に音楽に大きく投資することが難しいのが現在の日本の台所事情である。Yeuleのような音楽的な体現力は、日本国内のシンガーには見出すことが難しく、あったとしても散発的に止まってしまう場合が多い。これは日本のミュージシャンが日本国内の音楽的な系譜や流れを見落としているのではないかと指摘したい。これは、腰を据えて音楽にじっくり取り組もうという土壌がなかなか作られないという側面があることを付言しておきたい。

 

 

 『Evengelic Girl Is a Gun」はかなり毒々しいアルバムになるのでは、と予測していたが、意外とそうでもなかった。そして前作よりもソングライティングとして磨きがかけられ、音楽的な幅広さもましている。その中で、Yeuleらしさというべきか、少し毒々しいイメージのあるボーカルを音楽的なキャンバスに塗り上げる。これらの棘ともいうべきテイストは、前作から引き継がれたものである。アルバムを聴いて分かる通り、2000年前後の日本には結構あった音楽もある。ただ、それらを高いレベルで再現する力量、そしてチャーリーCXCのようなSSWからうまくヒントを掴んで、ポップスのセンスやトラック制作の技術に活かしたりと、新旧の音楽を巧みに織り交ぜる。アルバムの音楽は、アーティストの音楽的な好きを活かし、幅広い世界観を作り上げる。ただ、この音楽的な洗練度は、短期間ではどうにもならず、10年以上熱心に取り組んでいないと、完成されないだろう。Yeuleのやっている音楽は、簡単なようでいて、かなりハイレベルである。

 

 

「Tequila Coma」では、トリップホップを中心に、レーベルの得意とするヒップホップ的なビートの要素をふんだんにまぶし、アンニュイだが心地よいポップスを作り上げていく。ところどころに、マスタリング的な実験が行われ、ボーカルのフレーズの最後の波形を抽出し、それらにディレイ系のエフェクトをかけたり、また、ドラムにダビーな効果を加えたりと、短いシークエンスの中で様々な試みが行われている。しかし、全般的には、ヴォーカルのメロディーの音感的な良さは一貫して維持されている。曲を聴いたときの印象を大切にしているのだろう。1分55秒には、ギターのリサンプリングを用い、Portisheadの『Dummy』のトリップホップサウンドを蘇らせる。ターンテーブルのレコードを回すときのチョップの技法を再現させている。

 

「The Girl Who Sold Her Face」は大胆にも、デヴィッド・ボウイの名曲のオマージュとなっているが、音楽的にはアジアのポストポップに近いスタイルである。その中で、少し毒々しい感覚を交えながら、チャーチズのようなダンサンブルなポップスを展開させている。ただ、明確にサビの構成を作り、バンガー的な響きを作り上げる点については、アジアのポップスに近似する。というように、音楽的には相当、カオスでクロスオーバーが進んでいることがわかる。

 


前作ではトランスヒューマニズムのような近未来的なセンスを生かしたが、今回は対象的に、原点回帰をした印象がある。そしてより人間的な何かを感じさせる。前作から引き継がれた心地よく軽快なベッドルームポップソングを続く「Eko」で楽しむことが出来る。この曲はガチャポップなどでもよくあるトラックだが、ピッチがよれて音程がずれてもそのままにしている。ピッチシフターを使用するのは限定的であり、音楽的な狙いや意図がある場合に限る。欠点を削ぎ落とすと、長所も消えるので、それほど不自然なエフェクトはかかっていない。

 

 

グランジロックからの影響を交え、それらをオルタナティヴなポップソングに組み替えた曲もある。「1967」 は、Yeuleらしいダウナーな感覚を活かして、Alex Gの系譜にあるループサウンドやカットアップ(ミュージック・コンクレート)のインディーロックのソングライティングを交え、中毒性の高い曲を完成させている。音楽好きの"リピートしてしまう"という謎の現象を制作者側から体現させた風変わりなポップソングだ。メロディーメイカーとしての才覚が遺憾なく発揮されている。アルトポップ・ファンにはたまらない一曲となるだろう。

 

 

一転して、「VV」はイェールらしからぬ一曲である。アーティストの凝り性の一面を巧みに捉えている。しばし毒々しくダウナーな感覚から離れて、それとは対極にある高い領域を表現しようとしている。この曲では、beabadoobbeの系譜にあるポップセンスをベースに、フォーク/エレクトリックの融合であるフォークトロニカを付け加える。エレクトロニカをダンサンブルにアレンジして、そこにイェールらしい個性をさりげなく添えている。 土台となる音楽に対して、必ず画家の署名のようなものを書き添えるのが、Yeuleのソングライティングのスタイルである。それと同時に、アコースティックギターとヴォーカルの組み合わせは、さわやかな感覚を呼び起こす。

 

というように、テクノロジーの進化が目覚ましい現代社会において人間としてどのように生きていくのかというテーマがこのアルバムの重要なポイントを成している。それは、ディアスポラをポピュラー・ソングから追求したサワヤマの系譜を受け継いでいる側面もある。 その中で、より大掛かりな背景を持つポップソングも提示される。

 

「Dudu」はヨーロッパのダンスミュージックの影響を活かして、軽妙な雰囲気を持つポップソングに仕上げている。現在のアーティストの制作の中でダンスミュージックの割合や重要度が高いことを伺わせる。アルバムの事前のイメージは完全に払拭され、ファンシーなポップソングが続いている。

 

「What3vr」ではヒップホップのビートを下地にして、エレクトロ・ポップをアップデートしている。この曲でも叙情的なメロディーという側面は維持され、そしてそれらがエクスペリメンタルポップやハイパーポップとうまく結び付けられている。ポップソングのトラック制作の見本のような一曲。

 

「Saiko」は、Dora Jaのような最新のエクスペリメンタルポップのサウンドと肩を並べるべく、アルトポップの高みに上り詰めようとしている。意外性のある展開に富み、従来のグリッチを多用したビート、転調や移調を繰り返すボーカル、ミュージックコンクレートの形で導入されるアコースティックギターというように、断片的な音楽のサンプリングの解釈を交えたとしても、音楽のストラクチャーは崩れない。これは全般的な構成力が極めて高いからである。しかし、かなりハイレベルなことをやっていても、表向きに現れるのは、モダンな印象を持つキャッチーなポップソングである。この曲でも、自身の音楽がどのように聴かれるのかをかなり入念にチェックしているという印象がある。そして実際的に、表向きのイメージを裏切るような形で持ち前のファンシーな世界観を完成させる。

 

アルバムの後半ではエクスペリメンタル/ハイパーポップの性質が強くなる。 これらの多角的な音楽性を作るための"保護色の性質"は、現時点のイェールの強みといえよう。タイトル曲ではロボットボイスをヒップホップ的に解釈し、エレクトロ・ポップに昇華している。これは専門のミュージシャンではないからこそ出来る試みだろう。「Skullcrusher」はホラームービー的で、ダークなアンビエントポップ、もしくはメタリックなハイパーポップともいうべき一曲である。ホラー映画「I Saw the TV Glow」のサウンドトラックを聴いた人であれば、ピンと来るのではないだろうか。これらのホラー要素は現在のアーティストのユーモアセンスの肩代わりとなっている。

 

 

 

 

84/100 

 

 

 

「1967」

 Sports Team  『Boys These Days』

 

 

Label: Bright Antenna & Distiller

Release: 2025年5月23日

 

Listen/Stream

 

 

Review

 

イギリスの5人組ロックバンド、スポーツ・チームは前作でニューウェイブ/ポスト・パンク風の音楽アプローチをベースにしていたが、本作『Boys These Days』では大幅に作風を転じている。今作ではバブリーな音楽性を選び、ダンスポップ/ディスコポップ、ソフィスティポップ(AOR)、ローリング・ストーンズの『Tatto You』時代の80年代のロック、そしてソウルなど多角的な楽しさを織り込んでいる。スポーツ・チームの新しいフェーズが示された作品である。もちろん、5人組という分厚いメンバーがプロジェクトのために一丸となっているのも美点だ。

 

本作の冒頭を飾り、先行シングルとして公開された「I'm in Love(Subaru)」を聞くかぎり、最早スポーツチームに”ポスト・パンク”という常套句は通用しないことがわかる。ダンサンブルなポピュラーセンスを発揮し、サックスフォンの高らかな演奏を背景に、キーボード(ベン)、ドラム(グリーンウッド)、ベース(デュードニー)を中心に、重厚なバンドアンサンブルを構築し、アレックス・ライスのソウルフルでパワフルなボーカルがバンド全体をリードする。

 

楽曲全体のメロディアスな印象はもちろん、バンドアンサンブルのハーモニーが絶妙である。80年代のディスコ/ソウル、そしてソフィスティポップやヨットロック等を巧みに吸収し、親しみやすいポップソングに仕上げている。この曲に満ちわたる多幸感は、軽薄さで帳消しになることはない。バンドアンサンブルの集中力がこの曲を巧緻にリードし、そして、爽快感を維持させている。この曲でサビを中心に、バンドとしてのポップセンスをいかんなく発揮している。

 

前作『Gulp!』にも見いだせたスポーツチームの音楽的なユニークさは続く「Boys These Days』に受け継がれている。ポール・ウェラー/スタイル・カウンシル風のモッズ・サウンドを下地にして、スポーツ・チームらしいカラフルなダンスロックを展開する。シンセ、ボーカル、そして、弦楽器のアレンジが縦横無尽に駆けめぐり、見事なアンサンブルを構成している。 半音階ずつ下がる音階進行、それからブリット・ポップ風のゴージャスなアレンジが、この曲にエンターテイメント性を付与する。また、全体的なソングライティングの質の高さが傑出している。それを楽曲として再現させる演奏力をメンバーの全員が持ち合わせているのは言わずもがな。

 

 

このアルバムでは、副次的にソウル/R&Bの音楽テーマが追求されている。それはポップ、ロックを始めとする様々な形で出現する。「Moving Together」 はその象徴だろう。ジャクソン5やデ・ラ・ソウルのサンプリングのように始まり、ソウルミュージックの果てなき幻惑の底に誘う。その後、ロック調に変化し、ワイルドな質感を持つボーカルが全面に出てくる。続いて、硬質なギター、シンセの演奏が絡み合いながら、重層的なファンクロックが作り上げられる。


このアルバムでは歌いやすさが重視され、前作よりもはるかにサビの箇所のポピュラリティに焦点が置かれている。そして実際的に、英語の短いセンテンスとして聴くと、歌いやすく捉えやすい万国共通のサウンドが構築されていることがよくわかる。「Moving Together」のフレーズの部分で思わず口ずさみたくなるのはきっと私だけではないはずだ(実際に口ずさんだ)。この曲では、ボーカリストとしての表現力が前作よりも著しく成長したアレックス・ライスのボーカルが別人のように聞こえる。彼の声にはエナジー、パワー、そしてスピリットが宿っている。

 

 

こうした中で、ローリング・ストーンズの系譜にある曲が続いている。「Condensation」では、『Tatoo You』時代のダンスロックを受け継ぎ、バブリーな雰囲気、ブルース性、それからソウルからの影響を活かし、アグレッシヴな印象を持つロックソングを完成させている。ライブを意識した動きのあるナンバーとして楽しめる。何より前曲と合わせてR&Bからのリズムの引用や全体的なハーモニーが甲高いボーカルやストリングスのアレンジと絡み合い、独特な多幸感を生み出す。いや、多幸感というより、ロックソングの至福のひと時がこの曲には内包される。


こうした一般性やポピュラリティを維持した上で、ボブ・ディラン風のフォーク・ロックへと進む「Sensible」は、このアルバムの中で最も渋く、ペールエールのような味わい深さを持ちあわせている。ボウイ、ルー・リードのような硬いボーカルの節回しを受け継ぎ、新しいフォーク・ロックを追求している。しかし、相変わらずサビではきらびやかな雰囲気が色濃くなる。ソウルフルなライスの歌唱がバンド全体をリードし、フロントマンとしての圧倒的な才覚の片鱗を見せる。特に、2分すぎのコーラスは圧巻で、バンドの最もパワフルな瞬間を録音として収めている。この曲に充溢する抑えがたい若々しいエナジーはこのバンドの持つ最高の魅力だ。

 

『Boys These Days』の最大の魅力は、音楽的な寄り道をすことがあり、直線上には進まないことである。それは、スポーツ・チームの全体的な人生観のようなものを示しているとも言える。

 

「Planned Obsolescence」はアルトなフォークロックで、「Sweet Jane」や「Walk On Wildside」の系譜を受け継いでいる。曲の中での口笛も朗らかで和平的なイメージに縁取られている。音楽的には一つのリフレインをバンドサウンドの起点として、どのように変化していくのかをアンサンブルとして試しているように思えた。2分以降のアンセミックな雰囲気はその成果とも言えよう。


さらにスポーツ・チームの寄り道は続く。「Bang Bang Bang」ではロカビリー/パンカビリー風の渋いロックソングを書いている。カントリーをベースに旧来のエルヴィス風のロックンロールを結び付ける。最近のロックバンドには乏しいロールーーダンスの要素を付加している。同じように、「Head To Space」もカントリーを下地にしているが、決して古びた印象を与えない。ボーカルのソウルフルな歌唱がバンド全体をリードし、曲にフックを与えているのだ。

 

こうした中で、ストーン・ローゼズ、ヴァーヴの系譜に属するイギリス仕込みのダンスロックでこのアルバムは決定的になる。バンガー「I'm in Love(Subaru)」をしっかりと用意した上で、終盤にも「Bonnie」が収録されていることは、アルバム全体に安心感や安定感を及ぼす。これぞまさしく、スバル・ブランドならぬ、スポーツチーム・ブランドとも呼ぶべき卓越性。結局のところは、バンドの演奏力の全体的な底上げ、ソングライティングの向上、そして何より、ボーカルの技術の蓄積がこういった聴き応え十分の作品を生み出すことになった要因なのだろう。

 

ただ、それはおそらく最短距離では進まなかったのではないかと思える。だからこそ説得力がある。全体的にはバンドとしての楽しい瞬間が録音に刻みこまれ、それが全体的な印象をファニーにしている。たとえ、バラードを書いても、スポーツチームらしさが満載である。「Maybe When We're 30」は珍しくダブルボーカルの曲で、もうひとつの重要なハイライト曲。ライブのアンコールで演奏されるに相応しい、繊細さと力強さを兼ね備えた素晴らしいクローズで終わる。

 

 

 

85/100

 

 

 


 

Best Track- 「I'm in Love(Subaru)」

 Billy Nomates 『Metal Horse』


 

Label: Invada

Release: 2025年5月16日

 

 

Review

 

ビリー・ノメイツ(Billy Nomates)はイギリス/レスター出身のシンガーソングライター。 元はバンドで活動していたが、なかなか芽が出なかった。しかし、スリーフォード・モッズのライブギグを見た後、ボーンマスに転居し、再びシンガーソングライターとしての道を歩むようになった。そして再起までの数年間が彼女の音楽に不屈の精神をもたらすことになった。2023年には『CACTI』をリリースし、話題を呼んだ。

 

前回のアルバムは、当サイトではリリース情報を扱うのみだったが、今回は素晴らしいのでレビューでご紹介します。『Metal Horse』はビリー・ノメイツの代表的なカタログが登場したと言って良いかもしれない。『CACTI』よりも遥かにパワフルで、そしてセンチメンタルなアルバム。

 

『Metal Horse』は、ソロアルバムとしては初めてフル・バンドでスタジオ制作された。ベース奏者のマンディ・クラーク(KTタンストール、ザ・ゴー!チーム)とドラマーのリアム・チャップマン(ロジ・プレイン、BMXバンディッツ)が参加、さらにストラングラーズのフロントマン、ヒュー・コーンウェルが「Dark Horse Friend」で特別参加している。共同制作者も豪華なメンバーで占められている。

 

ビリー・ノメイツのサウンドはニューウェイブとポストパンク、そして全般的なポピュラーの中間に位置付けられる。そして力強い華やかな歌声を前作アルバムでは聴くことが出来た。もちろん、シンガーとしての従来から培われた性質は維持した上で、『Metal Horse』では、彼女の良質なメロディーメイカーとしての才覚が遺憾なく発揮されている。前作『CACTI』では、商業的な音楽が中心だったが、今作はビリー・ノメイツが本当に好きな音楽を追求したという気がする。それがゆえ、なにかしら心を揺さぶられるものがある。

 

このアルバムは、ニューウェイブ史上最も静けさを感じさせる。それは音量的なものではなく、耳を澄ました時、その向こうに浮かんでくる瞑想的な静けさ。そしてなぜ、静かな印象があるのかといえば、それは極力楽器や音符を絞り、音の要素を削ぎ落としたことに理由がある。

 

ボーカルもコーラスが入っているとはいえ、非常に洗練されている。そしてニューウェイブ風の作品でありながら、フォーク、ブルース、AOR(現代風に言えば、ソフィスティポップ)を織り交ぜ、個性的なアルバムが作り出された。そして、全般的にはシンディ・ローパーのポップソングに近い雰囲気に満ちている。もちろん、ローパーほどにはエキセントリックではないのだが、ノメイツの歌手としての個性が80年代のスターシンガーに劣っているとはいいがたい。

 

 

アルバムにはシンセサイザー、ギター、ドラム、ベースを中心にシンガーのパワフルなボーカルをバンドセクションで支えている。アルバムの冒頭を飾る「Metal Horse」ではノメイツのブルースを意識したボーカルに、ジョン・スクワイアを彷彿とさせる渋いギターリフが戯れるようにコールアンドレスポンスを重ねる。うねるようなグルーブを作り出し、オルガンのシンセにより三拍子のリズムを強調させたり、ボーカルの録音をいくつか入念に重ねたり、そして抽象的な旋律のラインを描きながら、見事な構造のポップソングを作り上げている。この曲の音楽は上がったり下がったりを繰り返しながら、徐々に余韻を残しながらフェードアウトしていく。

 

アルバムの曲を聴いていると、なぜかスタイリッシュなイメージを感じさせる。まるでノメイツは肩で風を切って歩くような勇壮なイメージをボーカルで表現している。「Nothin Worth Winnin」では規則的なマシンビートを背景に、シンセサイザーのメロディーと呼応するような形でノメイツは美しいハーモニーを作り出す。曲全体が波のようにうねり、グルーブを作り上げ、そして聞き手の心を和ませたり、時には勇気づけてくれたりもする。この瞬間、ビリー・ノメイツのソングライティングは個人的な感覚から離れ、共有される感覚という強固な意義を持つ。

 

 

今回のアルバムでは、前回よりもAORの性質が強く、それがニューウェイブやポスト・パンクの音楽に干渉し、聴きやすい曲が生み出された。続く二曲はその好例となりえる。「The Test」、「Override」ではいずれも80年代のドン・ヘンリーのような爽やかな音楽をヒントにし、それらを現代的なポップソングに置き換えている。これらは2020年代の感覚で聴くと、ややバブリーな印象を覚えるが、オーバードライヴのかかったベースやそれほど世間ずれしないノメイツの現実的なボーカルは、むしろ、ザ・1975、The Japanese House以降のロックやポップに慣れ親しんだリスナーにも共感を覚えるなにがあるかもしれない。音楽的には80年代やMTVの商業的なポップスのリバイバルであるが、ノメイツの歌は誰の真似にもならない。まるで自らの生き方を示すかのようなクールな歌声で、バックバンドと楽曲全体をリードする。

 

特に、素晴らしいのが続く「Dark Horse Friend」である。この曲は、ニューウェイブ・リバイバルの名曲と言っても過言ではない。このあたりは音楽的な蓄積が並み居るシンガーとの格の違いを見せつけている感じである。特に、このシンガーは繊細な脆さ、言い換えれば、センチメンタルでブルーな感覚をメロディーに昇華する術に長けている。イントロからニューウェイブ風の淡い雰囲気を持つシンセに馴染むようなムードを持つ巧みなボーカルを披露している。


しかもフレーズの繰り返しのあと、パーカッションだけでサビに持っていく。力技とも言えるが、この単純さがむしろ軽快さをもたらす。そして、そのサビに力強い印象を及ぼすのが、ヒュー・コーンウェルの渋いボーカルだ。彼のボーカルは、ノメイツと見事なコントラスを描き、「You're Dark Horse Friend」というフレーズを心地よくしている。その後のボーカルのやりとり、コーラスも息がぴったり取れている。コラボレーションのお手本を彼らは示している。

 

ノメイツはこのアルバムの録音において、強い決意を表明するかのように、勇敢なボーカルを披露している。それらが見事なバラードソングとして昇華されたのが「Life's Under」である。オルガンの演奏を背景に、エルトン・ジョン級の堂々たるソングライティングの腕前を披露している。その中で、ゴスペル、ブルースといった渋い音楽のテイストを添えて、いよいよビリー・ノメイツの音楽の世界は盤石となる。この曲は、徐々に精妙な雰囲気を増し、一分後半の箇所でのコーラスを交えたフレーズで最高潮に達する。非常に大掛かりな曲想を精緻に組み上げている。曲の後半では、三拍子のリズムが浮かび上がり、幻想的な雰囲気に縁取られフェードアウトしていく。かと思えば、一転して、軽快な楽曲「Plans」が続いている。曲の収録順にアップダウンやメリハリがある。まるで軽快にドライヴをするようなアップテンポで陽気で直情的なロックソングが紡がれる。80年代に流行したブライアン・アダムスのような軽快なロックソングを見事に受けつぐ。

 

 

 

アルバムの後半は、ビリー・ノメイツの趣味が満載で、とてもファニーだ。「Gas」はニューウェイブ/ニューロマンティック風の曲で、レトロなドリーム・ポップともいうべき曲である。ただ、やはり、ベースラインの強固さが際立ち、オーバードライヴの効いたファジーなベースがノメイツのボーカルと鋭いコントラストを形作る。そしてサビでは、むしろ典型的なメタル/ハードロック風のシンガーに変化する。EUROPEのような熱血な雰囲気を帯びた80年代のメタル/ロックソングへと曲の印象が移り変わる。かと思えば、「Comedic Timing」では精神的に円熟したシンガーとしての気配を見せる。一作の中で歌手としての性格を絶えず様変わりさせるのは、ムービースターさながらといえるかもしれない。この曲では、心あたたまるようなハートウォーミングな音楽性を垣間見させる。

 

 アルバムの後半でも、個性派のシンガーとしての性質が影を潜めることはまったくない。「Strande Gift」では、ブルースを下地にし、美しいポピュラーソングを作り上げている。しかし、あらためて、美しさとは何かといえば、丹念に制作に取り組んでいること、自分の真心から制作に情熱を注ぐこと、それ以外には存在しないのではないか。それがミニチュアや織物のように精細であるほど、あるいは、それとは対照的に、広大でダイナミックであるほど、人は大きな感動を覚える。それほど複雑な楽曲構成ではないし、難解な音楽理論も用いていないと思われるが、琴線に触れるエモーションが随所に出現する。過去を振り返るように、あるいは、現在を踏みしめるかのように、シンガーの人生のワンシーンが脳裏をよぎる。本作の最後の楽曲「Moon Explode」では、ノメイツが生粋のロックシンガーであることを暗にほのめかしている。

 

どうやら、このアルバムの真価は、理論や理知では語り尽くせないらしい。いや、果たして、良い音楽が単純な言葉や理論だけで解き明かせたことがこれまで一度でもあったろうか。良い音楽は、常に理知を超越し、我々の常識を塗り替えるような力を持つ。


ビリー・ノメイツの『Metal Horse』を聴くと、シンガーソングライターというのは、ある種の生き方そのものであるということがよくわかる。その姿を見ると、頼もしくなる。有為転変.......、苦しみや喜び、悩みとそれからの解放、優しさや労り、そのほか、人生にまつわる様々な感情を体験した歌手や音楽家にしか表現しえないものがこの世には実在する。それこそが『Metal Horse』の本質、あるいは魅力なのであろう。

 

 

 

85/100

 

 

Best Track- 「Dark Horse Friend」