Interview - Satomimagae   デビューアルバム「awa」から最新作「境界」までを語る

Interview

 

Satomimagae

©Kanako Sakamoto

 


  なるほど、”それなら曲を書こうとしちゃダメだ”と思い、ひとまず家中/家周辺の「気配」を感じる音をレコーダーに録り溜めました。 --Satomimagae



日本のエクスペリメンタル・フォーク・シーンで活躍するアーティスト、 Satomimageさんのインタビューを読者の皆様にお届けします。


2012年に初のアルバム「awa」を自主制作でリリース。2014年に、畠山地平が主宰するレーベル、White Paddy Mountainより2ndアルバム「Koko」をリリース後、2017年に同レーベルから3rdアルバム「Kemri」をリリースしました。2021年、ニューヨーク/ブルックリンのレーベル、”RVNG Intl. ”と契約を結び、4rdアルバム「Hanazono」が同レーベルとGuruguru Brainと共同でリリースされた。

 

今年に入って、同レーベルから『awa』の拡張版を発売しました。先日、福岡のアンビエント・プロデューサーとの共作アルバム『境界 Kyokai』を発売、ソーシャルを中心に話題を呼びました。

 

今回のインタビューはデビュー作から最新作、また、環境音をどのように制作の中に取り入れるようになったのか。網羅的にお話を伺うことができました。そのエピソードを読者の皆様にご紹介致します。



2月の発売日から少し時間経過していまいましたが、あらためて『Awa』のエクスパンデッド・バージョン(拡張版)の発売についてお伺いしたいと思います。

 

オリジナル盤のリリースから10周年{正確には11年)を記念して再発バージョンが、国内ではPlanchaより、海外では米国のRVNGより発売されました。どういった経緯で、このリイシューが決定したのか、その詳細についてお伺いしたいと思います。

 

また、「inu」のミュージック・ビデオではご自身が出演なさっています。撮影について何か印象に残っていることはありますか?

 

 

「Hanazono」リリースの際に、RVNG(ニューヨーク/ブルックリンに本拠を置くレーベル)を主催しているMatt(Matt Werth)が自分の過去のリリースを全てチェックしてくれて、「いずれ、”awa”もフィジカルで再発することを考えたい」と提案してくれました。その時は「awa」は、RVNGからレコードで出すのには見合わないと思ってすぐに断ってしまいました。


その後いくつかのリリースが済み、改めて自分の過去の作品を振り返る過程で久しぶりに「awa」を再生していた時に再発の話を思い出しました。

 

Mattから話があった時は、「awa」の特にミックスなど技術的な面で足りない部分が多くお断りしたのですが、後悔している部分を納得いくまで仕上げて別の形で生まれ変わらせてもいいのかもしれないと思えてきました。

 

「awa」は自分にとって思い入れのある曲がいくつかあるのですが、演奏やミックスで悔いの残る箇所が多くて自信を持てないまま来ていたので・・・。ちょうどリリース10周年になることにも気付いて、これは良い機会なのではないかと、急いでMattにメールで提案したところ快く承諾をいただきました。



「Inu」のビデオですが、私自身は出演していないです。この作品は元々自分の音楽を聴いてくれていた写真家の坂本奏子さんが、去年のはじめ頃ライブで声を掛けて下さって交流が始まり撮影していただくことになりました。

 

ミュージック・ビデオを作るのは初めてだったそうですが、「awa」も私にとって初めてのアルバムだったので、まだ自分のやり方やマニュアルのようなものが無い中で、とにかく一人だけでやってみたいことを試すという初めての実験で注がれる独特のエネルギーが「Inu」と融合しているように感じました。


 

当時、このアルバムは自主制作盤としてリリースされたという話なんですが、この音源はどういった経緯でレコーディングされたものだったのでしょうか? 

 

録音やフィールドレコーディングがどのような感じで行われたのかお聞きしたいです。また、当時、大学で化学の研究を行っていたと聞きますが、あえてこの自主制作として音源を残しておきたかった理由などがありましたらお伺いしたいです。

 

14歳頃から曲を作っていたので自然と溜まってきて、大学を卒業したらまとめてリリースできたらいいな、と思っていました。作品が無いと音楽を作っている人間だと紹介できないと思っていたので、名刺を用意するような気持ちで「awa」へ取り組み始めました。


フィールド・レコーディングもこれまで録り溜めていたものを使いました。いつもICレコーダーを持ち歩いて気になる音がしたらすぐ録るようにしていたんです。


卒業後はアパートに住み、研究所で実験するバイトをしていたのですが、その研究所が実家の近くだったので、仕事が終わると実家に寄って録音して帰るという日々を繰り返していました。アパートでは大きな音が出せないし、スタジオはお金がかかるため、周りに畑と森しか無く、音も好きな時に出せる実家で制作を進めました。


自主制作というスタイルを自ら選んだというよりは、その他に方法が無かったということです。やり方が分からなかったんですね。


ちゃんとしたエンジニアにミックスをお願いするとか、まずレーベルを探すとか、全てが身の丈に合っていなくて非現実的なことのように感じられた。コネも無かったし、人に頼むにしても慎重にリサーチしないといけない…と考えて、ひとまず全部自分で進めていこうと決めました。



今になって考えると、この作品は、トクマル・シューゴの『L. S. T』と並んで、日本のフォークトロニカ/トイトロニカの初期の傑作と言っても過言ではないと思うんですが、2000年代から、アイスランドのmumなども、日本の音楽ファンの間でよく知られるようになったわけですが、当時、そういった新しい時代の音楽に取り組んでいるという意識はあったのでしょうか?


また、制作過程で何か伝えたいことや、テーマなどが録音のバックグラウンドにあったのか知りたいです。作品をリリースした当初の周囲の反応などはいかがでしたか?

 

時代という点では、その時に流行しているスタイルとは少し距離をおきたいという意識はあったかなと思います。

 

そういう方針でひとより良いものを作る自信は無かったし、そのような音楽を、もちろん好んで聴いていたことはありますが、自分で作る音楽として目指すものではないと感じていたと思います。

 

だから当時人気だった軽やかなエレクトロニカの手法は取り入れず、なるべくフィールド・レコーディングのザラザラした質感を活かしたアルバムにしようと思っていました。


シンセやドラムマシン等も、その時の流行が大きく反映される音だと思いますが、そういうデジタル音も極力使いたくなかった。ふわふわした気持ちいい音にはしないし、リバーブもディレイもなるべく使わない、など、今思えば、結構変なこだわりをもって、レコーディングしていました。自然の音や車、遊具の音などあえてより普遍的な音を使おうとしていたと思います。

 

『awa』をリリースした時、周りの音楽好きな友達の一部はとてもいいと言ってくれました。でも、よく覚えているのは、上にも書いた通り技術面で未熟なのは分かっていたし、曲も改めて聴くと奇妙なのがいくつもあって、自分でリリースしておきながら、積極的に人に勧められないなと思っていたことです。

 

当時はロックバンドが出演するような一般的なライブハウスで演奏することが多かったのですが、そのようなシーンでは受け入れられている様子は無かったです。ある時ライブをした後共演者の方から、”pastel records”というショップを勧められ、試しにメールをしてみたらCDを取り扱ってもらえることになり、少し自信がつき、そこから何となく方針が分かったような気がしました。


やはり、実験的な音楽を探している人や、そういう音楽をやっているアーティスト/学生が、少しずつ注目してくれたように記憶しています。


 

このアルバムにはブルースの影響も反映されていると聞きます。プロフィールでは、幼少期に米国で過ごしていた時にブルースに出会ったと書かれていますが、今も記憶に残っているアメリカでの音楽体験に関して印象的なエピソードなどありましたら、詳しくお伺いしたいです



アメリカでの音楽体験は、言われてみると、ほとんど無いような気がします。アメリカでも日本でも、父親が現地で手に入れたカセットかCDをよく車の中で流していたのですが、当時の私は特別それを注意して聴いていたわけではありませんでした。家でも音楽が流れていたことはほとんど無かったように記憶しています。


ただ、それらの音楽を自分自身がギターを弾くようになってから改めて聴いた時に、初めて良さに気付き影響を受けましたね。


アメリカでの音楽体験はそれよりも保育園で昼寝の時間が終わる時にかかる「Over The Rainbow」(ジュディ・ガーランドの名曲。名画『オズの魔法使い』でも使用されている)です。毎回それが流れると、悲しいような虚しいような不思議な気持ちになっていたのを覚えています。今でも聴くとその記憶が蘇ります。

 

ミュージシャンとして活躍する以前から環境音などに興味があったと聞きますが、音楽制作に取り入れるようになったきっかけなどがあれば教えてください。また、実際に、こういった音に関して、ご自身のフォーク・ミュージックにどのような形で取り入れていったのか教えてください。

 

環境音に興味を持ったきっかけは二つあって、一つは美大にいた姉の展示の手伝いをしたこと、二つ目は既存の曲に外で偶然鳴っていた音が混ざって別の音楽に変身した体験です。


私のほとんどのアルバムアートワークは、姉の馬替夏美によるものなのですが、彼女が在学中に、インスタレーションの展示をすることになり、その音楽を作って欲しいと頼まれました。

 

それまで作ってきたような曲では展示の邪魔になるということで新しい手法を探しました。先輩からシンセを借り、なるべくリズムなどを排除した曲を作ったのですが、どうしても展示に合いそうな(さり気ない)曲ができませんでした。

 

その時に姉が『サイレント・ヒル』(編注: コナミから発売されたホラー・ゲーム。当時、日本の若いユーザーの間ではブームとなり、2013年の時点で全世界で840万本を売り上げを記録した)というゲームを例に、「何か背後にいる気配のような音だよね」と説明してくれて、なるほど、”それなら曲を書こうとしちゃダメだ”と思い、ひとまず家中/家周辺の「気配」を感じる音をレコーダーに録り溜めました。

 

環境音を制作するようになったのは、集めた音を使って展示用の音楽を作ったのがきっかけの一つです。その時に、普段気にしていなかった生活音が実はズームインすると複雑な音の層になっていると気付きました。


その展示では他に音を使ったインスタレーションをしている学生も居てサウンドアートの分野に出会い衝撃を受けました。現代アートの文脈での音楽というのでしょうか? よりアカデミック/エクスペリメンタルな音楽に興味が湧き、本などたくさん読み、音楽はこんなに自由でいいのかと知ったんです。


二つ目の方は、外でイヤホンをつけて音楽を聞いていたら、偶然近くで鳴ったサイレンか何かの音が入り込んできて、曲に溶け込んできたという体験なんですが、その時に生活音をただサウンド・エフェクトとして使うのでは無く、メインの音楽の一部にできるのではないかと考え始めました。    

                                              
当時読んでいた本に、日本の水琴窟(編注: 水琴窟は、日本庭園の装飾の一。手水鉢の近くの地中に作りだした空洞の中に水滴を落下させ、その際に発せられる音を反響させる仕掛けで、手水鉢の排水を処理する機能をもつ)の話が載っていて、山梨の神社にそれがあると知って、実際に音を録音しに行ったんです。


実物を見つけ、中の繊細な音だけ拾ったつもりでいたのに、帰って聴くと、近くで飼育されていた鶏の鳴き声とか、人の話し声とか余計な音がいくつか混ざって、奇妙なハーモニーができていた。”優しい鉄琴のような音と鶏の鳴き声”という普通に作曲していたら思い付かない意外な組み合わせが偶然出来てしまったんです。


この時、フィールドレコーディングの面白さに改めて気付き、そこに自分も参加するようなかたちで音楽を作っていったら楽しいかもしれないと思いつきました。それが環境音を多用するようになったきっかけだと思います。

 

©Kanako Sakamoto


 

この時代、大学の研究に専心していたとも聞くんですが、音楽制作の中で化学の研究がなんらかの形で生きた瞬間などあったのでしょうか? もしあれば、それはどのようなことだったのか教えてください。


また、化学に対する興味を持つようになったきっかけのような出来事がありましたら教えていただきたいです。

 

なんらかの影響は及ぼしていると思うのですが、今はっきりと浮かんでくるものは無いですね・・・。生物学に興味を持ったきっかけは、昔から生き物が好きだったのと、高校の時に得意な教科だったからだろうと思います。

 

大学進学時には、すでに音楽作りにしか興味が無かったのですが、芸大や音大は私のような者が行くところじゃないと思って、それ以外で一番興味のあった生物学の学科を選びました。


生き物が大好きだったのは、小さい頃に一人でいる時間が多かったことが影響しているような気がしますね。外で一人で遊ぶことがよくあって、近くの野良猫とか、虫とか、とかげとか、外飼いされている犬と触れ合うのが大好きでしたね。


このアルバムには、ブルースやフォークのほか、日本の童歌の旋法や音階が取り入れられていて驚いたんですが、日本的なノスタルジアを込めようとした意図はありましたか。歌詞についても現代詩のようなニュアンスも感じとれるのですが、触発を受けたもの(漫画、映画、テレビ、文学など)ありましたら教えてください。

 

ちょうど「awa」を作り始めた頃、沖縄の宮古島の音楽とかトルコのフォーク、インドや南米の音楽を紹介している本を偶然読み、紹介されいてる音楽を片っ端から聴いてみて、それまで自分がほとんど考えていなかったルーツというものを強く意識させられました。

 

生まれてからほぼ日本で育った自分のルーツは、もちろん日本にあるのですが、日本のポップスやフォークには、なぜかほとんど愛着が湧かないまま来てしまっていたので、作っている音楽の背景に日本的な趣があるのかはよく分かりませんでした。それで、どちらかというとルーツが分かりやすい音楽を作るより、国籍がよく分からない音楽にしたいとは思っていましたね。


また、歌詞に関しては、真面目なことを書いても、後で恥ずかしくなるだけだろうと思っていたので、できるだけアブストラクトにしたいと思っていたんです。ただただ作った音楽に集中し、見えてくる景色を言葉にしていくというように歌詞を作っていました。他の色々なアーティストの歌詞をたくさん読んで、その感覚を掴もうと研究していましたね。

 

デビュー・アルバムの後に、White Paddy Mountainから2作のフルレングスのリリースを行うようになったわけですが、レーベルのオーナーである畠山地平さんからライブで直接、契約の打診があったと聞きました。当時のエピソードについて詳しく教えてください。

 

「awa」を出して一年ほど経った頃に畠山さんから「リリースイベントに出演して欲しい」とメールをいただきました。畠山さんの存在は知っていたので、ちょっとびっくりしたのを覚えています。すぐにokしてイベントで演奏しました。

 

終演後、「また今度ライブを見に行くから」と言って、実際にしばらく経った頃別のライブイベントでライブを終えて物販の席にいたら、畠山さんが来てくれました。

 

それで、「awa」のCDを手にとって、「このアルバムは、録音/ミックスがよくないかもしれないよ」と、より良い環境で作品を録音しようとご提案いただきました。上にも書いたように、当時、私は「awa」に自信を持てず、次にどうすべきか悩んでいたので、とても有り難かったです。


 

この後の三作のアルバムに関しては、少しエキゾチックなフォークミュージックに転向したというイメージもあるんですが、その集大成が『Hanazono』だったと考えています。幻想的なフォーク・ミュージックの理想的な形が完成しつつあるように思えます。この時代の三作に関して、どのようにお考えでしょうか?



前回の作品で達成できなかったことや、不満のある部分を次作で克服するということの繰り返しなのですが、それがこの後も続いていくのだと思います。


「Koko」は、雑多な「awa」からの反動で、ライブの時のようなシンプルなセットを意識した緊張感のあるアルバムにしたかったんだと思います。「Kemri」では、その現実逃避したような繊細な空気を、もう少し身近なものに近づけたかった。

 

「Hanazono」は、制作していた時点でまだレーベルが決まっていなかったので、再び「awa」に近いDIY環境に戻り、一からやり直すようなつもりで取り組みました。


 

続いて、6月21日に発売されるアルバム「境界 KYOKAI」についてお伺いします。この作品は、福岡在住のアンビエント・アーティスト、duennさんとの共作となったわけですが、このアルバムを制作するきっかけや、レコーディングがどのように行われたのかについて詳しく教えてください。

 

2021年にduennさんからお声がけいただき、duennさんとナカコー(Koji Nakamura)さんが主催しているHARDCORE AMBIENCEに参加したのが最初のきっかけでした。それからしばらくした後に、duennさんからコラボ作品を出そうとメールをいただき、このプロジェクトが始まりました。

 

レコーディングは、duennさんにトラックを送ってもらい、私が自宅で歌を加えて、duennさんに送り返し、okが出たら私がミックスするという流れを繰り返して行われました。うまく歌を入れられなかった「non」という曲は「non1」と「non2」に分けて、元のトラックのまま収録されています。また、「gray」は自分の声とギターで作ったデモをduennさんに送り、duannさんが加工して作られました。

 

©Kanako Sakamoto



 

「境界 KYOKAI」の全体的な印象としては、実験音楽の要素が強い音楽であるように感じました。また、日本人同士のコラボレーションではありながら、ロンドンのエレクトロニックやエクスペリメンタル・ポップに近い雰囲気もあったように思います。このアルバムの制作に取り組むに当たって、最初から完成したイメージというのを、お二人で共有していたのでしょうか。それとも、制作の過程を通して、だんだんと最終的な答えに近づいていった感じでしょうか?

 

作業が始まる前の段階で、duennさんの作ったトラックと私の声を使って、「俳句」あるいは「短歌」をイメージした1-2分程度の短いトラック作るというコンセプトをduennさんが提示しました。面白そうだなと思い、賛成しました。


あえて自分のボーカルを入れる意味を考えながら、duennさんの短い抽象的なトラックの中でヴォーカルによって起承転結をつけるようなつもりで進めました。


 

2年ぶりの新作アルバムのリリースとなりました。今回、イタリアのレーベルから発売されているのにかなり驚いたんですが、これはどういった経緯でリリースが決まったんでしょうか。



レーベル探しは難航していたのですが、以前duennさんの作品をリリースしていたROHS! Records にduennさんが声を掛けて下さり、リリースが決まりました。


 

デビュー当時から、何らかの形で文学性というのが織り交ぜられていた気もするんですが、「境界」では、以前よりも、言葉に対する感覚が鋭くなり、また、言葉そのものの抽象性が強まったという印象を受けます。その点について、ご自身ではどのようにお考えでしょうか。


また、この作品に関するテーマやコンセプトなどがあれば教えてください。プレスリリースでは、duennさんの生活圏内にある路上看板に書かれていた言葉がタイトルとなったと書かれていますが。


今回の作品は自分だけの作品ではないのと、コンセプトがはっきりしていたので、曲がパーソナルなものにならないように、いつもより意識しました。


歌詞は、コンセプトにある短歌のようにある場面を簡潔に描写して、そこから状況や心情を感じ取るようなものにしたかったのですが、とても難しかった。チャレンジングで勉強になりました。



テーマについては、「現実と非現実の境、あの世とこの世の境、その他設けられている境によってどんな差が生まれているのか、何の意味があるのか、そもそも人間が勝手に作ったものであり本来は曖昧で実態が無いようなものではないのか」ということをduennさんはよく考えるとメールに書いていました。そして、通勤途中にちょうど「境界」と書かれた標識があったことで強くそれを意識したのだと思います。


 

現在は作品リリースに加え、ライブも積極的に開催されている印象を受けるんですが、実際のステージで演奏を行う時に、心がけていることや大切にしていることなどありましたら教えて欲しいです。

 

ライブは苦手なんです。毎回、どうにか楽しもうと心がけています…。


 

実質的なデビューから10年以上が経過しました。当時のことを思い出した時に、何か大きく変わったなあ、ということがあれば教えてください。また、今後のライブ日程などがあれば教えてください。

 

ここに書き切れないくらい多くのことが少しずつ変わったのですが、大きな変化というとなかなか具体的に思い付かないですね。

 

そういえば、10年前ごろにあるイベントでライブした時、見に来ていた、おそらくアメリカの方と思われる中年男性から終演後に「物販でレコードはある?」と声をかけられ、「CD(「 awa」)ならあるよ」と答えたところ、「CDなんかいらないよ」と言われたのが印象的でした。当時は”なんでレコードなんだ?”と思ってしまうくらい、レコードに馴染みがなかったですが、それがその後日本でも流行り始め、およそ10年後に「Hanazono」でリリースしたというのは感慨深いですね。今後、しばらくライブの予定はないので、制作の方に集中したいと思います。

 

今後の活躍にも期待しております。今回、Music Tribuneのインタビューをお受けいただき、誠にありがとうございました。

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