【Weekly Music Feature】Frankie Cosmos 『Different Talking』

Weekly Music Feature- Frankie Cosmos

ニューヨークの4人組インディー・ロック・バンド、フランキー・コスモスの6枚目のアルバム『Different Talking』は、まるで時空を超えて存在しているようだ。 断片的な記憶、思い出の場所、再解釈された感情の集合が、明晰でハミングするような全体像を作り上げている。


フランキー・コスモスのリード・シンガー、ギタリスト、ソングライターであるグレタ・クラインは、オスカー俳優の娘として知られており、2010年代の象徴的なDIYミュージシャンとして活動を続けてきた。クラインは現代インディー・ミュージックで最も巧みで、最も必要な作家のひとりとして長い間高い評価を受けてきたが、『ディファレント・トーキング』では、彼女の歌詞が少し和らいでおり、最近のアルバムを特徴づけていた辛辣なシニシズムが、人間の脳と心の驚くべき、そして必要な誤謬性を認めるようになっている。


『ディファレント・トーキング』を原点回帰、少なくとも初期のフランキー・コスモスのような瑞々しい直球勝負のアルバムに戻ったと分類するのは、失礼ながらまったく間違っている。『ディファレント・トーキング』が明らかにしているように、20代前半の安らぎや勇気に戻ることはできないのだ。 『Different Talking』は、その人を見つけ、尊重し、そこから学ぶことをテーマにしている。 「このアルバムの多くは、大人になること、そして自分自身を知る方法を見つけることについて歌っている。 自分自身の過去に取り憑かれるサイクルにハマっている時、私たちはどうやって前に進むのだろう? 曲を書くということは、まさにその通り道なんだ」


クラインは10代後半からアメリカのインディー・アンダーグラウンドの中心的存在で、Bandcampでの多作と2014年のインディー・レーベルからのデビュー作『Zentropy』によって、"ニューヨーク・シティDIYの桂冠詩人 "と呼ばれるようになった。 そのようなタグは若い肩には荷が重いが、彼女が現代のポップ・ミュージックに与えた特異な影響を否定することは難しい。 


若い女性がベッドルームでシンセサイザーを手にし、インターネットに2、3曲をアップし、すぐにスーパースターになるという考えが、今や当たり前のようになっているとしたら、それはクラインが、他の一握りのアーティストや作家とともに、メジャー・レーベルのマーケティング・オフィスのムードボードに貼られるずっと前に、女性のDIYの天才という考えを正常化し、普及させたからだ。


フランキー・コスモスは、過去10年間に様々な変遷を経て、現在はグレタ・クライン、アレックス・ベイリー、ケイティ・ヴォン・シュライヒャー、ヒューゴ・スタンリーの4人組となっている。 クラインは唯一不変の存在だが、スタンリー、ベイリー、フォン・シュライヒャーは重要なコラボレーターで、「グレタ・クライン」と「フランキー・コスモス」という名前を使い分けるのは正しくない。 クラインが主要なソングライターであることに変わりはなく、『ディファレント・トーキング』の楽曲はバンド全体がアレンジしているが、このアルバムは外部のスタジオ・プロデューサーを起用せず、ユニットがセルフ・トラッキングした初のアルバムである。


フランキー・コスモスは、『ディファレント・トーキング』制作のためにニューヨーク北部の一軒家で1ヵ月半のキャンプを張り、長期間、自分の芸術と向き合い、生活することでしか築けない親密な関係を構築した。 互いのリズムを学ぶことで、日を追うごとに、彼らはバンドとしてより生き生きと呼吸する有機体になり、クラインの曲を作り上げるミュージシャンの集まりというよりは、各トラックの中に共有する世界を見つけることに専念するユニットになりつつあった。 


本作はフランキー・コスモスにとって初の完全セルフ・プロデュース・アルバム。(クラインの初期のデモは別として) 「10代の頃から作りたかったもののベスト・バージョンという感じだ」とクラインは言う。 「これはリビングルームで録音されたものだが、スタジオで作ったものと同じくらい忠実度が高い」


「ディファレント・トーキング」を聴けば、4人の熟練した野心的なミュージシャンが完璧なハーモニーを奏でた作品であることがわかる。アルバム全体を通して、余計なものや場違いなものは何もなく、すべてが1つの共有された中枢神経からコントロールされているように感じられるだろう。「ディファレント・トーキング」は、クラインにとって最も内向的な作品かもしれないが、音楽的には、フランキー・コスモスのアルバムの中で最もバラエティに富み、豊かな質感に満ちている。 「グレタの曲をちゃんと作るためなら、どんなことでもやる。彼女は曲を惜しみなく提供してくれるから、アレンジも自由自在だ」とフォン・シュライヒャーは信頼を寄せる。 「稀有な才能で、稀有な自由が与えられていて、その路線は変わっていない」



『Different Talking』- Sub Pop



フランキー・コスモスは、90年代のアルトロックグループ、R.E.M、GBV、Sebadoh、Galaxie 500といった当時のアメリカの大学ラジオ曲でオンエアされていた「カレッジ・ロック」と呼ばれるシーンを作り上げたバンドの次世代に属する。そもそも、80年代後半のアメリカには明確なインディーズレーベルが存在しなかった。そこで、コバーンとシカゴのレコードショップ店員をしていたブルース・パヴィット氏がシアトルで立ち上げたのがサブ・ポップである。

 

このレーベルは、サブスクリプションの先駆けである「シングルズ・クラブ」等の名物企画で知られている。間違いなく、米国のインディーズミュージックの象徴的なレーベルとも言えるだろう。 パヴィット氏は、当時のハリウッドの産業構造が形骸化しているのを察知し、メインストリームの音楽とは別軸の独立した音楽の流通が必要であると考えていた。そこでコバーンと協力しレーベルを発足させた。音楽家として名高いコバーンは、むしろインディーズミュージックの産業形態の基盤を作ったことにより、事業的な側面で大きな貢献をもたらしたのだった。

 

一方、フランキー・コスモスは、元々、ニューヨークのキャプチャード・トラックスから派生したバヨネット・レコードの出身であり、その後にサブ・ポップに移籍している。正しく、USインディーズレーベルの隆盛に合わせて、フランキー・コスモスは主要レーベルをわたりあるいてきたが、ようやくシアトルのレーベルに落ち着いたというわけである。しかしながら、そのフロントパーソンを務める、オスカー俳優の娘のグレタ・クラインが、2010年代からベッドルームソングやローファイのような生粋のインディーズミュージックを制作し続けてきたという点に、エンターテイメント産業のカルマを感じざるを得ない。今や、世界のどの地域にも無数のインディーズミュージックが点在しているが、このジャンルは、メジャーレーベルと契約出来ないからインディーズミュージックなのではなく、メジャーレーベルでは流通しづらい音楽の需要を拡大することに意義が求められる。”メジャーではない音楽とは何なのか”といえば、大きな産業形態に組み込まれない音楽を示し、言い換えれば、その大きな産業形態の歯車から脱出し、その毒気から離れることだ。反面、それは趣味のための音楽ともかぎらない。少なからず、スタジオライブのレベルであるにせよ、観客との交流というメリットが内在する。例えば、NPRのタイニー・デスクは、このために存在しているように思える。そこには、表向きにはしづらい主要産業に対するアンチテーゼや揶揄を込めることも可能なのだ。しかしながら、現在のところ、インディーズとメジャーの垣根はほとんどなくなっている。その音楽的な差異は、インターネットの普及やサブスクリプションの拡大により、薄まりつつある。

 

サブスクリプションの普及は、音楽制作全般に関する定義を再考させる契機となった。音楽は、聞かれるために作られるべきか、もしくは売るために作られるべきか。理想としてはいずれも軽視出来ないが、全般的な音楽的な市場としては、ライブやグッズの販売の方にシェアが傾いているのは事実だろう。そういった中で、CD販売が全盛時代だった90年代や、アップルミュージックで曲が単体で販売されていた00年代に比べると、音楽をなぜ作るかという切実な課題と向き合わざるを得なくなった。その動機は、それぞれであるが、フランキー・コスモスのグレタ・クラインの場合は、どうやら純粋なアート精神を掲げ、バヨネット所属の時代から音楽を制作し続けてきた。これは、ニューヨークのインディーズ精神のようなものが支えとなり、メンバーチェンジを経ても、音楽制作の続行を可能にし、そしてバンドを存続させてきた。

 

その成果が『Different Talking』だった。通算6作目のアルバムであるが、レーベルのいうように、ベスト・アルバムの見込みが高い。それほど派手ではないものの、主要なソングライターのメロディーセンス、そしてバンド単位の精細に作り込まれた曲の構成、それらがタイトにまとまり、17曲という二枚組のように分厚い構成であるが、一気に聞かせるコンパクトなアルバムが誕生した。曲数は多いが、インディーズミュージックの良曲が収録されている。また、フルアルバムを制作する際には、どのような音楽の流れにしていくのかという音楽監督のような視点がどこかで必要となってくる。この役割は、レコードの主要なスタッフやプロデューサーが肩代わりする場合もあるかもしれないが、フランキー・コスモスのニューアルバムの場合は、どこまでも独立した音楽精神のスタイルが貫かれ、それらが最初から最後まで続いている。バンガー曲は、インディーズ・ミュージックにはときには必要ではないということが分かる。解釈次第では、このアルバム全体をDIYのアート作品としてみることも可能だ。このアルバムの根底には、パティ・スミス、テレヴィジョンから始まるニューヨークの精神が内在する。

 

しかし、このアルバムがロックなのか、それともポップなのかというのは意見が分かれそうだ。というのも、 ギターやドラムの演奏は念入りに行われているが、音量的には最低限であり、グレタ・グラインのボーカルや音楽的な着想や構想を引き立てるような働きをなしている。これはフロントパーソンの音楽的な感性が確立されていて、それにある程度の自負がないと、周りを惹きつけたり先導することが非常に難しくなる。フロントシンガーとしては、エポックメイキングな効果や壮大な印象を与えることは少ないけれど、その音楽的な感性の強度はパティ・スミス、トム・ヴァーレインといったNYの象徴的な詩人に引けを取らない。加えて、2010年代から培われてきた多作な音楽家の性質が本作に強固なアクセントを与えている。

 

 

そういったニューヨークのDIY精神と合わせて、このアルバムのキーポイントとなるのが、70年代のフラワームーブメントや映画産業に付随するバーバンクサウンドである。 これらがソングライターの持ち前のソングライティングやメロディーメイカーとしての才質を通じて、一軒家での綿密なレコーディングセッションの集中性から生み出された。前作の延長線上にある音楽が展開され、それらがピンポイントになっている。先行シングルとして公開されたオープニングトラック「1-Pressed Flower」は、アルバム全体の紹介代わりで、初見のリスナーへの招待状でもある。温和でファンシーな印象を持つアルトロックソングのスタイルは普遍であり、それらがライブセッションのような形で繰り広げられている。この一曲目には、カレッジ・ロックの精神が貫かれていて、それらが耳障りの良いローファイなロックソングとして提示される。

 

 

バーバンクやバロックポップのような古典的なポップスの魅力を織り込んだ「2-One of Each」が続く。シンセサイザーでリズミカルに通奏低音を作り、それをベースが補佐し、枠組みを作り上げたあと、ジャングルポップやパワーポップの系譜にある、少し甘酸っぱい感覚のあるボーカルが乗せられる。メインボーカルとコーラスの組み合わせは、フラワームーブメントの西海岸的な要素を付け加え、それらが懐古的な空気感をもたらし、実際的にビーチ・ボーイズのように美しいハーモニーを作り出す。この序盤の2曲には、ステッペンウルフの時代のラブアンドピースの思想が反映され、それらがフランキー・コスモスの持ち前のドリーミーなポップセンスに縁取られる。この曲では、シンセ/ギターの演奏がリズミカルな効果を与え、曲のムードを上手く引き立てている。フランキー・コスモスのバロック主義は「3-Against The Gain」において現代主義へと足取りを進め、同レーベルに所属するニューヨークのインディーポップバンド、Nation of Languageのような懐かしさと新しさを兼ね備えた魅惑的なシンセポップに変容する。この曲ではベースの同音反復が全体的な構造の土台を担い、なだらかな起伏を設け、センチメンタルなボーカルの印象が優勢になる。ファビアーナ・パラディーノのセルフタイトルアルバムなどでも見受けられた最新のポピュラー・ソングの音楽的な手法に準じている。 曲全体にアクセント、及びアーティキュレーションをもたらすのが、シンセサイザーのシークエンスだ。このシンセがトロピカルな音のイメージを作り出し、安らいだ質感を生み出す。

 

 

 「Bitch Heart」では、グレタ・クラインの内省的なソングライティングがより色濃くなる。アルバムの序盤のベストトラックである。ムーグシンセのようなアナログの音色を背景に二つのボーカルを組み合わせ、ゴスペル風のサウンドをポップソングとしてイントロを縁取った後、ドラムやギターの演奏を通じて、曲は素早く回転し、ドライブ感を増していく。ドラムが8ビートのシンプルな楽曲構成に16分音符の細かな効果を与え、複合的なリズムを作り出し、そして小節の間にスラーを挟み、シンコペーションを駆使し、跳ねるような効果を与える。しかし、それらの外側に放出されるようなエナジーと対比を描くかのように、クラインのボーカルはどこまでも内向的な感覚を維持している。これらの強弱やコントラストを生かしたロックサウンドは、まさしくこのバンドの音楽の色彩的なイメージを補強するような役割を担う。その後、ドラムの休符を挟み、ディストーションギターが顕となり、この曲はまるで制作者はバンドの手を離れ、ひとりでに歩き出すかのよう。そしてアウトロにかけて再びドラムが入り、全体的な印象を決定付けるシンセサイザーがヨットロックのようなトロピカルなフレーズを作り出す。一軒家の箱詰めセッションでしかなしえない強固な構成を持つ素晴らしい一曲である。

 

  「Bitch Heart」

 

 

 

アルバム中盤にかけて多彩な音楽が展開される。「5-Porcelain」はバーバンクサウンドのフォーク・ロックをベースにしているように思える。また、「6-One! Grey! Hair」はビートルズの『Rubber Soul(ラバー・ソウル)』時代のバロックポップを主体にサイケなテイストを演出している。しかし、この曲を決定付けるのはニューウェイブ風のドライブ感のあるシンセサイザーで、それらが休符を多用したフレーズの中で、ロックになったり、ポップになったりと変化していく。ときには音が鳴っている瞬間ではなく、休符の後の余韻が強調される場合もある。

 

バンドとして、これと決め打ちせず、演奏の中で音楽性を適切に変化させていく点については見事としか言いようがない。バンドの中での”こうしたら?”という議論を重ねた形跡が見つかる。それらは実際的に音楽やアンサンブルによって会話するような卓越した録音を形成している。上記の2曲のようなサイケ、アート、フォークの中間にある音楽性は西海岸的と言えるか。同じく西海岸風のトロピカルな音楽が続き、「7-Vanity」ではヨットロックのリゾート的な感覚を音楽により的確に表現する。ラヴァーズ・ロックのようなカリブ音楽の影響もありそうだが、キラキラとしたポップセンスはディスコソウルにも近く、ダンサンブルな印象をもたらす。

 

一貫して博愛主義や平和主義が貫かれるフランキー・コスモスの音楽的な精神は、このアルバムを本質を理解する上で重要になってくるかもしれない。そして、闘争、栄誉、利己主義、そういったものが蔓延する現代社会に対するシニカルな提言とも言える。それはまた表向きには出てこないし、明瞭には見えもしない。いわば音楽の背後にある本質や行間(サブテクスト)を捉えられるかが重要となってくる。音楽的にはその限りではないものの、マーリーやレノン、もしくは最初期のニューヨークの詩人たちのような理想主義に接近している。これらは全般的に、フランキー・コスモスの音楽性を、ビートルズの全盛期の印象に近づける場合がある。 

 

フランキー・コスモスのオルタナ精神ともいうべきもの本領は「8-Not Long」に垣間見えるだろう。イントロはピクシーズの有名曲を縁取ったコード進行の曲であるが、やはりこの曲の本質を決定付けているのは、フラワームーブメントやヒッピー精神に類するラブアンドピースの思想である。これらは若者の文化の自由主義の思想の根幹になったわけだが、弊害としてはあまりに放埒になりすぎることがあった。しかし、この曲の場合は、それらの平和主義と自由主義が組み合わされた思想に一定の規律が与えられることにより、それほど音楽が奔放に陥ることがない。また、部分的には、マカロニ・ウェスタンのようなギターが砂漠地帯のイメージを作ったり、サーフロックのようなギターが登場したりと、様々な音楽文化が混在しているのに驚く。その後には、ビートルズ風の楽曲へと変化していく。これらはまるでカメレオンのようだ。

 

アルバムの序盤は西海岸びいきのように思える。 本作の中盤まで聴いた人々はこれが最後まで淡々と続く、と思うかもしれない。ところが、ニューヨークらしい音楽がその後に登場する。「Margareta」はストロークスのオマージュっぽい。以前のローワーイーストサイドのロックシーンをミニマリズムという観点から巧みに捉え、それらをローファイ(荒削り)にしている。この曲には、古典的なロックの要素も登場し、ブルースのコードで頻繁に使用される定型のギターフレーズも登場する。古典的なロールの要素を上手く引き出しながら、このバンドのもう一つの意外なロックバンドとしてのキャラクターを浮かび上がらせる。また、そのロックのイディオムの中には、テレビジョンの『Marquee Moon」との共通点も見いだせるかもしれない。その後、ガレージ・ロックリバイバルに根ざしたようなクランチなギターがより強調される。「10-You Take On」は、序盤の収録曲と比べると、ロック/パンクのウェイトが明らかに大きい。この曲を聴いて、Throwing Musesの2000年前後の作風を思い浮かべる人もいるかもしれない。「High-Five Handshake」はオルタナティヴロック・バンドとしてのバラードの理想形である。

 

さらに、続く「You Become」は、「Bitch Heart」と並んでアルバムのベストトラックに挙げたい。ビートルズのサウンドのバロックポップを受け継ぎ、それらをパワーポップ風の切ない感覚で縁取っている。しかし、この曲のメロディーセンスは、最近のソングライターの中で傑出している。同じように、フラワームーブメントの時代のサウンドがベースになっていると思われるが、やはり2010年代から培われたベッドルーム・ポップのエッセンスが添えられている。また、The Byrdsのように巧みなドラムの演奏もこの曲に強いダイナミクスを及ぼしている。

 

 

シンプルに言えば、このアルバムは12曲構成を中心に組み立てられ、その後は、プラスアルファのような印象を受ける。この文章を書いていて、個人的には、どこかで聞いた話だと思っている。しかし、ボーナス・トラックとして収録するのには惜しい良曲があるのも事実だろう。13曲以降は、フランキー・コスモスの多趣味な音楽性が繰り広げられる。その中には、シリアスになりがちな音楽に余白を与えるような効果がある。「joyride」はクラインのソロシンガーとしての性質が強く、フレンチ・ポップのような音楽も反映され、独特な雰囲気を醸し出す。しかし、依然として突出したメロディーセンスが、この曲に聴きごたえをもたらしている。「Tomorrow」は90年代のカレッジ・ロックのスタイルを選び、終盤の収録曲に起伏を設けている。さらにアルバムの中で最も異色なのが、「Wonderland」である。明らかにディスコソウルに触発され、それらをニューヨークのフォークやロックと並んで重要なジャンルであるシンセポップで縁取っている。少なくとも、上記の2曲は、遊び心があるだけではなく、温和なエネルギーに満ちている。それは未来に対する漠然とした明るい印象を持つことの示唆でもあろう。

 

さて、アメリカの心理学者、アブラハム・マズローが提唱した「欲求段階説」というのを皆さんはご存知だろうか。これらは最下部の生存の欲求や性的な欲求に始まり、より高い階層に至ると、承認欲求や自己実現の領域に到達する。そして、それは、人間の精神の進化の一連のプロセスを示唆している。そしてもし、その上の6段階目にあるものを挙げるなら、次のような概念がある。例えば、人類全体に対する根本的な信頼、普遍的な愛(アガペー)、それから、自己に対する揺るがぬ安心感である。フランキー・コスモスの『Different Talking』におけるソングライティングや全般的な音楽制作は、一般的に見受けられる承認欲求を超越したマスター・プランを提供している。そして、それが音楽的な重要な動機となっているため、聴いていてとても気分が良い。感情論だけで音楽を語るな、と多くの人は言うかも知れない。しかし音楽の絶対的な評価を最終的に決定するのは、それが心地よいのか悪いのか、という印象論である。

 

これらは、バンドの音楽の制作の動機が、複数の人間の間に繰り広げられるフレンドシップにより形成されているため、聞き手にも安心感がストレートに伝播する。職業的な関係を超えたミュージシャンの人間らしいコミュニティやフレンドシップ、これこそまさしく、”インディーズ・ミュージックの本質”とも言えるのではないだろうか。商業主義だけでは到達しえない表現領域が、どこかに存在することは明らかである。その道筋をフランキー・コスモスのメンバーは本作において照らし出そうとする。アルバムの終盤でも、バンドの結束力や信頼感はまったく揺るぎない。「16-Life Back」は、2014年頃から続いてきた作曲の集大成を成す。そして、本作の最後に収録されている「17-Pothole」では、オルタナティヴロックソングの本義が示される。 『Different Talking』は何度もリピートしたくなり、長く聞きたい素晴らしいアルバムである。

 

 

92/100 

 

 

 

 

▪Frankie Cosmosのニューアルバム『Different Talking』はSub Popより本日発売済み。ストリーミングはこちらから。