Sub Popはどのようにメインストリームを席巻したのか?

インディーレーベルについて

 

 

世界各地に点在するインディー・レーベルの成り立ちについて知ることほど面白いことはない。


なぜなら、メジャーレーベルと異なり、こういったレコードレーベルは、必ずしも巨大な資本を持つ企業があらたに経営に乗り出すことは稀であり、独特でユニークな経営方針を持って運営される場合が多いからだ。

 

こういったレコード会社は、メジャーレーベルとは異なり、ラジオ局で知見を深めた人間、独立したファンジンの発行者、レコードショップの店員、実際のミュージシャンが新たに事業に着手するケースが見受けられる。 それはここ日本でも変わらず、レコード・レーベルを始めるのは、それなりに業界で経験を積んだ多くのコネクションを持つ無類の音楽好きである場合が極めて多い。

 

レコードレーベルとしては、設立当初の規模の大小にかかわらず、後に一定規模の企業に成長していく実例もなくはない。もちろん、それは一部の例外といえ、多くは放漫経営により資金繰りの目処が立たず、新しい作品のリリースがままならなくなり、破産に至る事例も多く見られる。

 

さて、シアトルに本拠を置くサブ・ポップ・レコードは、二人の若者によって設立された企業である。

 

サブ・ポップは、設立当初こそ放漫経営を行っていたが、後に、一定の規模の企業に発展していく。1980年代から1990年代にかけて、グランジシーンを牽引したアメリカの名門インディーレーベルのひとつに数えられる。現在、シアトルの空港内にレコードショップを構えており、この土地を代表するレコード会社として知られている。


 

 


二十代の若者二人により設立されたサブ・ポップは、後に、イギリスでもグランジという言葉を浸透させたアメリカの歴代のポピュラーミュージック・シーンにおいて見過ごすことのできない重要なレーベルである。

 

何度となく、サブ・ポップは経営破綻しかけるものの、そのたび幾度となく蘇生してきた。一度、ワーナーミュージックに買収されるが、レーベル経営はその後、比較的安定化していき、2021年現在もアメリカのインディーシーンで一定の影響力を持ち、アメリカ国内のミュージックシーンの繁栄に寄与しつづけている企業だ。

 

現在も、多岐に渡るジャンルの作品をリリースし、個性的なアーティストを輩出しつづけるサブ・ポップは、レーベルの理念としてアメリカの先住民の人々に深い敬意を表している珍しいレーベルであるが、どのように創設期から現在までの道程をたどったのか、その概要について今回記していきたい。 

 

 

 

1.Sub Popの二人の設立者

 

 

 

サブ・ポップは、二人の若者によって設立された。後のグランジシーンの生みの親ともいえるのが、ブルース・パヴィット、カート・コバーンと親交が深かったジョナサン・ポネマンである。まず、この二人の人物のレーベルオーナーになる以前のバイオグラフィーについて、簡単に纏めていきたい。

 

 

 

・Bluce Pavitt

 

 

サブ・ポップの経営者となるブルース・パヴィットはアメリカ・シカゴ郊外で生まれ育つ。パヴィットは若い頃、AMラジオを聴いたり、シカゴのレコードショップ「Wax Trax」(インディー・ミュージックの公式学校として認可されている)を訪れたり、「Villlage Vice」という音楽雑誌を購読して、音楽に対しての知見を深めていった。  

 

 

サブ・ポップの設立者 ブルース・パヴィット https://brucepavitt.com/



その後、彼は、当時、米国内でインディーミュージックを唯一専門オンエアしていたワシントン州のラジオ局「KAOS」で学び、エバーグリーン州立大学に転校。ラジオ局と地元のミュージック・シーンにささやかな貢献を果たした。

 

ラジオ局「KAOS」において、ブルース・パヴィットは、「Rock」の時間帯を受け継ぎ、新たなバンドを「Subterranean Pop」という番組内で紹介した。

 

その後、ブルースは、アメリカのインディー・ミュージックに特化した音楽雑誌「Subterranean Pop」を立ち上げた。(後の「Sub Pop」という名は、この雑誌に因んでいる)1980年代当時、現在のように、インディーミュージック自体が流通する手段が整備されておらず、アメリカ国内ではインディーロックバンドのレコードを入手したり、ラジオ局でオンエアされる以外のバンドの音楽に触れるのはかなり困難だったという。

 

従って、ブルース・パヴィットはこの時代から、独自に発見した一般的に知られていないインディーミュージックを、米国全土に普及させていきたいと考えていた。雑誌の発行部数が増加するにつれて、パヴィットは、カセットコンピレーションのリリースを考案した。これは、後のサブ・ポップレーベルのリリースカタログの重要な概念となった。パヴィットは「Subterranean Pop」の購読者が、自分自身が執筆した音楽の記事だけでなく、実際の音に触れてくれることに深い喜びを感じていた。この時の出来事について、ブルース・パヴィットはこのように回想している。

 

 

音楽ファンが何らかのレコードを購入するとき、彼らの多くが、音楽そのものだけでなく、アーティストによって提示される価値観やライフスタイルにも触れてみたいと考えているのを私は知っていました。だから、私は、そういった情報や音源を率先して提供していこうと考えたのです。

 

また、この1980年代のアメリカにおいて、既に、ハリウッドの打ち立てた産業構造は完全に形骸化しており、(編注・資本家が宣伝したいものを巨大な商業ルートに乗せ、商品を需要者に押し付ける資本家の搾取のことについて、ここでパヴィット氏はきわめて暗示的に語っている。もちろん、言うまでもなく、現代のアメリカだけでなく、ヨーロッパの業界全体にもこういった悪弊は残されている)この時代、新しいサウンド、新しいヒーローの登場を、アメリカの社会全体、多くの人々は、切望していたのです。そのための何らかの手助けをしたいと、私は考えていたのです。

  

 

1983年、パヴィットは、エヴァーグリーン州立大学を卒業後、シアトルに転居する。それほど時を経ず、「Fall Out Records」というレコードショップを開店する。 「Fall Out Records」は、シアトルのキャピトル地区で最初のインディーレコードショップとなった。彼は、このレコード店を経営する傍ら、執筆活動にも精励するようになり、雑誌「The Rocket 」に「Sub Pop USA」というコラムを掲載しはじめる。これは、彼がエヴァーグリーン州立大学時代に発行したファンジン「Subterranean Pop」の雑誌の続編の意味を持ち、月間コラムの形式で掲載され、この雑誌の購読者の間では「インディーミュージックの聖書」という愛称で親しまれていた。

 

また、この時代から、ブルース・パヴィットは、KCMU(現在、ワシントン州シアトルに本拠を構えるラジオ局「KEXP」の前身、オルタナティヴやインディーロックを専門とするラジオ局で、ミュージックシーンから高い評価を受けている)で、インディーズレーベルのスペシャリティーショーを主催し、広い範囲にインディーミュージックを紹介する役目を担っていた。


1986年になると、ブルース・パヴィットは、初期のSUB POPのレーベル運営に乗り出していった。

 

その手始めに「SUB POP Compilation 100」、グランジムーブメントの黎明期を代表する作品、サブ・ポップのカタログ第一号として、Green Riverの「Dry As A Bone」をリリースした。 

 

 

 

Subpop-100.gif
レーベルの第一号となった記念すべきコンピレーション・アルバム「Sub Pop Compilation100」


http://www.petdance.com/nr/discography/, Fair use, Link


 

 

 ・Jonathan Poneman


 
サブ・ポップ・レコードのもうひとりの設立者、ジョナサン・ポネマンは、上記のブルース・ハヴィットとは異なり、バンドマンとして、このレーベルの経営を支えてきた存在である。
 
 
Nirvanaのカート・コバーン(左)とSub Popの設立者のジョナサン・ポネマン(右)
 
 
ジョナサン・ポネマンは、オハイオ州トレドで生まれ育った。彼は、十代の頃から、いくつかのガレージロックバンドで演奏してきたミュージシャン経験のある人物である。(本人は、自分は決して良いミュージシャンではなかったと謙遜して語っている)
 
 
ジョナサン・ポネマンは、ミシガン州の寄宿学校に短期間在籍した後、いくつかの高校に転校した。それから、シアトルに転居して、最終的には地元のラジオ局KCMUで、ボランティアとして、勤務するようになった。
 
 
しかし、このラジオ局に勤めることになった経緯については、ポネマンは無自覚であり、いつの間にかそうなっていたという。興味深いことに、このシアトルのオルタナティヴミュージックの重要人物ジョナサン・ポネマンは、いつの間にか、ラジオ局のステーションを駆け巡るようになっていたのだ。
 
 
1985年、 ジョナサン・ポネマンは、ブルース・パヴィットが主催するKCMUのスペシャルショーと称される番組に初めて出演を果たす。彼は、その時、1990年代のシアトルグランジシーンの代表格となるSoundgardenのライブパフォーマンスにいたく感動した。ボーカリストのクリス・コーネルの歌声に深い感銘を受け、ジョナサン・ポネマンは、サウンドガーデンのシングル作をリリースしたいと熱望するようになった。
 
 
この時、ジョナサン・ポネマンは、キム・テイル、ブルース・パヴィットの二人の知己を得て、サウンドガーデンのレコーディングセッションに2000ドルを捻出した。つまり、これがサブ・ポップ・レコードの始まりだったのだ。
 
 
 
 
 

2.サブ・ポップの黎明期

 
 

 

サブ・ポップの設立者ブルース・パヴィットとジョナサン・ポネマンは、1988年になって、レーベル運営の初期投資となる約1900ドルの資金を集めることに成功した。

 

この資金については、不履行になるおそれがある小切手、そうでないものが含まれていた。彼らは、シアトルの小さなオペレーションをフルサービスのレコードレーベルに変え、サブ・ポップのネーミングライセンスと事業に50%ずつ出資し、法人企業としての体裁を整えた。しかしながら、先行投資の設立当初のレーベルとしては多額の投資であったため、サブ・ポップは、発足当初最初の一ヶ月で破産の危機に陥り、その後も、レーベル運営が軌道に乗るまでは、財政的に苦戦を強いられることになった。

 

そもそも、このレーベルの目標は、サブカルチャーに根ざしたアイデンティティを確立することにあった。彼らは、レーベル設立当初から、人々にサブ・ポップと言う名に接した時、シアトルらしい音を思い浮かべてもらえるようにしたいという意図を持っていた。

 

彼らの目論見はピタリと当たり、これは後に「シアトルサウンド」としてアメリカ国内のみならず、国外のイギリスや日本でも知られるようになった。サブ・ポップの初期リリースの多くは、プロデューサー、ジャック・エンディノの協力によって制作された。

 

その後、サブ・ポップのレーベルの名、そして、シアトルサウンドを決定づける魅力的なバンドが数多くシーンに台頭しはじめた。

 

シアトルグランジの始まりとなったのが、Green RiverのEP作品「Dry As A Bone」。その後に、リリースされたSound Gardenのシングル盤「Screaming Life」、「Hunted Down/Nothing To Sat」。


Mudhoneyの「Touch Me I'm Sick/Sweet Young Thing」、「Superfuzz Bigmuff」。Nirvanaの初期作品「Love Buzz/Big Cheese」といった作品群だった。 

 

 

Green River「Dry As A Bone」

 

 

 

Mudhoney 「Superfuzz Bigmuff」
 

 

これらの作品に見受けられる、ギターエフェクター「Big Muff」に代表される、苛烈なほど歪んだディストーションサウンドの台頭は、当時のGuns 'N Rosesや、LA Guns,Skid RowをはじめとするLAの産業ロックが優勢だったアメリカのシーンに、衝撃的な印象を与えたのは事実である。

 

上記のサブ・ポップのリリース作品は、メタルとパンクロックの融合と一般的に称される「グランジサウンド」を象徴する最初期の名盤で、リリースは全てアンダーグラウンドの流通であったが、のちビルボードチャートを席巻するシアトルサウンドの素地を形成した。

 

特に、最初期において、サブ・ポップは、画期的なビジネススタイルを取り入れていた。驚くべきことに、時代に先んじて、1980年代に、毎月、レーベルからリリースされる新しいシングル作をメールで配信するサービス(サブスクリプション方式)を取り入れていた。この事例は、世界で最初のサブスクリプション方式ではなかっただろうか? このサブスクリプションサービスは「Sub Pop Club」と名付けられて、ピーク時には、約2000人の購読者を獲得していた。

 

   

画期的なメールマガジン方式のサブスクリプション「Sub Pop Singles Club」


 

1980年代後半、英国の音楽メディアは、アメリカのパンクロックミュージックとそのサブジャンルに興味を示していた。多くのアメリカのアンダーグラウンドのバンドは、その後、実際にはヨーロッパで成功を収め、アメリカ国内を凌ぐ人気を獲得した事例もある。特に、英国では、ザ・スミスの後の有望なバンドを探し、アメリカ、特にシアトルのシーンに次世代のスターを見出そうとしていた、といえるだろうか?

 

この年代、ブルースとジョナサンは、英国の音楽ジャーナリスト、エヴェレット・トゥルーをシアトルに招いて、サブ・ポップと相携えて成長を遂げる「シアトルシーン」について紹介記事を書くように依頼した。 

 

 

 

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By Greg Neate  CC BY 2.0, Link 英国人ジャーナリスト、エベレット・トゥルー

  

 

以来、エヴェレット・トゥルーは、シアトルのグランジシーンの苛烈な音楽性を痛く気に入り、深い関係を保ち続け、英国内にシアトルのインディーミュージックを紹介するプロモーターとしての重要な役割を担った。

 

彼は、グランジシーンについての取材を重ねるにつれ、シアトルで多くのバンドと親しくなり、その後、ミュージシャンとしても活動する。K Recordsのカルビン・ジョンソン、トビ・ベールのバンドとのシングル作において、ゲストボーカルとしても参加している。

 

また、エヴェレット・トゥルーは、Butthole SurfersとL7のギグで、カート・コバーンとコットニー・ラブを引き合わせた人物にほかならない。その後も、夫婦ぐるみの付き合いをし、家族のような関係を持ち続けた。

 

 

 

 3.グランジの最盛期

 

 

 

グランジの最盛期は、Nirvanaのメジャーデビュー作「Nevermind」が「スリラー」での成功以来、長年にわたり不動の地位を築いていたマイケル・ジャクソンをUSビルボードチャートのトップから引きずり下ろした瞬間に始まり、1994年のカート・コバーンの銃による自殺とともに終わったというのが一般的な通説である。少なくとも、ニルヴァーナがシアトルを代表するバンドであるとともに、サブ・ポップを象徴するバンドであったということは疑いがないはずだ。

 

カート・コバーンが地元シアトルの歯科助手として勤めながら、約2000ドルを貯めて、ほとんど自主制作としてレコーディングされた「Bleach」1989は、サブ・ポップからリリースされるや否や、カレッジラジオでオンエアされ、アメリカの若者の間で大きな人気を博した。 

 

 

Nirvana 「Bleach」1989 Sub Pop

 

 

ニルヴァーナは、この実質的なデビュー作「Bleach」により勢いを増し、アメリカのミュージックシーンに強い影響を与えるようになっていた。 


その後、ニルヴァーナとツアーを行っていたNYのインディーロックバンド、ソニック・ユースは、その時代にゲフィン・レコードの系列会社として1990年に新たに設立された「DGC Records」と契約を結び、レーベルの新しい可能性を探るため、マネージャのジョン・シルバとダニー・ゴールドバーグにニルヴァーナの間に入り、彼らをゲフィンレコードに紹介した。当時、ニルヴァーナのカート・コバーンは、サブ・ポップの財政状況に不満を示していて、このソニック・ユースの伝を頼ろうとしたのだ。 

 

 

 

Sonic Youth Still Life 1991, by David Markey"Sonic Youth Still Life 1991, by David Markey" by JoeInSouthernCA is licensed under CC BY-ND 2.0

 

 

その後、ゲフィン傘下のDGC Recordsは、サブ・ポップから、ニルヴァーナの契約を買収した。「Bleach」の楽曲の使用権については、以降もサブ・ポップに保持された。この権利譲渡を行う際の契約内容には、ニルヴァーナのバンドのプロモーションをする際、サブ・ポップのロゴとDGCのロゴを一緒に用いる規定、その規約をニルヴァーナの後のリリース作品にまで及ばせるという事細かな規定が両レーベル間で交わされた。この時代、ニルヴァーナの想像を遥かに上回る商業面での成功により、サブ・ポップは、その後何年にもわたり、会社の収益面での重要な基盤「シアトルサウンド」をリリースするレーベルとして、全米にとどまらず世界的な知名度を獲得する。



1992年からは、アメリカのロックシーンは、インディーロックに移り変わりつつあった。ニルヴァーナの意図せぬ大成功により(もちろん、「Nevermind」はアルバムジャケットからしてゲフェンレコードがすべて意図的に仕込んだセンセーショナルなリリースでもあった)、本来、オーバーグラウンドに全く縁のないマニアックなインディーロックバンドが次々にスターダムへと押し出されていった。これはまた、既に多くの人がご存知の通り、本来、「亜流」の意味を持つオルタネイティヴミュージックがメインストリームを席巻し、アメリカのミュージックシーンの「主流」に成り代わった歴史的な瞬間でもあった。さらに、アンダーグラウンドシーンから、次なるニルヴァーナを見出すべく、レコード会社の関係者、あるいは業界関係者は熱をあげていた。 


これには、多くのサブ・ポップに所属するバンドが全て対象となり、それまで、このサブ・ポップレーベルのシアトルサウンドの基盤を築き上げた、サウンドガーデン、グリーン・リバー、マッド・ハニーといったバンドも一躍脚光を浴びる。アバディーンを代表するメルヴィンズ(カート・コバーンがハイスクール時代にバンド加入オーディションを受け、不合格となっている)も、それなりの知名度を誇るバンドになった。

 

巨大産業、メジャーシーンに組み込まれることを危惧したサブ・ポップレコードは、この急激なミュージックシーンの変化に際して、何らかの先手を打つ必要があった。 1994年、サブ・ポップはワーナー・ミュージックとの合弁会社を設立する。2000万ドルの巨額の取引を通じ、サブ・ポップは、ワーナーミュージックにレコードリリースのライセンスの45%の譲渡を決定した。これは、前例のない取引だったという。しかし、このメジャーレーベルとの合併後、サブ・ポップは急激にインディーミュージックに対する求心力を失っていくことになる。 

 

 


4.サブ・ポップの一時的な凋落

 


 

ワーナーミュージックとの契約は、サブ・ポップのレーベル運営に、少なからずの変更を強いることになった。レーベルのオフィスが拡大し、ワーナーのレーベル担当者が招かれ、サブ・ポップの企業文化に大きな変化が生まれたのだ。

 

この時点で、創設者のブルース・パヴィットとジョナサン・ポネマンは企業の将来についての考えに明らかな違いが生じ始めていた。

 

ブルース・パヴィットは、レーベルのDIYの理念を保持していきたいと考えていたのに対して、ジョナサン・ポネマンは、企業の収益を増やし、レーベルの財務状態を安定させるため、会社の規模自体を拡大していきたいと考えていた。

 

これは、インディーレコード会社としての理念を守るか、はたまた、最初の理念を捨て、大手レーベルとしての歩みを選択するか、いわばレーベルの分岐点に当たった。ワーナーミュージックの買収、シアトルグランジがワールドワイドなブームとなる中、資本主義の企業文化に対してサブ・ポップも無関心でいられなかった。また、この時代、少数のサブ・ポップのスタッフがワーナーのスタッフに置き換えられてしまったことに、ブルース・パヴィットは深い動揺を覚えていたという。

 

まもなく、最初の創業者ブルース・パヴィットは、サブ・ポップを去っていった。以後、パヴィットは、執筆活動やDJといったレーベル経営とは異なる分野で活躍している。

 

その後、サブ・ポップは、ジョナサン・ポネマンの意向を重んじ、スケールアップを図り、世界中にオフィスを開き、メジャーレーベルのような存在感を示そうとした。しかし、この決断により、皮肉にも、サブ・ポップのレーベルカラーを失う結果となり、以前の特性を維持することが困難となった。正直、ニルヴァーナやサブ・ポップのリリースしたレコードのブームは一過性のものでしかなく、永久的な音楽市場の需要を築き上げるまでには至らなかった。1990年代後半、グランジブームが下火になるにつれ、サブ・ポップのレーベルの経営は息詰まり、1997年には破産寸前まで追いやられた。


この時代、コストを削減するため、余分なオフィスを手放す必要に駆られたのち、残留したスタッフの給料を捻出できないほどになっていた。サブ・ポップのレーベルとしての未来は、決して明るくないように思えた。

 

 

5.最初のレーベル理念の復活 

 

 

 

しかし、再び時を経て、ジョナサン・ポネマンが、シアトルに戻った時、重要なインスピレーションを得た。彼は、それまでの三年間、なんとしてでも巨大なレコード会社へ成長させようと試みていたが、そもそもその考え自体が誤りであったと気がついたのだ。


サブ・ポップと契約しようとするバンド、アーティストはそもそも、メジャーレーベルに属するミュージシャンと異なり、インディー体質、つまり、ある程度、DIYのスタイルを保持し、音楽活動を行っていきたいと考えるアーティストばかりだと、ジョナサン・ポネマンはようやく思い至ったのである。

 

それは、インディーレーベルらしい家族やコミュニティのような近い関係を、レコード・レーベルとアーティストが結ぶことにより、アメリカのインディーロックの重要な価値観であるDIYの精神を強固に構築するものでもあった。むしろ、これらのアーティストは、サブ・ポップというレーベルを通して、他のメジャーレーベルでは味わえない経験を得たいと考え、契約を結ぶことが多かったのだ。

 

この重要なレーベルコンセプトに気がついたポネマンは、以後、企業規模を縮小していく方針を取る。サブ・ポップは、以前と変わらず、財政面での苦戦を強いられ、その将来も見通せないままであったにせよ、ポネマンは、サブ・ポップの社屋をシアトルに戻し、巨大レーベルとしての道を諦め、その後、シアトルらしいレコード企業として小さな経営を続けていくことを決断した。

 

 

その後、幸運にも、サブ・ポップの財政面での困難を救ったのが、The Shinsの「Oh,Inverted World」2001のリリースだった。  

 

 

The Shins 「Oh Inverted World」2001 Sub Pop

 

 

「Oh Inverted World」は、商業的にも批評的にも概ね好評で、新たなサブ・ポップの代名詞とも呼ぶべき名盤となった。The Shinsのレコードは、Sub Popの歴史に新たな1ページを加え、レーベルの明るい未来に向けての新たな分岐点を形作ったと言える。

 

 

 

6.サブ・ポップの現在 シアトルの象徴

 

 

 

2000年代以降、サブ・ポップはジャンルにかかわらず、多岐にわたる新人アーティストの発掘に努めている。

 

2021年現在、ロックにとどまらず、フォーク、R&B、エレクトロニック、ヒップホップ、と魅力的なアーティストが数多く在籍し、刺激的なリリースを行っているレーベルであることに変わりはない。

 

同じように、サブ・ポップは、NYのMatadorと並んで、アメリカの重要なインディーズレーベルとして息の長い経営を続けている。それのみならず、スターバックス、アマゾンと並んで、シアトルを代表する企業であることにも何ら変わりない。サブ・ポップのレーベルの特色、そして、所属するアーティストの独特な音楽性は、現在もシアトルという土地の象徴的なブランドを形成しているのだ。

 

7年前から、シアトルのシータック空港(シアトル・タコマ国際空港)内には、サブ・ポップのレコードショップが開設されている。


ここには、サブ・ポップのPNW関連の商品を販売するパートレコードストア、それから、パートギフトショップであるサブ・ポップ・エアポートストアが開かれており、レコードマニアにとっては見過ごすことのできない観光名所となっている。2021年現在も開設されているのかについては、シアトル現地のファンの証言に頼るしかあるまい。

 



シアトル・タコマ国際空港内のサブ・ポップ公式ショップ

 

2018年にサブ・ポップは、遂に目出度く三十周年を迎えた。いや、迎えてしまったと言えなくもない。(これは、彼らが「創業三十周年」ではなく、「廃業三十周年」と自虐的に呼んでいることからも明らかである)

 

長年にわたるレコード会社として粘り強いDIYスタイルの経営を続けてきたことに加えて、財政面で浮き沈みの激しかったレーベル運営という面で、シアトルのサブ・ポップレコードは、英国のラフ・トレードにも近い魅力を持ったレコード会社といえる。


今後、果たして、どのような素晴らしい魅力を持つアーティストがこのアメリカの名門レコード会社から出てくるのだろう。音楽ファンとしてはワクワクしながら次なるビッグスターの登場を心待ちにしたい!!



・Reference 


「A History of Sub Pop Records」Lauren Armao 2021

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