【バラードのルーツ】  イタリアのトレチェント音楽とフランチェスコ・ランディーニ

▪バラードとは何か? 


 バラード(バラッド)は、この1世紀半の音楽の通例として、物語をモチーフにした叙情的な音楽として世に広く普及してきた。ゆったりとしたテンポで、ギターやピアノの弾き語りの曲が多く、ときどき泣かせる表現を含んでいる。また、ジャズでもバラードは登場し、ジョン・コルトレーンがこの形式をジャズの領域で実現させ、「ジャズ・バラード」という語を定着させた。

 

 近代音楽の観点から言えば、アメリカのフォークバラードやイギリスのブロードバラードなどがこれに該当する。この音楽のルーツは、中世ヨーロッパの自由形式の叙事詩のことを指し、中世の伝説やロマン主義の物語を中心とした文学の一形態であった。古くは、イタリアの騎士道小説の題材としても扱われ、ペトラルカ、ダンテ、ボッカチオなどがバラードの題材を好んだ。一方、フランスでは、寓話で有名なラ・フォンテーヌがバラードにまつわる詩を書いた。


 さらに、他のヨーロッパ地方にもバラードは伝播し、ドイツでは、ゲーテ、シラー、ハイネ、メーリケ、イギリスではバーンズ、そして、フランスでは、ユーゴー、デュマ、ミュッセがバラードの形式の詩を好んだ。しかし、文学者が四行詩(ヨーロッパでは4行スタンザという)を題材に選ぶはるか昔に、バラードは民謡的な舞踏音楽として一般的に親しまれてきた経緯があった。

 

 バラードの語源は、イタリア語の「Ballare」であり、「踊る」という意味が込められている。後に、「単数形: Ballata/ 複数形: Ballate」という語が普及していき、その後に「Ballad」という呼称が定着した。

 

 この舞踏音楽は、その後、古典音楽が次第に高度になっていく中で、「Gigue(ジーグ)」、「Menuett(メヌエット)」「Scherzo(スケルツォ)」「Waltz(ワルツ)」など、音楽的な性質をそのつど変化させながら、舞踏音楽ーー原初的なバレエの形式ーーを確立させていく。バラードというのは、聡明な読者はお気づきになられると思われるが、舞踏の形式を示す「Ballet(バレエ)」の語源でもある。これは地方の訛りによって呼称が変化したと見るのが妥当である。


 バラードの起源は思ったよりも古いらしい。「Medieval Music(古楽)」として一般的に知られている。少なくとも13世紀ごろには存在したと言われており、リュートや縦笛を伴う器楽的な民謡として始まった。その後、舞踏の要素を伴うダンスミュージックとして17世紀まで発展を遂げた。以降はジャズやポップ、ロックまで極細の音楽ジャンルに浸透していくことになった。

 

 初期のバラードは、歌を口頭で伝えるという形で、西ヨーロッパを中心に普及していった。また、それは、楽譜や文学や詩の出版のような形を伴わず、完全な”ストリート・ミュージック”として発展していった。多くの場合、吟遊詩人(トルヴァドール)がリュートを片手に傍らにいる人々のために歌う、ささやかな民謡音楽であった。


バラードは、最初にイタリア北部と中部で発生した。バラードは「自由詩」と一般的に呼ばれるが、その反面、厳格な形式が存在した。基本的な音楽形式は「A-b-b-a-A」から成り、最初のスタンザと最後のスタンザは、同一の文脈の構造を持っている。つまり、主題を示すモチーフやテーマが提示された後、別のスタンザを経て、最初の主題に回帰する。クラシック音楽の作曲を勉強した方であれば、お気づきになられるだろうが、これはソナチネやソナタの原点でもある。全体的な三部形式という西洋の古典音楽のルーツはバラードの形式に拠る所が大きいようだ。 

 

 

 

▪イタリアのトレチェント音楽  14世紀のフィレンツェの古楽

現代のフィレンツェ

 フランスのノートルダムやブルゴーニュ地方で音楽文化が盛んになった後、イタリアのフィレンツェに主要な音楽の舞台は移り変わっていく。14世紀のフランスとイタリアは、それぞれ政治的な状況に関して異なる道程を歩んでいた。フランスは王政が敷かれ、以降の君主制の礎を形作する期間であった。

 

 他方、イタリアは、各都市国家が繁栄し、それぞれの都市国家が同盟関係を結び、政治的な安定化を図っていた。そしてまた、経済発展も目覚ましかった。イタリアでは、フランスの宗教的な音楽の発展とは異なり、独自の音楽形式が繁栄をきわめた。

 

 14世紀のイタリア音楽は、「Trecento((トレチェント)」と呼ばれた。現在では、古楽やメディエイヴァルとして知られている。トレチェントはイタリア語で「300」を意味し、この年代の音楽にとどまらず文化全般を示す文脈で使用される。 


 トレチェント音楽の中心となったのは、イタリア半島の北部から中部にかけての地域であった。北部のボローニャやトスカーナの宮廷では、フランス南部の世俗音楽の先駆者であるトルバドゥールの音楽が親しまれていた。その後、イタリアの音楽の担い手となるトルヴァトーレが生み出された。

 

 14世紀のフィレンツェ周辺の音楽は大半が即興演奏(インプロ)を中心に発展し、現存する資料は希少だ。14世紀から16世紀にかけて文化の中心地であったフィレンツェでは、14世紀ごろのメディエイヴァルが多く残されている。15世紀初頭に模写されたスクアルチャルーピ写本(ロレンツォ・メディチ図書館に所蔵)には、二声から三声の世俗的な歌曲が約250曲収録されている。

 

スクアルチャルーピ写本から(テトラクティス)ー Naxos

 

 この写本にも見受けられるように、トレチェント音楽は、マドリガル、カッチャという二形式に加えて、バラータ(現在のバラード)の全三形式から成立していた。マドリガルは、田園的、牧歌的なものを歌った詩、そして、恋愛をモチーフにしたものなどさまざまな形式がある。詩の形は、三行+二行から成立している。最後の二行は、小結尾(Coda)が付け加えられる。ただし、その後の部分は、まったく別の音楽が装飾的に付け加えられこともあった。これらがその後、最終的に簡略化され、一般的な4行詩(スタンザ)になったと推察される。 

 

 カッチャは、イタリア語で「狩り」を意味し、アレグロやロンドの原初的な形式であると類推される。いきいきとした民衆的で素朴な旋律が特徴であり、カノン(異なる地点から別の声部が同じ旋律を演奏する)が付加されることもあった。さらに、バラードの原型であるバラータ(Ballata)は、踊りの伴奏として成立し、当時は''叙情的な性格を持った歌唱曲/合唱曲であった''と現存する資料の数々が伝えている。 これらはまた、ソナタ形式の二楽章や、アダージョ/アンダンテの楽章の原型と見ることが出来る。これらの原初的なトレンチェントは、一般的な古楽として知られているように、リュート、縦笛、ボーカル/チャントを取り入れた牧歌的な民謡として出発した。その中の固有の性質である物語の要素や詩の形式については上述した通りである。



▪バラードの先駆者 フランチェスコ・ランディーニ

ランディーニがオルガネットを演奏する姿。スクアルチャルーピ写本に収められたミニチュア。15世紀


 

 フランチェスコ・ランディーニは、フィレンツェ出身の作曲家。幼い頃に天然痘にかかり、失明した。イタリアのトレチェント出身の画家の父の教育を受け、音楽や詩、占星学を学んだ。ランディーニは以降、オルガニストとして出世し、イタリア全土やヨーロッパで著名な存在となった。友人には同じく作曲家のアンドレアス・ダ・フロレンティアがいた。1375年頃に、アンドレアスは、セルバイト家のオルガニストとしてランデイーニを雇う。当時の資料には、三日間の調律の間に、彼らが消費したワインの記録がある。(中世ヨーロッパにおいて、ワインは嗜好品ではなく高級品であった)  彼の音楽的な才能が世に認められただけではなく、彼は傑出した知識人でもあった。彼は失明したにもかかわらず、楽器の制作に携わり、また、フィレンツェ大聖堂の建設時に重要な助言を行った。彼の建築的な功績は、大聖堂の鐘楼に残されている。
 
 
 ランディーニは、アルス・ノヴァの重要な音楽家であった。彼は三声のための多数のバラードと多数のマドリガルの楽曲を作曲した。ランディーニの仕事の多くは失われた。それでも、彼のスタイルは、いわゆる「ランディーニ・ケイデンス/ランディーニ・カデンツァ(ランディーニ終止)」によって当時の作曲家に大きな影響を及ぼした。終止形(ケイデンス)は当時の作曲家にとって一番の腕の見せ所であり、ある種の美学とも言えなくもない。これは楽節の終止箇所において、導音(Ⅶ)から主音(Ⅰ)ではなく、第六音(Ⅵ)を経過し主音に戻るという独自の様式美でもあった。その他、ランディーニ終止の変形であるブルゴーニュ終止やバロック期に多用されたピカルディ終止(ヨハン・セバスチャン・バッハが好んで使用した)などがある。
 
 
ランデイーニ終止の凡例

 
 
 フランチェスコ・ランディーニの現存する作品の多くは散逸したままである。89曲の二重唱バラタ、42曲の三重唱バラタ、二重唱版と三重唱版の両方が現存する9曲で構成されている。バラーダに加えて、少数のマドリガルも現存している。一部の専門家は、ランディーニは自作の詩も執筆したという説を唱えている。彼の作品は、驚くべきことに、14世紀イタリアの現存作品全体の約4分の1を占める。 現存する作品の多くが世俗的な音楽とされている。彼の音楽形式は、フランスのギョーム・ド・マショーと同じように、アルス・ノヴァの一環として見られる場合が多い。

 

フランチェスコ・ランディーニ作曲のバラッタ「Ecco la Primavera(春よ、来たれ)」のオリジナル楽譜


 古楽としてのバラードの特徴は、ノートルダム楽派の牧歌的な気風を明確な形で受け継いでいる。その音楽に静かに耳を傾ければおのずと、フィレンツェの荘厳な建築の美しさや緑豊かな自然、トルバドゥールと呼ばれる吟遊詩人たちの姿が目の裏に浮かび上がってきそうだ。ランディーニが生きた中世ヨーロッパは、黒死病や天然痘等、疫病の多い時代であった。しかし、その中をたくましく生きる人間にとって、疫病は音楽や詩の持つ美しさには叶わなかった。

 

 バラッドの著名な作曲家にはそのほか、彼の友人であるアンドレアス・ダ・フィレンェ、バルトリーノ・ダ・パドヴァ、ヨハネス・チコニア、ザカラ・ダ・テラモ、ピエール・デ・モリンスがいる。

 

 彼らは、アントニオ・ヴィヴァルディに象徴されるイタリアン・バロックの扉を開いた重要な先駆者であった。''バラード''の出発は、先述したように、宗教音楽でもなく、宮廷音楽でもない。一般的な市民のための民謡であった。そのため、多くの作品の作曲者は、不詳となっている。これらが後にロマン派の重要な形式となったのはご承知の通りである。以後、フレドリック・ショパン、ブラームス、ヴォルフ、レーヴェ、フォーレがバラードの形式を高度に発展させた。


 



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