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Palace of the Dukes of Burgundy(旧ブルゴーニュ公宮殿 ヴェルサイユ宮殿を設計したマンサールにより再建 現在は市役所と美術館) |
ルネサンス期は芸術全般で大きく繁栄したことは常識であるが、音楽芸術においても独自の形態が出てきた。14世紀まではローマ・カソリックとフランク王国が結びつきを強め、同盟化し、西ヨーロッパ全土を掌握する中、芸術全般はその権威下で発展していくことを余儀なくされていた。しかし、15世紀以降は、レオナルド・ダ・ヴィンチやシェークスピアが絵画や演劇の世界で活躍し、ボッカチオは騎士道精神を込めた文学世界で大いに活躍した。
これらの時代は”芸術至上主義”が台頭した。旧来、カソリック教会の元で権威的な作品を王族や国家のために制作することを強いられたが、それとは異なる独立した芸術形態が出て来た。これらはまだ、王国や教会という組織や機構の元で名声を獲得するに過ぎなかった。しかし、それらの作品には、その多くが宗教的なモチーフが用いられていたが、芸術そのものを第二義的な範疇から開放し、表現者がよりいっそう自由な精神を発露するという意図が明確に示されていた。
・ルネサンス期と芸術の発展 宗教性と人間性
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Da Vinci(ダ・ヴィンチ)肖像画 |
これらのルネサンス期の時代背景を形成したのは、旧世界の拡大、言い換えれば、”新世界の発見”である。15世紀に至ると、旧来の封建制度が崩壊し、貿易が盛んになる。おのずと都市経済が発展していく。そして、これらは”人間の個別意識”を市民にもたらし、彼らは人間の理性に配慮しなければならなくなった。世の芸術家たちは、ギリシアやローマの旧来の芸術主義を参照した上で、人間の根本的な価値を探り、そして、人間的な概念を作品に求めるようになった。
これが俗に言われる「ルネサンス(再生)」と呼ばれる概念の正体であった。人間全体の生活が格段に向上していく中、人間そのものが社会の中でどのように生きるべきか、多くの人々は芸術活動や思想、哲学を通して探ろうとした。それは旧来の組織の中で生きる人間性からの脱却を意味していたのである。例えば、レオナルド・ダヴィンチは、繁栄と侵略が繰り返されるイタリアのフィレンツェで活動し、その生涯を通じて、宗教画、壁画、彫刻、建築の設計などを通して、自然探求、人間の生々しい姿、そして宇宙的な生命の神秘までを描いた。シェイクスビアは、王族から平民に至るまでくまなくその生活を観察し、すべての階級を活写した戯曲を書き上げた。ダンテは、幻想的な視点から、地獄、煉獄、天国を捉え、悲劇や喜劇、政治的な風刺、詩学を散りばめた文学作品を残した。いずれの芸術家も、それはその時代の人間の本性や、宗教改革が進む中で、模範的な人生観を探求していったという点において共通している。
15世紀以降は、新大陸の発見の時代だった。ヴァスコ・ダ・ガマによるインド航路の発見、マルコ・ポーロのアメリカ大陸の発見など、ヨーロッパ社会が新天地を発見し、世界にはまだ未知の大陸が存在することを明示した。スペインやポルトガル勢力は南アメリカ大陸を侵略し、植民地化する。また、1588年、イギリスはスペインとの開戦で無敵艦隊を撃破、そして植民地化政策の中で、その後、アフリカ大陸まで領土を拡大する大英帝国の基礎をこの時代の礎を築いていった。
キリスト教の宗教改革も隆盛をきわめる。これらの旧来のカソリック勢力に待ったをかけたのがドイツのマルティン・ルターだ。スイスではカルヴァン派が登場し、宗教改革を行う。イギリスでは英国教会が独自に誕生し、キリスト教自体が分裂を始めるようになっていく。その中でプロテスタントが発生し、イエズス会として勢力を広める。さらに、派閥争いも活発化した。特に、ハプスブルク家とフランス王家がたがいに対立を深め、カソリックとプロテスタントの対立も激化する。フランスのカルヴァン派のユグノー戦争は、それらが露呈したものである。
・宮廷音楽家の登場 ブルゴーニュ楽派 ルネサンス音楽の礎を築く
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Guillaume du Fay (ギヨーム・デュファイ) |
こうした中、フランスとフランドル地方で音楽芸術が発展していく。フランスではブルゴーニュ楽派が発生し、フランドルではフランドル楽派が誕生する。これらは前バロック期に当たり、宗教音楽を完成させ、以降のバロック音楽の礎を築いた。フランスの中東部にあるブルゴーニュ公国では、首都ディジョンとブリュッセルで音楽文化が花開いた。この地方は、6世紀ごろゲルマン系の部族によって王国が成立し、その後フランク王国の領土となった。1363年から1477年までは、ブルゴーニュ家が支配し、公国となった。この時代のブルゴーニュ公国の領土は、フランスの一部、そしてオランダ、ベルギー、ルクセンブルクにまたがっていた。
公国の首都はディジョンに置かれ、その後、ブリュッセルに遷都され、フランスに匹敵するほどの勢力を持った。歴代の君主は芸術主義を重視し、これを保護したため、音楽文化が盛んになった。ブルゴーニュの音楽文化を担った礼拝堂楽団は、最盛期には28人の専門的な音楽家を抱えた。これは、フランス王室やアヴィニョンの礼拝堂楽団をしのぐほどの規模であった。その中で、ブルゴーニュ楽派は、宗教音楽を発展させる。中世のアルス・ノヴァという形式からルネサンス期の音楽形式へと移行させる。ブルゴーニュ楽派は、旧来のフランスの音楽を発展させ、その中で、イギリスの和声、そしてイタリアの旋律からの影響を受け、独自のルネサンス形式へと昇華させた。その中で、活躍した作曲家は、デュファイ、バンショワが挙げられる。
デュファイの音楽を聴いてみてほしい。リュートを用いた曲が多く、宗教音楽の印象は意外なほど薄い。特に、その音楽の中には、ケルト民謡などからの影響も見受けられ、民俗音楽も併存している。ブルゴーニュ楽派の音楽は、公国としての短期間での滅亡を度外視すると、平和の象徴とも言える音楽であり、ボヘミアンの性質が一際強い。権威主義の音楽とは対象的である。
デュファイは、ローマ教皇庁の礼拝堂楽団のメンバーとして活躍し、北フランスのカンブレでも活動した。その後、イタリアとブルゴーニュの両方で活動を行っていた。ブルゴーニュ音楽の専門的な特徴は、「フォーブルドン」と呼ばれる6度と3度の音程が連続する形式にある。これは後にイタリン・バロックの名手、スカルラッティがソナタで完成させている。音楽的な気風としては、どことなく田園の風景を思わせ、実際にこのソナタは「パストラル」と呼ばれたりもする。
3度と6度の連続する音程については、イギリス音楽からの影響があり、対位法の基本的な構成である。また、音楽の終止形にその土地の特性を込めるのが、当時の流行であった。ブルゴーニュ楽派では、旋律が導音(7音)から第6音に下降してから主音に向かうランディーニ終止が用いられた。ブルゴーニュ楽派では、ミサ曲、マニフィカト、モテットをはじめとする宗教曲も演奏されたが、同時に、世俗的な音楽への道を切り開いた。この時代からシャンソンやロンドなど、ポピュラー、ソナタや交響曲の三楽章などでお馴染みの世俗的な音楽も台頭するようになった。この15世紀の時代にポピュラー音楽は最初の萌芽を見せ始めたと言えるだろう。
クラシック音楽というと、お硬いイメージを覚えるかもしれない。けれども、これらの音楽を見るとわかるように、世俗的な音楽と宗教的な音楽は互いに影響を及ぼして発展してきたことがわかる。世俗的な音楽と宗教な音楽はその後のバロック期を通じて、その融合性を強めていく。
Guillaume du Fay (ギヨーム・デュファイ)- 「saltarello」
・フランドル楽派 教会音楽家 バロックの扉を開く
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フランドル楽派と楽奏天使 |
一方、現在のベルギーの古い呼称でもあるフランドルについてはどうだろう。フランドル楽派は、戦争の中で、ブルゴーニュ公国が滅亡した後に繁栄を極める。ブルゴーニュ公国が1474年から始まったフランスとの戦いの中で、公国のシャルル大公が戦死し、ブルゴーニュ公国はあっけなく終焉を迎えた。公国はフランスに併合され、 ネーデルラント地方(オランダ)は、フランスの王族から後にオーストリア地方の最大勢力であるハプスブルク家の領地へと譲渡された。
ブルゴーニュ公国が滅亡してから、ブルゴーニュ家に仕えていた音楽家たちは、国際的に活躍していたため、各地方の宮廷に使え、音楽の発展に貢献を続けた。以後、フランス北部やネーデルラント地方の出身の音楽家は、”フランドル楽派”の名称で親しまれた。この楽派の音楽家はパリの北部(現在のベルギー)に位置するカンブレの聖堂や教会で体系的な音楽教育を受けた。そして、その土地の宗教的な性質が強いことを受けて、教会の聖職に就くことが多く、聖歌隊のための作曲を行う。専門的な宗教音楽家は、12世紀から13世紀にかけてのノートルダム楽派が有名だが、この時代から音楽家としての職業性が強まり、専門職として一般化していく。
フランドル楽派は、過去のグレゴリオやノートルダムの原初的な音楽を発展させた。3声と4声のポリフォニックな旋律を導入させ、以降はそれ以上の声部の旋律をなす作品を制作していった。これらの複雑な対旋律が特徴のバロック音楽への扉をフランドル楽派が開いたのである。
旋律だけではなく、拍動も複雑化し、複合的なリズムを取り入れる。フランドル楽派の音楽は、ブルゴーニュ楽派のケルト音楽などの民俗音楽色の強い音楽形式とは対象的で、この時代において最も宗教音楽の性質が根強い。それはこの楽派に属する音楽家たちが、教会や聖堂の宗教活動の一貫として、これらの音楽を制作していたからである。彼らは、ミサ曲やモテット、儀式的な音楽を中心に制作し、それらは実際の修道士の仕事で演奏される場合が多かった。
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Josquin Des Prez(ジョスカン・デ・プレ) |
この時代に登場した中で傑出しているのは、ジョスカン・デ・プレ、そして、オケヘム、クレメンス・パパ、ラッソである。オケヘムは、モテットやミサ曲を中心に作曲し、重々しく厳粛な作風を確立した。一方、デ・プレは宗教音楽に根ざしながらも、イタリアのバロックのような優雅な旋律とハーモニーが特徴である。ジョスカンは、ルネサンス期最高の作曲家と呼ばれ、宗教作品のみならず世俗的な作品も数多く残した。彼の音楽は通模倣形式と呼ばれるフーガの追走の形式の基礎をなし、以降のスカルラッティやバッハのバロック音楽の流れを形作った。
Josquin Des Prez(ジョスカン・デ・プレ)- 「Ave Maria」
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