フランスの大衆音楽の始まり シャンソンはどのように作られたのか?  アリスティード・ブリュアンとイヴェット・ギルベールの功績

▪️シャンソンとシャノワール フランスの大衆音楽の始まり 

現代のシャ・ノワール 

フランスの歌謡形式であるシャンソン、そして演劇の形式であるレビューは、フランスで始まり、日本にも伝わり、戦前から戦後にかけての日本音楽に重要な影響を与えた。レビューは宝塚歌劇で昭和初期に取り上げられ、軽演劇の重要な系譜を担うことになった。また、シャンソンの方も、日本歌謡にごく普通に組み込まれ、戦後には、シャンソン喫茶などがオープンし、空前のブームとなった。今回は、フランスの大衆音楽であるシャンソンの歴史について考察する。

 

シャンソンの歴史は思ったより古い。最初の舞台となったのが、パリ北部のモンマルトルの一角にある芸術キャバレーである。ここには、貴族から庶民まで幅広い階級が足繁く通い、音楽や食事を心から楽しんだ。また、ここには、風刺的、嘲笑的な文化が存在した。サロン文化を引き継いだこのキャバレーには、作家、詩人、音楽家、画家、漫画家などが訪問し、文化の礎を作った。


詩を愛してやまないワイン商人、ルドルフ・サリスが、84番街ロシュシュアールに最初の店をオープンする。サリスが、放棄された土地を訪れたとき、街灯のすぐ近くにいた痩せた黒猫を見かける。黒猫はまるで、かれのことを歓迎しているように見えた。そこで、エドガー・アラン・ポーの物語にちなんで、彼は、店の名前を思いついた。その名もル・シャノワール(黒猫)。

  

シャ・ノワールは、オープン当初から大変な盛況ぶりであった。著名人も詰めかけた。シャルル・クロス、アルフォンス・アレ・シュタインレン、ロートレック、そして、シャンソンの代表的な歌手、アリステュード・ブリュアン、そしてカフェ・コンセール、スカラで商業的に大成功を収めるイヴェット・ギルベールなどがいた。ギルベールは回想する。「店で見つかった一匹の老いた黒猫が、キャバレーに彼の名をつけた。店ではこの猫はマスコットのようなものだった」 

 

▪風刺的な文化と週刊誌の刊行

Le Chant Noir : 1886年9月1日の発行(コピー) 


このキャバレー「黒猫」の名声を高めることになったのが、文学や風刺を中心とする同名の週刊誌である。「Le Chat Noir」は店が開店した翌年の1882年から発行された。

 

雑誌とキャバレー''黒猫''からは、「ベル・エポック」、「アール・ヌーヴォ」など、重要な芸術運動が台頭した。ここでは、階級を問わず、一般的な市民が、テーブルで飲んだり、話したり、音楽を聴き、新たな文化や着想が生まれる拠点になった。この雑誌にも、有名な作家が協力、参加していた。アルフォンス・アレ、ガイ・ド・モーパッサン、ヴィクトール・ユゴー、エドモンド・ド・ゴンクール(後に、フランス作家の登竜門「ゴンクール賞」が設立される)、そして著名な作曲家も参加している。シャルル・グノー、ジュール・マセネなどがいた。

 

シャ・ノワールは商業的に成功を収めた。ルドルフ・サリスはほどなく、シャノワールをモルマントルのラヴァル通りに移転させた。現在のヴィクトル・マッセ通りにある三階の建物への移転。それは、建築的にも、黒猫の威光を象徴していた。ピザンチンの柱、二匹の猫の装飾、そして煙突、黒猫がガチョウを怖がらせる建築的なモチーフ。その建築的な装飾やデザインの各所には、モルマントルの精神であるブルジョワに対するウィットに富んだユーモアが効いていた。店が移転した後も、アマチュアの芸術家や作家が続々と集う。シャンソンを始めとする諧謔味のある音楽を歌手が歌ったほか、画家や作家も毎晩のようにキャバレーに集った。モーリス・ドニ、エドモンド・ハラウクール、ジャン・リュシュパン、ジョルジュ・クールリーヌなど。

 

▪最初の人気歌手 アリスティード・ブリュアン(Aristide Bruant)と現実主義のシャンソン


ル・シャ・ノワールから登場した歌手の中で、シャンソンというジャンルの普及に貢献したのが、アリスティード・ブリュアン(Aristide Braunt)という人物である。彼は、音楽家としてだけではなく、キャバレーのオーナーを務めたという点で、実業家としての才能にも恵まれた。彼のソングライティングの形式は、労働者階級と社会的な異端者の苦難をスラングとして描くという趣旨であった。ブリュアンはまた、プロレタリアの表現と商業的なエンターテインメントを融合させて、フランスのポピュラー音楽やキャバレーの進化に重要な影響を及ぼした。上記のロートレックが描いたイラストの絵画は、この歌手の象徴的なイメージを形作ったと言える。

 

ブリュアンは、カフェ・コンサートで研鑽を積んだ後、1883年にル・シャ・ノワールに拠点を移して、労働者階級の観衆のために歌を歌った。シャ・ノワールでは、パリの下層階級での実体験から、都市の貧困や疎外、厳しい現実を描き、現実主義のシャンソンへと転換を図った。これは以前の彼自身の生活からもたらされたもの。普仏戦争。兵役。パリに戻った後も、雇用の不安やブロレタリア階級の厳しい生活に直面した。パリの下層での見習いと社会に対する観察の時代は、彼を郊外の生の方言と生存競争へと駆り立てた。また、労働者階級の窮状を疎外された人々のリアルな声として表現するという、彼自身の音楽的な中核を形成することになった。

 

ブリュアンは、生々しいスラングを積極的に使用し、ストリートミュージックのような音楽を生み出した。歌手としてのデビューは良い評判を呼び、ル・シャ・ノワールの名物的な歌手の地位を獲得。恩返しとばかりに、この店の名にあやかる曲も作った。ほどなくして、ブリュアンは「A La Mie Du Chat Noir(黒猫の周辺)」を作曲し、この店の公式アンセムとなる。しかし、歌手は、そういった宣伝的な音楽のほか、鋭い社会風刺も展開させた。貧しい人々や追放された人々のいきいきとした暮らしを歌い、社会的な分裂を痛烈に批判し、身近な貧困問題について我が身のことのように歌った。他にも、彼は、ゾラの自然主義文学に触発され、娼婦、やくざ者、誤ったフランス語などを使い、独自のリアリズムの音楽形式を確立させた。ブリュアンの文化形態は、それ以降のピカレスク文学やフィルム・ノワールへの影響も指摘出来る。

 

ル・シャ・ノワールが1885年により大きな建物に移転した時、ブリュアンは、創業者のルドルフ・サリスと袂を分かつ。同年、アリスティードは、黒猫の跡地となる土地を所得し、1000フランを借受け、新しいキャバレー、「ル・ミルリトン」をオープン。そして、パトロン文化を批判し、古典的な芸術形式を嘲笑するポピュリストとしての態度を押し出した。ル・ミルリトンはすぐさま、シャ・ノワールの後発的なコミューンとして認知されるようになり、パリのアンダーグラウンドのカルチャーを形成していくことになった。彼は、黒猫の反骨精神を強め、店を訪れた貴族や小市民、外国からの観光客を強烈に罵倒する。これは抽象主義の画家の活動に象徴されるインディペンデントの活動形式にも何らかの影響を及ぼしたことが推測される。ブリュアンは、オリジナルの黒猫との差別を図るため、独自の週刊誌を立ち上げ、印刷メディアの展開や、店でのライブパフォーマンスを通じて新しいビジネススタイルを作り上げた。

 

▪イヴェット・ギルベール(Yvette Guilbert)とシャンソンの普及  


20世紀を目前にして、パリでは続々と新しい音楽文化が花開き、映画文化の造出への足がかりを作った。 1892年に入ると、同じく、モルマントルでは、歌が聞けるカフェ・コンセールが人気を博す。

ここからイヴェット・ギルベール(Yvette Guilbert)という人気歌手が登場する。まさしくギルベールは時代に要請されて出てきた音楽家で、レビューと呼ばれる歌と芝居を融合した芸術形態を国内に普及させた。ギルベールのコンサートは、スカラで連日満員となり、大反響を呼んだ。シャンソンを小さな芝居として表現した「生娘たち」の歌詞が検閲により削除してされると、彼女はその最初の歌詞を歌う以上にエロティックなイメージで縁取ってみせた。その後のシャンソンやレビューのこのイメージは、ギルベールによるところが大きい。上記の写真は原初的なイベントフライヤーである。

 

新しいカルチャーは、好景気や経済的余裕や余剰の部分から登場する。20世紀のパリは幸運にも、その条件が揃っていた。イギリスに続いて、産業革命が本格化していく中、パリは好景気に湧き、街じゅうに歌や音楽が溢れた。その余剰の部分が溢れた時、20世紀のフランスの大衆文化が始まり、シャンソンが生み出された。カフェ文化のル・シャ・ノワール、アリスティード・ブリュアン、イヴェット・ギルベールも、そんな所から登場した。そして、そこには独特なユーモアと反骨精神があった。これが、フランスのエスプリ精神を形成したことは想像に難くない。その後、日本にもフランス文化が入ってきて、シャンソンが戦前から戦後にかけて歌謡に普通に取り入れられた。これは、J-POP、邦楽などというワードが出てくるはるか昔のはなしである。それ以降の日本人のヨーロッパへの漠然とした憧れは、フランス/パリの文化の流入に負うところが大きいように思える。


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