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もし、ジャズをワールドミュージックとして見たらどうなるだろう? その音楽的な文脈は少し変わって来る。さて、すでに、ニューオリンズの歓楽街、ストーリービルで始まったジャズ文化については言及しているが、一方で、これらの文化的な背景についてはまだ触れていない。ジャズは結局、ルイジアナにルーツがあるが、この文化的な背景を支えたのが、クレオールだった。
''ルイジアナ''はスペインとフランスが混合しながら支配し、黒人奴隷を呼び込んだ。しかし、これらの一般的な枠組みに収まりきらないのが、クレオールである。ニューオリンズには、ヨーロッパ人と黒人の混血がいた。この土地はアフリカやカリブの文化形態をこの土地に呼び込むことに成功し、様々な文化が混在していた。当初、ニューオリンズのクレオールは、白人に肩を並べる地位を獲得し、ヨーロッパ音楽など高等教育を受けることも出来た。南部は歴史的に差別の多い地域と一般的に言われているが、これらのエピソードはその定説を覆す内容でもある。
特権階級のような地位を与えられたクレオールであったが、 19世紀末に奴隷制が解体されると、これらの特権的な地位を奪われた。そこで、クレオールたちは、ストーリーヴィルに根を張り、独自のジャズカルチャーを形成していく。ここでは売春も行われたが、西欧のキャバレー文化が持ち込まれた好例となるだろう。今回は、クレオール文化について簡単に触れていく。
そもそもクレオールという言葉は、フランスの''クレオール''に由来し、植民地出身の意味。ルイジアナでは、この言葉を引き継ぎ、ルイジアナで生まれた人とそうではない移民を区別することにした。クレオールーーそれは旧世界と新世界の子孫を区別するために存在した言葉であった。
しかし、元々、この言葉は人種的な指標が存在しない。ヨーロッパ人、アフリカ人、その混血など様々な階級の人々がそう呼ばれていた。ルイジアナは、ルイジアナ買収を通じて、アメリカ合衆国の一部となり、便宜的にこのクレオールという言葉が使用されるようになった。当初は、移民を示す政治的なアイデンティティを持つ意味として使用された経緯があった。1718年にニューオリンズが制定されると、開拓者たちは地元で生まれた最初のクレオール世代に道を譲った。以降、黒人が入植しはじめ、ブラック・クレオールというように呼ばれることになる。
▪クレオールのルーツとルイジアナの発展と再興
ルイジアナの白人クレオールの多くは、ヨーロッパのフランスにルーツが求められる。この祖先は、さらに、北部のケベック(カナダ)、アカディア(ケイジャン)」のコミュニティから発生している。もちろん、これもクレオールの一部を示すに過ぎない。ルイジアナは19世紀ごろに多くの人口が流入した。ハイチ革命では、白人と有色人種の難民がセント・ドミンゲからニューオリンズに押し寄せる。この人口流入は都市部の全体的な人口を押し上げることになった。
もちろん、クレオールは他地域からの移民も含まれていた。アイルランド、ドイツ、そしてイタリアなどのグループが19世紀後半にかけてルイジアナに移住した。例えば、ボストンのスコットランドやアイルランドからの移民の事例を見てもわかる通り、これらの移民はクレオール文化を強化させ、今日に続く、ニューオリンズのような活気に満ちたコミュニティを形成していった。
クレオールとは、最も基本的な定義では「植民地生まれ」を意味し、18世紀以来、あらゆる背景や肌の色を持つ人々が自らのアイデンティティとして用いてきた。20世紀初頭まで、アカディア系(ケイジャン)を含む多くのルイジアナのクレオールは、自らをアメリカ人とは認識していなかった。 ナポレオンがルイジアナをアメリカに売却する以前から彼らはこの地にいたのだから。
1803年、アメリカ合衆国がフランスからルイジアナを購入した後、クレオールは英語を話し、プロテスタントの「アメリカ人」による侵略とみなした状況下で自らの言語のフランス語とクレオール語、衣食住、ローマカトリック信仰を維持するために努めた。それゆえ、ニューオーリンズはアメリカで最もヨーロッパ的であり、''最もカリブ海的な都市''と呼ばれることがある。
クレオールはアフリカ的ルーツを持つ。多くの人々に「クーリ・ヴィニ」と呼ばれ、1700年代半ばからルイジアナで話されてきた。現在ユネスコの危機言語リストに登録されているルイジアナ・クレオール語は、使用促進に尽力する拡大するコミュニティの努力により、復興の兆しを見せている。
▪ニューオリンズのジャズの出発
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| チャールズ・バディ・ボールデンは左から二番目 |
こうした文化的な背景を持つクレオールの中からジャズは出発している。特に、ニューオリンズにはブラスバンドの伝統があり、これらはなんらかの記念祭のようなシーンで演奏されていたと推測される。その中で、元々音楽的な演奏の経験を持つ人々、もしくは、上記のように高等音楽教育を受けた音楽家がこれらの最初のジャズの風をルイジアナに呼び込むことになった。
しかし、そのジャズの始まりというのも、複雑であり、一概にどのように発生したのかを定義付けるのは難しい。ラグタイムなど黒人系のダンスミュージック、そしてニューオリンズのブラスバンドの影響が流入した。コルネット、トロンボーン、クラリネット、そしてピアノを前面に立ててジャズという形式が形づくられていく。
最初のヒーローは、コルネット奏者のCharles Buddy Bolden(チャールズ・バディ・ボールデン)というミュージシャンである。ボールデンは「キング・オブ・ジャズ」の元祖とされていて、ジャズの先駆者であると言われている。ボールデンは、コントラバスとクラリネット、トロンボーン、そしてアコースティックギターの編成を中心にジャズを演奏した。彼はけたたましい音量で演奏し、女性たちを驚かせた。
その後、ニューオリンズジャズの最盛期になると、キング・オリバー、ピアニスト、ジェリー・ロール・モートン、それからトロンボーン奏者、キッド・オリー、クラリネットのシドニー・ベシェ、ジョニー・ドッズ、ジミー・ヌーンなどが活躍した。これらの最初期のジャズ奏者の演奏は、そのほとんどが即興演奏の技術を競い合うというものであった。ジャズが誕生後、一般的な黒人や白人にも広まり、ニューオリンズから急速に周辺都市へと広まっていった。
バディ・ボールデンの型破りで破天荒なミュージシャンの姿に強い触発を受けた人間がいた。それが、サッチモこと、ルイ・アームストロングであった。アームストロングは1936年の自伝『Swing That Music』で以下のように書いた。
ーーそういえば、ここでバディー・ボルデンの名前に触れないわけにはいかないだろう。ニューオリンズに生まれ育ち、ジャズの誕生を目撃した僕らならだれでも知っているが、そもそも彼が創始者だったーー
ーー彼はコルネットを持って1905年にニューオリンズに迷い込んできた。彼がホーンを放り投げるもんだから、みんなは彼が完全にいかれていると思った。 バディーは酒びたりになっていった。多くのホットなミュージシャン同様、週のうち2、3晩は寝ずに働いていたから。彼らは落ち込んで、さらに飲む。彼らのうち、あまりに多くが若いうちにバディーみたいに崩壊していったよーー
ーーたしか、ディキシーランド(ジャズ・バンド)がやってきたときに彼は行ってしまった。ボルデンは、疑いなく最初の偉大な個人のジャズ・プレーヤーだったが、ディキシーランドみたいなバンドを持ったことがなく、ニューオリンズの外部では全然知られなかった。彼はただの一匹狼の天才で、みんなから先に進みすぎていたんだよね。ちょっとだけ時代を先取りしすぎていたんだーー







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