【南米音楽】 Choro(ショーロ) ~リオのカーニバルの核心を担うブラジル音楽の原点~

 南米音楽 Choro(ショーロ)    リオのカーニバルの中核を担うブラジル音楽の原点


リオデジャネイロのカーニバルでは、サンバが演奏され、孔雀の派手な衣装と情熱的なダンスが披露されるのは見慣れた光景である。


しかし、ショーロ(Choro)と呼ばれる音楽がサンバよりも前にリオで編み出されたことをご存知だろうか。そして、この音楽が世界的な祝祭、リオのカーニバルの姿を大きく変貌させたのである。今回のワールドミュージックでは、ブラジルの最初の商業音楽、ショーロに焦点を当てていきたい。

 

ショーロは、19世紀ごろにブラジルの首都リオで生み出された。ブラジルはヨーロッパ人によって連れてこられたアフリカ系移民、そして原住民のインディオ(南米では先住民のことをインディオという)により近代以降の国家を形成する素地が作られた。19世紀初頭になると、フランス軍の進入によりポルトガル宮廷がリオデジャネイロに遷都された。以降、近代化の影響を受け、1888年には奴隷解放、翌年の1889年には、共和制に移行し、民主化への道筋が作られた。

 

こうした近代化の影響を受ける以前からブラジル音楽のショーロは存在し、国内の民主化の流れと連動しながら発展していった。ショーロは、19世紀半ばに発生し、それ以前からヨーロッパで流行していたポルカ、ワルツなど舞踏的な音楽の影響を大いに取り入れた。


詳細に言うと、南米では、ポルトガル宮廷で親しまれていたヨーロッパの音楽が、アフリカ系ブラジル人のダンスミュージックと合致を果たし、新しい音楽が出てきたのである。


また、同時進行で、アメリカでも同じような動きが沸き起こり、ジャズの原点でもあるラグタイムが台頭する。ラグタイムもまた、ポルカ、ワルツのような舞踏音楽やクラシック音楽と、アフリカ系の音楽の対旋律的なリズムが掛け合わさり、生み出されたことを見ると、これは近親関係にある音楽と呼べる。

 

ただ、現地の音楽愛好家によれば、ショーロはラグタイムや後のリオのカーニバルで聞くことのできるようなサンバのような華やかな音楽だとも限らないという。むしろ、ブラジルのニューオリンズジャズとも言われる。もちろん、リオらしい情熱的な側面もわずかに感じられるが、その音楽に底流しているのは「泣き」の要素である。


「泣き」というのは、イギリスやヨーロッパのバラードや、日本の演歌、アメリカのブルースやジャズブルースに共通する人間的で叙情的な音楽性である。ブラジルのショーロには、この泣きの側面が基本的に不可欠であるという。そしてショーロという言葉自体もまた、文字通りポルトガルで泣きを意味している。これは南米の情熱的な側面の背後にある涙もろい叙情的な民族性のようなものを反映しているのではないか。

 

ブラジルのフルート演奏家であるポーラ・ロビソンは、この音楽について次のように説明している。「ブラジルのショーロの伝統は、アメリカのブルースに似ている。ブラジルでは、ショーロはアフリカとポルトガルの伝統が融合して出来上がった。ポルトガルのメロディーの美しい歌のライン、そして生命力をもたらすアフリカの大地の鼓動が組み合わさって出来た」

 

ショーロは、のちのサンバボサノヴァへと受け継がれるリズムを基調とし、ギターや、そのほかのフレット付属の弦楽器、フルートやクラリネットといったクラシック音楽やジャズの楽器を組み合わせたものである。最初期のショーロに関しては、特にクラシック音楽の影響が強い。東欧のポルカやワルツを体系的に組み上げたフレドリック・ショパン、そしてバロック後期の対位法の借用を踏襲しつつ、それらをアフリカのリズムと呼応させ、独自の体系を作り上げていく。南米音楽にはときどき、大胆な旋律の跳躍が見出されるが、これはショパンの系譜にあるだろう。


そしてこの音楽に、目まぐるしいほどのテンポの速さ、意外性に富んだ和声進行、即興的な演奏の要素を付け加えた。これはジャズの一つの支流でもあり、なおかつ、南米音楽の核心ともなっている。

 

当初、ショーロは演奏者の器楽的な性質を象徴し、声楽を用いず、器楽的な音楽として発展していった。19世紀後半には酒場などで演奏される機会が多かった。それ以降はジャズの性質が強まり、1920年代から40年代にかけて、サウラ(Saura)、ロダス・デ・ショーロ(Rodas De Choro)といった徹夜のジャム・セッションが一般的に親しまれるようになった。サウラで受け入れられるためには、高い演奏技術を持つことに加え、即興演奏をこなすことが必須でもあった。

 

ショーロが一般的にリオの市民に知られるようになったのも理由がある。リオのカーニバルで、ホーザ・デ・オーロという名称のグループが歌ったマーチ形式の楽曲「オ・アブリ・アラス(Ó Abre Alas)」が瞬く間にリオ市民の間で広まり、最初のヒットソングとなった。これがリオのカーニバルの運命を変え、元々、仮装パレードの性質が強かった祝祭に音楽的な要素を付与した。



ショーロは当初、男性のグループが演奏する機会が多かったが、この曲を生み出したのは意外にも女性作曲家である。「オ・アブリ・アラス」 を作曲した、シキーニャ・ゴンザーガ(Chiquinha Gonzaga)は、軍人の家庭に生まれ、体系的な音楽教育を受け、ショーロを取り入れた作風を通して、この音楽を洗練させ、文化的な内容に変えた。


彼女は上流階級の社交音楽と民衆音楽の境界線を取り払った。しかし、ゴンザーガは文化的な作曲家として知られるようになると、上流階級から批判を受け、「庶民の音楽に魂を売った」とみなされたのである。ゴンザーガは、1910年代以降、「タンゴ・ブラジレイロ」という名称で発表し続けた。

 

もう一人、ショーロの重要な作曲家がいる。エルネスト・ナザレー(Ernest Julio Nazareth)である。 彼も正規の音楽教育を受けた後、1893年に、自作曲「ブレジェイロ」を発表した。1909年には、リオのオデオン映画館のサロン音楽ピアニストに就任し、「ブラジルのショパン」とも呼ばれた。その後、作曲家として多くの作品を発表した。エルネスト・ナザレーはタンゴ・ブラジレイロの名称で発表した楽曲は厳格なショーロの作風にあるとされ、ショーロの古典しての評価を不動のものとしている。また、ヴィラ=ロボスは、ナザレーのことを「ブラジルの魂」と呼び、大絶賛した。

 

こうした個人作曲家の活動と並んで、ショーロはアンサンブルやグループの音楽として発展していった。19世紀後半になると、ショーロは自作自演をするショラゥンと呼ばれる演奏家が登場し、その演奏家のほとんどは公務員だった。こうした専門的な音楽と趣味的な音楽という二つの側面を保ちながら、のちのブラジル音楽は体系付けられていき、20世紀初頭のサンバ、そして同世紀中頃にはボサノヴァへと繋がっていく。しかし、新しい音楽が台頭してもなお、ショーロはほとんど衰退することなく、新しい演奏家や作曲家を輩出し、今なおブラジル音楽の中核を担っている。現代でも、特にエルネスト・ナザレーの曲が演奏される機会は多い。

 

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