▪フランスのバロック音楽とヴェルサイユ宮殿文化
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バロック音楽は、イタリアのローマで始まり、オペラという新しい音楽の形式を生み出した。その後、17世紀のバロック音楽は本格的な最盛期を迎える。多くの場合、バロック音楽は、イタリアの最初期のオペラ、フランスの宮廷音楽、そして以降のドイツの宗教音楽のことを示唆する。しかし、このバロックという音楽が富と権威を象徴する存在であったことは明確である。
実際、17世紀以降は宮殿の建設ラッシュが始まり、この流れはヨーロッパ全体に波及していった。この中でバロック建築という側面で、最も栄華をきわめたのがヴェルサイユである。豪華絢爛な建築、それは王権神授説にも見受けられるように、絶対王政の象徴でもあったのだが、当時の富と権力を象徴するためには建築が必要であり、また、その後には生活様式が必要であった。これらの一貫として、バロック音楽は発展していった。つまり、バロック音楽とは、権力を象徴するために存在し、また、自ずとそれは華やかにならざるを得なかったのである。
イタリアのオペラに続いて、フランスでも新しい音楽、バレエが登場した。その舞台となったのがヴェルサイユ宮殿である。そして、この宮殿はもっぱら、「バレ」の発展の一大拠点となった。バレとはフランス語で「バレエ」を意味し、17世紀のフランスの場合は、「コメディ・バレ」や「トラジティ・リリック(叙情悲劇)」と呼ばれた。前者は可笑しみのある音楽付きの芝居劇、そして後者は、ギリシア悲劇のリバイバルで、イタリアのオペラを踏襲している。
フランスとイタリアのバロック音楽には、明確な相違点がある。それは装飾音の過多であり、前打音やトリル(Tr)を音符の前に付加することで、華やかな音楽のイメージを押し出した。バロックという言葉には「極端な」とか「誇張的な」という意味があるが、脚色付けや音響的な効果のために発案されたものだろう。それらは国王の権威の暗示として内在せざるを得なかった。
こんなふうに考えると、音楽は絶えず社会的な側面を映し出す。これらの華美さは以降のドイツのバロック音楽に引き継がれ、18世紀の重要な音楽の構成を形成した。また、トリルや前打音といった華美さを印象づける音楽性は、バロック建築の装飾のイメージとぴたりと合致している。
・ヴェルサイユ宮殿の文化 音楽芸術の最盛期を迎える
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| ルイ13世の館を改築した当初のヴェルサイユの鳥瞰図 |
バロック建築というのは、17世紀中頃のローマで発生し、それ以降オーストリアのウイーンで花開いた。それ以降は、フランス、スペイン、フランドル、ドイツ地方でも最盛期を迎えた。これらのバロック建築の精髄といわれるのが、ご存知、ヴェルサイユ宮殿である。
ヴェルサイユの外装、及び、内装的なデザインは、以後の時代にも権力や富の象徴であり続けた。ウイーンのシェーンブルン宮殿、ポツダムのサンスーシ宮殿、そして、日本の赤坂離宮(迎賓館)にも、全体的な意匠において、パスティーシュ的な影響を及ぼしている。豪華絢爛な建築デザインといえば、ヴェルサイユを基本にしたバロック建築群がどのような時代においても模範例となった。そもそも、ヴェルサイユ宮殿は、ルイ13世の狩猟用の小さな城館としてのルーツを持つ。しかし、17世紀初頭になると、ルイ14世の御代のフランスの絶対王政の象徴として大規模改修が行われ、バロック様式を前面に押し出した豪華絢爛な建築へと姿を変えた。
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| ルイ14世 太陽神に扮してバレエの演劇に興じた |
ルイ14世は芸術を庇護に置く王として知られ、その愛好家としての姿はある意味では度を越していた。王にとって芸術とは自らの権力を象徴し、なおかつ、 現実的な側面とは異なる奥深い人生観をもたらしたことは事実だろう。特に、この時代、ルイ14世は、バレなどの芝居で、自ら太陽神アポロンに扮し踊りを演じた。さらに宮廷楽団を創設し、大編成のお抱えの楽団を結成した。その内約は、王室礼拝堂楽団、宮廷室内楽団、野外用の厩舎音楽隊の三つに分けられる。
当時のルイ14世をはじめとする国王の一日は、明確に区分され、各々の生活様式が儀式のように行われ、その場面ごとに楽団の音楽が厳かに演奏された。ルイ14世の時代は、その生活の過剰な華美さもさることながら、自らの人生を芸術や舞台のような華やかさで縁取ろうとしたのである。
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| 鏡の回廊 |
特に、この中で最も重要なお役目を担ったのが王室礼拝堂楽団だ。このセクションは宮廷音楽家の中でも不可欠な立ち位置を担った。これは15人のオーケストラと90名の合唱団から構成され、特に礼拝堂でミサなどが行われるとき、音楽の演奏を担当した。このエピソードは、それ以前の宗教的な儀式の一部を音楽が司っていたことを推測させる。しかし、ローマカトリックの時代の儀式的な音楽に、フランスのバロック音楽を収めこむことは妥当とは言えないだろう。
特に、フランスのバロック音楽は、国王であるルイ14世の人生をよりドラマティックに仕立てることが多かったのである。例えば、宮廷室内音楽楽団は、「24人のヴァイオリニスト」、「ペティット・ヴィオロン(小さな楽団)」 という二つのセクションに分割されていた。
これらの楽団は、食事、祝宴、舞踏会など、ことあるごとに音楽を背後で演奏し、ルイ14世の人生をより華やかにした。また、定期的な演奏会のイベントも開催された。特に日曜日の午後、礼拝堂でミサが行われた後、ヴェルサイユ宮殿で最も有名な「鏡の回廊」で室内楽の演奏会が催された。現代風に言えば、ルイ14世は、この鏡の回廊をコンサート会場にしていたのだ!!
現在でも豪華なシャンデリア、絢爛な天井画など、芸術的な遺産が残されているこの間では、多くの室内楽団の人々が居並び、日曜日の安息日に華やかな楽の音を演奏したことが想像される。現代に観光客は、この鏡の回廊を訪れるとき、その建築的なデザインや芸術の美しさや凄まじさに目を奪われるだけではない。中世の文化的な営為の残影をその五感で捉えるのである。
こうした音楽家の中で、クープラン、シャルパンティエ、そしてリュリといったバロック期の傑出した音楽家が登場した。すべてではないが、これらの音楽家の幾人かはイタリアのフィレンェなどで音楽的な教育を受けた後、フランスに来てヴェルサイユ宮殿の文化を支えたのだった。
▪フランスのバロック音楽の重要な作曲家
・クープラン(Fracois Couperin)
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バロック音楽の鍵盤奏者の名手、クープランは、パリに生まれ、若い頃から音楽家であった父親から音楽教育の手解きを受け、18歳の頃にサン・ジュルヴェ教会のオルガニストを務めた。
1690年には最初のオルガン曲集を出版し、名声を得ると、1693年にルイ14世によって王室礼拝堂のオルガニストに任命され、王室楽団に入団する。また、宮廷内の王族の人々にクラブサンを教え、教育者としても活躍した。王室楽団では、常任クラブサン奏者を務めたほか、さらに宮廷作曲家としても活躍した。室内楽にとどまらず、王室礼拝堂の宗教音楽も手掛けた。
クラブサン(チェンバロ)の曲集が有名で、クラブサン曲集を第一巻から四巻まで出版している。その他、鍵盤奏者としての教育的な著作も残している。1716年に出版された「クラブサン奏法」がその代表例である。クープランの鍵盤曲は、宗教的な性質を持つ曲もあるが、ジーグやメヌエットなど当時の宮廷音楽の舞踏的な性質を持つ楽曲や、そのほか、民謡的な性質を持つ楽曲まで広汎に及ぶ。クープランは華美な装飾音を伴う、バロック音楽の象徴的な作曲家である。
・リュリ(Jean-Baptiste Lully)
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ルイ14世が愛好してやまない舞台音楽に大きな貢献を果たし、また、ヴェルサイユ文化を支えたリュリの存在も度外視出来ない。彼こそ、フランスのバレエ音楽の重要な先駆者といえる。
リュリはイタリアのフィレンツェ出身。14歳のときにパリにやってきた。彼は、ヴァイオリニストとして活躍しただけではなく、舞踏家としても知られている。1653年に弱冠二十歳にして国王とともにバレエを踊り、名声を獲得。その後、お抱えの音楽家として大出世した。宮廷入りしたリシュは、「ペティット・ヴィオロン」の楽団員として任命され、その後、1661年にはイタリアからフランスに帰化した。宮廷音楽家の中でも最も権威的な人物であり、宮廷すべての音楽を監督する総監督に命じられた。その翌年には王室の音楽教師にも就任した。
リュリは共同制作にも励んだ。劇作家のモリエールと協力し、舞台音楽の制作に専念した。当時建設中であったヴェルサイユの中庭で祝宴が開かれた1664年、コメディ・バレの作品「魔法の島の楽しみ」が上演。また、中庭での芝居は定期的に開かれ、オペラ「アルセスト」の版画も残されている。これらはギリシア悲劇、イタリアのオペラと並び、芝居文化の重要な系譜を形作った。また、モリエールとリュリはその後も頻繁に共同制作に取り組んだ。彼らが制作したコメディ・バレの総数は全11曲にも及ぶ。そしてそれらはヴェルサイユで上演された。
しかし、その後、コメディ・バレは国王の出演が断念され、またこの二人がたもとを分かったこともあり、ヴェルサイユ宮殿の文化の最盛期を担った後、急速に衰退していった。その後、ルイ14世とリュリはオペラに夢中になる。リュリは王立音楽アカデミーのオペラの上演者を買取り、フランスの舞台音楽に注力し始めた。
1673年から1686年には、ギリシア悲劇のリバイバルであるトラジェディ・リリックを作曲し、フランスのオペラの第一人者としての地位を不動のものとした。トラジェディ・リリックの多くは、ギリシア神話に基づく5幕構成の舞台作品であり、演者のセリフなどは母国語のフランス語で構成される。これらの他国の文化を取り入れ、独自の音楽として成立させようという試みは、イタリアのオペラと同様であり、その後のバロック以降の音楽の重要なテーマになった。
リュリの音楽の主な意図は特に、民謡的な舞踏音楽と芝居のような舞台音楽のクロスオーバーである。これらの作品からはメヌエット、ブーレといった後の古典派に強い影響を及ぼす音楽形式も出てきた。どのような文化も独立したものだけでは確立されず、他国家の文化を上手く取り入れて、それを発展させていくことが、このエピソードから汲み取っていただけるはずだ。
ところが、リュリは悲劇的な死を遂げる。1687年に、国王の病の回復を祝う演奏会で指揮者を務めたとき、指揮棒を誤って足に落とし、その傷口が元で死去。悲劇的なバレエの作者がその演奏会でなくなるというのは、まさにヴェルサイユ文化の舞台作品の中に生きる人物のようであり、また、ルイ14世の絶対王政の侍者としてのエピソードを明確に象徴づけている。リュリの碑文には、「ルイ大王とヨーロッパ中の支持を勝ち取った」との記述が残されている。










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