1972年に公開されたペリー・ヘンゼルの代表作『The Harder They Come』のサウンドトラックは、多くのポップ・ファンやロック・ファンにとって、レゲエへの最良の入門編となった。マイルストーンに満ちたこのアルバムの収録曲「Johnny Too Bad」は、ザ・スリッカーズとして知られるミステリアスなバンドによるもの。オリジナル・アルバム『Panther 45』にも収録されている。
この頃、スリッカーズこそがパイオニアだったというコンセンサスが形成された。デリック・クルックス(Derrick Crooks)と、"Johnny Too Bad "を生み出した1970年のセッションでリード・ヴォーカルを務めたアブラハム・グリーン(Abraham Green)、通称ラス・エイブラハム(Ras Abraham)を含む気まぐれなキャストたちだ。
荒れ狂う 「a-lootin' and a-shootin 」はルードボーイへの指令であり、その結末は暗く予兆的で絶対的である。
1967年、デリック・ハリオット(Derrick Harriott)がまだ「Penny for your song」に参加していたキングストンのグループ、フェデラルズ(Federals)の廃墟から「Tears of a clown」と「The Chosen Few」が誕生した。
再結成されたこのグループはアフロビートやR&Bとレゲエのリズムを巧みに融合させることで名声を得た。「Thme from Shaft」、「Drift Away」、「Everybody plays the fool」、そしてスモーキー・ロビンソンの名曲の数々。「Tears of a clown」、「I second That Emotion」などは、シルキーなヴォーカル・カルテットによってジャマイカ風にアレンジされたヒット曲である。
・Desmond Decker 「You Can Get It You Really Want」
ボブ・マーリー(Bob Marley)やトゥーツ・ヒバート(Toots Hibbert)と同じく、デスモンド・アドルファス・ダクレス(Desmond Adolphus Dacres)はジャマイカ音楽界において驚くべき機敏さで変化に対応した。当初はスカと関連していたが、シングル「Honour Thy Mother and Father」でジャマイカでNO.1を獲得。
ペリーとの再会を果たしたバイルズは、奴隷制度と抑圧についての感動的な瞑想曲「A Place Called Africa」を筆頭に、ルーツ・レゲエの名曲を次々と発表し、本領を発揮した。1975年にエチオピアのハイレ・セラシエ皇帝が崩御した後、敬虔なラスタファリアンは自殺を図り、その後数十年間は散発的に活動していた。
1936年にジャマイカ/ケダルで生まれたペリーは、1950年代後半にレコード・ビジネスの世界に入り、活躍した。1960年代の彼の革新は、ロックステディ期の終焉とレゲエの誕生の先駆けとなり、ダブとヒップホップの発展における彼の重要な役割は議論の余地がない。1968年にリリースされた 「I Am The Upsetter 」は”音占い師”の奇妙な気まぐれを示す代表的な事例である。
・The Melodians 「Rivers of Babylon」
レゲエのカノンの中で最も人気のある曲として親しまれている「Rivers of babylon」は、ユダヤ人がシオンの家から連れ去られ、バビロンに移住させられたという詩篇137篇に基づいている。
1960年代後半のスパゲッティ・ウエスタンは、ジャマイカのミュージシャンにとって特異なインスピレーションの源のひとつであった。風変わりなスタジオの錬金術師は、「For Few Dollars more 」や 「Clint Eastwood 」のようなトラックで、当時人気のあったこのジャンルに脱帽した。
ザ・アップセッターズ(ペリーのお抱えバンド)は、イタリア人監督セルジオ・コルブッチの『ジャンゴ』にインスパイアされた 「Return of Django 」で全英5位を記録した。この超暴力的なジャンゴのキャラクターはペリーの特にお気に入りで、ペリーは1968年にサー・ロード・コミックの『Django Shoot First』をプロデュースし、ペリーに敬意を表した。このインストゥルメンタルの軽快な、スカを取り入れた音楽が、19世紀のアメリカ西部とどのように関係しているのか不思議に思っているなら.....、このバンドの音楽を聴いておくべきかもしれない。
▪映像作品 【Rude Boy- The Story Of Trojan Records(Documentary Film)】
特に、イーグルスはカントリー・ロックを中心に制作し、ウェスト・コースト・ロックを牽引した。およそ10年間の間で、6作のフルアルバムをリリースした。レコードの総売上は2億枚にのぼる。代表作『Hotel Calfornia』でUSロックの金字塔を打ち立てた。『Hotel Calfornia』において、田舎町にやって来た新参者へ向けられた地元民の一時的な強い好奇心と彼が飽きられていく様を唱った「New Kid In Town」、エゴ社会に警鐘を鳴らすかのように、好き勝手にふるまう無頼者が実のところ虚勢に満ちており、内面に苦悩を持つことを言外ににじませた「Life
In The Fast Lane」などが有名。1981年に一度活動を休止し、ドン・ヘンリーは80年代に入り、AORやソフトロック、カントリーの系譜にあるロックから、アーバンなポピュラー音楽へとシフトチェンジを図り、時代の変化に対応し、新しい音楽をリードしていった。
メンバーのグレン・フライが当時同一のアパートに居住していたシンガー・ソングライターのジャクソン・ブラウン(Jackson Browne)と共作した、デビューアルバム『Eagles (イーグルス~邦題:「イーグルス・ファースト」)』のタイトル曲となった軽快なナンバー「Take It Easy(テイク・イット・イージー~「気軽に行こう」の意)」がいきなりヒットし、瞬く間に1970年代に一世を風靡したウエストコースト・サウンドの代表の仲間入りを果たした。
1975年にリリースされた『One of These Nights』は、ドン・ヘンリーとのソングライティング・パートナーシップが新たなピークを迎えていたフレイ曰く、イーグルスで最も「痛みのない」アルバムだった。ビバリーヒルズの自宅をシェアしながら、2人は次々と名曲を書き上げた: 淫らなダンスフロアの定番曲 「One of These Nights」、ランディ・マイズナーとの共作で路上生活の弊害を歌った 「Take It to the Limit 」などだ。名声の暗黒面を描くのは飽き飽きした手法かもしれないが、ヘンリーとフレイは高速道路での生活を鋭く観察していたことを証明した。「このグループで同じように考える傾向があるのは、グレンと私の2人だけだった」
プロデューサーのビル・シムジークと協力して、バンドは新たなリスクを冒した。「Too Many Hands」では複雑なギター・リフを重ね、バーニー・リードンのバンジョー・インストゥルメンタル「Journey o」では、「Too Many Hands」と「Too Many Hands」の中間をとったという。
この変化は、この町の新人のおかげだ。ジョー・ウォルシュは、脱退した結成時のギタリスト、バーニー・リードンの後任である。オープニングの「Hotel California」で、ウォルシュは6弦のウイングマンであるドン・フェルダーとともに、ドン・ヘンリーによる不気味で謎めいた語りに、ロック史上最もドラマチックで指に響くギター・ソロを加えた。その闊達さは、「Victim of Love」(このバンドがヘヴィ・メタルに最も近づいた曲)のブロントサウルスのようなストンプや、ディスコ調の「Life in the Fast Lane」(オープン・バーのあるペントハウスの仮面舞踏会のように魅惑的で退廃的なハリウッドの快楽主義)にも波及した。しかし『ホテル・カリフォルニア』は、ベルベットのロープの向こう側から見た70年代の過剰な肖像画でもある。
・The Doobie Brothers
ドゥービー・ブラザーズ (The Doobie Brothers) はアメリカのバンド。1970年代に人気を博したウエストコースト・ロックを代表する。
1970年にトム・ジョンストンを中心に結成、翌1971年にデビュー。1972年に「リッスン・トゥ・ザ・ミュージック」のヒットを放つ。サザン・ロック色の濃い音楽性に加え、二人のドラマーに黒人のベーシストを加えた、力強いファンキーなリズムセクションは評判を呼び、1973年のアルバム『The Captain And Me』からは「Long Train Running」、「China Grove」、1974年のアルバム『What Were Once Vices Are Now Habits(邦題: ドゥービー天国)』からは「Black Water」といったヒット曲が生まれ、一躍アメリカン・ロックを代表する人気バンドの一つとなった。
こうした音楽性の変化はファンの間で賛否が分かれたが、1978年のアルバム『Minute By Minute』とシングルカットされた「What A Fool Believes」はともに全米1位を獲得、その年のグラミー賞でアルバムタイトル曲は最優秀ポップ・ボーカル(デュオ、グループまたはコーラス部門)賞、「ホワット〜」は最優秀楽曲に輝くなど、高い人気と評価を確立した。
『The Captain And Me』 Warner 1973
『Hotel Calfornia』と並んで70年代のロックの普及の名作である。『The Captain And Me』は、1973年3月2日にワーナー・ブラザース・レコードからリリースされた、アメリカのロックバンド、ザ・ドゥービー・ブラザースの3枚目のスタジオ・アルバム。レコードから1973年3月2日にリリースされた。「Long Train Runnin'」、「China Grove」、「Without You」など、バンドの代表曲が収録されている。全米レコード協会(RIAA)より2×プラチナ認定。Colin Larkin's All Time Top 1000 Albums』(2000年)の第3回では835位に選ばれている。
1960年代半ばのロサンゼルスで10代のソングライターとして頭角を現し、他人のために曲を書いて最初の成功を収めた。この曲は1967年にドイツ人シンガーでアンディ・ウォーホルの弟子でもあるニコのマイナー・ヒットとなった。また、同じ南カリフォルニアのバンドであるニッティ・グリッティ・ダート・バンド(1966年に短期間メンバーとして参加)やイーグルスにも曲を提供し、イーグルスは1972年にブラウンとの共作「Take It Easy」で初のビルボード・トップ40入りを果たした。
他人のために曲を書いて成功したことに勇気づけられたブラウンは、1972年にセルフ・タイトルのデビュー・アルバムをリリースし、「Doctor, My Eyes」と「Rock Me on the Water」という自身の2曲のトップ40ヒットを収録した。デビュー・アルバムをはじめ、その後の数枚のアルバムやコンサート・ツアーのために、ブラウンは当時の著名なシンガー・ソングライターたちとも仕事をしていた多作なセッション・バンド、ザ・セクションと密接に仕事をするようになった。
セカンド・アルバム『For Everyman』は1973年にリリースされた。サード・アルバム『Late For The Sky』(1974年)は、ビルボード200アルバム・チャートで14位を記録し、従来で最も成功を収めた。4枚目のアルバム『The Pretender』(1976年)は、各アルバムが前作を上回るというパターンを継続し、アルバム・チャートで5位を記録した。
『孤独なランナー』 (こどくなランナー、Running on Empty) は、1977年に発売されたジャクソン・ブラウンの5枚目のアルバム。ブラウン初のライブ・アルバムである。通常のライブ・アルバムとは趣が異なり、ステージでのパフォーマンスはもちろん、ホテルやバスの中など、ツアーの様々な場所での演奏が収録されている。収録曲もすべて新曲とカヴァー曲で構成されている。
全米第3位で700万枚の売上を記録し、ブラウンのキャリアの中で最高のヒット作となった。1978年のグラミー賞「Album of the Year」にもノミネートされた。また、映画『フォレスト・ガンプ/一期一会』の劇中で表題曲「Running On Empty」が使用された。 歌声もクリアで澄んでいて素晴らしい。
『Cosmo's Factory』はCCRの絶頂期の瞬間的な記録である。1969年、彼らは3枚のアルバムをリリースし、絶えずツアーを行っていた。1970年初頭には、『Cosmo's Factory』からの最初のシングルがチャートを駆け上がり始めた。ロイ・オービソンの「Ooby Dooby」やマーヴィン・ゲイの「I Heard It Through the Grapevine」のカヴァーから、オリジナルの「Travelin' Band」、「Lookin' Out My Back Door」、「Who'll Stop The Rain」まで、このアルバムには名曲が凝縮されている。ロックソングの本来の楽しさを体感出来る佳作となっている。また、このアルバムは、80年代以降のハードロックバンドに強い影響を及ぼしている。
そして、その中間地点にいるのが、ルーマーズ。ロックするときは優しく(「The Chain」)、しかし噛みしめるような歌い方で、アダルト・コンテンポラリー・コンテンポラリーとは一線を画している(「Go Your Own Way」)。そして彼らは、良い人生(そしてそれを生きるベビーブーマーたち)の屈託のない前向きさを捉えながらも、そこに至るまでにかかった苦悩からも逃げることはなかった(「Don't Stop」、「Dreams」)。彼らの音楽的個性(ミック・フリートウッドとジョン・マクヴィのブルース育ちのリズム隊、クリスティン・マクヴィのロマンティシズム、リンゼイ・バッキンガムのポップな完璧主義、スティーヴィー・ニックスの神秘主義)が見事に融合しているのと同様に、彼らはいつもお互いを優しく引っ張り合っているのが聞こえる。
その中の1曲であるシングル「It's Too Late」は1971年6月19日から5週連続全米No.1を獲得している(シングル年間チャートでは第3位)。同じアルバムから「きみの友だち」をジェームス・テイラーがカバーし同年7月31日にシングルチャートでNo.1を獲得している。その後もアルバム『ミュージック』『喜びにつつまれて』、シングル「ジャズマン」など順調にヒットを連発。彼女は1970年代前半から中期を代表するヒットメーカーの一人となり、2つの年代にわたって天下を取った。
キャロル・キングは、70年代のフォーク・ロックには珍しい優しさと闊達さをもって、愛の複雑な現実を考察している。60年代初頭、ニール・ダイアモンドや当時の夫ジェリー・ゴフィンらと並んで、キングは限りなく多才なブリル・ビルディングのソングライターだった。そこで彼女は、シャイレルズの「Will
You Still Love Me
Tomorrow」のようなガールズ・グループのアンセムを単なるバブルガムの域を超え、若きアレサ・フランクリンとともにゴスペルの火山的なパワーを取り入れ、モンキーズの大ヒット曲「Pleasant Valley Sunday」のカウライティングを手がけるなど、切ないサイケデリアを取り入れた。その後、傷つきやすいロックと直感的なソウルのミックスで独立を宣言したニューヨーカー出身の彼女は、1971年のソロデビュー作『Tapestry』などのアルバムで、シンガー・ソングライター時代の感情的な親密さを定義づけた。
彼女はまた、縁の下の力持ち的なソングライターから一人前のスターへと転身するための雛形も書いた。ほころびゆくロマンスへの痛切な探求を、クラシックなR&Bバラードの魅惑的な憧れと組み合わせたり(「It's
Too Late」)、ブルース・シンガーのように闊歩しながら欲望が人生を変える力を讃えたり(「I Feel the Earth Move」)、キングは、トリ・エイモス、エリカ・バドゥ、エイミー・ワインハウス、アデルのような、ワイルドで個性的な告白型シンガーの複数の世代を形作った。
1970年にシングル「Fire and Rain」で3位を獲得し、1971年にはキャロル・キングが作曲した「You've Got a Friend」で初の1位を獲得した。1976年のグレイテスト・ヒッツ・アルバムはダイヤモンドに認定され、アメリカ国内だけで1,100万枚を売り上げ、アメリカ史上最も売れたアルバムのひとつとなった。
1977年のアルバム『JT』に続き、彼は数十年にわたって多くの聴衆を惹きつけてきた。1977年から2007年まで、彼がリリースしたアルバムはすべて100万枚以上のセールスを記録している。1990年代後半から2000年代にかけてチャートで復活を遂げ、代表作(『Hourglass』、『October Road』、『Covers』など)をレコーディングした。2015年には『Before This World』を収録したアルバムで初の全米1位を獲得した。
ジェームス・テイラーは「How Sweet It Is (To Be Loved by You)」や「Handy Man」などのカヴァーや、「Sweet Baby James」などのオリジナルでも知られている。 モンテ・ヘルマン監督の1971年の映画『Two-Lane Blacktop』では主役を演じた。2024年現在も精力的に活動を行っている。今後の活躍にも期待したい。
アレンジ、技術、フィーリングといったテイラーのシンプルな抽出は、1970年の爽やかなヒット曲 「Fire and Rain 」以前から、彼の音楽を決定づける要素だった。ボストンで生まれ、ノースカロライナのチャペル・ヒルで育ったテイラーは、カリフォルニアの有名なローレル・キャニオンで作り上げた穏やかで控えめなフォークで、60年代末のアメリカの集団的な落ち込みを捉えた。青春の雰囲気、人生をそのまま音楽にそのまま転化させたことがこのアルバムの音楽に普遍性を付与している。ひとつひとつの楽曲を真心を込めて制作することで知られているが、それはこのフォークロック、カントリー・ロックを基調とするアルバムを聞けば明らかである。
デューイ・バンネル、ジェリー・ベックリー、ダン・ピークは空軍の子供で、1970年にロンドンで出会い、一緒にバンド活動を始めた。1972年のデビュー・シングル「A Horse With No Name」で大成功を収めた後、3人はロサンゼルスに移り住み、「Ventura Highway」、「Tin Man」、「Sister Golden Hair」などの名曲を連発し、当時の爽やかな西海岸ポップ・サウンドを体現しながら、アメリカのチャートを席巻した。ビートルズのプロデューサー、ジョージ・マーティンは数枚のアルバムで彼らのポップ・マジックを生み出す手助けをした。10年代後半の頃には状況は冷え込んだが、1982年の『You Can Do Magic』でアメリカ(ピークを除く)は復活を遂げた。
『A Horse With No Name』 Warner 1972
この1971年のフォーク・ロックの名作『名前のない馬』をトリオがレコーディングしたとき、海外にいる空軍出身の3人のうち2人はまだティーンエイジャーにすぎなかった。緊密なヴォーカル・ハーモニー、親密なプロダクション、インスパイアされたメロディーが、映画のような「A Horse with No Name」、キャッチーな「I Need You」を特徴づけている。「Here」は実存的な問いかけの中で洒落たギター・ソロが聴けるし、ダン・ピークの 」Donkey Jaw "は、彼のクリスチャン・ロックでのキャリアとアメリカのエレクトリックな作品を予感させる。
ビッグ・ブラザーから離れた彼女は、新しいバンドであるコズミック・ブルース・バンドを結成した。ブラス・セクションを加えた、よりソウル・ミュージックを意識した編成である。1969年に『I
Got Dem Ol' Kozmic Blues Again
Mama!』をリリースして、ウッドストック・フェスティバルにも出演したが、このバンドもほどなく解散した。この後ジョプリンは新しいバック・バンドであるフル・ティルト・ブーギー・バンドを結成する。こちらは、2人のキーボード奏者を含んだ編成。このバンドにおける演奏をもとに、ジョプリンの死後制作された1971年発表のアルバム『Pearl』は、彼女の短いキャリアにおける最高の売り上げを記録した。このアルバムからはクリス・クリストファーソンのカバー曲「Me and Bobby McGee」と、ビートニク詩人マイケル・マクルーアとジョプリンにより作曲された「Mercedes-Benz」がヒットを記録している。
ジャニス・ジョプリンが70年代初頭に『Pearl』のセッション中に亡くなったとき、「Buried Alive in the Blues」にはヴォーカルが入らなかった。シンガーソングライターの失われた人生の悲劇は、自分自身の中に新たな力を感じていたアーティストの不在によって倍加された。新しいフル・ティルト・ブギー・バンドのおかげで、チープ・スリルのサイケデリック・ブルースよりもコントロールされていたが、それでも『パール』にはジョプリンを偉大にした何かがあふれていた。たとえ彼女が生きていたとしても、エレガントな 「Me and Bobby McGee 」やハワード・テイトの賢明なソウル・バラード 「Get It While You Can 」のカヴァーは、大きな感情的共鳴をもたらしただろう。彼女がいなければ、冗談のようなアカペラの 「Mercedes Benz 」でさえ胸に刺さっただろう。このアルバムを聴くとわかるように、「パール」は時代を超越しており、あまりにも偉大な作品である。
2曲目に収録されている「My Old Man」では、シンガー・ソングライターはピアノを弾きながら、憂鬱な気分を抑えてくれる「公園で歌う人」「暗闇で踊る人」と分かち合った人生への晴れやかな賛歌を歌う。彼女は、強い二人の絆を自慢し、ミュージシャンが彼に贈る最高の賛辞を添えている。「My Old Man」のブリッジでは、ミッチェルの温かい愛情の中に、冷ややかな無調の変化が現れることに注目しておきたい。
1945年にトロントで生まれた彼は、60年代半ばにロサンゼルスに移り住み、1970年の『After the Gold Rush』や1975年の『Tonight's the Night』のような内省的なソロ・アルバムからクレイジー・ホースとのグループ活動まで、彼の音楽はポスト・ビートルズのロックンロール・サウンドを定義するのに貢献した。カントリー、グランジ、フォーク、ノイズ......、ヤングがこれほど多くの音楽的系譜に馴染むとすれば、それは彼があまりに多くの領域を確かな信念でカバーしてきたからに他ならない。伝記作家のジミー・マクドナーが、ヤングに「宇宙へ行きたいと思うか?」と訊ねた時、ヤングは「自分がずっと宇宙へ行くと分かっている時だけそうするつもりだ」と答えた。
このアルバムはヤングに最大の商業的成功をもたらし、「Heart of Gold」は70年代フォーク・ロックの色あせた美しさを決定づけた曲で、ヤングの唯一のNo.1シングルとなる。しかし、その乏しさと内省感は、1960年代後半の市民意識から離れ、エリオット・スミスのようなインディーズ・アーティストやニルヴァーナの『Unplugged』のようなアルバムの基盤としても機能した。
フォーク、カントリーの重要なアイコンであるが、このアルバムを聴くと、あらためてヤングのソングライティングの凄さが際立っているのが分かる。「A Man Needs a Maid」はオーケストラの演奏をフィーチャーした長大なスケールを持つ後の時代を先駆ける名曲であり、ウェストコースト・ロックにとどまらず、70年代を代表する素晴らしいポピュラー・ソングの一つである。
近年でも、これらの「ストーリーテリングの要素を持つテクノ」という系譜は受け継がれていて、Floating Pointsの最新作『Cascade』、ないしは、Oneohtrix Point Neverの『Again』ということになるだろうか。さらに言えば、それは、単にサンプラーやシンセで作曲したり、DJがフロアで鳴らす音楽が、独自形態の言語性を持ち、感情伝達の手段を持ち始めたということでもある。
ミシガン/ランシング近郊を拠点に活動するベルトランは、デリック・メイ(インディオ名義)と仕事をし、カール・クレイグのレーベル、レトロアクティブから数枚のレコードをリリースしている(マーク・ウィルソンと共にオープン・ハウス名義)。ジョン・ベルトランは、ワールド・ミュージックやニューエイジ・ミュージックから着想を得て、PeacefrogやDot(Placid Anglesとして)といったホームリスニング志向のレーベルから作品をリリース。90年代初頭にアメリカのレーベル”Fragmented”と”Centrifugal”からシングルをリリースした後、1995年にR&Sレコードからデビューアルバム『Earth and Nightfall』をレコーディングした。
『Ten Days Of Blue』は2000年代以降のテクノの基礎を作った。ミニマル・テクノが中心のアルバムだが、駆け出しのプロデューサーとしての野心がある。現在のBibloのような作風でもあり、他のアコースティック楽器を模したシンセの音色を持ちている。かと思えば、アシッド・ハウスや現在のダブステップに通じるような陶酔的なビートが炸裂することもある。サウンド・デザインのテクノの先駆的な作品であり、時代の最先端を行く画期的なアルバムである。
最近では、「Come To Daddy EP」、『Richard D Jamse』等のテクノの名盤を90年代に数多く残したが、実のところ、ハウス/テクノとして最も優れているのは『Digeridoo』ではないか。ゴア・トランス、アシッド・ハウスといった海外のダンスミュージックを直輸入し、それらをUK国内のハードコアと結びつけ、オリジナリティ溢れる音楽性へと昇華させている。いわば最初期のアンビエント/チルウェイブからの脱却を図ったアルバムで、むしろ90年代後半の名作群は、この作品から枝分かれしたものに過ぎないかもしれない。2024年にはExpanted Versionがリリースされた。名作が音質が良くなって帰ってきた!!
デッティンガーのトラックは、KompaktのTotal and Pop AmbientシリーズやMille PlateauxのClick + Cutsシリーズなど、様々なコンピレーションに収録されている。ペット・ショップ・ボーイズ、クローサー・ムジーク、ユルゲン・パーペなどのアーティストのリミックスも手がけている。また、フランク・ルンペルトやM.G.ボンディーノともコラボレーションしている。
1994年にリリースした『Flow EP』などで、フェールマンはよりアンビエントなテクスチャーの探求を始め、ケルンのレーベル”Kompakt”からリリースした数多くのアルバムに見られるような瑞々しいパレットを確立した。パートナーのグドゥルン・グートとのマルチメディア・プラットフォーム「Ocean Club」のようなサイド・プロジェクトの中でも、フェールマンはアレックス・パターソンのアンビエント・プロジェクト「The Orb」の長年のコラボレーターであり、時にはゲスト・ミュージシャンとして、時には(2005年の『Okie Dokie It's The Orb On Kompakt』のように)グループの正式メンバーとして参加している。
『 Good Fridge. Flowing: Ninezeronineight』はベテランプロデューサーの集大成のような意味を持つアルバム。ジャーマンテクノの原点から、UKやヨーロッパのダンスミュージック、そしてテクノ、アンビエント、ハードコアテクノ、アシッド・ハウスまでを吸収したアルバム。98年の作品とは思えず、最近発売されたテクノアルバムのような感じもある。ある意味ではジャーマンテクノの金字塔とも呼ぶべき傑作。
マイルス・デイヴィス・クインテットを1957年に離脱したジョン・コルトレーンがその翌年に発表したアルバム。3管編成で録音。タイトル曲には、モード奏法からのフィードバックも含まれている。コルトレーンは、この作品において、作曲全体の規律性を重視し、ジャズの概念を現代的に洗練させている。ただ、「Lady Bird」に代表付けられるように、従来の自由度の高いベースに支えられるハードバップに重点が置かれている。また、「I'm Old Fashioned」には、古典派への回帰という、以後の時代の重要な主題も発見できることにも着目したい。
コルトレーンがハード・バップ/ビバップから脱却を試みた作品。そして、次なる形式は「古典性への回帰」によって生み出されることに。現在のスタンダードジャズの基本的な形式の基礎は、このアルバムに全て凝縮されている。また、以降の時代の多くのサックス奏者の演奏法の礎を確立した作品でもある。「Ballads」では、ニューオリンズの「ブルー・ジャズ」の古典性に回帰しながら、モード奏法を異なる形に洗練させている。もちろん、遊び心もある。「All Or Nothing At All」では、アフリカのリズムを織り交ぜ、率先してアフロ・ジャズに取り組んでいる。彼の代表的なナンバー「Say It(Over and Over Again)」はジャズ・スタンダードとして名高い。