音楽教育では一般的に使用される7つの音階、ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シという音階名は一体誰が名付けたのだろうか。これらの音階名を最初に考案したのは、10-11世紀のイタリアのベネディクト会修道士グイド・アレッツォ。実は、グイドは五線譜(正確に言えば、四線譜)を同時に考案したことで知られている。
当初、グイドはフェラーラ近郊のポンポサ修道院で神学を学んだ。11世紀の修道院では、祭礼のために聖歌が歌われる場合が多かった。したがって、グイドはこの修道院での修行期間中に基礎的な音楽理論を学んだと伝えられている。同時に、その後、グイドは修道士たちに音楽を教える教師としての立場を担うようになる。
初期の音楽の学習では、音符はおろか音譜も存在しなかったため、実際に音階を歌って記憶し、それを体得するという手段しか存在しなかったというのが通説となっている。そのため、音楽的な施しを与える教育者は、学習者たちに何度も繰り返して旋律を聞かせ、彼らが覚えるまで繰り返した。初期の聖歌は、モノフォニー(単旋律)の音楽が中心であり、旋律そのものが平易である場合はまったく問題がなかった。ところが、次第に聖歌そのものがより複雑化し、旋律そのものが複合的になってくると、学習者たちに音階を覚えさせるのがむつかしくなってきた。このため、修道士のグイドは手を使い、その関節を示すことで、音楽の学習者たちに音階を記憶させることにしたのだった。これが俗に言われる「グイドの手」 と呼ばれるものである。
右上の画像に示した図像を見れば分かる通り、この手には、''ド''を始めとする音階がしるされている。ド(親指の先端)、レ(第一関節)、ミ(第二関節)という音階名がイタリア語で発音されるのは、こういった理由があるわけなのだ。
さて、グイドのもう一つの功績は、五線譜の原型である四線譜を考案したことだろう。この記譜法の最初の土台となったのが、死海文書やフランスのヴェルサイユ宮殿第五礼拝堂などに埋め込まれている「テトラグラマトン」という図像だ。テトラグラマトンは、現在では、ひし形や五芒星の形状として知られている。これは間違いなく、ヤハウェ(YHWH)を象徴づけるために考案されたと推測される。
修道士のグイドは、4つの線を引いて、一定の間隔を定め、音符を記譜するための四行のシステムを考案した。ベネディクト会では、当初は四行によって記していた楽譜を使用していたが、五芒星に変化し、その後、楕円形に変わった。少なくとも、ベネディクト会の聖歌の合唱隊は、ネウマ譜とならんで、これらの最も原始的な楽譜を共有し、モノフォニック/ポリフォニックな音楽形式を次世代に向けて洗練させていった。
この賛美歌は、「ヨハネの昇天」を一音ずつ上昇する音階により表現していると推測される。最初は「ド」の音階は「Ut」であったが、発音がしづらいという実際的な理由で、ラテン語で「主(神)」を意味する「Dominus」に変化していった。つまり、宗教音楽の観点から言えば、基礎的な音楽は、神のもとから出発し、最後は神のもとに帰属するため、主音に帰ることが鉄則となっているわけである。これが、クラシック音楽を始めとする伝統音楽において、主音(Tonica)が一番に重要視される理由である。ちなみに六月の祝祭の賛美歌の歌詞は以下のようなもの。
Ut queant laxis
resonare fibris
Mira gestorum
famuli tuorum,
Solve polluti
labii reatum,
Sancte Ioannes.
のびのびと
胸いっぱいに響かせて
あなたの驚くべき偉業を
しもべたちが語れるように、
汚れたくちびるから
罪を取り除いて下さい
聖なるヨハネ
グイドは、年長の修道士たちがグレゴリオの古典的な学問体系に慣れており、消極的であることに気づいたが、グイド・ストランビアティ大修道院長に有力な理論家であると認められた。 その後、ストランビアティ大修道院長は彼を友人のアレッツォ司教テオダルトのもとに送った。
こうしてグイドは、アレッツォの修道院音楽学校の責任者となった。 グイドはテオダルト司教に、有名な論文『Micrologus(ミクロローグ)』を献呈した。こうしてアレッツォのグイドは、1025年から城壁外のピオンタの丘にある旧大聖堂の学校で聖歌の教師となった。 新しい学問の場で、彼は近代的な記譜法を応用する機会を得て、世界中の音楽に永久的な革命をもたらした。
音楽理論書「ミクロローグス」の中で、グイドは、グレゴリオ聖歌と教育の様式を定義するために20の短い章を扱った。 論考の中で、アレティヌスは、ポリフォニー音楽(複合旋律)の作曲について論じている。 アレッツォのグイドの著作は、中世において最も広く利用された音楽論書の一つである。以後、グイドは、ローマ教皇ヨハネ16世に招かれ、ベネディクト会士が自分の著作を詳述できるようにローマに招待された。グイドの革命的な活動により、アレッツォは当時の最も重要な音楽文化の中心地となり、今日でもアレッツォは "音楽の街 "と呼ばれている。
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グイド国際ポリフォニックコンクールの会場 |
サルヴィーノ・サルヴィーニ作のグイドの銅像(最初の画像に示した)は、駅からグイドに捧げられた広場へ向かう観光客を出迎えてくれる。 現在でもアレッツォでは、このベネディクト修道士を称え、音楽活動や音楽研究を奨励している。 実際、アレッツォには有名な音楽高校があり、毎年、グイド国際ポリフォニックコンクールが開催され、世界中から音楽家が集まる重要なイベントとなっている。
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