Discovery: Simon&Garfunkel(サイモン&ガーファンクル)  デビューアルバムの商業的な失敗、「The Sound of Silence」の再録音でスターダムへ  二人を支えた知られざる貢献者



アメリカのフォーク・ロックのブームの波は、最初にボブ・ディランが呼び込み、サイモン&ガーファンクルが完成させた。その瞬間、イギリスのロックに侵略されていたアメリカの音楽の流れが変わった。

 

1964年、サイモン&ガーファンクルは名曲「The Sound of Silence」を録音した。現在、2つのバージョンが残されており、当初はアコースティックバージョンで録音された。

 

その頃、ポール・サイモンは実家暮らし、両親のバスルームでこの曲を作曲した。タイル張りの中で、自然な音響が得られることをポールは気に入り、その暗闇の中で伝説的なフレーズが生み出された。

 

「暗闇よ、こんにちわ」という最初の行はフォーク史にとどまらず、ポップ史に今なお燦然と輝いている。この曲は1964年にリリースされたデビューアルバム「Wednesday Morning 3 A.M」に収録されたが、アルバム自体の売上は惨敗、3000枚の売上にとどまった。しかし、この曲はまったく思わぬ形でリミックスされ、異例の大ヒットを記録することになる。そして、この二人の成功を影から支えた重要人物がいた。有名な著作家のサンディ・グリーンバーグさんである。

 

 

サイモン&ガーファンクルの音楽が世に出る六年前のこと。1958年、アート・ガーファンクルはコロンビア大学に在学していた時、バッファロー出身の学生、サンディ・グリーンバーグと出会う。ガーファンクルにとって運命的な出会いだった。音楽や文学に情熱を注ぐ二人は、すぐさま意気投合し、お互いのフレンドシップを誓いあう。


しかし、友人のサンディはその後、難しい局面を迎え、両者の友情が試されることになる。サンディは、重い緑内障をわずらい、そのせいで失明の危機に陥っていた。彼の主治医は、彼が失明する可能性が高いと確信していた。

 

サンディは、その後、学校を退き、バッファローの自宅に帰ることに決めた。しかし、ガーファンクルは、友情を諦めなかった。彼はバッファローに旅行し、サンディを説得し、誓いを立てる。ガーファンクルは、サンディのダークネスになろうと決めたのである。 ガーファンクルは、自分自身に「ダークネス」というニックネームをつけさえした。この献身的な出来事は、のちのデュオとしての音楽性に強い影響を及ぼすことになったのではないかと推測される。


ガーファンクルは、サンディを一人で歩けるように助け、そのために地下鉄構内を歩く友人を手助けしたりしていた。この献身的な行動のおかげで、サンディは自信を取り戻し、生きることにたいする自信を取り戻していった。サンディは、1962年にコロンビア大学を卒業し、幼馴染のスーと結婚する。サンディは、その後、オックスフォードでフルブライト奨学金を得て、学習を続けた。その後、彼はハーバードで学問を続け、慈善家として著名な存在となっていく。彼の社会的な成功は、アート・ガーファンクルの影のサポートの賜物とも言えるだろう。

 



1964年、『Wednesday Morning 3 A.M』が商業的に散々な結果に終わったため、ガーファンクルは大学に戻り修士課程に進んだ。ポール・サイモンはソロアーティストとして活動するため単身でイギリスに向かう。有名なサイモン&ガーファンクルのプロジェクトは頓挫しかけていた。

 

ポールがイギリスに向かった後、ガーファンクルはニューヨークにとどまり、もんもんとした日々を過ごした。ある日、ガーファンクルは、旧友のグリーンバーグがどうしているのかと思い、電話をした。グリーンバーグはガーファンクルの声を聞いた時、なにかを戸惑うような感じがした。詳しく問いただすと、ようやくガーファンクルは、その目的を明らかにした。

 

彼は、フォークデュオとしての活動を続けるための資金が必要だと旧友に明かした。サンディが電話越しに「いくら必要?」と聴くと、ガーファンクルは気まずそうに答えた。「400ドル.....」 その頃、ミュージシャンとしての二人は、ほとんど無一文に近かった。それほど時を待たずに、彼と妻のスーはガーファンクルを支援することに決めた。夫妻は銀行口座を空にして、すべての貯金をガーファンクルに送付した。これは単なる融資ではなかった。彼らのガーファンクルに対する期待がこういった金額を引き出させた。しかし、思うように事は運ばなかった。一年以上もの間、デビューアルバムはまったく人気が出ず、しばらく忘れ去られていた。

 

流れが変わったのはアルバムが発売されて一年が経過した1965年。この曲に注目した人物がいた。ボブ・ディランのプロデュースで知られるトム・ウィルソンである。ウィルソンは、アルバムのハイライト「Sound Of Silence」を聴き、一発で惚れ込む。彼はまだ、この曲に修正の余地があると感じ、本人には知らせぬまま、この曲をオーケストラレーションを付け加えた再録音した。1966年9月、ようやくこの曲はシングル・バージョンとして発売される。またたく間にこの曲は電波をジャックし、ラジオを中心にヒットしはじめた。この間、トム・ウィルソンは、プロモーターとして暗躍し、数々のキャッチコピーを広め、この曲をプロモーションしつづけた。ウィルソンの熱意が、なかなか日の目を見なかったこの曲をオーバーグラウンドに押し上げた。 

 

1966年1月1日、ガーファンクルが友達のグリーンバーグに電話をかけてからおよそ二年が経過した。「The Sound of Silence」は最初のヒットを記録、ビートルズと首位を争った末、ビルボードのホット100で1位を獲得する。翌年には映画『卒業』の挿入歌として使用され、重要な背景となり、多くのファンを生んだ。そのあと彼らは、「Mrs. Robinson」「Boxer」「The Biridge Over Troubled Water」といった伝説的なヒットソングを連発し、一躍スターダムを駆け上がることに。この時それを予測したのはごく少数の熱心なファンだけだっただろう。

 

「The Sound of Silence」

0 comments:

コメントを投稿