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カール大帝の戴冠式 |
古代ギリシアで盛んになった音楽をはじめとする芸術形態は、次にローマ・カソリックとフランク王国との同盟によって発展していった。
西ローマ帝国が476年に滅亡すると、ヨーロッパ全体は絶え間ない領土を争うための戦争の時代を迎え、様々な民族が入り乱れながら発展していく。 5世紀の時代からおよそ1000年の間が一般的に中世ヨーロッパと呼ばれる。 西ローマが崩壊した後、この土地を支配したのがフランク王国であった。
5世紀末、メロヴィング朝のクローヴィスがキリスト教のアタナシウス派に改宗し、ローマ・カソリックとの結びつきを強める。これは地政学的に見れば、''同盟関係''のようなものである。6世紀末になると、教皇のグレゴリウス一世がゲルマン人の改宗を推進し、西ヨーロッパ全土でキリスト教が繁栄していく。こういった中、この教会を権威付けるために、グレゴリオ聖歌が登場し、宗教音楽の一時代を築き上げるに至った。
カール大帝が即位したことは、アルプス以北のヨーロッパの平定を意味し、そしてローマ教会がカールに帝冠を付与し、政治的な権力を与えたことで、一度は滅亡した西ローマ帝国の覇権が復活した。古代世界、キリスト教、ゲルマン世界の三つの地域は分裂していたが、フランク王国の誕生により、これらの世界が統合され、文化の中心地になった。カール大帝は、芸術をこよなく愛し、文芸の発展に貢献した。宮廷に学問者や研究者を招聘し、積極的に議論を行わせたのも、カール大帝であった。フランク王国の発展と繁栄の過程全般を通じて、リベラルアーツ等の学問が政治に最も近い場所にあったという事実は、歴史的に見ても再考すべき点がある。
現在のスペイン、イタリア、フランスの大部分を領土としていたフランク王国は、以降、分裂し、フランス、ドイツ、 イタリアとして独立していく。その間、外的な勢力からの影響もあった。
ノルマン人、マジャール人、イスラム勢力の侵攻が相次ぐが、ローマカソリックの勢力拡大を通じて、ヨーロッパ全土は歴史上稀に見る最盛期を迎えた。歴史的な出来事としては、十字軍の遠征、レコンキスタ、ドイツ人によるエルベ川以東への東方植民が発生し、領土自体が拡大する時代であった。
こうした中、原始的な段階を経た音楽という分野は、いよいよ最初の栄華を迎えつつあった。その過程で、教皇のグレゴリウスを称えるためのグレゴリオ聖歌が発展していったのは当然の摂理だった。そもそも、中世ヨーロッパの時代において、王国は世俗を意味し、教会は宗教を意味していた。これらの離れた領域を結びつけるために音楽は存在し、大きな意義を持つようになった。 そして建築学から見れば、西ヨーロッパ全土は、修道院建築が隆盛を極める。この中で、ソレントとの交通路にあるモンテ・カッシーノ修道院が、ヨーロッパのキリスト教文化の中心的な役割を担う。土壁を用いて、要塞のような堅牢な建築を築きあげたという点が、カソリックそのものの権威を高めるとともに、フランク王国を中心とする文化、および、産業的な発展を意味したのである。こうした中で、ヨーロッパは独自の音楽的な発展を遂げていった。
グレゴリオ聖歌は、これらの修道院等で日例の礼拝のために生み出された。聖書に記されている言葉などを朗唱しながら単旋法を唄う形式である。最初期の宗教音楽で用いられる旋律の流れーー旋法ーーはパレストリーナ様式でひとまず完結する。(後にドビュッシー、ラフマニノフなど、近代の著名な作曲家が全音階法[半音階を使用せず、長二度で旋法を構成する]と呼ばれる教会旋法を作曲に積極的に取り入れるようになった)これらの聖歌は、歌詞の変更、ポリフォニーの独立した複数声部の形式等、音楽のコンポジションを発展させていくための基礎となった。
このような中で、スカルラッティ、モーツァルト、JSバッハなどの音楽に代表される多声音楽(同時に複数の旋律が配置される、ジャズではおなじみの音楽形式)が登場する。こういった初期の多声音楽は、”Organum(オルガヌム)”と称され、特に、フランス地域を中心に大いに発展していく。パリのノートルダム寺院では、独自の音楽形式が発展し、''ノートルダム楽派''と呼ばれるようになった。修道士はオルガヌムの音楽を実際に寺院の中で演奏するようになった。
戦争や侵略は今日では否定的に見られることが多い。この時代の歴史的な負の側面は古代ヨーロッパにおけるローマ人によるケルト文化の破壊が挙げられる。しかし、貿易や交易が未発達の時代には、新しい文化を流入させるという良い側面もあった。十字軍の遠征により、ギリシアの文化は、イスラムを経て、ヨーロッパに伝来していく。ヨーロッパでは、ギリシア古典やキリスト教の神学研究がますます盛んになり、文芸や芸術全般の発展を促した。12世紀頃になると、最初の大学が、ボローニャ、パリ、オックスフォードに設立された。知的欲求の高揚が、12世紀のヨーロッパ社会の流行となった。学問に励むことがある種の嗜みとなったのである。
こうした中で、ローマ典礼で用いられた''ローマ聖歌''が発展していく。ローマ聖歌は、エチオピアや地中海の東方教会の聖歌などを取り入れ、独自の発展を遂げていった。また、ローマを中心とするキリスト教のほか、東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルを中心とするビザンツ教会、いずれの地域にも属さない、シリア、アルメニア、エジプト、エチオピアを中心とする東方教会と、ヨーロッパ社会は三つのキリスト教に分かれていた。これらのローマ以外の教会では、ヘレニズム文化(古代ギリシアと古代オリエントの融合)やイスラム文化の影響が色濃かった。
東ローマのビザンツ教会では、カソリックの聖歌(グレゴリオ)、レパートリー、記譜法がギリシア語で発展した。シリアでは、ビザンツ教会の聖歌の影響を受けた上で、アラビアの影響を取り入れ、”四分音”と呼ばれる現在の半音階法を二分割した旋法が使用された。
さらに、エジプトでは、ギリシア語が用いられていたが、コプト語(古代エジプト)に翻訳され普及していく。自由なリズムを込めたメリスマ様式で音楽が歌われ、イスラム発祥のドーム(円屋根)など凝った装飾を伴った。諸般芸術では、フレスコ画が発達していく。これらは現在のトルコのイスタンブール、イタリアのヴェネチアなどの建築に残されている。
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サン・マルコ寺院-ヴェネチア ドームの尖塔が特徴 |
そうした中、ローマ教皇、グレゴリウス一世の命により、グレゴリオ聖歌が誕生する。これはブリテン(イングランド)のキリスト教化のために、ローマ聖歌が導入されたことが始まりだ。
フランク王国とローマが結びつきを強め、同盟関係を結ぶ中で、ガリア、アイルランドの地域の聖歌やモラべ(イスラムの支配下に入ったイベリア半島南部のキリスト教を示す)の聖歌が融合し、グレゴリオ聖歌が成立した。これは、儀式音楽の性質が強く、祭礼や修道士の務めの日常の時間に歌われた。
グレゴリオ聖歌は、9世紀に成立し、12世紀まで発展していった。ヨーロッパ全土にキリスト教が普及していく過程で、多くの地域で歌われた。こうした中で、当初、音楽全般は、口承の形で伝わっていったが、10世紀頃になると、楽譜が誕生した。最初期の楽譜は、ネウマ譜が使用され、その後、四線譜や五線譜の記譜法が登場するようになった。少なくとも、キリスト教の普及は、多くの場合、建築や芸術、音楽など、他の分野に依拠する場合が多かったのである。
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