Fillmore East(フィルモア・イースト) 数多くの名録音を生んだコンサートホール The Church Of Rock N Rollの原点

 

Fillmore East


これは例えば、ロック・ミュージックだけの話に限らないが、ライブ・レコーディングというのは、スタジオのレコーディングとは違い、実に不可解な音源でもある。つまり、観客と演奏者のエネルギーの交換が確実にそのレコーディングに刻印されているのだ。MC5のライブなどを見て分かる通り、ライブ・レコーディングの名盤には、必ずといっていいほど熱気がある。そして、マイクパフォーマンスを通じての観客とのコール・アンド・レスポンスなどのやり取りから、その劇的な瞬間に居合わす人々の息吹が録音を通じてはっきりと感じられる。仮に、バンドのその日の演奏が卓越していたとしても、その場の観客の熱気がなければ、それはセッションになってしまい、ライブ・レコーディングの名盤たり得ないのだ。そして、それとは正反対に、観客の熱気の後押しがバンドのライブ録音を名作にしてしまう場合もある。これは、実際の演奏者として体験したことがあり、本当に不思議でならないことだった。


 
これまでの伝説的なライブ・レコーディングとして、オールマン・ブラザーズ・バンドの「Fillmore East」がある。この録音は、ニューヨークのフィルモア・イーストで録音され、バンドの知名度を押し上げたにとどまらず、このバンドの代表的な録音ともなっている。実際に聴いて貰えれば分かるが、サザン・ロックの代表格の演奏はきわめて渋く、全編がブルージーな雰囲気に充ちた作品となっている。そして、マスタリングが良かった可能性もあるが、近年のライブ音源にも引けを取らない音質の良さとなっている。このフィルモア・イーストでは他にも伝説的なライブ録音が多数現存し、レッド・ツェッペリン、ジョニー・ウィンター、フランク・ザッパ、グレイトフル・デッド、ジェファーソン・エアプレイン等のライブ・レコーディングがある。また、伝説的なフォークバンド、The Fugsの録音もある。この中ではオールマン・ブラザーズとZEP,ジョニー・ウィンターの録音はロックファンとして聞き逃すことは厳禁である。


 

これらの伝説的な音源を生み出したニューヨークのフィルモア・イーストであるが、このライブハウスがオープンしたのは、1968年のこと。施設を開設したのは、世界的なプロモーターの先駆者、ユダヤ人のBill Graham(ビル・グラハム)。彼は、フィルモアイースト&ウェストを開業したにとどまらず、その後、67年にはモンタレー・ポップ・フェスティバル、そして69年にジミ・ヘンドリックのライブでお馴染みのウッドストックをプロモーションしている。グラハムは後に「ロック・フェスティバルはあまりに金のかかるピクニックだ」という名言を残している。


 
1968年と言えば、公民権運動を行っていたキング牧師が暗殺された年に当たる。そういった白人と黒人との人種間の緊張した時代背景は、このライブ施設の収益にまったく影響を及ぼさなかったわけではない。事実、系列施設であるサンフランシスコのフィルモア・オーディトリアムでは、売上自体が低迷していたという。しかし、伝説的なプロモーター、ビル・グラハムはこのウエスト・ヴィレッジの劇場を、その天才的な手腕により、伝説的なロックの聖地と変えてしまうのである。フィルモア・イーストは、1926年に、Yeddish Theter(イディッシュ劇場)として開業した場所だが、ビル・グラハムが、その施設を後にライブハウスとして改築し、伝説的なロックバンドを数多く出演させた。開業当時の収容人数は、わずか2600名だった。
 
 
この場所は、もともと、コモドール劇場の本拠地であり、2階の劇場街に沿って建てられていた。イディッシュ・シアターが多く立ち並び、ユダヤ・コミュニティーの中心地として知られていたアベニューである。また、この施設は、当初、映画館代わりの施設としてマンハッタンに登場し、1930年代までに、ライブのイディッシュ・ドラマとコメディーを舞台で上映し、劇場自体は左翼グループの収益のために貸し出されていたという。この建物の隣にあったレストラン”Rater’s Second Avenue”は、観劇を見に来た客、それから舞台俳優が足繁く通った場所であった。その後の時代、イディッシュ語の共同体(コミューン)が衰退するにつれ、この場所は映画、その他、エンターテインメント公演の重要拠点となり、レビー・ブルース、ティモシー・リアリー、アレン・ギンズバーグの公演の本拠地となった。つまり、ここは、ビート・ジェネレーションの時代の活動家や詩人らの文化的な土壌を形作った場所でもあったのだ。


 
そうした文化的な背景を踏まえ、ビル・グラハムは、この場所をロックの聖地に見立てようとした。多少の修復作業が必要だった。彼はまもなく、ビル・グラハムのフィルモア・イーストという看板を作り、フィルモア・ストリートとギアリー・ブルバードの交差点に因んで、この施設をオープンさせた。フィルモア・イーストの開業後まもなく、ビル・グラハムは、 系列施設であるサンフランシスコのオーディオトリウムのスピン・オフ・コンサートをこのイースト・ヴィレッジのライブハウスで開演しはじめた。グラハムは、週に数回、3組のバンドが出演する2回のショー・コンサートを行い、熱狂的な聴衆を獲得していく。フィルモア・イーストが「ロックンロールの教会」と称されるようになるまでそれほどの時を要さなかった。徐々に、ザ・フー、クリーム、ドアーズといった時代を象徴するようなロックバンドのコンサートが開催されていく。

 

The Allman Brothers Band


政治的な背景として、人種間に不穏な空気が流れる中、こういったロック・コンサートに足を運ぶ人々が増えていったというのは首肯できる。その後の時代のラブ&ピースの時代ではないが、多くの聴衆が、その当時の政治的な気風とは別に爽快な気分にさせる音楽や熱狂を求めていたことはそれほど想像に難くない。エルトン・ジョン、ジャニス・ジョップリン、オーティス・レディング、ジョン・レノン、フランク・ザッパ、クロスビー・スティルス、ナッシュ&ヤングといった伝説的なアーティストとバンドがマンハッタンの夜を美しく彩った。その過程で、フィルモア・イーストのライブレコーディングが行われた。これらの録音は1960年代後半から70年代初頭にかけてのマンハッタンの文化の隆盛を象徴付けているとも言えるだろう。
 

これらのロックンロールの聖地としての栄華の時代は開業からわずか3年であっけなく終焉を迎えた。音楽産業の構造変化と成長、さらにコンサート事業の急激な変化、小規模なコンサートからウッドストックを筆頭に野外の大規模なコンサートが主流になるにつれ、これらの小規模のキャパシティでは、費用対効果の期待が持てなくなった。1971年6月27日、プロモーター、ビル・グラハムは、フィルモア・イーストの閉場を決定する。最後のコンサートは、特別な招待客だけを招いて行われたといい、このコンサートホールを象徴するアーティスト、オールマン・ブラザーズ・バンド、アルバート・キング、マウンテン、ビーチ・ボーイズの公演で有終の美を飾った。
 
 

Fillmore Eastの跡地


 1980年になると、フィルモア・イーストの跡地は、セイントと呼ばれるプライベート・ナイトクラブに建て替えられ、1996年には6番街にあった建物の劇場部分が取り壊され、居住用の建物に改築された。以後、ロビー部分だけは残されていたが、建物の大部分はエミグラント銀行の支店として残された。建物の外には、街灯柱のモザイクが記念碑として現存するようだ。

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