Tenniscoats 『Totemo Aimasyo』 -New Album Review

 Tenniscoats  『Totemo Aimasyo」

 

 


Label: Room 40

Release :2023/9/1  


Review



2007年に発表されたアートポップユニット、Tenniscoatsの「とてもあいましょう」がデモ・トラックを追加収録したバージョン、続いて15周年記念バージョンが明日(9月8日)発売される。このリリースに関して、 Room 30のレーベルオーナーのLawrence Englishは次のように振り返っている。

 

00年代初頭のある時、当時、日本に住んでいたジョン・チャントラーが、東京で知り合ったミュージシャン、テニスコーツと録音したばかりの不思議な音源を送ってくれた。これが、その後長年の友人となり、音のインスピレーションの源泉となったサヤと植野を私が初めて知るきっかけとなったんだ。



2005年、メルボルンのガイ・ブラックマンとのつながりで、テニスコーツはオーストラリア・ツアーを敢行した。フォーティテュード・バレーのリックス・カフェで開催された彼らのショーは、歌、即興、そしてメロディーの自由が乱れ飛ぶ、とても刺激的な内容だった。公演後、サヤ、植野、ドラマーの岸田良成は、さらに数日間ブリスベンに滞在して、この間に『トテモアイマショウ』の大部分がレコーディングされた。



レコーディング自体は、友人のハインツ・リーグラーが小さなレコーディング・スペースを設けたオフィス・ビルを再利用して行われた。さまざまなオフィスを、やや隔離された録音ゾーンとして使用する許しを得た。その結果、驚くほど豊かな音楽になった。これはまさしくオフィスの部屋の設計の賜物であると私は考えている。

 


Tenniscoatsは、スコットランドのThe Pastelsとのコラボで知られ、ユニットの植野隆司さんは、Deerhoofのベーシスト、サトミ・マツザキとのユニットとしても活動する。海外のネオアコシーンやアートロックシーンとも関わりの深い音楽家である。もちろん、ネオアコ/ギターポップシーンに詳しい方ならご存知のはず。1996年頃から活動する伝説的なアートポップ・ユニットである。

 

 『Totemo Aimasyo』に関しては、当時、そういった認識があったかまでは定かではないが、現在のフォークトロニカ/トイトロニカ/ジャズトロニカに近い音楽に属している。ノルウェーやアイスランドの北欧のエレクトロニカ、mum、もしくはグラフィック・デザイナーとしても活動しているKim Horthoy(キム・ホーソイ)等のエレクトロニカ系のアーティストの音楽に近い。 

 

しかし、当初、NYのレーベルからデビューした最初期のトクマル・シューゴの音楽観のようなおもちゃ、ピアニカ/アコーディオンといった楽器をエレクトロサウンドの中にセンスよく織り交ぜているという点では、やはり、テニスコーツは日本らしいアートポップ・ユニットなのである。音楽性に関しては、Homecomings、Predawnの源流にある美しくも儚い童話的な日本語のポップス/フォークに属する。加えて、日本語の昭和時代の歌謡曲の影響であったり、また、日本語による言葉遊び、もっと言えば、言語的な実験等、言葉に関する感性の豊かさを尊重するという側面では、Deerhoofのサトミ・マツザキと同じような手法を選ぶことが多い。つまり、テニスコーツの歌詞は、いつもやさしげな響きがあり、日本語の温かさを実感させてくれるのだ。


2000年代に聴いた時には、ジーナ・バーチのレインコーツと同様、さっぱり理解不能であったテニスコーツの音楽ではあるが、時を経て、ギターポップ、ネオ・アコースティック、アヴァン・ジャズや実験的なエレクトロニック、エクスペリメンタル・ポップを聴くうちに、テニスコーツが何をやろうとしているかが分かるようになった。ただ、わかるようになったとはいえ、それも全容を把握したというわけではなく、外的な側面を捉えたに過ぎないのかもしれない。


オープニングを飾る「ハッカ」から、童話的な子供むけの絵本のような可愛らしい音の世界が展開される。ピアノのシンプルな演奏で、それはジャズの即興のように気安さがあるが、テニスコーツが描き出そうするのは、どこまでもやさしく、いつくしみに充ちた世界観。導入部に続き、「オーロラ・カーテンズ」では、パン・フルートのような音色を用いた抽象的なテクスチャーが続く。ゆったりとしていて、余白の多い音楽なので、自由自在にイメージを膨らませられる。続いて、アンビエントのシークエンスにテープ・ディレイの効果を交えた実験的なエレクトロニカのフレーズを取り入れながら、テニスコーツは巧みなエレクトロニカのフレーズによって、タイトルの「オーロラのカーテン」という神秘的な世界を探索していこうとする。

 

続く、「囲」は、ボーカル・トラックで、ここでは柔らかなアート・ポップの音楽性に転じている。ボーカルに続いて、ジャズ風の金管楽器(アルトサックス)の自由なフレーズが加わり、構造的なエレクトロのフレーズを絡め、ジャズトロニカ/トイトロニカに近い前衛的な音楽性へと昇華させる。手法的にはかなり実験的ではあるものの、mumに比する童話的なサウンドスケープが表現され、その上に、サヤの器楽的なボーカルが加わる。メインボーカルではありながら、コーラスの手法を用いることによって、音楽そのものを抽象的なボーカル・アートの世界に導く。それらのポップスともジャズとも、エレクトロニックともつかない不均衡な音楽的な感性は、一見、相容れないようで、劇的な融合を果たしている。 言葉単体では大きな意味を持たないのに、異なるジャンルの音楽の混淆の中に、言葉以上の重要な文脈が含まれているような気にさせる。それはサブテクスト的な意味を持つボーカル・アートとも言えるのだろう。

 

これらの日本語の言葉の実験は、次の曲「君になりたい」でさらに顕著になる。「サラサラ」、「サヨナラ」という言葉自体だけでは大きな意味を持たないけれども、そのシンプルな言葉を続けることによって背後にある伏在的なイメージや印象を膨らませ、物語性をもたらす瞬間がある。これこそ、日本語の持つ凄さというものではないか。そして、これは例えば、サトミ・マガエがデビュー作の『AWA』(レビューはこちら)で示した、言語的な実験性に近い。そして、この実験性は、ジャズ的な要素に加えて、トイトロニカに近い遊び心溢れる音楽的な手法を通じて、心はずませるような楽しい音楽へと変化していく。テニスコーツは、音楽という言葉の語源である「音を楽しむ」ということの重要性をあらためて思い出させてくれるのだ。

 

「ブルーム」は、アルバムの序盤の収録曲のなかで最も実験性の高い楽曲である。当時としてはそれほど定着していなかったコンピューターの信号のエラーにより生ずるグリッチ/ノイズをいち早く取り入れているのに驚きをおぼえるが、その実験性は、金属的なパーカッションの導入とボーカルのハミングが独特な雰囲気を生み出す。また、木管楽器(フルート)がボーカルの音階とユニゾンで合わさる時、奇妙な倍音が生じさせる。アヴァンギャルドではありながら、現在のエクスペリメンタル・ポップの源流を形成する画期的な一曲と言えるのではないだろうか。

 

「ドナ・ドナ」をもじったと思われる「ドンナ・ドンナ」は、スコットランドのThe Pastelsとの共同制作を行っていることからも分かる通り、テニスコーツのオルト・フォーク/ネオアコに対する傾倒が伺える。しかし、「ドナ・ドナ」を彷彿とさせる単調のイントロは、パーカッションや吹奏楽の演奏が加わるやいなや、スペインのジプシーの流しの楽団の、中世のヨーロッパの街角で聞かれたような舞楽的な踊りの音楽に近づく。ボーカルの音階の進行は、確かにドナドナのように暗いのだけれども、その一方で、リズムの方は楽しげな雰囲気に充ちている。また、この曲に楽しげな雰囲気をもたらしているのが、正体不明の吹奏楽の演奏で、この点については、ニューオリンズのジャズ(ビッグ・バンド)の原始的なセッションに近い雰囲気もある。

 

本作におけるテニスコーツの音楽性は、一定のジャンルに規定されることはほとんどないように思える。「実例」では、レトロではありながら、実験的な電子音楽の魅力を示している。シンセサイザーの音色のトーンが、トレモロのようにぐらぐらと揺らいでいき、摩訶不思議な世界観を生み出す。モジュラー・シンセによって作り出したヴィブラフォン風の音色が、マレット・シンセのような音色に変化する。これが、打楽器的とも旋律的ともつかない不可思議な音像空間へ導かれる。これらのシンセの演奏は、電子音楽の即興演奏のような感じで続いていく。

 

かと思えば、「正午前に」では、ニューヨークのJohn Zohnを彷彿とさせるアヴァンギャルド・ジャズの世界に踏み入れる。トーン・クラスターのように断続的、あるいは、破砕的なシンセの要素が続き、その合間に、捉えがたいアルト・サックスの即興的なビブラート(その後にはスタッカートに変化する)が加わる。そして、それはやがて前衛的なフレージングに変化していき、多重的なパーカッションやシンセのシークエンスを散りばめ、ドローンに近い不可思議な音楽へと変化していくようになる。カール・シュトックハウゼンの考案した、セリエリズムやクラスターは、現在でいうミクロな音形を集約した「ドローン」を志向していたのではないか。これらの十二音技法にもよく似た前衛的なサックスを中心とする演奏の断片的な連続性は、John Zohn,Barre Phillipsが『Mountainscape』で探索していたような実験性に近づいていく。

 

一転して、「ひれい 5-22」では、 プリペイド・ピアノやディレイを用いた実験音楽の領域に差し掛かる。これらのピアノの音の可能性の探求は、アンビエント/エレクトロニカにも近い雰囲気がある。演奏される音階は一貫して抽象的であるが、それらがグリッチノイズと掛け合わさるやいなや、癒やしと安らぎに充ちた音楽へと変化する。例えば、Aphex Twinが『Syro』の時代に探求した実験的なピアノ音楽とエレクトロニックの融合を2000年代に率先して取り組んでいる点には脱帽するよりほかあるまい。そして、ピアノやノイズ、シークエンスといったそれらの複合的な要素は、サウンド・スケープを呼び覚ますに足る換気力に満ちあふれている。

 

続く「らせん」は、 「君になりたい」と同じく、ボーカルトラックで、歌謡曲や童話的な音楽の世界観を擁している。J-Pop的な音楽性もありながら、微妙に音程をずらしたりすることで音楽性そのものに不均衡な印象を付加している。そして、クラスタートーン風のシンセが、そのアンビバレントな感覚を強調している。最初のモチーフは、曲の中盤で、変奏的な展開を交えて開いていく。これらのフレーズの変容も面白いが、日本語ボーカルを介してビョークを彷彿とさせるアートポップの境地を開拓しているのにも注目しておきたい。さらに、曲の展開は、複数のコラボレーターの演奏により、大掛かりでシアトリカルな音楽性へと発展していく。これは、タイトルに見受けられるように、メインボーカルを取り巻くようにして、ギターをはじめとする演奏がらせん状にひろがり、ボーカルの持つ雰囲気や印象性を高めているようにも思える。

 

「ミドリ」は、ワールド・ミュージックに属していて、いくらか奇異な印象を受ける。ベラ・バルトークの東欧の民謡や、コーカサス地方の作曲家/神秘思想家、ゲオルギイ・グルジエフの東欧の音楽性や、それにまつわる神秘性を彷彿とさせる。Oudのような民族的な弦楽器を使用することで、イスラム圏のエキゾチズムを思わせるのはもちろんのこと、ハンガリー/ポーランドの民間伝承的な音楽に代表される舞楽的な音楽(ポルカ)の要素を兼ね備えている。Oudのような弦楽器にチュニジアで使用される木管楽器の演奏が加わり、そのエキゾチズム性は最高潮に達する。

 

この後に続く、デジタルバージョンに追加に収録されているデモ・トラックに関しては、レビューを割愛したい。アルバムのクローズとして収録される「最初やるには」では、スコットランドのThe Pastelsを思わせるネオ・アコースティック/ギター・ポップの音楽性の真髄を示している。The Vaselinesを思わせる牧歌的な雰囲気の魅力もさることながら、ユニットの柔らかで温かい音楽性を味わうのに最適。可愛らしい音楽性から、実験的な音楽性、ワールド・ミュージックの要素等、多岐にわたるテニスコーツの音楽性を網羅するアルバム。入門編としてもオススメ。

 

 

 

 86/100

 

 *今回のレビューは、9月1日にデジタル・リリースされたデモトラックを追加収録したバージョンを元に行っています。明日発売のbandcampでリリースされる15th Anniversaryのデジタル・バージョンとは収録曲及び収録曲の順序が異なります。