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Runo Plum(ルノ・プラム)は単に癒そうとするのではなく、変容している。ミネソタを拠点とするシンガーソングライターの親密なデビューアルバム『patching』は、柔らかなエッジの放つインディーロックで、激しい感情の修復期の収縮、拡張、解放を優雅に捉えている。別れとその後の癒しのプロセスに触発されたこのアルバムは、感情的な旅であると同時に音響的な旅でもある。
友情への渇望、社会不安、病弱妄想の渦、元恋人からの荷物が届く自宅――アルバムはこうした複雑な感情を、反芻から小さな喜びのきらめき、決着、それから再び恋に落ちる瞬間へと揺れ動く。
各楽曲は同じ繊細な核心を揺さぶりつつ、失恋や不安の痛みを巧みに癒す。ルノの温かな歌声と率直な歌詞が導く、この穏やかな自己認識と再生の瞬間こそが『patching』の軸であり、手作りの薬のように作用する。
こうした癒しの瞬間に訪れるのは、透き通るような明快さだ——自らを修復する行為は単なる修復ではなく、創造を触発する行為であり、アルバムカバーに描かれたルノの蝶の誕生とさほど変わらない。
ルノ・プラムにとって、この奔放な誠実さは決して新しいものではない。彼女は半世紀にわたり、複雑なフォークソングを書き続け、寝室から静かに発信してきた。パンデミックの年々、彼女の音楽は次第に多くのリスナーの耳に届き、シングルやEPを自主リリースするようになった。その傍らで、 Searows、Angel Orsen、Hovvdyのサポートアクトとしてライブ経験を積んでいた。
このミュージシャンの成功の波の真っ只中に、予期せぬ失恋が訪れたため、アルバム制作は最優先事項ではなくなった。しかし、その断絶の後、5ヶ月間にわたる激しい創造性の爆発で大量の楽曲を書き上げた時、ルノは1枚どころか2枚のアルバムがいよいよ形になりつつあることに気づいた。 「かつてないほど書き続け、全てがこれまで以上に意味深く感じられた」と彼女は語る。
作曲の合間には絵を描き、地元のリサイクルショップで小物を探し、森で春から夏にかけての草花を眺めて過ごした。こうした生活のあらゆる側面が、彼女の音楽に素朴な魅力を吹き込んでいる。 緑豊かな数ヶ月間、ルノは『patching』のデモを制作し、初期音源を送り、最終的にロサンゼルス拠点のレーベル、Winspear(Slow Pulp, Wishy, Teetheなどが所属している)と契約した。
シンクロニシティと成長、そして巡り巡る瞬間が彩るプロセスの中で、ルノは『パッチング』のレコーディングに着手することになった。新たな協力者を数名迎え入れ、スタジオ録音の演奏と寝室でのボーカルオーバーダブを融合させ、ルノの音楽の初期時代を彷彿とさせる作品を作り上げた。
ミネソタ生まれでバーモントを拠点とするミュージシャン兼プロデューサー、ルタロ・ジョーンズは、絶賛されたデビュー作『The Academy』をリリースしたばかりだったが、ほぼ10年前にルノと出会ったことを契機に、本作のプロデュースを引き受けることになった。二人の初期のコラボレーションは、ルノの2021年シングル「yin to yang」の歌詞の中核を生み出したものであり、ルタロをプロジェクトに迎えることは、ルノにとって再びの調和と自然な拡大の瞬間となった。
共同制作者であり楽器奏者、恋人でもあるノア・フランシスと共に、ルノとルタロはバーモント州の田舎にある小屋で2週間にわたりアルバムを録音した。樹齢百年のアコースティックギターの蜜のように甘く時を経た音色と、ルノの声の穏やかな温かさを核に、トリオは一つひとつ楽曲を組み立てていった。
「ただ流れに身を任せていた」とルノは語る。 「どの曲も、私の癒しの過程における感情の断片を一つに縫い合わせたプロジェクト。同時に、私はリアルタイムで自分自身を縫い合わせていた。傷つきを感じつつも、修復も感じ取れる。前進するために速度を落とし、ついに恐怖から解放される時を夢見る」
修復において、変容の営みは、緻密な修復作業と同等の役割を担う。 全12曲にわたり、ルノは鋭いダイナミクス感覚で旋律の弧を描き、世界を回すあらゆる自然の循環がもたらす霞んだ高揚と紺碧の沈みを捉えた楽曲を紡ぎ出す。
彼女の創作の核心には、ある種の儚い魔法が宿っている。それは人生の深く形成的な一章を鮮やかな楽曲のスクラップブックへと錬成する能力から生まれ、経験の輪郭をきらめく細部まで捉えているのだ。
会話的で推進力のあるメロディに支えられたアルバムの幕開け「Sickness」は、不健全な循環と日常の凡庸さを扱う。不安を底流に、それは舞い上がり、焼き尽くすように、ルノの内省的な才能で日々の情景を繋ぎ合わせる。 「Lemon Garland」の豊かでかき鳴らすような朦朧感の中で、ルノは倦怠感への解毒剤を紡ぎ出す。
12弦ギターの広々とした響きと繊細に重ねられたボーカルで彩られた、共同体と交わりの白昼夢を呼び起こす。 「Halfway Up The Lawn」は別れに伴う混沌とした人間的な絶望期を綴り、執拗で催眠的な楽器演奏に乗せて切望と精神的な葛藤を解きほぐす。「君が青ざめるのを見たくない、でも見続ける」と彼女は歌っている。受容を弄びつつも、戦いを完全に諦めてはいない。
先行トラックが昼間だとすれば、「Elephant(エレファント)」や「 Lockt(ロケット)」は夜、あるいは繭の中の幼虫が孕む肥沃な闇を構成する。
「Alley Cat(アレイ・キャット)」の甘美な簡素さは、うっとりするようなトワン音と共に社交不安の渦へと広がり、ルノの高音域が放つきらめく輝きに聴き手を宙吊りにするアウトロへと展開する。
「Quiet One」はルノの漠然とした脆弱性にポイントを当て、「Be Gentle With Me」は初期のJulia JacklinやBig Thiefのアルバムに見られるような、恥じらいのない率直さで、痛みを伴うインディーロックの自由落下の中で新たな愛の諸刃の剣を詳細に描く。
「Gathering the Pieces」の反響するうねりの中で、ルノはアルバムの繊細な感情の核心を巡り、不安に苛まれながらタイトルを冠した歌詞を歌う——「かつての私から残された破片を集めて/継ぎはぎする時が来た/どうやら私は足りなかったようだ」 少し落ち込みながら、ルーノは哲学的になる。「この空虚は永遠に空虚なままなのか?/この孤独は永遠に続くのか?」と問いかけ、楽器の音が虚無を埋め尽くすように膨らんでいく。
端的に言えば、それが『patching』の役割となる。虚無を埋めるために膨らむ。不安定さと不確実性から生まれた豊かなデビュー作は、こうした芸術的な転換に満ちている——感情の空白を補う豊かな音響的瞬間が、終焉から拡張を生み出す。
ルノ・プラムの新たな章の始まりに過ぎない。デビューアルバム''パッチング''は、彼女のパフォーマー兼ソングライターとしての芽吹く声が、この広がりを見せる新たな章へと踏み出す中で確実に開花し、明晰な筆致と優しい心で心の痛みと再生を探求し続けることを約束している。
Runo Plum 『patching』- Winspear
失恋という、つらい経験を経たルノ・プラムは、傷跡を自身の音楽で癒す。しかし、それらをパッチで縫い合わせる過程で、これまで知らなかった自分に出会う。また、別の人間になっていることに気がつく。もしくは、自分がそうであったことに今まで気がつかなかっただけなのか。
しかし、いずれにせよ、憂愁ともアンニュイとも形容しがたい、このインディーフォーク集は、デビューアルバムらしからぬ印象を帯びている。大人びている、もしくは、円熟しているというべきか、収録曲を経るごとに、音楽そのものは深度を増していき、アルバムの終盤の収録曲では、圧倒的なシンガーソングライターの雰囲気すら感じさせる。ダブルアルバムの収録曲をあらかじめ用意した上で、1つのフルレングスに落とし込んだという点では、十二分の内容で、一気呵成に聞かせる。本作は、Winspearが紹介するように、ジュリア・ジャックリンや、アドリアン・レンカー、ソフィー・アリソンの初期のソロアルバムのような雰囲気をもっている。
また、ソングライターの脆弱性を、上質なインディーフォーク/トゥイーポップに反映させたという点で、大きな期待値を感じさせる。ただ、ニール・ヤングやディランのような古典的な曲は多くはない。一般的に言えば、現代的なモダンフォーク集と解釈出来る。しかしながら、同時に、その幻想性は、単なる架空の物語だとも言いがたい。現実から引き出された一連の幻想である。現実と平行して、もう一つの現実が存在すること......、それは創作性のことを示すが、これをもう一つの現実として並置することにより、ある種の癒やしが見出される。音楽を制作することは、もしかすると、もう一つのリアリティを作り出すことなのかもしれない。フィクションの持つ強みは、現実とは異なるもうひとつのリアリズムを生み出すことにあるのだろう。
それでは、フィクションというのは、まったくの架空の出来事から始まるのだろうか。もしくは、まったくの絵空事を何らかの形あるものにすることなのか。たぶん、そうではあるまい。それはやはり、どのようなタイプのフィクション作品においても、制作者の人生や人生観が反映され、その中に、リアリティが包含されている。そして、鑑賞者がじっと目を凝らしたときに向こうに浮かんでくる、その真実らしきものーーそれは時には、現実よりも圧倒的に真実性を持つーーに触れた時、共鳴反応が起き、琴線に触れる瞬間が訪れるということである。いわゆるピンときたとか、腑に落ちたとか、心に響いたという、不可思議な現象が発生するのである。これがつまり、諸般のすべての芸術ーー文学、映像、絵画、音楽ーーの持つ最大の魅力なのである。
今回紹介するミネソタのシンガーソングライターは、上記の要素を持ち合わせている。幻想的な作風、抽象的な印象を帯びるインディーフォーク/ギター・ポップソングの中で、リアリズムを喚起することに成功している。本作は、歌詞にせよ、音楽にせよ、フィクションでありつつも、フィクションではない。つまり、見知らぬ人間の感情的な経験がつぶさに織り込まれている。
アルバムは「Sickness」で始まる。アコースティックギターを多重録音し、リバーヴを配した、重厚な音像を強調するギターポップという感じである。しかし、ドラムのテイクが加わると、少しずつ活気づいてきて、インディーロックへと変化する。少しルーズな感覚で歌われるボーカル、裏拍を強調するスネア、和音と拍動、対旋律の役割を司る。アーティストの作曲の中心部分であるアコースティックギターを通じて、モダンな印象を持つフォークロックが続いている。
ボーカルは、制作者の感情領域を示唆するかのように、中間域ではじまり、その後、シンセサイザーのアレンジメントを通じて、ダイナミックな印象を帯び、まるで、このアルバムのメタファーである、さなぎから蝶へと変化する過程を表すかのように、鮮やかな印象を帯びることがある。その中で、個人的な回想や追憶を表すかのように、レトロなメロトロンのような音色がボーカルの周囲を取り巻き、曲の持つセンチメンタルでナイーブな感覚を徐々に引き上げていく。
おのずと制作者の提示するキャンバスーー音楽の骨格ーーのなかに、何らかの追憶が映し出されて、その中に少しずつ引き込まれていくような不思議な感覚が捉えられる。表面的に聞くと、ギターポップに属していると思うが、全体的なアレンジの中にエレクトリックギターのロック風のフレーズが配されており、これがある種のフックをもたらす瞬間が込められている。
2曲目「Lemon Garland」は、カントリー/フォークを始めとするアメリカーナの印象が色濃い。前曲の気風を受け継いで、ウージーなギターがイントロに配されている。幻想的な雰囲気を呼び覚まし、カントリー/フォークとロックの融合の中で、最初期のSoccer Mommyのようなインディーポップとの融合性を探っている。ざっくりとした乾いた質感を持つドラムが心地良く響き、アコースティック/エレクトリックを組み合わせたギターの演奏が、夢想的な感覚を呼び覚ます。ミネソタの自然味溢れる情景を思い起こさせ、それと同時に、制作者の若い時代や多感な時期を回想するかのような、ノスタルジックな雰囲気のあるロックソングが続いている。録音の面でも、アコースティックギターやエレクトリックギターの艷やかな音の質感が美麗な印象がある。また、ルノ・プラムの伸びやかで夢想的な雰囲気を帯びるボーカルに注目したい。この曲はカントリー/フォークとしての開放的な空気感を持ち、ほんわかとした雰囲気に満ち溢れている。
「Alley Cat」は静かな印象を持つフォークバラードに一転する。現代的なインディーポップ/インディーフォークの気怠いボーカルを維持しつつ、水晶のように澄んだボーカルを歌い、サビ/コーラスの箇所では最初の部分に戻るというような構成である。サビの箇所でアンセミックで盛り上がるフレーズを持ってくるのとは対照的に、最初のモチーフに戻るという、A-B-Aのバラードの基本的な構成を継承している。この曲では、愛猫に語りかけるように、どうしていいのかわからないという逡巡の感覚を、美麗なフォークソングで縁取っている。それほど大掛かりな構成が用意されているわけではないが、本作のハイライトの一つとなりそうだ。こういった、なだらかな展開を持つアルトポップソングこそ、ルノ・プラムの音楽の一番の魅力となりそうだ。特に、間奏のスキャットは、このアルバムの核となる夢想的/幻想的な感覚を巧みに導き出す。アウトロの歌唱では、フォークミュージックにおけるオペラの歌唱でフェードアウトする。個人的にも共感を覚えさせるにとどまらず、壮大なインスピレーションに満ちた一曲である。
「Halfway Up The Lawn」では、インディーポップ風のシンガーの歌唱に変化する。音楽的には、Soccer Mommyの最初期の曲のような甘酸っぱい感覚を捉えることも出来る。 特にアルバムの序盤の曲では、最もセンチメンタルな感覚(英語で言えば、脆弱性)を体現している。この曲の良い点は、パワーポップのように切ない雰囲気を帯びるアコースティックギターが、他の曲と同様に夢想的なボーカルと混在していることだろう。和音進行も巧みであり、半音階進行の和音を長調の中に織り交ぜながら、調性の揺れーー長調と単調の並置ーーを淡い感情の暗喩として機能させている。こういった中で、ほっと息をつかせるような温かいボーカルフレーズが登場することがある。メインボーカルとユニゾンを描くエレクトリックギターの単旋律など、細部にわたって精妙に作り込まれている。この点が聴きごたえをもたらしている要因なのだろうか。
「Halfway Up The Lawn」
「Be Gentle With Me」は、90年代のオルタナティヴロックのクロマティックスケールを用い、Pixiesのような不思議な感覚を持つアルトフォークソングを作り上げている。この曲に登場する「Where Is My Mind?」に近しいスケールの進行は、バンドとしてのロック的な感覚ではなく、ソロシンガーとしての内省的な感覚に置き換えられているようだ。
続いて、バンジョーの音色を生かした「Elephant」が、ほっとするような安堵感をもたらす。 この曲は、Guided By Voicesのようなアメリカの名物的なカレッジロックや、Superchunkの代表曲「1000 Pounds」のようなオルタナティヴロックの源流の音楽を、明朗なカントリーソングとして抽出した一曲である。しかし、懐古主義というわけでもなく、モダンなインディーポップソングの切ないボーカルのフレーズを織り交ぜることによって、この曲は新鮮味溢れる音楽性に置き換えられている。ルノ・プラムの亜流と主流を混在させる作曲の手腕を見出すことが出来る。
その後、アルバムの音楽は、フォークの性質が本格的に強まる。それはやはり現代的なアルトポップソングとの融合という観点で行われる。その中で、「Locket」では、このソングライターの持ち味である幻想的な音楽性を通じて、 憂いに満ちた感覚を表し、切ない感覚を呼び覚ます。この曲では、外側には容易に吐き出せない痛みを、フォークミュージックの癒やしにより優しく包み込もうとする。ゆったりとしたアコースティックギターのストロークの中で、やはり言葉にならない、スキャットの歌唱を織り交ぜ、言語的ではない部分を巧みに表現しようと試みる。そして、この瞬間、何かしら琴線に触れる感覚や切ない感覚を感じとることが出来る。しかし、曲の後半からは、悲しみを乗り越えた先にあるなにかがぼんやりと立ち上ってくる。
その音楽的な気風を受け継ぎ、「Pond」はムードたっぷりの幻想的なフォークソングが紡がれる。音程をぼかしたボーカルがアコースティックギターの伴奏を背景に、夢想的に打ち広がり、そして同じように、サビ/コーラスの直前に、半音階進行を配し、その後に聞かせどころがおとずれる。この時、この曲は、悲しみの向こうにあるロマンスを巧みに体現させるのである。制作者の示そうとするロマンチシズムを垣間見るとき、圧倒されるような崇高な感覚が出て来る。この曲は、じっくりと作り込んだ末に出てきた、必然的な名曲の1つと言えるだろう。
エリオット・スミスのような、2000年代以前のアルトフォークからの影響も全般的には感じられる。しかし、本作はスノビズムの領域から普遍的な場所に落着する。楽曲自体は、ビートルズライクなものも出てくる。さらに言えば、ポール・マッカートニーの楽曲「Dear Prudence」 のような古典的な憂いのあるアルトフォークソングへと傾倒する。これがアルバム全体に、現代的なインディーズアルバムの魅力に加え、何らかの普遍性を添えているように思える。
「Gathering The Pieces」では、やはり現代的なモダンフォークが紡がれ、それはビックシーフやニューヨークのフローリスト、あるいは、このアルバムの影の立役者であるルタロ・ジョーンズ(Lutalo)の音楽と近い場所にある。しかし、それは都会から見た民謡ではなく、とりも直さず、ミネソタのローカルなフォークミュージックを体現させようというのである。この独特な穏やかで牧歌的な空気感や、思春期の時代を思わせるようなアメリカ文学の香りが、このアルバムの全体にある種のムードとして漂い、そして聞き手を魅了してやまないのである。誰しも体験した覚えのある青春期の時代の追憶……、それが、現在の時代の体験と連動するようにして動いていき、いわば、このアルバムのナラティヴの要素ーーストーリーテリングーーを喚起する。
アルバムの最初にはロックタイプの楽曲もあるが、終盤に向けて、音楽自体はどんどん静謐になり、澄んでいき、そして精妙な感覚を持つに至る。これこそがソングライターが自己に触れた瞬間ではないかと推測され、それらは聞き手にとっても何らかの意味や示唆を持ちうるのである。
それを象徴づけるのが、「Quiet One」である。ささやかなアコースティックギター一本による弾き語りであるが、この曲は間違いなく、アスピリンのような効果を発する。心のさざなみを平かにするような瞑想的な効果を持つフォークソングである。あるいは、タイトルの印象とは対象的に、「Darkness」では、どことなく天国的なユートピアの世界が描き出される。しかし、それは、やはり先述したように、ビートルズやポール・マッカートニーの系譜にある古典的なポップソングの手法や、憂いに満ちたアンニュイなフォークソングという形で表側に現れる。 ボーカルの声には影があるが、アトモスフェリックなシンセがそれと対比的な印象を与える。少なくとも、アルバムを聴いたとき、核心に至ったという気持ちにさせてくれるのではないか。
圧倒的なのは、本作の最後に収録されている「Outro(Angel)」である。この曲は、フォークソングの名曲といっても差し支えないかもしれない。憂いや悲しみの向こうに何が浮かびあがるのか、実際に聴いて確かめてみてもらいたい。ルノ・プラムが「Golden Hour〜」と巧みに歌い上げる時、美しい雫のようなものがこぼれおち、遠くからの夕焼けの向こうに淡く美しい光が滲む。
94/100
「Outro(Angel)」
▪️Runo Plum 『patching』は本日、Winspearより発売されました。ストリーミングはこちら。






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