ラベル Art の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル Art の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

 東京・原宿を拠点とするオークションハウス NEW AUCTIONは、2025年2月1日(土)に第8回目となる公開型オークション「NEW 008」を開催いたします。

 

この度は、マリリン・ミンターの「Up Close」と題された写真シリーズや、ヨハネス・イッテンのコラージュ、ルース・ルートのアルミニウムの上に重ねられた大胆な色彩の作品など形と色の関係に特徴のある作家、もの派の菅 木志雄や小清水 漸 、高松 次郎 のシャドーシリーズなど時代や表現方法を超えた様々な作品が取り揃いました。

 

今回ご紹介できる作品は、すでに作者の手を離れたものなので、それぞれの作品にどのような意図がありどのような想いで制作されたのか全てをお伝えする事ができませんができる限り作品の魅力が伝わるようにラインナップを組みました。静かに作品の声に耳を傾けながら、想像を膨らませていくことは何ものにも変えられない喜びです。是非この機会にご鑑賞いただけましたら幸いです。

 

渋谷MIYASHITA PARKにある「SAI」にて開催されるオークションプレビューでは、全ての出品作品を実際にご鑑賞いただけます。 また、今回のオークションは、プレビューと同じく「SAI」にて開催いたします。皆様のご来場、ご参加を心よりお待ち申し上げております。

 

 

 ●主な出品作品

 
Joseph Beuys(ヨーゼフ・ボイス)/ Mike Kelley(マイク・ケリー)/ Marilyn Minter(マリリン・ミンター)/ Johannes Itten(ヨハネス・イッテン)/ Edward Ruscha(エド・ルシェ)/ Ellsworth KELLY(エルズワース・ケリー)/ Robert Mapplethorpe(ロバート・メイプルソープ)/ Austin Lee(オースティン・リー)/ 高松 次郎/ 井上 有一/ 奈良 美智 / 宮島 達男 / 土屋 仁応  / 岡崎 和郎 / 今井 麗 /友沢 こたお / 上田 義彦 / 小清水 漸 etc...

 

 

 ●オークション情報

 
「NEW 008」
プレビュー
会期:2025年1月25日(土) - 1月31日(金)
時間:11:00 - 20:00
(最終日のみ17:00まで)
会場:SAI
住所:〒150-0001 東京都渋谷区神宮前 6-20-10RAYARD MIYASHITA PARK South 3F
 
オークション
会期:2025年2月1日(土)
時間:START 13:00 -(OPEN 12:30-)
会場:SAI
住所:〒150-0001 東京都渋谷区神宮前 6-20-10RAYARD MIYASHITA PARK South 3F

 

 

 

TAKAMATSU Jiro, ブラシの影 No.182, 1967, oil on wood, wall hook

 1960年代に「山手線事件」(1962年)や「首都圏清掃整理促進運動」(1964年)など、芸術を通して社会に対する「直接行動」を体現した前衛芸術集団ハイレッドセンターのメンバーの一人として広く知られる高松 次郎(1936-1998)。

 

個人名義で制作活動をしてきた高松は、絵画や立体作品、版画や写真など多岐にわたる媒体で作品を発表してきた。その作風には、存在といった全体像を捉えることが難しい〈空虚を充満した事物〉に対して徹底的な問いかけを行ってきた主知性のある姿勢が一貫して強く見受けられる。
 
高松は、1964年より「不在/存在」をテーマに〈影〉シリーズを作り始める。本作品《ブラシの影 No.182》は1967年に制作された絵画である。表面に取り付けられた実物のフックから伸びるようにブラシの影のみが描写されている。

 

2つの光源により壁に映し出された画面上には存在しないブラシの影をキャンヴァスへと描写することで、実在そのものを見なくとも2次元の影からその姿を想起させる。「見ることの曖昧さ」を逆手にとることで、実在に対する不信感を問いかけるのである。


KOSHIMIZU Susumu, レリーフ ‘91-17, 1991, pigment on carved wood panel


戦後華々しい高度経済成長を遂げた日本産業であったが、その一方で、1960 年代には大気汚染や水質汚染といった公害が影を落としていた。

 

〈モノ派〉は、そんな西洋主義的成長へと傾倒していく時流に対し疑問を呈するかのように、未加工の物質や物体を主役として作中に登場させることで、モノを越えたところに潜む存在の開示を追求した芸術傾向である。関根 伸夫の《位相 - 大地》(1968 年)を契機に、当時の多摩美術大学の学生数名と李禹煥らを巻き込みながら、各々の芸術実践を通して展開されていった。

 
当時、多摩美術大学彫刻科の学生であり、同現象を起こした主要メンバーの一人であった小清水 漸(1944-)も、関根の《位相 - 大地》に触発されるかのように、日本文化固有の自然観を根底に、木や石、紙、土、鉄といった素材との協働関係を通して、創作行為を行なっていく。

 

また、人間の自然的性質(素材との関わり方)へと着目し、鉄であれば磨く、木であれば削るといった加工方法を通してその関係性を露出させる。しかし、その加工前と後を経ても、素材であるモノの本質はなんら変わりはないのである。その代表的な作品には、《垂線》(1969 年)、《かみ》(1969 年)、《鉄 I》(1970 年)、〈表面から表面へ〉シリーズなどがある。
 
 

本作品《レリーフ ʻ91-17》は、小清水が 70 年代後期より取り組み始めた木彫レリーフシリーズの一環で、1991 年に制作された。木の表面に広がる筆の点をイメージさせる彫りと鮮やかな緑青の視覚的な盛り上がりを表現した塗りが施されている。

 

絵画にも彫刻にも定義されないミディアム上に、双方の加工方法を用いることで、視覚的遊びが取り入れられている。小清水は、素材の保持する不変的本質を明らかにすることで、自身が 70 年代より探究し続ける揺るぎない実践を顕現するのである。

 


TSUCHIYA Yoshimasa, 鵺, 2021, painted camphor wood, labradorite, with original box



神奈川県に生まれた土屋仁応(1977-)は、東京藝術大学彫刻科を卒業後、同大学院で保存修復彫刻を学んだ。学生時代に拝んだ滋賀県渡岸寺の十一面観音に感銘を受け、仏像制作で目にあたる部分に水晶やガラスを嵌め込む〈玉眼〉の技法を用いて独自の木彫を展開していく。元来、玉眼に用いられる水晶は別の工人によって作られてきた。

 

土屋の木彫でも、目にあたる素材の制作は、ガラス作家の田中福男氏が担当する。伝統的な仏像とは対照的に、土屋の木彫は、形の持たない感情や想念といった存在を動物や幻獣といったシンボル的モチーフへと投影するかのように具現している。


 
本作品のモチーフである《鵺》は、日本に伝わる伝説上の妖怪を指す。『平家物語』にも登場し、仁平時代、天皇が不吉な黒い雲に怯えることから、源頼政に黒雲退治を命じたところ、中に怪しい姿を見つけ矢を放つと、猿の頭、狸の胴体、蛇の尾、虎の手足をした化け物が落ちてきた、という伝えが記録されている。

 

得体の知れない存在は、不吉や不安の象徴であった。本作は、2021 年に高島屋で開催された作家の個展「鵺ー土屋仁応展」の表題になった作品である。コロナ渦中に開催された同展は、未曾有の状況下で、目に見えない不安が姿形を宿したかのように時代を象徴している。


鵺のその静謐とした佇まいは、不安に怯える我々と対比するかのようであり、人智を超えた状況の中で、超自然的な〈カミ〉的存在を想定する人間的本質を示唆するのである。

 


Marilyn MINTER, Bad Habit, 2017, dye sublimation print

 

ニューヨークを拠点とするアメリカのビジュアル・アーティスト、マリリン・ミンター(1948-)は、セクシュアリティとエロティシズムに焦点を当てた写真作品で広く知られている。ミンターは、セクシュアリティを取り入れた作品で当初から物議を醸しており、女性のセクシュアリティから目を背け避けるのではなく、むしろ擁護する姿勢を示してきた。彼女にとって、女性の快楽や欲望を探求することは、女性アーティストが求められるとされる芸術作品の枠組みに対する反抗だった。

 

2000年代には、ミンターの作品にグラマー要素が加わり、官能性がさらに顕著に表現されるようになる。作家は撮影後にデジタル加工を一切行わず、フィルムで撮影することでイメージの「生の部分」を残している。また、撮影後に写真をトリミングすることなく、綿密なイメージ構成を体現している。このように、細部に至るまで驚くほど注意を払うことで、人目を引く作品を創り出す。


 
本作品は、絵画シリーズと並行して制作されている写真シリーズ「Up Close」の一作である。本シリーズは2000年から始まり、ペディキュアで塗られた足先、布からはみ出した乳首、華やかに彩られたまぶたや唇など、性的魅力の細部を探求している。ミンターは、社会における男女間のセクシュアリティに対するダブルスタンダードを声高に批判しており、本作品のタイトル《Bad Habit》も、女性のセクシュアリティが男性のそれよりも二次的と見なされる問題を皮肉ったものだと考えられる。快楽は反抗の行為であり、こうした個人的な性的充足の瞬間こそ、女性が家父長制的な権威を覆す手段となり得るかもしれない。

 

 

 ●ABOUT NEW AUCTION   

 

/ INTRODUCTION 


2021年6月、東京の文化発信地である原宿を拠点に新たなアートオークションハウス「NEW AUCTION」がスタートしました。私たちは従来のアートオークションという枠組みに縛られることなく、新しい体験、新しい価値観を提供することを目的とし、オークションの可能性を、原宿から世界に向けて拡張していきます。


/APPROACH

 

NEW AUCTIONでは、またアートマーケットの持続的な循環を促すための「アーティスト還元金」 の仕組みを導入している日本唯一のオークションハウスになります。 ご落札された作品の著作権者に対してアーティスト還元金を独自にお支払いすることで、 NEW AUCTIONを通じた取引が少しでもアーティストの支援に繋がることを目指します。NEW AUCTIONでは、国内外の様々なコレクターやギャラリー、ディーラーと独自のネットワークを構築すると同時に ファッション、カルチャー、建築、食、インフルエンサーなど業界を超えたチームとの連携を積極的に取り入れ、作品を最大限にプロモーションいたします。

 

 

1.土門拳のフォトグラフィーの精神 

 

土門拳は、近代日本の最高峰の写真家である。現在は、彼の功績に因み、優れた報道写真を表彰する毎日新聞社主催の「土門拳賞」が設けられている。彼は、昭和時代にかけて、様々な写真を撮影した。土門の写真は単なる写真とは言いがたく、それ自体が芸術作品のような意味を持つ。大別すると、彼は三度作風を変更した。最初期はジャーナリズム、中期は肖像写真、そして、最晩年は仏像や寺を始めとする日本の美というように、年代ごとに主題を変更した。最初期は、浅草の風物、占領後の東京の風景、南京陥落時の東京、海軍の訓練風景、とりわけ、映画文化が隆盛を極めた浅草六区の写真等が有名である。名文家としても知られ、朝日カメラ、日本経済新聞の名物コラム「私の履歴書」にエッセイを寄稿した。また、日本工房に入社後、早稲田大学と東京女子高等師範学校の卒業アルバムの写真を名取洋之助とともに担当した。

 

カメラマンという職業がプロとして認知されていなかった当時の日本において、職業的な地位を引き上げた功績はあまりにも大きい。土門は、当初、カメラマンになりたての頃、ライカとローライを使用し、写真を撮影していた。また、カメラの構え方にも独特な名称が付与され、土門の「上段構え」は有名である。さらに、強面の風貌から「鬼の土門」とも称されることがあった。晩年は、車椅子暮らしになり、撮影の機会は減少したが、変わらぬ撮影意欲と表現精神を貫いた。

 

当初、ジャーナリスティックな写真を撮影していた。しかし、最も重要視すべきは、市民生活の風景をリアリズムの観点から撮影していたということである。彼の写真のアンソロジーはそのまま近代日本の歩みを意味するといっても過言ではない。現代の芸術家の大半が空想主義に逃避し、現実を反映させることを忌避しているが、少なくとも土門がシャッターを切ったとき、そこにリアリズムが生み出され、普遍的な写真が生み出された。それは彼の考えの中に、”現実をそのまま映す”というものがあったからである。土門拳は生前、”非演出の尊さ”について力説している。脚色をほどこすことは、現実を歪める行為であり、報道写真家として、それは現実を写していないということになる。そのことを土門拳は弁別していた。彼は偽りを嫌い、本当を愛した。

 

 

近藤勇と鞍馬天狗(江東区で撮影 昭和30年)


しかし、動乱の時代が、彼の作風を変化させたのは言うまでもない。当初は東京の下町の風景、一般的な通俗ーーそれは人間の魅力や友情、地域の絆という考えにまで敷衍することもあったーーを写真として切り取りながら、 プロカメラマンとしての腕を磨いていった。彼は、報道写真が社会的な影響力を強める中、取材をしながら写真を映すというジャーナリスティックな性質を強めていった。土門拳は、1934年頃から、朝日、日日(大阪)、読売、報知等、有力紙の取材写真を担当した。当時について、土門は、『写真文化』の昭和18年の3月号で振り返った。「昭和9年(1934年)から10年にわたって、各新聞では、毎週一回、「写真ニュース」、「日曜セクション」といった新聞的なニュース以外の題材を求め、各社とも企画を練って競争していた。・・・中略・・・、また、ライカをはじめとする小型カメラの普及は撮影上の革新をもたらした。今や日本の報道写真はようやく前期的な形で展開しつつあった」

 

第二次世界大戦前の日中戦争を通じて、アジア全体に勢力を強めつつあった日本の姿を政治的な視点から捉え、南京陥落、出征の様子をレンズで捉えた。その中では「婦人画報」の特集のため、当時の外務大臣を務めていた宇垣一成大将を撮影する機会にも恵まれた。1938年頃、すでに宣伝や権威付けのための写真ーー世の中は明らかに宣伝的なプロパガンダを必要としていたーーを撮影した。しかし、この象徴的な写真が横浜からアメリカへと輸出され、「LIFE」の9月5日号に掲載された時、盟友であった名取洋之助と完全に決裂することになった。

 

だが、こういった権威的な写真だけが土門拳の地位を高めたとは言いがたい。彼のリアリズムの考えとは民衆のそのままの生活をネガに収めるというものだった。特に、土門は地方に取材にでかけ、筑豊炭田の農民の暮らしを撮影した。これは民族的な記録という重要な資料となったのみならず、農村部の生活の魅力と悲惨さという対極的な二つのリアリズムを克明に表現したのであった。

 

日本経済新聞の昭和52年(1977年)12月号に掲載された名物コラム「私の履歴書」において、土門拳は次のように寄稿している。「筑豊の撮影は、はじめからぼくが考えていたわけではない。パトリア書店の編集者が来て、炭鉱の休業つづきで、数千数万もの炭鉱に働く労働者みんなが失業してしまった。本人はもとより、その家族も含めて、大変な生活苦になやんでいる。その悲惨さをぼくに撮れというのだ。その悲惨な状況を撮ることによって、社会に訴え、炭鉱の失業労働者を、少しでも助けることができないものか、というのだった」「それを聞いて、ぼくは奮起した。旅費を預かると、すぐさま用意して九州に飛んだ。九州の炭田地帯は福岡県に多かった。そして失業者の苦しみは、福岡全県に広がっていた。ぼくは、県の中央を流れる遠賈川一体の田園地帯で、失業者の充満している町々を、次から次へと撮ってまわった」

 

表向きには表れ出ない市井の人々の暮らしをカメラにひとつずつ丹念に収めていく。こういった土門の写真に対する精神は、「筑豊のこどもたち」 と題された写真集に明瞭に滲み出ている。


戦前の時代の写真については、文楽といった個人的な好みを題材にした作品や、子供や農民の暮らしにフォーカスした写真を多く撮影した。確かに、都市部とは異なる農村部の厳しい暮らしも撮影したが、他方、土門の写真に一般的な庶民に対する慈しみの眼差しが注がれているように思えてならない。彼の写真は静かなものから動きのあるものに至るまで、端的に主題が絞られており、脚色のないあるがままの一般市民の生活を捉えようという精神が見事に宿っていた。

 

 

 

2. 戦後の動乱の時代  戦後とヒロシマ リアリズムの確立


原爆ドーム
 

昭和20年(1945年)、8月15日の終戦後、土門拳はフリーカメラマンになった。数々の組織や団体が解体される中、彼は独立カメラマンとしての道を歩む。土門は、当時、自宅を構えていた築地の明石町の自宅で進駐軍を相手にDPE(宅配の写真プリント)を開始した。一般的なカメラマンとは異なり、彼は銀座などの繁華街を中心に、市民生活が立ち直っていく様子をスナップに収めた。戦時中、土門拳は、プロパガンダのための宣伝写真を撮影していたこともあってか、その反省をもとに、より現実的な写真を撮影し、リアリズム主義を標榜しながら力強い活動を続けた。カメラマンとしての評価は高まり、1946年頃から、雑誌の仕事が増えてきた。そんな中、カメラ雑誌「フォトアート」の審査員としても活動し、誌上でアマチュア写真家にリアリズム写真を志すことをすすめた。カメラブームも相まって、全国で土門ブームが発生した。

 

彼は強固なジャーナリスト精神を発揮した。しかし、従前とは異なり、現実主義の写真を撮影しつづけた。彼の写真は、社会問題を提起する力があり、同時に、感覚に訴えかけるものがある。この時代には、ヒロシマの原爆ドーム、被爆した家族を撮影し、筑豊炭田の農村にでかけ、取材写真を撮影するなど、「社会派の土門」という印象を確立した。特に、被爆した家族の写真は、痛切な現実を生々しく捉え、写真そのものから戦争の悲惨さを伝えるものであった。


山形美術館学芸館長のおかべのぶゆき氏は次のように綴っている。「土門はこの頃、写真家は、対象の典型的なものを捉えようとする。対象の典型的なものは、対象の内部にひそむ。それはより正確に言えば、対象を対象たらしめている人間的な意味である。それを写真家は頭で考えるのではなしに、目で見なければならない」

 

特に、土門がこの時代にヒロシマの写真を多く撮影している。週刊誌のグラビア取材のため、広島を訪れた土門は、 その現実に驚愕し、1957年の7月から11月にかけて、何度もこの地を訪れ、7800コマ以上の撮影を行った。撮影の経緯、取材状況、社会の不条理に対する土門の痛切な思いが「広島ノート」として写真集に収められている。また、このことに関して、大江健三郎は「新潮」(1960年2月号)で「土門拳のヒロシマ」という文章を寄稿している。土門は最初に「週刊新潮」の取材でヒロシマを訪れたときのことをこのように振り返っている。

 

「ぼくは、広島に行って、驚いた。これはいけないと狼狽した。 ぼくなどは”ヒロシマ”を忘れていた。というよりはじめから何も知ってはいなかったのだ。今日もなお「ヒロシマ」は生きていた。それをぼくたちは知らなすぎた。いや、正確には、知らされなさすぎた」 


土門は現地の現状のリアルが報道されないことに対して、義憤のようなものを感じ、それをスナップに収めようとしたのだった。

 

原爆後遺症に苦しむ患者や家族の写真を収めた土門拳の写真集「ヒロシマ」は1958年に刊行された。土門のこの時代の写真は、単一のスクエアに映し出されたものではない。彼の写真は、記憶の代わりを果たし、この時代の痛切な現実を広く伝えようとしていたのである。また、彼が特にヒロシマに力を入れたのは、戦前の時代にプロパガンダ写真を撮影していたこともある。少なくとも、彼は自らの写真に関し、何らかの哀切な思いに駆られたのは想像に難くない。

 

 

 


3.肖像写真  文化人を記憶として残す

久我美子と小津安二郎

土門拳は、報道写真とならんで、文化人のポートレイトも多数撮影した。文学者、俳優、画家、芸術家、民俗学者に至るまで、信じがたいほど多くの文化人の撮影を行った。谷崎潤一郎、川端康成、志賀直哉、柳田國男といった文豪や研究者、梅原龍三郎、上村松園、岡本太郎、藤田嗣治といった著名な画家、九代目の市川海老蔵、中村梅玉、水谷八重子、森繁久彌といった歌舞伎役者や俳優、小津安二郎、三島由紀夫、久我美子といった映画監督やスターを撮影した。


土門は、日本の各業界の象徴的な人物を撮影し、一つの文化の潮流を捉えようとしたのであろうか。そして、推察するところでは、もしかする土門拳は有名人に憧れるような一面があったかもしれない。土門拳は平生から撮影したい人物の名を襖や墨紙に記しておき、それを室内に貼り付けていた。構想に十年を要したこれらのポートレイト集は、1953年に『風貌』として出版された。この写真集には、83点、総勢85名のそうそうたる文化人の写真が収録されている。

 

ところが、いかに土門拳とは言え、写真撮影に苦労したこともあった。 中でも、写真嫌いの梅原龍三郎の撮影には苦心し、撮影中に梅原の口がわなわなと震え始め、撮影が終わると、座っていた籐椅子を床に叩きつけた。これを期に、土門は、演出的な写真を撮影していたことを顧みるようになる。しかし、当時の肖像写真は相当な評価を獲得した。高村光太郎は土門の写真について次のように評した。「土門拳はぶきみである。土門拳のレンズは人物や物の底まであばく」  土門はその人物の典型的な表情が現れる瞬間を待って、シャッターを切った。しかし、『風貌』に見いだせる土門自身の文章には、一般的な考えよりも奥深い考えが宿っている。

 

「気力は眼に出る。生活は顔色に出る。教養は声に出る。しかし、悲しいかな、声は写真のモチーフにはならない。撮影で瞬間の表情にこだわるのは馬鹿げている。人間は誰でも笑ったり、泣いたりする」

 

「撮らせよう撮ろうという、いわば自由契約の関係で出来るのが肖像写真である。 だから撮られる人は始めから余所行きである。しかし、撮られている人に、撮られているということを全然意識させない肖像写真こそ、今後最大の課題である。つまり、絶対非演出のスナップ写真こそ、今後の課題である」

 

彼は撮影に苦労するほど、良い写真が撮れるとも述べている。それは人物のあるがままをリアルに写せる可能性が高いからなのだろうか。「玄関払いを食らわせるような手強い相手ほど、かえっていい写真が撮れる。玄関払いを食らったら、写真家は勇躍すべきである」 また、実際的な良質なポートレイトを撮影するための秘訣についても説明している。「ライティングは強調と省略の手段である。ロー・アングルはモチーフを抽象する。ハイ・アングルはモチーフを説明する。ピントは瞳にーーーー、絞りは絞れるだけ絞り、シャッターは早く切れるだけ切る」


 


4.古寺、仏像、そして風景  室生寺の主題から見るリアリティ

室生寺


やがて、土門拳の写真にも、再び変革期が訪れた。彼は探したのは、ーー真実の中の真実ーーリアリズムの精華ーーである。


彼は心を落ち着かせる写真を撮影するようになった。戦前から土門は、文楽などの日本の伝統芸能に興味をいだき、それを撮影することもあったが、いよいよ、彼の写真は、仏像、古刹、日本の原初的な風景を映し出すうち、「古寺巡礼」で集大成を迎えた。戦後の報道写真には、心を揺さぶられるものが多く、眺めているだけで涙が浮かんでくるものもある。しかし、写真の大家は、おだやかで瞑想的な境地を目指した。扇動的なものを避けて、写真自体を崇高な芸術的な領域に引き上げ、そして、実の写真に相対した時、無我の境地に至らせるものである。ここに、土門の''究極のリアリズム''が誕生したと言える。彼は、写真の奥深い魅力、現実をどのように反映させるのか、というこれまでにはなかった視点を創り出すことに成功したのである。

 

写真というのは、そのときにしか撮影出来ないスナップショットというのがある。それは偶然の要素が強く、天候や時期、その日の状況によって大きく左右される。プロのカメラマンは、もちろん、技術的な撮影技術と合わせて、偶然の要素をうまく味方につけ、素晴らしい写真を撮影するものである。そしてまた、何度も足を現地に運ばなくては、撮影出来ないショットが存在する。特に、土門がライフワークに据えたのは、奈良にある室生寺の撮影であった。1939年に室生寺を訪れたあと、彼は幾度となくこの古刹に足を運んだ。1959年、土門は、脳出血の後遺症によって、35ミリカメラを扱えなくなってから、集大成「古寺巡礼」のアイディアを練り始めた。彼は小学館から平成3年に刊行された「日本の仏像」の中で次のように回想している。

 

「仏像とぼくの初めての出会いは、奈良の室生寺である。前夜、室生寺の向かいに宿をとったぼくは2階の手すりに腰をおろして、まだ見ぬ仏像に思いを馳せながら、寺の堂塔を睨んでいた。翌早朝、清流にかかる太鼓橋を渡り、室生寺に入った。室生寺は杉の大木に囲まれた伽藍も神秘的だったが、堂内の仏像に対峙したとき、ぼくはハッと目を開かれた思いがしたのを、今もって憶えている。ぼくの、そして日本人の遠い先祖にめぐりあったような気がしたのである」


「それから30年、写真集『古寺巡礼』第四集にいたるまでに、いったい何体の仏像を撮影したことだろう。こわい顔をしたのもある。微笑んでいるのやら、おつにすました仏像もある。ぼくにとって、仏像の顔を思いかえすのは、恋人の顔を思い浮かべるようなものである。『土門さんはずいぶんたくさんの恋人がいるんですね』といわれても、ぼくは甘んじて受け入れる。ぼくの撮ったすべての仏像が仏像巡礼中に出会った素敵な恋人たちである。なんとも幸福なことではないか」


仏像や焼き物、そして日本の風景など、土門が後年になって撮影した写真の多くは、その端的な写真芸術としての素晴らしさだけが美点ではない。彼の積み上げてきた技術や感覚が、彼自身の慈しみの眼差しを通じて写真に収められていることが分かる。それがゆえ、土門の映し出す法隆寺、唐招提寺の本尊の姿はたとえ、おそろしげな形相をしていたとしても慈しみのある面持ちをしている。それは彼自身の視点が慈しみをもっていたからであろう。後年、土門拳は車椅子生活を余儀なくされたが、写真の撮影をつづけた。「仏像も建築も自分の写される視点を持っていると思うのである」と、土門は『古寺巡礼』で胸中を綴っている。

 

「ぼくは被写体に対峙し、ぼくの視点から相手をにらみつける。そして、ときには、語りかけながら被写体がぼくをにらみつけてくる視点を探る。そして、火花が散るというか、二つの視点がぶつかったときが、シャッターチャンスである。ーー中略ーー、強がりを言って居直っているが、たしかに車椅子からみるのは不自由なことである。足で歩き、瞬時の隙ものがさずに捉えていく。これがまっとうな撮影であるにはちがいない。しかしながら、半身不自由の身になったいま、もうそれはかなわないことである。ぼくは、自身の視点を信じ、被写体の視線をさぐって車椅子を前に押させる。さらに視点が低くなり、左足が体を支えきれなくなったとしても、ぼくの眼が相手の視点を捉えられる限り、ぼくは写真を撮るのである」


土門拳は、かねてから雪の室生寺を撮影したかったが、あいにく天候に恵まれなかった。それが2冊目の室生寺の写真集をカラーで出そうとしたとき、ついにその悲願が実現した。土門は病院で一ヶ月待機をしてから、雪の室生寺を撮影した。写真家にとっての冥利とは、すべて美しいものを撮り終えたという思いにあるのではないか。彼は、雪の室生寺を石段の下から撮影した後、二度と室生寺を訪れなかった。それは、これ以上美しい室生寺を撮影出来ないと考えたからなのか。実際的に後年の平等院鳳凰堂や法隆寺の写真と並び、土門拳の最高傑作とも言えるだろう。晩年の土門の写真は間違いなく、写真という枠組みを超越し、絵画の世界に近づいていた。


参考: 『土門拳の昭和』Creviisより刊行

スティーヴ・ジャンセンによる個展「The Space Between」がNEWにて開催

 

 1980年代初頭、絶大な人気を誇ったイギリスのバンド、Japanのドラマーとして知られるスティーヴ・ジャンセンは、写真家としても活動しており、これまでに数多くの作品を撮影してきました。1981年にPARCOで日本初の展覧会を開催して以来、KYOTOGRAPHIEに続く3回目となる本展覧会では、2022年秋にジャンセンが来日して撮影した作品群が、NEWの空間を埋め尽くします。

 

 東京都心の建物が乱雑に並ぶ不規則な建築構造からインスピレーションを得て、「レジステンシャリズム」というテーマが浮かんだ本展覧会。本テーマは、無機物が人間に対して陰謀を企てているというユーモラスな考察で、無機質な物体がまるで悪意や敵意を持っているかのように感じさせる錯覚を引き起こします。本質的に、私たちがしていることは自分自身を映し出す鏡を掲げているに過ぎませんが、ジャンセンはその視点から、都市空間における人々の営みを俯瞰することを問いかけます。


 見えないように捨てられたゴミ、閉ざされた出入り口に何枚も貼られたステッカー、建物の隙間から影のように見えるパイプやケーブル、ワイヤーなど、これらの物体はもはや都市に貢献する目的を果たしていないかのように見えますが、それでも「待機」しているようにも感じられます。人の出入りができなくなった建物の外側は常に風雨にさらされ、自然の力によって腐敗や雑草の成長が進行します。さらに、街を行く人々の頭上に絡み合う電線を覗き込むカラスは、私たちの視界の外に落ちているゴミを狙っています。


 レストランやバー、ショップが立ち並び、刺激的な光や音、匂いが強くなればなるほど、都市の影はより濃く深まっていくようです。本展覧会の一環として制作されたオーディオ・インスタレーションには、東京都心を想起させる雑音、足音、金属音、ゴロゴロとした音、ビルの隙間や地下に響く残響音が含まれており、これらの音が都市の風景に影を落とすかのようにメロディーとリズムを構築します。もし私たちが無機物の視点に立つならば、人々が忙しく動き回る様子を静かに、そして永遠に観察できるのではないでしょうか。



 全て新作で構成される本展では、音の風景と断片化された都市のイメージが想像力を掻き立て、東京の建築物の間にある隙間に気づき、立ち止まることを促します。与えられた記号を失い自由を得た素材が、都市生活の視覚的・音響的な物語を紡ぎ出し、スクリーンや音響を通じて浮かび上がらせる「その隙間」である日常の影を目の当たりにする体験は、私たちが生きる現実の本質を模倣しているかのようです。

 

 作品とじっくり向き合える空間が構築されるとともに、展示作品やオーディオ付きポストカード、Tシャツも販売されます。世界中の都市を巡るジャンセンだからこそ表現できる、都市風景への鋭い解釈が反映された無機物が奏でる有機的なスティーヴ・ジャンセンの世界をぜひご体感ください。

 

 

・ 展覧会情報  Steve Jansen solo exhibition “The Space Between”

会期 : 2025 年 1 月 10 日(金)~1 月 23 日(木)
休廊日 : 2025 年 1 月 12 日(日)、1 月 19 日(日)
開廊時間 : 12:00 - 19:00
会場 : NEW
住所 : 〒150-0001 東京都渋谷区神宮前 5 丁目 9-15 B1F
電話 : 03-6419-7577


メール : 

info@newwwauction.com
Instagram : @newwwauction


高名なシンガーソングライター、スフィアン・スティーブスの新作ミュージカル『イリノーズ』は、ニューヨークのパーク・アヴェニュー・アーモリーとシカゴ・シェイクスピア・シアターでのソールドアウト公演を経て、4月24日にニューヨークのセント・ジェームズ・シアターで幕を開ける。


このショーは、スティーヴンスにとって5枚目のスタジオLPとなる2005年のコンセプト・アルバム『Illinoise』(別名『Sufjan Stevens Invites You to: Come on Feel the Illinoise』)の収録曲で構成されている。


演出・振付はトニー賞受賞のジャスティン・ペック(『回転木馬』、『ウエスト・サイド物語』)が手がけ、ペックとピューリッツァー賞受賞の劇作家ジャッキー・シブルス・ドーリー(『フェアビュー』、『マリーズ・シーコール』)によるオリジナルストーリーが展開される。


イリノアイズのキャストは以下の通り。イェセニア・アヤラ(映画『ウエスト・サイド物語』)、カーラ・チャン(トワイラ・サープ・ダンス)、ベン・クック(映画『ウエスト・サイド物語』)、ギャビー・ディアス(『ソー・ユー・シンク・ユー・キャン・ダンス』優勝者、マエストロ)、ジャネーテ・デルガド(マイアミ・シティ・バレエ)、カルロス・ファル(映画『ウエスト・サイド物語』)、クリスティン・フローレス(ダンス・ヘギンボッサム)、ジェイダ・ジャーマン(トワイラ・サープ・ダンス)、ザカリー・ゴンダー(リリック・オペラ『カルメン』)など。


本公演のヴォーカリストとバンドは近日中に発表される。最初の発表によると、この公演は、"スティーブンスのアルバム全曲に、作曲家、ピアニスト、スティーブンスと頻繁にコラボレートしているティモ・アンドレスによる新しいアレンジを加え、DIYフォーク、インディーロックからマーチングバンド、アンビエント・エレクトロニクスまで幅広いスタイルで、11人のバンドと3人のヴォーカリストによる生演奏で、オリジナルストーリーに命を吹き込む"。


"ブロードウェイのセント・ジェームス・シアターでイリノーズを上演できることをとても嬉しく思っています。このプロジェクトは20年近く私の頭の中で反芻されてきたもので、この瞬間はより崇高なものになりました。「フィッシャー・センター・アット・バード、シカゴ・シェイクスピア・シアター、パーク・アヴェニュー・アーモリーでの上演を通して、観客の反応は並々ならぬものでした。


ペックはこの舞台を、"キャンプファイヤーの語りから宇宙の果てまで、アメリカのハートランドを旅する青春物語であり、音楽、ダンス、演劇のユニークな融合で観客を魅了する "と説明した。私のチームを代表して、私たちはこの貴重な機会を心から歓迎します」


 劇作家のシブリーズ・ドルーリーは、「このショーの構成に携わる各アーティストの技術をサポートすることは、喜びであり、インスピレーションでした。私にとって『イリノアイズ』を特別なものにしているのは、素晴らしいパフォーマーたちが観客と一体となり、感情やつながりを両手を広げて歓迎することです。公共スペースで、本質的なレベルで感動的な体験をすることはめったにないことなので、『イリノワーズ』をセント・ジェームス・オン・ブロードウェイで上演できることを、私たち全員が信じられないほど嬉しく思っています」


このミュージカルは8月10日まで上演予定。このショーは、オーリン・ウルフ、ジョン・スタイルズ、デヴィッド・ビンダーがシービューと共同でブロードウェイ用にプロデュースし、ネイト・コッチが製作総指揮、トーマス・O・クリーグスマンとフィッシャー・センター・アット・バードが共同プロデュースする。


スフィアン・スティーヴンスは2023年に2台のピアノのためのバレエ音楽『Reflections』をリリースしています。その後、ソロアルバム『Jevelin』をリリースしました。アルバムのレビューはコチラ

バウハウス  ‐ウォルター・グロピウスがもたらした新しい概念  Art Into Industry-

 

 

20世紀以前の芸術運動は、ロマン主義が主流だったが、以後の時代になると、前衛主義が出てくる。シュールレアリズムは、最初にロマン的表現に対する反動の意味を持ち、芸術運動の一角を担った。これはクラシックなどの音楽や文学の流れと非常に密接な関わりを持っている。


アンドレ・ブルトンが提唱したシュールレアリズムの影響は、表面的な芸術性にとどまらず、深層意識にある目に映らない概念性をテーマに置くように芸術運動全般に促す。この動きと関連して、ドイツのヘルマン・ヘッセも戦後、以前のロマン主義の表現に見切りを付け、文学活動の一環として象徴主義/シンボリズムの影響を取り入れるようになった。以後のドイツ/オーストリア圏の作家はこぞって、これらの意識下の領域に属する奇妙な表現性を追求していく。すべての表現媒体はすべてどこかで繋がっており、互いに影響を及ぼさずにはいられないのである。

 

フランスのシュールレアリズムの動きと時を同じくして、ドイツから合理主義的なアートの潮流が出現する。つまり、それが今回ご紹介するバウハウスを中心とする「前衛主義」である。中世のヨーロッパの芸術活動は基本的に、宗教画と併行して、市井に生きる人々(時代の流れとともに、貴族や特権階級から一般的な階級へと画家の興味やテーマは移行していく)をモデルやテーマにしていた。(フランスの近代抽象主義、モンパルナスの画家の作品を参照のこと)しかし、芸術運動はいつも新しいなにかに塗り替えられ、古いものは一新され、それらの常識は以後通用しなくなった。ワシリー・カンディンスキーを筆頭に、東欧圏の芸術家は、図形、あるいは幾何学的なフォルムを作風の中に大胆に取り入れ、WW2の以前の時代に新たな気風を呼び込んだ。東欧圏の芸術家たちは、より図形的でパターン的なアートの手法をもたらした。


一般的に見ると、中世絵画は、画商やパトロンのために美しいものや崇高なものを描くのが主流だったが、前衛主義の画家たちは、美という概念のコモンセンスを覆し、実用性と革新性を追求していく。これはフランスのマルセル・デュシャンの芸術主義とも無関係ではないが、前衛主義のアーティストたちは、絵画を「デザイン的なもの」として解釈しようと試みる。その中で出てきたのが「バウハウス宣言」という大々的なキャッチコピーである。これらの合理主義に根ざした概念は建築学にも受け継がれ、ル・コルビジュエの建築に深い影響を及ぼすに至る。

 

 

Bauhaus  社会階級の壁を乗り越える新たなマイスター制度

 



バウハウスは、20世紀初頭、ドイツの芸術専門学校として創設された。ウォルター・グロピウスにより設立されたこの学校を中心として、最終的には建築とデザインに対するユニークなアプローチを特徴とする現代美術運動へと発展していく。1919年、ウォルター・グロピウスは、リベラルアーツの分野を一つの屋根の下に統合するというコンセプトを込め、バウハウス(正式名称: Staalitches Bauhaus)を設立した。バウハウスの学生からは、ヨーゼフ・アルバース、ワシリー・カンディンスキー、パウル・クレーなど多くの偉大な芸術家が輩出された。この芸術学校は、ワイマール(1919-1925)、デッセウ(1925-1932)、ベルリン(1932-1933)と3つの都市に開校した。専門学校のマークとしてもシンボリックなデザインが取り入れられ、これがバウハウスの主要なイメージを形作っていることは言うまでもない。

 

バウハウスの創設者のウォルター・グロピウスは、バウハウスのコンセプトについて次のように説明している。「建築家、彫刻家、画家。私達は、手作業に戻らねばなりません。・・・したがって、社会階級を分断し、職人(マイスター)と芸術家(アーティスト)の間に乗り越えられない障壁を立てようとする世の中の傲慢さから開放するべく、職人による兄弟愛を確立していきたいのです」

 

グロピウスの言葉には、ドイツ/オーストリアのギムナジウムにおけるエリート教育、及び職人のマイスター制度という2つの障壁を取り払うという意図が込められている。(ギムナジウムに関しては、ヘッセの「車輪の下」を参照のこと)厳然とした年代による職業差別を彼は取り払うべく努めた。建築、彫刻、絵、芸術、といったリベラルアーツ全般を通じてである。さらに、時代背景も考慮せねばならない。ブルジョワ社会の階級にある人々のみが手工業作品を楽しめる時代において、それらの特権性を一般的な人々にも開放するという意図が込められていた。第一次世界大戦後、デザイン、構成の解決策を求め、多様な社会規範と文化的な革新性が生み出された。この文化運動の延長線上にバウハウスは位置し、芸術運動の一環を司ることになる。

 

 

バウハウスの芸術運動の変遷

 


1. ハンドクラフトによる工業製品の製作


 

 


 

 

バウハウスは、1919年から1933年のナチス・ドイツの摘発による閉鎖に至るまで、いくつかの芸術様式を変化させた。

 

創設の意図にしたがい、当初は産業革命の後の時代のイギリスに端を発する機械産業からの脱却、及び、その産業の手工業化、職人の手作業における信頼性の回復や、職人の能力をアートと同等のレベルまで引き上げ、そして、その製品を販売することに主眼が置かれていた。つまり、機械的な製品ではなく、ハンドクラフトの製品の制作者を育て上げ、それをアートと同等の水準に引き上げていくという点に、バウハウスのエデュケーション(教育)は注力されていたのである。

 

そして、ウォルター・グロピウスの目的は、ハンドクラフト(手工業)の製品を「一般の人々に手頃な価格で提供する」というものだった。


当初、バウハウスでは、農業などで使用される運搬車のような目途を持つ「クレードル」のデザインなど、手工業デザインの制作を推進していた。以後の時代において、図形的、幾何学的なアートやデザインが頻繁に用いられるのは、当初、バウハウスの学習者が手工業デザインの製品を制作していたことに理由が求められる。


正当なエデュケーション(教育)とは、学習者を型に収めることではなく、学習を然るべき機関で修了後、能動的な行動を取れるよう促すものである。このことがバウハウスの最初期の教育方法に一貫しており、一般的な教育機関とは意を異にする事項である。その他、バウハウスでは、展覧会のポスターなども制作しており、最初期の作品としては、他の目的のために制作されたアート/デザインが多いことが分かる。

 

この年代の中で、学生は、手工業製品にとどまらず、金属加工、キャビネット、織物、陶器、タイポグラフィ、壁画などの他の用途のために制作された製品を生み出した。現在のDIYの発祥とも言うべき動きだ。これらの製品は基本的に手工業になされるインダストリーという概念に下支えされていた。

 

 

2.最初の変革期 「Art into Industry」


 



1919年に始まったバウハウスであるが、1923年になると、当初の手法が専門機関として財政的に採算が取れないことが分かった。

 

この年、バウハウスはドラスティックな転換を図り、芸術主義とも称すべき方向へと歩みを進める。芸術的には、ロシアの構成主義と、新造形主義を取り入れ、新しいアイディアを生み出すという内容であり、方法論としては、「本質の研究」と「機能性の分析」に照準が定められていた。その中で、バウハウスは「Art into Industry」というスローガンを掲げた。この動向に関連して、1925年にバウハウスはワイマールからデッセウへと移転している。この建物には、モダニズム建築の要素が取り入れられた。非対称の風車計画、ガラスのカーテンウォール、スチールフレームなど現代建築にも使用されるデザインが取り入れられている。

 

この年代でも前年代のハンドクラフト主義を受け継ぎつつ、実用性の高い製品づくりを行うようになっている。グロピウスは、デッセルの建築内のスペースを有効的に活用し、スタジオ、教室、そして管理スペースに分割した。同時に、1924年から28年にかけて、マルセル・ブロイヤーが提唱した、椅子などの物質は、徹底して軽量化され、「最終的に非物質化する」という考えに基づき、斬新なデザインの家具や工業デザインの製品が制作されることになった。

 

同時に、この流れに準じて、テキスタイルとタイポグラフィーがバウハウスでは盛んになっていった。デザイナーで織物工でもあるギュンター・シュテルツルの教えのもと、学生は、色彩理論、デザインにおける技術的な手法を学習しつつ、抽象的な意匠を持つ製品の制作に取り組むようになる。シュテルツルは、セロハン、ガラス繊維、金属など、ありふれた素材の使用を推奨し、更に、前衛的な製品を生み出すよう学生に精励した。特に学生が制作したテキスタイルに関しては、バウハウスの建築壁画や建物内のインテリアとして使用されるに至った。その中では、「Architype Bayer」という上掲写真の幾何学的なフォントが生み出されることになった。

 

 

 

 

3. ナショナリズムの台頭 バウハウスの終焉と亡命

 


 

多くの芸術活動は、その先鋭的な本質ではなく、外的な要因ーーとりわけ政治的な影響ーーにより堰き止められる場合が多い。ある表現者は、その弾圧を忌避するため亡命を余儀なくされる。ナショナリズムによる弾圧の動きは、既に1928年頃に始まっていた。創設者のグロピウスは、すでに学校を辞任し、建築家のハンネス・マイヤーが実質的なディレクターとなっていた。マイヤーは、大量生産に重点を起き、形式主義の趣があると思われるカリキュラムを削除し、広告と写真芸術における清新な息吹をもたらす。しかし、その頃、すでにバウハウスはナショナリズムからの圧力を受け始め、ほどなくマイヤーも1930年にディレクターを辞任する。

 

以後、ディレクターのポジションはファン・デル・ローエなる人物が引き継いだ。ローエは当時有名な建築家であり、第一次世界大戦後の未来的な建築様式の手法を示そうとしていた。この年代から、バウハウスによる当初のハンドクラフト/手工業的な生産方法は徐々に減少していった。

 

1932年、デッサウで行われた地方選挙において、ナショナリズムが主要政党に成り代わったことは、そのままバウハウスの終焉を意味していた。全体主義とナショナリズムの荒波が、バウハウスにも押し寄せようとしていた。学生の多くは、ナチス警察により逮捕され、尋問を受けた。1933年、バウハウスは閉鎖と解散を決定する。以後、ナチスの占領により、1945年のスターリングラードの戦いまで、全体主義とナショナリズムの動きが途絶えることはなかった。


しかし、バウハウスの主要人物の以後の最も剣呑な年代において、亡命という手段をやむなく選び、その教えを携えて海外に逃れて行く。彼らの多くは、米国への移住を決め、各地に散らばることになった。以後、ブロイヤーとグロピウスは、ハーバード大学で教鞭をとっている。また、その中には、イエール大学で教鞭をとった人物もいる。ファン・デル・ローエはイリノイ州に移住し、イリノイ工科大学で教えた。バウハウスの流儀は、以後、コルビジュエの建築という分野で継承された。もちろん、現在もどこかでそれらの教えが引き継がれているに違いない。




以下の記事もぜひあわせてご一読下さい:


ヒップホップアート GRAFITTIのはじまり 芸術と戯れ


Reference:

 

 

昨年に続き、Ambient Kyoto 2023の開催が決定しました。


昨年はブライアン・イーノのインスタレーションが展示され、所定の会期が延長されるほどの大盛況となりました。今回、2回目の開催となるアンビエント・キョウトでは、坂本龍一と高谷史郎のコラボレーションを始め、コーネリアス、バッファロー・ドーターと山本精一など、魅力的なアーティストの芸術作品が展示される予定です。

 

さらに、同時開催される東本願寺のライブでは、伝説的な音楽家で、パンデミック以降、山梨にお住まいのテリー・ライリーさんが能舞台に登場します。昨年に続いて、どのようなアートイベントになるのか楽しみです。チケット販売や参加料金の詳細は後日発表のことです。


アンビエントとはどんな音楽なのかについてよく知りたい方はぜひこちらの過去記事も参考にしてみてください。

 

 

 ◉参加アーティスト:


[展覧会] 坂本龍一 + 高谷史郎、コーネリアス、バッファロー・ドーター + 山本精一
[ライヴ] テリー・ライリー

◉会場:


[展覧会] 京都中央信用金庫 旧厚生センター
[展覧会] 京都新聞ビル地下1階
[ライヴ] 東本願寺・能舞台

◉会期:2023年10月6日(金)〜12月24日(日)

 

◉開催概要


タイトル:AMBIENT KYOTO 2023(アンビエント・キョウト2023)

参加アーティスト:
[展覧会] 坂本龍一 + 高谷史郎、コーネリアス、バッファロー・ドーター + 山本精一
[ライヴ] テリー・ライリー

会場:
①京都中央信用金庫 旧厚生センター(展覧会)
②京都新聞ビル地下1階(展覧会)
③東本願寺・能舞台(ライヴ)

会期:2023年10月6日(金)- 12月24日(日)
*休館日:11月12日(日)、12月10日(日)
*テリー・ライリーのライヴ実施日:10月13日(金)、10月14日(土)

主催:AMBIENT KYOTO 2023 実行委員会
   (TOW / 京都新聞 / Traffic / 京都アンプリチュード)
企画・制作:TOW / Traffic
協力:α-station FM KYOTO / 京都 CLUB METRO
後援:京都府 / 京都市 / 公益社団法人京都市観光協会 / FM COCOLO
機材協賛:Genelec Japan / Magnux
協賛:Square
特別協力:京都中央信用金庫