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ポール・マッカートニーは、ビートルズ全盛期に35mmフィルムで撮影した写真を、『1964』という本の中で特集する予定です。「1964: Eyes of the Storm」と題されたビートルズ・ファンお待ちかねの新刊書籍が出版されます。


6月13日にLiveright社から発売される『1964: Eyes of the Storm』は、マッカートニーが1963年末から1964年初めにかけて撮影した275枚の写真を収録。これは、ちょうどビートルズが米国で大流行した時期でした。リバプール、ロンドン、パリ、ニューヨーク、ワシントンDC、マイアミで撮影された写真は、ポール、ジョン、ジョージ、リンゴが自分たちが嵐の目のなかにあることに気づいた「パンデモニウム」を伝えています。


これらの写真は英語に慣れていない方でも貴重なアーカイブとして楽めるかもしれません。現在、洋書のみですが、予約受付中です。またラフトレード・ショップでも予約受付中



「個人的な遺物や家族の宝物を再発見した人は、瞬時に記憶や感情が溢れ出し、時の靄の中に埋もれていた連想を呼び起こす」と、ポール・マッカートニーは声明の中で書いています。


「この写真は1964年2月までの3ヶ月間に撮影されたもので、まさに私が体験した瞬間を捉えている。まさに、まるで、過去に戻ったかのような素晴らしい感覚です。リバプールとロンドンに始まり、パリ(ジョンと僕は3年前に普通のヒッチハイカーだった)、そして僕らが最も重要だと考えていたグループとしての最初のアメリカへの訪問まで、6都市でのビートルズの写真ジャーナル、僕自身の最初の大旅行の記録がここにある」


『1964: Eyes of the Storm』には、ポール・マッカートニーによる序文と、ハーバード大学の歴史学者でニューヨーカーのエッセイストであるジル・レポアによる紹介文「Beatleland」が収録されています。本の予告編は以下からご覧いただけます。


さらに、ポール・マッカートニーの娘メアリー・マッカートニーは、世界で最も有名な音楽的ランドマークのひとつであるアビーロード・スタジオについての新しいドキュメンタリー『If These Walls Could Sing』で、その歴史を掘り下げています。また、元ビートルズは、最近、カントリーアイコンのドリー・パートンと組んで、ロックのカバーアルバム『Rock Star』を発表しています。

1950年代、60年代のジャズは、ビバップ/ハード・バップが主流となり、この音楽形式が様式化しつつあった。その動向に対して出てきたムーブメントがフリー・ジャズだ。以前のラグタイムなどから引き継がれていたジャズのキャラクター性を形作る既存の調性やテンポをフリー・ジャズは否定しようとした。

 

この音楽が初めて70年代にジャズシーンに出てきた時、革新的な音楽に比較的寛容であったかのマイルス・デイヴィスですら、フリージャズに理解を示そうとはしなかったという。形式の破壊を意図する音楽は既にそれ以前の古典音楽において、無調音楽が出てきているが、ジャズも同じようにそれらの形式的なものを刷新する一派が出てきた。しかし、ジャズそのものが自由な精神に裏付けられた音楽と定義づけるのであれば、フリー・ジャズほどその革新を捉えている音楽は存在しない。

 

フリージャズは、その字義どおり、ジャズを形式や様式から開放する動きといえるが、最初期は、スイングを発展させたシャッフルに近いリズムと、調性音楽の否定に照準が絞られていた。これらは、ブルースに影響を受けたという指摘もあるが、 音楽的にはアフリカの民族音楽のように西洋音楽には存在しない前衛的なリズムを生み出すべく、複数のジャズ演奏者は苦心していたに違いない。このフリージャズの代表的な演奏家の作品を大まかに紹介していきましょう。

 

 

・Ornette Coleman(オーネット・コールマン)

 


 

テキサス出身のサックス奏者、Ornette Coleman(オーネット・コールマン)が 1959年に発表した「The Shape Of Jazz To Come」は、フリージャズの台頭を告げた作品であり、コールマンの代表作品に挙げられる場合もある。

 

もともと、オーネット・コールマンは独学で演奏を習得した音楽家であるため、カルテットでの演奏自体も即興性の強いが、「The Shape Of Jazz To Come」に見られる調性の否定、そして、それ以前のビバップ/ハード・バップの規則的なリズムの否定など、革新的な要素に富んでいる。

 

この作品の発表当時の反応は様々で、批評家からかなりの批判を受けた。その時代の価値観とはかけ離れた革新的の強い作品はおおよそこういった憂き目に晒される場合が多い。批判者の中には、マイルス・デイヴィスやチャールス・ミンガスも含まれていた。しかし、のちのフリージャズに比べると、古典的なジャズの性格を力強く反映している作品であることも事実である。 

 

 

 

 ・Eric Dolphy(エリック・ドルフィー)

 


Eric Dolphy(エリック・ドルフィー)はフルートの他にも、クラリネットとピッコロ・フルートを演奏した。当初は、ビバップ・ジャズの継承者として登場したが、のちにアヴァンギャルド・ジャズに興味を持つようになった。ドルフィーのフルートは、クラシックの影響を反映した卓越した演奏力と幅広いトーンを持つのが特徴である。36歳の若さで惜しくも死去したが、生前、ジョン・コルトレーン、ミンガス、オリバー・ネルソンの録音に参加している。

 

オーネット・コールマンの最初のフリー・ジャズの発表から、およそ五年後に発表されたのが、フルート奏者、エリック・ドルフィーの1964年のアルバム『Out To Launch』である。一般的にはブルーノートの1960年代のカタログの中で、もっとも先進的なレコードと称される場合も。しかし、アルバムの冒頭は、ビバップの王道を行くような楽曲に回帰している。しかし、二曲目からは一転してアヴァンギャルドなリズムと無調に近いスケールが展開される。 


 

 

 

・John Coltrane(ジョン・コルトレーン) 



ジョン・コルトレーンはテナー・サックス奏者として、マイルス・デイヴィスのバンドの参加だけでなく、バンドリーダーとしても活躍している。後に、アリス・コルトレーンと結婚する。もちろん、「ブルートレイン」、「カインド・オブ・ブルー」、「マイルストーン」など数多くの傑作を残している。時代により、ビバップ、モード、ジャイアント・ステップスとその音楽性も変化しているが、フリー・ジャズの傑作としては1971年の「Ascent」が挙げられる。

 

この作品では、古典ジャズの巨人として挙げられるジョン・コルトレーンのサックス奏者としての意外な一面を堪能できる。コルトレーンらしからぬ前衛性の高い演奏が行われており、そして基本的なスケールを度外視したアバンギャルドな音楽性は今なお刺激的であり続ける。ビバップやモード奏法など、基本的な演奏法を踏まえ、それらを否定してみせることは、このプレイヤーが固定概念に縛られていない証拠でもある。バックバンドもかなり豪華で、マッコイ・タイナー、ジミー・ギャリソン、エルヴィン・ジョーンズが参加している。ジャズにおける冒険ともいうべき傑作の一つで、コルトレーンはサックスの演奏における革新性に挑んでいる。 




・Alice Coltrane(アリス・コルトレーン)

 

 

Alice Coltrane(アリス・コルトレーン)はラッキー・トンプソン、ケニー・クラーク、テリー・ギブスのカルテットの演奏者として活躍し、スウィング・ジャズに取り組んできた。コルトレーンと出会った後は、互いに良い影響を与え合い、スピリチュアルな響きを追求する。夫の死後は、バンドリーダーとしても活躍した。ファラオ・サンダースとの共作もリリースしている。

 

1971年に発表した五作目のアルバム「Universal Conscousness」は、フリージャズの未知の領域をオルガンの演奏によって開拓した作品である。スピリチュアルな音響は、時に、サイケデリックな領域に踏み入れる場合もあり。コルトレーンの演奏のエネルギッシュさが引き出された一作で、一見すると無謀な試みにも見えるが、モード・ジャズ、即興演奏、そして、構造化された構成要素を組み合わせて制作されている。エキゾチック・ジャズの元祖ともいうべき作品で、エジプトやガンジスといった土地の歴史文化の神秘性が余すところなく込められている。 

 

 

 ・Sun Ra(The Arkestra)


 


 

 

ラグタイム、ニューオリンズのジャズサウンド、ビバップ、モード・ジャズ、フュージョン、と能う限りのジャンルに挑戦してきたサン・ラ。奇想天外なアバンギャルド・サウンドを通じて宇宙的な世界観を生み出した。アフロ・フューチャリズムのパイオニアとも見なされる場合もある。その他にも、ブラジル音楽や民族音楽等、多岐にわたるジャンルを融合した。電子キーボードをいち早く導入し、The Arkestraを結成し、前衛的な音楽活動を行ったことでも知られる。


Sun Raのフリージャズの音源としては、The Arkestraのライブアルバム「It’s After The End Of The World」が挙げられる。1970年にドナウエッシンゲンとベルリンで録音された音源で、即興演奏そのもののスリリングさ、そしてエネルギッシュな演奏を楽しむ事ができる。

 

 

 

・Barre Phillips(バール・フィリップス)

 


フリー・ジャズの開拓史の中にあり、ブルーノートや他の名門レーベルと共にこのジャンルに脚光を当ててきたのが、マンフレッド・アイヒャーが主宰するドイツのECMである。そして、このレーベルのフリー・ジャズの作品の中で聴き逃がせないのが、伝説的なコントラバス/ウッドベース奏者、Barre Phillips(バール・フィリップス)の1976年の「Mountainscapes」である。バール・フィリップスは、カルフォルニア出身で、1960年でプロミュージシャンとしてデビューする。62年からニューヨーク渡り、その後、70年代にはヨーロッパに移住した。ジャズの即興演奏の推進者として活躍し、さらに2014年には、European Improvisation Centerを設立している。

 

「Mountainscapes」は、サックスの奇矯なサウンドにも惹かれるものがあるが、フィリップスのコントラバスの対旋律の前衛性はこの時代の主流のジャズとは相容れないもので、その存在感は他の追随を許さない。フリー・ジャズ史にあって、ベースの演奏の迫力が最も引き出された傑作である。フリー・ジャズとはいかなる音楽なのか、つまり、その答えはほとんど「Mountainscapes」に示されている。ダイアトニック・コードの否定、リズムの細分化、そして破壊、既成概念に対する反駁とはかくも勇気が入ることなのだということが理解出来る。


変奏形式のアルバムであるが、熱狂性と沈静の双方の要素を兼ね備えたメリハリあるサウンドを味わうことが出来るはず。特に、ウッドベースとサックスの白熱したセッションが最大の魅力であるが、このアルバムでのサックスは日本の伝統楽器、笙に近い音響性が追究されている。 


 

 

 

上記の様々な演奏家の音源を聴いてみるとよく理解できるが、これらの芸術家たちはリズムの変形やダイアトニック・スケールの否定等、ジャズの古典的な要素をあえて否定してみせることで、様式化したジャズの演奏や作曲に新たな活路を見出そうと模索していた。そして、これがジャズミュージックが陳腐になることを防いだにとどまらず、後の時代に一般化される”クロスオーバー”の概念の基礎を構築したと言える。


コールマン、コルトレーン、サン・ラ・バール・フィリップスといった上記のジャズの巨人たちの偉大なチャレンジ精神は、実際、現在も、ジャズが最新鋭の音楽でありつづけることに多大な貢献を果たしており、この事は大いに賛美されるべきである。

 

Fillmore East


これは例えば、ロック・ミュージックだけの話に限らないが、ライブ・レコーディングというのは、スタジオのレコーディングとは違い、実に不可解な音源でもある。つまり、観客と演奏者のエネルギーの交換が確実にそのレコーディングに刻印されているのだ。MC5のライブなどを見て分かる通り、ライブ・レコーディングの名盤には、必ずといっていいほど熱気がある。そして、マイクパフォーマンスを通じての観客とのコール・アンド・レスポンスなどのやり取りから、その劇的な瞬間に居合わす人々の息吹が録音を通じてはっきりと感じられる。仮に、バンドのその日の演奏が卓越していたとしても、その場の観客の熱気がなければ、それはセッションになってしまい、ライブ・レコーディングの名盤たり得ないのだ。そして、それとは正反対に、観客の熱気の後押しがバンドのライブ録音を名作にしてしまう場合もある。これは、実際の演奏者として体験したことがあり、本当に不思議でならないことだった。


 
これまでの伝説的なライブ・レコーディングとして、オールマン・ブラザーズ・バンドの「Fillmore East」がある。この録音は、ニューヨークのフィルモア・イーストで録音され、バンドの知名度を押し上げたにとどまらず、このバンドの代表的な録音ともなっている。実際に聴いて貰えれば分かるが、サザン・ロックの代表格の演奏はきわめて渋く、全編がブルージーな雰囲気に充ちた作品となっている。そして、マスタリングが良かった可能性もあるが、近年のライブ音源にも引けを取らない音質の良さとなっている。このフィルモア・イーストでは他にも伝説的なライブ録音が多数現存し、レッド・ツェッペリン、ジョニー・ウィンター、フランク・ザッパ、グレイトフル・デッド、ジェファーソン・エアプレイン等のライブ・レコーディングがある。また、伝説的なフォークバンド、The Fugsの録音もある。この中ではオールマン・ブラザーズとZEP,ジョニー・ウィンターの録音はロックファンとして聞き逃すことは厳禁である。


 

これらの伝説的な音源を生み出したニューヨークのフィルモア・イーストであるが、このライブハウスがオープンしたのは、1968年のこと。施設を開設したのは、世界的なプロモーターの先駆者、ユダヤ人のBill Graham(ビル・グラハム)。彼は、フィルモアイースト&ウェストを開業したにとどまらず、その後、67年にはモンタレー・ポップ・フェスティバル、そして69年にジミ・ヘンドリックのライブでお馴染みのウッドストックをプロモーションしている。グラハムは後に「ロック・フェスティバルはあまりに金のかかるピクニックだ」という名言を残している。


 
1968年と言えば、公民権運動を行っていたキング牧師が暗殺された年に当たる。そういった白人と黒人との人種間の緊張した時代背景は、このライブ施設の収益にまったく影響を及ぼさなかったわけではない。事実、系列施設であるサンフランシスコのフィルモア・オーディトリアムでは、売上自体が低迷していたという。しかし、伝説的なプロモーター、ビル・グラハムはこのウエスト・ヴィレッジの劇場を、その天才的な手腕により、伝説的なロックの聖地と変えてしまうのである。フィルモア・イーストは、1926年に、Yeddish Theter(イディッシュ劇場)として開業した場所だが、ビル・グラハムが、その施設を後にライブハウスとして改築し、伝説的なロックバンドを数多く出演させた。開業当時の収容人数は、わずか2600名だった。
 
 
この場所は、もともと、コモドール劇場の本拠地であり、2階の劇場街に沿って建てられていた。イディッシュ・シアターが多く立ち並び、ユダヤ・コミュニティーの中心地として知られていたアベニューである。また、この施設は、当初、映画館代わりの施設としてマンハッタンに登場し、1930年代までに、ライブのイディッシュ・ドラマとコメディーを舞台で上映し、劇場自体は左翼グループの収益のために貸し出されていたという。この建物の隣にあったレストラン”Rater’s Second Avenue”は、観劇を見に来た客、それから舞台俳優が足繁く通った場所であった。その後の時代、イディッシュ語の共同体(コミューン)が衰退するにつれ、この場所は映画、その他、エンターテインメント公演の重要拠点となり、レビー・ブルース、ティモシー・リアリー、アレン・ギンズバーグの公演の本拠地となった。つまり、ここは、ビート・ジェネレーションの時代の活動家や詩人らの文化的な土壌を形作った場所でもあったのだ。


 
そうした文化的な背景を踏まえ、ビル・グラハムは、この場所をロックの聖地に見立てようとした。多少の修復作業が必要だった。彼はまもなく、ビル・グラハムのフィルモア・イーストという看板を作り、フィルモア・ストリートとギアリー・ブルバードの交差点に因んで、この施設をオープンさせた。フィルモア・イーストの開業後まもなく、ビル・グラハムは、 系列施設であるサンフランシスコのオーディオトリウムのスピン・オフ・コンサートをこのイースト・ヴィレッジのライブハウスで開演しはじめた。グラハムは、週に数回、3組のバンドが出演する2回のショー・コンサートを行い、熱狂的な聴衆を獲得していく。フィルモア・イーストが「ロックンロールの教会」と称されるようになるまでそれほどの時を要さなかった。徐々に、ザ・フー、クリーム、ドアーズといった時代を象徴するようなロックバンドのコンサートが開催されていく。

 

The Allman Brothers Band


政治的な背景として、人種間に不穏な空気が流れる中、こういったロック・コンサートに足を運ぶ人々が増えていったというのは首肯できる。その後の時代のラブ&ピースの時代ではないが、多くの聴衆が、その当時の政治的な気風とは別に爽快な気分にさせる音楽や熱狂を求めていたことはそれほど想像に難くない。エルトン・ジョン、ジャニス・ジョップリン、オーティス・レディング、ジョン・レノン、フランク・ザッパ、クロスビー・スティルス、ナッシュ&ヤングといった伝説的なアーティストとバンドがマンハッタンの夜を美しく彩った。その過程で、フィルモア・イーストのライブレコーディングが行われた。これらの録音は1960年代後半から70年代初頭にかけてのマンハッタンの文化の隆盛を象徴付けているとも言えるだろう。
 

これらのロックンロールの聖地としての栄華の時代は開業からわずか3年であっけなく終焉を迎えた。音楽産業の構造変化と成長、さらにコンサート事業の急激な変化、小規模なコンサートからウッドストックを筆頭に野外の大規模なコンサートが主流になるにつれ、これらの小規模のキャパシティでは、費用対効果の期待が持てなくなった。1971年6月27日、プロモーター、ビル・グラハムは、フィルモア・イーストの閉場を決定する。最後のコンサートは、特別な招待客だけを招いて行われたといい、このコンサートホールを象徴するアーティスト、オールマン・ブラザーズ・バンド、アルバート・キング、マウンテン、ビーチ・ボーイズの公演で有終の美を飾った。
 
 

Fillmore Eastの跡地


 1980年になると、フィルモア・イーストの跡地は、セイントと呼ばれるプライベート・ナイトクラブに建て替えられ、1996年には6番街にあった建物の劇場部分が取り壊され、居住用の建物に改築された。以後、ロビー部分だけは残されていたが、建物の大部分はエミグラント銀行の支店として残された。建物の外には、街灯柱のモザイクが記念碑として現存するようだ。


 

NYの1970年代からのパンク・ムーブメントを牽引し、現地のロックシーンの礎を築き上げたライブハウス、CBGBーOMFUG。

 

正式名称は、Country,Bluegrass,Blues,and other music for uplifting grourmandizersである。CBGBは、ニューヨーク・シティのウェスト・ヴィレッジのバワリー街に1970年代にオープンした伝説的なライブハウスで現在は閉店している。


創業者は、ヒリー・クリスタル。第二次世界大戦下、アメリカ海兵軍曹を務めた屈強な人物である。

 

元海軍の兵士というキャリアがあったため、ヒリー・クリスタルは、デッド・ボーイズ、ウェイン・カウンティをはじめとする、過激で手がつけられないパンク・ロッカーたち、ライブハウスの外をうろつく街のアウトロー、そして、一般的にローリング・ストーンズのローディとしてよく知られる「ヘルズ・エンジェルズ」のニューヨーク支部に属する無法者、あるいアウトサイダーとは対極にあるニューヨーク警察を一つにまとめ上げるほどの求心力を持ち合わせていた。

 

しかし、ヒリー・クリスタルは、他の当時のアメリカのライブハウスの経営者のようにギャラ交渉をしようとするバンドマンの目の前にショットガンを突きつけるような手荒な真似はしなかった。驚くべきことだが、こういったことは、当時それほど珍しいことではなかったようである。

 

CBGBをオープンする以前、創業者ヒリー・クリスタルは、「バワリー街」に”ヒリーズ”というバーのようなスペースを経営している。

 

このバワリー街というのは、ニューヨーク・シティの最も旧い街のひとつだ。最初、新世界のビリオネア、億万長者たちが密集して住んでいた区域だった。ところがその後、この地域は没落していき、独立戦争後、イギリス軍がやってくると、貧民街に成り代わった。ストリップショー、質屋をはじめとする欲望の歓楽街がこの地域に進駐してきたイギリスの兵士のために作られていったのである。バワリー街は、彼がCGBGの経営を始めた当時、頗る治安の良くない悪名高き区域として有名で、海外の旅行ガイドにも危険区域と紹介されるほどだった。そのゲトゥーにも似たバワリー街の界隈を夜な夜な徘徊する人々はかつて"バワリー浮浪者"と呼ばれていた。

 

ヒリー・クリントンの最初のホンキートンク・バーの経営は立ち行かず、それほど時を経ずに”ヒリーズ”は閉店してしまう。それから、彼は、同地域にこのCBGBを開業し、妻と共に経営を始める。上階の三フロアにはパレスホテル。しかし、この地域の治安の問題が付き物だった。常にこの地域では荒くれ者がうろつき回り、ライブハウスのセキリティーに問題を抱えていたのだ。

 

ヒリーズ街は、常に、浮浪者、重度のアルコール中毒者、荒くれ、そういった人間たちがこの界隈を根城にしており、夜9時以降は一般の人々にとっては、おいそれと出歩ることは難しい危険地帯であった。そもそもヒリー・クリスタルは、これらのハグレモノたちに居場所を確保するためにこういったライブスペースを提案した側面もあったようだ。

 

しかし、これについては、ヘルズ・エンジェルズのNY支部の面々、そして、ニューヨーク警察が協力し、このライブハウス近辺、及びバワリー街の治安を支えていた。ライブハウス内での喧嘩、暴力沙汰が発生した際は、ヘルズ・エンジェルズの面々がその当事者たちに二、三瞥をくれるだけで充分だったという。常に、酒瓶やガラスが床に散らばるもっともデンジャラスなこのラーブスペースは、アウトローと警察組織の協力によって安全が担保されていたのである。


最初は、ヒリー・クリスタルは、カントリー音楽で、一山当てるつもりだった。夜に四バンドを出演させた後、オールナイト開けの「モーニング・カントリー」というイベントを打ち、朝一番のカントリーを中心とした企画を展開していく。カントリーのライブに来場するのは真面目な客が多く、チャージのドリンクを頼まず、無料でライブを聞きにくるため、利益が上がらなかった。その後、CBGBには、ロックバンドが出演するようになる。後、ヒリー・クリスタルは「カントリーが流行ると思っていたが、それはここでの話ではなかった」と言葉を残している。

 

CBGBは、70年代、80年代と、ニューヨークのアンダーグランドロックシーンの源流を、マックスカンサス・シティと共に形成していった。CBGBには、Soho Newsや、テリー・オーク、アンディ・ウォーホールの伝で出演するようになったテレヴィジョンを始め、下積み時代のラモーンズ、ブロンディ、パティ・スミス、デッド・ボーイズ、ランナウェイズ、リチャード・ヘル等、のちのニューヨークのパンクロック・シーンを支える重要なアーティストが多数出演していた。

 

そして、ここからウェイブが起こったことに関して、ヒリー・クリスタルは、当時、これらのパンクの祖が一人も自分たちをミュージシャンとは考えていなかったことが重要だったと語っている。

 

特に、このCBGBのオープン当時の貴重な証言を行っているのが、ラモーンズのジョーイだ。生前、ジョーイ・ラモーンは、このように、CBGBの最初期の記憶について回想している。

 

「俺たちのライブは、当初の10分から20分にまで拡大していった。知っている歌は全部やった。たくさん歌はあっても、すごく短くて速いから、どんどんぶっ飛んでっちまう。それと時々、歌が上手くいかなかったりすると、途中でやめて最初からやりなおしたり、互いに怒鳴りあったりなんかしていた。

 

どうやって、CBGBに俺たちが出演するようになったのかいまいちよく覚えていない。『Village Voice』に載ってたのかもしれない。あそこでプレイしたことだけは今でも覚えている。初めて俺たちが演奏した後、ヒリーが俺たちにこう言ったんだ。

 

「お前たちを気に入るやつはひとりもいないだろうが、俺がバックアップしてやる」って。今でも覚えている、おがくずを敷いた床、地雷なんかを避けるみたいにして、糞をよけてあるかなければならなかったこと。どうだったろう? でも、俺たちは、あの場所が本当に好きだった。雰囲気が良かったし、音響も最高で、とても居心地がいいんだ。

 

俺たちがあそこで演奏し始めた頃、テレヴィジョンもいたし、パティ・スミスは詩人として出演していたし、レニー・ケイも一緒だ。それと、スティレットーズと名乗っていたブロンディもいた。俺たちは、あの当時、他のバンドを励まそうとしていた。ここで、シーンとか、ムーブメントとかいったものが作りだせそうな気がしていたんだよ」

 

 

Ramones Live at CBGB 1974

 

 

 

後に、CBGBは、数々の名バンドをミュージック・シーンに送り込み、その殆どは世界的な名声を得るに至った。そして、このライブハウスが営業するかぎり、ニューヨークのアンダーグランドのシーンを支え続けた。後にはニューヨークハードコアの重要拠点となり、 Agnostic Frontも出演している。2000年代からCBGBは、経営難に陥った末、多くのファンに惜しまれつつ、2006年に閉店した。


当時のニューヨークのアンダーグラウンドシーンの生々しい息吹を知るための手がかりとして、最初期のCBGBでの貴重なライブ音源『Live At CBGB's:The Home Of Underground Rock』がある。これは、LP盤として1976年にAtlanticから発売されたアルバムである。


このコンピレーションには、Tuff Darts,The Shirts,Manster,The Miamis,Mink Deville,The Laughing Dogs,といった伝説的なNYのバンドのライブが録音されている。この作品は現在もCD化されていない幻の音源のひとつ。


ビリー・ホリデイの奇妙な果実 1937

--プロテストソングに見る人権の主張性--


Protest-Song(プロテスト・ソング)というのは、現行のミュージック・シーンにおいて流行りのジャンルとは言い難い。しかし、近年でも人権の主張のための曲は、それほど数は多くないが書かれているのは事実である。これらは時代的なバックグラウンドを他のどの音楽よりも色濃く反映している。代表的な例としては、Bartees Strangeが作曲した「Hold The Line」が挙げられる。この曲は、ミネアポリスの黒人男性の銃撃事件、ジョージ・フロイドの死に因んで書かれ、バーティーズが追悼デモに直面した際、自分に出来ることはないかと考えて生み出された。アーティストが黒人の権利が軽視されるという問題をメロウなR&Bとして抉り出している。

 

米国の世界的な人気を誇るラッパー、ケンドリック・ラマーもまた、『Mr. Morales & The Big Steppers』の「Mother I Sober」において、自分の母親の受けた黒人としての心の痛みに家族の視点から深く言及している。これらの二曲には、ブラックミュージックの本質を垣間みることが出来る。

 

勿論、上記のような曲は、古典的なブラック・ミュージックの本質的な部分であり、何も最近になって書かれるようになったわけではない。それ以前の時代、60年代には、マーヴィン・ゲイ、スティーヴィー・ワンダーといった面々がモータウンでヒットメイカーとしてキャリアを積んでいた時代も、黒人としての権利の主張が歌詞に織り込まれていたわけなのだが、その後のディスコ・ミュージックの台頭により、これらのメッセージ性は幾分希薄になっていかざるをえなかった。それは、ブラック・ミュージックそのものが商業性と同化していき、その本質が薄められていったのである。

 

その後の流れの反動として、このディスコの後の時代にニューヨークのブロンクス地区で台頭したラップ・ミュージックは、2000年代からトレンドとなり、それらは初期のブルースやR&Bと同じく、直接的、間接的に関わらず、スラングを交えつつ黒人としての主張性が込められた。もちろん、それ以前の19世紀から20世紀初頭にかけての最初期のブルースというジャンルを見ると、広大な綿畑ーープランテーションで支配層に使役される黒人労働者としてのやるせなさを込めた暗示的なスラングが多少なりとも含まれているけれど、これらはまだ後世の60年代のソウル・ミュージックのように、政治的な主張性が込められることは稀有な事例であった。

 

Billy Holiday

しかし、その黒人としての人権の主張を歌ったのが、20世紀初頭に登場した女性シンガー、上記写真のBille Holiday(ビリー・ホリデイ)だ。このアーティストは、本質的にはジャズに属する場合が多い歌手ではあるが、このアーティストの歌詞の中には、一連のプロテスト・ソングの本質(反戦、人権の主張、性差別)または、その源流が求められると言われている。特に、現代的な視点から注目しておきたいのが、このアーティストの代表曲「Strange Fruit(奇妙な果実)」という一曲だ。

 

ビリー・ホリデイが初めて録音した「奇妙な果実」は、20世紀前半のアメリカ南部で起こった黒人リンチ事件を歌ったものである。

 

この曲「奇妙な果実」は、教師/アベル・ミーアポールが詩として書き、1937年に発表された。ミールポールはアメリカ共産党に所属するユダヤ系白人であり、黒人リンチの凄惨な写真を見て、この歌を作った。1930年代、アメリカ南部ではリンチが高潮していた。控えめに見積もっても、1940年までの半世紀で約4000件のリンチが発生し、その大半は南部で、被害者の多くは黒人であった。


シンプルな歌詞の中に、大きな力が込められていて、曲が終わっても心に残る。美しい風景、花や果物の香りと、残酷に殴られた人間の血や骨が並置され、この曲に力強さと痛々しさを与えている。この曲は、アメリカの人種差別の残忍さを露呈しており、それ以上言葉を増やす余地はない。この曲の意味を理解したとき、人はそのイメージに衝撃を受け、怒り、嫌悪感を抱かざるをえない。

 

1939年にカフェ・ソサエティでこの曲を初演したBillie Holiday(ビリー・ホリデイ)は、この曲を歌うことで報復を恐れていたというが、そのイメージから父親を思い出し、この曲を歌い続け、後にライブの定番曲となった。あまりに強烈な歌なので、ショーの最後にはこの曲で締めくくるしかなく、バーテンダーはサービスを中止、部屋を暗くせばならない、という規則ができた。バーテンダーがサービスを止めて、部屋を暗くして、ビリー・ホリデイのパワフルな歌声でライブは終わるのである。このように、曲の成り立ちや歌詞の説得力が、演奏の仕方にも顕著な形で表れていた。


当時、政界を支配していたアメリカの反共産主義者や南部の人種差別主義者の間で悪評が立つことを恐れたレコード会社がほとんどであり、この曲のレコーディングは容易ではなかった。しかし、1939年にコモドール社によってようやく録音されると、たちまち有名になった。この曲は、知識人、芸術家、教師、ジャーナリストなど、社会の中でより政治的な意識の高い人たちの関心を集めた。その年の10月、『ニューヨーク・ポスト』紙のあるジャーナリストは、この曲を「南部の搾取された人々が声をあげるとしたら、その怒りの賛歌であり、またその怒りそのものだ」と評した。


政治的な抗議を音楽で表現することが少なかった1939年の当時、この曲はあまりに画期的だったため、ラジオではめったにオンエアされなかった。この時代、ルーズベルト政権だけでなく、民主党でも隔離主義者の南部ディキシーラットが主役だった時代。リンチの舞台となったアパルトヘイト制度を崩壊させるには大衆の運動が必要だった。

 

また、この歌は、プロテスト・ソングの元祖とも言われている。歌詞の内容は、暗喩が表立っているが、現代の音楽よりも遥かに痛烈だ。当代の合衆国の社会問題を浮き彫りにするとともに苛烈な情感が表現されている。以下の一節は、「奇妙な果実」で、最も有名な箇所であるが、この時代、女性歌手として、こういった南部の暴力を暴く曲をリリースすることがどれほど勇気が必要であったか・・・。それは現代社会を生きる我々にとっては想像を絶することなのである。

 


南の木は、奇妙な実をつける。

葉には、血、根には、血。

南部の風に揺れる黒い体

ポプラの木に、奇妙な果実がぶら下がっている。

勇壮な南部の牧歌的な情景。

膨らんだ目、ゆがんだ口。

甘く爽やかな木蓮の香り。

そして、突然の肉の焼ける匂い!

ここにカラスが摘み取る果実がある。

雨にも負けず 風にも負けず

太陽の光で腐り、木が倒れる。

ここには、奇妙で苦い作物がある。

 

Woody Gathrie 「The Machine Kills Fasicts」はガスリーの人生観を表す


 

 ウディ・ガスリーは、1940年に発表した「This Land is Your Land」という歌で知られるアメリカのシンガーである。

 

オクラホマ生まれのガスリーは、1930年代から放浪生活を送るようになり、アーティストとしての活動を始める。労働階級への讃歌、プロテスト・ソングーーいわゆる反戦歌の始祖ーーであり、ボブ・ディランの考えや音楽的な価値観にも強い影響を与えた。フォークミュージックの父とも称されることがあることからも分かる通り、米国のポピュラー・ミュージック史においては、ジョニー・キャッシュ、ボブ・ディランと並んで最重要人物に挙げられる。その忌憚ない政治的な発言とともに、ウディー・ガスリーの音楽性はその後のコンテンポラリーフォークの素地を形成した。

  

 

RCAと契約を交わしたのち、1940年に発表された「「This Land is Your Land(この国は君のものだ)」という歌は、無数の政治集会、デモ、さらには近年、オバマ大統領就任式でも歌われた。アーヴィング・バーリンの「ゴッド・ブレス・アメリカ」に対抗して書かれたこの曲は、土地や財産の私有ではなく公有に敬意を表し、社会の平等を求める破壊的なメッセージを持っていることが、時に忘れ去られることがある。

 

ウディ・ガスリーは、1910年代にオクラホマの田舎で育った貧困と、ニューヨークを除く全米で2番目に大きなソーナー社会党によって、その世界観をより強固にした急進派であった。彼の音楽は、労働者階級の闘争を称え、抑圧的な制度や権威を非難するものであった。彼は、世界産業労働者会議(IWW)に影響を与えたジョー・ヒルの遺志を継ぎ、共産党が推進し、反ファシズム、反リンチ、産業別組合会議(CIO)を中心に形成された1930年代の大衆戦線で活動した。




1.第二次世界大戦と広島への原爆投下


1930年代を通して、ウディはアメリカの第二次世界大戦への参加に反対し、フランクリン・ルーズベルトを二枚舌の戦争屋として非難する反戦歌を数多く書き、演奏した。ヒトラーが1939年のモロトフ・リッベントロップ不可侵条約を破り、ナポレオンの愚行を再現するかのようにロシアを攻撃し、ロシアが西側連合国と協力してファシズムと戦うと、彼の見解は1941年以降に変わった。


真珠湾攻撃後、アメリカが参戦すると、ウディは孤立主義者とアメリカ・ファーストを非難する「リンドバーグ」のような曲を書き始めたが、別の曲では、「あらゆる側の」すべての兵士に「ヘルメットを脱ぎ、銃のベルトを外して、ライフルを置いて、いや、誰も殺すつもりはない、と言ってほしい」というひそかな願いを表現している。


1945年9月7日、ガスリー上等兵は、陸軍週刊誌『ヤンク』から得た情報をもとに、「どんな爆弾だ」と題する歌を書いた。そこにはこう書かれていた。


「ティベッツ、キャロンネルソン、フェレビーの3人が、エノラ・ゲイと呼ばれるB-29を飛ばした。



B-29は晴れた夏の日にグアムを離陸し、広島湾に爆弾を投下した。


ボブ・シュマード、メガネをかけろ!あれを見よ!下界では火山が噴火しているようだ。


私たちは窓から顔を出して、この大芝居を見ましたよ。広島はいい町だ。いい町だ! なくなってしまうのは残念だ」


ガスリーはこう続けた。


「空全体が揺さぶられ、4万フィートの高さにまで雲が発生した。


熱線は太陽をしのぐほど明るく、私たちは互いに "ああ、どんな爆弾なんだ "と尋ね合った」


続いて歌われた「Talkin' Atom Bomb」という曲は、こう警告している。


「閃光と大火災がやってくるとき、もしあなたの電話が使えず、あなたの列車の線路が壊れているならば。


高速道路がなくなり、トンネルがすべて塞がり、あなたと家族全員が9マイル先でノックアウトされたら、病院を見つけるのは少し難しい...。


この大きな爆弾の爆発から身を守る唯一の方法は、大きな爆弾を非合法化することだ、それも迅速に。


配達人が私企業や公有地について話そうが何しようが関係ない。


この新しい爆弾の炎をかわせると思っているなんて、頭がおかしくなったのかと思うくらいだ」



この言葉は、核軍拡競争を口語で力強く批判している。ウディの歌は、広島への原爆投下に抗議する最初の歌の一つであり、原爆科学者や平和主義批判者による原爆反対の運動を先取りしていた。「炎が忍び寄るとき、煙が立ち昇るとき、私たちは眠っているように遊ぼう、世界が燃えている間は」と唄っている。


1946年7月、ウディは、中国の内戦で蒋介石を支持するアメリカに抗議する歌を書いた。ウディは蒋氏に「あなたが殺害した一般労働者の正確な数を覚えていますか、記録はありますか、紙はありますか、死者や負傷者の数は......」と問いかけている。


血の一滴一滴が私の記憶の中で輝いている、借りた銃で、借りた金で(アメリカの援助について)・・・すべての農民を数え、すべての組合員を数え、すべての学生を数え、すべての急進派を数え・・・・・・。


 


2.朝鮮戦争を語るウディ


 ウディの社会正義の活動の中で、これまで歴史家に無視されてきたことの一つに、アメリカの朝鮮戦争に対する彼の熱烈な反対がある。


オクラホマ州タルサのウディ・ガスリー・アーカイヴで発見された10曲以上の歌は、ウディがベトナム戦争に対する新左翼の批判を先取りするような言葉で朝鮮戦争を批判していることを示している。ウディは、アメリカ政府の同盟者の腐敗、軍部とペンタゴンの上層部の欺瞞、そしてアメリカの兵器が韓国人に与えた犠牲を非難している。


「バイバイ、ビッグ・ブラス」(1952年)では、自分が朝鮮半島に送られ、出会った中国兵を殺すのではなく、キャンプファイヤーのそばに座って話をするというシナリオを夢想していた。この曲や他の多くの曲で、彼はベトナム戦争中のフィル・オックスやピート・シーガーの役割を先取りしている。


ウディは、ポール・ロベソンのような共産党系の少数のアーティストとともに、同時代の多くのアーティストが沈黙を守っていた時代に、戦争反対を訴えたのである。例えば、ウィーバーズは、朝鮮戦争勃発時に「おやすみアイリーン」や「ツェナ、ツェナ」がビルボードチャートの上位を占めたが、戦争については沈黙を守っていた。それでも、『反撃』と『レッドチャンネル』に共産主義者として掲載され、ブッキングを失いテレビ番組がなくなりレコード契約も解除された。


ビルボードチャートで9位まで上昇したジミー・オズボーンの「神よアメリカをお守りください」やジーン・オートリーのダグラス・マッカーサーへの賛辞「Old Soldiers Never Die」など、この時代のヒット曲は、戦争支持と愛国心をテーマに、宗教的情念を織り交ぜて宣伝した。ウィルフ・カーターのヒット曲「Goodbye Maria, I'm Off to Korea」は、"自由のための新たな戦いに勝利するのはオールド・グローリー次第で、昔と同じ物語 "だと指摘した。アール・ナンのマッカーサーへの賛辞は、次のような台詞で終わっていた。これは、反抗的な態度を理由にマッカーサーを解雇したハリー・トルーマン大統領に向けられた辛辣な言葉であった。


ウディは、冷戦の保守的な文化の中で異彩を放っていた。作曲家のエリー・ジークマイスターが呼んだ「錆びた声のホーマー」は、1930年代の過激主義を燃え立たせていた反対派の底流の一部だった 。


ガスリーの朝鮮戦争への批判は、ウォブリー(IWW)やスメドリー・バトラー(後に反戦パンフレット『戦争とはラケット』16を制作した四大将軍)といった不況時代の過激派の言葉で組み立てられたものであった。朝鮮戦争に対する彼の見解は、彼のアイドルであったジョー・ヒル(IWWのソングライター)の見解とも一致する。


彼は、戦争を資本主義システムの破壊的な現れと考えていたが、資本主義のボスに対して赤い旗の下で行われた戦争は容認していた(ヒルの歌「私は今まで兵士になるべき」にあるように)。


1952 年 11 月の「韓国バイバイ」では、「(米国が)爆撃するのは嫌だ、火薬は関係ない、 平和が私の叫びだ」として、申し訳ないことをしたと書いている。同様に「I Don't Want Korea」では、韓国はいらないし、「空からのプレゼントとして、韓国を私の奴隷にすることもない」と宣言している。


ウディの伝記作家エド・クレイは、この時期の彼の著作は極論であり、以前の質には及ばないと考えている。しかし、ウディは当時、朝鮮の人々の人間性を認め、尊重する数少ない人物であり、北朝鮮の人口の10分の1が死亡し、国連の復興機関によれば、朝鮮を歴史上最も荒廃した土地にした戦争に反対を表明する数少ない人物でもあった。


ウディは「韓国流砂」(1951年4月)の中で、「死んだ数百万人の血の洪水!韓国流砂!」と嘆いている。朝鮮の流砂。

 

いくつかの歌は、韓国軍と米軍・国連軍による漢江橋の破壊と、それに伴う難民の溺死について言及し、「漢江は長すぎる、漢江は長すぎる、バーンの下に沿って下に、バーンの下に沿って下に、漢江は長すぎる」とウディは書いている。続いて「Han River Mud」では、ウディは "It's a bloody, bloody flood, of Sweet Han River mud. "と書いている。「私には泥が血まみれに見える」


「三十八度線」では、ウディは「三十八度線を越えて行進することはない、敵と握手するため以外には」と宣言している。「あらかじめ銃を捨てておく」と。


1952年12月の「Korea Ain't My Home」では、ウディは「Korea ain't my home, since we've got germ warfare, this whole world's not my home, Nobody is living here」と書いている。韓国は私を家に送ってくれ、家に送ってくれ、そもそも私は韓国の人間ではないのだ」


「Stagger Lee」では、ウディは韓国の指導者を蒋介石と同様の言葉で批判し、「ミスター・リー、ディジー・オールド・シグマン・リー、お前は俺をバカにできない!」と書いている。その他にも、ウディは「ウォール街のGIジョー」が「ウォール街のジープと一緒に泥沼にはまり込んでしまった」とも歌っている。


国防長官ロバート・ロベット(戦争の重要な立役者)は、国防企業を顧客とするウォール街の投資会社に勤務し、トルーマン内閣の他の閣僚は、その会社の役員を務めていた。朝鮮戦争によって、国防予算は 1949 年の 130 億ドルから 1953 年には 540 億ドル(2016 年のドル換算で 5000 億ドル以上)と 4 倍に膨れ上がった。

 

一方、マクドネル、ダグラス、ゼネラルエレクトリック、ボーイング、 クライスラー、ユナイテッド・エアクラフトは戦争の結果、記録的利益を上げ、ロッキードジョージアは米国南東部で最大の従業員となった。


1952 年 11 月に書かれたウディの歌「Korean War Tank」は、暴力に訴える原始的な行為を揶揄している。さらに、ウディは「漢江の女」(1952 年 11 月)では、次のように歌っている。


「狙ったわけじゃない、意図したわけでもない、あのいまいましいゼリー爆弾を落としに来たんじゃないんだ!」。

 

「漢江の女よ、言っておくが、俺が落としたんじゃない、俺がやったんじゃない、俺のような人間が落としたんじゃない、ほんの一握りのクソ野郎、血まみれのハイエナどもだ。向こうでやれ」


ウディの憤りは、ナパームが進路上のあらゆるものを焼却し、ある海兵隊員が表現したように「揚げたポテトチップス」のように人々の皮膚を焼くことができるという事実から生まれた。リチャード・ピート伍長は、自分の部隊のメンバーが味方の攻撃でやられた日のことを決して忘れていないと語った。


「アーガイル(イギリス兵)が石油ゼリーまみれで火の中を走り回っているのを見たとき、ひどかった。ある将校は生きたまま皮を剥がされ、死ぬまでに20分かかった」。ナパームが体に付着し、焼き付いた兵士たちは、ひどい悲鳴をあげていた」


「ハン・リバー・ウーマン」は、1965 年にマルビナ・レイノルズが歌った「ナパーム」に力強く表現された、ベトナム戦争中のナパームに対する大衆の大きな反発の予兆であった。この歌は、「ルーシー・ベインズ(ジョンソン - LBJ の娘)、あのナパーム弾を見たことある?ナパームで撃たれた赤ん坊を見たことがあるか?引き剥がそうとすると、なぜか肉も一緒に出てくる......ナパームにはいろんな名前がついているんだ......。そして、彼らは空からそれを投下し、人々は燃えて死ぬのだ」


おそらく最も雄弁な反戦バラード「トーキング・コリアンブルース」で、ウディは「戦争全体がゲームのように見える、まるで子供たちがやっているおかしな小さなゲームのように。もし我々が兵士や船や飛行機を送らなければ、赤軍が商品と国民を獲得するのは同じだ」と唄っている。


ガスリーはこのように問いかける。


「なぜマックは数千人が刈り取られるのを見たいんだ?


赤軍が次のラウンドで勝ち残ることを知らないのか。我々は南部に物資を送り、彼らは北部の人たちにそれを配る。


この前の中国人の配達の時、彼の頭はどこにあった?数千の兵隊と飛行機は南が北に渡さないようにするために使う価値はない


蜂が自分の花や巣に近づかないようにするために、一人の人間の命を使う価値はない。


韓国の赤軍はどちらにしてもクリスマスパッケージを手に入れる。


赤軍に入るか、赤軍のメッセンジャー・ボーイになるかだ」


ガスリーは、この戦争を、アメリカの努力もむなしく、社会の総動員を伴う国家解放の闘いだと理解していた。ガスリーはこの歌の中でこう続ける。


「マッカーサー元帥が故郷から遠く離れたところで何をしているのか、私は時々不思議に思う。


彼はあそこが好きではないのだろう、なぜ子犬のテントを畳んで家に戻ってこないのだろう、そして彼の精神神経症のGIたちを連れて帰ってくるのだろう。


GIボーイズがあそこを嫌がるのはよく分かっているんだ」


その時代からFBIは彼を監視していたというが、ピート・シーガーのように、下院非米活動委員会(HUAC)に連行されることもなく、ポール・ロベソンのように、パスポートを剥奪されることもなく、ウディ・ガスリーは非人間的な活動を続けた。彼は、大きな決断を下す男たちの非人間性を嘲笑し続けた。「Hey General Mackymacker」(1952年)の中でウディはこう書いている。


「ホッ、ホッ、ミスター・ラヴビット(国防長官ロバート・ロベットのこと)、あの吹雪は確かに苛烈だった(寒い冬のことだ)。


荷造りをしている姿は見えないが、俺たちを死ぬために行進させたのか? 歩いているのか、それとも走っているのか?


おい、シンマン・リー君、何が悪かったんだ? プジョンから追い出された時、南ピョンヤンに戻った時、まだ散歩していたのか? それとも走っていたのか?


おい、ディグジー・マッキマッカー、クリスマスは歩いて帰ると言ったが、どのクリスマスとは言っていないぞ。歩いて帰るのか、それとも走って帰るのか、知りたいんだ。


マッカーサーが提唱したように)共産主義者を原子爆弾で攻撃し、彼らが我々を原子爆弾で 攻撃すれば、誰も走らないだろう」



3.ベトナム戦争でウディが残したもの


 核兵器による不安と、自ら危険を顧みず勝利を宣言して国民を欺いた指導者によって特攻隊に送られた米兵への憂慮を表現している「Hey HeyGeneral Mackymacker」は、同じようなテーマを持つ多くのベトナム反戦歌への道筋をつけた。

 

例えば、カントリー・ジョー&ザ・フィッシュの「I Feel Like I'm Fixin' to Die Rag」(1965年)は、ウォール街の暴利に言及し(「さあウォール街、遅れをとるなわこれは戦争オゴリだ、ここに儲かる金はいくらでもある、軍にその商売道具を供給すればの話・・・」)、この曲は、軍の幹部とその血に飢えた反共産主義をあざ笑ったものである。ある一節にはさらにこうある。「さあ、将軍たちよ、急ごう。ついにビッグチャンスが来たのだ」と。この曲のコーラス(「and its' one two three, what are we fighting for?)は、ウディが以前に韓国で歌ったベトナム戦争での人命の不条理、無目的、浪費を指摘するものであった。


フィル・オックスの「アイ・エイント・マーチング・エニモア」(1965年)は、ウディ・ガスリーと同じように、「戦争に導くのはいつも年寄り、死ぬのはいつも若者」と宣言している。この曲は「トーキン・アトム・ボム」のように、「日本の空で最後の任務を果たし、強大なキノコの轟音を響かせ、街が燃えるのを見て、私は学んだ、もうマーチングしないことを」と続く。 

 

ピート・シーガーが1967年に発表した有名な歌「Waist Deep in the Big Muddy」は、1942年にミシシッピ川が深すぎるという軍曹や兵士の警告にもかかわらず、隊長に命じられて川を下る米兵の小隊を中心に構成されている。

 

大尉は、ベトナムを連想させるように、聞く耳を持たず、突き進み、兵士たちはどんどん水の中に沈んでいく。シーガーは、「私たちに必要なのは、ほんの少しの決意だ。私たちはビッグ・マディーに首まで浸かり、大馬鹿者が進め」と言う。そして、その結末は、最終節に描かれている。「突然、月が曇ってきて、ゴボゴボという叫び声が聞こえた。数秒後、隊長のヘルメットだけが浮いていた。軍曹が『お前たち、こっちを向け!』と言った。これからは私が責任者だ。

 

ここでシーガーは、兵士が指揮官の後を継いで、不当な戦争による大規模な破壊から名誉ある撤退を図るという、ウッディの反権威主義的ファンタジーのバリエーションを提供していたのである。


朝鮮戦争は、ベトナム戦争と多くの共通点があるが、マッカーシズムや第二次世界大戦後の抑圧的な環境の中で、大規模な反戦運動は展開されず、アメリカ軍指導者に対するアメリカの信頼が醸成されていった。ウディ・ガスリーの戦争への反省は、結果として、シーガー、ジョーン・バエズ、フィル・オックス、カントリー・ジョーのベトナム戦争への反撃の歌のように、世代や運動の戦意となることはなく、実際、彼がどの程度公に歌ったかを示すものはほとんどない。


しかし、ウディは、戦争に反対する活動家の一人であり、1960年代の反戦運動の種をまいたと思われる。
 
 
社会学者のC.ライト・ミルズは、「子供や女性や男性を石油ゼリーで焼く」米国の戦闘機(韓国)によって行われた機械化・非人間化された虐殺に嫌悪感を示した同時代の人である。 「共産主義者の作家、ハワード・ファストは、反戦詩「朝鮮戦争の子守唄」を書き、韓国の子供たちに目を閉じ、「燃えるガソリン、とても純粋で穏やかな炎で燃える穏やかでジェリー状のガソリン」を忘れ、「周りに落ちて肉を引き裂き、地面を引き裂く爆弾の破裂音を聞かず、半分狂った男の腹から聞こえる痛みの叫び声を聞かない」よう呼び掛けた。韓国は抑圧から救い出され、「自由世界」は不況から救われた。脳や骨のかけら、痛みの叫び、苦悶のうめき、人肉の焼ける臭さ、生々しい裂傷は何でもない、それがあなたを自由にするのだから」とファストは辛辣に言い切った。
 

ウディと共にピープルズ・ソングスの一員であった歌手であり公民権運動の指導者であるポール・ロベソンは、朝鮮戦争をアメリカ史上「最も恥ずべき戦争」と呼び、マディソン・スクエア・ガーデンでの集会で、「アメリカの場所はラファイエット、フランス革命の英雄たち、トゥサイン、コジオスコ、ボリバルの側だった--ヨーロッパのクイーズ、アジアのチェン、バオダイ、シンマンリーではない」と宣言している。『フリーダム』紙の1952年1月号でポール・ロベソンはこう書いている。
 

「この戦争で10万人のアメリカ人の死者、負傷者、行方不明者が出た。それ以上に100万人の韓国人を殺し、傷つけ、家をなくした。米軍は、侵略的で帝国主義的な軍隊がそうであるように、獣のように行動してきた。38 度線の北と南で、彼らは朝鮮人を侮蔑的に見、汚らわしい名前で呼び、女を犯し、老女や子供を支配し、捕虜を背中から撃ってきた」

ガスリーもまた、あらゆる戦争を野蛮なものだと考えていた。1952 年 11 月に書かれた「バイバイ、ビッグ・ブラス」では、ガスリーは自分が軍隊に再入隊し、 「誰もこの旅に出ることを私に尋ねなかった」にもかかわらず、新兵訓練を受けた後に「戦争支配者」によって「昔の朝鮮に忍び込む」ことを思い描いている。
 
 
お偉いさんは「雷のように怒鳴り、罵り、帽章と銃を渡され、手榴弾の詰まったベルトを留められ、命令される、少し遊んでこい」。ウディは、さらにこう続けている。「戦争になったら武器を持てと言われた/いいよ、貸してくれるならすぐにでも持つよ、でも保証はできないよ」
 

ここでウディ・ガスリーは、韓国や中国側への共感と、彼らの大義名分に対する認識を表明している。


私は韓国で、ジャングルや山々をパトロールしていました。


武器を地面に下ろし、焚き火をし、ここで話をした。


ビル・スミスは私の名前、彼の名前はホー・トン。私たちはお互いに恋人の写真を見せ合いました。


ウディはさらにこう語る。


「レッドスター・ホー・ツンに武器を渡して、草屋根の小屋まで運んだ。


すると、国連軍の砲兵師団が、日が暮れるまでその小屋を砲撃したんだ。


お偉いさん方は野戦ガラス越しに私を見ていた。9ドル小屋に100万発の弾丸が撃ち込まれた。


ホー・ツンと俺は、ただ横になっていた。赤い星の軍隊が俺を追跡しているその時に


そのピクニックには国連軍の兵士は一人も残っちゃいなかった。男も、大砲も、ライフルも、戦車もなく、7千人の赤軍派が踊りながらラフィンをしていた。


私がどうやって荷物を運ぶか見せると、私は赤い星とその制服を手に取り、彼らは言った:あなたは一生ヒーローであり続けるだろう。


その日のうちにロックハウスを建て直し、今は子供と妻と一緒にここに住んでいる。私の周りに咲く花に、こんにちは。


平和のために植える種に、こんにちは。グッバイ!  さよなら!  このビッグ・ブラス野郎! 俺はもうどこにもいかねえぞ!」

 

これはウディ・ガスリーが最も反抗的であり反体制的であったときのものだ。彼は、原爆の影響を報告した、最初の国際特派員であるとともに、後に朝鮮戦争での米軍の残虐行為やインドシナ戦争での米軍とその同盟国を暴露しながら韓国人や中国人を人間らしくしたオーストラリアのジャーナリスト、ウィルフレッド・バーチェットと歌で対比をなしている。


ウディのバラードは、アメリカの朝鮮戦争を非難し、平和主義、反権威主義、反物質主義を掲げた1960年代のカウンター・カルチャー運動を先取りしたものであり、アメリカ社会を形成していた。1930年代、ウディは、オクラホマからカリフォルニアまで、ピケットラインやバーや酒場で演奏する浮浪者の生活を実際に経験し、そのコミュニティの疎外された人々を哀れんでいる。1960年代のカルフォルニアのヒッピーは、共同体主義や自然回帰運動に倣い、農村に共同生活を営み、財産を共有し、有機食品を栽培し、性的束縛から解放されてシンプルかつ平和に暮らす文化を発展させた。


ウディの末息子アーロは、ベトナム戦争の徴兵に反対するヒッピーソング「アリスのレストラン」を書いた。

 

これは、軍の心理学者に殺意があると言ったことよりも、主人公アリスの住む教会のゴミを誤って捨ててしまい、ポイ捨てで逮捕されて徴兵を免れた自分の体験に基づいて、無表情に書いたものだ。これは、政府の優先順位が歪んでいることの典型であった。アーロは3歳の時にハディ・"リード・ベリー"・レッドベターのアパートで初めてギターを弾き、高校時代には父親のために慈善興行を行い、子供時代には多くの反核、公民権、反戦のデモに参加した。アリスのレストラン」で、彼はこう歌っている。

 

「この皮肉は、アーロがベトナムでの暴力と殺戮に強い嫌悪感を抱いていたことと同様に、韓国に対する父親の見解と呼応している。アーロが兵役を拒否された後、入隊手続きを担当した軍曹は、「小僧、我々はお前のような奴は嫌いだ、お前の指紋をワシントンに送ってやる」と言った。


1969年11月15日、ウディの息子であるアーロは、ワシントンD.C.で行われたベトナム戦争反対モラトリアムで、25万人の観衆を前にして、ウディ・ガスリーの歌、「I've Got to Know」を歌い上げた。この曲は、朝鮮戦争が始まって2ヵ月後に初めて発表された。それはこう問いかけた。

 

なぜ、あなたの軍艦は、私の海を走るのですか? 

 

なぜ、私の空から死の灰が降ってくるのか? 

 

なぜ、あなたの船は食べ物や衣類を運んでこない? 

 

私は知らなければならない、ぜひとも知らなければならないのだ」

 

ピート・シーガーは、作家・スタッズ・ターケルとカルヴィン・トリリンに、”「I've Got to Know」は、ゴスペル曲「Farther Along」に対するウディの返答であり、天国の約束は地上で経験するこの世の不公平と窮乏に対する十分な報酬だと聴く者を慰めている”と語っている。


この歌は、ウディとアーロがモラトリアムで語った「親父がここに来れば、本当に喜ぶだろう」という思いが込められている。ウディと末息子のアーロは、モラトリアムの観衆に対して、「老人がここにいれば本当に喜ぶだろうし、彼の魂はそこにいる子供たちの中にあるはずだ」と語っている。