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2010年代半ばに南アフリカで誕生したAmapianoは、現在、ヨーロッパでも注目されるようになった。最近では、BBCでも特集が組まれたほどです。この音楽は、南アフリカのDJ文化の中で育まれ、10年代の変わり目にブームを巻き起こし、音楽業界を席巻し、この国で最も速いスピードでジャンルが確立された。多くの愛されるジャンルからインスパイアされたスタイルを持ちながら、全く新しい現象を生み出しているアマピアノは、この3年間ですっかり世界で有名になったのです。


一説では、このAmapianoというジャンルは、2012年頃に初めて生まれ、南アフリカの北東部にあるハウテン州のタウンシップで、最初にブームになったのだそう。しかし、現在のところ、アマピアノの正確な誕生地については、さまざまなタウンシップが主張しているため、まだまだ議論の余地がありそうです。少なくとも、ヨハネスブルグの東に位置する町、カトレホン、ソウェト、アレクサンドラ、ヴォスロラスといった場所でサウンドが流通し、アマピアノは独自の発展を遂げていきました。Amapianoに見られる、Bacardi music(「Atteridgevilleの故DJ Spokoが創設したハウス、クワイト、エレクトロニックの要素を吹き込んだハウス・ミュージックのサブジャンル」)の要素は、この面白いジャンルがプレトリア(南アフリカ共和国ハウテン州北西部のツワネ市都市圏にある地区)で生まれた可能性を示唆するものとなるでしょう。


もうひとつ原点が曖昧なのは、その名前の由来です。”Amapiano”は、イシズールー語、イシクソサ語、イシンデベレ語で「ピアノ」を意味するという。このジャンルの初期のピアノ/オルガンのソロやリックに直接インスパイアされた名前だという説もあるようです。Amapianoは、ディープハウス、ジャズ、ラウンジミュージックをミックスしたものと言え、初期のサウンドに大きな影響を与えました。シンセ、エアリーなパッド、そして、「ログドラム」として有名なワイドなパーカッシブベースラインが特徴です。このベースラインは、このジャンルを際立たせ、Amapianoの真髄とも言えるサウンドを生み出すのに欠かせない特徴の一つです。このログドラムというスタイルを最初に生み出した人物は、TRPこと、MDUというアーティストです。


Kabza De Small

 

「正直、何が起こったのかわからないんだ」このジャンルのパイオニアであるKabza De Smallは、「彼がどうやってログドラムを作ったのかわからない」とコメントしている。「アマピアノの音楽は昔からあったが、ログドラムの音を考え出したのは彼だ。この子たちは実験が好きなんだ。いつも新しいプラグインをチェックしてる。だから、Mduがそれを理解したとき、彼はそれを実行に移したんだよ」


このジャンルはすぐにメインストリームになった。2017年と2018年頃、アマピアノはハウテン州の州境の外でも人気を博すようになる。その頃、南アフリカらしいもうひとつのジャンル、iGqomが最盛期を迎えていた。iGqomは、Amapianoと同時期にクワズールー・ナタール州のダーバンで生まれ、2014年から2017/18年にかけて一気に全国的に知名度が上がった。その後、アマピアノはiGqomを追い越して国内の音楽シーンのメインストリームに上り詰めた。


アマピアノは、2020年代、そして、ミレニアル世代とZ世代の若い若者のカルチャーを定義する著名なジャンルとなった。南アフリカにおけるダンスミュージックの人気は、常に若い世代に与える影響によって測られてきた。80年代のバブルガム・ミュージックから、バブルガム/タウンシップ・ポップ、クワイト、バカルディ、ソウル、アフロハウスなど、サブジャンルはメインストリームに入り込み、一度に何十年も支配してきた。


「アマピアノは、南アフリカの若者の表現であり、逃避行である。アマピアノは、南アフリカの若者たちの表現であり、逃避行だ。若者たちが日常的に経験している苦労や楽しみを表現している」と、アマピアノで有名なDJ/プロデューサーデュオ、Major League DJzは語っています。「音楽、ダンス、スタイルは、彼らが南アフリカの若者の純粋なエッセンスを見る人に見せるための方法でもあるのさ」


Major League DJs


Major League DJsは、このジャンルの成功と国際的な普及に貢献した第一人者として数えられる。2020年のパンデミック時に流行した彼らの人気曲「Balcony Mix」は、Youtubeで数百万回再生され、Amapianoに海外市場を開拓した。今年、彼らは、(Nickelodeon Kids Choice Awards 2022)ニコロデオン・キッズ・チョイス・アワード2022にノミネートされたことで話題を呼んだ。


そしてもうひとつ、アマピアノというジャンルを語る上では、DJストーキーの存在を抜きにしては語れない。彼は、ミックステープやDJセットを通じて、この音楽を広めたDJの一人として知られています。さらに、Kabza De Small、DJ Maphorisa、Njelicなど、多くのDJがこのジャンルを国内で成長させ、アメリカやヨーロッパで国際的なライブを行い、そのサウンドを国外に普及させることに大きな貢献を果たしてきたのだった。

 

その後、アマピアノのオリジナルサウンドとは対照的に、このジャンルのメインストリームでは、不可欠な要素となっているボーカルを取り入れるようになりました。結果、このジャンルには新しいタイプのボーカリストが誕生し、その歌声を生かした楽曲がスマッシュヒットとなった。Samthing Soweto、Sha Sha、Daliwonga、Boohle、Sir Trillなど、多くのシンガーが公共電波に乗ったヴォーカリストとして認知され、着実にキャリアを積みあげていったのです。


このジャンルのもう一つの重要な要素はダンスです。ダンスは、南アフリカのカルチャーやナイトライフの大きな部分を占めています。iGqomのibheng、Kwaitoのisipantsulaのように、Amapianoの曲は曲よりも大きなダンスを生み出し、ソーシャルメディアのプラットフォームで挑戦することもある。


Amapiano is a lifestyle(アマピアノはライフスタイル)」というフレーズは、若者への影響を説明するのに役立っている。アマピアノのライフスタイルは、さまざまなスタイルと影響を融合したものです。


南アフリカのポップ・カルチャーの現状は、ヒップホップ・ファッションとハウスミュージックの文化が混在しており、Amapianoは、おそらくその中間点に位置しています。Amapianoは、多くの流動性を含み、常に進化し、各アーティストが新しいものを取り入れながら、日々、進化しつづけているため、一つの方法でこれというように表現することは難しいようです。今後、またこのジャンルから新たな派生ジャンルが生まれるかも知れません。この10年はまだ初期段階にあり、今後2〜3年の間にアマピアノがどこまで進化するかはまだわかりません。しかし、このジャンルは、生活やメディアの範囲を変え、いつまでも衰退する気配がないようです。

 




 

このレコードショップ「Other Music」をよく知る The NationalのMatt Berninger(マシュー・バーニンガー)は、アメリカ、メキシコ、カナダ、南アフリカ、日本でも公開されるこのドキュメンタリー映画「Other Music」の中で、「私はレコードショップのキュレーターが好きだ」と語っている。

 

"全てを調べ上げ、小さな"カード"に100の言葉を書き、それが陳列棚に貼り付けられたままであることを入念に確認する情熱的な人たち"と彼はこのレコードショップの店員を手放しで賞賛している。1995年から2016年まで営業していたニューヨークの名物レコードショップ、『アザー・ミュージック』におけるそれらの小さなカードにまつわる記憶は、多くのことを意味していた。ザ・ナショナルのマシュー・バーニンガーは、"マーキュリー・ラウンジでの最初のライヴや、レコードショップ、アザー・ミュージックで初めてカードをもらったとき、「俺のバンドは本物だ」という感じだった "と、感慨深く回想しているのだ。


2016年春、レコードショップ、Other Musicが長い歴史を経て、6月25日に閉店することを正式に発表したとき、それはニューヨークのひとつの時代の終わりを告げるものだった。映像作家のPuloma BasuとRobert Hatch-Millerは、この店の最後の週を映像ドキュメンタリーとして克明に記録していた。

 

ニューヨークきっての名物レコード店の閉店。それから、約4年が経過し、遂にドキュメンタリーフィルム「Other Music」が世界のスクリーンで上映されることになった。

 

このドキュメンタリーは、レコードショップの文化、NYCの過ぎ去った時代、特に、W.4thストリートの小店舗へのささやかなラブレターになっている。デペッシュ・モードのマーティン・ゴアは、「1平方メートルあたり、私が行ったことのある世界中のどのレコード店よりも興味深い価値があっただろう」と感慨深く語っている。


『Other Music』には、ニューヨークにゆかりのあるバンド、ミュージシャンが数多く参加している。

 

Le TigreのJD Samson、James Chance、InterpolのDaniel Kessler、Yeah Yeah YeahsのBrian Chase、Vampire WeekendのEzra Koenig、Magnetic FieldsのStephin Merritt、TV on the RadioのTunde Adebimpe、MogwaiのStuart Braithwaite、Dean Wareham(Galaxie500/Luna)、そして、俳優Jason SchwartzmanとBenicio Del Toroをはじめ、このドキュメンタリーフィルムの中で、多数のアーティストがインタビューを受けている。

 

しかし、映像の多くは、オーナーのクリス・ヴァンダールーやジョシュ・マデル、そして、何年も店に残った多くの店員たち、スタッフに賛辞がわりとして捧げられている。およそ21年の歴史の中で、アザーミュージックで過ごした人なら、一度は「そうそう、あの人だ!」と言うかも知れない。


そのスタッフの中には、アニマル・コレクティヴのノア・レノックス(パンダ・ベア)とデヴィッド・ポートナー(エイヴィー・テア)のように、自分たちのグループが有名になる以前の駆け出しだった頃この店で働き、例えば、アンチポップ・コンソーティアムのビーンズは、自分の好きな音楽を客に押し付けることをためらわなかったという。

 

「お客さんが何に夢中になっていると言っても、"新しいアンティポップ・コンソーティアムをチェックしたかい?"と言うんだ」とジョッシュ・マデルは、回想している。インターポールやヴァンパイア・ウィークエンドは、契約する前にこの店で初期のEPを販売していた。その中でも最も注目すべきは、ウィリアム・バシンスキーが挙げられるだろう。彼は、9.11に触発された『The Disintegration Loops』が、その成功の多くをOther Musicに負っていることを語っている。


この映画は、ヴァンダールー、マデル、ジェフ・ギブソンの3人がブリーカーのキムズ・アンダーグラウンドで働いていたとき、自分たちの店を開くことを決意し、ニューヨーク最大のレコード店の1つであるタワーレコードの向かいに、アザーミュージックをオープンする(これは結果的に彼らの素晴らしい行動だった)、9月11日とその直後に起こったニューヨークのロックルネッサンス、そして、この店が短期間で参入したMP3とストリーミング・サービス時代、さらに、それが結局閉店への大きな一歩となるまで、店の歴史全体を追っていくという内容である。映画のクライマックスは、レコード店の営業最終日と、オノ・ヨーコ、ヨ・ラ・テンゴ、ビル・キャラハンなどが出演する「Other Music Forever」コンサートのためにバワリー・ボールルームへ向かう祝賀「セカンドライン」パレード(マタナ・ロバーツ、ジェイミー・ブランチ、アダム・シャッツなど)を取り上げている。


「アザー・ミュージック」のドキュメンタリーは、本来ならば、2020年のレコード・ストア・デイ(4/18)のタイミングに合わせて公開される予定だったが、コロナウィルスの影響でRSDが6月20日に延期され、映画館が軒並み閉店してしまったため、4月17日から20日まで短期間のデジタルリリースとなり、レンタル料の売り上げはコロナウィルスの流行で財政難にある世界中の地元の独立系レコード店に寄付されたという。


「アザー・ミュージック」のドキュメンタリー・フィルムの予告編は下記よりお楽しみください。


日本では、9月10日からイメージフォーラムほかで放映され、その後、全国で順次公開されます。日本人としては、現地のレーベルにゆかりを持つ小山田圭吾、坂本慎太郎らが出演しています。詳細はこちらからどうぞ。


   

Jean-Michel Basquiat 

 

1960年に、ブルックリンで生まれたジャン・ミシェル・バスキアは、思春期をニューヨークとプエルトリコの間で過ごした。

 

1970年半ば、ニューヨークに戻ったミシェル・バスキアは、当時、ニューヨークの地下鉄を中心に栄華をきわめていたグラフィティアーティストの最初期の運動に加わっていました。彼は、このとき、グラフィティ・アーティストのアルディアスと運命的な出会いを果たし、ほかのタグ付を行っていたアーティストに混じり、二人は、SAMOと名を冠してコラボレーションを始めた。

 

ミシェル・バスキアは、ストリートアートのスタイルにこだわった芸術家である。ニューヨークの個展で作品を公にする前に、キースヘリング、マドンナ、デビー・ハリーなどのアーティストが名をはせたニューヨークのダウンタウンの熱狂的なクラブシーンに参加していた。1980年、ミシェル・バスキアの作品は、ダウンタウンのアートシーンを正当化するものとみなされ、タイムズスクエアショーで最初に公のものとなった。

 

画家バスキアの名がメインストリームに押し上げられる以前、LAのブロード博物館の創設者は、この画家のことを知っていたといいます。彼らは、ニューヨークを訪問した際に、バスキアとコンタクトを取ろうとし、彼のスタジオに出向き、後にバスキアをロサンゼルスに招きいれた張本人でもある。

 

1980年代は、アメリカの文化、ヒップホップ文化、黒人文化の観点から非常に興味深い時期にあたると、南カルフォルニア大学の元DJ兼映画メディアを専門とするトッド・ボイド教授は話しています。「1980年は、ホイットニー・ヒューストン、マイケル・ジョーダン、エディー・マーフィーらの黒人の芸能人がスーパースターになった。変革の十年であった」と指摘している。また、ボイド氏によれば、ミシェル・バスキアは、上記のスーパースターと同レベルの水準にあった存在であるという。「バスキアの芸術について話すことは大事なことですが、それは彼の芸術と彼の芸術における全体的な文化的な影響について話すこととは別のことです」

 

 

ボイド氏は、1983年にバスキアがプロデュースしたランメルジー、K−ロップのヒップホップシングル「ビートバップ」、そして彼の絵画作品である「ホーンプレーヤー」を、ヒップホップとビバップとして知られる即興スタイルのジャズ(フリージャズ)との関連性が見いだされる点であるとしています。 

 

「ホーン・プレーヤーズ」は、ミシェル・バスキアのヒーローであるチャーリー「ザバード」パーカーとディジーガレスピーを題材として描かれていて、これらは、第二次世界大戦後に人気を博した音楽ジャンル「ビバップ」の先駆者の二人であると、ボイド氏は指摘しているのです。一見、バスキアとビバップにはさほど関連性はないと思われますが、これはどういうことなのでしょう?

 

無題 頭蓋骨
 

 「ビバップとヒップホップの間には円滑な線を描くことが出来ます」と、ボイド氏は指摘します。「ミシェル・バスキアは、実際にはこれら2つの世界を緊密ににつないでいるんです。1980年代のアーティストの出現は、ヒップホップ文化の広がりと呼応するものでした。MTVに登場した初期のラップミュージックビデオ「Rapture」という曲のブロンディのミュージックビデオにバスキアは出演しているのです」

 

 

さらに、バスキアは、まず間違いなく、自分の芸術と、ビバップ時代の音楽の台頭に自己投影をしていた、とボイド氏は指摘しています。「ビバップのミュージシャンはスタンダードからの逸脱を意味していました。彼らは芸術として自分たちの音楽を真剣に受け止められることを期待していた人々です。ビバップのミュージシャンは、エンターテイナーであるという概念をはなから拒絶しているのです」、さらに、ボイド氏は、かのバスキアも前の時代のビバップシーンのミュージシャンたちと同じような苦境に陥ったと指摘している。「たとえば、バスキアの芸術の初期の常連が、絵画を家具の色彩と一致させたという逸話が残っている。ミシェル・バスキアの「不快な自由」1982年の作品では「非売品」という文字が大文字で書かれており、さらに、バスキアという芸術家が真剣に受け止められ、みずからのアートを単なる商品として見られないことを望んでいた」のだという。それをバスキアは、絵画の中の大文字のフォントに込めていたというのである。

 

「Horn Players」では、両方のアーティストの名前(グラフィティの専門用語ではタグと呼ばれる)が取り消され、線付きのテキストで描かれている。ボイド氏はこれを、ビバップジャズミュージシャンが有名なジャズ・スタンダードを認識できないように方法と比較検討を行っている。「ビバップミュージシャンは」と、ボイド氏はさらに説明しています。「しばしばアメリカの伝統的な歌集を踏襲しつつ、そこから脱構築しようと試みていた。このたぐいの即興、この取り消し線、また、この脱構築は、鑑賞者がバスキアの絵に明らかに見出すものであり、そこに、ジャズ、そして、ジャズからの影響がはっきりと感じられるのです」


  

Horn Prayers


さらに、ビバップジャズ、ヒップホップ、アメリカの20世紀の主要なブラックミュージックの影響は、バスキアが自身のレコード・レーベルでプロデュースし、さらにリリースを手掛けた"RammeleeandK-Rob1983"から発売されたヒップホップシングル「Beat Bop」のカバアートにも表れているという。


ボイド氏は、取り消し線のついたテキストを、レコードでスクラッチするヒップホップDJのテクニックと同一視しており、この事について、以下のように説明しています。「ヒップホップというのは、基本的に、ほかの音楽を利用し、新しい音楽を作成するジャンルである。古いものが是非とも必要であり、それをリミックスという形で新しいものを作りなおす技法なのです。つまり、その手法をミシェル・バスキアは絵画の領域で表現しようとしていたのです」

 

 

音楽は、常に、芸術的な優雅さが欠かせないのと同じく、常に、物理学、数学的思考がなければならない。

 

そして、この考えに非常に近い考えを持っていたのが、世に傑出した相対性理論を証明したかのアルベルト・アインシュタイン氏です。アインシュタインは、これまで歴史上多くのパイオニアにインスピレーションを与えてきましたが、彼自身の概念的思考の発展において、音楽というのは、非常に特別な役割を果たしていました。その生涯において、ヴァイオリン、ピアノ、更に、晩年、エレキギターを演奏していたともいわれるアインシュタインの音楽へのたゆまざる愛情は、単なる物好きなどでなくて、彼の世界観や宇宙観を形成する永続的な情熱だったのです。


幼い頃から音楽に親しんでいたアルベルト・アインシュタインは、「もし、科学に人生を捧げていなかったら、音楽家になりたかった」と後に語っています。「もし、物理学者でなかったら、おそらく音楽家になっていただろう。私は、よく音楽の中で考える。白昼夢も音楽で見ている。私は自分の人生を音楽の観点から見ています...私は人生のほとんどの喜びを音楽から得ているのです」


アルベルトの母親パウリーネ・コッホは、音楽家であり、幼い時代の彼に音楽の勉強をするように促しましたが、5歳の時、将来のノーベル賞受賞者は動じなかったそうです。13歳の時、モーツァルトのヴァイオリン・ソナタに出会い、独学でヴァイオリンを弾くようになり、音楽に目覚めたのでした。


アルベルト・アインシュタインは生前、モーツァルトへの深い愛着を持ち続けていたが、ベートーベンの曲は演奏が得意だったにもかかわらず、それほど感動することはなかったという。高校時代、アインシュタインは、実際にベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタを演奏し、試験官から「この少年は音楽に対する情熱が素晴らしく、その演奏に洞察力がある」と称賛された。


アインシュタインは、モーツァルトに加え、バッハの熱狂的な大ファンとして知られていて、「2つのヴァイオリンのための協奏曲」をよく演奏していました。アルベルト・アインシュタインがヴァイオリンの才能に恵まれていたことをご存じの方は多いはずですが、2番目の妻エルザは、物理学者と恋に落ちたのは、彼の弾くモーツァルトの演奏が崇高だったからだと明かしています。


また、アルベルト・アインシュタインは、モーツァルト、バッハの他に、ヴィヴァルディ、シューベルト、スカルラッティ、アルカンジェロ・コレッリなどをはじめとするドイツ、オーストリア、イタリアの古典派やロマン派の作曲家を好んで演奏していた。

 

しかし、彼は、リヒャルト・ワーグナーを倦厭しており、以下のような有名な言葉を遺している。「言うまでもなく、リヒャルト・ワーグナーの創意工夫には感心しますが、彼の建築的構造の欠如はほとんど退廃的としか思えません。さらに、「私にとって、ワーグナーの音楽的性格は、何とも言えず不快なものであり、ほとんどの場合、嫌悪感を持ってしか聴くことができません」と述べています。しかし、これらの問題には、ドイツ生まれのユダヤ人としてのアインシュタインの民族性における音楽的志向、つまり、ワーグナーとナチの密接な関係が少なからず潜んでいるように思えます。


相対性理論、重力波といった難解な理論的テーマ、それを解き明かすためのアルベルトの長期間にわたる物理学的構想は、彼の音楽的構造への深い理解に左右されているとさえ主張する専門学者も中にはいます。たとえ、そのような主張が突飛なものであったと仮定するにしても、彼が仕事のプロセスに音楽を取り入れ、しばしば音楽を通して障害を乗り越えていたことは間違いありません。


アルベルト・アインシュタインは、相対性理論を証明した最初の科学者としても知られていますが、その点の功績を取り上げられると、彼は、生前、「誰よりも長く、一つの問題に集中して取り組んできただけである」と説明しています。しかしながら、その間には、様々な難問をくぐりぬけねばならなかったはずであり、彼はこの問題解決へのアプローチと独自の作業プロセスについて一家言もっており、生前、次のように語っています。「しかし、即興ーインプロヴァイゼーションで、何かを成し遂げようとしているとき、セバスティアン・バッハの明快な構成力が是非とも必要になるのです」以上のアルベルトの言葉は、セバスティアン・バッハのインヴェンション、平均律、イギリス、フランス組曲といったピアノ曲の構造性、マタイ受難曲を始めとする論理的な構造をなす、長大な宗教曲や交響曲が、いかに彼の物理的思考に強いインピレーションを与え、さらに、重力波や相対性理論といった人類の難問を解き明かすための大きな助力となっていたのか伺えるのです。


ご存知の通り、アルベルト・アインシュタインは、原子爆弾の開発に携わった人物ではあるものの、それ以外にも他の人物にはなしえない物理学、数学に大きなイノヴェーションもたらした偉人でもある。モーツアルトやバッハといった上記のような先見の明のある人たちの作品を通して、それらの構造的な音楽の内奥に長きにわたり接することにより、その物理学的な構造の中にある核心のようなものを捉え、さらには、未知の領域に踏み出すための適切なインスピレーションを得、まったく驚くべきことに、宇宙に関する我々の理論を180°変えてしまった。つまり、未来における物理の常識を覆してしまった。かれは、最も有名な「相対性理論」の中で、光の伝達する速度について、難解な数式を介して解き明かしてみせた偉大な人物でもありますが、しかしまた、音楽の関係性を通じて、科学と芸術の融合の想像を絶する進歩、前例のない創造的な発見をもたらすことを証明したわけです。もちろん、以上のエピソードから、もし、アルベルトが生涯にわたり、バッハやモーツアルトの音楽に深い親しみを覚えていなかったら、と最後につけくわえておかなければなりません。数々の偉大な物理学の証明もなければ、数々の発明品もこの世に生まれでることはなかったはずなのです。

 

 

1.マンチェスターの狂乱の時代

 

1980年代から1990年代初頭にかけて、英国の音楽シーンは、マンチェスターを中心に形成された。古くは、産業革命の時代から工業生産を旗印に経済的な発展を遂げたマンチェスターに主要なミュージックシーン、若者たちの文化が新しく育まれた。

 

このマンチェスターのミュージックシーンは、別名「Madchester」ともいわれ、1980年代の花開き、若者たちの地下パーティー、ドラックなどを介して、ダンスロックムーブメントが英国内に浸透していった。 時代は決して明るくなかった。当時のマンチェスターの若者たちはブラックマンデーという経済的に暗い時代を生きていた。

 

「鉄の女」の異名をとる新資本主義を掲げて政権運営を行ったマーガレット・サッチャー政権下での不況、あるいは、英国内の失業率の上昇という社会背景において、「音楽」という得難い何かに当時の英国内の若者たちは慰みを見出そうとしていた。それは日本の平成時代の先行きの不安という概念に囚われた日本の若者と重なるものがある。1980年代、大きな旋風を起こした「Madchester」は、イギリス国内の大学でも研究対象となっている文化のひとつであるけれども、決して健康的な文化というようには言いがたい。これは何かしら、熱に浮かされたような狂乱的なムーブメントであり、NYの1970年代のVUやThe Fugsといったバンドに象徴されるような退廃的な雰囲気を持つ文化のひとつでもあった。

 

これらのマッドチェスター・シーンの中から、ハッピー・マンデーズ、インスパイラル・カーペッツ、ナチスの喜び組の名にちなむジョイ・デイヴィジョン、さらには、ストーン・ローゼズといったUKのロックシーンでも際立ったロックバンドが輩出された。上記のバンドは、ザ・スミスも同じように、真夜中の闇の中を漂うかのようなアンニュイさを音楽性の特徴としていた。これらのサウンドは、どういった他の芸術形式よりも、深く現実性に根ざしており、若者たちの生活の真実を色濃く反映していた。

 

もちろん、この流れを引き継いで、オアシス、ヴァーヴ、ブラー、レディオ・ヘッドが登場する。後の時代には、アークティック・モンキーズ、カサビアンらが、登場の機会を伺っていた。これらのメインストリームの合間を縫い、アンダーグラウンドシーンでは、トリッキー、ポーティスヘッドをはじめとする暗鬱なトリップ・ホップ、「ブリストルサウンド」が生み出されたのだ。

 

これらのロックバンドは、 特に前の時代のビートルズ、Led Zeppelinといった偉大なロックバンド、その後のクラッシュやオリジナル世代のポスト・パンクが出てきた後、ロックという音楽が完全に行き詰まりを見せていた時代に、クラブミュージックのサウンドを新たにロックに取り入れることにより、1980年代から1990年代初頭にかけて新時代を象徴する音楽を生み出してみせた。それはもちろん、のちのオアシスを始めとするブリット・ポップに引き継がれていった。

 

最初のマンチェスターサウンドは、スペインのイビサ島における真夜中のクラブパーティーの文化をマンチェスターに持ち帰った地元のDJたちが、フロアでクールな音楽をかけ、それが若者たちにもクラブ文化として浸透していき、さらに、マンチェスターの若者たちは、それを既存のロックミュージックと融合させたというのが通説となっている。いってみれば、ロック音楽が行き詰まりを見せていた時代、ダンス・ミュージックとロックの融合をはかることにより、英国のロック音楽は新たな息吹を吹き込まれたのだ。現在の、英国内の主要なロック音楽、ポピュラー音楽にとって欠かさざる点であり、それは一種のイギリスらしい音楽文化として引き継がれているようにも思える。これらの文化は若者たちの生活に退廃性をもたらすと同時に、カルチャーを生み出す基盤となった。当時の社会背景を知るのに最適なのが「24 Hours Party Peole」という2002年の映画である。このドキュメンタリーの要素が込められた映画には、ハッピー・マンデーズやジョイ・デイヴィジョンがストーリー中に登場する。


これらのマンチェスターのミュージックシーンは、少なくとも、その最初期においては、地元のクラブから始まった。そして、そのクラブ文化の浸透、さらには後発のダンスロックと呼ばれるムーブメントを後押ししたのがマンチェスターのインディペンデントレーベルの「Factory Record」であった。

 

 

2.トニー・ウィルソン、パンクロックを引き継いだ新時代の音楽

 

 

1980年代のマンチェスターサウンドを最初に形づくり、それを英国全土に浸透させた先駆者はほぼ間違いなくファクトリーレコードの主宰者のトニー・ウィルソンだ。 サルフォードで生まれで、ケンブリッジ大学で教育を受けた後、インディペンデントレコード「Factory Records」をマンチェスターに設立する。 

 

トニー・ウィルソン (中央)

 

一説によると、ウィルソンは、大学で学んだ後、他の卒業生のようにエリートコースを歩まず、自分の惚れ込んだ音楽を紹介したり、それをある種の文化として広めていくことに喜びを見出していたという。 

 

1970年代から、トニー・ウィルソンは、最初期からパンク・ロックムーブメントを擁護した数少ない支持者であり、英国内のカルチャーを紹介するテレビ番組「So It Goes」の司会役を務めていた。このテレビ番組内で、BBCのラジオパーソナリティー、ジョン・ピールのような役割を果たし、ザ・クラッシュ、スージー&バンシーズ、バズコックスといったロンドンパンク、ニューウェイヴシーンの代表的なバンドを世に紹介し、彼らをメインストリームに送り出していった。

 

トニー・ウィルソンは誰よりもパンクロックの魅力について知悉していた人物だ。1979年6月4日、彼は伝説的なパンクロックショーに参加していた。ハワード・デイヴォート、そして後にバズコックスを結成するピート・シェリーが主催したロンドンのレッサーフリートレードホールの伝説的なコンサートに居合わせ、最初のパンクロックムーブメントの熱狂を間近で見届けていた。 

  

この日のショーには、地元の駆け出しのパンクロックバンド、The Sex Pistolsが出演していた。この日のロンドンのショーは、わずか40人程度の動員であったにもかかわらず、のちの1970年代にかけての、ロンドンパンクムーヴメントの先駆けとなった重要な分岐点となったライブとして、ポピュラー音楽の歴史に今も印象深く刻みこまれている。つまり、この日のショーの価値は、そこに居合わせた人数でなくて、誰がそこで何をやっていたのかに象徴されていたのだ。

 

セックス・ピストルズ、バズコックスの後の世界的な活躍は言わずもがなで、さらに、この日のライブのPAを務めていたマーティン・ハネットは、後に、ハッピー・マンデーズを結成し、さらにストーン・ローゼズの独特なサウンドを生み出した人物だ。

 

マーティン・ハネット (右)


さらに、このライブには、イアン・カーティス、バーナード、ピーターの三人が参加している。すでに多くの方がご存知の通り、彼らは、Joy Divisionを結成し、イアンの死後、ニュー・オーダーを結成し、UKエレクトロ・サウンドを完成へと導いた。

 

きわめつけは、将来のマンチェスター、英国内の最も有名なミュージシャンとなるスミス・スティーヴン・モリッシー、The Fallを結成するマーク・E・スミスも、この日のライブに居合わせていた。つまり、この日のロンドンのレッサーフリートレードホールライブショーには、後の10年における英国のミュージックシーンを担う人物が一同に会していたのである。

 

 

3.Factory Recordsの発足 イベントからの発展

 

その後、これがマンチェスター郊外のモスサイドにあるラッセルクラブで開催されたイベント、ファクトリーナイトの始まりにつながった。

 

トニー・ウィルソン、地元の俳優であるアラン・エラズマス、プロモーターのアラン・ワイズが上演し、夜には、ドゥルッティ・コラム、ジョイ・デイヴィジョン、キャバレー・ヴォルテール、ティラー・ボーイズなどのバンドにように、ライブパフォーマンスが行われるようになった。

 

最初のイベントのポスターは、ファクトリーが作製した全カタログ番号を提供する、というレーベルポリシーに従い、その後、「FAC」としてカタログ化される。彼は、ポスターを届けピーター・サヴィルによってデザインされた。

 

Fac Dance 2: Factory Records 12inch Mixes & Rarities 1980-1987

 

イベントの開催に伴い、ファクトリー・レコードは、レーベルとしての役割を担うようになる。 トニー・ウィルソン、アラン・エラズマス、ジョイ・デイヴィジョンのマネージャー、ロブ・グレットン、プロデューサーのマーティン・ハネットにより設立されたファクトリーレコードの最初のリリースは、主催するイベントに出演したアーティストの曲のコレクションであった。

 

しかし、その後、ファクトリーがレコード会社としての運営に問題を抱えたのは、アーティストとの正式な契約を交わさなかったことによる。 レーベルが作製した唯一の法的な文書は、彼らが一緒に仕事をしたアーティストが、彼らの音楽、芸術的な方向性に対する所有権を持っていることを示す声明だけであった。

 

 

4.ジョイ・ディビジョン その後のマンチェスターシーンに与えた強い影響 


これらの最初のファクトリーイベントから出発し、1980年代以降のマンチェスターサウンドを最初に定義づけたのは、イアン・カーティスを擁するジョイ・デイヴィジョンにほかならない。

 

当時から、イアン・カーティスは市役所に勤務しながら、ロックアーティストとしての歩みを始めた。だが、ライブやレコーディングにおける過労の連続が、彼の生涯に、また、その後のマンチェスターの音楽に仄暗い影を引いたことは事実である。このバンドは、最初のファクトリーレコードの代名詞のような存在、そして、のちのマンチェスターサウンドの最初の立役者となった。彼らは、1979年4月にストックポートのストロベリースタジオで、デビュー・アルバム「Unknown Pleatures」のレコーディングを開始する。  

 

Joy Division 「Unknown Pleasures」1979

 

ジョイ・デイヴィジョンの無機質なサウンドを生み出したのが、最初のファクトリーのイベントにPAを担当していたマーティン・ハネットであった。彼は、このお世辞にも演奏が上手くなかったバンドの演奏力を鍛えた人物でもあり、彼の狂気はファクトリー伝説の一貫の語り草になっている。レコーディング中、ドラムキットは解体され、スタジオの屋上で組み立てなおされた。さらに、イアン・カーティスは、ヴォーカルトラックを、マイクではなく、電話回線で録音をおこなった。

 

そして、「Unknown Pleasure」は、ドイツのクラウト・ロックの影響があってのことか、金属的なSEの音が組み込まれている。これらの独特な金属音は、建物地下にあるトイレで捉えられたボトルの音をSEとして、ハーネットが録音したものだ。このデビューアルバムのインダストリアルな音楽性は、アート・リンゼイ、ブライアン・イーノの「NO New York」に触発された可能性もある。「Unknown Pleasures」のレコーディングが行われたのは、このアルバムのリリースされた一年後のことだ。もちろん、上記のことは憶測に過ぎないと言い添えてておきたいが、少なくとも、後にストーン・ローゼズのサウンドの生みの親であるハーネットが志向したのは、既存のロンドン・パンクの流れに決別を告げる新時代のマンチェスターサウンド、テクノやハウス、そういった電子音楽と以前のパンクを融合したものであったことはたしかである。

 

「Unknown Pleasures」は、少なくとも、前進のワルシャワ時代から、地元のローファイなパンクバンドでしかなかったジョイ・デイヴィジョンのUKの音楽シーンにおける地位を決定づけた。のみならず、その後の10年間のマンチェスターサウンドを予見した歴史的傑作といえるだろう。パンクロックに強い影響をうけたハーネットのエンジニアとしてのすぐれた技術は、70年代後半のマンチェスターの若者たちの生活を反映した無機質で暗鬱な音楽を生み出した。

 

「Unknown Pleasures」はリリース後の2週間で、元のプレス量の半数の10,000枚を売げた。ところが、さらに、10,000枚を追加生産するのに6ヶ月要したため、ファンへの供給が間に合わず、UKチャートで大成功をおさめられなかった。翌年、二枚目のアルバム「Closer」が、多くの英国内のレコードショップに並ぶ頃、既にフロントマンのイアン・カーティスは公務員とミュージシャンという二重生活によるプレッシャー、彼自身の癲癇の持病による苦悩の末に、この世を去っていた。もちろん、その後、残りのメンバーはかのニュー・オーダーを結成する。

 

Joy Division 「Closer」 1980

 

ジョイ・デイヴィジョンのその後のマンチェスターの音楽シーンに与えた影響は計り知れないものがある。彼らは、79年から80年代初頭にかけて、ニューウェイヴの道を切り開いた。彼らの二番目の最後のアルバムとなった「Closer」は、UKチャートの6位を獲得し、大きな知名度を得ることになった。

 

その後、数十年にもわたり、ジョイ・デイヴィジョンの曲は、数え切れない再発盤がリリースされ、マンチェスター、UKのポピュラー音楽の記念碑的な分岐点を形作ったとみなされている。これほどまで革新的であり、ま後に強い影響を及ぼしたロックバンドは類を見ないといっても過言ではあるまい。

 

 

4.イアン・カーティスの「Ceremony」の遺産   ニューオーダーの結成 


当初のところ、イアン・カーティスという重要な天才的なヴォーカリスト、フロントマンを失ったJoy Divisionの他のメンバーは、バンドを続ける意向はなかったという。それはやはりイアン・カーティスの代役をつとめられる人物は世界にひとりもいないからである。それでも、ファンからの再結成へのラブコールもあったはずで、そういった次の音楽への期待をバーナード・サムナーをはじめとする残りのメンバーは裏切ることは出来なかった。

 

New Order 「Movement」 1981

 

 

ほどなく、ヴォーカリストを探していたジョイ・デイヴィジョンは、ギタリストだったバーナード・サムナーが歌うことによって新生した。彼らは、New Orderとして新たな船出をすることを告げ、UKのミュージックシーンでひときわ強い存在感を見せる。 イアン・カーティスとともに最後に録音された遺産「Ceremony」を1stシングルとしてリリース、ミュージックシーンに鮮烈な印象を残した。さらに1980年7月、キーボード、ギターとして、ジリアン・ギルバートがニュー・オーダーに参加、その後、デビュー・アルバム「Movement」をリリース。 これはまさにファンが待望していた、ジョイ・デイヴィジョンのまだ見ぬ夢の続きのような意味を持っていた。

 

New Orderがジョイ・デイヴィジョンの影から完全に脱却を試みたのは「Blue Monday」からあった。彼らは、ポスト・パンクの代名詞的なサウンドから抜け出て、マンチェスターサウンドの下地を作った。この12インチシングルは、バンドがよく聴いていたイタリアのディスコ音楽のクラブミュージックに触発されたものだ。

 

「Blue Monday」のジャケットアートワークを手掛けたPeter Savilleのデザインは複雑であったので製作コストがかさみ、この12インチレコードの販売元のFactory Recordsはレコードをコピーするために赤字を計上した。「Blue Monday」は、ファクトリーレコード発足史上、最も売れたアルバムとなった。続いて、1983年の「Power Corrupution and Lies」は、UKチャートで四位を記録し、ついに、後のUKミュージックシーンでの確固たる地位を築き上げた。  

 

 

New Order 「Blue Monday」

 

 

5.ハシエンダとマッドチェスター  アシッド・ハウスの席巻


彼らの成功が何につながったのか言及せずに、ニュー・オーダーについて語り尽くすことは許されまい。FAC51(別名ハシエンダ)と呼ばれるクラブの扉は、1982年5月に開かれた。ロブ・グレットンの発案のマンチェスターのクラブは、ファクトリー・レコード、ニュー・オーダーによって共同で資金提供され開店した。当初、このクラブの経営に携わっていたマーティン・ハネットは、運営の費用が450,000という額に上ると知った時、(ファクトリーレコードのレコーディング予算から差し引かれた)まもなく、ファクトリーレーベルと決別した。 
 
 
ハシエンダ(The Haçienda)では、The Smith,The Stone Roses,Madonnaなどのビックアーティストのライブアクトを主催したにもかかわらず、フロアが満員になることは少なく、当時としては平均的なクラブに過ぎなかったという。ところが、この状況は、1986年に新しい音楽、アシッド・ハウスのムーヴメントがマンチェスターを席巻したときガラリと一変した。
 
 
アシッド・ハウスは、旧来のクラブミュージックとは異なるサウンドである。Roland808,303ドラムマシンにより、反復的なリズムとベースラインを生み出したのが画期的だ。ダンスフロアを見下ろすブースから、クラブ全体を制御できる。こういったハシエンダ特有のシステムにより、デイブ・ハスラム、ボビー・ラングレー、マイク・ピカリングといった、多くの並み居るDJが、この新しい音楽シーンを盛り上げていった。そして、これらのハシエンダの最初期のDJたちは、スペインのイビサ島のパーティー文化をマンチェスターに取り入れた人物たちであり、この最初のアシッド・ハウスシーンが、それに続くレイヴミュージックへと受け継がれていった。
 
 
ハシエンダの当時の場内の様子 Machester Historian

 
 

その後、マンチェスターには、レイヴカルチャーが到来する。80年代後半から90年代初頭にかけて「Madchester」シーンが隆盛をきわめる。しかし、これらの音楽シーンの立役者であったハシエンダは、その後、シーンを崩壊させた張本人でもある。その後のレイヴ・カルチャーは、常にドラッグと深いかかわりを持っていた。このクラブで開催されていた狂乱的なパーティー(イビサに触発されたパーティー)には、ドラッグ問題が根深くかかわリ治安が悪化、誰もがドリンクを注文しなかったため、長期的なクラブの経営としては大損益へつながった。
 
 
1990年代に入って、マッドチェスター時代が終わりを告げる。オアシス、ブラーが先陣を切ってUKロックシーンの色を塗り替えてみせたからである。マッドチェスターからブリット・ポップの時代に移り変わるにつれ、麻薬犯罪が蔓延し、街からクラブへ、それらが持ち込まれたため、ハシエンダは店舗内の治安の維持が困難になった。経営面においても、ハシエンダはむつかしい局面に立たされていた。その結果、1997年6月に、マンチェスターサウンドの立役者、クラブ・ハシエンダは閉店となった。建物は後に、2002年にマンションに変わっているという。
 

 

6.ハッピー・マンデーズ もうひとつのマンチェスターサウンドの立役者

 

ニュー・オーダーと共にファクトリーレコードの栄光を築き上げた立役者として、忘れてはならないのが、ハッピー・マンデーズだ。
 
 
ハッピー・マンデーズは、1987年、デビュー・アルバム「Squirrel And G-Man 24 Hour Party People Plastic Face Carnt Smile(White Out)」を引っさげて、英国のミュージックシーンに華々しく登場した。
 
 
Happy Mondays「Squirrel And G-Man 24 Hour Party People Plastic Face Carnt Smile(White Out)」
 
 
その一年後、マーティン・ハネットがプロデューサーをつとめた「Bummed」をリリース、マッドチェスターシーンの主要な役割を担った。彼らのデビュー作は、2002年になって、ドキュメンタリー風映画「24 Hours People」の題材になっている。
 
 
ハッピー・マンデーズは、2ndアルバム以後、ファクトリーのメンバーでなくなり、レーベルのアーティストとして、数多くのアルバムを制作した。マンデーズの初期の録音セッションは、ドラッグを燃料としていたことは事実であり、これはドラッグの幻覚作用による産物ともいえる。さらに、プロデューサーのハネットにさえ、ドラッグが配布されていたというのだから驚きである。 彼は、この時代、ビートルズでいうジョン・スペクターのような役割を担っていたとも言える。
 

 
1989年の「Madchester Rave On EP」、さらに、三作目「Pill’n Thrills And Bellyaches」のリリースで、ハッピー・マンデーズは、ファクトリーレコードと共に世界の頂点に立った後、マンデーズはバルバドスに詰め込まれ、四枚目のアルバム 「・・・Yes Please」を制作した。 この島に滞在したのは、主に、ショーン・ライダーをヘロインから遠ざける意図があった。ここで、マンデーズの破天荒なエピソードがある。バンドは、ヘロインが利用できないため、 バンドは、クラック・コカインに夢中になり、ベズは、車をクラッシュさせたあとに腕を骨折した。当時は、これらのドラッグが高値で取引されており、マンデーズのメンバーは、家具、それどころか、スタジオ設備まで売り払ったというのだから、呆れてものがいえないわけである・・・。
 
 
Happy Mondays 「・・・yes Please」
 
 
彼らがUKに帰ると、ショーン・ライダーはマスターテープを人質にとり、ウィルソンに支払いを要求した。アルバムを聴いてみたトニー・ウィルソンは、ショーンがアルバムの歌を録音しておらず、どころか、歌詞を書いてさえいなかったことに気がついた。彼らのバルバトス島での努力は、こうして完全なる徒労に終わった。次のアルバムが完成してリリースされた1992年、マッドチェスター・シーンは既に終わりを迎えようとしていた。まさに、ハッピー・マンデーズは、マッドチェスターと共に始まり、マッドチェスターと運命をともにした儚さのあるバンドであった。
 
 
 

7.ファクトリー・レコードの終焉 


 
この期間、トニー・ウィルソンは、ファクトリーが驚くべき速さで資金を失っていることに気が付き、(ラフ・トレードとは異なり、彼らは、ニューオーダーを含むこのレーベルのほとんどのバンドのライセンス契約を正式に交わしていなかった)その後、ファクトリー・レコードは1992年11月22日に破産宣告をおこなった。マッドチェスターシーンが終了し、ブリット・ポップが始まった。それに伴い、ファクトリーレコードもミュージックシーン形成の役目を終えた。
 
 
レーベルとしての幕引きを迎えた後、ファクトリーレコードは文化施設として知られるようになった。
 
 
およそ14年のレーベル運営の後、何世代にもわたり、ファクトリーは数え切れないほどの伝説的な物語を残した。市民の純粋な誇りと音楽の信頼に基づいて運営され、音楽業界に革新をもたらし、その後のマンチェスターの音楽、ひいては、英国のポピュラー音楽に強い影響をおよぼした。
 
 
ファクトリー・レコードのレーベルオーナー、グラナダテレビ、また、BBCのジャーナリストとして活躍したトニー・ウィルソンは、2007年にマンチェスターで亡くなり、同地のサザン墓地に眠っている。彼は、生前、以下のように、神話的な暗喩を交えた言葉を遺していることを最後に付け加えておきたい。
 
 
「私は、一言だけ、後世に伝えておきたい。

 

ーイカロスー

 

もし、あなたが、それを人生で手にいれれば、もちろん、一番、素晴らしいことです。でも、たとえ、そうでなくても、また、それはそれで素晴らしいことなのです」
 
 

 

 

 今日では、音声を録音し、それを記録として残していくという方法はごく自然な技術となりました。現代では、私達は何らかの音声を、スマートフォンに内蔵されたマイクロフォンを通して簡単に録音出来るようになりましたが、もちろん、20世紀以前はそうではありませんでした。音声記録を何らかのデータとして残すためには、様々な発明者の科学に対する探求が必要だったことは確かなのです。

 

現代のレコードプレイヤー、ターンテーブルの歴史は19世紀の求められます。一般的に、レコードプレイヤーの前身ともいえる蓄音機を発明したのはかのエジソンというのが通説になっていますが、エジソンの以前に、音声記録を残した発明家がいたことを皆さんはご存でしょうか??

 

 

 

1.フォノグラフの発明、 エドワード・レオン・スコット

 

 

1857年に録音の過程を最初に実現したのは、フランスの発明家、エドワード・レオン・スコットでした。

 

フランスの印刷業者、発明家でもあるエドワード・レオン・スコット 彼は、エジソンよりも前に蓄音機の原型を発明している

 

このシステムは、「フォノトグラフ」と称され、人間の聴覚の解剖的な知見から生み出されたものでした。

 

そして、これはマイクロフォンの原型を形作ったとも言える画期的な発明でした。ホーンを用いて音を収集し、スタイラスに取り付けられた弾性膜を通過させるというのがこのフォノトグラフの仕組みでした。

 

 


フォノトグラフ


 

この初歩的な装置は、音波を何らかの用紙にエッチングすることにより、音を記録することを可能にしました。もちろん、ここに、現在のビニールレコードのような針をディスクの上に落とし、記録された音声を再生するというシステムの原型が見いだされることにお気づきでしょうか。でも、このフォノトグラフには一つ難点がありました。音波を視覚化することが出来ず、記録された音を取り出す、つまり、再生装置としての効果を生み出すことが出来なかったのです。

 

その後、音の記録というフォノトグラフの最初の発明に基づいて、二人の発明家がこの装置に音を再生する機能を付加します。それが、フランスの発明家、また詩人でもあるシャルル・クロス、アメリカの大発明家トーマス・エジソンの二人でした。これらの音の再生機能の発明はほぼ同時期に実現しました。


シャルル・クロスは、最初のスコットのフォノトグラフの発明から音を再生する手段を提案しました。

 

これは実際、相当な先見の明があったらしく、フォノトグラフを金属ディスク状の追跡可能な溝に変換することをシャルル・クロスは可能にした。この大発見をした彼はまもなく、1877年4月に、科学論文を書き、フランス科学アカデミーに送っている。それはなんと、驚くべきことに、奇遇にも、エジソンが音を記録し、再生する機械を生み出すことが出来るという結論を見出す数週間前のことだったのです。



2.シャルル・クロス、トーマス・エジソン 音の再生装置の発明


一方、一般的に蓄音機の生みの親とされているトーマス・エジソン。彼は、同年にシャルル・クロスのフォノグラフの進化した装置とは異なる蓄音機を生み出そうとしていた。もちろん、彼の発明は画期的なものでした。

 

 


 

エジソンの生み出したレコードプレイヤーのコンセプトは、当初、手回しで回す事ができるスズ箔で包まれたシリンダーに基づいて構成されていました。

 

彼の考え出したメカニズムは、いわば、レコードプレイヤーのホーンの部分に音を取り入れると、ダイヤフラムと取り付けられた針が振動し、ホイールに窪みが出来るのです。これは、「音の振動と針の共振」という2つの科学の原理を踏まえて、その物理的な理論を応用し、2つの異なる空間をつなぎあわせることに成功した非常に画期的な科学の発見であったように思えます。 


トーマス・エジソンの発明家としての大躍進は、ダイヤフラム、針を、受信機に取り付け、電話を録音しようとした時に起こりました。

 

当初、フランスで生み出されたフォノトグラフのように、針が紙にグラフのようなしるしを付け、それを記録化するという技術をエジソンは考案、さらに、記録する用紙をティンフォイルで覆われたシリンダーと交換しました。これは、それまでのフォノトグラフの原理の過程を逆になぞらえてみることで、初めて発明品として大成功をおさめた。エジソンは、最初に、録音したばかりの自分の言葉が返ってきたのを聴いた時、一方ならぬ喜び方をしたのだといいます。

 

シャルル・クロス、トーマス・エジソン、両者の音声再生装置の発明は、ほぼ同時期に生み出されています。

 

その相違点を挙げるとするなら、数週間、発見が、遅れたか早かったかという事実でしかありません。音の再生するプロセスについてもほとんど同じものでした。エジソンは、製品としての構造化を計画していた一方、シャルル・クロスには、製品や構造化としてのアイディアはなかった。違いと言えば、只、それだけに過ぎませんでした。

 

この発明が公にされるや否や、世界の人々は、エジソンの生み出した蓄音機に夢中になって、シャルル・クロスについては、フランス国内をのぞいてはそれほど有名にはなりませんでした。

 

 

Charles Cros 彼は、発明家でもあり、詩人でもある

 

トーマス・エジソンの生み出したレコードプレイヤーの原型は、すぐにアメリカの裕福な家庭の娯楽として取り入れられたことは、エジソンの名が偉大な発明家として後世に伝わるようになったことを考えてみたら、それほど想像に難くないはずです。つまり、シャルル・クロワは、純粋な発明家としての能力は、エジソンよりも秀でていたかもしれません。にもかかわらず、音声再生機能を備えた製品を、事業として展開していく能力は、エジソンのほうに分があったため、後世の発明家としての知名度に、天と地ほどの大きな差異が生じたとも言えるのです。

 

事実、最初期に、一般家庭に販売された蓄音機には、トーマス・エジソンの名がクレジットされていました。一方の最初のフォノグラフの発明者のエドワード・レオン・スコット、また、シャルル・クロスについては、2008年になって最初の再生が行われるまでは、科学分野に通じている専門家をのぞいては、ほとんど一般的には知られずに忘れ去られていたことは奇妙に思えます。

 

 

3.エジソンの後継者  グラハム・ベルとエミール・ベルリナーの争い


 
トーマス・エジソンは驚くべきことに、その後、蓄音機の開発から身を引いて、白熱電球の発明に夢中になります。
 
 
それは、ひとつ、一般的に言われるのは、蓄音機の発明には、それほど科学者としての名声が期待できなかったというのがあり、また、彼自身の飽くなき探究心、次なる発明への浮き立つ気持ちが彼を電球の発明へと駆り立てていったとも言えるのです。しかし、この蓄音機の開発の座をエジソンがあっけなく手放した時、それと立ち代わりに新たな技術革新をもたらす発明家が出現した。そのうちのひとりが、かの有名なアレクサンダー・グラハム・ベルでした。
 
 
スコットランド生まれのグラハム・ベル 彼は、実用的な電話の発明者として知られているが、最初期のレコードプレイヤーの開発にも従事していた。

 
 
 
グラハム・ベルが当時在籍していたワシントンDCのジョージタウン、ボルタ研究所は、エジソンの最初の蓄音の技術を、さらに改良、推進させる計画を立てていました。主に、このボルタ研究所の設立者であるグラハム・ベルは、シリンダーを装置の中に組み込むのでなく、鋭利な針の代用として、ティンフォイルとフローティングスタイラスの代わりに、ワックスを用いたのです。
 
 
ワックスを用いたことにより、後の二十世紀の発明のひとつであるビニールレコードに代表されるような高音質、すぐれた音質と耐久性を実現し、「Graphophone」という名前で新たな発明として公表されました。
 
 
 
コロンビア製のグラフォフォン この発明により高音質による音声再生が可能になった


また、ベルの研究チームは、その後、エジソンの発明にさらなる改良を加え、時計のゼンマイじかけを用いた再生機能、ワックスシリンダーを回転させるための電気モーター装置を新たに開発しました。


その後、いくつかの会社間で、製品開発を巡って多くの競争が起こったことは想像に固くありません。

 

このグラフフォンの開発を手掛けた「America Graphophone」は、ボルタ研究所のデバイスとその後のワックスシリンダーを用いたレコードの制作を促進するために新設されました。一方、ベルの在籍する研究所は、業務提携の面で協力を図るため、トーマス・エジソンに開発の協力を要請しましたが、エジソンはこの申し出を断りました。ベルは、その後、独力で蓄音機の改良を行うことを心に決め、個体のワックスシリンダーを新たに用いた技術革新を行ったのです。

 

結果としては、 どちらの開発も、音声再生装置として大きな商業的な成功をおさめることは出来ませんでした。彼らにもたらされる可能性もあった賞賛や注目は、1877年にドイツ系アメリカ人の発明家、エミール・ベルリナーが特許を取得した新しい蓄音機へと注がれるようになった。ベルリナーが開発した蓄音技術は、フランスのチャールズ・クロスに近いもので、ワックスシリンダーではなく、フラットディスクに録音をエッチングする手法が取り入れられました。ベルリナーが、フラットディスクを用いた技術を選択したことによって、今日のレコードの再生技術の基盤が形づくられ、現代レコード生産への扉が一挙に開かれたとも言えるのです。

 

レコードプレイヤーの最初期の設計では、蜜の蝋が使用され、薄い層でコーティングされた亜鉛のディスクが使用されていました。 さらに、1890年代に入り、エミール・ベルリナーは、ドイツの玩具メーカーと協力し、最初に5インチのゴムディスクを導入しました。最終的に、ベルリナーの在籍していた”America Graphophone Cmpany”は、その後、シェラックディスクを完成させ、1930年代まで、録音技術をはじめとする音楽業界を支配し続けていたのです。

 

 

4.レコードの大量生産技術はどのように生み出されたのか?



エミール・ベルリナーの発明がなぜ科学技術の発展においてきわめて画期的だったのかは、彼の生み出した製品が、その後のレコードの大量生産技術に直につながっていったからなのです。

 

Google Atrs &Cultureより   エミール・ベルリナーとレコードプレイヤー

 

エミール・ベルリナーは、音波をディスクに外向きに記録し、電気めっきを使用し、マスターコピーを作成した最初の人物でした。

 

もちろん、レコーディングを体験した事がある方なら理解していただけるでしょう。これは、音の元になる記録を残す「マスターテープ」の最初の発明でもありました。つまり、ベルリナーがマスターコピーという手法を生み出したことによって、もし、技術的にそれが許されるのならば、百枚、千枚、いや、それどころか、無数のレコードのコピーを生み出すことも出来るようになりました。

 

これらのマスターコピーという独自の技術を活用すれば、レコーディングを行ったアーティストは、一つのトラックの録音を何度でも再現出来て、さらに、商業的な価値としても大きな影響を及ぼせるようになりました。もちろん、ベルリナーがこのコピー技術を生み出すまでは、アーティストは複数のコピー製品を生み出すため、一曲をその回数分だけ演奏する必要があったのです。

 

発明家エミール・ベルリナーが生み出したフラットディスクの技術には、明確な利点が存在しました。それは、端的に言えば、成形やスタンピングにより音の再生を簡単に実現できるという点です。そして、それ以前に開発がなされていたシリンダー技術についても、製品化という面では、大きな成功は収められなかったにしても、トーマス・エジソンによって金の成形プロセスが導入された1901年から、その翌年にかけて、シリンダー技術が取り入れられた。

 

このことから、製品化としては失敗したものの、その後のレコードプレイヤーの技術革新に大きな貢献をもたらしたことはほぼ疑いありません。その後、ベルリナーの生み出したレコードプレイヤーは、一般的に製品として販売されるにいたり、1901年、Victor Taking Maschine Companyにより、世界で初めて、10インチレコードが生み出され、一般向けに販売されるようになりました。

 

Victor Taking Maschineから発売された10インチレコード


一方、他のレコードプレイヤー生産を行う会社も、これらの発明に対して手を拱いていたわけではありません。

 

コロンビアレコードは、市場に新たに参入し、ライセンスに基づいて最初のディスクを製造していきました。コロンビアは、いくつか新たな方法を考案し、1908年までに、両面のシェラックレコードの製造過程を完成させています。しかし、この間、まだ、現在のレコードプレイヤーのような標準の再生速度には至らず、初期のディスク再生速度は、60-130BPMの範囲内にとどまっていました。 



4.ラジオの登場 モダンレコードの誕生

 

1920年代初頭のラジオの出現は、レコード業界に新たな課題を突きつけることになりました。音楽が電波を介して無料で放送されるようになったため、レコードは新たな領域へ進むことを余儀なくされたのです。ラジオの音質は、電気的なサウンドピックアップの出現によって大幅に向上します。

 

当時、蓄音機を家庭に導入できるのは、中産階級以上にかぎられていたため、再生速度を78BPM(1925年頃)に標準化し、純粋に機械的な録音方法でなく、電気的な録音方法を採用することには役立ったものの、マーケットでの採用が定着するまでには長い長い道のりが必要でした。


1930年代に、ラジオコマーシャルのレコード素材として、ようやくビニール(ビニライト)が導入されました。当時、この素材を使った家庭用ディスクは、ほとんど生産されていませんでした。しかし、興味深いことに、第二次世界大戦中に、米軍兵に発行された78rpmVディスクには、輸送中の破損が大幅に減少したため、現代の規格の一つ、ビニール素材が使用されていたのです。

 

最後に、信頼性が高く商業的に実現可能な再生システムの開発に関する多くの研究が行われた結果、1948年6月18日、ロングプレイング(LP)33 1/3rpmのマイクログルーブレコードアルバムがコロンビア社によって発表されました。それに次いで、コロンビア社は、ビニール製の7インチの45RPMシングルをリリースします。これが現在のレコードの標準基準となったわけです。

 

1955年に最初に全トランジスタ蓄音機モデルを導入したのは、ラジオ会社のPhilcoでした。


この製品は持ち運び可能で、バッテリーで駆動し、内蔵アンプリフターとスピーカーが売りの製品でした。さらに、米国では59,95ドルで売りに出されたため、限られた階級だけではなく、幅広い層にレコードプレイヤーが普及していくことになりました。 この後の時代からレコードプレイヤー、ターンテーブルは富裕層だけでなく、一般の家庭にも導入されていくようになったのです。


このお手頃な価格でレコードプレイヤーが売り出されたことは、音楽業界全体にも良い影響を与え、ポピュラー・ミュージックの台頭を後押ししました。その後、1960年代までに、レコードのスタックを再生する安価なポータブルレコードプレイヤー、レコードチェンジャーが相次いで開発されたおかげで、プレイヤー機器の値段はさらに安価になり、十代の若者たちがより手軽に音楽に親しめるようになりました。もちろん、これらの持ち運び可能のプレイヤーの出現により、アメリカのNYのブロンクス区ではじまった「DJ文化」が花開いたのは言うまでもありません。



5.現代までのレコードプレイヤーの歩み


1980年代までに、ほとんどの家庭には、いくつかの種類のビニール再生システムが普及するようになり、現代のレコードプレイヤーとして市場に流通しているモデルが主流となっていきました。

 

 

Panasonic製のレコードプレイヤー「Technics SP-10」1970年代に生産

 

 

これらは、セパレート(ターンテーブル、ラジオ、アンプ、カセットデッキ)で作られたHi−Fiシステムそのものでした。この一世紀において、レコード形式は基本的なシリンダーとティンフォイルで作製された原始的なシステムから、多くの人が利用できるHI-FI技術へと移行していきました。

 

さらに、時代は流れていき、10年が経過するにつれて、デジタル技術とコンパクト・ディスクの台頭により、ビニール、ターンテーブルの売上は一時的に徐々に減少に転じました。しかし、多くのファンはレコードを手放すことはありませんでした。御存知のとおり、多くの点で、DJのターンテーブルは、90年代から00年代の時代にかけて、フォーマットを存続させるのに役立ちました。

 

もちろん、ダンスフロアでのDJのターンテーブルはその間も途絶えず、また、2000年代から、アメリカでは、ヒップホップ、イギリスではUKガラージの人気が高まったため、DJのクールなプレイやスクラッチの技術により、レコードプレイヤー文化は完全に衰退せず、しぶとく生き残りつづけたのです。


そして、さらに、意外なことに、今日では、ビニールレコードとターンテーブルの需要が1980年代より高まっているようです。サブスクリプションサービスを通して、スマートフォンでお手軽に音楽と接することが出来る現代のデジタル時代においてもレコード人気が衰える兆しは見えません。なぜなら、本格的に音を楽しむことが出来るリスニング体験を求める音楽ファンにとっては、デジタルよりもレコードプレイヤーの方がはるかに馴染みやすいからなのです。

 

音楽の生みの親であるレコードプレイヤーは、現在も、多くの音楽ファンにより愛好されていますし、未来へと引き継がれていくべき重要な文化そのものです。レコードという音楽文化の悠久の歴史、人類の近代文明を象徴するカルチャー。それはまた、エドワード・レコン・スコット、トーマス・エジソン、グラハム・ベルといった偉大な発明家たちの音のたゆまぬ探求の足跡でもあったのです。