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Club Chinois
 

いわずもがな、ヨーロッパは全般的にクラブカルチャーが盛んな土地である。どうやらそれは、スペインのクラブカルチャーが1980年代から現在まで続いてきたことに要因があるようだ。南洋のサンゴ礁が輝く諸島のようなエメラルドの海、白亜石のような白っぽい建築素材でできた家々、ギリシャのエーゲ海のサントリニ島、ミコノス島、ロードス島に見られるカラフルな塗料を施した建築群、そして、もちろん、カラフルなビーチ・パラソルが目立つ寛いだ砂浜。こういったギリシャやイタリアで見られるような個性的な景観は、南ヨーロッパの国土の最大の美点だろう。

 

そして、西ヨーロッパのパーティー・サーキットが世界的に有名なのには理由がある。雰囲気はアメリカよりもはるかにリラックスしていて、バカンス寄りだ。飲み物は豊富で、特に強力なリキュールを使っている。パーティーは遅く始まり、遅く終わる。フランス、スペイン、イタリアのクラブでは、Alors On DanseやDragostea Din Teiがいまだに愛されていることに驚くだろう。


ヨーロッパは文化の奥深さにより知られていると言うとき、それはルネッサンスの芸術や建築と同様にナイト・ライフにも該当する。フィレンツェはウフィツィ美術館とメディチ家の貢献で知られているが、ナイトクラブでも知られている。そしてパリでは、昼間はオルセー美術館のマネやドガの絵画、ルーヴル美術館のエジプト・コレクションを見ることに挑戦する。しかし、夜には、午前2時の地下鉄に乗り遅れたら、電車が再開する午前6時まで外にいることも出来る。


スペインのナイトライフは、マドリードからマヨルカまで、その種類はさまざま。アシュトン・カッチャーと同じウェスト・ハリウッドのクラブに入ろうとするようなL.A.のクラブ遊びとは違うらしい。髪を下ろして、Ai Se Eu Te Pego(ノッサ!ノッサ!)の大合唱に参加するような、のんびりしたパーティーだ。スペインのパーティー文化は、音楽を感じ、魅惑的な雰囲気に身を任せるというもの。アメリカでは、たとえラスベガスやマイアミであってもそのノリは通じない。


スペインのパーティーの聖地といえば、イビサ島だ。バレアレス諸島の一部であるイビサは、バレンシア沖、パルマとメノルカの南に位置する。イビサは、パーティーの主要地として国際的に高い評価を得ているが、その客観的価値はすぐに変わることはないだろう。2000年代初頭のベニー・ベナシやベースハンターのヴァイブスから、最近のデュア・リパのヒット曲まで、ハウスミュージックとポップスのリミックスが君臨する場所だ。イボシム(Ibosim)のようなイビサのクラフトビール、島の有名な蒸留酒ヒエルバ(Hierbas)、アブサン(Absinthe)のような古典的なヨーロッパのパーティー・リキュールなど、ドリンクもビーチと同様に文化の一部だ。


では、イビサがアルコールと音楽に酔いしれる快楽主義的な評判を実際に高めたのはいつなのだろう? ヨーロッパのみならず、世界の真のパーティーの首都となったのはいつなのだろうか?


当然、イビサのパーティー・カルチャーは、60年代から70年代にかけて、ヒッピー、クリエーター、アーティストたちが、社会への適合性(そして現実の仕事)から逃れてきたことに端を発している。このような考え方に由来しないパーティー・カルチャーがあるだろうか? イビサ島には、よりのんびりとしたアーティスティックな文化の先例がすでにあった(それは30年代にスペイン本土を出発した人々まで遡る)ので、70年代にこの文化がさらに定着しても驚くには値しなかった。


一般の人々は、イビサをエレクトロニック・ハウス・ミュージックのシーンとしか見ていないかもしれないが、イビサのサウンドはもっと多面的で複雑だ。70年代に形成されたほとんどの音楽シーンと同様に、ロックンロールはイビサの初期のパーティーの歴史の大きな部分を占めている。実際、BBC Travelによると、エリック・クラプトンは、77年にジョージ・ハリスンと一緒にこの島に現れ、フレディ・マーキュリーは、41歳の誕生日をイビサで迎え、Wham!は今や象徴的なホテルとなったパイクスでクラブ・トロピカーナのビデオをレコーディングしたという。


この頃、イビサ島で最も古いクラブが2つオープンした。70年代のパチャ、そして80年代のアムネシア。この2つのクラブは、70年代と80年代のアンセムに加え、低音を効かせたハウス・ミュージックやデヴィッド・ゲッタなどのゲストDJシリーズを歓迎する環境を作り上げた。80年代から90年代にかけて、クラブはPachaとAmnesiaの2店舗をお手本とし、イビサのパーティーシーンは、セレブリティ主催のパーティーナイトや、必ず訪れるべきクラブハウスを軸に成長していった。


Club Eden

音楽は、イビサの文化の大きな部分を占めているおり、90年代から2000年代初頭にかけてライブコンサートや音楽フェスティバルが開催された。そしてパーティーを中心とする文化の成長を促進した。70年代のロック・スターが誇りに思うような才能を歓迎し、イビサは、音楽面でも様々なジャンルのミュージシャンを受け入れるように。その後の年代には、ロック・ミュージックが盛んになった。たとえば、Ibiza Rocks Festivalでは、アークティック・モンキーズやザ・リバティーンズがホスト役を務め、「I Bet That You Look Good on the Dance Floor」を口ずさむオーディエンスが、ハウス・ミュージックの先駆者たちと仲良くプレイできることを証明している。


イビサ島の魅力は、ただ純粋に楽しみ、朝まで飲み明かすだけの場所ではないこと。イビサが世界中の人々を惹きつけてやまない理由もそこにある。テクノ、ボーホー、ロックンロール、どのような雰囲気に惹かれるかに関わらず、イビサ島は奥深いカルチャーの魅力があるようです。


カルチャーに関する記事、リミナルスペースについてもご一読ください。

 



近年、イギリスでパンクが再燃しており、現在もそれはポスト・パンクという形で若者を中心に親しまれていることは確かだろう。

 

そしてパンクのロングタイムの人気を象徴づける記事がある。2022年6月5日のNMEの記事では、こう報じられている。ーーセックス・ピストルズの「God Save The Queen」がロングラン・ヒットを記録し、イギリス国内で最も売れたシングルとしてプラチナ・ジュビリーに認定ーーと。

 

「ゴッド・ザ・セイヴズ・ザ・クイーン」は、今もなお老若男女にしたしまれている永遠のアンセムで、パンク人気を象徴づけるアイコンの一つであるということ。


また、アーカイブ的にも、ピストルズは現在も一定の興味を惹きつけるものであることは明確だ。


ダニー・ボイルが1970年代のロンドンで生まれたパンクロック・カルチャーと、セックス・ピストルズの軌跡を追う映像シリーズ「Pistol」に着手しはじめ、映像ドラマの側面からロンドンの最初のパンクバンド、ひいてはパンク・カルチャー全体に脚光を当てようとしている。この映像は、ギタリストのスティーヴ・ジョーンズの自伝を元に制作されることになった。しかし、この映像内での楽曲使用の件で、フロントマンのジョン・ライドンとの間に法廷闘争が発生し、物議を醸した。

 

Malcom Mclaren

 

1970年代に台頭したUKパンクを単なる音楽だけの観点から捉えることは困難をきわめる。レザージャケット、カラフルなスパイキーヘア、時には後のゴシックの象徴的なファッションを形成する中性的に化粧を施したスタイル、これらはそれ以前のニューヨーク・ドールズ、VU、リチャード・ヘル、ラモーンズが出演していたマックス・カンザス・シティ、CBGB,そしてマーサー・アーツ・センターといったライブハウス文化がロンドンに渡り、そして、そのカルチャーがマルコム・マクラーレンという仕掛け人によって、パンクという形で宣伝されるに至った。

 

マクラーレンは元々はファッションデザイナーとして活動していて、ブティック、”SEX”に出入りしていた若者を掴まえ、後にこのバンドをプロデュースし、Pistolsというロンドンパンクの先駆者を生み出すことになる。これは以前に、彼がニューヨーク・ドールズのプロデュースを手掛けており、それをロンドンでより大掛かりに、そしてセンセーショナルに宣伝し、一大ムーブメントに仕立てようという彼なりの目論見があったのだ。シド・&ナンシーに代表されるファンションは既にジョニー・サンダース擁するNew York Dollsの頃のグラム・ファッションで完成されたつつあった。それをより、洗練させ、ある意味では彼らをファッションモデルのような形で飾り立てることで、パンクという概念を出発させることに繋がった。

 


マルコム・マクラーレンが一大ムーブメントを仕掛けるためのお膳立ては整っていた。1970年代のイギリスでは、英国病と呼ばれる病理が蔓延していた。大まかには、国を挙げてセカンダリー・バンキングへ傾注した1960年代以降のイギリスにおいて、充実した社会保障制度や基幹産業の国有化等の政策が実施され、社会保障負担の増加、国民の勤労意欲低下、既得権益の発生、及び、その他の経済・社会的な問題を発生させた現象を意味する。 この時代を描いた作品としてユアン・マクレガー主演の映画「Train Spotting」が挙げられる。イギリス国内の社会不安の増大により勤労意欲が低下した若者たちのリアルな姿が脚色を交えて描かれた作品だ。


 当時、労働者階級とアッパー・ミドル以上の階級との格差は増大し、その社会構造の間に奇妙な歪みが生み出されていたことは想像に難くない。悪い経済が蔓延していたのみならず、レコード産業も衰退していた。それ以前のRoling Stones、Led Zeppelin、Pink Floydのレコード産業の栄華が過去の遺物となりつつあり、音楽産業自体が下火になっていたのがこの70年代の中頃である。

 

さらに、アートスクールの奨学金や失業保険の手当を受けて生活しているような若者たちにとって、Zepのハードロックやピンク・フロイドのプログレッシブロックは端的に言えば、リアリティを欠いたものだった。そのメインストリーム・ミュージックに根ざした音楽の風潮の変化がもたらされたのが75年のこと。「俺はピンクフロイドが嫌い」というTシャツを来たある若者が「I'm Eighteen」のオーディションを受け、合格する。これがロンドンのパンクバンドが出発した瞬間だ。

 

 

最初のシングル「Anarchy In The UK」の発売 グレン・マトロックの解雇


パンクの誕生を伺わせる当時の英国の新聞各社の報道

Sex Pistolsの最初のショーは1975年11月6日に行われた。ショーは主にカバーを中心に構成されていた。それからいくつかのギグを続け、ピストルズは、ブロムリー・コンティンジェントとして知られるファンベースを獲得する。続いて、1976年、バンドは、パブロックの代表格、Eddie & The Hot Rodsの最大のショーのサポートを務める。既にその頃から、バンドの攻撃性と興奮は多くの観客を魅了していた。唯一の懸念だったバンドの演奏力は見れるものとなり、そしてスティ-ヴ・ジョーンズの演奏力も上昇した。特にこの時代、ピストルズの面々は多くの熱狂的なファンに熱量のあるショーを期待されており、信念やインスピレーションを欠いた気のないパフォーマンスをしようものなら、ファンが暴徒化する場合もあったという。結局それらの取り巻きのフーリガン的な行動により、セックス・ピストルズに暴力的なイメージが付きまとうことになった。また、このイメージはのちのスキンズやハードコアパンクのスタイルの源流を形成することになった。

 

同年の6月4日、バンドはマンチェスターで伝説的なギグを開催する。ここには、ピート・シェリー、ハワード・デヴォート(Buzzcocks)、バーナード・サムナー、イアン・カーティス、ピーター・フック(Joy Divison)のメンバーが観客の中にいた。その日の観客は40人前後だったとも言われている。


ライブギグで一定の支持を獲得した後、1976年7月20日にパンクの古典となる「Anarchy In The UK」をEMIからリリースする。社会風刺的な歌詞は当時のロックファンにとって真新しいもので、米国と英国のパンクの相違を象徴していた。さらに続いて、9月1日、バンドはテレビに初めて出演する。パンクブームの発起人の一人でありマンチェスターのファクトリー・レコードの主宰者でもある、トニー・ウィルソンのテレビ番組に出演し、スタジオでこのデビュー・シングルを初披露する。その5日後、ビル・グランディが司会をするテレビ番組にも出演し、バンシーズのスージー・スーに軽率な発言を行い、批判を呼ぶ。これはグランティとスティーヴ・ジョーンズとの間に会話をもたらし、その当時の国内のメディアの意義を根底から揺るがすものでもあった。また、12月のテレビ出演時には、四文字言葉を連発し、センセーショナルな話題をもたらした。






1977年、イギリス国内最大の音楽メディアのNME宛てに一通の電報が届いた。 Sex Pistolsのマネージャーのマクラーレンから、「グレン・マトロックが解雇された」との一報だ。デビュー当時はピストルズの音楽性の一端をになっていたマトロックの解雇は、大いに注目に値するものだった。


彼の後任にはすぐさまシド・ヴィシャスが内定するが、そもそも、当時のヴィシャスはベースを演奏することが出来ず、ガールフレンドのナンシー・スパンゲンとの交友があってか、麻薬漬けの日々を送っていた。

 

これが後にどのような形で、このバンドの終焉となるかは周知のとおりだが、当時、彼の革ジャンとTシャツ、ブーツというルックス、そして日常における破天荒きわまりない行動が「パンク」であるとされ、マクラーレンはバンドへの加入を促した。パンクのファッションとの深い関連は、特にヴィシャルがもたらしたものであると考えるのが妥当ではないだろうか。

 

 

「God Save The Queen」のセンセーショナルな宣伝 ジョン・ライドンが曲に込めた真意とは?



Sex Pistolsのデビュー・シングルの宣伝 20世紀には飛行機から広告をまく手法があったが、それに近いゲリラ的な宣伝方法の一つ


セックス・ピストルズのデビュー・シングルがA&Mからリリースされたのは1977年のことだ。このリリース日は、エリザベス女王のシルバー・ジュビリーの祝典と時を同じくしていた。ピストルズの四人は、報道カメラマンを呼んで、船の上で「God Save The Queen」のリリース記念パーティーを開催するが、後に社会問題に発展する。この宣伝方法が、すべてがマルコム・マクラーレンによってしかけられたものであるとしても、オリジナル・バージョンのシングルのアートワークは過激きわまりないもので、女王の顔に彼らのトレードマークである安全ピンを差したデザインだった。最初のバージョンは、すぐに発禁処分になり、後にアートワークは差し替えられるが、このシングルのリリースが知れ渡ると、英国内で論争を巻き起こすことになった。当然のことながら、ピストルズは、レーベルとの契約後、わずか6日でA&Mとの契約を打ち切られる。次いで、レコードの25,000枚が廃棄処分となる。現存する希少なオリジナルバージョンは現在でもコレクターの間で価値のあるレコードとしてみなされている。


A&Mとの契約解消後、PistolsはすぐにVerginと契約を結ぶ。その後、「God Save The Queen」はピクチャースリーブ付きで発売された。

 

既にBBCでは放送禁止となっていたにも関わらず、この曲はNMEチャートで一位を獲得した。結局イギリスの公式チャートでも2位まで上昇するが、長らくチャート集計側が意図的にトップから遠ざけていたという噂もあるようだ。 

 

この年、複数の魅力的なロンドンパンクバンドがデビューし、その中にはクラッシュ、ストラングラーズ、ジャムがいた。彼らはヒットチャートの上位を獲得し、パンク人気を全国区に引き上げる役割を果たした。


 


「God Save The Queen」では、国家概念を擬人的に捉える古典的な詩の手法が取り入れられていて、「イングランドは叫んでいる、未来はない」というフレーズが最後の部分で歌われるが、それは実際、のちのサッチャー政権時代ザ・スミスの楽曲のように、他のどのロックよりも社会不安のリアリティを直視し、それをシンプルに言い当てたものだった。多くの若者たちは英国への愛と不信が混在したシニカルな歌詞と歌に大きな共感を覚えたことは想像に難くない。しかし、ジョン・ライドンはこのデビューシングルについて、ピアーズ・モーガンに次のように語った。これは長年のライドンの英国王室へ嫌悪感があるという誤解を解くための発言として念頭にとどめておいた方が良さそうだ。


特にジュビリーのために書いたというわけではないんです。それが私の思考回路そのものだった。わたしたちがそのボートパーティーをする数ヶ月前。歌詞の内容は反王党主義に近いものですが、もちろんそれと同時に非人間的なものでもありません。

 

私はぜひともこのことを言っておかねばならないんです。私が人間として王室に対して完全に死していると決めつけてはいないのです。そうは思っていません。女王が生き残り、上手くやっていくことを本当に誇りに思っているんです。

 

また女王に喝采を送りたい。私はそのことについて不機嫌ではありません。この制度を支持するために税金を支払うというのなら、そのことについては何らかの意見を差し挟む必要もありそうですが・・・。

 

また、ピアーズ・モーガンが「君はつまり、君主制の終わりを見たくない・・・」と尋ねると、さらにライドンは以下のように述べている。

 

私はそもそもページェントリーが大好きです。私はまたサッカーファンですが、どうしてそうせずにいられるのでしょう? 

 

私はロイヤル・ウェディングを見るのが好きなんです。なぜならスピットファイアやB-52等が宮殿の上空を飛行するのが本当に楽しいから。そういったことに感情的になる場合もありますが。

 

しかし、私は国家を愛しており、また国民を愛しています。そして、それに関することも愛している。でも、そこに問題がある。私にはこのことを言う権利があると思います。だから私は、女王陛下万歳、と書きました。信じてほしい、あれは私が書いたんです。他の人ではありません。これは私が完全に有能な視点を表現したものだったのです。

 

 

1977年10月28日にデビュー・アルバム『Never Mind The Bollocks」がVirginから発売された。米国では2週遅れで発売となった。ほとんどの曲は、グレン・マトロックとジョニー・ロットンにより書かれており、他のメンバーは補佐的な形で意見を交えている。マトロック脱退後、アルバムのために2曲「Holiday In The Sun」、「Bodies」 を書き加えられた。グレン・マトロックは76年にEMIからリリースされた「Anarchy In The UK」のうち一曲で演奏している。


アルバムの最初のタイトルは、「God Save Sex Pistols」であった。1977年半ばに「Ballocks」という単語が追加された。しかし、「Ballocks」というタイトルが1899年に施行された「わいせつ広告法」に該当するとし、レコード・ショップのオーナーの多くは、ショーウィンドウで宣伝をした際には罰金及び逮捕の処分があると警察から忠告を受けた。実際、警察はノッティンガムにあるVirginの店舗の捜査に踏み切り、オーナーを逮捕する。しかし、これもヴァージンとマクラーレンにとって恰好の宣伝の機会となり、彼らは”アルバムが長持ちする”という判断を下した。


 


 

デビューアルバム『Never Mind The Bollocks』に込められた意味、一般的な発売日を迎えるまで

 

「Never Mind The Bollocks』発売当初のVirgin Records

 

結果的に、現行のアルバムのタイトルが普及している理由は、「Bollocks」という睾丸を意味する単語が一般的に普及するナンセンスな用語に該当すると、ノッティンガム大学のイングリッシュ教授は証人として指摘した上、さらに、この言葉が古英語で「聖職者」を意味すると法廷で証言し、擁護したことによる。この裁判を受け持った判事は、Bollocksという単語の使用を許可するとともに、バンド、レーベルの発売権における全ての宣伝、及び活動を容認する結果となった。

 

ヴァージン・レコードとの契約後も、マルコム・マクラーレンはアルバムの宣伝とパンクの普及活動に余念がなかった。マクラーレンは米国を含む各国で交渉を続行した。


1977年10月10日には、ワーナーとの契約を締結する。つまり、このアルバムに2つの配色が用意されているのは、これが要因のようである。イエローバージョンはヴァージンのデザインで、ピンクがかったデザインはワーナーのリリースとなっている。

 


フランスでは、マルコム・マクラーレンがバークレーと粘り強い交渉を続け、アルバムは12曲から一曲をカットし、全11曲でリリースされることが決定した。加えてアルバムは一週早く発売されることが決定し、これによって、Virgin Recordsは英語でのリリースを10月28日に前倒しした。最初の50,000部には11トラックのバージョンが収録されていた。このバージョンにはのちにレア・トラックとして発売される「Submission」の7インチとポスターが付属していた。

 

Virginにとって最後の問題となったのは海賊版「Spunk」のリリースの懸念事項だ。このアルバムにはデモとスタジオレコーディングが収録されていた。また録音自体はグレン・マトロックが在籍時に制作されたもので、オリジナル版よりもプリミティヴな音質が味わえるとされている。 さらにこの音源はマクラーレンが録音のマスターテープを漏洩したとも言われている。しかし、マクラーレン本人はそれを否定している。



 

このブートレッグのアルバムは、1977年の9月から10月にかけて発売され、オリジナル版がリリースされる数週間前にリークされていた。しかし、このことに関してはレーベル側は良い宣伝とみなしていた。「Spunk」は、デンマーク・ストリートのリハーサル・スタジオ、ロンドンのランズダウン、ウェセックス・スタジオ、ロンドンのグーズベリー/エデン・スタジオと、複数のスペースで録音された。このリリースは、1996年になって、オリジナル版の追加ディスクとして再発されている。

 

デビュー・アルバム「Never Mind The Bollocks』は発売後まもなくゴールド・ディスクを獲得し、ヒットチャートの一位に輝いた。しかし、これらの曲のほとんどが既発曲であったことがセックス・ピストルズの限界性を示していたという意見もある。

 

最初に「New Wave」という言葉がメロディー・メイカー誌に掲載された1978年、Sex Pistolsはアメリカツアーを終えたのちに解散した。その後、The Clash、The Damedといったレジェンドたちは息の長い活躍をするが、一方、Buzzcocksをはじめニューウェイブに属する清新なバンドの台頭が控えていた。その後の年代には、オリジナル世代のバンドが主流となり、メジャーレーベルと契約し、オリジナルパンクが形骸化するようになるにつれ、ポストパンクが主流となっていく。

 

その中には、このバンドの黎明期のライブを見届けたイアン・カーティス擁するJoy Divisonも1979年にデビューを果たし、国内のミュージックシーンを席巻していく。また同時進行で、ファクトリー、クラブハシエンダを中心とするクラブ・ミュージック文化もマンチェスターを中心に沸き起ころうとしていた。一般的には、英国の最初のオリジナル・パンクのウェイヴは、1977年に始まり、ほとんど一年でそのムーブメントは終焉を迎えたと見るのが妥当かもしれない。

 

しかし、その後には、1978年から沸き起こるニューウェイヴ/ポストパンク、また、オリジナル世代のコアなファッションを受け継いだ、Discharge、The ExploitedをはじめとするUKハードコアパンクのバンドが登場したことは周知の通りだ。これらのバンドは、最初期のオリジナルパンクとはその音楽性を異にするが、政治風刺を込めたメッセージや、レザー・ジャケット、スパイキー・ヘアというファッション性においてオリジナル世代のDNAを受け継ぎ、文化性を確立していく。


そのニューウェイヴ/ポストパンクと呼ばれるムーブメントの最前線には、Public Image Ltd.もいた。ジョン・ライドンは、80年代もニューウェイブ・ムーブメントを牽引する役目を担った。その過程では、Sex Pistolsのアンセムに勝るとも劣らない「Rise」という名曲も誕生したのだった。


 

Morton Feldman

モートン・フェルドマンの「ロスコ・チャペル」は、ヴィオラ独唱、アルト独唱、ソプラノ独唱、混声合唱、チェレスタ、バスドラム、チャイム、ゴング、テナードラム、ティンパニ、ヴィブラフォン、ウッドブロックで構成される打楽器のためのスコアです。この曲は合唱を中心にした現代音楽の一つで、今でも米国の楽団や合唱団などが様々な解釈を行い、再演に挑んでいます。


米国の現代音楽家であるモートン・フェルドマン(1926-1987)は、1971年、テキサス州ヒューストンにあるメニル財団から一般に贈られた同名の建物のために、「ロスコ・チャペル」を作曲した。そもそもロスコ・チャペルは、メニル財団がアメリカの抽象表現主義の画家マーク・ロスコ(1903-1970)に依頼した14枚の巨大キャンバスを収蔵・展示するために設計されました。



ロスコもフェルドマンも、絵画では自意識過剰なモダニズム(ポップ・アートなど)、音楽では12音のアカデミックなシリアリズムという、一般的な、あるいは少なくとも最も話題になっている芸術傾向を受け入れることを避けていました。しかし、ロスコの絵画やフェルドマンの音楽が持つ挑戦的な(あるいは無神的な)性質は、多くの人に、20世紀半ばの芸術が「皇帝の新しい服」に過ぎなかったのか、という問いに直面させることになる。


ロスコ礼拝堂は、ドミニクとジョン・ド・メニル夫妻が構想し、資金を提供した多くの文化プロジェクトの一つである。


ドミニクはパリに生まれ、シュルンベルジェ社(Schlumberger Limited)の石油製品製造設備の資産を受け継いだ。ソルボンヌ大学で数学と物理学を学び、映画製作に興味を持ったドミニクはベルリンに渡り、『ブルーエンジェル』の撮影中、ジョセフ・フォン・スタンバーグの脚本助手として働きました。というのも、トーキー映画の黎明期には、「台詞の置き換え」ができなかったから(『ブルーエンジェル』は1929年末から1930年初頭にかけて撮影され、ドイツ初の長編トーキー映画となった)。そのため、すべてのシーンをドイツ語と英語の2回に分けて撮影する必要があった。


1944年、フランスが崩壊し、ナチスに占領されると、ドミニクは銀行家の夫ジョンとともにアメリカに移住し、テキサス州ヒューストンに定住しました。ドミニクはカトリックに改宗しており、夫とは精神性と芸術のクロスオーバーに強い関心を抱いていた。その代表的な例が、宗教を超えた礼拝堂とそこに飾られたマーク・ロスコの絵画、そして、その空間にインスピレーションを受け、そこで聴くことを意図して依頼したモートン・フェルドマンの音楽作品である。これはまた一般的に現在では盛んなインスタレーションの先駆けと指摘される場合もある。なぜなら、そこには空間と音の融合という二つの芸術形式の混淆が見出せるからだ。

    


1947年、ハリー・トルーマン大統領は、国務省が巡回展のために購入したあるモダニズム絵画を見たとき、「これがアートなら、私はホッテントットだ」とコメントしたというエピソードが残っています。ホッテントットとは今や廃れてしまった侮蔑的な意味で用いられる呼称であった。1947年といえば、ニューヨークのジャクソン・ポロックが「ドリップ」技法の実験を始めた時期だが、この展示会にポロックのドリップキャンバスが含まれていたとは思えない。しかし、国務省の新しい絵画がどんなものであれ、トルーマンの印象には残らなかったし、この作品をアートとは考えなかったのだ。


"ごく普通の人 "は、視覚芸術を評価する基準として、むしろ保守的かつ伝統的な(あるいは常識的な)基準を持っている。しかし、ハリー・トルーマンの基準と、イタリア・ルネッサンス期の王子やオランダ黄金期(1570-1650年頃)の商人の基準には、大きな共通点があるように思えるのです。


作品が高品質な素材で作られ、ひときわ高価な素材で強化(価値付け)される。もちろん、水彩画ではなく油絵(あるいは木炭によるスケッチ)がゴールドスタンダードである。油絵は精巧な金箔のフレームがなければ、想定される観客や購入者には裸のように見えるだろう。


もちろん、これらの要因によって、芸術を支援するパトロンが支払っているものが何なのかというパンドラの瓶が開いてしまいますが、この議論ではそれほど重要ではありません。事実、視覚芸術には階層があり、世界中のほとんどの大規模な美術館でそれを見ることができます。


観客にとって意味のある、実在するものを忠実に表現している、部屋、人、馬、犬、風景、友人のグループに属する表現芸術は、長い間、西洋の美術品のコレクター、たとえ、経済的に不自由な大学生であっても、かつては部屋の壁にそれらを飾りたがったものです。例えば、ゴッホの「星月夜」や「ひまわり」が何百万回も複製品として売られているのは、「人々が共感できる(あるいは投影できる)ものを表しているから」なのです。


米ヒューストンにあるロスコ礼拝堂の巨大な暗黒のキャンバスは、マルセル・デシャンの次の世代の空間芸術に位置づけられますが、特にスペインのカトリシズムを思い起こさせる。この点で、特にフランシスコ・デズルブランが思い浮かぶ。彼のシンボル満載の静物画「Still Life with Lemons, Oranges and a Rose」は、モーテン・ローリセンの鎮魂歌「Lux Æterna」に影響を与えた。

 



ポール・マッカートニーは、ビートルズ全盛期に35mmフィルムで撮影した写真を、『1964』という本の中で特集する予定です。「1964: Eyes of the Storm」と題されたビートルズ・ファンお待ちかねの新刊書籍が出版されます。


6月13日にLiveright社から発売される『1964: Eyes of the Storm』は、マッカートニーが1963年末から1964年初めにかけて撮影した275枚の写真を収録。これは、ちょうどビートルズが米国で大流行した時期でした。リバプール、ロンドン、パリ、ニューヨーク、ワシントンDC、マイアミで撮影された写真は、ポール、ジョン、ジョージ、リンゴが自分たちが嵐の目のなかにあることに気づいた「パンデモニウム」を伝えています。


「個人的な遺物や家族の宝物を再発見した人は、瞬時に記憶や感情が溢れ出し、時の靄の中に埋もれていた連想を呼び起こす」と、ポール・マッカートニーは声明の中で書いています。   


「この写真は1964年2月までの3ヶ月間に撮影されたもので、まさに私が体験した瞬間を捉えている。まさに、まるで、過去に戻ったかのような素晴らしい感覚です。リバプールとロンドンに始まり、パリ(ジョンと僕は3年前に普通のヒッチハイカーだった)、そして僕らが最も重要だと考えていたグループとしての最初のアメリカへの訪問まで、6都市でのビートルズの写真ジャーナル、僕自身の最初の大旅行の記録がここにある」


『1964: Eyes of the Storm』には、ポール・マッカートニーによる序文と、ハーバード大学の歴史学者でニューヨーカーのエッセイストであるジル・レポアによる紹介文「Beatleland」が収録されています。本の予告編は以下からご覧いただけます。


さらに、ポール・マッカートニーの娘メアリー・マッカートニーは、世界で最も有名な音楽的ランドマークのひとつであるアビーロード・スタジオについての新しいドキュメンタリー『If These Walls Could Sing』で、その歴史を掘り下げています。また、元ビートルズは、最近、カントリーアイコンのドリー・パートンと組んで、ロックのカバーアルバム『Rock Star』を発表しています。




1950年代、60年代のジャズは、ビバップ/ハード・バップが主流となり、この音楽形式が様式化しつつあった。その動向に対して出てきたムーブメントがフリー・ジャズだ。以前のラグタイムなどから引き継がれていたジャズのキャラクター性を形作る既存の調性やテンポをフリー・ジャズは否定しようとした。

 

この音楽が初めて70年代にジャズシーンに出てきた時、革新的な音楽に比較的寛容であったかのマイルス・デイヴィスですら、フリージャズに理解を示そうとはしなかったという。形式の破壊を意図する音楽は既にそれ以前の古典音楽において、無調音楽が出てきているが、ジャズも同じようにそれらの形式的なものを刷新する一派が出てきた。しかし、ジャズそのものが自由な精神に裏付けられた音楽と定義づけるのであれば、フリー・ジャズほどその革新を捉えている音楽は存在しない。

 

フリージャズは、その字義どおり、ジャズを形式や様式から開放する動きといえるが、最初期は、スイングを発展させたシャッフルに近いリズムと、調性音楽の否定に照準が絞られていた。これらは、ブルースに影響を受けたという指摘もあるが、 音楽的にはアフリカの民族音楽のように西洋音楽には存在しない前衛的なリズムを生み出すべく、複数のジャズ演奏者は苦心していたに違いない。このフリージャズの代表的な演奏家の作品を大まかに紹介していきましょう。

 

 

・Ornette Coleman(オーネット・コールマン)

 


 

テキサス出身のサックス奏者、Ornette Coleman(オーネット・コールマン)が 1959年に発表した「The Shape Of Jazz To Come」は、フリージャズの台頭を告げた作品であり、コールマンの代表作品に挙げられる場合もある。

 

もともと、オーネット・コールマンは独学で演奏を習得した音楽家であるため、カルテットでの演奏自体も即興性の強いが、「The Shape Of Jazz To Come」に見られる調性の否定、そして、それ以前のビバップ/ハード・バップの規則的なリズムの否定など、革新的な要素に富んでいる。

 

この作品の発表当時の反応は様々で、批評家からかなりの批判を受けた。その時代の価値観とはかけ離れた革新的の強い作品はおおよそこういった憂き目に晒される場合が多い。批判者の中には、マイルス・デイヴィスやチャールス・ミンガスも含まれていた。しかし、のちのフリージャズに比べると、古典的なジャズの性格を力強く反映している作品であることも事実である。 

 

 

 

 ・Eric Dolphy(エリック・ドルフィー)

 


Eric Dolphy(エリック・ドルフィー)はフルートの他にも、クラリネットとピッコロ・フルートを演奏した。当初は、ビバップ・ジャズの継承者として登場したが、のちにアヴァンギャルド・ジャズに興味を持つようになった。ドルフィーのフルートは、クラシックの影響を反映した卓越した演奏力と幅広いトーンを持つのが特徴である。36歳の若さで惜しくも死去したが、生前、ジョン・コルトレーン、ミンガス、オリバー・ネルソンの録音に参加している。

 

オーネット・コールマンの最初のフリー・ジャズの発表から、およそ五年後に発表されたのが、フルート奏者、エリック・ドルフィーの1964年のアルバム『Out To Launch』である。一般的にはブルーノートの1960年代のカタログの中で、もっとも先進的なレコードと称される場合も。しかし、アルバムの冒頭は、ビバップの王道を行くような楽曲に回帰している。しかし、二曲目からは一転してアヴァンギャルドなリズムと無調に近いスケールが展開される。 


 

 

 

・John Coltrane(ジョン・コルトレーン) 



ジョン・コルトレーンはテナー・サックス奏者として、マイルス・デイヴィスのバンドの参加だけでなく、バンドリーダーとしても活躍している。後に、アリス・コルトレーンと結婚する。もちろん、「ブルートレイン」、「カインド・オブ・ブルー」、「マイルストーン」など数多くの傑作を残している。時代により、ビバップ、モード、ジャイアント・ステップスとその音楽性も変化しているが、フリー・ジャズの傑作としては1971年の「Ascent」が挙げられる。

 

この作品では、古典ジャズの巨人として挙げられるジョン・コルトレーンのサックス奏者としての意外な一面を堪能できる。コルトレーンらしからぬ前衛性の高い演奏が行われており、そして基本的なスケールを度外視したアバンギャルドな音楽性は今なお刺激的であり続ける。ビバップやモード奏法など、基本的な演奏法を踏まえ、それらを否定してみせることは、このプレイヤーが固定概念に縛られていない証拠でもある。バックバンドもかなり豪華で、マッコイ・タイナー、ジミー・ギャリソン、エルヴィン・ジョーンズが参加している。ジャズにおける冒険ともいうべき傑作の一つで、コルトレーンはサックスの演奏における革新性に挑んでいる。 




・Alice Coltrane(アリス・コルトレーン)

 

 

Alice Coltrane(アリス・コルトレーン)はラッキー・トンプソン、ケニー・クラーク、テリー・ギブスのカルテットの演奏者として活躍し、スウィング・ジャズに取り組んできた。コルトレーンと出会った後は、互いに良い影響を与え合い、スピリチュアルな響きを追求する。夫の死後は、バンドリーダーとしても活躍した。ファラオ・サンダースとの共作もリリースしている。

 

1971年に発表した五作目のアルバム「Universal Conscousness」は、フリージャズの未知の領域をオルガンの演奏によって開拓した作品である。スピリチュアルな音響は、時に、サイケデリックな領域に踏み入れる場合もあり。コルトレーンの演奏のエネルギッシュさが引き出された一作で、一見すると無謀な試みにも見えるが、モード・ジャズ、即興演奏、そして、構造化された構成要素を組み合わせて制作されている。エキゾチック・ジャズの元祖ともいうべき作品で、エジプトやガンジスといった土地の歴史文化の神秘性が余すところなく込められている。 

 

 

 ・Sun Ra(The Arkestra)


 


 

 

ラグタイム、ニューオリンズのジャズサウンド、ビバップ、モード・ジャズ、フュージョン、と能う限りのジャンルに挑戦してきたサン・ラ。奇想天外なアバンギャルド・サウンドを通じて宇宙的な世界観を生み出した。アフロ・フューチャリズムのパイオニアとも見なされる場合もある。その他にも、ブラジル音楽や民族音楽等、多岐にわたるジャンルを融合した。電子キーボードをいち早く導入し、The Arkestraを結成し、前衛的な音楽活動を行ったことでも知られる。


Sun Raのフリージャズの音源としては、The Arkestraのライブアルバム「It’s After The End Of The World」が挙げられる。1970年にドナウエッシンゲンとベルリンで録音された音源で、即興演奏そのもののスリリングさ、そしてエネルギッシュな演奏を楽しむ事ができる。

 

 

 

・Barre Phillips(バール・フィリップス)

 


フリー・ジャズの開拓史の中にあり、ブルーノートや他の名門レーベルと共にこのジャンルに脚光を当ててきたのが、マンフレッド・アイヒャーが主宰するドイツのECMである。そして、このレーベルのフリー・ジャズの作品の中で聴き逃がせないのが、伝説的なコントラバス/ウッドベース奏者、Barre Phillips(バール・フィリップス)の1976年の「Mountainscapes」である。バール・フィリップスは、カルフォルニア出身で、1960年でプロミュージシャンとしてデビューする。62年からニューヨーク渡り、その後、70年代にはヨーロッパに移住した。ジャズの即興演奏の推進者として活躍し、さらに2014年には、European Improvisation Centerを設立している。

 

「Mountainscapes」は、サックスの奇矯なサウンドにも惹かれるものがあるが、フィリップスのコントラバスの対旋律の前衛性はこの時代の主流のジャズとは相容れないもので、その存在感は他の追随を許さない。フリー・ジャズ史にあって、ベースの演奏の迫力が最も引き出された傑作である。フリー・ジャズとはいかなる音楽なのか、つまり、その答えはほとんど「Mountainscapes」に示されている。ダイアトニック・コードの否定、リズムの細分化、そして破壊、既成概念に対する反駁とはかくも勇気が入ることなのだということが理解出来る。


変奏形式のアルバムであるが、熱狂性と沈静の双方の要素を兼ね備えたメリハリあるサウンドを味わうことが出来るはず。特に、ウッドベースとサックスの白熱したセッションが最大の魅力であるが、このアルバムでのサックスは日本の伝統楽器、笙に近い音響性が追究されている。 


 

 

 

上記の様々な演奏家の音源を聴いてみるとよく理解できるが、これらの芸術家たちはリズムの変形やダイアトニック・スケールの否定等、ジャズの古典的な要素をあえて否定してみせることで、様式化したジャズの演奏や作曲に新たな活路を見出そうと模索していた。そして、これがジャズミュージックが陳腐になることを防いだにとどまらず、後の時代に一般化される”クロスオーバー”の概念の基礎を構築したと言える。


コールマン、コルトレーン、サン・ラ・バール・フィリップスといった上記のジャズの巨人たちの偉大なチャレンジ精神は、実際、現在も、ジャズが最新鋭の音楽でありつづけることに多大な貢献を果たしており、この事は大いに賛美されるべきである。

 

Fillmore East


これは例えば、ロック・ミュージックだけの話に限らないが、ライブ・レコーディングというのは、スタジオのレコーディングとは違い、実に不可解な音源でもある。つまり、観客と演奏者のエネルギーの交換が確実にそのレコーディングに刻印されているのだ。MC5のライブなどを見て分かる通り、ライブ・レコーディングの名盤には、必ずといっていいほど熱気がある。そして、マイクパフォーマンスを通じての観客とのコール・アンド・レスポンスなどのやり取りから、その劇的な瞬間に居合わす人々の息吹が録音を通じてはっきりと感じられる。仮に、バンドのその日の演奏が卓越していたとしても、その場の観客の熱気がなければ、それはセッションになってしまい、ライブ・レコーディングの名盤たり得ないのだ。そして、それとは正反対に、観客の熱気の後押しがバンドのライブ録音を名作にしてしまう場合もある。これは、実際の演奏者として体験したことがあり、本当に不思議でならないことだった。


 
これまでの伝説的なライブ・レコーディングとして、オールマン・ブラザーズ・バンドの「Fillmore East」がある。この録音は、ニューヨークのフィルモア・イーストで録音され、バンドの知名度を押し上げたにとどまらず、このバンドの代表的な録音ともなっている。実際に聴いて貰えれば分かるが、サザン・ロックの代表格の演奏はきわめて渋く、全編がブルージーな雰囲気に充ちた作品となっている。そして、マスタリングが良かった可能性もあるが、近年のライブ音源にも引けを取らない音質の良さとなっている。このフィルモア・イーストでは他にも伝説的なライブ録音が多数現存し、レッド・ツェッペリン、ジョニー・ウィンター、フランク・ザッパ、グレイトフル・デッド、ジェファーソン・エアプレイン等のライブ・レコーディングがある。また、伝説的なフォークバンド、The Fugsの録音もある。この中ではオールマン・ブラザーズとZEP,ジョニー・ウィンターの録音はロックファンとして聞き逃すことは厳禁である。


 

これらの伝説的な音源を生み出したニューヨークのフィルモア・イーストであるが、このライブハウスがオープンしたのは、1968年のこと。施設を開設したのは、世界的なプロモーターの先駆者、ユダヤ人のBill Graham(ビル・グラハム)。彼は、フィルモアイースト&ウェストを開業したにとどまらず、その後、67年にはモンタレー・ポップ・フェスティバル、そして69年にジミ・ヘンドリックのライブでお馴染みのウッドストックをプロモーションしている。グラハムは後に「ロック・フェスティバルはあまりに金のかかるピクニックだ」という名言を残している。


 
1968年と言えば、公民権運動を行っていたキング牧師が暗殺された年に当たる。そういった白人と黒人との人種間の緊張した時代背景は、このライブ施設の収益にまったく影響を及ぼさなかったわけではない。事実、系列施設であるサンフランシスコのフィルモア・オーディトリアムでは、売上自体が低迷していたという。しかし、伝説的なプロモーター、ビル・グラハムはこのウエスト・ヴィレッジの劇場を、その天才的な手腕により、伝説的なロックの聖地と変えてしまうのである。フィルモア・イーストは、1926年に、Yeddish Theter(イディッシュ劇場)として開業した場所だが、ビル・グラハムが、その施設を後にライブハウスとして改築し、伝説的なロックバンドを数多く出演させた。開業当時の収容人数は、わずか2600名だった。
 
 
この場所は、もともと、コモドール劇場の本拠地であり、2階の劇場街に沿って建てられていた。イディッシュ・シアターが多く立ち並び、ユダヤ・コミュニティーの中心地として知られていたアベニューである。また、この施設は、当初、映画館代わりの施設としてマンハッタンに登場し、1930年代までに、ライブのイディッシュ・ドラマとコメディーを舞台で上映し、劇場自体は左翼グループの収益のために貸し出されていたという。この建物の隣にあったレストラン”Rater’s Second Avenue”は、観劇を見に来た客、それから舞台俳優が足繁く通った場所であった。その後の時代、イディッシュ語の共同体(コミューン)が衰退するにつれ、この場所は映画、その他、エンターテインメント公演の重要拠点となり、レビー・ブルース、ティモシー・リアリー、アレン・ギンズバーグの公演の本拠地となった。つまり、ここは、ビート・ジェネレーションの時代の活動家や詩人らの文化的な土壌を形作った場所でもあったのだ。


 
そうした文化的な背景を踏まえ、ビル・グラハムは、この場所をロックの聖地に見立てようとした。多少の修復作業が必要だった。彼はまもなく、ビル・グラハムのフィルモア・イーストという看板を作り、フィルモア・ストリートとギアリー・ブルバードの交差点に因んで、この施設をオープンさせた。フィルモア・イーストの開業後まもなく、ビル・グラハムは、 系列施設であるサンフランシスコのオーディオトリウムのスピン・オフ・コンサートをこのイースト・ヴィレッジのライブハウスで開演しはじめた。グラハムは、週に数回、3組のバンドが出演する2回のショー・コンサートを行い、熱狂的な聴衆を獲得していく。フィルモア・イーストが「ロックンロールの教会」と称されるようになるまでそれほどの時を要さなかった。徐々に、ザ・フー、クリーム、ドアーズといった時代を象徴するようなロックバンドのコンサートが開催されていく。

 

The Allman Brothers Band


政治的な背景として、人種間に不穏な空気が流れる中、こういったロック・コンサートに足を運ぶ人々が増えていったというのは首肯できる。その後の時代のラブ&ピースの時代ではないが、多くの聴衆が、その当時の政治的な気風とは別に爽快な気分にさせる音楽や熱狂を求めていたことはそれほど想像に難くない。エルトン・ジョン、ジャニス・ジョップリン、オーティス・レディング、ジョン・レノン、フランク・ザッパ、クロスビー・スティルス、ナッシュ&ヤングといった伝説的なアーティストとバンドがマンハッタンの夜を美しく彩った。その過程で、フィルモア・イーストのライブレコーディングが行われた。これらの録音は1960年代後半から70年代初頭にかけてのマンハッタンの文化の隆盛を象徴付けているとも言えるだろう。
 

これらのロックンロールの聖地としての栄華の時代は開業からわずか3年であっけなく終焉を迎えた。音楽産業の構造変化と成長、さらにコンサート事業の急激な変化、小規模なコンサートからウッドストックを筆頭に野外の大規模なコンサートが主流になるにつれ、これらの小規模のキャパシティでは、費用対効果の期待が持てなくなった。1971年6月27日、プロモーター、ビル・グラハムは、フィルモア・イーストの閉場を決定する。最後のコンサートは、特別な招待客だけを招いて行われたといい、このコンサートホールを象徴するアーティスト、オールマン・ブラザーズ・バンド、アルバート・キング、マウンテン、ビーチ・ボーイズの公演で有終の美を飾った。
 
 

Fillmore Eastの跡地


 1980年になると、フィルモア・イーストの跡地は、セイントと呼ばれるプライベート・ナイトクラブに建て替えられ、1996年には6番街にあった建物の劇場部分が取り壊され、居住用の建物に改築された。以後、ロビー部分だけは残されていたが、建物の大部分はエミグラント銀行の支店として残された。建物の外には、街灯柱のモザイクが記念碑として現存するようだ。