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アパラチアとはニューヨーク州からミシシッピやアラバマ州まで、その稜線を伸ばす山岳地帯である。その地域は約二十万平方マイルを網羅している。古くは、イングランド、スコットランド/アイルランドの移民が多く住んでいて、ニューイングランドの文化性を最初期のアメリカの建国において築き上げて来た。この民族は、日本の北海道の奥地にいたアイヌ民族によく似た生活を送り、口伝の伝統性、自給自足の生活、そして民間伝承を特徴としていた。後には「アパラチアン・トレイル」という区域が設けられ、山岳登山者にも親しまれる場所となった。

 

アパラチア山脈の地域の産業は、農業の他、石炭の採掘が盛んだった。山岳地帯で冬はひときわ寒い。真冬は大雪が降る。家の中を温めるため、石炭と石油は必須であった。男性は石炭を採掘するため山の奥深くに踏み入った。彼らが日中を仕事に費やし、木造りの小屋の灯芯の油が途絶えようとする頃、山に仕事に行っていた男が石炭と埃にまみれて戻って来る。その間、女性たちは農業や紡績等の仕事を行い、家族が帰ってくるのを待っていたのは想像にかたくない。

 

アパラチアの文化を見るときにフォーク音楽という要素を欠かすことは出来ない。なぜならアパラチアは鉱業と音楽によって、その文化性を構築してきたからである。フォークとは平たく言えば、民謡のことで、その地域で親しまれる流行歌と言える。アパラチアはカントリーとブルーグラスの発祥の土地であり、もちろん、アメリカーナの出発の土地でもある。スコットランドやニューイングランドの移民は、はてない太洋の向こう、遠く離れた故郷のイギリスの望洋の念をアコースティックギターに乗せて歌ったのだろうか。アパラチアの家族の中には、必ずといっていいほど、楽器演奏者がいた。多くの鉱業や農業を営む家族は非常に貧しかった。高級なピアノを買うほどのお金はない。そこで、彼らは、スコットランドから持ってきたフィドルやバンジョー、あるいは、ダルシマーを演奏したのだった。山の枝を伐り、薪とし、それを小屋の向こうで燃やし、薪の周りに円居し、フォーク音楽を演奏した。この地域からはドリー・パートン、パッツィ・クライン、ロレッタ・リンを始めとする偉大な音楽家が輩出された。

 

こういった山岳地帯の生活の中でアパラチアン・フォークは育まれたわけだが、この音楽用語は20世紀初頭に少数の学者のグループによって名付けられた人工的なカテゴリーだった。アパラチアの民族性は音楽だけではなく、民間伝承や産業を切り離して語ることは難しい。それに加えて、民族的にもアフリカ系が住んでいた。単一主義の地域ではなく、出発からして多民族の地帯だ。しかし、この地域の音楽が、後世のフォーク/カントリーの一部を形成しているのは事実のようである。スコットランド民謡の伝承という要素がアパラチア音楽の素地の一側面を形成しているのも明確なのだ。

 

 

アパラチア音楽に求められる民俗性

 



19世紀から始まり、1920年代まで続いたアパラチア音楽に関する初期研究は、すべてアイルランド等で盛んだった「バラード」という形式、及び、他の類に属する新しい当世の流行歌や歌謡曲の再発見である「バラード・ハンティング」、「ソングキャッチ」という側面に焦点が絞られていた。ジェームス・チャイルドの「イギリスとスコットランドの人気バラード(1898)」という書籍を元に音楽研究が進んだ。実際、この本に書かれていた記述によって、アパラチアの音楽とイギリス諸島の民謡の中に歴史的なつながりを見出す契機をもたらしたのだった。

 

アパラチア音楽の最初期の評価は、モチーフの価値観や興味よりも、作家の個別の価値観や興味に基軸が置かれていた。例えば、1928年に米国議会図書館にフォーク・ソングアーカイブを設立したロバート・ウィンスロー・ゴードン氏は、イギリスの歌との直接的な関係によって定義付けられるアパラチアのフォーク音楽こそが「純正なもの」であり、「本物」であるとしている。ロバート・ゴードン氏は、「アパラチアを、アフリカ系アメリカ人やユダヤ系アメリカ人に代わるアメリカ人」として指摘した上で、次のように言及している。


「個人的には、私達の本当のアメリカ人のフォークを復活させ、知らせるためのプロジェクト全体が今日率先して行うべき価値のあることだと信じています。真のアメリカニズムの見方ーー、それはまさに私達の過去、開拓者、アメリカの作った人々の魂そのものです。現代のブロードウェイ、ジャズだけではないのです」ロバート氏の言葉には、現代性を見た上で、「過去の民族性が、現在にどのような形で反映されているのか」を最も重視すべきということが痛感出来る。

 

ただ、音楽専門家の意見とは異なる民俗学の研究者の視点が入ったとき、アパラチア音楽の研究は別の意義を与えられることになった。英国の伝統に関する視点は必ずしも絶対的なものではなかったのだ。ション・ローマックスとアラン・ ローマックスを筆頭にする民族学者、活動家の一派は、アパラチアの住民の民族性を調査するため、1930年代から40年代にかけて、時事的な曲や流行歌を蒐集した。このとき、必ずしもニューイングランド系の移民のみでこの音楽が演奏されるわけではなく、非白人のアパラチア人が演奏していたものもあったことが明るみに出るようになった。

 

稀少な事例であるが、ジェームズ・ムーニーによる「チェロキーの神話」、アフリカ系アメリカ人の鉄道バラード「ジョン・ヘンリー」の物語を明らかにした1920年のルイ・チャペルの未発表曲等が発見されると、必ずしもアパラチア音楽が白人のために限定された音楽とは言い難くなった。つまり、この点は20世紀前後のブルースの原点にあるプランテーションソングや鉄道員の歌と連動して、これらのアパラチア音楽が形成されていったことを伺わせるのである。

 

 

Dulcimerという謎の多い楽器


さらにアパラチア地帯には、スコットランド/アイルランド系の移民だけが生活していたわけではないことが歴史的な研究で明らかになっている。

 

他にもドイツ系、フランス系ユグノー、東ヨーロッパ人等多様な民族がこの山岳地帯に定住している。他にも20世紀初頭、アフリカ系アメリカ人がアパラチアの人工の約12パーセントを占めていたとの調査もある。さらにこれらのグループは、密接な関係を持ち、孤立していたわけではなかったことが判明している。アパラチア音楽のアイコンとなっている楽器「マウンテン・ダルシマー」は、ドイツのシャイトルトの系譜に当たる楽器と言われている。この点から、スコットランド人に留まらず、ドイツ人もヨーロッパ固有の楽器をこのアパラチア地域にもたらしたことを意味している。

 

さらに、ダルシマーという楽器は、フォルテ・ピアノの音響の元になったもので、フィレンツェのメディチ家が楽器製作者の”バルトメオ・クリストフォリ”に制作させた。クリストフォリはダルシマーをヒントに、いくつかの段階を経て、ピアノという楽器を製作した。ダルシマーは、アメリカーナの楽器のスティールギターの元祖であるとともに、驚くべきことに、イスラム圏の「ウード」にも似ており、日本の和楽器の「琵琶」にも良く似ている。つまり、この楽器はヨーロッパにとどまらず、イスラム、アジアとも何らかの関連性があることも推測される。

 

ブルーグラスやカントリーでお馴染みの楽器、バンジョーやマンドリン、ストリングスバンドが取り入れられたのはかなり早い時期で、1840年代であった。この時代にはミンストレル・ショーと呼ばれる演芸が行われ、アパラチア音楽が一般的に普及していく契機を作った。ジョーン・ベッカーは、「バラードや伝統的なゴスペルのような賛美歌だけではなく、登山家はその時代、伝統的なアングロサクソンの歌をうたっていた」と述べている。「もちろん、バラードや伝統的な歌にとどまらず、現代的な話題を題材にした新しいバラードも楽しんでいたのです。彼らは郵送で購入したギター、バンジョー、マンドリンと並べて手作りのフィドルも演奏していた」

 

20世紀の初頭、アパラチア音楽とは何を意味していたのか。1927年の夏、ラルフ・ピアという人物がビクター・レコードのためにブリストル(テネシーとバージニアの間にある)で行ったこの音楽のアーカイブ録音が存在する。録音の演奏者と曲のレパートリーを決定する上で、ラルフ・ピアは実際の演奏者に現代的な曲を避けるように指示している。しかし、なかなか実際に演奏出来るミュージシャンが見つからず、アパラチア音楽の録音は暗礁に乗り上げかけた。

 

しかし、そこには明るい兆しもあった。テネブ・ランブラーズは当時、ジミー・ロジャースというミシシッピの若手歌手を加入させたばかりで、レコーディング前に「自分たちが持っている曲よりも古く、田舎風の曲を探さなければいけない」と言われていた。バンドは解散してしまったものの、ロジャースは初のレコーディングを行い、カントリー・ミュージックの最初のスターとなった。

 

その時代と並んで、ゴスペルスタイルの歌をうたうカーター・ファミリー・プロテスト、同じくゴスペルシンガー、ブラインド・アルフレッド・リード、さらに、ホーリネス教会の牧師であったアーネスト・フィリップス、BFシェルトン、フィドル奏者でセッションにアフリカ系アメリカ人として最初に参加したエル・ワトソンなどが、そのサークルに加わることになる。上記の演奏家や歌手は、フォーク音楽の出発が、紡績の糸から組み上げられていることを示した。

 

 

アパラチア音楽の本質とは何か




アパラチア民族が山岳での農業、紡績、あるいは鉱業を営む傍ら、これらの音楽にどのような意義を与えていたのか。あるいは意義を与えられたのか。それは少なくとも、生活に密着した音楽的な表現を生み出すことであり、また、日頃の生活に潤いを与えるために音楽を歌ったことは、19世紀の綿花を生産するプランテーション農場で黒人の女性たちが歌った「プランテーション・ソング」、鉄道員によるワイルドな気風を持つ労働歌である「レイルロード・ソング」と同様である。そして、アパラチア音楽の場合は、単一の民族ではなく多民族で構成され、複数の楽器、フィドル、ダルシマーといったヨーロッパ、イギリス諸島の固有の楽器が持ち込まれ、独自の進化ーーアパラチアン・フォークーーというスタイルが生み出されることになった。これらの基礎を作り上げた中には、アフリカ系アメリカ人もいたことは付記しておくべきか。

 

また、著名な研究家であるウィリアム・フォスターは、アパラチア音楽の本質について次のように述べている。「アパラチア音楽が”アメリカ文化の特徴的で信頼すべき変種である”という意見は、依然として少数派の意見であると考える人がいるかもしれません。しかし、それは音楽が重要でなくなったからではなく、時代が進むごとに音楽用語として廃れつつあったからなのです。少なくとも、アパラチア地方の音楽は単一のものではなく、20世紀の音楽の創造におけるもうひとつの多角的な側面を示しています」 

 

「少なくとも、ブルース、ジャズ、ブルーグラス、ホンキートンク、カントリー、ゴスペル、ポップスにアパラチア音楽の影響は顕著に反映されています。これらの音楽のスタイルは、それ以外の地域の固有の音楽と同じように、アパラチアの文化性を担っている。アパラチアの音楽はアメリカの物語とよく似ています」とフォスター氏は語る。「アメリカでは、ミュージシャンはカテゴリーや系統の純度をあまり気にすることはありません。彼らはそれ以前の音楽を新しい翻案の素材として見なし、自らに適したスタイルや形式を熱心に掘り下げて来たのです」



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毎年3月17日に行われるセント・パトリックス・デーは、パレードやお守り、そして緑のカラーに染まる。今年も世界各地でアイルランドの守護聖人のイベントが開催された。

 

人々は、目の覚めるような緑の民族的な衣装や山高帽を身にまとい、大きなパトリックの人形を制作し、街を練り歩き、バクパイプを演奏しながら、このお祭りを盛大に祝うのが通例である。このセント・パトリックのイベントは宗教的な祝日として始まったが、後にアイルランド文化の祭典となりました。このイベントは実は例年、原宿でも行われ、ひそかなパレードが開催されるのが通例となっている。このパレードはアイルランド系の多いボストン、サンフランシスコ、シカゴでも開催されることも。特にシカゴの運河が緑色に染まるのを見たことがある方はいるだろうか。


聖パトリックはアイルランドの守護聖人と一般的に言われているが、常にアイルランドに住んでいたわけではないようです。パトリックは、4世紀にイギリスで生まれ、アイルランドに来たのは16歳の時でした。到着後、パトリックはキリスト教に興味を持ち、他の人々にこの宗教について伝道を行うに至った。彼は、この国の住民の多くをキリスト教徒に改宗させたと言われており、現在では、パトリックが亡くなったとされる日に聖パトリック・デーが祝われている。


米国の移民はイギリスだけではなく、アイルランド系もいる。ボストンのアイルランド系アメリカ人は、1737年に最初の祝賀行事を開催しました。新しく設立されたチャリタブル・アイリッシュ・ソサエティ(Charitable Irish Society)主催の晩餐会は、3世紀近く経った今でも毎年恒例となっている。1762年、ニューヨーク市は最初のパレードを開催し、これが世界最大かつ最古のセント・パトリックス・デイ・パレードとなった。


ジョージア州サバンナの海岸沿いの街は、1812年までさかのぼり、南部のセント・パトリックス・デーの首都としての地位を確立している。1962年以来、川を緑色に染めていることで有名なシカゴは、1843年以来パレードを行っている。


これらのアメリカの都市では現在も、アイルランドから蛇を寓意的に追い出した人物に捧げる最大級の祝祭が行われている。この祝日のアイルランド系アメリカ人のルーツは、コンビーフやキャベツのような、伝統的なセント・パトリックス・デイの食べ物にあり、これが本来はアイルランド料理ではない豚肉をアイルランドの人々が好む理由になっている。それでは、聖パトリックとは何者なのか、お祭りに欠かすことの出来ないティップスについて詳しく見ていきましょう。

 


・聖パトリック

 


聖パトリックは紀元386年頃、ローマ帝国時代のイギリス、おそらく現在のウェールズ地方で生まれた。16歳の時に奴隷としてアイルランドに連れて行かれ、6年間監禁された。その後、アイルランドの人々にキリスト教を広めるために逃亡し、再びアイルランドに戻ってきた。


パトリックは生前、司祭となり、461年3月17日に亡くなるまで、エメラルドの島中に学校、教会、修道院を設立した。しかし、アイルランドの守護聖人であり国家的使徒であるパトリックが、カトリック教会によって聖人に列せられたことがないことに驚く人もいる。400年代には正式な列聖手続きがなかったからだ。パトリックを "聖人 "と呼ぶようになったのは、パトリックの人望が厚かったためであろう。


この色合いが祝日と結びつくようになったのは、1798年のアイルランドの反乱以降である。古代のアイルランド国旗を飾っていた青が、セント・パトリックス・デイと最初に結びついた。しかし、反乱軍は赤を身にまとったイギリス軍と区別するために緑を着用し、それ以来、この色はアイルランドとアイルランド人を世界中に示すようになった。



・シャムロック


 

アイルランドの国花であるシャムロックも3月17日の象徴となる。聖パトリックが三位一体を説明するために三つ葉のシャムロックを使ったという伝説があるが、それを証明する歴史的証拠はない。しかし、シャムロックは17世紀後半から18世紀初頭にかけてエメラルドの島のシンボルとして使われてきた。


セント・パトリックス・デーを、今日のように盛大に祝うようになったのは、アイルランド系アメリカ人の発案によるところが大きいが、本国のアイルランド人も同様に、セント・パトリックス・デーを祝うようになった。1903年、アイルランドでは聖パトリック・デーが祝日となり、宗教的な祝祭が世俗的な領域に拡大された。同年、ウォーターフォードでパレードが始まった。今日、アイルランドで最も早いパレードは、日の出前にディングルで始まることで有名。町の人々や観光客が参加する。そして、1931年に最初のセント・パディーズ・デーのパレードが行われたダブリンでは、パーティーは4日間のフェスティバルに成長した。



・なぜバグパイプを吹くのか



世界各地で開催されるアイルランドのお祭り、セント・パトリックス・デイとスコットランドのケルトやバグパイプがなぜ関係するのかについては、ケルト文化や伝統を祝うためという有力な説があるようだ。特にケルト文化性を呼び起こすために演奏されると見るのが妥当だろう。

 

アイルランドとスコットランドは、ともにケルト民族に強いルーツを持ち、両国の間には共通の文化的歴史がある。特に、セント・パトリックス・デーを広く祝っているアメリカのような国のディアスポラ・コミュニティーの文脈では特に意義深い。アイルランドとスコットランドの伝統が融合した祝祭は、両国の密接な歴史的・文化的結びつきを反映しているのかもしれない。


数世紀前、アイルランド人はグレート・アイリッシュ・ウォーパイプと呼ばれるスコットランドのバグパイプによく似た楽器を演奏していた。このバグパイプはその後、反乱を誘発するとしてアイルランドでは禁止され、アイルランド人はより静かで屋内でも演奏できるウイリアン・パイプと呼ばれる座奏式のバグパイプに移行した。バグパイプはアイルランドの遺産として忘れ去られることなく、アイルランドの海を渡って長い間パイピングの伝統の一部となっている。


2つ目は、北アイルランドの一部にはイギリス人によって移植されたスコットランド人が住んでいたことだ。これらのスコットランド人は祖国とのつながりを保ち、地元の人々と混じり合いながら、キルト、スコティッシュ・バグパイプ、その他のスコットランドの伝統をアイルランドに持ち込んだ。


新大陸に移住したスコットランド系アイルランド人の一部は、初期のアメリカ合衆国に大きな文化的影響を与え、訛りの一因となり、スコットランド文化とアイルランド文化の両方の要素を開拓地にもたらした。その後のアイルランド系移民の波は、これらのスコットランド系アイルランド人によってすでに築かれたアメリカ系アイルランド人のアイデンティティを目の当たりにし、自分たちがこの傘の下にうまく収まることを発見した。アイルランド系移民とスコットランド系移民は非常に武骨な伝統を持ち、初期の軍隊や法執行機関の隊列に貢献した。



セント・パトリックス・デーは世界中に広がり、イギリス、カナダ、アルゼンチン、オーストラリア、ニュージーランド、日本などでも祝われている。音楽的には、ボストンのパンクバンドがバクパイプの演奏を取り入れたり、ケルト文化に対する敬意を示すのは、ボストンの街の文化の中に、そして彼らのバンドの中にケルトの源流が求められるからではないかと推測される。


アイリッシュパンク/セルティックパンクについてはこちらをご覧ください。

 


ブラック・ミュージックの系譜を説明するに際して、ダンスの要素を差し引いて語ることはとても難しい。そもそも、ダンスは音楽と連動するようにして文化の中核を担ってきた経緯があるからである。ロックにしても、ソウルにしても、ハウスにしても、音楽には常に踊りが付随して文化発展を辿った経緯がある。アクションのない黒人音楽、それは無味乾燥なもので、ひどくつまらないものになるだろう。例えば、50年代には、ロックンロールという踊りがあったし、ツイスト、ポップコーン、ブギー、チキン、バンプ、ゴーゴー、ハウス、とその後の数十年をかけて、ダンスカルチャーの系譜を作り上げてきた。これらはスタジオの中にある音楽を一般のストリート・カルチャーに開放する力を持っていた。だから音楽家や取り巻きに留まることなく、多数の人々に支持され、インディーベースでも支持層を拡大してきたのだった。

 

ブラックミュージックは、移民系の有色人種や、そこに部分的に関わる白人のダンスカルチャーの一端を担っている。厳密に言えば、その後のヒップホップですらも、文学的な試みや個人的な告白や暴露、人種的なステートメントとは別に、ダンスの要素が不可欠となっている。ブラックミュージックは、音楽からダンスが離れすぎてもいけないし、それとは反対にダンスから音楽が離れすぎてもいけない。そして、ストリートのダンスとスタジオの音楽の融合がブラックミュージックのヒストリーの核心を構成している点を踏まえると、動きが少なく踊れることができないブラックミュージックはお世辞にもヒップとはいいがたい。そして主流の系譜からは外れており、それはオルタネイティヴに属すると言えるのだ。

 

今年開催されるパリ・オリンピックでも注目の競技となる、ブレイキングのルーツは、基本的には1970年まで遡る。 一般的にはブレイクダンスと言われることもあるが、これは主流メディアのプロモーションの後、ネーミングの変更を余儀なくされた。


ブレイクダンスというワードは、カルチャーの奥深くを知るものにとってそれほど良い響きとはならず、そもそもこの用語は、卑下の意味をもたらすこともある。そのため、複数のオリジネーター、RUN DMCを中心とするアーティストは、ブレイキングという言葉を用いることを推奨している。ただし、こういう話を持ち上げると、文化そのものの持つ面白さが薄れる場合があるため、この話は飽くまでブレイキンの原理主義的な話として捉えておいてもらいたいのだ。



DJ Cool Harc


オールドスクールヒップホップの重要なファクターとなる、「b-boy」、「b−girl」というワードは、そもそも「Break-ブレイク」という語の省略から生じている。このジャンルを最初に発生させたのは、ブロンクス地区で活躍していた「DJ Kool Herc」というのが通説だ。彼は、ジャマイカからの移民で、地元の公園でDJをしていた。彼の音楽活動の出発点はレゲエだったのだ。


音楽を公園で流すというのがヒップホップの最初の出発だったが、これが後にもっと自分でも音楽を制作したいという創作的な欲求が沸き起こったのは当然のことであり、それがそのまま原初的な「サンプリング」の形になった。それは機材や楽器を購入する資金がないという切実な状況から、エコな方法を取るに至ったのである。クール・ハークは、ブレイキングという言葉に関して、「興奮させる」、「精力的に活動する」という意味が込められていると語る。ブレイキングが躍動的で、この音楽が生命力を掻き立てる理由というのは、こういった原点を見ると、よりわかりやすいと思う。


それでは、ブレイキングのダンススタイルはどう作られていったのか。「b-boy」の多くの要素は、1970年以前の他のカルチャーの影響下にある。このダンスの先駆者として名高い、Rock Steady Crue(ロック・ステディー・クルー)のクレイジー・レッグスは、「b-boy」の出発は、ジェイムス・ブラウンの影響下にあるとしている。


クール・ハークを始めとする、ブロンクス地区に拠点を置くDJは、ダンスレコードのリズムのセクションを引用し、それを連続してループさせ、延長させた。電子音楽をはじめとする他の音楽のジャンルでも取り入れられることがある、音が一瞬で次の空間に飛ぶようなトリッピーな感じを表した「ブレイクビーツ」という語は、そもそもサンプリングの一形式を意味する。これは他のサウンドの引用や再解釈を元にして、それらをどのように発展させていくのかという、DJの創意工夫から始まったのだった。もちろん、下手なサウンドを組み上げればブーイングとなり、センス良くサウンドを構築すれば称賛される。いわば、DJとしての腕の見せ所でもあったのである。

 

そもそも、ブレイクビーツというジャンルも単なるサンプリングの一形式を示すだけにとどまらず、ダンス形態の一を意味する。推測にすぎないが、ブロンクス地区の公園で、レゲエやその他のソウル、そして続いて、サンプリングを披露するうちに、誰かが踊り始め、それがクールとなれば、他の誰かがそれを模倣し、より洗練された形にしていったのだろう。そして一般的には、犯罪沙汰や暴力沙汰に生命エネルギーを注ぎがちな若い青年に、クール・ハークを中心とするリーダー的な存在の人物が、ダンスによってエネルギーを使用するように呼びかけたというのが妥当な見方である。


本来、ブレイクビーツもダンサーが休憩のとき、即興を披露出来るスペースを提供するために生み出されたものだった。この動きは、創造性、スキル、音楽との同期という形を通じ、ダンスクルーの間に繰り広げられるコンペティションに繋がった。これらの最初のブレーカーは、バトルのような様相を呈することもあり、ここに対人でのバトルという競技のルーツを見ることが出来る。


そして、この最初の文化をもたらしたのは、移民を中心とするグループだった。最初の創成期のグループ、Sal Soul、Rockwell Associationといったグループのダンスクルーはほとんどがヒスパニック系で構成されていた。驚くべきは、最初のb-boyの九割がプエルトリコ系で占められていたという。



もうひとつ、ジェイムス・ブラウンの影響とは別に「uprock-アップロック」と呼ばれるダンススタイルの吸収も度外視することは出来ない。音楽のリズムを通じて、互いのダンサーの動きを模倣するという面白い形式である。


これらの動きには、相手を挑発するような意図もあるため、一般的に攻撃的なダンスであると見なされている。このトップロックの系譜にあるスタイルを導入するブレーカーによって採用されたことをのぞいては、このスタイルが後のブレイキングのような注目を浴びることはほとんどなかった。 


また、それ以降のブレイキング・ダンスは、ストリートカルチャーの気風が強まり、アーバンなストリートダンスとしてストリートで一般的に普及していく。音楽的には、ヒップホップの進化と並行して、ソウル、ロック、ファンクのビートに合わせて、パフォーマンスされることが多かった。音楽的な参考例としては、ジミー・キャスターによる「It's Just Begun」などがある。

 

ブレイキングの踊りの特徴としては、躍動的なアクションが強い印象を放つ。頭を床につけて、クルクル回転する動きをしたり、足と頭のポジションを一瞬で変化させるアクロバティックな動きは、このダンススタイルの視覚的な魅力でもある。こういったスタイルは70年代ごろに一般的になった。


もちろん、今ほど複雑な動きではないにせよ、ターン、フットシャッフル、スピン、フリースタイルといった90年代以降、ヒップホップが最もヒップとされる時代のダンススタイルと直結している。これらがb−boyのダンスに導入される場合は、対戦相手は、同じようなアップロックの動きで反応し、より短く、細かな動きで応えてみせた。

 

女性もまたこのストリートダンスに参加したが、通常は二人の男性が向かい合って踊ることが多かった。ブレイキングの原理主義的な形態の1つである「アップロック」の根底にある哲学は、「バーン」と呼ばれる手の細かな動きとジェスチャーに求められる。この模倣的な手の動きには意味があり、ディスることによって、相手を弱体化させるという意味が込められているという。


当初のブロンクスのダンサーは、こういった挑発的、あるいは扇動的な動きを取り入れながら、ラップバトルのような形で、ストリートダンスを普及させた。ダンスバトルにおける勝者がどのように決められたのかと言えば、音楽とダンスの動きを、巧みに連動させ、同期させることが上手いダンサーが選ばれた。そこには、模倣的な表現に対する攻撃や挑発の意味が込められており、ここにヒップホップの先駆者たちの皮肉と自負が込められている。つまり、彼らは、このヒップホップカルチャーが模倣的であることを自覚した上で、独創性をなによりも重視し、オリジナリティがないものはダサいという認識を持っていたのだ。これが、現代のヒップな音楽を見極める上での重要な鍵になっているのは明らかである。

 

以後、ロッキングとアップロッキングが発展していくにつれ、「ジャーク」と呼ばれる動きと「バーン」と呼ばれる動きが融合され、ダンサーの戦いをエミュレートしていくことになった。ブロンクスの市中のダンサーは、その後、ストリートダンスを洗練させるため新しいジェスチャーを加えた。


1980年代に入り、ギャングスタは新しい形式のダンスを披露するようになる。彼らが街の片隅で友達とぶらぶら歩きながらストリートで踊ることは一般的になった。ブレイキングダンスはこのようにしてストリートの文化として市民権を得るに至ったのである。



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イパネマの海岸


ボサノヴァは1950年代のブラジルを発祥とする音楽で、リオデジャネイロのビーチに隣接するコパカバーナとイパネマの2つの地区の中流階級の学生とミュージシャンのグループにより始まった。


このジャンルは、アントニオ・カルロス・ジョビンとヴィニシウス・デ・モラレスが作曲し、後にはジョアン・ジルベルトが演奏した「チェガ・デ・サウダージ」のレコーディングにより一躍世界的に有名になった。


もちろん、知名度で言えば、「イパネマの娘」も世界的な知名度を持つヒット・ソング。くつろいだアコースティックギターの演奏、甘いボーカル、パーカッションの心地良い響きなど、心を和ませる音楽は、今も世界のファンに親しまれている。

 

 

ボサはサンバとともにブラジルを象徴する音楽でありつづけたのだったが、同時にその誕生は、政治的な意味と文化的な表現が融合されて完成されたものだった。これはスカやレゲエの前身であるカリプソが当初、トリニダード・トバゴの軍事的な意味を持つ政府お抱えの音楽としてキャンペーンされたのと同様である。1956年から61年にかけてのジュセリーノ・クビチェック政権は、ボサノバの文化的な運動の発生を見るや、政権としてこの音楽を宣伝し、バックアップしたのだった。クビチェック政権がもたらした成果はいくつもある。ブラジルの国家の近代性の立ち上げ、全般的な産業の確立、それから自国での石油の生産と供給の権限である。もちろん、ブラジリア市建設の主導権を握り、国家の独立性の重要な立役者となった。


芸術運動は、そもそも経済産業の余剰物であり、経済産業の一部にはなっても、根幹となることは稀である。果たして、政治的、経済的の基礎的な安定なくして、国家の文化事業を生み出すことが可能だろうか? 


つまり、これこそが経済的に安定した国家から優れた音楽が登場する理由なのだ。幸運にも、50年代後半のブラジルは、上記の条件を満たしていたこともあり、比較的経済的に恵まれた若者の気分に余裕が出来た。つまり、余剰の部分が後の世界的な文化を生み出すことに繋がった。当時のリオデジャネイロが生み出したのは、何も音楽だけではない。リオは、その当時の世界の中心地である、パリやニューヨークに向けて、最新のファッショントレンドを発信した。

 

そして、この大統領政権時代には、無数の文化が世界に向けて輸出され、それらがブラジルの固有のカルチャーとなったのである。文学的な活動、また、そこから生まれた詩、シネマ・ノボ、自由劇場、新式の建築、ボサノヴァが世界に向けて発信された。ボサノバは、ブラジル音楽の歴史で重要な役割を果たし、サンバの音楽から熱狂的な打楽器の要素を取り除き、対象的に静かで落ち着いたサウンドに変化させ、米国のジャズやフランク・シナトラのジャズ・ボーカルの影響をもとに、それらを最終的にジャジーなムードを漂わせる大衆音楽へと昇華させたのだった。

 

 

Antnio Carlos Jobin


当初、リオの海岸の街で生み出されたブラジルのジャズとも言えルコのジャンルは、アントニオ・カルロス・ジョビンによって磨きがかけられた。 ジョビンはリオデジャネイロのチジュッカ地区に生まれたが、14歳の頃からピアノをはじめた。音楽で、生計を立てたいと若い時代から考えていたが、家族を養うため、建築学の道に進むことを決意した。


しかし、建築学校に入学後、どうしても夢を捨てきれず、ラジオやナイトクラブでピアノ演奏家として働いていた。その後、ハダメス・ジナタリによって才覚を見出され、コンチネンタル・レコードに入社し、譜面起こしや編曲の仕事に携わった。カルロス・ジョビンの音楽にプロデューサー的な視点があるのは、これらの若い時代の経験によるものだ。その時代から、幼馴染のニュートン・メンドゥーサと一緒に音楽活動を始め、これが後に、「想いあふれて(Chega De Saudade)」で完成を見た。このレコードが世界で最初のボサノバ・ソングと言われている。

 

 

 

アントニオ・カルロス・ジョビンの音楽には、幼少期からのクラシック音楽の薫陶、クロード・ドビュッシーのフランスの近代印象派に加え、ブラジルの作曲家、ヴィラロボスの影響があった。それに彼は米国のジャズの要素を加えて、ボサノバの代名詞となるサウンドを構築していく。歌詞についても、音楽と密接な関係があり、ブラジルのルートリズムに根ざしている。

 

「イパネマの娘」 はカルロス・ジョビンが1962年に録音したボサノバソングで、このジャンルの最大のヒット作である。この曲はヴァイニシウス・モライスが作詞を手掛けた。ビートルズの「ハード・デイズ・ナイト」に続いて、世界で最もカバーされた曲でもある。


イパネマとはリオの南部の海岸筋にある地区を指し、現在では名高いサーフィン・スポットとして知られている。海岸にある半島には遊歩道があり、素晴らしい夕暮れの景観を楽しめる。


イパネマ地区の近隣には、 緑の多い通り、ファッション・ブティック、ダイニング・レストランなどがずらりと並ぶ。現在でも、ボサノバのアコースティック演奏を楽しめる、くつろいだスペースもある。

 

 

Marcus Vinícius da Cruz e Mello Moraes


この曲は音楽家として知られるようになっていたジョビンと外交官/ジャーナリストのモライスが共作した。1957年頃から二人は、コンビを組んで活動を行っていた。両者はボサノバの最初のムーブメントを牽引した。

 

「イパネマの娘」の曲の誕生にまつわる面白いストーリーがあるので、ここでひとつ紹介しておこう。当時、ジョビンとモライスを始めとするボサノバのアーティストは、リオのイパネマ海岸近くにあるバー「ヴェローソ(ガロータ・デ・イパネマ)」に通い、酒を飲んでいたという。そこへ、エロイーザという少女が現れ、母親のタバコを買いに来た。10代後半の女、比較的背が高く、近隣でも有名であった。好色家の二人は、この女性にインスピレーションを得た。その場で即興で作られた曲という説もあるが、実際は作詞作曲ともに、二人の自宅で制作された。

 

1962年、この曲は正式にお披露目となった。そのお披露目には、ジョビン・ジルベルト、モライスとボサノヴァのスターが共演した。しかし、懸念すべき事項があった。この曲が初演されたのは、リオのナイトクラブ「オ・ボン・グルメ」で8月2日から45日間にわたって開催されたショーだった。外務省から「外交官がナイトクラブに出演するなど言語道断である!」との通告を受けたモライスは、報酬は貰わないと決めた上でステージに出演し、クラブに来客した友人の飲食代を肩代わりした。しかし、モライスは終始酒に酔い続け、飲み代がかさみ、あげくはナイトクラブのショーの後には出演者の料金まで受け持つことになったという。


 

『Getz / Gilberto』1964


後に、「イパネマの娘」は、スタン・ゲッツ、カルロス・ジョビン、ジョアン・ジルベルト、アストラッド・ジルベルトのバージョンで世界的に有名になった。1964年のアルバム『GETZ / GILBERT』は、ボサノバ・ブームの火付け役となった。本作は、ビルボード誌のアルバム・チャートで2位に達する大ヒット作となり、「イパネマの娘」もシングルとして全米5位に達した。


そして、グラミー賞では、アルバムが2部門(最優秀アルバム賞、最優秀エンジニア賞)を受賞し、「デサフィナード」が最優秀インストゥルメンタル・ジャズ・パフォーマンス賞を受賞、「イパネマの娘」が最優秀レコード賞を受賞した。本作の音楽は本来のボサ・ノヴァとは別物であると主張する声も多かったが、結果的には、アメリカにおけるボサ・ノヴァ・ブームを決定づけた。

 

「イパネマの娘」のリリース後、ブラジルと米国を中心に大ヒットを記録し、続いて、日本、フランス、イタリアで知られるようになり、世界的なヒット・ソングとなった。

 

スタン・ゲッツやチャーリー・バードといった米国のジャズ演奏家がボサをカバーしたのをきっかけに、米国にもこのジャンルが一般的に浸透した。優れたジャズ演奏家がボサノバを発見したことで、音楽的にも磨きがかけられた。シンコペーションが取り入れられ、洗練された響きを持つようになった。

 

 


 

1950年代、ビック・スリーと呼ばれる、ジェイムス・ブラウン、ジャッキー・ウイルソン、サム・クックが登場した後、新しいタイプのR&Bシンガーが登場した。ニューヨーク、ニューオーリンズ、ロサンゼルスを舞台に多数のシンガーが台頭する。ファッツ・ドミノ、ルース・ブラウン、ファイブ・キーズ、クローヴァーズがその代表格に挙げられる。この時代は、ビック・スリーを筆頭に、必ずといっていいほど、ゴスペル音楽をルーツに持っているシンガーばかりである。


近年、ヒップホップを中心に、ゴスペル音楽を現代的なサウンドの中に取り入れるようになったのは、考え方によっては、ブラックミュージックのルーツへの回帰の意味が込められている。そしてこの動向が、2020年代のトレンドとなってもそれほど不思議ではないように思える。

 

そもそも、「R&B(リズム&ブルース)」というのは、ビルボードが最初に命名したもので、「リズム性が強いブルース」という原義があり、第二次世界大戦後すぐに生まれた。その後、ソウルミュージックというワードが一般的に浸透していき、60−70年代の「R&B」を示す言葉として使用されるようになった。しかしながら、この年代の前には、R&Bではなく、「レイス・レコード」、「レイス・レーベル」という呼称が使われていたという。これはなぜかというと、戦前のコロンビアやRCA、ブルーバード、デッカなどのレーベルは、白人音楽と黒人音楽を並行してリリースしており、作品を規格番号で区別する必要があったからである。レーベルのカタログから「レイス・シリーズ」というのも登場した。現在の感覚から見ると、レイシズムに根ざした言葉ではあるが、コロンビア、RCAの両社は、戦後もしばらくこの方針を継続していた。

 

その後、1970年代に入ると、一般的に見ると、ブラック・ミュージックは商業化されていき、R&Bシンガーは軒並み大手のメジャー・レーベルと契約するようになる。 80年代になると、MTVやメディアの台頭により、ブラック・ミュージックの商業化に拍車がかかり、この音楽全体が商業化されていったという印象がある。しかし、それ以前の時代に、ブラックミュージック全体の普及に貢献したのは、全米各地に無数に点在するインディペンデント・レーベルであったのだ。

 

多くはメジャーレーベルの傘下という形であった。しかし独立したセクションを持つということは、比較的、攻めのリリースを行うことが出来、同時に、採算を度外視した趣味的なリリースを行えるというメリットがある。そして意外にも利益率を第二義に置くレーベルのリリースが主流になった時に、それが初めてひとつのムーブメントの形になる。メジャーレーベルではなく、独立レーベルがカルチャーを一般的に浸透させていったという点については、ヒップホップのミックステープやカセットテープのリリースと重なるものがある。

 

1950年代には、全米各地に無数の独立レーベルが誕生し、ブラックミュージックのリスニングの浸透に一役買った。R&Bの独立レーベルの動きは、実は最初に西海岸で発生した。モダン/RPM,スペシャルティ、インペリアル、アラディンは、この年代の最も有力なレーベルである。他にも、エクスクルーシブ、クラス、フラッシュなど無数の独立レーベルが乱立していった。

 

一方、東海岸でも同様の動きが湧き起こった。アトランティック・レコードがその先陣を切り、アトコ、コティリオンが続いた。 さらにメジャー傘下には無数のレーベルが設立された。サヴォイ、アポロ、ジュビリー、ヘラルド/エムバー、ラマ/ジー/ルーレット、レッド・ロビン/フュリーなど、マニアックなレーベルが登場した。続いて、シカゴでも同様の動きが起こり、前身のレーベル、アリストクラットに続いて、有名なチェス/チェッカー/アーゴが登場。リトル・リチャードでお馴染みのレーベルで、ロックンロールの普及に貢献した。

 

以上のレーベルは、音楽産業の盛んな地域で設立されたが、特筆すべきは、他地域でも同じようなブラックミュージックのレーベルが立ち上げられたこと。オハイオ/メンフィスでも有力なレーベルが登場した。特にオハイオのキング、メンフィスのサンは、R&Bファンであれば避けては通れない。その他、メンフィスといったレーベル、スタックス/ヴォルト、ハイが続いた。テキサス/ヒューストンでも同様に、デューク/ピーコックが設立、ナッシュビルでは、ナッシュボロ/エクセロなどが登場する。まさにR&Bの群雄割拠といった感じだ。

 

これらのレーベルは、新しいタイプのR&Bもリリースしたが、同時にそれ以前のゴスペル的な音楽やブルースの作品もリリースしている。この点については、それ以後と、以前の時代のブラック・ミュージックの流れを繋げるような役割を果たしたと見るべきかも知れない。

 

60年代に入ると、デトロイトからモータウンが登場し、のちのブラックミュージックの商業化への布石を作った。それ以降も独立レーベルの設立の動きは各地で続き、フィラデルフィア・インターナショナル、ニューヨークのカサブランカ、ニュージャージーのシュガー・ヒルといったレーベルが設立された。


70年代に入ると、ソウルミュージックをメジャーレーベルが牽引する。しかし、これは独立レーベルによる地道な普及活動が後に花開き、ジャクソン5、ライオネル・リッチー、マーヴィン・ゲイ、フランクリン、チャカ・カーンといった大御所のスターの登場への下地を作り上げていったことは言及しておくべきだろうか。


バウハウス  ‐ウォルター・グロピウスがもたらした新しい概念  Art Into Industry-

 

 

20世紀以前の芸術運動は、ロマン主義が主流だったが、以後の時代になると、前衛主義が出てくる。シュールレアリズムは、最初にロマン的表現に対する反動の意味を持ち、芸術運動の一角を担った。これはクラシックなどの音楽や文学の流れと非常に密接な関わりを持っている。


アンドレ・ブルトンが提唱したシュールレアリズムの影響は、表面的な芸術性にとどまらず、深層意識にある目に映らない概念性をテーマに置くように芸術運動全般に促す。この動きと関連して、ドイツのヘルマン・ヘッセも戦後、以前のロマン主義の表現に見切りを付け、文学活動の一環として象徴主義/シンボリズムの影響を取り入れるようになった。以後のドイツ/オーストリア圏の作家はこぞって、これらの意識下の領域に属する奇妙な表現性を追求していく。すべての表現媒体はすべてどこかで繋がっており、互いに影響を及ぼさずにはいられないのである。

 

フランスのシュールレアリズムの動きと時を同じくして、ドイツから合理主義的なアートの潮流が出現する。つまり、それが今回ご紹介するバウハウスを中心とする「前衛主義」である。中世のヨーロッパの芸術活動は基本的に、宗教画と併行して、市井に生きる人々(時代の流れとともに、貴族や特権階級から一般的な階級へと画家の興味やテーマは移行していく)をモデルやテーマにしていた。(フランスの近代抽象主義、モンパルナスの画家の作品を参照のこと)しかし、芸術運動はいつも新しいなにかに塗り替えられ、古いものは一新され、それらの常識は以後通用しなくなった。ワシリー・カンディンスキーを筆頭に、東欧圏の芸術家は、図形、あるいは幾何学的なフォルムを作風の中に大胆に取り入れ、WW2の以前の時代に新たな気風を呼び込んだ。東欧圏の芸術家たちは、より図形的でパターン的なアートの手法をもたらした。


一般的に見ると、中世絵画は、画商やパトロンのために美しいものや崇高なものを描くのが主流だったが、前衛主義の画家たちは、美という概念のコモンセンスを覆し、実用性と革新性を追求していく。これはフランスのマルセル・デュシャンの芸術主義とも無関係ではないが、前衛主義のアーティストたちは、絵画を「デザイン的なもの」として解釈しようと試みる。その中で出てきたのが「バウハウス宣言」という大々的なキャッチコピーである。これらの合理主義に根ざした概念は建築学にも受け継がれ、ル・コルビジュエの建築に深い影響を及ぼすに至る。

 

 

Bauhaus  社会階級の壁を乗り越える新たなマイスター制度

 



バウハウスは、20世紀初頭、ドイツの芸術専門学校として創設された。ウォルター・グロピウスにより設立されたこの学校を中心として、最終的には建築とデザインに対するユニークなアプローチを特徴とする現代美術運動へと発展していく。1919年、ウォルター・グロピウスは、リベラルアーツの分野を一つの屋根の下に統合するというコンセプトを込め、バウハウス(正式名称: Staalitches Bauhaus)を設立した。バウハウスの学生からは、ヨーゼフ・アルバース、ワシリー・カンディンスキー、パウル・クレーなど多くの偉大な芸術家が輩出された。この芸術学校は、ワイマール(1919-1925)、デッセウ(1925-1932)、ベルリン(1932-1933)と3つの都市に開校した。専門学校のマークとしてもシンボリックなデザインが取り入れられ、これがバウハウスの主要なイメージを形作っていることは言うまでもない。

 

バウハウスの創設者のウォルター・グロピウスは、バウハウスのコンセプトについて次のように説明している。「建築家、彫刻家、画家。私達は、手作業に戻らねばなりません。・・・したがって、社会階級を分断し、職人(マイスター)と芸術家(アーティスト)の間に乗り越えられない障壁を立てようとする世の中の傲慢さから開放するべく、職人による兄弟愛を確立していきたいのです」

 

グロピウスの言葉には、ドイツ/オーストリアのギムナジウムにおけるエリート教育、及び職人のマイスター制度という2つの障壁を取り払うという意図が込められている。(ギムナジウムに関しては、ヘッセの「車輪の下」を参照のこと)厳然とした年代による職業差別を彼は取り払うべく努めた。建築、彫刻、絵、芸術、といったリベラルアーツ全般を通じてである。さらに、時代背景も考慮せねばならない。ブルジョワ社会の階級にある人々のみが手工業作品を楽しめる時代において、それらの特権性を一般的な人々にも開放するという意図が込められていた。第一次世界大戦後、デザイン、構成の解決策を求め、多様な社会規範と文化的な革新性が生み出された。この文化運動の延長線上にバウハウスは位置し、芸術運動の一環を司ることになる。

 

 

バウハウスの芸術運動の変遷

 


1. ハンドクラフトによる工業製品の製作


 

 


 

 

バウハウスは、1919年から1933年のナチス・ドイツの摘発による閉鎖に至るまで、いくつかの芸術様式を変化させた。

 

創設の意図にしたがい、当初は産業革命の後の時代のイギリスに端を発する機械産業からの脱却、及び、その産業の手工業化、職人の手作業における信頼性の回復や、職人の能力をアートと同等のレベルまで引き上げ、そして、その製品を販売することに主眼が置かれていた。つまり、機械的な製品ではなく、ハンドクラフトの製品の制作者を育て上げ、それをアートと同等の水準に引き上げていくという点に、バウハウスのエデュケーション(教育)は注力されていたのである。

 

そして、ウォルター・グロピウスの目的は、ハンドクラフト(手工業)の製品を「一般の人々に手頃な価格で提供する」というものだった。


当初、バウハウスでは、農業などで使用される運搬車のような目途を持つ「クレードル」のデザインなど、手工業デザインの制作を推進していた。以後の時代において、図形的、幾何学的なアートやデザインが頻繁に用いられるのは、当初、バウハウスの学習者が手工業デザインの製品を制作していたことに理由が求められる。


正当なエデュケーション(教育)とは、学習者を型に収めることではなく、学習を然るべき機関で修了後、能動的な行動を取れるよう促すものである。このことがバウハウスの最初期の教育方法に一貫しており、一般的な教育機関とは意を異にする事項である。その他、バウハウスでは、展覧会のポスターなども制作しており、最初期の作品としては、他の目的のために制作されたアート/デザインが多いことが分かる。

 

この年代の中で、学生は、手工業製品にとどまらず、金属加工、キャビネット、織物、陶器、タイポグラフィ、壁画などの他の用途のために制作された製品を生み出した。現在のDIYの発祥とも言うべき動きだ。これらの製品は基本的に手工業になされるインダストリーという概念に下支えされていた。

 

 

2.最初の変革期 「Art into Industry」


 



1919年に始まったバウハウスであるが、1923年になると、当初の手法が専門機関として財政的に採算が取れないことが分かった。

 

この年、バウハウスはドラスティックな転換を図り、芸術主義とも称すべき方向へと歩みを進める。芸術的には、ロシアの構成主義と、新造形主義を取り入れ、新しいアイディアを生み出すという内容であり、方法論としては、「本質の研究」と「機能性の分析」に照準が定められていた。その中で、バウハウスは「Art into Industry」というスローガンを掲げた。この動向に関連して、1925年にバウハウスはワイマールからデッセウへと移転している。この建物には、モダニズム建築の要素が取り入れられた。非対称の風車計画、ガラスのカーテンウォール、スチールフレームなど現代建築にも使用されるデザインが取り入れられている。

 

この年代でも前年代のハンドクラフト主義を受け継ぎつつ、実用性の高い製品づくりを行うようになっている。グロピウスは、デッセルの建築内のスペースを有効的に活用し、スタジオ、教室、そして管理スペースに分割した。同時に、1924年から28年にかけて、マルセル・ブロイヤーが提唱した、椅子などの物質は、徹底して軽量化され、「最終的に非物質化する」という考えに基づき、斬新なデザインの家具や工業デザインの製品が制作されることになった。

 

同時に、この流れに準じて、テキスタイルとタイポグラフィーがバウハウスでは盛んになっていった。デザイナーで織物工でもあるギュンター・シュテルツルの教えのもと、学生は、色彩理論、デザインにおける技術的な手法を学習しつつ、抽象的な意匠を持つ製品の制作に取り組むようになる。シュテルツルは、セロハン、ガラス繊維、金属など、ありふれた素材の使用を推奨し、更に、前衛的な製品を生み出すよう学生に精励した。特に学生が制作したテキスタイルに関しては、バウハウスの建築壁画や建物内のインテリアとして使用されるに至った。その中では、「Architype Bayer」という上掲写真の幾何学的なフォントが生み出されることになった。

 

 

 

 

3. ナショナリズムの台頭 バウハウスの終焉と亡命

 


 

多くの芸術活動は、その先鋭的な本質ではなく、外的な要因ーーとりわけ政治的な影響ーーにより堰き止められる場合が多い。ある表現者は、その弾圧を忌避するため亡命を余儀なくされる。ナショナリズムによる弾圧の動きは、既に1928年頃に始まっていた。創設者のグロピウスは、すでに学校を辞任し、建築家のハンネス・マイヤーが実質的なディレクターとなっていた。マイヤーは、大量生産に重点を起き、形式主義の趣があると思われるカリキュラムを削除し、広告と写真芸術における清新な息吹をもたらす。しかし、その頃、すでにバウハウスはナショナリズムからの圧力を受け始め、ほどなくマイヤーも1930年にディレクターを辞任する。

 

以後、ディレクターのポジションはファン・デル・ローエなる人物が引き継いだ。ローエは当時有名な建築家であり、第一次世界大戦後の未来的な建築様式の手法を示そうとしていた。この年代から、バウハウスによる当初のハンドクラフト/手工業的な生産方法は徐々に減少していった。

 

1932年、デッサウで行われた地方選挙において、ナショナリズムが主要政党に成り代わったことは、そのままバウハウスの終焉を意味していた。全体主義とナショナリズムの荒波が、バウハウスにも押し寄せようとしていた。学生の多くは、ナチス警察により逮捕され、尋問を受けた。1933年、バウハウスは閉鎖と解散を決定する。以後、ナチスの占領により、1945年のスターリングラードの戦いまで、全体主義とナショナリズムの動きが途絶えることはなかった。


しかし、バウハウスの主要人物の以後の最も剣呑な年代において、亡命という手段をやむなく選び、その教えを携えて海外に逃れて行く。彼らの多くは、米国への移住を決め、各地に散らばることになった。以後、ブロイヤーとグロピウスは、ハーバード大学で教鞭をとっている。また、その中には、イエール大学で教鞭をとった人物もいる。ファン・デル・ローエはイリノイ州に移住し、イリノイ工科大学で教えた。バウハウスの流儀は、以後、コルビジュエの建築という分野で継承された。もちろん、現在もどこかでそれらの教えが引き継がれているに違いない。




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